たかさごや【高砂や】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

祝宴席での「高砂や」は上謡です。
落語流では妙ちきりんな世界へ。

別題:仲人役

【あらすじ】

八五郎が、質両替屋・伊勢久の婚礼に仲人役を仰せつかった。

伊勢久と言えば財産家。

長屋住まいの八五郎が仲人とはちと不釣り合い。

これには、わけがある。

若だんなのお供で深川不動に参詣の帰り、木場の材木町辺を寄り道した。

若だんな、そこの女にひとめぼれ。

八五郎がいっしょにいてまとまったので、ぜひ八五郎に仲人を、ということになったわけ。

八五郎、隠居の所に羽織袴を借りにきた。

ついでに仲人の心得を教えてもらい、
「仲人ともなればご祝儀に『高砂やこの浦舟に帆をあげて』ぐらいはやらなくてはいけない」
と隠居にさとされる。

謡などとは、無縁の八五郎はびっくり。

「ほんの頭だけうたえば、あとはご親類方がつけるから」
との、隠居の言葉だけをたよりに、
「とーふー」
と豆腐屋の売り声を試し声とし、なんとか、出だしだけはうたえるようになった。

隠居からは羽織を借りて、女房と伊勢久へ。

婚礼の披露宴なかばで、
「お仲人さまに、ここらでご祝儀をひとつ」
と頼まれた八五郎、いきなり
「とーふー」
と声の調子を試したあと、「高砂」をひとくさりやって、
「あとはご親類方で」
と言うと、
「親類一同不調子で、仲人さんお先に」

八五郎は泣きっつら。

「高砂やこの浦舟に帆を下げて」
「下げちゃ、だめですよ」
「高砂やこの浦舟に帆をまた上げて」
などとやっているうち、一同が巡礼歌の節で「高砂や」をうたいだす。

一同そろって「婚礼にご報謝(=巡礼にご報謝)」

底本:四代目柳亭左楽

【しりたい】

高砂

世阿弥(大和猿楽結崎座の猿楽師、1363-1443)の能で、相生あいおいの松と高砂の浦(兵庫県高砂市)の砂が夫婦であるという伝説に基づきます。

うたいの部分は昔から夫婦愛、長寿の理想をあらわした歌詞として有名で、「高砂」を朗々と吟詠するのは、婚礼の席の祝儀には欠かせない儀式でした。

詞章は次のとおりです。

高砂や 
この浦舟に 帆を上げて
この浦舟に 帆を上げて
月もろともに 出汐いでしお
波の淡路の 島影や
遠く鳴尾の 沖過ぎて
はやすみのえに 着きにけり
はやすみのえに 着きにけり

四海しかい波 静かにて
国も治まる 時つ風枝を鳴らさぬ
御代みよなれや

あひに相生の松こそ
めでたかれげにや仰ぎても 
事もおろかやかかるに住める 
民とて豊かなる君の恵みぞ 
ありがたき君の恵みぞ 
ありがたき

巡礼歌

霊場の巡礼にうたうご詠歌で、短歌体(五七五七七)です。

オチの「巡礼にご報謝」は、巡礼が喜捨を乞うときの決まり文句で、歌舞伎の「楼門五三桐さんもんごさんのきり」で、巡礼姿で笈鶴おいづるを背負った真柴久吉(=羽柴秀吉)が南禅寺楼門上の石川五右衛門を見上げて言うセリフで有名です。

明治以来のやり手

古い速記では、「仲人役」と題した、明治32年(1899)の四代目柳亭左楽(福田太郎吉、1856-1911)のものが残っています。謡が豆腐屋の売り声になるくすぐりはそれ以来、変わりません。

よくも百年以上も同じくすぐりを使い古しているものと、つくづく感心します。

その後は、昭和に入って八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)がよく演じました。

いずれにしても古色蒼然、若手がやりたい意欲のわく噺とも思えません。

オチの変遷

上方では、一同が謡をつけないので困って、「浦舟」にかけて「助け舟」と叫ぶオチで、古くは東京でもこのやり方だったといいます。

明治中期から、あらすじのように「巡礼にご報謝」とすることが多くなり、前述の四代目左楽もこのオチです。

しかし、最近では当然ながらこのシャレが通じなくなり、帆を上げたか下げたか忘れてしまったところで「先祖返り」して「助け舟」とすることもあるようです。

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評価 :1/3。

しょうちくばい【松竹梅】落語演目



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【どんな?】

めでたい噺。
礼儀知らずの長屋三人組。
婚礼に招かれた。
忌み言葉めぐり一騒動。

あらすじ

長屋の松五郎、梅吉、竹蔵の三人組。

そろって名前がおめでたいというので、出入り先のお店のお嬢さまの婚礼に招かれた。

ところがこの三人、名前だけでなく、心持ちもおめでたいので、席上どうしたらいいか、隠居に相談に行く。

隠居は、ついでなら鯨飲馬食してくるだけが能でないから、何か余興をやってあげたらどうかと勧め、「なったあ、なったあ、蛇(じゃ)になった、当家の婿殿蛇になった、何の蛇になあられた、長者になぁられた」という言い立てを謡(うたい)の調子で割りゼリフで言えばいいと、教えてくれる。

終わりに「お開きにいたしましょう」と締めるというわけ。

いざ練習してみると、松五郎は
「な、な、納豆」
「豆腐ーい」
と全部物売りになってしまうし、竹蔵は竹蔵で
「デデンデデン、なあんのおおおう」と義太夫調子。

危なっかしいが、道々練習しながらお店に着く。

いきなり「まことにご愁傷さま」とやりかけて肝を冷やすが、だんなは、おめでたい余興と聞いて大喜び。

親戚一同も一斉に手をたたくものだから、三人、あがってボーッとなる。

それでも、松と竹はどうやら無事に切り抜けたが、梅吉が
「長者になられた」
を忘れ、
「風邪……いや番茶……大蛇……」
と、とんでもないことを言いだし、その都度やり直し。

最後に
「なんの蛇になあられた」
「亡者になあられた」

……これで座はメチャクチャ。

三人が隠居に報告に来て
「これこれで、開き損なっちまいまして」
「ふーん、えらいことを言ったな。それで梅さんはどうしてる」
「決まり悪そうにグルグル回って、床の間に飛び込んで、隅の方で小さくなってしおれてました」
「ああ、それは心配ない。梅さんのことだ、今ごろは一人で開いて(帰って)いるだろう」

しりたい

作者は出自不明

上方の笑福亭系の落語家の祖とされる初代・松富久亭松竹が作ったといわれている噺です。

この松竹という人、生没年や詳細な伝記はもちろん、そもそも存在したかどうかもよくわかりません。

したがって、松竹が「松竹梅」の作者だというのも伝説の域を出ないわけです。

まさか、演題と芸名にゴロを合わせたヨタではないでしょうが。

ただ、オチの部分のネタ元になったとみられる小ばなしはあって、文政6年(1823)に江戸で刊行された、初代三笑亭可楽(1777-1833)『江戸自慢』中の「春の花むこ」がそれです。

これは、植物仲間で「仙人」と尊称される梅の古木が、庭の隅の桃の木に「老いらくの恋」をし、姫ゆりを仲人に頼んで、キンセンカを持参金代わりにめでたく婿入り。

ところが婚礼の夜、突然植木屋が(もちろん人間)庭に乱入し、花々が恐怖におののいて小さくなってしまいます。

これを見た植木屋、「ははあ、これは今夜、花婿が来るのだな。こういうときに切っては無情というものだ」と帰っていったので、仲人の姫ゆりがほっとして顔を持ち上げ、「さあさあ皆さん、お開きなさい」という、童話的でほほえましいお話です。

東京移植は「オットセイ」

古くから上方落語としてはポピュラーな噺でしたが、これを明治30年ごろ、四代目柳亭左楽が東京に移しました。

左楽はぼおっとした容貌と、ふだんの少々間の抜けた言動で、「オットセイ」とあだ名され、奇談がたくさんあります。

ちょうどこの噺の東京初演と思われる、明治31年(1898)の速記が残っています。

よほど気に入ったとみえ、もともと持ちネタが少ないこともあって、一時期「松竹梅」ばかりやっていたとか。

この人の、師匠の談洲楼燕枝が亡くなった(明治33年2月)ときの追悼句がふるっていてます。

悲しさや 師匠も亡者に なあられた

当の「オットセイ」ご本人が「亡者になあられた」のは、明治44年(1911)11月4日、享年55でした。

「あっちの会長」柳橋十八番

謡の調子で、割ゼリフにしてご祝儀の言い立てをやり、「亡者になあられた」で失敗するのがこの噺の笑わせどころです。

このあらすじの参考にした、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)は、戦後この噺をよく高座にかけ、特に謡を稽古する場面でのくすぐりを充実させ、飄々とした中にもより笑いの多い噺に仕上げました。

六代目柳橋は、かつて落語芸術協会(日本芸術協会の後身)に会長として君臨した人です。

その意味で十八番といってよいのですが、残念ながら音源は残されていません。

「なったなった……」は北海道?

「なったなった」のお囃子は、関西地方の婚礼の習俗と思われますが、はっきりわかりません。

前項の左楽の速記では、隠居が「北海道から八十里ばかり入った小さな村で」もっぱら行なっていると説明しています。

左楽は自分のあだ名を逆手にとって、やたらに「北海道」を連発してウケをねらったそうですから、もちろんこれは嘘八百でしょう。

忌み言葉

「開く」は今でもよく使われる、結婚式の忌み言葉です。

「忌み言葉」というのは、使用を避ける言葉と、代わりにめでたく言い換える言葉の両方を意味します。

言い換えられる場合と、それもできず、禁止されるだけの場合があり、どちらかというと後の方が多いようです。

いずれにしても、太古から言霊信仰が根強く、何か不吉な言葉を吐くとそれが現実になってしまうという病的な恐怖心を先祖代々に受け継いできたわれわれ特有の習慣です。

日本文化の一端でもあります。

以下、婚礼のタブーの語をいくつか。

「帰る」
「戻る」
「出て行く」
「死ぬ」
「引く」
「別れる」
「出る」
「割る」
「割く」
「出かける」
「欠ける」
「犬」(=「去ぬ」)
「猿」(=「去る」)
「殺す」
「離れる」
「話す」
「放す」
「まかる」
「落ちる」
「悲しい」……

これじゃ、うっかり舌禍を起こしちまいそうですねえ。



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あわびのし【鮑のし】落語演目

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【どんな?】

与太郎系の噺。賢い女房が金をこさえる手立てにご祝儀をレバレッジする知恵。

別題:鮑貝(上方)

あらすじ

ついでに生きているような、おめでたい男。

今日も仕事を怠けたので、銭が一銭もなく、飯が食えない。

すきっ腹を抱えて、かみさんに
「なにか食わしてくれ」
とせがむと、
「おまんまが食いたかったら田中さんちで五十銭借りてきな」
と言われる。

いつ行っても貸してくれたためしがない家だが、かみさんが
「あたしからだっていえば、貸してくれるから」

その通りになった。つまりは信用の問題。

所帯は全部、しっかり者のかみさんが切り盛りしているのを、みんな知っている。

借りた五十銭持って帰り、
「さあ、飯を」
と催促するとかみさんは、
「まだダメだよ」

今度は
「この五十銭を持って魚屋で尾頭付きを買っておいで」
と命じる。

「今度大家のところの息子が嫁を迎えるので、そのお祝いだと言って尾頭付きを持っていけば、祝儀に一円くれるから、その金で米を買って飯を食わせてやるよ」
と言うのだ。

ところが、行ってみると鯛は五円するので、しかたがないから、あわび三杯、十銭まけてもらい、買って帰るとかみさん、渋い顔をしたが、まあ、この亭主の脳味噌では、と諦め、今度は口上を教える。

「こんちはいいお天気でございます。うけたまりますれば、お宅さまの若だんなさまにお嫁御さまがおいでになるそうで、おめでとうございます。いずれ長屋からつなぎ(長屋全体からの祝儀)がまいりますけれど、これはつなぎのほか(個人としての祝い)でございます」

長くて覚えられないので、かみさんの前で練習するが、どうしても若だんなを「バカだんな」、嫁御を「おにょにょご」、つなぎを「つなみ」と言ってしまう。

それでも
「ちゃんと一円もらってこないと飯を食わせずに干し殺すよ」
と脅かされ、極楽亭主、のこのこと出かけていく。

大家に会うといきなりあわびをどさっと投げ出し、
「さあ、一円くれ」

早速、口上を始めたはいいが、案の定、「バカだんな」に、「おにょにょご」「津波」を全部やってしまった。

腹を立てた大家、
「あわびは『磯のあわびの片思い』で縁起が悪いから、こんなものは受け取れねえ」
と突っ返す。

これでいよいよ干し殺しかとしょげていると、長屋の吉兵衛に出会ったので、これこれと話すと、吉兵衛は
「『あわびのどこが縁起が悪いんだ。おめえんとこに祝い物で、ノシが付いてくるだろう。そのノシを剥がして返すのか。あわびってものは、志州鳥羽浦で海女が採るんだ。そのアワビを鮑のしにするには、仲のいい夫婦が布団に鮑を敷いて一晩かかって伸ばさなきゃできねえんだ。それをなんだって受け取らねえんだ。ちきしょーめ、一円じゃ安い。五円よこせ』って、尻をまくって言ってやれ」
とそそのかす。

「尻まくれねえ」
「なぜ」
「サルマタしてねえから」

そこで大家の家に引き返し、今度は言われた通り威勢よく、
「一円じゃ安いや。五円よこせ五円。いやなら十円にまけてやる……ここで尻をまくるとこだけど、事情があってまくらねえ」

しりたい

五代目志ん生が得意に   【RIZAP COOK】

原話は不詳。上方落語「鮑貝」を明治中期に東京に移植したものです。

五代目志ん生が得意とした噺です。亭主が口上を言えずにもどかしいところが笑いを誘いますね。

古いオチは、大家が「丸い『の』の字ではなく、つえを突いたような形の『乃』の字があるが、あれはどういうわけだ?」と聞くと、ぼんくら亭主が「あれはアワビのおじいさんです」というもの。

大阪では、「生貝をひっくり返してみなはれ。裏はつえ突きのしの形になってある」となりますが、「つえ突きのし」という言葉が、戦後、わかりにくくなったので、志ん生が「サルマタしてねえ」という前のセリフを生かして、多少シモがかったオチに改めたのでしょう。

大阪では、さらに「カタカナの『シ』の字のしは?」と聞かれ、「あれは生貝がぼやいているところや」「アワビがぼやくかい」「アワビやさかい、ぼやく。ほかの貝なら、口を開きます」と落とす場合がありますが、なんだか要領を得ません。

磯の鮑の片思い   【RIZAP COOK】

鮑の貝殻が片面だけ、つまり巻き貝なので「片思い」と掛けた洒落です。それだけのことです。「磯の鮑の片思い」「鮑の貝の片思い」と、片思いのたとえに今でも使われます。鮑は古来、食料や儀式にの肴、進物などに用いられました。「鮑玉」「鮑白玉」は、真珠をさします。「鮑結び」は、ひもの飾り結びのひとつで、中央に一つ、左右に二つの輪を作る結び方です。輪は真珠の形状からの発想で和にも通じました。貝殻は猫がえさを食べる、猫の皿になるのが通り相場でした。

昔は「現物」使用   【RIZAP COOK】

熨斗は元来、「あわびのし」だけを指しました。というのも、昔は生のアワビの一片を方形の紙に包み、祝いののしにしたからで、婚礼の引き出物としてあわびのしを贈る習慣は16世紀ごろからあったそうです。

不祝儀の場合は、のしを付けないのが古くからの習わしでした。この噺で語られる通り、あわびのしは志州特産で生産量も少ないため、時代が下るにつれ、簡略なものとして「の」「乃」「のし」などと書いたものが代用されるようになりました。

現在では品物の包みに水引きを掛け、その右肩に小さな黄色い紙を四角い紙で包んだのが本格で高級品。水引きとは、進物用の包み紙などを結ぶのに使う紙糸で、細いこよりに水のりを引いて干し固めたもの。今はほとんどその形を印刷したもので済ますので、あの形がなにを表すのか忘れられているかもしれません。

この噺でのポイントは、仲のよい夫婦が一晩かけてのしをつくる、というところ。

「 あわびってものは、志州鳥羽浦で海女が採るんだ。そのアワビを鮑のしにするには、仲のいい夫婦が布団に鮑を敷いて一晩かかって伸ばさなきゃできねえんだ 」と吉兵衛は言っています。

鮑を下に敷いた布団の上で一晩中睦事をいたした果てのあわびのし、ということです。

現代人から見ればずいぶんエロいことしてるなと思えますが、古い日本人はそんなことをふつうにわきまえていて、それ自体、縁起よいと祝う感覚を持ち合わせていました。

生産→豊穣→子孫繁栄といった具合にです。

明治より以前の日本人が性に対しておおらかだったのですね。

かなりおおざっぱですが、日本人の美風でしょう。

のし(右肩の部分)と水引き(中央の紅白糸)

「あわびのし」も「のしあわび」も   【RIZAP COOK】

「あわびのし」も「のしあわび」も同じ意味です。

鮑の肉を薄く削るように切って(リンゴの皮をむくように長く伸ばして)、それを引き伸ばして干したものです。

初めは食用でしたが、儀式用の肴(引き出物、おまけ、つまみ。「さか」は酒、「な」は副食物の意)に使ったり、祝いごとの贈り物に添えたりしました。

「打ち鮑」とも。「のし」は「熨斗」で「のす(「伸ばす」の古代語)」の意がありました。

【語の読みと注】
尾頭付き おかしらつき
熨斗 のし
志州 ししゅう:志摩国。三重県の一部
鳥羽 とば:志摩の海岸。鳥羽浦
鮑玉 あわびたま:真珠のこと
鮑白玉 あわびしらたま:真珠のこと

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