うなぎのたいこ【鰻の幇間】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

売れない野幇間の一八。
だんなに取り付いて鰻をせしめようと作戦に。
これぞ代表作。文楽と志ん生、どちらも秀逸。

別題:鰻屋の幇間 釣り落とし

あらすじ

真夏の盛り。

炎天下の街を、陽炎のようにゆらゆらとさまよいながら、なんとかいい客を取り込もうとする野幇間の一八にとって、夏はつらい季節。

なにしろ、金のありそうなだんなはみな、避暑だ湯治だと、東京を後にしてしまっているのだから。

今日も一日歩いて、一人も客が捕まらない。このままだと幇間の日干しが出来上がるから、こうなったら手当たり次第と覚悟を決め、向こうをヒョイと見ると、どこかで見かけたようなだんな。

浴衣がけで手拭を下げて……。

はて、どこで会ったか。

この際、そんなことは気にしていられないので、
「いよっ、だんな。その節はご酒をいただいて、とんだ失礼を」
「いつ、てめえと酒をのんだ」
「のみましたヨ。ほら、向島で」
「なに言ってやがる。てめえと会ったのは清元の師匠の弔いで、麻布の寺じゃねえか」

話がかみ合わない。

だんなが、
「俺はこの通り湯へ行くところだが、せっかく会ったんだから鰻でも食っていこうじゃねえか」
と言ってくれたので、一八はもう夢見心地。

で、そこの鰻屋。

だんなが、
「家は汚いよ」
と釘をさした通り、とても繁盛しているとは見えない風情。

「まあ、この際はゼイタクは禁物、とにかくありがたい獲物がかかった」
と一八、腕によりをかけてヨイショし始める。

「いいご酒ですな。……こりゃけっこうな香の物で……。そのうちお宅にお伺いを……お宅はどちらで?」
「先のとこじゃねえか」
「あ、ああ、そう先のとこ。ずーっと行って入り口が」
「入り口のねえ家があるもんか」

そのうちに、蒲焼きが来る。

大将、ちょっとはばかりへ行ってくると、席を立って、なかなか戻らない。

一八、取らぬ狸で、
「ご祝儀は十円ももらえるかもしらん、お宅に出入りできたら、奥方からもなにか……」
と、楽しい空想を巡らすが、あまりだんなが遅いので、心配になって便所をのぞくと、モヌケのから。

「えらいっ! 粋なもんだ、勘定済ましてスーッと帰っちまうとは」

ところが、仲居が
「勘定お願いします」
とくる。

「お連れさんが、先に帰るが、二階で羽織着た人がだんなだから、あの人にもらってくれと」
「じょ、冗談じゃねえ。どうもセンから目つきがおかしいと思った。家ィ聞くとセンのとこ、センのとこってやがって……なんて野郎だ」

その上、勘定書が九円八十銭。「だんな」が六人前土産を持ってったそうだ。

一八、泣きの涙で、女中に八つ当たりしながら、なけなしの十円札とオサラバし、帰ろうとするとゲタがない。

「あ、あれもお連れさんが履いてらっしゃいました」

底本:八代目桂文楽

しりたい

文楽十八番  【RIZAP COOK】

明治中期の実話がもとといわれますが、詳細は不明です。

「あたしのは一つ残らず十八番です!」と豪語したという八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)の、その十八番のうちでも自他共に認める金箔付きがこの噺、縮めて「ウナタイ」。

文楽以前には、遠く明治末から大正中期にかけ、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が得意にしていました。

文楽は小せんのものを参考に、40年以上も、セリフの一語一語にいたるまで磨きあげ、野幇間の哀愁を笑いのうちにつむぎ出す名編に仕立てました。

幇間  【RIZAP COOK】

幇間は、宝暦年間(1751-64)から使われ出した名称です。

幇間の「幇」は「助ける」という意味で、遊里やお座敷で客の遊びを取り持ち、楽しませ、助ける稼業ですね。

ほかに「タイコモチ」「太夫」「男芸者」「末社」「太鼓衆」「ヨイショ」などと呼ばれました。

太夫は、浄瑠璃の河東節や一中節の太夫が幇間に転身したことから付いた異称です。

「ヨイショ」という呼び方も一般的で、これは幇間が客を取り持つとき、決まって「ヨイショ」と意味不明の奇声を発することから。

「おべんちゃらを並べる」意味として、今も生き残っている言葉です。

もっともよく使われる「タイコモチ」の語源は諸説あってはっきりしません。

太閤秀吉を取り巻いた幇間がいたから、「タイコウモチ」→「タイコモチ」となったというダジャレ説もありますが、これはあまり当てになりませんな。

「おタイコをたたく」というのも前項「ヨイショ」と同じ意味です。

おだん  【RIZAP COOK】

だんな、つまり金ヅルになるパトロンを「おだん」、客を取り巻いてご祝儀にありつく営業を「釣り」、客を「魚」というのが、幇間仲間の隠語です。

「おだん」は落語家も昔から使います。

この噺の一八は、客を釣ろうとして、「鰻」をつかんでしまいぬらりぬらりと逃げられたわけですが、一八の設定は野幇間で、今風でいえばフリー。

「のだいこ」と読みます。そう、「坊ちゃん」に登場のあの「野だいこ」ですね。

正式の幇間は各遊郭に登録済みで、師匠のもとで年季奉公五年、お礼奉公一年でやっと座敷に顔を出せたくらいで座敷芸も取り持ちの技術も、野幇間とは雲泥の差でした。

噺家と天狗(素人噺家)との差くらいでしょうか。

志ん生流と文楽流  【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の「鰻の幇間」は、文楽演出を尊重し踏襲しながらも、志ん生独特のさばき方で、すっきりと噺のテンポを早くした、これも逸品でした。

文楽の、なにかせっぱつまったような悲壮感に比べ、志ん生の一八はどこかニヒルが感じられます。

ヨイショが嫌いだったという、いわば幇間に向かない印象にもかかわらず、別の意味で野幇間の無頼ぶりをよく出しています。

オチは文楽が「お供さんが履いていきました」で止めるのに対し、志ん生はさらに「それじゃ、オレの履いてきたのを出してくれ」「あれも風呂敷に包んで持っていきました」と、ダメを押しています。

両者を聴き比べてみるのは、落語の楽しみのひとつですね。

さらに。三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)の至芸も聴きたくなります。軸足はどっちにあったのでしょう。

ことばよみいみ
野幇間のだいこ自称たいこもち
一八いっぱち落語での幇間の典型名



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しろうとうなぎ【素人鰻】落語演目

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【どんな?】

鰻噺。
維新直後の東京。
没落した士族の泣き笑いです。

別題:鰻屋 士族の商法 素人洋食(改作)

あらすじ

明治の初め。

士族の中村のだんな、新政府から金禄公債きんろくこうさいをもらったのを機になにか商売を始めようと、手頃な家を探し歩いている時、偶然、昔、屋敷に出入りしていた鰻職人の神田川の金に会う。

事情を話すと、
「及ばずながら、あっしがお役に立ちやすから、ぜひ鰻屋をおやんなさい」
と勧める。

この男、腕は確かなのだが酒乱で、一度酒が入ると手がつけられない。

だんながためらうと、金毘羅こんぴらさまに願掛けして、きっぱり酒は断つと誓ったから、それならと万事任せることにし、空店まで金に探してもらって、開店にこぎつけた。

なるほど、金は人が変わったように、たった一人で獅子奮迅。

住み込みで、流しから料理から出前から、なにもかも一切合切引き受ける。

だんな夫婦も喜び、金には腫れ物に触るように、大事にしている。

ある日。

だんなの昔の遊び仲間で、金ともなじみの麻布のだんなが来る。

旧幕時代の思い出話などしているうち、麻布のだんなが、金が酒断ちをしていると断るのに、無理にのませるから、中村のだんなはハラハラ。

案の定、だんだん金の目が座ってきて、気がついた時はもう手遅れ。

やめさせようとすると
「なんでえ、一杯二杯の酒ェのんだがどうしたってんでえ。こんな職人がどこにある。下流しから料理から、出前までするんだ。……ばかたぁなんでぇ。大きなツラぁするねぇ。だんな、だんなと持ち上げりゃあいい気に……」
「出ていけっ」
「こんな家ィ、誰がいるかいっ」

売り言葉に買い言葉。

しかし、金に出ていかれると営業はできないので、夫婦で心配していると、翌朝、吉原の付き馬を連れて金が面目なさそうに帰ってくる。

酒をのんだ後のことは皆目記憶になく、気がつくと女郎が横に寝ていた、という。

怒るに怒れないので、金に立て替えてやり、十分酒に気をつけるよう注意して、また元のさやに。

それからしばらくは、金も懸命に働き、腕がいいので店も少しずつ繁盛した。

ところが、だんながある夜、金に遠慮しいしい寝酒をやっていると「ガラガラガラ」とすごい音。

金の声がするので、さてはと駆けつけると、案の定、もうご機嫌。

この前のことがあるから思わずだんなもカッとして
「出てけえっ」

翌朝戻ってきたが、またその夜同じことの繰り返し。

仏の顔も三度で、もう帰ってはこられない。

そうなると、困るのが店の方。

すぐには金ほどの腕の職人は雇えないから、しかたなく、だんなが自分で料理しようと奮闘。

ぬるぬるしてつかめず、糠を滑り止めにしてやっと一匹捕まえて、キリで往生させたと思ったら、今度は隣の奴がニョロニョロ逃げ出す。

だんな、捕まえようとして両手で交互につかみ、とうとう外へ。

「これこれ、履物を出せ、履物を。……どこへまいるるかわかるか。鰻に聞いてくれ」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

しりたい

黒門町の極めつけ  【RIZAP COOK】

この噺は現在、二通りのパターンが伝わっています。

オチの部分の原話は、安永6年(1777)刊『時勢噺綱目じせいばなしこうもく』中の「俄旅にわかたび」。このオチをもとに、同題で二通りの「素人鰻」が作られました。

一つはここで紹介した噺です。別題を「士族の商法」といいます。それはこんな噺が元にあります。

幕府倒壊した直後、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)がとある武家屋敷の前を通りかかると、そこには「この内に汁粉あり」の看板がかかってありました。

気になって中に入ってみると、屋敷の家来がうやうやしく取り次いで、殿さまがたすき掛けであんをこしらえていたり、姫君が小笠原流で汁粉を運んできたりと、場違いな雰囲気の汁粉屋でした。

円朝はそそくさと退出したとか。この体験をもとに円朝がつくった噺が「士族の商法」。これに、先述の「俄旅」を合体させたのが「素人鰻」となったようです。

戦後、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)の十八番中の十八番として称賛されました。これは明治維新直後の実話をもとに作られたと言われています。噺に登場する「神田川」も神田明神下の老舗です。

初代三遊亭円馬(野末亀吉、1828-1880)、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909)、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)を経て、文楽に直伝で伝えられました。

文楽自身が華麗な語り口で没落士族の悲哀と明治初期の世相を見事に描き、一世を風靡しました。

なお、この噺には別のオチがあり、鰻が裂けないのでしかたなく丸焼きにして出し、客が文句を言うと「なに、無理すれば食える」という陳腐なもので、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が小咄としてマクラに振っていたようです。

もちろん、今はやり手がありません。もう一つについては、次項で。

滑稽丸出しの「鰻屋」  【RIZAP COOK】

二つ目について。

オチは同じですが、こちらはナンセンスに徹したもので、普通は「鰻屋」の別題で演じられます。

二人の男の噂話から始まり、鰻裂きの職人が留守でキュウリのコウコで二時間酒をのました鰻屋があるが、主人がわびて金を取らず、またのみなおしにどうぞと言ったというので、それじゃあお言葉に甘えてタダ酒にありつこうと、職人がいない時を見計らって二人で押しかけたので、困った主人が自分で料理しようとして「どこへ行くか鰻に聞いてくれ」となります。

「素人鰻」が長らく文楽の独壇場だったのとは対照的に、こちらは初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)の型とされているものです。

遊三は徳川家の御家人の出なので、成れの果ての士族の来し方が身に染みていたのでしょう。

この型が、大正期に五代目三升家小勝(加藤金之助、1858-1939)が改作し、大阪の初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)、戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、五代目志ん生と、多士済々です。

小勝は、幕切れの鰻をつかむ手さばきに合理的な工夫を見せ、東京の「鰻屋」はみなこの師匠から出たと円生も語っています。

明治維新の時代の風潮が噺からは消えて、鰻屋のコミカルなようすだけが浮き彫りに出たものに変わっていきました。

これを「素人鰻」と区別する意味で、「鰻屋」と呼ぶゆえんです。

春団治は、鰻をつかんだ男が最後に電車に飛び込むという破天荒なオチで有名でしたが、この上方爆笑路線は、二代目桂枝雀(前田達、1939-1999)が継承していました。

「鰻鰻鰻つかみて春団治 歩む高座にさんざしの降る」という吉井勇よしいいさむ(1886-1960)の歌が残ります。

士族の商法  【RIZAP COOK】

明治6年(1873)からの士族の秩禄奉還に基づき、同9年、金禄公債証書発布条例が発令されました。

これは、それまで幕府や各藩からもらっていた家禄を没収する代わり、一定のまとまった金額を公債の形で支給するものです。

一部は現金でもらえましたが、これを元手に商売を始める元サムライが多かったのです。

ところがその結果は、八代目文楽もマクラで引用しているとおり、「士族の商法とかけて、子供の月代さかやき(散髪)と解く。そのココロは、泣き泣き摩(す=剃)る」というありさま。

慣れない商売で客や使用人、取引相手に頭を下げられず、あっという間に全財産をすって落ちぶれ果てる人があとを絶ちませんでした。

からいばりしてもどうにもならず、貧窮のあまり没落士族の娘が女郎に身を売るなど、珍しくもなかったようです。

量産された没落士族もの  【RIZAP COOK】

というわけで、明治初期にはこの噺を始め、「士族の車」「御前汁粉」「西京土産」など、没落士族を主人公にした噺がやたらと作られました。

まあ、人の不幸は笑いのタネというわけで、二百数十年も両刀のご威光で押さえつけられてきた町人のうっぷん晴らしもあったでしょう。

「士族の車」は、零落して人力車を引いている元サムライが、客に号令をかけさせて勇ましく走り出すもののはずみに梶棒が持ち上がって、客を落としたりしたあげく「疲れたから、今度はおまえが引け」とオチになる噺。

「御前汁粉」は、殿さまとお姫さまで汁粉屋を開業、お姫さまが運んできて「町人、代わりを食すか」「へい、おありがとう存じます」「暫時そこに控えておれ」「へへー」どっちが客かわからない、という噺です。

しょせんはキワモノで、「素人鰻」を除けばほとんどが早々にすたれましたが、これらの残された速記は、当時の風俗を知る上で貴重な資料といえるでしょう。

続編?「鰻の天上」  【RIZAP COOK】

ところで、鰻をつかんで飛び出したあと、いったいどうなったのか、気になるところですが、ちゃんと考えた人がいたとみえます。

上方落語で、「鰻の天上」と題したマクラ噺で、徳やんという男が、つかんだ鰻の頭を上に向けたばっかりにそのままいっしょに天上し、一年後に妻子のもとに空から「去年の今日鰻と共にのぼりしがいまに絶へせずのぼりこそすれ(=今も絶えずずっと上り続けている)」と書いた短冊がヒラヒラ。裏書に「手を離す暇がないので、代筆させた」とあったという、荒唐無稽な後日談となっています。

この噺、さらに続きがあって、とうとう鰻に振り落とされた男が墜落するところを雷さまに助けられ、弟子入りして月宮殿を見物するうち、雷の秘蔵のヘソ入りつづらを盗んで逃走、追いかけられて墜落したのがちょうど我が家の庭……というわけで、ここらになると鰻とはまったく関係なく、「月宮殿星の都」というごたいそうな題がついています。

珍品改作「素人洋食」  【RIZAP COOK】

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が文明開化の新時代を当て込んで「素人鰻」を改作し、「素人洋食」と題した速記が残されています。

円遊は円朝門の四天王の一人で爆笑噺家。「ステテコの円遊」「鼻の円遊」などと呼ばれて一世を風靡しました。

これは、開化ぎらいで頑としてチョンマゲを切らなかった今田旧平(いまだ旧弊)という大金持ちの地主が、ある日突然改心(?)して西洋かぶれになり、こともあろうに洋食屋を始めるというので、いやがる長屋の連中を無理やり集めますが、料理人を雇う金をケチったので料理ができず、パンとバターばかりやたらに出すというドタバタです。

旧平が、来ない奴は店立てをくわせると脅すところは、「素人鰻」よりむしろ「寝床」の趣向が濃厚です。



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