すずふり【鈴ふり】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

遊行寺が舞台。
仏道の修行。
禁欲の証に鈴を託して。
バレ噺の傑作。
「甚五郎作」も併載。

別題:鈴まら

【あらすじ】

藤沢の遊行寺ゆぎょうじという名刹。この寺の住職は大僧正だいそうじょうの位にあって、千人もの若い弟子が一心に修行に励んでいる。

なにせ弟子の数が多いので、さしもの大僧正も、この中から誰を自分の跡継ぎに選んだらよいか、さっぱりわからない。

そこでいろいろ相談した結果、迷案がまとまった。

旧暦五月のある日、いよいよ次の住職を決める旨のお触れが出る。

その当日、誰も彼も、ひょっとして俺が、いや愚僧ぐそうがというので、寺の客殿には末寺から押し寄せた千人の僧侶がひしめき合って、青々としてカボチャ畑のような具合。

そこでなにをするかというと、千人一人一人の男のモノに、太白の紐が付いた小さな金の鈴をちょいと結んで
「どうぞ、こちらへ」

次々と奥に通される。

一同驚いていると、やがて御簾みすの内から大僧正の尊きお声。

「遠路ご苦労である。今日は吉例吉日たるによって、御酒ごしゅ、魚類を食するように」

ただでさえ生臭物は厳禁の寺で、酒をのめ、それ鰻だ、卵焼きだというのだから、どうなっているのかと目を白黒させていると、なんとお酌に、新橋、柳橋のえりすぐりの芸者がずらりと並んで入ってくる。

しかも、そろって十七、八から二十という若いきれいどころ。色気たっぷりにしなだれかかってくるものだから、ふだん女色禁制で免疫のできていない坊さんたちはたまったものではない。

色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき
と必死に股間を押さえていると、隣で水もしたたる美女が
「あなた、何をそう、下ばかり向いて」
と、背中をぽんとたたく。

「あっ」
と手を放したとたんに、親ではなくセガレの方が上を向き、くだんの鈴がチリーン。

たちまち、あっちでもこっちでもチリーン、チリーン、チリチリリーン。

千個の鈴の妙なる音色、どころではない。

そのかまびすしい音を聴いて、大僧正、嘆くまいことか。

涙にくれて、
「ああ情けなや。もう仏法も終わりである。千人の全部が全部、鈴を鳴らそうとは」

ところがふと見ると、年のころ二十くらいの若い坊さんがただ一人、数珠じゅずをつまぐりながら座禅を組んでいる。

よく聞くと、その坊さんの股間からだけは、鈴の音なし。

大僧正、感激の涙にむせび、これで合格者は決まったと、さっそく呼び寄せて前をまくってみたら鈴がない。

「はい、とっくに振り切れました」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

志ん生おはこのバレ噺 【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の一手専売だったバレ噺(エロ噺)です。

ネタがネタだけに、当人も寄席ではやれず、特殊な会やお座敷だけのサービス品でした。

ただし、珍しくずうずうしくも昭和36年(1961)5月の東横落語会とうよこらくごかいで堂々と演じたライブの音源は、脳出血で倒れる半年ほど前の、元気な頃の最後の高座のものです。

「鈴ふり」のマクラに志ん生が必ずつけたのが、関東十八檀林だんりんの言い立て。檀林とはお坊さんを養成する学校のことです。

挙げられる十八か寺は、浄土宗で大僧正となるために修行しなければならない関東の諸名刹です。

この噺の舞台、藤沢の遊行寺は、一遍上人いっぺんしょうにんの「踊り念仏」で有名な時宗じしゅうの総本山。

正しくは藤沢山とうたくざん無量光院むりょうこういん清浄光寺しょうじょうこうじといいます。

「時宗」という呼称は寛永8年(1631)から。江戸幕府から時宗274寺の総本山と認められるところから始まります。

意外に新しいのです。

一遍は鎌倉時代の人ではあるのですが。

この一派、規模が小さいことと、同じ念仏宗派のため、浄土宗系寺院と重なるようにみえますが、この噺のごちゃごちゃぶりはさすがに落語的。

時宗と浄土宗の混在はでたらめ。よくこんなので、長いこと通用しているものです。逆に、落語の底知れぬ奥行きに偉大さを感じてしまいます。

江戸時代の時宗

時宗は自らの檀林(時宗では学寮といいます)は1784年までなかったといわれています。

現在は全国に500余の寺院がありますが、江戸時代には2000を超えるほどだったそうです。

それなりの宗派だったのですが、なんせ踊り念仏を旨とするため、定着性が薄く、他の宗派のような法灯を絶やさず、といった思いも弱く、それでも、江戸幕府の宗門制度に合わせて本山、末寺の管理を厳密化するようになったことで、本山を藤沢の清浄光寺にまとめたのです。

志ん生の「鈴ふり」

志ん生の長男で、まじめそのものの芸風だった(ここがまたいいのですが)十代目金原亭馬生きんげんていばしょう(美濃部清、1928-82)もたまに演じていました。

そこのギャップがなかなかに心愉しいものでした。

昭和33年(1958)10月11日の「第67回三越落語会」。

志ん生はトリで「黄金餅こがねもち」をやる予定でした。

その前に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が「藁人形わらにんぎょう」を。これは関係者の不手際ふてぎわによるものでした。

ひとつの興行で同じ傾向の噺が続くのを「噺がつく」とむのが落語の世界です。

そこで、志ん生は客にことわって「鈴ふり」をみっちりやったといいます。こういうところが志ん生のいきなところですね。

関東十八檀林の言い立て 【RIZAP COOK】

「檀林」とはお坊さんの修行道場で学問所。

ここでいう「関東十八檀林」は浄土宗の寺院をさします。

浄土宗は徳川家康が信仰していたことから、宗派間における地位は優越でした。

江戸の町では、浄土宗と日蓮宗(当時は法華宗といいました)が信者獲得競争に明け暮れしており、その勢力と知名度では他宗派をしのいでいました。

浄土宗のお坊さんは寺を巡るごとに出世していったわけです。

志ん生の言い立てを再現してみましょう。

その修行の一番はなへ飛び込むのはってェと、下谷に幡随院ばんずいいんという寺がある。その幡随院に入って修行をして、その幡随院を抜けて、鴻巣こうのす勝願寺しょうがんじという寺へ入る。この勝願寺を抜けまして、川越の蓮馨寺れんけいじへ。蓮馨寺を抜けまして、岩槻の浄国寺じょうこくじという寺に入る。浄国寺を抜けまして、下総小金しもうさこがね東漸寺とうぜんじという寺に入り、東漸寺を抜けて、生実おゆみ大巌寺だいがんじへ入り、滝山の大善寺へ入る。ここから、常陸江戸崎ひたちえどさき大念寺へ入って、上州館林じょうしゅうたてばやし善導寺へ入る。それから、本所の霊山寺れいざんじへ入って、下総結城しもうさゆうき弘経寺ぐぎょうじへ入って、ここで紫の衣一枚となるまで修行をしなければならない。それから、下総国飯沼しもうさいいぬま弘経寺ぐぎょうじというところへ入る。ここは十八檀林のうちで、隠居檀林といって、この寺で、たいがい体が尽きちゃう。そこを、一心になって修行をして、この寺を抜けて、深川の霊巌寺れいがんじに入り、霊巌寺を抜けて、上州新田じょうしゅうにった大光院に入って、常陸瓜連ひたちうりづら常福寺に入って、そうして、紫の衣二枚になって、それより、えー、小石川の伝通院でんづういんへ入り、伝通院を抜けて、鎌倉の光明寺こうみょうじへ入って、そこでの衣一枚となって、それより、江戸は芝の増上寺ぞうじょうじに入って、増上寺で修行をして、緋の衣二枚となって、はじめて大僧正の位となるという……ここまでの修行が大変であります。

「甚五郎作」 【RIZAP COOK】

「鈴ふり」が短い噺なので、志ん生は「甚五郎作」という小咄をセットで語っていました。

これもバレ噺です。

昭和31年(1956)1月8日号の『サンケイ読物』で、志ん生は福田蘭童らんどうと対談をしています。

タイトルは「かたい話やわらかい話」で、二人で昔の吉原の思い出を肴に笑っています。

その中で、志ん生は「甚五郎作」を語っていました。

対談を読むと、志ん生にとって「甚五郎作」は相当なお気に入りの噺だったように思えるのですが、当の福田蘭童は「なるほど。きれいなオチですね」とかえした程度。

福田の笑いのセンスは志ん生のそれとはズレていたようです。

残念な人です。

では、福田が聴いた「甚五郎作」を再現してみましょう。

昔はいいとこの娘でも、行儀見習いといって、大名屋敷へ奉公へ行ったでしょう。方向へ上がるてえとみんな女ばかり。年頃となってくると男なしではいられない。といって、不義はお家のご法度、男は絶対に近づけられない。そこへつけこんで商売を始めたのが張り形屋。つまり、男の代用品ですね。両国の四ツ目屋よつめやなんぞへ、御殿女中がこれを買いにやってくる。ある家の娘が、やはりこのご奉公に上がって、体の具合が悪くなって帰ってきた。医者にみせると妊娠しているという。おっかさんが驚いて、娘に相手は誰かと聞く。娘は「相手なんかいない」というんです。相手がなくて妊娠するわけはないと問い詰めて、娘の手文庫てぶんこを調べたら、中から張り形が出てきた。「おまえ、これで赤ん坊ができるわけがないよ」と言って、張り形の裏を返したら「左甚五郎作」と彫ってあった。左甚五郎の作ったものは、生き物のように飛び出るという、あれですね。

志ん生という人は、元来、こういうスマートな噺を好んだようです。粋だなあ。

ところで、福田蘭童(石渡幸彦、1905-76)。

この人は、青木繁(画家)の長男で、尺八、フルート、バイオリン、ピアノなんかを演奏する音楽家にして、随筆家。

かつてはこのような、得体のしれない型破りの通人がごろごろいたもんです。

息子の石橋エータロー(石橋英市、1927-94)もそんな範疇の方なんでしょう、きっと。

ハナ肇とクレージーキャッツのメンバーで、桜井センリとのピアノ連弾なんですから。人生の後半は料理研究家でした。

■関東十八檀林

名称内訳現在地
下谷の幡随院新知恩寺。浄土宗系単立寺院。本尊は阿弥陀如来東京都小金井市前原町
鴻巣の勝願寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来埼玉県鴻巣市本町
川越の蓮馨寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来埼玉県川越市連雀町
岩槻の浄国寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来埼玉県さいたま市岩槻区
下総小金の東漸寺浄土宗千葉県松戸市小金
生実の大巌寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来千葉県千葉市中央区 
滝山の大善寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来東京都八王子市大谷町
常陸江戸崎の大念寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来茨城県稲敷市江戸崎甲
上州館林の善導寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来群馬県館林市楠町
本所の霊山寺浄土宗。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来東京都墨田区横川
下総結城の弘経寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来。隠居檀林茨城県結城市西町
下総飯沼の弘経寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来茨城県常総市豊岡町
深川の霊巌寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来東京都江東区白河
上州新田の大光院浄土宗。本尊は阿弥陀如来群馬県太田市金山町
常陸瓜連の常福寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来茨城県那珂市瓜連
小石川の伝通院浄土宗。本尊は阿弥陀如来東京都文京区小石川
鎌倉の光明寺浄土宗鎮西派大本山。本尊は阿弥陀如来
神奈川県鎌倉市材木座
芝の増上寺浄土宗鎮西派大本山。本尊は阿弥陀如来東京都港区芝公園



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きんのだいこく【黄金の大黒】落語演目



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【どんな?】

長屋の喧騒な雰囲気がよく出ていますね。 

【あらすじ】

長屋の一同に大家から呼び出しがかかった。

日ごろ、店賃なんぞは爺さんの代に払ったきりだとか、店賃? まだもらってねえ、などどいう輩ばかりだから、てっきり滞納で店立ての通告か、と戦々恐々。

ところが、聞いてみるとさにあらず、子供たちが普請場で砂遊びをしていた時、大家のせがれが黄金の大黒さまを掘り出したという。

めでたいことなので、長屋中祝ってお迎えしなければならないから、みんな一張羅を着てきてくれと大家の伝言。

ごちそうになるのはいいが、一同、羽織なぞ持っていない。

中には、羽織の存在さえ知らなかった奴もいて、一騒動。

やっと一人が持っていたはいいが、裏に新聞紙、右袖は古着屋、左袖は火事場からかっぱらってきたという大変な代物だ。

それでも、ないよりはましと、かわるがわる着て、トンチンカンな祝いの口上を言いに行く。

いよいよ待ちに待ったごちそう。

鯛焼きでなく本物の鯛が出て寿司が出て、みんな普段からそんなものは目にしたこともない連中だから、さもしい根性そのままに、ごちそうのせり売りを始める奴がいると思えば、寿司をわざと落として、「落ちたのはきたねえからあっしが」と六回もそれをやっているのもいる始末。

そのうち、お陽気にカッポレを踊るなど、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

ところが、床の間の大黒さまが、俵を担いだままこっそり表に出ようとするので、見つけた大家が、
「もし、大黒さま、あんまり騒々しいから、あなたどっかへ逃げだすんですか」
「なに、あんまり楽しいから、仲間を呼んでくるんだ」

【しりたい】

金語楼が東京に紹介 

明治末から昭和初期にかけて、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の十八番だった上方噺を、初代柳家金語楼(1901-72、山下敬太郎)が東京に持ってきて、脚色しました。

金語楼は、戦前には「兵隊」ほか新作落語で売れに売れ、戦後はコメディアンとして舞台、映画、テレビと大活躍した人、三大喜劇人(エノケン、ロッパ、キンゴロー)の一人に数えられる人です。

現在も、けっこう演じられるポピュラーな噺ですが、なぜか音源は少なく、現在CDで聴けるのは立川談志(松岡克由、1935-2011)と大阪の三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)のものだけです。

初代春団治、金語楼とも、残念ながらレコードは残されていません。

オチはいろいろ

東京では、上のあらすじで紹介した「仲間を呼んでくる」がスタンダードです。

大阪のオチは、長屋の一同が「豊年じゃ、百(文)で米が三升」と騒ぐと大黒が、「安うならんうちに、わしの二俵を売りに行く」と、いかにも上方らしい世知辛いものです。

そのほか、「わしも仲間に入りたいから、割り前を払うため米を売りに行く」というのもありますが、ちょっと冗長でくどいようです。

大黒さまは軍神 

大黒天は、もとはインドの戦いの神で、頭が三つあり、怒りの表情をして、剣先に獲物を刺し通している、恐ろしい姿で描かれていました。

ところが、軍神として仏法を守護するところから、五穀豊穣をつかさどるとされ、のちには台所の守護神に転進。

えらい変わりようであります。

日本に渡来してから、イナバのシロウサギ伝説で知られるとおり、大国主信仰と結びつき、「大黒さま」として七福神の一柱にされました。

血なまぐさいいくさ神から福の神に。これほどエエカゲンな神サマは、世界中見渡してもいないように見えますが、これは現代人の狭い見方でしかありません。

戦争はたしかに破壊の象徴のように見えます。

でも、その後に復興して富をもたらすことはこれまた人類の変わらないいとなみ。

冬のあとに春が来るという、あれです。

怖い形相は魔を退けるおしるしです。

不思議なことではないのです。

これこそが、古代人のとらえ方の特徴なのです。

七福神の一員としてのスタイルはおなじみで、狩衣に頭巾をかぶり、左肩に袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持って、米俵を踏まえています。

福の神として広く民間に信仰され、この噺でも、当然、袋をかついで登場します。

江戸の風物詩、大黒舞い 

江戸時代には、大黒舞いといい、正月に大黒天の姿をまねて、打ち出の小槌の代わりに三味線を手に持ち、門口に立って歌、舞いから物まね、道化芝居まで演じる芸人がありました。

吉原では、正月二日から二月の初午はつうまにかけて、大黒舞いの姿が見られたといいます。

「黄金の大黒」のくすぐりから 

大家が自分のせがれのことを、
「わが子だと思って遠慮なくしかっておくれ」
と言うと、一人が、この間、大家の子が小便で七輪の火を消してしまったので、
「軽くガンガンと……」
「げんこつかい?」
「金づちで」
「そりゃあ乱暴な」
「へえ、お礼にはおよびません」

左甚五郎 

江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人です。講談、浪曲、落語、芝居などで有名で、「左甚五郎作」と伝えられる作品も各地にあります。

「甚五郎作」といわれる彫り物は全国各地にゆうに100か所近くあるそうです。

その製作年間は安土桃山期、江戸後期まで300年にもわたり、出身地もさまざまのため、左甚五郎とは伝説上の人物と考えるのが妥当だろう、というのが現在の定説です。

各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたと考えてもよいでしょう。

江戸中期になると、寺社建築に彫り物を多用することになりますが、その頃に名工を称賛する風潮が醸成されていったようです。

ポイントは「江戸初期」。

破壊と略奪の戦国時代が終わって、復興と繁栄が始まる息吹の時代です。

江戸幕府は、応仁の乱以来焼亡した寺社の再建に積極的に乗り出しました。

多くの腕自慢の職人が活躍した時期が「江戸初期」だったのです。

甚五郎が登場する落語や講談の作品は、以下のとおりです。

「三井の大黒」
「竹の水仙」
「鼠」
「甚五郎作(四ツ目屋)」
「掛川の宿」
「木彫りの鯉」
「陽明門の間違い」
「水呑みの龍」
「天王寺の眠り猫」
「千人坊主」
「猫餅の由来」
「あやめ人形」
「知恩院の再建」
「叩き蟹」

ついでに、左甚五郎の伝承を持つ主な作品を掲げておきます。時期も場所も多岐にわたっています。

眠り猫(日光東照宮)
閼伽井屋の龍(園城寺)
鯉山の鯉(京都の祇園祭)
日光東照宮(栃木県日光市)眠り猫
妻沼聖天山 歓喜院(埼玉県熊谷市)本殿「鷲と猿」
秩父神社(埼玉県秩父市)子宝・子育ての虎、つなぎの龍
泉福寺(埼玉県桶川市)正門の竜
安楽寺(埼玉県比企郡吉見町)野あらしの虎
慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町)夜荒らしの名馬
国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大崎)
上野東照宮(東京都台東区)唐門「昇り龍」「降り龍」
上行寺(神奈川県鎌倉市)山門の竜
淨照寺(山梨県大月市)本堂欄間
長国寺(長野県長野市)霊屋 破風の鶴
静岡浅間神社(静岡県静岡市)神馬
龍潭寺(静岡県浜松市)龍の彫刻 鶯張りの廊下
定光寺(愛知県瀬戸市)徳川義直候廟所 獅子門
誠照寺(福井県鯖江市)山門 駆け出しの竜、蛙股の唐獅子
園城寺(滋賀県大津市)閼伽井屋の龍
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市)
養源院(京都府京都市東山区)鶯張りの廊下
知恩院(京都府京都市東山区)御影堂天井「忘れ傘」、鶯張りの長廊下
祇園祭 (京都府)鯉山の鯉
稲爪神社(兵庫県明石市)
圓教寺(兵庫県姫路市)力士像
加太春日神社(和歌山県和歌山市加田)
出雲大社(島根県出雲市)八足門 蛙股の瑞獣、流水紋
西光寺(奈良県香芝市)鳳凰の欄間
飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市) 稲喰神馬(黒駒)

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みついのだいこく【三井の大黒】落語演目

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【どんな?】

名人噺。
能たる鷹は爪を隠す。
ときたまさらす甚五郎の爪。

別題:左小刀 出世大黒 左甚五郎

【あらすじ】

名人の噺。飛騨ひだの名工・左甚五郎ひだりじんごろうの。

伏見ふしみに滞在中に、江戸の三井(越後屋)の使いが来て、運慶うんけい作の恵比寿と一対にする大黒を彫ってほしいと依頼される。

手付けに三十両もらったので、甚五郎、借金を済ました残りで江戸に出てきた。

関東の大工仕事を研究しようと、日本橋を渡り、藍染川あいぞめがわに架かる橋に来かかると、板囲いの普請場ふしんば(工事現場)で、数人の大工が仕事をしている。

のぞいてみると、あまり仕事がまずいので
「手切り釘こぼし……皆半人前やな。一人前は飯だけやろ」

これを聞きつけて怒ったのが、血の気の多い大工連中、寄ってたかって袋だたき。

棟梁とうりゅう政五郎まさごろうが止めに入り、上方の番匠ばんじょう(大工)と聞くと、同業を悪く言ったおまえさんもよくないと、たしなめる。

まだ居場所が定まらないなら、何かの縁だからあっしの家においでなさいと、勧められ、甚五郎、その日から日本橋橘町たちばなちょうの政五郎宅に居候いそうろう

とにかく口が悪いので、政五郎夫婦は面くらうが、当人は平気な顔。名前を聞かれ、まさか、日本一の名人でございとは名乗れないから、箱根山に名前を置き忘れたとごまかすので、間が抜けた感じから「ぬうぼう」とあだ名で呼ばれることになった。

翌朝、甚五郎はさっそく、昨日の藍染川の仕事場に出向いたが、若い衆、
「名前を忘れるような、あんにゃもんにゃには、下見板を削らしておけ」
ということになった。

これは小僧上がりの仕事なので、大工の作法を知らないと、むっとしたが、棟梁への義理から腹に納め、削り板に板を乗せると、粗鉋あらしこで二枚削り。

これを合わせて水に浸け、はがして、またぴたりと合わせると、さっさと帰ってしまう。

後でその板をみると、二枚が吸いつくように離れない。

話を聞いた政五郎、若い者の無作法をしかり、「離れないのは板にムラがないからで、これは相当な名人に違いない」と悟る。

その年の暮れ。

政五郎は居候を呼んで、
「江戸は急ぎ仕事が求められるから、おまえさんの仕事には苦情がくると、打ち明け、上方に帰る前に、歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないか」
と勧めるので、甚五郎、ぽんと手を打ち
「やらしてもらいたい」

それから細工場さいくばに二階を借り、備州檜びしゅうひのきのいいのを選ぶと、さっそくこもって仕事にかかる。

何日かたち、甚五郎が風呂へ行っている間に政五郎が覗くと、二十組ぐらいはできたかと思っていたのが一つもない。

隅を見ると、風呂敷をかけたものがある。

取ると、二尺はある大きな大黒。

これが、陽に当たってぱっちり目を開けた。

そのとき、下から呼ぶ声。

出てみると、駿河町するがちょうの三井の使い。

手紙で、大黒ができたと知らせを受けたという。

政五郎、やっと腑に落ち、
「なるほど、大智は愚者に似るというが」
と感心しているところへ、当人が帰ってくる。

甚五郎、代金の百両から、お礼にと、政五郎に五十両渡した。

「恵比寿さまになにか歌があったと聞いたが」
「『商いは濡れ手で粟のひとつかみ』というのがございますが」

そこで、さらさらと「守らせたまえ二つ神たち」と書き添えると、いっしょに三井に贈ったという、甚五郎伝の一節。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

左甚五郎

甚五郎(1594-1641)は江戸前期の彫刻・建築の名匠です。

異名を左小刀ひだりこがたなといい、京都の御所大工ごしょだいくでしたが、元和げんな6年(1620)、江戸へ出て、将軍家御用の大工として活躍する一方、彫刻家としても、日光東照宮の眠り猫、京都知恩院の鶯張りなど、歴史に残る名作を生み出し、晩年は高松藩の客分となりました。

落語や講談では「飛騨の甚五郎」が通り相場です。

姓の「左」は「飛騨」が正しいとする説もありますが、実際は播磨国・明石の出身ともいわれ、詳しい出自ははっきりしません。

甚五郎という名工は実在したのでしょうが、現在伝わる甚語楼像はスーパーマンで、かなりの潤色ぶりで、伝説化されてしまっています。

実在と伝説は分けてとらえるしかありません。

落語では「竹の水仙」「」に登場するほか、娘が甚五郎作の張形はりがた(女性用の淫具)を使ったため「処女懐胎」してしまうバレ噺「甚五郎作」があります。

要するに、江戸時代には、国宝級の名作はすべて「甚五郎作」にされてしまうぐらい、左甚五郎は「名人の代名詞」だったわけです。

三木助最後の高座

講談から落語化されたものです。

戦後では六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)と三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、ともに十八番としました。

とりわけ三木助は、同じ甚五郎伝の「鼠」も事実上の創作に近い脚色をするなど、甚五郎にはことのほか愛着を持っていたようです。

この噺もたびたび高座に掛けました。

三木助最後の高座となった、昭和35年(1961)11月の東横落語会の演目も「三井の大黒」でした。

三木助没後は弟子の入船亭扇橋(橋本光永、1931-2015)に、さらにその弟子の扇遊へと継承されていきました。

藍染川 今川橋

藍染川は神田鍛冶町から紺屋町こんやちょうを通り、神田川に合流した掘割ほりわりです。

紺屋町の染物屋が、布をさらしたことから、こう呼ばれました。

明治18年(1885)に埋め立てられています。

六代目円生は「今川橋」の出来事として演じましたが、実際の今川橋は、藍染川あいぞめがわ南東の八丁堀に架かっていた橋で、日本橋本白銀町ほんしろがねちょう二丁目と三丁目を渡していました。

下見板

噺の中で甚五郎がくっつけてしまう「下見板」は、家の外壁をおおうための横板で、大工の見習いが練習に、まず削らされるものでした。

甚五郎が怒ったのも、無理はありません。

駿河町の三井

初代・三井八郎右衛門高利が延宝元年(1673)、日本橋本町一丁目に呉服屋を開業。天和2年(1682)の大火で、翌年、駿河町(東京都中央区日本橋室町一、二丁目)に移転、「現金掛け値なし」を看板にぼろもうけしました。

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ねずみ【鼠】落語演目

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【どんな?】

主人公は左甚五郎。
胸のすく匠の噺です。

別題:甚五郎 甚五郎の鼠

【あらすじ】

名工・左甚五郎は、十年も江戸・日本橋橘町の棟梁・政五郎の家に居候の身。

その政五郎が若くして亡くなり、今は二代目を継いだせがれの後見をしている。

ある年。

まだ見ていない奥州松島を見物しようと、伊達六十二万石のご城下・仙台までやってきた。

十二、三の男の子が寄ってきて、
「ぜひ家に泊まってほしい」
と頼むので承知すると、
「うちの旅籠はたご鼠屋ねずみやといって小さいけど、おじさん、布団がいるなら損料そんりょうを払って借りてくるから、二十文前金でほしい」
と、言う。

なにかわけがありそうだと、子供に教えられた道を行ってみると、宿屋はなるほどみすぼらしくて、掘っ建て小屋同然。

前に虎屋という大きな旅籠があり、繁盛している。

案内を乞うと、出てきた主人、
「うちは使用人もいめせんので、申し訳ありませんが、そばの広瀬川の川原で足をすすいでください」
と言うから、ますますたまげた。

その上、子供が帰ってきて、
「料理ができないから、自分たち親子の分まで入れて寿司を注文してほしい」
と言い出したので、甚五郎は苦笑して二分渡す。

いたいけな子供が客引きをしているのが気になって、それとなく事情を聞いた。

このおやじ、卯兵衛うへえといい、もとは前の虎屋のあるじだったが、五年前に女房に先立たれ、女中頭のお紺を後添いにしたのが間違いのもと。

性悪な女で、幼いせがれの卯之吉をいじめた上、番頭の丑蔵と密通し、たまたま七夕の晩に卯兵衛が、二階の客のけんかを止めようとして階段から落ちて足腰が立たなくなり、寝たきりになったのを幸い、親子を前の物置に押し込め、店を乗っ取った。

卯兵衛は、しかたなく幼友達の生駒屋いこまやの世話になっていたが、子供の卯之吉が健気けなげにも、
「このままでは物乞いと変わらない。おいらがお客を一人でも連れてくるから商売をやろう」
と訴えるので、物置を二階二間きりの旅籠に改築したが、客の布団も満足にないありさま。

宿帳から、日本一の彫り物名人と知って、卯兵衛は驚くが、同情した甚五郎、一晩部屋にこもって見事な木彫りの鼠をこしらえ、たらいに入れて上から竹網をかけると
「左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧の方は、ぜひ鼠屋にお泊まりを」
と書いて、看板代わりに入り口に揚げさせ、出発した。

この看板を見た近在の農民が鼠を手にとると、不思議や、木の鼠がチョロチョロ動く。

これが評判を呼び、後から後から客が来て、たちまち鼠屋は大繁盛。

新しく使用人も雇い、裏の空き地に建て増しするほど。

そのうち客から客へ、虎屋の今の主人・丑蔵の悪事の噂が広まり、虎屋は逆にすっかりさびれてしまう。

丑蔵は怒って、なんとか鼠を動かなくしようと、仙台一の彫刻名人、飯田丹下いいだたんげに大金を出して頼み、大きな木の虎を彫ってもらう。

それを二階に置いて鼠屋の鼠をにらみつけさせると、鼠はビクとも動かなくなった。

卯兵衛は
「ちくしょう、そこまで」
と怒った拍子にピンと腰が立ち、江戸の甚五郎に
「あたしの腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」
と手紙を書いた。

不思議に思った甚五郎、二代目政五郎を伴ってはるばる仙台に駆けつけ、虎屋の虎を見たが、目に恨みが宿り、それほどいい出来とは思われない。

そこで鼠を
「あたしはおまえに魂を打ち込んで彫ったつもりだが、あんな虎が恐いかい?」
としかると、
「え、あれ、虎? 猫だと思いました」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

三木助人情噺  【RIZAP COOK】

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、浪曲師の二代目広沢菊春(佐々木勇、1914-1964)に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらったのが「左甚五郎」で、これを脚色して落語化したものが「鼠」です。

「甚五郎の鼠」の演題で、昭和31年(1956)7月に初演しました。

竹の水仙」「三井の大黒」などと並び、三木助得意の名工・甚五郎の逸話ものですが、録音を聴いてみると、三木助がことに子供の表現に優れていたことがよくわかります。

お涙ちょうだいに陥るギリギリのところで踏みとどまり、道徳臭さがなく、爽やかに演じきるところが、この人のよさでしょう。

左甚五郎(1594-1651)については「三井の大黒」をお読みください。

日本橋橘町  【RIZAP COOK】

東京都中央区東日本橋三丁目にあたります。

甚五郎の在世中、明暦の大火(1657)以前は旧西本願寺門前の町屋でした。

「立花町」とも書かれますが、町名の由来は、当時このあたりに橘の花を売る店が多かったことからきたと言われています。

飯田丹下  【RIZAP COOK】

実在の彫工で、仙台藩・伊達家のお抱え。

ということになっていますが、生没年など、詳しい伝記は不詳です。怪しい。

三代将軍家光(1604-51)の御前で、甚五郎と競って鷹を彫り、敗れて日本一の面目を失ったという逸話もあります。これも怪しい。

内需旺盛(高度経済成長期と同じ現象)だった17世紀の日本で、勝ち組名工たちの象徴的存在「左甚五郎」と競って、対立、挫折、敗北の果てに第一線から消えていった負け組職人たちの象徴的存在が、「飯田丹下」というキャラクターに造形されたのだと思います。

安倍晴明と蘆屋道満との関係に似ていますね。

飯田丹下、現在のところは、実在も詳細も不明です。

こぼれ噺  【RIZAP COOK】

三代目三木助(小林七郎、1902-61)による、この噺のマクラです。

「ベレーが鼠、服が鼠、シャツが鼠で、万年筆が鼠、靴下が鼠でドル入れが鼠、モモヒキが鼠で、靴がまた鼠ッてえン、世の中にゃァ、いろいろまた好き好きてえもんがありますもんですな。このひとが表へ出ましたら、お向かいの猫が飛びついてきたってえン」

そのねずみ男のモデルは、安藤鶴夫(1908-69)だったということです。

安藤当人が「巷談本牧亭」((1962年読売新聞連載,1963年刊行、直木賞受賞作)に書いています。

安藤鶴夫は演劇評論家や作家で当時のマスコミで活躍していました。

三木助の熱烈な支持者でも有名でした。

好みの偏りが過ぎる人で、落語界に残した功罪はなかなかです。

現在も  【RIZAP COOK】

三木助没後は、五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)が得意にしました。

三木助門下だった九代目入船亭扇橋(橋本光永、1931-2015)、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)などを経て、若手にも伝わっています。演じ手の多い噺ですね。

志ん朝



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たけのすいせん【竹の水仙】落語演目

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【どんな?】

三島に投宿して酒びたりの左甚五郎は、宿の主人から追い立てを食らう。

甚五郎、中庭の竹を一本切って、竹造りの水仙に仕上げてみた。

翌朝、見事な花を咲かせた。竹なのに。これを長州公が百両でお買い上げ。

旅立つ甚五郎に、主人は「もう少しご逗留になったら」。

講談の「甚語郎もの」を借用した一席。オチはありません。

【あらすじ】

天下の名工として名高い、左甚五郎。

江戸へ下る途中、名前を隠して、三島宿の大松屋佐平という旅籠に宿をとった。

ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。

たまりかねた主人に追い立てを食らう。

甚五郎、平然としたもので、ある日、中庭から手頃な大きさの竹を一本切ってくると、それから数日、自分の部屋にこもる。

心配した佐平がようすを見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。

たまげた佐平に、甚五郎は言い渡した。

「この水仙は昼三度夜三度、昼夜六たび水を替えると翌朝不思議があらわれるが、その噂を聞いて買い求めたいと言う者が現れたら、町人なら五十両、侍なら百両、びた一文負けてはならないぞ」

これはただ者ではないと、佐平が感嘆。

なんとその翌朝。

水仙の蕾が開いたと思うと、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。

そこへ、たまたま長州公がご到着になった。

このことをお聞きになると、ぜひ見たいとのご所望。

見るなり、長州公は言った。

「このような見事なものを作れるのは、天下に左甚五郎しかおるまい」

ただちに、百両でお買い上げになった。

甚五郎、また平然とひとこと。

「毛利公か。あと百両ふっかけてもよかったな」

甚五郎がいよいよ出発という時。

甚五郎は半金の五十両を宿に渡したので、今まで追い立てを食らわしていた佐平はゲンキンなもの。

「もう少しご逗留になったら」

江戸に上がった甚五郎は、上野寛永寺の昇り龍という後世に残る名作を残すなど、いよいよ名人の名をほしいままにしたという、「甚五郎伝説」の一説。

【しりたい】

小さんの人情噺  

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番で、小さんのオチのない人情噺は珍しいものです。

古い速記は残されていません。

オムニバスとして、この後、江戸でのエピソードを題材にした「三井の大黒」につなげる場合もあります。

桂歌丸(椎名巌、1936-2018)がやっていました。

柳家喬太郎なども演じ、若手でも手掛ける者が増えています。あまり受ける噺とも思われませんが。

講釈ダネの名工譚 

世話講談(講釈)「左甚五郎」シリーズの一節を落語化したものとみられます。

黄金の大黒」「」など、落語の「甚五郎もの」はいずれも講釈ダネです。左甚五郎については「黄金の大黒」をお読みください。

噺の中で甚五郎が作る「竹の水仙」は、実際は京で彫り、朝廷に献上してお褒めを賜ったという説があるんだそうです。

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)は、「鼠」の中でそう説明していました。

【語の読みと注】
旅籠 はたご:宿屋、旅館

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