てんさい【天災】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

八五郎が心学先生に心服。
鸚鵡返しで長屋にまき散らして俄先生に。
典型的な心学噺です。

別題:先妻 俄心学 人の悪き(上方)

【あらすじ】

隠居の家に気短な八五郎がいきなり飛び込んできて
「女房のとおふくろのと、離縁状を二本書いてくれ」
と言う。

鯵を猫に盗まれたことから夫婦げんかになり、 止めに入ったおふくろをけっ飛ばしてきた というので、あきれた隠居、
長谷川町新道はせがわちょうじんみちの煙草屋裏に、紅羅坊名丸べにらぼうなまる(⇒べらぼうになまけるのもじり)という偉い心学しんがくの先生がいるから話を聞いて精神修行をし、心を和らげてこい」
と紹介状を書いて送り出す。

八五郎は先方に着くや、
「ヤイ、べらぼうになまける奴、出てきやがれッ」
とどなり込んだから先生も驚いた。

紹介状を見て
「おまえさんは気が荒くて、よく人とけんかをするそうだが、短気は損気。堪忍の成る堪忍は誰もする。ならぬ堪忍するが堪忍、気に入らぬ風もあろうに柳かな」
「堪忍の袋を常に首へかけ破れたら縫え破れたら縫え」
と諭すが、いっこうに通じない。

先生が
「往来で人に突き当たられたらどうするか」
と聞くと、八は
「殴りつける」
と言うし、
「もし軒下を歩いていて屋根瓦が落ちてきてけがをしたら」
と問うと
「そこの家に暴れ込まァ」
「家の人がしたのではないぞ」
「しなくたってかまわねえ」
「それでは、表で着物の裾に水を掛らけられたら? 子供なら堪忍しますか」
「しねえ。その家に暴れ込む」

「それでは」と先生。

「五町四方もある原っぱでにわかの夕立、びっしょり濡れて避ける所もないときは、誰を相手にけんかする?」
と突っ込むと、さすがの八五郎もこれには降参。

「それ、ごらん。そこです。天災というもので、災難はちゃんとその日にあることに決まっている。先の屋根から落ちた瓦もそうです。わざわざこちらからかかりに行くようなもので、災難天災といいます。人間は天災てえことを知って、何事も勘弁しなければいけません」

わかったのかわからないのか、ともかく八五郎、すっかり心服して、
「なるほどお天道さまがすると思えば腹も立たない、天災だ天災だ」
と、すっかり人間が丸くなって帰る。

なにやら隣の家で言い争っているので、何事かと聞くと、吉兵衛が、かみさんの知らぬ間に女を連れ込んでもめているという。

ここぞと止めに入った八五郎、
「まあ落ち着け。ぶっちゃあいけねえ。奈良の堪忍、駿河堪忍」
「なんだよ」
「気に入らぬ風も蛙かな。ずた袋よ。破れたら縫うだろう?」
「だからなんでえ」
「原ン中で夕立ちにあって、びっしょり濡れたらどうする? 天災だろう」「なに、天災じゃねえ。先妻だ」

底本:二代目古今亭今輔、八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

心学

京都の石田梅岩(1685-1744)が創始しました。「心学」は梅岩の人生哲学と、それをもとにした民衆教化運動の、両方を指します。

この噺を見るかぎり、単なる運命肯定、「諦めの勧め」と理解されやすいのですが、実際は、人間の本性を率直にとらえ、人間の尊厳を通俗的なたとえで平易に説いた教えです。

そこから四民平等、商業活動の正当性を最初に提唱したのも梅岩一派だったといわれています。

石門心学ともいい、梅岩門下によって天保年間(1830-44)にいたるまで、町人を中心に大いに興隆しました。

この噺のように、師弟の辛抱強い問答によって教義を理解させる方法が特徴で、原則として教習料はタダでした。

意外な人気作

原話は不詳。かなり古くから江戸で口演されてきた噺のようです。

明治22年(1889)の二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)の速記が残っています。原型に近いものとして。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)から四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)へと伝わりました。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)のは、晩年の三代目小さんからの直伝だそうです。

地味で笑いも少なく、短いので前座噺の扱いを受けることもあって、滅亡寸前と思いきや、意外に人気があって、現在も比較的よく演じられています。

心学噺、ほかには

心学の登場する噺は、昔はかなりあったようです。

現在は「中沢道二」「由辰」が生き残っているほか、「堪忍袋」も心学の教義が根底にあるといわれます。

上方の「人の悪き」は、「人の悪きはわが悪きなり」と教わって、帰りに薪屋の薪を割らせてもらい、「人の割る木はわが割る木なり」と地口(ダジャレ)で落とすものです。

「天災」とよく似ていますが、同じ心学噺でも別系統のようです。

心学は江戸中期に町人に人気を得た倫理観です。武士中心の近世社会の下でなんとか生きていく町人(都市生活者)と百姓(町人以外の人々)に具体的な生き方を示したものです。明治に入ると、急速にすたれてしまいました。いちおうの平等社会が用意されたからです。

こんな具合ですから、心学噺は現代の価値観からは物足りなさを強く感じるわけです。その結果、明治時代に入ってからは省みられることがなくなり、世間からあっという間に消えてしまいました。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

ちきりいせや【ちきり伊勢屋】落語演目

↖この赤いマークが「ちきり」です。

 成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

柳家系の噺ですが、円生や彦六も。
「易」に振り回される若者の物語です。
キメの「積善の家に余慶あり」は心学や儒学のキモ。

別題:白井左近

あらすじ

旧暦きゅうれき七月の暑い盛り。

麹町こうじまち五丁目のちきり伊勢屋という質屋の若主人伝二郎でんじろうが、平河町ひらかわちょうの易の名人白井左近しらいさこんのところに縁談の吉凶を診てもらいに来る。

ところが左近、天眼鏡てんがんきょうでじっと人相を観察すると
「縁談はあきらめなさい。額に黒天こくてんが現れているから、あなたは来年二月十五日九ツ(午前0時)に死ぬ」

さらには、
「あなたの亡父伝右衛門でんえもんは、苦労して一代で財を築いたが、金儲けだけにとりつかれ、人を泣かせることばかりしてきたから、親の因果いんがが子に報い、あなたが短命に生まれついたので、この上は善行ぜんぎょうを積み、来世らいせの安楽を心掛けるがいい」
と言うばかり。

がっかりした伝二郎、家に帰ると忠義の番頭藤兵衛とうべえにこのことを話し、病人や貧民に金を喜捨きしゃし続ける。

ある日。

弁慶橋べんけいばしのたもとに来かかると、母娘が今しも、ぶらさがろうとしている。

わけを尋ねると、
「今すぐ百両なければ死ぬよりほかにない」
というので、自分はこういう事情の者だが、来年二月にはどうせ死ぬ身、その時は線香の一本も供えてほしいと、強引に百両渡して帰る。

伝二郎、それからはこの世の名残なごりと吉原ではでに遊びまくり、二月に入るとさすがに金もおおかた使い尽くしたので、奉公人に暇を出し、十五日の当日には盛大に「葬式」を営むことにして、湯灌ゆかん代わりに一風呂浴び、なじみの芸者や幇間たいこもちを残らず呼んで、仏さまがカッポレを踊るなど大騒ぎ。

ところが、予定の朝九ツも過ぎ、菩提寺の深川浄光寺でいよいよ埋葬となっても、なぜか死なない。

悔やんでも、もう家も人手に渡って一文なし。

しかたなく知人を転々として、物乞い同然の姿で高輪たかなわの通りを来かかると、うらぶれた姿の白井左近にバッタリ。

「どうしてくれる」
とねじ込むが、実は左近、人の寿命を占った咎で江戸追放になり、今ではご府内の外の高輪大木戸たかなわおおきど裏店うらだな住まいをしている、という。

左近がもう一度占うと、不思議や額の黒天が消えている。

「あなたが人助けをしたから、天がそれに報いたので、今度は八十歳以上生きる」
という。

物乞いして長生きしてもしかたがないと、ヤケになる伝二郎に、左近は品川の方角から必ず運が開ける、と励ます。

その品川でばったり出会ったのが、幼なじみで紙問屋福井屋のせがれ伊之助。

これも道楽が過ぎて勘当の身。

伊之助の長屋に転がりこんだ伝二郎、大家のひきで、伊之助と二人で辻駕籠屋を始めた。

札ノ辻でたまたま幇間の一八を乗せたので、もともとオレがやったものだと、強引に着物と一両をふんだくり、翌朝質屋に行った帰りがけ、見知らぬ人に声をかけられる。

ぜひにというので、さるお屋敷に同道すると、中から出てきたのはあの時助けた母娘。

「あなたさまのおかげで命も助かり、この通り家も再興できました」
と礼を述べた母親、
「ついては、どうか娘の婿になってほしい」
というわけで、左近の占い通り品川から運が開け、夫婦で店を再興、八十余歳まで長寿を保った。

「積善の家に余慶あり」という一席。

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

原話や類話は山ほど  【RIZAP COOK】

直接の原話は、安永8年(1779)刊『寿々葉羅井すすはらい』中の「人相見にんそうみ」です。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と宣告された男が、家財道具を全部売り払って時計を買い、翌朝それが八ツの鐘を鳴らすと、「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、たわいない話です。

易者に死を宣告された者が、人命を救った功徳で命が助かり、長命を保つというパターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、そのすべてがこの噺の原典または類話といえるでしょう。

その大元のタネ本とみられるのが、中国明代の説話集『輟耕録てっこうろく』中の「陰徳延寿いんとくえんじゅ」。

それをアレンジしたのが浮世草子『古今堪忍記ここんかんにんき』(青木鷺水あおきろすい、宝永5=1708年刊)の巻一の中の説話です。

さらにその焼き直しが『耳嚢みみぶくろ』(根岸鎮衛ねぎしやすもり著)の巻一の「相学奇談の事」。

同じパターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、細部を変えただけなのが同じ『輟耕録』の「飛雲ひうんの渡し」と『耳嚢』の「陰徳危難いんとくきなんを遁れし事」で、これらも「佃祭」の原話であると同時に「ちきり伊勢屋」の原典でもあります。

円生と彦六が双璧  【RIZAP COOK】

明治27年(1894)1月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

小さん代々に伝わる噺です。ただ、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)は手掛けていません。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を受け継いで演じていました。

系統の違う六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が、晩年に熱演しました。

円生は二代目禽語楼小さんの速記から覚えたものといいますから、正蔵のとルーツは同じです。

戦後ではこの二人が双璧でした。

白井左近とは  【RIZAP COOK】

白井左近の実録については不詳です。

二代目小さん以来、左近の易断えきだんにより、旗本の中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが本格で、それを入れたフルバージョンで演じると、二時間は要する長編です。

この旗本のくだりだけを独立させる場合は「白井左近」の演題になります。

ちきり  【RIZAP COOK】

「ちきり伊勢屋」の通称の由来です。

「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、かすがい(鎹)にしました。

同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに用いたものも「ちきり」と呼びました。

下向きと上向きの△の頂点をつなげた記号で表され、質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく用いられます。

これは、千木とちきりのシャレであるともいわれます。

ちきりの形は「ちきり清水商店」の社標をご参照ください。

「ああ、あれね」と合点がいくことでしょう。

ちきり清水商店(静岡県焼津市)は鰹節卸の大手老舗です。

弁慶橋  【RIZAP COOK】

弁慶橋は、伝二郎が首くくりを助ける現場です。

六代目三遊亭円生の速記では、こんなふうになっています。

……赤坂の田町たまちへまいりました。一日駕籠に乗っているので腰が痛くてたまらないから、もう歩いたところでいくらもないからというので、駕籠は帰してしまいます。食違い、弁慶橋を渡りましてやってくる。あそこは首くくりの本場といいまして……そんなものに本場というのもないが、あそこはたいそう首くくりが多かったという……

弁慶橋は江戸に三か所ありました。

もっとも有名なのが、千代田区岩本町2丁目にかかっていた橋。

設計した棟梁、弁慶小左衛門の名を取ったものです。

藍染川あいぞめがわに架かり、複雑なその水路に合わせて、橋の途中から向かって右に折れ、その先からまた前方に進む、卍の片方のような妙な架け方でした。

これを「トランク状」とする記述もあります。

「トランク状」とは、直角の狭いカーブが二つ交互につながっている道路形状のもので、日本語にすれば「枡形道路」となります。

この弁慶橋は神田ですから、円生の言う赤坂の弁慶橋(千代田区紀尾井町1丁目)とは方向が違うわけです。

「赤坂の」といってしまえば港区となりますが、ここは港区と千代田区の境となっているのです。住所でいえば「千代田区紀尾井町1丁目」となるんですね。

ではなぜ、円生は、弁慶橋を「神田の」ではなくて「赤坂の」として語ったのでしょうか。

おそらくは、ちきり伊勢屋が麹町5丁目にあることから、伝二郎の地理的感覚からうかがえば、神田よりも赤坂の方に現実味を感じたからなのではないでしょうか。

円生なりの筋作りの深い洞察かと思われます。

本あらすじでは円生の口演速記に従ったため、「弁慶橋」を赤坂の橋として記しました。

千代田区の文化財」(千代田区立日比谷図書文化館の文化財事務室)には、赤坂の弁慶橋について、以下のような記述があります。

この橋は、神田の鍛冶町から岩本町付近を流れていた愛染川にあった同名の橋の廃材を用いて1889年(明治22年)に新たに架けたものです。名称は、橋を建造した弁慶小左衛門の名に由来します。この橋に取り付けられていた青銅製の擬宝珠は、『新撰東京名所図会』によれば、筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋から集めたものでした。当時は和風の美しい橋であったため、弁慶濠沿いの桜とともに明治・大正期の東京の名所として親しまれ、絵葉書や版画の題材にもなりました。とりわけ清水谷の桜は美しく、『新撰東京名所図会』には、“爛漫の桜花を見ることができ、橋を渡るとまるで絵の中に入ったようだ”と周辺の美しさが記されています。また、橋の上からは周辺を通行する人々や車馬、付近に建っていた北白川宮邸・閑院宮邸などが見えたそうです。明治以来の橋は1927年(昭和2年)に架け替えられ、さらに1985年(昭和60年)にコンクリート橋に架け替えられました。緩やかなアーチの木橋風の橋で、擬宝珠や高欄など細部に当初の橋の意匠を継承しています。

これを信じれば、江戸時代にはこの場所には弁慶橋はなかったわけですから、円生の創作だということは明白となります。

ちなみに、川瀬巴水(川瀬文治郎、1883-1957)の作品に「赤坂弁慶橋」があります。昭和6年(1931)の頃の、のどかな風情です。

川瀬巴水「赤坂弁慶橋」

食い違い  【RIZAP COOK】

赤坂の「食い違い」は「喰違御門くいちがいごもん」のことで、現在の千代田区紀尾井町、上智大学の校舎の裏側にありました。

その門前に架かっていたのが「食い違い土橋」。石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれていたのでその名がありました。

大久保利通が、明治10年(1877)5月14日に惨殺されていますが、正確な場所は紀尾井町清水谷です。

それでも、後世、この事件を「紀尾井坂事件」とか「紀尾井坂の変」とか呼んでいるのは、よほど「紀尾井坂」という名称が人々の興味を引いたのでしょう。

江戸時代には、紀州徳川家の中屋敷、尾張徳川家の中屋敷、彦根井伊家の中屋敷が並んでいた武家町だったことから、各家から1字ずつとって町名としたわけです。

小岩井農場、大田区、国立市、小美玉市、東御市など、日本人好みの命名法なんですね、きっと。

ここは、千代田区としては、東部に平河町、南部に永田町、北部に麹町が、それぞれ接しています。

ホテルニューオータニの向かい側には清水谷公園があります。

都内を練り歩くデモの出発地点でもあり、集会場所としても名所です。

池泉もありますが、40年ほど前までは崖斜面からは湧水が出ていたもので、まさに「清水谷」でした。

さて。

円生が参考にした禽語楼小さんの速記は、明治27年(1894)1月『百花園』です。

これによれば、以下の通り。適宜読みやすく直してあります。

まるでお医者さまを見たようでござります。かくすること七月下旬から八月、九月と来ました。あるときのこと、施しをいたしていづくからの帰りがけか、ただいま食い違いへかかってまいりました。その頃から食い違いは大変な首くくりのあったところで、伝二郎すかして見ると、しかも首をくくるようす。

伝次郎が親子の首くくりに出会わすシーンです。

「食い違い」とありますが、「弁慶橋」とはありません。

小さんがこの噺を語った頃に、食い違いには弁慶橋が掛かってはありましたが、なにせこの噺は江戸時代が舞台ですから、食い違いに弁慶橋を出すわけにはいかなかったのです。

出してしまったら、客からブーイングが飛んだことでしょう。

円生の時代には、その感覚がまったくなくなっているわけですから、食い違いに「弁慶橋」の名を出してしまっても、文句を言う人もいなかったのですね。

札ノ辻  【RIZAP COOK】

港区芝5丁目の三田通りに面した角地で、天和2年(1682)まで高札場があったことからこの名がつきました。

江戸には大高札場が、日本橋南詰、常盤橋門外、筋違橋門内、浅草橋門内、麹町半蔵門外、芝車町札ノ辻、以上6か所にありました。

高札場  【RIZAP COOK】

慶長11年(1606)に「永楽銭通用停止」の高札が日本橋に掲げられたのが第一号でした。

高札の内容は、日常生活にからむ重要事項や重大ニュースが掲示されていたわけではありませんでした。

忠孝の奨励、毒薬売買の禁止、切支丹宗門の禁止、伝馬てんま賃銭の定めなどが主でした。その最も重要な掲示場所は日本橋南詰みなみづめでした。

西側に大高札場だいこうさつばがあり、東側にさらし場がありました。

歌川広重「東海道五拾三次 日本橋朝之景」 赤丸部分のあたりが高札場。南詰の西側になりますね

麹町  【RIZAP COOK】

喜多川歌麿きたがわうたまろ(北川信美、1753-1806)の春画本『艶本えんぽん とこの梅』の第1図には、以下のようなセリフが記されています。

男「こうして二三てふとぼして、また横にいて四五てふ本当に寝て五六てふ茶臼で六七てふ 麹町のお祭りじゃやァねへが、廿てふくれへは続きそうなものだ」

女「まためったには逢われねえから、腰の続くだけとぼしておきな」

男「お屋敷ものの汁だくさんな料理を食べつけちゃ、からっしゃぎな傾城のぼぼはどうもうま味がねえ」

※表記は読みやすく適宜直しました。

女は年増の奥女中、男は奥女中の間男という関係のようです。

奥女中がなにかの代参で出かけた折を見て男とのうたかたの逢瀬を、という場面。

男が「麹町のお祭りじゃねえが」と言いながら何回も交合を楽しめる喜びを表現しています。

麹町のお祭りとは日枝神社ひえじんじゃの大祭のこと。

麹町は1丁目から13町目までありました。

こんなに多いのも珍しい町で、江戸の人々は回数の多さをいつも麹町を引き合いに表現していました。

この絵はそこを言っているわけです。

ちきり伊勢屋は麹町5丁目とのことですが、切絵図を見ると、武家地の番町に対して、麹町は町家地だったのですね。

食い違いからも目と鼻の先で、円生の演出は理にかなっています。

麹町は、半蔵門から1丁目がが始まって、四ッ谷御門の手前が10丁目。麹町11丁目から13丁目まではの三町は四ッ谷御門の外にありました。

寛政年間に外濠そとぼりの工事があって、その代地をもらったからといわれています。

麹町という町名は慶長年間に付けられたそうで、江戸では最も古い地名のひとつとされています。

喜多川歌麿『艶本 床の梅』第一図
ことばよみいみ
咎 とが
寿々葉羅井 すすはらい
輟耕録 てっこうろく
耳嚢 みみぶくろ
鎹 かすがいくさび
千木 ちぎ質店が用いる竿秤
喰違御門 くいちがいごもん

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評価 :3/3。

かんにんぶくろ【堪忍袋】落語演目



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【どんな?】

こんな便利な袋があったら。
世の中丸くおさまるんですがねぇ。

【あらすじ】

長屋に住む大工の熊五郎夫婦はけんかが絶えない。

今日も朝から、「出てけッ、蹴殺すぞ」と修羅場を展開中。

出入り先のだんなが用事で来あわせ、隣にようすを聞くと、今朝からもう四度目という。

見かねただんな、仲裁に入り、
「昔、唐土もろこしのある人が、腹が立つと家の大瓶にみんなぶちまけて蓋をすると、人前ではいつも笑い顔しか見せない。友達連中が何とかあいつを怒らしてみようと、料亭に呼んで辱めたが、ニコニコしているだけ。そのうち中座して帰宅し、例の通り瓶に鬱憤をぶちまける。友達連中、不審に思って男の家に行ってみると、逆に厚くもてなされたので、それから、あれは偉い人間だと評判になり、出世をして、しまいには大金持ちになった。笑う角には福来るというが、おまえたちもそうのべつけんかばかりしていては福も逃げるから、その唐土のまねをしてごらん」
と、さとす。

瓶の代わりに、おかみさんが袋を一つ縫って、それを堪忍袋とし、ひもが堪忍袋の緒。

お互いに不満を袋にどなり込んで、ひもをしっかりしめておき、夫婦円満を図れと知恵を授ける。

熊公、なるほどと感心して、さっそく、かみさんに袋を縫わせた。

まず、熊が
「亭主を亭主と思わないスベタアマーッ」
と、どなり込む。

続いて、かみさんが
「この助平野郎ゥーッ」

亭主「この大福アマッ」
かみ「しみったれ野郎ッ」

隣で将棋をさしている連中、さすがにうんざりして、代表がしぶしぶ止めに来るが、熊がケロっとしているので面食らう。

事情を聞くと、ぜひ貸してくれと頼み、こちらも袋に向かって
「やい、このアマッ、亭主をなんだと思ってやがるんだッ」

これが大評判になり、来るわ、来るわ。

おかげで、袋は長屋中のけんかでパンク寸前。

明日は、海にでも捨ててくるしかない。

また、誰かが来ると困るから戸締まりをして寝たとたん、酔っぱらった六さんが表をドンドン。

開けないと、雨戸の節穴から小便をたれると脅かす。

しかたがないので中に入れると、
「仕事の後輩が若いのに生意気で、オレの仕事にケチをつけやがるから、ポカポカ殴ったら、みんなオレばかりを止めるので、こっちは殴られ放題、がまんがならねえから、どうでも堪忍袋にぶちまけさせろ」
と、聞かない。

「もう満杯だから、明日中身を捨てるまで待ってくれ」
と言っても、承知しない。

「こっちィ貸せ」
とひったくると、袋の紐をぐっと引っ張ったから、中からけんかがいっぺんに
「パッパッパッ、この野郎ッ、こんちくしょう、ちくしょう、この野郎ーッ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

作者は三井の放蕩息子 【RIZAP COOK】

益田太郎冠者(益田太郎、1875-1953)の作。益田孝(1848-1938、鈍翁)の次男です。

益田孝は三井財閥の大番頭。三井物産や中外商業新報(日本経済新聞)などの創始者で、三井合名会社の理事長でした。

太郎冠者はその息子ですから、これはもう筋金入りの道楽息子です。本名の太郎を太郎冠者と呼ばせるのですから、あきれます。

ところが、才能は垂れ流されて、大正初期には帝劇のオペレッタを多数制作したりして、「コロッケの唄」などのヒット曲などで、またたく時代の寵児となりました。

落語界に対しては、明治末から大正初期にかけて、第一次落語研究会のために新作落語を多数創作しています。

この噺もその一つで、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)の十八番だった「かんしゃく」同様、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)のために書き下ろされたものです。

詳しくは「松竹梅」「粗忽の釘」「反対車」をお読みください。

落語も含め芸能や演芸という、まるで生産活動と無関係の世界が、このような大富豪の道楽息子の、ときに偏頗なときに病的な趣味に支えられてきた側面があることは、見逃せません。

堪忍袋 【RIZAP COOK】

ギリシア神話の「ミダス王の耳はロバの耳」を下敷きにしているふしもあります。

「堪忍五両思案は十両」
「堪忍五両負けて三両」
など、江戸時代には、「堪忍」は単なる処世術、道徳というより、功利的な意味合いで使われることが多かったようです。

オチの工夫 【RIZAP COOK】

ここでのあらすじ、オチは、五代目柳家小さんのものをもとにしています。

オリジナルの原作では、袋が破れたとたんに亭主が酔っ払いを張り倒し、「なにをするんだ」「堪忍袋の緒が切れた」と落としていたといいますが、古い速記はなく、現在は、このやり方は行われません。

やはりこの噺を得意にしていた三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)は「中のけんかがガヤガヤガヤガヤ」としています。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は口喧嘩が過激で派手でしたが、「堪忍」の実例に「十八史略」などにある、韓信の股くぐりの故事、大坂城落城の木村重成や、講談の、忠臣蔵の神崎与五郎の逸話(あらすじでは省略)を出すなど、どの演者も大筋のやり方は同じです。

それにしても「カンニン」という言葉自体ももう死語になろうとしていますね。

いっそ「八つ当たり袋」「ブチ切れ袋」などと改題した方が、わかりやすいかもしれません。

【RIZAP COOK】



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なかざわどうに【中沢道二】落語演目 

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【どんな?】

全編これ心学しんがく。今はすたれたべたべたのご教訓も落語で聴いてみると味わいあります。

あらすじ

江戸名物に「火事とけんかとちゅうぱら」とあるぐらい、江戸の職人は短気で、縁日などで足を踏んだ踏まれたで始終けんかばかりしている。

これを伝え聞き、少しは気を和らげてやりたいと、中沢道二という心学の先生が、はるばると京から下向してきた。

中橋なかばし寒菊かんぎくという貸席かしせきを道場に借り、「木戸銭、中銭、一切なし」というビラをまいたので、物見高い江戸者のこと、なかには、京都の田楽屋でんがくやが開店祝いにタダで食わせると勘違いする輩もいて、我も我もと押しかける。

下足番の爺さんに
「おまえさんとこの田楽はうまいかい?」
と早くも舌なめずり。

「手前どもの先生は、田楽じゃござんせん。心学でござんす」
「へえ、おい、田楽は売り切れちまって、しぎ焼きになっちまったとよ」

なんでも食えれば、後はそば屋で口直ししようと、二階へ通る。

当然、なにも食わせない。

高座へ上がってきた、頭がピカピカ光って十徳を着込んだ道二先生、ていねいにおじぎをして講義にとりかかる。

金平糖こんぺいとうの壺へ手を突っ込んで抜けなくなり、高価な壺だがしかたがないと割ってみたら、金平糖を手にいっぱい握っていたという話や、手と足が喧嘩して足がぶたれ、
「覚えてろよ。今度湯ィ入ったら、てめえに洗わせる」
という、落とし噺などで雰囲気を和らげ、本来の儒教の道徳を説こうとするが、おもしろくもなんともないので、みんな腹ぺこのまま、ぶうぶう言って帰ってしまう。

一人残された道二先生、
「どうしてこうも江戸っ子は気が短いのか」
と嘆いていると、客席にたった一人もじもじしながら残っている職人がいた。

先生喜んで
「あなたさま、年がお若いのに恐れ入りました。未熟なる私の心学が、おわかりですか」
「てやんでえ、しびれが切れて立てねえんだい」

【RIZAP COOK】

しりたい

中沢道二  【RIZAP COOK】

なかざわどうに。享保10年(1725)-享和3年(1803)、江戸中期、後期に活躍した人です。京都、西陣織元の家の出身。

40歳頃に手島堵庵てじまとあんに師事し、石門心学せきもんしんがくを修め、安永8年(1779)、江戸にくだって日本橋塩町に「参前舎さんぜんしゃ」という心学道場を開き、その普及に努めました。

手島は石門心学の祖、石田梅岩いしだばいがんの弟子です。ということは、中沢は石田梅岩の孫弟子。

のちに老中松平定信まつだいらさだのぶの後援を受け、全国に道場を建設、わかりやすい表現で天地の自然の理を説きました。

心学については「天災」のその項をお読みください。

実話を基に創作  【RIZAP COOK】

この噺は中沢道二の逸話を基に作ったとみられます。

本来は短いマクラ噺で、ここから「二十四孝」や「天災」につなげることが多くなっています。一席にして演じたのは八代目林家正蔵(彦六)くらいでしょう。

【語の読みと注】
中っ腹 ちゅうっぱら:むかむか。いらいら
鴫焼き しぎやき:ナスのみそ田楽の別名

【RIZAP COOK】

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