あさとも【朝友】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

仏教説話が原初の魂の入れ替わりが素材。
「伊勢や日向の物語」も味付けに。

別題:朝友ともふさ 冥土の雪

【あらすじ】

病気で、この世とおさらばした男。

気づいてみると、なんだか暗いところに来ていて、今どこにいるのやらさっぱりわからない。

うろうろしていると、ふいに女に話しかけられてびっくり。

よく顔を見ると、これが稽古所でなじみのお里という女。小日向水道町松月堂の娘だ。

再会を喜び合ううちに
「死んでしまった今となってはどこに行くあてもないから、お手伝いでもよいからあなたのそばに置いてください」
と、女が言う。

男は、高利貸しを営む日本橋伊勢町の文屋検校ぶんやけんぎょうという者の息子。

いっそ地獄に行って、親父の借金を踏み倒したままあの世へ逃げた奴らから取り立て、そのまま貸付所の地獄支店を開設してボロもうけ、という太い料簡になり、そのまま渡りに船と夫婦約束。

ついでに、意気揚々と三途さんずの川も渡ってしまった。

ところが、地獄では閻魔えんま大王がお里に一目ぼれ。

生塚しょうづかの婆さんに預け、因果を含めて自分の愛人にしようという魂胆。

亭主は死なしておいてはじゃまだから、赤鬼と青鬼に命じて、ぶち生かそうとする。

そこはさすがに金貸しの息子。

親父が棺に入れておいてくれた、娑婆しゃばのコゲつき証文で鬼を買収し、脱走に成功。

たどりついた三途の川のほとり。

生塚の婆さんの家では、毎日毎日、あわれ、お里が婆さんに責めさいなまされている。

「おまえ、いったい強情な子じゃないか。あの野郎はもう、赤と青が、針の山の裏道でぶち生かしちまったころだよ。あんな不実な奴に操を立てないで、大王さまのモノになれば、栄耀栄華えいようえいがは望み次第。玉の輿こしじゃないか。ウーン、まだイヤだとぬかすか。それじゃあ、手ひどいこともせにゃならぬ」

婆さん、お里の襟髪取って庭に引き出し、松の根方にくくりつけた。

折しも、降りしきる雪。

極楽の鐘の音がゴーン。

男が難なく塀を乗り越え
「お里さん」
「そういう声は康次郎さん」

急いで縄を切り、二人手に手を取って逃げだした。

そのとたん、娑婆しゃばでは「ウーン」とお里が棺の中で息を吹き返す。

それ、医者だ、薬だ、と大騒ぎ。

生き返ったお里の話を聞いて、急いで先方に問い合わすと、向こうも同じ騒ぎ。

来あわせた坊さんが
「幽霊同士の約束とはおもしろい。昔、日向ひゅうが松月朝友まつづきともふさという方が、やはり死んで生き返ってみると、姿は文屋康秀ふんやのやすひで。それが伊勢に帰ると言って消えたという話があるが、こちらが小日向こびなた松月堂しょうげつどう、向こうが伊勢町の文屋検校ぶんやけんぎょう。康秀と康次郎。語呂が合うのは縁ある証拠。早く二人を夫婦にしなさい」
「でも和尚さん、向こうの都合もあります」
「いや、幽霊同士、しかも金貸し。アシは出すまい」

出典:四代目橘家円喬『百花園』13巻124号 明治27年6月20日

【しりたい】

文屋氏の読み方

平安時代前期の歌人で六歌仙の一、文屋康秀(?-885?)。小倉百人一首でも知られています。

吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ  小倉百人一首22番

文屋ふんや氏は文室ふんや氏のこと。八色やくさかばねの第一位である真人まひとを天武天皇から賜った一族です。

文屋の読みは「ふみや」→「ふんや」と訛ったようです。江戸時代には「ぶんや」と読む人も出てきました。元のいわれがわからなくなったからなのでしょう。われわれ現代人と同じです。

この一族、スタートは官人=文人だったのでしょうが、地方に赴任するごとに武人の要素が濃くなっていきます。

寛平の韓寇(893-4)で活躍した文屋善友、刀伊の入寇(1019)で活躍した文室忠光などは同族だったといわれます。歴史学で使う「軍事貴族」に類する人々。武芸を好む貴族ですね。

文屋康秀は官人で歌人でしたが、これは平安初期だからで、その後の文屋氏=文室氏からは武人が多く輩出しているのです。

どちらにしても、「文屋」は「ふんや」と呼ばれていました。「ぶんや」ではありません。小倉百人一首の文屋康秀を「ぶんややすひで」と読む人はいません。

ただし、文屋康秀がいったいどんな人物だったのかは、よくわかっていません。現在では、小野小町や猿丸大夫といった伝説的な歌人としてとらえられているだけです。

噺のなりたち

文屋康秀を題材とする民間伝承に加えて、「日本霊異記」(景戒、822年頃)や「今昔物語集」(作者不詳、1120年頃)に多く見られる死人が蘇生して地獄のさまを語る仏教説話が結びついて原型ができたと思われます。

二書とも唐の「冥報記」(唐臨選、7世紀半ば)の影響を強く受けた説話集です。「朝友」の原型となる話は「冥報記」にも載っているそうです。

江戸時代の笑話としては、明和5年(1768)刊の『軽口はるの山』中の「西寺町の幽霊」、天明3年(1783)年刊『軽口夜明烏』中巻「死んでも盗人」が原話とされます。

前者では、幽霊がゴーストバスターに墓穴を埋められて戻れなくなり、消えることもできずに「ああ、もはやおれが命もこれぎりじゃ」と嘆くオチ、後者は盗人が地獄の番人になぐられて、「当たり所が悪くて」蘇ってしまうお笑いで、この噺の後半の、二人が蘇生するくだりの原型としては後者がやや近いでしょう。

と、これはこれでつじつまは合っているのですが、文屋康秀が出てこないのが気がかりです。

そこで、『和漢三才図会』(寺島良安編著、1712年)。江戸時代の百科事典です。寺島は大坂の医師で、『三才図会』(明・王圻、1609年)に倣った大巻でした。三才とは天、地、人をさし、万物を意味します。なんでも、という意味ですね。この中の第71巻地理部「伊勢」の項目に「伊勢国安濃郡内田村天台宗長源寺の縁起」として載っています。

ここらへんは、二村文人氏の論考に従って、私も現物を確認していったまでのお話です。
長源寺の縁起譚は「雲林院」「西鶴名残の友」「国姓爺後日合戦」「たとへづくし」などにも使われているそうですから、寺島はそのような人口に膾炙された話を『和漢三才図会』にすくい取ったのでしょう。

「伊勢物語知顕抄」(和歌知顕抄とも、鎌倉期成立)は「伊勢物語」の注釈書ですが、ここには、伊勢の文屋吉員と日向の佐伯経基の話で使われています。

ここで文屋がやっと出てきました。

宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、これらの結果を咀嚼して、『和漢三才図会』を骨子としたうえで、「知顕抄」の説話を加味してこさえてのが「朝友」なのではないかと推測しています。

さらに。

二村氏によれば、文化12年(1829)刊の読本「伊勢日向 寄生木草紙」(栗杖鬼卵作)が、足利尊氏のお家騒動に「伊勢や日向の物語」のモチーフを取り込んでいるのだそうです。私は未見です。

この読本は、作者が「朝友」をつくるうえで参考にしたのかもしれません。

文屋吉員も佐伯経基も江戸の人にはピンときませんから、百人一首で名が知られた文屋康秀にして、親近感を与えようとしたのかと思います。

話のこさえ方そのものが「伊勢や日向」なんですね。

歌舞伎では、「伊勢日向物語」(大坂新四郎座、1730年)や「伊勢や日向の物語」(大坂中山文七座、1759年)などが上演されているそうです。

すべてに共通するのは、抜け殻の肉体に魂が入れ替わることで蘇生する、というモチーフです。

そんなところではないでしょうか。

お里が生塚の婆さんに雪責めにされるところは、新内の「明烏夢淡雪」(「明烏」参照)中の遊女浦里雪責めの場面を採ったものです。

魂が肉体から抜け出てなにやらの所作をする噺には「悋気の火の玉」があります。魂は登場しませんが、「粗忽長屋」もこの種の仲間に入れてよいでしょう。この噺は近代的な洗練を感じます。

上方噺には「魂の入れ替え」があります。

宇井無愁は「魂の入れ替え」と「朝友」を『落語のみなもと』(中公新書、1983年)で同列に論じています。たしかに同工の噺です。「魂の入れ替え」は柳家一琴師がやっています。

松月朝友

詳細は不詳です。

あらすじの参考にした四代目橘家円喬の明治27年(1894)の速記では、「ともふさ」とルビが振ってあります。

ただ、おもしろいことに、江戸期を通して、小日向には伊勢屋という質屋で財を成した大金持ちが住んでいました。土地持ちです。

小日向の伊勢屋。

うまく使えばよかったのかもしれませんが。

でも、「朝友」の作者はどうも、日向と伊勢が遠く離れていることに眼目を置きたかったようですから、小日向と日本橋伊勢町という、このくらいの距離感が欲しかったのでしょう。まあ、しょうがない。

高利貸し

民間では座頭金といいます。

盲人の位階で最下位の座頭が、溜め込んだ小金を元手に貸金業を営むことはよくありましたが、これが最高位の検校ともなれば、大名貸しで巨富を築くものも少なくありませんでした。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)作「真景累ヶ淵」の発端で、旗本・深見新左衛門の屋敷に、貸金の取り立てに行って斬殺される按摩の皆川宗悦も、この座頭金を営み、その金利は5両に1分で返済期限4月という、とんでもない高利でした。

生塚の婆さん

脱衣婆だつえばのこと。地獄の入り口、三途の川の岸辺で無一文の亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹えりょうじゅという木の上にいる懸衣翁けんえおう(奪衣婆の隣に座っている老人の鬼爺)に渡すのが仕事の鬼婆です。通行料の六文銭があれば、そのまま渡れます。

「生塚」は「正塚」とも書きますが、「三途河」がなまったものです。

水木しげるの怪奇漫画では常連ですね。

落語でも、「地獄八景」「死ぬなら今」など、地獄を舞台にした噺にはたいてい登場します。

「朝友」では本来の悪役ですが、ほとんどは、どちらかというと、コミカルな情報通の茶屋の婆さんという扱われ方です。

「朝友」のこの婆さんのモデルは、前述した「明烏夢淡雪」で、遊女浦里を雪中、割り竹でサディスティックに責めさいなむ、吉原・山名屋のやり手のおかやばばあです。

完全に絶えた噺、と思いきや

明治の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)以後、ほとんどやり手がなかったようです。

昭和になって、『名作落語全集』(騒人社、1929年)中に四代目円喬の速記が復刻されて以来、この噺は何度か活字化されています。でも、すべての活字はソースが円喬のものです。

四代目円喬以前も以後も、現在にいたるまで、音源も含めて、他の演者の記録はありませんでした。

地獄を脱出するサスペンスなど、なかなか捨てがたいので、どなたかがテキストレジーの上、復活してくれるとおもしろいのですがね。

と言っているうちに、時代はめぐりまして。

ところがなんとまあ、いまでは、桃月庵白酒柳家三之助柳亭左龍鈴々舎馬桜などがやっています。いやあ、これまたびっくり。至福の時代です。

文屋と朝友

円喬の速記によると、伊勢国(三重県)の文屋康秀が死んで地獄へ行き、まだ寿命が尽きていないからと帰されますが、すでに死骸は火葬にされ、戻るべき肉体がないことが判明。

困った閻魔の庁では、文屋と同日同時刻に死んだ日向国(宮崎県)の松月朝友の体を借りて文屋の魂を蘇生させますが、家族が蘇った朝友を見ると、その姿は文屋に変わっていて、伊勢に帰ると言って、いずこへともなく姿を消したという、奇妙キテレツな死人蘇生譚です。

円喬は、坊主に「この話は戯作(江戸の通俗読物)で読んだ」と語らせていますが、このタネ本については未詳です。

実在の文屋康秀はほとんど伝記も不明。

わずかに、三河掾みかわのじょう(三河国の地方官の三席)となって赴任するときに、小野小町に恋歌を贈った逸話が知られているだけで、なぜ伊勢と結びついたのかもはっきりしません。

伊勢や日向

この噺は、「伊勢や日向」という俗諺(ことわざ)が下敷きになっています。

『岩波古語辞典 補訂版』には「伊勢」の項目に、「伊勢や日向」が説明されています。

物事の内容が食いちがって、まちがっていること。「伊勢や日向の物語」とも。

引用例は以下の通り。

げにげに、伊勢や日向のことは、たれかとさだめるべき  謡・雲林院

謡曲からとられているわけで、「伊勢や日向」は中世の戦乱期に生まれた俗諺なのでしょう。人の死が日常的にあった時代での、人々の切なる願いがこのような噺に姿を変えたのではないかと思います。

とはいえ、今では聴いたことも使ったこともないことわざですが、話のつじつまが合わないこと、物事の順序がよくわからないことのたとえで使われていたようです。

魂の入れ替え噺が伊勢町のせがれと小日向の娘との間で繰り広げられるのは、このことわざの落語らしい「本歌取り」です。

【参考文献】宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)、二村文人「落語と俗伝」(「國語と國文学」東京大学国語国文学会、1985年11月特集号)、関山和夫『説教の歴史的研究』(法蔵館 1973年)

【おことわり】「朝友」はなんと読むべきなのか。「あさとも」「ともふさ」と両方の読み方があるようです。本サイトが底本にしている『明治大正落語集成』(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編、講談社、1980年)では、当該頁(第3巻108頁下段)に、題名「朝友」のルビで「あさとも」と振られてあります。そうなのか、と思って噺を読んでいくと、本文の終わりに「松月朝友」の名が登場し、ルビは「まつゞきともふさ」とありました。表記の不統一でです。現代では許されません。厳密さに欠ける明治期らしい表記にあきれるべきなのか、そのおおらかさにほほえむべきなのか、はたまた、われわれのうかがい知れないところからの底意を汲みとるべきなのか。疑問は千々に乱れます。不勉強なわれわれのこと、この手の追究は遅々として進みません。いつの日かわれわれが腑に落ちるまでは、「朝友」の読み方を「あさとも」「ともふさ」と併記しておくことにします。ちなみに、「とも」は「ふたつがいっしょになる状態」、「ふさ」は「いくつかが集まる状態」が、古語としての解釈です。噺の真意をどこか暗示しているようです。ということは、おそらく「ともふさ→あさとも」と変遷していったのかなと、仮説も立てられます。この噺が流布されて以来百余年、「あさとも」の読みも通行していたわけですから、これを一方的に否定するのはいかがなものかと思うのです。

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評価 :2/3。

こがねもち【黄金餅】落語演目

五代目古今亭志ん生

 

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【どんな?】

円朝作。
逝った西念を弔う。
下谷から麻布。
焼き場は桐ヶ谷で。
金兵衛の執念が笑いを誘う。

あらすじ

下谷山崎町の裏長屋に住む、金山寺味噌売りの金兵衛。

このところ、隣の願人坊主西念の具合がよくないので、毎日、なにくれとなく世話を焼いている。

西念は身寄りもない老人だが、相当の小金をため込んでいるという噂だ。

だが、一文でも出すなら死んだ方がましというありさまで、医者にも行かず薬も買わない。

ある日、
「あんころ餠が食べたい」
と西念が言うので、買ってきてやると、
「一人で食べたいから帰ってくれ」
と言う。

代金を出したのは金兵衛なので、むかっ腹が立つのを抑えて、「どんなことをしやがるのか」と壁の穴から隣をこっそりのぞくと、西念、何と一つ一つ餡を取り、餠の中に汚い胴巻きから出した、小粒で合わせて六、七十両程の金をありたけ包むと、そいつを残らず食ってしまう。

そのうち、急に苦しみ出し、そのまま、あえなく昇天。

「こいつ、金に気が残って死に切れないので地獄まで持って行きやがった」
と舌打ちした金兵衛。

「待てよ、まだ金はこの世にある。腹ん中だ。何とか引っ張りだしてそっくり俺が」
と欲心を起こし、
「そうだ、焼き場でこんがり焼けたところをゴボウ抜きに取ろう」
とうまいことを考えつく。

長屋の連中をかり集めて、にわか弔いを仕立てた金兵衛。

「西念には身寄りがないので自分の寺に葬ってやるから」
と言いつくろい、その夜のうちに十人ほどで早桶に見立てた菜漬けの樽を担いで、麻布絶口釜無村のボロ寺・木蓮寺までやってくる。

そこの和尚は金兵衛と懇意だが、ぐうたらで、今夜もへべれけになっている。

百か日仕切りまで天保銭五枚で手を打って、和尚は怪しげなお経をあげる。

「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」

なにを言ってるんだか、わからない。

金兵衛は長屋の衆を体よく追い払い、寺の台所にあった鰺切り包丁の錆びたのを腰に差し、桐ケ谷の焼き場まで早桶を背負ってやってきた。

火葬人に
「ホトケの遺言だからナマ焼けにしてくれ」
と妙な注文。

朝方焼け終わると、用意の鰺切りで腹のあたりりをグサグサ。

案の定、山吹色のがバラバラと出たから、「しめた」とばかり、残らずたもとに入れ、さっさと逃げ出す。

「おい、コツはどうする」
「犬にやっちめえ」
「焼き賃置いてけ」
「焼き賃もクソもあるか。ドロボー!」

この金で目黒に所帯を持ち、餠屋を開き繁盛したという「悪銭身につく」お話。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

不思議な黄金餅  【RIZAP COOK】

下谷山崎町は江戸有数のスラム。当時は三大貧民窟のひとつでした。現在の台東区東上野4丁目、首都高速1号線直下のあたりです。そこは底辺の人々が闇にうごめくといわれた場所でした。どれほどのものかは、いまではよくわかりませんが。

金をのみ込んでもだえ死ぬ西念は願人坊主という職業の人。僧形なんですが、身分は物ごい。七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)の演出では、長屋の月番は猫の皮むきに犬殺しのコンビ。

そんな連中が、深夜、西念の屍骸を担ぎ、富裕な支配階級の寝静まる大通りを堂々と押し通るわけ。目指すは、架空の荒れ寺・木蓮寺。港区南麻布2丁目辺でしょうか。

付近には麻布絶口の名の起こり、円覚禅師絶江が開いたといわれる曹渓寺があります。

しかし、一行を待つのは怪しげな経を読むのんだくれ和尚、隠亡おんぼうと呼ばれた死体焼却人。

加えて、死骸を生焼けにして小粒金を抉り出す凄惨なはずの描写。

それでいて薄情にも爆笑してしまうのは、彼らのしたたかな負のエネルギー、なまじの偽善的な差別批判など屁で吹っ飛ばす強靭さに、かえって奇怪な開放感を覚えるためではないでしょうか。

いやいや、志ん生の話し方が理屈なんかすっ飛ばしてただおかしいから、笑っちゃうのですね。金は天下の回り物だわえ、てか。

ついでに、志ん生の道行きの言い立てを。

わァわァわァわァいいながら、下谷の山崎町を出まして、あれから、上野の山下ィ出まして、三枚橋から広小路ィ出まして、御成街道から五軒町ィ出まして、その頃、堀さまと鳥居さまというお屋敷の前をまっすぐに、筋かい御門から大通りィ出て、神田の須田町ィ出まして、須田町から新石町、鍛冶町から今川橋から本銀町、石町から本町ィ出まして室町から、日本橋をわたりまして、通四丁目、中橋から、南伝馬町ィ出まして京橋をわたってまっつぐに、新橋を、ェェ、右に切れまして、土橋から、あたらし橋の通りをまっすぐに、愛宕下ィ出まして、天徳寺を抜けて神谷町から飯倉六丁目へ出た。坂を上がって飯倉片町、その頃おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして、十番へ出て、大黒坂を上がって、麻布絶口釜無村の木蓮寺ィ来たときには、ずいぶんみんなくたびれた……。そういうわたしもくたびれた。

ああ、写したあたしもくたびれた。

【RIZAP COOK】

もっとしりたい】

円朝作といわれる原型ではこの噺にはオチがない。噺にはオチのあるものとないものとがある。オチのある噺を落語といって、オチのないものは人情噺や怪談噺などと呼んでいるが、これはどっちだろう。そんなことは評論家のお仕事。楽しむほうにはどっちでもいい。

五代目古今亭志ん生のが有名だ。二男の志ん朝もやった。志ん朝没後まもく、春風亭小朝が国立劇場で演じてみせた。多少の脚色はうかがえたが、志ん生をなぞる域を出なかった。とても聴いちゃいられなかった。しらけた。

志ん生は、四代目橘家円喬のを踏襲している。舞台は幕末を想定していたという。全編に漂うすさんだ空気と開き直りの風情は、たしかに幕末かもしれない。

三遊亭円朝が演じたという速記は残っているが、これだと長屋は芝金杉あたりだ。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったらしい。芝金杉は芝新網町のあたり。円喬という人は落語は名人だったらしいが、人柄はよくなかったようだ。二代目円朝を継ぎたかったのは円喬と円右だったそうだが、名跡を預かる藤浦家のお眼鏡にはかなわなかった。藤浦(周吉)はよく見ていたようだ。だからか、円喬の「黄金餅」はその人柄をよくさらしていたように思える。凄惨で陰気で汚らしく。どうだろう。

金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを、われわれに伝えているのだが、志ん生の手にかかると、そんなことはどうでもよくなってしまう。山崎町はみんな貧乏だったんだから。円朝のだと、ホトケを芝金杉から麻布まで運ぶので違和感はない。距離にして2キロ程度。志ん生系の「黄金餅」では、下谷から麻布までの道行きを言い立てるのがウリのひとつになっている。これは13kmほどあるから、ホントに運んだらくたびれるだろう。桐ヶ谷は、浅草の橋場、高田の落合と並ぶ火葬場。「麻布の桐ヶ谷」と呼ばれた。火葬場は今もある。

下谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたり。上野の山(つまり寛永寺)の際にあるのでそんな地名になった。「山崎町=ビンボー」のイメージがあんまり強いので、明治5年(1872)に「万年町」に変わった。中身は変わらずじまいだったから、東京となってからは「万年町=ビンボー」にすりかわっただけ。明治大正の新聞雑誌には、万年町のすさんだありさまが描かれているものだ。

円朝は最晩年、病癒えることなくもう逝っちゃいそうな頃、万年町に住んだ。名を替えても貧乏の風景は変わらなかった。ここで死ぬにはいくらなんでも大円朝が、と、弟子や関係者が気を使って、近所の車坂町に引っ越させた。結局、円朝はそこで逝った。万年町とはそのようにはばかられるほどの町だった。

西念の職業は噺では「坊主」となっている。文脈から、これが願人坊主であることは明白だ。願人坊主とは、流しの無資格僧。依頼に応じて代参、代待ち、代垢離するのが本来の職務なのだが、家々を回っては物乞いをした。奇抜な衣装、珍奇な歌や踊りで人の耳目を傾けた。ときに卑猥な所作をも強調した。カッポレや住吉踊りは願人の発明だったらしい。多くは、神田橋本町、芝金杉、下谷山崎町などに住んでいた。

木蓮寺の和尚があげたあやしげなお経は、願人が口ずさむセリフのイメージなのだろう。麻布は江戸の僻地だ。神田、日本橋あたりの人は行きたがらない場所。絶口釜無村とは架空の地名だが、「口が絶える」とか「釜が無い」と貧しさを強調している。たしかに、絶江坂なる地名が今もある。ここらへんにいたとかいう和尚の名前だという。

好事家はこれを鬼の首を取ったかのように重視するが、だからといって、それらの地名が噺とどうかかわるかといえば、どうということもない。「黄金餅」について評論家諸氏は「陰惨を笑わせる」などと言っているが、そんなことよりも「全編、貧乏を笑わせている」噺であることが重要なのだと思う。金兵衛の親切めかした小狡さ、西念の渋ちんぶり、菜漬けの樽を早桶に見立てるさま、木蓮寺の和尚の破戒僧のなりふり、というふうに、この噺は貧乏とでたらめのオンパレード。この噺、そんなすさまじき貧乏すらも忘れて、志ん生の仕掛けたくすぐりで笑っちゃうだけ。それだけでいいのだろう。

(古木優)

【RIZAP COOK】



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こまちょう【駒長】落語演目

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【どんな?】

つつもたせを仕組んだ借金夫婦。
夫が出ているうち女は男に情が移り。
志ん生がやってた珍しい噺。
「お直し」と真逆に向かう物語です。

別題:美人局

【あらすじ】

借金で首が回らなくなった夫婦。

なかでも難物は、五十両という大金を借りている深川の丈八という男だ。

この男、実は昔、この家の女房、お駒が深川から女郎に出ていた時分、惚れて通いつめたが振られて、はては、今の亭主の長八にお駒をさらわれた、という因縁がある。

「ははあ、野郎、いまだに女房に未練があるので、掛け取りに名を借りて、始終通ってきやがるんだ」
と長八は頭にきて、
「それなら見てやがれ」
と渋るお駒を無理やりに説き伏せ、一芝居たくらむ。

丈八あての恋文をお駒に書かせ、それが発覚したことにして、丈八が来る時を見計らって、なれ合いの夫婦げんかをする。

あわてる丈八に、どさくさに二、三発食らわして、
「こんな女は、欲しいなら、てめえにくれてやる」
と、わざと家を飛び出す。

その間に、今度は本当にお駒を丈八に口説かせ、でれでれになった頃合いを見計らって踏み込む。

「不義の現場押さえた」
とばかり、出刃包丁で脅しつけ、逆に五十両をふんだくった上に裸にむいてたたき出すという、なかなか手の込んだもの。

序幕はまったく予定通り。

「こんな女ァ、てめえにくれてやるが、仲へ入った親分がいるんだから、このままじゃあ義理が立たねえ。これから相談してくるから、帰るまでそこォ動くな」

尻をまくって威勢よく飛び出した長八。

筋書きがうまくいって安心したのか、まぬけな奴もあるもので、親分宅で酒を飲みながら時間をつぶすうち、ぐっすりと夜明けまで寝込んでしまった。

第二幕。

こちらは長八の家。

丈八は上方者で名うての女たらし。差し向かいでじわじわ迫る。

「わいと逃げてくれれば、この着物も、これもあんたのもん」
とやられると、お駒も昔取った杵柄。

「つくづく貧乏暮らしが嫌になり、あんな亭主といては一生うだつが上がらない。この上は」
と、急きょ狂言を書き直し、長八が帰らないのを幸い、丈八といつしか一つ床に。

挙げ句の果てに、夜が明けぬうち、家財道具一切合切かき集め、手に手を取って、はいさようなら。

瓢箪から駒だ。

翌朝。

長八があわてふためいて家に駆け込んでみると、時すでに遅く、モヌケのカラ。

火鉢の上に、書き置き一通。

「ついには、うそがまことと、相なりそろう。おまえと一緒に暮らすなら、明くればみその百文買い、暮るれば油の五勺買い。朝から晩まで釜の前。そのくせ、ヤキモチ焼きのキザ野郎。意気地なりの助平野郎」

さらには
「丈八さんと手に手を取り、二世も三世も変わらぬ夫婦の楽しみを……」

「あのあまァ、どうするか見てやがれッ」
と出刃を持って飛びだすと、カラスが上で
「アホウ、アホウ」

底本:五代目古今亭志ん生、四代目橘家円喬

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【しりたい】

円朝作の不倫噺

原話は、明和5年(1768)刊の笑話本『軽口はるの山』巻四の「筒もたせ」とみられます。

この小咄はかなり短く、金に困った男が友達に、うまくすれば銀三百匁にはなるから「美人局」をやってみろとけしかけられます。

そこで、かみさんに因果を含めて近所の若い者を誘惑させ、いよいよ「間男見つけた」と戸棚から飛び出したものの、あわてて「筒もたせ、見つけた」と言ってしまうというおマヌケなお笑いです。

これをもとに、明治初年に三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が一席の落とし噺に仕立てたとみられますが、円朝自身の速記は残っていません。

代わりに、春陽堂版「円朝全集」(1929年刊)には、円朝の口演をもっとも忠実にコピーしたとされる門下の三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)の速記が掲載されました。

この噺の登場人物名は、すべて講談の大岡政談や浄瑠璃中の、白子屋お駒の情話から取ったものです。

お駒の実録などについては、「城木屋」をどうぞ。

三遊一朝

「教訓」としての円朝演出

一朝の速記を見ると、マクラで、うぬぼれが強く人間をばかにするカラスの性癖を引き合いに、「まして人間はうぬぼれが強うございまして、おれの女房はおれよりほかに男は知らない、どんなことをしてもおれのことは忘れまい、なぞと思っていると大違いでございます」と語っています。

男の思い上がりを、円朝がこの噺を教訓として戒めているのがうかがわれます。

なるほど、これがあって初めて、オチのカラスの「アホウ、アホウ」が皮肉として効いてくるわけです。

古い速記では、「美人局」と題した四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)のもの(明治28年=1895年)も残っています。

円喬は上方ことばを自在に操れた人なので、活字だけを追っても、大阪弁の丈八の口説きに、いかにもねっとりとした色気が感じられます。

つつもたせ

「美人局」と書きます。博打から出た言葉といわれます。

筒持たせ、つまり博打の胴を取るように情夫がしっかり状況をコントロールしている意味でしょう。

それとも、もう少しエロチックな意味があるのかもしれません。

「美人局」の表記は、中国で元代のころに遡るといいます。

井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)なども使っているので、上方ではかなり古くから使われた言葉なのでしょう。

明くれば味噌の百文買い

芝居がかった、女房の置手紙の文句ですが、食うや食わずの貧乏暮らしを象徴する言い回しです。

河竹黙阿弥(吉村芳三郎、1816-93)の芝居「御所五郎蔵」でも、敵役星影土右衛門の子分が主人公を辱めて「こなたと一生連れ添えば(中略)米は百買い酒は一合」と、似たような表現で罵倒します。

「味噌こし下げて歩く」も同意です。

志ん生の独壇場

先の大戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が一手専売で、ほかに演じ手はありませんでした。

おそらく、敬愛する四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記などから独力で覚えたものでしょう。志ん生の次男、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)が継承していました。

志ん生は、この噺の欠点である構成の不備や不自然さを卓抜なくすぐりで補い、不倫噺を、荒唐無稽の爆笑編に転化することで、後味の悪さを消す工夫をしています。

当サイトのあらすじは、主に志ん生の速記・音源を参考にしましたが、オチ近くの女房の置き手紙などは、円喬のをそっくり取り入れています。

【語の読みと注】
美人局 つつもたせ

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