のざらし【野ざらし】落語演目



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【どんな?】

釣りの帰途、川べりに髑髏。
手向けの酒で回向を。
宵になれば。
お礼参りの幽霊としっぽりと。

別題:手向けの酒 骨釣り(上方)

あらすじ

頃は明治の初め。

長屋が根継ねつぎ(改修工事)をする。

三十八軒あったうち、三十六軒までは引っ越してしまった。

残ったのは職人の八五郎と、もと侍で釣り道楽の尾形清十郎の二人だけ。

昨夜、隣で
「一人では物騒だったろう」
などと、清十郎の声がしたので、てっきり女ができたと合点した八五郎、
「おまえさん、釣りじゃなくていい女のところへ行くんでしょう?」
とカマをかけると
「いや、面目ない。こういうわけだ」
と清十郎が始めた打ち明け話がものすごい。

昨日、向島で釣りをしたら「間日まび(暇な日)というのか、雑魚ざこ一匹かからん」と、その帰り道、浅草寺の六時の鐘がボーンと鳴ると、にわかにあしが風にざわざわ。

鳥が急に茂みから飛び立ったので驚き、葦の中を見ると野ざらしになった髑髏が一つ。

清十郎、哀れに思って手向たむけの回向えこうをしてやった。

「狸を食った? ひどいね」
「回向したんだ」
「猫もねらった」
「わからない男だ。五七五の句を詠んでやったのだ。一休和尚の歌に『骨隠す皮には誰も迷うらん皮破れればかくの姿よ』とあるから、それをまねて『野を肥やせ骨の形見のすすきかな』と浮かんだ」

骸骨がいこつの上に持参した酒をかけてやり、いい功徳をしたと気持ちよくその晩寝入っていると、戸をたたく者がいる。

出てみると女で
「向島の葦の中から来ました」

ぞっとして、狸が化かしに来たのだろうとよく見ると、十六、七の美しい娘。

娘の言うには
「あんなところに死骸をさらし、迷っていましたところ、今日、はからずもあなたのご回向えこうで浮かぶことができましたので、お礼に参りました。腰などお揉みしましょう」

結局、一晩、幽霊としっぽり。

八五郎、すっかりうらやましくなり、自分も女を探しに行こうと強引に釣り竿を借り、向島までやってきた。

大勢釣り人が出ているところで
「ポンと突き出す鐘の音はいんにこもってものすごく、鳥が飛び出しゃコツがある」
と能天気に鼻歌を唄うので、みんなあきれて逃げてしまう。

葦を探すと骨が見つかったので、しめたとばかり酒をどんどんぶっかける。

「オレの家は門跡さまの前、豆腐屋の裏の突き当たりだからね。酒肴をそろえて待っているよ、ねえさん」
と、俳句も何も省略して帰ってしまった。

※現行はここで終わり。

これを聞いていたのが、悪幇間わるだいこの新朝という男。

てっきり、八五郎が葦の中に女を連れ込んで色事をしていたと勘違い。

住所は聞いたから、今夜出かけて濡れ場を押さえ、いくらか金にしてやろうとたくらむ。

一方、八五郎、七輪の火をあおぎながら、今か今かと待っているがいっこうに幽霊が現れない。

もし門違いで隣に行ったら大変だと気を揉むところへ、
「ヤー」
と野太い声。

幇間、
「どうもこんちはまことに。しかし、けっこうなお住まいで、実に骨董家の好く家でゲスな」
とヨイショを始めたから、八五郎は仰天。

「恐ろしく鼻の大きなコツだが、てめえはいったいどこの者だ」
「新朝という幇間たいこでゲス」
「太鼓? はあ、それじゃ、葦の中のは馬の骨だったか」

しりたい

元祖は中華風「釜掘り」

原典は中国明代の笑話本『笑府』中の「学様」で、これは最初の骨が楊貴妃、二番目に三国志の豪傑・張飛ちょうひが登場、「拙者の尻をご用立ていたそう」となります。

男色めいたオチです。

さらに、これの直接の影響か、落語にも古くは類話「支那の野ざらし」がありました。

こちらは『史記』『十八史略』の「鴻門こうもんの会」で名高い樊會はんかいが現れ、「肛門(=鴻門)を破りに来たか」という、これまた男色めいたオチです。

この噺は、はじめから男色(釜掘り)がつきまとっていました。

上方では五右衛門が登場

上方落語では「骨釣り」と題します。

若だんなが木津川へ遊びに行き、そこで骨を見つける演出で、最後には幇間ではなく、大盗賊・石川五右衛門登場。「閨中のおとぎなどつかまつらん」「あんた、だれ?」「石川五右衛門」「ああ、やっぱり釜に縁がある」。

言うまでもなく、釜ゆでとそっちの方の「カマ」を掛けたものです。こちらも男色がらみ。どうも今回は、こんなのばかりで……。

それではここらで、正統的な東京の「野ざらし」を、ちょっとまじめに。

因果噺から滑稽噺へ

こんな、尻がうずくような下品な噺では困ると嘆いたか、禅僧出身の二代目林屋正藏(不詳-不詳、沢善正蔵、実は三代目)が、妙な連中の出現するオチの部分を跡形もなくカット、新たに仏教説話的な因果噺にこしらえ直しました。これは陰気な噺。

二代目正蔵は「こんにゃく問答」の作者ともいわれます。仏教がらみの噺の好みました。でも、陰気になる。

明治期に、それをまたひっくり返したのが、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)。明治の爆笑王です。

初代円遊は「手向たむけの酒」の題で演じています。

男色の部分を消したまま、あらすじのような滑稽噺としてリサイクルさせました。円遊の「手向けの酒」が『百花園』に載ったのは明治26年(1893)のこと。

さらに、二代目三遊亭円遊(吉田由之助、1867-1924、実は四代目)が改良。八五郎の釣りの場面を工夫して、明るくにぎやかにしました。それ以降は、二代目円遊の形が通行します。

「野ざらしの」柳好、柳枝

昭和初期から現在にいたるまでは、初代円遊→二代目円遊の型が広まります。

明るくリズミカルな芸風で売った三代目春風亭柳好(松本亀太郎、1887-1956、野ざらしの、向島の、実は五代目)、端正な語り口の八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が、それぞれこの噺を得意としました。

特に柳好は「鐘がボンと鳴りゃ上げ潮南……」の鼻唄の美声が評判で、「野ざらしの……」と一つ名でうたわれました。

柳枝も軽妙な演出で十八番としましたが、サゲ(オチ)までやらず、八五郎が骨に酒をかける部分で切っていました。現在はほとんどこのやり方が横行しています。

現在も、よく高座にかけられています。

TBS落語研究会でも、オチのわかりにくさや制限時間という事情はあるにせよ、こういう席でさえも、途中でチョン切る上げ底版がまかり通っているのは考えものです。

馬の骨?

幇間と太鼓を掛け、太鼓は馬の皮を張ることから、しゃれただけです。

牡馬が勃起した陰茎で下腹をたたくのを「馬が太鼓を打つ」というので、そこからきたという説もあります。

門跡さま

「門跡」の本来の意味は、祖師(宗派の教祖)の法灯(教え)を受け継いでいる寺院のこと。

京都には「門跡さま」は多数ありますが、江戸で「門跡さま」といえば、浄浄土真宗東本願寺派本山東本願寺のこと。これでは長すぎて言えません。一般には「浅草本願寺」と呼ばれていました。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が、誘われてこの寺院で節談説教(僧が言葉に抑揚を付け、美声とジェスチャーで演技するように語りかける説教)を聴いた際、説教僧が前座、二ツ目、真打ちの階級制度、高座と聴者の仕掛けなどが寄席とそっくりなことにびっくりした、という逸話が残っています。

浅草本願寺は、京都の東本願寺とは本院と別院の関係でしたが、昭和40年(1965)に関係を解消して、独立しています。通称も、浅草本願寺から東京本願寺へと変更されました。

「野ざらし」の江戸・明治期には、東本願寺の名称で、浄土真宗大谷派の別院でした。「門跡さま」で通っていたわけです。

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