いいわけざとう【言い訳座頭】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

大晦日の噺。
甚兵衛夫婦は年を越せるのか? 
座頭の舌先三寸しだいで、なんとか。

あらすじ

借金がたまってにっちもさっちも行かず、このままでは年を越せない長屋の甚兵衛じんべえ夫婦。

大晦日おおみそか

かみさんが、口のうまい座頭ざとうとみいちに頼んで、借金取りを撃退してもらうほかはないと言うので、甚兵衛はなけなしの一円を持ってさっそく頼みにいく。

富の市、初めは金でも借りに来たのかと勘違いして渋い顔をしたが、これこれこうとわけを聞くと
「米屋でも酒屋でも、決まった店から買っているのなら義理のいい借金だ。それじゃああたしが行って断ってあげよう」
と、快く引き受けてくれる。

「商人は忙しいから、あたしがおまえさんの家で待っていて断るのはむだ足をさせて気の毒だから」
と、直接、敵の城に乗り込もうという寸法。

富の市は
「万事あたしが言うから、おまえさんは一言も口をきかないように」
とくれぐれも注意して、二人はまず米屋の大和屋やまとやに出かけていく。

大和屋の主人は、有名なしみったれ。

富の市が頼み込むと、
「今日の夕方にはなんとかする、という言質げんちをとってある以上、待てない」
と突っぱねる。

富の市は居直って
「たとえそうでも、貧乏人で、逆さにしても払えないところから取ろうというのは理不尽だ。こうなったら、ウンというまで帰らねえ」
と、店先に座り込み。

他の客の手前、大和屋も困って、結局、来春まで待つことを承知させられた。

次は、薪屋の和泉屋いずみや

ここの家は、富の市が始終揉み療治に行くので懇意だから、かえってやりにくい。

しかも親父は名うての頑固一徹。

ここでは強行突破で
「どうしても待てないというなら、頼まれた甚さんに申し訳が立たないから、あたしをここで殺せ、さあ殺しゃあがれ」
と往来に向かってどなる。

挙げ句の果ては、「人殺しだ」とわめくので、周りはたちまちの人だかり。

和泉屋、外聞が悪いのでついに降参。

今度は、魚金うおきん

これはけんかっ早いから、和泉屋のような手は使えない。

「さあ殺せ」
と言えば、すぐ殺されてしまう。

こういう奴は下手に出るに限るというので、
「実は甚兵衛さんが貧乏で飢え死にしかかっているが、たった一つの冥土のさわりは、魚金の親方への借金で、これを返さなければ死んでも死にきれない」
と、うわ言のように言っている、と泣き落としで持ちかけ、これも成功。

ところが、その当の甚兵衛が目の前にいるので、魚金は
「患ってるにしちゃあ、ばかに顔色がいい」
と、きつい皮肉。

さすがの富の市もあわてて、
「熱っぽいから、ほてっている」
とシドロモドロでやっとゴマかした。

そうこうするうちに、除夜の鐘。ぼーん。

富の市は急に、
「すまないが、あたしはこれで帰るから」
と言い出す。

「富さん、まだ三軒ばかりあるよ」
「そうしちゃあいられねえんだ。これから家へ帰って自分の言い訳をしなくちゃならねえ」

底本:五代目柳家小さん

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しりたい

明治の新作落語  【RIZAP COOK】

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が明治末に創作した噺です。

三代目小さんは漱石も絶賛した名人です。

小さんは、四代目橘家円喬たちばなやえんきょう(柴田清五郎、1865-1912)から「催促座頭」という噺(内容不明)があるのを聞き、それと反対の噺を、と思いついたとか。

してみると、「催促座頭」は、文字通り借金の催促に座頭が雇われる筋だったということでしょう。

初演は、明治44年(1911)2月、日本橋常盤木倶楽部ときわぎくらぶでの第一次落語研究会の第70回高座でした。

師走の掛け取り狂騒曲  【RIZAP COOK】

借金の決算期を「節季せっき」ともいい、盆と暮れの二回ですが、特に歳末は、商家にとっては掛け売りの貸し金が回収できるか、また、貧乏人にとっては時間切れ逃げ切りで踏み倒せるかが、ともに死活問題でした。

そこで、この噺や「掛け取り万歳」に見られるような壮絶な「攻防戦」が展開されたわけです。

むろん、ふだん掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内のなじみの生活必需品(酒屋、米屋、炭屋、魚屋など)に限られます。

落語では結局、うまく逃げ切ってしまうことが多いのですが、現実はやはりキビしかったのでしょう。

大晦日の噺  【RIZAP COOK】

井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)の『世間胸算用せけんむねさんよう』が、江戸時代前半期の上方(京と大坂)の節季の悲喜劇を描いて有名ですが、落語で大晦日を扱ったものは、ほかにも「狂歌家主」「尻餅」「睨み返し」「引越しの夢」「芝浜」など多数あります。

こうした噺のマクラには、大晦日の川柳を振るのがお決まりです。

大晦日 首でも取って くる気なり
大晦日 首でよければ やる気なり

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)が使っていたものも秀逸です。

大晦日 もうこれまでと 首くくり
大晦日 とうとう猫は 蹴飛ばされ

三代目小さんの作品だけあって、小さんの系統がやります。

九代目入船亭扇橋いりふねていせんきょう(橋本光永、1931-2015)の亡き後は、それでも、柳家小里こりん、柳家権太楼ごんたろうあたりとか。

炭屋  【RIZAP COOK】

子別れ」では、家を飛び出したかみさんが子供を連れ、炭屋の二階に間借りしている設定でした。

裏長屋住まいの連中は、高級品は買えないため、ふだんは「中粉」という、炭を切るときに出るカス同然の粉を量り売りで買ったり、粉に粘土を加えて練る炭団たどんを利用しました。

当然、どちらも火の着きはかなり悪かったわけです。

捨てきれない噺   【RIZAP COOK】

この噺、柳家小里ん師匠によれば、プロから見ると暗い噺なんだそうです。

柳家小さん(五代目)の持ちネタの中ではいちばんまとまっていないデキだったとも。にっちもさっちもいかない暮れの噺といえば、 「睨み返し」 のほうが笑いを取れるので、落語会で「受けなきゃならない」ときにはつい「睨み返し」をやってしまうんだそうです。だから、「言い訳座頭」はあまりやる噺家がいないんだと。

それでも、小里ん師匠は、この噺には魅力があるといいます。

僕らが子供時代に体験したような、大晦日の寒さ、情景が出ている。寒い中を歩いていると、除夜の鐘が鳴って、というのがいい。だから、噺として捨てきれない。

柳家小里ん、石井徹也(聞き手)『五代目小さん芸語録』(中央公論新社、2012年)より

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

きょうかいえぬし【狂歌家主】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

江戸前の噺。
これは狂歌噺。
全編に洒落がたっぷり。

別題:三百餅

【あらすじ】

ある年の大晦日。

正月用の餅きを頼む金がないので、朝からもめている長屋の夫婦。

隣から分けてもらうのもきまりが悪いので、大声を出して餅をついているように見せかけた挙げ句、三銭(三百文)分。

つまり、たった三枚だけお供え用に買うことにした。

それはいいのだが、たまりにたまった家賃を、今日こそは払わなくてはならない。

もとより金の当てはないから、大家が狂歌に凝っているのに目を付けた。

夫婦は、それを言い訳の種にすることで、相談がまとまった。

「いいかい、『私も狂歌に懲りまして、ここのところあそこの会ここの会と入っておりまして、ついついごぶさたになりました。いずれ一夜明けまして、松でも取れたら目鼻の明くように致します』というんだよ」

女房に知恵を授けられて、言い訳に出向いたものの、亭主、さあ言葉が出てこない。

「狂歌を忘れたら、千住の先の草加か、金毘羅さまの縁日(十日=とうか)で思い出すんだよ」
と教えられてきたので、試してみた。

「えー、大家さん、千住の先は?」
「ばあさん、どうかしやがったな、こいつは。竹の塚か」
「そんなんじゃねえんで、金毘羅さまは、いつでした?」
「十日だろう」
「そう、そのトウカに凝って、大家さんは世間で十日家主って」
「ばか野郎、オレのは狂歌だ」

大家は、
「うそでも狂歌に凝ったてえのは感心だ。こんなのはどうだ」
と、詠んでみた。

「玉子屋の 娘切られて 気味悪く 魂飛んで 宙をふわふわ」

「永き屁の とほの眠りの 皆目覚め 並の屁よりも 音のよきかな」

「おまえも詠んでみろ」
と、言われた。

「へえ、大家さんが屁ならあっしは大便」
「汚いな、どうも。どういうんだ」

「尻の穴 曲がりし者は ぜひもなし 直なる者は 中へ垂れべし」

これは、総後架そうごうか(共同便所)に大家が張った注意書きそのまま。

「それだから、返歌しました」
「どう」
「心では 中へたれよと 思えども 赤痢病なら ぜひに及ばん」

だんだん汚くなってきた。

「どうだい、あたしが上をやるから、おまえが後をつけな」
と言うと、
「右の手に 巻き納めたる 古暦」
と言って
「どうだい?」
ときた。

「餅を三百 買って食うなり」
「搗かないから、三百買いました」

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【しりたい】

原話は元禄ケチ噺

最古の原話は、元禄5年(1692)刊の大坂笑話本『かるくちはなし』巻五中の「買もちはいかい」です。

これは、金持ちなのに正月、自分で餅をかず、餅屋で買って済ますケチおやじが、元旦に「立春の 世をゆずり葉の 今年かな」という句をひねると、せがれが、「毎年餅を 買うて食ふなり」と付け句をします。

おやじが、「おまえのは付け句になっていない」と言うと、せがれは「付かない(=搗かない)から買って食うんだろ」

ここではまだ、現行のオチにある「(狂歌が)付く」=「(餅を)搗く」のダジャレが一致するだけです。

狂歌

狂歌は、滑稽味や風刺を織り込んだ和歌です。

詩歌で滑稽味を含ませていることを「狂体」と呼びます。

狂歌とは、狂体の和歌の意味です。

起源は『万葉集』巻十六の「戯咲歌ぎしょうか」まで遡れます。大伴家持おおとものやかもちが詠んだ、遊戯と笑いを含んだ歌です。

平安時代には「狂歌」という言葉がありました。

『古今和歌集』の俳諧歌はいかいかも狂歌の一種でしょう。

とはいえ、古い記録があまり残っていません。

日本人の歌への姿勢には、歌道神聖が根底に漂っていたからです。

まじめな歌は歌集に残るのですが、遊戯と笑いの歌は、詠んだその場でひとしきり笑えばそれで終わりにしていたからです。

歌壇をはばかって「言い捨て」(=記録しない)にされることが多かったわけです。

歌に笑いを求めなかったのです。

日本人は、笑いの感情を一段低く見ていたのかもしれません。

中世になると、落首や落書などの機知や滑稽を前面に表現した文芸が登場しました。

ただ、これも、たぶんに匿名性がセットになっていました。

うしろめたさがついてまわっていました。

ここでも、滑稽や風刺を含んだ笑いは、歌への冒瀆ととらえていました。

豊臣秀吉などは出身とのかかわりもあるのか、狂歌を楽しんだといいます。

人情の機微、認識の矛盾、世相の混乱といった人の心の摩擦を、皮肉や風刺で卑俗化する手法を獲得しました。

その導線に、京都で松永貞徳まつながていとく(1571-1653)によって創始された貞門俳諧ていもんはいかいがありました。

この一派が、江戸時代に花咲く狂歌の基本を形作ったのでした。

江戸の狂歌

狂歌が江戸で人気を得るまでには少々時間がかかりました。

明和6年(1769)、唐衣橘洲からごろもきっしゅう(1743-1802、幕臣、四谷忍原横丁)が自宅で狂歌の会を催したのが始まりとされます。

初期の狂歌は、古歌のパロディーが主だったので、まずは、歌の素質のある御家人や上層町人の間に広まりました。

その後、狂歌合わせなどが、安永・天明期(1772-89)にかけて盛んに催されました。

狂歌合わせとは、左右に分かれて狂歌の優劣を競う遊びです。

なかでも、太田南畝おおたなんぽ(1749-1823、幕臣、牛込生まれ)は「狂歌の神さま」的存在でした。

この方は、四方赤良よものあから、のちに蜀山人しょくさんじんとも称しました。

ほかには、朱楽菅江あけらかんこう(1738-99、幕臣、市谷二十騎町)、大屋裏住おおやのうらずみ(1734-1810、更紗屋→貸家業、日本橋金吹町)、元木網(1724-1811、京橋北紺屋町で湯屋→芝西久保土器町で落栗庵)、智恵内子ちえのないし(1745-1807、元木網の妻、芝西久保土器町で落栗庵)、宿屋飯盛やどやのめしもり(1753-1830、日本橋小伝馬町で旅籠、石川雅望)、鹿都部真顔しかつべまがお(1753-1829、数寄屋橋門外で汁粉屋、恋川好町)などが、狂歌師(作者)として名を馳せました。

幕末が迫ってくると、この噺にも見られるようにきわめて卑俗化し、川柳とともに大いに支持されていきました。

狂歌噺としては、ほかに「紫壇楼古木」「蜀山人」「狂歌合わせ」などがあり、「掛け取り万歳」の前半でも狂歌で家賃を断るくだりがあります。

古くから親しまれた噺

原話は上方のものですが、噺としては純粋な江戸落語です。

古い噺で、文化年間(1804-18)に初めにはもう狂歌噺として口演されていたようです。

明治期の速記もけっこう残っています。

「三百餅」または「狂歌家主」の題で、四代目橘家円喬(明治29年)、初代春風亭小柳枝(同31年)、三代目蝶花楼馬楽(同41年)のものがあります。

初代小柳枝の速記はかなり長く、大家が「踏み出す山の 横根よこね(性病)を眺むれば うみ(=海と膿)いっぱいに はれ渡るなり」とやれば、亭主が「『淋病で 難儀の者が あるならば 尋ねてござれ 神田鍛冶町かんだかじちょう』、これは薬屋の広告で」と返します。

大家が蜀山人先生の逸話を、長々と披露する場面もあります。

別題の「三百餅」はもちろんオチからきた演題です。

ここでの「三百」は餅代の三百文のこと。最近は餅の部分までいかず、滑稽な狂歌の応酬で短く切る場合もあります。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しりもち【尻餅】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

切羽詰まった大晦日の極貧夫婦。
女房の尻をたたき餅つきにみせる。
苦いバレ噺もどき。

あらすじ

亭主が甲斐性かいしょうなしで、大晦日おおみそかだというのに、餠屋もちやも頼めない貧乏所帯びんぼうじょたい

女房が、せめて近所の手前、音だけでもさせてほしいと文句を言う。

これは、少しでも金を都合してきてくれという心なのだが、能天気な亭主、これを間に受けて、自作自演で景気よく餠屋に餠をかせている芝居をしようと言い出す。

夜、子供が寝たのを見計らい、そっと外に出て、聞こえよがしに大声で
「えー、親方、毎度ありがとうございます」
と叫び、子供にお世辞せじを言ったりする場面も一人二役で大奮闘。

いやがるかみさんに着物をまくらせ、手に水をつけて尻をペッタン、ペッタン。

そのうち、尻は真っ赤になる。

かみさんはしばらくがまんしていたが、とうとう、
「あの、餠屋さん、あと、幾臼いくうすあるの?」
「へい、あと二臼ふたうすです」
「おまえさん、後生ごしょうだから餠屋さんに頼んで、あとの二臼はおこわにしてもらっとくれ」

しりたい

原話は「笑府」から

中国明代みんだいの笑話本『笑府しょうふ』に類話があるといわれています。これは、明和めいわ5年(1768)に抄訳しょうやくが刊行され、それ以降につくられた多くの落語や小咄こばなしのネタ本になっていますが、具体的にどの話が「尻餅」に相当するのか、いまひとつはっきりしません。

「尻をたたく」というシチュエーションでいえば、新婚初夜に派手に「泣き声」が聞こえたので、客が後で冷やかすと、実はそれは花婿が、新婦に尻をたたかれて発した声だったという、『笑府』閨風部けいふうぶ艶笑えんしょう小ばなし「婿呼痛せいこつう」がそれかもしれません。

おこわと白蒸

もとは上方落語で、オチは東京では「お強にしとくれ」ですが、上方は「白蒸しろむしでたべとくれ」です。

白蒸は、糯米もちごめを蒸して、まだいていない状態のもので、なるほど、「もうたたかないどくれ」という意味ではこちらの方が明快でしょう。

上方では笑福亭系の噺です。五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)の十八番でした。東京では、あらすじでもテキストにした八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)のやり方が現行の基本になっています。

可楽はこの前に「掛け取り万歳」の後半部を付け、この夫婦の貧乏と能天気を強調しておくやり方でした。

餅屋

江戸時代、ふつう餅搗もちつきは12月26日から。これを餅搗始もちつきはじめといいました。この日から大晦日おおみそかまで、「引摺ひきずり」といって、餅屋が何人かで道具を持ち、得意先を回って歩きます。

正月の餅はおろか、鏡餅かがみもちも買えない切羽詰せっぱつまった状況というのは、落語では「三百餅」「子ころし」などにも描かれます。

「尻餅」の直接の原話である、享和2年(1802)刊の江戸板笑話本『へそくり金』中の「餅搗もちつき」では、貧乏な医者が下男の三介の尻をたたく設定になっています。

ほのかなエロティシズム

東京でも上方でも、女房の尻をまくって亭主が「白い尻だなあ」と、思わず見とれたように言う(生唾なまつばをのみ込む?)セリフがあります。

江戸時代には、アノ時の「後ろから」の体位は、畜生道ちくしょうどうということで禁断だったわけで、この亭主も、所帯を持って初めて、まじまじとその部分を拝み、新鮮な感動をおぼえたのでしょう。

いずれにしても、この「餅搗」、禁断のセックスの暗喩あんゆと勘ぐれば、エロの色調もより濃厚になってきそうです。とはいうものの、さほどのもんじゃありません。



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評価 :1/3。

にらみがえし【にらみ返し】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

小さん系の噺。
伝統の「ビジュアル落語」として有名。
聴くだけではありません。
演者の表情をもお楽しみです。

あらすじ

大晦日箱提灯はこわくなし

長屋の熊五郎、貧乏暮らしで大晦日になると、弓提灯の掛け取りがこわい。

家にいて責められるのが嫌さに、日がな一日うろついて帰ると、その間、矢面に立たされたかみさんはカンカン。

「薪屋にも米屋にも、うちの人が帰りましたら夜必ずお届けしますと、言い訳して帰したのに、金策もしないでどうするつもりなんだい」
と、責めたてる。

もめているところへ、その薪屋。本日三度目の「ご出張」。

熊が
「払えねえ」
と開き直ると、薪屋は怒って、
「払うまで帰らない」
と、すごむ。

熊は
「どうしても帰らねえな。おっかあ、面に心張り棒をかえ。薪ざっぽうを持ってこい」

さらには
「払うまで半年、そこで待っててもらうが、飯は食わせねえから、遺言があったら言え、しかたがねえから葬式ぐらいはオレが出してやる」

薪屋はあえなく降参。

おまけに、借金を払った(つもり)の受取まで書かされ、
「おい、十円札で払ったから、釣りを置いてけ」

一人やっと撃退したものの、あと何人相手にしなきゃならねえかと、熊はうんざり。

そのとき表で
「ええ、借金の言い訳しましょう」
という声。

変わった商売だが、これはもっけの幸いと呼び入れると、言い訳屋は
「どんな強い相手も追っ払ってごらんに入れます」
と自信満々。

一時間二円だという。

どうにか小銭をかき集めて払うと、言い訳屋
「すみませんが、ご夫婦で押し入れに入っていていただきましょう。クスリと一声を出されても、こっちの仕事がうまくいきませんから、交渉中は黙っていただくよう」

しばらくすると、米屋。

「えー、熊さんは、親方はお留守で?」

見ると、見慣れない男が煙草を吸いながら、無言でにらみつけるだけ。

何を聞いても返事をしない。米屋はこわがって帰ってしまう。

次は酒屋。同じようにすごすご退散。

また次は、高利貸の代理人で、那須という男。

「何ですか、君は。恐ろしい顔だな。ご親戚ですか。おい君、黙っておってはわからん。無礼だね。君……」

何を言っても、ものすごい目でにらむばかり。

さすがの海千山千の取立人も、気味が悪くなって帰った。

喜んで熊が礼を言うと、ちょうど十二時を打った。

「時間が来ましたようで、これで失礼を」
「弱ったな。あと二、三人来るんだが、もう三十分ばかり」
「いや、せっかくですが、お断りします」
「どうして」
「これから、自宅の方をにらみに帰ります」

出典:七代目三笑亭可楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

師走の弓提灯 【RIZAP COOK】

弓提灯は、弓なりに曲げた竹を上下に引っ掛け、張って開くようにしたものです。

小型・縦長で、携帯に便利なことから、特に大晦日、商家の掛け取りが用いました。

江戸の師走の風物詩ではありますが、取り立てられる側は、さぞ、これを見ると肝が冷えたことでしょう。

これに対し、箱提灯は大型で丸く、武家屋敷などで使われました。

上方噺を東京に 【RIZAP COOK】

原話は、安永6年(1777)刊の笑話本『春帒はるぶくろ』中の「借金乞しゃくきんこい」です。「春」とは「春袋」で、正月に児女がつくる縁起物の縫い袋のこと。「借金乞」とは借金取り立て人のこと。

ここでの話は、後半のにらみの場面の、そっくりそのままの原型になっていて、オチも同じです。

もとは上方噺です。

それを「らくだ」と同様、四代目桂文吾(1865-1915)から三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が移してもらい、東京に移植しました。

皮肉にも、大正以後は本家の大阪ではほとんど演じ手がなく、もっぱら東京の柳派、小さん一門の持ちネタになりました。

三代目小さんから七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)を経て、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番の一つ。小三治までつながりました。

前半の薪屋を撃退するくだりは「掛け取り万歳」と同じで、オチはこれまた類話の「言い訳座頭」と同じです。

「見せる落語」の典型 【RIZAP COOK】

蒟蒻問答」と同じく、噺のヤマを仕種で見せる典型的な「ビジュアル落語」です。

速記となると、活字化されたものは七代目可楽によるもの。

「講談倶楽部」昭和9年(1934)1月号に載ったもののみ。

『昭和戦前傑作落語全集』(講談社、1981年)に収録されました。本あらすじも、これを参考にしています。

【RIZAP COOK】



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かけとりまんざい【掛け取り万歳】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

大晦日は掛け買いの攻防戦。
掛け取りで乗り切れるのか。
崖っぷち夫婦の悲喜こもごも。

別題:大晦日 浮かれの掛け取り(上方)

あらすじ

大晦日。

掛け買いの借金がたまった夫婦、当然支払えるあてはないため、ひとつ、掛け取りの好きなもので言い訳してケムにまき、追い返してしまおう、と作戦を練る。

まずは大家。

風流にも蜀山人しょくさんじんを気取って狂歌きょうかに凝っている。なにせ七か月も店賃たなちんをためているので、なかなか手ごわい相手。

そこで即興の狂歌攻め。

「僧正遍照(=返上)とは思えども金の通い路吹き閉じにけり」
「なにもかもありたけ質に置き炬燵かかろう島の蒲団だになし」
「貧乏の棒は次第に太くなり振り回されぬ年の暮れかな」……

案の定、大家はすっかり乗せられて、
「貸しはやる借りは取られるその中に何とて大家つれなかるらん……オレも時平(=ヒデエ)ことは言わねえ、梅桜の杉(=過ぎ)王まで松(=待つ)王としよう」
と芝居の「菅原」尽くしで帰ってしまう。

次は魚屋の金さん。

この男は、けんかが飯より好き。

今日こそはもらえるまで帰らねえと威勢よくねじこんでくるのを、
「おおよく言った。じゃあ、オレの運が開けるまで、六十年がとこ待っていねえ。男の口から取れるまで帰らねえと言った以上、こっちも払うまでちょっとでも敷居の外はまたがせねえ」
と無茶苦茶な逆ネジ。

挙げ句の果てに借金を棒引きさせて、みごとに撃退した。

こんな調子で義太夫、芝居とあらゆる手で難敵を撃破。

最後に、三河屋のだんな。

これは三河万歳みかわまんざいのマニアだ。

双方、万歳で渡り合い、亭主が扇子を開き「なかなかそんなことでは勘定なんざできねえ」と太夫で攻めれば、だんなは「ハァ、でェきなければァ二十年三十年」と、こちらは才蔵。

「ハァ、まだまだそんなことで勘定なんざできねえ」
「そーれじゃ、いったいいつ払う」
「ひゃーく万年もォ、過ぎたならァ」

しりたい

大晦日の攻防戦   【RIZAP COOK】

昔は、日常の買い物はすべて掛け買いで、決算期を節季(せっき)といい、盆・暮れの二回でした。

特に大晦日は、商家にとっては、掛売りの借金が回収できるか、また、貧乏人にとっては踏み倒せるかどうかが死活問題で、古く井原西鶴(1642-93)の「世間胸算用」でも、それこそ笑うどころではない、壮絶な攻防戦がくりひろげられています。

むろん、江戸でも大坂でも掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内の生活必需品(酒、米、炭、魚など)に限ります。

落語では結局うまく逃げ切ってしまいますが、現実は厳しかったことでしょう。

演者が限られる大ネタ   【RIZAP COOK】

筋は単純で、掛け取り(集金人)それぞれの好きな芸事を利用して相手をケムに巻き、撃退するというだけの噺です。

それだけに義太夫などの音曲、芝居、三河万歳とあらゆる芸能に熟達しなければならず、よほどの大真打ちで、多方面の教養を身に着けた者でなければこなせません。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

円喬は円朝の高弟。明治期の伝説の名人です。

円喬は万歳の部分を出さず、「掛け取り」の題でやりました。

最後は主人公がシンバリ棒をかって籠城してしまうので、掛取りが困って隣の主人に「火事だ」と叫んで追い出してくれと頼みますが、亭主が窓から五十銭出して「これで火を消してくれ」というオチにしています。

先の大戦後は、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)の独壇場でした。

三河万歳   【RIZAP COOK】

万歳は三河、大和、尾張、会津など各地にあり、江戸は三河万歳の縄張りでした。

暮れになると日本橋に才蔵市さいぞういちが立ち、三河・幡豆はず郡の村々から出張してきた太夫たゆうがよさそうな相棒を選び、コンビを組みます。

太夫は烏帽子えぼしに袴で扇子を持って舞い、掛け合いではツッコミ役。才蔵は小鼓を持ち囃し方とボケ役を担当します。

武家屋敷を回る屋敷万歳、町屋を担当する町万歳などがありました。

古くは千秋万歳せんずまんざいといい、初春に悪鬼を祓い言霊ことだまによって福をもたらすという民間信仰が芸能化したものといわれます。

菅原づくし   【RIZAP COOK】

浄瑠璃および歌舞伎で有名な『菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ』の三段目「車引くるまひき」の登場人物でシャレています。

歌はこの後の「寺子屋の段」で松王丸が詠じる「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に 何とて松の つれなかるらん」のパロディーで、続けて「来春はきっと埋め(=梅)草をします」と梅王丸でしめます。

芝居   【RIZAP COOK】

六代目円生では、酒屋の番頭を上使に見立て、「近江八景」づくしのセリフで言い訳した後、「今年も過ぎて来年、あの石山の秋の月」「九月下旬か」「三井寺の鐘を合図に」「きっと勘定いたすと申すか」「まずそれまではお掛け取りさま」「この家のあるじ八五郎」「来春お目に」「かかるであろう」とめでたく追い払います。

改作二題   【RIZAP COOK】

上方では、古くはのぞきからくり芝居の口上をまねて、オチを、「これぞゼンナイ(ゼンマイ=ゼニ無い)のしかけ」としていましたが、明治初期に二代目林家菊丸が芝居仕立てのオチに改作したものが「大晦日浮かれの掛け取り」として今に残っています。

もうひとつ、昭和初期に、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)が近代的に改作、野球好きの米穀商と「都の西北」「若き血」の替え歌で応酬した後、「これで借金は取れん(=ドロー、引き分け)ゲームになりました」とダジャレで落とす「掛け取り早慶戦」で大当たりしました。

円生のくすぐりから   【RIZAP COOK】

六代目円生のくすぐりが秀逸でした。

亭主が魚屋を逆に脅し、借金を棒引きにさせたあげく、「帰るなら払ったことになるな」と、幻の領収書を書かせるところが爆笑。無理やり「毎度ありがとうございます」と言わせたうえ、「6円70銭。10円渡した(つもり!)からつりを置いてけ」。

まことにどうも、けしからんもんで。



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やくばらい【厄払い】落語演目



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【どんな?】

いまはすたれた「おはらい」をネタにした噺。興味津々の話題ですね。

【あらすじ】

頭が年中正月の与太郎。何をやらせてもダメなので、伯父おじさん夫婦の悩みの種。

当人に働く気がまるでないのだから、しかたがない。

おふくろを泣かしちゃいけないと説教し、
「今夜は大晦日おおみそかだから、厄払いを言い立てて回って、豆とお銭をもらってこい」
と言う。

小遣こづかいは別にやるから、売り上げはおふくろに渡すよう言い聞かせ、厄落やくおとしのセリフを教える。

「あーらめでたいな、めでたいな、今晩今宵のご祝儀しゅうぎに、めでたきことにて払おうなら、まず一夜明ければ元朝がんちょうの、かどに松竹、注連飾しめかざり、床に橙、鏡餅だいだいかがみもち蓬莱山ほうらいさんに舞い遊ぶ、鶴は千年、亀は万年、東方朔とうほうさく八千歳はっせんざい、浦島太郎は三千年、三浦の大助おおすけ百六ツ、この三長年が集まりて、酒盛りをいたす折からに、悪魔外道げどうが飛んで出で、さまたげなさんとするところ、この厄払いがかいつかみ、西の海へと思えども、蓬莱山のことなれば、須弥山しゅみせんの方へ、さらありさらり」
というものだが、伯父さんの後について練習しても文句が覚えられないので、紙に書いてもらって出かける。

表通りで
「ええ、こんばんは」
「なんだい」
「厄払いでござんす」
「もう払ったよ」
「もういっぺん払いなさい」
「なにを言やがる!」

別の厄払いに会ったので
「おいらも連れってくれ」
「てめえを連れてっても商売にならねえ」
「おまえが厄ゥ払って、おいらが銭と豆をもらう」

追っ払われて
「えー、厄払いのデコデコにめでたいの」
とがなって歩くと、おもしろい厄払いだと、ある商家に呼び入れられる。

前払いで催促し、おひねりをもらうと、開けてみて
「なんだい、一銭五厘か。やっぱりふところが苦しいか」
「変なこと言っちゃいけない」

もらった豆をポリポリかじり、茶を飲んで
「どうも、さいならッ」
「おまえはなにしに来たんだ」
とあきれられ、ようやく「仕事」を思い出す。

表戸を閉めさせて「原稿」を読み出すが、つっかえつっかえではかどらない。

「あらあらあら、荒布、あらめでたいな。あら、めでたいなく」
「おい、めでたくなくちゃいけない」
「くの字が大きいんだ。鶴は十年」
「鶴は千年だろ」
「鶴の孫」
「それだって千年だ」
「あ、チョンが隠れてた。鶴は千年。亀は……あの、少々うかがいます」
「どなたで?」
「厄払いで」
「まだいやがった。なんだ」
「向こうの酒屋は、なんといいます」
「万屋だよ」
「ええ、亀はよろず年。東方」

ここまで読むと、与太郎、めんどうくさくなって逃げ出した。

「おい、表が静かになった。開けてみな」
「へい。あっ、旦那、厄払いが逃げていきます」
「逃げていく? そういや、いま逃亡(=東方)と言ってた」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

「黒門町」の隠れ十八番  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、文化年間(1804-18)から口演されてきました。東西ともに演じられますが、上方の方はどちらかというとごく軽い扱いで、厄払いのセリフをダジャレでもじるだけのもの。オチは「よっく挟みまひょ」で、「厄払いまひょ」の地口です。

明治34年(1901)の四代目柳亭左楽りゅうていさらくの速記では、「とうほうさく」のくの字が「く」か「ま」か読めず、「とうほうさま、とうほうさく」とうなっていると、客「弘法さまの厄除けのようだ」、与太郎「百よけいにもらやあ、オレの小遣いになる」とダジャレの連続でオチています。

昭和期では、たまに八代目桂文楽(黒門町くろもんちょうの師匠)が機嫌よく演じ、これも隠れた十八番の一つでした。文楽没後は、三笑亭夢楽さんしょうていむらくも得意にしました。

以後、若手もけっこう手がけていましたが、音源は文楽、夢楽のほか古くは初代桂春団治かつらはるだんじのレコードがあり、桂米朝、柳家小三治もCDに入れていました。

一年を五日で暮らす厄払い  【RIZAP COOK】

古くは節分だけの営業でしたが、文化元年(1804)以後は正月六日と十四日、旧暦十一月の冬至、大晦日おおみそかと、年に計五回、夜にまわってくるようになりました。

この噺では大晦日の設定です。古くは、厄年の者が厄を落とすため、個人個人でやるものでしたが、次第に横着になり、代行業が成り立つようになったわけです。

もっとも、個人でする厄落としがまったくなくなったわけではなく、人型に切り抜いた紙で全身をなで、川へ流す、また、大晦日にふんどしに百文をくくり、拾った者に自分の一年分の厄を背負わせるといった奇習もありました。

要は、フンドシが包んでいる部分は、体中でもっとも男の厄と業がたまっているから、というわけです。

江戸の厄落としは「おん厄払いましょう、厄落とし」と、唄うように町々を流し、それが前口上になっています。

文句は京坂と江戸では多少異なり、江戸でも毎年、また節季ごとに変えて工夫しました。

厄落としの祝詞は、もとは平安時代に源を発する厄除けの呪文・追儺祭文ついなさいもんからきたといわれています。

前口上で家々の気を引いて、呼び込まれると門付かどづけで縁起のいい七五調の祝詞のりとを並べます。

いずれも「あーらめでたいな、めでたいな」で始まり、終わりに「西の海とは思えども、東の海へさらーり」の決まり文句で、厄を江戸湾に捨て流して締めます。

祝儀しゅうぎを余計はずむと、役者尽くし、廓尽くしなど、スペシャルバージョンを披露することもありました。

こうなると縁起ものというより、万歳まんざい同様、一種の芸能、エンターテインメントでしょう。

祝儀は、江戸期では十二文、明治期では一銭から二銭をおひねりで与え、節分には、それに主人の年の数に一つ加えた煎り豆を、他の節季には餅を添えてやるならわしでした。

『明治商売往来』(仲田定之助、ちくま文庫)」に言及がありますが、1888年(明治21)生まれの仲田でさえ、記憶が定かでないと述べているので、おそらく明治30年代終わりには、もういなくなっていたのでしょう。

こいつぁ春から  【RIZAP COOK】

歌舞伎で、河竹黙阿弥かわたけもくあみの世話狂言「三人吉三さんにんきちざ」第二幕大川端おおかわばたの場の「厄落やくおとし」のセリフは有名です。

夜鷹よたかのおとせが、前夜の客で木屋の手代てだい十三郎じゅうざぶろうが置き忘れた百両の金包みを持って、大川端をうろうろしているところを、親切ごかしで道を教えた女装の盗賊・お嬢吉三に金を奪われ、川に突き落とされます。

ここで七五調の名セリフ。

月もおぼろに白魚しらうお
かがりもかすむ春の空冷てえ風もほろ酔いに
心持ちよくうかうかと浮かれがらすのただ一羽
ねぐらへ帰る川端でさおしずくか濡れ手であわ
思いがけなく手に入る百両

懐の財布を出し、にんまりしたところで、「おん厄払いましょう、厄落とし」と、厄払いの口上の声。

ほんに今夜は節分か
西の海より川の中落ちた夜鷹は厄落とし
豆だくさんに一文の
銭と違って金包み
こいつぁ春から(音羽屋!)縁起がいいわえ

「西の海」の厄払いの決まり文句、豆と一文銭というご祝儀の習慣がちゃんと読み込まれた、心憎さです。

こんなぐあいですから、歌舞伎の世界ではすらすら流れる名調子を「厄払い」と言っているそうです。

蓬莱山  【RIZAP COOK】

神仙思想の言葉。中国の東方海上にあるといわれている想像上の霊山。

神仙思想では、仙人が住む不老不死の仙境と信られていました。

東方朔  【RIZAP COOK】

東方朔(BC154-)は中国、前漢ぜんかんの人。武帝の側近として仕えた文人です。

西王母(仙人)の、三千年に一度実る桃を三個も盗み食いし、人類史上ただ一人、不老不死の体になった人。

李白の詩でその超人ぶりを称えられ、能「東方朔」では仙人として登場します。

漢の武帝に仕え、知略縦横、また万能の天才、漫談の祖としても知られました。

BC92年、62歳で死んだと見せかけ、以後、仙人業に専念。2175歳の今も、もちろんまだご健在のはずです。

ただし、捜し出して桃のありかを吐かせようとしても、次に実るのはまだ千年も先ですので、ムダでしょう。

須弥山  【RIZAP COOK】

仏教語。世界の中央にそびえる山。高さは八万由旬ゆじゅん(1由旬=40里=160km)あって、風輪、水輪、金輪が重なっている山だそうです。

金、銀、瑠璃るり玻璃はりの四宝からなり、頂上には宮殿があって、そこには帝釈天たいしゃくてん、中腹には四天王してんのうが住んでいるんだそうです。

日と月はその中腹を周回しているとのこと。想像を絶します。

三浦の大助  【RIZAP COOK】

平安末期の武将、三浦義明みうらよしあき(1092-1180)のこと。

相模の有力豪族、三浦氏の総帥そうすいで、治承じしょう2年(1178)、源頼朝の挙兵に応じましたが、石橋山いしばしやまの合戦で頼朝が敗北後、居城の衣笠城きぬがさじょう籠城ろうじょう

一族の主力を安房あわ(千葉県南部)に落とし、自らは敵勢を引き受け、城を枕に壮絶な討ち死にを遂げました。

実際には88歳までしか生きませんでしたが、古来まれな長寿者として誇張して伝承され、「三浦大助」として登場する歌舞伎「石切梶原いしきりかじわら」では108歳とされています。

「厄払い」の中では「みうらのおおすけ」と発音されます。

人名で、姓と名の間に「の」を入れた読み方は、鎌倉幕府創建が一つの区切りといわれます。

源頼朝みなもとのよりとも源義経みなもとのよしつね北条政子ほうじょうまさこ北条義時ほうじょうよしとき……。

【RIZAP COOK】



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