しょうふくていせんべい【笑福亭扇平】噺家 落語 あらすじ



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【芸種】落語
【所属】上方落語協会
【入門】
【出囃子】
【定紋】
【本名】
【生年月日】
【出身地】
【学歴】
【血液型】
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki
【趣味や特技】
【蛇足】



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しょうふくていびんご【笑福亭瓶吾】噺家 落語 あらすじ



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【芸種】落語
【所属】上方落語協会
【入門】
【出囃子】
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【本名】
【生年月日】
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【学歴】
【血液型】
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki
【趣味や特技】
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しょうふくていぎんぺい【笑福亭銀瓶】噺家 落語 あらすじ



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【芸種】落語
【所属】上方落語協会
【入門】
【出囃子】
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【趣味や特技】
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【笑福亭恭瓶】しょうふくていきょうへい 噺家 落語 あらすじ



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【芸種】落語
【所属】上方落語協会
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【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki
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【むだぐちのあらすじ 目次】ことば 落語

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席 故事成語

 たとえば、「恐れ入谷の鬼子母神」なんかがそれ。人のことばの揚げ足取ったり、まぜっ返したり、はたまたへらず口だったり。秀句、ことば遊びの極北にあるのがむだぐち(無駄口)です。音とテンポの小気味よさが命。これぞ江戸文化、笑いのレガシー。落語にときおり登場しては笑いを誘ってくれる秘密兵器です。ほっぽっておくにはしのびない珠玉なので、どーんと集めてみました。前人未踏のむだぐち辞典。2024年9月19日現在。

参考文献:『ことば遊び辞典』(鈴木棠三編、東京堂出版、1959年)

【目次】

■あ行

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ああというくすりくれずか【ああという薬くれずか】返事「ああ」の揚げ足取り 

ああにあわめしこうこにちゃづけ【ああに粟飯香香に茶漬け】

あいたいならあわしてやっぺ【逢いたいなら逢わしてやっぺ】「あ痛い」の揚げ足取り

あいたいのことはこちゃしらぬ【相対のことはこちゃ知らぬ】「あ痛い」の揚げ足取り 

あいてほしさのたまてばこ【相手ほしさの玉手箱】

あいとこきゃこけまえのかわへすりこめ【あいと吐きゃこけ前の川へすり込め】

あいのへんじはなまぐさい【あいの返事は生臭い】名を呼んで「あい」と返事したら

あいはこうやにござります藍は紺屋にござります】

あいはたかいにいわしかっていわえ【鮎は高いに鰯買って祝え】「あい」のまぜ返し

あいびしゃたがいにむねにある【相飛車互いに胸にある】将棋で相飛車の時に

あいもはねればかじかをはねる【鮎も跳ねれば鰍を跳ねる】「あい」の揚げ足取り

あがったりだいみょうじん上がったり大明神】

あかべいさしょっこつけれ【あかべいさ塩っこ付けれ】「あかんべい」の

あかめんとろろこしでもあがれ【あかめんとろろ鯡でも上がれ】鯡=にしん

あかんべいひゃっぱいなめろ【あかんべい百杯なめろ】

あかんべんけいへでもかげきよ【あかん弁慶屁でも景清】「あかんべい」の

あきのみやじままわればしちり【安芸の宮島廻れば七里】

あきれがいげにあがる【呆れが湯気にあがる】

あきれがえるのほおかむり【呆れ蛙の頬冠り】あきれ返った時の

あきれがおれい【あきれがお礼】あきれ返った、問題にならない時の

あきれきりまくとんとんびょうし【呆れ切り幕とんとん拍子】呆れ切った時の

あげますのすけろく【上げますの助六】「上げます」という時の 「揚巻」のもじり

あざぶできがしれぬ【麻布で木が知れぬ】

あしがおそいはせんだいがしよ【足が遅いは仙台河岸よ】「足が遅い」と言われた時の

あじにえをすげたこえびしゃく【味に柄をすげた肥柄杓】

あすこへおきやまけんぎょう【あすこへ沖山検校】「あそこに置いた」の

あたじけなすびのかわっきり【あたじけ茄子のかわっ切り】

あだらあっぱへこでっちり【あだら母へこでっちり】「ああ」のまぜ返し

あたりがまえならきんじょはとなり【辺りが前なら近所は隣】「当たり前」の

あたりきしゃりきくるまひき【当たりき車力車曳き】

あたりまえのとうふじる【当たり前の豆腐汁】あたる=味噌を摺る

あたりめえはへっついさま【当たり前は竃様】「当たり前」のむだぐち

あついはじゅんれいふるてがい【熱いは巡礼古手買い】「あるいは」のもじり

あつかまししのほらいり【あつかまししの洞入り】

あっとちょうだいかがみたて【あっと頂戴鏡立て】鏡台のしゃれ

あてられたきのこじる【当てられた茸汁】「ご推量の通り」 または「中毒する」意も

あにはからんやおとうとしょうゆうり【あにはからんや弟醤油売り】

あぶがなけりゃやせうまこえる【虻がなけりゃ痩せ馬肥える】「危ない」の憎まれ口

あぶなやのおそめさん【危なやのお染さん】油屋のお染さん

あめかったらふくろあげよう【飴買ったら袋上げよう】うれしくないことを言う時に

あやしいのきさんぼん【あや椎の木三本】「怪しいぞ」の

あやまはりのりょうじおだぶつほうちんたん【あやま針の療治お陀仏ほうちんたん】

あやまりあんどんあぶらさし【あやまり行灯油差し】「おそれいった」の

あやまりさまはひのやまい【あやまり様は火の病】清盛様は火の病

あやまりこのとろろじる【あや鞠子のとろろ汁】「まいった」の

あやまりの和中散【あやまりの和中散】「大森の和中散」の口合わせ

ありがじっぴきさるごひき【蟻が十匹猿五匹】「ありがとうござる」の洒落

ありがたいならいもむしゃくじら【蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨】

ありがたいのたいのめだま【ありが鯛の鯛の目玉】「ありがたい」の軽口

ありがたやまのとびからす【ありがた山の鳶烏】

あわせかがみのしじみじる【合わせ鏡の蜆汁】相手のおべっかを皮肉る

あんんじなさんなゆうやのけむり【案じなさんな湯屋の煙】火事じゃない

あんしんきよひめじゃになった【安心清姫蛇になった】安珍清姫蛇になった

あんしんまたくぐり【安心股潜り】韓信股潜り

あんだらかぶれ【編んだら被れ】編んだら掛けろ干したら外せ

いいてがあればおおはしもある【いい手があれば大橋もある】永代もあれば大橋もある

いうてもおくれなさよあらし【言うてもおくれな小夜嵐】そう言ってくれるな

いかさまたこさまあしはっぽん【烏賊様蛸様足八本】

いくべえじしとしよう【行くべえ獅子としよう】さあ行こう 「角兵衛獅子」のもじり

いけいけいけにゃあへびがすむ【行け行け池にゃあ蛇が住む】思い切ってやってみよう

いけがなければべんてんさまこまる【池がなければ弁天様困る】「行くな」の返事で

いごくってちゃのめ【いご食って茶飲め】「いいよ」の揚げ足取り いご=飯櫃

いしべきんきちかなかぶと【石部金吉金兜】

いじわるげんたかげすえ【意地悪源太景季】

いただきやまのとびからす【頂き山の鳶烏】

いたけりゃいたちのくそつけろ【痛けりゃ鼬の糞付けろ】「痛い」と言ったら

いただきかさのひも【いただき笠の紐】「いただきましょう」と言う時の

いただきじょろうしゅう【いただき女郎衆】盃をさされて 「岡崎女郎衆」のもじり

いただきのわたさるはし【いただきの渡せる橋】「鵲の渡せる橋の」のもじり

いただきやまのとびがらす【いただき山の鳶烏】「いただきます」の戯言

いたみぎんざん【痛み銀山】

いちごんもないとうしんじゅく【一言も内藤新宿】一言もない

いちにほうきはうりかいのます【市に箒は売り買いの枡】双六で一か二が出たら

いちごんもなしのきさいかちさるすべり【一言も梨の木さいかち百日紅】

いちまいよみかけやまのはんがらす【一枚読みかけ山の半烏】一枚の途中まで読んだ

いのちをとびたのいしやくし【命を飛田の石薬師】

いやならよしゃがれよしべえのこになれ【厭ならよしゃがれ芳兵衛の子になれ】

いらぬおせわのかばやき【いらぬお世話の蒲焼き】

いわぬがはなのよしのやま【言わぬが花の吉野山】

うそをつきじのごもんぜき【嘘を築地のご門跡】

うっちゃっておけすすはきにはでる【うっちゃって置け煤掃きには出る】

うっとうしいものはまつまえにある【うっとうしいものは松前にある】

うるさいのかじばおり【うるさいの火事羽織】

うまかったうしゃまけた【うまかった牛ゃ負けた】

えはなかちょうきりどおし【絵は仲町切通し】

おいでおいでどじょうのかばやきおはちじる【おいでおいで泥鰌の蒲焼きお鉢汁】

おいてくりおのまんがんじ【おいて栗尾の満願寺】

おうらやまぶきひかげのもみじ【お浦山吹日陰の紅葉】

おおありなごやのきんのしゃち【大あり名古屋の金の鯱】

おおいしかったきらまけた【大石勝った吉良負けた】

おおきにおせわおちゃでもあがれ【大きにお世話お茶でもあがれ】

おおしょうちのにゅうどう【大承知の入道】

おおちがいのきしぼじん【大違いの鬼子母神】

大へこみ張り子の達磨へみね打ち

おかしいのみがひとふくろ【おか椎の実が一袋】

おきのどくやはえのあたま【お気の毒や蝿の頭】

おきまりのこうしんさま【お決まりの庚申さま】

押しかけ山のほととぎす

おじゅんでんべえはやまわし【お順伝兵衛早回し】

おそかりしゆらのすけ【おそかりし由良之助】

お黙りこぶしはねえ

おそれいりやのきしぼじん【恐れ入谷の鬼子母神】

おちゃのこさいさいかっぱのへ【お茶の子さいさい河童の屁】

おちょうしのごもんつき【お銚子のご紋付き】

乙うお洒落の蒲焼き

おっとがってんしょうちのすけ【おっと合点承知之助】

おっとよしべえかわのきんちゃく【おっと由兵衛革の巾着】

乙にからんだ垣根の糸瓜

おどろきもものきさんしょのき【驚き桃の木山椒の木】

おみかぎりえじのたくひのよはもえて【お見限り衛士のたく火の夜は燃えて】

おもえばくやししもんじゅのしし【思えばくや獅子文殊の獅子】

おもおもともとのところへおなおりそうらえ【重々と元の所へお直り候え】

おもしろだぬきのはらづつみ【面白狸の腹鼓】

おもちょうじちゃぎつねのかかとちゃんぎり【面丁子茶狐の踵ちゃんぎり】

おやすみのえにつきはいりにけり【お休みの江に月は入りけり】

■か行

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かかとがずつうやんであたまへせんきがのぼる【踵が頭痛病んで頭へ疝気がのぼる】

かくなりはつるはりのとうぜん【角なりはつるは理の当然】

かたじけなすび【かたじけ茄子】

かっちけなしのみありのたね【忝け梨の実ありの種】

かまわずともよしのくず【かまわずとも吉野葛】

かんじんかしまのかなめいし【肝心鹿島の要石】

かんにんしなののぜんこうじ【堪忍信濃の善光寺】

きがききすぎすさつきのそら【気が利きすぎす五月の空】

きがもめのおふじさん【気がもめのお富士さん】

ききにきたののほととぎす【聞きに北野の時鳥】

きこうかるかやおみなべし【聞こう刈萱女郎花】

きたがなければにっぽんさんかく【北がなければ日本三角】

きたりきのじや【来たり喜の字屋】

気遣い梨の木さいかち猿すべり

きのえはとっこではのねはあご【木の根はとっこで歯の根は顎】

きみょうちょうらいやのわかだんな【奇妙頂礼屋の若旦那】

ぎょいはよしののさくらもち【御意は吉野の桜餅】

きょろりかんすのおちゃがわく【きょろり鑵子のお茶がわく】

きんかくではいけんならばいいつてがある【金角で拝見ならばいい伝手がある】

きんのしたにはふのくだゆう【金の下には歩の九太夫】

ぐいちかすざけひげにつく【ぐいち粕酒髭につく】

くちばかりのいかのしおから【口ばかりの烏賊の塩辛】

ぐにんなつのむし【愚人夏の虫】

くれはおけやのたなにあり【くれは桶屋の棚にあり】

けいまのふんどしはずされぬ【桂馬の褌はずされぬ】

けしがからけりゃとうがらしはひっこむ【けしが辛けりゃ唐辛子は引っ込む】

けっこうけだらけはいだらけ【けっこう毛だらけ灰だらけ】

けんじてんのうあきのたの【献じ天皇秋の田の】

けんのんさまへつきまいり【剣呑様へ月参り】

こころえだぬきのはらつづみ【心得狸の腹鼓】

こっちへきなこもち【こっちへきな粉餅】

こまりいりまめさんしょうみそ【困り煎り豆山椒味噌】

ごめんそうめんゆでたらにゅうめん【御免素麺茹でたらにゅうめん】

これからさけのだんのうら【これから酒の壇ノ浦】

■さ行

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さあ大変下女鉢巻を腹にしめ

山六去って猿眼

さましてたんとおあがり【冷ましてたんとお上がり】

さよならさんかくまたきてしかく【さよなら三角また来て四角】

さらになしじのじゅうばこ【更に梨地の重箱】

さんすけまったり【三助待ったり】

しかたなかばしかんだばし【仕方中橋神田橋】

しからばごめんのこうむりはおり【然らば御免の蒙り羽織】

しかられたんぼのしいなぐさ【叱られ田圃のしいな草】

しくじっぴょうごにんぶち【四九十俵五人扶持】

失敬もっけい鼻もっけい

じゃまにならのきむくろんじ【邪魔に楢の木椋ろんじ】

しょうがなければみょうががある【生姜なければ茗荷がある】

しょうしんしょうめいけぶけちりん【正真正銘けぶけちりん】

しらぬがおのはんべえ【知らぬ顔の半兵衛】

すこしおそしどう【少し御祖師堂】

すったこった【すったこった】

すってんころり山椒味噌

すまないのじろうなおざね【済まないの次郎直実】

せきのきよみずいなり【急きの清水稲荷】

そういやそうれんぼうずがおってくる【そういや葬礼坊主が追ってくる】

そううまくは烏賊の金玉

草加越谷千住の先だ

そうかもんいんのべっとう【そうか門院の別当】

そうそうへんじょうあまつかぜ【早々返上天津風】

そうで有馬の水天宮

そうはいかのきんたま【そうは烏賊の金玉】

そうはとんやがおろさない【そうは問屋が卸さない】

そのことあわせにひとえもの【そのこと袷に単衣物】

そのてはくわなのやきはまぐり【その手は桑名の焼き蛤】

そろそろときたやましぐれ【そろそろと北山時雨】

■た行

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たこうはいわれぬえどびんやっこ【高うはいわれぬ江戸鬢奴】

ただどりさつまのかみ【只取り薩摩守】

たまげたこまげたあずまげた【たまげた駒下駄東下駄】

だんだんよくなるほっけのたいこ【だんだんよく鳴る法華の太鼓】

ちがいないのまんなか【違いないの真ん中】

ちと怪しし男之助

ちゃぬきのこんぴら【茶抜きの金平】

頂戴針箱煙草盆

ちょうど芳町

ちょびとお妻八郎兵衛

ちんぷんかんぷん猫の糞

告げる合邦外ヶ浜

つら山の武者所

手がないの次郎直実

敵もさるもの引っ掻くもの

てんでんがらがら笙の笛

どういうもんだ広徳寺の門だ

どうしたひょうしのひょうたんじゃ【どうした拍子の瓢箪じゃ】

どうでありまのすいてんぐう【どうで有馬の水天宮】

道理で南瓜がとうなすだ

どこぞの達磨の縁の下

途方とてつ妙稀代

飛んだ茶釜が薬罐に化けた

■な行

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内藤宿の唐辛子

なにがなんきんとうなすかぼちゃ【何がなんきん唐茄子かぼちゃ】

なにかごようかここのかとおか【何か御用か九日十日】

茄子の巾着口開かぬ

なぜのかみがやっこをふる【なぜの神が奴を振る】

なんだかんだはなかんだ【なんだかんだ洟かんだ】

にげたうちによこもっこう【逃げたの内に横木瓜】

似たり鼈甲二枚挿し

塗り箸ところてんで箸にかからぬ

根つ切り葉つ切り病切り

寝待ち藪柑子

飲み込み山の寒烏

飲んだる達磨の橡の下

■は行

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ばちが当たれば太鼓で受ける

張って悪いは親父の頭

はらがきたやまきんかくじ【腹が北山金閣寺】

飛車取り王手は詰みよりこわい

びっくり下谷の広徳寺

ひどい目に袷帷子単衣物

百も合点二百も承知

ふさぎの虫や赤蛙

ふところがなかのちょう【懐が中の町】

鮒と鯰と泥鰌が安い

平気の平左衛門

べらに坊が付きゃ天秤棒に目鼻

ほいと山谷の痔の神様よ

坊主ぼっくり山の芋

ほっておけさの盆踊り

■ま行

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まかりいずものおおやしろ【まかり出雲の大社】

負けたを走る昼狐

待っていたのの天神さま

真っ平御免素麺冷素麺

みあげたもんだよやねやのふんどし【見上げたもんだよ屋根屋の褌】

耳を痛やの玉霰

昔権現逃げるが勝ち

無官の太夫おつもり

目のない釘で切っても来れない

もはや蛙の頬冠り

■や行

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やかましかァ薬罐をかぶれ

やけのやん八二人連れ

やはり兵衛太郎

雪の西明寺

ゆるり関白太政大臣

よい所へ鷺坂伴内

様子が有馬の松

よしてもくんな小夜嵐

弱り名古屋は城でもつ

■ら行

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頼光の家来でまた負けの綱

羅漢さまの頭

利息の高も金次第

流行におくれ狼

悋気嫉妬の修羅には家内

留守の間の書き出し

恋慕れれつ

蝋燭箱の書き付け

六尺おどれ沖のこのしろ

六部裁つ晴れ着の切れは頭陀袋

■わ行

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わかったわかった牛の爪

わけは追分で越しゃ軽井沢

わっちゃ足袋屋にある

わり椀持てほいどしろ

笑い清めたてまつる

んだら叔母ヘコでっちり

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【死神】しにがみ 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

米津玄師も唸る幽冥落語の逸品。元ネタはドイツ、はたまたイタリア由来とか。ローソク使った寿命の可視化が真骨頂。

別題:全快 誉れの幇間

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより もうかる 商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、もうかり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめたッ」
と教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、こうじ町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近愛人に迷って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけ機会をやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう一冊の本になってしまったくらい。西本晃二『落語「死神」の世界』(青蛙房、2002年)です。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」です。

それを劇化したのがイタリアのルイージ・リッチとフェデリコ・リッチ兄弟のオペレッタ「クリスピーノと死神」で、この筋か、または、グリム童話「死神の名付け親」の筋を、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が福地桜痴(源一郎、1841-1906、幕臣→劇作家、東京日日新聞社長、衆院議員)あたりから聞き込んで、落語に翻案したものといわれています。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

キリスト教世界の死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。古来、日本にはこんなイメージがありません。日本では死神があんまり出てこないのです。

この噺で語られる死神はというと、ぼろぼろの経帷子きょうかたびらをまとったやせた老人で、亡者もうじゃの悪霊そのもの。

しかし、こんなのは日本文化にはなじまないもの。明らかに明治期に西洋から入ってきた死神の図像的な翻案です。

とはいえ、円朝は死神像をでたらめにこさえたわけでもありません。

江戸時代も後期になると、聖書を漢訳本で読んだ国学者たちの間で醸成していった西洋と日本の掛け合わせ折衷文化が庶民の日常にもじわじわと及ぼしてきます。

ついには、これまでの日本人がまったく抱いてこなかった「死を招く霊」が登場するのです。

たとえば、下図は『絵本百物語』(桃山人著、竹原春泉斎画、天保12年=1841年)の「死神」。このようにすっとんきょうな、乞食のようなじいさんのような姿の死神像も一例です。

日本の「死神」は古くからあまりイメージされてきていませんから、人々の心の中に一定のイメージがあるわけではありませんでした。

それでも「死神」というからには死を連想させるわけで、老人、病人、貧者の姿がおさまりよいのでしょう。異形のなりではありますが。

円朝の「死神」では、筋の上では西洋の翻案のためか、ギリシア風の死をつかさどる神とい、新しいイメージが加わっているようにも見えます。

日本では死神に対する誰もが抱く共通した図象イメージがなかったことが、円朝にはかえっておあつらえ向きだったことでしょう。

ローソクを人の寿命に見立てる考えなども、日本人にはまったくなかった発想でした。ここでの死神は、じつは、明治=近代の意識丸出しのそれなんですね。

「古典落語」といいながらも、大正期にできた噺までも許容しているわけです。

古典落語を注意深く聴いていると、妙に「近代」が潜り込んでいることに気づくときもあります。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎(1784-1849、音羽屋)以来の、音羽屋の家芸です。

明治19年(1886)3月、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)が千歳座の「加賀かがとび」で演じた死神は、「頭に薄鼠うすねず色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子にねぎの枯れ葉のような帯」という姿でした。

不気味に「ヒヒヒヒ」と笑い、登場人物を入水自殺に誘います。客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

二代目中村鴈治郎(林好雄、1902-83、成駒屋)がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味とユーモアが渾然一体で絶品でした。八五郎役は森川正太(新井和夫、1953-2020)。

鴈治郎が演じた死神は、「日本名作怪談劇場」。昭和54年(1979)6月20日-9月12日、東京12チャンネル(テレビ東京)で放送された全13回の怪談ドラマの中の一話でした。

以下が放送分です。「死神」は第10話だったようです。夏の暑いところを狙った企画だったのですね。

第1話「怪談累ヶ淵」(6月20日放送)
第2話「怪談大奥(秘)不開の間」(6月27日放送)
第3話「四谷怪談」(7月4日放送)
第4話「怪談吸血鬼紫検校」(7月11日放送)
第5話「怪談佐賀の怪猫」(7月18日放送)
第6話「怪談利根の渡し」(7月25日放送)
第7話「怪談玉菊燈籠」(8月1日放送)
第8話「怪談夜泣き沼」(8月8日放送)
第9話「怪談牡丹燈籠」(8月15日放送)
第10話「怪談死神」(8月22日放送)
第11話「怪談鰍沢」(8月29日放送)
第12話「怪談奥州安達ヶ原」(9月5日放送)
第13話「高野聖」(9月12日放送)

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は、「死神」を改作して「誉れの幇間たいこ」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

円遊の「全快」は、善表という幇間が主人公です。

「死神」のやり方

円朝から初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が継承します。

先の大戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)が得意としました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、オチも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種でした。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のは、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方でした。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 むだぐち 故事成語

【初天神】はつてんじん 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

悪ガキの上をいく、ピンボケなすれたおやじ、熊五郎の噺。

あらすじ

新しく羽織をこしらえたので、それをひけらかしたくてたまらない熊五郎。

今日は初天神なので、さっそくお参りに行くと言い出す。

かみさんが、
「それならせがれの金坊を連れていっとくれ」
と言う。

熊は
「口八丁手八丁の悪がきで、あれを買えこれを買えとうるさいので、いやだ」
とかみさんと言い争っている。

当の金坊が顔を出して
「家庭に波風が立つとよくないよ、君たち」

親を親とも思っていない。

熊が
「仕事に行くんだ」
とごまかすと
「うそだい、おとっつぁん、今日は仕事あぶれてんの知ってんだ」

挙げ句の果てに、
「やさしく頼んでるうちに連れていきゃ、ためになるんだけど」
と親を脅迫するので、熊はしかたなく連れて出る。

道々、熊は
「あんまり言うことを聞かないと、炭屋のおじさんに山に捨ててきてもらうぞ」
と脅すと
「炭屋のおじさんが来たら、逃げるのはおとっつぁんだ」
「どういうわけで、おとっつぁんが逃げる」
「だって、借金あるもん」

弱みを全部知られているから、手も足も出ない。

そのうち案の定、金坊は
「リンゴ買って、みかん買って」
と始まった。

「両方とも毒だ」
と熊が突っぱねると
「じゃ、飴買って」

「飴はここにはない」
と言うと
「おとっつぁんの後ろ」
と金坊。

飴売りがニタニタしている。

「こんちくしょう。今日は休め」
「冗談いっちゃいけません。今日はかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」

二対一ではかなわない。

一個一銭の飴を、
「おとっつぁんが取ってやる」
と熊が言うと
「これか? こっちか?」
と全部なめてしまうので、飴売りは渋い顔。

金坊が飴をなめながらぬかるみを歩き、着物を汚したのでしかって引っぱたくと
「痛え、痛えやい……。なにか買って」

泣きながらねだっている。

「飴はどうした」
と聞くと
「おとっつぁんがぶったから落とした」
「どこにも落ちてねえじゃねえか」
「腹ん中へ落とした」

今度は、凧をねだる。

往来でだだをこねるから閉口して、熊が一番小さいのを選ぼうとすると、またも金坊と凧売りが結託。

「へへえ、ウナリはどうしましょう。糸はいかがで?」

結局、特大を買わされて、帰りに一杯やろうと思っていた金を、全部はたかされてしまう。

金坊が大喜びで凧を抱いて走ると、酔っぱらいにぶつかった。

「このがき、凧なんか破っちまう」
と脅かされ、金坊が泣き出したので
「泣くんじゃねえ。おとっつぁんがついてら。ええ、どうも相すみません」

そこは父親で、熊は平謝り。

そのうち、今度は熊がぶつかった。

金坊は
「それ、あたいのおやじなんです。勘弁してやってください。おとっつぁん、泣くんじゃねえ。あたいがついてら」

そのうち、熊の方が凧に夢中になり
「あがった、あがったい。やっぱり値段が高えのはちがうな」
「あたいの」
「うるせえな、こんちきしょうは。あっちへ行ってろ」

金坊、泣き声になって
「こんなことなら、おとっつぁん連れて来るんじゃなかった」

しりたい

オチが違う原話

後半の凧揚げのくだりの原話は、安永2年(1773)、江戸で出版された笑話本『聞上手』中の小ばなし「凧」ですが、オチが若干違っています。

おやじが凧に夢中になるまでは同じですが、子供が返してくれとむずかるので、おやじの方のセリフで、「ええやかましい。われ(おまえ)を連れてこねばよかったもの(を)」。

ひねりがなく平凡なものですが、古くは落語でもこの通りにやっていたようです。

文化年間から口演か

古い噺で、上方落語の笑福亭系の祖といわれる初代松富久亭松竹(生没年不詳、19世紀の人)が前項の原話をもとに落語にまとめたものといわれています。

松竹は少なくとも文政年間(1818-30)以前の人とされるので、この噺は上方では文化年間(1804-18)にはもう演じられていたはずです。

松竹が作ったと伝わる噺には、このほか「松竹梅」「たちぎれ」「千両みかん」「猫の忠信」などがあります。

東京には、比較的遅く、大正に入ってから。三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が移植しました。

仁鶴の悪童ぶり

東京では十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)、三遊亭円弥(林光男、1936-2006)、上方では三代目桂米朝(中川清、1925-2015)でしたが、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)から継承した三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)も得意としていました。

オチは同じでも、上方の子供のこすっからさは際立っています。

みなさん、物故者ばっかりで残念です。

初天神

旧暦では1月25日。そのほか、毎月25日が天神の祭礼で、初天神は一年初めの天神の日をいいます。

現在でも同じ正月25日で、各地の天満宮が参拝客でにぎわいますが、大阪「天満の天神さん」の、キタの芸妓のお練りは名高いものです。

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【莨の火】たばこのひ 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

もとは上方の噺。林家彦六が持ってきたといわれています。

あらすじ

柳橋の万八まんぱちという料理茶屋にあがった、結城拵ゆうきごしらえ、無造作に尻をはしょって甲斐絹かいき股引ももひき、白足袋しろたび雪駄せったばきという、なかなか身なりのいい老人。

欝金木綿うこんもめんの風呂敷包み一つを座敷に運ばせると、男衆の喜助に言いつけて駕籠屋かごやへの祝儀しゅうぎ二両を帳場に立て替えさせ、さっそく芸者や幇間たいこを総揚げに。

自分はニコニコ笑って、それをさかなにのんでいるだけ。

その代わり、芸者衆の小遣いに二十両、幇間に十両、茶屋の下働き全員に三十両と、あまりたびたび立て替えさせるので、帳場がいい顔をしない。

「ただいま、ありあわせがございません、と断れ」
と、喜助に言い渡す。

いよいよ自分の祝儀という時にダメを出された喜助、がっかりしながら老人に告げると
「こりゃあ、わしが無粋ぶすいだった。じゃ、さっきの風呂敷包みを持ってきておくれ」

包みの中には、小判がぎっしり。

これで立て替えを全部清算したばかりか、余ったのを持って帰るのもめんどうと、太鼓と三味線を伴奏に、花咲爺はなさかじいさんよろしく、小判を残らずばらまいて
「ああ、おもしろかった。はい、ごめんなさいよ」

「あれは天狗か」
と、仰天した喜助が跡をつけると、老人の駕籠は木場の大金持ち奈良茂ならもの屋敷前で止まった。

奈良茂ならご贔屓筋ひいきすじで、だんなや番頭、奉公人の一人一人まで顔見知りなのに、あの老人は覚えがない。

不思議に思って、そっと大番頭に尋ねると、あの方はだんなの兄で、気まぐれから家督を捨て、今は紀州で材木業を営む、通称「あばれ旦那」。

奇人からついた異名とのこと。

ときどき千両という「ホコリ」がたまるので、江戸に捨てにくるのだ、という。

事情を話すと「立て替えを断った? それはまずかった。黙ってお立て替えしてごらん。おまえなんざあ、四斗樽ん中へ放り込まれて、ぬかの代わりに小判で埋めてもらえたんだ」

腰が抜けた喜助。

帰って帳場に報告すると、これはこのまま放ってはおけないと、芸者や幇間を総動員、山車だしをこしらえ、人形は江戸中の鰹節を買い占めてこしらえ、鳶頭の木遣りや芸者の手古舞、囃子で景気をつけ、ピーヒャラドンドンとお陽気に奈良茂宅に「お詫び」に参上。

これでだんなの機嫌がなおり、二、三日したらまた行くという。

ちょうど三日目。

あばたれだんなが現れると、総出でお出迎え。

「ああ、ありがとう、ありがとう。ちょっと借りたいものが」
「へいッ、いかほどでもお立て替えを」
「そんなんじゃない。たばこの火をひとつ」

しりたい

上方落語を彦六が移植

上方落語の切りネタ(大ネタ)「莨の火」を昭和12年(1932)に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)の直伝で覚え、東京に移植したものです。

正蔵(当時は三代目三遊亭円楽)は、このとき「おしの釣り」もいっしょに教わっていますが、東京風に改作するにあたり、講談速記の大立者、初代悟道軒円玉ごどうけんえんぎょく(浪上義三郎、1866-1940)に相談し、主人公を奈良茂の一族としたといいます。

東京では彦六以後、継承者はいません。

上方版モデルは廻船長者

本家の上方では、初代桂枝太郎(岩本宗太郎、1866-1927)が得意にしました。地味ながら現在でもポピュラーな演目です。

上方の演出では、主人公を、和泉いずみ佐野さのの大物廻船かいせん業者で、菱垣廻船ひがきかいせんの創始者飯一族の「和泉の飯のあばれだんな」で演じます。

「飯の」とは食野家めしのけのこと。江戸中期から幕末まで和泉国日根ひのね郡佐野(大阪府泉佐野市)をベースに繁栄した豪商の一家です。 屋号は「和泉屋」です。同地で栄えた唐金家からかねけととつねにセットに語られました。

江戸期の全国長者番付『諸国家業自慢』でも上位に載っています。ちなみに、和泉佐野は戦国末期から畿内の廻船業の中心地でした。

この一家は、元和年間(1615-24)に江戸回り航路の菱垣廻船で巨富を築き、寛文年間(1661-73)には廻船長者にのし上がっていました。

鴻池こうのいけは新興のライバルで、東京版で主人公が「奈良茂の一族」という設定だったように、上方でも飯の旦那が鴻池の親類とされていますが、これは完全なフィクションです。

上方の舞台は、大坂北新地の茶屋ちゃや綿富わたとみとなっています。

江戸の料理茶屋

宝暦から天明年間(1751-89)にかけて、江戸では大規模な料理茶屋(料亭)が急速に増え、文化から文政年間(1804-30)には最盛期を迎えました。

有名な山谷さんやの懐石料理屋八百善やおぜんは、それ以前の享保きょうほう年間(1716-36)の創業です。文人墨客ぶんじんぼっかくの贔屓を集めて文政年間に全盛期を迎えています。

日本橋浮世小路の百川ももかわ、向島の葛西太郎かさいたろう洲崎すざき升屋ますやなどが一流の有名どころでした。

江戸のバンダービルト

奈良茂は江戸有数の材木問屋でした。

もとは深川ふかがわで足袋商いなどをしていた小店者でしたが、四代目奈良屋茂左衛門勝豊かつとよ(?-1714)のときに、天和3年(1683)、日光東照宮の改修用材木を一手に請け負って巨富を築きました。

その豪勢な生活ぶりは、同時代の紀伊国屋文左衛門(1669?-1734)と張り合ったといわれていますが、多分に伝説的な話で、信憑性はありません。

噺の格好の材料にはなりました。初代から三代目までは小商いでした。

四代目の遺産は十三万両余といわれ、霊岸島に豪邸を構えて孫の七代目あたりまでは栄えていました。

その後、家運は徐々に衰えましたが、幕末まで存続していたそうです。

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【しの字嫌い】しのじぎらい 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

主人と太郎冠者とののんきなやりとりみたいで、狂言のようなのどかさです。

【あらすじ】

さるご隠居が、飯炊きの権助一人を置いて、暮らしている。

小女などは扱いがめんどうくさいし、泥棒の用心にも男の方がいいと使っているのだが、この男、いちいちへりくつをこねて主人に逆らうので、しゃくの種。

灯を煙草盆に入れろと言えば
「煙草盆に火を入れたら焦がしちまう。火入れの中の灰の上へ灯を入れるだんべ」
とくるし、困らせてやろうと
「衝立の絵の虎が気味が悪いから、ふんじばってくれ」
と言うと
「棒でその虎を追い出してくらっせえ」
と、一休のようなことを言ってすましている。

どうにも始末におえないので、しの字封じをしてとっちめてやろうと思いつき、権助に
「しの字は死んだ、身代限り、仕合せが悪いという具合に縁起が悪いから、これからおまえも、しを言ってはいけない。言えば給金をやらない」
と申し渡す。

権助は、隠居がもし言った場合は、望むものをくれるという条件で承知する。

「待ってくだせえ。今しの字を書いて飲んでしまう。ひいふうみ、さ、もう言わねえ」

これで協定が成立したが、隠居、なんとか権助に「し」と言わせようと必死。

不意に
「水は汲んだか」
と声を掛ければ、いつものくせで
「水は汲んでしまいました」
と二回言うに違いないと考えて試すと、権助引っかからず
「汲んで終わった」

隠居、思わず
「しょうがねえ」
と言いかけて、あわてて口を押さえ、今度は四百四十四文の銭を並べて勘定させれば、イヤでも言わないわけにはいかないと企むが、敵もさるもの。

四百四十四のところにくると、ニヤリと笑い
「三貫一貫三百一百二十二十文だ」

「そんな勘定があるか。本当を言え」
「よ貫よ百よ十」
「この野郎、しぶとい野郎だ」
「ほら言った。この銭はオラのもんだ」

【うんちく】

原話はチョンボ

古い原型は、正徳年間(1711-16)刊の上方笑話本『異本軽口大矢数』中の「四の字を嫌ふだんな」にあり、続いて天明6年(1786)刊『十千万両』中の「銭くらべ」が、短い小咄ながら、現行のパターンにより近いものとなっています。

これはケチだんなと小僧の賭けで、「四の字」を言ったらお互い銭五貫文という取り決めです。仕掛けるのは小僧で、使いから帰ってだんなに、小僧が「モシ、だんな様。今日通り丁(=町)で、鍋屋が木の鍋に精出して、火であぶつておりました」、だんなが「とんだやつだ。それは大きに、しりがこげるだろう」と、あっさりひっかかって五貫文せしめられるという、たわいないものですが、小僧の言葉をよく読むと完全チョンボで、小僧が先に「モシ、だんな様」「精出して」で「シ」を二回も言ってしまっています。

それに加えてもしこの小僧が江戸っ子なら当然、「火で」は「シで」と発音しているわけで、そうなると勝負は、小僧が三回で十五貫、だんなが一回で五貫、差し引きで小僧が十貫の罰金です。

現在でも演者によって、人物設定を原話の通りだんなと小僧の対話とする場合があります。

名人二代、連発

現存するもっとも古い速記は、明治29年(1896)7月の三代目柳家小さんのものですが、暉峻康隆は、この速記の大チョンボを指摘していました。

よく通しで読むと、実は、ほかのところで権助は三度も「シ」とやらかしていて、だんなはそれに気づいていない、というわけです。

だんなが気づかないだけでなく権助当人も気づかず、演じている小さん当人も、当時の読者も編集者も速記者もすべてだれも気づかなかったに違いありません。

ちなみに、この噺の一部ををマクラに組み入れている二代目(禽語楼)小さんの「かつぎや」(明治22年)を調べると、案の定ここでも、客が「昨日は途中でシつれいを」とやり、後の方でも「よんるい中でそのよん睦会をもよおシまシて」、主人も主人で「ただあっちの方てえのはおかシいが」とやらかしています。

アラを探せばいくらでもこの種のチョンボはあらわれるもの。『古典落語・続』(興津要、講談社学術文庫)の速記(演者不明)でも、やっぱりありました。

おそらく、寄席で口演されるときでも、どの演者も一度や二度は必ずやっているはずです。

熟達の演者自身をも巻き込む、錯覚の恐ろしさ自体が、この噺のテーマと解釈すれば、実は傑作中の傑作ということになるでしょうか。

いずれにせよ、鶴亀鶴亀。一見前座噺のように見える軽い噺ですが、六代目三遊亭円生や三代目三遊亭小円朝のような、コトバに対して緻密な落語家しか手掛けなかったというのもなにやらうなずけます。

言霊の恐怖

類話に「かつぎや」があります。

同じ忌み言葉をめぐるお笑いでも、「しの字嫌い」の方は「かつぎや」の主人公と異なり、特に縁起かつぎというわけではありません。とはいえ、やはりそれなりに、日本人の言霊への根強い恐怖感が根底にあることはいなめないでしょう。

「し」をまったく発音しまいとするのは極端としても、披露宴の席での「忌み言葉」は厳として残り、「四」「九」の発音は「死」「苦」につながるという俗信は現在も残っていて、多くのアパートやマンション、ホテルでは444号室や44号室のルームナンバーは忌避されます。

江戸ことばでは四は、たとえば四文はヨモンというふうに発音を替えられるので問題ないものの、四十、四百は慣用的にシジュウ、シヒャクと発音せざるを得なかったので、そこにくすぐりが成立したわけです。

言葉によっては、四でも「四海波」をシカイナミと読まねばならないため、いちいち気にしていてはきりがありません。

おまけに、婚礼の席でうたわれる、おめでたい極みの謡曲「高砂」の一説に、「月もろともに出で潮の 波の淡路の島影や」と、ごていねいにも「シ」が二回入っているのですから、なにをか言わんやですね。 

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【水道のゴム屋】すいどうのごむや 落語演目 あらすじ

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昭和6年(1931)ごろの東京の下町風俗がうまく出ていますね。新作落語の佳作です。

水道やガスのゴム管を、戸別訪問で売り歩いている、十二、三歳の小僧。

「こんちは、水道のゴムはいりませんか」
と黄色い声で売り回っても、からかわれるばかりで、なかなか商売にならない。

今日も、まずいきなり、
「てめえはなんだな、オレに恥をかかせるつもりだなッ。家には水道がねえんだ」
と、すごまれた。

二軒目では、ばあさんが耳が遠く、聞き間違われてラチがあかない。

三軒目では
「近頃感心な小僧だ。年はいくつだ」
「十三でございます」
「柄が大きいから十五、六に見えるな。学校へ行ったか」
「五年まで行きましたが、おとっつぁんが大病をしたので奉公しました」
「そいつは惜しいことをした。親を大切にしてやれ。どこだ、故郷は」
「東京で」
「なんだ、江戸っ子じゃねえか。その心持ちを忘れるなよ。今におまえが大きくなったら、水道のゴム会社かなにかの社長にならなくちゃならねぇ。あっははは、年はいくつだ」

これを三回繰り返し、しまいには「近ごろ感心な小僧だ」からセリフを全部覚えてしまった。

「物覚えのいい小僧だ。オレんとこはいらねえ」

次の奥方は、だんなの浮気で修羅場の真っ最中。

「復讐してやるわ。あなた、ガスのゴムも持ってるでしょう。そこのメーターのところから計ってちょうだい」
「さいならッ」

ガス自殺の手伝いをさせられそうになり、あわてて逃げ出す。

お次は、浪曲をうなっている男。

「水道屋にゃあ、縄張りってものがあるだろう」
と、妙なことを言い出す。

「しっかりしろい。おまえが親からもらった荒神山を、安濃徳が自分のものにしようてんだ。『人の落ち目につけこんでェ、覚えていろよ安濃徳ゥ』」
と、虎造十八番の「荒神山」をうなり出す。

「だんな、浪花節がお上手で」
「よし、その一言が気に入った」
「買ってくれますか」
「オレんとこじゃあァ、買わねえんだァ」
と浪曲で断られた。

最後は、インテリ風の男。

「一尺いくらだ」
と聞くので、
「十九銭」
と答えると、二尺はいくら、三尺、四尺、五尺……と暗算をさせられ、果てに、
「しからば、百七十三尺六寸では?」
と、妙に細かく刻む。

小僧が四苦八苦して計算していると
「そういう時にはこういう調法なものがある。これは最近、九九野八十一先生が考案した完全無欠の計算器」
と、妙なものを取り出して、ベラベラ効能書きを並べた挙げ句、とうとう小僧に無理に売りつけて、さようなら。

小僧、さっそくいじり始めたが、
「売らずにこっちが五十銭で買って帰ったんだから、零を五十で割ると、おやおや、答えが零だ。なら、べつに損はないや」

作者は水道局出身 【RIZAP COOK】

六代目三升家小勝の新作です。「のっぺらぼう」の作者でもある人です。小勝は、八代目桂文楽門下の俊秀で創作の才に富み、この噺は入門間もない前座(桂文中)時代の昭和6年(1931)ごろの作です。

小勝は、文七を経て昭和12年(1937)5月、真打昇進で二代目桂右女助を襲名。右女助時分は新作で売れに売れましたが、二つ目のころから人気者でした。

「水道のゴム屋」は、創作から5年温めて、まだ二つ目の昭和11年(1936)、キングレコードから「水道のホース屋」としてSP発売。大当たりとなり、客席から「ゴム屋!」と声がかかるほどの大ヒット。これが出世の糸口でした。この題材は、小勝が入門前に東京市水道局の工務課に勤務する技師だったことから、知識を生かしてものしたものです。

なかなか売れず、浪曲で「オレんとこじゃ買わねえんだ」と断られるくだりは、明らかに古典落語の「豆屋」を下敷きにしていて、マヌケオチのオチの部分は「壷算」「花見酒」などの踏襲でしょう。

特に山の手の「モダンガール」風の奥さんが「ウチのひとったらうそつきよ、色魔よ、復讐してやるわ。精神的な復讐してやるわ」と、ヒステリックに小僧にわめき散らすところが当時のメロドラマ映画と重なり、大受けだったようです。

当時、まだまだ十分普及していない家庭用上水道事情を知る上で貴重な資料ですが、未成年労働者といい、あまりに隔世の感がありすぎ、現在では口演する余地のない噺です。

小勝の晩年 【RIZAP COOK】

右女助(当時)は、「ゴム屋」に続き、「妻の釣り」「操縦日記」、酔っ払いをカリカチュアした「トラ」シリーズなどの新作を数多く自作自演。

古典でも「初天神」など、子供の登場する噺や「穴泥」「天災」ほか、軽いこっけい噺など、明るく軽快なテンポで、太平洋戦争をはさんで昭和20年代のラジオ時代まで人気を博しました。

昭和31年(1956)3月、六代目小勝を襲名しますが、そのころから時代の波に乗れず、下り坂に。58歳の脂ののった年齢で脳出血に倒れ、以後高座に復帰できないまま、昭和46年(1971)12月29日、師匠の八代目文楽の死からわずか17日後、後を追うように亡くなりました。享年63。

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【大仏餠】だいぶつもち 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

八代目文楽のおはこでした。「神谷幸右衛門」の名が言えずに……。

あらすじ

ある雪の晩、上野の山下あたり。

目の不自由な子連れの物乞いが、ひざから血を流している。

ふびんに思った主人が、手当てをしてやった。

聞けば、新米の物乞い。山下で縄張りを荒らしたと、大勢の物乞いに袋だたきにあったとか。

子供は六歳の男児。この家では子供の袴着の祝いの日だった。

同情した主人は、客にもてなした八百善からの仕出しの残りを、やろうとした。

物乞いが手にした面桶を見ると、朝鮮さはりの水こぼし。

驚いた主人、
「おまえさんはお茶人だね」
と、家へあげて身の上を聞いてみると、芝片門前でお上のご用達をしていた神谷幸右衛門のなれの果て。

「あなたが神幸さん。あなたのお数寄屋のお席開きに招かれたこともある河内屋金兵衛です」
と、おうすを一服あげ、大仏餠を出す。

幸右衛門、感激のうちに大仏餠を口にしたため、のどにつかえて苦しんだ。

河内屋が背中をたたくと、幸右衛門の目が開いた。

ついでに、声が鼻に抜けてふがふがに。

「あれ、あなた目があきなすったね」
「は、はい。あきました」
「目があいて、鼻が変になんなすったね」
「はァ、いま食べたのが大仏餠、目から鼻ィ抜けました」

【RIZAP COOK】

うんちく

「三代目になっちゃった」 【RIZAP COOK】

三遊亭円朝の作で、三題噺をもとに作ったものです。出題は「大仏餅」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」。円朝全集にも収録されていますが、昭和に入ってはなにをおいても八代目桂文楽の独壇場でした。文楽の噺としては「B級品」で、客がセコなときや体調の悪い場合にやる「安全パイ」のネタでしたが、晩年は気を入れて演じていたようです。にもかかわらず、この噺が文楽の「命取り」になったことはあまりに有名です。

この事件の経緯については、『落語無頼語録』(大西信行、芸術出版社、1974年)に、文楽の死の直後の関係者への取材をまじえて詳しく書かれ、またその後今日まで40年近く、折に触れて語られています。以下、簡単にあらましを。

昭和46年(1971)8月31日。この日、国立劇場の落語研究会で、文楽は幕切れ近くで、登場人物の「神谷幸右衛門」の名を忘れて絶句。「もう一度勉強しなおしてまいります」と、しおしおと高座を下りました。

これが最後の高座となり、同年12月12日、肝硬変で大量吐血の末死去。享年79。

文楽はその前夜にも同じ「大仏餅」を東横落語会で演じ、無難にやりおおせたばかりでした。高座を下りたあと、楽屋で文楽は淡々とマネジャーに「三代目になっちゃったよ」と言ったそうです。

三代目とは三代目柳家小さん(1930年没)のこと。漱石も絶賛した明治大正の名人でしたが、晩年はアルツハイマーを患い、壊れたレコードのように噺の同じ箇所をぐるぐる何度も繰り返すという悲惨さだったとか。

文楽は、一字一句もゆるがせにしない完璧な芸を自負していただけに、いつも「三代目になる」ことを恐れて自分を追い詰め、いざたった一回でも絶句すると、もう自分の落語人生は終ったといっさいをあきらめてしまったのでしょう。

「三代目になった」ときに醜態をさらさないよう、弟子の証言では、それ以前から高座での「お詫びの稽古」を繰り返していたそうです。

大西氏は文楽の死を「自殺だった」と断言しています。神谷幸右衛門は、噺の中でそのとき初めて出てくる名前ですから、忘れたら横目屋助平でも美濃部孝蔵でも、なんでもよかったのですがね。

無許可放送事件 【RIZAP COOK】

平成20年(2008)2月10日、NHKラジオ第一放送の「ラジオ名人寄席」で、パーソナリティーの玉置宏氏が、個人的に所蔵している八代目林家正蔵(彦六)の「大仏餅」を番組内で放送しました。

ところが、これが以前にTBSで録音されたものだったため、著作権、放映権の侵害で大騒動になり、すったもんだで玉置氏は降板するハメになりました。

文楽のを流しておけば、あるいは無事ですんだかもしれませんね。

「大仏餅」は文楽没後は前記正蔵が時々演じ、現在では柳家さん喬、上方の桂文我などが持ちネタにしています。

大仏餅 【RIZAP COOK】

江戸時代、上方で流行した餅で、大仏の絵姿が焼印で押されていました。京都の方広寺大仏門前にあった店が本家といわれますが、奈良の大仏の鐘楼前ともいい、また、同じく京都の誓願寺前でも売られていたとか。支店だったのでしょうか。

この餅、『都名所図絵』(秋里籬島、安永9年=1780刊)にも絵入りで紹介されるほどの名物です。

その書の書き込みにも、「洛東大仏餅の濫觴は則ち方広寺大仏殿建立の時よりこの銘を蒙むり売弘めける。その味、美にして煎るに蕩けず、炙るに芳して、陸放翁が餅、東坡が湯餅にもおとらざる名品なり」と絶賛。

滝沢馬琴が、享和2年(1802)、京都に旅した折、賞味して大いに気に入ったとのこと。『羇旅漫録』(享和3年=1803刊)に記しています。馬琴が36歳、生涯唯一の京坂旅行でした。さてこの店、昭和17年(1942)まで営業していたそうです。

面桶 【RIZAP COOK】

めんつう。一人分の飯を盛る容器です。「つう」は唐音。

禅僧が修行に使った携帯用のいれものでした。戦国時代には戦陣で飲食に使う便利なお椀に。江戸時代には主に乞食が使う容器となりました。

七五三の祝い 【RIZAP COOK】

噺に出てくる「袴着」は男児が初めて袴をはく儀式のこと。三歳、五歳、七歳など、時代や家風によって祝いをする年齢が変わりました。

これは七五三の行事のひとつです。今は七五三としてなにか同じ儀式のように思われていますが、江戸時代にはそれぞれ別の行事でした。おとなへ踏み出す成長行事です。

髪置 かみおき 男女 三歳 11月15日に
袴着 はかまぎ 男児 三歳か五歳か七歳 正月15日か11月15日に
帯解 おびとき 女児 七歳 11月15日に

髪置は 乳母もとっちり 者になり   三21

袴着にや 鼻の下まで さつぱりし   初5

一つ飛ん だりと袴着 つるし上げ   十四22

袴着の どうだましても 脱がぬなり   七27

帯解は 濃いおしろひの 塗りはじめ   初6

肩車 店子などへは 下りぬなり   十四23

髪置ははじめて髪を蓄えること。帯解は付け紐のない着物を着ること、つまりは帯で着物を着ること。

袴着もはじめて袴をはくことで、それぞれ、大人へのはじめの一歩の意味合いと、元気に成長してほしいという親の切なる願いのあらわれです。

めでたい儀式ですから、乳母もお酒を飲んでお祝いして、その結果、とっちり者になってしまうわけです。「とっちり者」は泥酔者のこと。

最後の句の「店子」は借家人のこと。この噺に出てくる子供は裕福な恵まれた環境で育ったわけで、長屋住まいの店子には肩車された上から挨拶するという、支配者と被支配者との関係性をすり込ませるような、すでにろくでもない人生の始まりを暗示しています。

まあ、とまれ、江戸のたたずまいが見えてくるような風情です。

朝鮮さはりの水こぼし 【RIZAP COOK】

さはりは銅、錫、銀などを加えた合金。水こぼしは茶碗をすすいだ水を捨てる茶道具です。

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【天狗裁き】てんぐさばき 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

他人が見た夢を覗いてみたいという欲求。底知れぬ魅力が隠れているからです。

別題:羽団扇(前半)

【あらすじ】

年中不景気な熊公。

女房のお光に、
「路地裏の又さんがムカデの夢を見たら、客足がついて今じゃ大変な羽振りなんだから、おまいさんも、たまにはもうかるような夢でも見てごらん」
と、せっつかれて寝る。

「……ちょいとおまいさん。夢見てたろ。どんな夢見たんだい」
「見やしねえ」

見た、見ないでもめているうちに
「ぶんなぐるぞ」
「ぶつんならぶっちゃァがれ」
と本物の大げんかになる。

大声を聞きつけて飛んできた隣の辰つぁん、事情を聞くと、自分もどんな夢か知りたくなり
「おめえとオレたぁ、兄弟分だ。女房に言えなくても、オレには言えるだろう」
「うるせえなあ、見ちゃあいねえよ」
「こんちくしょう、なぐるぞ」

またケンカ。

今度は大家が。

一部始終を聞くと、まあまあと、熊を家に連れていき、
「大家といえば親同然。オレには言えるだろう」

ところが熊公、
「見ていないものは、たとえお奉行さまにも言えない」
というので、大家もカンカン。

それならとお白州へ召し連れ訴え。

訴えを聞いて、奉行も知りたくてたまらない。

「どうじゃ、いかなる夢を見たか奉行には言えるであろう」
「たとえお奉行さまでも、見てないものは言えません」
「うぬッ、奉行がこわくないか」
「こわいのは天狗さまだけです」

売り言葉に買い言葉。

頭に来たお奉行、
「それならばその天狗に裁かせる」
と言って、熊を山の上へ連れていかせる。

高手小手たかてこてに縛られ、大きな杉の木にわきつけられた熊。

さて、そのまま夜は更け、ガサガサッと舞い降りてきたのは天狗。

奉行から事の次第を聞いて、天狗も熊の夢を知りたくてたまらない。

「どうしても言わないなら、羽団扇はねうちわで体を粉みじんにいたしてくれる」
と脅すので、さすがの熊も恐ろしくなり、
「言うかわりに、手ぶらではしゃべりにくいから、その羽団扇を持たせてくれ」
と頼む。

天狗がしぶしぶ手渡すと、熊公、団扇でスチャラカチャンとあおぎ始めたからたまらない。

熊公の体はたちまちフワフワと上空へ。

「うわっ、下りてこいッ」
「ふん、もうてめえなんぞにゃ用はねえ。こいつはいただいてくから、あばよッ」
「うーっ、泥棒ッ」

しばらく空中を漂って、下り立ったところが大きな屋敷。

ようすが変なので聞いてみると、お嬢さんが明日をも知れぬ大病とのこと。

たちまち一計を案じた熊、医者になりすまし、お嬢さんの体を天狗団扇で扇ぐとアーラ不思議、たちまち病気は全快した。

その功あってめでたくこの家の入り婿に。

婚礼も済んで、いよいよ日本一の美人の手を取って初床に……。

「……ちょいとッ」
「ウワッ。なんでえ、おまえは」
「なんでえじゃないよ。おまいさんの女房じゃないか」
「ウエッ、お光。あー、夢か」

【しりたい】

長編の前半が独立

噺としては、上方から東京に移されたものですが、さらにさかのぼると今はすたれた長編の江戸落語「羽団扇」の前半が独立したもので、ルーツは各地に残る天狗伝説です。

「羽団扇」は、女房が亭主の初夢をしつこく尋ね、もめているところに天狗が登場して女房に加勢。

鞍馬山くらまやままでひっさらっていき白状させようとする設定で、大家や奉行は登場しません。

後半は、亭主が墜落したところが七福神の宝船で、弁天さまに酒をごちそうになり、うたた寝して起こされたと思ったら、今のは夢。

女房が吸いつけてくれた煙草を一服やりながらこれこれと夢を語ると、七福神全部そろっていたかと聞かれ、数えると一人(一福)足らない。「ああ、あとの一福(=一服)は煙草で煙にしてしまった」という他愛ないオチです。

志ん生の十八番

上方では三代目桂米朝(中川清、1925-2015)が得意にし、その一門を中心にかなり口演されていたようですが、東京では戦後ずっと五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の専売特許でした。

と言うより、「抜け雀」などと同様、志ん生以外の、また志ん生以前の速記がまったくなく、いつごろ東京に「逆輸入」されたのか、志ん生が誰から教わったかは一切不明です。

とにかく志ん生のものは女房、奉行、天狗みなおもしろく、縦横無尽な語り口で、いつの間にか聞く者を異次元の領域に誘うようです。

ストレス解消、現実逃避に、これほど適した落語はそうありません。

上方の演出

米朝版では、場所を鞍馬山と特定し、また、役人が亭主を山へ連れていくのではなく、奉行所の松の木につるされているところを天狗にさらわれる設定です。

さらに、一度は助けようとした天狗が、同じように好奇心を起こして脅しにかかる点が東京の志ん生演出と異なるところです。

東京では志ん生没後は、長男の十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)が継承しました。

現役では、柳家権太楼の音源があるくらいで、手掛ける演者はあまり多くないようです。「羽団扇」の方は、三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)と七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)のCDがあります。

天狗が登場する落語や芝居

落語では上方のものがほとんどで、道中で松の木から小便をしたら下の山賊が天狗と勘違いして逃げる「天狗山」、与太郎噺の「天狗風」、間抜け男がすき焼きにしようと山へ天狗を捕まえに行く「天狗さし」、バレ噺の「天狗の鼻」(これだけは江戸)などがあります。

歌舞伎の天狗ものでは、執権・北条高時が天狗の乱舞に悩まされ、狂乱する河竹黙阿弥かわたけもくあみ作の「北条九代名家功ほうじょうくだいめいかのいさおし」(一幕目の通称は「高時」)、近松門左衛門ちかまつもんざえもんの原作で、隅田川の梅若伝説うめわかでんせつにお家騒動をからめ、これまた天狗の乱舞が売り物の「雙生隅田川ふたごすみだがわ」が現在もよく上演されます。

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【三枚起請】さんまいぎしょう 落語 演目 あらすじ

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どんな?

性悪女にひっかかるのも、お得な人生かもしれませんね。

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あらすじ

町内の半公が吉原のお女郎に入れ揚げた町内の半公。

家に帰らず、父親に頼まれた棟梁が呼んで意見をするが、当人、のぼせていて聞く耳を持たない。

かえってノロケを言いだす始末。あんな実のある女はいない、年季が明けたらきっとおまえさんといっしょになる、神に誓って心変わりしないという起請文も取ってあるという。

棟梁が見てみると「小照こと本名すみ……」

どこかで聞いたような名。

それもそのはず、棟梁も同じ女からの同じ起請文を一枚持っているのだ。

品川から吉原に住み替えてきた女だった。

江戸中探したら何千枚あるか知れやしねえとあきれているところへ、今度は三河屋の若だんながやってきて、またまた同じノロケを言いだした。

「セツに吉原の女がオカボレでげして、来年の三月に年季が明けたら、アナタのお側へ行って、朝暮夜具の揚げ下ろしをしたいなぞと……契約書まであるんでゲス」とくる。

「若だんな、そりゃひょっとして、吉原江戸町二丁目、小照こと本名すみ……」
「おや、よくご存じで」

これでエースが三枚、いやババか。

半公と若だんなはカンカンになり、これから乗り込んで化けの皮をひんむいてやると息巻くが、棟梁がそこは年の功、正面から強談判しても相手は女郎、開き直られればこっちが野暮天にされるのがオチ、それよりも……と作戦を授け、その夜三人そろって吉原へ。

小照を茶屋の二階へ呼びつけると、二人を押し入れに隠し、まず棟梁がすご味をきかせる。

起請てえのは、別の人間に二本も三本もやっていいものか、それを聞きに来たと言うと、女もさるもの、白ばっくれる。

「それじゃ、三河屋の富さんにやった覚えはねえか」
「なんだい、あんな男か女かわからない、水瓶に落ちた飯粒みたいなやつ」
「おい、水瓶に落ちたおマンマ粒、出といで」

これで一人登場。

「唐物屋の半公にもやったろう」
「知らないよ。あんな餓鬼みたいな小僧」
「餓鬼みたいな小僧、こちらにご出張願います」

こうなっては申し開きできないと観念して、小照が居直る。

「ふん、おまえたち、大の男が三人も寄って、一人の女にかかろうってのかい。何を言いやがる。はばかりながら、女郎は客をだますのが商売さ。だまされるテメエたちの方が大馬鹿なんだよ」
「このアマぁ、嘘の起請で、熊野の烏が三羽死ぬんだ。バチ当たりめ」
「へん、あたしゃ、世界中の烏をみんな殺してやりたいよ」
「こいつめ、烏を殺してどうしようってんだ」
「朝寝がしたいのさ」

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しりたい

起請文

年季ねんが明けたら夫婦になる」は女郎のくどき文句ですが、その旨の誓いを、紀伊国・熊野三所権現発行の牛王ごおうの宝印に書き付け、男に贈ります。

宝印は、熊野権現のお使いの烏七十五羽をかたどった文字で呪文が記してあります。これを熊野の護符といい、それをのみ込むやり方もありました。

その場合、嘘をつくと熊野の烏(暗に当人)が血を吐いて死ぬといわれていました。

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「三千世界の……」

オチの言葉は、倒幕の志士・高杉晋作が、品川遊郭の土蔵相模どぞうさがみ(「居残り佐平次」)で酒席で酔狂に作ったというざれ唄「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」から直接採られています。

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)で、佐平次(フランキー堺)がごきげんでこの唄をうなっていると、隣で連れションをしていた高杉晋作(石原裕次郎)ご本人。

「おい、それを唄うな。……さすがにてれる」

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                        日本の至宝『幕末太陽傳』☞

お女郎の年季

吉原にかぎり、建前として十年で、二十七歳を過ぎると「現役引退」し、教育係の「やり手」になるか、品川などの岡場所に「住み替え」させられました。

「住み替え」とは、芸者、遊女、奉公人などが主家を替えることをいいます。

明治5年(1872)の「娼妓解放令」で、表向きは自由廃業が認められ、この年季も廃止されましたが、実際はほとんどのお女郎が借金のため引き続き身を売らざるを得ず、実態は何も変わりませんでした。

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【佃祭】つくだまつり 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

実録をもとにした奇談です。志ん生や志ん朝のでよく聴きますね。

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あらすじ

夏が巡ってきて、今年も佃の祭りの当日。

祭り好きな神田お玉ヶ池の小間物屋次郎兵衛、朝からソワソワ。

焼き餅焼きの女房から
「祭りが白粉つけて待ってるでしょ」
などと嫌みを言われてもいっこうに平気で、白薩摩に茶献上の帯という涼しいなりで、いそいそと出かけていく。

一日見物して、気がつくと、もう暮れ六ツ。渡し舟の最終便は満員。

これに乗り遅れると返れないから次郎兵衛、船頭になんとか頼んで乗せてもらおうとしていると、
「あの、もし……」
と袖を引っ張る女がいる。

「あたしゃ急ぐんだ」
「そうでもございましょうが」
とやりとりしている間に、舟は出てしまう。

「どうしてくれる」
と怒ると、女はわびて、
「実は三年前、奉公先の金を紛失してしまい、申し訳に本所一ツ目の橋から身を投げるところをあなたさまに助けられ、五両恵まれました」
と言う。

名前を聞かなかったので、それ以来、なんとかお礼をと捜し回っていたが、今日この渡し場で偶然姿を見かけ、夢中で引き止めた、という。

そう言われれば覚えがある。

女は、今では船頭の辰五郎と所帯を持っているので、いつでも帰りの舟は出せるから、ぜひ家に来てほしいと、願う。

喜んで言葉に甘えることにして、女の家で一杯やっていると、外が騒がしい。

若い者をつかまえて聞くと、さっきの渡し舟が人を詰め込みすぎ、あえなく転覆。

浜辺に土左衛門が続々とうち上がり、辰五郎も救難作業に追われている、とのこと。

次郎兵衛は仰天。

もし三年前に女を助けなければ、自分も今ごろ間違いなく仏さまだと、胸をなで下ろす。

やがて帰った辰五郎、事情を聞くと熱く礼を述べ、今すぐは舟を出せないから、夜明けまでゆっくりしていってくれと、言う。

一方、こちらは次郎兵衛の長屋。

沈んだ渡し舟に次郎兵衛が乗っていたらしい、というので大騒ぎ。

女房は半狂乱で、長屋の衆に
「日ごろ、おまえさんたちがあたしを焼き餅焼きだと言いふらすから、亭主が意地になって祭りに出かけたんだ。うちの人を殺したのはおまえさんたちだ」
とえらい剣幕。

ともかく、白薩摩を着ているからすぐに身元は知れようから、死骸は後で引き取ることにし、月番の与太郎の尻をたたいて、折れ口だから一同悔やみの後、坊さんを呼んで、仮通夜。

やがて夜が白々明けで、辰五郎に送られた次郎兵衛、そんな騒ぎとも知らずに長屋に帰ってくる。

読経の声を聞いて、
「はて、おかしい」
と家をのぞくと、驚いたのは長屋の面々。

「幽霊だぁ」
と勘違いして大騒ぎ。

事情がわかると坊さんは感心し、人を助けると仏法でいう因果応報、めぐりめぐって自分の身を助けることになると、一同に説教。

これを聞いた与太郎、
「それならオレも誰か助けてやろう」
と、身投げを探して永代橋へ。

おあつらえ向きに、一人の女が袂に石を入れ、目に涙をためて端の上から手を合わせている。

「待ってくれッ。三両やるから助かれッ」
「冗談言っちゃいけないよ。あたしは歯が痛いから、戸隠さまへ願をかけてるんだ」
「だって、袂に石があらあ」
「納める梨だよ」

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佃島渡船転覆事件

明和6年(1769)3月4日、佃島住吉神社の藤棚見物の客を満載した渡船が、大波をかぶって転覆、沈没。乗客三十余人が溺死する大惨事に。

翌年、奉行所を通じて、この事件への幕府の裁定が下り、生き残った船頭は遠島、佃の町名主は押し込みなど、町役にも相応の罰が課されました。

噺は、この事件の実話をを元にできたものと思われます。

佃の渡しは古く、正保年間(1644-48)以前にはもうあったといわれます。佃島の対岸、鉄砲洲てっぽうず船松町一丁目(中央区湊町三丁目)が起点でした。

千住汐入せんじゅしおいりの渡しとともに隅田川最後の渡し舟として、三百年以上も存続しましたが、昭和39年(1964)8月、佃大橋完成とともに廃されました。

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さかのぼれば実話

中国明代の説話集『輟耕録てっこうろく』中の「飛雲の渡し」を町奉行としても知られた根岸鎮衛やすもり(肥前守、1737-1815)が著書『耳嚢みみぶくろ』(文化11=1814年刊)巻六の「陰徳危難を遁れし事」として翻案したものが原話です。

オチの部分の梨のくだりは、式亭三馬しきていさんば(1776-1822)作の滑稽本『浮世床』(文化11=1814年初編刊)中の、そっくり同じ内容の挿話から「いただいて」付けたものです。

中国の原典は、占い師に寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救い、その応報で、船の転覆で死ぬべき運命を救われ、天寿を全うするという筋です。「ちきり伊勢屋」の原話でもあります。

『耳嚢』の話の大筋は、現行の「佃祭」そっくりで、ある武士が身投げの女を助け、後日渡し場でその女に再会して引き止められたおかげで転覆事故から逃れる、というもの。

筆者は具体的に渡し場の名を記していませんが、これは明らかに前記の佃渡船の惨事を前提にしています。

ところが、これにもさらに「タネ本」らしきものがあって、『老いの長咄』という随筆(筆者不明)中に、主人の金を落として身投げしようとした女が助けられ、後日その救い主が佃の渡しで渡船しようとしているのを見つけ、引き止めたために、その人が転覆事故を免れるという実話が紹介されています。

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円喬、志ん生、金馬

明治28年(1895)7月、『百花園』掲載の四代目橘家円喬の速記が残っています。戦後、若き日に円喬に私淑した五代目古今亭志ん生が、おそらく円喬のこの速記を基に、長屋の騒動を中心にした笑いの多いものにして演じ上げ、十八番にしました。

もう一人、この噺を得意にしたのが三代目三遊亭金馬で、こちらは円喬→三代目円馬と継承された人情噺の色濃い演出でした。

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竜神は梨好き

戸隠神社に梨を奉納する風習は古くからありました。江戸の戸隠神社は、湯島天神社の本殿後方の石段脇にあり、正式には戸隠大権現社。湯島天神と区別されて湯島神社とも呼ばれ、土地の地神とされます。

信濃の戸隠明神(長野市)を江戸に勧請したもので、祭神は本社と同じ、戸隠九頭龍大神です。ありの実(梨)を奉納すると歯痛が治るという俗信は、信濃の本社の伝承をそのまま受け継いだものです。

江戸後期の歌人、津村正恭まさやす(淙庵そうあん、?-1806)は随筆『譚海たんかい』(寛政7=1795年上梓)巻二の中で、この伝承について記しています。それによると、戸隠明神の祭神は大蛇の化身で、歯痛に悩む者は、三年間梨を断って立願すれば、痛みがきれいに治るとのこと。その御礼に、戸隠神社の奥の院に梨を奉納します。神主がそれを折敷に載せ、後ろ手に捧げ持って、岩窟の前に備えると、十歩も行かないうちに、確かに後ろで梨の実をかじる音が聞こえるそうです。

梨と竜神(大蛇?)と歯痛の関係は、よくわかりません。でも、戸隠の神が、江戸に来ても信州名物の梨が好物なことだけは確かなようです。虫歯の「虫」も、梨の実に巣食った虫といっしょに、竜神が平らげてくれるのかもしれません。

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佃祭

佃住吉神社(中央区佃一丁目)の祭礼です。旧暦で6月28日、現在は8月4日。天保年間(1830-44)にはすでに、神輿の海中渡御で有名でした。

歌川広重「江戸名所佃まつり」

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本所一ツ目橋

墨田区両国三丁目の、堅川の掘割から数えて一つ目の橋を「本所一ツ目の橋」、その通りを「一ツ目通り」と呼びました。橋は現在の「一之橋」で、このあたりは御家人が多く住み、「鬼平」こと長谷川平蔵(1745年)、勝海舟(1823年)の生誕地でもあります。

佃住吉神社の現在

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【阿武松】おうのまつ 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

大食いで武隈たけくま関に追い出された男。板橋宿いたばしじゅくでたらふく食って死のうとする。旅籠はたごの主人に救われて錣山しころやま部屋へ。錣山では大食いがすすめられた。男はたちまち大出世だいしゅっせ。とうとう長州藩ちょうしゅうはんのお抱え力士に。これぞ第六代横綱、阿武松おうのまつ出世譚しゅっせたん

別題:出世力士

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あらすじ

京橋観世新道かんぜじんみちに住む武隈文右衛門たけくまぶんえもんという幕内関取のところに、名主の紹介状を持って入門してきた若者がある。

能登国鳳至ふげし鵜川うかわ村字七海しつみの在で、百姓仁兵衛のせがれ長吉、年は二十五。

なかなか骨格がいいので、小車おぐるまという四股名しこなを与えたが、この男、酒も博打も女もやらない堅物なのはいいが、人間離れした大食い。

朝、赤ん坊の頭ほどの握り飯を十七、八個ペロリとやった後、それから本番。

おかみさんが三十八杯まで勘定したが、あとはなにがなんだかわからなくなり、寒けがしてやめたほど。

「こんなやつを飼っていた日には食いつぶされてしまうから、追い出しておくれ」
と、おかみさんに迫られ、武隈も
「わりゃあ、相撲取りにはなれねえから、あきらめて国に帰れ」
と、一分金をやって追い出してしまった。

小車、とぼとぼ板橋の先の戸田川の堤までやってくると、面目なくて郷里には帰れないから、この一分金で好きな飯を思い切り食った後、明日身を投げて死のうと心決める。

それから板橋平尾ひらお宿の橘家善兵衛という旅籠はたごに泊まり、一期いちごの思い出に食うわ食うわ。

おひつを三度取り換え、六升飯を食ってもまだ終わらない。

おもしろい客だというので、主人の善兵衛が応対し、事情を聞いてみると、これこれこういうわけと知れる。

善兵衛は同情し、
「家は自作農も営んでいるので、どんな不作な年でも二百俵からの米は入るから、おまえさんにこれから月に五斗俵二俵仕送りする」
と約束、ひいきの根津七軒町、錣山しころやま喜平次という関取に紹介する。

小車を一目見るなり惚れ込んでうなるばかりの綴山、
「武隈関は考え違いをしている。相撲取りが飯を食わないではどうにもならない。一日一俵ずつでも食わせる」
と善兵衛の仕送りを断り、改めて、自分の前相撲時代の小緑という四股名を与えた。

奮起した小緑、百日たたないうちに番付を六十枚以上飛び越すスピード出世。

文政五年、蔵前八幡の大相撲で小柳長吉と改め入幕を果たし、その四日目、おマンマの仇、武隈と顔が合う。

その相撲が長州公の目にとまって召し抱えとなり、のちに第六代横綱、阿武松緑之助おうのまつみどりのすけと出世を遂げるという一席。

底本:六代目三遊亭円生

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しりたい

阿武松緑之助

おうのまつみどりのすけ。寛政3年(1791)-嘉永4年(1851)。第六代横綱。長州藩抱え。実際は武隈部屋。文政5年(1822)10月入幕、同9年(1826)10月大関、同11年(1828)2月横綱免許。天保6年(1835)10月、満44歳で引退。

四股名の由来は、お抱え先の長州・萩の名所「阿武あぶの松原」から。 

阿武松緑之助(1791-1852)

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板橋宿

地名の由来は、石神井川しゃくじいがわに架かる板橋から。日本橋にほんばしから二里八町(11.2km)。

中山道なかせんどうの親宿(起点)で、四宿(非公認の遊郭。品川、新宿、千住、板橋)の一つ。

西から、上宿かみしゅく(本町ほんちょう)、中宿なかじゅく平尾宿ひらおしゅく(下宿、しもしゅく)に分かれていました。

西から「上」とは不思議ですが、中山道のゴールは京都のため、京都に近い方が「上」となります。

平尾宿は、現在の板橋区本町1-3丁目。JR板橋駅周辺をさします。

宿泊専用の平旅籠ひらはたご以外に、飯盛り女(宿場女郎)を置く飯盛り旅籠があり、そっちの方でもにぎわいました。

ほかには、酒舗や料理屋などが散在していました。

木曽街道板橋之驛(渓斎英泉)

どれほどにぎわっていたかといえば。

文政・天保期の記録では、板橋宿は定人50人、定馬50匹と定められていました。

助郷(伝馬を補助する役)を負わされた村は52か村、石高は1万5,613石だったそうです。

人口は、天保14年(1843)の記録では、男1,053人、女1,395人で、計2,448人。

小藩並みの規模ですね。

本陣(大名などが泊まる公認の宿舎)は中宿にあり、脇本陣(本陣の補助的な宿舎)が中宿、平尾宿にありました。さらに脇本陣を補助する宿舎が上宿にあったそうです。

旅籠(一般の旅館)は大35軒、中11軒、小7軒の計53軒ありました。

この規模は、四宿ではいちばん小さかったそうです。最大は千住です。

旧中山道板橋宿の現在

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縁切り榎

板橋宿といえば、縁切り榎が名所です。

十四代将軍徳川家茂に降嫁した和宮に目障りとされ、薦巻きにされたといいます。「縁切り」がよろしくなかったわけです。

和宮は中山道で江戸に向かいました。

東海道ではありませんでした。東海道は宿数も中山道よりも少なく、一見早く着きそうなかんじがしますが、天候次第での川の増水などで待たされがちな東海道よりもほぼ誤差なしに到着できるので、好まれまれたということです。

のちの新選組を組織する近藤勇や土方歳三らも中山道を京に向かいました。

縁切り榎(板橋区本町18-9、都営三田線板橋本町駅から徒歩で5分)

ちなみに、戸田川とは荒川のこと。

隅田川の上流で、板橋宿のはずれ、志村の在には戸田の渡し場がありました。

木曽街道蕨之驛戸田川渡場(渓斎英泉)

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観世新道

かんぜじんみち。中央区銀座2丁目。丸太新道とも。江戸期には弓町と新両替町2丁目との間にあった通りです。

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講談から脚色

講釈をもとにできた噺。

講談(講釈)には、「谷風情け相撲」など、相撲取りの出世譚は多いのですが、落語化されたものは珍しいです。

大阪の五代目金原亭馬生(宮島市太郎、1864-1946、赤馬生、おもちゃ屋の)から教わった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、得意にしていた人情噺。

弟子の五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が継承しました。

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「阿武松じゃあるめえし」

文政13年(1830)3月、横綱阿武松は、江戸城での将軍家上覧相撲結びの一番でライバルの稲妻雷五郎(1795-1877、第七代横綱)と顔を合わせ、勝ちはしたものの、マッタしたというのが江戸っ子の顰蹙ひんしゅくを買い、それ以後、人気はガタ落ちに。

借金を待ってくれというのを「阿武松じゃあるめえし」というのが流行語になったとか。平戸藩主だった松浦静山の『甲子夜話』にある逸話です。

実録の阿武松は、柳橋のこんにゃく屋に奉公しているところをスカウトされたということです。

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【皇天親なくただ徳をこれ輔く】こうてんしんなくただとくあるをこれたすく 故事成語 ことば 落語 あらすじ

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この故事成語が注目されているのは、「VIVANT」最終回(2023年9月17日放送)でのシークエンスにあります。

ことばの意味は、こんなかんじです。

天は、誰かに偏ることなく、ひたすら徳をもった人にだけ援助するものだ。

「皇天」は広い天の意味で、天に敬称をつけた表現です。

「皇」には「おおらかな」「広い」のニュアンスがあります。

日本の「天皇」につながる語感です。

中国の「天」は、神のような意思をもちながらも茫漠とした存在です。

天の仕業は人間には結果しか見えません。

愛とか救済とかはないのです。

人間の行いをたまに手伝うくらい(愚公山を移す、とか)。

初出は『書経(尚書とも)』から。孔子が編纂したとされる史書で五経の一。中国最古の書です。

ちなみに。

「天」で思い出すエピソードがあります。

昭和47年(1972)9月、田中角栄首相が電撃訪中したときのこと。

29日に日中国交回復を果たした田中は、中国の当時の首脳である毛沢東と周恩来に向けて、以下の七言絶句を送ったのでした。

国交途絶幾星霜 国交途絶して幾星霜
修好再開秋將到 修好再開して秋まさに到らんとす
隣人眼温吾人迎 隣人眼温かくして吾人迎ふ
北京空晴秋気深 北京空晴れて秋気深し

田中はコワモテ風なのに漢詩をつくるなんてすごいなあ、と私は思ったのですが、よく読むと漢字を並べただけの文字列でした。

押韻もないし。

「吾人迎」は「隣人が自分を迎えてくれる」ということなら「迎吾人」がよいでしょう。

「秋」が二回登場するのも詩心の欠如を感じます。

「北京の空」と言いたいのなら、「北京空」ではなく「北京天」がよいはずです。

「空」は「むなしい」の意味にしか使いません。

「天」にはおおざっぱに、①空と②造物主の意味があります。

田中の詩は①、「皇天親なく……」は②の意味となります。

田中の詩は、漢詩を愛好する人たちにはぼろくそでした。

慶応中文出の柴田錬三郎(齋藤錬三郎、1917-78)なんかは、すさまじく憤ってましたねえ。

とはいえ、今太閤の田中なら専門家に代作させることだってたやすかったはずなのに、一人でがんばってつくったわけで、見上げたものです。すばらしいと思いました。

ドカチン出身の田中が見よう見まねでつくった漢詩。

その稚拙かつ無知のあけっぴろげぶりに、毛沢東も周恩来も、逆に感激したのではないでしょうか。

いまでも、中国の要人が訪日すると田中真紀子氏に挨拶しに行くのは、ホントのところは、この一件に由来するのかもしれません。

話が逸れ過ぎてしまいました。

閑話休題。

では、「VIVANT」最終回(2023年9月17日放送)での、このことばが登場したシークエンスについてお話ししましょう。

実子の乃木憂助(堺雅人)に倒されたノゴーンベキ(役所広司)。

彼を葬るにあたって、バルカの次男ノコル(二宮和也)が電話で「墓はバルカに建てさせてほしいが、かまわないか」と、日本にいる長男の憂助に尋ねます。

憂助はすかさず「皇天親なく、ただ徳をこれ輔く。花を手向けるのはまだ先にするよ」と返しました。

これを聴いたノコルの表情は、少々険しかったように見えました。

じつはこのことば、故事成語の中では上級の部類です。

現在、日本での中型漢和辞典の代表格は『漢辞海』(三省堂)、『漢字源』(学研)、『新字源』(KADOKAWA)あたり。

そのいずれにも載っていません。

読売新聞の過去40年間の記事にも一度も使われていません。新聞記者程度の学力や教養では、ちょっと無理でしょう。

われわれの生活では、まず使うことはない。

知ることなしに人生を閉じてもどうってことないことば。

志ん生がよく言う「シャツの三つ目のボタン」というやつ。

あってもなくてもよい。

そんなかんじのことばなんですね。

知っていれば、人生豊かになるかもしれませんが、言ってみたところで相手に通じないなら、無意味です。これでは会話が成り立ちませんからね。

ノコルも意味がわからなかったのでしょう。「花を手向けるのはまだ先にするよ」にいたってはじめて、憂助の真意を解したかんじです。

ベキらが上原史郎(橋爪功)の自宅で憂助に倒されたにもかかわらず、その後、上原宅が全焼し、焼け跡から三つの焼死体が。

「スス同然で発見されました」と公安の野崎(阿部寛)が上原に報告し、上原は「そんなウソがまかり通るのか」とぼやいています。

公安、ではなく、別班の仕業ですかね。

現場に居合わせた上原なのに、その件については言及を避けます。

ベキが上原を狙ったのは40年前の私怨によるものだったことがわかり、うしろめたさが噴出したからなのでしょう。

ベキを倒した憂助。別班の任務。

でも、しっかり親殺し。

ベキの「死」をみとったのは憂助だけでした。

ベキは死んだのか、生きているのか。

「VIVANT」のこれまでの流れから見れば、そうとうにあやしい。

ベキは生きている。ならば、配下のピヨ(吉原光夫)も、バトラカ(林泰文)も。

ということは、このドラマは続編がある、ということです。

ベキは十二分に徳を抱いた人です。この成語にふさわしい人物でしょう。殺人集団の親玉でありながらも、その徳は「天」も黙っちゃいられないほどなのです。

われわれは、「VIVANTの最終回は?」でドラマの結末を予想しました。

テントの壊滅(→実は解体)、ベキの死(→実は生きている?)、ノコルの死(→たしかに生きている)、ピヨの死(→実は生きている?)、バトラカの生存(→実は生きている?)、ベキと憂助の親子の絆(→かたく結ばれたかんじ)、憂助の除隊(→実は辞めていない)……というぐあいに。

大筋では当ててますが、細部は予想外も。まあ、60点程度でしたかねえ。

テントの派手な爆死がなかったのは、最終回にいたって、制作費が枯渇したからでしょうか。

最終回は動的描写があまりにもなかった。

企業と政府の買収劇など、半沢直樹もどきがメインで。バルカくんだりでこんな屋内劇を見せられてもねえ。

意外にしょぼかった。

「復讐して」。明美が放った断末魔のささやきは、ベキの心に40年間たゆとうていました。

ただ、復讐すべき相手が、かつて乃木卓(→ベキ)の上司である上原史郎(警視庁公安部外事課課長→内閣官房副長官)だった、という、このオチ。

これも正直、しょぼかったです。

上原が内閣総理大臣に出世していたなら、大いに復讐し甲斐もあって、おもしろかろうものを。

官僚出の官房副長官では、ちょっとねえ。

ここまで引っ張ってきて、土壇場のダウンサイジングはなんたること。ぽかーん。

最後に。

丸菱商事財務部の太田梨歩(飯沼愛)の正体。

じつは、世界で暗躍する天才的な凄腕ハッカー、ブルーウォーカー(blue@walker)でした。

第4回では、太田が送金プログラムを改竄していたのが明るみになりました。

警視庁公安部が踏み込んだ太田の自宅からの押収品の中には、なんと、八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)の『文楽全集』(小学館)や『昭和の名人 古典落語名演集20 五代目古今亭志ん生』(キングレコード)などがあったのです。

そのCD群の一枚に隠されていたハッキング記録を、野崎が発見。

あの刹那、この子(太田梨歩=飯沼愛)はホントに落語ファンなのかい、と落語ファンの視聴者はいぶかしんだものです。

でも。

最終回では、彼女の作業部屋から「一丁入り」がまたも流れていました。

これにはビックリ。

言わずと知れた、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の出囃子です。気が緩みます。

彼女はやはり、モノホンの落語ファン、それも本寸法のしんぶんマニア(志ん生と文楽のファン)とお見受けしました。

上原のしょっぱい肩透かしは、むしろ太田のたっぷり好みに救われたかんじでしたね。

ウルトラセブンといい、ハリポタといい、「VIVANT」全編を通じての、この手の小物アソビは雲に御す喜びでした。

続編では何が出てくるのでしょう。待ち遠しいですね。


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【王子の幇間】おうじのたいこ 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

踏んだり蹴ったりの狐、ではなく、野幇間のだいこが登場。野幇間のうんちくも。

別題:太鼓の平助

あらすじ

野幇間のだいこの平助。

だんなを取り巻いて東京中をウロつき、神田からとうとう王子にまで来てしまった。

結局、なにもくわせてもらえずに、空腹で目を回したという「武勇伝」を売り物にしているところから、「王子の幇間」と異名までついた。

平助、相当にしたたかな男で、花柳界はもちろん、芝居や寄席の楽屋にまで、呼ばれもしないのに出入りして、かなり顔が売れている。

特に例のだんなの家には、三日にあげず物欲しそうにやってくる。

そればかりか、使用人すべての出自やスキャンダルをしっかり押さえていて、本人の前でそれをネチネチと言うので、鼻つまみになっている。

おかみさんも腹を立て、
「平助入るべからず」
という魔けの札を門口に張ったが、いっこうに効果がない。

今日も懲りずに現れた平助。

さっそく、とびかしらおつにからんで二、三回ポカポカ。

飯炊きの権助ごんすけには、悪魔野郎、終身懲役ヅラめとののしられて、またポカポカ。

出てきたおかみさんには、
「今日は陽気に、店先でポカポカいい音がしたね」
と、逆に嫌味を言われる始末。

実は、さきほど夫婦で示し合わせ、だんなは留守だと言ってこの悪魔野郎を油断させ、悪口を言わせてから、当人がぬっと現れて、こっぴどく痛めつけようという趣向。

平助が出入りして以来、この家で次から次へとものがなくなるので、だんなもそろそろ追っ払い時だと考えている。

そうとは知らない平助。

敵が不在だと聞くと、調子に乗って言いたい放題。

実はだんな、外神田の芸者に入れ揚げてておかみさんを追い出す算段中だの、はては強盗だのとまくし立てた上、例の王子の話を持ち出し、
「あたしはだんなに殺されそこなった」
とおかみさんの気を引く算段。

だまされたふりで
「そうかい。そんな不実な人とは知らなかった。もう愛想が尽きたから、おまえ、私と逃げておくれでないか」
と誘うと、瓢箪ひょうたんから駒、平助は大喜び。

その上
「このツヅラの中にはダイヤモンドに株券、珊瑚珠の五分珠、金ののべ棒が入っているから背負っとくれ」
とでたらめを並べると、色と欲との二人連れ。

「金目の物は残らずお乗せなさい」
と、ヤカンや火鉢まで担ぎ、手がふさがったところで頭をポカリ。

それを合図に、奥からだんながノッソリ。

「この野郎、オレが家にいねえと思って、飛んでもねえことを言やがった。やい、このツヅラにはな、七輪しちりんが四つだ。ざまあ見やがれ欲張り野郎。ヤカンと七輪を背負ってどこへ行こうてんだ」
「へえ、ご近所が火事で手伝いに」
「ばか野郎。火事なんざどこにある」
「今度あるまで背負ってます」

底本:初代三遊亭円遊、1889年12月5日「百花園」

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野幇間

のだいこ。特定の遊里に所属しないフリーの幇間を指します。

その意味で、セミプロともいえるでしょう。落語に出てくる幇間は「つるつる」や「愛宕山」を除いて、ほとんどがこれ。

芸や、客を取り巻く技術にかけては、それ相応に道楽をした末に幇間になった連中であるため、正統の「プロ」に負けない自負があったようです。

式亭三馬しきていさんば(菊地泰輔、1776-1822)の滑稽本『浮世風呂』に登場する野だいこは「野幇間などと申すけれど、野幇間でも勤めぬけることは難うごぜへます」と胸を張っています。

落語には「九州吹きもどし」「山号寺号」「ちきり伊勢屋」などで、こんな川柳が引き合いにされています。

たいこもち揚げての末の幇間もち

このパターンで、野幇間と化した連中が無数に現れます。

落語家で野幇間に転身、また落語界に復帰した例も、三代目三遊亭円遊(伊藤金三、1878-1945)、四代目三遊亭円遊(加藤勇、1902-1984)、七代目橘家円蔵(市川虎之助、1902-80、明舟町の)など、けっこうあります。

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お幇間医者

変わり種に「お幇間医者」というのがあります。

医者とは名ばかり、旗本屋敷に始終出入りしてはご機嫌を取り持っていた手合いのこと。事実上の野幇間です。

「牡丹灯籠」の山本志丈、「紺屋高尾」の竹内蘭石などがそれです。

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「坊っちゃん」の「野だ」も

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は野幇間の表現にすぐれていました。

円遊のファンだった夏目漱石がそれを「坊っちゃん」の「野だ」(野幇間)に写した、というのが『漱石と落語』の水川隆夫説。

この説は複数の研究者に支持されており、間違いないようです。

ただ、落語の野幇間が、どことなく憎めない役どころなのに対し、漱石の野だは、「全く唾棄すべき人物として描かれ」、「自尊心が強く、阿諛追従あゆついしょうを極度に嫌った漱石にとっては、落語の野幇間は、全く軽蔑すべき人物に過ぎなかったのであろうか」と水川は述べています。

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文楽の十八番

先の大戦後は、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、黒門町、実は六代目)の十八番でした。

文楽のは、初代円遊の演出に比べ、くすぐりやくすぐりを抑え、どんなに嫌がられようが、ただのべつまくなしにヨイショを並べ立てるしかない幇間の業を色濃く出していて、その分、平助の悪党ぶりは弱まっています。

これは、「つるつる」「鰻の幇間」など、幇間の登場する噺を得意とした文楽演出に共通しています。

オチもだんなを出さず、平助が「こんないいおかみさんを出して、だんなが花魁おいらんを後妻に直そうとは神も仏もない」と泣いてみせると、お内儀さんが「泣いてくれるのはうれしいけど、目んとこィお茶殻がついてるよ」。「あたしは悲しくなるとお茶殻が出るン」という、「お茶汲み」を思わせる問答で切り、「おなじみの『王子の幇間』でございます」と、地で締めくくっていました。

八代目文楽は、先の大戦前には「太鼓の平助」という題でも演じていました。

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王子の名所

東京都北区は、滝野川区と王子区が統合された地域。滝野川たきのがわの由来はほんとうに滝があったことからなのですね。

滝野川は上流では石神井川しゃくじいがわと呼ばれました。王子に来ると、音無川おとなしがわとも呼ばれ、東側に流れる隅田川にそそがれました。

江戸時代にはこのような風景だったようです。那智の滝のような。八代将軍徳川吉宗が王子の地をさかんにさせたとのこと。

紀州から江戸に来た吉宗のこと、紀州に由来するこの地を愛用したようです。

王子不動三瀧 歌川広重『名所江戸百景』より いまはなき滝野川の風情は壮大でびっくり

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王子製紙工場でブームに

この噺は、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の創作とみられます。

あらすじの参考にした円遊の速記は明治22年(1889)のものなので、その頃の作なのでしょう。

明治20年(1887)、王子製紙が当地に第二工場を建てたところから、新名所ということで「王子ブーム」が起こりました。

タイトルに「王子の…」と付けたのは、そのブームを当て込んでのことかもしれません。

平助は王子の幇間ではありません。神田の幇間なのです。王子まで歩いてきたので、そう呼ばれたのでしょうかね。

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とほかみ

円遊は、マクラで「このだんなは声がかれているから法華のかたまりだろうと思うと、とほかみの信仰家でしくじっちまいますようなことがいくらでもあるんでげす」と語っています。

明治22年ごろの、仏教と神道の活気ある流派を取り上げているのでしょう。法華=日蓮宗⇒仏教、とほかみ=禊教みそぎきょう⇒神道。

「とほかみ」というのは、亀卜を行うときに亀甲の裏に刻んだ線の名をさします。

「と・ほ・かみ・ゑみ・ため」の五つの線を焼いて表に表れる亀裂の形で吉凶を判断しました。

それが転じて、禊教の祈禱で唱えることばともなりました。つまり、「とおかみえみため」は神道の祈りのことば。祓詞です。

「とほかみえみため」は「遠つ神、笑みたまえ」の意。「遠くの神様、微笑んでくださいね」と祈るのでしょう。

禊教は、幕末から明治期に誕生した教派神道(神道十三派)の一。井上正鉄(1790-1849)が教祖となった新しい神道の流派です。

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【王子の幇間 八代目桂文楽】

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【掛け取り万歳】かけとりまんざい 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

大晦日は掛け買いの攻防戦。掛け取りで乗り切れるのか。崖っぷち夫婦の悲喜こもごも。

別題:大晦日 浮かれの掛け取り(上方)

あらすじ

大晦日。

掛け買いの借金がたまった夫婦。

当然支払えるあてはない。

ひとつ、掛け取りの好きなもので言い訳してケムにまき、追い返してしまおう、と作戦を練る。

まずは大家。

風流にも蜀山人しょくさんじんを気取って狂歌きょうかに凝っている。なにせ七か月も店賃たなちんをためているので、なかなか手ごわい相手。

そこで即興の狂歌攻め。

「僧正遍照(=返上)とは思えども金の通い路吹き閉じにけり」
「なにもかもありたけ質に置き炬燵かかろう島の蒲団だになし」
「貧乏の棒は次第に太くなり振り回されぬ年の暮れかな」……

案の定、大家はすっかり乗せられて、
「貸しはやる借りは取られるその中に何とて大家つれなかるらん……オレも時平(=ヒデエ)ことは言わねえ、梅桜の杉(=過ぎ)王まで松(=待つ)王としよう」
と芝居の「菅原」尽くしで帰ってしまう。

次は魚屋の金さん。

この男は、けんかが飯より好き。

今日こそはもらえるまで帰らねえと威勢よくねじこんでくるのを、
「おおよく言った。じゃあ、オレの運が開けるまで、六十年がとこ待っていねえ。男の口から取れるまで帰らねえと言った以上、こっちも払うまでちょっとでも敷居の外はまたがせねえ」
と無茶苦茶な逆ネジ。

挙げ句の果てに借金を棒引きさせて、みごとに撃退した。

こんな調子で義太夫、芝居とあらゆる手で難敵を撃破。

最後に、三河屋のだんな。

これは三河万歳みかわまんざいのマニアだ。

双方、万歳で渡り合い、亭主が扇子を開き「なかなかそんなことでは勘定なんざできねえ」と太夫で攻めれば、だんなは「ハァ、でェきなければァ二十年三十年」と、こちらは才蔵。

「ハァ、まだまだそんなことで勘定なんざできねえ」
「そーれじゃ、いったいいつ払う」
「ひゃーく万年もォ、過ぎたならァ」

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大晦日の攻防戦

昔は、日常の買い物はすべて掛け買いで、決算期を節季せっきといい、盆・暮れの二回でした。

特に大晦日は、商家にとっては、掛売りの借金が回収できるか、また、貧乏人にとっては踏み倒せるかどうかが死活問題で、古く井原西鶴(1642-93)の「世間胸算用」でも、それこそ笑うどころではない、壮絶な攻防戦がくりひろげられています。

むろん、江戸でも大坂でも掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内の生活必需品(酒、米、炭、魚など)に限ります。

落語では結局うまく逃げ切ってしまいますが、現実は厳しかったことでしょう。

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演者が限られる大ネタ

筋は単純で、掛け取り(集金人)それぞれの好きな芸事を利用して相手をケムに巻き、撃退するというだけの噺です。

それだけに義太夫などの音曲、芝居、三河万歳とあらゆる芸能に熟達しなければならず、よほどの大真打ちで、多方面の教養を身に着けた者でなければこなせません。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

円喬は円朝の高弟。明治期の伝説の名人です。

円喬は万歳の部分を出さず、「掛け取り」の題でやりました。

最後は主人公がシンバリ棒をかって籠城してしまうので、掛け取りが困って隣の主人に「火事だ」と叫んで追い出してくれと頼みますが、亭主が窓から五十銭出して「これで火を消してくれ」というオチにしています。

先の大戦後は、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)の独壇場でした。

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三河万歳

万歳は三河、大和、尾張、会津など各地にあり、江戸は三河万歳の縄張りでした。

三河(愛知県東部)は、徳川家康の出身地であることから、江戸での万歳芸能界で、三河の存在が圧倒的有利となったようです。

暮れになると、日本橋に才蔵市さいぞういちが立ちました。

三河・幡豆はず郡の村々から出張してきた太夫たゆうがここで、よさそうな相棒を選び、コンビを組んで、稼ぎます。

熟練も要さない、その程度の芸だったのですね。

太夫は烏帽子えぼしに袴で扇子を持って舞い、掛け合いではツッコミ役。才蔵は小鼓を持ち囃し方とボケ役を担当します。

当初は、三河出身の旗本が屋敷に呼んで、万歳をやらせました。

最初は舞々まいまいと呼ばれて、踊りが中心の芸でした。

これが次第にことば数が増えていき、現在のような浮かれ調子の芸能となりました。

今年一年が幸あれと、調子のよいことばと踊りでことほぐのです。

それが評判となり、三河とゆかりのない家々でも。

ほかの地方から来る万歳は門付け(門の前での芸)でことほぎましたが、三河万歳だけは武士の屋敷に入ってことほぐわけで、特別でした。

こうして、武家屋敷をめぐるる屋敷万歳、町家ばかり受け持つ町万歳(門付け万歳)などと、区別、格付けがなされていきました。

古くは千秋万歳せんずまんざいといい、初春に悪鬼を祓い言霊ことだまによって福をもたらすという民間信仰が芸能化したものといわれます。

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三河万歳のような芸能を、予祝芸能よしゅくげいのうと呼びます。

今年一年の幸福をあらかじめ祝い、もののかなうことを祈る、というものです。

農村では毎年同じことをして耕作し、豊作にもっていくわけですが、その実り多きことを去年と同じように豊作であってくれと、祈るわけです。

予祝芸能は、定住して年中行事をもっぱらとする農耕社会での生産活動から生まれた芸能です。ほかには、風流ふりゅう踊り、獅子舞なども。

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菅原づくし

浄瑠璃および歌舞伎で有名な『菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ』の三段目「車引くるまひき」の登場人物でシャレています。

歌はこの後の「寺子屋の段」で松王丸が詠じる「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に 何とて松の つれなかるらん」のパロディーで、続けて「来春はきっと埋め(=梅)草をします」と梅王丸でしめます。

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芝居

六代目円生では、酒屋の番頭を上使に見立て、「近江八景」づくしのセリフで言い訳した後、「今年も過ぎて来年、あの石山の秋の月」「九月下旬か」「三井寺の鐘を合図に」「きっと勘定いたすと申すか」「まずそれまではお掛け取りさま」「この家のあるじ八五郎」「来春お目に」「かかるであろう」とめでたく追い払います。

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改作二題

上方では、古くはのぞきからくり芝居の口上をまねて、オチを、「これぞゼンナイ(ゼンマイ=ゼニ無い)のしかけ」としていましたが、明治初期に二代目林家菊丸が芝居仕立てのオチに改作したものが「大晦日浮かれの掛け取り」として今に残っています。

もうひとつ、昭和初期に、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)が近代的に改作、野球好きの米穀商と「都の西北」「若き血」の替え歌で応酬した後、「これで借金は取れん(=ドロー、引き分け)ゲームになりました」とダジャレで落とす「掛け取り早慶戦」で大当たりしました。

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円生のくすぐりから

六代目円生のくすぐりが秀逸でした。

亭主が魚屋を逆に脅し、借金を棒引きにさせたあげく、「帰るなら払ったことになるな」と、幻の領収書を書かせるところが爆笑。無理やり「毎度ありがとうございます」と言わせたうえ、「6円70銭。10円渡した(つもり!)からつりを置いてけ」。

まことにどうも、けしからんもんで。

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【干将莫邪】かんしょうばくや 故事成語 ことば 落語 あらすじ


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【いみは?】

中国春秋時代(BC771-BC403)につくられた、二振りの名剣。

意味は、名剣。

ただそれだけ。

このことばには、説教もたとえ話も含まれていません。

剣にまつわるどろどろの物語があるだけなのです。

ふつう、中国の故事とか名言とかは、説教や教訓に包んでありがたみを感じさせるものですが、「干将莫邪」にはそれがまったくないのです。

神秘と妖気がただよう物語をひそませているところが、ほかの故事成語と趣を異にしています。

「干将」も「莫邪(莫耶、鏌鋣とも)」も人の名前ですが、ややこしいことに、二振りの剣にそれぞれ付けられた名前でもあります。

「干将莫邪」が長いので「干鏌」とも言ったりします。

「刀剣」とよく言いますが、「刀」は片方だけが刃になっているもので、「剣」は両端が刃になっているものをさします。

「刀」は日本で、「剣」は中国で、多く使われてきました。

なのに、「刀鍛冶」「剣道」と、日本では腑に落ちない使われ方をしているものです。

さて。

「干将」は呉の刀鍛冶、「莫邪(鏌鋣とも)」はその妻の名前です。

干将は「欧冶子」の弟子、欧冶子の娘が莫邪、という関係。莫邪も刀鍛冶をします。

楚王が、剣の鑑定士である風胡子に鋳剣を命じます。

風胡子は、欧冶子と干将に「龍淵(龍泉とも)」「泰阿(太阿とも)」「工布(工市とも)」という三振りの鉄剣をつくらせています。

これを知った晋王は剣を所望しましたが、楚王に断られます。

怒った晋王は楚を攻めます。

都城を囲んで三年。楚は食糧が尽きます。やけのやんぱち、楚王は城楼に上って泰阿剣を掲げるや、あーらふしぎ、晋軍は混乱して敗走しました。

楚王が「これは宝剣の威力なのか、わしの力なのか」と問えば、風胡子は「宝剣の威力です。でも、少しは王の差配も影響しています」と忖度を。

欧冶子も干将も、とんでもない武器を製造する技術者だったのでした。

以上は、『越絶書』(袁康、呉平、後漢)に出ている話です。

ほかにも、『荀子』『呉越春秋』『漢書』などにも干将莫邪の話は登場します。

干将莫邪に鋳剣を命じる王は呉王闔閭です。

でも、『捜神記』では楚王となっています。呉も越も楚も、揚子江流域にあった国です。

福光光司(道教研究などで有名)によれば、、古代中国での剣に関する神秘化し神霊化する思想は、そのほとんどが呉越の地域が舞台だとのこと(『道教思想史研究』岩波書店、1987)。興味深い考察です。

ですから、干将莫邪にまつわる話では、呉でも越でも楚でもかまわないのです。

江南地方ならOK、ということですね。

以下のあらすじでは、物語としていちばんおもしろい『捜神記』に沿って、干将莫邪の物語を記します。

ただ、前段には『呉越春秋』にだけ残る物語があるので、まずはそれを。

楚王の夫人が、暑さしのぎに、鉄の棒に体を添えて寝ていた。そしたら、たちまち懐妊となり、十か月後には出産。それも黒い鉄の固まりを。楚王は、これは神霊の威が宿るものと、干将と莫邪に鋳剣を命じた。

奇妙な話ですが、「眉間尺」ではこのくだりもしっかり入っています。興味のある方はそちらもお読みください。

【あらすじ 1】

『捜神記』に収められた干将莫邪の物語から。

干将と莫邪は協力し合い、三年がかりで類例の及ばない二振りの剣をつくった。

陽の剣を「干将」と、陰の剣を「莫邪」と名づけた。

なんで自分たちの名前をわざわざ付けるのか。意味不明。

その頃、莫邪は身重だった。

楚王は剣の出来上がりが遅いので怒っていた。しかも、このような優れた剣を他者のためにつくられることにも恐れたを抱いた。

干将が王に剣を献上する日、その日が来た。

出かける前、干将は莫邪に「私は陰の剣だけを王に差し出す。王は怒って私を殺すだろう。生まれてくる子が男だったら、南山麓の木の下に隠してある陽の剣を見つけ出して、その剣で仇を討たせてもらいたい」と告げた。

王は干将を殺した。

莫邪が産んだのは男児だった。

「赤比」と名づけられた。

眉間が一尺(15.8cm)もあるため、「眉間尺」とあだ名された。

少年となった赤比は、父親のいないわけを莫邪から打ち明けられた。

赤比は仇討ちのため、南山麓の木の下から剣を見つけ出し、修行に旅立った。

その頃、王は夢を見た。

眉間尺の少年が自分を討とうとする夢だった。

恐れた王は命じて、眉間尺少年を懸賞付きで捜させる。

赤比は山に隠れたが、父の仇を討てないもどかしさで日々泣いて暮らしていた。

そこを通りかかった旅の男が泣く理由を尋ねる。赤比はわけを語った。

うーん。なみの方法では王には近づけない。ならばいっそ。

と、男はとんでもないことを提案する。

赤比の首と剣を持っていけば王に会えるだろうから、その機に私が王の首を刎ねよう。

赤比は大いに賛成して、すぐに剣でおのれの首を刎ねた。

ええッ、そんなに早く。

首と剣を携えた男は、王との面会がかなった。

王は喜び、「これは勇者の首だから釜ゆでにしよう」と。

赤比の首は三日三晩ゆでられるが、とろけもせず、くずれもせず。目なんかいからせたまま。

どうしたことか。

男は「王よ、釜の中をご覧ください。王の威厳で、必ずや勇者の首はとろけくずれるでしょう」と。

王は言われたままに釜を覗いた。

その瞬間、男は王の首を斬り落とした。

首は釜の中へ。

男も自身の首を斬り落として、釜の中へ入った。

三人の首が、ぐらぐらととろけくずれていった。

三つ巴のどろどろ。

もう区別がつかなくなったので、家臣は三人まとめて墓に入れた。

それが「三王墓」。汝南県にいまも残る。

これが、だいたい一般的な干将莫邪のストーリーです。

日本に渡ると、少し変わってきます。

剣の神秘と、剣に魅せられた王の権力、仇討ちの潔癖は、変わらず伝わります。

【あらすじ 2】

『今昔物語集』巻九「震旦の莫邪、剣を造りて王に献じたるに子の眉間尺を殺される語」からのあらすじを。

震旦(中国)に莫邪という刀鍛冶がいた。

この話には莫邪だけ。

しかも男。

王の妃は夏の暑さにがまんがならず、鉄の柱を抱いて寝ていた。

冷えて気持ちがいいので。ほどなく妃は懐妊。

王は「そんなわけない」といぶかしんだが、やがて妃は鉄の塊を出産した。

「こ、これは」とあやしんでも後の祭り。

王は莫邪を呼んで、この鉄で鋳剣を命じた。

莫邪は二振りの剣をつくり、一振りは隠した。

剣を受け取った王だが、その剣はつねに音を立てている。

尋ねられた大臣は苦し紛れに「この剣は陰陽二振りあって、もう一方を恋い慕っているのではないでしょうか」と。

王は怒り、莫邪を捕まえてくるように命じた。

莫邪は妻に「凶なる夢を見た。だから、王の使いが来て、私は王に殺される。おまえのおなかの子が男だったら、南の山の松の中を見よと告げ、私の仇を討つよう」と。

莫邪は北の門から出て南の山に入り、大きな木のほこらに隠れて死んだ。

妻は男子を産んだ。

眉間の幅が1尺もあり、眉間尺とあだ名されるほどだった。

十五歳の眉間尺は南の山の松のもとに行けば、一振りの剣があった。

その剣を握ると、復讐への思いが湧いてきた。

王は、眉間の広い男が自分を殺そうとする夢を見た。

王は恐れた。

眉間尺は手配の身となった。眉間尺は山に逃げた。

探索する連中の一人が、山中で眉間尺を見つけた。

「眉間尺か」
「そうだ」
「王命でおまえの首と剣を差し出すことになっている」

眉間尺は自らの首を斬り落とした。

刺客は首と剣を携えて王に差し出した。

王は喜び、首を釜でゆでて形なきものにするよう命じた。

七日たっても首は変わらなかった。

王はいぶかしんで釜の中を覗き込んだ。

そのとき、王の首が体から離れて釜に落ちた。

釜の中で二つの首は噛み合った。

それを見ていた刺客は剣を釜の中に投じた。

剣の霊力か、二首は煮とろけた。

その変化を見ているうち、刺客の首も自然に斬り落ちて釜に入った。

三首がどろどろとなった。区別もつかないので、一つの墓に三つの首を葬った。

これが三王墓で、宜春県に残る。

話はスマートになっているようにも見えます。『捜神記』での莫邪はあまり活躍の場面もありませんでした。『今昔物語集』では名前のない妻になっています。王の首が斬り落ちるのが不可解ですが、ここはもう剣の霊力によるものと解釈すれば、刺客の首ポトンも同じでしょう。つまり、この物語の大半は剣の霊力がストーリーを突き動かしているのです。

【あらすじ 3】

では、もうひとつ。

『太平記』巻十三の「眉間尺釬鏌剣の事」に見える干将莫邪の話を見てみましょう。

舞台は建武2年(1335)7月23日の鎌倉。北条時行が鎌倉を攻めた中先代の乱で、その混乱に紛れて、幽閉されていた護良親王が謀殺されます。この日、親王の首を斬り落としたのは淵野辺義博ですが、義博はその首を藪に投げ捨てて戻ります。

なぜか。その理由が、干将莫邪の故事を通して語られるのです。

淵野辺甲斐守(義博)が、兵部卿(護良親王)の首を左馬頭(足利直義)に見せることなく、藪に捨てた理由は、義博自身が少々考えるところあって、このようにふるまった。

ほんとうの理由は。

春秋時代の楚王の物語である。

夏の頃。

甫湿夫人なる楚王の后は鉄の柱に寄りかかって涼んでいたが、ただならぬ心持ちとなって、たちまち懐妊。

鉄の玉を出産した。

楚王は、この玉は金鉄の精霊だろうからと、干将という鍛冶に鋳剣を命じた。

鉄を拝領した干将は呉山に入り、竜泉の水で鍛えて三年がかりで雌雄二振りの剣を仕上げた。

献上する前に、妻の莫邪は干将に「この二振りの剣は精霊がひそかに備わっていて、いながらにして仇敵を滅ぼせるほどです。生まれてくるのは勇ましい男子でしょう。それなら、一振りは隠しておいてわが子にお与えください」と言った。

干将はもっともだと、雄剣のみを楚王に献上した。

王が剣を箱の中に納めると剣が泣いた。

毎晩のことだった。

王は家臣に尋ねると、ある知恵者が「きっと雌雄二振りの剣で、同じところにいないことを悲しんで泣くのでしょう」と奏上した。

王は怒った。

干将に問いただしたが、干将は答えない。

王は干将を獄に投じ首を刎ねた。

莫邪は男児を出産。

眉と眉の間が一尺あったので眉間尺と名づけられた。

眉間尺が十五歳になると、莫邪は父の遺書を読ませた。

そこには「太陽が北向きの窓から射す南山に松の木がある。松は石のはざまで成長する。剣はその中にある」と記されてあった。

眉間尺は「ならば、剣は北向きの窓の柱の中にあるのだな」と言って柱を割って中を見ると、剣があった。

眉間尺は喜び、「この剣で父の仇を討とう」という気持ちが骨の髄までしみ込んだ。

眉間尺が怒っていることを知った王は、数万の兵をやって眉間尺を攻めた。

眉間尺一人の強い力に打ち砕かれて、剣の刃先に死ぬ者や負傷する者が数え切れないほどだった。

王は困り果てた。

甑山からの旅人が眉間尺のもとにやって来た。

干将と交わりを結んだことのある人だった。

旅人は「おまえの父親と結んだ友情は金を断ち切るほどの強いものだ。友の恩に謝するために楚王を討とうとしたが、できなかった。おまえがともに仇を晴らそうと思うのなら、剣の切っ先を三寸食い切って口に含んで死ぬがよい。わたしはおまえ首を持って王に献上しよう。おまえはそのとき口に含んだ剣の切っ先を王に吹きかけて相討ちにしろ」と申し出た。

眉間尺は喜んで、すぐさま剣の切っ先を三寸食い切って口に含み、自ら首を斬り落とし、旅人に差し出した。

旅人は、首を持って王に目通りを。

王は喜び、首を獄門にかけさせた。

首は三か月たってもただれず、目は見開き歯を食いしばって歯ぎしりしていた。

王は恐れ、首を鼎で煮るよう命じた。

あまりにも念入りに煮られたので、首も目を閉じた。

王は恐れることなく鼎をご覧になった。

眉間尺の首は王に向かって剣の切っ先を吹きかけた。

切っ先は正確に王の首の骨を貫いたので、首は鼎の中に落ちた。

王も荒々しく気が強かったので、煮えたぎる鼎の中で双首は上になり下になり、からりひしりと食い合っていた。

眉間尺の首が負けそうな気配に見えたので、旅人はおのれの首を斬り落とし、鼎の中に投げ入れた。

眉間尺と協力し合って王の首を食い破り粉砕した。

眉間尺の首が「死んでから父の仇を晴らした」と言えば、旅人の首も「死んであの世から友の恩に感謝する」と喜んだ。

一度にどっと笑う声が聞こえ、首はは煮ただれて形をなくした。

眉間尺が口に含んだ三寸の剣の切っ先はその後、燕国に残され、太子丹の宝物となった。

太子丹が荊軻と秦舞陽を使って始皇帝を殺そうとしたとき、この剣の切っ先は地図を入れた箱からひとりでに飛び出し、始皇帝を追いかけた。

が、侍医に薬袋を投げつけられたため、さしわたし六尺の銅の柱を半分ほど切って、三つに折れてそのまま行方不明になった短剣がこれだった。

干将の鋳した雌雄二振りの剣の残りは、干将莫邪の剣といわれて、代々天子の宝物となっていたが、陳の時代に行方不明となった。

あるとき。

彗星が現れ、災いの前兆となるできごとが怒った。

臣下の張花と雷煥が高殿に昇って彗星を見るや、古い獄門のあたりから剣の形の光が天空に昇って、彗星と戦っている気配だった。

張花は不思議に思い、光が射す場所を掘ってみた。

干将莫邪の剣が地下五尺の地点に埋もれていたのだった。

二人は喜んで、剣を掘り出し、天子に献上するために自身で腰に差して延平津という船着き場を通った。

天子の宝物になってはいけないいわれでもあったのか、二振りの剣はひとりでに抜け落ちて水中に入ってしまった。

それが雌雄二頭の竜となって、はるか遠い波間に沈んでいった。

以来、剣は行方不明である。

淵野辺甲斐守(義博)は、このような奇譚を思い出したからか、兵部卿(護良親王)が刀の切っ先を食い切ってお口に含みなされたのを見て、首を左馬頭(足利直義)に近づけることをせず、遠い先を見通して藪に捨てたという判断はりっぱなことだったと、この故事を知る者たちは感心したものだ。

いやあ、えらい長い物語でした。

お読みになっておわかりの通り、『捜神記』や『呉越春秋』などよりも、細部が行き届いています。人の心の動きも見えてきています。

この故事は、「擬宝珠」「眉間尺」などで下敷きに使われています。


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【落語家のどこを見ているのだろう】らくごかのどこをみているのだろう 古木優 落語 あらすじ


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先日、落語家の「実力」って、なんだろう?という記事を見つけました。

ここには「落語家の偏差値」が載っていました。かつて、われわれ(高田裕史/古木優)がアップロードしていた記事です。

引っ越しやリニューアルのどさくさで散逸したままでした。もう、わが方には残っていません。懐かしかったので、孫引きさせていただきました。

それが、以下の通り。2.5刻み、河合塾方式のパロディーです。

[独断と偏見] 基準は、うまいかへたか、だけ。
70.0 小三治
67.5 雲助
65.0 さん喬 権太楼 桃太郎
62.5 小柳枝 鯉昇 喜多八 志ん輔 小里ん
60.0 小朝 川柳 馬桜 志ん五
57.5 志ん橋 正雀 小満ん 喬太郎
55.0 円太郎 小さん ぜん馬 竜楽
52.5 昇太 扇遊 菊春
50.0 歌之介 馬生 市馬 平治 白酒 扇治 正朝
47.5 玉の輔 たい平  扇辰 三三 兼好 文左衛門 金時
45.0 花緑 彦いち 志の輔 南なん 菊之丞 とん馬
42.5 志らく 一琴 白鳥 談春
40.0 三平 幸丸 楽輔
37.5 歌武蔵 談笑
35.0 正蔵
32.5 愛楽
30.0 

以上は、「HOME★9(ほめ・く) 偏屈爺さんの世迷い事」というブログからの転載です。勝手に転載してしまいましたが、お許しを。すみませーん。

「偏屈爺さん」は記事中、われわれの評価だけを記していたのではありません。

堀井憲一郎氏が『週刊文春』に載せた「東都落語家2008ランキング」をも引用して、両者を比較しているのです。

ともに、2008年当時の落語家を評価しているわけです。ちょっと凝った趣向です。おもしろい。

堀井氏のも孫引きしてみましょう。それが、以下の通り。

0 立川談志
1 柳家小三治
2 立川志の輔
3 春風亭小朝
4 柳家権太楼
5 春風亭昇太
6 立川談春
7 立川志らく
8 柳家喬太郎
9 柳家さん喬
10 柳亭市馬
11 柳家喜多八
12 林家たい平
13 柳家花緑
14 三遊亭白鳥
15 五街道雲助
16 古今亭志ん輔
17 三遊亭小遊三
18 古今亭菊之丞
19 三遊亭歌武蔵
20 三遊亭遊雀
21 林家正蔵
22 柳家三三
23 昔昔亭桃太郎
24 春風亭一朝
25 瀧川鯉昇
26 春風亭小柳枝
27 立川談笑
28 三遊亭歌之介
29 橘家文左衛門
30 林家彦いち
31 春風亭百栄
32 三遊亭圓丈
33 桃月庵白酒
34 入船亭扇辰
35 三遊亭兼好
36 入船亭扇遊
37 橘家圓太郎
38 春風亭正朝
39 桂歌春
40 むかし家今松
41 春風亭柳橋
42 三遊亭笑遊
43 古今亭志ん五
44 柳家蝠丸
45 柳家小満ん
46 川柳川柳
47 林家三平
48 古今亭寿輔
49 立川生志
50 桂歌丸
51 春風亭勢朝
52 林家正雀
53 柳家はん冶
54 林家木久扇
55 三遊亭圓歌
56 橘家圓蔵

壮観です。

わが方が56人までしか取り上げていないため、堀井氏のほうも56人どまりにして、比較の条件を同じくしています。工夫を見せてくれている。さすが。

そこで、「偏屈爺さん」の解析。

①1位から15位までは両者とも同じ、②16位以下ではだいぶ違っている、ということでした。

おおざっぱにはそんなところでしょう。同意いたします。

ただ。

われわれの視点と、堀井氏の視点には、じつは、決定的な違いがあります。

五街道雲助師についての評価です。

われわれは、「小三治の次は雲助」というのが、当時の評価の大眼目でした。

われわれは、噺家の技量を「うまいか、へたかだけ」しか見ていません。

ですから、2008年時点の落語家の中で、「雲助は二番目にうまいんだ」という評価でした。小三治に次ぐ二番目、ということですね。

じつは、この一点だけのためにこさえたのが「落語家の偏差値」だったのです。誤解を恐れずに極論すれば、ほかはおにぎやかしです。

堀井氏のは、雲助を15位(談志を含めれば16位)に置いています。

ランキングですから、序列のように見えます。その結果、権太楼やさん喬よりも、雲助は下位となっています。

雲助の芸をあまり重視していなかった、というふうにも見えてしまいます。おそらく、堀井氏の心底はそんなところだったのでしょう。

ちなみに、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(広瀬和生著、光文社新書、2011年)という本。

このほほえましい怪著では、落語評論家の広瀬氏が、巻末付録に「落語家」「この一席」私的ランキング2010、というものを掲げています。

初出は2010年。われわれの評価よりも新しいはずなのですが、雲助は出てこない。

弟子の白酒は絶賛していても、師匠には言及がない。雲助の芸風は落語評論家の埒外である、と唱えているのかもしれません。

要約すれば。

堀井氏も落語評論家の広瀬氏も、雲助の芸はどうでもよい、という評価なのでしょう。

いまも、雲助への評価は、お二人とも変わらないのでしょうか。

人は、落語家のどこを見て評価しているのだろう、と思います。

世に落語家と称する方々は900人余いるようですが、噺を何度も聴いてみたいなと思えるのは、10人いるかな、といったところでしょうか。

話芸についての、この数は、いつの時代も、変わらないように思えます。

ただ。

それとはべつに、味わい深く、ちょいと乙な、えも言われずに心地よく、つい気になってしょうがない落語家というのが、じつは、いるものです。

落語家の芸は、噺を聴かせるだけではありません。

さまざまな所作で笑わせてくれるし、そこにいるだけで楽しくなるし、人の心をあたたかく豊かにしてくれます。

これらもまた、落語家の魅力です。

新東宝の67分間を暗がりで見ているうちに、情が移って岡惚れしてしまう女優がいるもんです。

織田おりた倭歌わかなんかが、私にはそんな人でした。(『の・ようなもの』にもちょっとだけ出てました)

あれにも似た感覚かなと思っています。

この、味わい深さとほんのりしたぬくもり。なんともいいもんです。

都内の寄席での10分程度のかかわりでは、「岡惚れ」は至難の業でしょうか。

いやいや、そうでもありますまい。

その昔、深夜寄席で見つけて以来のとっておきの面々も、大御所になっていますから。

今にして思えば、あの偏差値の方々の多くは、深夜寄席での「先物買い」だったのかもしれません。

※「HOME★9(ほめ・く) 偏屈爺さんの世迷い事」さん、ありがとうございました。

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【近江八景】おうみはっけい 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

うんちく垂れ流し。オチがちょいと苦しいのですが、笑っちゃいます。

あらすじ

ある男。

ゆうべ吉原に繰り込んだ兄弟分に、その同じ店の、自分のなじみのお女郎のようすを根堀り葉掘り、しつこく聞いてくる。

その女とは年期が明ければ夫婦になると口約束はしてあるものの、そこはお女郎のこと、自分が行かない時になにをしているか、気になってたまらないわけ。

案の定、別に色男がいるらしいと聞いて、兄さん、カンカン。

しかもその色男、白雪姫ではないが、色白で髪黒々と、目がぱっちりとして男振りもよく、背が高くもなく低くもなく、という、まあ、ライバルとしては最悪。

なお悪いことに、女はもっか、この男に血道をあげ、牛を馬に乗り換えて夫婦約束まで取り交わしている、ということまで知れた。

「おまえのツラじゃあ血道は上がらないわ。女の血道があばら骨で止まるね。おまえのは道普請ヅラ、市区改正ヅラ」

兄弟分にまで言われ放題。

「男は顔じゃねえ」
と強がってみても、内心はカリカリなので、女の本心を、横丁の占いの名人に見立ててもらうことにした。

易者の先生、おもむろに算木筮竹をチャラチャラさせ、
「えー、出ました。易は沢火革。革は改めるということだから、おまえさんのところにこの女が来年の春には来るね」

さあ、男は大喜び。

「聞いたか、オタンチンめ。アッタカクだ。アッタカクってえのは、女房来ればお粥を炊いて暖まるってこった。ざまあみろ」

ところが、まだ続きがあった。

「ああ、お待ち。沢火革を変更すると水火既済となる。つまりだ、来るには来ても、ほかに夫婦約束をした者がいるから、しまいには出ていくから、まあ、おあきらめなさい」
「ベラボウめ。なにが名人だい。せっかく暖めといて、勝手に変更されてたまるか。だいいち、そのスイカキセイってのが気に入らねえ。てめえ、八卦見だってんなら、近江八景で見てくれ。さもなきゃ道具をたたっこわすぞ」
と、女から来た
「あんたを一目三井寺から、心は矢橋にはやれども」
という、近江八景尽くしの恋文を突きつける。

脅されて先生、しかたなく
「それではこの易を近江八景で見ようなれば、女が顔に比良の暮雪ほどお白粉を付けているのを、おまえは一目三井寺より、わがものにしようと心は矢橋にはやるゆえ、滋賀唐崎の夜雨と惚れかかっても、先の女が夜の月。文の便りも堅田より、気がそわそわと浮御堂、根が道落雁の強い女だから、どう瀬田いはまわしかねる。これは粟津に晴嵐がよかろう、おい待った、帰るなら見料を、おアシを置いておいで」
「近江八景には膳所(=金)はねえ」

底本:六代目三遊亭円生

★auひかり★

しりたい

上方の発祥

原話は不詳で、同題の上方落語を東京に移植したものです。

宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究家)は、この噺の類話として、安永10年(1781)刊『民話新繁』中の「鞜の懸」をあげています。

これは、鞜(=靴)屋の手代が、さる公家のところへ盆前の掛け取りに行くと、公家が、手代が持参した主人の書付を見て、「書き出す十三匁 鞜の代 内二百文 七月に取る」と、和歌になっていたので喜び、さっそく、「近江路や 鞜の浦舟 かぢもなく 膳所の松原 まはるまで待て」。

要するに、「ゼゼができるまで待て」と返歌したという能天気な話ですが、「膳所」と「ゼゼ」の駄ジャレということ以外、「近江八景」との関連性ははっきりしません。

上方のやり方では、松島遊廓の紅梅という女に惚れた男が、大道易者に見立ててもらう筋です。艶書になっている近江八景づくしも、東京の易者のより名文で、「恋しき君のおもかげを、しばしがほどは見い(=三井)もせで、文の矢ばせの通い路や、心かただ(=堅田)の雁ならで、われからさき(=唐崎)に夜(=寄る)の雨……」といった名調子です。

風流すぎて、継承者なし

東京では、明治の四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)が手掛けていますので、移植したのはこの人では、とも見られますが、不明です。

次いで古いところでは、六代目林家正蔵(今西久吉、1888-1929、居残りの)の、おそらく大正初期の吹き込みによるレコードが残されていますが、これは珍品、骨董品の部類。

昭和以降では、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が得意にし、「円生百席」にも録音している通り、いかにも円生好みの粋できれいな噺です。

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、五代目三升家小勝(加藤金之助、1858-1939)もたまに演じ、金馬のレコードもありますが、あまりに風流すぎ、今では手を出す人はいない、と言いたいところです。

じつは三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)がやっていました。

近江八景

近江八景を整理します。

三井寺の晩鐘  みいでらのばんしょう
石山の秋月   いしやまのしゅうげつ
堅田の落雁   かただのらくがん
粟津の晴嵐   あわづのせいらん
矢橋の帰帆   やばせのきはん
比良の暮雪   ひらのぼせつ
唐崎の夜雨   からさきのやう
瀬田の夕照   せたのせきしょう

「堅田の落雁」は「浮御堂」と変わることがあります。初代安藤広重の続き絵が有名です。

洒落のうち、「心が矢橋(やばせ)」は、「心だけがあせって矢のように(相手の所に)走る(=馳せる)」を掛けたもの。「唐崎の夜雨と惚れかかる」は「雨が降りかかる」の駄ジャレ。「粟津に晴嵐」は「逢わずに添わん」の地口。「膳所」は、もちろん銭の幼児語と掛けてあるわけですが、膳所(滋賀県膳所市)が近江八景に入っていないので、このオチが成立するわけです。「瀬田いは廻しかねる」は、「世帯が回しかねる」、つまり家計がピンチということですが、「瀬田が唐橋(=世帯が空走り。金欠のこと)」とする場合もありました。

円生好みの粋な味わい

この噺、易の名人が登場する「ちきり伊勢屋」の冒頭によく似ているので、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は『円生全集別巻』の補説で、この噺は「ちきり伊勢屋」の前半を独立させた上、近江八景の部分を後から付けたものではないか、と述べています。

ところで、円生の「掛け取り万歳」には、芝居好きの酒屋に近江八景づくしで借金の言い訳をする場面があります。

その項と重複しますが、以下、そのやり取りをノーカットで。

主「その言い訳はこれなる扇面」
酒「なに、扇をもって言い訳とな……『雪はるる、比良の高嶺の夕まぐれ、花の盛りを過ぎし頃かな』……こりゃこれ、近江八景の歌。この歌もって、言い訳とは」
主「心やばせと商売に、浮御堂(=憂き身を)やつす甲斐もなく、膳所(=ゼゼ)はなし城は落ち、堅田に落つる雁(かりがね=借り金)の、貴殿に顔を粟津(=合わす)のも、比良の暮雪の雪ならで、消ゆる思いを推量なし、今しばし唐崎の」
酒「松で(=待って)くれろというなぞか。シテ、その頃は?」
主「今年も過ぎて来年の、あの石山の秋の月」
酒「九月…下旬か」
主「三井寺の鐘を合図に」
酒「きっと勘定いたすと申すか」
主「まず、それまではお掛取りさま」
酒「この家のあるじ八五郎」
主「来春お目に」
両人「かかるであろう」

明らかにこの入れごとは「近江八景」の趣向を取り入れたものでしょう。

パクリ文化

「〇〇八景」は、もともと10世紀に北宋で選ばれた「瀟湘八景」がモデルです。

これに影響を受けて、広く東アジア一帯に「八景」文化が残っています。

たとえば、茨城県高萩市には「松岡八景」というのがあります。

文化年間(1804-17)、いまは高萩市に含まれる松岡の領主中山信敬(1765-1820、水戸藩付け家老)が、亀里亀章(儒者)に選ばせたものだそうです。

元ネタがあるので、指定の風景に見合った場所を選ぶだけのこと。

あんまりアタマを使わなくてもパターンで選べます。安直です。

竜子の晴嵐   たつごのせいらん
二本松の秋月  にほんまつのしゅうげつ
関根の夕照   せきねのせきしょう
永田の落雁   ながたのらくがん
能仁寺の晩鐘  のうにんじのばんしょう
天南堂の暮雪  てんなんどうのぼせつ
荒崎の夜雨   あらさきのやう
高戸の帰帆   たかどのきはん

元祖「瀟湘八景」のパクリです。

こんなのが日本中にあり、今ではそれにちなんだマンジュウやモナカなんかが名物で売られています。底の浅い金太郎飴文化というべきか、複製文化の最たるものというべきか。非常に特徴的なサンプルです。

経済と交通の発達で18世紀に開花した地方文化のあらわれとして、お国自慢と中国の風流文化とがむすびついた結果といえます。

念のため、「瀟湘八景」を載せておきます。

瀟湘とは、洞庭湖から流れ出る瀟水と湘江の合流するあたりをいいます。

古くから風光明媚で豊かな水郷地帯として知られています。今の湖南省長沙市のあたり、毛沢東の故郷です。

瀟湘夜雨 しょうしょうやう:瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景
平沙落雁 へいさらくがん:秋の雁が鍵状に干潟に舞い降りる風景
煙寺晩鐘 えんじばんしょう:夕霧に煙る遠くの寺の鐘の音を聞く夜
山市晴嵐 さんしせいらん:山里が山霞に煙って見える風景
江天暮雪 こうてんぼせつ:日暮れの河の上に降る雪の風景
漁村夕照 ぎょそんせきしょう:夕焼けに染まるうら寂しい漁村風景
洞庭秋月 どうていしゅうげつ:洞庭湖の上にさえ渡る秋の月
遠浦帰帆 えんぽきはん:帆かけ舟が夕暮れに遠くから戻る風景

「近江八景」も「松岡八景」も出元は同じ、というわけです。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)晩年の作品にも、「八景隅田川」というのがあります。

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【半分垢】はんぶんあか 落語演目 あらすじ

なんとカラダの半分は

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【どんな?】

お相撲さんが出てくる噺。小ばなしが元になった軽い笑いです。

別題:垢相撲 付け焼刃 富士の雪

あらすじ】

巡業から久しぶりに帰ってきた関取。

疲れからぐっすり眠っているところへ、ひいきの客が訪ねてくる。

かみさんに、寝ているなら起こさないでいいと言い、相撲取りは巡業に出ると太るというから、さぞ大きくなったろう、と尋ねる。

おかみさん、ここぞとばかり。

戸口から入れないので格子を外さなければならなかったとホラを吹く。

それを奥で聞いていた関取。

客が帰った後、おかみさんに
「三島の宿しゅくで茶屋から富士を見て、大きなものだと感心していたら、そこの婆さんが『大きく見えても、あれは半分雪です』と、普通なら日本一の山をお国自慢するところを、逆に謙虚に言った。その奥ゆかしさに、かえって富士が大きく見えた」 と語った。

さらに関取は
「人間は謙虚であれば、他人は実際より自分を大きく見てくれるのだから、自慢はするな」
と説教した。

そこへ、また別のひいきの客が来た。

おかみさん、今度は
「関取は細くなって、格子こうし隙間すきまから入れるぐらいです」

関取がびっくりして顔を出すと、客は
「とてもそうは見えない。大きくなった」
「いえ、これで半分は垢です」

出典:五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)

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【しりたい】

二つの小ばなしから

富士山を謙遜するくだりが、寛政元年(1789)刊の笑話本『室の梅』中の「駿河客」、「半分は垢です」のオチの部分が元禄14年(1701)刊『百成瓢箪ひゃくなりびょうたん』中の「肥満男」と、以上二つの小ばなしから構成されています。

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相撲取りが登場する噺

このほかにもいくつかの噺があります。

たった3尺2寸(97cm)の鍬潟くわがたが6尺5寸・45貫(197cm、170kg)の雷電為右衛門らいでんためえもんを転がす「鍬潟」、第六代横綱の出世譚しゅっせたん阿武松おうのまつ」、大関にそっくりなばっかりに……の「花筏はないかだ」、バレ噺の「大男の毛」など。

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見て楽しむ

この噺にでもわかりますが、昔の相撲は、体の大きいことをことさら気にし、大きいと言われることを極端にいやがる傾向があったようです。

一般人との体格差があまりにも激しかったからです。

190cmを超える若者や100kgを超える少年は、相撲が弱くても見世物扱いで土俵入りをさせられたり、ただでさえ好奇の目で見られることが多かったからでしょう。

この噺をよく演じた五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の速記でも、「二階の屋根の上に関取の顔があった」、「十枚も布団をたして掛けた」、「顔は四斗樽よんとだる、目はタドン」「道中で牛を二、三頭踏み殺した」と、言いたい放題です。

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二階の屋根から顔

身長で歴代第3位(227cm)の記録を持ち、巨人の代名詞としてしばしば引き合いに出される大関、釈迦ヶ嶽雲右衛門しゃかがたけくもえもん(1749-75)の逸話です。

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【片棒】かたぼう 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

息子三人に自分の葬式案を語らせるおやじ。三者三様に大あきれ。けちの噺。

別題:赤螺屋(上方)

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あらすじ

赤螺屋あかにしや吝兵衛けちべえという男。

一生食うものも食わずに金をため込んだが、寄る年波としなみ、そろそろ三人の息子の誰かに身代しんだい(財産)を譲らなくてはならない。

かといって、今のままでは三人の了見りょうけん(思い)がわからず、誰に譲ったらいいか迷ってしまう。

ある日、息子たちを呼んで、「俺がかりに、もし明日にでも目をつむったら後の始末はどうするつもりか」
と一人ずつ聞かせてもらいたいと言う。

まず、長男。

「おとっつぁんの追善ついぜん(供養くよう)に、慈善事業に一万両ほど寄付する」
と言い出したから、おやじ、ど肝を抜かれた。

葬式もすべて特別あつらえの豪華版。

はかまも紋付きも全部新規にこしらえ、料理も黒塗り金蒔絵きんまきえの重箱に、うまいものをぎっしり詰め、酒も極上のなだ生一本きいっぽん

その上、車代に十両ずつ三千人分……。

吝兵衛、ショック死寸前。

「と、とんでもねえ野郎だ、葬式で身上しんじょう(財産)をつぶされてたまるか」

次ッ! 次男。

「お陽気に、歴史に残る葬儀にしたい」
と言いだしたから、おやじはまたも嫌な予感。

あんじょう、葬式に紅白の幕を飾った上、盛大な行列を仕立て、木遣きやり、芸者の手古舞てこまいに、にぎやかに山車だし神輿みこしを繰り出してワッショイワッショイ。

四つ角まで神輿みこしに骨を乗せて担ぎ出す。

拍子木ひょうしぎがチョーンと入った後、親戚総代が弔辞ちょうじ
「赤螺屋吝兵衛くん、平素粗食に甘んじ、ただ預金額の増加を唯一の娯楽となしおられしが、栄養不良のためおっ死んじまった。ざまあみ……もとい、人生おもしろきかな、また愉快なり」
と並べると、一同そろって
「バンザーイ」

「この野郎、七生しちしょうまで勘当かんどう(縁切り)だっ!!」

次ッ! 三男。

「おい、もうおまえだけが頼りだ。兄貴たちの馬鹿野郎とは違うだろうな」
「当然です。あんなのは言語道断ごんごどうだん正気しょうき沙汰さたじゃありません」

やっと、まともなのが出てきた。

おやじ、跡取りはコレに決まったと安心したが、
「死ぬってのは自然に帰るんですから、りっぱな葬式なんぞいりません。死骸しがいは鳥につつかせて自然消滅。これが一番」
「おいおい、まさかそれをやるんじゃ」
「しかたがないから、まあお通夜つやを出しますが、入費にゅうひ(費用)がかかるから、一晩ですぐ焼いちまいます。出棺は十一時と言っといて八時に出しちまえば、菓子を出さずに済みます。早桶はやおけ菜漬なづけのたるの悪いので十分。抹香まっこうは高いからかんなくず。樽には荒縄を掛けて、天秤棒てんびんぼうで差しにないにしますが、人を頼むと金がかかりますから、あたしが片棒を担ぎます。ただ、後の片棒がいません」
「なに、心配するな。俺が出て担ぐ」

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しりたい

元は上方噺

宝永2年(1705)京都板『軽口あられ酒』巻二の七「きままな親仁」が原話といわれています。

この板本では親仁おやじに名前はありませんが、これが東京に行って「片棒」となると、赤螺屋ケチ兵衛という名前が付きます。

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またまた吝兵衛登場!

今回の屋号はあかにしや。

「あかにし」は田螺たにしで、金を握って放さないケチを、田螺が殻を閉じて開かないのにたとえたものです。だから、田螺はケチを暗示しているのです。

上方ではケチは当たり前なので、あまりケチ噺は発達しなかったようです。

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葬式

この噺にあるように、かつて富裕層の間では、会葬者に、上戸は土瓶の酒、下戸には饅頭、全員に強飯こわめしと煮しめなどの重箱を配ったものです。

ケチ兵衛ほどしみったれていなくとも、ぐずぐずして会葬者が増えれば、それだけ出すものも出さねばならず、経費もかさむ勘定です。

今も昔も、葬儀の費用はばかになりませんが、明治から大正の初期ぐらいまでは、よほどの貧乏弔いでない限り、どこの家でも仰々しく葬列を仕立てて斎場まで練り歩いたので、余計に物入りだったでしょう。

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さまざまなくすぐりと演出

笑いが多く、各自で自由にくすぐりを入れられるため、現在もよく演じられます。

全体のおおまかな構成は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)のものが基本になっています。

戦後では、「留さん」こと九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が、自分自身がケチだったこともあって、ことのほか得意にしていました。

会葬者一同の「バンザーイ」や、飛行機から電気仕掛けで垂れ幕が出るギャグ、鳥につつかせる風葬というアイデアも文治のものです。

葬列に山車を繰り出す場面を入れたのは、初代三遊亭銀馬(大島薫、1902-1976)でした。

長男は松太郎、次男を竹次郎、三男梅三郎と、皮肉にも松竹梅で名前をそろえることもあります。

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【青菜】あおな 落語演目 あらすじ

聞きかじりの隠語まねてボロ

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どんな?】

お屋敷で聞きかじった隠し言葉を長屋でまねる植木屋。訪れた熊を相手に植木屋が「おーい、奥や」女房が「鞍馬山から牛若丸がいでましてその名を九郎判官義経」女房が先に言ってしまったから植木屋は「うーん、弁慶にしておけ」

別題:弁慶

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あらすじ】

さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みでだんなから「酒は好きか」と聞かれる。

もとより酒なら浴びるほうの口。

そこでごちそうになったのが、上方かみがた柳影やなぎかげという「銘酒」だが、これは実は「なおし」という安酒の加工品。

なにも知らない植木屋、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまで相伴して大喜び。

「時におまえさん、菜をおあがりかい」
「へい、大好物で」

ところが、次の間から奥さまが
「だんなさま、鞍馬山くらまやまから牛若丸うしわかまるいでまして、名を九郎判官くろうほうがん
と妙な返事。

だんなもだんなで
「義経にしておきな」

これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう(=九郎)」、「それならよしとけ(=義経)」というわけ。

客に失礼がないための、隠し言葉だという。

植木屋、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房に
「やい、これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」
「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」

もめているところへ、悪友の大工の熊五郎。

こいつぁいい実験台とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押し入れに押し込み、熊を相手に
「たいそうご精がでるねえ」
から始まって、ご隠居との会話をそっくり鸚鵡返おうむがえし……しようとするが……。

「青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」
「あのゴミためを通してくる風が……」
「変なものが好きだな、てめえは」
「大阪の友人から届いた柳影だ。まあおあがり」
「ただの酒じゃねえか」
「さほど冷えてはおらんが」
「燗がしてあるじゃねえか」
「鯉の洗いをおあがり」
「イワシの塩焼きじゃねえか」
「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」
「植木屋はてめえだ」
「菜はお好きかな」
「大嫌えだよ」

タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。

ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて
「しょうがねえ。食うよ」
「おーい、奥や」

待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が転げ出し、
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」
と、先を言っちまった。

亭主は困って
「うーん、弁慶にしておけ」

底本:五代目柳家小さん

しりたい】

青菜とは

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、上方から東京に移した噺です。

東京(江戸)では主に菜といえば、一年中見られる小松菜をいいます。

冬には菜漬けにしますが、この噺では初夏ですから、おひたしにでもして出すのでしょう。

値は三文と相場が決まっていて、「青菜(は)男に見せるな」という諺がありました。

これは、青菜は煮た場合、量が減るので、びっくりしないように亭主には見せるな、の意味ですが、なにやら、わかったようなわからないような解釈ですね。

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柳影は夏の風物詩

柳影とは、みりんとしょうちゅうを半分ずつ合わせてまぜたものです。

江戸では「直し」、京では「やなぎかげ」と呼びました。

夏のもので、冷やして飲みます。暑気払いによいとされていました。

みりんが半分入っているので甘味が強く、酒好きには好まれません。夏の風物詩、年中行事のご祝儀ものとしての飲み物です。

これとは別に「直し酒」というのがあります。粗悪な酒や賞味期限を過ぎたような酒をまぜ香りをつけてごまかしたものです。

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イワシの塩焼き

鰯は江戸市民の食の王様で、天保11年(1840)正月発行の『日用倹約料理仕方角力番付』では、魚類の部の西大関に「目ざしいわし」、前頭四枚目に「いわししほやき(塩焼き)」となっています。

とにかく値の安いものの代名詞でしたが、今ではちょっとした高級魚です。

隠語では、女房ことば(「垂乳根」参照)で「おほそ」、僧侶のことばでは、紫がかっているところから、紫衣からの連想で「大僧正」と呼ばれました。

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判官

源義経は源義朝の八男ですから、八郎と名乗るべきなのですが、おじさんの源為朝が鎮西八郎為朝と呼ばれることから、遠慮して「九郎」と称していたといわれています。

これは、「そういわれていた」ことが重要で、ならばこそ、後世の人々は「九郎判官義経」と呼ぶわけです。

それともうひとつ。判官は、律令官制で、各官司(役所)に置かれた4階級の幹部職員の中の三番目の職位をいいます。

4階級の幹部職員とは四等官制と呼ばれるものです。

上から、「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と呼ばれました。

これを役所ごとに表記する文字はさまざまです。表記の主な例は以下の通り。

かみ長官伯、卿、大夫、頭、正、尹、督、帥、守
すけ次官副、輔、亮、助、弼、佐、弐、介
じょう判官祐、丞、允、忠、尉、監、掾
さかん主典史、録、属、疏、志、典、目
四等官の内訳

この一覧の字づらを覚えておくとなにかと便利なのですが、それはともかく。

義経は、朝廷から検非違使の尉に任ぜられたことから、「九郎判官義経」と呼ばれるのです。

もっとも、兄の頼朝の許可をもらうことなく受けてしまったため、兄からにらまれ始め、彼らの崩壊のきっかけともなりました。

朝廷のおもわくは二人の仲を裂かせて弱体化させようとするところにありました。

戦うことにしか関心がなくて政治の闇に疎い、武骨で好色な青年はいいカモだったのでしょう。

「判官」は「はんがん」が普通の呼び方ですが、検非違使の尉の職位を得た義経に関しては「ほうがん」と呼びます。

検非違使では「ほうがん」と呼んだらしいのです。

検非違使は「けびいし」と読み、都の警察機関です。

ちなみに、「ほうがんびいき」とは「判官贔屓」のことです。

兄に討たれた義経の薄命を同情することから、弱者への同情や贔屓ぶりを言うわけです。

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弁慶、そのココロは

オチの「弁慶」は「考えオチ」というやつです。

義経たちの最後の戦いとなった「衣川の合戦」では、主君義経を守るべく、武蔵坊弁慶は大長刀を杖にして、橋の上で立ったまま、壮絶な死を遂げました。

その故事から、「弁慶の立ち往生」ということばが生まれたのでした。

「弁慶の立ち往生」とは、進むことも退くこともできず動けなくなることをいいます

「うーん、弁慶にしておけ」は、この「立ち往生」の意味を利かせているのです。

亭主が言うべきの「義経」を女房が先に言ってしまったので、亭主は困ってしまって立ち往生、という絵です。

『義経記』に描かれる弁慶立ち往生の故事がわかりづらくなったり、「途方にくれる、困る」という意味の「立ち往生」が死語化している現代では、説明なしには通じなくなっているかもしれませんね。

上方では人におごられることを「弁慶」といいます。これは上方落語「舟弁慶」のオチにもなっています。この噺での「弁慶」には、その意味も加わっているのでしょう。

ところで、弁慶は、『吾妻鏡』の中では「弁慶法師」と1回きりの登場だそうです。まあ、鎌倉幕府の視点からはどうでもよい存在だったのでしょうか。負け組ですから。

それでも、主君を支える忠義な男、剛勇無双のスーパースターとしては、今でも最高の人気を得ています。

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小里ん語り、小さんの芸談

この噺は柳家の十八番といわれています。

ならば、芸談好きの代表格、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の芸談を聴いてみましょう。弟子の小里ん師が語ります。

植木屋が帰ったとき、「湯はいいや。飯にしよう」って言うでしょ。あそこは、「一日サボってきた」っていう気持ちの現れなんだそうです。「お客さんに分かる分からないは関係ない。話を演じる時、そういう気持ちを腹に入れておくことを、自分の中で大事にしろ」と言われましたね。だから、「湯はいいや。飯にしよう」みたいな言葉を、「無駄なセリフ」だと思っちゃいけない。無駄だといって刈り込んでったら、落語の科白はみんななくなっちゃう。そこを、「なんでこの科白が要るんだろうって考えなきゃいけない。落語はみんなそうだ」と師匠からは教えられました

五代目小さん芸語録柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほど。芸の奥行きは底なしです。

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「青菜」の演者

三代目小さんが持ってきた話ですから、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)も得意にしていました。

四代目から五代目に。柳家の噺家はよくやります。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)ももちろん、引き継いでいました。文句なしです。絶品でした。還暦を過ぎた頃からのが、聴きごたえあります。

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★★

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【ちきり伊勢屋】ちきりいせや 落語演目 あらすじ

↖この赤いマークが「ちきり」です。

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どんな?】

柳家系の噺ですが、円生や彦六も。易者えきしゃのひとことに振り回される若者の数奇な物語です。締めの「積善せきぜんいえ余慶よけいあり」はキモ。

別題:白井左近

あらすじ

旧暦きゅうれき七月の暑い盛り。

麹町こうじまち五丁目のちきり伊勢屋という質屋の若主人伝二郎でんじろうが、平河町ひらかわちょうの易の名人白井左近しらいさこんのところに縁談の吉凶を診てもらいに来る。

ところが左近、天眼鏡てんがんきょうでじっと人相を観察すると
「縁談はあきらめなさい。額に黒天こくてんが現れているから、あなたは来年二月十五日九ツ(午前0時)に死ぬ」

さらには、
「あなたの亡父伝右衛門でんえもんは、苦労して一代で財を築いたが、金儲けだけにとりつかれ、人を泣かせることばかりしてきたから、親の因果いんがが子に報い、あなたが短命に生まれついたので、この上は善行ぜんぎょうを積み、来世らいせの安楽を心掛けるがいい」
と言うばかり。

がっかりした伝二郎、家に帰ると忠義の番頭藤兵衛とうべえにこのことを話し、病人や貧民に金を喜捨きしゃし続ける。

ある日。

弁慶橋べんけいばしのたもとに来かかると、母娘が今しも、ぶらさがろうとしている。

わけを尋ねると、
「今すぐ百両なければ死ぬよりほかにない」
というので、自分はこういう事情の者だが、来年二月にはどうせ死ぬ身、その時は線香の一本も供えてほしいと、強引に百両渡して帰る。

伝二郎、それからはこの世の名残なごりと吉原ではでに遊びまくり、二月に入るとさすがに金もおおかた使い尽くしたので、奉公人に暇を出し、十五日の当日には盛大に「葬式」を営むことにして、湯灌ゆかん代わりに一風呂浴び、なじみの芸者や幇間たいこもちを残らず呼んで、仏さまがカッポレを踊るなど大騒ぎ。

ところが、予定の朝九ツも過ぎ、菩提寺の深川浄光寺でいよいよ埋葬となっても、なぜか死なない。

悔やんでも、もう家も人手に渡って一文なし。

しかたなく知人を転々として、物乞い同然の姿で高輪たかなわの通りを来かかると、うらぶれた姿の白井左近にバッタリ。

「どうしてくれる」
とねじ込むが、実は左近、人の寿命を占ったとがで江戸追放になり、今ではご府内の外の高輪大木戸たかなわおおきど裏店うらだな住まいをしている、という。

左近がもう一度占うと、不思議や額の黒天が消えている。

「あなたが人助けをしたから、天がそれに報いたので、今度は八十歳以上生きる」
という。

物乞いして長生きしてもしかたがないと、ヤケになる伝二郎に、左近は品川の方角から必ず運が開ける、と励ます。

その品川でばったり出会ったのが、幼なじみで紙問屋福井屋のせがれ伊之助。

これも道楽が過ぎて勘当かんどうの身。

伊之助の長屋に転がりこんだ伝二郎、大家のひきで、伊之助と二人で辻駕籠屋つじかごやを始めた。

札ノ辻でたまたま幇間の一八を乗せたので、もともとオレがやったものだと、強引に着物と一両をふんだくり、翌朝質屋に行った帰りがけ、見知らぬ人に声をかけられる。

ぜひにというので、さるお屋敷に同道すると、中から出てきたのはあの時助けた母娘。

「あなたさまのおかげで命も助かり、この通り家も再興できました」
と礼を述べた母親、
「ついては、どうか娘の婿になってほしい」
というわけで、左近の占い通り品川から運が開け、夫婦で店を再興、八十余歳まで長寿を保った。

積善せきぜんいえ余慶よけいあり」という一席。

底本:六代目三遊亭円生

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しりたい

原話や類話は山ほど

直接の原話は、安永8年(1779)刊『寿々葉羅井すすはらい』中の「人相見にんそうみ」です。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と宣告された男が、家財道具を全部売り払って時計を買い、翌朝それが八ツの鐘を鳴らすと、「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、たわいない話です。

易者に死を宣告された者が、人命を救った功徳で命が助かり、長命を保つというパターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、そのすべてがこの噺の原典または類話といえるでしょう。

その大元のタネ本とみられるのが、中国明代の説話集『輟耕録てっこうろく』中の「陰徳延寿いんとくえんじゅ」。

それをアレンジしたのが浮世草子『古今堪忍記ここんかんにんき』(青木鷺水あおきろすい、宝永5=1708年刊)の巻一の中の説話です。

さらにその焼き直しが、『耳嚢みみぶくろ』(根岸鎮衛ねぎしやすもり著)の巻一の「相学奇談の事」。

同じパターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、細部を変えただけなのが同じ『輟耕録』の「飛雲ひうんの渡し」と『耳嚢』の「陰徳危難いんとくきなんを遁れし事」で、これらも「佃祭」の原話であると同時に「ちきり伊勢屋」の原典でもあります。

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円生と彦六が双璧

明治27年(1894)1月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

小さん代々に伝わる噺です。ただ、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)は手掛けていません。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を受け継いで演じていました。

系統の違う六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が、晩年に熱演しました。

円生は二代目禽語楼小さんの速記から覚えたものといいますから、正蔵のとルーツは同じです。

戦後ではこの二人が双璧でした。

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白井左近とは 

白井左近の実録については不詳です。

二代目小さん以来、左近の易断えきだんにより、旗本の中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが本格で、それを入れたフルバージョンで演じると、二時間は要する長編です。

この旗本のくだりだけを独立させて高座にかける場合は、「白井左近」の演題になります。

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ちきり

「ちきり伊勢屋」の通称の由来です。

「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、かすがい(鎹)にしました。

同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに用いたものも「ちきり」と呼びました。

下向きと上向きの△の頂点をつなげた記号で表され、質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく用いられます。

これは、千木とちきりのシャレであるともいわれます。

ちきりの形は「ちきり清水商店」の社標をご参照ください。

「ああ、あれね」と合点がいくことでしょう。

ちきり清水商店(静岡県焼津市)は鰹節卸の大手老舗です。

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正しい出典は、こうです。

積善の家には必ず余慶あり

易経えききょう坤卦こんけの文言伝にあります。

やっぱり、易なんですね。

よいことをたくさんした家には自分だけでなく、善徳がありあまって子孫にまでも幸せが及ぶものだ、という意味です。

善行ぜんぎょうのお釣りについての話です。すごい。

ここから生まれた、積善余慶せきぜんよけいという四字熟語もあります。意味は同じです。

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弁慶橋 

弁慶橋は、伝二郎が首くくりを助ける現場です。

六代目三遊亭円生の速記では、こんなふうになっています。

……赤坂の田町たまちへまいりました。一日駕籠に乗っているので腰が痛くてたまらないから、もう歩いたところでいくらもないからというので、駕籠は帰してしまいます。食違い、弁慶橋を渡りましてやってくる。あそこは首くくりの本場といいまして……そんなものに本場というのもないが、あそこはたいそう首くくりが多かったという……

弁慶橋は江戸に三か所ありました。

もっとも有名なのが、千代田区岩本町2丁目にかかっていた橋。

設計した棟梁、弁慶小左衛門の名を取ったものです。

藍染川あいぞめがわに架かり、複雑なその水路に合わせて、橋の途中から向かって右に折れ、その先からまた前方に進む、卍の片方のような妙な架け方でした。

これを「トランク状」とする記述もあります。

「トランク状」とは、直角の狭いカーブが二つ交互につながっている道路形状のもので、日本語にすれば「枡形道路ますがたどうろ」となります。

この弁慶橋は神田ですから、円生の言う赤坂の弁慶橋(千代田区紀尾井町1丁目)とは方向が違うわけです。

「赤坂の」といってしまえば港区となりますが、ここは港区と千代田区の境となっているのです。住所でいえば「千代田区紀尾井町1丁目」となるんですね。

ではなぜ、円生は、弁慶橋を「神田の」ではなくて「赤坂の」として語ったのでしょうか。

おそらくは、ちきり伊勢屋が麹町5丁目にあることから、伝二郎の土地勘からうかがえば、神田よりも赤坂の方に現実的だと思ったからなのではないでしょうか。

円生なりの筋作りの深い洞察かと思われます。

本あらすじでは円生の口演速記に従ったため、「弁慶橋」を赤坂の橋として記しました。

千代田区の文化財」(千代田区立日比谷図書文化館の文化財事務室)には、赤坂の弁慶橋について、以下のような記述があります。

この橋は、神田の鍛冶町から岩本町付近を流れていた愛染川にあった同名の橋の廃材を用いて1889年(明治22年)に新たに架けたものです。名称は、橋を建造した弁慶小左衛門の名に由来します。この橋に取り付けられていた青銅製の擬宝珠は、『新撰東京名所図会』によれば、筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋から集めたものでした。当時は和風の美しい橋であったため、弁慶濠沿いの桜とともに明治・大正期の東京の名所として親しまれ、絵葉書や版画の題材にもなりました。とりわけ清水谷の桜は美しく、『新撰東京名所図会』には、“爛漫の桜花を見ることができ、橋を渡るとまるで絵の中に入ったようだ”と周辺の美しさが記されています。また、橋の上からは周辺を通行する人々や車馬、付近に建っていた北白川宮邸・閑院宮邸などが見えたそうです。明治以来の橋は1927年(昭和2年)に架け替えられ、さらに1985年(昭和60年)にコンクリート橋に架け替えられました。緩やかなアーチの木橋風の橋で、擬宝珠や高欄など細部に当初の橋の意匠を継承しています。

これを信じれば、江戸時代にはこの場所には弁慶橋はなかったわけですから、円生の創作だということは明白となります。

ちなみに、川瀬巴水かわせはすい(川瀬文治郎、1883-1957)の作品に「赤坂弁慶橋」があります。昭和6年(1931)の頃の、のどかな風情です。

川瀬巴水「赤坂弁慶橋」

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食い違い

赤坂の「食い違い」は「喰違御門くいちがいごもん」のことで、現在の千代田区紀尾井町きおいちょう、上智大学の校舎の裏側にありました。

その門前に架かっていたのが「食い違い土橋どばし」。石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれていたのでその名がありました。

戦国時代の城では、攻めてくる敵をたやすく返り討ちにするため、このような形状を造りました。「虎口こぐち」と言ったりもします。

こういう状態を「食い違い」と言います

大久保利通が、明治10年(1877)5月14日に惨殺されていますが、正確な場所は紀尾井町です。

それでも、後世、この事件を「紀尾井坂事件」とか「紀尾井坂の変」とか呼んでいるのは、よほど「紀尾井坂」という名称が人々の興味を引いたのでしょう。

江戸時代には、紀州徳川家の中屋敷、尾張徳川家の中屋敷、彦根井伊家の中屋敷が並んでいた武家町だったことから、各家から1字ずつとって町名としたわけです。

小岩井農場(小野義真+岩崎弥之助+井上勝)、大田区(大森区+蒲田区)、国立駅(国分寺駅+立川駅)、小美玉市(小川町+美野里町+玉里村)、東御市(東部町+北御牧村)など、みんなの心が納まりやすい命名法なんですね、きっと。

ここは、千代田区としては、東部に平河町、南部に永田町、北部に麹町が、それぞれ接しています。

ホテルニューオータニの向かい側には清水谷公園があります。

都内を練り歩くデモの出発地点でもあり、集会場所としても名所です。

池泉もありますが、40年ほど前までは崖斜面からは湧水が出ていたもので、まさに「清水谷」でした。

さて。

円生が参考にした禽語楼小さんの速記は、明治27年(1894)1月『百花園』です。

これによれば、以下の通り。適宜読みやすく直してあります。

まるでお医者さまを見たようでござります。かくすること七月下旬から八月、九月と来ました。あるときのこと、施しをいたしていづくからの帰りがけか、ただいま食い違いへかかってまいりました。その頃から食い違いは大変な首くくりのあったところで、伝二郎すかして見ると、しかも首をくくるようす。

伝二郎が親子の首くくりに出会わすシーンです。

「食い違い」とありますが、「弁慶橋」とはありません。

小さんがこの噺を語った頃に、食い違いには弁慶橋が掛かってはありましたが、なにせこの噺は江戸時代が舞台ですから、食い違いに弁慶橋を出すわけにはいかなかったのです。

出してしまったら、客からブーイングが飛んだことでしょう。

円生の時代には、その感覚がまったくなくなっているわけですから、食い違いに「弁慶橋」の名を出してしまっても、文句を言う人もいなかったのですね。

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札ノ辻 

港区芝5丁目の三田通りに面した角地で、天和2年(1682)まで高札場があったことからこの名がつきました。

江戸には大高札場が、日本橋南詰、常盤橋門外、筋違橋門内、浅草橋門内、麹町半蔵門外、芝車町札ノ辻、以上6か所にありました。

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高札場

慶長11年(1606)に「永楽銭通用停止」の高札が日本橋に掲げられたのが第一号でした。

高札の内容は、日常生活にからむ重要事項や重大ニュースが掲示されていたわけではありませんでした。

忠孝の奨励、毒薬売買の禁止、切支丹宗門の禁止、伝馬てんま賃銭の定めなどが主でした。その最も重要な掲示場所は日本橋南詰みなみづめでした。

西側に大高札場だいこうさつばがあり、東側にさらし場がありました。

歌川広重「東海道五拾三次 日本橋朝之景」 赤丸部分のあたりが高札場。南詰の西側になりますね

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麹町

喜多川歌麿きたがわうたまろ(北川信美、1753-1806)の春画本『艶本えんぽん とこの梅』第一図には、以下のようなセリフが記されています。

男「こうして二三てふとぼして、また横にいて四五てふ本当に寝て五六てふ茶臼で六七てふ 麹町のお祭りじゃやァねへが、廿てふくれへは続きそうなものだ」

女「まためったには逢われねえから、腰の続くだけとぼしておきな」

男「お屋敷ものの汁だくさんな料理を食べつけちゃ、からっしゃぎな傾城のぼぼはどうもうま味がねえ」

※表記は読みやすく適宜直しました。

女は年増の奥女中、男は奥女中の間男という関係のようです。

奥女中がなにかの代参で出かけた折を見て男とのうたかたの逢瀬を、という場面。

男が「麹町のお祭りじゃねえが」と言いながら何回も交合を楽しめる喜びを表現しています。

麹町のお祭りとは日枝神社ひえじんじゃの大祭のこと。

麹町は1丁目から13町目までありました。

こんなに多いのも珍しい町で、江戸の人々は回数の多さをいつも麹町を引き合いに表現していました。

この絵はそこを言っているわけです。

ちきり伊勢屋は麹町5丁目とのことですが、切絵図を見ると、武家地の番町に対して、麹町は町家地だったのですね。

食い違いからも目と鼻の先で、円生の演出は理にかなっています。

麹町は、半蔵門から1丁目がが始まって、四ッ谷御門の手前が10丁目。麹町11丁目から13丁目まではの三町は四ッ谷御門の外にありました。

寛政年間に外濠そとぼりの工事があって、その代地をもらったからといわれています。

麹町という町名は慶長年間に付けられたそうで、江戸では最も古い地名のひとつとされています。

喜多川歌麿『艶本 床の梅』第一図

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ことばよみいみ
咎 とが罪となる行い
寿々葉羅井 すすはらい江戸安永期の咄本
輟耕録 てっこうろく中国明代の説話集
耳嚢 みみぶくろ江戸期の随筆
鎹 かすがいくさび
千木 ちぎ質店が用いる竿秤
喰違 くいちがい敵を防ぐためにつくられた城の出入り口

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★★★

【王子の狐】おうじのきつね 落語演目 あらすじ

狐が人に化かされた! 

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【どんな?】

狐が人に化かされてひどい目にあった、という珍談。もとは江戸前の噺なのです。

別題:乙女狐(上方)、高倉狐(上方)

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あらすじ

神田あたりに住む経師屋きょうじやよしさん。

王子稲荷に参詣の途中、道灌山どうかんやまの原っぱに来かかると、なんと、大きな狐が昼寝中。

「ははーん、狐は人を化かすというが、こう正体を現しているなら、俺が逆にこいつをたぶらかしてやろう」
といたずら心を起こし、狐に
「もし、ねえさん、こんな所で寝ていちゃ、風邪ひくよ」

起こされた狐は、出し抜けに姐さんと呼ばれたから、あわててビョンと飛び上がり、十八、九の美人にたちまち化けた。

正体がバレたとも知らず、これはいいカモだと、
「私は日本橋あたりの者で、乳母うばを連れて王子稲荷に参りましたが、はぐれてしまい、難渋なんじゅうしております。あなたはどなた?」

由さん、笑いをかみ殺し、
「自分は神田の者だが、日本橋はすぐそばなので送ってあげよう。ただ空腹なので、途中、なにかごちそうしよう」
と持ちかけた。

狐は成功疑いなしと、ワナとも知らず、喜んでエサに食いつく。

連れ立って稲荷を参拝した後、土地の海老屋えびやという料理屋の二階に上がる。

盃のやりとりをするうち、狐はすっかり油断して、酒をのみ放題。

ぐでんぐでんになると、いい心持ちで寝入ってしまう。

由さん、しめたとばかり喜んで、土産物をたんまり持ち、帳場に、
「二階の連れは疲れて寝込んでいるから、そのままにしてやってくれ、起きたら勘定かんじょうはあっちが持つから」
と言い置くと、風を食らってドロン。

さて、料理屋の方では、そろそろ勘定をというので、二階に仲居が上がってみると、狐は酔いつぶれてすっかり化けの皮がはがれ、頭は狐、体はまだ女、足は毛むくじゃらで大きな尻尾しっぽを出すという、まさに化け物。

仲居なかい(店の従業員)の悲鳴で、駆けつけた男どもが
「やや、こりゃ狐。さては先刻帰った男も、うむ、ふてえやつだ」
と寄ってたかってさんざんに打ちのめしたから、狐はたまらず、命からがら逃げ出した。

一方、由さん。

帰ってこの自慢話をすると、年寄りに
「狐は稲荷の使い。そんなイタズラをすれば必ずたたるから、ボタ餠でも持ってわびに行け」
と、さとされた。

そこで由さん、道灌山へ行ってみると、子狐が遊んでいる。

聞けば、おっかさんが人間に化かされたあげく、全身打撲と骨折の重傷なんだとか。

由さん、「さては」と合点した。

平あやまり、餠を子狐に渡すと、由さんはたたられたくない一心、ほうほうの体で逃げ帰った。

子狐は、ウンウンうなっている母狐に、
「おっかさん、人間のオジサンがボタ餠を持ってあやまりに来たよ。食べようよ」
「お待ち。食べちゃいけないよ。馬の糞かもしれない」

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正徳2年(1712)刊江戸板『新話笑眉』巻1の11の「初心な狐」が原話といわれます。

これは、狐が、亀戸の藤を見物に行く男を化かそうとして、美貌の若衆に変身し、道連れになります。

男はとっくに正体を見破っていますが、そ知らぬ顔でだまされたふりをし、狐の若衆に料理屋でたっぷりとおごってやります。

別れた後、男がこっそりと跡をつけると、案の定、若衆は狐の穴へ。

狐が一杯機嫌で、得意そうに親狐に報告すると、親狐は渋い顔で、「このばか野郎。てめえが食わされたなあ、馬糞だわ」

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この原話は江戸のものですが、落語としては上方で磨かれ、「高倉狐」として口演されました。

こちらは、東京のものと大筋は同じですが、舞台が大坂高津の高倉稲荷境内、狐を連れ込む先が、黒焼きと並んで高津の名物の湯豆腐屋の2階となっています。

東京には、明治16年(1883)、真打に昇進直後で、当時23歳の初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)が逆移入したものです。

古い速記では、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のものが残っています。

先の大戦後では、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)の十八番として知られ、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)も得意でした。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)や五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)を経て、現在も多くの演者に継承されています。

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類話「乙女狐」 

上方には、「高倉狐」「王子の狐」と筋はほとんど同じながら、舞台が大坂の桜の宮で、二人の男との化かしあいに負けた狐が、「眉に唾をつけておけばよかった」、または「今の素人には油断がならん」というオチの「乙女狐」があります。

「高倉狐」は、この噺の改作ではないかともいわれています。

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狐の悪行

狐が登場する噺は、意外に多いものです。

「稲荷車」 「稲荷の土産」 「今戸の狐」 「王子の狐」 「王子の白狐」 「お盆」 「蛙の子」 「狐つき」 「狐と馬」 「木の葉狐」 「九尾の狐」 「けつね」 「七度狐」 「初音の鼓」 「紋三郎稲荷」 「安兵衛狐」 「吉野狐」

思いついただけでも、ざっとこんなに。

狐は「稲荷の使い」として特別な呪力を持つものと、日本では古くから見なされてきました。

ずるい動物というイメージは東西同じなのか、フランスの「狐物語」、ドイツの「ライネッケ狐」など、手に負えない狐の話は広く流布伝承されています。

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王子稲荷

王子稲荷神社(北区岸町1-12-26)と王子神社(北区王子本町1–1-12)は別物です。

王子神社については下に記しました。

稲荷の本体は宇迦之御魂神うかのみたまのかみ(日本書紀では倉稲魂命うかのみたまのみこと)で、食物の神。五穀豊穣をつかさどります。

王子稲荷社は、東国(東日本)の稲荷の総社です。

大晦日には関東一帯の狐がご機嫌伺いに集まるので、狐火が連なって松明のようになると伝えられてきました。

王子稲荷神社の拝殿

歌川広重が「名所江戸百景」の内で、「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」。下の浮世絵をご参照ください。

王子稲荷の怪異「狐松明」を描いています。

狐が顔の近くに狐火を浮かべているのが見えます。

広重の浮世絵は、狐たちが衣装榎と呼ばれる樹木の下に集まって、身づくろいするシーンです。

現在は衣装榎はありませんが、その場所には装束稲荷神社(北区王子2-30-13)が立っています。

装束稲荷神社

そもそも、なんで稲荷神社と狐が関係あるのでしょうか。

狐は田の神の使い、ということになっているのです。

農村には必ずと言ってよいほど、稲荷神社があります。

これらの稲荷は、江戸時代に入ると、伏見稲荷大社の傘下に入っていきました。

それまではてきとうに建てられた稲荷の祠にも、伏見稲荷大社から分祀されたという縁起(由来)がもっともらしく語られるようになっていきました。

その証拠に、祠の裏には狐塚があったりします。もっともらしさの演出です。

京都でさかんな稲荷祭は、新暦3月(午の日)の神幸祭と4月(卯の日)の還幸祭で、神さまが社を出て旅所(みこしを留めおく場所)に渡り、その後、また社に帰ってくるのを祝い見守る儀式です。

その影響で、江戸でも春の初午(旧暦2月)には稲荷祭がさかんとなりました。

王子稲荷神社でも、初午の日には、絵馬を見せたりしています。

境内には「狐の穴跡」というのがあって、「王子の狐」の舞台にもなったところとされています。もちろん付会にすぎませんが、こういうのがあるのはおもしろいところ。

歌川広重『名所江戸百景』の「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」衣装榎に狐が集まっています

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稲荷神社の祭神は、前述のように、宇迦之御魂神うかのみたまのかみ(日本書紀では倉稲魂命うかのみたまのみこと)です。

「ウカ」や「ウケ」は食物をさします。だから、この神さまは人間の根本を守る神としてあがめられてきました。

伊勢神宮の豊受大神と同一神とされることもあります。

この神も「ウケ」と称して、天照大神に食物をささげる神さまということになっています。

稲荷神=宇迦之御魂神うかのみたまのかみ(日本書紀では倉稲魂命うかのみたまのみこと)となります。

この神さまは秦氏が大陸から連れてきた神さまという説もあります。ということは、外来神です。

空海が稲荷明神を東寺の鎮守としたところから、稲荷信仰は真言宗が広めました。

稲荷神を仏教にからんだ神さまと同一視する傾向がありました。

稲荷神=宇迦之御魂神うかのみたまのかみ(日本書紀では倉稲魂命うかのみたまのみこと)=荼枳尼天。

荼枳尼天はインドの神さまです。

ただ、このような結びつけは、近世以降の付会(こじつけ)といわれています。

その実態はあてにはなりませんが、人の心がそのように向いていったところは看過できません。

さて。

天慶5年(942)には、正一位に叙せられ、官幣をいただけるようになりました。

官幣とは、神祇官から神社にささげられる品物すべて(これを幣帛といいます)をさします。

こういう神社は全国にそんなにありませんから、格の高い神社ということになります。

稲荷を称する神社は、全国に2,970社あるとされています。末社や摂社を含めると、32,000社ほども。

個人宅の屋敷神や淫祠も含めれば、もっと多くなります。当たり前ですが。

稲荷神社の「総本山」は、京都の伏見稲荷大社です。

「いなり」とは「稲生」だそうです。

食物全般と蚕糸をつかさどる神とされます。

蚕糸を大陸から持ってきたとされる、秦氏とのかかわりからなのでしょう。

稲荷の神さまが外来神だというイメージがつきまとっていたことから、荼枳尼天のように、仏教、あるいはヒンズー教などとからめる傾向がありました。

中世には、神仏習合が生じやすい条件がありました。

岡山の最上稲荷は日蓮宗の妙教寺であったり、愛知の豊川稲荷は曹洞宗の妙厳寺であったり。

伏見稲荷大社は空海の東寺の故事ともかかわりがあります。

空海の稲荷神とのかかわりは、こんなぐあいです。

熊野で修行していた空海は田辺で老人に出会った。身長は八尺(2m超)で奥ゆかしい顔立ち。老人は喜んで「私はかつてあなたに会ったことのある神である。あなたには威徳がある。私といっしょに修行して私の弟子となるがよい」と。空海も「かつて霊山であなたに会った時の約束はまだ忘れていません。私は密教を広めたいのです。仏法で私の大願をお守りください。京の東寺でお待ちしております」。その後、紀州で会った神が東寺の南門にやってきた。神は椙の葉を持ち稲を担ぎ、婦人二人と子供二人を伴っていた。空海はうやうやしく五人をもてなした後、十七日間祈祷して神に鎮まっていただいた。

これも、中世につくられた故事なのでしょう。

京都・伏見稲荷大社の千本鳥居

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料理屋の二階で、狐と人間が、互いに相手を化かそうと虚々実々の腹の探りあいを演じるおかしさが、この噺の一番の聞かせどころです。

そのあたりは、江戸の昔から変わらない、政財界の妖怪同士による、料亭談合のカリカチュアの趣ですね。

五代目古今亭志ん生の「扇屋二階の場」は抱腹絶倒です。

前半の2人(1匹と1人)のやりとりでは、男が「油揚げでも……」と口走って、あわてて口を押さえたり、疑わしげに「これ、お酒だろうねェ?」と確かめたあと、まだ眉唾で、肥溜めでないかと畳のケバをむしってみたりするおかしさ。

「第二場」では、だまされたと知って茫然自失の狐が、思わず「化けてるやつがふァーッと、半分出てきたン」で、帯の間から太い尻尾がニュー、耳が口まで裂けて……とか、狐退治に2階に押し上げられた源さんが、内心びくびくで、「狐けェ? オロチじゃねえのか。俺ァ天狗があぐらァけえていやがんのかと」と、強がりを言うシーンなど。

筋は同じでも、ここらの天衣無縫のくすぐりのつけ方が、まさに志ん生ならではです。

同時に、狐を悪獣として憎むのではなく、むしろ隣人として、いたずらっ子を見るまなざしで、どこかで愛し、いとおしんできた江戸人の血の流れが、志ん生の「王子の狐」を聴き、速記を読むと、確かに伝わります。

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海老屋と扇屋

男が狐同伴で揚がりこむ料理屋は、古くは海老屋、現行ではほとんど、扇屋(北区岸町1-1-7 新扇屋ビル1階)で演じます。

海老屋は、扇屋と並ぶ土地の代表的な大店で、扇屋は武家屋敷、海老屋は商家や町人筋がおもな顧客でした。

町人の登場するこの噺には、海老屋の方がふさわしかったのですが、残念ながら明治初年に廃業しています。

昭和以後では、扇屋に設定することが多くなったのでしょう。

扇屋の方は、慶安年間(1648-52)の創業で、釜焼きの厚焼き卵の元祖として名高い老舗です。

現在の扇屋は名物の「玉子焼」を売るだけです。「厚焼玉子」と「親子焼玉子」の二種類。そりゃあ、美味です。

海老屋(一蕙齋芳幾)画文は山々亭有人

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武蔵四駅のひとつ、豊島駅が置かれた地だったので、この地域の中心地でした。いまも、北区に「豊島」という地名が残っています。

鎌倉末期の14世紀、この地の領主豊島氏が、紀州(和歌山県)から若一王子宮にゃくおうじのみや(熊野権現)を勧請(分霊)して王子権現(王子神社)を建立しました。

この一帯が「王子」と称されるようになったゆえんです。

王子が江戸で評判の行楽地になったのは、八代吉宗によるところが大きいようです。

吉宗は紀州(和歌山県)の出身。紀州藩というのは大藩で、いまの和歌山県ばかりか、奈良県南部、三重県南部をも領地としていました。

熊野や伊勢ともかかわりのある藩だったのです。

ここがわからないと、吉宗と山田奉行ようだぶぎょう(伊勢神宮の警備など)の大岡忠相とのなれそめも不可解としか映りません。それはともかく。

吉宗は、若一王子(熊野権現)とかかわり深い王子の地を知って故郷を懐かしみ、この地に飛鳥山を造成しました。

当時の江戸は寛永寺くらいしか桜の名所がなかったために、この地を花見の行楽地としました。これも享保の改革の一環でした。

飛鳥山(25.4m)の江戸最低山。1270本の桜を植えて、日本で有数の名所としたのです。

江戸に観光で来る人々は、飛鳥山をめざしたものです。飛鳥山を関取とした漱石枕流譚もありはしましたが。

「飛鳥山北の眺望」(歌川広重)『名所名所百景』より

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【鹿野武左衛門】しかのぶざえもん 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】はなし
【活躍地】江戸
【定紋】
【本名】志賀安次郎
【生没年月日】慶安2年(1649)-元禄12年8月13日(1699.9.6)
【出身地】難波(大坂)→江戸堺町→長谷川町
【前歴】塗師(漆塗りの職人)
【ネタ】新作。武助馬など。
【出典】Wiki
【蛇足】その生涯は以下の通り。

蔦屋重三郎(1750-97)よりは約100年早い人です。

江戸落語の祖。そのわけは、江戸で初めて座敷仕方咄を演じた人とされているからです。

出身は難波(大坂)といわれます。上方から江戸に下ってきた人のようです。

鹿野武左衛門とは武士っぽい名ですが、これは咄の席での名前。本名は志賀安次郎。志賀の安次郎なので、鹿野なのでしょうか。職業は塗師。漆塗りの職人でした。

日本橋の堺町(中央区日本橋人形町3丁目)、長谷川町(中央区日本橋堀留)の職人町に住んでいました。

このあたりは職人町です。石川流宣や古山師重もご近所さんだったようです。二人は絵師。武左衛門と仕事をする仲でした。

30歳頃から、人前ではなしをするようになりました。

天和・貞享(1681-88)の頃です。

場所は中橋広小路(中央区京橋1丁目)。

日本橋川と京橋川の中間にある掘割(紅葉川)の架かる中橋詰(橋のたもと)の広小路(幅広の街路)をさします。いまの京橋千疋屋本店のあたりです。

この町名は天明年間(1781-88)からだそうですから、武左衛門の頃にはおおざっぱに「中橋」と呼んでいたようです。

中村勘三郎が「猿若狂言尽」を興行して、江戸の常芝居発祥となった地ですから、往来はさかんだったわけです。

これで人気が出て、次第にお座敷にお呼びがかかります。

座敷仕方咄を演じては、いつしか人気者に。身ぶり手ぶりでおもしろおかしく聴かせることを、仕方咄と言います。その芸を座敷でするのが、座敷仕方咄です。

座敷に呼ぶのは、上級武士や富裕商人でした。

『家乗』(石橋生庵)に、そのようすが載っています。

石橋生菴(1642-1701)は紀州藩家老の三浦為隆に仕えた下級武士。「儒医」との記述もありますが、現在は武士だったことがわかっています。鹿野武左衛門とはほぼ同世代の人です。

『家乗』は石橋家の日記です。家乗とは家の記録を言います。

その書の、延宝9(1681)年1月10日のくだりに記された「福居徳庵門札」など13の演題は、落語の題名として最古の記録とされます。

●延宝9年(1681)1月10日
福居徳庵門札
黄蝶ノ沙汰
島ノ名違
蔭間ノ出ソコナヒ
大水の舟歌
奴子ノ喧嘩
太鼓ノ稽古
福蔵木遣
ワカシサマシ
老若ノ諍
太職冠
合碁打
念入弥介

●元禄元年(1688)9月30日
女養父入懺悔
家合吉原通
玉簾
籠太鼓
三面争物ニハ気ヲツケヨ
桂馬見立
七夕狂歌
公家見物
二王力紙
五百八十七曲

●元禄元年(1688)10月6日
人篇掛物
町男喧嘩
妻争
宇余木遣
仮名読損
謎解
大水舟歌
ハセ釣
五音誤
酒沸し醒し
福蔵木遣
浪人頓作
夢中戯
湯屋実盛
殺生石

1681年のあとは1688年というのは少々不自然な記述ですが、それでも、これだけの演目が記録されていることを喜ぶべきでしょう。

そして、元禄6年(1693)。その4月下旬のこと。

江戸中でソロリコロリ(コレラ)が蔓延まんえんし、1万人余りが亡くなりました。当時の江戸は80万人ほどだったそうですから、ものすごい致死率でした。

そのさなか。

「この病いには南天の実と梅干しを煎じて飲めば効くと、とある馬が言っていた」

そんな噂がまことしやかに広まったのでした。

「そんな、馬鹿な」
「馬がしゃべるなんてなあ」
「エドじゃあるめえし」
「ここは江戸だぜ」

そのあおりで、南天の実と梅干しは、いつもの値段の20~30倍に高騰。

ついでに出た『梅干まじないの書』なる本、これがまた大ベストセラーに。

頃は、平和ボケをよしとする、五代将軍綱吉の時代です。

人心をかき乱すのは、ともかくご法度なんです。

忖度そんたくまじりでいぶかしんだ南町奉行の能勢頼相のせよりすけ(出雲守いずものかみ)は、配下に探索させます。

そしたら、出てきた。浪人者の筑紫団右衛門ちくしだんえもんと、神田須田町すだちょうの八百屋惣右衛門そうえもんの共同謀議だったことが。

主犯とされた筑紫団右衛門は、市中引き回しの上、斬罪。従犯の八百屋惣右衛門は流罪に。

厳しいお裁きでした。

これで一件落着かと思いきや、残された謎がありました。

しゃべる馬の件です。

取り調べで二人は、こんなことを言っていたのです。

咄本はなしぼん『鹿の巻筆まきふで』の中の「堺町馬の顔見世」を読んで、ヒントを得たんだ、と。

咄本というのは、軽口かるくち(しゃれ)や落語などを記した本のこと。

笑うための本ですね。

だから、まともに受け取らないのが世間の常識でしょうに。

え、なに、これが?

『鹿の巻筆』の著者は、なんと鹿野武左衛門でした。

武左衛門は伊豆大島に流罪。

版元の本屋弥吉も江戸追放。

本は焼き捨てられました。

焚書流落。落語本を焼き落語家を流す、というかんじですね。

とんだとばっちりです。

武左衛門が島から帰ってきたのは元禄12年(1699)4月でしたが、まもなくの8月には51歳で亡くなってしまいました。

いやあ、もったいない。

武左衛門は落語界初の殉職者となりました。かわいそう。

若い頃の武左衛門は、石川流宣いしかわりゅうせん小咄こばなしの会なんかをつくって、人気を得ました。

中橋広小路なかばしひろこうじ(八重洲やえす)あたりで、小屋掛け興行をやったりもして。

人気がついて、うなぎのぼりとなって、ファンが庶民から富裕層へと移ります。

お武家や豪商に呼ばれて、お屋敷内で仕方咄を演じるようになっていったようです。

町奉行が切歯扼腕せっしやくわんしたのは、ここのところでした。な、なんでェ?

宇井無愁ういむしゅう氏は、こんなふうに解釈しています。

街頭を辻咄を取締る与力同心も、武家屋敷内では取締れない。いわんや武士たる者が笑話などに興じて、他愛もなくあごの紐をゆるめるのは、幕府当局のもっとも忌むところであった。さりとて、表立った実害がないかぎり、取締る理由がない。そこでこの事件を奇貨として流言に結びつけ、「実害」をデッチあげたのが当局の本心ではなかったか。

宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)

なるほど。当局の考えそうなことですね。

ついでに座敷咄ざしきばなしなる珍芸も壊してしまえ、というお奉行の陰湿で粘着質な思いも。

存外、町民はしたたかで、当局のきな臭い下心を先回りにかぎ取りました。

その証拠に、この事件以降、江戸では武左衛門のような落語家は登場しません。

暗黙のご法度となったのです。

江戸って、けっこうな恐怖政治だったのですね。

その後、寛政かんせい10年(1798)になって、やっとこ寄席が登場します。

岡本万作おかもとまんさく神田豊島町藁店かんだとしまちょうわらだなの寄席。

それに対抗して、三笑亭可楽(山生亭花楽さんしょうていからく)による下谷柳したややなぎ稲荷社いなりしゃ境内にも寄席が。

二つの寄席が立つまでに、なんと100年もの間、沈黙の季節が続いていたことに。

ほとぼりが冷めるのに、1世紀かかったのですね。江戸時代おそるべし、です。

■残されている著作

『鹿野武左衛門口伝咄し』(3巻、1683)咄本
『鹿の巻筆』(5巻、1686)咄本 古山師重画
『枝珊瑚珠』(5巻、1690)※石川流宣らとの合作
『露鹿懸合咄』(5巻、1697)※露の五郎兵衛らとの合作

【深掘り】

「堺町馬の顔見世」

『鹿の巻筆』所収の「堺町馬の顔見世」は、「武助馬」のもとになった咄といわれています。以下、引用しましょう。

市村芝居へ去る霜月より出る斎藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は米河岸にて刻み烟草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手を頼み出けり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜び、さてさて恐らくは伊藤正太夫と私、一番なり、とてもの事に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬になりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴りも静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、いゝんいいながら舞台うちを跳ね廻った。

伊藤正太夫は、一座の座頭ざがしら、あるいは人気役者なのでしょう。甚五兵衛も人気で、積みもの(ご祝儀、プレゼント)も多かったようすが記されています。

『鹿の巻筆』には39の話が載っています。貞享3年(1686)頃の刊行です。当時の実在の人物が多く登場しているのが特徴だとか。市村竹之丞もその一人。ほかには、出来島吉之丞、松本尾上、中村善五郎など。役者が多いんですね。ということは、伊藤正太夫も斎藤甚五兵衛実在だったのかもしれませんね。

鹿野武左衛門と同様に、江戸落語の祖として、西東太郎左衛門にしひがしたろうざえもんという人が『本朝話者系図ほんちょうわしゃけいず』(全亭武生こと三世三笑亭可楽著)に載っています。天和年間(1681-84)の人だったということですから、武左衛門と同じ頃に活躍していたようです。あまり聞きませんがね。

ちなみに、国立劇場調査養成部編のシリーズ本として、『本朝話者系図』(日本芸術振興会、2015年)は、今ではたやすく読めるようになっています。便利な世の中です。

「~の祖」について、関山和夫氏がきっぱり言っていることがありますね。この表現は江戸後期になってよく使われたのだそうです。それぞれのジャンルに大きな業績を残した人の尊称をさします。重要なのは、「~の祖」が「まったくその人から始まった」という意味ではない、ということなんだそうです。たしかに。そりゃ、そうですね。いましめます。

参考文献:関山和夫「随筆・落語史上の人々 5 鹿野武左衛門」

塗師

「ぬりし」が訛って「ぬし」になったようですが、古くから「ぬし」と言っていました。塗るといっても、漆塗りのことです。塗師は漆塗りの職人、今は漆芸家と呼んだりしている職業の人です。

七十一番職人歌合しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ』という歌集があります。明応めいおう9年(1500)頃につくられたものです。室町時代というか、戦国時代のどさくさの頃の歌集です。

べつに、職人が詠んだわけではありません。彼らは忙しくてそんなことなどできません。

天皇や公家たちが、職人たちに自らを仮託して、「月」と「恋」を歌題に左右に分かれて歌を競って優劣を下す、物合ものあわせという形式の歌集です。やんごとない人たちというのは、すさまじいほどに暇だったのですね。その歌集の三番に「塗士」が載っています。塗師のことです。

以下は、「画中詞」と呼ばれる、詞画きです。絵のちょっとした解説じみた文をさします。

よげにそうろう 木掻きがきのうるしげに候 今すこし火どるべきか

よさそうです。掻き取ったばかりの新しい漆のようです。いま少々、火にあぶって、漆の水分を蒸発させるべきだろうか。

そんな意味合いです。

いつまでも蛤刃はまぐりばなるこがたなのあふべきことのかなはざるらん

しぼれども油がちなるふるうるしひることもなき袖をみせばや

このように二首載って、競っているわけです。

歌集は全体、あまり高い文学性は感じられません。ただ、職業尽くしで構成された、奇異で珍奇なおもしろさがあります。

それが、いまとなっては楽しいし、当時のさまざまな職業のさまを垣間見ることができる、史料の宝庫でもあるのです。

最後に、以下のような判が下っています。

左右、ともに心詞こころことばきゝて面白く聞こゆ よきにこそはべるめれ

どうということもない文言です。歌集には絵が挟まれています。それが下のもの。

「七十一番職人歌合」の第三番「塗士」の図

右の男は侍烏帽子さむらいえぼしをかぶっています。職人が侍烏帽子をかぶるのは珍しいことではありません。小袖にはかま。腕をまくっています。

右手には、漆刷毛うるしはけを持った坊主頭の男。雇われ人でしょうか。小袖に袴、片肌ぬぎです。二人が行っているのは、吉野紙の漆し紙で漆を漉しているところ。下には受け鉢があって、手前に曲げ物の漆桶などが見えます。

漆の作業工程には「やなし」と「くろめ」の二工程があるそうです。

「やなし」は漆を均質にする作業。「くろめ」は生漆の水分を除く作業です。

塗師の作業のポイントは、塗ることと乾かすことだそうです。これを何回も繰り返すことで、上質の漆工芸品が生まれるのですね。単純のようですが、作業のていねいぶりが必須で、めんどうで辛抱強い仕事のようです。

さて、鹿野武左衛門。

これらの作業中もぺちゃくちゃおしゃべりなんかして、師匠や兄貴から「おまえがいると、このなりわいも飽きずでにできるなあ」などと、喜ばれていたのかもしれませんね。

参考文献:新日本古典文学大系61『七十一番職人歌合 新撰狂歌集 古今夷曲集』

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【長屋の花見】ながやのはなみ 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

貧乏長屋が花見に出かける。茶を酒に、こうこを蒲鉾に、沢庵を玉子焼きに、酔ったふりする。「大家さん、近々長屋にいいことがあります」「そんなことがわかるのかい」「酒柱が立ちました」

別題:隅田の花見 貧乏花見(上方)

【あらすじ】

貧乏長屋の一同が、朝そろって大家に呼ばれた。

みんな、てっきり店賃の催促だろうと思って、戦々恐々。

なにしろ、入居してから18年も店賃を一度も入れていない者もいれば、もっと上手はおやじの代から払っていない。

すごいのは
「店賃てな、なんだ」

おそるおそる行ってみると、大家が
「ウチの長屋も貧乏長屋なんぞといわれているが、景気をつけて貧乏神を追っぱらうため、ちょうど春の盛りだし、みんなで上野の山に花見としゃれ込もう」
と言う。

「酒も一升瓶三本用意した」
と聞いて、一同大喜び。

ところが、これが実は番茶を煮だして薄めたもの。

色だけはそっくりで、お茶けでお茶か盛り。

玉子焼きと蒲鉾の重箱も、
「本物を買うぐらいなら、むりしても酒に回す」
と大家が言う通り、中身は沢庵と大根のコウコ。

毛氈も、むしろの代用品。

「まあ、向こうへ行けば、がま口ぐれえ落ちてるかもしれねえ」
と、情なくも、さもしい料簡で出発した。

初めから意気があがらないことはなはだしく、出掛けに骨あげの話をして大家に怒られるなどしながら、ようやく着いた上野の山。

桜は今満開で、大変な人だかり。

毛氈のむしろを思い思いに敷いて、
「ひとつみんな陽気に都々逸でもうなれ」
と大家が言っても、お茶けでは盛り上がらない。

誰ものみたがらず、一口で捨ててしまう。

「熱燗をつけねえ」
「なに、焙じた方が」
「なにを言ってやがる」

「蒲鉾」を食う段になると
「大家さん、あっしゃあこれが好きでね、毎朝味噌汁の実につかいます。胃の悪いときには蒲鉾おろしにしまして」
「なんだ?」
「練馬の方でも、蒲鉾畑が少なくなりまして。うん、こりゃ漬けすぎで、すっぺえ」

玉子焼きは
「尻尾じゃねえとこを、くんねえ」

大家が熊さんに、
「おまえは俳句に凝ってるそうだから、一句どうだ」
と言うと
「花散りて死にとうもなき命かな」
「散る花をナムアミダブツと夕べかな」
「長屋中歯をくいしばる花見かな」

陰気でしかたがない。

月番が大家に、
「おまえはずいぶんめんどう見てるんだから、景気よく酔っぱらえ」
と命令され、ヤケクソで
「酔ったぞッ。オレは酒のんで酔ってるんだぞ。貧乏人だってばかにすんな。借りたもんなんざ、利息をつけて返してやら。くやしいから店賃だけは払わねえ」
「悪い酒だな。どうだ。灘の生一本だ」
「宇治かと思った」
「口あたりはどうだ」
「渋口だ」

酔った気分はどうだと聞くと
「去年、井戸へ落っこちたときと、そっくりだ」

一人が湯のみをじっと見て
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことがわかるのかい」
「酒柱が立ちました」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

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【しりたい】

明治の奇人、馬楽十八番

上方落語「貧乏花見」を、明治37年(1904)ごろ、三代目蝶花楼馬楽(本間弥太郎、1864-1914)が東京に移しました。

三代目馬楽は、奇人でならした薄幸の天才とされています。

明治38年(1905)3月の、日本橋常磐木倶楽部での第4回(第1次)落語研究会に、まだ二つ目ながら「隅田すだの花見」と題したこの噺を演じました。

これが事実上の東京初演で、大好評を博し、以後、この馬楽の型で多くの演者が手掛けるようになりました。

上方のものは、筋はほぼ同じですが、大家のお声がかりでなく、長屋の有志が自主的に花見に出かけるところが、江戸(東京)と違うところです。

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馬楽から小さんへ

馬楽から、弟弟子の四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)が継承しました。

小さんは、馬楽が出していた女房連をカット、くすぐりも入れて、より笑いの多い楽しめるものに仕上げました。

そのやり方は五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に伝えられ、さらにその門下の十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)の極めつけへとつながっていきました。

オチは、馬楽のものは「酒柱」と「井戸へ落っこった気分」が逆で、後者で落としています。

このほか、上方のオチを踏襲して、長屋の一同がほかの花見客のドンチャン騒ぎをなれあい喧嘩で妨害し、向こうの取り巻きの幇間が酒樽片手になぐり込んできたのを逆に脅し、幇間がビビって「ちょっと踊らしてもらおうと」「うそォつけ。その酒樽はなんだ?」「酒のお代わりを持ってきました」とする場合もあります。

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おなじみのくすぐり

どの演者でも、「長屋中歯を食いしばる」の珍句は入れますが、これは馬楽が考案し、百年も変わっていないくすぐりです。

いかに日本人がプロトタイプに偏執するか、これをもってもわかるというものです。

冒頭の「家賃てえのはなんだ」というのもこの噺ではお決まりですが、こちらは上方で使われていたくすぐりを、そのまま四代目小さんが取り入れたものです。

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長屋

表長屋は表通りに面し、二階建てや間口の大きなものが多かったのに対し、裏長屋(裏店うらだな)は新道じんみち(私道)や横丁、路地に面し、棟割むねわり(1棟を間口9尺奥行2間で何棟かに仕切ったもの)になっています。

同じ裏長屋でも、路地に面した外側は鳶頭や手習いの師匠など、ある程度の地位と収入のある者が、木戸内の奥は貧者が住むのが一般的でした。

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上野の桜

「花の雲鐘は上野か浅草か」という、芭蕉の有名な句でも知られた上野山は、寛永年間(1624-44)から開けた、江戸でもっとも古く、由緒ある花の名所でした。

寛永寺には将軍家の霊廟があります。

承応3年(1654)以来、皇族の門主の輪王寺宮が住職を務めてきました。

江戸でもっとも「神聖」な地となっていたのです。

ですから、しもじもの乱痴気騒ぎなどはもってのほか。鳴り物は一切禁止でした。いまとは様相が違います。

「山同心」なる連中が、つねに巡回して目を光らせていました。

暮れ六つ(午後6時ごろ)には山門は閉じられる上、花の枝を一本折ってもたちまち御用となるとあって、窮屈極まりないところでした。

そのため、上野の桜はもっぱら文人墨客の愛するものとなっていました。

町人の春の行楽地としては、次第に後から開発された、品川の御殿山、王子の飛鳥山、向島にとって代わられました。

たとえ「代用品」ででも花見でのめや歌えをやらかそうと思えば、この噺にかぎっては、厳密には明治期以後にするか、場所を向島にでも変えなければ、成り立ちません。

名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池 歌川広重 1856年

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江戸の花見の名所は、以下のようなところでした。

上野 寛永寺の境内。最上の花見どころ。鳴り物は禁止。

飛鳥山 享保(1716)以降。

向島

御殿山

浅草

隅田川堤

吉原遊郭 夜桜。向島から桜木を運んで移植して散ればまた向島に。

小金井堤

江戸時代は旧暦ですから、花見の時期は2月末から3月末頃です。現代のような4月の花見はありえません。

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【おことわり】「長屋の花見」の別題は「隅田の花見」です。あらすじの底本に用いた『明治大正落語集成』(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編、講談社、1980年)の当該頁(第7巻296頁下段)には「隅田の花見」の題名で掲載され、「すだ」とルビが振られています。その根拠はわかりません。ただ、墨田区のHPには、以下のような記載があります。

「すみだ川」の名が登場したのは、西暦835年のこと。当時の政府の公文書に「住田河」と記されています。この「住田」が、どのように読まれていたのかは定かではありませんが、川の三角州に田を作ったという意味で「すだ」と呼ばれていたと考えられています。

和歌山県橋本市の隅田八幡神社も「すだ」と読ませ、川の三角州に田を作ったという同様の由来です。「すだ」は四段活用動詞「すだく」と同根です。意味は「多く集まる」。『明治大正落語集成』はあえて「すだ」としているものと推測できます。「隅田」は古くは「すだ」と読まれていたようで、いつも「すみだ」と読むとはかぎらないのですね。「隅田の花見」はこれまで、「すだのはなみ」「すみだのはなみ」が混用されてきたのではないでしょうか。われわれは『明治大正落語集成』の編集意図を尊重して、「隅田の花見」の読み方については、できるかぎり「すだのはなみ」「すみだのはなみ」と併記します。

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【合縁奇縁】あいえんきえん 故事成語 ことば 落語 あらすじ


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【いみは?】

人と人との交わりは不思議な縁によるものだ、ということ。

仏教由来。というよりもこれは、日本由来の成語ではないでしょうか。

「合縁機縁」「愛縁機縁」とも書きます。

とりわけ、男女の間での、気心が合うとか合わないとかについて言うことが多いようです。

つまずく石も縁のはし

道を歩いてつまずいた石にも縁があった、ということで、日本人は縁が大好きです。人間社会での合理的に説明できないことはすべて「縁」で片づけているようです。

袖すり合うも他生の縁

見ず知らずの人道ですれちがうのも前世からの因縁なのだ、ということ。なんだか説明がつかないのは前世からの因縁によるもの、それが縁というものである、という具合です。

能楽では「一樹の陰」「一河の流れ」ということばを使って「縁」を表現します。

「縁」は、江戸時代に入ると、人々の生活の細部に仏教がしみ込んでいき、「縁は異なもの味なもの」ということばが普通に使われるようになっていきます。

そして、明治6年(1873)頃に流行した俗曲「四季の縁」。

春は夕の手枕に
しっぽり濡るる軒の雨
ぬれてほころぶ山桜
花がとりもつ縁かいな

結びの「縁かいな」が特徴で、大流行しました。

明治24年(1891)頃には、これを替え歌にした徳永里朝(中井徳太郎、1855-1936、→三代目哥沢芝金→徳永徳寿)が、さらなる「縁かいな節」を大流行させました。

夏のすずみは両国の
出舟入り舟屋形船
あがる流星、星くだり
玉屋が取り持つ縁かいな

空ものどけき春風に
柳に添いし二人連れ
目元たがいに桜色
花が取り持つ縁かいな

「竜生」も「星くだり」も花火の種類で、花火業者の玉屋が取り持つという具合。

徳永里朝は上方の人で、盲目の音曲師。上方では桂派の門下でしたが、東京に移って三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)の門下となりましたので、柳派に。

しあわせは三世の縁を二世にする

という川柳があります。

江戸期に一般に通用していた、縁についての「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」という言い回しを踏まえて、その家のお女中が後妻になったことを詠んでいるのです。

主従の縁は、親子や夫婦のそれよりも深いのだということ。

これぞ、前近代的な感覚ですが、これを逆手にとって、主従の三世の縁を二世の縁につづめる、といって、それを「しあわせ」だと詠んでいるのです。

「しあわせはさんぜのえんをにせにする」と読んで、「二世の縁」は「偽の縁」だとこきおろしているのです。

後妻に格上げされたお女中の面目躍如というところでしょうか。すごい句ですね。

これも宿世の縁(ずっと前から決まっていたこと)ということでしょうか。いやはや。

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【桂春雨】かつらはるさめ 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会/三代目桂春団治一門 
【入門】1983年4月、三代目桂春団治に、桂春雨で。
【出囃子】春雨
【定紋】花菱
【本名】中田雅也
【生年月日】1964年1月28日
【出身地】東京都文京区
【学歴】東京都立小石川高校
【血液型】O型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki 
【趣味や特技】趣味は長唄、三味線、茶道、イタリア旅行。
【蛇足】東京出身で上方落語を演じる。

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【桂花団治】かつらはなだんじ 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会/三代目桂春団治一門 花団治おふぃす
【入門】1982年、二代目桂春蝶(濱田憲彦1941-93)に、桂蝶六で。2015年4月26日、三代目桂花団治。
【出囃子】井出の山吹
【定紋】花菱(替え紋:花菱蝶)
【本名】森隆久
【生年月日】1962年10月10日
【出身地】大阪府豊中市
【学歴】大阪芸術大学芸術学部中退
【血液型】O型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki 花団治おふぃす
【趣味や特技】趣味は狂言、ウクレレ演奏、謡曲。
【蛇足】

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【桂文枝】かつらぶんし 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会 会長(2003-18)/五代目桂文枝一門
【入門】1966年、五代目桂文枝(長谷川多持、1930.4.12-2005.3.12、三代目桂小文枝→)に、桂三枝で。2012年7月16日、六代目桂文枝
【出囃子】本調子中の舞
【定紋】文枝紋
【本名】河村靜也
【生年月日】1943年7月16日
【出身地】大阪府堺市
【学歴】関西大学商学部第二部商学科中退
【血液型】O型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki 吉本興業
【趣味や特技】趣味は社交ダンス、ウクレレ、絵画、船
【蛇足】むかし古典、いま創作。「歌え!ヤングタウン」(MBSラジオ、1967)、「ヤングOh!Oh!」(MBSテレビ、1969)、「ヤングタウンTOKYO」(TBSラジオ、1970.6.6-75.9)の司会などで人気。1983年と2003年、文化庁芸術祭賞大賞。06年、紫綬褒章。06年、芸術選奨文部科学大臣賞。07年、菊地寛賞。10年、第62回(平成22年度)日本放送協会放送文化賞。14年、大阪市民表彰など

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【桂慶枝】かつらけいし 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会/五代目桂文枝一門 吉本興業
【入門】1984年3月、六代桂文枝(桂三枝→)に、桂三風で。2024年9月27日、五代目桂慶枝
【出囃子】おそづけ
【定紋】結び柏
【本名】竹田俊英
【生年月日】1961年6月26日
【出身地】滋賀県大津市
【学歴】京都学園大学経済学部 ※落研
【血液型】B型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki 吉本興業
【趣味や特技】趣味は旅行、ジョギング
【蛇足】創作落語中心。客席参加型落語も。2007年11月、第1回繁昌亭創作賞

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【桂梅枝】かつらばいし 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会/五代目桂文枝一門 吉本興業
【入門】1978年10月11日、五代目桂文枝(長谷川多持、1930.4.12-2005.3.12、三代目桂小文枝→)に、桂小つぶで。1996年8月、二代目桂枝光。2024年9月27日、四代目桂梅枝
【出囃子】猩々
【定紋】結び柏
【本名】小出良司
【生年月日】1959年 6月21日
【出身地】大阪府大阪市
【学歴】関西大倉高校
【血液型】B型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki 吉本興業 平成開進亭
【趣味や特技】趣味はドライブ、スポーツ観戦
【蛇足】札幌市で活躍。古典落語中心。紙屑屋 立ち切れ線香 など。

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【大山詣り】おおやままいり 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

噺のおおよそは参詣の帰途が舞台。宿で泥酔し、仲間から総スカンの熊。熊が遂げる仕返しは凝ってます。

別題:百人坊主(上方)

あらすじ

長屋の講中で大家を先達に、大山詣りに出かけることになった。

今年のお山には罰則があって、怒ったら二分の罰金、けんかすると丸坊主にする、というもの。

これは、熊五郎が毎年、酒に酔ってはけんかざたを繰り返すのに閉口したため。

行きはまず何事もなく、無事に山から下り、帰りの東海道は程ケ谷(保土谷)の旅籠。

いつも、江戸に近づくとみな気が緩んで大酒を食らい、間違いが起こりやすいので、先達の吉兵衛が心配していると、案の定、熊が風呂場で大立ち回りをやらかしたという知らせ。

ぶんなぐられた次郎吉が、今度ばかりはどうしても野郎を坊主にすると息巻くのを、江戸も近いことだからとなだめるが、みんな怒りは収まらず、暴れ疲れ中二階の座敷でぐっすり寝込んでいる熊を、寄ってたかってクリクリ坊主に。

翌朝、目を覚ました熊、お手伝いたちが坊さん坊さんと笑うので、むかっ腹を立てたが、言われた通りにオツムをなでで呆然。

「他の連中は?」
「とっくにお立ちです」

熊は昨夜のことはなにひとつ覚えていないが、
「それにしてもひでえことをしやがる」
と頭に来て、なにを思ったか、そそくさと支度をし、三枚駕籠を仕立て途中でのんびり道中の長屋の連中を追い抜くや、一路江戸へ。

一足先に長屋に着くと、かみさん連中を集めて、わざと悲痛な顔で
「残念だが、おまえさん方の亭主は、二度と再び帰っちゃこねえよ」

お山の帰りに金沢八景を見物しようというので、自分は気乗りしなかったが、無理に勧められて舟に乗った。

船頭も南風が吹いているからおよしなさいと言ったのに、みんな一杯機嫌、いっこうに聞き入れない。

案の定、嵐になって舟は難破、自分一人助かって浜に打ち上げられた。

「おめおめ帰れるもんじゃないが、せめても江戸で待っているおまえさんたちに知らさなければと思って、恥を忍んで帰ってきた。その証拠に」
と言って頭の手拭を取ると、これが丸坊主。

「菩提を弔うため出家する」
とまで言ったから、かみさん連中信じ込んで、ワッと泣きだす。

熊公、
「それほど亭主が恋しければ、尼になって回向をするのが一番」
と丸め込み、とうとう女どもを一人残らず丸坊主に。

一方、亭主連中。

帰ってみると、なにやら青々として冬瓜舟が着いたよう。

おまけに念仏まで聞こえる。

熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。

連中が息巻くのを、吉兵衛、
「まあまあ。お山は晴天、みんな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」

しりたい

大山とは  【RIZAP COOK】

神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある標高1246mの山。

ピラミッドのような形でひときわ目立ちます。日本橋から18里(約71km)でした。

中腹に名僧良弁ろうべんが造ったといわれる雨降山あぶりさん大山寺だいせんじがありました。

雨降山とは、山頂に雲がかかって雨を降らせることからの銘々なんだそうです。

山頂に、剣のような石をご神体とする石尊大権現せきそんだいごんげんがあります。これは縄文時代以来の古い信仰です。時代が下る(奈良、平安期ですが)と、神仏混交、修験道の聖地となるのですね。

江戸時代以前には、修験者、華厳、天台、真言系の僧侶、神官が入り乱れてごろごろよぼよぼ。

それを徳川幕府が真言宗系に整理したのですが、それでもまだ神仏混交状態。

明治政府の神仏分離令(廃仏毀釈)の結果、中腹の大山寺が大山阿夫利おおやまあぶり神社に。仏の山から神の山になったわけです。

末寺はことごとく破壊されましたが、大正期には大山寺が復しました。今は真言宗大覚寺派の準本山となっています。

ばくちと商売にご利益  【RIZAP COOK】

大山まいりは、宝暦年間(1751-64)に始まりました。ばくちと商売にご利益があったんで、みんな出かけるんですね。

6月27日から7月17日までの20日間だけ、祭礼で奥の院の石尊大権現に参詣が許される期間に行楽を兼ねて参詣する、江戸の夏の年中行事です。

大山講を作って、この日のために金をため、出発前に東両国の大川端で「さんげ(懺悔の意)、さんげ」と唱えながら水垢離みずごり(体を清める)をとった上、納め太刀という木刀を各自が持参して、神前で他人の太刀と交換して奉納刀としました。

これは,大山の石尊大権現とのかかわりからきているんでしょうね。

お参りのルートは3つありました。

(1)厚木往還(八王子-厚木)
(2)矢倉沢往還(国道246号)
(3)津久井往還(三軒茶屋-津久井)

日本橋あたりから行くには(3)が普通でした。

世田谷区の三軒茶屋は大山まいりの通過点でにぎわったんです。

男の足でも4-6日はかかったというから、金も時間もかかるわけ。

金は、先達せんだつ(先導者)が月掛けで徴収しました。

帰りは伊勢原を経て、藤沢宿で1泊が普通です。

あるいは、戸塚、程ヶ谷(保土ヶ谷)、神奈川の宿のいずれかで、飯盛(私娼)宿に泊まって羽目をはずすことも多かったようです。

それがお楽しみで、群れて参詣するわけなんです。

江戸時代の参詣というのは、必ずこういう抜け穴(ホントに抜け穴)があったんですねえ。

だから、みなさん一生懸命に手ぇ合わすんですぇ。うまくできてます。

この噺のように、江ノ島や金沢八景など、横道にそれて遊覧することも。

こはい者 なし藤沢へ 出ると買ひ (柳多留14)

女人禁制で「不動から 上は金玉 ばかりなり」。最後の盆山(7月13-17日)は、盆の節季にあたり、お山を口実に借金取りから逃れるための登山も多かったそうです。

大山まいりは適度な娯楽装置だった、というわけ。

旧暦は40日遅れと知るべし  【RIZAP COOK】

落語に描かれる時代は、だいたいが江戸時代か明治時代かのどちらかです。

この噺は、江戸時代の話。これは意外に重要で、噺を聞いていて「あれ、明治の話だったのー」なあんていうこともしばしば。噺のイメージを崩さないためにも、時代設定はあらかじめ知っておきたいものです。

江戸時代は旧暦だから、6月27日といっても、梅雨まっさかりの6月27日ではないんです。旧暦に40日たすと、実際の季節になります。

だから、旧暦6月27日は、今の8月3日ごろ、ということに。お暑い盛りでのことなんですね。こんなちょっとした知識があると、落語がグーンと身近になるというものです。

元ネタは狂言から  【RIZAP COOK】

「六人僧」という狂言をもとに作られた噺です。

さらに、同じく狂言の「腹立てず」も織り交ぜてあるという説もあります。

「六人僧」は、三人旅の道中で、なにをされても怒らないという約束を破ったかどで坊主にされた男が、復讐に策略でほかの二人をかみさんともども丸坊主にしてしまう話です。

狂言には、坊主のなまぐさぶりを笑う作品が、けっこうあるもんです。

時代がくだって、井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)が各地の民話に取材して貞享2年(1685)に大坂刊「西鶴諸国ばなし」中の「狐の四天王」にも、狐の復讐で五人が坊主にされるという筋が書かれています。

スキンヘッドは厳罰  【RIZAP COOK】

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)は明治期の名人です。

江戸時代には坊主にされることがどんなに大変だったかを強調するため、円喬はこの噺のマクラで、マゲの説明を入念にしています。

円喬の速記は明治29年(1896)のもの。明治維新から30年足らず、断髪令が発布されてから四半世紀ほどしかたっていません。

実際に頭にチョンマゲをのっけて生活し、ザンギリにするのを泣いて嫌がった人々がまだまだ大勢生き残っていたはずなのです。

いかに時の移り変わりが激しかったか、わかろうというものです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)も「一文惜しみ」の中で、「昔はちょんまげという、あれはどうしてもなくちゃならないもんで(中略)大切なものでございますから証明がなければ床屋の方で絶対にこれは切りません。『長髪の者はみだりに月代を致すまじきこと』という、髪結床の条目でございますので、家主から書付をもらってこれでくりくりッと剃ってもらう」と説明しています。

要するに、なにか世間に顔向けができないことをしでかすと、奉行所に引き渡すのを勘弁する代わりに、身元引受人の親方なり大家が、厳罰として当人を丸坊主にし、当分の謹慎を申し渡すわけです。

その間は恥ずかしくて人交わりもならず、寺にでも隠れているほかはありません。

武士にとってはマゲは命で、斬り落されれば切腹モノでしたが、町人にとっても大同小異、こちらは「頭髪には神が宿る」という信仰からきているのでしょう。

朝、自分の頭をなでたときの熊五郎のショックと怒りは、たぶん、われわれ現代人には想像もつかないでしょうね。

名人上手が磨いた噺  【RIZAP COOK】

四代目円喬は、坊主の取り決めを地で説明し、あとのけんかに同じことを繰り返してしゃべらないように気を配っていたとは、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)の回想です。

小さん自身は、取り決めを江戸ですると、かみさん連中も承知していることになるので、大森あたりで相談するという、理詰めの演出を残しました。 

そのほか、昭和に入って戦後にかけ、六代目円生、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)と、とうとうたる顔ぶれが好んで演じました。

三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)も師匠の八代目可楽譲りで若いころから得意にしていましたが、いまも若手を含め多くの落語家が手がける人気演目です。

上方では「百人坊主」  【RIZAP COOK】

落語としては上方が原産です。

上方の「百人坊主」は、大筋は江戸(東京)と変わりませんが、舞台は、修験道の道場である大和・大峯山の行場めぐりをする「山上まいり」の道中になっています。

主人公は「弥太公」がふつうです。

こちらでは、山を下りて伊勢街道に出て、洞川どろかわまたは下市の宿で「精進落とし」のドンチャン騒ぎをするうち、けんかが起こります。

東京にはいつ移されたかわかりませんが、江戸で出版されたもので「弥次喜多」の「膝栗毛」で知られる十返舎一九(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)の滑稽本『滑稽しっこなし』(文化2=1805年刊)、滝亭鯉丈(池田八右衛門→八蔵、?-1841)の「大山道中栗毛俊足」にも、同じような筋立ての笑話があるため、もうこのころには口演されていたのかもしれません。

ただし、前項の円喬の速記では「百人坊主」となっているので、東京で「大山詣り」の名がついたのは、かなり後でしょう。

相模の女  【RIZAP COOK】

この噺の背景にはちょっと重要なパラダイムがひそんでいます。

「相模の下女は淫奔」という江戸人のお約束事です。川柳や浮世絵などでもさかんに出てきます。

相模国(神奈川県西部)出身の女性には失礼きわまりないことですがね。「池袋の下女は夜に行灯の油をなめる」といった類の話です。

大山は相模国にあります。

江戸の男たちは「相模に行けば、なにかよいことがあるかもね、むふふ」といった下心を抱きつつ勇んで向かったのでしょう。

大山詣りがにぎわうわけです。

投げ込んで くんなと頼む 下女が文  三24

枕を交わす男から寝物語に「明日大山詣りに行くんだぜ」と聞いた相模出身の下女は「ならばこの手紙を実家に持っていってよ」と頼んでいるところを詠んでいます。こんなことが実際にあったのか。あったのかもしれませんね。

江の島   【RIZAP COOK】

大山詣りの帰りの道筋に選ばれます。近場の行楽地ですが、霊験あらたかな場所でもあります。

浪へ手を あわせて帰る 残念さ   十八02

これだけで江の島を詠んでいるとよくわかるものですなんですね。「浪へ手をあわせて」でなんでしょうかね。島全体が霊場だったということですか。

江の島は ゆふべ話して けふの旅   四33

江の島は 名残をおしむ 旅でなし   九25

江の島へ 硫黄の匂ふ 刷毛ついで   初24

硫黄の匂いがするというのは、箱根の湯治帰りの人。コースだったわけです。大山詣りも同じですね。

江の島へ 踊子ころび ころびいき   十六01

「踊子」とは元禄期ごろから登場する遊芸の女性です。酒宴の席で踊ったり歌ったりして興を添えるのをなりわいとする人。

日本橋橋町あたりに多くいました。

文化頃に「芸者」の名が定着しました。各藩の留守居役とのかかわりが川柳に詠まれます。

江の島で 一日やとふ 大職冠   初15

大職冠たいしょくかん」とは、大化年間(最新の学説ではこの元号は甚だあやしいとされていますが)の孝徳天皇の時代に定めれらた冠位十二階の最高位です。

のちの「正一位しょういちい」に相当します。実際にこの位を授けられたのは藤原鎌足かまたりですが、「正一位」は稲荷神の位でもあります。

謡曲「海士あま」からの連想です。

ここでは鎌足と息子の不比等ふひとを当てています。

ことばよみいみ
良弁ろうべん華厳宗の僧。東大寺の開山。689-774
雨降山あぶりさん大山寺の寺号。神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派の寺院。大山不動。本尊は不動明王。開基(創立者)は良弁。高幡山金剛寺、成田山新勝寺とで「関東の三大不動」。
神仏習合しんぶつしゅうごう神道と仏教が調和的に折衷され、融合、同化、一体化された信仰。神仏に対する信仰を一体化する考え方をもさす。「神と仏は一体」という考え。神社境内に寺院を建てたり、寺院境内に神社があったり、神前で祝詞奏上と読経がセットでいとまれたり、神体と仏像がいっしょに祀られる状態。明治維新まではそれが普通だった。

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★★

【古今亭志ん橋】ここんていしんきょう 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2009年4月、六代目古今亭志ん橋
【前座】2009年11月、古今亭きょう介
【二ツ目】2014年6月、古今亭志ん松
【真打ち】2024年9月下席、古今亭志ん橋
【出囃子】禅
【定紋】鬼蔦
【本名】深山景介
【生年月日】1984年10月2日
【出身地】千葉県柏市
【学歴】千葉県立我孫子高校→法政大学文学部哲学科
【血液型】B型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はギター

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【古今亭伝輔】ここんていでんすけ 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2009年7月、古今亭志ん輔
【前座】2010年1月21日、古今亭半輔
【二ツ目】2014年6月11日、古今亭始
【真打ち】2024年9月下席、古今亭伝輔
【出囃子】大原女
【定紋】鬼蔦
【本名】和田洋
【生年月日】1984年7月2日
【出身地】埼玉県鶴ヶ島市
【学歴】埼玉県立志木高校→介護福祉士
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はサッカー、キャンプ、BBQ、スノボ。住吉踊り連。2017年、第28回北とぴあ若手落語家競演会奨励賞

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【春風亭梅朝】しゅんぷうていばいちょう 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2009年4月、春風亭一朝
【前座】2009年11月、春風亭一力
【二ツ目】2014年6月、春風亭朝之助
【真打ち】2024年9月下席、春風亭梅朝
【出囃子】河太郎
【定紋】中陰光琳蔦
【本名】漆畑雄介
【生年月日】1984年3月1日
【出身地】静岡県静岡市
【学歴】静岡学園高校→國學院大学経済学部
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はたくさん食べる、洋服屋さんめぐり。



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【柳家花ごめ】やなぎやかごめ 噺家 落語 あらすじ



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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2009年4月、柳家花緑
【前座】2009年11月、柳家まめ緑
【二ツ目】2014年6月、柳家花ごめ
【真打ち】2024年9月下席
【出囃子】かごめかごめ
【定紋】剣片喰
【本名】中田晶子
【生年月日】1986年5月1日
【出身地】千葉県千葉市
【学歴】日本大学
【血液型】B型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】落語ガールズ。ブラックモンツキーズ

落語ガールズ:女性落語家の認知・精進などを目的として、落語協会、落語芸術協会、落語立川流の真打、二ツ目のユニット。平成29年(2017)結成。現在のメンバーは、川柳つくし、林家ぼたん、古今亭駒子、三遊亭藍馬、立川小春志、三遊亭律歌、春雨や風子、柳家花ごめ、三遊亭遊かり、林家あんこ、春風亭一花、立川だん子、三遊亭遊七、三遊亭あら馬。



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【粗忽の使者】そこつのししゃ 落語演目  あらすじ

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【どんな?】

そこつには、軽はずみ、そそっかしい、あわてもの、といった意味があります。

あらすじ

杉平すぎだいら柾目正まさめのしょうという大名の家臣、地武太治部右衛門じぶたじぶえもんという、まぬけな名の侍。

驚異的な粗忽者そこつものだが、そこがおもしろいというので、殿さまのお気に入り。

ある日、大切な使者をおおせつかり、殿さまのご親類の赤井御門守あかいごもんのかみの屋敷におもむかねばならない。

家を出る時が、また大変。

あわてるあまり、猫と馬をまちがえたり、馬にうしろ向きで乗ってしまい、 「かまわぬから、馬の首を斬ってうしろに付けろ」 と言ってみたりで、大騒ぎ。

先方に着くと、きれいに口上を忘れてしまう。

腹や膝をつねって必死に思い出そうとするが、どうしてもダメ。

「かくなる上は……その、あれをいたす。それ、あれ……プクをいたす」
「ははあ、腹に手をやられるところを見るとセップクでござるか」
「そう、そのプク」

応対の田中三太夫たなかさんだゆう、気の毒になってしまった。

「何か思い出せる手だてはござらぬか」

治部じぶザムライ、幼少のころから、もの忘れをした時には、尻をつねられると思い出す、ということをようやく思い出したので、三太夫がさっそく試した。

だが、今まであまりつねられ過ぎて尻肌がタコになっているため、いっこうに効かない。

「ご家中にどなたか指先に力のあるご仁はござらぬか」
とたずねても、みな腹を抱えて笑うだけで、だれも助けてくれない。

これを小耳にはさんだのが、屋敷で普請中ふしんちゅうの大工の留っこ。

そんなに固い尻なら、一つ釘抜くぎぬきでひねってやろうと、作事場さくじばに申し出た。

三太夫はわらにもすがる思いでやらせることにした。

ただ、大工を使ったとあっては当家の名にかかわるので、留っこを臨時に武士に仕立て、中田留五郎なかたとめごろうということにし、治部右衛門の前に連れていく。

あいさつはていねいに、頭に「お」、しまいに「たてまつる」と付けるのだと言い含められた留、初めは
「えー、おわたくしが、おあなたさまのおケツさまをおひねりでござりたてまつる」
などとシャッチョコばっていた。

治部右衛門と二人になると、とたんに地を出した。

「さあ、早くケツを出せ。……きたねえ尻だね。いいか、どんなことがあっても後ろを向くなよ。さもねえと張り倒すからな」

えいとばかりに、釘抜きで尻をねじり上げる。

「ウーン、いたたた、思い出してござる」
「して、使者の口上こうじょうは?」
「聞くのを忘れた」

【RIZAP COOK】

しりたい

この続き   【RIZAP COOK】

今では演じられませんが、続編があります。

この後、治部右衛門が使者に失敗した申し訳に腹を切ろうとします。

九寸五分の腹切り刀と扇子を間違えているところに殿さまが現れます。

「ゆるせ。御門守殿には何も用がなかった」

ハッピーエンドで終わります。

使者にも格がある  【RIZAP COOK】

治部右衛門は直参じきさんではなく、殿さまじきじきの家来である陪臣ばいしん、それも下級藩士ですから、じかに門内に馬を乗り入れることは許されません。必ず門前で下馬げばし、くぐり戸から入ります。

作事場とは?   【RIZAP COOK】

大名屋敷に出入りする職人、特に大工の仕事場です。 作事とは、建物を建築したり修理したりすることをいいます。「作事小屋さくじごや」「普請小屋ふしんごや」ともいい、庭内に小屋を建てることもありました。大大名では、作事奉行さくじぶぎょう作事役人さくじやくにんが指揮することもあります。

太閤記たいこうき」では、木下藤吉郎きのしたとうきちろうが作事奉行で実績をあげ、出世の糸口としています。

赤井御門守  【RIZAP COOK】

赤井御門守あかいごもんのかみとは、ふざけた名前です。もちろん架空の殿さまです。

あるいは、赤い門からの連想で「赤門あかもん」、加賀かが百万石の前田家をきかせたのかもしれませんが、どう見ても、そんな大大名には思えません。

妾馬」での六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)によると、ご先祖は公卿くぎょうだった、算盤数得表玉成卿そろばんかずえのひょうたまなりきょうで、任官にんかんして「八三九九守やつみっつくくのかみ」となった人とか。

石高こくだかは12万3千456石7斗8升9合半と伝わっています。

どうも、江戸の庶民は、高貴な人たちの官位という制度と聞きなれない名称の音の響きに奇妙な好奇心を抱いていたようなふしがうかがえます。

高貴な世界に関心とあこがれがあった、ということなのでしょう。

火焔太鼓」では太鼓、「妾馬」では女と、やたらと物を欲しがるのも特徴です。

落語に登場する殿さまには、この噺に最初に登場した、根引駿河守ねびきするがのかみ吝坂慾之守やぶさかよくのかみ治部右衛門の主君である、杉平柾目正すぎだいらまさめのしょうもいます。赤井の殿さまほど、有名ではありませんが。

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【鈴ふり】すずふり 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

遊行寺が舞台。仏道の修行。禁欲の証に鈴を託して。バレ噺の傑作。「甚五郎作」も併載。

別題:鈴まら

【あらすじ】

藤沢の遊行寺ゆぎょうじという名刹。この寺の住職は大僧正だいそうじょうの位にあって、千人もの若い弟子が一心に修行に励んでいる。

なにせ弟子の数が多いので、さしもの大僧正も、この中から誰を自分の跡継ぎに選んだらよいか、さっぱりわからない。

そこでいろいろ相談した結果、迷案がまとまった。

旧暦五月のある日、いよいよ次の住職を決める旨のお触れが出る。

その当日、誰も彼も、ひょっとして俺が、いや愚僧ぐそうがというので、寺の客殿には末寺から押し寄せた千人の僧侶がひしめき合って、青々としてカボチャ畑のような具合。

そこでなにをするかというと、千人一人一人の男のモノに、太白の紐が付いた小さな金の鈴をちょいと結んで
「どうぞ、こちらへ」

次々と奥に通される。

一同驚いていると、やがて御簾みすの内から大僧正の尊きお声。

「遠路ご苦労である。今日は吉例吉日たるによって、御酒ごしゅ、魚類を食するように」

ただでさえ生臭物は厳禁の寺で、酒をのめ、それ鰻だ、卵焼きだというのだから、どうなっているのかと目を白黒させていると、なんとお酌に、新橋、柳橋のえりすぐりの芸者がずらりと並んで入ってくる。

しかも、そろって十七、八から二十という若いきれいどころ。色気たっぷりにしなだれかかってくるものだから、ふだん女色禁制で免疫のできていない坊さんたちはたまったものではない。

色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき
と必死に股間を押さえていると、隣で水もしたたる美女が
「あなた、何をそう、下ばかり向いて」
と、背中をぽんとたたく。

「あっ」
と手を放したとたんに、親ではなくセガレの方が上を向き、くだんの鈴がチリーン。

たちまち、あっちでもこっちでもチリーン、チリーン、チリチリリーン。

千個の鈴の妙なる音色、どころではない。

そのかまびすしい音を聴いて、大僧正、嘆くまいことか。

涙にくれて、
「ああ情けなや。もう仏法も終わりである。千人の全部が全部、鈴を鳴らそうとは」

ところがふと見ると、年のころ二十くらいの若い坊さんがただ一人、数珠じゅずをつまぐりながら座禅を組んでいる。

よく聞くと、その坊さんの股間からだけは、鈴の音なし。

大僧正、感激の涙にむせび、これで合格者は決まったと、さっそく呼び寄せて前をまくってみたら鈴がない。

「はい、とっくに振り切れました」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

志ん生おはこのバレ噺 【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の一手専売だったバレ噺(エロ噺)です。

ネタがネタだけに、当人も寄席ではやれず、特殊な会やお座敷だけのサービス品でした。

ただし、珍しくずうずうしくも昭和36年(1961)5月の東横落語会とうよこらくごかいで堂々と演じたライブの音源は、脳出血で倒れる半年ほど前の、元気な頃の最後の高座のものです。

「鈴ふり」のマクラに志ん生が必ずつけたのが、関東十八檀林だんりんの言い立て。檀林とはお坊さんを養成する学校のことです。

挙げられる十八か寺は、浄土宗で大僧正となるために修行しなければならない関東の諸名刹です。

この噺の舞台、藤沢の遊行寺は、一遍上人いっぺんしょうにんの「踊り念仏」で有名な時宗じしゅうの総本山。

正しくは藤沢山とうたくざん無量光院むりょうこういん清浄光寺しょうじょうこうじといいます。

「時宗」という呼称は寛永8年(1631)から。江戸幕府から時宗274寺の総本山と認められるところから始まります。

意外に新しいのです。

一遍は鎌倉時代の人ではあるのですが。

この一派、規模が小さいことと、同じ念仏宗派のため、浄土宗系寺院と重なるようにみえますが、この噺のごちゃごちゃぶりは、さすがに落語的。

時宗と浄土宗の混在はでたらめ。よくこんなので、長いこと通用しているものです。

逆に、落語の底知れぬ奥行きに感動してしまいます。

江戸時代の時宗

時宗は自らの檀林(時宗では学寮といいます)は1784年までなかったといわれています。

現在は全国に500余の寺院がありますが、江戸時代には2000を超えるほどだったそうです。

それなりの宗派だったのですが、なんせ踊り念仏を旨とするため、定着性が薄いのです。

他の宗派のような法灯を絶やさず、といった思いも弱いし。

それでも、江戸幕府の宗門制度に合わせて本山、末寺の管理を厳密化するようになったことで、本山を藤沢の清浄光寺(遊行寺)にまとめたのです。

志ん生の「鈴ふり」

志ん生の長男で、まじめそのものの芸風だった(ここがまたいいのですが)十代目金原亭馬生きんげんていばしょう(美濃部清、1928-82)もたまに演じていました。

そこのギャップがなかなかに心愉しいものでした。

昭和33年(1958)10月11日の「第67回三越落語会」。

志ん生はトリで「黄金餅こがねもち」をやる予定でした。

その前に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が「藁人形わらにんぎょう」を。これは関係者の不手際ふてぎわによるものでした。

ひとつの興行で同じ傾向の噺が続くのを「噺がつく」とむのが落語の世界です。

そこで、志ん生は客にことわって「鈴ふり」をみっちりやったといいます。こういうところが志ん生のいきなところですね。

関東十八檀林の言い立て 【RIZAP COOK】

「檀林」とはお坊さんの修行道場で学問所。

ここでいう「関東十八檀林」は浄土宗の寺院をさします。

浄土宗は徳川家康が信仰していたことから、宗派間における地位は優越でした。

江戸の町では、浄土宗と日蓮宗(当時は法華宗といいました)が信者獲得競争に明け暮れしており、その勢力と知名度では他宗派をしのいでいました。

浄土宗のお坊さんは寺を巡るごとに出世していったわけです。

志ん生の言い立てを再現してみましょう。

その修行の一番はなへ飛び込むのはってェと、下谷に幡随院ばんずいいんという寺がある。その幡随院に入って修行をして、その幡随院を抜けて、鴻巣こうのす勝願寺しょうがんじという寺へ入る。この勝願寺を抜けまして、川越の蓮馨寺れんけいじへ。蓮馨寺を抜けまして、岩槻の浄国寺じょうこくじという寺に入る。浄国寺を抜けまして、下総小金しもうさこがね東漸寺とうぜんじという寺に入り、東漸寺を抜けて、生実おゆみ大巌寺だいがんじへ入り、滝山の大善寺へ入る。ここから、常陸江戸崎ひたちえどさき大念寺へ入って、上州館林じょうしゅうたてばやし善導寺へ入る。それから、本所の霊山寺れいざんじへ入って、下総結城しもうさゆうき弘経寺ぐぎょうじへ入って、ここで紫の衣一枚となるまで修行をしなければならない。それから、下総国飯沼しもうさいいぬま弘経寺ぐぎょうじというところへ入る。ここは十八檀林のうちで、隠居檀林といって、この寺で、たいがい体が尽きちゃう。そこを、一心になって修行をして、この寺を抜けて、深川の霊巌寺れいがんじに入り、霊巌寺を抜けて、上州新田じょうしゅうにった大光院に入って、常陸瓜連ひたちうりづら常福寺に入って、そうして、紫の衣二枚になって、それより、えー、小石川の伝通院でんづういんへ入り、伝通院を抜けて、鎌倉の光明寺こうみょうじへ入って、そこでの衣一枚となって、それより、江戸は芝の増上寺ぞうじょうじに入って、増上寺で修行をして、緋の衣二枚となって、はじめて大僧正の位となるという……ここまでの修行が大変であります。

「甚五郎作」 【RIZAP COOK】

「鈴ふり」が短い噺なので、志ん生は「甚五郎作」という小咄をセットで語っていました。

これもバレ噺です。

昭和31年(1956)1月8日号の『サンケイ読物』で、志ん生は福田蘭童らんどうと対談をしています。

タイトルは「かたい話やわらかい話」で、二人で昔の吉原の思い出を肴に笑っています。

その中で、志ん生は「甚五郎作」を語っていました。

対談を読むと、志ん生にとって「甚五郎作」は相当なお気に入りの噺だったように思えるのですが、当の福田蘭童は「なるほど。きれいなオチですね」とかえした程度。

福田の笑いのセンスは志ん生のそれとはズレていたようです。

残念な人です。

では、福田が聴いた「甚五郎作」を再現してみましょう。

昔はいいとこの娘でも、行儀見習いといって、大名屋敷へ奉公へ行ったでしょう。方向へ上がるてえとみんな女ばかり。年頃となってくると男なしではいられない。といって、不義はお家のご法度、男は絶対に近づけられない。そこへつけこんで商売を始めたのが張り形屋。つまり、男の代用品ですね。両国の四ツ目屋よつめやなんぞへ、御殿女中がこれを買いにやってくる。ある家の娘が、やはりこのご奉公に上がって、体の具合が悪くなって帰ってきた。医者にみせると妊娠しているという。おっかさんが驚いて、娘に相手は誰かと聞く。娘は「相手なんかいない」というんです。相手がなくて妊娠するわけはないと問い詰めて、娘の手文庫てぶんこを調べたら、中から張り形が出てきた。「おまえ、これで赤ん坊ができるわけがないよ」と言って、張り形の裏を返したら「左甚五郎作」と彫ってあった。左甚五郎の作ったものは、生き物のように飛び出るという、あれですね。

志ん生という人は、元来、こういうスマートな噺を好んだようです。粋だなあ。

ところで、福田蘭童(石渡幸彦、1905-76)。

この人は、青木繁(画家)の長男で、尺八、フルート、バイオリン、ピアノなんかを演奏する音楽家にして、随筆家。

かつてはこのような、得体のしれない型破りの通人がごろごろいたもんです。

息子の石橋エータロー(石橋英市、1927-94)もそんな範疇の方なんでしょう、きっと。

ハナ肇とクレージーキャッツのメンバーで、桜井センリとのピアノ連弾なんですから。人生の後半は料理研究家でした。

■関東十八檀林

名称内訳現在地
下谷の幡随院新知恩寺。浄土宗系単立寺院。本尊は阿弥陀如来東京都小金井市前原町
鴻巣の勝願寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来埼玉県鴻巣市本町
川越の蓮馨寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来埼玉県川越市連雀町
岩槻の浄国寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来埼玉県さいたま市岩槻区
下総小金の東漸寺浄土宗千葉県松戸市小金
生実の大巌寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来千葉県千葉市中央区 
滝山の大善寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来東京都八王子市大谷町
常陸江戸崎の大念寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来茨城県稲敷市江戸崎甲
上州館林の善導寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来群馬県館林市楠町
本所の霊山寺浄土宗。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来東京都墨田区横川
下総結城の弘経寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来。隠居檀林茨城県結城市西町
下総飯沼の弘経寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来茨城県常総市豊岡町
深川の霊巌寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来東京都江東区白河
上州新田の大光院浄土宗。本尊は阿弥陀如来群馬県太田市金山町
常陸瓜連の常福寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来茨城県那珂市瓜連
小石川の伝通院浄土宗。本尊は阿弥陀如来東京都文京区小石川
鎌倉の光明寺浄土宗鎮西派大本山。本尊は阿弥陀如来
神奈川県鎌倉市材木座
芝の増上寺浄土宗鎮西派大本山。本尊は阿弥陀如来東京都港区芝公園

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【人生を変えるかも!? すごい噺3選】古木優 落語 あらすじ 

 

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落語を聴いて知ったことは「人生なんでもあり」。もののとらえ方は画一ではないんだ、ということ。いろんな見方ややり方があるからおもしろいんだ、ということ。こんなんでいいんだあ。なんだか、生きる道筋が気楽に見えてきました。古今亭志ん生特選、目からうろこの3題です。

黄金餅  

願人坊主の西念が危篤に。餅に金つぶをつぎつぎくるみ呑み込んで絶命。そのようすを隣の壁から覗いていた金兵衛は西念の葬式を引き受けた。下谷山崎町から麻布絶口まで葬いの道行き。焼き場で腹のあたりの生焼けを頼んで……。

後生鰻  

参詣途中のご隠居、川沿いの鰻屋が割こうとする鰻を買い取って川に放流した。「いい功徳」。それが連日で鰻屋は大儲け。魚も尽きたある日。ご隠居が通りかかる。魚はない。慌てた鰻屋は家の赤ん坊をまな板に……。

千両みかん  

お暑いさかり。いまわの際の若だんなが「みかん食べたい」と言い出す。番頭は方々回った果て、問屋に残った一個を探し当てた。お値段は? 千両! 大だんなは「買ってこい」。番頭が手にしたみかん。一房百両の勘定だ。みかん握った番頭は……。

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【笑福亭鶴二】しょうふくていつるじ 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会 松竹芸能
【入門】1986年3月1日、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)に、笑福亭鶴児で。1998年2月、笑福亭鶴二
【出囃子】独楽
【定紋】五枚笹
【本名】上田忠正
【生年月日】1968年3月30日
【出身地】大阪府大阪市生野区
【学歴】近畿大学付属高校
【血液型】AB型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki 松竹芸能
【趣味や特技】趣味は三味線、日本舞踊
【蛇足】1998年、なにわ芸術祭新人奨励賞。2010年、文化庁芸術祭賞優秀賞。2011年、第6回繁昌亭大賞。

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【笑福亭達瓶】しょうふくていたっぺい 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会 松竹芸能
【入門】1984年7月、笑福亭鶴瓶に、笑福亭達瓶で
【出囃子】米洗い
【定紋】五枚笹
【本名】一井滋人
【生年月日】1964年5月14日
【出身地】京都府京都市
【学歴】京都府立朱雀高校
【血液型】A型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki 松竹芸能
【趣味や特技】趣味はパチンコ
【蛇足】

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【笑福亭鶴笑】しょうふくていかくしょう 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会 吉本興業
【入門】1984年、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)に、笑福亭鶴笑で
【出囃子】ハリスの旋風
【定紋】五枚笹
【本名】金田久和
【生年月日】1960年5月2日
【出身地】兵庫県山東町(→朝来市)
【学歴】兵庫県立八鹿高校
【血液型】B型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki 吉本興業
【趣味や特技】趣味は工作、紙切り。
【蛇足】1988年、ABCお笑い新人グランプリ優秀新人賞。1998年、芸術選奨文部科学大臣新人賞。2008年5月、第2回繁昌亭爆笑賞。2015年度厚生労働省児童福祉文化財。

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【笑福亭純瓶】しょうふくていじゅんぺい 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会 松竹芸能
【入門】1984年6月1日、笑福亭鶴瓶に、笑福亭四瓶しびんで。同年、笑福亭純瓶
【出囃子】梅ヶ枝
【定紋】五枚笹
【本名】松村知明
【生年月日】1963年4月20日
【出身地】大阪府堺市
【学歴】清教学園高校
【血液型】B型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki 松竹芸能
【趣味や特技】趣味は温泉めぐり。
【蛇足】

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【笑福亭晃瓶】しょうふくていこうへい 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会 松竹芸能
【入門】1984年4月21日、笑福亭鶴瓶に、笑福亭晃瓶こうへい
【出囃子】太湖船
【定紋】五枚笹
【本名】広田勝
【生年月日】1960年3月24日
【出身地】大阪府大阪市
【学歴】大阪府立長吉高校
【血液型】B型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki 松竹芸能
【趣味や特技】趣味はスーパーで買い物、銀粘土アクセサリー、ドライブ、旅行
【蛇足】笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ(KBS京都)。

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【笑福亭松喬】しょうふくていしょうきょう 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会 松竹芸能
【入門】1983年4月、六代目笑福亭松喬(高田敏信、1951-2013)に、笑福亭笑三で。1987年、笑福亭三喬。2017年10月8日、七代目笑福亭松喬
【出囃子】お兼さらし
【定紋】五枚笹
【本名】井田達夫
【生年月日】1961年3月4日
【出身地】兵庫県西宮市
【学歴】大阪産業大学
【血液型】A型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki 松竹芸能
【趣味や特技】近日息子 など。趣味は柔道(初段)、草野球、寄席の獅子舞。
【蛇足】2005年、文化庁芸術祭優秀賞。2007年11月、第1回繁昌亭大賞。2017年、大阪文化祭賞。2018年、西宮市民文化賞。2021年、文化庁芸術祭大賞。

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【これは便利かも!落語ツール】 知っておきたい あらすじ

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■話芸の団体

落語協会 一般社団法人

落語芸術協会 公益社団法人

五代目円楽一門会

落語立川流 一般社団法人(2024年6月6日)

上方落語協会 公益社団法人

講談協会

■話芸をたのしめるところ

浅草演芸ホール 台東区 東京落語の定席

池袋演芸場 豊島区 東京落語の定席

上野鈴本演芸場 台東区 東京落語の定席

新宿末廣亭 新宿区 東京落語の定席

国立演芸場 千代田区 by日本芸術文化振興会 建て替え閉場 以下で代替開催

 紀尾井ホール 千代田区 by日本製鉄文化財団

 日本橋公会堂 by中央区

 内幸町ホール by千代田区

大演芸 国立系ぜんぶ入り

よみうり大手町ホール 千代田区 by読売新聞社 江戸東京落語まつり など

有楽町朝日ホール 中央区 by朝日新聞社 朝日名人会 など

永谷の演芸場 お江戸上野広小路亭 お江戸日本橋亭(休館中) お江戸両国亭 

横浜にぎわい座 横浜市中区 by横浜市芸術文化振興財団

大須演芸場 名古屋市中区

天満天神繁盛亭 大阪市北区 上方落語の定席

動楽亭 大阪市西成区 by米朝事務所

神戸新開地 喜楽館 神戸市兵庫区

花座 仙台市青葉区 毎月10日間は落語芸術協会の定席「魅知国仙台寄席」

■まだまだある!話芸をたのしめるところ 

アルテ

オフィス10

梶原いろは亭

亀戸梅屋敷藤の間

クリエイティブワンズ

彩の国ビジュアルプラザ 埼玉県川口市西川口

雑司谷はいどん亭

道楽亭 新宿区新宿三丁目

東洋館

ばばん場

ぼんが 墨田区 曳舟・向じま墨亭

木馬亭

湯河原温泉観光協会

瑜伽山真福寺 世田谷区用賀

落語居酒屋こまむ亭 横浜市 相鉄線上星川駅南口

■紙情報

東京かわら版 東京落語中心 月刊

よせぴっ 上方落語中心 フリーペーパー

歴史と人物 日本史中心 by中央公論新社

和樂 日本の伝統文化を紹介 by小学館

■オンライン情報

あかね噺 by少年ジャンプ(集英社)

浅草お茶の間寄席 by千葉テレビ

演芸おもしろ帖 長井好弘 by読売新聞

産経らくご by産経新聞

儒烏風亭らでん hololiveDEV_ISのバーチャルYouTuber ReGLOSSメンバー

新にっかん飛切落語会 byにっかんスポーツ

TBS落語研究会 第五次落語研究会 by東京放送(TBS)

日本の話芸 byNHK

文化デジタルライブラリー by文化庁

よせなび 寄席と落語について

落語散歩 歩く、歩く

噺-HANASHI- 落語系情報サイト  首都圏中心 byハナシ・ドット・ジェーピー

落語と吉原そして小説、時々ぼやき 四代目円喬+自画自賛系 by立花家蛇足

落語の舞台を歩く 続編は落語ばなし こちらもよく歩く by吟醸の館

らくご報知 独自の目線 by報知新聞

バズ部 なにかと役立つ byルーシー

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【長者番付】ちょうじゃばんづけ 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

上方噺「東の旅」シリーズの一話。この噺は江戸用に移植されたものです。ただし、上方の前は、じつは江戸生まれだったのです。

別題:うんつく酒(上方)

【あらすじ】

江戸っ子の二人組。

旅の途中、街道筋の茶店でひどい酒をのまされたので、頭はクラクラ、胸はムカムカ。

迎え酒に一杯いい酒をひっかけたいと思っていると、山道の向こうに白壁で土蔵造りの家が見えてきた。

兄貴分が、あれは造り酒屋に違いないから、あそこでうんとのましてやると励まし、おやじに一升ばかり売ってほしいと交渉すると、
「一升や二升のはした酒は売らねえ」
と断られる。

どのくらいならいいのかと聞くと、
「そうさな。馬に一、船で一そうぐれえかな」

一駄は四斗樽が二丁、船一艘なら五、六十丁というから、兄貴分の怒ったの怒らないの。

「人をばかにするのもいいかげんにしろッ。こちとらァ江戸っ子だ。馬に一駄も酒ェ買い込ん道中ができるかッ。うんつくめのどんつくめッ」

その勢いにおそれをなしたか、おやじは謝り、酒は売るから腰掛けて待っていてくれと言っておいて、こっそり大戸を下ろしてしまった。

気づいたときは遅く、薪ざっぽうを持った男たちが乱入。

さては袋だたきかと身がまえると、おやじ
「さっきおまえさまの言った『うんつくのどんつく』というなあ、どういうことか、聞かしてもれえてえ」
と大変な鼻息。

兄貴分、これはまずいと思いながら、後ろに張ってある長者番付に目を止め、
「江戸ではそれを運つく番付という」
と口から出まかせ。

「江戸の三井と大坂の鴻池こうのいけは東西の長者の大関だが」
と前置きして、ウンツクのウンチクをひとくさり。

「鴻池の先祖は伊丹いたみで造り酒屋をしていたが、そのころはまだ清酒というものがなかった。あるとき、雇った酒造りの親方があまり金をせびるので、断ると、腹いせに火鉢を酒樽に放り込んで逃げた。ところが、運は不思議で、灰でよどみが下に沈み、澄んだ酒ができた」

これを売って大もうけ、運に運がついて大身代ができたから、大運つくのど運つく。

一方、三井の先祖は越後新発田えちごしばたの浪人で、六部ろくぶで諸国をまわっていたとき、荒れ寺に泊まると、夜中に井戸から火の玉が三つ。

調べると、井戸底に千両箱が三つ沈んでいた。

これをもとに松坂で木綿を薄利多売し、これも大もうけして、やがて江戸駿河町するがちょうに呉服屋を開き、運に運に運がついて今では大長者。

おまえのところも今に長者になるから、運つくのど運つくとほめたのがわからねえかと、居直る。

暖簾のれんから顔を出したかみさんは、女ウンツク、青っぱなを垂らした孫は孫運つくで、今に大運つくになると与太を並べると、おやじは大喜び。

酒をふるまった上、
「今度造り酒屋で酒を買いたいときは、利き酒をしたいと言えばいい」
と教える。

江戸では大ばか野郎をウンツクというが、まんまとだまされやがったとペロリと下を出した二人、ご機嫌で街道筋に出ると、後ろから親父が追いかけてくる。

「おめえさまがたをほめるのを忘れていただ。江戸へ帰ったら、りっぱな大ウンツクのどウンツクになってくだせえ」
「なにを抜かしゃあがる。オレたちはウンツクなんぞ大嫌えだ」
「えっ、嫌えか? 生まれついての貧乏人はしようがねえ」

【しりたい】

上方種長編の一部

古くから親しまれた上方落語の連作長編シリーズ「東の旅」の一話です。

清八と喜六の極楽コンビが伊勢参宮の途中、狐に化かされる「七度狐しちどぎつね」に続く部分です。

「うんつく」「うんつく酒」の題で演じられてきました。

上方では、悪態の意気で六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)が優れていました。

東京への移植者とその時期は不明です。

戦後は三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が得意とし、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)も、たまに演じました。

原話は、安永5年(1776)刊の笑話本『鳥の町』中の「金物見世」。

皮肉にもこれは江戸板なので、東→西→東とキャッチボールされたことになります。

この小咄では「うんつく」でなく「とうへんぼく(唐変木)」がキーワードであることでも、ルーツが江戸であることがうかがわれます。

演出の異同

噺中の三井と鴻池のエピソードは、時間の関係でどちらかを切ることもあります。

東京風の演出では、上方の「煮売り屋」を改作した「二人旅」のオチ近くのくだりを圧縮して「長者番付」の前に付け、続けて演じることもあります。

「二人旅」については、その項をご参照ください。

「東の旅」の順番

「東の旅」の順番では、伊勢路に入り、「野辺歌」「法会ほうえ」「もぎとり」「軽業かるわざ」「煮売り屋」「七度狐」に続いて、この「うんつく酒」(長者番付)になります。

この後、連れがもう一人増えて「三人旅」で、伊勢参宮のくだりは一応完結します。

うんつく

この噺の、上方落語の演題でもあります。

うんつくは「運尽く」と書き、「運尽くれば知恵の鏡も曇る」ということわざから、上方言葉で「阿呆」「野暮」の意味が付きました。

したがって、「ど運尽く」は「大ばか」。「ど」は上方の罵言なので、本来は江戸落語にない語彙ごいです。上方落語のものがそのまま残ったのでしょう。

ところが、後にはこれをもじって、本当に「運付く」で幸運の意味が加わったからややこしくなりました。同音異義語のいたずらです。

造り酒屋

造り酒屋は本酒屋ともいいます。

醸造元で、卸専門の店ではこの噺のように小売はしない建前でしたが、地方には、小売酒屋を兼ねている店も多く見られました。

清酒事始め

噺の中で、鴻池が作ったというのは、ヨタ(うそ)です。

享保年間(1716-36)、なだ山邑太左衛門やまむらたざえもんが苦心の末発明し、「政宗」として売り出したのが、ホントの最初。

全国に普及したのは、その1世紀も後の文化年間(1804-18)なので、江戸時代も終わり近くなるまで、一部の地方では濁り酒しか知らなかったことになります。

五代目柳家小さん

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【笑福亭鶴瓶】しょうふくていつるべ 噺家 落語 あらすじ

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会・副会長(2008年-) 松竹芸能 デンナーシステムズ
【入門】1972年 2月14日、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)に、笑福亭鶴瓶で
【出囃子】トンコ節
【定紋】五枚笹
【本名】駿河学
【生年月日】1951年 12月23日
【出身地】大阪府大阪市
【学歴】京都産業大学中退 ※落研
【血液型】O型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki
【趣味や特技】趣味はボクシング。
【蛇足】古典中心に創作や新作も。身辺雑記風の「鶴瓶噺」がある。2000年、上方お笑い大賞。2010年、第33回日本アカデミー賞優秀主演男優賞(「ディア・ドクター」で)。2011年、第34回日本アカデミー賞優秀主演男優賞(「おとうと」で)。駿河太郎は長男。駿河太郎は、BS日テレが2017年から放送している単発ドラマ「BS笑点ドラマスペシャル」では立川談志役を務める。『桂歌丸』(2017年10月9日)、『五代目三遊亭圓楽』(2019年1月12日)、『初代林家木久蔵』(2020年1月11日)、『笑点をつくった男立川談志』(2022年1月2日)。

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【小屋】こや 古木優 落語 あらすじ

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不定期連載  日本史のあらすじ  2021年11月13日~

不定期編集  落語の年表  2023年12月1日~

落語家の「実力」って、なんだろう?という記事を見つけました。

ここには「落語家の偏差値」が載っておりました。かつて、われわれ(高田裕史/古木優)がアップロードしていた記事です。

サイトの引っ越しやリニューアルのどさくさで散逸したままでした。懐かしかったので、孫引きさせていただきます。

以下の通り。

[独断と偏見] 基準は、うまいかへたか、だけ。
70.0 小三治
67.5 雲助
65.0 さん喬 権太楼 桃太郎
62.5 小柳枝 鯉昇 喜多八 志ん輔 小里ん
60.0 小朝 川柳 馬桜 志ん五
57.5 志ん橋 正雀 小満ん 喬太郎
55.0 円太郎 小さん ぜん馬 竜楽
52.5 昇太 扇遊 菊春
50.0 歌之介 馬生 市馬 平治 白酒 扇治 正朝
47.5 玉の輔 たい平  扇辰 三三 兼好 文左衛門 金時
45.0 花緑 彦いち 志の輔 南なん 菊之丞 とん馬
42.5 志らく 一琴 白鳥 談春
40.0 三平 幸丸 楽輔
37.5 歌武蔵 談笑
35.0 正蔵
32.5 愛楽
30.0 

以上は、「HOME★9(ほめ・く) 偏屈爺さんの世迷い事」というブログからの転載です。勝手に転載してしまいました。すみません。

「偏屈爺さん」は記事中、われわれの評価だけを記していたのではありません。

堀井憲一郎氏が『週刊文春』に載せた「東都落語家2008ランキング」をも引用して、両者を比較しているのです。

ともに、2008年当時の落語家を評価しているわけです。ちょっと凝ってます。おもしろい。

堀井氏のも孫引きしてみましょう。以下の通り。

0 立川談志
1 柳家小三治
2 立川志の輔
3 春風亭小朝
4 柳家権太楼
5 春風亭昇太
6 立川談春
7 立川志らく
8 柳家喬太郎
9 柳家さん喬
10 柳亭市馬
11 柳家喜多八
12 林家たい平
13 柳家花緑
14 三遊亭白鳥
15 五街道雲助
16 古今亭志ん輔
17 三遊亭小遊三
18 古今亭菊之丞
19 三遊亭歌武蔵
20 三遊亭遊雀
21 林家正蔵
22 柳家三三
23 昔昔亭桃太郎
24 春風亭一朝
25 瀧川鯉昇
26 春風亭小柳枝
27 立川談笑
28 三遊亭歌之介
29 橘家文左衛門
30 林家彦いち
31 春風亭百栄
32 三遊亭圓丈
33 桃月庵白酒
34 入船亭扇辰
35 三遊亭兼好
36 入船亭扇遊
37 橘家圓太郎
38 春風亭正朝
39 桂歌春
40 むかし家今松
41 春風亭柳橋
42 三遊亭笑遊
43 古今亭志ん五
44 柳家蝠丸
45 柳家小満ん
46 川柳川柳
47 林家三平
48 古今亭寿輔
49 立川生志
50 桂歌丸
51 春風亭勢朝
52 林家正雀
53 柳家はん冶
54 林家木久扇
55 三遊亭圓歌
56 橘家圓蔵

われわれが56人までしか取り上げていないため、堀井氏のほうも56人どまりにして、比較の条件を同じくしています。工夫を見せている。さすが。

そこで、「偏屈爺さん」の解析。

①1位から15位までは両者とも同じ、②16位以下ではだいぶ違ってる、ということでした。

おおざっぱにはそんなところでしょう。同意いたします。

ただ。

われわれの視点と、堀井氏の視点には、じつは、決定的な違いがあります。

五街道雲助師についての評価です。

われわれは、小三治の次は雲助、というのが、当時の評価の眼目でした。

小三治と雲助の技量には大人と子どもほどの差はあるのですが、それでも雲助は小三治に次ぐ腕っこき。

われわれは、そう見ていました。今も変わりません。

じつは、この一点だけのためにこさえたのが「落語家の偏差値」だったのです。誤解を恐れずに極論すれば、ほかはおにぎやかしです。

堀井氏のは、雲助を15位(談志を含めれば16位)に置いています。

ランキングですから、序列のように見えます。その結果、権太楼やさん喬よりも、雲助は下位となっています。

雲助の芸をあまり重視していなかった、というふうにも見えてしまいます。おそらく、堀井氏の心底はそんなところだったのでしょう。

ちなみに、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(広瀬和生著、光文社新書、2011年)。

このほほえましい怪著では、落語評論家の広瀬氏が、巻末付録に「落語家」「この一席」私的ランキング2010を掲げています。

初出は2010年です。われわれの評価よりも新しいはずなのですが、雲助は出てこない。白酒を絶賛しているのに、師匠の雲助には言及がない。関心外なんでしょうかね。

要約すれば。

堀井氏も、落語評論家の広瀬氏も、雲助の芸はどうでもよかったのでしょう、おそらく。

お二人の雲助への評価は、いまも変わらないのでしょうか。機を見て敏なるお二方ですから、そんなことはありますまい。

落語家のどこを見ているんだろうな。いぶかります。

視点が定まらないのは論外ですが、視点がずれているのも、落語ファンには迷惑です。ミスリードされるだけですから。

いまどき落語家は900人余いるそうです。多いのはよいことです。

それでも。

噺を何度も聴いてみたいなと思えるのは、せいぜい10人いるかな、といったところでしょうか。

話芸についての、この数は、いつの時代であっても、変わらないように思えます。

900人を広げて、あれもこれも、とはならないのです。残念ながら。

ただ。

そんなこととはべつに、味わい深く、ちょいと乙な、えも言われずに心地よく、気になってしょうがない落語家というのが、じつは、かならずいるものです。

落語家の芸は、噺を聴かせるだけではありません。

さまざまな所作で笑わせてくれるし、そこにいるだけで楽しくなるし、人の心をあたたかく豊かにしてくれます。

これらもまた、落語家の魅力です。

新東宝の67分を暗がりで見ているうちに、情が移って岡惚れしてしまう女優がいるもんです。織田倭歌なんかはそんな女優でした。

あれに似た感覚かなと思っています。

この、味わい深さとほんのりしたぬくもり。なんともいいもんです。

都内の寄席での10分程度のかかわりでは、「岡惚れ」は至難の業でしょうか。

いやいや、そうでもありますまい。

その昔、深夜寄席で見つけたとっておきの面々も、今では大御所に。

※「HOME★9(ほめ・く) 偏屈爺さんの世迷い事」さん、ありがとうございました。

■古木優プロフィル
1956年高萩市出身。高田裕史と執筆編集した「千字寄席」の原稿を版元に持ち込み、1995年に「立川志の輔監修」付きで刊行してもらいました。これがどうも不本意で。サイト運営で完全版をめざそうと思い立ち、2004年10月16日からココログで始めました。これも勝手がいまいち。さらに一念発起、2019年7月31日からは独自ドメイン(https://senjiyose.com)を取得して「落語のあらすじ事典 web千字寄席」として再始動しました。噺に潜む「物語の底力」を渉猟中。編集者。

主な著書など
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)高田裕史と共編著 A5判 1995年
『千字寄席 噺の筋がわかる落語事典 下巻』(PHP研究所)高田裕史と共編著  A5判 1996年
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)高田裕史と共編著 文庫判 2000年
『図解 落語のおはなし』(PHP研究所)高田裕史と共編著 B5判 2006年
『粋と野暮 おけら的人生』(廣済堂出版)畠山健二著 全書判 2019年 ※編集協力

■主な執筆稿
数知れず。ゴーストライターもあまた。売文の限りを尽くしました。

バックナンバー

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【日本史のあらすじ 目次】落語

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■先史・古代

旧石器・縄文時代
弥生時代
邪馬台国
古墳時代とヤマト政権
倭の五王
磐井の乱
部民制
仏教伝来
蘇我氏
大化改新
東アジアの小帝国
壬申の乱
律令国家
古代の女帝
古代荘園
国家仏教
古代家族
郡司
木簡
天智系と天武系
平安仏教
古代社会
十世紀の反乱
阿衡事件
受領
神仏習合
国風文化
四円寺と六勝寺
平安後期仏教
武士

■中世

中世王権
中世宗教
摂関政治
院政
中世荘園
僧侶
治承寿永の内乱
鎌倉幕府
宋元文化
南北朝
室町幕府
室町荘園
中世流通
室町仏教
応仁の乱
天皇と朝廷
畿内の政治権力
東国
戦国大名
中世身分制
中世都市
中世村社会
神祇と神道
中世史料
文字文化
中世合戦
中世城館
中世の女性と家
環境史

■近世

織豊政権
江戸幕府
村と百姓
都市支配
対外関係
幕府と朝廷
寺社支配
キリシタン
江戸幕府の法
参勤交代
幕藩関係
藩の財政
朱子学
米市場
地方商人
町人社会
地主と小作
負担と御救
後期の村社会
農業と漁業
土木技術
帯刀
被差別社会
近世仏教
観光
知の形成
女性
大塩事件
幕末の畿内
幕末の対外関係
幕末の天皇と朝廷

■近代・現代

西洋の衝撃
明治維新
文明開化
日清戦争
武士の近代化
初期議会
日露戦争
近代都市
地方社会
下層社会
交通
学校教育
アイヌと沖縄人
移民
新聞と雑誌
ナショナリズム
ジェンダー
近代家族
台湾
朝鮮
被差別部落
近代宗教
マルクス
近代科学
労働運動
政党政治
大正デモクラシー
大衆消費社会
医療社会
近代農村
国家神道
大戦間の国際関係
昭和天皇
官僚と政党
軍部
日本軍兵士
日中戦争
災害
大東亜共栄圏
日米戦争
戦時下
占領政策
象徴天皇
自民党支配
在日米軍基地
原子力
在日コリアン
高度経済成長
戦後社会
戦後学校教育
平和運動
戦後文化運動
冷戦史
戦後処理
公文書
オーラルヒストリー
環境問題
海外の日本史研究

参考文献:高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬信一『ここまで変わった日本史教科書』(吉川弘文館、2016年)、藤尾慎一郎、松木武彦『ここが変わる!日本の考古学 先史・古代史研究の最前線』(吉川弘文館、2019年)、中央公論新社編『歴史と人物5 ここまで変わった! 日本の歴史』(中央公論新社、2021年)、大津透ほか編『岩波講座 日本歴史』全22巻(岩波書店、2013~15年) 、岩城卓二ほか編『論点・日本史学』(ミネルヴァ書房、2022年)

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こうぼう【工房】高田裕史 落語 あらすじ

 

 

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【 ごあいさつ 】

学生時代、徹底的にこの世を茶化し抜いた江戸の戯作にのめり込み過ぎたせいで、その毒気にあてられ、いつの間にやらこの世を斜に構えてしか見られない、困った精神構造が根つきました。

テレビ番組のコメディーだろうが漫画だろうが、ちょっとやそっとではクスリとも笑えない心根に変質。

もっとも、草創期のテレビ番組や少年漫画雑誌に耽溺した小学校時分でも、本当に腹八分目以上に笑わされたのは「トムとジェリー」「おそ松くん」にクレージーキャッツくらいでしたから、幼い頃から性根がカーブしていたのかもしれません。

落語に本格的にのめり込みだしたのは大学時分のこと。のめり込むといっても、そのネジ曲がった自らのフィルターを通してでしか、噺も噺家も評価はできません。

落語の価値基準は、以下の二つです。

①噺は優れた短編小説のように短くシャープであるべき。

②オチが噺の価値の大半を決めるものだが、湿ったものよりもドライなファース(farce)で構成された噺がより好ましい。

捕捉するなら、「毒」をどこかに隠している噺、それを洒脱に演じられる噺家はさらにお好みである。

とまあ、こんなふうに决めています。勝手なお好みですが。

立川談志がよく「落語は業の肯定」と念仏のように唱えていましたが、「毒をもって毒を制す」という通り、今や本当に必要なのは清濁併せ持つダイナミズムと、どんな時代にも存在した社会の「毒」への耐性を少しでも取り戻すことではないでしょうか。

その点、リニューアルした本サイトを通して、落語の持つものすごい魅力を、ほんの少しばかりの知性と業と毒の絶妙な加減の上にあることを、向こう見ずにも大いに喧伝したいと思っております。

お引き立てのほどをよろしく願い上げます。

藤巻百貨店

【私の好きな落語家7傑】

四代目春風亭柳朝

四代目柳家小せん

十代目桂文治

八代目古今亭志ん馬

三代目八光亭春輔

二代目春風亭梅橋

上位3傑は志ん生、志ん朝、馬生で決まり。4位以下の7人です。順不同。

■高田裕史の主な著書
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)古木優と共編著 A5判 1995年
『千字寄席 噺の筋がわかる落語事典 下巻』(PHP研究所)古木優と共編著 A5判 1996年
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)古木優と共編著 文庫判 2000年
『図解 落語のおはなし』(PHP研究所)古木優と共編著 B5判 2006年

 

 

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【縄文と弥生】じょうもんとやよい 弥生時代 日本史のあらすじ 落語

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縄文時代と弥生時代の違いはなんだったでしょうか。

二つあります。

①使っている土器の違い
②水稲栽培の有無

では、弥生時代の土器の特徴は?

①物を貯蔵する壷が進化したこと
②装飾がシンプルであること

水稲栽培は、これまでは弥生時代の存在意義のようなものでした。

1980年頃までの教科書では、この二つのことがしっかり記されていましたし、誰もが疑わなかったのです。

となると、弥生時代は紀元前3世紀から紀元後3世紀まで続く、ということになっていました。

土器の視点からだと

ところが、この安定秩序の知識が、1980年代に入ると疑わしいものになってきました。

新たな水田遺構が発見されていったからです。

板付いたづけ遺跡(福岡県)では、夜臼式ゆうすしき土器の出土する層から、菜畑なばたけ遺跡(佐賀県)でより古い山ノ寺式やまのてらしき土器の出土する層から、ともに水田跡が見つかりました。

ここで、考古学界はざわつき始めました。

板付遺跡の夜臼式土器も、菜畑遺跡の山ノ寺式土器も、縄文土器とされていたのですから。

つまり、土器を軸足にして考えれば、縄文時代晩期には九州北部では水稲耕作が行われていた、ということになります。

津島江道つしまえどう遺跡(岡山県)でも水田跡が見つかりました。

だいたい同じ時期、つまり、縄文時代晩期には西日本では水稲耕作があった、ということになります。

教科書も、縄文時代晩期には水稲耕作が行われていた、と記されるようになりました。

水稲耕作の視点からだと

弥生時代の特徴は土器と水稲ですから、水稲を軸足に考えれば、どうなるか。

これは、弥生時代の水稲栽培がこれまでよりも1世紀ほどさかのぼれることになります。

弥生時代の始まりは、紀元前3世紀ではなく、紀元前4世紀から、ということですね。

そこで、弥生時代早期という区分が新たに生まれたのでした。

教科書の記述はどうなるかといえば、この二つの新事実を同等に紹介するようになりました。

あるいは、弥生時代の始まりを紀元前4世紀、または紀元前5世紀に設定する教科書も出ています。

現時点でも、ここは揺れているのです。

稲作とは

水稲栽培は、日本列島にどんな順番で伝播していったのか。

垂柳たれやなぎ遺跡(青森県)で弥生時代中期、砂沢すなざわ遺跡(青森県)で弥生時代前期の水田跡が発見されたことで、伝播でんぱの順番が入れ替わりました。

現在の教科書では、こんな順番で記されています。

九州→西日本→東海→北陸→東北→関東、というぐあいにです。

これでおわかりのように、関東地方へがいちばん遅かったということになってしまいました。

これが、今の教科書の記述なんですね。

というか、日本史研究の成果ではこんなふうなのですね。

なんだか、ぴんときませんが。

稲作の技術

1980年代までの教科書には「直播じかまき」という用語が出ていました。

弥生時代の稲作技術は未熟なため、田植えはできずに、種もみを田んぼにまく方法、つまり直播を行っていた、と思われていました。

直播は、発芽がふぞろいとなり,生育にむらが生じ,幼植物期での管理が不十分となるなどの欠陥があります。

ところが、百間川原尾島ひゃっけんがわはらおじま遺跡(岡山県)や内里八丁うちさとはっちょう遺跡(京都府)などから、苗代で苗をつくって田植えをすることもあるのがわかってきました。

水田跡から規則正しい配列の稲株の跡が見つかったのす。

その結果、「直播」の表記はぐっと少なくなって、「田植え」の表記が増えました。

湿田から乾田へ

もうひとつ。

これまでは、排水不良の湿田から灌漑システムを備えた乾田へ、という技術の進歩が考えられていたのですが、水田跡の発見・調査から、じつは、稲作の始まりから乾田を利用していたことがわかってきました。

つまり、大陸からたんに稲もみだけが伝わったのではなく、水田耕作の工程も含めてすべてセットで伝来したのではないか、と見られているようです。

縄文と弥生の境界は

国立歴史民俗博物館(千葉県、略称は歴博)は、「弥生時代の始まりは紀元前10世紀」と発表しました。2003年(平成15)のことです。衝撃でした。

注や写真のキャプションなどに、この調査結果を載せる教科書もありました。

でも、あれから20年以上たった今も、学界には異論が残り、教科書での全面採用にはいたっていません。つまり、本文には記されていないのです。

縄文と弥生の境界時期は、今でもはっきりしていないのが実状のようです。

参考文献:高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬信一『ここまで変わった日本史教科書』(吉川弘文館、2016年)、中央公論新社編『歴史と人物5 ここまで変わった! 日本の歴史』(中央公論新社、2021年)、大津透ほか編『岩波講座 日本歴史』全22巻(岩波書店、2013~15年)

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【日本の始まり】にっぽんのはじまり 旧石器、縄文時代 日本史のあらすじ 落語

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最近の日本史教科書を開くとびっくりします。知らないことが載っているのです。こんなことをいまの中高生はふつうに知っているのか、と思うと自分が時代に置いてけぼり食らったかのように愕然としてしまいます。では、どこがどんなふうに変わったのか。時代順にわかりやすく、ねんごろに見ていきましょう。

更新世から完新世へ

日本列島はアジア大陸にくっついていました。

「氷河時代」と呼ばれていた時代は、いまでは「更新世」と呼ばれています。寒い時期が何度かあった頃の話です。

亜寒帯のヘラシカ、マンモスゾウ、ヒグマ、冷温帯のナウマンゾウ、オオツノシカなどの大型動物を追って、人々が移動してきたわけです。

やがて、地球規模の気温の上昇が始まります。海進にともなって、いまの日本列島が形成されていきました。

温暖な時代は、いまから1万年余り前から始まって現代にまで及んでいます。

この時代を「完新世」と呼びます。

「更新世」が終わって「完新世」に。

こんなぐあいですが、1980年代までの教科書には「洪積世」「沖積世」と記されてありました。いまでは「更新世」「完新世」です。

「洪積世」「沖積世」という名称は、ノアの洪水伝説に由来するのであまりよろしくない、という理由のようです。

この時期の日本列島での時代区分は、わりと簡単です。

更新世にほぼ対応するのが旧石器時代。打製石器の時代です。

完新世の始まりに対応するのが縄文時代。土器を使うようになりました。

日本列島が形成されていくと、落葉広葉樹林や所用樹林の森林が広がりました。

このような新しい自然環境に適応した人々は、煮炊き用の道具である土器、森林に棲息するニホンシカやイノシシなどの中小動物を獲得するため弓矢などを使用し、クリ、トチ、ドングリなどの木の実(堅果類けんかるい)を主な食料として、定住性の高い狩猟・採取生活を送る縄文文化を営みました。

相沢忠洋の登場

一挙に縄文時代に来てしまいました。

旧石器時代のことで忘れてならない話があります。

戦後まもなくのこと。

行商を生業としていた青年、相沢忠洋あいざわただひろが、群馬県岩宿いわじゅくの関東ローム層から打製石器を発見しました。その涙ぐましい苦労譚はいずれまたの機会に。

それまで、学者たちの間では、火山の多い日本列島には旧石器時代な成立しなかったろうというのが、共通した認識でした。

ところが、日本にも旧石器時代はあった。これがすごいことでした。

この話は昔から有名ですが、下の捏造事件があったせいか、いまの教科書では必須の記述事項になっています。こちらはまちがいのない発見だからでしょう。

相沢忠洋記念館

捏造事件

旧石器時代は、前期、中期、後期の3区分とされています。

日本での旧石器時代の遺跡は、だいたいが後期のものでした。

ところが、20世紀末期には主に東北地方の遺跡から次々と前期や中期の遺跡が見つかっていきました。

その結果、1990年代の教科書には、宮城県の上高森かみたかもり遺跡や座散乱木ざざらぎ遺跡などが紹介されていたのです。

ところが、毎日新聞が「旧石器発掘ねつ造」とすっぱ抜いて、学界の気運を覆してしまいました。2000年11月5日のことです。

これは考古学上、大変な事件でした。捏造ねつぞうを許してきた学界の姿勢が問われたのです。

これ以降、旧石器時代の前期、中期の遺跡は教科書から消え、この時代を語ることが慎重となりました。

その結果、現在の教科書では、旧石器時代の遺跡はことごとく後期のものばかりです。

旧石器時代の証拠品としては、石器以外に化石人骨があります。

かつての教科書にはたくさんの「原人」が載っていましたが、そのほとんどは、いまでは覆されています。

たとえば、葛生くずう人(栃木県)は縄文時代以降の人骨、聖嶽ひじりだき人(大分県)は中世以降の人骨、三ヶ日原人(静岡県)は縄文時代早期の人骨、牛川原人(愛知県)は上腕部が動物の骨、明石原人(兵庫県)は現代人の骨に類似、など。

こんなふうに、動物の骨片か、古代や中世の人骨だった、というのがオチで、いまでは誰も語らなくなりました。

もちろん教科書にも載りません。

いまの教科書には、二つの化石人骨が載っています。

浜北はまきた人(静岡県)と港川みなとがわ人(沖縄県)。

この二つは、いまのところ確かなようです。

浜北はまきた人は1万8000年前、港川みなとがわ人は2万1000年前のものと推定されています。

もうひとつ。

山下町洞人やましたちょうどうじん(沖縄県)もあります。

こちらは3万2000年前のもので、最も古い化石人骨です。

日本で発見される化石人骨は新人段階のものばかりです。

縄文土器

1980年代までの教科書では「縄文式土器」と記されていましたが、いまでは「縄文土器」となっています。

縄文土器は、大森貝塚を発掘したモースが発見者です。

英文学会誌には「cord marked pottery」と記したそうです。

その訳語として「索文土器」「貝塚土器」「縄目文様」などが使われていましたが、「縄文式土器」の用語が定着しました。

1975年になって、佐原真さはらまことが土器の名称に「式」を使うことは不合理であると主張し、「縄文土器」の名称を使うことが一般化していきました。

「縄文土器」には二つの意味が含まれます。

「縄目文様が施された縄文時代の土器」という意味と、「縄文時代の土器一般」という意味です。

縄文時代の土器だからといっても、すべてが縄目模様とはかぎらないのです。

それにしても、縄文土器の奇妙な形はわれわれが知っている日本的美とはおおよそ異なります。

これについても、岡本太郎が『縄文土器 民族の生命力』で唱えています。でも、読んでもよくわかりません。

納得できずじまい。それでも、覆される日が来るのかもしれません。

縄文の時代区分

1980年代の教科書には、縄文時代は5つの時代区分でしたが、いまは六つの区分です。

草創期
早期
前期
中期
後期
晩期

これまでの区分に、「草創期」が新しく加わりました。

草創期の土器は、無文むもん土器、隆起線文りゅうきせんもん土器、爪形文つめがたもん土器などの型式で教科書に載っています。これこそ、広義の縄文土器です。

三内丸山遺跡の豊かさ

三内丸山さんないまるやま遺跡は、2021年7月、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産に認定されました。

縄文時代の前期から中期まで、5900年前から4200年前までの、1700年間にわたる遺跡です。この場所に、人々が1700年間定住していたのですから、驚きです。

クリ林の管理、ヒョウタンの栽培などが、教科書に載っています。

発掘されたヒノキ科の針葉樹の樹皮で編まれた小さな袋は、「縄文ポシェット」と呼ばれています。

特別史跡 三内丸山遺跡

測定技術の精緻化

これまでの教科書では、縄文時代の始まりは、1万2000年前、または1万3000年前と記されてありました。

現在の教科書もこの年代観に沿ってはいますが、ただ、縄文時代の始まりをさらにさらにさかのぼらせる遺跡をも紹介しているのです。

1998年に大平山元おおだいやまもと遺跡(青森県)から出土した無文土器。

この付着炭化物を測定したら、なんと1万6500年前という数値がはじき出されました。

これは、炭素14年代測定法という高精度の方法によるものです。

同様の測定法によれば、弥生時代の始まりは2800年前となりました。従来は2500年前ですから、300年さかのぼりました。

以前のてつを踏まないようにと慎重を要しているようですが、教科書の記述は少しずつ塗り替わっていくことでしょう。

参考文献:高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬信一『ここまで変わった日本史教科書』(吉川弘文館、2016年)、中央公論新社編『歴史と人物5 ここまで変わった! 日本の歴史』(中央公論新社、2021年)、大津透ほか編『岩波講座 日本歴史』全22巻(岩波書店、2013~15年)

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