【縄文と弥生】じょうもんとやよい 弥生時代 日本史のあらすじ 落語
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縄文時代と弥生時代の違いはなんだったでしょうか。
二つあります。
①使っている土器の違い
②水稲栽培の有無
では、弥生時代の土器の特徴は?
①物を貯蔵する壷が進化したこと
②装飾がシンプルであること
水稲栽培は、これまでは弥生時代の存在意義のようなものでした。
1980年頃までの教科書では、この二つのことがしっかり記されていましたし、誰もが疑わなかったのです。
となると、弥生時代は紀元前3世紀から紀元後3世紀まで続く、ということになっていました。
土器の視点からだと
ところが、この安定秩序の知識が、1980年代に入ると疑わしいものになってきました。
新たな水田遺構が発見されていったからです。
板付遺跡(福岡県)では、夜臼式土器の出土する層から、菜畑遺跡(佐賀県)でより古い山ノ寺式土器の出土する層から、ともに水田跡が見つかりました。
ここで、考古学界はざわつき始めました。
板付遺跡の夜臼式土器も、菜畑遺跡の山ノ寺式土器も、縄文土器とされていたのですから。
つまり、土器を軸足にして考えれば、縄文時代晩期には九州北部では水稲耕作が行われていた、ということになります。
津島江道遺跡(岡山県)でも水田跡が見つかりました。
だいたい同じ時期、つまり、縄文時代晩期には西日本では水稲耕作があった、ということになります。
教科書も、縄文時代晩期には水稲耕作が行われていた、と記されるようになりました。
水稲耕作の視点からだと
弥生時代の特徴は土器と水稲ですから、水稲を軸足に考えれば、どうなるか。
これは、弥生時代の水稲栽培がこれまでよりも1世紀ほどさかのぼれることになります。
弥生時代の始まりは、紀元前3世紀ではなく、紀元前4世紀から、ということですね。
そこで、弥生時代早期という区分が新たに生まれたのでした。
教科書の記述はどうなるかといえば、この二つの新事実を同等に紹介するようになりました。
あるいは、弥生時代の始まりを紀元前4世紀、または紀元前5世紀に設定する教科書も出ています。
現時点でも、ここは揺れているのです。
稲作とは
水稲栽培は、日本列島にどんな順番で伝播していったのか。
垂柳遺跡(青森県)で弥生時代中期、砂沢遺跡(青森県)で弥生時代前期の水田跡が発見されたことで、伝播の順番が入れ替わりました。
現在の教科書では、こんな順番で記されています。
九州→西日本→東海→北陸→東北→関東、というぐあいにです。
これでおわかりのように、関東地方へがいちばん遅かったということになってしまいました。
これが、今の教科書の記述なんですね。
というか、日本史研究の成果ではこんなふうなのですね。
なんだか、ぴんときませんが。
稲作の技術
1980年代までの教科書には「直播」という用語が出ていました。
弥生時代の稲作技術は未熟なため、田植えはできずに、種もみを田んぼにまく方法、つまり直播を行っていた、と思われていました。
直播は、発芽がふぞろいとなり,生育にむらが生じ,幼植物期での管理が不十分となるなどの欠陥があります。
ところが、百間川原尾島遺跡(岡山県)や内里八丁遺跡(京都府)などから、苗代で苗をつくって田植えをすることもあるのがわかってきました。
水田跡から規則正しい配列の稲株の跡が見つかったのす。
その結果、「直播」の表記はぐっと少なくなって、「田植え」の表記が増えました。
湿田から乾田へ
もうひとつ。
これまでは、排水不良の湿田から灌漑システムを備えた乾田へ、という技術の進歩が考えられていたのですが、水田跡の発見・調査から、じつは、稲作の始まりから乾田を利用していたことがわかってきました。
つまり、大陸からたんに稲もみだけが伝わったのではなく、水田耕作の工程も含めてすべてセットで伝来したのではないか、と見られているようです。
縄文と弥生の境界は
国立歴史民俗博物館(千葉県、略称は歴博)は、「弥生時代の始まりは紀元前10世紀」と発表しました。2003年(平成15)のことです。衝撃でした。
注や写真のキャプションなどに、この調査結果を載せる教科書もありました。
でも、あれから20年以上たった今も、学界には異論が残り、教科書での全面採用にはいたっていません。つまり、本文には記されていないのです。
縄文と弥生の境界時期は、今でもはっきりしていないのが実状のようです。
参考文献:高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬信一『ここまで変わった日本史教科書』(吉川弘文館、2016年)、中央公論新社編『歴史と人物5 ここまで変わった! 日本の歴史』(中央公論新社、2021年)、大津透ほか編『岩波講座 日本歴史』全22巻(岩波書店、2013~15年)