首屋 くびや 演目

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自分の首を売るという商売の男。実にどうも、ばかばかしいお笑いです。

【あらすじ】

鳥羽伏見の戦い、上野の戦いなどで、江戸が騒然となっていたご一新のころ。

旗本の二、三男なども、今までのように安閑とはしていられなくなり、いざという時には大いに働かなければならないというので、自然と刀などは、良いものを求めるようになった。

買うには買っても、切れ味がわからなくては安心できない。

刀を試すにはまず胴試し、つまり、生体実験が一番手っ取り早いというわけで、江戸市中のあちらこちらで辻斬りや試し斬りが横行し、標的になる町人は、外もおちおち歩けない。

そんな折も折、番町あたりで、首のところに風呂敷を巻き付け、大声で
「首屋、くびいーやッ」
と売り歩く男が出現した。

さる旗本の殿さま、この声を聞きつけて、御用人の藤太夫を呼び、
「あの首屋を屋敷の中に連れて参れ」
と言いつける。

藤太夫、ばかばかしくなり、おそらく栗屋とでも聞き間違えたのだろうと思ったが、主命には逆らえないので、外に出てみると、確かにクビヤクビヤとがなっている男がいる。

「こりゃ町人、少し待て。その方、何を売っておる」
「私は首を売っております」

大変な奴だと思いながら、
「買ってやるからこちらに参れ」
と勝手口で待たせた後、庭先に通す。

庭には荒むしろが敷かれて、手桶に清めの水。

殿さまが縁側から声をかけ、
「首屋は、その方か」
「へい、さようで」
「なぜそのようなつまらん考えを起こした」

男が言うには、人間わずか五十年、二十五年は寝て暮らし、病気で五年居眠りを五年、昼寝を十年と差し引くとなくなってしまう。

ばかばかしくなったので、いっそひと思いに、というわけ。

殿さまは機嫌がよくなった。

「思い切りのよい奴。買ってやるが、いくらだ」
「掛け値なく七両二分で」

「金は家族に届けてやる」
と言うと、
「死んでも肌に付けておきたい」
となかなかの欲張り。

風呂敷を取り、その場に直ると、殿さま、白鞘の柄を払ってぎらりと氷の刃を抜き放ち、庭に下りて、ひしゃくの水を鍔元から掛けさせた。

「首屋、覚悟はよいな」
「へい」

イヤッと斬り下ろしてくる刃をひらりとかわし、後ろへ飛びのいてふところから張り子の首を放り出すと一目散。

「ややっ、これは張り子。そっちのだ」
「これは看板でございます」

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【しりたい】

値上げされた首代

原話は明和9年(1772)刊の笑話本『楽牽頭』中の「首売」。

オチも含めて、大筋は現行とほとんど同じですが、原話は本所割下水のあたりが舞台で、首代は一両となっています。

現行の七両二分は、間男の示談金と同じで(「お釣りの間男」参照)、これを「首代」と呼んだため、噺の中の首代も、この値段にしたのでしょう。

三遊派伝統の噺

三遊亭円朝から四代目橘家円喬、昭和の六代目円生へと継承された正当派の三遊伝統の噺です。

明治29年(1896)の四代目円喬の速記が残りますが、円朝が明治になって、時代を幕末維新期に設定したと思われ、それが噺に一種の緊迫感とすごみを与えました。

円朝は、オチに関して、「首という言葉を何度も繰り返すようなムダはするな」という芸談を残しています。

明治から昭和にかけて、大看板の多くが手掛けていますが、戦後では、六代目円生と並び、八代目正蔵(彦六)の風格も忘れがたいものがあります。

類話「試し斬り」

短い噺なので、この前に「試し斬り」という小咄を付けることがあります。

刀の試し斬りをしたがっている侍が、朋輩が物乞いを真っ二つにしたという自慢話を聞き、さっそく出かけていって、同じようにバッサリ。

とたんに物乞いがムシロをはねのけて「誰だ、毎晩オレをなぐるのは」とオチる、シュールなオチです。

類話「首医者」

上方に「首医者」という噺があります。

洋行帰りの医者の所に、頭のおめでたい喜六がやってきて、女にもてそうな首と取り換えてほしいと頼みます。

見本をいろいろ見ますが、色男の首は高いので、結局、落語家某の首とすげ替えることにします。

手術が終わって、「これ、首代を置いていかんかい」と医者が言うと、喜六、「前へ回って見てみ。頼んだ奴と首が代わっとる」

張り子

木型に紙を重ねて張り、乾いたあと、型を取り去ったものです。現在でも、芝居の切り首などに用いられます。

【語の読みと注】
本所割下水 ほんじょわりげすい

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狂歌家主 きょうかいえぬし 演目

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江戸前の噺。これは狂歌噺。全編に洒落がたっぷり効いています。

別題:三百餅

【あらすじ】

ある年の大晦日、正月用の餅つきを頼む金がないので、朝からもめている長屋の夫婦。

隣から分けてもらうのもきまりが悪いので、大声を出して餅をついているように見せかけた挙げ句、三銭(三百文)分、つまりたった三枚だけお供え用に買うことにした。

それはいいのだが、たまりにたまった家賃を、今日こそは払わなくてはならない。

もとより金の当てはないから、大家が狂歌に凝っているのに目を付け、それを言い訳の種にすることで相談がまとまった。

「いいかい、『私も狂歌に懲りまして、ここのところあそこの会ここの会と入っておりまして、ついついごぶさたになりました。いずれ一夜明けまして、松でも取れたら目鼻の明くように致します』というんだよ」

女房に知恵を授けられて、言い訳に出向いたものの、亭主、さあ言葉が出てこない。

「狂歌を忘れたら、千住の先の草加か、金毘羅様の縁日(十日=とうか)で思い出すんだよ」
と教えられてきたので、試してみた。

「えー、大家さん、千住の先は?」
「ばあさん、どうかしやがったなこいつは。竹の塚か」
「そんなんじゃねえんで、金毘羅さまは、いつでした?」
「十日だろう」
「そう、そのトウカに凝って、大家さんは世間で十日家主って」
「ばか野郎、オレのは狂歌だ」

大家が、
「うそでも狂歌に凝ったてえのは感心だ。こんなのはどうだ」
と、詠んでみた。

「玉子屋の 娘切られて 気味悪く 魂飛んで 宙をふわふわ」

「永き屁の とほの眠りの 皆目覚め 並の屁よりも 音のよきかな」

「おまえも詠んでみろ」
と、言われた。

「へえ、大家さんが屁ならあっしは大便」
「汚いな、どうも。どういうんだ」

「尻の穴 曲がりし者は ぜひもなし 直なる者は 中へ垂れべし」

これは、共同便所に大家が張った注意書きそのまま。

「それだから、返歌しました」
「どう」
「心では 中へたれよと 思えども 赤痢病なら ぜひに及ばん」

だんだん汚くなってきた。

「どうだい、あたしが上をやるから、おまえが後をつけな」
と言うと、
「右の手に 巻き納めたる 古暦」
と言って
「どうだい?」
ときた。

「餅を三百 買って食うなり」
「搗かないから三百買いました」

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【しりたい】

原話は元禄ケチ噺

最古の原話は、元禄5年(1692)刊の大坂笑話本『かるくちはなし』巻五中の「買もちはいかい」です。

これは、金持ちなのに正月、自分で餅を搗かず、餅屋で買って済ますケチおやじが、元旦に「立春の 世をゆずり葉の 今年かな」という句をひねると、せがれが、「毎年餅を 買うて食ふなり」と付け句をします。

おやじが、「おまえのは付け句になっていない」と言うと、せがれは「付かない(=搗かない)から買って食うんだろ」

ここではまだ、現行のオチにある「(狂歌が)付く」=「(餅を)搗く」のダジャレが一致するだけです。

狂歌

狂歌は、こっけい味や風刺を織り込んだ和歌です。起源は平安期にまで遡りますが、古い記録はあまり残っていません。これは、内容が内容だけに、歌壇をはばかって「言い捨て」(=記録しない)にされることが多かったためでしょう。

室町から安土桃山時代に好まれ、豊臣秀吉も狂歌を楽しんだといいます。江戸時代につながる近世狂歌は、松永貞徳(1571-1653)によって京都で創始されました。松永貞徳は貞門俳諧の祖です。

江戸の狂歌

江戸ではずっと遅く、明和6年(1769)、唐衣橘洲(からごろも・きっしゅう、1743-1802)が自宅で狂歌の会を催したのが始まりとされます。

初期の狂歌は、古歌のパロディーが主だったので、歌の素質のある御家人や上層町人の間に広まり、狂歌合わせなども安永・天明期(1772-89)にかけて盛んに催されました。なかでも、太田南畝(1749-1823)は「狂歌の神さま」的存在。四方赤良、のちに蜀山人とも称しました。幕末になると、この噺にも見られるようにきわめて卑俗化しました。

狂歌噺としては、ほかに「紫壇楼古木」「蜀山人」「狂歌合わせ」などがあり、「掛取万歳」の前半でも狂歌で家賃を断るくだりがあります。

古くから親しまれた噺

原話は上方のものですが、噺としては純粋な江戸落語です。古い噺で、文化年間(1804-18)に初めにはもう狂歌噺として口演されていたようです。

明治期の速記もけっこう残っています。「三百餅」または「狂歌家主」の題で、四代目橘家円喬(明治29年)、初代春風亭小柳枝(同31年)、三代目蝶花楼馬楽(同41年)のものがあります。

初代小柳枝の速記はかなり長く、大家が「踏み出す山の 横根(ヨコネ=性病)を眺むれば うみ(=海と膿)いっぱいに はれ渡るなり」とやれば、亭主が「『淋病で 難儀の者が あるならば 尋ねてござれ 神田鍛治町』、これは薬屋の広告で」と返したり、大家が蜀山人先生の逸話を長々と披露する場面があります。

別題の「三百餅」はもちろんオチからきた演題ですが、この三百は餅代、三百文のこと。最近は餅の部分までいかず、滑稽な狂歌の応酬で短く切る場合もあります。

【語の読みと注】
唐衣橘洲 からごろもきっしゅう
太田南畝 おおたなんぽ
四方赤良 よものあから
蜀山人 しょくさんじん
横根 よこね:性病

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江戸っ子 えどっこ 演目

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江戸っ子は意地っ張りの権化。見た目だけの威勢が身上ですね。

【あらすじ】

江戸っ子気質は、律儀と強情。

それを絵に書いたような老人が、江戸から明治にかけては山ほどいた。

日本橋槙町の駄菓子屋「野村」の隠居、稲造も、その一人。

若いころから茶道具に凝り、また、音曲なら河東節であれ一中節であれ、なんでも玄人はだしという粋人だが、せがれに店を譲って楽隠居した今も、いったん言い出したことはテコでも譲らず、いっこうに丸くならない。

ある日、隠居が昔から目をかけている道具屋の竹屋六兵衛が、いい茶碗が入ったというので訪ねてくる。

この男、目利きは一流だが、強情では稲造にまさるるとも劣らない。

そこでひと騒動。

稲造が茶碗を気に入って、問題は値段に。

六兵衛の言い値が十五両。

ところがご隠居、事もなげに
「ああそうか。じゃ、十両でいいね」

耳が遠いふり。

こう当然のように値切られると、いくら日ごろ世話になっている相手でも、簡単に負けては六さん、男と江戸っ子が立たない。

「いえ、負かりません」
「いいじゃねえか。出し掛けたもんだから、十両にしときな」
「いいえ、いけません。高いと思いなさるなら、こちらへお返しを」
「誰が返すと言った」
「だから、十五両掛け値なしです」

負けろ、負けないの水掛け問答で、こうなれば二人とも意地づく。一歩も引かない。

そのうち隠居が、昔のことをネチネチと持ち出し、おまえには無利息で金を貸してやったと言うと、六兵衛も、利息はあなたが受け取らないので、その代わりに大黒屋の切手(=商品券)を付けた、と応酬。

険悪なムードになったところで、大声を聞きつけてせがれの当主、権次郎が登場。

事情を聞き、なんとか調停しようとするが、まるでダメ。

困って六兵衛に、私が差額の五両を出すから、親父の顔を立てて、表向きは負けると言ってくれと頼み、ようよう承知させた。

隠居、勝利(?)で、とたんにご機嫌。

「いや、よく負けてくれた。負け賃に五両出そう」

いや、ごりっぱ。

六兵衛、ありがたく受け取って権次郎に、
「これは若だんなにお返しします」
「どうして?」
「今度のケンカまでお預けしときます」

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【しりたい】

二大絶滅種「恐竜と……」

「江戸っ子」の純粋種とともに、今では滅び去った噺。

四代目橘家円喬の、明治30年代の新作と見られます。明治39年(1906)の「文藝倶楽部」に掲載された円喬の速記が、今残るこの噺の唯一の「化石」です。江戸っ子の常軌を逸した強情をカリカチュアした「意地くらべ」(岡鬼太郎)の先行作品ともみられます。

円喬の速記の題名表記は「江戸子」ですが、読みは「えどっこ」。「文七元結」の別題も同名ですが、むろん別話です。

江戸っ子の源流

古くは「江戸者」「江戸びと」「江戸根生い」などと呼びました。「江戸っ子」という言葉が現れたのは意外に新しく、明和年間 1764-771)あたりといわれるので、よく時代劇で赤穂浪士の討ち入り 1702)の背景に登場する江戸町人が「コチトラエドッコデイベラボーメ」などとタンカをきるのはまったくの嘘っぱちということになります。

有名な川柳「江戸っ子の生まれぞこない金をため」は、安永2年 1773)刊の「川柳評万句合」に登場しますが、、同5年刊「俳風柳多留」第十一篇にはまだ「江戸もの」とあります。家康の江戸入府から百七十年あまり、ようやく江戸気質というものがはっきり成熟してきたのがこの時代。

したがって、金銭を卑しむ風潮、この噺や「強情灸」などに見られる強情者、意地っぱりといった気質が、このあたりから「江戸っ子」のイメージの代表として定着し始めるわけです。

江戸っ子の条件とは? 

「江戸っ子」の定義にはさまざまある。
-山王権現・神田明神の氏子であること
-芝口から筋違御門までの範囲で生まれた者
※これを「古町」と呼び、行政区画としての江戸の範囲である「御朱引内」よりなお狭い。
-親子三代続いて下町に住んだ者
※四谷・牛込などの山の手は厳密には「江戸」ではない。牛込(新宿区)生まれの夏目漱石も「江戸っ子」ではない、ということになる
-職人であること※商人は他国者が多く、江戸っ子ではない
などが挙げられています。

こうした希少価値の「純粋な江戸っ子」は、かえって正面切って「江戸っ子」というのを恥じらい、「江戸者」「東京びと」と自らを呼んだようです。

七代続きの江戸人である池波正太郎の小説に、「江戸っ子」という名称は使われていません。

商人も、江戸者のガサツさを嫌い、下町育ちでも「江戸っ子」と呼ばれるのを嫌ったとか。

大黒屋の切手

大黒屋は尾張町(中央区銀座五丁目)にあった鰹節問屋「大黒屋重兵衛」のこと。

切手と呼ばれる商品券は、贈答用に鮨屋、菓子屋、鰹節屋などの大店が発行したもので、現存する老舗「にんべん」の切手も有名でした。

【語の読みと注】
日本橋槙町 にほんばしまきちょう
音曲 おんぎょく
河東節 かとうぶし
一中節 いっちゅうぶし
江戸根生い えどねおい

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