らくごのねんぴょう【落語の年表】古木優

落語の流れを時系列に作成していきます。

和暦(西暦)落語と世間
寛政10年(1798)6.-岡本万作が神田豊島町藁店に寄席を。6.-万作に対抗して山生亭花楽(→初代三笑亭可楽)が下谷柳の稲荷神社内で寄席を。5日で終わり。9.28花楽は目黒不動で祈願。10.1花楽、武州越ヶ谷で講席。のち松戸で講席。三笑亭可楽に改名。11.12深川元町で母娘の敵討ち、敵は死亡し母娘はおかまいなしに。
この年、初代桂文治、大坂座摩社内で寄席を。寄席時代の幕開け
寛政11年(1799)1.-桜川慈悲成撰、式亭三馬序『太平楽』刊
寛政12年(1800)この年、可楽が江戸に帰り二度の咄の会を。摺り物に烏亭焉馬、桜川慈悲成、可楽の3人の狂歌を載せる
寛政13年/享和元年(1801)2.5改元
享和2年(1802)1.-『浪華なまり』
この年、百川堂灌河編『新撰勧進話』京都版。「盗っ人の仲裁」→三代目小さんが「締め込み」に
この年、十返舎一九『落咄臍くくり金』江戸版。「餅搗き」は上方「尻餅」の原話
享和3年(1803)この年、桜川慈悲成『遊子珍学文』。「三年目」の原話
享和4年/文化元年(1804)2.11改元
文化2年(1805)
文化3年(1806)
文化4年(1807)
文化5年(1808)
文化6年(1809)
文化7年(1810)
文化8年(1811)
文化9年(1812)
文化10年(1813)
文化11年(1814)
文化12年(1815)
文化13年(1816)
文化14年(1817)
文化15年/文政元年(1818)4.22改元
文政2年(1819)
文政3年(1820)
文政4年(1821)
文政5年(1822)
文政6年(1823)
文政7年(1824)
文政8年(1825)
文政9年(1826)
文政10年(1827)
文政11年(1828)
文政12年(1829)
文政13年/天保元年(1830)12.10改元
天保2年(1831)
天保3年(1832)
天保4年(1833)
天保5年(1834)
天保6年(1835)
天保7年(1836)
天保8年(1837)
天保9年(1838)
天保10年(1839)4.1円朝、湯島切通片町(文京区湯島4)で誕生
天保11年(1840)
天保12年(1841)
天保13年(1842)
天保14年(1843)
天保15年/弘化元年(1844)12.2改元
弘化2年(1845)3.3円朝、橘家小円太で土手倉(中央区日本橋2)で初出勤
弘化3年(1846)
弘化4年(1847)
弘化5年/嘉永元年(1848)2.28改元
嘉永2年(1949)
嘉永3年(1850)
嘉永4年(1851)
嘉永5年(1852)
嘉永6年(1853)
嘉永7年/安政元年(1854)11.27改元
安政2年(1855)3.21 小円太、初代円生の菩提寺(浅草金龍寺)に参詣して三遊派再興を誓う。円朝に改名
安政3年(1856)この年、円朝は池之端七軒町に転居、母を引き取り父も迎える
安政4年(1857)
安政5年(1858)
安政6年(1859)
安政7年/万延元年(1860)3.18改元
万延2年/文久元年(1861)2.19改元
文久2年(1862)
文久3年(1863)
文久4年/元治元年(1864)2.20改元
元治2年/慶応元年(1865)4.7改元
慶応2年(1866)
慶応3年(1867)
慶応4年/明治元年(1868)9.8改元
明治2年(1869)
明治3年(1870)
明治4年(1871)
明治5年(1872)
明治6年(1873)
明治7年(1874)
明治8年(1875)
明治9年(1876)
明治10年(1877)
明治11年(1878)
明治12年(1879)
明治13年(1880)
明治14年(1881)
明治15年(1882)
明治16年(1883)
明治17年(1884)
明治18年(1885)
明治19年(1886)
明治20年(1887)
明治21年(1888)
明治22年(1889)
明治23年(1890)
明治24年(1891)
明治25年(1892)
明治26年(1893)
明治27年(1894)
明治28年(1895)
明治29年(1896)
明治30年(1897)
明治31年(1898)
明治32年(1899)
明治33年(1900)8.11円朝没
明治34年(1901)
明治35年(1902)
明治36年(1903)
明治37年(1904)
明治38年(1905)
明治39年(1906)
明治40年(1907)
明治41年(1908)
明治42年(1909)
明治43年(1910)
明治44年(1911)
明治45年/大正元年(1912)7.30改元
大正2年(1913)
大正3年(1914)
大正4年(1915)
大正5年(1916)
大正6年(1917)
大正7年(1918)
大正8年(1919)
大正9年(1920)
大正10年(1921)
大正11年(1922)
大正12年(1923)
大正13年(1924)
大正14年(1925)
大正15年/昭和元年(1926)12.25改元
昭和2年(1927)
昭和3年(1928)
昭和4年(1929)
昭和5年(1930)
昭和6年(1931)
昭和7年(1932)
昭和8年(1933)
昭和9年(1934)
昭和10年(1935)
昭和11年(1936)
昭和12年(1937)
昭和13年(1938)
昭和14年(1939)
昭和15年(1940)
昭和16年(1941)
昭和17年(1942)
昭和18年(1943)
昭和19年(1944)
昭和20年(1945)
昭和21年(1946)
昭和22年(1947)
昭和23年(1948)
昭和24年(1949)
昭和25年(1950)
昭和26年(1951)
昭和27年(1952)
昭和28年(1953)
昭和29年(1954)
昭和30年(1955)
昭和31年(1956)
昭和32年(1957)
昭和33年(1958)
昭和34年(1959)
昭和35年(1960)
昭和36年(1961)
昭和37年(1962)
昭和38年(1963)
昭和39年(1964)
昭和40年(1965)
昭和41年(1966)
昭和42年(1967)
昭和43年(1968)
昭和44年(1969)
昭和45年(1970)
昭和46年(1971)
昭和47年(1972)
昭和48年(1973)9.21五代目古今亭志ん生没
昭和49年(1974)
昭和50年(1975)
昭和51年(1976)
昭和52年(1977)
昭和53年(1978)
昭和54年(1979)
昭和55年(1980)
昭和56年(1981)
昭和57年(1982)
昭和58年(1983)
昭和59年(1984)
昭和60年(1985)
昭和61年(1986)
昭和62年(1987)
昭和63年(1988)
昭和64年/平成元年(1989)1.7改元
平成2年(1990)
平成3年(1991)
平成4年(1992)
平成5年(1993)
平成6年(1994)
平成7年(1995)
平成8年(1996)
平成9年(1997)
平成10年(1998)
平成11年(1999)
平成12年(2000)
平成13年(2001)10.1三代目古今亭志ん朝没
平成14年(2002)
平成15年(2003)
平成16年(2004)
平成17年(2005)
平成18年(2006)
平成19年(2007)
平成20年(2008)
平成21年(2009)
平成22年(2010)
平成23年(2011)
平成24年(2012)
平成25年(2013)
平成26年(2014)
平成27年(2015)
平成28年(2016)
平成29年(2017)
平成30年(2018)
平成31年/令和元年(2019)5.1改元
令和2年(2020)
令和3年(2021)
令和4年(2022)
令和5年(2023)5.28藤浦敦没(Wiki)
令和6年(2024)
令和7年(2025)

えどござんまい【江戸五三昧】ことば

成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席
江戸にあった代表的な五つの火葬場のことです。

もちろん、死体を焼却する施設。火葬場、焼き場、龕堂、火屋、荼毘所などと呼ばれます。

東京の火葬場は現在、23か所あります。民営が7、公営が16、都営が1。

たとえば、民営火葬場は以下の7施設です。

町屋斎場(荒川区)東京博善㈱
四ツ木斎場(葛飾区)東京博善㈱
桐ヶ谷斎場(品川区)東京博善㈱
代々幡斎場(渋谷区)東京博善㈱
落合斎場(新宿区)東京博善㈱
堀ノ内斎場(杉並区)東京博善㈱
戸田葬祭場(板橋区)㈱戸田葬祭場

都営と公営は、合わせると以下の18施設です。

瑞江葬儀所(江戸川区)都営
臨海斎場(大田区)大田区、目黒区、世田谷区、品川区、港区の共同運営
青梅市民斎場(青梅市)青梅市
立川聖苑(立川市)立川市
八王子市斎場(八王子市)八王子市
日野市営火葬場(日野市)日野市
府中の森市民聖苑(府中市)府中市
南多摩斎場(町田市)町田市
瑞穂斎場(瑞穂町)西多摩郡
ひので斎場(日の出町)西多摩郡
大島町火葬場(大島)大島町
小笠原村父島火葬場(父島)小笠原村
小笠原村母島火葬場(母島)小笠原村
神新島村火葬場 神津島村
津島村火葬場(新島)新島村
式根島火葬場(式根島)新島村
八丈町火葬場(八丈島)八丈島
三宅村火葬場(三宅島)三宅島

では、かんじんの江戸期の江戸の町では、どうだったでしょうか。

火葬場は、基本的には寺ごとにあるもので、寺の奥隅に建てられた荼毘所や火屋として成り立っていたようです。

それが、大きく変わるのが、明暦の大火(1657年)。

これ以降、火葬場は江戸の郊外に移っていきました。

土地を多く確保できたため、専用施設化に。

江戸時代には、「江戸五三昧」ということばがありました。

ここでいう「三昧」は供養→火葬場の意味です。以下の5つの火葬場をさしました。これは諸説がありますが、以下はとりあえずの説です。

小塚原火葬地

寛永年間(1624-45)、浅草下谷周辺に19か所あった火葬寺を、火葬の煙や臭いが寛永寺へ及ぶことを懸念し、四代将軍徳川家綱(1641-80)の命で小塚原にまとめて移転となりました。寛永寺は将軍家の菩提寺のひとつですから、これはやはりまずかったのでしょう。明治期になると、木村荘平(牛鍋いろは大王、1841-1906)の起こした旧東京博善が日暮里火葬場と合併して町屋日暮里斎場となり、現在では町屋斎場となっています。
※小塚原→南千住南組→町屋日暮里斎場→町屋斎場

代々木村火屋

文禄年間(1593-96)、四谷千日谷の火屋(=火葬場)が千駄ヶ谷村に移転し、寛文4年(1664)に代々木村狼谷にさらに移転しました。四ッ谷西念寺、勝典寺、戒行寺、麹町栖岸院、必法院など5施設の荼毘所となったのがはじまりです。900坪の敷地を有し、ここには火葬の仕事に従事する家が3軒あったそうです。明治初期には個人経営だったのが、明治26年(1893)に旧東京博善に譲渡され、代々幡斎場となりました。
※四谷千日谷→千駄ヶ谷村→代々木村狼谷→代々幡斎場

上落合村法界寺

市谷薬王寺町の蓮秀寺(日蓮宗、新宿区市谷薬王寺町22)の末寺、無縁山法界寺に荼毘所があったことがはじまりです。法界寺は廃寺となりました。法界寺は外から目隠しの垣根で囲まれていて中を見ることはできず、入り口は2か所あって「焼場法界寺」の表札がかかっていたそうです。法界寺には檀家がないため、死者を火葬するだけの施設だったようです。明治26年(1893)、旧東京博善に移り、落合斎場へ。「らくだ」に出てきます。
※高田上落合村法界寺→落合斎場

桐ヶ谷村霊源寺内荼毘所

桐ヶ谷斎場の道路を隔てた隣にある霊源寺(浄土宗、品川区荏原1-1-2)の龕堂(=荼毘所)でした。江戸期には「火葬寺」と呼ばれていました。3538坪有した境内には、その中を街道が通り、「浄土宗江戸三田長松寺末諸宗山無常院」と号したそうです。明治18年(1885)、火葬場と寺が分離され、福永幸兵衛など10人の組合経営となり、法行合名会社(匿名組合経営)となりました。昭和4年(1929)、東京博善に併合されました。「黄金餅」に出てきます。
※桐ヶ谷霊源寺→法行合名会社(匿名組合経営)→桐ヶ谷斎場

砂村新田阿弥陀堂荼毘所

砂村(江東区)の十間川と小名木川の間にある岩井橋付近にあった砂村新田の阿弥陀堂、極楽寺の荼毘所がはじまりです。「砂村の隠坊」と呼ばれていました。「四谷怪談」第三幕「隠亡堀の場」の舞台でも有名。「隠亡堀の戸板返し」ですね。明治期には砂村荻新田に移り、明治26年(1893)、旧東京博善の傘下となり、東京博善に引き継がれました。同年、旧東京博善傘下となった亀戸火葬場は、深川浄心寺(日蓮宗、江東区平野2-4-25、江戸十祖師の一)の荼毘所としてはじまり、亀戸に移転した火葬場です。明治27年(1894)、砂村火葬場と合併して砂町葬祭場(砂村亀戸)となりましたが、昭和40年(1965)に廃止されました。
※砂村新田極楽寺→砂村荻新田→亀戸火葬場(←深川浄心寺)と合併→砂町火葬場→廃止

これら以外には、炮録新田(葛西)や芝増上寺今里村下屋敷(白金)などにも火葬場があったそうです。

炮録新田は都営の瑞江葬儀所(江戸川区春江)とのかかわりが推定されます、よくわかりません。

芝増上寺今里村下屋敷(白金)は、明治期には東京府の公営屠畜場(港区白金台2-20)となりました。明治43年(1910)まで営業していましたが、移転しました。この地域には外国公館が点在し外国人居留者が多いのは明治以来のことで、新鮮で良質な精肉の需要があったのでしょう。明治期に開店した肉料理店には「今半」のように「今」を冠した店が多かったのですが、その意味は、今里町の「良い肉を使っていますよ」という客へのメッセージだったのだそうです。

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とうげつあんはくしゅ【桃月庵白酒】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会 理事
【前座】1992年4月、六代目五街道雲助に、五街道はたごで
【二ツ目】1995年6月、五街道喜助
【真打ち】2005年9月、三代目桃月庵白酒
【出囃子】江戸
【定紋】裏梅、葉付き三ツ桃
【本名】愛甲尚人
【生年月日】1968年12月26日
【出身地】鹿児島県肝属郡
【学歴】鹿児島県立鶴丸高校→早稲田大学社会科学部除籍 ※落研
【血液型】A型
【ネタ】朝友 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】江戸東京落語まつり2023(2023年6月30日-7月5日、総勢36人)。

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みやとがわ【宮戸川】落語演目

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【どんな?】

隅田川が舞台。
お花半七なれそめの噺。
後半は悲惨ですが。
江戸の噺。

別題:お花半七馴れ染め

あらすじ

日本橋小網町の質屋、茜屋半右衛門のせがれ、半七。

堅物なのはいいが、碁将棋に凝って、家業をほったらかして碁会所に入りびたり。

頑固一徹で勝負事が嫌いなおやじは、とうとう堪忍袋の緒を切って、夜遅く帰ってきた半七を家から締め出し、
「若い奉公人に示しがつきません」
と勘当を言い渡す。

気が弱い半七が謝っていると、隣でも同じような騒ぎ。

こちらは、半七の幼なじみで、船宿桜屋の娘、お花。

友達の家でお酌をさせられて遅くなったのだが、日ごろから折り合いの悪い義母は聞く耳持たず、
「若い娘が夜遅くまでほっつき歩いているのはふしだらで、おとっつぁんが明日帰ってくるまで家に入れない」
とこちらも締め出しを食った。

いつしか二人はばったり。

話をするうち、半七が、
「今夜は霊岸島のおじさんの家に泊めてもらう」
と言うと、行き場のないお花は
「連れてってほしい」と頼む。

「とんでもない。男女七歳にして席を同じうせず。変な噂が立ったらどうします」
と、女に免疫のない半七が断っても
「半七さんとならうれしいわ」
とお花の方が積極的。

結局、お花は夜道を強引に霊岸島までついてきてしまう。

一方、おじさん、おいの声を聞きつけ
「また碁将棋でしくじりやがったな。女の一人も連れ込んでくりゃあ、世話のしがいもあるんだが」
とぶつぶつ言いながら戸を開けてやると、珍しくも女連れだから、
「こいつもやっと年相応に色気づいたか」
と、大喜び。

違うと言っても耳を貸さず、早のみ込みして、
「万事おじさんが引き受けて夫婦にしてやるから、今夜は早く寝ちまえ」と強引に二人を二階に上げてしまう。

「そんなんじゃありません。今夜はおじさんと寝ます」
「ばか野郎。てめえがいらなきゃ、オレがもらっちまうぞ」

下りてくるとぶんなぐると言われて、二人はモジモジ。

下ではおじさんが、
「若い者はいい。婆さん、半七はいくつだった? 十八? あの娘は十七、一つ違いってとこだな。オレたちが逢ったのもちょうど同じ年ごろだった。おめえはいい女だったな」
「おじいさんもいい男だったよ」
「おい、ちょっとこっちィ来ねえ」
「なんだね、いい年をして」
と昔を思い出している。

二階の二人、しかたなく背中合わせで寝ることにしたが、年ごろの男女が一つ床。

こうなればなりゆきで、ああしてこうなって、その夜、とうとう怪しい夢を結んだ。

翌朝、昨夜とはうって変わって、仲を取り持ってほしいと二人が頼むので、昔道楽をして酸いも甘いも心得たおじさん、万事引き受け、桜屋に掛け合いに行くと、おやじは
「茜屋のご子息なら」
と即時承知。

ところが、半七のおやじは頑固で、
「人さまの娘をかどわかすようなやつを、家に入れることはできない」
の一点張り。

おじさんはあきれ果て
「それなら勘当しねえ。オレがもらう」
とおやじから勘当金を取って養子にし、横山町辺に小さな店を持たせ、二人が仲むつまじく暮らしたという、お花半七なれそめ。

五街道雲助

しりたい

実際の心中事件に取材

六代将軍・家宣が亡くなった正徳2年(1712)、この噺のカップルと同名のお花半七という男女が京都で心中した事件を、近松門左衛門(1653-1724)が同年、浄瑠璃「長町裏女腹切」に仕立てたのがきっかけで、「お花半七」ものが、芝居や音曲で大流行しました。

それから1世紀もたった文化2年(1805)3月、「東海道四谷怪談」で有名な四世鶴屋南北が江戸・玉川座に書き下ろした「寝花千人禿(やよいのはな・せんにんかむろ)」(茜屋半七)が大当たりしたため、落語の方でも人気にあやかろうと、初代三遊亭円生がこれを道具入り芝居噺に脚色したのが、この噺の原型です。

すたれた後半部分

明治中期までは、初代三遊亭円右、三代目春風亭柳枝などが、芝居噺になる後半までを通して、長講で演じることがあり、柳枝の通しの速記(明治23年)も残されています。

上のあらすじは、その柳枝の速記の前半部分を参照しました。

その後、古風な芝居ばなしがすたれると共に、次第に後半部は忘れ去られ、今では演じられることが少なくなりました。

昭和に入って八代目柳枝、五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生といった名人連が得意にしましたが、いずれも前半のみで、円生一門の三遊亭円楽や円窓などに継承されていました。

三代目三遊亭円歌、柳家小満ん、五街道雲助、金原亭世之介、古今亭菊生、柳家喬太郎などが後半を含めてやったことがあります。

後半のあらすじ

前半から四年ほどのちの夏、お花が浅草へ用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると夕立に逢う。

傘を忘れたので、一人で雨宿りしていると、突然の雷鳴でお花は癪(しゃく)を起こして気絶。それを見ていた付近のならず者三人組、いい女なのでなぐさみものにしてやろうと、気を失ったお花をさらって、いずこかに消えてしまう。

女房が行方知れずになり、半七は泣く泣く葬式を出すが、その一周忌に菩提寺に参詣の帰り、山谷堀から舟を雇うと、もう一人の酔っ払った船頭が乗せてくれと頼む。

承知して、二人で船中でのんでいると、その船頭が酒の勢いで、一年前お花をさらい、まわした上、殺して吾妻橋から捨てたことをべらべら口走る。

雇った船頭もグルとわかり、ここで、
「これで様子がガラリと知れた」
と芝居がかりになる。

三人の渡りゼリフで。

「亭主というはうぬであったか」
「ハテよいところで」
「悪いところで」
「逢ったよなァ」

……というところで起こされた。

お花がそこにいるのを見て、ああ夢かと一安心。小僧が、おかみさんを待たせて傘を取りに帰ったと言うので、
「夢は小僧の使い(=五臓の疲れ)だわえ」
と地口(=ダジャレ)オチになる。

宮戸川

夢でお花が投げ込まれた墨田川の下流・浅草川の旧名で、地域でいえば山谷堀から駒形あたりまでの流域を指します。「宮戸」は、三社権現の参道入り口を流れていたことから、この名がついたとか。

この付近は白魚や紫鯉の名産地でした。

文政年間(1818-30)、駒形の酒屋・内田甚右衛門が地名にちなんで「宮戸川」という銘酒を売り出し、評判になりました。

小網町

現在の東京都中央区日本橋小網町。

小網町三丁目の行徳河岸から下総(千葉県)行徳まで三里八丁を、行徳船という、旅客と魚貝、野菜などを運ぶ定期航路が結んでいました。

ここは、江戸の水上交通の中心地で、船荷の集積地でもあり、船宿や問屋が軒を並べていました。

霊岸島

東京都中央区新川一、二丁目。万治年間(1658-61)に埋め立てが始まるまで、文字通り島でした。

船宿

舟遊び、釣り、水上交通など、大川(隅田川)を行き来する船を管理する使命がありました。柳橋、山谷堀など、吉原に近い船宿は、遊里への送迎、宴席、密会の場の提供も行いました。

【もっとしりたい】

芝居噺が得意だった初代三遊亭円生の作といわれている。この噺は、前半と後半がある。今は「なれそめ」として前半ばかりが演じられる。では、後半とは、どんな噺なのか。 霊岸島の契りで二人はめでたく夫婦に。その4年後の夏。お花が浅草に用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると、夕立にあう。傘を忘れたので、1人で雨宿りしていると、突然の雷鳴で、癪を起こして気絶。それを見ていた、ならず者3人がお花をさらって消えてしまう。お花が行方知れずになって、半七は泣く泣く葬式を。一周忌に菩提寺の参詣の帰り、山谷堀から船を雇うと、酔っ払った船頭・正覚坊の亀が乗せてくれと頼んでくる。船中で、亀が問わず語りに、1年前お花をさらってさんざん慰んだ末に殺して吾妻橋から投げ捨てた、と。実は、乗せた船頭の仁三も仲間だった。ここから、鳴り物が入って芝居噺めく。

半「これでようすがカラリと知れた」
亀「おれもその日は大勢で、寄り集まって手慰み、すっかり取られたその末が、しょうことなしのからひやかし。すごすご帰る途中にて、にわかに降り出すしのつく雨」
仁「しばし駆け込む雷門。はたちの上が、二つ三つ、四つにからんで寝たならばと、こぼれかかった愛嬌に、気が差したのが運の尽き」
半「丁稚の知らせに折よくも、そこやここぞと尋ねしが、いまだに行方の知れぬのは」
亀「知れぬも道理よ。多田の薬師の石置場。さんざん慰むその末に、助けてやろうと思ったが、のちのうれいが恐ろしく、ふびんと思えど宮戸川」
仁「どんぶりやった水けむり」
半「さては、その日の悪者はわいらであったか」
2人「亭主いうは、うぬであったか」
半「はて、よいところで」
2人「悪いところで」
3人「逢うたよな」
小僧「もしもし、だんなさま。たいそううなされておいででございます」
半「おお、帰ったか、お花は」
小僧「いま、浅草見附まで来ますと、雷が鳴って大粒な雨が降ってきましたゆえ、おかみさんを待たしておいて傘を取りにまいりました」
半「それじゃ、お花に別条はないか」
小僧「お濡れなさるといけませんから、急いで取りにきました」
半「ああ、それでわかった。夢は小僧の使い(=夢は五臓の疲れ)だわえ」

結局、夢だったわけ。話をさんざん振っておいて夢のしわざにしてしまう。ふざけている。できのよくない筋運び。オチも凡庸。だからか、今では演じる者がいない。長いし。ただし、なぜ「宮戸川」という題なのかは、後半の筋を知ればおのずとわかる。宮戸川とは隅田川の別称で、駒形辺から上流を隅田川、下流を宮戸川と呼んだそうである。「みやこがわ」なのだろう。噺の舞台は、前半は霊岸島、後半は山谷辺。ともに隅田川がらみの地だ。なによりもお花が投げ捨てられたのが吾妻橋。隅田川まみれの噺なのである。

古木優

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あいがさ【相傘】川柳 ことば

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相傘を淋しく通す京の町  三17

「相傘」は男女が一本の傘をさすこと。相合傘とも。相合傘の男女が歩いていても、穏やかな京の町では誰もひやかさない。江戸では悪口やひやかしの浴びせ倒しがあるから相合傘をするわけで、だいぶ違うものだ、という程度の話。いまは相合傘の男女がいてもひやかしたりはしませんが、昭和40年代までの東京の下町ではひやかしは当たり前でした。ご祝儀です。

相傘はだまって通すものでない  二十27

右の手と左でうまい傘をさし  明七満01

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しょうふくていえんしょう【笑福亭円笑】噺家

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会
【入門】1981年4月、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)に、笑福亭猿笑で。2008年9月、四代目笑福亭円笑。
【出囃子】駕屋
【定紋】五枚笹
【本名】鈴木義男
【生年月日】1940年3月26日 ※柳家小三治と同学年
【出身地】東京都品川区
【学歴】攻玉社高校
【血液型】O型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki
【趣味や特技】手ぬぐい収集。
【蛇足】41歳で入門。上方でただ一人、江戸弁で江戸落語。



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えどのまち【江戸の町】知っておきたい

落語はじめ時代劇などに登場する江戸の町を表現することばを集めました。

■土地

江戸入府えどにゅうふ 天正18年(1590)8月1日、徳川家康が江戸城に入ったことをさす。=江戸入城 =江戸入国

御城おしろ 江戸城。江戸町人の日頃の呼称

御府内ごふない 江戸の正式名称

御用地ごようち 江戸幕府の土地

武家地ぶけち 江戸全体の69%

町地ちょうち 江戸全体の16%。町数まちすうは18世紀半ばで1678町

寺社地じしゃち 江戸全体の15%

ときかね 時刻を知らせる鐘。江戸城西ノ丸にあったものが、寛永3年(1626)に日本橋石町三丁目に移り、その後は12か所にも

■水運

江戸湊えどみなと 江戸城前の港。ここを中心に開かれた

河岸かし 町地の荷揚げ場

物揚ものあ 武家地の荷揚げ場

わたし 渡し船の発着する場所。渡船場とせんばとも

■屋敷

屋敷屋敷 家を建てることを許された土地

大名屋敷だいみょうやしき 諸国の大名が幕府から下賜された土地。明暦の大火(1657)以降には、上中下に分けて営むように

上屋敷かみやしき 藩主と家族が住む場所

中屋敷なかやしき 隠居した藩主が住む場所

下屋敷しもやしき 藩主の別荘。避難所や仮屋敷にも。四谷、駒込、下谷、本所などに多い

蔵屋敷くらやしき 湊や河岸にあって、年貢米や特産物を収納したり売ったりするための場所

大縄地おおなわち 大番以下の幕臣で同じ組に属する者にまとめて下賜された土地

上地あげち 幕府拝領地を返納や没収などで戻した土地

定火消屋敷じょうびけしやしき 幕府お抱えの火消しに任命された幕臣に下賜された土地。計10か所

■町地

ちょう 町地では「ちょう」。室町むろまちなどの古町こちょうは例外

まち 武家地では「まち」。番町ばんちょうなど江戸初期の町名には例外も

両側町りょうがわちょう 表通りを挟み、その両側でひとつの町となっているところ

片側町かたがわまち 町の片側だけでできた町。武家地によくあった

横町よこちょう 町地で表通りから横に入る道。幕府の許可制

横丁よこちょう 幕臣の宅地や寺町に入る道

新道じんみち 家屋ができた後にできた町地の道。幕府の許可制

小路こうじ 武家地の通りの呼称。横町に相応

たな 武家が拝領地を町人に貸して地代を取った土地。玄冶店げんやだな木原店きわらだななど。十軒店じっけんだなは例外。

代地だいち 町の全部や一部が移転させられた土地

元、本、新もと、ほん、しん 町の丸ごと移転でできた町名。移転元は元や本が、移転先には新が冠された

門前町もんぜんちょう 寺社の前にできた町。寺社奉行支配(管轄)。町奉行所に権限がないため岡場所が発達

広小路ひろこうじ 町地の防火地帯、避難場所

火除明地ひよけあけち 武家地の防火地帯、避難場所。火除地ひよけちとも

■遊里

吉原よしわら 幕府公認の遊郭。初期は葭町に、明暦大火後は浅草田圃に

岡場所おかばしょ 非公認の遊里

四宿ししゅく 江戸の幹線道路に通じる宿場。品川(東海道)、新宿(甲州街道)、千住(奥州街道)、板橋(中山道)。飯盛女ましもりおんなや宿場女郎が黙認され岡場所としても発展

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