【烏亭焉馬・初代】うていえんば・しょだい 噺家 落語 あらすじ

成城石井

【芸種】はなし
【活躍地】江戸
【本名】中村利貞。字は英祝。通称は和泉屋和助。別号に立川焉馬たてかわえんば、立川談洲楼だんじゅうろう鑿釿言墨金のみちょうなごんずみかねなども。
【生没年月日】寛保3年(1743)-文政5年(1822)6月2日
【出身地】本所相生町(墨田区緑1丁目)。大工棟梁の家
【前歴】幕府小普請方大工
【ネタ】咄本に『喜美だんご』『ことばの花』『無事志有意』『太平楽記文』『太平楽威記文』『太平楽好文』
【出典】Wiki 都立図書館 天竺老人 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
【蛇足】はなしを自作自演した落語中興の祖。多芸多才の人。興行記録「花江都歌舞伎年代記はなのえどかぶきねんだいき」、洒落本「客者評判記」、義太夫節「碁太平記白石噺」なども。この人の特徴は自作自演です。向島の武蔵屋権之方で咄の会を催しましたが、これにはしゃべりたい面々が登場して、盛況となりました。これが寄席の始まりで、始まりは素人の芸からだったわけ。有閑なご仁がごろごろいたようです。三升連という、市川団十郎を後援する団体も組織しました。これは現在にもつながっています。烏亭焉馬の名は、「烏焉馬」といわれた成語からの命名。「烏」も「焉」も「馬」も字の形が似通っているところから、まぎらわしい、という意。自作自演のはなしを、まぎらわしいあやしげなものとして、はなしをするおのれの存在を自虐的にとらえたわけですね。寄席という施設の中で聴衆に話して聴かせる形である、噺家の原点はここから始まったことになります。

■初代烏亭焉馬の年譜

寛保3年(1743)本所相生町(墨田区緑1丁目)の大工棟梁の家に生まれる
明和4年(1767)『歳旦牒』で初句
安永6年(1777)『開帳富多霊宝略縁記』を刊行
安永8年(1779)浄瑠璃『伊達競阿国戯場』で合作
安永9年(1780)合作の『碁太平記白石噺』が初演。七段目は焉馬の作
天明3年(1783)太田南畝を訪問、狂歌を作る。4月25日、宝合わせの会で『太平楽巻物』を披露
天明4年(1784)洒落本『太平楽記文』刊行 ※天明3年発表のネタを選集
天明6年(1786)大工棟梁となる。向島の武蔵屋権之方で咄の会を主催。博交ぶりが顕著に
寛政4年(1792)この年から咄の会は毎年1月21日に咄初めと呼んで料亭で行い、毎月自宅でも行う ※寛政の改革で定会の開催が禁止になるが、咄初めは文政5年(1823)まで続く
寛政8年(1796)咄の会で佳作を選定 
寛政12年(1800)『太平楽好文』刊行
文政5年(1822)6月2日、死去。80歳。本所表町の最勝寺に埋葬(後、江戸川区逆井に移転)

成城石井

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