【応文一雅伝】おうぶみいちがでん 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

お重、巳之助、お縫、一雅。明治初年の東京を舞台に、自立したい女性のうつろい。

円朝噺。

あらすじ

1878年(明治11)春のこと。

旧幕時代に細工所さいくしょ御用達だった芝片門前しばかたもんまえ花房利一はなぶさりいちは、妻と死別、26歳になる一人娘のおじゅうと二人暮らしである。

出遊びがちな父。お重は自分の結婚のことを考えてくれない父に常日頃不満を抱いている。

出入りの行商である、糶呉服屋せりごふくや槙木巳之助まきみのすけ大店おおだなの子息で男振りもよいところから、お重は妻にしてもらおうかと誘惑する。

「人のいない所で話がしたい」と巳之助に持ちかけたところ、巳之助は知人で油絵師、応文一雅おうぶみいちがの下宿を借りることとなった。応文一雅は高橋由一たかはしゆいちの弟子である。

愛宕下あたごしたの木造三階。一雅の下宿で逢い引きする手はずとなった。

早めに行ったお重は、部屋にあった葡萄酒ぶどうしゅでほろ酔い気分となり、その勢いで、まだ見ぬ一雅あての謝辞を墨で壁に落書きして帰った。

二度目の逢い引き。

またも先に来てしまったお重は、一雅の机の中をのぞき見し、一雅あての許婚者からの手紙を読んだり、机にあった女性ものの指輪をはめたり。

一雅という人物の人となりに想像をめぐらす。一雅への興味以上の思いをいっそう募らせていった。

遅れてやってきた巳之助に「もう逢わないことにしましょう」と言って翻弄する。

帰宅して後、自分の指輪を一雅の部屋に置き忘れたのに気づいたお重は、はめたまま帰ってしまった指輪と自分のものとを取り換えてくれるよう、巳之助に頼み込む。

一雅に会いたい思いが募ったお重は、神谷縫かみやぬいに「一雅に肖像を描いてもらいなさい」と説得する。

お縫は、お重の土地を借りる借地人であり、お重の学校朋輩ほうばい(同窓)でもある。今年20歳になる。

お縫は叔父の神谷幸治かみやこうじと頼みに行き、一雅の下宿に数回通うことになった。

その後、お重は、「絵を頼みたい友人がいる」との手紙を書いて、お縫に出させる。に受けた一雅はお重の家を訪れた。お重の指輪を見るや、巳之助の相手と知って腹を立てたまま帰る。

お重は策を練った。お縫に指輪を貸す約束をし、一雅を招くことに。

一雅の面前で、お重はお縫に指輪を返すお芝居をするが、それを見た一雅は、巳之助の相手がお縫だったかと驚く。

東京の人気の悪さに愛想あいその尽きた一雅。郷里の土浦つちうら(茨城県)に帰った。

一雅から、巳之助との関係を記した謂れなき誹謗ひぼうの手紙がお縫に届く。

お重の策略に引っかかったと知ったお縫は、叔父の神谷幸治に返信を書いてもらう。

許嫁者が亡くなった一雅は上京し、再度同じ下宿を借りた。

お縫と幸治といっしょに花房家を訪れた一雅は、お重を責めたてた。

居合わせた花房利一は幸治とは昔からの知り合い。

幸治は「おまえが娘のむこを見つけようともせずに遊び歩っているからだ」と意見する。

巳之助の父親で金貸しの四郎兵衛しろべえが、じつはもとの高木金作たかぎきんさくと知った幸治は、かつて金三千両を貸したことを語り、後日、四郎兵衛を訪ねる。

槙木四郎兵衛まきしろべえのもとを訪ねていった「神幸かみこう」こと神谷幸治は「貸した、借りていない」「訴える、訴えよ」とのやり取りの後、判証文はんじょうもんもなく、たとえあったとしても昔貸した金はあきらめる。

その代わり、どこで逢っても拳骨げんこつ一個うたれても苦情は言わないとの証文を「洒落だ」と言いつつもらうことになった。

その後、幸治は、銀座でも、横浜でも、四郎兵衛を見かけるたびに頭を殴るのだった。

一雅は、いったん故郷に戻ったが油絵の依頼人もなく、再度上京するが、困窮していた。

すると、一雅のもとに、使いを介して油絵の注文が続く。

ある時、池上本門寺まで参詣するので「先生も図取りかたがたお出でください」との注文。

一雅が池上に向かうと、お高祖頭巾こそずきんの女がいた。合乗りの車で家まで送られ、金を渡された。

翌日、その女から恋文が届いた。女の正体はお重だった。一雅はそこで初めて気づいた。

一雅は部屋の壁の落書き、を見るたびに、お重をいとう気持ちが強くなってきた。一雅は土浦に帰る。母が亡くなり、葬儀を済ます。その後、上京したのは明治十二年九月十三日であった。

神谷幸治は墓参で、小石川全生庵ぜんしょうあんを訪れた。

住職と話をしていると、出家志望の女がやってきた。幸治は隣の間に移される。住職は「あなたのような美しい人には道心は通じません」と言って、了然尼りょうねんにの故事を聴かせる。女はあきらめて立ち去った。

帰り際、幸治が寺の井戸に飛び込もうとしていた女を助けた。

出家志望の女で、お重だった。

お重は、お縫と一雅、廃嫡はいちゃくとなった巳之助への詫び言を述べた。

巳之助と添う気があるならと、神谷幸治は一計を案じ、お重に書き置きをしたためさせた。四郎兵衛を訪ねた幸治は、書き置きを見せた。

四郎兵衛が巳之助の廃嫡を許してお重と結ばせるなら、先の証文は返し、お縫と一雅とを夫婦にしてやりたい、と言う。

得心とくしんする四郎兵衛。幸治に金を返して仲人を頼んだ。

巳之助とお重、一雅とお縫、二組が婚礼を挙げた。

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しりたい

了然尼

りょうねんに。そういう名前の尼さんが、江戸時代にいたそうです。有名な故事が伝わっています。以下の通り。

 了然尼は正保3年(1646)に葛山長次郎くずやまちょうじろうの娘として生まれ、名をふさといった。父は武田信玄の孫にあたり、富士の大宮司葛山十郎義久の子という由緒ある家の出身、京都下京しもぎょう泉涌寺せんにゅうじ前に住み、茶事を好み、古画の鑑定をしていたという。成長して美人で詩歌しいか、書に優れたふさは宮中の東福門院とうふくもんいんに仕え、宿木やどりぎと称した。やがてふさは宮仕えを退き、人の薦めがあって医師松田晩翆まつだばんすいと結婚、一男二女を生んだ。しかし、何故か二十七歳で離婚して剃髪ていはつ、名を了然尼と改め、一心に仏道を修行した。その後江戸に下り、白翁はくおう和尚に入門を懇請こんじょうしたが、美貌びぼうのゆえに許されなかった。そこで意を決した了然は火のしを焼き、これを顔面に当てて傷痕を作り、敢えて醜い顔にした。そして面皮めんぴ(漢詩)をし、和歌「いける世に すててやく身や うからまし ついまきと おもはざりせば」と詠んだ。決意の固いのを知った白翁和尚は入門を許し、惜しみなく仏道を教えた。やがて師白翁和尚は病にすようになり、天和てんな2年(1682)7月3日、死期を悟ると床に身を起こし、座したまま入寂にゅうじゃくした。4年後、47歳で上落合村に泰雲寺たいうんじを創建。正徳元年(1711)7月3日、白翁道泰はくおうどうたい和尚の墓を境内に建て、積年の念願を果して安心した了然尼は2か月後の9月18日66歳で没した。寺には五代将軍綱吉の位牌が安置され、寺宝として朱塗しゅぬりの牡丹模様のある飯櫃ましびつあおいの紋が画かれた杓子しゃくし、葵と五七の桐の紋のある黒塗の長持ながもちがあった。そして、宝暦12年(1762)3月、十代将軍家治いえはるのこのあたりへの鷹狩りに御膳所ごぜんじょとなり、以後しばしば御膳所になったという。明治末年には無住になって荒れ果て、港区白金台3丁目の瑞聖寺ずいしょうじに併合廃寺になり、現在了然尼の墓は同寺に移されている。寺の門および額「泰 雲」は現在目黒区下目黒3丁目の海福寺かいふくじにあり、特に四脚門しきゃくもんは目黒区文化財に指定されている。これによっても泰雲寺がりっぱな寺であったことがわかる。
 では泰雲寺は上落合のどのあたりにあったのか。所在を示す正確な地図は見つかっていない。そこで『明治四十三年地籍図』(寺域は分譲)を頼りに推定した。戦後、下水処理場が設けられたために八幡通り(下落合駅から早稲田通りへの道))が大幅に西側に寄せられ、旧地形をとどめていないが、上落合1、竜海寺りゅうかいじあたりを西北角とし、南は野球場に通じる高架道、東は落合中央公園高台西端にあたり、境内2700坪の3分の2以上が八幡通りと下水処理場になっている。

(新宿区教育委員会から引用)

平安時代までの仏教では、仏が救いの対象にしていたのは男でした。

しかも、身分のある人ばかり。

どうもこれはヘンだと気づいたのが、鎌倉時代の革新的な立宗者たち。

法華経には女性の救済が記されているそうで、男女差別もないといわれています。

法華経を唯一の経典としたのが日蓮。

日蓮宗は早い時期から女性の救済をうたってました。

了然尼も日蓮宗に赴けばよかったのかもしれません。

スタートの選択を誤るととんでもないことになる、という教訓でしょうか。

この話は、本人の強い決意を表現しているわけでして、そうなると、落語家を志した青年が何度断られてもめざす師匠の楽屋入り口にかそけくたたずむ風情に似ています。

仏門ではよくある話です。

身体を傷つけることに軸足があるのではなく、二度と戻らないぞ、という強くて激しい本人の志に軸足があるのです。

となると、慧可えかが出てきます。

インド僧の達磨だるまを知って尋ねたのですが、すぐに入門は許されず、一晩雪中で過ごして、自身のひじを切断してその強い思いを示しました。

達磨は入門を許可。これはのちに水墨画での「慧可断臂えかだんぴ」という画題となりました。

座禅している達磨におのれの切り取った左ひじを見せる絵をどこかで見かけたことはありませんか。

それです。

了然尼の故事もこれに似ています。

焼き直しの故事でしょう。

故事は複製されるものです。

物語はそんなところから醸成されるのでしょう。

雪舟  慧可断臂 図

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