【そば清】そばせい 落語演目 あらすじ
【どんな?】
そば賭けで金をせしめる清兵衛。
もっとそばを食べて、もうけたい。
草をなめて消化する蛇をまねて、草をぺろり。
すると、そばが羽織を着て座っていた。
類話:そばの羽織 蛇含草(上方)
【あらすじ】
旅商人の清兵衛は、自分の背丈だけのそばが食べられるという、大変なそば好き。
食い比べをして負けたことがないので、もう誰も相手にならないほど。
ある時、越後から信州の方に回った時、道に迷って、木陰で一休みしていると、向こうの松の木の下で狩人が居眠りをしている。
見ると、その木の上で大蛇がトグロを巻いていて、あっと言う間もなく狩人を一のみ。
人間一匹丸のみしてさすがに苦しくなったのか、傍に生えていた黄色い草を、長い真っ赤な舌でペロペロなめると、たちまち膨れていた腹が小さくなって、隠れて震えていた清兵衛に気づかずに行ってしまった。
「ははん、これはいい消化薬になる」
と清兵衛はほくそ笑み、その草を摘めるだけ摘んで江戸へ持ち帰った。
これさえあれば、腹をこわさずに、無限にそばが食えるので、また賭けで一もうけという算段。
さっそく友達に、そばを七十杯食ってみせると宣言、食えたらそば代は全部友達持ち、おまけに三両の賞金ということで話が決まり、いよいよ清兵衛の前に大盛りのそばがずらり。
いやその速いこと、そばの方から清兵衛の口に吸い込まれていくようで、みるみるうちに三十、四十、五十……。
このあたりでさすがの清兵衛も苦しくなり、肩で息を始める。
体に毒だから、もうここらで降参した方が身のためだという忠告をよそに、少し休憩したいからと中入りを申し出て、皆を廊下に出した上、障子をピタリと閉めさせて、例の草をペロリペロリ……。
いつまでたっても出て来ないので、おかしいと思って一同が障子を開けると、清兵衛の姿はない。
さては逃げだしたかとよくよく見たら、そばが羽織を着て座っていた。
【しりたい】
食いくらべ
有名なのは、文化14年(1817)3月、柳橋の万屋八郎兵衛方で催された大食・大酒コンクールです。
酒組、飯組、菓子組、鰻組、そば組などに分かれ、人間離れのした驚異的な記録が続出しました。
そば組だけの結果をみると、池之端の山口屋吉兵衛(38歳)がもり63杯でみごと栄冠。
新吉原の桐屋惣左衛門(42歳)が57杯で2位、浅草の鍵屋長助(45歳)が49杯で3位となっています。
したがって、清兵衛の50余杯(惜しくも永遠に未遂)は決して荒唐無稽ではありません。
これこそデカダンの極北、醤油ののみ比べもありました。
これについては、高木彬光(1920-1995)の短編「飲醤志願」に実態が詳しく描写されています。まさしく死と隣り合わせです。
上方は餅食い競争
類話の上方落語「蛇含草」は、餅を大食いした男が、かねて隠居にもらってあった蛇含草なる「消化薬」をこっそりのむ設定です。
したがってオチは「餅が甚兵衛(夏羽織)を着てあぐらをかいていた」となります。
三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、この上方演出をそのまま東京に移植して十八番とし、それ以来、「そば清」とは別に「蛇含草」も東京で演じられるようになりました。
三木助演出は「餅の曲食い」が売り物で、「出世は鯉の滝登りの餅」「二ついっぺんに、お染久松相生の餅」と言いながら、調子よく仕草を交えて、餅をポンポンと腹に放り込んでいきます。
「そば清」の古いやり方
明治期には、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)も演じました。
その型を忠実に踏襲した四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)の速記では、清兵衛がなめるとき、「だんだん腹がすいてきたようだ」とつぶやきます。
内臓が溶けつつあるのを、腹の中のそばが溶けたと勘違いしているわけで、笑いの中にも悲劇を予感させる一言ですが、今はこれを入れる人はいないようです。
そばを溶かす草の話
根岸鎮衛(1737-1815)は、『耳嚢』巻二に「蕎麦を解す奇法の事」と題して、荒布(海藻の一種で食用)がそばを溶かす妙薬であるとの記述を残しています。
真偽のほどはわかりませんが。