そばのとのさま【蕎麦の殿様】落語演目

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【どんな?】

お仕えの噺。
そばにまつわる噺は数あれど、
かほど過酷な噺はなかりしや。

【あらすじ】

あるお大名。

ご親類にお呼ばれで、山海の珍味を山とごちそうになり、大満足で屋敷に帰ろうというところで、
「お帰り際をお止め申して恐れ入るが、家来のうちにそばの打ち方に妙を得ている者がおりますので、ほんの御座興にその者を呼び、御目前にて打たせて差し上げたいと存ずるゆえ、しばらくお待ちを」
と。

言われて殿さま、そばなんぞはただ長いものと聞いているだけで、見たことも聞いたこともなかったので、興味津々。

実際に木鉢の粉をすりつぶし、こねて切ってゆでて……という名人芸を目のあたりにして、すっかり感心。

根が単純なので、自分もやってみたくてたまらなくなってしまう。

帰ると、早速家来どもを集め、鶴の一声で「実演」に取りかかる。

山のようにそば粉を運ばせる。

小さな入れ物ではダメというので、馬の行水用のたらいを用意させ、殿さま、さっそうとたすきを十字にかけ、はかまの股立ちを高々と取る。

まるで果たし合いにでも行こうという出立ち。

「……これ、水を入れよ。……うん、これはちと柔らかい。粉を足せ。……ありゃ、今度は固すぎる。水じゃ。あコレコレ、柔らかい。粉じゃ。固いぞ。水。柔らかい。粉。水、粉、水、粉、粉水水粉粉水水粉……」

というわけで、馬だらいの中はヘドロのようなものが山盛り。

その上、殿さまが興奮して、鼻水は垂らしっぱなし。

汗はダラダラ。

おまけにヨダレまで、ことごとく馬だらいの「そば」の中に練りこまれるから、家来一同、あれを強制的に食わされるかと思うと、生きた心地もない。

いよいよ、恐怖の試食会。

宮仕えの悲しさ、イヤと言うわけにもいかないから、グチャグチャドロドロのやつを、脂汗を流しながら一同口に入れる。

「あー、どうじゃ、美味であろう」
「ははー、まことにけっこうな……」
「しからば、代わりを取らせる」

汗と唾とよだれと鼻水で調味してあるそばを、腹いっぱい詰め込まされたものだから、翌日は家来全員真っ青な顔で登城する。

みんな、その夜一晩中ひどい下痢でかわやへ通い詰め。

そこへまたしても殿のお召し。

「あー、コレ、一同の者がそば好きじゃによって、本日もそばを打っておいたゆえ、遠慮なく食せ。明日も打ってとらせる」
「殿、恐れながら申し上げます」
「なんじゃ」
「おそばを下しおかれますなら、一思いに切腹を仰せつけ願わしゅう存じまする」

【しりたい】

すまじきものは宮仕え

将棋の殿さま」と並んで、ご家来衆受難の一席。

この種の噺に、今はもう演じ手がありませんが、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の作といわれる「華族の医者」があります。

維新後のはなしで、医術に凝った元殿さまが、怪しげな薬で家来を虫の息にしてしまい、「それは幸い。今度は解剖じゃ」。

サディスティックさの度合い、精神の病根の深さは「蕎麦殿」や「将棋殿」など、メじゃあありませんね。

ぜひどなたかに復活していただきたいものです。

ああこれこれ、「実演」するでないぞ。してよいのは余だけじゃ。

そばと殿さま

松江藩(出雲、島根県)の七代藩主で、茶人としても知られた松平治郷まつだいらはるさと(不昧公ふまいこう、「目黒のさんま」の)が飢饉対策のため、藩内に信州から蕎麦を移植したいきさつは、出雲系そば屋の由来書の紋切りです。

不昧公は名君、茶人として知られます。

いやしくもこの噺のそば殿のモデルになったとは思えませんが、殿さまがズルズルとそばをたぐっている姿を想像すると、漱石ではありませんが、なんとなく「俳味はいみ」があります。

ただ、次項目に記したように、茶人としての散財は目を覆うほどでしたので、「蕎麦殿」の雰囲気も漂っていたのかもしれません。

あくまでも推測です。

そばと茶道

不昧公は茶人としても高名でした。

そこでもう一つ付け加えますが、実はこの噺の発端で、殿さまが茶坊主に命じて、そば粉を調達させるくだりが、あらすじで参考にした、明治の二代目柳家小さん(禽語楼きんごろう小さん→柳家禽語楼、1848-98、大藤楽三郎)の速記にはあります。

このことから、そばきりは茶懐石の添え物として供されたことがうかがわれます。

そばは、いやしき町人のみが好物としていたのではないのですね。

ちなみに、「不昧」とは松平治郷が文化3年(1806)に剃髪ていはつした後に号したもので、僧号のようです。

現役時代から「不昧」を名乗っていたのではありません。

治郷は十代将軍徳川家治いえはる(1737-86)から偏諱へんきをたまわったものです。

偏諱とは、高位者から名の一字をさずかること。

こういうことから特別な主従関係が生じると意識したわけです。

菩提寺は松江の月照寺(浄土宗)です。

不昧を名乗ってからは、江戸・大崎の下屋敷(茶室が11もあった!)で屋敷全部を使った大がかりな茶会を催したりして、松江藩の財政をしっかり逼迫ひっぱくさせています。

朝鮮人参の栽培など振興には活発ながら政治には口出ししなかったそうですから、ある意味ではたしかに名君だったのでしょうが、どうもね。

幻の後日談?

目黒のさんま」でもふれましたが、明治期に、武士や殿さまの噺を得意としたのが、延岡藩(日向、宮崎県)の藩士だった二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)です。

「そばの殿さま」の最古の速記が、明治27年(1894)『百花園』所載の二代目小さんのものですが、現在のやり方とあまり大きくは違っていません。

戦後では六代目三遊亭円生(1900-79、山﨑松尾、柏木の師匠)がよく演じました。

『円生全集』第二巻(青蛙房、1980年)所収の速記では、円生はオチは使わず、殿さまが謝った後、「今度は精進料理で失敗するという……」と「続編」をにおわせてサゲていましたが、これについてはいまのところ不明です。

「そばの殿さま」のくすぐり

●家来がイヤイヤそばを食う場で

「中から粉が出ますな」
「貴殿のは粉だからよろしい。拙者のはワラが出ます」
「壁土じゃござらん」

 …………………………………………

「いやしくも侍一人、戦場で捨てる命は惜しまねど、そばごときと刺し違えて相果てるは遺憾至極」
「遺憾もキンカンもくねんぼもダイダイもない。このそばをもって一命を捨てるのも、やはり忠死のひとり」
「宅を出るとき、家内と水杯をいたしてくればよかった」

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そばせい【そば清】落語演目



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【どんな?】

そば賭けで金をせしめる清兵衛。
もっとそばを食べて、もうけたい。
草をなめて消化する蛇をまねて、草をぺろり。
すると、そばが羽織を着て座っていた。

類話:そばの羽織 蛇含草(上方)

あらすじ

旅商人の清兵衛は、自分の背丈だけのそばが食べられるという、大変なそば好き。

食い比べをして負けたことがないので、もう誰も相手にならないほど。

ある時、越後えちごから信州の方に回った時、道に迷って、木陰で一休みしていると、向こうの松の木の下で狩人が居眠りをしている。

見ると、その木の上で大蛇だいじゃがトグロを巻いていて、あっと言う間もなく狩人を一のみ。

人間一匹丸のみしてさすがに苦しくなったのか、傍に生えていた黄色い草を、長い真っ赤な舌でペロペロなめると、たちまち膨れていた腹が小さくなって、隠れて震えていた清兵衛に気づかずに行ってしまった。

「ははん、これはいい消化薬になる」
と清兵衛はほくそ笑み、その草を摘めるだけ摘んで江戸へ持ち帰った。

これさえあれば、腹をこわさずに、無限にそばが食えるので、また賭けで一もうけという算段。

さっそく友達に、そばを七十杯食ってみせると宣言、食えたらそば代は全部友達持ち、おまけに三両の賞金ということで話が決まり、いよいよ清兵衛の前に大盛りのそばがずらり。

いやその速いこと、そばの方から清兵衛の口に吸い込まれていくようで、みるみるうちに三十、四十、五十……。

このあたりでさすがの清兵衛も苦しくなり、肩で息を始める。

体に毒だから、もうここらで降参した方が身のためだという忠告をよそに、少し休憩したいからと中入りを申し出て、皆を廊下に出した上、障子をピタリと閉めさせて、例の草をペロリペロリ……。

いつまでたっても出て来ないので、おかしいと思って一同が障子を開けると、清兵衛の姿はない。

さては逃げだしたかとよくよく見たら、そばが羽織を着て座っていた。

しりたい

食いくらべ

有名なのは、文化14年(1817)3月、柳橋の万屋八郎兵衛方で催された大食・大酒コンクールです。

酒組、飯組、菓子組、鰻組、そば組などに分かれ、人間離れのした驚異的な記録が続出しました。

そば組だけの結果をみると、池之端いけのはたの山口屋吉兵衛(38歳)がもり63杯でみごと栄冠。

新吉原の桐屋惣左衛門(42歳)が57杯で2位、浅草の鍵屋長助(45歳)が49杯で3位となっています。

したがって、清兵衛の50余杯(惜しくも永遠に未遂)は決して荒唐無稽こうとうむけいではありません。

これこそデカダンの極北、醤油ののみ比べもありました。

これについては、高木彬光(1920-1995)の短編「飲醤志願」に実態が詳しく描写されています。まさしく死と隣り合わせです。

上方は餅食い競争

類話の上方落語「蛇含草じゃがんそう」は、餅を大食いした男が、かねて隠居にもらってあった蛇含草なる「消化薬」をこっそりのむ設定です。

したがってオチは「餅が甚兵衛(夏羽織)を着てあぐらをかいていた」となります。

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、この上方演出をそのまま東京に移植して十八番とし、それ以来、「そば清」とは別に「蛇含草」も東京で演じられるようになりました。

三木助演出は「餅の曲食きょくぐい」が売り物で、「出世は鯉の滝登りの餅」「二ついっぺんに、お染久松相生そめひさまつあいおいの餅」と言いながら、調子よく仕草を交えて、餅をポンポンと腹に放り込んでいきます。

「そば清」の古いやり方

明治期には、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)も演じました。

その型を忠実に踏襲した四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)の速記では、清兵衛がなめるとき、「だんだん腹がすいてきたようだ」とつぶやきます。

内臓が溶けつつあるのを、腹の中のそばが溶けたと勘違いしているわけで、笑いの中にも悲劇を予感させる一言ですが、今はこれを入れる人はいないようです。

そばを溶かす草の話

根岸鎮衛ねぎしやすもり(1737-1815)は、『耳嚢みみぶくろ』巻二に「蕎麦そばを解す奇法の事」と題して、荒布あらめ(海藻の一種で食用)がそばを溶かす妙薬であるとの記述を残しています。

真偽のほどはわかりませんが。



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よいよいそば【よいよいそば】落語演目



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【どんな?】

地方から出てきた二人連れ。
そばの食べ方がわからず四苦八苦。
誰だって最初はそうかもしれませんね。

別題:江戸見物

【あらすじ】

江戸名物は、火事にけんかに中っ腹というが、中っ腹は気短なこと、なにかというと、悪態をつく。

田舎者の二人連れ、一生一度の東京見物に来たのはいいが、慣れないこととて、やることなすこと悪戦苦闘。

そば屋に入っても、生まれて初めてなので、食い方がわからない。

もりがくると、あんまり長いから、これではハシを持ったまま天井までハシゴをかけて上がらなければ食えないというので、一工夫。

片方がまず寝ころんで、相棒に食べさせ、今度はもう一人が、という塩梅(あんばい)で、なかなかはかどらない。

そこへ威勢よく飛び込んできたのが、言わずと知れた江戸っ子のお兄さん。

もりを注文すると、例によって粋につるつるっとたぐり出したが、そばの中から釘が出てきたから、さあ収まらない。

「おい若い衆、そばの中に釘ィ入れて売るわけでもあるめえ。危ねえじゃねえぁ。よく気ィつけろいっ。このヨイヨイめ」

謝罪の言葉も聞かばこそ、悪態をついて、あっという間に出ていってしまった。

まるで暴風雨。

田舎者の二人、それを見てすっかり度肝を抜かれ、あの食い方の早えの早くねえの、あれはそば食いの大名人だんべえと、ひどく感心したが、終わりのヨイヨイというのが、なんだか、よくわからない。

そこでそば屋の親父に尋ねるが、親父もまさか親切ていねいに「翻訳」するわけにもいかず「あれはその、近頃東京ではやっているほめ言葉で、手前でものそばがいいというんで、よい、よいとほめたんです」と、ゴマかす。

二人はすっかり真に受けて、一度これを使ってみたいと思いながら、今度は芝居見物へ。

見ているうちに、いい場面になった。

東京の歌舞伎では、役者がいいと声をかけてほめると聞いたので、ここぞとばかり「ようよう、ええだぞ、ヨイヨイ」

怒ったのが贔屓の衆。

「天下の成田屋をつかめえて、ヨイヨイたあ何だ。てめえたちの方がヨイヨイだ」「ハァ、太郎作、喜べ。おらたちまでほめられた」

【しりたい】

二通りのバージョン  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、明治31年(1898)4月、「百花園」に掲載された六代目桂文治の速記では「江戸見物」と題しています。

「江戸見物」は、オチは同じですが、後半途中から芝居噺仕立てになり、そば屋の場面はありません。江戸っ子に突き当たられた後そのまま芝居小屋での失敗談に移ります。

あらすじの「よいよい蕎麦」の方は、明治期では初代三遊亭円右が得意にしたもので、こちらが本元だろうと思われます。本来、ていねいに演じると、そば屋の場面の前に食物と間違え、炭団を買ってかじる滑稽が付きます。

元祖「ボヤキ落語」で知られた、同時代の五代目三升家小勝(1859-1939)や二代目三遊亭金馬を経て、戦後は三代目三遊亭小円朝が時々演じました。

小円朝は速記が残っています。『三遊亭小円朝集』(東大落語会編、青蛙房、1969年)です。音源はなく、初代円右のSP復刻版だけが、いま聴ける唯一の貴重な音源です。小円朝以後の継承者は、今のところいない模様です。

親ばかちゃんりん蕎麦屋の風鈴  【RIZAP COOK】

けんどんそば切り(今でいうかけそば)が1杯8文で売り出されたのは、寛文4年(1664)のこと。

その後、貞享年間(1684-88)に蒸し蕎麦が流行。同時に江戸市中に、多くのそば屋が出現。頼まれれば、天秤のかついで出前もしました。別名「二八蕎麦」と呼ばれる、屋台のそば屋が現れたのは享保年間(1716-36)といわれます。

それ以前、貞享3年(1686)にすでに、「温飩うどん、蕎麦切、其他何ニ寄らず、火を持あるき商売仕り候儀、一切無用に仕るべく候」というお触れが出ているので、かなり長い間、長屋の食うや食わずの連中が、アルバイトに特に夜間、怪しげな煮売り屋を屋台で営業していたわけです。

お上では「食品衛生法違反容疑」よりむしろ火の元が危なくてしかたないので、禁止したということでしょう。

よいよい  【RIZAP COOK】

元は、幼児のよちよち歩きをさしましたが、のちに中風病み、マヌケ、酔っ払い、みすぼらしい服装の人間などをののしる言葉になりました。

寛政年間(1789-1801)の戯作、洒落本などにこれらの例が出そろっているので、およそこのあたりが起源なのでしょう。

【語の読みと注】
中っ腹 ちゅうっぱら:太っ腹の対語。短気
塩梅 あんばい



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