がちぎょうじ【月行事】ことば 江戸覗き

この項では、主に長屋の大家さん(家主、家守、差配)がどんな仕事をしていたのか、町方の組織の中でどんな立場だったのかについて記します。

月行事が生まれるまで  【RIZAP COOK】

1600年代中頃から1700年代にかけて、江戸では富裕商家による町屋敷の集積が進展していき、不在地主が所有する町屋敷がたくさん出てきました。

1600年代を通して、町方行政の組織や機構が整備されていき、町のすべき業務が多様化してくると、家持はその役割分担を嫌がるようになりました。町の運営は家持の代理人である家主(家守、差配)に委託されていきました。

この家主こそが、落語におなじみの「大家さん」です。地主そのものではなく、地主の代行者だったのです。

やがて、家主たちが同業者を集めて五人組を構成し、五人組の中から毎月交代で町用、公用のを務める人を出すようにしました。これを月行事といいます。

ただ、月行事を五人組以外から雇うようなこともあって、しばしば問題が生じていました。寛文6年(1666)10月27日、「雇月行事」が禁止されました。

月行事の仕事  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。

月行事の仕事とは。そのいろいろを列挙してみましょう。

名主からの町触の町内への伝達
町内訴訟、願届への加判、町奉行所への付き添い
検視見分の立ち会い
囚人の保留
名主の指揮下での火消人足の差配
火の番
夜廻り
上下水道の普請
井戸の修理
町内道路の修繕
木戸番、自身番の修復
喧嘩公論の仲裁
捨て子や行き倒れの世話
切支丹宗門の取り締まり
浪人の取り締まり

月行事も名主同様、町内にかかわるすべての町用、公用をこなしました。

自身番  【RIZAP COOK】

月行事はこれらのことがらを町内の自身番に詰めて行いました。自身番には月行事の補助役として書役がいました。自身番は町内につくられた交番のようなものです。

月行事の任期中は五人組の責務についてはほかの組員に代行してもらっていたようです。

自身番は犯罪者を拘留する場でもありました。こんな川柳があります。

月行事 しらみの喰ふを かいてやり

縛られている犯人がしらみに食われてかゆいので、月行事が代わりにかいてやるという風景です。なんだか、ほほえましいですね。

月行事持  【RIZAP COOK】

町並地(町奉行・代官両支配地)では複数の五人組の代表として「年寄」を置くところもあったようです。名主のいない町では月行事が名主の代行をしたそうです。家数が少なくて名主役料も負担できない、寺社門前町家、拝領町屋敷などでは月行事持でした。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、幸田成友『江戸と大坂』(冨山房百科文庫、1995年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
家持 いえもち
家主 いえぬし:大家さん。差配、家守
家守 やもり:大家さんのこと
公役 くやく
町並地 まちなみち

町年寄 名主

【RIZAP COOK】

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ほっけながや【法華長屋】演目


ここでいう法華とは日蓮宗のこと。浄土宗と並ぶ庶民の生活を支えていました。

【あらすじ】

宗論は どちらが負けても 釈迦の恥

下谷摩利支天、近くの長屋。

ここは大家の萩原某が法華宗の熱心な信者なので、他宗の者は絶対に店は貸さない。

路地の入り口に「他宗の者一人も入るべからず」という札が張ってあるほどで、法華宗以外は猫の子一匹は入れないという徹底ぶりだ。

今日は店子の金兵衛が大家に、長屋の厠がいっぱいになったので汲み取りを頼みたいと言ってくる。

大家はもちろん、店子全員が、法華以外の宗旨の肥汲みをなりわいとする掃除屋を長屋に入れるのはまっぴらなので、結局、入り口で宗旨を聞いてみて、もし他宗だったらお清めに塩をぶっかけて追い出してしまおうということになった。

こうして、法華長屋を通る掃除屋は十中八九、塩を見舞われる羽目となったので、これが同業者中の評判となり、しまいにはだれも寄りつかなくなってしまった。

ところが物好きな奴はいるもので、
「おらァ、法華じゃねえが、しゃくにさわるからうそォついてくんできてやんべえ」
と、ある男、長屋に入っていく。

酒屋の前に来て
「おらァ、自慢じゃねえが、法華以外の人間から肥を汲んでやったことはねえ。もし法華だなんてうそォついて汲ましゃあがったら、座敷ン中に肥をぶんまける」
と、まくしたてた。

感激した酒屋の亭主、さっそく中に入れて、
「仕事の前に飯を食っていけ」
と言うので、掃除屋、すっかりいい気になって、
「芋の煮っころがしじゃよくねえから、お祖師さまに買ってあげると思えばよかんべえ」
と、うまいことを言って鰻をごちそうさせた上、酒もたらふくのんで、いい機嫌。

「そろそろ、肥を汲んでおくれ」
「もう肥はダミだ」
「どうして」
「マナコがぐらぐらしてきた。あんた汲んでくれろ。お祖師さまのお頼みだと思えば腹も立つめえ」
「冗談言っちゃいけねえ」

不承不承、よろよろしながら立ち上がって肥桶を担いだが、腰がふらついて石にけっつまづいた。

「おっとォ、ナムアミダブツ」
「てめえ法華じゃねえな」
「なーに、法華だ」
「うそォつきやァがれ。いま肥をこぼしたとき念仏を唱えやがったな」
「きたねえから念仏へ片づけた」

【しりたい】

浄土宗対日蓮宗  【RIZAP COOK】

絶えたことのない宗教、宗旨のいがみあいという、普遍的テーマを持った噺です。

それだけに、現代の視点で改作すれば、十分に受ける噺としてよみがえると思うのですが、すたれたままなのは惜しいことです。

速記は、明治27年(1894)7月の四代目橘家円喬を始め、初代三遊亭円右、初代柳家小せん、四代目春風亭柳枝、八代目桂文治と、落語界各派閥を問わずまんべんなく、各時代の大看板のものが残されています。

それも昭和初期までで、戦後は六代目円生がたまに演じたのを最後に、まったく継承者がいません。一般新聞に宗教欄が消えた頃と時期を一致させています。戦前はもちろんそうでしたが、戦後でも昭和30年代までは、一般紙には必ず宗教欄が用意されてあって、各宗派の宗教家がなにやかやと寄稿していました。それがいまの日本では、公の場で宗教を語ることがどこかタブーとなってしまっているのはいびつです。

だんだんよく鳴る法華の太鼓  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、池上本門寺派の勢力が強く、日蓮=法華衆徒の多かった江戸で、古くから口演されてきました。

日蓮宗は「天文法華の乱」や安土宗論で織田信長を悩ませたように、排他的・戦闘的な宗派で知られています。そういう点では浄土宗や浄土真宗と変わりません。浄土宗と日蓮宗(法華宗)がつねに対立宗派として、江戸のさまざまな場面で登場するすることは、江戸を知る上で重要なポイントです。

法華の噺は、ほかにも「堀の内」「甲府い」「清正公酒屋」「鰍沢」「おせつ徳三郎」など、多数あります。

晩年の三遊亭円朝は自作「火中の蓮華」の中に「法華長屋」を挿入しています。明治29年(1896)、妻の勧めもあって円朝は日蓮宗に改宗していたのです。

お祖師さま  【RIZAP COOK】

「堀の内のお祖っさま」で、落語マニアにはおなじみ。本来は、一宗一派の開祖を意味しますが、一般には、日蓮宗(法華)の開祖・日蓮上人を指します。

汲み取り  【RIZAP COOK】

別称「汲み取り屋」で、東京でも昭和50年代前半まで存在しました。水洗が普及する以前、便所の糞尿を汲み取る商売で、多くは農家の副業。汲んだ肥は言うまでもなく農作の肥料になりました。

葛西(江戸川区)の半農半漁の百姓が下町一帯を回りましたが、汲み取りにストライキを起こされるとお手上げなので、「葛西肥汲み」は江戸時代には、相当に大きな勢力と特権を持っていました。

摩利支天  【RIZAP COOK】

まりしてん。オリジナルはインドの神です。バラモン教の聖典「ヴェーダ」に登場する暁の女神・ウシャスが仏教に取り込まれたといわれています。太陽や月光などを神格化したもので、形を見せることなく難を除き、利益を与えるとされ、日本では、中世から武士の守護神となりました。楠木正成が信仰したことはよく知られています。

この噺に摩利支天が登場するわけは、そんな薄っぺらな知識で理解できるものではありません。「髭曼荼羅」を見てもわかるように、日蓮宗は仏教以外の神々をも守護神として奉じています。それが他宗派と大きく異なるところです。きわめて日本的なのかもしれません。摩利支天もその一つで、日蓮を守護する神とされています。「下谷摩利支天」というのは寺の俗称です。正しくは「妙宣山徳大寺」という日蓮宗の寺院。摩利支天をウリにした日蓮宗の寺という意味です。かつては下総の中山法華経寺の末寺でしたが、いまは普通の日蓮宗の寺院です。台東区上野四丁目、アメヤ横丁近くの密集地にあって、山手線からも眺められます。この寺のすごいことは上野の戦争でも震災でも空襲でも焼失しなかったこと。よほど霊験あらたかなのだと篤信されているのです。厄除けの寺として信仰を集めています。つまり、この寺の近所の長屋が舞台だということが、「法華」をテーマにした噺であることを、はじまりから暗喩しているのです。江戸にはそんなものをテーマにしても笑ってくれるだけの、法華の壇越(だんのつ、信者)が多かったということですね。

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ほうちょう【包丁】演目


まぬけなワルを描いた噺。落語のもうひとつの醍醐味です。

別題:えびっちゃま 出前包丁 庖丁間男(上方)

【あらすじ】

居候になっていた先の亭主がぽっくり死んで、うまく後釜に納まった常。

前の亭主が相当の小金をため込んでいたので、それ以来、五円や十円の小遣いには不自由せず、着物までそっくりちょうだいして羽振りよくやっていたが、いざ金ができると色欲の虫が顔を出し、浅草新道の清元の師匠といつしかいい仲になった。

だんだん老けてきた二十四、五になる女房の静と比べ、年は十九、あくぬけて色っぽい師匠に惚れてしまったので、こうなるとお決まりで、女房がじゃまになってくる。

どうにかしてたたき出し、財産全部をふんだくって師匠といっしょになりたいと考えているところに、ひょっこり現れたのが、昔の悪友の寅。

こちらの方はスカンピン。

常は鰻をおごって寅に相談を持ちかけるが、その筋書きというのがものすごい。

亭主の自分がわざと留守している間に、寅が友達だと言ってずうずうしく入り込み、うまくかみさんをたらし込んで、今にも二人がしっぽり濡れるというころあいを見計らって、出刃包丁を持って踏み込み、「間男見つけた、重ねておいて四つにする」と言えば、もうどうにもならないだろう、という計略。

じゃまな女房を離縁の上、「洲崎や吉原に売れば水金引いても二、三百にはなるだろうが、年増なので品川や大千住で手取り八十円だろう。二人で山分けだ」と持ちかけたので、こうなると色と欲との二人連れ。

寅は飛びつく。

当日。

新道で「貸し夜具」をなりわいとする常の家。

予定通り、寅が静をくどこうとするが、この女、聞かばこそで、やたらに頭をポカポカこづくものだから、寅はコブだらけ。

閉口して、あろうことか、悪計の一切合切を白状してしまう。

「まあ、なんて奴だろう。もうあいつには愛想が尽きましたから、寅さん、おまえさん、こんなおばあさんでよければ、あたしを女房にしておくれでないか」
「よーし、そうと決まったら、野郎、表へ引きずり出して」

瓢箪から駒。

寅がすっかり寝返って、二人で今度は本当にしっぽりと差しつ差されつ酒を飲んでいるところへ、台本が差し替えられているとも知らない常さん、
「間男見つけた」
と、威勢よく踏み込んだとたん
「ふん、出ていくのはおまえだよ」

したたかにぶんなぐられ、下着一枚で表に放り出された。

やっと起き上がると
「ひでえことしやがる。さあ、出刃を返せ」
「なんだ、まだいやがった。切るなら切ってみろ」
「横丁の魚屋へ返してくるんだい」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

恵比寿さま 鰻でタイを釣りそこね?  【RIZAP COOK】

上方落語「庖丁間男」を明治期に東京に移したもので、移植者は三代目三遊亭円馬とされます。

明治31年(1898)11月の四代目柳亭左楽の速記が残っていて、この年円馬はまだ16歳なので、この説はあやしいものです。

左楽は「出刃包丁」の題で演じていますが、明治期までは東京での演題は「えびっちゃま」。

にやにや笑って相手の言うことをまともに聞かないことを恵比寿のにこやかな笑いに例えた慣用表現ですが、オチにこの語を使ったことからとも言われ、はっきりはわかりません。

左楽の古い速記では、常が寅を鰻屋に誘うとき、「霊岸島の大黒屋、和田、竹葉、神田川、芝の松金、浅草の前川へ行くというわけにはいかないから」と明治30年代の人気店を挙げています。

昭和の両巨匠の競演  【RIZAP COOK】

戦後では六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生の二名人が得意としました。

本来は音曲噺で、円生は橘家橘園という音曲師に習っています。

現在、速記・音源ともほとんど円生のもので、残念ながら志ん生のはありません。

円生からは一門の五代目円楽、円弥、円窓らに継承。志ん生からは長男の十代目金原亭馬生に受け継がれていました。

水金  【RIZAP COOK】

みずがね。元の意味は、文字通り、湯水のように使いきる金のことですが、ここでは、常が「水金引いても…」と言っているので、女の斡旋手数料を意味します。

「水」は「廓の水が染み込んで…」という慣用句があるとおり、今でいう「水商売」のこと。


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ふどうぼう【不動坊】演目

【RIZAP COOK】

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上方噺を明治期に東京に。わいわいにぎやか。けっこうえげつない噺です。

別題:不動坊火焔 

【あらすじ】

品行方正で通る、じゃが屋の吉兵衛。

ある日、大家が縁談を持ち込んできた。

相手は相長屋の講釈師・不動坊火焔の女房お滝で、最近亭主が旅回りの途中で急にあの世へ行ったので、女一人で生活が立ちいかないから、どなたかいい人があったら縁づきたいと、大家に相談を持ちかけてきた、という。

ついては、不動坊の残した借金がかなりあるのでそれを結納代わりに肩代わりしてくれるなら、という条件付き。

実は前々からお滝にぞっこんだった吉公、喜んで二つ返事で話に飛びつき、さっそく、今夜祝言と決まった。

さあ、うれしさで気もそぞろの吉公。

あわてて鉄瓶を持ったまま湯屋に飛び込んだが、湯舟の中でお滝との一人二役を演じて大騒ぎ。

『お滝さん、本当にあたしが好きで来たんですか?』
『なんですねえ、今さら水臭い』
『だけどね、長屋には独り者が大勢いますよ。鍛治屋の鉄つぁんなんぞはどうです?』
『まァ、いやですよ。あんな色が真っ黒けで、顔の裏表がはっきりしない』
『チンドン屋の万さんな?』
『あんな河馬みたいな人』
『じゃあ、漉返し屋の徳さんは?』
『ちり紙に目鼻みたいな顔して』

湯の中で、これを聞いた当の徳さんはカンカン。

長屋に帰ると、さっそく真っ黒けと河馬を集め、飛んでもねえ野郎だから、今夜二人がいちゃついているところへ不動坊の幽霊を出し、脅かして明日の朝には夫婦別れをさしちまおうと、ぶっそうな相談がまとまった。

この三人、そろって前からお滝に気があったから、焼き餅も半分。

幽霊役には年寄りで万年前座の噺家を雇い、真夜中に四人連れで吉公の家にやってくる。

屋根に登って、天井の引き窓から幽霊をつり降ろす算段だが、万さんが、人魂用のアルコールを餡コロ餠と間違えて買ってきたりの騒動の後、噺家が
「四十九日も過ぎないのに、嫁入りとはうらめしい」
と脅すと、吉公少しも動ぜず、
「オレはてめえの借金を肩代わりしてやったんだ」
と逆ねじを食わせたから、幽霊は二の句が継げず、すごすご退散。

結局、「手切れ金」に十円せしめただけで、計画はおジャン。

怒った三人が屋根の上から揺さぶったので、幽霊は手足をバタバタ。

「おい、十円もらったのに、まだ浮かばれねえのか」
「いえ、宙にぶら下がってます」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

パクリのパクリ  【RIZAP COOK】

明治初期、二代目林家菊丸(?-1901?)作の上方落語を、三代目柳家小さんが東京に移植しました。

溯れば、原話は、安永2年(1773)刊『再成餅』中の「盗人」とされますが、内容を見るとどこが似ているのか根拠不明で、やはり菊丸のオリジナルでしょう。

菊丸の創作自体、「樟脳玉」の後半(別題「源兵衛人玉」「捻兵衛」)のパクリではという疑惑が持たれていて(宇井無愁説)、そのネタ元がさらに、上方落語「夢八」のいただきではと言われているので、ややこしいかぎりです。

菊丸は創作力に秀でた才人で、この噺のほか、現在も演じられる「後家馬子」「猿廻し」「吉野狐」などをものしたと伝えられますが、晩年は失明し、不遇のうちに没したようです。

本家大阪の演出  【RIZAP COOK】

桂米朝によれば、菊丸のオリジナルはおおざっぱな筋立て以外は、今ではほとんど痕跡をとどめず、現行のやり方やくすぐりは、すべて後世の演者の工夫によるものとか。

登場人物の名前は「登場しない主役」の不動坊火焔と、すき返し屋の徳さん以外はみな東京と異なり、新郎が金貸しの利吉、脅しの一味が徳さんのほか、かもじ洗いのゆうさん、東西屋の新さん。幽霊役が不動坊と同業で講釈師の軽田胴斎となっています。

利吉は、まじめ人間の東京の吉兵衛と異なり、徹底的にアホのキャラクターに描かれるので、上方版は銭湯のシーンを始め、東京のよりにぎやかで、笑いの多いものとなっています。

上方では幽霊の正体が最後にバレますが、そのきっかけは、フンドシをつないだ「命綱」が切れて幽霊が落下、腰を打って思わず「イタッ」と叫ぶ段取りです。

オチに四苦八苦  【RIZAP COOK】

あらすじのオチは、東京に移植された際、三代目小さんが作ったもので、現行の東京のオチはほとんどこちらです。明治42年(1909)10月の「不動坊火焔」と題した小さんの速記では、「てめえは宙に迷ってるのか」「途中にぶら下がって居ります」となっています。

オリジナルの上方のオチは、すべてバレた後、「講釈師が幽霊のマネして銭取ったりするのんか」「へえ、幽霊(=遊芸)稼ぎ人でおます」と、いうもの。

これは明治2年(1869)、新政府から寄席芸人に「遊芸稼ぎ人」という名称の鑑札が下りたことを当て込んだものです。同時に大道芸人は禁止され、この鑑札なしには、芸人は商売ができなくなりました。つまり、この噺が作られたのは明治2年前後ということになります。

この噺はダジャレで出来が悪い上、あくまで時事的なネタなので、時勢に合わなくなると演者はオチに困ります。そこで、上方では幽霊役がさんざん謝った後、新郎の耳に口を寄せ「高砂や……」の祝言の謡で落とすことにしましたが、これもイマイチ。

試行錯誤の末、最近の上方では、米朝以下ほとんどはマクラで「遊芸稼ぎ人」の説明を仕込んだ上でオリジナルの通りにオチています。当然、オチが違えば切る個所も違ってくるわけです。

桂枝雀は、昭和47年(1972)の小米時代に、幽霊役が新郎に25円で消えてくれと言われ、どうしようかこうしようかとぶつぶつ言っているので、「なにをごちゃごちゃ言うとんねん」「へえ、迷うてます」というオチを工夫しましたが、のち東京式の「宙に浮いとりました」に戻していました。

ほかにも、違ったオチに工夫している演者もいますが、どれもあまりしっくりはこないようです。

前座の蛮勇  【RIZAP COOK】

東京では、三代目小さんから四代目、五代目に継承された小さんの家の芸です。

五代目小さんはこの噺を前座の栗之助時分、覚えたてでこともあろうに、神田の立花で延々45分も「熱演」。のちの八代目正蔵(彦六)にこっぴどく叱られたという逸話があります。

九代目桂文治も得意にしていました。現在でも東西で多くの演者が手掛けています。

人魂の正体  【RIZAP COOK】

昔の寄席では、怪談噺の際に焼酎を綿に染み込ませて火を付け、青白い陰火を作りました。

その後、前座の幽霊(ユータ)が客席に現れ、脅かす段取りです。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」の按摩道玄の台詞「掛け焔硝でどろどろと、前座のお化けを見るように」は有名です。

この噺は明治期が舞台なので、焼酎の代わりにハイカラにアルコールと言っています。

古くは「長太郎玉」と呼ばれる樟脳玉も使われ、落語「樟脳玉」の小道具になっています。

引き窓  【RIZAP COOK】

屋根にうがった明かり取りの窓で、引き綱で開閉しました。

歌舞伎や文楽の「双蝶々曲輪日記」の八段目(大詰め)「引窓」で、芝居に重要な役割を果たすと共にその実物を見ることができます。

五代目小さんのくすぐり  【RIZAP COOK】

(吉公が大家に)「……もう、寝ても起きてもお滝さん、はばかりィ入ってもお滝さん……仕事も手につきませんから、なんとかあきらめなくちゃならないと思って、お滝さんは、あれはおれの女房なんだと、不動坊に貸してあるんだと……ええ、あのお滝さんはもともとあっしの女房で……」

不動   【RIZAP COOK】

不動とは不動明王の略です。不動とはどんな存在か。仏像から見ていきましょう。仏像は四種類に分かれています。

如来 真理そのもの
菩薩 真理を人々に説いて救済する仏
明王 如来や菩薩から漏れた人々を救う存在
天 仏法を守る神々

この種類分けは仏像の格付けとイコールです。不動明王はいくつかの種類分けがされています。五大明王とか八大明王とか。ここでは五大明王について記します。

不動明王 中央 大日如来の化身
降三世明王 東 阿閦如来の化身
軍荼利明王 南 宝生如来の化身
大威徳明王 西 阿弥陀如来の化身
金剛夜叉明王 北 不空成就如来の化身

寺院で五大明王の像を配置すると、必ず不動明王がそのセンターに位置します。それだけ高い地位にあるのです。さらには、明王がすべて如来の化身とされています。如来で最高位の大日如来の化身が不動明王になっています。

明王は、如来や菩薩の救いから漏れた人々を救う、敗者復活戦の主催者のような役割を担っています。有象無象を救済するため、怒った顔をしているのです。忿怒の表情というやつで、怖そうな存在です。右手に宝剣、左手に羂索。羂索とは人々を漏れなく救うための縄です。背後には火焔光背という、炎を表現しています。強そう。でも怖そう。そんなイメージです。

不動信仰はおもしろいことに、関西よりも関東地方に篤信の歴史があります。平将門の怨霊を鎮める意味があったと考えられているからです。将門は御霊信仰のひとつ。御霊信仰とは、疫病や天災を、非業の死を遂げた人物などの御霊の祟りとしておそれ、御霊を鎮めることで平穏を回復しようとする信仰をいいます。漏れた人々をも救おうとする不動明王の信仰は、関東で将門の御霊信仰と結びついたのです。

【語の読みと注】
相長屋 あいながや:同じ長屋に住むこと。
相店 あいだな:相長屋に同じ
結納 ゆいのう
漉返し すきがえし:紙すき
東西屋 とうざいや:チンドン屋
加賀鳶 かがとび
双蝶々曲輪日記 ふたつちょうちょうくるわにっき
大日如来 だいにちにょらい
降三世明王 ごうさんぜみょうおう
阿閦如来 あしゅくにょらい
軍荼利明王 ぐんだりみょうおう
宝生如来 ほうしょうにょらい
大威徳明王 だいいとくみょうおう
阿弥陀如来 あみだにょらい
金剛夜叉明王 こんごうやしゃみょうおう
不空成就如来 ふくうじょうじゅにょらい
忿怒 ふんぬ
腱索 けんさく けんじゃく

【RIZAP COOK】

はやしながや【囃子長屋】演目

【RIZAP COOK】

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人心をかき立てる祭りにちなんだ噺。あらすじじゃつまらない。

【あらすじ】

ころは明治。

本所林町のある長屋、大家が祭り囃子大好きなので、人呼んで「囃子長屋」。

なにしろこの大家、十五の歳からあちらこちらの祭で、頼まれて太鼓をたたき、そのご祝儀がたまりにたまって長屋が建ったと自慢話しているくらい。

自然に囃子好きの人間しか越してこず、年がら年中長屋中で囃子の話をしているほど。

大家の自慢は、この名が矢に越してくる人は、商人なら表通りに見世を出す、大工なら棟梁になるという具合に、みな出世すること。

神田祭が近づいたある日。

ここ七日間も囃子の練習と称して家に帰っていない八五郎が、大家と祭り談義をしている。

「昔の(江戸時代の)祭りはりっぱだった。今と心がけが違う。江戸を繁華な町にするために、町民からは税金を取らなかった。その代わり、にぎやかな祭りをやって将軍家を喜ばせようという……丸の内に将軍家の上覧場があって」
と、大家の回想は尽きない。

「山車を引き出して、ご上覧場へ繰り込む時は屋台だ。スケテンテンテン、ステンガテンスケテケテン」

囃子の口まねをすると、止まらない。

「踊りの間は鎌倉。ヒャイトーロ、ヒャトヒャララ、チャンドンドンチャンドドドチャン……スケテンテンテンテテツクツ」
「くたびれるでしょう」
「大きなお世話だ。祭りの話になると、口まねでも一囃子やらなきゃ、気がすまねえ」

すっかり当てられて家に帰った八五郎だが、かみさんが
「いやんなっちまう。文明開化の明治ですよ。古くさい祭り囃子のけいこするなんてトンチキはいませんよ」
と腹立ちまぎれに神聖な祭りを侮辱したから、さあ納まらない。

「亭主をつかまえてトンチキとはなんだ。てめえはドンツクだ」
「何を言ってやがる。ドンチキメ、トンチキメ」

「何をッ」
と十能を振り上げ
「ドンツクドンツクメ、ドンドンドロツク、ドンツクメ」

せがれが
「父ちゃん、あぶない。七厘につまずくと火事になるよ。父ちゃんちゃん、七輪。チャンシチリン、チャンシチリン」
「トンチキメトンチキメ、トントントロチキトンチキメ」
「ドンツクメドンツクメ、ドンドンドロツクドンツクメ」

これを聞いた大家、
「ありがてえ、祭りが近づくと夫婦喧嘩まで囃子だ」
とご満悦。

トンチキメトンチキメ、ドンツクドンツクと太鼓も囃子もそろっているから、ひとつこっちは笛で仲裁してやろうと、障子を開けて
「まあいいやったら、まあいいやッ、マアイーマアイーマアイイヤッ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

今輔二代の十八番  【RIZAP COOK】

噺の内容から、明治初期に創作(または改作)されたことは間違いありませんが、原話はもちろん作者、江戸時代に先行作があったかどうかなど、詳しい出自はまったくわかっていません。

三代目柳家小さんから、「代地の今輔」と呼ばれ、音曲噺が得意だった三代目古今亭今輔(1869-1924)が継承して十八番にしました。三代目今輔は、三代目小さんの預かり弟子でした。

その没後、しばらく途絶えたのを、若き日に三代目小さんに師事した五代目今輔(1898-1976)が、1941年の襲名時に復活。以来、没するまで、しばしば高座に掛けました。この人こそ新作派の闘将。「ラーメン屋」「青空おばあさん」などの創作落語で一世を風靡しました。独特のだみ声、味がありました。

本所林町  【RIZAP COOK】

墨田区立川一-三丁目。「正直清兵衛」にも登場しました。

むろんこの噺では「囃子」と掛けたダジャレです。

歌舞伎の囃子方の控室を「囃子町」と呼び、さらに囃子そのものも指すようになりました。ただし、本所の方が「はやしちょう」なのに対し、芝居のそれは「はやしまち」と読みます。

神田囃子  【RIZAP COOK】

宝暦13年(1763)、軽快なテンポの葛西のばか囃子が山王祭に登場してから、しばらくはその「チャンチキチン」のリズムが江戸の祭を席巻。

のち、それをより都会的に洗練した「スッテンテレツクツ」の神田囃子が生まれました。

「宿屋の仇討」で仲間二人が「源兵衛は色事師、色事師は源兵衛」と囃したてるのがそれです。

歌舞伎十八番「暫」  【RIZAP COOK】

「腹出し」の敵役四人が鎌倉権五郎を撃退しようと押し出すとき、

天王さまは囃すがお好き、ワイワイと囃せ、ワイワイと囃せ

と「合唱」するおかしげな場面は、神田囃子を当て込んだものです。

神田祭  【RIZAP COOK】

山王祭と並んで「天下祭」と呼ばれ、山車は江戸城内までくり込むことを許されました。

延宝年間(1673-81)に幕府の命により、両者交互に本祭、陰祭を隔年に行うようになりました。

神田祭は、旧幕時代は陰暦9月15日、現在は5月12-16日です。

夫婦げんかはお神楽で  【RIZAP COOK】

五代目今輔は自書『今輔の落語』の解説で、この噺は六代目橘家円太郎(生没年不詳、明治中期-昭和初期)に教わったと語り、さらに自分の祭囃子は、鏡味小松から習ったため、神田囃子で通した先々代(三代目)や円太郎と違って太神楽になっている、と断っています。

もっとも、太神楽は江戸時代から現在まで神田祭には先触れとして参加していますから調子がお神楽でも、いっこうに不自然ではないでしょう。

太神楽の祭囃子は「打ち込み」「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四丁目」「返り屋台」と続きます。こちらは神田囃子より一時代前の葛西囃子の系統を引いているとか。

六代目円太郎は音曲師でしたが、昭和初期には落ちぶれて消息不明に。したがって、今輔がこの人に教わったとすれば大正末か昭和の始め、柳家小山三時代でしょう。

【語の読みと注】
山車 だし
暫 しばらく

ちょうないのわかいしゅう【町内の若い衆】演目

すごいオチですね。さすが、下町のおかみさんは太っ腹!

別題:鉢山嬶(上方) 類話:氏子中

【あらすじ】

長屋の熊五郎、兄貴分の家に増築祝いに寄ると、かみさんが、今組合の寄り合いに出かけて留守だと言う。

熊がお世辞ついでに、兄貴はえらい、働き者でこんな豪勢な建て増しもできて、組合だって兄貴の働き一つでもっているようなもんだと並べると、このかみさんの言うことが振るっている。

「あら、いやですよ。うちの人の働き一つで、こんなことができるもんですか。言ってみれば、町内の皆さんが寄ってたかってこさえてくれたようなもんですよ」

熊公、この言葉のおくゆかしさにすっかり感心してしまい「さすがに兄貴のとこのかみさんだ。それに引き換え、うちのカカアは同じ女でありながら」と、つくづく情けなくなった。

帰るといきなり「どこをのたくってやがった」とヘビ扱い。

てめえぐれえ口の悪い女はねえ、これこれこういうわけだが、てめえなんざこれだけの受け答えはできめえと説教すると「ふん、それくらい言えなくてさ。言ってやるから建て増ししてごらん」

痛いところを突かれる。

形勢が悪いので「湯ィへえってくる」と言えば「ついでに沈んじゃえ。ブクブク野郎」

熊公が腹を立て「しらみじゃねえが、煮え湯ぶっかけてやろうかしらん」と考えながら歩いていると、向こうから八五郎。

そこで熊「カカアの奴、ああ大きなことを抜かしゃあがったからには、言えるか言えねえか試してやろう」と思いつき、八五郎に「オレが留守のうちに何かオレのことをほめて、うちの奴がどんな受け答えをするか、聞いてきてくんねえ」と頼む。

一杯おごる約束で引き受けた八五郎、いきなり熊のかみさんに「あーら、八っつあん、うちのカボチャ野郎、生意気に湯へ行くなんて出てったけど、どうせあんなツラ、洗ったってしょうがないのにさ。あきれるじゃないか」

先制パンチを食らわされ、目を白黒させたが、なにかほめなくてはとキョロキョロ見回しても、何もない。

畳はすりきれている。土瓶は口がない。かみさんは臨月で腹がせり出している。

これだと思って「いやあ、さすがに熊兄ィ。この物価高に赤ん坊をこさえるなんて、さすが働き者だ」

するとかみさんが「あら、いやですよ。うちの人の働き一つでこんなことができるものですか。言ってみれば、町内の皆さんが寄ってたかってこさえてくれたようなもんですよ」

出典:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

意外に珍しい、原話もそのまま 【RIZAP COOK】

たいていの噺は、原典があっても長い年月を経ているうちにかなりストーリーが変わってくるものですが、この「町内の若い衆」ばかりは最古の原話とされる元禄3年(1690)刊の笑話本『枝珊瑚珠』中の「人の情」以来、大筋はまったく同じなんです。

この笑話集は、江戸落語の始祖といわれる鹿野武左衛門(1649-99)の手になるものですが、それから1世紀を経た寛政10年(1798)刊の『軽口新玉箒』中の「築山」になると、オチの女房のセリフが「これも主(=主人)ばかりでなく、内の若い衆の転合(てんごう。いたずら)にこしらえました」と、よけいエスカレートしています。いかに「若い衆がよってたかって」のオチにインパクトが強かったかがわかろうというものです。

「こさえてくれた」の一言でご難 【RIZAP COOK】

このたった一言のおかげで、あわれ、この噺はアジア太平洋戦争の間は禁演落語の一つに指定され、「噺塚」に葬られていました。

五代目古今亭志ん生がまだ七代目金原亭馬生だったころの昭和10年(1935)2月、レコードに吹き込んだ「町内の若い衆」の速記が残っています。問題の最後の部分は「こさえてくれた」ではとても検閲を通らず、「育ててくれた」という、おもしろくもおかしくもないものになっていますが、この時点までは、この程度のゴマカシで、エロ落語もかろうじて命脈を保っていたことになります。

もっと強烈な「氏子中」 【RIZAP COOK】

前述の志ん生の速記は、実はタイトルが「氏子中」で、長男の十代目金原亭馬生も同じ題で「町内の若い衆」を演じています。ところが、同じ不倫噺でも本来、この二つは別話なんですね。「氏子中」の項目を見ていただければおわかりになると思いますが、ここでは、そっちを見るのもめんどうな方のために、さわりを記しておきます。

商用の旅から一年ぶりに帰った亭主の与太郎が、女房が妊娠しているのを見て、驚いて問いただすと、女房もさるもの、氏神の神田明神に願掛けして授かった子だと、しらばっくれる。親分に相談すると、「子供が産まれたら、祝いに友達連中を呼んで荒神さまのお神酒で胞衣(えな。胎盤)を洗えば、胞衣に本当の父親の紋が浮かび出る。そいつに母子ともノシつけてくれてやれ」そこで、言われたとおりにすると、「神田大明神」の文字がくっきり。疑いが晴れたかに見えたが、よくよく見ると横に「氏子中」。

こちらは、五代目三遊亭円楽がたまに演じていました。

歌麿の『艶本 葉男婦舞喜』から 【RIZAP COOK】

この噺を絵にすると、こんなかんじでしょうか。

下の絵は、喜多川歌麿の『艶本 葉男婦舞喜』に収録されています。「えほん はなふぶき」という、歌麿の有名な春画本の中の一枚ですね。

喜多川歌麿『艶本 葉男婦舞喜』上巻第七図より

この絵の書き入れ(絵のまわりにちりばめられた文字)は男女の会話です。じつは、こんなことを話しているのです。現代語訳にしてみました。

女「この子は確かおめえの子だよ。うちの亭主には少しも似ねえ。おめえにどこか似ているようだ」
男「世間の人は、とかく子持ちのぼぼは味が悪いというが、おいらあ、子持ちのぼぼでなけりゃアうま味は出ねえものと心得ている。あああ、いい。どうも言えねえ。豪勢、豪勢。まだ気をやるのは惜しいが、どうももう、たまらなくなってきた。さあさあ、十四の背骨がずんずんしてきたぞ」

絵に出ている子供はどうやら、おかみさんと「町内の若い衆」との子のようです。女は「あんたの子だよ」なんて詰め寄っているのに、男は「子持ちのぼぼがいい」とかほざいて、どこ吹く風。この子の認知をしません。会話のちぐはぐがなんとも笑いを誘います。

ひとつ、蛇足を。乳を吸われている女性は締まりがよくなるため、それを好んで男が挑むのだそうです。ということは、この男女はなかなかな性の手練れかもしれませんね。

参考文献:車浮代『歌麿春画で江戸かなを学ぶ』(中央公論新社、2021年)

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

らくだ【らくだ】演目

【RIZAP COOK】

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長屋の嫌われ者、鼻つまみ者が急死。葬儀に巻き込まれる男の変容ぶり。上方噺。

別題: 駱駝の葬礼

【あらすじ】

乱暴者で町内の鼻つまみ者のらくだの馬がフグに当たってあえない最期を遂げた。

兄弟分の、これまた似たような男がらくだの死体を発見し、葬式を出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。

通りかかった紙屑屋を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香典を出させようと思い立ち、紙屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。

みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香典を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、何をするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる紙屑屋を、今度は大家のところに、今夜通夜をするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせたが、「店賃を一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」と突っぱねられる。

「嫌だと言ったら、らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」と言っても「おもしれえ、退屈で困っているから、ぜひ一度見てえもんだ」と、大家は一向に動じない。

紙屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、紙屑屋にむりやり死骸を背負わせ、大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽をぶんどってくると、紙屑屋、もうご用済だろうと期待するが、なかなか帰してくれない。

酒をのんでいけと言う。

女房子供が待っているから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきて、逆に、「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」と酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋が「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、俺の知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

相談がまとまり、死骸の髪を引っこ抜いて丸めた上、樽に押し込んで、二人差しにないで高田馬場を経て落合の火葬場へ。

お近づきの印に安公と三人でのみ始めたが、いざ焼く段になると死骸がない。

どこかへ落としたのかともと来た道をよろよろと引き返す。

願人坊主が一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、焼き場で火を付けると、坊主が目を覚ました。

「アツツツ、ここはどこだ」「ここは火屋(ひや)だ」「冷酒(ひや)でいいから、もう一杯くれ」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

上方落語を東京に移植  【RIZAP COOK】

本家は上方落語です。本場の「駱駝の葬礼」では、死人は「らくだの卯之助」、兄弟分は「脳天熊」ですが、東京では両方無名です。

「らくだ」は、江戸ことばで体の大きな乱暴者を意味しました。明治・大正の滑稽噺の名人・三代目柳家小さんが東京に移植したものです。

聞きどころは、気の弱い紙屑屋が次第に泥酔し、抑圧被抑圧の関係がいつの間にか逆転する面白さでしょう。後半の願人坊主のくだりはオチもよくないので、今ではカットされることが多くなっています。

これも五代目志ん生の十八番の一つで、志ん生は発端を思い切りカットすることもありました。なお、戦前にエノケン劇団が舞台化し、戦後映画化もされています。

かんかんのう  【RIZAP COOK】

らくだの兄弟分が、紙屑屋を脅して死骸を背負わせ、大家の家に乗り込んで、かんかんのうを踊らせるシーンが、この噺のクライマックスになっています。

かんかんのうはかんかん踊りともいい、清国のわらべ唄「九連環」が元唄です。九連環は「知恵の輪」のこと。文政3年(1820)から翌年にかけ、江戸と大坂で大流行。飴屋が面白おかしく町内を踊り歩き、禁止令が出たほどです。

以下、その歌詞を紹介しますが、何語なのかわからない珍妙なことばです。

 かんかんのう、きうれんす きゅうはきゅうれんす さんしょならえ さあいほう

 にいかんさんいんぴんたい やめあんろ めんこんふほうて しいかんさん

 もえもんとわえ ぴいほう ぴいほう

【らくだ 古今亭志ん生】

じぐちあわせ【地口合わせ】演目

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「おやじくすぐり」などとさげすまされちまっては地口が泣きますね。

【あらすじ】

隠居が俳諧に凝っているというので、遊びに行った八五郎が、ぜひあなたの同類にしておくんなさいと頼み、珍妙な句会が始まった。

隠居が雪の題で
「初雪や せめて雀の 三里まで」
という通句があると言うと、八五郎が
「雀が三里 灸をすえたんで?」

隠「初雪や 二の字二の字の 下駄の跡」
八「初雪や 一の字一の字 一本歯の下駄の跡」
隠「初雪や 狭き庭にも 風情ある」
八「初雪や 他人の庭では つまらない」

さらに八五郎が
「初雪や 鉄道馬車の馬の足跡 お椀八つかな」
「初雪や 大坊主小坊主 おぶさって一緒に 転んで頭の足跡 お供えかな」
と迷句を連発。

隠居が
「おまえはおしゃべりだから、俳句より地口(語呂合わせ)の方が向いている」
と言うと、八は
「これは得意だからまかしておくんなさい」
と、これまた自信作を次から次へ。

「侍がフンドシを締めて片手に大小、片手に団扇で飛び上がっていると、下に据え風呂桶があって、その中から煙が出ている」
という長ったらしい前置きで
「飛んで湯に入る夏の武士(飛んで火にいる夏の虫)」

爺さんが集会をしているところに雨が降って
「雨降ってジジかたまる」
とまあ、やりたい放題。

「今度は狂歌七度返しはどうだ」
と隠居が言う。

「りんりんりんと咲いたる桃さくら嵐につられ花はちり(散り)りん」
「りんりんりんと振ったるなぎなたを一振り振れば首はちりりん」
「りんりんりんとりんごや桃を売っているさも欲しそうに立ってキョロリン」
「山王の桜に去るが三下がり合の手と手と手手と手と手と」
「トテテトテトテトテテテ」
「ラッパだね。手と手と手手と手と手と」

「トテトテテテトテト」
とやっていると、表から人が
「箔屋さんはこちらですか?」

底本:二代目柳家小さん

★auひかり★

【うんちく】

名人の「遺言」

明治31年(1898)8月の『文藝倶楽部』に、二代目柳家小さんが、禽語楼の隠居名で「ぢぐち」と題して速記を載せたものです。ところが、当人はその一月前の同年7月3日、満49歳で没しているため、これは事実上の置き土産、遺言とでもいえるものとなってしまいました。実際、小さんが病床で、速記者を呼んで口述筆記させたものと速記の断り書きにあります。

まあ、遺言がダジャレの羅列というのも、いかにも噺家らしいといえるでしょう。

改変自在の地口噺

原話は不明で、地口(ダジャレ)を並べ立てただけのものに、オチの部分は「雑俳」の「りん廻し」の部分を付けています。

地口そのものがわかりにくくなったため、現在ではこの題で口演されることはほとんどありません。

後半部分は「雑俳」の一部となっています。

地口の部分は演者によって大幅に変わります。

例えば、こわい大家を壷で焼いて「差配(さはい=さざえ)の壷焼き」、樽の中に子供が遊んでいて「樽餓鬼(=柿)」など。

今、シャアシャアとやれば、トマトをぶつけられるような古めかしい噺ですが、そこが「古きよき時代」だったのでしょう。

箔屋

はくや。箔屋は、金、銀、銅、真鍮などをたたいて、薄く平たく延ばす商売。オチは、「トテトテトテ」というのを、箔屋の槌の音と間違えたというだけ。これをラッパに直し、「雑俳」のマクラに使うこともあります。

【語の読みと注】
真鍮 しんちゅう

★auひかり★

ごもくこうしゃく【五目講釈】演目

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「若だんな勘当もの」の一つです。

あらすじ

お決まりで、道楽の末に勘当となった若だんな。

今は、親父に昔世話になった義理で、さる長屋の大家が預かって居候の身。

ところがずうずうしく寝て食ってばかりいるので、かみさんが文句たらたら。

板挟みになった大家、
「ひとつなにか商売でもおやんなすったらどうか」
と水を向けると、若だんな、
「講釈師になりたい」
と、のたまう。

「それでは、あたしに知り合いの先生がいますから、弟子入りなすったら」
大家がと言うと
「私は名人だから弟子入りなんかすることはない、すぐ独演会を開くから長屋中呼び集めろ」
と、大変な鼻息。

若だんな、五十銭出して、
「これで菓子でも買ってくれ」
と気前がいいので、
「まあそんなら」
とその夜、いよいよ腕前を披露することにあいなった。

若だんな、一人前に張り扇を持ってピタリと座り、赤穂義士の討ち入りを一席語り出す。

「ころは元禄十五年極月中の四日軒場に深く降りしきる雪の明かりは見方のたいまつ」
と出だしはよかったが、そのうち雲行きが怪しくなってくる。

大石内蔵助が吉良邸門外に立つと
「われは諸国修行の勧進なり。関門開いてお通しあれと弁慶が」
といつの間にか、安宅の関に。

「それを見ていた山伏にあらずして天一坊よな、と、首かき斬らんとお顔をよく見奉れば、年はいざようわが子の年輩」
と熊谷陣屋。

そこへ政岡が出てくるわ、白井権八が出るわ、果ては切られ与三郎まで登場して、もう支離滅裂のシッチャカメッチャ。

「なんだいあれは。講釈師かい」
「横町の薬屋のせがれだ」
「道理で、講釈がみんな調合してある」

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しりたい

またも懲りない若だんな  【RIZAP COOK】

原話は、安永5年(1776)刊『蝶夫婦』中の「時代違いの長物語」です。

これは、後半のデタラメ講釈のくだりの原型で、歌舞伎の登場人物を、それこそ時代もの、世話ものの区別なく、支離滅裂に並べ立てた噴飯モノ。いずれにしても、客が芝居を熟知していなければなにがなにやら、さっぱりわからないでしょう。

前半の発端は「湯屋番」「素人車」「船徳」などと共通の、典型的な「若だんな勘当もの」のパターンです。

江戸人好みパロディー落語  【RIZAP COOK】

明治31年(1898)の四代目春風亭柳枝(1868-1927)の速記が残ります。柳枝は「子別れ」「お祭り佐七」「宮戸川」などを得意とした、当時の本格派でした。 

寄席の草創期から高座に掛けられていた、古い噺ですが、柳枝がマクラで、「お耳あたらしい、イヤ……お目あたらしいところをいろいろとさし代えまして」と断っているので、明治も中期になったこの当時にはすでにあまり口演されなくなっていたのでしょう。

講談や歌舞伎が庶民生活に浸透していればこそ、こうしたパロディー落語も成り立つわけで、講釈(講談)の衰退とともに、現在ではほとんど演じられなくなった噺です。CD音源は五代目三遊亭円楽のものが出ています。

興津要(早大教授、1999年没)はこの噺について「連想によってナンセンス的世界を展開できる楽しさや、ことば遊び的要素があるところから江戸時代の庶民の趣味に合致したもの」と述べています。

五目  【RIZAP COOK】

もともとは、上方語で「ゴミ」。転じて、いろいろなものがごちゃごちゃと並んでいること。現在は「五目寿司」など料理にその名が残っています。遊芸で「五目の師匠」といえば、専門はなにと決まらず、片っ端から教える人間で、江戸でも大坂でも町内に必ず一人はいたものです。

【語の読みと注】
蝶夫婦 ちょうつがい

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おつりのまおとこ【お釣りの間男】演目

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間男をネタにしたバレ噺。主人公はあの与太郎。どうなりますやら。

別題:七両二分 二分つり

【あらすじ】

町内の与太郎。

女房が昼間中から間男を引き込んで、堂々と家でいちゃついているのにも、いっこうに気づかない。

知らぬは亭主ばかりなりで、髪結床ではもう、おあつらえ向きの笑い話となっている。

悪友連中、火のあるところにさらに煙をたきつけてやろうと、通りかかった与太郎に
「てめえがおめでてえから、留守に女房が粋な野郎を引きずり込んで間男をやらかしてるんだ。友達の面汚しだから、帰って暴れ込んでこい」
とたきつける。

悪い奴もあるもので
「今ごろ酒でものんでチンチンカモカモやっている時分だから、出し抜けに飛び込んで『間男見つけた、重ねておいて四つにするとも八つにするともオレの勝手だ。そこ一寸も動くな』と芝居がかりで脅かしてやれ」
と、ごていねいにも出刃まで用意してけしかけたから、人間のボーッとした与太郎、団十郎のマネができると大喜び。

その上、間男の相場は七両二分だから、脅せば金が取れると吹き込まれ、喜び勇んで出かけていく。

乗り込んでみると、案の定、女房と間男がさしつさされつ堂々とお楽しみ中。

「間男見つけた。重ねておいて」
「なにを言ってるんだねえ。どこでそんなことを仕込まれてきたんだい」
「文ちゃん、源さん、八つァんに、七公に、髪結床で教わった」
「あきれたもんだねえ」
「さあ、八つになるのがイヤなら、七両二分出せ」
「今あげるからお待ち」

金でまぬけ亭主を追い出せるなら安いものと、こちらも願ったりかなったり。

八円で手を打った。

「一枚二枚三枚……八枚。毎度あり」
「さあ、この女ァ、オレが連れていくぜ」
「ちょっと待っておくれ」
「まだ文句があるのか」
「八円だから、五十銭のお釣りです」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

原話「七両二分」

原話は寛政6年(1794)刊『喜美談話』中の「七両二分」。「竹里作」とある、この小咄は……。

どうも女房がフリンしているらしいので亭主、遠出すると見せかけてかみさんを油断させた上、隣家に頼んで、朝早くから張り込ませてもらい、壁越しにようすをうかがっていると、果たして間男が忍んできたようす。さあ重ねておいて四つ切りだと、勇んで踏み込んでみると、なんと、枕屏風の外に小判で八両。亭主、これを見るとすごすごと引き返し、隣のかみさんに、「ちょっと二分貸してくれ」。

八両から間男の示談金の「七両二分」を引いて、二分の釣りというわけですが、思えばこの「竹里」なるペンネーム、どう考えても「乳繰り」をもじったもので、怪しげなこと、この上なしです。

初代円遊のバレ噺

この噺、別題「二分つり」「七両二分」ともいい、上方でも江戸でも、しょせん、ある種の会やお座敷でしか演じられなかった代物です。

むしろ江戸時代よりさらに弾圧がきびしくなった明治になって大胆不敵にも、これを堂々と何度も寄席でやってのけた上、速記 明治26年)にまで残したのが、鼻の円遊こと、初代三遊亭円遊でした。

よくもまあ、検閲をすり抜けたものだと感心しますが、さすがにお上の目は節穴でなく、それ以後の口演記録はありません。

現在でも、さすがにこういう噺を寄席で一席うかがう猛者はいませんが、この噺を短くしたものや、類話の間男噺で、与太郎が間男の噂を当の亭主にばらしてしまい、「誰にも言うなよ」というオチがつく小噺がよく「紙入れ」などのマクラにも用いられます。

間男代金・七両二分の由来については、「紙入れ」をご覧ください。

間男の川柳、名セリフ

間男の類語は「不義」「密通」「姦通」、今でいう「不倫」。武家社会の「不義」は、間男のみならず、恋愛一般の同義語でした。つまり、当事者が奥方でも娘でもお妾でも女中さんでも、色恋ざたは、見つかり次第なます斬りがご定法だったわけで。間男の川柳は数々あります。

主に、噺のマクラに用いられるものです。

町内で 知らぬは亭主 ばかりなり

間男と 亭主抜き身と 抜き身なり

据えられて 七両二分の 膳を食い

天明期に「賠償金」の額が下落すると、こんなのがつくられました。

生けてお く奴ではないと 五両とり

女房は ゆるく縛って 五両とり

女房の 損料亭主 五両とり

亭主が現場を押さえた時の口上は、この噺にもある通り、出刃包丁を突きつけ「間男めっけた。重ねておいて四つにするとも八つにするともオレが勝手だ。そこ一寸も動くな」が通り相場。

「団十郎のマネができる」と、与太郎が喜ぶことでもわかるように、このセリフは芝居からきています。歌舞伎でも生世話物がすたれつつある今日、このセリフを歌舞伎座で聞くことも、あまりなくなりました。

【語の読みと注】
竹里 ちくり
乳繰り ちちくり

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うめわかれいざぶろう【梅若礼三郎】演目

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珍しいはなし。お能の世界を描いています。

【あらすじ】

梅若礼三郎という能役者。

ある時、老女の役がついたが、どうしても歩き方の工夫が付かない。

神田明神に願掛けをして十二日目、ふと見かけた老婆の足取りからコツがつかめたので、喜んで礼を言うと
「手本を当てにしているようでは、いい役者になれない」
とさとされ、
「ああ、しょせん、オレは素質がない」
と悟る。

それならいっそ太く短くと、心を入替えて大泥棒として再出発。

金持ちから奪い、貧乏人に恵むという義賊として名を上げた。

神田鍋町の背負い小間物屋の利兵衛。

三年以前から腰が抜けて商売にも出られず、女房のおかのは、内職をしながら看病を続けていた。

女の細腕で暮らしは支えきれず、亭主には願掛けと偽って、心ならずも鎌倉河岸で物乞いを。

北風の吹く寒い晩。

もらいが少なく、これでは亭主に粥をすすらせることもできないと、途方に暮れていると、黒羅紗の頭巾、黒羽二重の対服に、四分一ごしらえの大小という立派な身なりの侍が現れ、ずっしりと重い金包みを手渡すと、そのまま行ってしまった。

数えてみると、小粒で九両二分。

貧乏人には夢のような大金。

おかのは観音さまの思し召しと大喜びしたが、みだらなことをして得た金と疑われてはならないと、亭主には言わず、一両だけ小出しにし、残りは亭主の病気が治って商売を始める時の元手にと、大切に仏壇の引き出しに隠す。

それをのぞき見していたのが、隣長屋に住む遊び人の魚屋栄吉という男。

「こいつはしまっておくのはもったいねえ、オレが使わせてもらう」
と、夜中に忍び込み、八両二分の金をまんまと盗み出して、そのまま吉原は羅生門河岸の池田屋というなじみの女郎屋で大散財。

ところが、ふだんに似合わず太吉の金遣いがあらいので、不審に思った見世の若い衆の喜助が主人に報告。

調べてみると、一分金に山型に三の刻印。

これは、芝伊皿子台町の金持ち三右衛門方から盗まれた六百七十両の一部で、お上から布礼が回っていた金と知れた。

翌朝。

いい気分で見世を出たとたん、たちまち太吉はお召し捕り。

すぐに利兵衛方から盗んだと白状に及んだので、利兵衛の家に獲り方が踏み込む。

しかし、病人なのですぐにはしょっぴかず、たまたま湯に行って留守だったおかのを急いで呼びにやり、大家立ち会いの上でおかのから事情聴取すると、侍から恵まれたとは言うものの、恩を受けた義理から、頑として人相風体を隠し通したので、おかのはお召し捕り。

長屋の衆は、おかのの苦労を知っているだけに、早くお解き放ちになるよう水垢離 ごり)を取って祈るが、おかげで体が冷えきって、一杯やって温まろうと居酒屋に入って、お上は血も涙もねえと憤っている話を、たまたま衝立一つ隔てて聞いていたのが、三右衛門方に押し入り、おかのに金を恵んだ張本人の礼三郎。

善意でしたことが、かえって迷惑を及ぼしたことを悔やみ、これより南町奉行・島田出雲守に名乗り出て、貞女おかのの疑いを晴らす。

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

円生十八番はタンカが売り物

「しじみ売り」と同じく、盗賊ものの人情噺で、講釈ダネと思われますが、原話は不明です。

梅若礼三は、実在の記録はないので、あくまで架空の人物ですが、梅若が自首した町奉行島田出雲守守政は実在しました。

ただし、記録では北町奉行で、寛文7年(1667)-延宝9年(=天和元、1681)までの在任。その時代の話という設定なのでしょう。

「磯の白波」と題した、明治23年(1890)4月の七代目土橋亭里う馬(1848-1920)の速記が残り、同時代の四代目橘家円喬、三代目三遊亭円馬も演じました。

里う馬、円喬の速記を基に、戦後、六代目三遊亭円生が磨き上げたもので、昭和32年(1957)初演。

上中下三部に分かれ、発端から、魚屋太吉逮捕までが上、おかの逮捕までが中。以下、幕切れで礼三が自首するため、切れ目はいずれもお召し捕りの場面となっています。円生の工夫でしょう。

円生は芸談で、取り調べの八丁堀の切れのいい「べらんめえ」を、安藤鶴夫(評論家、作家)にほめられたと自慢しています。

ライバルだった八代目林家正蔵(彦六)も演じましたが、円生在世中はほとんど同人の専売で、没後は門下の三遊亭円窓が継承しています。

博徒が魚屋とは

「猫定」にも登場しますが、遊び人はバクチ打ちで、初めから博徒と知れればどこの大家も店を貸してくれないので、表向きは魚屋と名乗っているわけです。

梅若

梅若家は能楽・観世流の流れをくむ名家です。本家は梅若六郎を代々名乗り、昭和54年(1979)に没した五十五代目は芸術院会員でした。その祖父、梅若万三郎(1868-1946)が大正9年(1920)に独立して「梅若流」を起こしましたが、それまではずっと観世流の一支流でした。

昭和32年(1957)、梅若宗家の若だんなが大映の映画俳優「梅若正二」を名乗り、「赤胴鈴之助」シリーズで人気を博したことがあります。

刻印

こっくい。大判・小判、一分金などには偽造防止と、出所がわかるように、各家の紋所の焼印が押されていました。これが刻印で、江戸ことばで「こっくい」と発音されます。盗賊は刻印のため足がつくので、強奪した金をすぐには使えず、何年も隠して「寝かせて」おかなければなりませんでした。

鍋町、鎌倉河岸、伊皿子台町

利兵衛・おかのが住む鍋町は千代田区神田鍛冶町一、二丁目。鋳物師が多く住んでいました。

おかのが袖乞いをしていた鎌倉河岸は、千代田区内神田二丁目、旧鎌倉町の外堀沿いの河岸で、幕府草創期に、江戸城改装のための石材を、鎌倉から船で運び、ここから荷揚げしたことからついた地名です。

梅若が六百七十両盗んだ芝伊皿子台町は、港区高輪一、二丁目です。

四分一ごしらえ

刀の装飾の金具に、朧銀、つまり銀一・銅三の合金が使われているものです。

実在した、梅若礼三郎

といっても、こちらは昭和の時代劇俳優。昭和初期には阪妻プロの主役級で、昭和2年(1927)から32年(1957)ごろまで、50本以上の映画に出演しました。前身が梅若流の能役者の出なのか、この噺から芸名を付けたのかはわかりません。「梅若礼三郎」が「梅若礼三郎」を演じていればおもしろかったのですが、残念ながらそうした映画の記録はありません。

【語の読みと注】
黒羅紗 くろらしゃ
黒羽二重 くろはぶたえ
刻印 こっくい
水垢離 みずごり

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うめみのやかん【梅見の薬缶】演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

「勘違い」がテーマのはなしですね。

別題:癪の合薬 薬缶なめ 茶瓶ねずり(上方)

【あらすじ】

町内の源さんと八つぁん。

髪結床でバカ話をしているうちに、ちょうど向島の花屋敷の臥龍梅が見ごろなので、梅見としゃれこもうと話がまとまり、さっそく舟に乗り込む。

ちょうど相客に、十八くらいのきれいなお嬢さん。

どこか大店の娘らしく、侍女を連れている。

源さん、たちまちでれでれで、よせばいいのにずうずうしく話しかける。

この男、お世辞にもモテるタイプでなく、おまけに四十を過ぎて、もう頭がピカピカ。

それでも口八丁、なんだかだとお世辞を並べて気を引こうとするが、女の方がなにやら、ようすがおかしい。

いやにジロジロと、源さんの顔を見つめてばかり。

そのうち、舟が向こう岸に着き、娘の一行は三囲神社の土手を下りていく。二人がいぶかしがりながら言問橋のたもとまで来ると、後ろから先ほどの侍女が追いかけてきて、源さんに、
「お嬢さんが、いま三囲の茶店で待っているので、ぜひおいで願いたい。お願いしたいことがあります」
と頼んだから、さあ源さんは有頂天。

うまくすると、あのお嬢さんに見初められて入婿にでも、とワクワクし、ぶつぶつ文句をいう八つぁんを五円でなだめて、いそいそと二人で茶屋まで出かけていく。

ところが、案の定というか当然というか、侍女が言い出したことには、お嬢さんがこのごろ癪の持病が出て困っているが、癪には銅をなめるのが一番。

だが、このへんにはなく、難渋していたところ、あなたの頭は見たところ薬缶そっくりで、なめれば銅同様の効き目がありそうだから、ぜひにというわけ。

さあ喜んだのが八。

「どうせそんなこったろうと思った、てめえのツラはどう見ても情夫 まぶ)てえツラじゃねえ」
と、調子に乗って
「その男の頭はたいへんうまいと評判ですから、たっぷりおなめなさい」

源さん、悔しがってももう遅い。

不承不承、頭を差し出すと、お嬢さん、遠慮なくベロベロとナメナメ。

そのうち急に発作が起きたと見え、薬缶頭をガブリ。
「あら、お気の毒さま。どこもお傷がついてはおりませんか」
「なーに、傷はつきましたが、漏ってはいません」

底本:初代三遊亭円遊

【RIZAP COOK】

【しりたい】

スキンヘッドは口に苦し?

「金の味」、別題「擬宝珠」では、銅をなめたくなる金属嗜好症がテーマなのですが、この噺は逆に、ある種の病気には銅をなめるのがよい、という俗信に基づくものです。

原話と思われる小咄は三種あります。

最も古いのは万治2年(1659)刊の『百物語』巻下ノ四にある無題のもので、これはある男が意気がって山椒を大量になめ、むせかえって苦し紛れに、山椒でむせたときには銅をなめればよいと、通りがかりの侍の薬缶頭にいきなりかぶりつきます。

無礼者ッと、バッサリ斬られそうになりますが、往来の町衆が栄耀食いでなく、薬食いなのでご勘弁を」と取りなしてくれ、なんとか収まるというお笑い。

宝永7年(1710)刊『軽口都男』中の「薬罐」では、ハゲあたまの大金持ちの屋敷に夜、三人組の盗賊が侵入。おやじが物音で目覚め、賊が外へ盗品を運び出すのを出窓からそっとうかがっていると、月光でアタマが光り輝き、ヤカンと間違えた盗賊は、これもついでに頂こうと、むんずとつかんだので、仰天したおやじが大声でわめきます。

そうなればブッスリやる方が早いのに、賊の方もあわてて、「山椒にむせたので、通りがかりにだんなの頭を見て、やかんと勘違いしてつい、なめようと……」と、わけのわからない言い訳をするもの。

続いて明和9年(1772)刊の『鹿の子餅』中の「盗人」は、これを短くしたもので、盗人が盗品を運び出す穴を土蔵に空け、目覚めた主人が不審に思って、ピカピカ頭を穴から出したのを外にいる一味が勘違い。「あ、ヤカンから先か」というオチです。これは落語「薬缶泥」の直接の原話でもあります。

こうした小咄を、怪談ばなしの始祖でもある初代林屋(家)正蔵(1781-1842)が一席噺にまとめたというのが野村無明庵(戦前の落語研究家)が『落語通談』で述べている説ですが、根拠に乏しく、あまりあてにはなりません。

本家上方の「茶瓶ねずり」

上方落語「茶瓶ねずり」が東京に移されたものが現行の型です。「ねずる」は、しゃぶる、なめるの意。上方のやり方では、女中を連れて野歩きしていた奥方が、へびを見て持病の癪 しゃく)を起こします。

癪は茶瓶(=薬缶)をなめれば治るというので、女中が、通りかかった薬缶頭の武士に決死の覚悟で頼んで、代用に頭をなめさせてもらうというものです。オチは供の下男と侍の会話で、東京と同じです。

あらすじは、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊の速記を参照しましたが、これは今ではちょっと珍しい演出。東京では現在は「薬缶なめ」の演題が普通で、その場合、円遊の前半のお色気をカットした上、癪を起こすのを大家のかみさんとし、あとはほぼ上方通りに演じます。

古いオチの型と演者

オチは、古くは、侍の下男が「あなたが謡をうたって歩くから、狐が化かしたんでしょう」と言うと侍が、「狐か。道理で野干 野狐の古称。やかんと掛けた)を好んだ」とオチていましたが、分かりにくいので円遊が変えたものでしょう。

東京では長く絶えていたのを柳家小三治が復活。ただ、それ以前に、戦後東京に定住し、上方落語を広く東京に紹介した桂小文治が「癪の合薬」の名で演じました。

臥龍梅

江東区亀戸三丁目にあった伊勢屋喜右衛門の別荘「清香庵」は、「梅屋敷」の異称で知らぬ者はなかったほどの梅の名所でした。

中でも、竜がとぐろを巻くように枝がうねっているところから「臥龍梅」と名づけられた白梅は、江戸一番と賞され、シーズンには見物人が絶えなかったとか。

この梅は、吉原の名妓、初代高尾太夫から喜右衛門の先祖が譲り受けたもので、その命名者は徳川光圀でした。水戸黄門で知られた人す。

夏目漱石の有名な「修善寺大患」とともに必ず語られる明治43年(1910)の大水害で惜しくも枯れましたが、幕末に編まれた年代記『武江年表』の寛政4年(1792)の項に、「七月二十一日、亀戸梅屋敷の梅旧根消失するよし、『江戸砂子書入』といふ草書にあり」とあるので、それ以前に少なくとも一度は枯れ、接ぎ木したようです。

【語の読みと注】
臥龍梅 がりょうばい
大店 おおだな
三囲神社 みめぐりじんじゃ
言問橋 ことといばし
癪 しゃく:胃けいれん
擬宝珠 ぎぼし
栄耀食い えようぐい:美食
薬食い くすりぐい:治療食

【RIZAP COOK】

うじこじゅう【氏子中】演目

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短いバレ噺です。むふふ、ですね。類話に「町内の若い衆」があります。

【あらすじ】

与太郎が越後に商用に出かけ、帰ってきてみると、かみさんのお美津の腹がポンポコリンのポテレン。

いかに頭に春霞たなびいている与太郎もこれには怒って
「やい、いくらオレのが長いからといって、越後から江戸まで届きゃあしねえ。男の名を言え」
と問い詰めても、お美津はシャアシャアと、
「これは、あたしを思うおまえさんの一念が通じて身ごもったんだ」
とか、果ては
「神田明神へ日参して『どうぞ子が授かりますように』とお願いして授かったんだから、いうなれば氏神さまの子だ」
とか、言い抜けをしてなかなか口を割らない。

そこで、親分に相談すると
「てめえの留守中に町内の若い奴らが入れ代わり立ち代りお美津さんのところに出入りするようすなんで、注意はしていたが、四六時中番はできねえ。実は代わりの嫁さんはオレが用意していて、二十三、四で年増だが、実にいい女だ。子供が生まれた時、荒神さまのお神酒で胞衣を洗うと、必ずその胞衣に相手の情夫の紋が浮き出る。祝いの席で客の羽織の紋と照らし合わせりゃ、たちまち親父が知れるから、その場でお美津と赤ん坊をそいつに熨斗を付けてくれてやって、おまえは新しいかみさんとしっぽり。この野郎、運が向いてきやがった」

さて、月満ちて出産、お七夜になって、いよいよ親分の言葉通り、間男の容疑者一同の前で胞衣を洗うことになった。

お美津は平気の平左。

シャクにさわった与太郎が胞衣を見ると、浮き出た文字が「神田明神」。
「そーれ、ごらんな」
「待て、まだ後に字がある」
というので、もう一度見ると
「氏子中」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

原話のコピーがざっくざく

現存最古の原話は正徳2年(1712)、江戸で刊行された笑話集『新話笑眉』中の「水中のためし」。

これは、不義の妊娠・出産をしたのが下女、胞衣を洗うのがたらいの水というディテールの違いだけで、ほぼ現行の型ができています。結果は字ではなく、紋がウジャウジャ現れ、「是はしたり(なんだ、こりゃァ!)、紋づくしじゃ」とオチています。

その後、半世紀たった宝暦12年(1762)刊の『軽口東方朔』巻二「一人娘懐妊」では、浮かぶのが「若者中」という文字になって、より現行に近くなりました。

「若者中」というのは神社の氏子の若者組、つまり青年部のこと。

以後、安永3年(1774)刊『豆談語』中の「氏子」、文政4年(1821)起筆の松浦静山の随筆集『甲子夜話』、天保年間刊『大寄噺尻馬二編』中の「どうらく娘」と続々コピーが現れ、バリエーションとしては文政2年(1819)刊『落噺恵方棚』中の「生れ子」もあります。これは、連名で寄付を募る奉加帳にひっかけ、産まれた赤子が「ホーガ、ホーガ」と産声をあげるという「考えオチ」。いずれにしても、これだけコピーがやたら流布するということは、古今東西、みなさんよろしくやってるという証。類話ははるか昔から、それも世界中に散らばっていることでしょう。

もめる筈 胞衣は狩場の 絵図のやう
                   (俳風柳多留四編、明和6=1769年刊)

荒神さまのお神酒

荒神様は竈の守り神で、転じて家の守護神。そのお神酒を掛ければ、というのは、家の平安を乱す女房の不倫を裁断するという意味ともとれます。別に、女房が荒神様を粗末にすれば下の病にかかるという俗説も。胞衣の定紋の俗信は古くからあります。

神田明神

千代田区外神田二丁目。江戸の総鎮守ですが、祭神はオオナムチノミコトと平将門です。オオナムチノミコトは五穀豊穣を司る神なので、当然元を正せば荒神様とご親類。明神は慶長8年(1603)、神田橋御門内の芝崎村から駿河台に移転、さらに元和2年(1616)、家康が没したその年に、現在の地に移されました。

噺が噺だけに

明治26年(1893)の初代三遊亭遊三の速記の後、さすがに速記はあっても演者の名がほとんど現れません。類話の「町内の若い衆」の方が現在もよく演じられるのに対し、胞衣の俗信がわかりにくくなったためか、ほとんど口演されていませんが、五代目古今亭志ん生、十代目金原亭馬生は「氏子中」の題で「町内の若い衆」を演じていました。

【語の読みと注】
荒神さま こうじんさま
お神酒 おみき
胞衣 えな:胎児を包む膜
情夫 いろ
熨斗 のし
竈 へっつい:かまど

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いもりのまちがい【いもりの間違い】演目

【RIZAP COOK】

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ほれ薬が話題。ホントに、こんなのがあればねえ。

別題:薬違い

【あらすじ】

呉服商伊勢屋の娘に恋患いした、源治。

伊勢屋は長屋の家主でもある。

ところが、当人は一度もその娘を見たことがない。

夢の中でさらしのふんどしを一本買いに行ったところ、娘が出てきて、
「あの方は家の長屋にいる人だから、おアシを取っちゃいけないよ」
と言いながらこっちを横目で見た時、思わずブルブルっと震えがきた。

(引き続き夢で)それから湯に行って、出て来ると外に娘が立っている。

「おまえさんの家が、どこだかわからなかった」
「さあ、お家に行きましょう」
と言って、一緒に帰ってくると、さっそく娘が
「おかみさんは? お独り身でございますか」
と聞くなり、上がり込み、それから二人で差し向かい、茶を飲んで焼き芋をつまんだところで目が覚めたという、「見ぬ恋に焦れる」といういじらしさ。

見舞いに来た友達が、
「そういうのに一番効き目があるのが、いもりの黒焼きだ」
という。

つまり、惚れた相手の身につけるものに振りまけば、たちまち恋がかなうという惚れ薬。

これを、少しおめでたい六兵衛に買ってこさせ、機会をうかがうと、伊勢屋の物干しに娘の襦袢が干してあったので、これ幸いと屋根伝いに潜入し、襦袢にいもりの粉をたっぷりと振りかけて帰った。

二、三日待ったが、娘からなんの音沙汰もない。

焦れていると、やっと待望の手紙が来た。

無筆なので、友達に代わって読んでもらう。

父親は墓参で留守、母親は耳が遠いから、私から源治さんに直接お話ししたいからちょっと来てほしい、とのこと。

「なんだかわからねえが、定めて薬が効いてきたのだろう」
と、喜んで行ってみると、予想に反して娘は意外に年増。

「まあ、年増も悪くない」
と源治がほくそ笑むと、娘が切り出したのは、なんと家賃の催促。

「あなたは八か月もためているので、あと三日以内に払えなければ店を空けて出て行ってほしい」
という、恐ろしく冷酷な宣言。

それだけ。

がっかりして帰った源治、また病がぶり返し、六兵衛を呼びつけて、
「おめえ、たしかにいもりを買ったのか」
と念を押すと
「あ、しまった。ヤモリ(家守=家主)の黒焼きだった」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

昔も今も同じ、男の願望

原話は安永10年(1781=天明元)刊の笑話本『民和新繁』中の「ほれ薬」です。昔も今も男の考えることは、いっこうに変わらないようです。

上方には別話の「いもりの黒焼き」があり、惚れた女にいもりの粉をかけようとした男が、間違って米俵にかけてしまい、俵が追いかけてくるため「苦しい、苦しい」と言いながら逃げるドタバタ劇。友達が「なにが苦しいねん?」と聞くと「飯米に追われ(生活が苦しい意)てます」というオチになります。

こちらは、桂米朝が復活して演じましたが、民話の「惚れ薬」をそのままいただいたもので、こうした話は全国各地に伝わっているようなのです。本編「いもりの間違い」の方も、おそらく類似の民話が原型なのでしょう。

三代目小さんの速記

三代目柳家小さんの明治29年(1896)の速記では「いもりの間違ひ」と題しています。本サイトでもそれにならっています。

薬違い

「薬違い」の題で演じられる時はオチが少し違っていて、「あっ、しまった。薬違いだ」としていました。「道理で家賃の催促をされた」となる場合もあります。戦後は七代目雷門助六の速記が残っていますが、現在では演じ手はいません。

いもりの黒焼き

原料は伊吹山産のいもりのつがい。交尾中のものを黒焼きにすると媚薬になると伝えられてきましたが、効果の方はかなり怪しいもの。

黒焼きは「霜」とも呼び、漢方薬に「伯州散」という、黒焼きを用いたものがあるほか、猿の脳味噌、蛇、オケラ、孫太郎虫などのゲテモノを黒焼きにして薬用にしました。また、動物だけでなく、草の根を用いたものもあります。

大坂高津宮南側(大阪市南区瓦屋町)の黒焼き屋は、天正年間が創始という老舗で有名でしたが、昭和54年(1979)に廃業。井原西鶴(1642-93)作の「好色五人女」(貞享3=1686年刊)に登場するほか、各種の洒落本などにも見えます。

江戸でも元禄年間(1688-1703)からはやり始め、下谷黒門町(台東区上野1-3丁目)や山下御成街道に「元祖黒焼き」の看板を揚げた店が軒を並べました。

東京にも戦前まで残っていて、桂米朝は「東京・上野の鈴本(演芸場)の近くに、二軒の黒焼き屋が並んでいて、片方が『本家いもりの黒焼き』と看板を上げていて、おかしかったのを、覚えています」と著書の『米朝ばなし 上方落語地図』の中で語っています。

【語の読みと注】
襦袢 じゅばん
店 たな
霜 そう
洒落本 しゃれぼん:遊郭を舞台にした艶本

【RIZAP COOK】

いいわけざとう【言い訳座頭】演目

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甚兵衛夫婦は年を越せるか! それは座頭の舌先三寸しだいで。

【あらすじ】

借金がたまってにっちもさっちも行かず、このままでは年を越せない長屋の甚兵衛夫婦。

大晦日、かみさんが、口のうまい座頭の富の市に頼んで、借金取りを撃退してもらうほかはないと言うので、甚兵衛はなけなしの一円を持ってさっそく頼みに行く。

富の市、初めは金でも借りに来たのかと勘違いして渋い顔をしたが、これこれこうとわけを聞くと
「米屋でも酒屋でも、決まった店から買っているのなら義理のいい借金だ。それじゃああたしが行って断ってあげよう」
と、快く引き受けてくれる。

「商人は忙しいから、あたしがおまえさんの家で待っていて断るのはむだ足をさせて気の毒だから」
と、直接敵の城に乗り込もうという寸法。

富の市は
「万事あたしが言うから、おまえさんは一言も口をきかないように」
とくれぐれも注意して、二人はまず米屋の大和屋に出かけていく。

大和屋の主人は、有名なしみったれ。

富の市が頼み込むと、
「今日の夕方にはなんとかするという言質をとってある以上待てない」
と突っぱねる。

富の市は居直って
「たとえそうでも、貧乏人で、逆さにしても払えないところから取ろうというのは理不尽だ。こうなったら、ウンというまで帰らねえ」
と店先に座り込み。

他の客の手前、大和屋も困って、結局、来春まで待つことを承知させられた。

次は、薪屋の和泉屋。

ここの家は、富の市が始終揉み療治に行くので懇意だから、かえってやりにくい。

しかも親父は名うての頑固一徹。

ここでは強行突破で
「どうしても待てないというなら、頼まれた甚さんに申し訳が立たないから、あたしをここで殺せ、さあ殺しゃあがれ」
と往来に向かってどなる。

挙げ句の果ては、「人殺しだ」とわめくので、周りはたちまちの人だかり。

薪屋、外聞が悪いのでついに降参。

今度は、魚金。

これはけんかっ早いから、薪屋のような手は使えない。

「さあ殺せ」
と言えば、すぐ殺されてしまう。

こういう奴は下手に出るに限るというので、
「実は甚兵衛さんが貧乏で飢え死にしかかっているが、たった一つの冥土のさわりは、魚金の親方への借金で、これを返さなければ死んでも死にきれない」
と、うわ言のように言っている、と泣き落としで持ちかけ、これも成功。

ところが、その当の甚兵衛が目の前にいるので、魚金は
「患ってるにしちゃあ、ばかに顔色がいい」
と、きつい皮肉。

さすがの富の市もあわてて、
「熱っぽいから、ほてっている」
とシドロモドロでやっとゴマかした。

そうこうするうちに、除夜の鐘。ぼーん。

富の市は急に、
「すまないが、あたしはこれで帰るから」
と言い出す。

「富さん、まだ三軒ばかりあるよ」
「そうしちゃあいられねえんだ。これから家へ帰って自分の言い訳をしなくちゃならねえ」

底本:五代目柳家小さん

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【しりたい】

明治の新作落語

三代目柳家小さんが明治末に創作した噺です。三代目小さんは漱石も絶賛した名人です。小さんは、四代目橘家円喬から「催促座頭」という噺(内容不明)があるのを聞き、それと反対の噺をと思いついたとか。してみると、「催促座頭」は、文字通り借金の催促に座頭が雇われる筋だったということでしょう。

初演は、明治44年(1911)2月、日本橋常盤木倶楽部での第一次第70回落語研究会の高座でした。

師走の掛け取り狂騒曲

借金の決算期を「節季」ともいい、盆と暮れの二回ですが、特に歳末は、商家にとっては掛け売りの貸金が回収できるか、また、貧乏人にとっては時間切れ逃げ切りで踏み倒せるかが、ともに死活問題でした。

そこで、この噺や「掛け取り万歳」に見られるような壮絶な「攻防戦」が展開されたわけです。

むろん、ふだん掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内のなじみの生活必需品(酒屋、米屋、炭屋、魚屋など)に限られます。落語では結局、うまく逃げ切ってしまうことが多いのですが、現実はやはりキビしかったのでしょう。

大晦日の噺

井原西鶴の「世間胸算用」が、江戸時代初期の上方(京・大坂)の節季の悲喜劇を描いて有名ですが、落語で大晦日を扱ったものは、ほかにも「三百餅」「尻餅」「にらみ返し」「加賀の千代」「引越しの夢」「芝浜」など多数あります。

こうした噺のマクラには、大晦日の川柳を振るのがお決まりです。

大晦日 首でも取って くる気なり
大晦日 首でよければ やる気なり

五代目小さんが使っていたものも秀逸です。

大晦日 もうこれまでと 首くくり
大晦日 とうとう猫は 蹴飛ばされ

三代目小さんの作品だけあって、小さんの系統がやります。九代目入船亭扇橋、その後は柳家小里ん、柳家権太楼あたり。

炭屋

「子別れ」では、家を飛び出したかみさんが子供を連れ、炭屋の二階に間借りしている設定でしたが、裏長屋住まいの連中は、高級品は買えないため、ふだんは「中粉」という、炭を切るときに出るカス同然の粉を量り売りで買ったり、粉に粘土を加えて練る炭団を利用しました。当然どちらも火の着きはかなり悪かったわけです。

【語の読みと注】
節季 せっき
炭団 たどん

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わらにんぎょう【藁人形】演目

スヴェンソンの増毛ネット

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

陰々滅々な。怪談噺でもなく人情噺でもなさそうな。落とし噺ですか。

別題:丑の刻参り

【あらすじ】

神田竜閑町 の糠屋の娘おくまは、ぐれて男と駆け落ちをし、上方に流れていった。

久しぶりに江戸に舞い戻ってみると、すでに両親は死に、店も人手に渡っていた。

どうにもならないので千住小塚っ原の若松屋という女郎屋に身を売り、今は苦界の身である。

同じく千住の裏長屋に住む、西念という願人坊主。

元は「か」組の鳶の者だったが、けんかざたで人を殺し、出家して、家々の前で鉦を叩いてなにがしかの布施をもらう、物乞い同然の身に落ちぶれている。歳は、もう六十に手が届こうかという老人。

その西念が若松屋に出入りするようになり、おくまの親父に顔がそっくりだということもあって、二人は親しい仲になった。

ある梅雨の一日。

いつものように西念がおくまの部屋を訪れると、おくまは上機嫌で、
「近々上方のだんなに身請けされ、駒形に絵草紙屋を持たせてもらうから、そうなったら西念さん、おまえを引き取り、父親同然に世話をするよ」
と言ってくれる。

数日後にまた行ってみると、この前とうって変わって、やけ酒。

絵草紙屋を買う金が二十両足りないと、いう。

西念、思案をして、
「実は昔出家する時、二十両の金を鳶頭にもらったが、使わずにずっと台所の土間に埋めてあるから、それを用立てよう」
と申し出る。

西念が金を取ってきて渡すと、おくまは大喜び。

「きっとすぐに迎えに行くから」
と約束した。

それから七日ほど夏風邪で寝ていた西念。

久しぶりに若松屋に行っておくまに会い、あのことはどうなったと尋ねると、意外にも女はせせら笑って
「ふん、おまえが金を持っているという噂だから、だまして取ってやったのさ。何べんも泊めてやったんだ。揚げ代代わりと思いな」

西念はだまされたと知って、憤怒の形相すさまじく
「覚えていろ」
と叫んでみてもどうしようもなく、外につまみ出された。

二十日後。

甥の陣吉が西念を尋ねてくる。

大家に聞くと、もう二十日も戸を締め切って、閉じこもったままだという。

この陣吉、やくざ者で、けんかのために入牢していたが、釈放されたのを機にカタギとなり、伯父を引き取るつもり。

陣吉に会って、そのことを聞いた西念は喜んで、祝いにそばを頼み方々、久しぶりに外の風に当たってくると、杖を突いて出ていったが、行きしなに
「鍋の中を覗いてくれるな」
と、言い残す。

そう言われれば見たくなるのが人情で、留守に陣吉がひょいと仲をのぞくと、呪いの藁人形が油でぐつぐつ煮え立っている。

帰ってきた西念、
「見たか。これで俺の念力もおしまいだ。くやしい」

泣き崩れるので、事情を聞いてみると、これこれしかじか。

「やめねえ伯父さん、藁人形なら釘を打たなきゃ」
「だめだ。おくまは糠屋の娘だ」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

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【しりたい】

オチは諺から

オチの部分の原話は安永2年(1773)刊の笑話本、『坐笑産』中の「神木」で、これはある神社で丑の時参りの呪詛をしている者がご神木にかけた藁人形に灸をすえているのを神主が見つけて、「これこれ、なぜ釘を打たぬのか?」と尋ねると、「もうなにを隠しましょう。私が呪う男は、糠屋さ」というものです。 

どちらにせよ、オチが「のれんに腕押し」と同義の「ぬかに釘」を踏まえていて、ぬらりくらりで釘を打っても効果がないほどしたたかな女、ということと掛けてあるわけです。もう一つ、「糠釘」と呼ぶ、屋根のこけら葺きに用いる小さな釘があるので、縁語としても効いているのでしょう。

願人坊主

その姿は、歌舞伎舞踊「浮かれ坊主」や世話狂言「法界坊」に活写されていますが、ボロボロの衣らしきものをまとっただけの、ほとんど裸同然で町々をさまよい、物乞いをしたり、時には代参や代垢離を請け負ったりします。

もっとも、願人坊主といってもピンからキリまでで、「黄金餅」やこの「藁人形」に登場の西念は、それ相応の小金も溜め込み、第一裏店とはいえちゃんとした長屋に住んでいるのですから、身分は人別帳(=戸籍)にも載っている普通民です。

もともと願人坊主の語源は、上野の寛永寺の支配下で、出家を願って僧籍の欠員があるのを待っている者という説があります。西念は身を持ち崩してもまだ身内も住居もあり、いわゆる「はっち坊主」と呼ばれる乞食坊主にまでは落ちぶれていないということでしょう。落語ではほかに「らくだ」にも登場します。

西念の名の由来

西念は、五代目古今亭志ん生の十八番「黄金餅」にも、アンコロ餅といっしょに金をのみ込んで悶死する守銭奴として登場しますが、西念の名は、四谷・鮫ヶ橋谷町(現・新宿区若葉二丁目)の西念寺(現存)から採ったものと思われます。

ここは旧幕時代には江戸有数のスラム街で、願人坊主が特に多く住みついていました。

西念寺は、家康の懐刀で伊賀忍者の棟梁、初代服部半蔵正成が、晩年の文禄年間(1592-96)に剃髪して西念と号した際、自らの菩提のために開基したもので、寺名はその法号にちなみます。

千住小塚っ原

千住宿は四宿(ほかに新宿、板橋、品川)の一で、奥州・日光街道の親宿 (起点)ですが、大きく千住大橋をはさんで上宿と下宿に分けられました。橋の北側の上宿に本陣がありましたが、南詰めの下宿には小塚原、中村町の二つの遊郭があり、千住の仕置場(=処刑場)が近いことから通称「コツ(=骨)」または「コヅカッパラ」と呼ばれました。

全盛期には旅籠14軒を数えたといいます。上宿にももちろん飯盛女(=女郎)がいましたが、どちらかというと南の「コツ」の方は一般の旅人を始め、船頭・農民などの遊ぶごく安っぽい岡場所でした。

落語には「今戸の狐」に「コツの女郎」が登場するほか、五代目志ん生の「お直し」でも、主人公の吉原の若い衆がこっそり遊びに行く場所として説明されています。

小塚原遊郭は荒川区南千住五丁目から六丁目、回向院から素盞鳴神社に向かう辺りで、細い路地(コツ通り)の両側に遊女屋が並んでいました。ただし、五代目志ん生は、下宿のコツではなく、上宿(本宿)で演じました。

か組

町火消は享保5年(1720)に町奉行、大岡越前の献策で発足したものです。西念の前身が「か組」の鳶の者だったという設定ですが、町火消はいろは四十八組に分けられ、か組は神田佐久間町、旅籠町、湯島天神前辺を分担していました。佐久間町は火事が多く、悪魔町と呼ばれたとか。

彦六から歌丸へ

明治期には、初代三遊亭円右が得意にしていました。円朝門下で円右の「叔父分」に当たる三遊一朝の直伝で、八代目林家正蔵(彦六)、五代目古今亭今輔が戦後十八番とし、円右に傾倒していた五代目古今亭志ん生も好んで演じました。

別題を「丑の刻参り」というように、元来は陰気で怪奇性が強い噺でしたが、今輔の方はどちらかというと、従来通り凄みを利かせて演じ、正蔵は人情噺の要素を多くして、西念の哀れさや甚吉の誠実な生きざまを描写することで後味のよい佳品に仕上げました。

両師の没後、継承者がなくすたれていましたが、桂歌丸が1980年代に復活し、正蔵のやり方を多く取り入れて演じていました。

神田竜閑町

現在の千代田区内神田二丁目、首都高速神田橋ランプの東側です。かつては南側の神田堀入り口に竜閑橋が架かり、付近には白旗稲荷神社があって、にぎわいました。地名の由来は、井上立閑という者がこのあたりを開発したことにちなみます。

【語の読みと注】
神田龍閑町 かんだりゅうかんちょう
糠屋 ぬかや
千住小塚っ原 せんじゅこづかっぱら
若松屋 わかまつや
鳶 とび
坐笑産 ざしょうみやげ
糠釘 ぬかっくぎ
人別帳 にんべつちょう
素盞鳴神社 すさのおじんじゃ
井上立閑 いのうえりゅうかん

【藁人形 桂歌丸】

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やなぎだかくのしん【柳田格之進】演目

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善人ばかりで演じられる、橋田ドラマのようなはなしです。

 別題:碁盤割 柳田の堪忍袋

【あらすじ】

もと藤堂家の家臣・柳田格之進。

ゆえあって浪人し、今は浅草東仲町の、越前屋作左衛門地借りの裏長屋に、妻と娘・花の三人暮らし。

地主の作左衛門とは碁仇で、毎日のように越前屋を訪れては、奥座敷で盤を囲んでいる。

ある日、いつものように二人が対局していると、番頭の久兵衛が百両の掛金を革財布ごと届けにきた。

作左衛門、碁に夢中で生返事ばかり。

久兵衛はしかたなく、財布を主人の膝の上に乗せて部屋を出る。

格之進が帰った後、作左衛門ふと金のことを思い出し、久兵衛に尋ねると、
「確かにだんなさまのおひざに置きました」
と言うばかり。

覚えがないので、座敷の隅々まで探したが、金は出てこない。

番頭、「疑わしいのは柳田さまだけ」
と言い出し、
「いくらふだんは正直でも、魔がさすことはある」
と作左衛門が止めるのも聞かず、格之進の長屋に乗り込む。

疑われた格之進、浪人はしてもいやしくも武士、金子などに手を付けることはないと強く否定するが、久兵衛は、
「どうしても覚えがないというなら、お上に訴え出て白黒をつけるよりないから、そのつもりでいてほしい」
と脅す。

お家に帰参が決まっているので、
「そんなことになれば差し障りが出るから、自分の名は出さないでくれ」
と頼むが、久兵衛は聞き入れない。

しばし考えて
「まことに申し訳ない。貧に迫られた出来心で百両盗んだ」
と、打ち明けた格之進、
「金は返すから明後日まで待ってくれ」
と頼み、代わりに武士の魂の大小を預けた。

二日後に久兵衛が行ってみると、格之進は一分銀まじりで百両を手渡し、
「財布はないので勘弁してくれ」
と言う。

帰ろうとすると、格之進
「勘違いということがある。もしその百両が現れた場合、その方と、主人作左衛門殿の首を申し受けるが、よいか」

久兵衛、
「私も男、どんなご処分でも受けます」
と安請け合い。

大晦日、煤掃きの最中に、作左衛門が欄間の額の後ろを掃除しようとのぞくと、例の金包みが挟まっている。

自分が小用に立ったとき、無意識に膝の包みをそこに挟んだと思い出したときは、もう手遅れ。

久兵衛が
「実は、金が出たらだんなの首がころげる手はず」
と打ち明けると、作左衛門は仰天。

すぐ格之進の家に行き、金を返して、
「あれは町人風情の冗談でございます、と謝ってこい」
と言いつける。

あたふたと久兵衛が、今はお家に帰参した格之進を藤堂家上屋敷に訪ね、平謝りすると、格之進、
「金は世話になった礼だ」
と改めて返し
「あの金は娘花が吉原松葉家に身を売って作ったもの。娘に別れるとき、もし金が出たら、憎い久兵衛と作左衛門の首を私にお見せください、と頼まれた。勘弁しては娘に済まん」

仰天した久兵衛が店に逃げ帰ると、後を追って格之進が乗り込んできた。
「申し訳ございません。この上はご存分に」
「かねてから約定の品、申し受ける」

格之進、側の碁盤を取り、見事にまっ二つ。

「この品がなかったら、間違いは起こらなかったろう。以後は慎みましょう」

世の中になる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍……格之進碁盤割りの一席。

底本:三代目春風亭柳枝

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【しりたい】

講談から脚色か

別題は「柳田の堪忍袋」「碁盤割」。講談から人情噺に脚色されたようですが、はっきりしません。明治25年(1892)、「碁盤割」で「百花園」に掲載された三代目春風亭柳枝の速記が、唯一の古い記録で、このマクラで、柳枝は「このお話は随筆にもあります」と断っているので、なんらかのネタ本があると思われます。未詳です。

志ん生好みの人情噺

明治期にはよく演じられていたようですが、昭和初期から戦後は、五代目古今亭志ん生の独壇場でした。

「井戸の茶碗」と同系統の、一徹な浪人が登場する人情噺ですが、前述の三代目柳枝の速記のほかは古い口演記録がなく、例によって志ん生が、いつどこで仕入れたのか不明です。講釈師時代に聞き覚えたのかもしれません。

人情噺なので本来、オチはあだいだんえんりませんが、志ん生が「親が囲碁の争いをしたから、娘が娼妓(=将棋)になった」という地口のオチをつけたことがあります。ただし、これはめったに使わず、ほとんどは従来どおりオチなしで演じていました。

志ん生没後は十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝がしていましたが、志ん朝のものは音源もあり、ちくま文庫版に収載された速記によれば、ほぼ父親通りの演出です。

大団円の円楽版

三遊亭円楽が好んで演じました。円楽は、この後、越前屋がお花を身請けし、久兵衛とめあわせた上、産まれた長男が越前屋を、次男が柳田家を継ぐというハッピーエンドで終わらせています。

碁盤

裏側の丸いくぼみは、待ったした者の首を載せるところという俗説があります。

浅草東仲町

台東区雷門一、二丁目にあたります。浅草寺門前で、今も昔も飲食店が多い繁華街です。

【語の読みと注】
娼妓 しょうぎ

【柳田格之進 古今亭志ん朝】

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やぶいり【藪入り】演目

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たっぷり笑わせ、しっかり泣かせる名品。エロネタなんですが。

別題:お釜さま 鼠の懸賞

【あらすじ】

正直一途の長屋の熊五郎。

後添いができた女房で、一粒種の亀をわが子のようにかわいがる。

夫婦とも甘やかしたので、亀は、朝も寝床で芋を食べなければ起きないほど、わがままに育った。

「これではいけない、かわい子には旅をさせろだ」
と、近所の吉兵衛の世話で、泣きの涙で亀を奉公に出した。

それから三年。

今日は正月の十五日で、亀が初めての藪入りで帰ってくる日。

おやじはまだ夜中の三時だというのに、そわそわと落ち着かない。

かみさんに、奉公をしていると食いたいものも食えないからと、
「野郎は納豆が好きだから買っておけ。鰻が好きだから中串で二人前、刺し身もいいな。チャーシューワンタンメンというのも食わしてやろう。オムレツカツレツ、ゆで小豆にカボチャ、安倍川餠」
と、きりがない。

時計の針の進みが遅いと、一回り回してみろと言ったり、帰ったら品川の海を見せて、それから川崎の大師さま、横浜から江ノ島鎌倉、足を伸ばして静岡、久能山、果ては京大阪から、讃岐の金比羅さま、九州に渡って……と、一日で日本一周をさせる気。

無精者なのに、持ったこともない箒で家の前をセカセカと掃く。

夜が明けても
「まだか。意地悪で用を言いつけられてるんじゃねえか。店に乗り込んで番頭の横っ面を」
と大騒ぎ。

そのうち声がしたので出てみると
「ごぶさたいたしました。お父さんお母さんにもお変わりがなく」

すっかり大人びた亀坊が、ぴたりと両手をついてあいさつしたので、熊五郎はびっくりし、胸がつまってしどろもどろで
「今日はご遠方のところをご苦労さまで」

涙で顔も見られない。

「こないだ、風邪こじらせたが、おめえの手紙を見たらとたんに治ってしまった」
と、打ち明け
「こないだ、店の前を通ったら、おめえがもう一人の小僧さんと引っ張りっこをしているから、よっぽど声を掛けようと思ったが、里心がつくといけねえと思って、目をつぶって駆けだしたら、大八車にぶつかって……」
と泣き笑い。

亀が小遣いで買ったと土産を出すと、
「もったいねえから神棚に上げておけ。子供のお供物でござんすって、長屋中に配って歩け」
と大喜び。

ところが、亀を横町の桜湯にやった後、かみさんが亀の紙入れの中に、五円札が三枚も入っているのを見つけたことから、一騒動。

心配性のかみさんが、子供に十五円は大金で、そんな額をだんながくれるわけがないから、ことによると魔がさして、お店の金でも……と言いだしたので、気短で単純な熊、さてはやりゃあがったなと逆上。

帰ってきた亀を、いきなりポカポカ。

かみさんがなだめでわけを聞くと、このごろペストがはやるので、鼠を獲って交番に持っていくと一匹十五円の懸賞に当たったものだと、わかる。

だんなが、子供が大金を持っているとよくないと預かり、今朝渡してくれたのだ、という。

「見ろ、てめえがよけいなことを言いやがるから、気になるんじゃねえか。へえ、うまくやりゃあがったな。この後ともにご主人を大切にしなよ。これもやっぱりチュウ(=忠)のおかげだ」

底本:三代目三遊亭金馬

【しりたい】

お釜さま

原話は詳細は不明ながら、天保15年(1844=12月から弘化と改元)正月、日本橋小伝馬町の呉服屋島屋吉兵衛方で、番頭某が小僧をレイプし、気絶させた実話をもとに作られた噺といいます。

表ざたになったところを見ると、なんらかのお上のお裁きがあったものと思われますが、当時、商家のこうした事件は珍しいことではなく、黙阿弥の歌舞伎世話狂言『加賀鳶』の「伊勢屋の場」にもこんなやりとりがあります。

太助「これこれ三太、よいかげんに言わないか、たとえ鼻の下が長かろうとも」
左七「そこを短いと言わなければ、番頭さんに可愛がられない」
三太「番頭さんに可愛がられると、小僧は廿八日だ」
太・左「なに、廿八日とは」
三太「お尻の用心御用心」

金馬の十八番へ

明治末期に初代柳家小せんが男色の要素を削除して、きれいごとに塗り替えて改作しました。それまでは演題は「お釜さま」で、オチも「これもお釜さま(お上さま=主人と掛けた地口)のおかげだ」となっていました。

亀が独身の番頭にお釜(=尻)を貸し、もらった小遣いという設定で、小せんがこれを当時の時事的話題とつなげ、「鼠の懸賞」と改題、オチも現行のものに改めたわけです。

小僧奉公がごくふつうだった明治大正期によく高座に掛けられましたが、昭和初期から戦後にかけては、三代目三遊亭金馬が「居酒屋」と並ぶ、十八番中の十八番としました。

金馬の、親子の情愛が濃厚な人情噺の要素は、自らの奉公の経験が土台になっているとか。五代目三遊亭円楽も得意でした。

鼠の懸賞

明治38年(1905)、ペストの大流行に伴い、その予防のため東京市が鼠を一匹(死骸も含む)3-5銭で買い上げたことは「意地くらべ」をもご参照ください。補足すると、ペストの最初の日本人犠牲者は明治32年(1899)11月、広島で、東京市が早くも翌33年(1900)1月に、鼠を買い取る旨の最初の布告を出しています。

希望者は区役所や交番で切符を受け取り、交番に捕獲した鼠を届けた上、銀行、区役所で換金されました。

東京市内の最初のペスト患者は明治35年(1902)12月で、38年(1905)にピークとなりました。噺の中の15円は、特別賞か、金馬が昭和初期の物価に応じて変えたものでしょう。鼠の買い上げは、大正12年(1923)9月、関東大震災まで続けられました。

藪入り

「藪入りや 曇れる母の 鏡かな」という、あわれを誘う句をマクラに振るのが、この噺のお決まりです。あるいは、「かくばかり いつわり多き 世の中に 子のかわいさは まことなりけり」なんという歌も。「寿限無」「子褒め」「初天神」「子別れ」なんかでも使いまわされています。

藪入りは江戸では、古くは宿入りといい、商家の奉公人の特別休暇のことです。江戸から明治大正にかけ、町家の男の子は十歳前後(明治の学制以後は、尋常または高等小学校卒業後)で商家や職人の親方に奉公に出るのがふつうでした。

一度奉公すると、三年もしくは五年は、親許に帰さないならわしでした。それが過ぎると年二回、盆と旧正月に一日(女中などは三日)、藪入りを許されました。商家の手代や小僧は奉公して十年は無給で、五年ほどは小遣いももらえないのが建前でした。

「藪」は田舎のことで、転じて親許を指したものです。

「藪入り」の言葉と習慣は、労働条件が改善された昭和初期まで残っていて、横綱双葉山の「70連勝ならざるの日」がちょうど藪入りの日曜日(昭和14年1月15日)だったことは、今でも昭和回顧談でよく引き合いに出されます。

【藪入り 三代目三遊亭金馬】

しめこみ【締め込み】演目

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泥棒とせっかちな亭主のおもしろい噺。オチは平凡ですが。

別題:時の氏神 泥棒と酒宴 盗人の仲裁 盗人のあいさつ(上方)

【あらすじ】

空き巣に入った泥棒。

火がおきていて、薬缶の湯がたぎっているので、まだ遠くには出かけていないと、大あわてで仕事にかかって大きな風呂敷包みをこしらえ、ウンコラショと背負って失礼しようとしたところに、主人が帰ってくる。

あわてて包みを放り出し、台所の板を外して縁の下に避難した。

亭主は風呂敷包みを見て、てっきりかみさんが間男と手に手を取って駆け落ちする算段だと勘違いし、ちょうど湯から帰ってきた女房に
「このアマ。とんでもねえ野郎だ」
と薬缶を投げた。

避けたので薬缶はひっくり返り、縁の下の泥棒は煮え湯を浴びて
「アチッ」
と思わず飛び出し、けんかの仲裁に入る。

「やい、てめえが間男か」
「いえ、泥棒で」

盗みに入ったと白状したので、夫婦は、これで別れずにすむと泥棒に感謝して、酒をのませてやる。

「これを機会に、またちょくちょく」
「冗談じゃねえ。そうちょいちょい来られてたまるか」

泥棒が酔いつぶれて寝てしまったので、しかたがねえと布団をかけてやり、
「おい、不用心でいけねえ。もう寝るんだから、表の戸締まりをしろ」
「だって、もう泥棒は家に……」
「それじゃ、表からしんばりをかえ」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

さまざまなやり方

原話は、享和2年(1802)刊、京都で出版された『新撰勧進話』中の「末しら浪」です。

原話も、筋は現行とまったく同じですが、オチは最後に亭主が「それでは、また近いうちに夜おいでなさい」と言う、マヌケオチになっています。

上方では「盗人のあいさつ」の題で演じられますが、そのほか「盗人の仲裁」「泥棒と酒宴」「時の氏神」など、いろいろな別題があります。

明治の四代目三遊亭円生と三代目柳家小さんという両巨匠の速記があり、小さんの演出がのちの八代目桂文楽、五代目古今亭志ん生まで受け継がれました。

昔から柳派、三遊派を問わず、けっこうなビッグネームが演じているわけです。

四代目円生では、人家に侵入するのを、貧乏のあまりやかんまで質入れした侍にしましたが、このやり方は、現在は伝わっていません。

文楽は一種の、客がセコなときにやる逃げ噺として演じ、オチまでいかずに「そうちょいちょい来られてたまるか」の部分で切っていました。

泥棒

空き巣は、戸締まりのしていない家に忍び入ることで、ただのコソ泥なので情状酌量され、初犯は敲き五十程度でお目こぼしでした。「出来心」参照。

敲きは厳密に数が数えられ、間違えて一つでも多くした場合は担当した役人の方が譴責され、時にはクビになります。天保のころ、実際にそういうことがあったとか。

一方、「盗賊」は心張り棒がかかってある家に侵入する賊で、鬼平でおなじみの「火盗改め」のお掛かりです。

出来心のコソ泥と違い、計画的なので罪は重く、特に土蔵などを切り破った場合は盗んだ額にかかわらず、首が飛ぶことが多かったといいます。

【語の読み】
敲き たたき
心張り棒 しんばりぼう

【コラム】

明治23年(1890)にやった四代目三遊亭円生の「締込」では、武士が雨宿りに入った家で薬缶を気に入り盗み出そうとするころ合い、夫婦げんかに巻き込まれて熱湯をかけられるという筋。この武士、前半では屋台のそばをただ食いなどして素行がよろしくない。この噺では、いつの間にか武士=泥棒となるおかしな構図。泥棒と薬缶が、この噺のキーワードなのだ。江戸独特の噺だったらしい。明治30年(1897)にやった三代目柳家小さんの「閉め込み」になると、上方から「盗人の仲裁」をまぜ込んで、今日演じられる「締め込み」の原型。五代目古今亭志ん生や八代目桂文楽のは、小さんのを基にしているようだ。古今亭志ん朝になると、志ん生と文楽をうまくまぜ込んでいる。風呂敷包みから始まる亭主の嫉妬を通して、夫婦のねじ曲がった愛情がほの見える。泥棒と夫婦。三者の構図が鮮やかで、テンポのよい佳品に仕上がっている。(古木優)

おばけながや【お化け長屋】演目

 

【RIZAP COOK】

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江戸っ子は見かけとは裏腹。小心でこわがり。そんな噺。

別題:借家怪談 化け物長屋

あらすじ

長屋に空き店の札。

長屋が全部埋まってしまうと大家の態度が大きくなり、店賃の値上げまでやられかねない。

そこで店子の古株、古狸の杢兵衛が世話人の源兵衛と相談し、店を借りにくる人間に怪談噺をして脅かし、追い払うことにした。

最初に現れた気の弱そうな男は、杢兵衛に
「三日目の晩、草木も眠る丑三つ時、独りでに仏前の鈴がチーン、縁側の障子がツツーと開いて、髪をおどろに振り乱した女がゲタゲタゲタっと笑い、冷たい手で顔をサッ」
と雑巾で顔をなでられて、悲鳴をあげて逃げ出した。

おまけに六十銭入りのがま口を置き忘れて行ったから、二人はホクホク。

次に現れたのは威勢のいい職人。

なじみの吉原の女郎が年季が明けるので、所帯を持つという。

これがどう脅かしてもさっぱり効果がない。

仏さまの鈴がリーンと言うと
「夜中に余興があるのはにぎやかでいいや」
「ゲタゲタゲタと笑います」
「愛嬌があっていいや」

最後に濡れ雑巾をなすろうとすると
「なにしやがんでえ」
と反対に杢兵衛の顔に押しつけ、前の男が置いていったがま口を持っていってしまう。

この男、さっそく明くる日に荷車をガラガラ押して引っ越してくる。

男が湯に行っている間に現れたのが職人仲間五人。

日頃から男が強がりばかり言い、今度はよりによって幽霊の出る長屋に引っ越したというので、本当に度胸があるかどうか試してやろうと、一人が仏壇に隠れて、折りを見て鉦をチーンと鳴らし、二人が細引きで障子を引っ張ってスッと開け、天井裏に上がった一人がほうきで顔をサッ。

仕上げは金槌で額をゴーンというひどいもの。

作戦はまんまと成功し、口ほどにもなく男は親方の家に逃げ込んだ。

長屋では、今に友達か何かを連れて戻ってくるだろうから、もう一つ脅かしてやろうと、表を通った按摩に、家の中で寝ていて、野郎が帰ったら
「モモンガア」
と目をむいてくれと頼み、五人は蒲団の裾に潜って、大入道に見せかける。

ところが男が親方を連れて引き返してきたので、これはまずいと五人は退散。

按摩だけが残され
「モモンガア」。

「みろ。てめえがあんまり強がりを言やあがるから、仲間にいっぱい食わされたんだ。それにしても、頼んだやつもいくじがねえ。えっ。腰抜けめ。尻腰(しっこし)がねえやつらだ」
「腰の方は、さっき逃げてしまいました」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

作者は滝亭鯉丈  【RIZAP COOK】

江戸後期の滑稽本(コミック小説のようなもの)作者で落語家を兼ねて稼ぎまくっていた滝亭鯉丈(りゅうてい・りじょう、「猫の皿」参照)が、文政6年(1823)に出版した『和合人』初編の一部をもとにして、自ら作った噺とされます。当然、作者当人も高座で演じたことでしょう。

上方落語では、「借家怪談」として親しまれ、初代桂小南が東京に移したともいわれますが、すでに明治40年(1907)には、四代目橘家円蔵の速記もあり、そのへんははっきりしません。

なかなか聴けない「完全版」  【RIZAP COOK】

長い噺で、二転三転する上に、人物の出入りも複雑なので、演出やオチもさまざまに工夫されています。ふつうは上下に分けられ、六代目円生、先代金馬など、大半は、二番目の男が財布を持っていってしまうところで切ります。

戦後、最後まで演じたのは、志ん生と六代目柳橋くらいで、志ん生も、めったにオチまでいかず、男が親方の家に駆け込んで、「幽霊がゲンコでなぐったが、そのゲンコの堅えのなんの」と、ぼやくところで切っていました。

尻腰がねえ  【RIZAP COOK】

オチの前の「尻腰がねえ」は、東京ことばで「いくじがない」という意味です。昭和初期でさえ、もう通じなくなっていたようです。

高級長屋  【RIZAP COOK】

このあらすじは、戦後この噺をもっとも得意とした五代目古今亭志ん生の速記をもとにしました。

登場する長屋は、落語によく出る九尺二間、六畳一間の貧乏長屋ではなく、それより一ランク上で、もう一間、三畳間と小庭が付いた上、造作(畳、流し、戸棚などの建具)も完備した、けっこう高級な物件という設定を、志ん生はしています。

当然、それだけ高いはずで、時代は、最初の男が置いていった六十銭で「二人でヤスケ(寿司)でも食おう」と杢兵衛が言いますから、寿司の「並一人前」が二十五銭-三十銭だった大正末期か昭和初期の設定でしょうか。

志ん生は本題に入る前、この長屋では大家がかなり離れたところに住み、目が届かないので古株の杢兵衛に「業務委託」している事情、住人が減ると、家主が店賃値上げを遠慮するなど、大家と店子、店子同士ののリアルな人間関係、力関係を巧みに説明しています。

貸家札  【RIZAP COOK】

志ん生は「貸家の札」といっていますが、古くは「貸店(かしだな)の札」といい、半紙に墨書して、斜めに張ってあったそうです。

ももんがあ  【RIZAP COOK】

按摩を脅かす文句で出てきます。ももんがあとは、ももんじいともいい、毛深く口が大きな、ムササビに似た架空の化物です。また、ムササビそのものの異称でもありました。口を左右に引っ張り、「ほら、モモンガアだ」と子供を脅しました。

リレー落語  【RIZAP COOK】

長い噺では、上下に分け、二人の落語家がそれぞれ分担して演じる「リレー落語」という趣向が、よくレコード用や特別の会でありますが、この噺はその代表格です。

【RIZAP COOK】

ふろしき【風呂敷】演目

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不倫、不貞、間男。意表をつく風呂敷の使い方。ためになります。

別題:褄重ね 不貞妻 風呂敷の間男

【あらすじ】

亭主の熊五郎の留守に、かみさんが間男を引きずり込み、差しつ差されつ、しっぽり濡れている。

男の方はおっかなびっくりだが、かみさんは、この長屋で間男していないかみさんはないから、みな「お相手」がいると、いっこうに気にしない。

「ウチの宿六は、年がら年中稼ぎもしないで遊び放題で、もう愛想が尽きたから、牛を馬に乗り換えて、おまえさんと末永く、共白髪まで添い遂げたいねえ」
と言っては、気を引く。

馬肉や精進揚げをたらふく食って酒をのみ、
「どうせ亭主は横須賀に行っていて帰りは明日だから、今夜はゆっくり」
というところに、路地のどぶ板で足音。

戸をとんとんたたいて
「おい、今、けえった」

かみさん、あわてて間男を戸棚に押し込んだ。

どうせ酔っぱらっているから、すきを見て逃がす算段。

ところが熊五郎、家に入るなり、たいそう御膳が出ているなと言いながら、当の戸棚の前に寝そべると、そのまま高いびき。

これでは戸を開けられないので、かみさんが困っていると、そこへ現れたのが鳶頭。

かみさん、拝み倒して成り行きを白状し、
「ひとつ助けてくださいな」
と頼むので、鳶頭、
「見捨てるわけにもいかねえな」
と、かみさんを外に出し、熊をゆさぶり起こす。

寝ぼけ眼の熊に、かみさんは買い物に行ったとごまかして
「今日友達の家に行ったらな、おかしな話があったんだ。そこの亭主というのはボンヤリしたやつで、稼ぎもろくろく出来ねえから、かみさんが間男をしやがった」
「へえ、とんでもねえアマだ」
「どうせ宿六は帰るめえと思って、情夫を引きずり込んで一杯やってるところへ、亭主が不意に帰ってきたと思え。で、そのカカアがあわ食って、戸棚に男を隠しちまった」
「へえー」
「すると、亭主が酔っぱらって、その戸棚の前に寝ちまった」
「そりゃ、困ったろう」
「そこで、オレがかみさんに頼まれて、そいつを逃がしてやった」

熊が
「どんなふうに逃がしたか聞かしてくれ」
と頼むので、鳶頭
「おめえみたいに寝ころんでたやつを、首に手をこうかけて起こして」
「ふんふん」
「キョロキョロ見ていけねえから、脇の風呂敷ィ取って亭主の顔へこう巻き付けて……どうだ、見えねえだろう。そこでオレも安心して、戸をこういう塩梅にガラリと開けたと思いねえ」

間男を出し、拝んでねえで逃げろと目配せしておいて、
「そいつが影も形もなくなったとたんに、戸を閉めて、それから亭主にかぶせた風呂敷を、こうやって」
とぱっと取ると、熊が膝をポンとたたいて
「なあるほど、こいつはいい工夫だ」

底本:初代三遊亭円遊、五代目古今亭志ん生

【しりたい】

原話は諸説紛々

興津要説では落語草創期から口演されてきた古い噺、矢野誠一説では幕末の安政5年(1858)に没した中平泰作なる実在人の頓知ばなしが元と、出自については風呂敷だけに、唐草模様のごとく諸説入り乱れ、マジメに追究するだけ野暮というものです。

ともかく生粋の江戸前艶笑落語ですが、珍しく上方に「輸出」され、東西で演じられます。

一応、安政2年(1855)刊『落噺笑種蒔』中の「みそかを」が原話らしきものとされますが、これは、間男をとっさに四斗樽の中に隠して風呂敷をかけた女房が、亭主に「これはなんだ」と聞かれたら「焚き付け(風呂焚き用のかんな屑)です」と答えようと決めていたのに、いざとなると震えて言葉が出ず、思わず樽の中の間男が「たきつけ、たきつけ」という、それこそかんな屑のようにつまらないもの。

この噺は少なくともそれ以前から演じられていたようなので、これはずっと古い出典のコピーか、逆に落語を笑話化したものの可能性があります。

「風呂敷」史 検閲逃れの悪戦苦闘

江戸時代には粋なお上のお目こぼしで、間男不義密通不倫噺として、大手を振って演じられていたわけですが、幕府の瓦解で薩長の田舎侍どもが天下を取ると、そうはいかなくなります。

明治、大正、戦前までは、「姦通罪」が厳として存在し、映画、演劇、芸能の端にいたるまで、人妻を口説く場面などもってのほか。台本などの事前検閲はもちろん、厳重をきわめました。

落語も例外ではなく、「不貞妻」と題したこの噺の初代三遊亭円遊の速記(明治25年)では、官憲をはばかって間男に「道ならねえことをするのだからあんまりよい心持ちじゃねえな」と言わせるなど、弁解に苦心しているのがありあり。

大正期の初代柳家小せんになると、女房はお女郎さんあがりで、以前のなじみ客に会ったので、あくまで昔話をするということで家に入れる設定になっています。

ここでのあらすじは、初代円遊の古い型を参照しましたが、実際にはこれ以後、現在に至るまで通常の寄席の高座で演じる「風呂敷」からは本来の不倫噺の要素がほとんど消えています。

この噺を好んで演じた五代目古今亭志ん生は、やはり間男噺としては演じず、男はただの知人で、嫉妬深い亭主の誤解を避けるため押し入れに隠すやり方をとり、濡れ場などはカットした上で、鳶頭が「女は三階(=三階)に家なし」「貞女屏風(=両夫)にまみえず」などのダジャレで、実際は不倫をしていなくても、誤解を招くことをしないよう女房に訓戒をたれる配慮をしていました。

現在もこのやり方がほとんどです。もっとも、いくら何でも女房が不倫を打ち明けて鳶頭に助けを請うのは不自然で、鳶頭がそれをいいよいいよと簡単に請合うのもおかしな話なので、噺の流れとしては今のやり方の方がずっと自然でしょう。

風呂敷ことはじめ

古くは平裏(ひらつづみ)と呼ばれ、平安時代末期から使われました。源平争乱期には、当然、討ち取った生首を包むのにも使われました。

江戸時代初期、銭湯が発達して、ぬか袋などを包むのに使われたため、この名が付きました。

なかには、布団が包める3m四方以上の大きなもの(大風呂敷)もあり、これが「ホラ吹き」を意味する「大風呂敷を広げる」という表現の元となったわけですね。

だいくしらべ【大工調べ】演目

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江戸っ子が言い立てる悪態。小気味よさがうまく出ているのはこの噺!

あらすじ

神田小柳町に住む大工の与太郎。

ぐずでのろまだが、腕はなかなか。

老母と長屋暮らしの毎日だ。

ここのところ仕事に出てこない与太郎を案じた棟梁(とうりゅう)・政五郎が長屋までやって来ると、店賃(たなちん)のかたに道具箱を家主・源六に持っていかれてしまったとか。

仕事に行きたくても行けないわけ。

四か月分、計一両八百文ためた店賃のうち、一両だけ渡して与太郎に道具箱を取りに行かせる。

政五郎に「八百ばかりはおんの字だ、あたぼうだ」と教えられた与太郎、うろおぼえのまま源六に「あたぼう」を振り回し、怒った源六に「残り八百持ってくるまで道具箱は渡せない」と追い返される。

与太郎が
「だったら一両返せ」
と言えば
「これは内金にとっとく」
と源六はこすい。

ことのなりゆきを聞いた政五郎、らちがあかないと判断。

与太郎とともに乗り込むが源六は強硬だ。

怒った政五郎は
「ものがわからねえから丸太ん棒てえんだ。つらァ見やがれ、この金隠しッ」
と啖呵を切り、
「この度与太郎事、家主源六に二十日余り道具箱を召し上げられ、老いたる母、路頭に迷う」
と奉行所へ訴えた。

お白州で、両者の申し立てを聞いた奉行は、与太郎に、政五郎から八百文を借り、すぐに源六に払うよう申し渡した。

源六は有頂天。

またもお白州。

奉行が源六に尋ねた。
「一両八百のかたに道具箱を持っていったのなら、その方、質株はあるのか」
源六「質株、質株はないッ」
奉行「質株なくしてみだりに他人の物を預かることができるか。不届き至極の奴」

結局、質株を持たず道具箱をかたにとったとがで、源六は与太郎に二十日間の大工の手間賃として二百匁払うよう申しつけられてしまった。

奉行「これ政五郎、一両八百のかたに日に十匁の手間とは、ちと儲かったようだなァ」
政五郎「へえ、大工は棟梁、調べをごろうじろ(細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ)」

しりたい

大家のご乱心

お奉行所の質屋に対する統制は、それは厳しいものでした。質物には盗品やご禁制の品が紛れ込みやすく、犯罪の温床になるので当然なのです。

早くも元禄5年(1692)には惣代会所へ登録が義務付けられ、享保の改革時には奉行所への帳面の提出が求められました。

株仲間、つまり同業組合が組織されたのは明和年間(1764-72)といわれますが、そのころには株を買うか、譲渡されないと業界への新規参入はできなくなっていました。

いずれにしても、モグリの質行為はきついご法度。大家さん、下手するとお召し取りです。

この長屋の店賃、4か月分で一両八百ということは、月割りで一分二百。高すぎます。

店賃も地域、時代、長屋の形態によって変わりますから一概にはいえませんが、貧乏な裏長屋だと、文政年間(1818-30)の相場で、もっとも安いところで五百文、どんなにぼったくっても七百文がいいところ。ほぼ倍です。(銭約千文=一分、四分=一両)

日本橋の一等地の、二階建て長屋ならこの値段に近づきますが、神田小柳町は火事で一町内ごと強制移転させられた代地ですから、地代も安く、店賃もそれほど無茶苦茶ではないはずです。

この噺でおもしろいのは、大家さんの素性です。どんな人が大家さんをしていたのかがうかがい知れるわけです。大家さんは長屋所有者の代行者に過ぎないのですね。

町年寄 名主 月行事

神田小柳町

かんだこやなぎちょう。現在の東京都千代田区神田須田町一、二丁目、および神田鍛冶町三丁目にあたります。元禄11年(1698)の大火で下谷一丁目が焼けた際、代地として与えられました。延享2年(1745)以来、奉行所の直轄支配地となっています。

あたぼう

語源は「当たり前」の「当た」に「坊」をつけた擬人名詞という説、すりこぎの忌み言葉「当たり棒」が元だという説などがありますが、一番単純明快なのは、「あったりめえでえッ!べらぼうめェッ!」が縮まったとするもの。さらに短く「あた」とも。

でも、「あたぼう」は、下町では聞いたこともないという下町野郎は数多く、どうも、落語世界での誇張された言葉のひとつのようです。

落語というのは長い間にいろんな人がこねくりまわした果てに作り上げられたバーチャルな世界。現実にはないものや使わないものなんかがところどころに登場するんです。

それはそれで楽しめるものですがね。

与太郎について

実は普通名詞です。したがって、正確には「与太郎の○○(本名)と呼ばれるべきものでしょう。元は浄瑠璃の世界の隠語で、嘘、でたらめを意味し、「ヨタを飛ばす」は嘘をつくことです。

落語家によって「世の中の余り者」の意味で馬鹿のイメージが定着されましたが、現立川談志が主張するように、「単なる馬鹿ではなく、人生を遊び、常識をからかっている」に過ぎず、世の中の秩序や寸法に自分を合わせることをしないだけ、と解する向きもあります。

もっとしりたい

大岡政談のひとつ。裁き物には「鹿政談」「三方一両損」「佐々木政談」などがある。政五郎の最後の一言は「細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ」のしゃれ。棟梁を「とうりょう」でなく「とうりゅう」と呼ぶ江戸っ子ことばがわからないとピンとこない。明治24(1891)年に禽語楼小さんがやった「大工の訴訟(しらべ)」の速記には、「棟梁」の文字に「とうりゃう」とルビが振られている。これなら「とうりょう」と発音するのだが。落語を聴いていると、ときにおかしな発音に出くわすものだ。「大工」は「でえく」だし、「若い衆」を「わけえし」「わかいし」と言っている。「遊び」は「あすび」と聞こえるし、「女郎買い」は「じょうろかい」と聞こえる。歯切れがよい発音を好み、次のせりふの言い回しがよいように変化させているようだ。池波正太郎は、落語家のそんな誇張した言いっぷりが気に入らなかった。「下町で使われることばはあんなものではなかった。いつかはっきり書いておかなくてはならない」などと書き散らしたまま、みまかった。残念。この噺では貨幣が話題となっている。江戸時代では、金、銀、銭の3種類の貨幣を併用していた。ややこしいが、一般的なところを記しておく。 1両=4分=16朱  金1両=銀60匁=銭4貫文=4000文。いまの価格にすると、1両は約8万円、1文は20円となるらしい。ただし、消費天国ではなかったから、つましく暮らせば1両でしのげた時代。いまの貨幣価値に換算する意味はあまりないのかもしれない。1両2分800文とは、6800文相当となる。幕末期には裏長屋の店賃が500文だった。ということは、13か月余相当の額。5代目古今亭志ん生は「4か月」ためた店賃が「1両800」とやっている。月当たり1200文。うーん、与太郎は高級長屋に住んでいたのだろうか。質株とは質屋の営業権。江戸、京阪ともに株がないと質屋を開業できなかった。享保8(1723)年、江戸市中の質屋は253組、2731人いたという。ずいぶんな数である。もぐりも多くいたそうだから、このような噺も成り立ったのだろう。勘兵衛の職業は家主。落語でおなじみの「大家さん」のことだ。「大家といえば親も同然」と言われながらも、地主(家持)に雇われて長屋を管理するだけの人。地主から給金をもらい、地主所有の家を無料で借りて住んでいる。マンションの管理人のような存在である。この噺では、大家の因業ぶりがあらわだ。こんなこすい大家もいたものかと、政五郎や与太郎以上に人間臭くて親近感がわいてくる。(古木優)     

町奉行

【大工調べ 古今亭志ん朝】

こうこうとう【孝行糖】演目

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親孝行の与太郎が飴屋に。長屋総出で応援する社会更生の麗しい一編。

【あらすじ】

今年二十一になるが、頭の中が少々薄暮状態の与太郎。

親孝行のほうびに、お上から青ざし五貫文をちょうだいした。

大家がこれを機会に、この金を元手にして、なんとか与太郎の身の立つように小商いでも考えてやりたいと、長屋の衆に相談する。

一人が、昔、役者の嵐璃寛と中村芝翫の顔合わせが評判を呼んだのに当て込んで、璃寛糖と芝翫糖という飴を売り出してはやらせた人がいるから、それにならって、与太郎に飴を売らせたらどうか、と提案。

璃寛糖は、頭巾をかぶり鉦と太鼓を前につるして、
「チャンチキチン、スケテンテン」
というのを合い方に、
「璃寛糖の本来は、粳の小米に寒晒し、榧ァに銀杏、肉桂に丁字」
と歌って歩いたもの。

今回、与太郎は孝行でほうびをもらったのだから、名前も「孝行糖」、文句はそっくり借りることにしよう、というので一同賛成し、それからというもの、総出で与太郎に歌を暗記させた。

ナントカの一つ覚えで、かえって普通の人より早く覚えたので、町内で笛、太鼓、身なりともにそっくりしたくしてやって、与太郎はいよいよ飴売りに出発。

親孝行の徳か、この飴を買って食べさせると子供が孝行になるという噂が広がって大評判。

売れると商売にも張り合いが出るもので、与太郎、雨の日も風の日も休まず、
「スケテンテン、コーコートー」
と流して歩く。

ある日、相変わらず声を張り上げながら、水戸さまの屋敷前を通りかかる。

江戸市中で一番やかましかったのがここの門前で、少しでもぐずぐずしていると、たちまち門番に六尺棒で「通れ」と追い払われる。

ところがもとより与太郎、そんなことは知らないから、能天気に
「孝行糖の本来は、粳の小米に寒ざらし……」
とやったから、門番、
「妙な奴が来たな。とおれっ」
「むかしむかし、もろこしの、二十四孝のその中で」
「行けっ」
「食べてみな、おいしいよ」
「ご門前じゃによって鳴り物はあいならん」
「チャンチキチン」
「ならんというんだ」
「スケテンテン」
「こらっ」
「テンドコドン」

……叱言を鳴り物の掛け声に使ったから、たちまち六尺棒でめった打ち。

通りかかった人が、
「逃げろ、逃げろ……どうぞお許しを。空ばかでございますが、親孝行な者……これこれ、こっちィこい」
「痛えや、痛えや」
「痛いどころじゃねえ。首斬られてもしょうがねえんだ。……どこをぶたれた」
と聞くと与太郎、頭と尻を押さえて
「ココォと、ココォと」

底本:三代目三遊亭金馬

【しりたい】

実在した与太郎

孝行糖売りは明治初期、大阪にいたという説がありますが、実はそのずっと以前、弘化3年(1846)2月ごろから藍鼠色の霜降に筍を描いた半纏を着て、この噺の与太郎とまったく同じ唄をうたいながら江戸の町を売り歩いていた飴屋がいたことが、『藤岡屋日記』に記されています。政商だった藤岡屋由蔵の見聞記です。まず、当人に間違いありません。

青ざし五貫文

「唐茄子屋政談」「松山鏡」にも登場しますが、銭五貫文は幕末の相場でおよそ一両一分。四千八百文にあたります。

それを青く染めた麻縄の銭挿しに通して、孝行の褒美に町奉行より下されます。

水戸さまの屋敷前

水戸藩の上屋敷。現在の後楽園遊園地、東京ドーム、小石川後楽園、飯田橋職業安定所を含む文京区後楽一丁目全部を占めました。

このうち、東京ドームの場所には、明治維新後、陸軍砲兵工廠が建てられ、昭和12年(1937)、その移転後の跡地に旧後楽園球場が建設されました。

コワーイ門番

藩邸の門番は、一般には、身分は若党で、最下級の士分です。

水戸上屋敷は「日暮らし門」と呼ばれた華麗な正門が有名で、左甚五郎作の竜の彫刻をあしらっていました。正門から江戸川堤まで、水戸さま百軒長屋といい、ずらりと中級藩士の住む長屋が続いていました。門番だけでなく、こうした中・下級藩士による「町人いびり」も、ままあったようです。

これも上方ダネ

明治初期に作られた上方落語の「新作」といわれますが、作者は未詳。

三代目三遊亭円馬が東京に移植、戦後は三代目金馬の十八番として知られ、四代目金馬が継承して得意にしています。「本場」の大阪では、現在は演じ手がないようです。

かいくさ【蚊いくさ】演目

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家を城と見立てて 蚊と一合戦講じる話です。 黄表紙のようなばかばかしさ!

別題:蚊の軍

【あらすじ】

町内の八百屋の久六。

このところ剣術に凝り、腕はからっきしナマクラのくせに剣客気取り。

横町の道場に通い詰めで商売を怠けっぱなしなので、がまんならなくなったのが女房。

亭主の剣術狂いのため家は左前で、去年の暮れに蚊帳を曲げて(質入れ)しまったため、この夏は親子で蚊に食われ通し。

ほとほと愛想が尽きたから、別れて子供をつれて家を出ると脅かされ、久さん、しかたなく先生の所にお断りに行く。

事情を聞いた先生、
「それなら今日から大名になったつもりで、蚊と一合戦してみろ」
とそそのかす。

家は城、かみさんは北の方、子供は若君。

家の表が大手、裏口が搦手、引き窓が櫓、どぶ板が二重橋。

「はあ、大変なことになりましたね」
「蚊といくさをするのだから、暮れ方になると幕下の大名の陣から、ノロシが上がるな」
「なんです、それは」

つまり、長屋中一斉に蚊燻しの煙が上がる。

そこで軍略で、久さんの「城」にだけノロシを上げない。

敵は空き城だと油断して一斉に攻めてくる。

そこを十分に引きつけて、大手搦手櫓を閉め、そこでノロシ(蚊燻し)を上げて、敵が右往左往するところで四方を明け放てば、敵軍は雪崩を打って退却する。

あとをしっかり閉めて
「けむくとも 末は寝やすき 蚊遣りかな」
で、ぐっすり安眠というわけ。

怪しげな戦法だが、久さん、すっかり感心して、家に帰るとすぐ籠城準備に取りかかった。

女房に紙屑駕籠を持ってこさせて兜。

手に埃たたきで刀。

気が違ったんじゃないのかいと言われても、何のその。

「やあやあ敵の奴ばら、当城にては今宵は蚊帳は吊らんぞや……それ、敵が攻めてきた。北の方、ノロシの支度を」
「なんだい、ノロシってのは」
「蚊燻しを焚けってんだ」

ゴホンゴホンとむせながら、それでもようやく敵を退散させて勝ちいくさ。

しかし、先生に、
「落武者が殿さまを暗殺しに来るかもしれないので、その時は一騎打ちをしなければならないから、寝てはいけない」
と言われてきた久さん、目をむいて待ち構えていると、やっぱり
「ブーン」
ときた。

ポンとつぶして、
「大将の寝首をかこうとは、敵ながらあっぱれ、死骸をそっちへ」
「ブーン」
「今度は縞の股引きをはいているから、雑兵だな。旗持ちの分際で大将に歯向かうとは……ポン」
「ブーン」
「ポン」
「ブーン」
「ポン」
「これ北の方、城を明け渡してよかろう」

底本:四代目柳亭左楽

【しりたい】

町人めらもヤットウ、ヤットウ

同じく町人が生兵法で失敗する「館林」同様、物騒な世情の中、百姓町人が自衛のため、武道を習うことが流行した幕末の作といわれます。

剣術は、町人の間では、気合声(ヤッ、トー)を模して「ヤットウ」と呼ばれました。

すでにサムライの権威は地に堕ち、治安も乱れるばかりで、刀もまともに扱えない腰抜け武士が増えていました。

町人が武士を見限って自衛に走った時点で、封建的身分制度はくずれ、幕府の命運も尽きていたといえます。たわいない蚊退治の笑い話の裏にも、時代の流れは見えていました。

後半の久さんの蚊への名乗り上げは、明らかに軍記物の講釈(講談)を踏まえています。

蚊いぶし

蚊遣りのことで、原料はダジャレではありませんが、榧(かや)の木の鉋屑です。

下町の低湿地帯の裏長屋に住む人々にとって、蚊とのバトルはまさに食うか食われるか、命がけでした。

五代目古今亭志ん生の自伝「なめくじ艦隊」に、長屋で蚊の「大軍」に襲われ、息を吸うと口の中まで黒い雲の塊が攻め寄せてきたことが語られています。昭和初期のことです。

ついでに、ジョチュウギクを用いた渦巻き型の蚊取り線香は、もう次第に姿を消しつつありますが、大正中期に製品化されたものです。

落語の珍・防「蚊」対策

二階の窓に焼酎を吹きかけ、蚊が二階に集まったらはしごを外すという、マクラ小ばなしがあります。

これなぞは、頭の血を残らず蚊に吸い取られたとしか思えませんが、まあ、二階建ての長屋に住めるくらいだから富裕で栄養たっぷりなのでしょうから、蚊の餌食になるのも当然でしょう。

そのほか、「二十四孝」では、親不孝の熊五郎に大家が、呉猛という男が母親が蚊に食われないよう、自分の体に酒を塗り、裸になって寝たという教訓話をします。

バクチをすると蚊に食われないという俗信も、昔はあったといいます。

たらちね【垂乳根】演目

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上方由来のおとしばなしの代表格。笑っちゃいますね。

別題:延陽伯(上方)

【あらすじ】

長屋でただ一人の独り者の八五郎のところに、大家が縁談を持ちかけてきた。

年は十九で、近所の医者の姪だという。

器量は十人並み以上、夏冬の着物もそろえているという、まことに結構な話。

結構すぎて眉唾なくらい。

「そんな女が、あっしのような男のところへ来るわけがない。なんか、疵でもあるんじゃないですか」
「ないと言いたいが、たった一つだけある」

もとは京の名家の出で、言葉が女房言葉。

馬鹿丁寧すぎてまるきりわからないという。

この間も、目に小石が入った時「ケサハドフウハゲシュウシテ、ショウシャガンニュウス」つまり「今朝は怒風激しゅうして、小砂眼入す」と、のたもうたそうな。

そんなことはなんでもないと八五郎が承諾したので、その日のうちに祝言となった。

なるほど美人なので、八五郎は大喜びだが、いざ話す段になると、これが相当なもの。

名を聞くと
「そも我が父は京都の産にして姓は安藤名は慶三あざなを五光、母は千代女と申せしが、わが母三十三歳の折、ある夜丹頂の鶴の夢を見てはらめるがゆえに、たらちねの胎内を出でしときは鶴女と申せしがそれは幼名、成長の後これを改め清女と申しはべるなぁりいー」
「ナアムミョウ、チーン、ご親類の方からご焼香を」

これではかみ合わない。

ネギが一文字草、米はしらげと、通訳がいるくらい。

朝起きれば起きたで
「アーラ、わが君、しらげのありかはいずこなりや」

頼むから、そのアーラワガキミてえのはやめてくれと言っているところへ、葱屋がやって来た。

「こーれ、門前に市をなすあきんど、一文字草を朝げのため買い求めるゆえ、門の敷居に控えておれ」
「へへへー」

ようやく味噌汁ができたが、
「アーラわが君。日も東天に出御ましまさば、うがい手水に身を清め、神前仏前へ燈灯(みあかし)を備え、御飯も冷飯に相なり候へば、早く召し上がって然るべう存じたてまつる、恐惶謹言」
「飯を食うのが恐惶謹言なら、酒ならよって(=酔って)くだんの如しか」

【しりたい】

女房言葉

宮中の女官が用いた言葉です。代表的なものに「かもじ」=髪、「いしいし」=団子、「おすもじ」=寿司、「うちまき」=米、「あか」=小豆、「こもじ」=鯉、「しゃもじ」=杓子などがあります。

たらちね

垂乳根と書き、「母」に掛かる枕詞です。父の枕詞は「たらちを(垂乳男)」です。

東西の演出

大阪の「延陽伯」が東京に移されたものです。大阪では、女は武家娘という設定なので、漢語をやたらに使いますが、東京では京女ということで、女房ことばや京ことばを使うことになっています。

求む!暗号(-)解読

明治27年(1884)4月の「百花園」誌上に掲載された四代目橘家円喬の速記では、女の珍言葉の部分がさらに長く、「天は梵天地は奈落比翼連理とどこまでも……」などとありますが、まったく解読不能なのが、「せんにせんだんにあって是を学ばざれば 金たらんと欲す」(原文通り) というフレーズです。どなたか、博識な方で意味のおわかりになる方がおられましたら、当サイトまでお知らせ頂ければ幸いです。

さてさて、「落ちこぼれ古典教師」さんが「正解」案を提供してくださいました。深謝。

続編「つる女」

大阪では、「つる女」という「たらちね」の後日談があります。今はもう、誰も演じ手はないようですが。

なかなか言葉が普通にならない細君が、大家の夫婦喧嘩の仲裁に入り、「御内儀には白髪秋風になびかせたまう御身にて、嫉妬に狂乱したまうは、省みて恥ずかしゅうは思し召されずや。早々にお静まりあってしかるべく存じたてまつる」とケムに巻き、火を消します。

「どないして急にピタリと治まったんやろ?」
「つる(鶴女=東京の清女)の一声」

【垂乳根 柳家喬太郎】

うしほめ【牛ほめ】演目

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与太郎はバカなのか、稀代の風刺家なのか。いつまでたっても謎のままです。

別題: 新築祝い  池田の牛ほめ(上方) 

【あらすじ】

少々たそがれ状態の与太郎。

横町の源兵衛が痔で困っているとこぼすので
「尻に飴の粉をふりかけなさい。アメふって痔かたまるだ」
とやって、カンカンに怒らせた。

万事この調子なので、おやじの頭痛の種。

今度おじの佐兵衛が家を新築したので、その祝いにせがれをやらなければならないが、放っておくと何を口走るかしれないので、家のほめ方の一切合切、-んで含めるように与太郎に教え込む。

「『家は総体檜づくりでございますな。畳は備後の五分べりで、左右の壁は砂摺りでございますな。天井は薩摩の鶉杢(うずらもく)で。けっこうなお庭でございますな。お庭は総体御影づくりでございますな』と、こう言うんだ」

まねをして言わせてみると、「家は総体へノコづくり、畳は貧乏でボロボロで、佐兵衛のカカアはひきずりで、天井はサツマイモとウヅラマメ、お庭は総体見かけ倒しで」と、案の定、コブだらけにされそう。

しかたなくおやじがセリフをかなで書いてやる。

まだ先があって、
「これから、おじさんの土手っ腹をえぐる」
「出刃包丁で」
「ばか野郎。理屈でえぐるんだ。台所の大黒柱の真ん中に、おおきな節穴が空いていて、なんとか穴が隠れる方法はないかとおじさんが気にしている。そこでおめえが、『そんなに気になるなら、穴の隠れるいい方法をお教えましょう』と言うんだ。おじさんが『何を言ってやがる』という顔をしたら、『台所だけに、穴の上に秋葉さまのお札を張りなさい。穴が隠れて火の用心になります』。これを言やあ、感心して小遣いくらいくれる。それから、牛を買ったってえから、それもほめるんだ。『天角、地眼、一黒、鹿頭、耳少、歯合でございます』と、こう言う」

与太郎、早速出掛けて、よせばいいのに暗唱したので
「佐兵衛のカカアはひきずりで」
をそのままやってしまい、雲行きが悪くなって慌ててメモを棒読み。

なんとか牛まで済んだ。

おじさんは喜んで、
「ばかだばかだと心配していたが、よくこれだけ言えるようになった」
とほめ、一円くれる。

そのうち、牛が糞をしたので、おじさんが
「牛もいいが、あの糞には困る。いっそ尻の穴がない方がいい」
とこぼすと与太郎、
「おじさん、穴の上へ秋葉様のお札を張りなさい」
「どうなる?」
「穴が隠れて、屁の用心にならあ」

底本:三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

元祖はバカ婿ばなし

原典は、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻一中の「鈍副子第二十話」です。

これは、間抜け亭主(婿)が、かみさんに教えられて舅宅に新築祝いの口上を言いに行き、逐一言われた通りに述べたので無事にやりおおせ、見直されますが舅に腫物ができたとき、また同じパターンで「腫物の上に、短冊色紙をお貼りなさい」とやって失敗するものです。

各地の民話に「ばか婿ばなし」として広く分布していますが、宇井無愁は、日本の結婚形態が近世初期に婿入り婚から嫁取り婚に代わったとき、民話や笑話で笑いものにされる対象もバカ婿からバカ息子に代わったと指摘しています。、それが落語の与太郎噺になったのでしょうが、なかなかおもしろい見方ですね。

「ばか婿ばなし」の名残は、現行の落語でも「あわびのし」「舟弁慶」などにそのまま残っています。

円喬も手がけた噺

天保4年(1833)刊で初代林屋正蔵編著の噺本『笑富林』中の「牛の講釈」が、現行の噺のもとになりました。なので、九代目正蔵も、本家として大いに演っていいわけです。

一応前座噺の扱いですが、明治の名人・四代目橘家円喬の速記もあります。円喬のオチは「秋葉さまのお札をお貼りなさい」で止めていて、「穴がかくれて屁の用心」のダジャレは使っていません。さすがに品位を重んじたというわけでしょう。

なお、大阪では「池田の牛ほめ」「新築祝い」の題で演じられ、お札は愛宕山のものとなっています。東京でも、「新築祝い」で演じるときは、後半の牛ほめは省略されることがほとんどです。

「畳は備後の五分べりで……」

備後は備後畳のことで、五分べりは幅1.5センチのものです。薩摩の鶉杢(=木)は屋久杉で、鶉の羽色の木目があります。

「佐兵衛のカカアはひきずりで」

引きずりはなまけ者のこと。もともと、遊女や芸者、女中などが、すそをひきずっているさまを言いましたが、それになぞらえ、長屋のかみさん連中がだらしなく着物をひきずっているのを非難した言葉です。

秋葉さま

秋葉大権現のことで、総社は現・静岡県周智郡春野町にあります。秋葉山頂に鎮座し、祭神は防火の神として名高いホノカグツチノカミ。

江戸の分社は現・墨田区向島四丁目の秋葉神社で、同じ向島の長命寺に対抗して、こちらは紅葉の名所としてにぎわいました。

「天角、地眼……」

天角は角が上を向き、地眼は眼が地面をにらんでいることで、どちらも強い牛の条件です。

あとの「一黒、鹿頭、耳小、歯違」は、体毛が黒一色で頭の形が鹿に似て、耳が小さく、歯が乱ぐい歯になっているものがよいということです。

なお、前記宇井無愁によると、農耕に牛を使ったのは中部・北陸以西で、それ以東は馬だったので、「屁の用心」でお札を貼るのも、民話ではそれを反映して東日本では馬の尻、西日本では牛の尻と分かれるとか。

よりあいざけ【寄合酒】演目

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金がないのにワイワイガヤガヤ体育会系。がさつでけたたましいにぎやかな噺。

別題:ん廻し 田楽食い(上方)

【あらすじ】

町内の若い衆が、金がないので肴をめいめい持ち寄りでのむことにしたが、これが大混乱。

数の子を煮てしまう奴がいたり、山芋を糠味噌に漬けたり、せっかく乾物屋の餓鬼をチョロまかしてせしめた鰹節を、二十本もいっぺんにかいてしまって、大釜でグラグラ。

うどん屋をやるんじゃないと、ぼやいていると、そのダシで行水してしまい、後は全部捨ててバケツ一杯だけ残した奴が現れ、世話人は頭を抱える。

しかたがないのでそのバケツを持ってこいと言うと、いま褌を洗濯しているのがいると、いう。

「すまねえ。知らないから。絞って持っていこうか?」
「冗談じゃねえ」

とっておきの鯛は、料理しているところにどこかの犬がきて、ちょんと座って動かないので、
「そんなのは頭を一発食らわして追っ払え」
と言われて頭を食べさせ、
「胴体を食らわせろ」
と言うから胴体をやってしまい、まだ動かないので尻尾まで食らわせて、とうとう全部犬の腹へ。

大騒ぎしているところへ豆腐屋から田楽が焼き上がってくる。

運がつくように、「ん」がつく言葉を一つ言うごとに田楽を一枚食わせると取り決めた。

各自ない頭を絞り、しまいには
「オレ、せんねんしんぜんえんのもんぜんにげんえんにんげんはんみょうはんしんはんきんかっぱんきんかんばんぎんかんばん、きんかんばんこんぼんまんきんたんきんかんばんこんじんはんごんたんひょうたん、かんばんきほうてん」
とお経のような文句を一息に並べ立て、五十六本せしめる奴も出る始末。

負けずに、算盤を用意しろと大きく出た男
「半鐘でジャンジャン、ボンボンボン、あっちでジャンジャンジャンジャン、こっちでジャンジャンジャンジャンジャン、消防自動車が鐘をカンカンカンカンと五百」
「おい、こいつに生の田楽を食わせろ」
「なぜ」
「消防のまねだから、焼かずに食わせるんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

ルーツは元和年間

原話になる小ばなしは数多くあります。ルーツは古く、大坂夏の陣の終わった直後の元和年間(1615-24)に刊行された『戯言養気集』中の「うたの事」が最古の形です。

ここではすでに「ん」の音の入った単語を並べ、田楽を取り合うパターンが確立していますが、その後、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝『醒睡笑』中の「児の噂」でも、僧たちの「ん」の字遊びの中に、田楽欲しさに稚児が割り込むという筋になっています。

小ばなしによっては「ん」の言い合いではなく、ゲームが謎掛けやダジャレ(たとえば医者の本尊で薬師如来=八串もらえるなど)になる場合もありますが、田楽食いのパターンは終始変わっていません。

初代春団治の十八番

上方落語では、「田楽食い」として長く親しまれ、後半の「ん」の字の言い合いから、「ん廻し」の別題もあります。

初代春団治の爆笑編で知られ、レコードも残されていますが、そのやり方が二代目春団治、さらに三代目春団治に継承されたほか、父・五代目笑福亭松鶴譲りで、六代目松鶴も得意にしていました。

東京には明治期に移され、戦後は六代目三遊亭円生のものでした。

古くは後半の「ん廻し」に重点が置かれましたが、どちらかといえば近年、東京で盛んに演じられるようになって、前半の、材料をメチャクチャにするくだりがより派手に演じられるようになり、その分、笑いも多くなっているようです。

ますます短くなる噺

オチは、本来、この先があって、「矢を射て、当たるとタイコがドン、ドンドンドン……」と際限なく繰り返す男がいるので、「そんなにたくさんっじゃ、焼くのが間に合わねえ」「いいよ、焼かず(=矢数)で食う」というものでしたが、長くなるので春団治が現行のところで切り、円生もこれにならっていました。

田楽のくだりまでいかず、時間の関係でさらに短く切る場合も最近は多く、ますます本来の「ん廻し」の要素が薄れてきています。

田楽

起源については、「味噌蔵」で紹介した通りです。

なお、田楽は店構えの豆腐屋のほか、上燗屋(じょうかんや)とも呼ばれた屋台のおでん屋、田楽茶屋という専門店でも売っていました。

田楽茶屋は、出合茶屋(であいぢゃや、現代のラブホテル)を兼業していることが多かったといいます。

田楽と男女の濡れ事、何か縁がなさそうでしっくりきませんが、なに、どちらも焼けることに変わりはないようで。

ねどこ【寝床】演目

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だんなの義太夫を聴く長屋の連中の七転八倒ぶり。文楽のおはこです。

別題:素人義太夫 素人浄瑠璃(上方)

【あらすじ】

ある商家のだんな、下手な義太夫に凝っている。

それも人に聴かせたがるので、皆迷惑。

今日も、家作の長屋の連中を集めて自慢のノドを聞かせようと大張りきり。

番頭の茂造に長屋を回って呼び集めさせ、自分は小僧の定吉に、晒に卵を買ってこい、お茶菓子はどうした、料理は、見台は、と、うるさいこと。

ところが茂造が帰ると雲行きが怪しくなる。

義太夫好きを自認する提灯屋は、お得意の開業式で三百五十ほど請け負ったので来られず、小間物屋はかみさんが臨月で急に虫がかぶり(産気づき)、鳶頭はごたごたの仲裁と、口実を設けて誰も来ないとわかると、だんなはカンカン。

店の一番番頭の卯兵衛まで、二日酔いで二階で寝ているというし、他の店の者もやれ脚気だ、胃痙攣だと、仮病を使って出てこない。

「それじゃ、おまえはどうなんだ?」「へえ、あたしはその、一人で長屋を回ってまいりまして……」

しどろもどろで言い訳しようとするとだんながにらむので「ええ、あたしは因果と丈夫で。よろしゅうございます。覚悟いたしました。伺いましょう。あたしが伺いさえすりゃ」と、涙声。

だんなは怒り心頭で「ああよござんす、どうせあたしの義太夫はまずいから、そうやってどいつもこいつも仮病を使って来ないんだろ。やめます。だがね、義太夫の人情がわからないようなやつらに店ァ貸しとく訳わけはいかないから、明日十二時限り明け渡すように、長屋の連中に言ってこい」と大変な剣幕。

返す刀で、まずい義太夫はお嫌でしょう、みんな暇をやるから国元へ帰っとくれと、言い渡してふて寝。

しかたなく店の者がもう一度長屋を回ると、店だてを食うよりはと、一同渋々やってくる。

茂造が、みんなさわりだけでも聞きたがっていると、うって変わってお世辞を並べたので、意地になっていただんな、現金なものでころりと上機嫌。

長屋の連中、陰で、横町の隠居がだんなの義太夫で「ギダ熱」を患ったとか、佐々木さんとこの婆さんは七十六にもなって気の毒だとかぶつくさ。

だんな、あわただしく準備をし直し、張り切ってどら声を張り上げる。

どう見ても、人間の声とは思えない。

動物園の脇を通るとあんな声が聞こえる、この家の先祖が義太夫語りを絞め殺したのが祟ってるんだと、一同閉口。

まともに義太夫が頭にぶつかると即死だから、頭を下げて、とやっているうち、酒に酔って残らずその場でグウグウ。

だんな、静かになったので、感動して聞いているんだろうと、御簾内から覗くとこのありさまで、家は木賃宿じゃないと怒っていると、隅で定吉が一人泣いている。

だんなが喜んで、子供でさえ義太夫の情がわかるのに、恥ずかしくないかと説教し、定吉に「どこが悲しかった? やっぱり、子供が出てくるところだな。『馬方三吉子別れ』か? 『宗五郎の子別れ』か? そうじゃない? あ、『先代萩』だな」「そんなとこじゃない、あすこでござんす」「あれは、あたしが義太夫を語った床じゃないか」「あたくしは、あすこが寝床でございます」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

日常語だった「寝床」

上方落語「素人浄瑠璃」を、「狂馬楽」と呼ばれた奇人・三代目蝶花楼馬楽が明治中期に東京に移したとされますが、明治22年(1889)の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記が残るので、それ以前から東京でも演じられていたのでしょう。

古くから東西で親しまれた噺で、少なくとも戦前までは「下手の横好き」のことを「寝床」といって普通に通用したほどです。

昭和5年(1930)、雑誌「キング」に連載され、古川ロッパ主演で舞台や映画でも人気を集めた佐々木邦原作の「ガラマサどん」では、ビール会社のワンマン社長が社員相手に「寝床」をそっくり再現して笑いを誘いました。これもむろん落語が下敷きになっています。

原話と演者など

江戸初期の寛永年間(1624-44)刊行の笑話本『醒睡笑』や『きのふはけふの物語』にすでに類話があります。最も現行に近い原話は安永4年(1775)刊『和漢咄会』中の「日待」で、オチも同じです。

三代目三遊亭円馬が上方のやり方を踏襲して演じ、それを弟子筋の八代目桂文楽が直伝で継承、十八番としました。

主人公がいかにへたくそとはいえ、演じる側に義太夫の素養がないとこなしきれないため、大看板でも口演できるものは限られます。近代では、文楽のほか六代目三遊亭円生が子供義太夫語りの前身を生かして「豊竹屋」とともに自慢ののどを聞かせ、三代目金馬、八代目三笑亭可楽も演じました。

異色の志ん生版「寝床」

五代目古今亭志ん生は、「正統派」の文楽・円生に対抗して、ナンセンスに徹した異色の「寝床」を演じました。前半を短くまとめ、後半、だんなが逃げる番頭を追いかけながら義太夫を語り、「獲物」が蔵に逃げ込むと、その周りを悪霊のようにグルグル回ったあげく、とうとう蔵の窓から語り込み、中で義太夫が渦を巻いて、番頭が悶絶というすさまじいもの。オチは「今ではドイツにいるらしい」という奇想天外。

実はこれ、師匠だった初代柳家三語楼のやり方をそのまま踏襲したものです。三語楼は、英語まじりのくすぐりを連発するなど、生涯エログロナンセンスの異端児で通した人でした。

むろん、このやり方では「寝床」の題のいわれもわからず、正道とはいえません。無頼の青春を送り、不遇が長かった志ん生は、師匠の反逆精神にどこか共鳴し、それを引き継いでいたのでしょうか。このやり方で演じるのは少数です。あまりよいできとは思えませんが。

義太夫

大坂の竹本義太夫(1651-1714)が貞享2年(1685)ごろ、播磨流浄瑠璃から創始、二世義太夫(1691-1744)が大成し、人形芝居(文楽)とともに、上方文化の礎として興隆しました。

噺に登場する「千代萩」など三編はいずれも今日も文楽の重要なレパートリーになっている代表作です。義太夫が庶民間に根付き、必須の教養だった明治期までは、このほか「釜入りの五郎市」「志度寺の坊太郎」などの子役を並べました。

だんなの強権

この噺の長屋は通りに面した表長屋で、おそらく二階建て。義太夫だんなは、居附き地主といって、地主と大家を兼ねています。

表長屋は、店子は鳶頭など、比較的富裕で、今で言う中産階級の人々が多いのですが、単なる賃貸関係でなく、店に出入りして仕事をもらっている者が大半なので、 とても「泣く子とだんな」には逆らえません。

加えて、江戸時代には、引越しして新しい長屋を借りるにも、元の家主の身元保証が必要な仕組みで、二重三重に、義太夫の騒音に命がけで耐えなければならないしがらみがあったわけです。

ながやのはなみ【長屋の花見】演目

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お茶けに「練馬」のかまぼこ。ビンボー長屋の愉快で哀しい花見風景です。

別題:隅田の花見 貧乏花見(上方)

【あらすじ】

貧乏長屋の一同が、朝そろって大家に呼ばれた。

みんな、てっきり店賃の催促だろうと思って、戦々恐々。

なにしろ、入居してから18年も店賃を一度も入れていない者もいれば、もっと上手はおやじの代から払っていない。

すごいのは
「店賃てな、なんだ」

おそるおそる行ってみると、大家が
「ウチの長屋も貧乏長屋なんぞといわれているが、景気をつけて貧乏神を追っぱらうため、ちょうど春の盛りだし、みんなで上野の山に花見としゃれ込もう」
と言う。

「酒も一升瓶三本用意した」
と聞いて、一同大喜び。

ところが、これが実は番茶を煮だして薄めたもの。

色だけはそっくりで、お茶けでお茶か盛り。

玉子焼きと蒲鉾の重箱も、
「本物を買うぐらいなら、むりしても酒に回す」
と大家が言う通り、中身は沢庵と大根のコウコ。

毛氈も、むしろの代用品。

「まあ、向こうへ行けば、がま口ぐれえ落ちてるかもしれねえ」
と、情なくも、さもしい料簡で出発した。

初めから意気があがらないことはなはだしく、出掛けに骨あげの話をして大家に怒られるなどしながら、ようやく着いた上野の山。

桜は今満開で、大変な人だかり。

毛氈のむしろを思い思いに敷いて、
「ひとつみんな陽気に都々逸でもうなれ」
と大家が言っても、お茶けでは盛り上がらない。

誰ものみたがらず、一口で捨ててしまう。

「熱燗をつけねえ」
「なに、焙じた方が」
「なにを言ってやがる」

「蒲鉾」を食う段になると
「大家さん、あっしゃあこれが好きでね、毎朝味噌汁の実につかいます。胃の悪いときには蒲鉾おろしにしまして」
「なんだ?」
「練馬の方でも、蒲鉾畑が少なくなりまして。うん、こりゃ漬けすぎで、すっぺえ」

玉子焼きは
「尻尾じゃねえとこを、くんねえ」

大家が熊さんに、
「おまえは俳句に凝ってるそうだから、一句どうだ」
と言うと
「花散りて死にとうもなき命かな」
「散る花をナムアミダブツと夕べかな」
「長屋中歯をくいしばる花見かな」

陰気でしかたがない。

月番が大家に、
「おまえはずいぶんめんどう見てるんだから、景気よく酔っぱらえ」
と命令され、ヤケクソで
「酔ったぞッ。オレは酒のんで酔ってるんだぞ。貧乏人だってばかにすんな。借りたもんなんざ、利息をつけて返してやら。くやしいから店賃だけは払わねえ」
「悪い酒だな。どうだ。灘の生一本だ」
「宇治かと思った」
「口あたりはどうだ」
「渋口だ」

酔った気分はどうだと聞くと
「去年、井戸へ落っこちたときと、そっくりだ」

一人が湯のみをじっと見て
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことがわかるのかい」
「酒柱が立ちました」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

明治の奇人、馬楽十八番

上方落語「貧乏花見」を、明治37年(1904)ごろ、奇人でならした薄幸の天才、三代目蝶花楼馬楽が東京に移しました。明治38年(1905)3月の、日本橋常磐木倶楽部での第四回(第一次)落語研究会に、まだ二つ目ながら「隅田の花見」と題したこの噺を演じました。

これが事実上の東京初演で、大好評を博し、以後、この馬楽の型で多くの演者が手掛けるようになりました。

上方のものは、筋はほぼ同じですが、大家のお声がかりでなく、長屋の有志が自主的に花見に出かけるところが、江戸(東京)と違うところです。

馬楽から小さんへ

馬楽から弟弟子の四代目柳家小さんが継承し、小さんは、馬楽が出していた女房連をカット、くすぐりも入れて、より笑いの多い楽しめるものに仕上げました。

そのやり方は五代目小さんに伝えられ、さらにその門下の柳家小三治の極めつけへとつながっています。

オチは、馬楽のものは「酒柱」と「井戸へ落っこった気分」が逆で、後者で落としています。

このほか、上方のオチを踏襲して、長屋の一同がほかの花見客のドンチャン騒ぎをなれあい喧嘩で妨害し、向こうの取り巻きの幇間が酒樽片手になぐり込んできたのを逆に脅し、幇間がビビって「ちょっと踊らしてもらおうと」「うそォつけ。その酒樽はなんだ?」「酒のお代わりを持ってきました」とする場合もあります。

おなじみのくすぐり

どの演者でも、「長屋中歯を食いしばる」の珍句は入れますが、これは馬楽が考案し、百年も変わっていないくすぐりです。

いかに日本人がプロトタイプに偏執するか、これをもってもわかるというものです。

冒頭の「家賃てえのはなんだ」というのもこの噺ではお決まりですが、こちらは上方で使われていたくすぐりを、そのまま四代目小さんが取り入れたものです。

長屋

表長屋は表通りに面し、二階建てや間口の大きなものが多かったのに対し、裏長屋(裏店=うらだな)は新道や横丁、路地に面し、棟割(むねわり、一棟を間口九尺、奥行二間の何棟かに仕切ったもの)になっています。

同じ裏長屋でも、路地に面した外側は鳶頭や手習いの師匠など、ある程度の地位と収入のある者が、木戸内の奥は貧者が住むのが一般的でした。

上野の桜

「花の雲鐘は上野か浅草か」という、芭蕉の有名な句でも知られた上野山は、寛永年間(1624-44)から開けた、江戸でもっとも古く、由緒ある花の名所でした。

しかし、寛永寺には将軍家の霊廟があり、承応3年(1654)以来、皇族の門主の輪王寺宮が住職を務める、江戸でもっとも「神聖」な地となったため、下々の乱痴気騒ぎなどもってのほか。

「山同心」が常時パトロールして目を光らせ、暮れ六つ(午後六時ごろ)には山門は閉じられる上、花の枝を一本折ってもたちまち御用となるとあって、窮屈極まりないところでした。

そのため、上野の桜はもっぱら文人墨客の愛するものとなり、市民の春の行楽地としては、次第に後から開発された、品川の御殿山、王子の飛鳥山、向島に取って代わられました。

したがって、たとえ「代用品」ででも花見でのめや歌えをやらかそうと思えば、この噺にかぎっては、厳密には時代を明治以後にするか場所を向島にでも変えなければならないわけです。

はなみざけ【花見酒】演目

酒のみの噺。呑み助は、いろんなところでしくじるもののようですね。

あらすじ

幼なじみの二人。

そろそろ向島の桜が満開という評判なので
「ひとつ花見に繰り出そうじゃねえか」
と話がまとまった。

ところが、あいにく二人とも金がない。

そこで兄貴分がオツなことを考えた。

横丁の酒屋の番頭に灘の生一本を三升借り込んで花見の場所に行き、小びしゃく一杯十銭で売る。

酒のみは、酒がなくなるとすぐにのみたくなるものなので、みんな花見でへべれけになっているところに売りに行けば必ずさばける。

もうけた金で改めて一杯やろうという、なんのことはないのみ代稼ぎである。

そうと決まれば桜の散らないうちにと、二人は樽を差し担いで、向島までやって来る。

着いてみると、花見客で大にぎわい。

さあ商売だという矢先、弟分は後棒で風下だから、樽の酒の匂いがプーンとしてきて、もうたまらなくなった。

そこで、「お互いの商売物なのでタダでもらったら悪いから、兄貴、一杯売ってくれ」
と言い出して、十銭払って、グビリグビリ。

それを見ていた兄貴分ものみたくなり、やっぱり十銭出してグイーッ。

「俺ももう一杯」
「じゃまた俺も」
「それ一杯」
「もう一杯」
とやっているうちに、三升の樽酒はきれいさっぱりなくなってしまった。

二人はもうグデングデン。

「感心だねえ。このごった返している中を酒を売りにくるとは。けれど、二人とも酔っぱらってるのはどうしたわけだろう」
「なーに、このくらいいい酒だというのを見せているのさ」

なにしろ、おもしろい趣向だから買ってみようということで、客が寄ってくる。

ところが、肝心の酒が、樽を斜めにしようが、どうしようが、まるっきり空。

「いけねえ兄貴、酒は全部売り切れちまった」
「えー、お気の毒さま。またどうぞ」

またどうぞもなにもない。

客があきれて帰ってしまうと、まだ酔っぱらっている二人、売り上げの勘定をしようと、財布を樽の中にあけてみると、チャリーンと音がして十銭銀貨一枚。

「品物が三升売れちまって、売り上げが十銭しかねえというのは?」
「ばか野郎、考えてみれば当たり前だ。あすこでオレが一杯、ちょっと行っててめえが一杯。またあすこでオレが一杯買って、またあすこでてめえが一杯買った。十銭の銭が行ったり来たりしているうちに、三升の酒をみんな二人でのんじまったんだあ」
「あ、そうか。そりゃムダがねえや」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

経済破綻を予言 『花見酒の経済』   【RIZAP COOK】

昭和37年(1962)に出版され、話題になった笠信太郎の『花見酒の経済』は、当時の高度経済成長のただなか、なれ合いで銭が二人の間を行ったり来たりするだけのこの噺をひとつの寓話として、当局の手厚い保護下で資本が同じところをぐるぐるまわるだけの日本経済のもろさを指摘しました。のちに現実となった、昭和48年(1973)のオイルショックによる経済破綻を見事に予見した名著でした。

つまりは、この噺をこしらえた不明の作者は、遠く江戸時代から、はるか未来を見通していたダニエルのごとき大預言者だった、ということになりましょうか。

向島の桜  【RIZAP COOK】

八代将軍吉宗の肝いりで整備され、文化年間(1804-18)には押しも押されもせぬ江戸近郊有数の観光名所となりました。

向島は浅草から見て、隅田川の対岸一帯を指した名称です。江戸の草創期には、文字通りいくつもの島でした。花見は三囲神社から、桜餅で名高い長命寺までの堤が有名です。明治期には、枕橋から千住まで、約4kmに渡って、ソメイヨシノのトンネルが見られました。

復活待たれる噺  【RIZAP COOK】

八代目林家正蔵(彦六)や六代目春風亭柳橋が手がけました。おもしろく、皮肉なオチも含めてよくできた噺なのに、とかく小ばなし、マクラ噺扱いされがちのせいか、近年ではあまり聞きません。

明治期の古い速記では、四代目橘家円喬のが残っています。二代目三遊亭金馬のものも。明治41年(1908)の円喬の速記では、酒といっしょに兄貴分がつり銭用に、強引に酒屋に十銭借りていくやり方で、二人は「辰」と「熊」のコンビです。

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