とうなすやせいだん【唐茄子屋政談】演目

【RIZAP COOK】

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

どんなはなし?

吉原遊びが過ぎて勘当された若旦那の徳三郎を、相手にする者はいない。

吾妻橋で身投げのすんで、叔父さんに助けられ、唐茄子を売り歩くことに。

長屋衆の同情でたちまち売れて、残った唐茄子は二個。

その帰途、裏長屋のひもじい母子に唐茄子と売上をくれてやった……。

放蕩の果てに噛みしめた人の情け。お楽しみはこれからかもね。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

もっと知りたい方は以下をお読みください。

【あらすじ】

若旦那の徳三郎とくさぶろう

吉原の花魁おいらんに入れ揚げて家の金を湯水ゆみずのように使うので、親父も放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当かんどうだと言い渡される。

徳三郎は、蛙のツラになんとやら。

「勘当けっこう。お天道てんとさま(太陽)と米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」

威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だ、とていよく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと
「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」
と、ケンもほろろ。

もう土用どようの暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。

おまけに夕立ちでずぶ濡れ。

吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。

つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所ほんじょ達磨横丁だるまよこちょう大家おおや(管理人)をしている叔父おじさん。

止めようとして顔を見るとおいの徳。

「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」
「アワワ、助けてください」
「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
「お天道さまはついて回るけど、米の飯はついて回らない」
「ざまあみやがれ」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。

翌朝。

おじさん、唐茄子(かぼちゃ)を山のように仕入れてきた。

「今日からこれを売るんだ」

格好悪いとごねる徳を、叔父さんは
「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」
としかりつけ、天秤棒てんびんぼうをかつがせると、
「弁当は商いをした家の台所を借りて食え」
と教えて送りだす。

炎天下、徳三郎は重い天秤棒を肩にふらふら。

浅草の田原町たわらまちまで来ると、石につまづき倒れて、動けない。

見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋あいながやの者たち(同じ長屋の住人)に売りさばいてくれ、残った唐茄子はたった二個。

礼を言って、売り声の稽古けいこをしながら歩く。

吉原田圃たんぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店せいがんじだな

裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当をつかっている(食っている)と、五つばかりの男の子が指をくわえ、
「おまんまが食べたい」

事情を聞くと、亭主は元武士で、今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされない、という。

同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。

聞いた叔父さん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。

あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家いんごうおおやに出くわし、金を店賃たなちん(家賃)に取られてしまった、という。

八百屋さんに申し訳ない、と女はとうとう首くくり。

聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。

長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。

おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青緡五貫文あおざしごかんもん褒美ほうび

めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生



しりたい

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうにはお奉行さまは登場しません。

「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、二代目円朝)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)という、三遊派と柳派を代表する名人が得意にしました。

大正13年(1924)刊行の、晩年の三代目小さんの速記が残っていますが、滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若旦那の唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。

五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)は手がけず。現在、柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。

古くは、女がそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)もしばしば演じていました。

志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。

叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。

円生は饒舌じょうぜつで、徳がおやじの愚痴ぐちをひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。

キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。

若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。この古い江戸ことばは、語源が「お履物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。

履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あずまばし。架橋は安永3年(1774)。元は大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形一-三丁目、吾妻橋一丁目、本所三丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草四丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。

誓願寺は、浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、十五の塔頭を持つ大寺院でしたが、現在は府中市の多磨霊園正門前に移転しています。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

とみきゅう【富久】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

すべてが崖っぷちの久蔵。富くじ当たって、土俵際でうっちゃった佳話。

【あらすじ

浅草阿部川町の長屋に住む幇間の久蔵は、人間は実直だが大酒のみが玉に瑕。

酒の上での失敗であっちのだんな、こっちのだんなとしくじり、仕事にあぶれている。

ある年の暮れ深川八幡の富くじを、義理もあってなけなしの一分で買った。

札は「松の百十番」。

一番富に当たれば千両、二番富でも五百両。

久蔵、大神宮さまのお宮(神棚)に札をしまい、
「二番富でけっこうですから当たりますように」
と祈る。
「そうしたら堅気になり、二百三十両で売りに出ている小間物屋の店を買って、岡ぼれしている料亭「万梅」の仲居・お松っつあんを嫁にもらって」
と楽しい空想にふけりながら、一升酒をあおってそのまま高いびき。

夜中にすきま風で目を覚ますと、半鐘の音。

火事は芝金杉見当だという。

しくじった田丸屋のだんなの店はその方角だ。

久蔵、ご機嫌を取り結ぶのはこの時とばかり、押っ取り刀で火事見舞いに駆けつけると、幸い火は回っていない。

期待通りだんなが喜んで、出入りを許されたので久蔵は大喜び。

さっそく、火事見舞い客の張付けに大奮闘するが、ご本家から届けられた酒を見ると、もう舌なめずりで上の空。

だんなが苦笑して
「のむのはいいがな、おまえは酒でしくじったんだから、たんとのむなよ」
と言ってくれたので、大喜びで冷酒をあおっているうち、またもへべれけで寝入ってしまう。

夜更けに、また半鐘の音。

今度は久蔵の家がある浅草鳥越方向というので、だんなは急いで久蔵を起こすと、
「万一のことがあれば必ず店に戻ってこい」
と、ろうそくを持たせて帰す。

とんだ火事の掛け持ち。

久蔵、冬の夜空を急いで長屋に戻ると既に遅く、家は丸焼け。

しかたなく田丸屋に引き返すと、だんなは親切に店に置いてくれたので、久蔵は田丸屋の居候になる。

数日後、深川八幡の境内を通ると、ちょうど富くじの抽選。

「ああ、そう言えばおれも一枚買ったっけ」
と思い出したが、
「どうもあの札も火事で焼けちまった」
と、あきらめめ半分で見ていると
「一番、松の百十番」
の声。

「あ、当たったッ」

久蔵、卒倒した。

今すぐ金をもらうと二割引かれるが、そんなことはどうでもいい。
八百両あれば御の字だ。

「札をお出し」
「札は……焼けちまってないッ」
「当たり札がなければダメだ」
と言われ、
「よくも首っくくりの足を引っ張るようなまねをしやがったな、覚えてやがれ、俺は先ィ死んでてめえをとり殺す」
と、世話人にすごんでみても、ダメなものはダメ。

あきらめきれずに泣く泣く帰る途中、相長屋の鳶頭にばったり。
「火事だってえのに何処へ行ってたんだ。布団と釜は出しといてやった。それにしても、さすがに芸人だ。りっぱな大神宮さまのお宮だな。あれも家にあるよ」
「ど、泥棒ッ。大神宮さまを出せッ」
と半狂乱で喉首を締め上げたから、鳶頭は目を白黒。

やっと事情を聞いて
「なるほど、千両富の当たり札とは、狂うのも無理はねえ。運のいい男だなァ。おまえが正直者だから、正直の頭に神宿るだ」
「へえ、これも大神宮さまのおかげです。近所にお払いをいたします」

底本:八代目桂文楽

しりたい

八代目文楽の名人芸   【RIZAP COOK】

江戸時代の実話をもとに、円朝が創作したといわれる噺ですが、速記もなく、詳しいことはわかりません。というか、円朝作というのはうそでしょう。

それよりも、この噺の演者は、なんといっても八代目桂文楽が代表格です。文楽はすぐれた描写力で、冬の夜の寒さ、だんなと幇間の人間関係まで見事に浮き彫りにし、押しも押されぬ十八番に練り上げました。ここでのあらすじも文楽版をテキストにしていますが、強いていえば、人物の性格描写が時に類型的できれいごとに過ぎるのが、この師匠の難点だったでしょう。

そんなことはありませんよ」   【RIZAP COOK】

文楽の「富久」について、榎本滋民が気のきいた一文を残しています。

駆け出そうとする久蔵を、旦那が呼び止めて、類焼した場合には、遠慮なくうちを頼ってこいといってやるのだが、絶品とうたわれた八代目桂文楽の演出では、その前置きに、「そんなことはないよ」と、打ち消して見せる。念頭に浮かびがちな、いまわしい状況を、まず断定的に否認してやることによって、相手の不安の軽減を計る。さらに、「そんなことはない」とくり返してから、柔らかに逆転の「けど」をそえ、「もしものことがあったら、よそへ行くな。うちへ帰ってきておくれよ」という主文に接続させる。窮迫した者に、援助を確約しながら、その表明に、恩着せがましさをもたせまいとつとめるデリカシーが、この簡潔な否定の前置きに、十分働いている。表記の上では、なんの綾も曲もない否定文にしかすぎないものが、練達のいい回しによって、真情あふれる、味わい深いことばになるのも、話芸なればこそである。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

なるほど。鋭く豊かな視点に脱帽です。

志ん生の「媚びない久蔵」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生の「富久」も、文楽のそれとはまったく行き方の違う名品でした。

文楽が久蔵の実直さ、気の弱さを全面に出すのに対し、志ん生は酒乱と貧乏ゆえの居直り、ふてぶてしさを強調しました。志ん生の久蔵は、決してだんなに媚びてはいません。

ながらく貧乏していた志ん生は、久蔵の不安、やるせなさ、絶望感、それを酒に逃避する弱さを、自らの貧乏体験からはじき出して放埓に演じ、それが観客を勘違いさせて感動に結び付けていました。評論家諸氏は「志ん生は貧乏のどん底だった」といったりしますが、どうも違和感があります。たしかに「どん底」ではあったのかもしれませんが、「貧苦」とは無縁です。どこか楽しんでいたふしもあり、本人は「貧困」「貧窮」とは異なる次元での楽観した生活だったように思えます。

火事で家に急ぐ場面でも、文楽は「しょい、しょい、しょいこらしょっ」と様式的。志ん生は「寒い寒い、寒いよォ」と嘘も飾りもない裸の人間そのまま。両者の違いがはっきり出ています。

浅草阿部川町   【RIZAP COOK】

東京都台東区元浅草三、四丁目から寿一、二丁目。町名主が駿河(静岡県)の阿部川から移住してきたことから、この名があります。

もともと寺社地だったところが町屋になったためか、今でもこのあたりは寺ばかりです。江戸の頃は、裏長屋や同心などの御家人の住居が多く、正徳3年(1713)、町奉行所の直轄御支配地になっています。江戸時代には、役所が担当・管轄することを「支配」と呼んでいました。現代の「支配」とは意味合いが異なります。

大神宮さまのお宮   【RIZAP COOK】

大神宮とは伊勢神宮のことです。「神宮」は天皇家となにがしかの関係がある、ということを示しています。熱田神宮、鹿島神宮、香取神宮、平安神宮、明治神宮など、いろいろあります。こんなこと、ガッコ―ではおせえてくれませんな。

伊勢神宮というのは、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)をあわせて総称です。内宮は天照大神をまつり、外宮は豊受大御神をおまつっています。この神さま天照大御神の食事係りです。さらには、衣食住、産業の守り神としても崇敬されています。そこまで敷衍されるのは、この神さま、じつはお稲荷さまと同一神だともいわれています。その話はいずれどこかの項目で。

さて。

この噺の大神宮さまとは伊勢の神さまを祭る神床をさします。歳末になると家々に回ってくる伊勢神宮の御師が神床を配ります。御師は旧年のお祓いをしに回ります。御師とは下級の神職者で、全国を分担して巡回していたようです。御師は来年の御札(神符、大麻)も配りますから、この来年用のを神棚にまつるのです。神棚はどんな貧しい長屋住まいにもあったようです。

大神宮信仰は、江戸では水商売や芸人に多くあったといわれています。縁起をかつぎ、霊験に誓い、大神宮の神床をおのれの経済力以上に大きなものをまつったりしていました。

神床は伊勢神宮の神明造を模したもので、これを「大神宮の御宮」と呼んでいました。

江戸の末期になると、都市部の町人に経済力が備わって、伊勢参宮ができるほどになりました。とはいえ、生涯一度のもので、大半の人々には夢のまた夢。江戸にいながら参拝できるようにと、伊勢神宮が代用品に売り出していたのがこれらの品々です。

それすら高価なので、買うのは芸者や幇間など花柳界の者が中心。芸人の見栄で、無理しても豪華なものを買う習わし、というのが本心だったようです。見栄を張って生きているのですが、富くじはこのあたりに隠しておくのが通り相場だったようです。」

伊勢の御師  【RIZAP COOK】

いせのおんし。伊勢神宮の下級神官で、全国を回って、伊勢暦や大麻(天照大御神のお札)を売るのがつとめです。ほかの神社では御師を「おし」と呼びますが、伊勢神宮だけは「おんし」と呼びならわしています。

伊世よりも 三河は顔が のどかなり   二31

伊勢の御師 さて銭の無い さかりに来る   五12

転宅を 奇妙にさがす 伊勢の御師   六39

このネットワークは全国の最新情報を仕入れてくるため、事情通の人たちでした。今と違って引越し先を探すのは骨の折れることですが、そこはプロで、どこまでもやってくる、考えようによってはそらおそろしい人たちでした。伊勢神宮以外の神社でも同じような御師が多数巡回していましたが、伊勢神宮だけは数も多いし、配る(売りさばく)商品も多かったようです。

「三河」は三河万歳。笑わせるわけです。伊勢の御師はもっともらしくふるまうものですから、笑いはなく、年末年始に顔を出す二様のよそびとは雰囲気がかなり違っていたのですね。

糊屋

久蔵の長屋の火事、出火元は糊屋のばあさんからで、「爪に火をともすようにしていたんで、そこから火が出た」とかいったフレーズがあったりします。

糊屋のばあさんは、「出来心」など多くの噺に出てきますが、「糊屋のばばあ」「糊屋のばあさん」と言われることが多く、その人柄などはまったく描かれないようです。不思議な謎の人物です。

糊屋というのは、ご飯粒をつぶして洗い張り用の姫糊をつくって売って歩く職業です。糊屋のばあさんも売って歩いていたのでしょうか。

【RIZAP COOK】

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

しにがみ【死神】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

古典落語の傑作ですが、元ネタはイタリアやドイツにあるそうです。

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより もうかる 商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、もうかり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめた」
と教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、こうじ町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近愛人に迷って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけ機会をやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作登場!

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう一冊の本になってしまった(『落語「死神」の世界』西本晃二、青蛙房、2002年)ぐらいです。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」で、それを劇化したイタリアのコミック・オペラ「クリスピーノと死神」の筋を、三遊亭円朝が洋学者から聞き、落語に翻案したと言われます。

それはともかく、そこの旦那。ああた、あーたです。笑ってえる場合じゃあありません。このはなしを聞いて、たまには生死の深遠についてまじめにお考えになっちゃあいかがです。

美人黄土となる。明日ありと思う心の何とやら。死は思いも寄らず、あと数分後に迫っていまいものでもないのです。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

ヨーロッパの死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。

日本では、この噺のようにぼろぼろの経帷子きょうかたびらをまとった、やせた老人で、亡者もうじゃの悪霊そのもの。

ところが、落語版のこの「死神」では、筋の上では、西洋の翻案物のためか、ギリシア風の死をつかさどる神という、新しいイメージが加わっています。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎以来の、音羽屋の家の芸で、明治19年(1886)3月、五代目菊五郎が千歳座の「加賀かがとび」で演じた死神は、「頭に薄鼠うすねず色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子にねぎの枯れ葉のような帯」という姿でした。不気味にヒヒヒヒと笑い、登場人物を入水自殺に誘います。

客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

先代中村雁治郎がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味さとユーモラスが渾然一体で、絶品でした。

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊は、「死神」を改作して「誉れの幇間たいこ」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

「死神」のやり方

円朝から高弟の初代三遊亭円左が継承、さらに戦後は六代目円生、五代目古今亭今輔が得意にしました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、サゲも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種で落としました。

柳家小三治は、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方でした。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

にじゅうしこう【二十四孝】演目 

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

『の・ようなもの』で志ん魚が女子高生の家でこの噺をやっていました。ウケず。

あらすじ】  

長屋の乱暴者の職人、三日にあけずにけんか騒ぎをやらかすので、差配さはい(=大家)も頭が痛い。

今日もはでな夫婦げんかを演じたので、呼びつけて問いただすと、朝、一杯やっていると折よく魚屋が来てあじを置いていったので、それを肴にしようと思ったら、隣の猫が全部くわえていったのが始まり。

「てめえんとこじゃ、オカズは猫が稼いでくるんだろッ、泥棒めッ」
とどなると、女房が
「たかが猫のしたことじゃないか」
と、いやに猫の肩を持つので、
「さてはてめえ、隣の猫とあやしいなッ」
と、ポカポカポカポカ。

見かねた母親が止めに入ると
「今度はばばあ、うぬの番だ」
と、げんこつを振り上げたが、はたと考え、改めて蹴とばした、という騒ぎ。

大家はあきれて、
「てめえみたいな親不孝者は長屋に置けないから店を空けろ」
と怒る。

嫌だと言えば、「これでも若いころには自身番に勤めて、柔の一手も習ったから」
と脅すと、さすがの乱暴者も降参。

「ぜんてえ、てめえは、親父が食う道は教えても人間の道を教えねえから、こんなベラボウができあがっちまったんだ。『孝行のしたい時には親はなし』ぐらいのことは知ってそうなもんだ。昔は青緡五貫文あおざしごかんもんといって、親孝行すると、ごほうびがいただけたもんだ」「へえ、なにかくれるんなら、あっしもその親孝行をやっつけようかな。どんなことをすりゃいいんです」

そこで大家、
「昔、唐国に二十四孝というものがあって……」
と、故事を引いて講釈を始める。

例えば、秦の王祥おうしょうは、義理の母親が寒中に鯉が食べたいと言ったが、貧乏暮らしで買う金がない。そこで氷の張った裏の沼に出かけ、着物を脱いで氷の上に突っ伏したところ、体の温かみで溶け、穴があいて鯉が二、三匹跳ね出した。

「まぬけじゃねえか。氷が融けたら、そいつの方が沼に落っこちて往生(=王祥)だ」
「てめえのような親不孝ものなら命を落としたろうが、王祥は親孝行。その威徳を天が感じて落っこちない」

もう一つ。

孟宗もうそうという方も親孝行で、寒中におっかさんがたけのこを食べたいとおっしゃる。

「唐国のばばあってものは食い意地が張ってるね。めんどう見きれねえから踏み殺せ」
「なにを言ってるんだ」

孟宗、くわを担いで裏山へ。冬でも雪が積もっていて、筍などない。一人の親へ孝行ができないと泣いていると、足元の雪が盛り上がり、地面からぬっと筍が二本。

呉孟ごもうという人は、母親が蚊に食われないように、自分の体に酒を塗って蚊を引きつけようとしたが、その孝心にまた天が感じ、まったく蚊が寄りつかなかった、などなど。

感心した親不孝男、さっそくまねしようと家に帰ったが、母親は鯉は嫌いだし、筍は歯がなくてかめないというので、それなら一つ蚊でやっつけようと、酒を買う。

ところが、
「体に塗るのはもったいねえ」
とグビリグビリやってしまい、とうとう白河夜船しらかわよふね

朝起きると蚊の食った跡がないので、喜んで
「ばあさん見ねえ。天が感ずった」
「当たり前さ。あたしが夜っぴて(一晩中)あおいでいたんだ」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

しりたい】  

二十四孝な人たち  【RIZAP COOK】

『二十四孝』は中国の書。後世の模範となり得る、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた事跡をまとめています。元代の郭居敬が編集。

日本へは室町時代に伝わり、和訳の御伽草子で広まり、その影響は大きいものでした。江戸時代に入るとさらに大きく、四字熟語、関連物品の名称として一般化したもの、仏閣の建築物、人物図などが描かれたりしました。御伽草子や寺子屋の教材にも採られていました。

幕末には草双紙の『絵本二十四孝』も出ました。これは江戸時代を通してのベストセラーとなったほど。江戸時代には、二十四孝を知らない人はいなかったといえるでしょう。

ただ、この24人の事績はどこか逸脱しており、江戸人の茶化しのタネにはおあつらえ向きとなりました。落語で笑う題材にはなるべくしてなったといえるでしょう。

マクラなどで随時採り上げられる、その他の感心な方々に、王褒おうほう郭巨かっきょ黄山谷こうざんこくなどがいます。

「王褒と雷」は、雷嫌いの母親が死んで、王褒がその墓を雷から守るという、忠犬ハチ公か忠犬ボビーのようなお話。

「郭巨の釜掘り」では、母親に嫁の乳をのませるため、子供を犠牲にして生き埋めにしようとすると、金塊を掘り当てるという猟奇的な話。

黄山谷は、父親の下の世話をするというもので、現代の介護問題の先取りのような話。名前からしてクサイものに縁がありそうな男ですが。

このうち郭巨の逸話は、戦前の日本ではかなりポピュラーで、明治の「珍芸四天王」の一人、四代目立川談志(中森定吉、生年不明-1889)がパントマイムのネタにし、「この子があっては孝行ができない、テケレッツノパ、天から金釜郭巨にあたえるテケレッツノパ」とやって大当たりしたことで有名です。人気があったことからこの人を初代談志とする向きもあります。

孟宗の筍掘りは、歌舞伎時代狂言『本朝二十四孝』の重要なプロットになっているほか、かつて、三木のり平が声の出演をしていた「桃屋」のテレビCMでも、パロディー化して使われました。魯迅ろじん(周樹人、1881-1936)はこのばかばかしさを批判的に描いてはいますが。

差配  【RIZAP COOK】

明治以後、大家が町役でなく、単なる「管理人」となってから、この名で呼ばれるようになりました。「差配する」とは、文字通り、土地や建物を管理する意です。

オチの工夫  【RIZAP COOK】

古い速記は、明治24年(1891)7月の三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)、ついで同27年(1894)7月、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)のものが残っています。

現在でも、多くの落語家が手掛けていますが、「道灌」と同様、前座噺の扱いで、どこでも切れるため演者によってオチが異なります。

たとえば、呉孟をまねるくだりでも「オレなら、二階の壁に酒を吹っかけて、蚊が集まったところで梯子をはずす」というもの、母親が「甘酒がのみたい」と言うのを「二十四孝に酒はねえ」とオチるものなど、さまざまです。

孟宗のくだりで切って、母親が筍のおかわりを求めるので、「もう、そうはねえ」と地口で落とす場合もあります。

現行は、今回あらすじに記載した形が、もっとも一般的です。

八代目林家正蔵(=彦六、岡本義、1895-1982)は、大家が「孟宗の親孝行を」と言いかけたのを「おっと、天が感じたね」と先取りしてオチにし、時代を明治初期としていました。

中国の説話から構成  【RIZAP COOK】

原話は、安永9年(1780)刊の笑話本『初登はつのぼり』中の「親不孝」。これは、先述の通り、中国・元代(1271-1368)にまとめられた儒教臭ぷんぷんの教訓的説話をもとにしたものです。王祥や孟宗の逸話を採ったものを主にして、それらに呉孟のくだりなどいくつかの話を付け加えて、新たにつくられました。

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  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

さんぽういちりょうぞん【三方一両損】演目

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柳原土手で金が拾った三両。ホントの意味はこういうことなんですね。

【あらすじ】

神田白壁町かんだしろかべちょうの長屋に住む左官さかんの金太郎。

ある日、柳原やなぎはら土手どてで、同じく神田竪大工町かんだたてだいくちょうの大工・熊五郎名義の書きつけと印形、三両入った財布を拾ったので、さっそく家を訪ねて届ける。

ところが、偏屈へんくつ宵越よいごしの金を持たない主義の熊五郎、
印形いんぎょうと書きつけはもらっておくが、オレを嫌って勝手におさらばした金なんぞ、もうオレのものじゃねえから受け取るわけにはいかねえ、そのまま持って帰れ」
と言い張って聞かない。

「人が静かに言っているうちに持っていかないとためにならねえぞ」
と、親切心で届けてやったのを逆にすごむ始末なので、金太郎もカチンときて、大げんかになる。

騒ぎを聞きつけた熊五郎の大家おおやが止めに入るが、かえってけんかが飛び火する。

熊が
「この逆蛍さかぼたる店賃たなちんはちゃんと入れてるんだから、てめえなんぞにとやかく言われる筋合いはねえ」
と毒づいたから、大家はカンカン。

「こんな野郎はあたしが召し連れ訴えするから、今日のところはひとまず帰ってくれ」
と言うので、腹の虫が納まらないまま金太郎は長屋に引き上げ、これも大家に報告すると、こちらの大家も、
「向こうに先に訴えられたんじゃあ、てめえの顔は立ってもオレの顔が立たない」
と、急いで願書を書き、金太郎を連れてお恐れながらと奉行所へ。

これより名奉行、大岡越前守おおおかえちぜんのかみ様のお裁きとあいなる。

白州しらすで、それぞれの言い分を聞いいたお奉行さま。

問題の金三両に一両を足し、金太郎には正直さへの、熊五郎には潔癖さへのそれぞれ褒美として、各々に二両下しおかれる。

金は、拾った金をそのまま取れば三両だから、都合一両の損。

熊も、届けられた金を受け取れば三両で、これも一両の損。

奉行も褒美ほうびに一両出したから一両の損。

したがって三方一両損で、これにて丸く収まるという、どちらも傷つかない名裁き。

二人はめでたく仲直りし、この後奉行の計らいで御膳が出る。

「これ、両人とも、いかに空腹でも、腹も身のうち。たんと食すなよ」
「へへっ、多かあ(大岡)食わねえ」
「たった一膳(=越前)」

【しりたい】

講談の落語化

文化年間(1804-18)から口演されていた古い噺です。講談の「大岡政談おおおかせいだんもの」の一部が落語に脚色されたもので、さらにさかのぼると、江戸初期に父子で名奉行とうたわれた板倉勝重いたくらかつしげ(1545-1624)、重宗しげむね(1586-1656)の事績を集めた『板倉政要いたくらせいよう』中の「聖人公事せいじんくじさばき」が原典です。

大岡政談

落語のお奉行さまは、たいてい大岡越前守と決まっていて、主な噺だけでも「大工調べ」「帯久」「五貫裁き」「小間物屋政談」と、その出演作品はかなりの数です。

実際には、大岡忠相おおおかただすけ(1677-1751)が江戸町奉行職にあった享保きょうほう2年-元文げんぶん元年(1717-36)に、自身で担当したおもな事件は白子屋しらこや事件くらいで、有名な天一坊てんいちぼう事件ほか、講談などで語られる事件はほとんど、本人とはかかわりありません。

伝説だけが独り歩きし、講釈師や戯作者げさくしゃの手になった『大岡政談実録』などの写本から、百編近い虚構の逸話が流布。それがまた「大岡政談」となって講談や落語、歌舞伎に脚色されたわけです。➡町奉行

古い演出

明治の三代目春風亭柳枝(1852-1900、鈴木文吉)は、このあとに「文七元結」を続ける連作速記で、全体を「江戸っ子」の題で演じています。

柳枝では、二人の当事者の名が、八丁堀岡崎町おかざきちょうの畳屋・三郎兵衛と、神田江川町かんだえがわちょうの建具屋・長八となっていて、時代も大岡政談に近づけて享保のころとしています。

また、長八が金を落としてがっかりするくだりを入れ、オチの部分を省くなど、現行とは少し異なります。

昭和に入って八代目三笑亭可楽(1898-1964、麹池元吉)が得意とし、その型が現在も踏襲されています。

召し連れ訴え

「大家といえば親も同然」と、落語の中でよく語られる通り、大家おおや(家主いえぬし)は、店子たなこに対して絶対権力を持っていました。

町役ちょうやくとして両御番所(南北江戸町奉行所)、大番屋などに顔が利いた大家が、店子の不正を上書を添えて「お恐れながら」とお上に訴え出るのが「召し連れ訴え」です。もちろん、この噺のように店子の代理人として、ともども訴え出ることもありました。

十中八九はお取り上げになるし、そうなれば判決もクロと出たも同然ですから、芝居の髪結新三かみゆいしんざのようなしたたかな悪党でも、これには震え上がったものです。

ねどこ【寝床】演目

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旦那の義太夫を聴く長屋の連中の七転八倒ぶり。八代目文楽のおはこです。

別題:素人義太夫 素人浄瑠璃(上方)

あらすじ

ある商家の旦那、下手な義太夫に凝っている。

それも人に聴かせたがるので、みな迷惑。

今日も、家作の長屋の連中を集めて自慢のノドを聞かせようと、大張りきり。

「最初は御簾内みすうちだ。それから橋弁慶はしべんけい、あとへひとつ艶容女舞衣あですがたおんなまいぎぬ三勝半七酒屋さんかつはんしちいざかやの段をやって、伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ御殿政岡忠義ごてんまさおかちゅうぎの段と、あと、久しぶりにそうですな、太閤記たいこうき・十段目尼崎あまがさきを。ついで菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ松王丸屋敷まつおうまるやしきから寺子屋てらこやを熱演して、次に関取千両幟せきとりせんりょうのぼり稲川内いながわうちの段から櫓太鼓やぐらだいこ曲弾きょくひきになって、ここは三味線しゃみせんにちょっともうけさせておいて、このへんで私の十八番、三十三間堂棟由来さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい平太郎住居へいたろうすみかから木遣きやり、玉藻前旭袂たまものまえあさひのたもと・三段目道春館みちはるやかたの段、本朝二十四孝ほんちょうにじゅうしこう・三段目勘助住家かんじゅうろうすみかの段、生写朝顔日記しょううつしあさがおにっき宿屋やどやから大井川おおいがわでは満場をうならせるから。あとへ、彦山権現誓助剣ひこさんごんげんちかいのすけだち毛谷村六助家けやむらろくすけいえの段、播州皿屋敷ばんしゅうさらやしき鉄山館てつさんやかたの段、恋娘昔八丈こいむすめむかしはちじょう・お駒才三こまさいざ城木屋しろきやから鈴ヶ森すずがもりを熱演して、近頃河原達引ちかごろかわらのたてひき・お俊伝兵衛堀川しゅんでんべえほりかわの段、あとへ、碁盤太平記ごばんたいへいき白石噺吉原揚屋しらいしばなしよしわらあげやの段、一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんきを語って、伊賀越道中双六いがごえどうちゅうすごろく沼津千本松原ぬまづせんぼんまつばらをいきましょう。そらから、忠臣蔵ちゅうしんぐら大序だいじょから十一段ぶっ通して、後日ごじつ清書きよがきまで語るから」

番頭の茂造に長屋を回って呼び集めさせ、自分は小僧の定吉さだきちに、さらしに卵を買ってこい、お茶菓子はどうした、料理は、見台けんだいは、と、うるさいこと。

ところが、茂造が帰ると、雲行きが怪しくなる。

義太夫好きを自認する提灯屋ちょうちんやは、お得意の開業式で三百五十ほど請け負ったので来られず、小間物屋は、かみさんが臨月りんげつで急に虫がかぶり(産気さんけづき)、鳶頭とびのかしらは、ごたごたの仲裁と、口実を設けて誰も来ないとわかると、だんなはカンカン。

店の一番番頭の卯兵衛うへえまで、二日酔いで二階で寝ていると言うし、他の店の者も、やれ脚気かっけだ、胃痙攣いけいれんだと、仮病けびょうを使って出てこない。

「それじゃ、おまえはどうなんだ」
「へえ、あたしはその、一人で長屋を回ってまいりまして……」

しどろもどろで言い訳しようとすると、旦那がにらむので
「ええ、あたしは因果と丈夫で。よろしゅうございます。覚悟いたしました。伺いましょう。あたしが伺いさえすりゃ」
と、涙声。

旦那は怒り心頭で
「ああよござんす、どうせあたしの義太夫はまずいから、そうやってどいつもこいつも仮病を使って来ないんだろ。やめます。だがね、義太夫の人情がわからないようなやつらに店ァ貸しとくわけにはいかないから、明日十二時限り明け渡すように、長屋の連中に言ってこい」
と大変な剣幕。

返す刀で、
「まずい義太夫はお嫌でしょう、みんな暇をやるから国元へ帰っとくれ」
と言い渡して、旦那はふて寝。

しかたなく、店の者がもう一度長屋を回ると、店だてを食うよりはと、一同渋々やってくる。

茂造が、みんなさわりだけでも聞きたがっていると、うって変わってお世辞を並べたので、意地になっていた旦那、現金なもので、ころりと上機嫌。

長屋の連中、陰で、横町の隠居が旦那の義太夫で「ギダ熱」を患ったとか、佐々木さんとこの婆さんは七十六にもなって気の毒だとかぶつくさ。

旦那、あわただしく準備をし直し、張り切ってどら声を張り上げる。

どう見ても、人間の声とは思えない。

動物園の脇を通るとあんな声が聞こえる、この家の先祖が義太夫語りを絞め殺したのがたたってるんだと、一同閉口。

まともに義太夫が頭にぶつかると即死だから、頭を下げて、とやっているうち、酒に酔って残らずその場でグウグウ。

旦那、静かになったので、感動して聞いているんだろうと、御簾内から覗くとこのありさまで、家は木賃宿じゃないと怒っていると、隅で定吉が一人泣いている。

旦那が喜んで、
「子供でさえ義太夫の情がわかるのに、恥ずかしくないか」
と説教し、定吉に
「どこが悲しかった? やっぱり、子供が出てくるところだな。『馬方三吉子別うまかたさんきちこわかれ』か? 『宗五郎そうごろうの子別れ』か? そうじゃない? あ、『先代萩せんだいはぎ』だな」
「そんなとこじゃない、あすこでござんす」
「あれは、あたしが義太夫を語ったとこじゃないか」
「あたくしは、あすこが寝床でございます」

底本:八代目桂文楽

しりたい

日常語だった「寝床」

上方落語「素人浄瑠璃しろうとじょうるり」を、「狂馬楽きょうばらく」と呼ばれた奇人・三代目蝶花楼馬楽ちょうかろうばらくが明治中期に東京に移したとされますが、明治22年(1889)の二代目柳家(禽語楼きんごろう)小さんの速記が残るので、それ以前から東京でも演じられていたのでしょう。

古くから東西で親しまれた噺で、少なくとも戦前までは「下手の横好き」のことを「寝床」といって普通に通用したほどです。

佐々木邦ささきくに著『ガラマサどん』(太白書房、1948年)では、ビール会社のワンマン社長が社員相手に「寝床」をそっくり再現して笑いを誘いました。これもむろん落語が下敷きになっています。初出は昭和5年(1930)、月刊誌『キング』に連載されました。古川ロッパ主演で、舞台や映画でも人気を集めました。

原話と演者など

江戸初期の寛永年間(1624-44)刊行の笑話本『醒睡笑せいすいしょう』や『きのふはけふの物語』にすでに類話があります。最も現行に近い原話は安永4年(1775)刊『和漢咄会わかんはなしかい』中の「日待ひまち」で、オチも同じです。

三代目三遊亭円馬が上方のやり方を踏襲して演じ、それを弟子筋の八代目桂文楽が直伝で継承、十八番としました。

主人公がいかにへたくそとはいえ、演じる側に義太夫の素養がないとこなしきれないため、大看板でも口演できるものは限られます。近代では、文楽のほか六代目三遊亭円生が子供義太夫語りの前身を生かして「豊竹屋とよたけや」とともに自慢ののどを聞かせ、三代目金馬、八代目三笑亭可楽も演じました。

異色の志ん生版「寝床」

五代目古今亭志ん生は、「正統派」の文楽・円生に対抗して、ナンセンスに徹した異色の「寝床」を演じました。前半を短くまとめ、後半、だんなが逃げる番頭を追いかけながら義太夫を語り、「獲物」が蔵に逃げ込むと、その周りを悪霊のようにグルグル回ったあげく、とうとう蔵の窓から語り込み、中で義太夫が渦を巻いて、番頭が悶絶というすさまじいもの。オチは「今ではドイツにいるらしい」という奇想天外。

実はこれ、師匠だった初代柳家三語楼さんごろうのやり方をそのまま踏襲したものです。三語楼は、英語まじりのくすぐりを連発するなど、生涯エログロナンセンスの異端児で通した人でした。

むろん、このやり方では「寝床」の題のいわれもわからず、正道とはいえません。無頼の青春を送り、不遇が長かった志ん生は、師匠の反逆精神にどこか共鳴し、それを引き継いでいたのでしょうか。このやり方で演じるのは少数です。あまりよいできとは思えませんが。

義太夫

大坂の竹本義太夫(1651-1714)が貞享2年(1685)ごろ、播磨流浄瑠璃はりまりゅうじょうるりから創始、二世義太夫(1691-1744)が大成し、人形芝居(文楽)とともに、上方文化のいしずえとして興隆しました。

噺に登場する「先代萩」など三編はいずれも今日でも文楽の重要なレパートリーになっている代表作です。義太夫が庶民間に根付き、必須の教養だった明治期までは、このほか「釜入かまいりの五郎市ごろいち」「志度寺しどじ坊太郎ぼうたろう」などの子役を並べました。

だんなの強権

この噺の長屋は通りに面した表長屋おもてながやで、おそらく二階建て。義太夫旦那は、居附き地主といって、地主と大家を兼ねています。

表長屋は、店子たなごは鳶頭など、比較的富裕で、今で言う中産階級の人々が多いのですが、単なる賃貸関係でなく、店に出入りして仕事をもらっている者が大半なので、 とても「泣く子と旦那」には逆らえません。

加えて、江戸時代には、引越しして新しい長屋を借りるにも、元の家主の身元保証が必要な仕組みで、二重三重に、義太夫の騒音に命がけで耐えなければならないしがらみがあったわけです。