そこつながや【粗忽長屋】落語演目

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 【どんな?】

「粗忽」とはあわてん坊の意。
行き倒れの主が自分!? 
粗忽者はさて、どうする。

あらすじ

長屋住まいの八五郎と熊五郎は似た者同士で、兄弟同様に仲がいい。

八五郎は不精ぶしょうでそそっかしく、熊五郎はチョコチョコしていてそそっかしいという具合で、二人とも粗忽さでは、番付がもしあれば大関を争うほど。

八の方は信心はまめで、毎朝浅草の観音さまにお参りに行く。

ある日、いつもの通り雷門かみなりもんを抜け、広小路ひろこうじにさしかかると、黒山の人だかり。

行き倒れだという。

強引に死体を見せてもらうと、そいつは借りでもあって具合が悪いのか、横を向いて死んでいる。

恐ろしく長っ細い顔だが、こいつはどこかで見たような。

「こいつはおまえさんの兄弟分かい」
「ああ、今朝ね、どうも心持ちが悪くていけねえなんてね。当人はここで死んでるのを忘れてんだよ」
「当人? おまえさん、兄弟分が浅ましい最期さいごをとげたんで、取りのぼせたね。いいかい、しっかりしなさいよ」
「うるせえ。のぼせたもクソもあるもんけえ。うそじゃねえ明かしに、おっ死んだ当人をここへ連れて来らァ」

八五郎、脱兎だっとのごとく長屋へ駆け込むや、熊をたたき起こし、
「てめえ、浅草の広小路で死んだのも知らねえで、よくもそんなにのうのうと寝てられるな」
と息巻く。

「まだ起きたばかりで死んだ心持ちはしねえ」
と熊。

昨夜どうしていたかと聞くと、本所ほんじょの親類のところへ遊びに行き、しこたまのんで、吉原をヒヤカした後、田町でまた五合ばかり。その後ははっきりしないという。

「そーれ見ねえ。つまらねえものをのみ食いしやがるから、田町から虫の息で仲見世なかみせあたりにふらついてきて、それでてめえ、お陀仏だぶつになっちまったんだ」

そう言われると、熊も急に心配になった。

「兄貴、どうしよう」
「どうもこうもねえ。死んじまったものはしょうがねえから、これからてめえの死骸しがいを引き取りにいくんだ」
というわけで、連れ立ってまた広小路へ。

「あらら、また来たよ。あのね、しっかりしなさいよ。しょうがない。本人という人、死骸をよくごらん」

コモをまくると、いやにのっぺりした顔。

当人、止めるのも聞かず、死体をさすって、
「トホホ、これが俺か。なんてまあ浅ましい姿に……こうと知ったらもっとうめえものを食っときゃよかった。でも兄貴、何だかわからなくなっちまった」
「何が」
「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう」

しりたい

主観長屋?   【RIZAP COOK】

アイデンティティー(本人に間違いないこと)の不確かさを見事に突いた鮮やかなオチです。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は、主人公の思い込みの原因は「あまりにも強すぎる『主観』にある」という解釈で、「主観長屋」の題で演じましたが、この場合の「主人公」は八五郎の方で、いったん、こうと思い込んだが最後、刀が降ろうが槍が降ろうがお構いなし。1+1は3といったら3なのです。

対照的に相棒の熊は、自我がほぼ完璧に喪失していて、その表れがオチの言葉です。

どちらも誇張されていますが、人間の両極を象徴しています。

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、「死んでいるオレは……」と言ってはならないという教訓を残していますが、なるほど、この兄ィは、自分の生死さえ上の空なのですから当然でしょう。

代々の小さんに受け継がれた噺で、脳内に霞たなびく熊五郎が抱腹絶倒ほうふくぜっとうの十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)の芸風こそ、その直系を感じさせました。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の貴重な音源が残っているほか、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、七代目談志のものが多く出ています。

自身番のこと   【RIZAP COOK】

自身番屋じしんばんやは、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。

昼間は普通、町役ちょうやく(おもに地主)の代理である差配さはい(大家)が交代で詰め、表通りに地借りの商家から出す店番たなばん1名、事務や雑務いっさいの責任者で、町費で雇う書役しょやく1名と、都合3名で切り盛りします。

行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目です。

身元引受人が名乗り出れば確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院えこういんなどの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。

その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でした。

したがって、自身番にすれば、こういうおめでたい方々が現れてくれれば、かえって渡りに船だったかもしれません。

浅草広小路   【RIZAP COOK】

浅草寺の雷門前のあたりをいいました。雷門広小路とも。台東区浅草1丁目、2丁目。

浅草広小路には、女川菜飯めかわなめしという人気の飯屋がありました。

ここの菜飯は、東海道の石部・草津間にある目川めかわ村でつくられる菜飯の風味をまねていたそうです。

客寄せから、目川が女川に。値段は1膳12文、菜飯以外に田楽も出したそうです。



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いちすけざけ【市助酒】落語演目

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【どんな?】

酒好きの市助は番小屋勤め。ねぎらいの酒で寝てしまい。
寒夜は熱燗をぐいいと、てな気持ちにさせてくれる噺。

あらすじ

親父の跡を継ぎ、町内の番小屋で火の番兼走り使いをしている市助という男。

まじめな男だが、酒好きなのが玉に瑕。

ある夜も酔っぱらって火の用心とでかい声を張り上げ、夜回りに歩いていると、質屋の伊勢屋の店から灯が漏れているので、戸をドンドンたたき
「火の用心、ええ火の用心、火の用心」
と、しつこく叫んで、番頭の藤兵衛に追い払われる。

だんなはこれを聞くと、
「飲んべえでも、ちゃんと役目を果たしているのだし、本来なら町内の各表店で火の番に人を出さなければならないお定めなのを、市助を雇ってやらせている、寒い夜の見回りで、酒でものまなければわずらってしまう稼業なのだから、もっとねぎらってやらなければいけない」
と、さとす。

藤兵衛は反省して、
「明日の晩、市助が来たら酒をおごってやろう」
と待っていたが、どういうわけかなかなか現れない。

市助の方でも、伊勢屋をしくじったと思ったから、なるべく店の前を避けて回っていたが、とうとう見つかった。

藤兵衛はさっそく店に呼び入れて、恐縮するのを無理にのませると、酒が回ってだんだん気が大きくなった市助、
「番頭さんは実に親切でいい方だ。お店の台所まで指図して火の用心を心掛けなさるし、犬にまで情け深く、煙管も銀のいいのをお使いだ」
とおべんちゃらを並べたあげく、
「もう一杯、もう一杯」
とねだって、かれこれ五合。

すっかりいい機嫌で帰る。

番小屋に戻るとそのまま寝てしまったが、見回りの時刻だと若い衆にたたき起こされ、寝ぼけ眼で酔いも醒めないまま、また回り始めた。

藤兵衛が見つけて、
「あの後、またどこかで飲りやがったのだろう、また戸をたたかれて、小言の種をまかないうち、こっちからあいさつしてやろう」

「市助さん、あー、ご苦労。あたしのとこはしっかり気をつけてるよ」
「なあに、お宅は焼けたって、ようございます」

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原話

原話は元禄14年(1701)刊の上方笑話本『百登瓢箪ひゃくなりびょうたん』中の「番太郎」、安永2年(1773)刊の『再成餅ふたたびもち』」中の「火の用心」。

原話二話のうち、後者はごく短いもので、番太郎が裏長屋を火の番で回っているとき、ある家から呼びいれられる筋で、オチも同じですが、ごちそうになるのは、貧乏長屋らしく、ねぎ雑炊二杯と、ごくわびしいものです。

上方落語の大ネタ「下役酒」として発展した噺を、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植したものです。

番小屋

隣町との境の四つ辻に町木戸があり、その開閉と不審者の通報、火事の際の半鐘打ちなどに任じる木戸番(番太郎)の住む木戸番屋、町費で雇う書役(町役)の詰める自身番屋がありました。

前者は普通荒物屋や駄菓子屋を営み、後者には、地借りで表通りに店を出す商人が順番に宿直(店番)しましたが、主人の代理で番頭や手代などが詰めることが多かったとか。

火の用心の見回りは、本来は店番の仕事ですが、この噺では、これを非公式にあぶれ者の市助を雇い、使い走りをやらせているわけです。

火の番は「二番煎じ」にも登場しますが、木戸が閉まる四ツ過ぎ(午後10時頃)から明け六ツ(午前5時頃)まで、一晩中、特にこの噺の伊勢屋のような大店には一軒一軒回って「火の用心さっしゃりましょう」と呼びかけます。

噺の発端では、伊勢屋から深夜になっても明かりが漏れているので、市助が不用心だと気を回したわけです。

半鐘が鳴った場合は、火の番は太鼓を叩いて火元の方角を触れてまわる義務がありました。

やはり「本家」は大阪

現在、東京ではあまり演じられません。

上方では比較的ポピュラーで、自身酒のみで、「一人酒盛り」など酒の噺を得意としていた六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)が得意としていました。

オチは、東京のものは、前に番頭に怒鳴られたので気を使うあまり、おべんちゃらで「お宅は言わなくてもちゃんとしておられますから」というところを言葉の上で失敗したとされます。

やや唐突過ぎて、シャレになりません。

上方の方は「滅相な、ご当家ではどうでも大事ございません」とオチています。

こちらの方がまだ自然ですが、その分、平凡になります。

「大事ございません」だけならまともで、「どうでも」をつけたからあらぬ意味にとられるというわけです。

こうした言葉の機微を感じとれなければ、かえって、なんのことかわからなくなるでしょうね。

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