だいくしらべ【大工調べ】落語演目



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【どんな?】

店賃滞納で大家に道具箱を取り上げられた大工の与太。
棟梁が乗り込んだが、功なくお白州へ。奉行は質株の有無を訊く。
道具箱が店賃のかたなら質株が要る。ないので大家にとがあり。
大家は与太に手間賃を払うことで一件落着。

別題:大岡裁き あた棒

あらすじ

神田小柳町かんだこやなぎちょうに住む大工の与太郎よたろう

ぐずでのろまだが、腕はなかなか。

老母と長屋暮らしの毎日だ。

ここのところ仕事に出てこない与太郎を案じた棟梁とうりゅう政五郎まさごろうが長屋までやって来ると、店賃たなちんのかたに道具箱を家主いえぬし源六げんろくに持っていかれてしまったとか。

仕事に行きたくても行けないわけ。

四か月分、計一両八百文ためた店賃のうち、一両だけ渡して与太郎に道具箱を取りに行かせる。

政五郎に「八百ばかりはおんの字だ、あたぼうだ」と教えられた与太郎、うろおぼえのまま源六に「あたぼう」を振り回し、怒った源六に「残り八百持ってくるまで道具箱は渡せない」と追い返される。

与太郎が
「だったら一両返せ」
と言えば
「これは内金にとっとく」
と源六はこすい。

ことのなりゆきを聞いた政五郎、らちがあかないと判断。

与太郎とともに乗り込むが、源六は強硬だ。

「なに言ってやがんでえ。丸太ん棒と言ったがどうした。てめえなんざ丸太ん棒にちげえねえじゃねえか。血も涙もねえ、目も鼻も口もねえ、のっぺらぼうな野郎だから丸太ん棒てんだ。呆助ほうすけ藤十郎とうじゅうろう、ちんけいとう、芋っぽり、株かじりめ。てめえたちに頭を下げるようなおあにいさんとおあにいさんのできが、すこうしばかり違うんだ。ええ、なにを言いやがんだ。下から出りゃつけ上がり、こっちで言う台詞せりふだ、そりゃ。だれのおかげで大家おおやだの町役ちょうやくだの言われるようになったでえ。大家さん大家さんと、下から出りゃその気になりゃあがって、俺がてめえの氏素性うじすじょうをすっかり明かしてやるから、びっくりして赤くなったり青くなったりすんな。おう、おめえなんざな、元はどこの馬の骨だか牛の骨だかわかんねえまんま、この町内に流れ込んで来やがった。そん時のざまあ、なんでえ。寒空に向かいやがって、洗いざらしの浴衣ゆかた一枚でガタガタガタガタ震えやがって、どうかみなさんよろしくお願いしまうってんで、ペコペコ頭を下げてたのを忘れやしめえ。さいわいと、この町内の人はお慈悲じひ深いや。かわいそうだからなんとかしてやりましょうてんで、この常番じょうばんになったんだ。一文の銭、二文の銭をもらいやがって、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、この町内の使いやっこじゃねえか。なあ、そのてめえの運の向いたのはなんだ。六兵衛番太ろくべえばんたが死んだからじゃねえか。六兵衛のことを忘れるとバチが当たるぞ。おう、源六さん、おなかがすいたら、うちのいもを持っていきなよ、寒かったらこの半纏はんてんを着たらだらどうだいってんで、なにくれとなくてめえのめんどうを見てた。この六兵衛が死んだあと、六兵衛のかかあにつけ込みやがって、おかみさん芋洗いましょう、まき割りましょうってんで、ずるずるべったりに、このうち入り込みやがったんだ。二人でもって爪に火ぃともすように金をためやがってな、高い利息で貧乏人に金貸し付けやがって、てめえのためには何人泣かされてるのかわかんねえんだ。人の恨みのかかった金で株を買いやがって、大家でござい、町役でござい、なに言いやがんだ、てめえなんざ大悪おおわるだ。六兵衛と違って、場違いな芋を買ってきやがって、き付けをしむから生焼なまやけのガリガリの芋だ。その芋を食って、何人死んだかわからねえんだ。この人殺しぃ」

怒った政五郎は 啖呵たんかを切った。

「この度与太郎事、家主源六に二十日余り道具箱を召し上げられ、老いたる母、路頭に迷う」
と奉行所へ訴えた。

お白州で、両者の申し立てを聞いた奉行は、与太郎に、政五郎から八百文を借り、すぐに源六に払うよう申し渡した。

源六は有頂天。

またもお白州。

奉行が源六に尋ねた。
「一両八百のかたに道具箱を持っていったのなら、その方、質株しちかぶはあるのか」
源六「質株、質株はないッ」
奉行「質株なくしてみだりに他人の物を預かることができるか。不届き至極の奴」

結局、質株を持たず道具箱をかたにとったとがで、源六は与太郎に二十日間の大工の手間賃として二百もんめ払うよう申しつけられてしまった。

奉行「これ政五郎、一両八百のかたに日に十匁の手間とは、ちと儲かったようだなァ」
政五郎「へえ、大工は棟梁、調べをごろうじろ(細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ)」

しりたい

大家のご乱心

お奉行所の質屋に対する統制は、それは厳しいものでした。質物には盗品やご禁制の品が紛れ込みやすく、犯罪の温床になるので当然なのです。

早くも元禄5年(1692)には惣代会所そうだいかいしょへ登録が義務付けられ、享保きょうほうの改革時には奉行所への帳面の提出が求められました。

株仲間、つまり同業組合が組織されたのは明和年間(1764-72)といわれますが、そのころには株を買うか、譲渡されないと業界への新規参入はできなくなっていました。

いずれにしても、モグリの質行為はきついご法度。大家さん、下手するとお召し取りです。

この長屋の店賃、4か月分で一両八百ということは、月割りで一分二百。高すぎます。

店賃も地域、時代、長屋の形態によって変わりますから一概にはいえませんが、貧乏な裏長屋だと、文政年間(1818-30)の相場で、もっとも安いところで五百文、どんなにぼったくっても七百文がいいところ。ほぼ倍です。(銭約千文=一分、四分=一両)

日本橋の一等地の、二階建て長屋ならこの値段に近づきますが、神田小柳町かんだこやなぎちょうは火事で一町内ごと強制移転させられた代地ですから、地代も安く、店賃もそれほど無茶苦茶ではないはずです。

この噺でおもしろいのは、大家さんの素性です。どんな人が大家さんをしていたのかがうかがい知れるわけです。大家さんは長屋所有者の代行者に過ぎないのですね。

町年寄 名主 月行事

神田小柳町

かんだこやなぎちょう。現在の千代田区神田須田町かんだすだちょう一、二丁目、および神田鍛冶町かんだかじちょう三丁目にあたります。元禄11年(1698)の大火で下谷したや一丁目が焼けた際、代地だいちとして与えられました。

田島誓願寺たじませいがんじ(浄土宗)を経て寛永寺の寺地となっていたため、延享えんきょう2年(1745)以来、寺社奉行の直轄支配地となっています。柳原土手やなぎはらどての下にあったことから、土手の柳から小柳町という町名がついたそうです。

明治時代には「小柳亭」という寄席もありました。

町名は昭和8年(1933)に廃名となりました。

「まち」か「ちょう」か

ところで、落語で町名が出ると、いつも気になります。

田原町たわらまち稲荷町いなりちょう神田小川町かんだおがわまち神田小柳町かんだこやなぎちょう

「〇〇町」の「町」が「ちょう」と読むのか「まち」と読むのか、いつも釈然としません。

例外もあるのですべてに通用するわけではありませんが、江戸でも地方の城下町でも、武家の居住区は「まち」、町人の居住区は「ちょう」と呼びならわしていることが、江戸時代の基本形です。

ひとつの目安になりますね。

代地

江戸での話です。何かの理由で、幕府が強制的に収用した土地の代替地として、与えた別の土地のことです。

町を丸ごと扱う場合もあります。代地だいちに移転したり成立したりした町を、代地町だいちまちといいました。

あたぼう

語源は「当たり前」の「当た」に「坊」をつけた擬人名詞という説、すりこぎの忌み言葉「当たり棒」が元だという説などがあります。

一番単純明快なのは、「あったりめえでえッ、べらぼうめェッ」が縮まったとするもの。さらに短く「あた」とも。

でも、「あたぼう」は、下町では聞いたこともないという下町野郎は数多く、どうも、落語世界での誇張された言葉のひとつのようです。

落語というのは長い間にいろんな人がこねくりまわした果てに作り上げられたバーチャルな世界。

現実にはないものや使わないものなんかがところどころに登場するんです。

それはそれで楽しめるものですがね。

与太郎について

実は普通名詞です。

したがって、正確には「与太郎の〇〇(本名)と呼ばれるべきものでしょう。

元は浄瑠璃の世界の隠語で、嘘、でたらめを意味し、「ヨタを飛ばす」は嘘をつくことです。

落語家によって「世の中の余り者」の意味で馬鹿のイメージが定着されましたが、現立川談志が主張するように、「単なる馬鹿ではなく、人生を遊び、常識をからかっている」に過ぎず、世の中の秩序や寸法に自分を合わせることをしないだけ、と解する向きもあります。

頭と親方

かしらは職人の上に立つ人をさします。

大工、鳶、火消しなど。勇み肌、威勢のよい職業の棟梁とうりゅうを「かしら」と呼びます。火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたの長谷川平蔵も「かしら」です。勇み肌なんですね。

文字では「長官」と書いたりしますが、あれは便宜上のことで、現代的な呼び名です。自宅で仕事をする職人、これを居職いじょくと言いますが、居職の上に立つ人を親方おやかたといいます。親方は居職ばかりでもなく、役者や相撲の世界でも「親方」と呼ばれます。

こうなると、厳密な言い分けがあるようでないかんじですね。ややこしいことばです。

【蛇足】

大岡政談のひとつ。

裁き物には「鹿政談」「三方一両損」「佐々木政談」などがある。

政五郎の最後の一言は「細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ」のしゃれ。

棟梁を「とうりょう」でなく「とうりゅう」と呼ぶ江戸っ子ことばがわからないとピンとこない。

明治24年(1891)に禽語楼きんごろう小さんがやった「大工の訴訟しらべ」の速記には、「棟梁」の文字に「とうりゃう」とルビが振られている。

これなら「とうりょう」と発音するのだが。落語を聴いていると、ときにおかしな発音に出くわすものだ。

「大工」は「でえく」だし、「若い衆」を「わけえし」「わかいし」と言っている。

「遊び」は「あすび」と聞こえるし、「女郎買い」は「じょうろかい」と聞こえる。

歯切れがよい発音を好み、次のせりふの言い回しがよいように変化させているようだ。

池波正太郎は、落語家のそんな誇張した言いっぷりが気に入らなかった。

「下町で使われることばはあんなものではなかった。いつかはっきり書いておかなくてはならない」と書き散らしたまま、逝ってしまった。はっきり書いておいてほしかったものである。

この噺では、貨幣が話題となっている。

江戸時代では、金、銀、銭の3種類の貨幣を併用していた。

ややこしいが、一般的なところを記しておく。

1両=4分=16朱。金1両=銀60匁=銭4貫文=4000文。

いまの価格にすると、1両は約8万円、1文は20円となるらしい。

ただし、消費天国ではなかったから、つましく暮らせば1両でしのげた時代。

いまの貨幣価値に換算する意味はあまりないのかもしれない。

1両2分800文とは、6800文相当となる。

幕末期には裏長屋の店賃が500文だった。

ということは、13か月余相当の額。

五代目古今亭志ん生は「4か月」ためた店賃が「1両800」とやっている。

月当たり1200文。うーん、与太郎は高級長屋に住んでいたのだろうか。

質株とは質屋の営業権。

江戸、京阪ともに株がないと質屋を開業できなかった。

享保8年(1723)、江戸市中の質屋は253組、2731人いたという。ずいぶんな数である。

もぐりも多くいたそうだから、このような噺も成り立ったのだろう。

勘兵衛の職業は家主。落語でおなじみの「大家さん」のことだ。

「大家といえば親も同然」と言われながらも、地主(家持)に雇われて長屋を管理するだけの人。

地主から給金をもらい、地主所有の家を無料で借りて住んでいる。

マンションの管理人のような存在である。オーナーではない。

この噺では、大家の因業ぶりがあらわだ。

こんなこすい大家もいたものかと、政五郎や与太郎以上に人間臭くて親近感がわいてくる。

古木優     

町奉行



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みついのだいこく【三井の大黒】落語演目

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【どんな?】

名人噺。
能たる鷹は爪を隠す。
ときたまさらす甚五郎の爪。

別題:左小刀 出世大黒 左甚五郎

【あらすじ】

名人の噺。飛騨ひだの名工・左甚五郎ひだりじんごろうの。

伏見ふしみに滞在中に、江戸の三井(越後屋)の使いが来て、運慶うんけい作の恵比寿と一対にする大黒を彫ってほしいと依頼される。

手付けに三十両もらったので、甚五郎、借金を済ました残りで江戸に出てきた。

関東の大工仕事を研究しようと、日本橋を渡り、藍染川あいぞめがわに架かる橋に来かかると、板囲いの普請場ふしんば(工事現場)で、数人の大工が仕事をしている。

のぞいてみると、あまり仕事がまずいので
「手切り釘こぼし……皆半人前やな。一人前は飯だけやろ」

これを聞きつけて怒ったのが、血の気の多い大工連中、寄ってたかって袋だたき。

棟梁とうりゅう政五郎まさごろうが止めに入り、上方の番匠ばんじょう(大工)と聞くと、同業を悪く言ったおまえさんもよくないと、たしなめる。

まだ居場所が定まらないなら、何かの縁だからあっしの家においでなさいと、勧められ、甚五郎、その日から日本橋橘町たちばなちょうの政五郎宅に居候いそうろう

とにかく口が悪いので、政五郎夫婦は面くらうが、当人は平気な顔。名前を聞かれ、まさか、日本一の名人でございとは名乗れないから、箱根山に名前を置き忘れたとごまかすので、間が抜けた感じから「ぬうぼう」とあだ名で呼ばれることになった。

翌朝、甚五郎はさっそく、昨日の藍染川の仕事場に出向いたが、若い衆、
「名前を忘れるような、あんにゃもんにゃには、下見板を削らしておけ」
ということになった。

これは小僧上がりの仕事なので、大工の作法を知らないと、むっとしたが、棟梁への義理から腹に納め、削り板に板を乗せると、粗鉋あらしこで二枚削り。

これを合わせて水に浸け、はがして、またぴたりと合わせると、さっさと帰ってしまう。

後でその板をみると、二枚が吸いつくように離れない。

話を聞いた政五郎、若い者の無作法をしかり、「離れないのは板にムラがないからで、これは相当な名人に違いない」と悟る。

その年の暮れ。

政五郎は居候を呼んで、
「江戸は急ぎ仕事が求められるから、おまえさんの仕事には苦情がくると、打ち明け、上方に帰る前に、歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないか」
と勧めるので、甚五郎、ぽんと手を打ち
「やらしてもらいたい」

それから細工場さいくばに二階を借り、備州檜びしゅうひのきのいいのを選ぶと、さっそくこもって仕事にかかる。

何日かたち、甚五郎が風呂へ行っている間に政五郎が覗くと、二十組ぐらいはできたかと思っていたのが一つもない。

隅を見ると、風呂敷をかけたものがある。

取ると、二尺はある大きな大黒。

これが、陽に当たってぱっちり目を開けた。

そのとき、下から呼ぶ声。

出てみると、駿河町するがちょうの三井の使い。

手紙で、大黒ができたと知らせを受けたという。

政五郎、やっと腑に落ち、
「なるほど、大智は愚者に似るというが」
と感心しているところへ、当人が帰ってくる。

甚五郎、代金の百両から、お礼にと、政五郎に五十両渡した。

「恵比寿さまになにか歌があったと聞いたが」
「『商いは濡れ手で粟のひとつかみ』というのがございますが」

そこで、さらさらと「守らせたまえ二つ神たち」と書き添えると、いっしょに三井に贈ったという、甚五郎伝の一節。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

左甚五郎

甚五郎(1594-1641)は江戸前期の彫刻・建築の名匠です。

異名を左小刀ひだりこがたなといい、京都の御所大工ごしょだいくでしたが、元和げんな6年(1620)、江戸へ出て、将軍家御用の大工として活躍する一方、彫刻家としても、日光東照宮の眠り猫、京都知恩院の鶯張りなど、歴史に残る名作を生み出し、晩年は高松藩の客分となりました。

落語や講談では「飛騨の甚五郎」が通り相場です。

姓の「左」は「飛騨」が正しいとする説もありますが、実際は播磨国・明石の出身ともいわれ、詳しい出自ははっきりしません。

甚五郎という名工は実在したのでしょうが、現在伝わる甚語楼像はスーパーマンで、かなりの潤色ぶりで、伝説化されてしまっています。

実在と伝説は分けてとらえるしかありません。

落語では「竹の水仙」「」に登場するほか、娘が甚五郎作の張形はりがた(女性用の淫具)を使ったため「処女懐胎」してしまうバレ噺「甚五郎作」があります。

要するに、江戸時代には、国宝級の名作はすべて「甚五郎作」にされてしまうぐらい、左甚五郎は「名人の代名詞」だったわけです。

三木助最後の高座

講談から落語化されたものです。

戦後では六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)と三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、ともに十八番としました。

とりわけ三木助は、同じ甚五郎伝の「鼠」も事実上の創作に近い脚色をするなど、甚五郎にはことのほか愛着を持っていたようです。

この噺もたびたび高座に掛けました。

三木助最後の高座となった、昭和35年(1961)11月の東横落語会の演目も「三井の大黒」でした。

三木助没後は弟子の入船亭扇橋(橋本光永、1931-2015)に、さらにその弟子の扇遊へと継承されていきました。

藍染川 今川橋

藍染川は神田鍛冶町から紺屋町こんやちょうを通り、神田川に合流した掘割ほりわりです。

紺屋町の染物屋が、布をさらしたことから、こう呼ばれました。

明治18年(1885)に埋め立てられています。

六代目円生は「今川橋」の出来事として演じましたが、実際の今川橋は、藍染川あいぞめがわ南東の八丁堀に架かっていた橋で、日本橋本白銀町ほんしろがねちょう二丁目と三丁目を渡していました。

下見板

噺の中で甚五郎がくっつけてしまう「下見板」は、家の外壁をおおうための横板で、大工の見習いが練習に、まず削らされるものでした。

甚五郎が怒ったのも、無理はありません。

駿河町の三井

初代・三井八郎右衛門高利が延宝元年(1673)、日本橋本町一丁目に呉服屋を開業。天和2年(1682)の大火で、翌年、駿河町(東京都中央区日本橋室町一、二丁目)に移転、「現金掛け値なし」を看板にぼろもうけしました。

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