ろくろくび【ろくろ首】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

上方噺の与太郎噺。
どことなくユーモラスで、愛らしい感じの妖怪が主人公。

【あらすじ】

与太の入った、松公。

おじさんの家にぼーっとやって来て、モジモジしたあげく、突然大声で
「おかみさんが欲しいッ」

二十五になってもおふくろと二人暮らしで、ぶらぶら遊んでいる。

兄嫁がご膳差し向かいで兄貴を「あなたや」などと色っぽい声で呼ぶので、うらやましくなったらしい。

「そりゃいいが、おまえどうして食わせる?」
「箸と茶碗」
「どうしてかみさんを養ってくかってんだ」
「大丈夫だよ。おふくろとかみさんを働かせて……」
「てえげえにしろ、ばか野郎」

すると、おばさんが何か耳打ち。

「え? なに? こいつを? そうよなあ。こういうのは感じねえから、いいかもしれねえ」

そこでおじさん、
「もしおまえがその気なら」
と、けっこうづくめの養子の話をする。

さるお屋敷のお嬢さんで、年ははたち。両親は亡くなって乳母、女中二人と四人暮らし。資産はあるし、美人だし、と聞いて、松公は早くもデレデレ。

ところが、奇病がある。

草木も眠る丑三ツ時になると、首がスーッと伸び、行灯(あんどん)の油をペロペロなめるとか。

「お、おじさん、それ、どくどっ首」
「ろくろっ首だ」
「そんな遠くに首があったんじゃ、たぐらなくちゃならねえ」
「帆じゃねえや」

夜しか首は伸びないし、寝たら目を覚まさないからいいと、松公、能天気に行く気になった。

おじさん、あいさつもできなければまとまらないと、松公の褌にひもを結び、乳母が出てきてなにか行ったとき、一回引っ張れば「さようさよう」、二回なら「ごもっともごもっとも」、三回なら「なかなか」と返事するんだと教え込み、
「これでまとまりゃ、人間の廃物利用だ」
と松公を連れてお屋敷へ。

ところが、乳母が
「ご両親さまが草葉の陰でお喜びでございましょう」
と、あいさつすると松公、
「ごもっともごもっともォ。あとはなかなか」
と後まで言ってしまい、おじさんは冷や汗。

庭を見ると猫がいたので
「柔らかくてうまそうな猫だ」
とヒゲを抜く。

そのうち、お嬢さんが庭を通る。

「お、おじさん、あの首が」
「しッ、聞こえるじゃねえか」

よく見ると大変にいい女なので、松公うれしくなり
「あなたッ、おまえさん、さようさようッ」

お嬢さん、顔を赤くして逃げてしまう。

おじさんが小言を言っていると、猫が褌に取りついて、松公、
「さようさよう、なかなか、ごもっともごもっともッ」
と大騒ぎ。

縁があったか、話がまとまって吉日を選び、婚礼の夜。

こういう者でも床が違うから寝つかれず、夜中に目を覚ました。

時計がチンチンと二つ打つ。

「ごもっともごもっとも」
と寝ぼけていると、隣のお嬢さんの首がスーッ。

松公
「伸びたァー」
と肝をつぶしてそのまま飛び出し、おじさんの家の戸をドンドン。

「あばばば、伸びたーッ」
「ばか野郎。静かにしろ。伸びるのを承知で行ったんじゃねえか」
「承知だってダメだよ。初日から。あんなのだめだ」
「なにがあんなのだ。第一、おまえ、夫婦のちぎりは結んだんだろ?」
「なんだい、そのちぎりって」
「そんなことはっきり言えるか。家へけえれ」
「あたい、おふくろんとこに帰る」
「この野郎。どのツラ下げておふくろんとこィ帰れる。大喜びで、明日はいい便りの聞けるように、首を長くして待っているじゃねえか」
「えっ、大変だ。家へも帰れねえ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

ろくろ

ろくろとは、物をつるしあげる滑車。

「ろくろ首」とは、その宙高く伸びた形から名がついた妖怪です。

江戸の古い洒落で、「ろくろ首のへど」とは「長い」の意味。

歌舞伎「髪結新三」の「永代橋の場」のセリフに、「ろくろのような首をして」とあるように、首の長い人を揶揄するたとえにも使われました。

首の正体

この妖怪、どうも中国にルーツがあるようで、あちらでは「飛頭蛮」と書きます。

水木しげる(武良茂、1922-2015)によれば、ろくろ首はたいてい女で、一説には夜中に寝ている男の精気を吸い取るとか。

さる大名が参勤で道中、本陣に泊まっているとき、馬番が居眠りしているスキに、牡馬がろくろ首に股間からすっかり精を吸われ、翌日フラフラで使いものにならなかったという、笑話ともエロ噺とも、はた怪談ともつかない昔話があるそうです。

これをみると、どうも淫乱な女性のカリカチュアのようですが、夜な夜な魂が肉体を離れる「離魂病」だというオカルト的解釈もあります。

いやな話ですが、ろくろ首には首に青あざがあるという説があるので首つり死体から連想されたのでは、と考えられなくもありません。

上方の「後日談」

この噺、幕末から大阪で演じられていたものを明治期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移しました。

直接の原典ではありませんが、「ろくろ首」の小咄は明和9年(1772)刊『楽牽頭がくたいこ』中の「ろくろ首」ほか、たくさんあります。

上方落語では、まだこの続きがあって、アホが逃げたので離婚の交渉になり、すったもんだの末、蚊帳を吊る夏だけ「別居」することに。

「首の出入りに、蚊が入って困るのや」とオチになります。

上方版だと、仲人の「先方をキズものにして、いまさら嫌とは言わせない」というセリフがあるので、怖くてもしっかり「コト」だけは済ませていたのがわかります。

その点、江戸っ子のいくじのないこと。

東京では代々の柳家小さんが本家として得意にしたほか、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)もよく演じました。

オチはいろいろ

オチは演者によって何通りかあり、四代目小さん(大野菊松、1888-1947)は「じゃ、おふくろもろくろ首だ」としていましたが、五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)があらすじのように改めました。

三木助のは、「そんなこと言わねえで、お屋敷に帰れ。お嬢さんが首を長くして待っている」というものでした。

インチキも楽じゃない

江戸時代、浅草・奥山などの盛り場では、よく「ろくろ首」の見世物が出ました。

これはむろん、からくりもしくはお座敷芸の二人羽織よろしく、複数の人間を使ったインチキでした。

それにしても、具体的にどういう仕掛けでゴマカシたのか、一度見てみたいものです。

「ろくろ首」小咄三題

●その1  『楽牽頭』中の「ろくろ首」

ろくろ首が酒をごちそうになり、「これはうらやましい。あなたなぞは、酒を味わう楽しみが長いでしょう」と言われ、「いや、そのかわり、オカラを食べるときは味気ない」        

●その2 『言軍話江戸嬉笑』中の「ろくろ首」   文化3=1806年刊

長崎・丸山遊郭のお女郎になじんだ男。請け出して女房にしようと話が決まったが、実はあの女はろくろ首だと耳打ちされ、恐怖のあまり夜逃げした。女は怒って、体は長崎のまま、首だけどこまでも伸ばして、男を追いかける。追いつ追われつ、海越え山越え、とうとう松前(北海道)まで追い詰めた。さすがの化物もくたびれ果て、腹が減って、そこらの芋畑からサトイモを掘り出してむさぼり食ったので、松前の頭はなんともないが、長崎の尻がブーブー。

●その3  『露新軽口ばなし集』中の「言いさうな事」  元禄11=1698年刊

盲目の瞽女の首が夜な夜な伸びると聞いて見に行った男。夜中に伸びた首があんどんにぶつかりそうになると、思わず「右、右」。

ことばよみいみ
丑三ツ時うしみつどき午前2時頃
行灯あんどん
ふんどし
瞽女ごぜ

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評価 :0/3。

かぼちゃや【かぼちゃ屋】落語演目



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【どんな?】

とんまな奴。
なんだか味わい深くてほのぼの。
唐茄子はかぼちゃのことです。
与太郎噺。

【あらすじ】

二十歳になっても、頭に霧がかかっている与太郎。

おじさんが心配して、商売を覚えさせようと、唐茄子とうなすを売らせることにした。

元値が大が八銭、小七銭。

勘定のしやすいように、大小十個ずつかごに振り分けてやり、
「これは元値だから、よく上を見て(掛け値をして)売れ」
と、よく言い聞かせて送り出す。

与太郎、裏通りでいきなり
「かぼちゃぁ」
と蛮声を張り上げたので、そこにいた男、自分の顔を言われたと思って目を白黒。

「へっ、かぼちゃよりジャガイモに似てらぁ」

品物は新しいかと聞かれて
「新しいとも。今まで生きてた」

大二つ買って
「二十銭で釣りをくれ」
と言うと
「釣りはねえから、二十銭にまけとかぁ」

上にまける始末。

「上を見て」がわからないから、もとの七銭と八銭で売って、文字通り平和に空を見上げている。

見かねて男が相長屋の衆に売りさばいてくれ、安いからたちまち売り切れたが、もうけは一銭もなし。

おじさん、ようすを聞いて
「おまえのばかは慢性だな」
万世橋まんせばしの次は須田町すだちょう
「停留所じゃねえ」

そんなことじゃ女房子が養えないからもう一度行ってこい、と追い出す。

もとの所へ来ると
「唐茄子ばっかり食っちゃいられねえ。まあ安いから、八銭のをまた三つ」
「今度は十銭」

掛け値の意味を教わったと聞き、
「ぼんやりだな。おまえ、いくつだ?」
「六十だ」
「見たとこ二十歳ぐれえだな」
「二十は元値で、四十は掛け値だ」

【しりたい】

もとは「みかん屋」

上方の「みかん屋」を、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)が小三治時分の大正初年に東京に移しました。

小さんも当初は「みかん屋」でしたが、日本橋常盤木倶楽部ときわぎくらぶでの第一次落語研究会で、売り物を唐茄子に変えました。

「みかん屋」で与太郎が「今年のみかんは唐茄子のように大きい」と言うくすぐりがあります。

初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924)が人情噺の「唐茄子屋政談」を得意にしていたこともあり、洒落で変えてみたと、小さんは語っています。円右は当時の大看板で、円朝の孫弟子です。二代目円朝を継いだのですが、高座に上がることなく亡くなりました。

オチも含め、大筋は売り物が違うだけで、「みかん屋」もまったく変わりません。

東京では五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)とその門下に伝わり、CDでは五代目と談志のものがありますが、現在の上方ではあまりやり手がいないようです。

原話は『醒睡笑』

オチの「掛け値」のくだりの原話は、安楽庵策伝の『醒睡笑』(「子ほめ」参照)巻五「人はそだち」第十九話です。

あきんどの持ちたる子を見て、「これの息子は、ことしいくつぞや」。 親のいひける、「あれはそら値十三といふて、定の値十二ぢゃ」。

唐茄子野郎と言われたら

唐茄子はかぼちゃを小型化し、甘味を強くした改良品種で、明和年間(1764-72)から出回りました。

唐茄子もかぼちゃも、初物でも安値で、「初かぼちゃ女房はいくらでも買う気」という川柳があります。

そのせいか、「かぼちゃ(唐茄子)野郎」といえば、安っぽい間抜け野郎の代名詞。

与太郎が唐茄子を売らされるのには必然性があるわけです。

五代目小さんのくすぐり

●おじさんが小言で与太郎に

おじ「遊んでちゃなあ、飯が食われない。なんで飯を食うか知ってるか?」与太「箸と茶碗じゃねえか」
おじ「当たりめえだ」
与太「だって、ライスカレーはシャジで食う」

●かごが空になって

客「ありがとうございますとか、なんとか言え」
与太「どういたしまして」



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いしがえし【石返し】落語演目



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【どんな?】

ここの松公は与太郎。番町を夜なきそばで。江戸から上方へ移った珍しいはなし。

別題:鍋屋敷

【あらすじ】

少しばかり頭が薄暮状態の松公は、夜なきそば屋のせがれ。

親父の屋台の後を、いつもヘラヘラして付いて回っているだけ。

今夜は親父が
「疝気が起こって商売に出られないから、代わりにおまえがそばを売って来い」
と言い渡す。

そばのこしらえ方や「お寒うございます」というお愛想の言い方を一通りおさらいし、屋台のそば屋はなるたけさびしい場所の方が客が捕まる、火事場の傍だと野次馬が大勢集まっているからもうかりやすい、などといった秘訣を、いちいち教えられた。

「じゃ、お父っつぁん、道具ゥ置いといて火ィつけてまわろうか」
「ばか野郎ッ」

頼りないながらも、最後に「そばあうううい」という売り声をなんとか親父が教え込み、松公は商売に出かけた。

さあ、それからが大変。

なかなか「そばあうううい」と出てこないので、暗い所で練習しておけば明るい所でも大丈夫だろうと、立ち小便の真っ最中の職人にいきなり
「(そ)ばあー」
とやってケンツクを食わされたり、客が
「一杯くれ」
と言うのに、
「明るいとこじゃ売れない、オレのそばが食いたきゃ墓場へ来い」
とやったりして、相変わらず頭のネジは緩みっぱなし。

そのうちに、ばかにさびしい所に出たので、いちだんと声を張り上げると、片側が石垣、片側がどぶとなっている大きな屋敷の上の方から侍が声を掛けてきた。

「総仕舞いにしてやるから、そばと汁を別々に、残らずここに入れろ」
と、上から鍋と徳利が下がってきたので、松公喜んで全部入れ、
「お鍋の宙乗りだ、スチャラかチャンチャン」
と囃すうちに、そばは屋敷の中に消える。

「代金をくれ」
と言うと、
「石垣に沿って回ると門番の爺がいるから、それにもらえ」
とのこと。

ところがその門番、
「あそこには人は住んでいない、それは狸で、鍋は金玉。きさまは化かされたのだからあきらめろ」
という。

「狸がたぶん引っ越しそばでもあつらえたんだろうから、そんな代金を人間が払う義理はない、帰れ帰れ」
と六尺棒で追い立てられ、松公は泣きべそで戻って報告した。

親父は
「あすこは番町鍋屋敷という所だ」
と屋台の看板を汁粉屋に書き換え、松公と一緒に現場へ急行。

「しるこォ」
と声を張り上げると、案の定呼び止められ、鍋が下がってきたので、親父、そいつに石を入れて
「お待ち遠さま」

侍、引き上げて驚き
「おいっ、この石はなんだッ」
「さっきの石返し(意趣返し)」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

【しりたい】

小さん系の与太郎噺

古い江戸落語ですが、原話は不詳です。武士の横暴に仕返しする、町人のレジスタンス精神があふれ、なかなかおもしろい噺ながら、オチがダジャレ、つまり、石=イシと仕返しの意味の意趣=イシュを掛けた、くだらないせいか、最近はあまり演じられていないようです。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)から四代目小さん(大野菊松、1888-1947)、七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の)、そして五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)に継承されました。与太郎(松公)の商売を、始めに汁粉屋、報復の時にうどん屋になって行く演出もあります。

江戸から上方へ

多くの滑稽噺とは逆に、これは江戸から大坂に移植されたものです。上方では戦後、最長老として重きをなした橘ノ円都(池田豊次郎、1883-1972)から門弟の橘家円三えんざ(土居成、1947-2021)に継承されました。

ここでのあらすじは、五代目小さんの速記をもとにしました。

夜鷹そば、風鈴そば

夜鷹そばともいい、風鈴が屋台に付いていたので、風鈴そばともいいました。ただし、元来、この二つは別で、夜鷹そばは二八そばのかけ、風鈴そばはしっぽく(そばの上に焼き玉子、蒲鉾などの種物をあしらったもの)。しっぽくの登場は文化年間(1804-18)と言われますから、後者の方が遅く、夜鷹そばの方は宝暦年間(1751-63)の文献には、もう名が出ています。

『論集江戸の食―くらしを通して』(石川寛子編著、弘学出版刊、2007年)によれば、貞享3年(1686)11月に、うどん、そば切りなどの夜間の行商が禁止になったとあるので、さらに起源は古いことになりますが、このころは蒸しそばだったと思われます。

夜鷹そばは二八そばともいいました。一杯の値段はずっと二八の十六文で通してきたものの、不潔なため、同じ夜間の行商人には「夜たかそば などと見くびる 甘酒屋」という川柳の通り、下に見られていたようです。幕末の慶応2年(1866)9月、二八そばの値段が二十文から二十四文に値上げされたという記録が残ています。

番町鍋屋敷表長屋、曰窓、笊

怪談「番町皿屋敷」をもじったもの。特に幕末には、直参・陪臣を問わず、このような侍の食い逃げがまかり通っていました。

表長屋と呼ぶ江戸詰めの勤番侍の住居は、この噺の通り二階建てで、下は仲間・小者、二階に主人の住居でした。

上から笊を下ろして品物を買う場面は「井戸の茶碗」にも登場しますが、出口は屋敷側に向いていて、表通りに面しているのは曰窓だけだったので、室内から手軽に買い物をするにはこうするよりほかなく、したがって、これを利用した悪事が横行したわけです。

【語の読みと注】
疝気 せんき
夜鷹 よたか
曰窓 いわくまど 横桟一本だけの窓。字に見立ててこう呼ぶ



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