すうこく【崇谷】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

今となっては聴くこともできない噺。

崇谷は実在の画家で、18世紀が舞台。

あらすじ

水戸藩に仕えていた、英林斎藤原崇谷という名高い絵師。

今は浪人で、本所の中之郷原庭町で気ままな暮らしをしている。

この先生、浅草観音堂の奉納額に「源三位頼政、鵺退治」の絵を書いたことで有名な天下の名人だが、気まぐれの変人で大酒呑み。

諸侯からの依頼が引きもきらないが、気が向かないと千両積まれてもダメ。

かと思えば、近所の子供に頼まれれば気さくに書いてやる、という具合。

弟子志願者も大勢いたが、絵はさっぱり教えないわ、弟子から小遣いは取り上げるわ、酔いつぶれているのを起こせばゲンコツを飛ばしてコブだらけにするわで、一人去り二人去り、今では虚仮の一念の内弟子二人だけ。

ある夜。

雲州候松平出羽守の命で、近習の中村数馬という若侍が、崇谷に絵の依頼に来る。

若殿の初節句なので、墨絵の鍾馗を描いてほしいという望み。

ところが、先生、例の通り朝から五升酒をくらって気持ちよさそうに寝ていたのをたたき起こされたからヘソを曲げ、数馬をコブだらけにした上、
「頼みたければ、出羽守じきじきに来い」
だのと、言いたい放題。

数馬はかっとして切り捨てようと思ったが、ぐっと堪えてその日は帰り、主君に復命すると、出羽守少しも怒らず、
「今一度頼んでまいれ」
と命じたので、数馬は翌日また中之郷原庭町を訪ねる。

崇谷は相変わらずのんだくれていて、
「大名は嫌いだ」
とごねるので、数馬が、
「どうしてもダメなら切腹する」
と脅すと、崇谷は二人の弟子に、
「武士の切腹が実地で見られるのだから、修行には願ってもない機会だ」
と言いだす始末。

これには数馬も降参して、再度懇願すると、その忠心に動かされたか、崇谷もやっと承知。

駕籠に酒を持ち込んでグビグビやりながら、赤坂の上屋敷へとやってきた。

先生、殿さまの前に出ても、あいさつの途中で寝てしまう体たらくだが、出羽守が礼儀正しくことを分けて頼んだので気をよくしたか、茶坊主に墨をすらせ、その顔をパレット代わり。

筆の代わりに半紙の反故紙で無造作に書きなぐったものを三間離れて見ると、鍾馗が右手に剣、左手に鬼の首をつかんでにらみつけた絵が生きて飛び出さんばかり。

「さすがに英林斎先生」
と感服した殿さま、今度は
「草木なき裸山を四季に分けて描いてほしい」
と注文。

崇谷、これも見事に描いてみせたので、
「さすがに名人」
と、浴びるほど酒をふるまって
「素人は山を描くのが難しいと申すが、画工といえどやはり描きにくいか」
「私はなにを描いても同じことだが、私の家の裏の、七十七歳の爺はそう申しております」
「して、その者も画工か」
「いえ、駕籠かきです」

底本:二代目禽語楼小さん

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【しりたい】

「蕎麦の殿さま」雲州候 【RIZAP COOK】

松江藩第七代藩主、松平治郷はるさと(1751-1818)は、明和4(1767)年に襲封。石高は十八万五千石。

藩財政の建て直しに努め、農政を改革、飢饉対策として、領国に信州からそばを移植、これが現在の出雲そばの始まりです。

不昧公ふまいこうと号され、風流人で茶道を好み、大名茶を大成しました。

この噺にもみられるとおり、芸術にも理解と造詣が深かったことで有名です。「蕎麦の殿さま」のあの方です。

どこかで聴いたオチ 【RIZAP COOK】

講釈(講談)を基に作られたと思われますが、はっきりしません。

明治23年(1890)11月、『百花園』に掲載された二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記がありますが、その後の後継者はいないようです。

オチの部分の原話は、元禄16年(1703)刊『軽口御前男かるくちごぜんおとこ』(初代米沢彦八・編著)中の「山水の掛物」とみられます。

これは、須磨という腰元が給仕をしていて雪舟の掛け軸の絵を見て涙をこぼすので、客が不審に思い、わけを尋ねると、「私の父親も山道をかいて死にました」。「そなたの父も絵師か」と聞くと、「いえ、駕籠かきでした」というもの。

このオチは「抜け雀」と同じです。

崇谷という人 【RIZAP COOK】

本姓は高崇谷こうすうこく(高嵩谷、1730-1804)で、別号は屠龍翁、楽只斎、湖蓮舎、曲江、翆雲堂などさまざま。英派はなぶさはの画家です。

噺中の英林斎というのは不詳です。

江戸中期の絵師で、佐脇嵩之さわきすうし(1707-72)の門人でした。佐脇嵩之は英一蝶いっちょう(1652-1724)の晩年の弟子です。

ということは、狩野安信(中橋狩野家の祖)→英一蝶→佐脇嵩之→高崇谷、という流れになります。

この噺に登場する額については、『武江年表』の天明7年(1787)の項に、「五月、屠龍翁高崇谷、浅草寺観音堂へ頼政猪早太鵺退治の図を画きたる額を納む。(中略)人物の活動、普通の画匠の及ぶ所にあらず」と記録されています。

土佐、狩野両派の手法を採り入れ、町絵師ながら、次代の浮世絵師に大きな影響を与えました。

要は、狩野派の品格をもって街場の風俗を題材に描くのが英派でした。

彼らが「町狩野」と呼ばれていたことからもわかるように、町人に親しまれてきた画風だったのですね。

高崇谷は多くの門弟を育て、明和年間(1764-72)から寛政年間(1789-1801)にかけて活躍しました。

それはちょうど、日本中が文化で膨張したした時代でもありました。都鄙も含めてあまた輩出した奇才や天才の一員だったといえるでしょう。

墓所は、浅草西福寺内の智光院にあります。

【語の読みと注】
中之郷原庭町 なかのごうはらにわちょう
鵺 ぬえ
虚仮 こけ:うそ、絵空事
鍾馗 しょうき
松平治郷 まつだいらはるさと
不昧公 ふまいこう

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おまつりさしち【お祭り佐七】落語演目

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【どんな?】

古くから江戸に伝わる「お祭り佐七伝説」「小糸佐七情話」を踏まえた人情噺。

【あらすじ】

元久留米藩士の飯島佐七郎という浪人。

生まれついての美男子で、武芸は天神真揚流柔術の免許皆伝。

その上、頭がよく如才ないときているから、家中の女たちがほおっておかず、あまりのもて方に嫉妬を買って讒言を受け、藩は追放、親父には勘当されて、今は、芝神明、め組の鳶頭、清五郎の家に転がり込んで、居候の身。

もともと火事が飯より好きで、どうせ侍として二君に仕える気はないから、火消しになろうと清五郎にたびたびせがむが、そこは元侍。

「あっしが手づるをこしらえてあげるから、ちゃんと仕官なさい」
と言うばかりで、いっこうに色よい返事がもらえない。

ある日、鳶の若い衆と品川遊廓に乗り込んだ佐七郎。

もとより金がないので仲間を帰し、居残りをし、退屈まぎれに見よう見まねで雑巾掛けをしながら、身についた早業で、そのままツーッと裸足で脱走、雑巾一本手土産に芝まで帰ってきたと得意気に話すので、清五郎は、め組の顔にかかわると渋い顔。

め組の連中は、この間、二十五人力と自慢するならず者の四紋龍という男を、この若さまが牛若丸のような軽業で翻弄し、手もなくやっつけたのを見て、そのきっぷと力にぞっこん。

「ぜひとも鳶にしてやっておくんなせえ」
と、頭にせっつく始末。

あれやこれやで、今はもう一日も早くめ組の纏を持ってみたい一心の佐七郎だが、相変わらず清五郎は煮え切らない。

火事でもあって一手柄立てれば、頭もその気になってくれるだろうと、一日千秋の思いで江戸中が火の海になるのを待ちわびているが、あいにくその年は火の用心が行き届き過ぎているのか、九月十月になっても、半鐘はジャンともドンとも鳴らない。

そんなある日、退屈まぎれに仲間とガラッポンと博打をしている最中、ジャンジャンジャン、鳴った鳴った鳴った。

神田の三河町あたりで大火事だという。

久しぶりの働き場なので、め組の連中は殺気だち、佐七郎ももみくちゃにされて、いつしか褌一つの素っ裸。

それでも、チャンス到来とばかり飛び出そうとするが、清五郎はガンとして許さない。

「そんなに火事が好きなら、今度、昼間の一軒焼けかなにかの、煙が真っ直ぐ立って座敷から見物できるようなのがあったら見せるが、今夜のはお成り火事といって、玄人でも用意に近づけるような代物でないのに、素人が裸で行こうなどとはとんでもない」
という。

そう意見されてもガマンしきれず、たった一人取り残されて二階でウロウロしながら外をのぞいていた佐七郎、なんとか脱出して、とあせるうち、いい具合に窓格子が緩んでいたのかそっくり外れたので、これを幸い、屋根に出た。

ところが下は芋を洗うような騒ぎで飛び下りられない。

しかたなく、猫のような早業でするすると屋根から屋根へと飛び移り、一番激しく燃え盛っている龍閑町の鰌屋まで来た。

ここはちょうど、め組の持ち場。

奉行以下総出役で、まるで戦場だ。

さすがに煙と火の粉にあおられ、真っ黒になった佐七郎だが、屋根にしがみついて頑張り通すうちにようやく火が消え、め組の消し口を取ることになった。

事情を聞いて、清五郎は渋い顔。

奉行は
「武士の帯刀を捨て、鳶になっての感心な働き。感服いたした」
「へえ、今度は火をのんでみせます」

めでたく奉行の取り持ちで清五郎の子分となり、後に「お祭り佐七」として名をとどろかせた、という一席。

底本:二代目柳家小さん

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【しりたい】

長編のダイジェスト版か

江戸に古くから伝わる「お祭り佐七伝説」「小糸佐七情話」を踏まえた人情噺です。原話や作者は不明ですが、講釈種とも推測されます。

佐七は果たして実在したか、実録などはまったくわかりませんが、江戸前のいなせでいい男の典型として語り継がれました。

本編のあらすじは、明治23年(1890)の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記を基にしました。

小さんの噺は、おそらく、講談や伝説を踏まえた長編人情噺の切り取りと考えられます。

そのためか、佐七ものに付き物の芸者小糸との恋のくだりはなく、この前後に小糸との色模様があったのでしょうが、伝わっていません。

速記のマクラで、小さんは、佐七の異名「お祭り」は、彼が火事師(=鳶)で木遣りをよくしたことから、方々の祭りに招かれるうち、ついたものではないかと述べています。

劇化された佐七伝説

人形浄瑠璃では安永6年(1777)初演「絲桜本町育」が初めての本格的な佐七ものです。

ここでは、実は侍の佐七が、主家の重宝・小倉の色紙詮議のため幇間に身をやつしているという設定。

ついで、四世鶴屋南北が文化7年(1810)正月、市村座に書き下ろした「心謎解色糸」、時代は飛んで明治31年(1898)5月、歌舞伎座初演の三世河竹新七作「江戸育於祭佐七」が、佐七ものの劇化しては双璧で、現在でもときどき上演されます。

前者は無頼漢の鳶の者佐七と深川芸者小糸の破滅的な恋が中心。

後者は、小糸と佐七の悲恋を、江戸前の意気といなせで洗い上げた歌舞伎生世話物の傑作ですが、落語の筋とは直接かかわりはありません。

六代目円生が復活

戦後、六代目三遊亭円生が復活して演じました。

円生は、四紋龍との喧嘩のくだりまでで切り、四紋龍が投げられて砂糖まみれになったのを、「相手が乱暴者だから、砂糖漬けにしたのは精糖(=正当)防衛だ」と地口でオチていました。

二代目小さんのは、人情噺だけに、オチはついていません。

「雪とん」は別の噺

同題で別名「雪とん」と呼ばれる噺があります。

これは佐野の大尽、兵右衛門と小糸と佐七の三角関係を中心にした情話です。

小糸と佐七の名を借りただけで、これは全くの別話です。

【語の読みと注】
鳶 とび
木遣り きやり
心謎解色糸 こころのなぞとけたいろいと

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つくだまつり【佃祭】落語演目

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【どんな?】

実録をもとにした奇談です。志ん生や志ん朝のでよく聴きますね。

あらすじ

夏が巡ってきて、今年も佃の祭りの当日。

祭り好きな神田お玉ヶ池の小間物屋次郎兵衛、朝からソワソワ。

焼き餅焼きの女房から
「祭りが白粉つけて待ってるでしょ」
などと嫌みを言われてもいっこうに平気で、白薩摩に茶献上の帯という涼しいなりで、いそいそと出かけていく。

一日見物して、気がつくと、もう暮れ六ツ。渡し舟の最終便は満員。

これに乗り遅れると返れないから次郎兵衛、船頭になんとか頼んで乗せてもらおうとしていると、
「あの、もし……」
と袖を引っ張る女がいる。

「あたしゃ急ぐんだ」
「そうでもございましょうが」
とやりとりしている間に、舟は出てしまう。

「どうしてくれる」
と怒ると、女はわびて、
「実は三年前、奉公先の金を紛失してしまい、申し訳に本所一ツ目の橋から身を投げるところをあなたさまに助けられ、五両恵まれました」
と言う。

名前を聞かなかったので、それ以来、なんとかお礼をと捜し回っていたが、今日この渡し場で偶然姿を見かけ、夢中で引き止めた、という。

そう言われれば覚えがある。

女は、今では船頭の辰五郎と所帯を持っているので、いつでも帰りの舟は出せるから、ぜひ家に来てほしいと、願う。

喜んで言葉に甘えることにして、女の家で一杯やっていると、外が騒がしい。

若い者をつかまえて聞くと、さっきの渡し舟が人を詰め込みすぎ、あえなく転覆。

浜辺に土左衛門が続々とうち上がり、辰五郎も救難作業に追われている、とのこと。

次郎兵衛は仰天。

もし三年前に女を助けなければ、自分も今ごろ間違いなく仏さまだと、胸をなで下ろす。

やがて帰った辰五郎、事情を聞くと熱く礼を述べ、今すぐは舟を出せないから、夜明けまでゆっくりしていってくれと、言う。

一方、こちらは次郎兵衛の長屋。

沈んだ渡し舟に次郎兵衛が乗っていたらしい、というので大騒ぎ。

女房は半狂乱で、長屋の衆に
「日ごろ、おまえさんたちがあたしを焼き餅焼きだと言いふらすから、亭主が意地になって祭りに出かけたんだ。うちの人を殺したのはおまえさんたちだ」
とえらい剣幕。

ともかく、白薩摩を着ているからすぐに身元は知れようから、死骸は後で引き取ることにし、月番の与太郎の尻をたたいて、折れ口だから一同悔やみの後、坊さんを呼んで、仮通夜。

やがて夜が白々明けで、辰五郎に送られた次郎兵衛、そんな騒ぎとも知らずに長屋に帰ってくる。

読経の声を聞いて、
「はて、おかしい」
と家をのぞくと、驚いたのは長屋の面々。

「幽霊だぁ」
と勘違いして大騒ぎ。

事情がわかると坊さんは感心し、人を助けると仏法でいう因果応報、めぐりめぐって自分の身を助けることになると、一同に説教。

これを聞いた与太郎、
「それならオレも誰か助けてやろう」
と、身投げを探して永代橋へ。

おあつらえ向きに、一人の女が袂に石を入れ、目に涙をためて端の上から手を合わせている。

「待ってくれッ。三両やるから助かれッ」
「冗談言っちゃいけないよ。あたしは歯が痛いから、戸隠さまへ願をかけてるんだ」
「だって、袂に石があらあ」
「納める梨だよ」

しりたい

佃島渡船転覆事件  【RIZAP COOK】

明和6年(1769)3月4日、佃島住吉神社の藤棚見物の客を満載した渡船が、大波をかぶって転覆、沈没。乗客三十余人が溺死する大惨事に。

翌年、奉行所を通じて、この事件への幕府の裁定が下り、生き残った船頭は遠島、佃の町名主は押し込みなど、町役にも相応の罰が課されました。

噺は、この事件の実話をを元にできたものと思われます。

佃の渡しは古く、正保年間(1644-48)以前にはもうあったといわれます。佃島の対岸、鉄砲洲てっぽうず船松町一丁目(中央区湊町三丁目)が起点でした。

千住汐入せんじゅしおいりの渡しとともに隅田川最後の渡し舟として、三百年以上も存続しましたが、昭和39年(1964)8月、佃大橋完成とともに廃されました。

さかのぼれば実話  【RIZAP COOK】

中国明代の説話集『輟耕録てっこうろく』中の「飛雲の渡し」を町奉行としても知られた根岸鎮衛やすもり(肥前守、1737-1815)が著書『耳嚢みみぶくろ』(文化11=1814年刊)巻六の「陰徳危難を遁れし事」として翻案したものが原話です。

オチの部分の梨のくだりは、式亭三馬しきていさんば(1776-1822)作の滑稽本『浮世床』(文化11=1814年初編刊)中の、そっくり同じ内容の挿話から「いただいて」付けたものです。

中国の原典は、占い師に寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救い、その応報で、船の転覆で死ぬべき運命を救われ、天寿を全うするという筋です。「ちきり伊勢屋」の原話でもあります。

『耳嚢』の話の大筋は、現行の「佃祭」そっくりで、ある武士が身投げの女を助け、後日渡し場でその女に再会して引き止められたおかげで転覆事故から逃れる、というもの。

筆者は具体的に渡し場の名を記していませんが、これは明らかに前記の佃渡船の惨事を前提にしています。

ところが、これにもさらに「タネ本」らしきものがあって、『老いの長咄』という随筆(筆者不明)中に、主人の金を落として身投げしようとした女が助けられ、後日その救い主が佃の渡しで渡船しようとしているのを見つけ、引き止めたために、その人が転覆事故を免れるという実話が紹介されています。

円喬、志ん生、金馬  【RIZAP COOK】

明治28年(1895)7月、『百花園』掲載の四代目橘家円喬の速記が残っています。戦後、若き日に円喬に私淑した五代目古今亭志ん生が、おそらく円喬のこの速記を基に、長屋の騒動を中心にした笑いの多いものにして演じ上げ、十八番にしました。

もう一人、この噺を得意にしたのが三代目三遊亭金馬で、こちらは円喬→三代目円馬と継承された人情噺の色濃い演出でした。

竜神は梨好き  【RIZAP COOK】

戸隠神社に梨を奉納する風習は古くからありました。江戸の戸隠神社は、湯島天神社の本殿後方の石段脇にあり、正式には戸隠大権現社。湯島天神と区別されて湯島神社とも呼ばれ、土地の地神とされます。

信濃の戸隠明神(長野市)を江戸に勧請したもので、祭神は本社と同じ、戸隠九頭龍大神です。ありの実(梨)を奉納すると歯痛が治るという俗信は、信濃の本社の伝承をそのまま受け継いだものです。

江戸後期の歌人、津村正恭まさやす(淙庵そうあん、?-1806)は随筆『譚海たんかい』(寛政7=1795年上梓)巻二の中で、この伝承について記しています。それによると、戸隠明神の祭神は大蛇の化身で、歯痛に悩む者は、三年間梨を断って立願すれば、痛みがきれいに治るとのこと。その御礼に、戸隠神社の奥の院に梨を奉納します。神主がそれを折敷に載せ、後ろ手に捧げ持って、岩窟の前に備えると、十歩も行かないうちに、確かに後ろで梨の実をかじる音が聞こえるそうです。

梨と竜神(大蛇?)と歯痛の関係は、よくわかりません。でも、戸隠の神が、江戸に来ても信州名物の梨が好物なことだけは確かなようです。虫歯の「虫」も、梨の実に巣食った虫といっしょに、竜神が平らげてくれるのかもしれません。

佃祭  【RIZAP COOK】

佃住吉神社(中央区佃一丁目)の祭礼です。旧暦で6月28日、現在は8月4日。天保年間(1830-44)にはすでに、神輿の海中渡御で有名でした。

歌川広重「江戸名所佃まつり」

本所一ツ目橋  【RIZAP COOK】

墨田区両国三丁目の、堅川の掘割から数えて一つ目の橋を「本所一ツ目の橋」、その通りを「一ツ目通り」と呼びました。橋は現在の「一之橋」で、このあたりは御家人が多く住み、「鬼平」こと長谷川平蔵(1745年)、勝海舟(1823年)の生誕地でもあります。

【語の読みと注】
輟耕録 てっこうろく
根岸鎮衛 ねぎしやすもり:江戸町奉行、肥前守
折敷 おしき
折れ口 おれくち:人の死、とむらい

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くらまえかご【蔵前駕籠】落語演目

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【どんな?】

維新間際、駕籠客狙う追い剥ぎの一党が。すさんだ世情も落語にかかれば、ほら。

あらすじ

ご維新の騒ぎで世情混乱を極めているさなか。

神田・日本橋方面と吉原を結ぶ蔵前通りに、夜な夜な追いぎが出没した。

それも十何人という徒党を組み、吉原通いの、金を持っていそうな駕籠かご客を襲って、氷のような刃を突きつけ
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるので、その方に所望いたす。命が惜しくば、身ぐるみ脱いで置いてゆけ」
と相手を素っ裸にむくと
「武士の情け。ふんどしだけは勘弁してやる」
「へえ、ありがとうございます」

こんなわけで、蔵前茅町くらまえかやちょう江戸勘えどかんのような名のある駕籠屋は、評判にかかわるので暮れ六ツの鐘を合図に、それ以後は一切営業停止。

ある商家のだんな。

吉原の花魁おいらんから、ぜひ今夜来てほしいとの手紙を受け取ったため、意地づくでも行かねばならない。

そこで、渋る駕籠屋に掛け合って、
「追いはぎが出たらおっぽり出してその場で逃げてくれていい、まさか駕籠ぐるみぶら下げてさらっていくことはないだろうから、翌朝入れ物だけ取りに来ればいい」
と、そば屋にあつらえるようなことを言い、駕籠賃は倍増し、酒手は一人一分ずつという条件もつけてようやく承知させる。

こっちも支度があるからと、何を思ったかだんな、くるくるとふんどし一つを残して着物を全部脱いでしまった。

それをたたむと、煙草入れや紙入れを間に突っ込み、駕籠の座ぶとんの下に敷いてどっかと座り、
「さあ、やれ」

駕籠屋が
「だんな、これから風ェ切って行きますから寒いでしょう」
とからかうと、
「向こうにきゃ暖め手がある」
と変なノロケを言いながら、いよいよ問題の蔵前通りに差しかかる。

天王橋てんのうばしを渡り、前方に榧寺かやでら門前の空地を臨むと、なにやら怪しい影。

「だんな、もう出やがったあ。お約束ですから、駕籠をおっぽりますよっ」
と言い終わるか終わらないかのうちに、ばらばらっと取り囲む十二、三人の黒覆面。

駕籠屋はとっくに逃げている。

ぎらりと氷の刃を抜くと、
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるのでその方に所望いたす。命が惜しくば……これ、中におるのは武家か町人か」

刀の切っ先で駕籠のすだれをぐいと上げると、素っ裸の男が腕組み。

「うーん、もう済んだか」

しりたい

江戸の駕籠屋

蔵前茅町の江戸勘、日本橋本町にほんばしはしもとちょう赤岩あかいわ芝神明しばしんめい初音屋はつねやを、江戸三駕籠屋と称しました。

江戸勘と赤岩は吉原通い、初音屋は品川通いの客が多く利用したものです。

これを宿駕籠しゅくかごといい、個人営業の辻駕籠つじかごとは駕籠そのものも駕籠舁かごかきも、むろん料金も格段に違いました。

駕籠にもランクがあり、宝仙寺ほうせんじ、あんぽつ、四ツ手と分かれていましたが、もっとも安い四ツ手は垂れ駕籠(むしろのすだれを下ろす)、あんぽつになると引き戸でした。

ルーツは『今昔物語』に

いかにも八代目正蔵(彦六)が得意にしていた噺らしい、地味で小味こあじな一編ですが、原話は古く、平安末期成立の説話集『今昔物語こんじゃくものがたり』巻二十八中の「阿蘇あそさかん、盗人にあひて謀りて逃げし語」です。

ちなみに、「史」は令制りょうせい四等官しとうかんの最下位「主典さかん」をさします。

時代がくだって安永4年(1775)刊の笑話集『浮世はなし鳥』中の「追剥おいはぎ」では、駕籠屋の方が気を利かせてあらかじめ客を裸にし、大男の追い剥ぎが出るや「アイ、これはもふ済みました」と、すでに「蔵前駕籠」と同じオチになっています。

榧寺門前

榧寺かやでらは現在の東京都台東区蔵前三丁目、池中山盈満院正覚寺じちゅうざんようまんいんしょうがくじのことです。

浄土宗で芝の増上寺に属します。

昔、境内に榧の大木があったので、この名が付いたといわれます。

その榧の木は、秋葉山の天狗が住職と賭け碁をして勝ち、そのかたに実を全部持って行ったために枯れ、その枯れ木で天狗の木像を刻んで本尊としたという伝説があります。

江戸時代は水戸街道に面し、表門から本堂までかなり長かったといいます。

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まめや【豆屋】落語演目

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【どんな?】

商いの噺。物売りの豆屋、売れても売れなくても客に怒られる始末。

【あらすじ】

ある、ぼんくらな男。

何の商売をやっても長続きせず、今度は近所の八百屋の世話で豆売りをやることにして、知り合いの隠居のところへ元手をせびりに行く。

隠居からなんとか二円借りたにわか豆屋、出発する時、八百屋に、物を売る時には何でも掛け値をし、一升十三銭なら二十銭と言った後、だんだんまけていくもんだと教えられたので、それだけが頭にこびりついている。

この前は売り物の名を忘れたが、今度は大丈夫そうで
「ええ、豆、そら豆の上等でございッ」
と教えられた通にがなって歩いていると、とある裏路地で
「おい、豆屋」
「豆屋はどちらで」
「豆屋はてめえだ」
「一升いくらだ」
と聞くので
「二十銭でございます」
と答えると
「おい、お松、逃げねえように戸を閉めて、しんばり棒をかっちまえ。薪ざっぽうを一本持ってこいッ」

豆屋はなんのことかと思っていたら、
「この貧乏長屋へ来て、こんな豆を一升二十銭で売ろうとは、てめえ、命が惜しくねえか」
と脅かされ、二銭に値切られてしまった。

その上、山盛りにさせられ、こぼれたのまでかっさらわれて、さんざん。

泣く泣く、また別の場所で
「豆、豆ッ」
とやっていると、再び
「豆屋ァ」
の声。

前よりもっとこわそうな顔。

「一升いくらだ」
と聞かれ、
「へい、二…十」
を危うくのみ込んで
「へえ、二…銭で」
「おい、お竹、逃げねえように戸を閉めて、しんばり棒をかっちまえ。薪ざっぽうを一本持ってこいッ。一升二銭なんぞで買っちゃ、仲間うちにツラ出しができねえ」
と言う。

もう観念して
「それじゃ、あの一銭五厘に」
「ばか野郎。だれがまけろと言った。もっと高くするんだ」

豆屋がおそるおそる値を上げると
「十五銭? ケチなことを言いやがるな」
「二十銭? それっぱかりのはした銭で豆ェ買ったと言われちゃ、仲間うちに…」
というわけで、とうとう五十銭に。

いい客が付いたと喜んで、盛りをよくしようとすると
「やいやいッ、なにをしやがるんだ。商売人は中をふんわり、たくさん詰めたように見せかけるのが当たり前だ。真ん中を少しへこませろ。ぐっと減らせ、ぐっと。薪ざっぽうが見えねえか。よし、すくいにくくなったら、升を逆さにして、ポンとたたけ」
「親方、升がからっぽです」
「おれんとこじゃ、買わねえんだい」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

江戸の野菜売り  【RIZAP COOK】

江戸時代、この豆屋のように一種類の野菜を行商で売り歩く八百屋を「前栽売せんざいうり」と呼びました。

落語ではほかに「唐茄子屋政談」「かぼちゃ屋」の主人公も同じです。いずれも天秤棒に「前栽籠」という浅底の竹籠をつるして担ぎ歩きます。

同じ豆屋でも枝豆売りは子持ちの貧しい女性が多かったといいます。

十代目文治のおはこ  【RIZAP COOK】

かつては「えへへの柳枝」と呼ばれた七代目春風亭柳枝(1893-1941)がよく演じましたが、その後は、十代目桂文治(1924-2004)が伸治時代から売り物にしていました。

評逸なおかしみは無類で、あのカン高い声の「まめやァー!」は今も耳に残っています。

立川談志(松岡克由、1935-2011)は、豆屋を与太郎としていました。

逃げ噺の代表格  【RIZAP COOK】

「豆屋」は短い噺ですが、オチもなかなか塩が効いていて、捨てがたい味があります。

持ち時間が少ないとき、早く高座を下りる必要のあるときなどにさらっと演じる「逃げ噺」の代表格です。

古くは、六代目三升家小勝(1908-71)の「味噌豆」、八代目桂文楽(1892-1971)の「馬のす」、五代目古今亭志ん生(1890-1973)の「義眼」、六代目三遊亭円生(1900-79)の「四宿の屁」「おかふい」「悔やみ」など、一流の演者はそれぞれ自分の逃げ噺を持っていました。

薪ざっぽう  【RIZAP COOK】

「真木撮棒」と書きます。すでに伐ったり割ったりしてある薪で、十分に殺傷能力のある、コワイ代物です。

「まきざっぽ」とも言います。

ちなみに、「真木」はひのきの美称。

「真木割く」という枕詞がありますが、「檜」に掛かります。

たんに「まき」と言った場合、「ま」は「き」の美称となります。

「まき」は「立派な木」くらいの意味。

古来、杉や檜をさします。

古語に「真木立つ山」という言葉がありますが、これは、杉や檜が生い茂った山で、神の気配を感じさせる山のことです。

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ねずみ【鼠】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

主人公は左甚五郎。
胸のすく匠の噺です。

別題:甚五郎 甚五郎の鼠

【あらすじ】

名工・左甚五郎は、十年も江戸・日本橋橘町の棟梁・政五郎の家に居候の身。

その政五郎が若くして亡くなり、今は二代目を継いだせがれの後見をしている。

ある年。

まだ見ていない奥州松島を見物しようと、伊達六十二万石のご城下・仙台までやってきた。

十二、三の男の子が寄ってきて、
「ぜひ家に泊まってほしい」
と頼むので承知すると、
「うちの旅籠はたご鼠屋ねずみやといって小さいけど、おじさん、布団がいるなら損料そんりょうを払って借りてくるから、二十文前金でほしい」
と、言う。

なにかわけがありそうだと、子供に教えられた道を行ってみると、宿屋はなるほどみすぼらしくて、掘っ建て小屋同然。

前に虎屋という大きな旅籠があり、繁盛している。

案内を乞うと、出てきた主人、
「うちは使用人もいめせんので、申し訳ありませんが、そばの広瀬川の川原で足をすすいでください」
と言うから、ますますたまげた。

その上、子供が帰ってきて、
「料理ができないから、自分たち親子の分まで入れて寿司を注文してほしい」
と言い出したので、甚五郎は苦笑して二分渡す。

いたいけな子供が客引きをしているのが気になって、それとなく事情を聞いた。

このおやじ、卯兵衛うへえといい、もとは前の虎屋のあるじだったが、五年前に女房に先立たれ、女中頭のお紺を後添いにしたのが間違いのもと。

性悪な女で、幼いせがれの卯之吉をいじめた上、番頭の丑蔵と密通し、たまたま七夕の晩に卯兵衛が、二階の客のけんかを止めようとして階段から落ちて足腰が立たなくなり、寝たきりになったのを幸い、親子を前の物置に押し込め、店を乗っ取った。

卯兵衛は、しかたなく幼友達の生駒屋いこまやの世話になっていたが、子供の卯之吉が健気けなげにも、
「このままでは物乞いと変わらない。おいらがお客を一人でも連れてくるから商売をやろう」
と訴えるので、物置を二階二間きりの旅籠に改築したが、客の布団も満足にないありさま。

宿帳から、日本一の彫り物名人と知って、卯兵衛は驚くが、同情した甚五郎、一晩部屋にこもって見事な木彫りの鼠をこしらえ、たらいに入れて上から竹網をかけると
「左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧の方は、ぜひ鼠屋にお泊まりを」
と書いて、看板代わりに入り口に揚げさせ、出発した。

この看板を見た近在の農民が鼠を手にとると、不思議や、木の鼠がチョロチョロ動く。

これが評判を呼び、後から後から客が来て、たちまち鼠屋は大繁盛。

新しく使用人も雇い、裏の空き地に建て増しするほど。

そのうち客から客へ、虎屋の今の主人・丑蔵の悪事の噂が広まり、虎屋は逆にすっかりさびれてしまう。

丑蔵は怒って、なんとか鼠を動かなくしようと、仙台一の彫刻名人、飯田丹下いいだたんげに大金を出して頼み、大きな木の虎を彫ってもらう。

それを二階に置いて鼠屋の鼠をにらみつけさせると、鼠はビクとも動かなくなった。

卯兵衛は
「ちくしょう、そこまで」
と怒った拍子にピンと腰が立ち、江戸の甚五郎に
「あたしの腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」
と手紙を書いた。

不思議に思った甚五郎、二代目政五郎を伴ってはるばる仙台に駆けつけ、虎屋の虎を見たが、目に恨みが宿り、それほどいい出来とは思われない。

そこで鼠を
「あたしはおまえに魂を打ち込んで彫ったつもりだが、あんな虎が恐いかい?」
としかると、
「え、あれ、虎? 猫だと思いました」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

三木助人情噺  【RIZAP COOK】

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、浪曲師の二代目広沢菊春(佐々木勇、1914-1964)に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらったのが「左甚五郎」で、これを脚色して落語化したものが「鼠」です。

「甚五郎の鼠」の演題で、昭和31年(1956)7月に初演しました。

竹の水仙」「三井の大黒」などと並び、三木助得意の名工・甚五郎の逸話ものですが、録音を聴いてみると、三木助がことに子供の表現に優れていたことがよくわかります。

お涙ちょうだいに陥るギリギリのところで踏みとどまり、道徳臭さがなく、爽やかに演じきるところが、この人のよさでしょう。

左甚五郎(1594-1651)については「三井の大黒」をお読みください。

日本橋橘町  【RIZAP COOK】

東京都中央区東日本橋三丁目にあたります。

甚五郎の在世中、明暦の大火(1657)以前は旧西本願寺門前の町屋でした。

「立花町」とも書かれますが、町名の由来は、当時このあたりに橘の花を売る店が多かったことからきたと言われています。

飯田丹下  【RIZAP COOK】

実在の彫工で、仙台藩・伊達家のお抱え。

ということになっていますが、生没年など、詳しい伝記は不詳です。怪しい。

三代将軍家光(1604-51)の御前で、甚五郎と競って鷹を彫り、敗れて日本一の面目を失ったという逸話もあります。これも怪しい。

内需旺盛(高度経済成長期と同じ現象)だった17世紀の日本で、勝ち組名工たちの象徴的存在「左甚五郎」と競って、対立、挫折、敗北の果てに第一線から消えていった負け組職人たちの象徴的存在が、「飯田丹下」というキャラクターに造形されたのだと思います。

安倍晴明と蘆屋道満との関係に似ていますね。

飯田丹下、現在のところは、実在も詳細も不明です。

こぼれ噺  【RIZAP COOK】

三代目三木助(小林七郎、1902-61)による、この噺のマクラです。

「ベレーが鼠、服が鼠、シャツが鼠で、万年筆が鼠、靴下が鼠でドル入れが鼠、モモヒキが鼠で、靴がまた鼠ッてえン、世の中にゃァ、いろいろまた好き好きてえもんがありますもんですな。このひとが表へ出ましたら、お向かいの猫が飛びついてきたってえン」

そのねずみ男のモデルは、安藤鶴夫(1908-69)だったということです。

安藤当人が「巷談本牧亭」((1962年読売新聞連載,1963年刊行、直木賞受賞作)に書いています。

安藤鶴夫は演劇評論家や作家で当時のマスコミで活躍していました。

三木助の熱烈な支持者でも有名でした。

好みの偏りが過ぎる人で、落語界に残した功罪はなかなかです。

現在も  【RIZAP COOK】

三木助没後は、五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)が得意にしました。

三木助門下だった九代目入船亭扇橋(橋本光永、1931-2015)、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)などを経て、若手にも伝わっています。演じ手の多い噺ですね。

志ん朝



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

たけのすいせん【竹の水仙】落語演目

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【どんな?】

三島に投宿して酒びたりの左甚五郎は、宿の主人から追い立てを食らう。

甚五郎、中庭の竹を一本切って、竹造りの水仙に仕上げてみた。

翌朝、見事な花を咲かせた。竹なのに。これを長州公が百両でお買い上げ。

旅立つ甚五郎に、主人は「もう少しご逗留になったら」。

講談の「甚語郎もの」を借用した一席。オチはありません。

【あらすじ】

天下の名工として名高い、左甚五郎。

江戸へ下る途中、名前を隠して、三島宿の大松屋佐平という旅籠に宿をとった。

ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。

たまりかねた主人に追い立てを食らう。

甚五郎、平然としたもので、ある日、中庭から手頃な大きさの竹を一本切ってくると、それから数日、自分の部屋にこもる。

心配した佐平がようすを見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。

たまげた佐平に、甚五郎は言い渡した。

「この水仙は昼三度夜三度、昼夜六たび水を替えると翌朝不思議があらわれるが、その噂を聞いて買い求めたいと言う者が現れたら、町人なら五十両、侍なら百両、びた一文負けてはならないぞ」

これはただ者ではないと、佐平が感嘆。

なんとその翌朝。

水仙の蕾が開いたと思うと、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。

そこへ、たまたま長州公がご到着になった。

このことをお聞きになると、ぜひ見たいとのご所望。

見るなり、長州公は言った。

「このような見事なものを作れるのは、天下に左甚五郎しかおるまい」

ただちに、百両でお買い上げになった。

甚五郎、また平然とひとこと。

「毛利公か。あと百両ふっかけてもよかったな」

甚五郎がいよいよ出発という時。

甚五郎は半金の五十両を宿に渡したので、今まで追い立てを食らわしていた佐平はゲンキンなもの。

「もう少しご逗留になったら」

江戸に上がった甚五郎は、上野寛永寺の昇り龍という後世に残る名作を残すなど、いよいよ名人の名をほしいままにしたという、「甚五郎伝説」の一説。

【しりたい】

小さんの人情噺  

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番で、小さんのオチのない人情噺は珍しいものです。

古い速記は残されていません。

オムニバスとして、この後、江戸でのエピソードを題材にした「三井の大黒」につなげる場合もあります。

桂歌丸(椎名巌、1936-2018)がやっていました。

柳家喬太郎なども演じ、若手でも手掛ける者が増えています。あまり受ける噺とも思われませんが。

講釈ダネの名工譚 

世話講談(講釈)「左甚五郎」シリーズの一節を落語化したものとみられます。

黄金の大黒」「」など、落語の「甚五郎もの」はいずれも講釈ダネです。左甚五郎については「黄金の大黒」をお読みください。

噺の中で甚五郎が作る「竹の水仙」は、実際は京で彫り、朝廷に献上してお褒めを賜ったという説があるんだそうです。

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)は、「鼠」の中でそう説明していました。

【語の読みと注】
旅籠 はたご:宿屋、旅館

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ごんすけぢょうちん【権助提灯】落語演目

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【どんな?】

短い噺。マクラに振る噺家もいますね。素っ気ないほどにおかしみが。

【あらすじ】

さるご大家たいけのだんな。

おめかけさんを囲っているが、おかみさんがいたってものわかりがよく、またおめかけさんの方も本妻を立てるので、家内は円満、だんなは本宅と妾宅しょうたくに交互にお泊まりという、大変にうらやましい境涯。

ある夜、だんなが本宅に帰ると、おかみさんが、
「今夜は火のもとが心配だから、あちらに行っておやりなさい」
と言うので、だんなはその言葉に甘えて、飯炊きの権助に提灯を付けさせて供をさせ、妾宅に引き返した。

するとおめかけさんの方でも、本妻に義理を立てて、
「おかみさんに済まないから、今夜はお帰りください」
と言う。

またも本宅へ引き返すと、おかみさんが承知せず、こうして何度も本宅と妾宅を行ったり来たりするうち、提灯の火が消えた。

「おい、権助、提灯に火を入れな」
「それには及ばねえ。もう夜が明けちまっただ」

底本:三代目柳家小さん、三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

権助

もともと、個人名というより、地方出身ながら商家の使用人、特に飯炊き専門に雇われた男の総称。

職業名を示す普通名詞です。

権七とも呼ばれました。

落語では「権助芝居」「権助魚」「かつぎや」「王子の幇間」ほか、多数の噺に狂言回しとして登場、笑いをふりまきます。

時に「清蔵」「久蔵」「百兵衛」など、実名で呼ばれることもありますが、みな同じで、「ゴンスケの○兵衛」というのが正確なところです。

上方では久三といいますが、落語にはほとんど登場しません。

代わりに「おもよ」という、大和言葉らしい田舎言葉を使う女性が、「貝野村」その他に登場します。

こちらはよくある名前というだけで、個人名です。

どんな呼び方をされても落語における「権助」の条件は、田舎言葉を使うことです。

落語世界の田舎言葉

権助のお国なまりは、六代目三遊亭円生によると下総しもうさ(千葉県北部)なまりに近いということですが、やはり落語独特の架空のものです。

このなまりは、権助のほかに「お見立て」や「五人回し」に登場する田舎大尽だいじん(大金持ち)の杢兵衛もくべえも使います。

江戸を支えた権助の群れ

19世紀初頭の文化・文政年間以後、江戸では越後を始め、地方から出てきた人々が急増。

わけあり水呑の次・三男が大多数でしたが、庄屋や本百姓の子息で、江戸遊学で来ていた人々もけっこういたようです。

逃散ちょうさんなどにおける幕府の禁令がゆるんだこともあります。

これも、そんなことを言っていられない時代の流れでした。

江戸っ子がいくら「椋鳥むくどり」などと小ばかにしても、実際にはこうした労働力なしには、すでに江戸の経済は成り立ちませんでした。大坂も同じことです。

寛政元年(1789)刊『廻し枕』には、「今宵のだんなも明朝にはたちまち権七さんになる」とあります。

飯炊き男や下男のすべてが、田舎者ではなかったはずです。

職業としてのおめかけさん

享保年間(1716-36)から、江戸でも武士、町人、僧侶など、階層を問わず富裕な者はおめかけさんを持つことが一般化しました。

安政大地震(1855)以後、下級武士や町家の娘が、生活の助けにおめかけさんとして身を売るケースが増え、今で言う契約愛人がドライな「商売」として成り立つようになったのです。

複数のだんなと、別個に契約を結ぶおめかけさんも現れ、共同妾宅しょうたくに二、三人で住むこともありました。

安囲いと半囲い

「安囲い」という、おめかけさんの商売がありました。

一月または二月契約で、月2-5両の手当の者は、だんなが通ってくる日数まで契約で決まっていたとか。

「半囲い」と呼ばれる形態は、商家の番頭や僧侶がパトロンとなって、女に船宿、茶屋などの店を出させるものです。作家の永井荷風もこの「半囲い」をやっていました。

小便組

明和年間(1764-72)から文化年間(1804-18)にかけ、「小便組」と呼ばれる詐欺が横行しました。

これは、美女をおめかけさん業に斡旋するものです。

初夜に、その美女が寝小便して、わざと追い出されるよう仕組みます。

支度金(契約金)をだまし取る手口でした。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

あたまやま【あたま山】落語演目

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

花見あとのさくらんぼを食べたら頭から。何度聴いてもはぐらかされる不思議。

  別題:頭が池 さくらんぼ

あらすじ

春は花見の季節

周りはみな趣向をこらして桜の下でのみ放題食い放題のドンチャン騒ぎをやらかすのが常だが、ここに登場の吝兵衛けちべえという男、名前通りのしみったれ。

そんなことに一文も使えないというので、朝から晩までのまず食わずで、ただ花をぼんやり見ながらさまよい歩いているだけ。

しかし、さすがに腹が減ってきた。

地べたをひょいと見ると、ちょうど遅咲きの桜が、もうサクランボになって落ちているのに気づき、「こりゃ、いいものを見つけた」と、泥の付いているのもかまわず、一粒残さずむさぼり食った。

翌朝。どういうわけか頭がひどく痛んできて、はて、おかしいと思っているうちに、昨日泥の付いたサクランボを食ったものだから、頭の上にチェリーの木の芽が吹いた。

さあ大変なことになったと、女房に芽をハサミで切らせたが、時すでに遅く、幹がにょきにょきっと伸び出し、みるみる太くなって、気がついた時は周りが七、八尺もある桜の大木に成長。

さあ、これが世間の大評判になる。

野次馬が大勢押しかけて、吝兵衛の頭の上で花見をやらかす。

茶店を出す奴があると思うと、酔っぱらってすべり落ち、耳のところにハシゴを掛けて登ってくる奴もいる。

しまいには、頭の隅に穴を開けて、火を燃やして酒の燗をするのも出てくる始末。

さすがに吝兵衛、閉口して、「いっそ花を散らしてしまえ」というので、ひとふり頭を振ったからたまらない。

頭の上の連中、一人残らず転がり落ちた。

これから毎年毎年、頭の上で花が咲くたびにこんな騒ぎを起こされた日にはかなわないと、吝兵衛、町中の人を頼んで、桜の木をエンヤラヤのドッコイと引っこ抜いた。

ところが、あまり根が深く張っていたため、後にぽっかりと大きな穴が開き、表で夕立ちに逢うと、その穴に満々と水がたまる。

よせばいいのに、この水で行水すれば湯銭が浮くとばかりに、そのままためておいたのがたたって、だんだんこれが腐ってきて、ボウフラがわく、鮒がわく、鯰がわく、鰻がわく、鯉がわく……とうとう、今度は頭の池に養魚場ができあがった。

こうなると釣り師がどっと押しよせ、吝兵衛の鼻の穴に針を引っかけるかと思えば、釣り舟まで出て、芸者を連れてのめや歌えの大騒ぎ。

吝兵衛、つくづくイヤになり、こんな苦労をするよりは、いっそ一思いに死んでしまおうと、南無阿弥陀仏と唱えて、自分の頭の池にドボーン。

底本:八代目林家正蔵(彦六)

しりたい

昔はケチの小咄だった   【RIZAP COOK】

昔は、ちょっと毛色の変わったケチの小咄程度としか見られていませんでした。

マクラ噺として扱われていたのですが、なかなかどうして。

その奇想といい、シュールこの上ないオチの見事さといい、屈指の傑作落語といっていいでしょう。

八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)が、頭池に釣り舟が出るくだりを加えるなどして、一席の噺にまとめあげました。

その正蔵も、それでもまだ短いので、最初に、河童の子が逆に人間に尻子玉を抜かれ、親が「素人にしちゃ上出来だ」と感心する小咄を振ったりもしていました。五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は「もう半分」のマクラに、この噺を用いています。

「頭の池に身を投げた」というオチは、「考えオチ」といいます。

客をケムに巻くものですが、両師匠の芸風については次の項目をお読みください。

ケチ兵衛の投身自殺   【RIZAP COOK】

どうやって自分の頭の池にざんぶり飛び込んだか。彦六、志ん生両師匠の見解は?

●彦六

年寄りに聞くってえと、細長いひもをぬう場合、最初は糸目を上にしてぬって、ぬいあがると物差しをあてがって、一つ宙返りをさせる。すると完全な細ひもになる。理屈はあれと同じで、頭に池があれば、人間がめくれめくれて、みんな池の中にへえっちまう。

●志ん生

おかァさまが、赤ちゃんの付けひもなどをぬうときに、スーッとぬっといて、クルッとこうひっくり返します。煙草入れの筒も、そうなんで、ぬっといて、キュッとやって、クルクルクルッとひっくりかえす。で、まァ、ケチ兵衛さんが、自分で自分で自分の頭の池に身を投げたのは、やっぱりその型でな、グルグルグルグルッと(指先で三つばかり円を描いて)こうなって、えー、そうして、えー、身を投げた。

これでおわかりでしょうか?

ほらふき男爵の冒険    【RIZAP COOK】

泥のついた桜の実を種ごとかじったのが、ケチ兵衛の災厄の始まり。

ところが、世界中には似たような話もあるもの。

ドイツのゴットフリート・アウグスト・ビュルガーが18世紀に残した「ミュンヒハウゼン物語(ほらふき男爵の冒険)」にこんな話があります。

主人公のミュンヒハウゼン男爵が鹿撃ちに出かけ、猟銃に弾丸とまちがえてサクランボの種をこめて撃ったところ、見事命中。一年後に同じ場所に行ってみると、出会った大鹿の頭に桜の枝が生い茂っていたというホラ話。

ビュルガーはゲッティンゲン派の詩人です。18世紀に勃興した民俗学、口承文芸、神話学、伝説学などの影響を受け、これらを題材にパロディーやホラ話をさかんに創作しました。大学をりっぱに出ながらも、無給、薄給、不倫、重婚など、不遇な人生の繰り返しでした。

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

たてばやし【館林】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

 【どんな?】

町人が剣術を。
江戸後期ではふつうの光景。
実態は武士と町人(百姓)の二層でした。
士農工商なんてなかったそうです。

別題:上州館林

あらすじ

町人の半さん。

剣術を少しばかり稽古してすっかり夢中になり、もう道場の先生の右腕にでもなったつもりでいる。

そこである日。

半さん、諸国を修業してまわり、腕を上げてきたい、と先生に申し出る。

本気で、商売をやめて剣術遣いになるつもりらしい。

先生心配になって、自分の武者修行の時の体験談をひとくさり。

ある時、上州館林のご城下を歩いていると、一軒の造り酒屋の前に人だかりがし、何やら騒いでいる。

聞いてみると、まだ夕方なのに泥棒が入り、そいつが抜き身を振り回して店の者を脅し、土蔵に入り込んだ。

外から鍵をかけ、雪隠詰めにしたものの、入ってくる奴がいれば斬り殺そうと待っているので、誰でも首が惜しいから、召し捕ろうとする者もいない、とのこと。

先生、
「しからば拙者が」
と。

そこが武芸者。

飯六杯に味噌汁三杯も食って、腹ごしらえの上、生け捕りにしてくれようと、主人を呼んで、空き俵二俵を用意させ、左手で戸を開ける。

右手で俵を中に放り込んだ。

向こうは腹が減って気が立っているから、俵にぱっと斬りつけるところを、小手をつかんで肩に担いで岩石落とし、みごと退治した、という一席。

しかし、泥棒の腕がナマクラだったから幸いしたが、腕が立っていたらどうなったかわからない。

「おまえも、もう少し腕を磨いた上で」
と先生がさとすので、半さんもそんなものかと思い直して、帰っていく。

しかし。

「オレも先生のような目にあってみたい」
と、未練たらたらな半さん。

独り言をいいながら歩いていくと、ちょうど夕方。

町の居酒屋の前に人だかり。

聞いてみると、侍に酔っぱらいがからんでけんかを吹っかけた。

「斬るほどのこともない」
と峰打ちを食わせたが、酔っぱらいがまだしつこくむしゃぶりつくから、侍は
「めんどうくさい」
と酒屋の土蔵に逃げ込んでしまった、という。

さあ、ここが腕の見せどころ、と半さん。

「あのお侍は悪くはないんだから、おまえが出て騒ぎを大きくすることはない」
と止められても聞かばこそ、先生のまねをして
「しからば拙者が生け捕りにいたしてくれる。所は上州館林。そやつを捨ておけば数日の妨げ。主人、炊き立ての飯を出せ」

腹ごしらえまでそっくりまねて、いよいよ生け捕りの計略。

俵を持ってこさせると、土蔵の戸を右手で開け、左手で俵を放り込む。

向こうは血迷っているから、ぱっと斬りつけ……て、こない。

もう一俵放り込んでも中は、しーん。

こりゃ約束が違う。

「中でどうしているんだろう」
と言いながら、首をにゅっと入れた。

とたん、侍の刀が鞘走り、半公の首がゴロゴロ。

「先生、うそばっかり」

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うんちく

切れのいいシュール落語

首が口をきくという、同工異曲の噺に「胴取り」があります。オチの切れ味、構成とも、問題なくこちらが優れています。

原話は不詳で、別題を「上州館林」。

昭和初期には八代目桂文治(山路梅吉、1883-1955)が得意にし、同時代には六代目林家正蔵(今西久吉、1888-1929、居残りの)も演じました。

先の大戦後、文治の没後は、惜しいことにこれといった後継者はありません。

六代目正蔵は、首が口をきくのが非現実的というので、半公はたたきつけられるだけにしていました。演者自身が、現実を飛び越える落語の魅力を理解できず、噺をつまらなくしてしまった悪例です。

ヤットウヤットウ

江戸の町道場は、権威と格式はあっても、総じて経営は苦しかったようです。

背に腹はかえられず、教授を望む者は、身分にかかわらず門弟にした道場が多く出てきました。

武士と町人の身分差のたてまえから、幕府はしばしば百姓や町人の町道場への入門を禁じました。

ただ、江戸は武士の町です。武士の感化で、町人にも尚武の気風が強くなっています。

さらには、当時の江戸は、治安も悪かったのです。

自衛の意味で柔や剣術を身につけたい、という町人が江戸中期ごろから増え始めていました。

町人の間では、稽古の掛け声から、剣術を「ヤットウ」と呼びならわしていました。

幕末には、物騒な世相への不安からか、江戸には四大道場には志願者が殺到でした。

四大道場とは。

士学館 鏡新明智流 桃井春蔵(沼津藩、1825-85) 日本橋南茅場町→南八丁堀大富町
玄武館 北辰一刀流 千葉周作(陸奥馬医者、1793-1856) 日本橋品川町→神田於玉ヶ池
練兵館 神道無念流 斎藤弥九郎(越中農民、1798-1871) 九段坂下俎橋付近→九段坂上
練武館 心形刀流 伊庭秀業(幕臣、1810-1858) 下谷和泉橋通

練武館を除いて、三大道場と称することもありました。練武館は佐幕系だったので、明治期にはずされたようです。

明治という時代は、けっこう作為的で恣意的だったのですね。

これらの道場の勃興で、「町人は原則だめ」のたてまえは、次第に怪しくなってきました。

ちなみに、町道場の「授業」時間は、午前中かぎりが普通でした。

「士農工商」

道場の先生も武士でない出身も多く、習う者も町内の若い衆で、幕末に新選組が登場する素地は、江戸中期から次第につくられていったようです。

江戸時代とはいっても、18世紀を境に前期と後期に区別できるほど、社会史、経済史、文化史といった方面で明らかな断裂が生じています。

江戸前期までの日本は銀の輸出国でしたが、18世紀半ば以降には銀の輸入が始まります。

その頃には、石見銀山から採掘できなくなってくるのです。銀の枯渇です。

近頃の教科書では「士農工商」の用語が載らなくなり始めたようです。

この言葉、『漢書』(班固編著、BC70年頃)には「士農工商、四民に業あり」と載っています。

とはいえ、ただ昔からあった言葉というだけであって、江戸時代に使われていたわけでもありません。「士農工商」という四階層の身分制度があったわけではありません。

この噺のように、江戸中期以降、町人が剣術の心得を持つのは決して珍しくはないのです。

身分制があったのは、あえていえば、「武士」と「その他」(農工商が入る)という区分です。

都市部では、「武士」と「町人」
農山漁村では、「武士」と「百姓」(農工商が含まれる)。

それでさえ、消費しかしない(生産活動をしない)武士階層が困窮の果てに、自らの武士の利権を「その他」の人々に売ることは、ときにある現象でした。

こうなると、四民は入り交じり状態。こんな社会のまま幕末になだれ込んだわけです。

全国の「志士」と称する輩を見ると、足軽どころか、農民、神主、商人、漁民など、まさに草莽の連中でした。

この時点で、すでに身分制は崩壊状態だったのでしょう。

問題は、四民とは別に扱われていた穢多、非人などの人々です。この人たちを明治という社会に組み込むかが、政府の大きな課題だったようです。これはあちこちで問題が勃発。看過できない問題でした。

話を戻します。

「士農工商」という言葉。

これはもう、明治時代に日本の歴史を編纂する際、蒙昧な国民に江戸時代を説明しやすくするため、歴史学者がちゃっかり使ったものなんだそうです。

その伝でいくと、「幕府」も「藩」も同様です。そう、「鎖国」も。

「鎖国」は志筑忠雄しずきただお(1760-1806)が使った、と言われています。長崎の商人出身の蘭学者です。

当時の日本人が「今の日本は鎖国なんだぜ」なんて、日常生活で使っていたわけでもありません。

「鎖国」は、明治の学者が教科書用に転用した、ご都合主義の日本史用語です。

1990年代以降、このような「明治の呪縛」から私たちを少しずつ解放しようという研究が、歴史学の世界で進んでいます。遠からず、教科書から「鎖国」の二文字が消える日、来るようです。

【語の読みと注】
雪隠詰め せっちんづめ
伊庭秀業 いばひでなり
桃井道場 もものいどうじょう



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いえみまい【家見舞】落語演目

【RIZAP COOK】

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【どんな?】

物語を知れば、そっちのほうがしっくりくるかもしれません。

別題:祝いがめ 肥瓶 祝いの壷(上方) 雪隠壷(上方)

【あらすじ】

借金をしても義理だけは欠かないのが、江戸っ子。

兄貴分の竹さんが引っ越した。

日ごろ世話になっている手前、祝いの一つも贈らなくてはならないと考えた、二人組。

ところが、なにを買っていいか見当がつかない。

直接、本人に聞きに行く。

竹兄イが
「そんな無理をしなくてもいい」
と断るのに、
箪笥たんす長持ながもち一式はどうです?」
なんぞと大きなことを言う相棒に、
「どこにそんな金があるんだ」
と片一方はハラハラ。

ところが、ふと台所を見ると、昔はどこの家でも必需品の水瓶がなく、バケツで代用しているようす。

「さあ、これだ」
と二人。

兄イが止めるのも聞かず、脱兎だっとのごとく外に飛び出した。

さっそく、ある道具屋に飛び込んで物色すると、手ごろなのがあった。

値段を聞けば二十八円。

少しばかり、いや大いに高い。

一番安いのを見ると、四円。

ところが、ばかなことに、所持金額は一人が一銭、相棒は一文なし。

お互いに相手の懐を当てにしていたわけ。

しかたなく消え入りそうな声で、
「あの、もう少しまかりませんか?」
「へえ、どのくらいに?」
「あの一銭」
「ははあ、一銭お引きするんで?」
「一銭はそのまま。後の方をずーっと……」

これでは怒らない方がおかしい。

「顔を洗って出直してこい。来世になったら売ってやる」
と、おやじにケンツクを食わされた。

別の道具屋をのぞくと、またよさそうなのがある。

当たって砕けろと、おそるおそる一銭と切り出すと、
「一銭? そんな金はいらない。タダで持っていきなさい」

大喜びの二人。

さっそく、差し担いで運ぼうとすると道具屋、
「あんた方、それをなにに使いなさる?」
「水瓶だよ」
「そりゃいけねえ。見たらわかりそうなもんだ。おまえさん方、毎朝あれにまたがってるでしょう」

ん……? 毎朝またがる? 

よくよく見ると、はたしてそれは紛れもなく、便器用の肥瓶こいがめ

タダなわけだ。

と言って、今さらどうしようもない。

洗ってみても、猛烈な悪臭で鼻が曲がりそう。

しかたなく水を張ってゴマかし、引っ越し祝いに届けると、兄イは大喜び。

飯を食っていけと言われて、出てきたのが湯豆腐。

うめえ、うめえと食っているうちに、ふと気づいて二人、腰が抜けた。

「豆腐を洗った水はどこから汲んだ?」
「へえ、その、豆腐は断ってまして」
と言うと、
「それじゃ香の物はどうだ」
と出され
「そりゃいい、古漬はかくやに刻んで水に……あの、コウコも断ってます」
「なんでも断ってやがる。それじゃ焼き海苔で飯を食え」
「その飯はどこの水で炊きました?」
「決まってるじゃねえか。てめえたちがくれたあの水瓶よ」
「さいならツ」
「おい、待ちな。あの瓶が……おい、こりゃひでえおりだ。こんだ来る時、ふなァ二、三匹持ってきてくれ。鮒は澱を食うというから」
「なに、それにゃあ及ばねえ。今までコイ(肥=鯉)が入ってた」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

水瓶と肥瓶

水瓶は、明治31年(1898)に近代的な水道が敷設され始めてからも、その普及がなかなか進まなかったため、昭和に入るまでは家庭の必需品でした。

特に長屋では、共同井戸から汲んでくるにしても水道の溜枡からにしても、水をためておく容器としては欠かせません。

素焼きの陶磁器で、二回火といって二度焼きしてある頑丈なものは値が張りました。

噺に最初に出てくる28円のものがそれで、備前焼です。

水がめより低く、口が広いのが肥がめです。五人用、三人用など、人数によって横幅・容量が異なりました。 

江戸の裏長屋では、総後架そうごうかと呼ばれた共同便所に、大型のものを埋めて使用し、トイレが各戸別になっているところでは、それぞれの裏口の突き出しに置かれました。

上方の「雪隠壺」

雪隠せんち」は東京では「せっちん」と読みますが、関西の言葉です。

上方のやり方は、東京のものとはかなり異なり、家相を見てもらって、ここに雪隠を立てて、肥壺(肥瓶)は一回だけ使えとアドバイスされた男がもったいないと、使用後道具屋に売る場面が前に付きます。

それを水がめ用に買っていった男が、新築祝いにしますが、宴会でバアサン芸者が浮かれたので、「ババ(=糞)も浮くわけや。雪隠壺へ水張った」と汚いオチになります。

それをはばかってか、桂米朝は「祝いの壺」として演じました。

東京では小さん系

明治期に三代目柳家小さんが東京に移植、改作しましたが、速記は残されていません。

八代目春風亭柳枝しゅんぷうていりゅうしを経て、五代目小さんが十八番にしていました。

今回のあらすじのテキストも小さんのものです。

小さんは高座では「こいがめ」で演じても、後年、レコードやCDでは「家見舞」「祝いがめ」の題名で入れていました。

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あわびのし【鮑のし】落語演目

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【どんな?】

与太郎系の噺。賢い女房が金をこさえる手立てにご祝儀をレバレッジする知恵。

別題:鮑貝(上方)

あらすじ

ついでに生きているような、おめでたい男。

今日も仕事を怠けたので、銭が一銭もなく、飯が食えない。

すきっ腹を抱えて、かみさんに
「なにか食わしてくれ」
とせがむと、
「おまんまが食いたかったら田中さんちで五十銭借りてきな」
と言われる。

いつ行っても貸してくれたためしがない家だが、かみさんが
「あたしからだっていえば、貸してくれるから」

その通りになった。つまりは信用の問題。

所帯は全部、しっかり者のかみさんが切り盛りしているのを、みんな知っている。

借りた五十銭持って帰り、
「さあ、飯を」
と催促するとかみさんは、
「まだダメだよ」

今度は
「この五十銭を持って魚屋で尾頭付きを買っておいで」
と命じる。

「今度大家のところの息子が嫁を迎えるので、そのお祝いだと言って尾頭付きを持っていけば、祝儀に一円くれるから、その金で米を買って飯を食わせてやるよ」
と言うのだ。

ところが、行ってみると鯛は五円するので、しかたがないから、あわび三杯、十銭まけてもらい、買って帰るとかみさん、渋い顔をしたが、まあ、この亭主の脳味噌では、と諦め、今度は口上を教える。

「こんちはいいお天気でございます。うけたまりますれば、お宅さまの若だんなさまにお嫁御さまがおいでになるそうで、おめでとうございます。いずれ長屋からつなぎ(長屋全体からの祝儀)がまいりますけれど、これはつなぎのほか(個人としての祝い)でございます」

長くて覚えられないので、かみさんの前で練習するが、どうしても若だんなを「バカだんな」、嫁御を「おにょにょご」、つなぎを「つなみ」と言ってしまう。

それでも
「ちゃんと一円もらってこないと飯を食わせずに干し殺すよ」
と脅かされ、極楽亭主、のこのこと出かけていく。

大家に会うといきなりあわびをどさっと投げ出し、
「さあ、一円くれ」

早速、口上を始めたはいいが、案の定、「バカだんな」に、「おにょにょご」「津波」を全部やってしまった。

腹を立てた大家、
「あわびは『磯のあわびの片思い』で縁起が悪いから、こんなものは受け取れねえ」
と突っ返す。

これでいよいよ干し殺しかとしょげていると、長屋の吉兵衛に出会ったので、これこれと話すと、吉兵衛は
「『あわびのどこが縁起が悪いんだ。おめえんとこに祝い物で、ノシが付いてくるだろう。そのノシを剥がして返すのか。あわびってものは、志州鳥羽浦で海女が採るんだ。そのアワビを鮑のしにするには、仲のいい夫婦が布団に鮑を敷いて一晩かかって伸ばさなきゃできねえんだ。それをなんだって受け取らねえんだ。ちきしょーめ、一円じゃ安い。五円よこせ』って、尻をまくって言ってやれ」
とそそのかす。

「尻まくれねえ」
「なぜ」
「サルマタしてねえから」

そこで大家の家に引き返し、今度は言われた通り威勢よく、
「一円じゃ安いや。五円よこせ五円。いやなら十円にまけてやる……ここで尻をまくるとこだけど、事情があってまくらねえ」

しりたい

五代目志ん生が得意に   【RIZAP COOK】

原話は不詳。上方落語「鮑貝」を明治中期に東京に移植したものです。

五代目志ん生が得意とした噺です。亭主が口上を言えずにもどかしいところが笑いを誘いますね。

古いオチは、大家が「丸い『の』の字ではなく、つえを突いたような形の『乃』の字があるが、あれはどういうわけだ?」と聞くと、ぼんくら亭主が「あれはアワビのおじいさんです」というもの。

大阪では、「生貝をひっくり返してみなはれ。裏はつえ突きのしの形になってある」となりますが、「つえ突きのし」という言葉が、戦後、わかりにくくなったので、志ん生が「サルマタしてねえ」という前のセリフを生かして、多少シモがかったオチに改めたのでしょう。

大阪では、さらに「カタカナの『シ』の字のしは?」と聞かれ、「あれは生貝がぼやいているところや」「アワビがぼやくかい」「アワビやさかい、ぼやく。ほかの貝なら、口を開きます」と落とす場合がありますが、なんだか要領を得ません。

磯の鮑の片思い   【RIZAP COOK】

鮑の貝殻が片面だけ、つまり巻き貝なので「片思い」と掛けた洒落です。それだけのことです。「磯の鮑の片思い」「鮑の貝の片思い」と、片思いのたとえに今でも使われます。鮑は古来、食料や儀式にの肴、進物などに用いられました。「鮑玉」「鮑白玉」は、真珠をさします。「鮑結び」は、ひもの飾り結びのひとつで、中央に一つ、左右に二つの輪を作る結び方です。輪は真珠の形状からの発想で和にも通じました。貝殻は猫がえさを食べる、猫の皿になるのが通り相場でした。

昔は「現物」使用   【RIZAP COOK】

熨斗は元来、「あわびのし」だけを指しました。というのも、昔は生のアワビの一片を方形の紙に包み、祝いののしにしたからで、婚礼の引き出物としてあわびのしを贈る習慣は16世紀ごろからあったそうです。

不祝儀の場合は、のしを付けないのが古くからの習わしでした。この噺で語られる通り、あわびのしは志州特産で生産量も少ないため、時代が下るにつれ、簡略なものとして「の」「乃」「のし」などと書いたものが代用されるようになりました。

現在では品物の包みに水引きを掛け、その右肩に小さな黄色い紙を四角い紙で包んだのが本格で高級品。水引きとは、進物用の包み紙などを結ぶのに使う紙糸で、細いこよりに水のりを引いて干し固めたもの。今はほとんどその形を印刷したもので済ますので、あの形がなにを表すのか忘れられているかもしれません。

この噺でのポイントは、仲のよい夫婦が一晩かけてのしをつくる、というところ。

「 あわびってものは、志州鳥羽浦で海女が採るんだ。そのアワビを鮑のしにするには、仲のいい夫婦が布団に鮑を敷いて一晩かかって伸ばさなきゃできねえんだ 」と吉兵衛は言っています。

鮑を下に敷いた布団の上で一晩中睦事をいたした果てのあわびのし、ということです。

現代人から見ればずいぶんエロいことしてるなと思えますが、古い日本人はそんなことをふつうにわきまえていて、それ自体、縁起よいと祝う感覚を持ち合わせていました。

生産→豊穣→子孫繁栄といった具合にです。

明治より以前の日本人が性に対しておおらかだったのですね。

かなりおおざっぱですが、日本人の美風でしょう。

のし(右肩の部分)と水引き(中央の紅白糸)

「あわびのし」も「のしあわび」も   【RIZAP COOK】

「あわびのし」も「のしあわび」も同じ意味です。

鮑の肉を薄く削るように切って(リンゴの皮をむくように長く伸ばして)、それを引き伸ばして干したものです。

初めは食用でしたが、儀式用の肴(引き出物、おまけ、つまみ。「さか」は酒、「な」は副食物の意)に使ったり、祝いごとの贈り物に添えたりしました。

「打ち鮑」とも。「のし」は「熨斗」で「のす(「伸ばす」の古代語)」の意がありました。

【語の読みと注】
尾頭付き おかしらつき
熨斗 のし
志州 ししゅう:志摩国。三重県の一部
鳥羽 とば:志摩の海岸。鳥羽浦
鮑玉 あわびたま:真珠のこと
鮑白玉 あわびしらたま:真珠のこと

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まんびょうえん【万病円】落語演目

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【どんな?】

ろくでもない奴の脅しテクニック集
とも、いえなくもない小咄の連続ものです。

別題:侍の素見 ないもん買い(上方)

【あらすじ】

悪侍の行状記。

その一 湯屋にて

湯船の中で、自分の褌ばかりか、女房の下袴まで堂々と洗濯。

ほかの客から番台に苦情が出て、湯銭をみんな返させられるので、困った親父がおそるおそる抗議すると、
「きさまは番台で男客の○○や××を預かるか」
と逆襲。

「アレは切り離せないから預かれない」
と言うと、
「正物は平気で湯につけているのに、それを包む風呂敷である褌を洗うのが、なぜいけない」
と屁理屈で逆ネジ。

帰りしなに、わざと五両中判を出し、釣りを出せと無理難題。

まんまと湯銭を踏み倒す。

その二 居酒屋にて

肴をいろいろ聞いて、番頭が
「あとは、蟹のようなもの」
と答えると
「じゃ、その『ようなもの』をくれ」

蛸も海老もゆでると赤くなると聞いて
「それじゃ、稲荷の鳥居はゆでたのか」
などとからかった挙げ句、
「どうだ、蟹代あんこう代鱈の四文なりというのは」
と、しゃれでケムにまき、番頭がだまされて承知したのをタテに、支払った代金は三品取って、酒代と合わせてたった八文。

文句を言うと
「値段を決めておいてそれが成らんとあれば主人を出せ。刀の手前、容赦はできん」
とすごんだ上、
「町奉行所に訴え出る」
と脅して、まんまと飲食代を踏み倒す。

その三 菓子屋にて

小僧をつかまえて、
「饅頭の蒸籠の上で褌を干させろ」
と無理難題。

金鍔を猫の糞、餡ころ餠を馬糞などと汚いことを言ってからかい、小僧が、一つ四文の積もりで
「餡ころ餠はいくつ召しても四文で」
と言ったのを、あちこち食い散らして、都合十個食い、
「いくつ食っても、と言ったのだから全部で四文だ」
と強弁。

「一つ四文ならなぜそう申さん。フラチな奴だ。主人を出せ。らちが明かなければ裁判を」
とコワモテ。

まんまと饅頭代を踏み倒す。

その四 古着屋にて

袷の綿入れの値段を聞くと、掛け値なしの三両二分。

これを一分一朱に負けさせようとしたが、失敗。

サンピン、盗ッ人、団子、屁でもかげと、親父の悪態を背に退散。

これで三勝一敗。

その五 神屋にて

例によって疫病神はあるが、疱瘡神はどうだと攻撃をしかけ、風の神は、と聞くと「ございます」

扇を出され、「開かねば 扇も風の 蕾かな」という句で、切り返される。

ここは薬も売っているのに目をつけ、もう一勝負。

万病の薬と張り紙があるので、
「病の数は四百四病と心得るが、万病とは大変に増えているな」
「子供の百日咳を入れると五百四病で」
「算盤を貸せ。五百四病だな」
「殿方の病で疝気を入れると千五百四病」
「なるほど」
「ご婦人の産前産後もあれば、脚気肥満(=四万)もあります」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

「居酒屋」と共通の原話も  【RIZAP COOK】

昭和から戦後では、三代目三遊亭金馬、六代目三升家小勝がよく演じましたが、最近はあまり高座に掛けられません。

各部分で原話が異なります。

湯屋と菓子屋のくだりは不明ですが、居酒屋の部分は文化3年(1806)年刊の咄本『噺の見世開』(十返舎一九)中の「酒呑の横着」。この部分は昭和期に、三代目三遊亭金馬が「居酒屋」として独立、改作し、大ヒットを飛ばしました。

次の古着屋くだりは、上方落語「ないもん買い」の踏襲で、原話は安永5年(1776)刊『立春噺大集』中の「通り一遍」、紙屋の方は同2年(1773)刊『千年艸』中の「紙屋」です。このうち、前者の原話では古着屋の代わりに道具屋と竹細工屋がなぶられ、後者の紙屋のオチは「風の神なら、おくりやれさ(=送れ)」と言って踏み倒します。

この噺の核になる、最後の薬屋のくだりは、貞享4年(1687)刊の笑話本『正直咄大鑑』中の「万病錦袋円」が最も古い形です。

これは、下谷・池の端の「くわ(か)んがくや(屋)だいすけ」という江戸名代の薬屋で、「錦袋円(きんたいえん)」なる万病に効く霊薬を売り出したところ、浪人がゆすりにやってくるという設定。

「四百四病」の言いがかりはそのままで、機知のある店の若い者が、「あなたのような御浪人さまにも『臆病』という病はあるはず」と、切り返すところが異なります。

宝暦5年(1755)刊の『口合恵宝袋』中の「万病円」では、京都二条の薬屋で「十三味地黄丸」の看板を見た男が「地黄丸 造血・強精剤)は六味か八味のはず」と、因縁をつけるところから始まり、主人が「あまり売れないので五味(=ゴミ)がかって十三味」と、撃退されます。その後、やはり「万病円」と四百四病の問答から、疝(千)気→腸満(=万)でオチになります。

文化4年(1807)刊『按古於当世』中の「もがりいいの侍」を経て天保15年(1844)刊の『往古噺の魁』中の「ねぢ上戸」では、さらにシャレが豊富になり、「百日咳」「産前産後」「脚気肥満」と、より現行に近くなっています。

いずれにしても、たわいないダジャレの応酬の繰り返し。「一目あがり」同様、だんだん数が増えていくだけのものなので、落語家がそれぞれシャレを工夫して、付け加えていったものなのでしょう。

類話といえる上方の「ないもん買い」が幕末の桂松光の楽屋ネタ帳「風流昔噺」に記載されているところから、この噺も、やはり幕末から明治初期に、最終的にまとめられたと思われます。

オチから古びた噺  【RIZAP COOK】

明治29年(1896)3月、「侍の素見」と題した四代目橘家円喬の速記がありますが、大筋は現行のものと変わりません。オチはいくつかのバージョンがあり、近代のやり方では「一つで腸満(=兆万)」とする方が一般的。ただ、「腸満」という病名そのものが古めかしく、通じなくなっているので、どっちもどっちでしょう。

万病円  【RIZAP COOK】

実在した薬です。解毒剤で、京都室町の御香具所、植村和泉掾が本家発売元。江戸では、浅草茅町と京橋尾張町の虎屋甚右衛門が委託販売していました。

五両中判  【RIZAP COOK】

正しくは天保五両判金といい、天保8年(1837)から安政2年(1855)までの18年間通用しました。大判十両と小判一両の間です。幕府の財政難から、貨幣「お吹き替え」の一環として天保小判と同時に鋳造され、翌年には天保大判も発行されました。これらは粗悪な貨幣で、特に中判は純金の含有割合が少なく、評判が悪かったため、ほとんど流通しないまま終りました。

なぜこんな大金を浪人風情が持っていたのかはわかりません。ゆすった金か、さもなければ、ニセ金かも知れませんね。もし、金に困っていないのなら、この男、純然たる「愉快犯」ということになります。

金馬以後はやり手なし  【RIZAP COOK】

「侍の素見(ひやかし)」と題した、四代目橘家円喬の速記(明治29=1896年)が最古です。短い噺なので円喬は、昔は侍がどれだけいばっていたか、というテーマの小咄を、マクラに二題振っています。オチの「脚気肥満」は、江戸っ子が「ヒ」を「シ」と発音することから、「ヒマン」→「シマン(=四万)」としたダジャレで、円喬の工夫かもしれません。

戦後では三代目三遊亭金馬と六代目三升家小勝が得意とし、速記は両者、音源は金馬のもののみが残ります。金馬は、この噺に居酒屋が登場するため、同題の自身のヒット作との縁で、よくこちらも高座に掛けていました。東京では最近は、ほとんど聞かれません。金馬は、原話の「万病円」や、上方のオチにならって「一つで腸満(=兆万)があります」と、オチていました。

あらすじは、前述、円喬の速記を参考にしましたが、五両判のくだりがあることで、古い型を踏襲していることがわかり、この噺の成立時期がおよそ見当がつきます。

上方噺「ないもん買い」  【RIZAP COOK】

現在でも、笑福亭仁鶴などが得意とするネタです。

東京と異なり、なぶりに来るのは、タチの悪い町人です。最初に古着屋で、三角の布団や袷の蚊帳を出せと無理難題を言ったあと、魚屋で「『めで鯛』をくれ」。けんかになったところで仲裁が入り、「おまえもたいない(=たわいない、大阪弁)やっちゃな」「いや、タイがあったさかいに、こんな目におうた」と、オチになります。古くはこのあと、「万病円」につなげることも。その場合、オチはやはり「たった一つで腸満」でした。

【語の読みと注】
褌 ふんどし
四文なり しもんんなり:「紙代判行代でただの四文なり」という読売瓦版の売り立て
饅頭 まんじゅう
蒸籠 じょうろう
金鍔 きんつば
袷 あわせ
疝気 せんき
脚気肥満 かっけしまん:肥満を四万にかける
腸満 ちょうまん:腹腔内に液体やガスがたまって腹部膨満感を起こす症状

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まつだかが【松田加賀】落語演目

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【どんな?】

一見歌舞伎の世話物かと思いきや、やっぱり落語でした。

別題:頓智の藤兵衛

【あらすじ】

本郷も 兼安かねやすまでは 江戸のうち

その本郷通りの雑踏で、年端もいかない小僧按摩あんまが、同じ盲人に突き当たった。

こういう場合の常で、互いに杖をまさぐり合い、相手は按摩の最高位である検校けんぎょうとわかったから、さあ大変。

相手は、公家や大名とも対等に話ができる身分。

がたがた震えて、
「ごめんくださいまし。ご無礼いたしました」
という謝罪の言葉が出てこず、ひたすらペコペコ頭を下げるだけ。

こやつ、平の按摩の分際であいさつもしないと、検校は怒って杖で小僧をめった打ち。

これから惣録屋敷そうろくやしきに連れていき、
「おまえの師匠に掛け合う」
と大変な剣幕。

周りは十重二十重とえはたえの野次馬。

「おい、年寄りの按摩さん。かわいそうじゃねえか。よしなよッ」
「なに、わしはただの按摩ではない。検校だ」
「それなら、家に帰ってボウフラでも食え」
「なんだ?」
「金魚」
「金魚じゃない。けんぎょお」

大変な騒ぎになった。

そこへ通り合わせたのが、神道者で長年このあたりに住む、松田加賀という男。

話を聞いて、自分が一つ口を聞いてやろうと、
「もしもし、そこな検校どの。あなたに突き当たった小僧、年がいかないから度を失って、わびの言葉が出てこない。仲人なこうどは時の氏神うじがみ、と申します。ここは私に任して、まるく納まってはくださいますまいか」
と丁重に持ちかけた。

検校は
「これはこれは、あなたはもののよくおわかりになる。お任せはしましょうが、ご覧の通り、わたくしは晴眼の方とは違います。あなたのお顔、なり形などは皆目わからない。仲人をなさいますあなたさまの、お所お名前ぐらいは承りたい」
と言うので、加賀は、
「これは失礼いたしました。私はこの本郷に住んでいる、松田加賀と申します」
と正直に返事をした。

興奮が冷めない検校、本郷のマツダをマエダと聞き違えて、これはすぐ近くに上屋敷がある、加賀百万石のご太守と勘違い。

「加賀さま……うへえッ」
と、杖を放り捨てて、その場に平伏。

加賀も、もう引っ込みがつかないから、威厳を作って
「いかにも加賀である」
「うへえーッ」
「検校、そちは身分のある者じゃな。下々しもじもの者はあわれんでやれ。けんか口論は見苦しいぞ」
「へへー。前田侯のお通り先とも存じませず、ご無礼の段はひらにお許しを」

検校がまだ這いつくばっている間に、加賀はさっさと先へ行くと、
「高天原に神留まりまします」
と、門付けの御祓おはらいをやりはじめた。

そうとは知らない検校、
「ええ、以後は決して喧嘩口論はいたしません。ご重役方にも、よろしくお取りなしのほどを」
と、さっきとは大違いで、ひたすらペコペコ。

野次馬連中、喜んでわっと笑った。

検校、膝をたたき
「さすがは百万石のお大名だ、たいしたお供揃え」

出典:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

もとは「とんち噺」  【RIZAP COOK】

原話は、安永4年(1775)刊の笑話本『新落ばなし一のもり』中の「乗打のりうち」です。

これは、身分の低い盲人の勾当こうとうが、最高位の検校けんぎょう乗打のりうち、つまり駕籠かごに乗ったまま挨拶せずに行き過ぎたのをとがめられ、難渋しているのを、通りすがりの神道者が機転をきかせ、大名と偽って助けるというもので、オチは現行と同じです。

これが落語化され、仲裁者を「頓知の藤兵衛」という知恵者にし、藤兵衛が人助けでなく、大名に化けて盲人二人をからかうという、演じ方によってはあざとい内容になりました。

彦六が改題、洗練  【RIZAP COOK】

明治から大正にかけて「頓智の藤兵衛」の題で三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が得意にしていました。

戦後、しばらくすたれていたのを、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が原話に近い形に戻した上、人情味を加味して、重厚な内容に仕上げました。

演題を「松田加賀」と変えたのも正蔵です。

正蔵はこの噺を若き日、師と仰いだ三遊一朝翁(倉片省吾、1846[1847]-1930、円朝門下)に教わっています。

「頓智の藤兵衛」で演じるときは、「前田加賀」との洒落ができないため、当然、演出が大きく変わりますが、現在、このやり方は継承されません。

速記、音源とも、残るのは正蔵のもののみです。

正蔵の没後、昭和58年(1983)に六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)が復活して高座に掛けました。

按摩は杖にも階級  【RIZAP COOK】

衆分(平按摩)は普通の木の杖、座頭は杖の上端に丸い把手が一つ、匂頭は上端に横木が半分渡してある片撞木。

検校になると、完全に横木を渡したT字型の撞木の塗り杖を用いました。

検校  【RIZAP COOK】

盲人(按摩)の位は、衆分(平按摩)→座頭→匂頭→別当→検校→総検校の順で、検校の位を得るには千両の金が必要でした。

衆分(平按摩)は上納金がまったく払えない者のこと。

「一」や「城」の名を名乗り、公式にはもみ療治、鍼医、琵琶法師などの営業を許可されませんでした。

座頭になって初めて最下級の位がもらえ、「一」か「城」の名を付けることができます。

勝新太郎やビートたけしの「座頭市」は厳密には誤りです。「座頭一」でなければならないわけ。

検校に出世すると、紫衣を着て撞木杖を持ち、高利貸などを営むことを許されました。

総検校  【RIZAP COOK】

検校の上が総検校です。

江戸中期までは、総検校は京都にいましたが、元禄6年(1693)に鍼医はりいの検校杉山和一わいち(1610-94)が五代将軍綱吉(1646-1709)の病を治したほうびに、総検校の位と、本所に屋敷を拝領。

検校から衆分(平按摩)まで、すべての盲人の支配権を握りました。この時が、総録屋敷の始まりです。

官位のための上納金は「三味線栗毛」にも出てくるように、座頭が十両、匂頭で百両、検校で千両でした。

それらの上に立つ総検校は、十万石の大名と同等の格式があったそうです。

江戸の総検校→京都の公家・久我こが家→京都の総検校の順に上納金が渡り、それぞれで中間搾取される仕組みになっていたわけです。

神道者については「人形買い」をご参照ください。

兼安  【RIZAP COOK】

本郷は二、三丁目までは江戸御府内、四丁目から先は郡部とされていました。

本郷三丁目の四丁目ギリギリにある兼安小間物店は、売り物の赤い歯磨き粉と堀部安兵衛自筆とされる看板で、界隈の名物でした。現在も健在です。

【語の読みと注】
兼安 かねやす
検校 けんぎょう
座頭 ざとう
匂頭 こうとう
片撞木 かたしゅもく
衆分 しゅうぶん
神道者 しんとうしゃ しんとうじゃ しんどうじゃ

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えどのさいじき【江戸の歳時記】知っておきたい

江戸の歳時記、これだけは知っておきたい年中行事です。

1月1日
初日の出。神田、湯島、愛宕山など

1月2日
商人は初荷、初売り。職人は細工初め。武家は馬乗り初め

1月11日
商人は蔵開き 

1月24~25日
亀戸で鷽替え神事。梅見も兼ねる

2月最初の午の日
初午祭。王子などの稲荷で

2月25~3月2日
雛人形市。日本橋十軒店、尾張町、浅草茅町、芝神明前など

3月3日
雛祭

3月中
花見。上野、飛鳥山など
潮干狩り。品川、洲崎など

4月8日
灌仏会

4月25~5月4日
甲人形市。日本橋十軒店など

4月中
蚊帳売り、団扇売りなどの物売りの姿

5月5日
端午の節句

5月28日
両国川開き

6月15日
山王祭。将軍上覧の天下祭

7月7日
七夕

7月6~8日
朝顔市。入谷など

7月9~10日
ほおずき市。浅草など。観音信仰

7月10日
四万六千日。観音信仰

7月12~13日
草市。盂蘭盆会用。深川櫓下、根津、両国広小路、下谷広小路、浅草雷門前など

7月13~16日
盂蘭盆会。13日には迎え火、16日には送り火

7月26日
二十六夜待。月を拝む。品川、高輪、湯島など

8月14~15日
富岡八幡祭。のぼり祭とも

9月11~21日
芝神明祭。長いので神明のだらだら祭とも
生姜市。芝神明祭で谷中生姜、甘酒、千木箱(檜製の小判型絵箱)を売る

9月15日
神田明神祭。天下祭。山王祭と隔年で。36の山車

10月19日
べったら市。日本橋大伝馬町。翌日の恵比寿講のための品を売る。くされ市とも

10月20日
恵比寿講

11月1日
顔見世狂言。江戸三座が新年の役者の顔ぶれを披露。芝居正月とも

11月酉の日
酉の市。鷲神社の祭礼。一の酉を初酉と重視。熊手を売る

11月15日
七五三の祝

12月13日
煤払い

12月末
歳の市。深川八幡宮、芝神明、芝愛宕下など
羽子板市。浅草の歳の市

ひとつあな【一つ穴】落語演目

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【どんな?】

主人と細君、権妻、権助の登場する噺。

古い江戸落語です。

【あらすじ】

ある金持ちのだんな。

ケチな上に口が悪いので、奉公人には評判がよろしくない。

そのだんなにお決まりで、外に女ができたという噂。

お内儀さんは心穏やかでない。

飯炊きの権助を五十銭で口説き落とし、今度だんなが夜外出するとき、跡をつけて女の所在と素性を突き止めてくるよう、言いつける。

まもなく、二、三日ぶりに帰宅しただんなが、また本所の知人宅へ出かけると言いだした。

さああやしいと、細君は強引に権助をお供に押しつける。

だんなが途中でうまく言い繕い、帰そうとする。

権助は
「人間は老少不定、いつどこで行き倒れになるかわからねえ」
などと屁理屈をこね、どこまでもついてくる。

ところがその権助の姿がふいに見えなくなったので、だんなは安心して、両国の広小路から、本所とは反対方向に清澄通りを左折していく……。

巻かれたふりをして、こっそり尾行する権助に気づかず、だんなは、大橋という大きな茶屋の横町を曲がり、角から二軒目で抜け裏のある、格子造りの小粋な家に入っていった。

権助が黒塀の節穴からのぞくと、二十一、二で色白のいい女。

だんながでれでれになり、細君の顔を見ると飯を食うのもイヤだの、ウチの飯炊きのツラは鍋のケツだのと、言いたい放題のあげ句、昼間だというのにぴしゃっと障子を閉めてしまったのを見て、権助はカンカン。

さっそく、ご本宅に駆け込んで、ご注進に及んだ。

もちろん、お内儀さんも権助以上にカンカン。

現場を押さえるため、今すぐに先方に乗り込むと息巻く。

権助はさすがに心配になったが、下手に止めるとおまえも一つ穴の狐だと言われ、しかたなくお供をして妾宅に乗り込んでいく。

一方、こちらはだんな。

一杯機嫌でグウグウ寝込んでいるところへ、お妾さんの金切り声でたたき起こされる。

寝ぼけ眼でひょいと枕元を見上げると、紛れもない細君が恨めしそうな顔でにらんでいるので仰天したが、もう後の祭り。

初めはしどろもどろ言い訳し、なんとかこの場を逃れようとするが、お内儀は聞かばこそ。

ネチネチと嫌みを言うので、しまいにはこちらの方も頭にきて、居直った挙げ句、ポカリとやったから、さあ大変。

大げんかになる。

見かねて仲裁に権助が飛び込んできたからだんな、ますます怒って、
「てめえは裏切り者だ、犬畜生だ」
と、ののしる。

こうなると、売り言葉に買い言葉。

「おらあ国に帰ると、天下のお百姓だ。どこが犬だ」
「なにを言いやがる。あっちでもこっちでも尻尾ォ振ってるから犬だ」
「ああそれで、おめえは犬といい、おかみさんは一つ穴の狐だと言った」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

今は昔、名人綺羅星のごと 【RIZAP COOK】

原話は不詳で、幕末にはもう口演されていた生粋の江戸噺。

ことわざからでっちあげられた噺は、ほかには「大どこの犬」「長崎の強飯」「みいらとり」くらいで、案外、あるようでないものです。

この噺、古い速記がやたらに多く、明治28年(1895)12月の四代目橘家円喬を始め、四代目円蔵、初代円右、二代目小円朝と、明治・大正の名人がずらり。

昭和から戦後でも、八代目桂文治、八代目春風亭柳枝、六代目三遊亭円生が得意にしましたが、今は見る影もなし。

わずかに、柳枝、円生両人に師事した三遊亭円窓、本法寺で禁演落語の会を開いていた「ロイド眼鏡の円遊」くらいでしょうか。

噺にも、はやりすたりがあるということでしょう。

円生の芸談  【RIZAP COOK】

円生は、この噺のカンどころとして、権助が塀から濡れ場を覗いて独白するくだりを挙げ、「向こうの言っている言葉を、いちいち復唱するように」と芸談を残している通り、描写が写実的で詳細でした。

そういえば、お内儀が権助に、だんなの尾行を強要する前半部は「権助魚」「悋気の独楽」などと共通しているので、噺として独自色を出すためには、後半の濃密なエロ描写を眼目にするほかないのでしょう。

円喬以来、演出はさほど変わっていませんが、二代目小円朝のように、発端部分をばっさり切って、権助が帰ってきた場面から入る演者もありました。

名誉の禁演落語  【RIZAP COOK】

当然ながらこの噺、戦時中の「禁演落語」の内で、昭和16年(1941)10月30日、浅草・本法寺の噺塚に「祭られた」栄えある53演目の一つ(穴?)です。

もっとも、これほど濃密なエロ具合では、禁演になる以前に、昭和10年代には「問題外」だったでしょうね。

一つ穴の狐  【RIZAP COOK】

もはや死語と言っていいでしょう。現在は「同じ穴のむじな」として、辛うじて生き残っている慣用句です。

同腹、同類、共謀者を指す古い江戸ことばですが、動物が替わって「一つ穴の古狸」「一つ穴のむじな」となる場合もあり、いずれも意味は同じです。

これらは、巣穴を掘る習性のあることと、古くから人を化かすといわれるのが共通点です。

「一つ」にも、独立して同じ共犯の意味があり、歌舞伎でよく「○○と一つでない証拠をお目にかけん」などと力んで、腹に刀を突き立てたりします。

【語の読みと注】

お内儀 おかみ
大橋 たいきょう
妾宅 しょうたく

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なかざわどうに【中沢道二】落語演目 

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【どんな?】

全編これ心学しんがく。今はすたれたべたべたのご教訓も落語で聴いてみると味わいあります。

あらすじ

江戸名物に「火事とけんかとちゅうぱら」とあるぐらい、江戸の職人は短気で、縁日などで足を踏んだ踏まれたで始終けんかばかりしている。

これを伝え聞き、少しは気を和らげてやりたいと、中沢道二という心学の先生が、はるばると京から下向してきた。

中橋なかばし寒菊かんぎくという貸席かしせきを道場に借り、「木戸銭、中銭、一切なし」というビラをまいたので、物見高い江戸者のこと、なかには、京都の田楽屋でんがくやが開店祝いにタダで食わせると勘違いする輩もいて、我も我もと押しかける。

下足番の爺さんに
「おまえさんとこの田楽はうまいかい?」
と早くも舌なめずり。

「手前どもの先生は、田楽じゃござんせん。心学でござんす」
「へえ、おい、田楽は売り切れちまって、しぎ焼きになっちまったとよ」

なんでも食えれば、後はそば屋で口直ししようと、二階へ通る。

当然、なにも食わせない。

高座へ上がってきた、頭がピカピカ光って十徳を着込んだ道二先生、ていねいにおじぎをして講義にとりかかる。

金平糖こんぺいとうの壺へ手を突っ込んで抜けなくなり、高価な壺だがしかたがないと割ってみたら、金平糖を手にいっぱい握っていたという話や、手と足が喧嘩して足がぶたれ、
「覚えてろよ。今度湯ィ入ったら、てめえに洗わせる」
という、落とし噺などで雰囲気を和らげ、本来の儒教の道徳を説こうとするが、おもしろくもなんともないので、みんな腹ぺこのまま、ぶうぶう言って帰ってしまう。

一人残された道二先生、
「どうしてこうも江戸っ子は気が短いのか」
と嘆いていると、客席にたった一人もじもじしながら残っている職人がいた。

先生喜んで
「あなたさま、年がお若いのに恐れ入りました。未熟なる私の心学が、おわかりですか」
「てやんでえ、しびれが切れて立てねえんだい」

【RIZAP COOK】

しりたい

中沢道二  【RIZAP COOK】

なかざわどうに。享保10年(1725)-享和3年(1803)、江戸中期、後期に活躍した人です。京都、西陣織元の家の出身。

40歳頃に手島堵庵てじまとあんに師事し、石門心学せきもんしんがくを修め、安永8年(1779)、江戸にくだって日本橋塩町に「参前舎さんぜんしゃ」という心学道場を開き、その普及に努めました。

手島は石門心学の祖、石田梅岩いしだばいがんの弟子です。ということは、中沢は石田梅岩の孫弟子。

のちに老中松平定信まつだいらさだのぶの後援を受け、全国に道場を建設、わかりやすい表現で天地の自然の理を説きました。

心学については「天災」のその項をお読みください。

実話を基に創作  【RIZAP COOK】

この噺は中沢道二の逸話を基に作ったとみられます。

本来は短いマクラ噺で、ここから「二十四孝」や「天災」につなげることが多くなっています。一席にして演じたのは八代目林家正蔵(彦六)くらいでしょう。

【語の読みと注】
中っ腹 ちゅうっぱら:むかむか。いらいら
鴫焼き しぎやき:ナスのみそ田楽の別名

【RIZAP COOK】

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だいみゃく【代脈】落語演目

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【どんな?】

寄席草創期の古い噺。昨今のパンデミック風潮に好機の医療ものかも。

【あらすじ】

江戸中橋の古法家である尾台良玄は名医として知られていた。

弟子の銀南は師に似つかわぬ愚者で色情者。

ある日のこと。

良玄が、病に伏せている蔵前の大店、伊勢屋のお嬢さまのもとに代脈に行くよう、銀南に命じた。

銀南は、代脈を材木と聞き違え
「かついでまいりますか、しょってまいりますか」
と尋ねるほどのまぬけぶり。

良玄「この間のこと、お嬢さまはどういう具合かひどく下っ腹が堅くなっておった。しきりに腹をさすって、下腹をひとつグウと押すと、なにしろ年が十七で」
銀南「へえ」
良玄「プイとおならをなすった。お嬢さまがみるみるうちに顔が赤くなって恥ずかしそうだ。そこは医者のとんちだ。そばの母親に『陽気のかげんか年のせいで、この四、五日のぼせて、わしは耳が遠くなっていかんから、おっしゃることはなるたけ大きな声でいってくださいまし』と話しかけて、お嬢さまを安心させた。そんなことにならぬよう、下腹などさわるでないぞ」

良玄は十分に注意を与え、銀南を若先生ということにして、代脈に行かせた。

銀南は伊勢屋でしくじりを重ねたあげく、手、舌などを見る。

しまいには、お嬢さまの下腹を押してしまう。

「プイッ」

お嬢さまが、みるみる赤い顔に。

銀南は良玄をまねて
「どうも年のせいか四、五日耳が遠くなって」
とやったはいいが、手代に
「大先生も二、三日前にお耳が遠いとおっしゃってましたが、若先生も」
といわれ、銀南は
「いけないとも。ちっとも聞こえない。いまのおならさえ聞こえなかった」

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【うんちく】

大看板好み与太郎噺 【RIZAP COOK】

文化年間(1804-18)、寄席の草創期から口演されてきたらしい、古い噺です。

銀南は医者見習いというものの、実態は与太郎そのもの。

昔から、ごく軽い与太郎物として扱われ、前座・二つ目の修行噺でもあるのですが、受けるネタだからか、大看板も多く好み、現在もよく高座に掛けられます。

古くは、明治45年(1912)の四代目柳家小三治(のち二代目柳家つばめ)や初代柳家小せんの速記があります。

戦後では、六代目三遊亭円生、五代目柳家小さんの大立者が音源を残しています。

昭和56年(1981)4月、文京区千石にあった三百人劇場での「志ん朝七夜」で演じた「代脈」は圧倒的な技量でした。

もちろん、古今亭志ん朝のこと。どの師匠のよりも、吹っ切れた明るさとスピード感、冴えた舌耕で、客席を笑いの渦に巻き込んでいました。

実話、屁の功名 【RIZAP COOK】

後半の屁の部分の原話は、室町後期の名医、曲直瀬道三まなせどうさん(1507-94)の逸話を脚色した寛文2年(1662)刊『為愚癡物語いぐちものがたり』巻三の「翠竹道三物語りの事」、さらにそれを笑話化した元禄10年(1697)刊『露鹿懸合咄つゆとしかかけあいばなし』巻二の「祝言」です。

後者は、道三がさるうつ病の姫君を診察した際、姫が一発やらかしたので、音が自分の耳に入ったと知ればいよいよ落ち込んで薬効もなくなると機転を利かせ、耳が遠くなったので筆談で症状を言うように仕向けて見事精神的ケアに成功、本復させたというものです。

良玄の自慢話そのものですが、してみると、これは実話を基にしていることになります。

銀南が代脈に行かされる前半の原話は、安永2年(1773)刊『聞上手』二編中の「代脈」です。

これは、あらすじでは略しましたが、銀南が駕籠の中で寝込んでいるところを、病家の門口で駕籠屋に起こされ、寝ぼけて「ドーレ」と言うくすぐりがあり、その部分のほぼそのままの原型です。

古法家 【RIZAP COOK】

概して漢方医のことですが、特に、漢や隋代の古い医学書に基づいて治療を行う、保守的な学派の医者を指します。

これに対し、元代に起こった、比較的新しい漢方医学を標榜する医者を後世家と呼びました。

中橋 【RIZAP COOK】

いまの東京駅八重洲中央口あたりです。昔はこのあたりに楓川かえでがわ掘割ほりわりがあり、日本橋の大通りと交差するところに中橋が架かっていました。

掘割が安永3年(1774)に埋め立てられると同時に橋も廃され、一帯の埋立地に中橋広小路町が形成されました。

中橋の橋詰は、寛永元年(1624)、猿若勘三郎が初めて芝居の興行を許された、江戸歌舞伎発祥の地でもあります。

【語の読みと注】
古法家 こほうか:漢方医
曲直瀬道三 まなせどうさん
後世家 こうせいか

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しろうとずもう【素人相撲】落語演目

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【どんな?】

東京での草相撲。相撲好きが大集まって自慢話には花が咲くけど……。

勧工場というのは、今のデパートのことですね。

別題:大丸相撲(上方)

あらすじ

明治の初め、東京でも素人相撲がはやったことがある。

その頃の話。

ある男が相撲に出てみないかと勧められて、オレは大関だと豪語している。

こういうのに強い奴はいたためしがなく、この間、若い衆とけんかをしてぶん投げたと言うから
「病人じゃなかったのか」
「ばかにするねえ」
「血気の若えもんだ」
「いくつくらいの?」
「七つが頭ぐれえで」

こういう手合いばかりだから、いざ本番で少しでも大きくて強そうな奴が相手だと、尻込みして逃げてしまう。

「向こうはばかに大きいからイヤだ」
「本場所は小さい者が大きい者と取るじゃねえか」
「おやじの遺言で、けがするのは親不孝だから、大きい奴と取ったら草葉の陰から勘当だと言われてる」
「てめえのおやじはあそこで見てるじゃねえか」
「なに、ゆくゆくは死ぬからそのつもりだ」

与太郎も土俵に上がれとけしかけられるが、
「おばさんから、相撲を取ってけがしたら小遣いをあげないと言われてるんで、いいか悪いか横浜まで電報を打って」
とひどいもの。

そこに、やけに小さいのが来て、
「私が取る」
と言うので
「おい、子供はだめだ」
「あたしは二十三です」

どうしても、と言うから、しかたなくマワシを付けさせて土俵に上げると、その男、大男の前袋にぶら下がったりしてチョロチョロ動いて翻弄し、引き落としで転がしてしまう。

「それ見ろ。小さいのが勝った。煙草入れをやれ、紙入れも投げろ。羽織も放っちまえ」
「おい、人のを放っちゃいけねえ。てめえのをやれ」
「しみったれめ」
「おまえがしみったれだ、しかし強いねえ。あれは誰が知っているかい?」
「あれは勧工場かんこうばの商人だ」
「道理で負けないわけだ」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

うんちく

お江戸の素人相撲 【RIZAP COOK】

辻相撲、草相撲とも呼ばれる素人相撲。

地方では、草相撲の盛んな地域はよくありますが、江戸では、相撲は見るもので、本来はするものではありませんでした。

それでも、祭りの奉納相撲としては、地域によって行われたようです。

三田村鳶魚の『江戸年中行事』には、「貞享度(1684-88)において、七月十五日の浅草蔵祭、同十六日の雑司ヶ谷の法明寺、享保度(1716-36)には五月五日の大鳥大明神祭」など、主に郊外を中心に行われたとあります。

ただし、「これらが草相撲なのか否かはにわかに断ぜられない」とのこと。

円喬は速記のマクラで、素人相撲を次のように、流行の一つとして説明しています。

「……よくこの、はやりすたりと申します。しかし此のはやりものも、あんまりパッとはやりますものは、すたるところへ行くとたいそう早いもので」

それに続き、茶番狂言、女義太夫、寄席くじなど、一時的に流行してすたれた物を列挙しています。

いずれ素人相撲も、明治30年代かぎりで、あまり長続きしなかったと見えます。

『武江年表』に、幕末の文久3年(1863)、下谷常在寺や本郷真光寺その他の境内で、子供相撲が盛んに催されたという記事があります。

この連中が壮年になるのが、明治20-30年代。昔取った杵柄か、と思えないでもありません。

類話「大安売り」 【RIZAP COOK】

よく似た噺に「大安売り」があります。

こちらは反対に、コロコロよく負ける力士が出て、それが安売り店の主人。

「なるほど、道理でよくまける」と、オチが反対になります。

東京では、相撲取り出身という異色の経歴と巨体が売り物の、三遊亭歌武蔵の持ちネタとして知られます。

大阪では、先代桂文枝が高座にかけていました。

「素人相撲」(大丸相撲)の方は、今はあまり演じ手がないようです。

原話について 【RIZAP COOK】

原話は二種類あり、古い方が、正徳6年(=享保元、1716)に京都で刊行の『軽口福蔵主』巻一中の「現金掛値なし」、次に、安永年(1778)江戸板の『落話花之家抄』中の「角力」です。

後者はオチもそっくりで、完全な原型とみられます。

志ん生も演じた噺 【RIZAP COOK】

戦後では、終生、四代目橘家円喬に私淑していた五代目古今亭志ん生が、独自のオチを工夫して、たまに演じていました。

志ん生のは、「よく押しがきくねえ」「きくわけだ。漬け物屋のセガレだから」というものでした。

オリジナルは上方落語 【RIZAP COOK】

明治30年代に、四代目橘家円喬が上方落語「大丸相撲」を東京に移したらしく、明治34年(1901)7月の『文藝倶楽部』に、同人の速記が載っています。

上方の方は、背景が村相撲で、商人風の男が飛び入りしてどんどん勝ち抜いていくので、「強いやっちゃなあ。どこの誰や?」「大丸呉服店の手代や}「道理でまけん」というオチです。

大阪では、大丸は掛け値しないことで有名だったので、こういうオチになったのを、円喬はそれを、明治の東京新風俗の「勧工場」に模したわけです。

勧工場の没落 【RIZAP COOK】

その後、商品の質が落ちたことで評判も落ち、明治40年代になると、新興の三越、高島屋、白木屋ほかの百貨店に客を奪われて衰退。

大正に入ると、ほとんどが姿を消しました。

勧工場の特徴は掛け値せず定価で売ったことで、これは当時としては新鮮でした。この噺のオチ「まけない」は、そこから来ています。

現在、新橋橋詰にある「博品館」の前身は勧工場で、場所もこの位置です。

勧工場 【RIZAP COOK】

家庭用品、文房具、衣類などをそろえた、今でいうデパートやスーパーのはしりです。

明治10年(1877)に開かれた、第一回内国勧業博覧会の残品を売りさばくために設けられたものです。

大阪では「勧商場かんしょうば」と呼びました。

明治11年(1878)1月創設の、東京府立第一勧工場を手始めに、明治25年ごろまでに、京橋、銀座、神田神保町、日本橋、上野広小路など、東京中の盛り場に雨後の筍のように建てられました。

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くるわだいがく【廓大学】落語演目

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【どんな?】

廓中毒の若だんなのばかぶり、儒学のばからしさをも笑います。

【あらすじ】

若だんなが吉原に入り浸り。

もう堪忍袋の緒が切れたと、親だんなが勘当しようとする。

それを番頭が止める。

「若だんなは反省して、今二階に閉じこもって『大学』の素読をしているので今度だけは勘弁してやってほしい」と取りなす。

親だんなも、「まじめになってくれるのなら言うことはない」と、二、三日ようすを見ることにした。

初めは、改心を装っていた若だんな。

時がたつと、だんだん本性を現し、がまんすればするほど吉原が恋しくなる。

「俺くらいになると、吉原中の人間に顔を知られている」
と、モテにモテた日々を回想し、
「吉原の車屋は威勢がよかった」
とか、
「山谷から船で芸者を連れて遊びに出たら、帰りが遅いと見番(廓の出入りの管理者)に文句を言われたが、廓の世話人の久兵衛に取りなしてもらった」
とか、
「吉原では番頭新造が花魁の懐を握っている」
とか、
「禿は居眠りすると相場が決まっている」
などと、次から次へと思い出すたびに、矢もたてもたまらなくなって、思わず大声を張り上げてしまう。

それを聞きつけたおやじ、二階に上がってきて
「このばか野郎。番頭が、おまえは『大学』の素読をしていると言うから覗いてみれば、とんでもないことをしゃべってやがる」
「えー、おとっつぁん、私はこれで『大学』の素読をしてましたんで」
「なんだい、これは。大変小さい本だねえ」
「へえ、『廓大学』と申します」

実は、「吉原細見」という案内書。

若だんな、ここで勧進帳よろしく、「大学」と見せかけて読み上げる。

「大学、朱憙章句、ご亭主のいわく、大学の道は道楽を明らかにするにあり、金を使わすにあり、自然に止まるにあり、と」

大学のパロディーを展開して、おやじをケムにまく。

親だんなが、なんだか怪しいと本を取り上げてみると、「松山・玉章」(花魁の名)。

「なんだ、マツヤマタマズサってえのは」
「おとっつぁん、そうお読みになっちゃいけません。ショウザンギョクショウ。ともに儒者の名です」
「変な先生方だねえ。どこにいるんだ」
「行ってみなさい。ズラリと格子の内に並んでます」

底本:初代柳家小せん

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【しりたい】

大学

「廓大学」の「大学」は、儒教の経典で四書五経のうち、四書の一つ。書名です。

五経のうちの「礼記」の一編で、朱熹が注釈、改訂しました。

四書は儒学の根本経典である五経を学ぶための補助教材です。「論語」「孟子」「大学」「中庸」の四書。

政治の理想と士太夫のあるべき姿を示すもので、朱子学一辺倒の旧幕時代には、支配階級である武士の必修テキストでした。

若だんなの読み上げるのは、そのパロディー。

儒教道徳の要であるガチガチの学術書を軟派の極みのお女郎買い指南にすり替えたあたり、この噺の「作者」の並みでない反骨精神が感じられます。

吉原細見

正しくは「新吉原細見記」。吉原廓内の娼家、揚家、茶屋と遊女名が詳細に記された、絵図つき案内書です。ガイドブックです。

毎年タイトルを変えて改訂され、延宝年間(1673-81)から大正5年(1916)まで、二百三十余年にわたって発行され続けました。

安永4年(1775)版の『籬の花』、天明3年(1783)版の『五葉松』などが有名です。

初代小せんの十八番

明治中期まで、二代目柳家(禽語楼)小さんが得意にし、そのうまさは折り紙つきだったといいますが、速記は残されていません。

小さんは士族出身で、武張った噺がうまかった人。

もちろん幼時には、「大学」の素読くらいさせられたでしょうから、こういうパロディーは、お手のものだったでしょう。

大正期には、初代柳家小せんの十八番でした。廓噺の完成者。

二代目小さんの孫弟子です。

現存する小せんの速記は、大正8年(1919)9月に、小せんの遺著として出版された、『廓ばなし小せん十八番』に収録されています。

貴重な文献資料

若だんなが吉原の回想をする、小せんの次のようなくだりは、今では貴重な文化的資料(?)といえます。

「昔は花魁がお客に無心をする、積み夜具(客がお女郎となじみになったしるしに、新調の夜具を積み重ねて飾る)をあつらえることも出来ないから、本床をあつらえてやらうてえんで床をあつらえてくれると、ふだんはどんなにに振られているお客でも、その晩だけは大切にされたもんだとかいうね、実に吉原というところは不思議なところだねえ」

「車と言えば、吉原の車と町車とは違うね、堤(吉原の日本堤という土手)の車なんと来た日には威勢がいいんだからなア」

「車」は人力車のことです。

今じゃ聴けない噺

原話は寛政8年(1796)刊の創作小咄本『喜美談語』中の「学者」です。

吉原に入りびたりのせがれをおやじが心配し、儒者の先生に意見を頼みます。ところが、若だんなもさるもので、自分のなじみの女郎は博学の秀才で「和漢の書はおろか、客の鼻毛まで読みます」などと先生をケムにまくものです。

初代小せん没後、後継者はありません。

日本の現代社会はすでに儒学の基本がすたれているため、今では誰も笑えないでしょう。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
禿 かむろ
細見 さいけん
勧進帳 かんじんちょう
朱憙 しゅき:朱子。1130-1200年
籬の花 まがきのはな
本床 ほんどこ

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てんしき【転失気】落語演目

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【どんな?】

知ったかぶりすると、ほれ、こんな具合におもしろく。

【あらすじ】

在所の住職。

知ったかぶりで負けず嫌いだから、知らないことを認めたがらない。

ある日、下腹が張って医者を呼んだ時
「てんしきはありますか」
と聞かれ、わからないとは言えないのでしかたなく
「はい」
と答えてしまった。

悔しいので小僧の善長に
「花屋に行って爺さんに、てんしきを借りてこい。もしなかったら隠居のところに行け」
と、言いつける。

花屋もなんだかわからないが、これも同じように負けず嫌いなので
「惜しいことをした。この間二つ三つあったが、もう温かくなってあんまり使わないから、親類に貸してしまった」
と、ごまかす。

隠居の家に行くと、これも知らない。

「いらないものだから台所の隅に放っておいたが、鼠が棚から落として掃きために捨ててしまったよ」

しかたなく帰って和尚に報告したが、善長も気になって
「和尚さん、その『てんしき』ってなんですか? 見たことがありません」

和尚は返答に困るが、
「ばか野郎。そんなことを知らないでどうする。わしが教えてやるのはわけはないが、おまえは遊びにばかり気がいって、すぐ忘れてしまう。先生のところに薬を取りに行って、自分の腹から出たようにちょっと聞いてこい」
と、送り出す。

医者は
「『てんしき』というのは『傷寒論』の中にある。転び失う気、と書いて転失気だ。オナラのことだよ」
「オナラってのはなんです? どういう形で?」
「形はない。屁のことだ」
「屁ってえと、あのプープー、へえ、あれのことですか」

これで、和尚も花屋も隠居も、知らないでゴマかしたことがばれた。

善長、和尚に言っても逆に説教を食うと思うから、嘘をつくことにした。

「どうした、聞いてきたか」
「へえ、てんしきとは盃のことだそうで」
「盃? うーん、そうだとも。忘れるなよ。テンは呑む、シュは酒で、キは器。これで呑酒器という」

照れ隠しに、こじつけているところに医者。

和尚、よせばいいのに見栄を張り
「お尋ねのてんしきを、今日はいろいろ用意してありますので、お目にかけます。まずは大きいてんしきを」

蒔絵の箱から秘蔵の盃を取り出して
「私はテンシキ道楽で。こっちは九谷焼のてんしきで」
「ははあ、医者の方では傷寒論の中の言葉から、屁のことを申しますが、あなたの方では盃のことをいいますか」
「さよう」
「どういうわけで?」
「盃を重ねますと、しまいいにはプープーが出ます」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

有名な前座噺

「まんじゅうこわい」などとともに、落語の「代表作」の一つで、噺の筋をご存じの方も多いと思います。典型的な前座噺です。

戦後では三代目三遊亭金馬がしばしば演じました。

金馬のやり方は、隠居を出さず、その代わり花屋を夫婦にして、掛け合いのくすぐりで笑わせました。

門弟の二代目桂小南、孫弟子の桂文朝なども好んで手掛けました。

小僧の名は、弁長、珍念など、演者によってまちまちです。

金馬のくすぐりから

(花屋のおやじ)「もう一つは、おつけの実にして食っちゃったって、和尚さんに伝えとくれ」

わかりにくいオチ

オチの「プープー」は、今ではわかりづらくなっていますが、古い江戸ことばで、酔っ払いへの苦情、小言を意味します。

「プープー」とやっている演者や速記が多いので、一応このように表記しましたが、本来「ブーブー」「ぶうぶう」が正しいのです。

それを、放屁の音と引っ掛けただけの単純なものです。

傷寒論

しょうかんろん。後漢の張機(字は仲景、196-221)が著した古医書。

中国医学書の最古のもの。

晋の王叔和が補修し、北宋の林億が校訂したものが今に伝えられています。全16巻。

張機は長沙の太守となったのですが、一族に急性の熱病が多発し、その観察と治療の経験から、発汗、嘔吐、瀉下を対策の基本とする記録を残しました。

それが『傷寒論』です。

太陽病など6型に分類した記載があります。

下って江戸期には、山脇東洋や吉益東洞などの古方派医師たちが、薬物療法の最重要書としてあがめてきました。

古代では、病気といえば、まずは熱病だったわけですかね。

【語の読み】
転失気 てんしき
蒔絵 まきえ
傷寒論 しょうかんろん
張機 ちょうき
張仲景 ちょうちゅうけい
長沙 ちょうさ
太守 たいしゅ
王叔和 おうしゅくわ
林億 りんおく
発汗 はっかん
嘔吐 おうと
瀉下 しゃか
山脇東洋 やまわきとうよう:1705-62 江戸中期の医師 実験医学の先駆者
吉益東洞 よしますとうどう:1702-73 江戸中期の医師 万病一毒説 実験重視

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しょうわげんろくらくごしんじゅう【昭和元禄落語心中】知っておきたい

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落語と「死」

雲田はるこによる漫画作品です。

「ITAN」(講談社)2010年零号(創刊号)~16年32号に連載されていました。

第17回2013年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、第38回(2014年度)講談社漫画賞一般部門、2017年第21回手塚治虫文化賞新生賞をそれぞれ受賞しています。

落語漫画の傑作ですね。

テレビアニメは、第1期が2016年1月~3月に放送され、第2期が17年1月~3月に放送されました。

両期とも主題歌は椎名林檎の作品でした。第1期は「薄ら氷心中」第2期は「今際の死神」。

ともに、原作の真意をたっぷり汲み取った楽曲です。

楽しめます。

2018年にはNHKでテレビドラマ化されました。10月12日~12月14日、NHK総合「ドラマ10」。

全10回。ドラマに登場した落語の演目を列挙してみましょう。

第1回
死神
たちきり
野ざらし
出来心
鰍沢
第2回
寿限無
たらちね
品川心中
黄金餅
あくび指南
第3回
夢金
第4回
居残り佐平次
死神
第5回
子別れ
野ざらし
第6回
あくび指南
野ざらし
明烏
芝浜
第7回
野ざらし
第8回
錦の袈裟
大工調べ
あくび指南
芝浜
寿限無
第9回
出来心
錦の袈裟
品川心中
たちきり
最終回
明烏
芝浜
死神
寿限無
野ざらし

ざっと見てわかる通り、全10回放送のうち 「野ざらし」が 5回も登場しています。

これは、有楽亭助六(山崎育三郎)のおはこということになっているからです。

そればかりではないでしょう。

ドラマの進行と「野ざらし」が、暗示的に絡み合っているように見えます。

それと 「死神」が3回。

この物語の通奏低音として「死」が見え隠れしています。

落語と「死」。笑いを求める落語になんで「死」なのか。

不思議に思えるかもしれませんが、三遊亭円朝の作品にひとつにでも触れれば氷解します。

落語と「死」。この取り合わせ、悪くない。

落語の笑いと「死」はいつも背中合わせでいるのです。

背中合わせ。

そう、これは九鬼周造に言わせれば、「いき」のサンプルなのだそうです。

男と女が仲良く手をつないでいるのは「いき」ではないのですね。

背中合わせの男女こそ「いき」とされるのです。

落語は「いき」でなくてはいけません。

「昭和元禄落語心中」が落語と「死」の背中合わせというのなら、これはもうりっぱに「いき」を描いていることになる、と言えるのではないでしょうか。

「いき」には「はかなさ」「むなしさ」が漂うもの。

あやういもんです。

一見はなやかに見えるものの奥には、じつは「死=無」を暗示させる闇の奥が潜んでいるようなのですね。

そんなことを無性に感じさせてくれる物語が「昭和元禄落語心中」なのだな、と私は思っています。

いくつか生まれた落語がらみの創作の中でも、とびきりの傑作です。

古木優

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おついでに

2022年10月、フジテレビ系列で『エルピス-希望、あるいは災い-』というドラマが放送されました。

演出は大根仁、脚本は渡辺あや、プロデユーサーは佐野亜裕美(カンテレ)。主演は長澤まさみ、真栄田郷敦、鈴木亮平。

物語は、まさにパンドラの箱をひっくり返したようなものすごさです。

ある地方都市の冤罪事件を通して、家出少女と板金工、刑事と警察庁幹部、司法と死刑囚、大物政治家と取り巻き記者、テレビ局と出入り業者、報道とバラエティー、制作部内の格差、正社員とタレント、学校歴、いじめ、自殺、勝ち組と負け組、成金弁護士と世田谷マダム、家庭内の虐待、過保護母子、局アナ路チュー……と、現代社会がいつも葬ろうとするちぐはぐな闇を丁寧に暴き照らし、三人三様の死角に照射しようとします。

「どこの世界にもある」

そう言ってしまえば、ますますわからなくなるだけの蟻地獄社会。

無頓着で無知な無防備圏が、われわれの棲息舞台なのです。

それはともかく。

毎回のサブタイトルが意味深です。

第1話(10月24日放送) 冤罪とバラエティ  8.0%
第2話(10月31日放送) 女子アナと死刑囚 7.3%
第3話(11月7日放送) 披露宴と墓参り 6.3%
第4話(11月14日放送) 視聴率と再審請求 6.9%
第5話(11月21日放送) 流星群とダイアモンド 5.8%

「〇〇と〇〇」のつかみ方は、『昭和元禄落語心中』のそれに似ています。

『昭和元禄落語心中』も『エルピス-希望、あるいは災い-』も、通奏低音として「死」のイメージが漂い響いているのです。

『昭和元禄落語心中』は、はなやかでにぎやかな世界の裏に潜む、影法師のような、あやういうたかたを描こうとしていたみたいでした。

人はなぜ笑うのでしょうか。

古木優

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みずやのとみ【水屋の富】落語演目

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【どんな?】

水を売る小商いの男が、富くじに当たって大金を手にした……。

心の中は疑心暗鬼で、という噺。さて、どうなることやら。

別題:水屋富(上方)

あらすじ

まだ水道が普及しなかった本所や深川などの低地一帯に、荷を担いで水を売って歩いた水屋。

一日も休むことはできないので、冬は特に辛い商売。

ある水屋、独り者で身寄りはなし、わずらったら世話をしてくれる人間もないから、どうかまとまった金が欲しいと思っている矢先、どう運が向いたものか、千両の「打ち富」に当たってしまった。

「うわーッ、当たった」

興奮して引き換え所に行くと、二か月待てば千両まとめてくれるが、今すぐだと二割さっ引かれるという。

待っていられないと、すぐもらうことにし、小判を、腹巻と両袖にいっぱい入れてもまだ持ちきれないので、股引きを脱いで先を結び、両股へ残りをつっ込んで背負うと、勇んでわが家へ。

山吹色のをどっとぶちまけて、つくづく思うには、これで今すぐ商売をやめたいが、水屋は代わりが見つかるまでは、やめることができない。

一日休んでも、持ち場の地域の連中が干上がってしまう。

かといって、小判を背負って商売に出たら、井戸へ落っことしてしまう。

そこで、金を大きな麻の風呂敷に包み、戸棚の中に葛籠(つづら)があってボロ布が入っていたので、その下に隠した。

泥棒が入って葛籠を見ても、汚いから目に留めないだろうと納得したが、待てよ、ボロの下になにかあると勘づかれたらどうしようと不安になり、神棚に乗せて、神様に守ってもらおうと気が変わる。

ところが、よく考えると、神棚に大切なものを隠すのはよくあること。

泥棒が気づかないわけがないとまた不安になり、結局、畳を一畳上げて根太板をはがし、丸太が一本通っているのに五寸釘を打ち込み、先を曲げて金包みを引っかけた。

これで一安心と商売に出たものの、まだ疑心暗鬼は治まらない。

すれ違った野郎が実は泥棒で、自分の家に行くのではないかと跡をつけてみたり、一時も気が休まらない。

おかげで仕事もはかどらず、あっちこっちで文句を言われる。

夜は夜で、毎晩、強盗に入られてブッスリやられる夢を見てうなされる。

隣の遊び人。

博打でスッテンテンになり、手も足も出ないので、金が欲しいとぼやいていると、水屋が毎朝竿を縁の下に突っ込み、帰るとまた同じことをするのに気がついた。

これはなにかあると、留守に忍び込んで根太をはがすと、案の定金包み。取り上げるとずっしり重い。

しめたと狂喜して、そっくり盗んでずらかった。

一方、水屋。

いつものように、帰って竹竿で縁の下をかき回すと
「おや?」

根太をはがしてみると、金は影も形もない。

「あッ、盗られちゃった。これで苦労がなくなった」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

江戸の「水」事情  【RIZAP COOK】

江戸時代、川向こうの本所や深川などの水事情。

そこらは水質が悪く、井戸水が使えない低湿地帯でした。

天秤棒をかついで毎日やって来る水屋から、一荷(ふた桶)百文、一杯せいぜい二文ほどで、一日の生活用水や飲み水を買っていたものです。

井戸のある長屋では年に一度、井戸替えがありました。

ここらへんでは井戸もありませんし、井戸替えも無縁です。

水売りとも呼ばれたこの商売。

狭い、限られた地域の、せいぜい何軒かのお得意を回るだけで、全部売りきってもどれほどの儲けにもなりません。

しかも雨の日も雪の日も、一日も休めません。

いつまでも貧しく、過酷ななりわいでした。

水屋は、享保年間(1716-36)にはもう記録にあります。

水道がまだ普及しなかった、明治の末まで存在しました。

江戸時代には、玉川や神田上水から、水業者が契約して上水を仕入れ、船で運びました。

それを水売りが河岸で桶に詰め替え、差しにないで、得意先の客に売り歩いたものです。

水売り  【RIZAP COOK】

これとは別に、夏だけ出る水売りがありました。

こちらは、氷水のほか、砂糖や白玉入りの甘い冷水を、茶碗一杯一文(のち四文)で売っていました。

こちらは、今の清涼飲料水のような嗜好品です。

噺のなりたち  【RIZAP COOK】

原話はいくつかあります。

明和5年(1768)刊の笑話本『軽口片頬笑』中の「了簡違」、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「ぬす人」、さらに文政10年(1813)刊『百成瓢』中の「富の札」など。

この噺は、いくつかの小咄をつなぎあわせてできたものです。

このうち、「ぬす人」は、千両拾った貧乏人が盗人を恐れて気落ちになる後半の大筋がすでにできあがっています。

オチは、百両だけ持って長屋から夜逃げする、というもの。

「富の札」では、金を得るきっかけが富くじの当選に変わり、結末はやはり、百両のうち一両二分だけ持って逃走といういじましいものです。

大阪でも「水屋富」として演じられました。

ただ、この噺は、江戸の下町低湿地という特殊事情に根ざした内容なので、やはりこれは純粋な東京の噺といえるでしょう。

「あきらめ」の哲学?  【RIZAP COOK】

「水屋の富」には、心学の影響がみられます。

運命をありのままに受け入れる哲学を説き、江戸庶民に広く普及していた、石田梅岩の石門心学です。

心学については、「天災」をお読みください。

オチの「これで苦労がなくなった」というのも、その「あきらめの勧め」に通じると見られます。

生涯遊んで暮らせる金をむざむざ盗まれて、あきらめろと言われても、現代人にはやはり納得がいきません。

この男が本気で胸をなでおろしているとすれば、一種のマゾヒズムじみた異様さを感じる人も、少なくないのではないでしょうか。 

何百何十両手にしても、主人公は仕事を休むことも逃げることもできず、むろん今のように、預ける銀行などありません。

休めば得意先が干上がるという道義心や、その地域を担当する代わりの者が見つからなければ廃業もできない、という水屋仲間の掟もあります。

それより、そんな悪知恵も金を生かす才覚もないのです。

たとえ下手人が捕まり、金が戻ったとしても、再び盗まれるまで、同じ恐怖と悪夢が、また果てしなく続くでしょう。

してみると、結局、これがもっとも現実的な解決法だったかと、納得できないでもありませんね。

志ん生が描く江戸の「どん底」  【RIZAP COOK】

三代目柳家小さんの十八番でした。

戦後は五代目古今亭志ん生が、貧乏のどん底暮らしの体験を生かして、江戸の底辺を生きる水屋の姿をリアルに活写して、余すところがありませんでした。

どん底暮らしとはいっても、これは後世の志ん生好きが美化しているだけのことです。

志ん生ご本人は、さほどの辛さはなかったようです。

当時のさまざまな証言から推測できます。

さて。

志ん生のやり方では、水屋が毎晩毎晩、強盗に違う手口で殺され、金を奪われる夢を見ます。

一昨日は首をしめられ、昨夜は出刃でわき腹を一突き。

そして今夜は、何とマサカリで……。

このあたりの描写は、あまり哀れに滑稽で、笑うに笑えず、しかし、やっぱり笑ってしまいます。

結局、かなしい「ハッピーエンド」になるわけですが、人生の苦い皮肉に身をつまされます。

優れた短編小説のような、ほろ苦い味わいです。ここがいい。

志ん生没後は、十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝に継承されました。

今となっては、お二人とも泉下の人に。

その門下も含め、現在はあまり手掛ける人はいないようです。

富くじ  【RIZAP COOK】

この噺の題名にもなっている千両富は、「富久」「宿屋の富」「御慶」など、落語にはしばしば登場します。

富くじは、各寺社が、修理・改築の費用を捻出するために行ったものです。

文政年間(1818-30年)の最盛期には、多いときには月に二十日以上、江戸中で毎日どこかで富の興行があったといいます。

有名なところは湯島天神、椙森稲荷、谷中天王寺、目黒不動などです。

当たりの最低金額は一朱(一両の十六分の一)でした。

この噺のような千両富の興行はめったになく、だいたい五百両富が最高でした。

今の宝くじを想像していただければよろしいかと思います。

富くじは、明治には廃止となり、先の大戦が終わるまで日本の社会では絶えていました。

現代の宝くじは、江戸期の富くじの後身です。

明治維新から昭和20年(1945)までの77年間、富くじはなぜ消えたのでしょうか。

この制度、そうとうに不思議なのです。

宝くじというもの、あてずっぽうでいえば、戦争と相性が悪いのでしょうね、きっと。

宝くじと日本人。興味尽きない社会史の材料です。

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たばこのひ【莨の火】落語演目

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【どんな?】

もとは上方の噺。林家彦六が持ってきたといわれています。

あらすじ

柳橋の万八まんぱちという料理茶屋にあがった、結城拵ゆうきごしらえ、無造作に尻をはしょって甲斐絹かいき股引ももひき、白足袋しろたび雪駄せったばきという、なかなか身なりのいい老人。

欝金木綿うこんもめんの風呂敷包み一つを座敷に運ばせると、男衆の喜助に言いつけて駕籠屋かごやへの祝儀しゅうぎ二両を帳場に立て替えさせ、さっそく芸者や幇間たいこを総揚げに。

自分はニコニコ笑って、それをさかなにのんでいるだけ。

その代わり、芸者衆の小遣いに二十両、幇間に十両、茶屋の下働き全員に三十両と、あまりたびたび立て替えさせるので、帳場がいい顔をしない。

「ただいま、ありあわせがございません、と断れ」
と、喜助に言い渡す。

いよいよ自分の祝儀という時にダメを出された喜助、がっかりしながら老人に告げると
「こりゃあ、わしが無粋ぶすいだった。じゃ、さっきの風呂敷包みを持ってきておくれ」

包みの中には、小判がぎっしり。

これで立て替えを全部清算したばかりか、余ったのを持って帰るのもめんどうと、太鼓と三味線を伴奏に、花咲爺はなさかじいさんよろしく、小判を残らずばらまいて
「ああ、おもしろかった。はい、ごめんなさいよ」

「あれは天狗か」
と、仰天した喜助が跡をつけると、老人の駕籠は木場の大金持ち奈良茂ならもの屋敷前で止まった。

奈良茂ならご贔屓筋ひいきすじで、旦那や番頭、奉公人の一人一人まで顔見知りなのに、あの老人は覚えがない。

不思議に思って、そっと大番頭に尋ねると、あの方は旦那の兄で、気まぐれから家督を捨て、今は紀州で材木業を営む、通称「あばれ旦那」。

奇人からついた異名とのこと。

ときどき千両という「ホコリ」が溜まるので、江戸に捨てに来るのだ、という。

事情を話すと「立て替えを断った? それはまずかった。黙ってお立て替えしてごらん。おまえなんざあ、四斗樽ん中へ放り込まれて、ぬかの代わりに小判で埋めてもらえたんだ」

腰が抜けた喜助、帰って帳場に報告すると、これはこのまま放ってはおけないと、芸者や幇間を総動員、山車だしをこしらえ、人形は江戸中の鰹節を買い占めてこしらえ、鳶頭の木遣りや芸者の手古舞、囃子で景気をつけ、ピーヒャラドンドンとお陽気に奈良茂宅に「お詫び」に参上。

これでだんなの機嫌がなおり、二、三日したらまた行くという。

ちょうど三日目。

あばたれ旦那が現れると、総出でお出迎え。

「ああ、ありがとうありがとう。ちょっと借りたいものが」
「へいッ、いかほどでもお立て替えを」
「そんなんじゃない。たばこの火をひとつ」

しりたい

上方落語を彦六が移植

上方落語の切りネタ(大ネタ)「莨の火」を昭和12年(1932)に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)の直伝で覚え、東京に移植したものです。

正蔵(当時は三代目三遊亭円楽)は、このとき「おしの釣り」もいっしょに教わっていますが、東京風に改作するにあたり、講談速記の大立者、初代悟道軒円玉ごどうけんえんぎょく(浪上義三郎、1866-1940)に相談し、主人公を奈良茂の一族としたといいます。

東京では彦六以後、継承者はいません。

上方版モデルは廻船長者

本家の上方では、初代桂枝太郎(岩本宗太郎、1866-1927)が得意にしました。地味ながら現在でもポピュラーな演目です。

上方の演出では、主人公を、和泉いずみ佐野さのの大物廻船かいせん業者で、菱垣廻船ひがきかいせんの創始者飯一族の「和泉の飯のあばれだんな」で演じます。

「飯の」とは食野家めしのけのこと。江戸中期から幕末まで和泉国日根ひのね郡佐野(大阪府泉佐野市)をベースに繁栄した豪商の一家です。 屋号は「和泉屋」です。同地で栄えた唐金家からかねけととつねにセットに語られました。

江戸期の全国長者番付『諸国家業自慢』でも上位に載っています。ちなみに、和泉佐野は戦国末期から畿内の廻船業の中心地でした。

この一家は、元和年間(1615-24)に江戸回り航路の菱垣廻船で巨富を築き、寛文年間(1661-73)には廻船長者にのし上がっていました。

鴻池こうのいけは新興のライバルで、東京版で主人公が「奈良茂の一族」という設定だったように、上方でも飯の旦那が鴻池の親類とされていますが、これは完全なフィクションです。

上方の舞台は、大坂北新地の茶屋ちゃや綿富わたとみとなっています。

江戸の料理茶屋

宝暦から天明年間(1751-89)にかけて、江戸では大規模な料理茶屋(料亭)が急速に増え、文化から文政年間(1804-30)には最盛期を迎えました。

有名な山谷さんやの懐石料理屋八百善やおぜんは、それ以前の享保きょうほう年間(1716-36)の創業です。文人墨客ぶんじんぼっかくの贔屓を集めて文政年間に全盛期を迎えています。

日本橋浮世小路の百川ももかわ、向島の葛西太郎かさいたろう洲崎すざき升屋ますやなどが一流の有名どころでした。

江戸のバンダービルト

奈良茂は江戸有数の材木問屋でした。

もとは深川ふかがわで足袋商いなどをしていた小店者でしたが、四代目奈良屋茂左衛門勝豊かつとよ(?-1714)のときに、天和3年(1683)、日光東照宮の改修用材木を一手に請け負って巨富を築きました。

その豪勢な生活ぶりは、同時代の紀伊国屋文左衛門(1669?-1734)と張り合ったといわれていますが、多分に伝説的な話で、信憑性はありません。

噺の格好の材料にはなりました。初代から三代目までは小商いでした。

四代目の遺産は十三万両余といわれ、霊岸島に豪邸を構えて孫の七代目あたりまでは栄えていました。

その後、家運は徐々に衰えましたが、幕末まで存続していたそうです。

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【RIZAP COOK】

しのじぎらい【しの字嫌い】落語演目

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【どんな?】

主人と太郎冠者とののんきなやりとりみたいで、狂言のようなのどかさです。

【あらすじ】

さるご隠居が、飯炊きの権助一人を置いて、暮らしている。

小女などは扱いがめんどうくさいし、泥棒の用心にも男の方がいいと使っているのだが、この男、いちいち屁理屈をこねて主人に逆らうので、癪の種。

灯を煙草盆に入れろと言えば
「煙草盆に火を入れたら焦がしちまう。火入れの中の灰の上へ灯を入れるだんべ」
とくるし、困らせてやろうと
「衝立の絵の虎が気味が悪いから、ふんじばってくれ」
と言うと
「棒でその虎を追い出してくらっせえ」
と、一休のようなことを言ってすましている。

どうにも始末におえないので、しの字封じをしてとっちめてやろうと思いつき、権助に
「しの字は死んだ、身代限り、仕合せが悪いという具合に縁起が悪いから、これからおまえも、しを言ってはいけない。言えば給金をやらない」
と申し渡す。

権助は、隠居がもし言った場合は、望むものをくれるという条件で承知する。

「待ってくだせえ。今しの字を書いて飲んでしまう。ひいふうみ、さ、もう言わねえ」

これで協定が成立したが、隠居、なんとか権助に「し」と言わせようと必死。

不意に
「水は汲んだか」
と声を掛ければ、いつものくせで
「水は汲んでしまいました」
と二回言うに違いないと考えて試すと、権助引っかからず
「汲んで終わった」

隠居、思わず
「しょうがねえ」
と言いかけて、あわてて口を押さえ、今度は四百四十四文の銭を並べて勘定させれば、イヤでも言わないわけにはいかないと企むが、敵もさるもの。

四百四十四のところにくると、ニヤリと笑い
「三貫一貫三百一百二十二十文だ」

「そんな勘定があるか。本当を言え」
「よ貫よ百よ十」
「この野郎、しぶとい野郎だ」
「ほら言った。この銭はオラのもんだ」

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【うんちく】

原話はチョンボ

古い原型は、正徳年間(1711-16)刊の上方笑話本『異本軽口大矢数』中の「四の字を嫌ふだんな」にあり、続いて天明6年(1786)刊『十千万両』中の「銭くらべ」が、短い小咄ながら、現行のパターンにより近いものとなっています。

これはケチだんなと小僧の賭けで、「四の字」を言ったらお互い銭五貫文という取り決めです。仕掛けるのは小僧で、使いから帰ってだんなに、小僧が「モシ、だんな様。今日通り丁(=町)で、鍋屋が木の鍋に精出して、火であぶつておりました」、だんなが「とんだやつだ。それは大きに、しりがこげるだろう」と、あっさりひっかかって五貫文せしめられるという、たわいないものですが、小僧の言葉をよく読むと完全チョンボで、小僧が先に「モシ、だんな様」「精出して」で「シ」を二回も言ってしまっています。

それに加えてもしこの小僧が江戸っ子なら当然、「火で」は「シで」と発音しているわけで、そうなると勝負は、小僧が三回で十五貫、だんなが一回で五貫、差し引きで小僧が十貫の罰金です。

現在でも演者によって、人物設定を原話の通りだんなと小僧の対話とする場合があります。

名人二代、連発

現存するもっとも古い速記は、明治29年(1896)7月の三代目柳家小さんのものですが、暉峻康隆は、この速記の大チョンボを指摘していました。

よく通しで読むと、実は、ほかのところで権助は三度も「シ」とやらかしていて、だんなはそれに気づいていない、というわけです。

だんなが気づかないだけでなく権助当人も気づかず、演じている小さん当人も、当時の読者も編集者も速記者もすべてだれも気づかなかったに違いありません。

ちなみに、この噺の一部ををマクラに組み入れている二代目(禽語楼)小さんの「かつぎや」(明治22年)を調べると、案の定ここでも、客が「昨日は途中でシつれいを」とやり、後の方でも「よんるい中でそのよん睦会をもよおシまシて」、主人も主人で「ただあっちの方てえのはおかシいが」とやらかしています。

アラを探せばいくらでもこの種のチョンボはあらわれるもの。『古典落語・続』(興津要、講談社学術文庫)の速記(演者不明)でも、やっぱりありました。

おそらく、寄席で口演されるときでも、どの演者も一度や二度は必ずやっているはずです。

熟達の演者自身をも巻き込む、錯覚の恐ろしさ自体が、この噺のテーマと解釈すれば、実は傑作中の傑作ということになるでしょうか。

いずれにせよ、鶴亀鶴亀。一見前座噺のように見える軽い噺ですが、六代目三遊亭円生や三代目三遊亭小円朝のような、コトバに対して緻密な落語家しか手掛けなかったというのもなにやらうなずけます。

言霊の恐怖

類話に「かつぎや」があります。

同じ忌み言葉をめぐるお笑いでも、「しの字嫌い」の方は「かつぎや」の主人公と異なり、特に縁起かつぎというわけではありません。とはいえ、やはりそれなりに、日本人の言霊への根強い恐怖感が根底にあることはいなめないでしょう。

「し」をまったく発音しまいとするのは極端としても、披露宴の席での「忌み言葉」は厳として残り、「四」「九」の発音は「死」「苦」につながるという俗信は現在も残っていて、多くのアパートやマンション、ホテルでは444号室や44号室のルームナンバーは忌避されます。

江戸ことばでは四は、たとえば四文はヨモンというふうに発音を替えられるので問題ないものの、四十、四百は慣用的にシジュウ、シヒャクと発音せざるを得なかったので、そこにくすぐりが成立したわけです。

言葉によっては、四でも「四海波」をシカイナミと読まねばならないため、いちいち気にしていてはきりがありません。

おまけに、婚礼の席でうたわれる、おめでたい極みの謡曲「高砂」の一説に、「月もろともに出で潮の 波の淡路の島影や」と、ごていねいにも「シ」が二回入っているのですから、なにをか言わんやですね。 

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すいどうのごむや【水道のゴム屋】落語演目

 【RIZAP COOK】

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昭和6年(1931)ごろの東京の下町風俗がうまく出ていますね。新作落語です。

あらすじ

水道やガスのゴム管を、戸別訪問で売り歩いている、十二、三歳の小僧。

「こんちは、水道のゴムはいりませんか」
と黄色い声で売り回っても、からかわれるばかりで、なかなか商売にならない。

今日も、まずいきなり、
「てめえはなんだな、オレに恥をかかせるつもりだなッ。家には水道がねえんだ」
と、すごまれた。

二軒目では、ばあさんが耳が遠く、聞き間違われてラチがあかない。

三軒目では
「近頃感心な小僧だ。年はいくつだ」
「十三でございます」
「柄が大きいから十五、六に見えるな。学校へ行ったか」
「五年まで行きましたが、おとっつぁんが大病をしたので奉公しました」
「そいつは惜しいことをした。親を大切にしてやれ。どこだ、故郷は」
「東京で」
「なんだ、江戸っ子じゃねえか。その心持ちを忘れるなよ。今におまえが大きくなったら、水道のゴム会社かなにかの社長にならなくちゃならねぇ。あっははは、年はいくつだ」

これを三回繰り返し、しまいには「近ごろ感心な小僧だ」からセリフを全部覚えてしまった。

「物覚えのいい小僧だ。オレんとこはいらねえ」

次の奥方は、だんなの浮気で修羅場の真っ最中。

「復讐してやるわ。あなた、ガスのゴムも持ってるでしょう。そこのメーターのところから計ってちょうだい」
「さいならッ」

ガス自殺の手伝いをさせられそうになり、あわてて逃げ出す。

お次は、浪曲をうなっている男。

「水道屋にゃあ、縄張りってものがあるだろう」
と、妙なことを言い出す。

「しっかりしろい。おまえが親からもらった荒神山を、安濃徳が自分のものにしようてんだ。『人の落ち目につけこんでェ、覚えていろよ安濃徳ゥ』」
と、虎造十八番の「荒神山」をうなり出す。

「だんな、浪花節がお上手で」
「よし、その一言が気に入った」
「買ってくれますか」
「オレんとこじゃあァ、買わねえんだァ」
と浪曲で断られた。

最後は、インテリ風の男。

「一尺いくらだ」
と聞くので、
「十九銭」
と答えると、二尺はいくら、三尺、四尺、五尺……と暗算をさせられ、果てに、
「しからば、百七十三尺六寸では?」
と、妙に細かく刻む。

小僧が四苦八苦して計算していると
「そういう時にはこういう調法なものがある。これは最近、九九野八十一先生が考案した完全無欠の計算器」
と、妙なものを取り出して、ベラベラ効能書きを並べた挙げ句、とうとう小僧に無理に売りつけて、さようなら。

小僧、さっそくいじり始めたが、
「売らずにこっちが五十銭で買って帰ったんだから、零を五十で割ると、おやおや、答えが零だ。なら、べつに損はないや」

うんちく

作者は水道局出身 【RIZAP COOK】

六代目三升家小勝の新作です。「のっぺらぼう」の作者でもある人です。小勝は、八代目桂文楽門下の俊秀で創作の才に富み、この噺は入門間もない前座(桂文中)時代の昭和6年(1931)ごろの作です。

小勝は、文七を経て昭和12年(1937)5月、真打昇進で二代目桂右女助を襲名。右女助時分は新作で売れに売れましたが、二つ目のころから人気者でした。

「水道のゴム屋」は、創作から5年温めて、まだ二つ目の昭和11年(1936)、キングレコードから「水道のホース屋」としてSP発売。大当たりとなり、客席から「ゴム屋!」と声がかかるほどの大ヒット。これが出世の糸口でした。この題材は、小勝が入門前に東京市水道局の工務課に勤務する技師だったことから、知識を生かしてものしたものです。

なかなか売れず、浪曲で「オレんとこじゃ買わねえんだ」と断られるくだりは、明らかに古典落語の「豆屋」を下敷きにしていて、マヌケオチのオチの部分は「壷算」「花見酒」などの踏襲でしょう。

特に山の手の「モダンガール」風の奥さんが「ウチのひとったらうそつきよ、色魔よ、復讐してやるわ。精神的な復讐してやるわ」と、ヒステリックに小僧にわめき散らすところが当時のメロドラマ映画と重なり、大受けだったようです。

当時、まだまだ十分普及していない家庭用上水道事情を知る上で貴重な資料ですが、未成年労働者といい、あまりに隔世の感がありすぎ、現在では口演する余地のない噺です。

小勝の晩年 【RIZAP COOK】

右女助(当時)は、「ゴム屋」に続き、「妻の釣り」「操縦日記」、酔っ払いをカリカチュアした「トラ」シリーズなどの新作を数多く自作自演。

古典でも「初天神」など、子供の登場する噺や「穴泥」「天災」ほか、軽いこっけい噺など、明るく軽快なテンポで、太平洋戦争をはさんで昭和20年代のラジオ時代まで人気を博しました。

昭和31年(1956)3月、六代目小勝を襲名しますが、そのころから時代の波に乗れず、下り坂に。58歳の脂ののった年齢で脳出血に倒れ、以後高座に復帰できないまま、昭和46年(1971)12月29日、師匠の八代目文楽の死からわずか17日後、後を追うように亡くなりました。享年63。

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だいぶつもち【大仏餠】演目

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【どんな?】

八代目文楽のおはこでした。「神谷幸右衛門」の名が言えずに……。

あらすじ

ある雪の晩、上野の山下あたり。

目の不自由な子連れの物乞いが、ひざから血を流している。

ふびんに思った主人が、手当てをしてやった。

聞けば、新米の物乞い。山下で縄張りを荒らしたと、大勢の物乞いに袋だたきにあったとか。

子供は六歳の男児。この家では子供の袴着の祝いの日だった。

同情した主人は、客にもてなした八百善からの仕出しの残りを、やろうとした。

物乞いが手にした面桶を見ると、朝鮮さはりの水こぼし。

驚いた主人、
「おまえさんはお茶人だね」
と、家へあげて身の上を聞いてみると、芝片門前でお上のご用達をしていた神谷幸右衛門のなれの果て。

「あなたが神幸さん。あなたのお数寄屋のお席開きに招かれたこともある河内屋金兵衛です」
と、おうすを一服あげ、大仏餠を出す。

幸右衛門、感激のうちに大仏餠を口にしたため、のどにつかえて苦しんだ。

河内屋が背中をたたくと、幸右衛門の目が開いた。

ついでに、声が鼻に抜けてふがふがに。

「あれ、あなた目があきなすったね」
「は、はい。あきました」
「目があいて、鼻が変になんなすったね」
「はァ、いま食べたのが大仏餠、目から鼻ィ抜けました」

【RIZAP COOK】

うんちく

「三代目になっちゃった」 【RIZAP COOK】

三遊亭円朝の作で、三題噺をもとに作ったものです。出題は「大仏餅」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」。円朝全集にも収録されていますが、昭和に入ってはなにをおいても八代目桂文楽の独壇場でした。文楽の噺としては「B級品」で、客がセコなときや体調の悪い場合にやる「安全パイ」のネタでしたが、晩年は気を入れて演じていたようです。にもかかわらず、この噺が文楽の「命取り」になったことはあまりに有名です。

この事件の経緯については、『落語無頼語録』(大西信行、芸術出版社、1974年)に、文楽の死の直後の関係者への取材をまじえて詳しく書かれ、またその後今日まで40年近く、折に触れて語られています。以下、簡単にあらましを。

昭和46年(1971)8月31日。この日、国立劇場の落語研究会で、文楽は幕切れ近くで、登場人物の「神谷幸右衛門」の名を忘れて絶句。「もう一度勉強しなおしてまいります」と、しおしおと高座を下りました。

これが最後の高座となり、同年12月12日、肝硬変で大量吐血の末死去。享年79。

文楽はその前夜にも同じ「大仏餅」を東横落語会で演じ、無難にやりおおせたばかりでした。高座を下りたあと、楽屋で文楽は淡々とマネジャーに「三代目になっちゃったよ」と言ったそうです。

三代目とは三代目柳家小さん(1930年没)のこと。漱石も絶賛した明治大正の名人でしたが、晩年はアルツハイマーを患い、壊れたレコードのように噺の同じ箇所をぐるぐる何度も繰り返すという悲惨さだったとか。

文楽は、一字一句もゆるがせにしない完璧な芸を自負していただけに、いつも「三代目になる」ことを恐れて自分を追い詰め、いざたった一回でも絶句すると、もう自分の落語人生は終ったといっさいをあきらめてしまったのでしょう。

「三代目になった」ときに醜態をさらさないよう、弟子の証言では、それ以前から高座での「お詫びの稽古」を繰り返していたそうです。

大西氏は文楽の死を「自殺だった」と断言しています。神谷幸右衛門は、噺の中でそのとき初めて出てくる名前ですから、忘れたら横目屋助平でも美濃部孝蔵でも、なんでもよかったのですがね。

無許可放送事件 【RIZAP COOK】

平成20年(2008)2月10日、NHKラジオ第一放送の「ラジオ名人寄席」で、パーソナリティーの玉置宏氏が、個人的に所蔵している八代目林家正蔵(彦六)の「大仏餅」を番組内で放送しました。

ところが、これが以前にTBSで録音されたものだったため、著作権、放映権の侵害で大騒動になり、すったもんだで玉置氏は降板するハメになりました。

文楽のを流しておけば、あるいは無事ですんだかもしれませんね。

「大仏餅」は文楽没後は前記正蔵が時々演じ、現在では柳家さん喬、上方の桂文我などが持ちネタにしています。

大仏餅 【RIZAP COOK】

江戸時代、上方で流行した餅で、大仏の絵姿が焼印で押されていました。京都の方広寺大仏門前にあった店が本家といわれますが、奈良の大仏の鐘楼前ともいい、また、同じく京都の誓願寺前でも売られていたとか。支店だったのでしょうか。

この餅、『都名所図絵』(秋里籬島、安永9年=1780刊)にも絵入りで紹介されるほどの名物です。

その書の書き込みにも、「洛東大仏餅の濫觴は則ち方広寺大仏殿建立の時よりこの銘を蒙むり売弘めける。その味、美にして煎るに蕩けず、炙るに芳して、陸放翁が餅、東坡が湯餅にもおとらざる名品なり」と絶賛。

滝沢馬琴が、享和2年(1802)、京都に旅した折、賞味して大いに気に入ったとのこと。『羇旅漫録』(享和3年=1803刊)に記しています。馬琴が36歳、生涯唯一の京坂旅行でした。さてこの店、昭和17年(1942)まで営業していたそうです。

面桶 【RIZAP COOK】

めんつう。一人分の飯を盛る容器です。「つう」は唐音。

禅僧が修行に使った携帯用のいれものでした。戦国時代には戦陣で飲食に使う便利なお椀に。江戸時代には主に乞食が使う容器となりました。

七五三の祝い 【RIZAP COOK】

噺に出てくる「袴着」は男児が初めて袴をはく儀式のこと。三歳、五歳、七歳など、時代や家風によって祝いをする年齢が変わりました。

これは七五三の行事のひとつです。今は七五三としてなにか同じ儀式のように思われていますが、江戸時代にはそれぞれ別の行事でした。おとなへ踏み出す成長行事です。

髪置 かみおき 男女 三歳 11月15日に
袴着 はかまぎ 男児 三歳か五歳か七歳 正月15日か11月15日に
帯解 おびとき 女児 七歳 11月15日に

髪置は 乳母もとっちり 者になり   三21

袴着にや 鼻の下まで さつぱりし   初5

一つ飛ん だりと袴着 つるし上げ   十四22

袴着の どうだましても 脱がぬなり   七27

帯解は 濃いおしろひの 塗りはじめ   初6

肩車 店子などへは 下りぬなり   十四23

髪置ははじめて髪を蓄えること。帯解は付け紐のない着物を着ること、つまりは帯で着物を着ること。

袴着もはじめて袴をはくことで、それぞれ、大人へのはじめの一歩の意味合いと、元気に成長してほしいという親の切なる願いのあらわれです。

めでたい儀式ですから、乳母もお酒を飲んでお祝いして、その結果、とっちり者になってしまうわけです。「とっちり者」は泥酔者のこと。

最後の句の「店子」は借家人のこと。この噺に出てくる子供は裕福な恵まれた環境で育ったわけで、長屋住まいの店子には肩車された上から挨拶するという、支配者と被支配者との関係性をすり込ませるような、すでにろくでもない人生の始まりを暗示しています。

まあ、とまれ、江戸のたたずまいが見えてくるような風情です。

朝鮮さはりの水こぼし 【RIZAP COOK】

さはりは銅、錫、銀などを加えた合金。水こぼしは茶碗をすすいだ水を捨てる茶道具です。

【語の読みと注】
八百善 やおぜん
面桶 めんつう

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てんぐさばき【天狗裁き】落語演目

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【どんな?】

他人が見た夢を覗いてみたいという欲求。底知れぬ魅力が隠れているからです。

別題:羽団扇(前半)

【あらすじ】

年中不景気な熊公。

女房のお光に、
「路地裏の又さんがムカデの夢を見たら、客足がついて今じゃ大変な羽振りなんだから、おまいさんも、たまにはもうかるような夢でも見てごらん」
と、せっつかれて寝る。

「……ちょいとおまいさん。夢見てたろ。どんな夢見たんだい」
「見やしねえ」

見た、見ないでもめているうちに
「ぶんなぐるぞ」
「ぶつんならぶっちゃァがれ」
と本物の大げんかになる。

大声を聞きつけて飛んできた隣の辰つぁん、事情を聞くと、自分もどんな夢か知りたくなり
「おめえとオレたぁ、兄弟分だ。女房に言えなくても、オレには言えるだろう」
「うるせえなあ、見ちゃあいねえよ」
「こんちくしょう、なぐるぞ」

またケンカ。

今度は大家が。

一部始終を聞くと、まあまあと、熊を家に連れていき、
「大家といえば親同然。オレには言えるだろう」

ところが熊公、
「見ていないものは、たとえお奉行さまにも言えない」
というので、大家もカンカン。

それならとお白州へ召し連れ訴え。

訴えを聞いて、奉行も知りたくてたまらない。

「どうじゃ、いかなる夢を見たか奉行には言えるであろう」
「たとえお奉行さまでも、見てないものは言えません」
「うぬッ、奉行がこわくないか」
「こわいのは天狗さまだけです」

売り言葉に買い言葉。

頭に来たお奉行、
「それならばその天狗に裁かせる」
と言って、熊を山の上へ連れていかせる。

高手小手たかてこてに縛られ、大きな杉の木にわきつけられた熊。

さて、そのまま夜は更け、ガサガサッと舞い降りてきたのは天狗。

奉行から事の次第を聞いて、天狗も熊の夢を知りたくてたまらない。

「どうしても言わないなら、羽団扇はねうちわで体を粉みじんにいたしてくれる」
と脅すので、さすがの熊も恐ろしくなり、
「言うかわりに、手ぶらではしゃべりにくいから、その羽団扇を持たせてくれ」
と頼む。

天狗がしぶしぶ手渡すと、熊公、団扇でスチャラカチャンとあおぎ始めたからたまらない。

熊公の体はたちまちフワフワと上空へ。

「うわっ、下りてこいッ」
「ふん、もうてめえなんぞにゃ用はねえ。こいつはいただいてくから、あばよッ」
「うーっ、泥棒ッ」

しばらく空中を漂って、下り立ったところが大きな屋敷。

ようすが変なので聞いてみると、お嬢さんが明日をも知れぬ大病とのこと。

たちまち一計を案じた熊、医者になりすまし、お嬢さんの体を天狗団扇で扇ぐとアーラ不思議、たちまち病気は全快した。

その功あってめでたくこの家の入り婿に。

婚礼も済んで、いよいよ日本一の美人の手を取って初床に……。

「……ちょいとッ」
「ウワッ。なんでえ、おまえは」
「なんでえじゃないよ。おまいさんの女房じゃないか」
「ウエッ、お光。あー、夢か」

【しりたい】

長編の前半が独立

噺としては、上方から東京に移されたものですが、さらにさかのぼると今はすたれた長編の江戸落語「羽団扇」の前半が独立したもので、ルーツは各地に残る天狗伝説です。

「羽団扇」は、女房が亭主の初夢をしつこく尋ね、もめているところに天狗が登場して女房に加勢。

鞍馬山くらまやままでひっさらっていき白状させようとする設定で、大家や奉行は登場しません。

後半は、亭主が墜落したところが七福神の宝船で、弁天さまに酒をごちそうになり、うたた寝して起こされたと思ったら、今のは夢。

女房が吸いつけてくれた煙草を一服やりながらこれこれと夢を語ると、七福神全部そろっていたかと聞かれ、数えると一人(一福)足らない。「ああ、あとの一福(=一服)は煙草で煙にしてしまった」という他愛ないオチです。

志ん生の十八番

上方では三代目桂米朝(中川清、1925-2015)が得意にし、その一門を中心にかなり口演されていたようですが、東京では戦後ずっと五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の専売特許でした。

と言うより、「抜け雀」などと同様、志ん生以外の、また志ん生以前の速記がまったくなく、いつごろ東京に「逆輸入」されたのか、志ん生が誰から教わったかは一切不明です。

とにかく志ん生のものは女房、奉行、天狗みなおもしろく、縦横無尽な語り口で、いつの間にか聞く者を異次元の領域に誘うようです。

ストレス解消、現実逃避に、これほど適した落語はそうありません。

上方の演出

米朝版では、場所を鞍馬山と特定し、また、役人が亭主を山へ連れていくのではなく、奉行所の松の木につるされているところを天狗にさらわれる設定です。

さらに、一度は助けようとした天狗が、同じように好奇心を起こして脅しにかかる点が東京の志ん生演出と異なるところです。

東京では志ん生没後は、長男の十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)が継承しました。

現役では、柳家権太楼の音源があるくらいで、手掛ける演者はあまり多くないようです。「羽団扇」の方は、三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)と七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)のCDがあります。

天狗が登場する落語や芝居

落語では上方のものがほとんどで、道中で松の木から小便をしたら下の山賊が天狗と勘違いして逃げる「天狗山」、与太郎噺の「天狗風」、間抜け男がすき焼きにしようと山へ天狗を捕まえに行く「天狗さし」、バレ噺の「天狗の鼻」(これだけは江戸)などがあります。

歌舞伎の天狗ものでは、執権・北条高時が天狗の乱舞に悩まされ、狂乱する河竹黙阿弥かわたけもくあみ作の「北条九代名家功ほうじょうくだいめいかのいさおし」(一幕目の通称は「高時」)、近松門左衛門ちかまつもんざえもんの原作で、隅田川の梅若伝説うめわかでんせつにお家騒動をからめ、これまた天狗の乱舞が売り物の「雙生隅田川ふたごすみだがわ」が現在もよく上演されます。

せん八、逝く

せん八、逝く

柳家せん八師匠が、2022年9月11日、腹膜炎のため、都内の自宅で亡くなりました。74歳でした。

せん八師匠は、昭和23年(1948)2月5日、群馬県太田市の出身。本名は吉沢博。昭和43年(1968)に四代目柳家小せん(飯泉真寿男、1923-2006)に入門、せん松を名乗りました。

昭和48年(1973)9月、二ツ目に昇進して「せん八」に改名。このときの同時昇進には、春風亭一朝、三遊亭勝馬(→三代目三遊亭小金馬→2018年没)がいました。

昭和57年(1982)12月、真打ちに昇進しました。このときの同時昇進には、初代古今亭志ん五(2010年没)、七代目三遊亭円好(2007年没)、四代目吉原朝馬、春風亭一朝、三代目三遊亭小金馬(2018年没)、六代目古今亭志ん橋、立川談生(→鈴々舎馬桜)、立川左談次(2018年没)、六代目立川ぜん馬がいました。10人のうち6人が故人。

最後の寄席出演は、令和3年(2021)1月5日、浅草演芸ホールでした。

ご冥福をお祈りいたします。

柳家せん八師匠

(2022年9月18日、古木優)

金翁、逝く

三遊亭金翁師匠が、令和4年(2022)8月27日未明、お亡くなりになりました。93歳でした。

金翁師匠は、昭和4年(1929)、東京の生まれ。本名は松本龍典りゅうすけ。両親が深川森下町で安価な洋食店をいとなんでいたそうです。昭和16年(1941)7月、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、本所生まれ、1894-1964)に入門しました。山遊亭金時の名で、12歳でした。太平洋戦争が始まる5か月前のこと。戦前の入門だったとは、びっくりです。

昭和20年(1945)に小金馬で二ツ目となり、33年(1958)には真打ちに。三代目没後、42年(1967)には四代目金馬を襲名。令和2年(2020)からは名跡を次男に譲り、二代目金翁を名乗っていました。

この人と言ったら、ゼッタイ忘れられないのが「お笑い三人組」です。

このテレビ番組がNHKで始まったのは昭和31年(1956)年なんだそうですが、私が覚えているのは、毎週火曜日20時-20時30分の時間帯での時期です。それは38年(1963)から39年(1964)3月までで、ちょうど東京五輪が始まる頃の、日本全体が勢いと張りで輝いていた時代でした。

「お笑い三人組」が放送される時間帯の前後が、これまたすごかった。前の19時30分-20時に「ジェスチャー」が、後の20時30分-21時30分に「事件記者」が。

どれも、ものすごい人気番組です。これら3つの番組を通して見るのが、その夜のまっとうなおつとめだったような心持ちでした。

家族みんながテレビの前で大笑い。日本中が笑ってたかんじ。そんな時代でした。

「お笑い三人組」は生放送だったそうです。「あまから横丁」という架空の街角が舞台の、町内もの人情劇です。

満腹ホールというラーメン店の金ちゃんが小金馬、ニコニコクレジット社員の正ちゃんが講談の一龍斎貞鳳、クリーニング店の八ちゃんが物まねの三代目江戸家猫八。

三人が中心に繰り広げる、笑いと涙の舞台劇場だったのでした。

「お笑い三人組」と言ったら、金馬じゃなくて小金馬と、今でも記憶している日本人は少なくないのではないでしょうか。

あははおほほ、「お笑い三人組」の3人。右から金馬(当時は小金馬)、貞鳳、猫八の面々

円蔵じゃなくて円鏡、円歌じゃなくて歌奴、というのと同じですね。

この「お笑い三人組」、もとはといえば、日本テレビが企画を立てていたところ、NHKに持っていかれたんだとか。

当時はそんなことがよくあったそうなのです。永六輔が言っていました。テレビ草創期のNHKは、野心的だったのですね。

そもそもの話。

昭和28年(1953)、日本テレビ開局記念番組の放送中、どうしたわけかトラブルがあって、小金馬、歌奴(四代目三遊亭円歌)、貞鳳、猫八の4人が、即興でプロレスコントを演じることになり、なぜかそれが爆発的な人気を得たそうです。

それを見ていた日本テレビ社長の正力松太郎が、4人を使ってレギュラー番組をつくるようにと、社員に命じたんだそうです。

残念ながら、歌奴は「山のあなあな」で売れっ子になってしまい、すぐに抜けてしまいました。

残る3人はNHKに移されて、そこで「お笑い三人組」を演じることに。売れてなかった三人は、あれよあれよの急上昇に夢心地。

お茶の間の人気をがっちりつかまえたのでした。

金馬師匠とテレビと言ったら、じつはほかにもあるのです。

「ミスター・エド」という米国ドラマ。

米ホームドラマの変化球「ミスター・エド」。右端がエドくん

その日本語吹き替えにも出ていたのです。フジテレビ系では、昭和37年(1962)から39年(1964)まで。

エドという名の馬が、飼い主(アラン・ヤング、吹き替えは柳澤愼一さん)とだけおしゃべりする、というもの。

その会話を聴けるのはお茶の間の視聴者だけ、というお得感もりもりのドラマでした。

飼い主のお悩みを馬が聞いてあげて、適切な解決策を飼い主に導く、というものすごい筋立てです。

金馬師匠はエドくんの声を演じていました。金馬が馬を演じて、その名もエドとは。江戸落語家にはぴったり。

人のことばをしゃべる馬が登場するのは、どこか鹿野武左衛門にも似ていて、落語とゆかりあり過ぎの設定です。

なんとも、奇妙で不思議な米ドラでした。

「お笑い三人組」の金ちゃん(小金馬)

それと、もうひとつ。

国立演芸場が設立したこと。国立演芸場ができたのは、じつは、金馬師匠や一龍斎貞鳳先生たちが頑張ったからなのだそうです。

貞鳳先生は一期ながらも参院議員となって、三木武夫内閣や福田赳夫内閣の政務次官を務めました。

ちょうどその頃、国立演芸場が三宅坂に建設されることが決まったのです。演芸界には快挙、というよりも椿事でした。

今泉正二参院議員(一龍斎貞鳳先生の本名)の執務室で、金馬師匠が親し気に「ショウちゃーん」と呼んだら、「なんだ、ショウちゃんとは。先生と呼べ」と一喝されたんだとか。講談も先生、政治家も先生、同じ先生なのにね。

当時の三宅坂は陸の孤島でした。あんなへんぴなところに演芸場ができても、不便でしかありません。今もまだ不便かも。それでも、実現できたのは、先生のお力のたまものでしょう。

と、こんな内輪の話は『金馬のいななき 噺家生活六十五年』(朝日新聞出版、2006年3月)に載っていました。これを機に文庫化してほしいものです。中公文庫あたりで、ぜひ。

ヘタを演じる金馬師匠の住吉踊りも、今はただ懐かしく。見ているだけで楽しくなる、明るい芸風でした。

ご冥福をお祈りいたします。

(2022年8月28日、古木優)