かわずちゃばん【蛙茶番】落語演目

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【どんな?】

町内で繰り広げられる素人の芝居。
腹を抱えて笑っちゃいます。

別題:素人芝居 舞台番

【あらすじ】

町内の素人芝居で「天竺徳兵衛」の「忍術ゆずり場」を出すことになった。

大盗賊の徳兵衛が、赤松満祐の幽霊から忍術の極意を伝授され、ドロンドロンとガマに化ける場面である。

ところが、そのガマの役にくじ引きで当たってしまったのが、伊勢屋の若だんな。

やりたくないから、当然、仮病を使って出てこない。

困った世話役の番頭、しかたなく芝居好きの丁稚の定吉をなだめすかし、ガマ賃をやる約束で、ようやく代役を承知させる。

安心したのもつかの間、今度は、舞台のソデで客の騒ぎを鎮める役である舞台番をつとめる建具屋の半公が来ない。

この男、通称バカ半、ハネ半と呼ばれるほどお調子者。

とにかく舞台番がいないと幕が開かないので、定吉に呼びに行かせると、この前、だんなに
「今度、化物芝居の座頭に頼む」
と言われたのがしゃくで、
「誰が行ってやるもんか」
と大変な剣幕。

困った番頭、一計を案じて定吉に、
「半公が岡惚れしている小間物屋のみい坊が、『役者なんかしないで舞台番と逃げたところが半さんらしくていい』と誉めていたと言って、だまして連れてこい」
と言いつける。

これを聞いて有頂天になった半公、どうせならと、自慢の緋縮緬のフンドシを質屋から急いで請け出し、湯屋で入念に「男」を磨く。

ところが、催促に来た定吉に
「早く来ないとみいちゃんが帰っちまう」
とせかされ、あわてて湯から上がって外へ飛び出したのはいいが、肝心のフンドシを締め忘れ、マル出しのまま気づかずに……。

さて、半公が息せききって駆けつけ、ようやく開幕。

客はもちろん、舞台番なんぞに目もくれない。

半公、ソデからみいちゃんをキョロキョロ探すが、いるワケがない。

しかたなく、フンドシの趣向だけでも見せようと
「しょっしょっ、騒いじゃいけねえ」
と客が静かに芝居を見ているのに、一人で騒ぎ立てる。

あまりのうるささに一同ひょいと舞台番を見ると、半公の股間から妙なものがカマ首をもたげている。

「あれは作り物じゃない」
と場内騒然。

「ようよう、半公、日本一! 大道具!」

誉められた半公、喜んでいっそうはでに尻をまくり、客席の方に乗り出した……。

この間にも芝居は進んで、いよいよ見せ場の忍術ゆずり場。

ドロンドロンと大どろになるが、ガマの定吉が出てこない。

「おいおい、ガマはどうした。おい、定、早く出なきゃあだめだよ」
「へへっ、出られません」
「なぜ」
「あすこで、青大将がねらってます」

底本:三代目三遊亭金馬ほか

しりたい

茶番

もとは歌舞伎のの大部屋の役者が、毎年5月29日の曽我祭の日に酒宴を催し、その席で、当番がおもしろおかしく口上をのべたのが始まりです。

それを「酒番」といいましたが、享保年間(1716-36)の末に、下戸の初代澤村宗十郎が酒席を茶席に代えたので、酒番も茶番になったわけです。

宝暦年間(1751-64)になると、遊里や戯作者仲間、一般町人の間にもこの「口上茶番」が広まり、いろいろな道具を並べてシャレながら口上を言う「見立て茶番」、素人芝居に口上茶番の趣向を加味した「素人茶番」も生まれました。

この噺のイベントはその「素人茶番」、別名「立茶番」です。

「芝居」と銘打つとお上がうるさいので、あくまでタテマエは茶番とし、商家の祝い事や町内の催しものに、アトラクションとして盛んに行われました。

落語では、ほかに「権助芝居」があります。

天竺徳兵衛

ここに登場する芝居は、正式な外題を「天竺徳兵衛韓噺てんじくとくべえいこくばなし」といいます。現在も市川猿之助一座のレパートリーになっています。

四代目鶴屋南北(1755-1829)が、文化元年(1804)七月の河原崎座に書き下ろした作品です。

日本がまだ海外渡航できた寛永10年(1633)の頃。インド(天竺)に渡航して「天竺聞書」を出版した徳兵衛。徳兵衛が天下をねらい、ガマの妖術をあやつる大盗賊に仕立てた、壮大な歌舞伎狂言です。

19世紀初頭の南北にとって、それより200年も前に海外で活躍した徳兵衛の生涯は奇異に映ったはず。

「昔は外海に勝手に出かけられたのに、今といったらもう……」という心持ちでしょうか。

ご時勢のめぐりあわせを通して、徳兵衛のような勝手気ままな生き方にあこがれたのかもしれません。

金馬の「サクラ」作戦

この噺は、「素人芝居」という長い噺の後半が独立したものです。

オリジナルは、明治29年(1896)の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)。円喬の速記が残っています。

先の大戦後は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番でした。

その金馬がまだ円洲といった大正末期のこと。神田・立花亭の独演会でこの噺を演じたとき。客席に潜ませた子分の春風亭小柳、のちの三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)に「ガマが出ないじゃないか」と叫ばせ、待ってましたとばかり、「あそこで青大将がねらってます」とサゲて下りるという、派手な演出をしたそうです。

初代談洲楼燕枝

この噺、バレ噺の色が濃いのが特徴です。

明治のころ、これを口演した初代談洲楼燕枝(長島傳次、1837-1900)を始め、昭和20年まで、かなりの落語家が警察署に呼ばれて油をしぼられたそうです。

燕枝は、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)のライバルとして有名な人で、柳派の頭目でした。

明治33年(1900)という年は、燕枝が2月に、円朝が8月に逝って、柳派も三遊派もともに巨星堕つの感が当時の新聞各紙からうかがえます。

円朝は語り起こしの速記で自作を数多く残していますが、燕枝は自ら執筆して自作を残しています。

島鵆沖白浪しまちどりおきつしらなみ」「天保奇談孝行車」「西海屋騒動」「御所車花五郎」といったオリジナル作ばかりか、翻案の「侠客小金井桜」「岡山奇聞筆之命毛」「善悪草園生咲分」も残っています。

「島鵆沖白浪」だけは、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)が一部を、柳家三三が全編を通しでやったこともあります。

円朝のように全集もなく、燕枝は現在では、きわめて疎遠な存在とみなされています。

これほどポテンシャルの高い噺家も珍しいですし、円朝との対比と考察するのでも興味津々の存在です。研究者がもっとアプローチしてもいいのでしょうが。

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しろうとしばい【素人芝居】落語演目

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【どんな?】

素人が演じる芝居を茶番といいます。
芝居=歌舞伎だった頃の噺。

別題:五段目 吐血

あらすじ

町内の素人芝居で、「仮名手本忠臣蔵」五段目、山崎街道の場を出すことになった。

例によって、オレも勘平、オイラも勘平、あたしも勘平と、主役ばかりやりたがり、さんざん役もめをした挙げ句、しかたがないのでくじ引きで配役を決め、伊勢屋の若だんなが幸運にも勘平に「当選」した。

鉄砲渡しで千崎弥五郎が花道から客席に落っこちたり、猪役に当たった建具屋の源さんが、おもしろくないから、いやがらせに舞台でチンチンやお預けをしたりといろいろあって、やっと勘平の出になる。

舞台で斧定九郎が与市兵衛を殺して五十両を奪い、金を数えて終わってほくそ笑んだところで、揚げ幕から勘平が猪を狙ってドンと鉄砲を撃つと、弾が定九郎に命中。

定九郎の役者が、あらかじめ口に含んでいた玉子紅を噛み、胸に仕込んでおいた糊紅をなでると、口から血がダラダラ、胸から腹にかけて血だらけになってウーンと倒れたところへバタバタになって、さっそうと勘平が花道へ登場。

という、おなじみのいい場面になるはずだったが、ならない。

小道具が口火をなくしてしまったので、いつまで待っても鉄砲の音がしないから、定九郎がじれて、舞台をグルグル三べんもまわった挙げ句、かんしゃくを起こして
「テッポ、テッポ」
と怒鳴ったからたまらない。

たちまち口の中の玉子紅が破れて、弾にも当たらず血がダラダラ。

見物が仰天して
「おい、鉄砲は抜きか」
「いや、今日は吐血で死ぬんだ」

底本:四代目橘家円喬

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うんちく

オムニバスの一部 【RIZAP COOK】

「仮名手本忠臣蔵」を題材としたオムニバスの一部分で、このあらすじの部分のみを演じる場合は、普通「吐血」「五段目」と称します。

「素人芝居」の演題は、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が明治29年(1896)6月、『百花園』に速記を載せた際のものです。円喬はこの後「蛙茶番」につなげています。

「田舎芝居」と題して芝居噺の趣向を取り入れた同時代の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)は、この忠臣蔵五段目の失敗話を「大序」「四段目」に続いて最終話とするなど、昔から、部分部分の組み合わせや構成は演者によって異なります。詳しくは、「田舎芝居」の項をご参照ください。「五段目」のこの部分だけの原話は不詳です。

「忠臣蔵」各段ごとに小咄 【RIZAP COOK】

歌舞伎や文楽の「仮名手本忠臣蔵」は、人口に膾炙かいしゃしているだけに、その各段にちなんだ落語や小咄が、かつては作られていました。

「大序」「二段目」「五段目」「七段目」「九段目」がそれですが、このうち独立した一席噺として扱われたのは「七段目」くらいでしょう。

本ブログでは、本編の「五段目」、「七段目」に加え、「田舎芝居」の項で、「大序」「四段目」の梗概を紹介しています。「九段目」は独立項目を設けていませんので、以下に明治25年(1892)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記をもとに、簡単にあらすじを記しておきます。

「九段目」あらすじ 【RIZAP COOK】

近江屋という呉服屋の隠居の賀の祝いに 素人芝居で忠臣蔵九段目「山科閑居」を 出すことになったが、主役の加古川本蔵かこがわほんぞうを演じる者が風邪でダウンし、代役に、夜は医者、昼はタバコ屋という小泉熊山こいずみゆうざんを立てた。ところが、大星力弥 に槍で突かれて手負いになる場面で、 血止めに自家製の刻みたばこを使ったので、客が「よう本蔵、血止めたばことは芸が細かい」とほめると「なあに、手前切り(自分で粗く刻んだたばこ)です」とオチになる。

オチが今ではわかりづらく、今ではほとんど口演されません。これも別題を「素人芝居」といい、ややこしいかぎりです。 

落語を地でいったヘボ芝居 【RIZAP COOK】

十七代目中村勘三郎(1909-88)は、『中村勘三郎楽屋ばなし』(関容子)の中で、岳父六代目尾上菊五郎(1885-1949)に聞いた昔の役者の失敗談として、「五段目」のオチのまま(大道具の鉄砲が鳴らずに、定九郎がしかたなく舌をかんで「自殺」)の話を語っています。

これが実話だったのかどうかは、定かではありません。昔のヘボ役者のしくじり話は、梨園にはいくらでも伝わっているようです。

同じ菊五郎の座談として伝わっている話に、「忠臣蔵」三段目の喧嘩場、高師直こうのもろのお塩冶判官えんやはんがんのやりとりで、判「気が違うたか、ムサシノカミ」、師「だまれ、ハンガン」と言うべきところを、判官が間違えて、判「気が違うたか、たくみのかみィ」とやってしまい、これにあせった師直が、師「だまれ、モロノオ」。

これで芝居はメチャクチャ、という一席がありました。

オレも勘平 【RIZAP COOK】

現在でも芝居噺のマクラによく使われる「勘平がずらりと花道に並んで、これで「カンペイ式(=観兵式)もめでたく済んだ」というくすぐりを四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)も用いていますが、「観兵式」がどんなものかわからなくなっている現在、くすぐりとして通じなくなっています。

二代目禽語楼小さんは、四代目円蔵よりさらに一時代前の人ですが、前述「九段目」のマクラで、並んだのは「勘平の子でございましょう」とやっています。

どのみち、おもしろくもなんともありませんが、こちらのほうがまだわかりやすいでしょう。

この噺、戦後は円蔵の弟子だった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、師匠の演出を継承して「五段目」として高座に掛け、音源も残されています。



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いなかしばい【田舎芝居】落語演目

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【どんな?】

町じゃ端役なのに田舎だと名代なんていうのは、ありそうなはなしですね。

【あらすじ】

田舎の鎮守の祭礼に、村芝居を出すことになった。

やり方を教えてくれるお師匠番が必要だが、一流の役者や振付師を頼むと千両ふんだくられると聞いた。

世話人がぶったまげ、
「それなら一番安くて悪い先生を頼もう」
と、捜し当てたのが江戸、下谷北稲荷町に住む本名、柴田与三郎。芸名、中村福寿という下回り役者だ。

この男、昼間は芝居で馬の足、夜は噺家になるという掛け持ち稼業。

江戸でこそ、昼馬、夜鹿(噺家=しか)で合わせて「ばか」だが、田舎に来ると、芝居の神さま扱い。

庄屋杢左衛門の家に招かれて、下にも置かぬ大歓迎。

すっかりいい気持ちになり、
「だしものはなんです」
と尋ねると、
「なんでも、よくわからねえべが、幕を取ると向けえにお鎮守さまが祭ってござって、その傍にお天神さまがえらくいて、黄色い頭の天神さまに青いお天神、黒い爺さまの天神さん、土地べたイ座って箱の中から戦する時かぶる笠のようなものを」
と、シドロモドエオで説明するので、どうやら「仮名手本忠臣蔵」大序兜改めの場と、知れた。

そこで、なんとか衣装をあり合わせでそろえ、セリフも付けたが、田舎言葉なのでなんともしまらない。

稽古の時に衣装を外に干しておいたので、その間に蜂が烏帽子に入ったのも知らずに師直役の農民が
「だまらっしゃい、若狭どん。義貞討死した時大わらわ、死げえの前に落ち取った兜の数四十七、どれがどれとはわからねえのを奉納したその後で、アタタ」

蜂の出所がないから、あっと言う間にコブだらけ。

頭がふくれ上がったから、見物
「どこの国に師直とデコスケの早変わりがあるだ」
と怒り出す。

次は、四段目判官切腹。

花道から出るはずの諸士が出てこない。

福寿があわてて
「ショシ、ショシ」
と呼んだのを、次の幕の山崎街道の場に出る猪役がシシと聞き間違え、飛び出したので芝居はメチャクチャ。

見物が
「判官さまが腹切るに、猪が出るちゅうことがあるか」
「それがさ、五万三千石の殿さまが腹切るから、領内の獣が暇乞いに来ただんべ」

底本: 六代目桂文治

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【しりたい】

おらが村の大歌舞伎

原型は、十返舎一九(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)の滑稽本『田舎草紙』と思われます。

十返舎一九は文化4年(1807)刊の『東海道中膝栗毛』で名高い、当時の売れっ子物書きでした。

これは丹波国(兵庫県)氷上郡の農村を舞台にし、村芝居で忠臣蔵七、九、十段目を農閑期の農民が土地のなまりそのままで演じていくおかしさを趣向にしたものです。

七段目で主人公、大星由良之助に、敵役の斧九太夫が芝居中に酔ってからみ、取っ組み合いの大ゲンカになったり、遊女おかる役の馬喰が転んで金玉を強打、悶絶したりと、さまざまなくすぐりを織り交ぜていますが、現行の落語の筋とは違っており、一九の趣向をヒントに、落語家が自由に、いろいろなくすぐりを創作してできたものでしょう。

この『田舎草紙』でちょっとおもしろいのは、村芝居を演じたり見物する百姓たちが、落語の中で揶揄されているのと異なり、決して本場の歌舞伎に無知ではなく、ある者は「去年江戸で見てきた」と言っているように、特に「忠臣蔵」の筋や登場人物くらいはほとんどの者がよく知っていることでしょう。

「近頃はいづくのうらでも、素人芝居はやりて、田舎も、まち場には、損料にて芝居の衣装、貸す所あり」と記されていて、江戸も末期になると、封建社会の農村にも、すでに「文化の波」が押し寄せてきていたことがわかります。

仮名手本

人形浄瑠璃としては寛延元年(1748)8月大坂竹本座、歌舞伎は同年12月大坂嵐座初演。竹田出雲(?-1747、浄瑠璃作者、元祖出雲、千前軒奚疑)ほか三人の合作です。

「黄色い頭の天神さま」は大序「鶴岡八幡宮境内・兜改めの場」で、足利直義公が黄色の立烏帽子を被っているのを言ったもの。

「青いお天神」は同じく桃井若狭助が青の長烏帽子、敵役の高師直が黒の長烏帽子を着用していることを指します。

「だまらっしゃい」は、反乱を起こし戦死した新田義貞の兜を八幡宮に奉納するという時、師直が文句を付けるのを若狭助がいさめたのに対し、師直が「だまれ若狭。出頭第一の師直に向かい、卒爾とはなにが卒爾。

義貞討死のみぎりは大わらわ。死骸のそばにうち散りし、兜の数が四十七。

どれがどうとも見知らぬ兜。

奉納をしたその後で、そうでなければ大きな恥。

生若輩のなりをして、お尋ねもなき評議。ええ、引っ込んでおいやれェ」と罵倒するセリフです。

さまざまなやり方

明治期、芝居噺を得意とした六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)の速記では、忠臣蔵の大序から五段目「山崎街道」までを通しで、その段ごとに村人の失敗を描く長講でした。

文治は上下に分けていて、現行は上の部分です。

オチは、江戸の役者(この噺では福寿)がコブだらけになる演出があり、その場合は「さすがは江戸の役者。師直と福助の早替わりだ」と落とします。

これは、顔が腫れてフクスケ人形そっくりになることと、江戸で有名な役者の中村福助を掛けたものです。

現在はわかりにくく、先の大戦後では、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、→彦六)が手がけたほか、演じ手がありません。

四代目円喬は「四段目」「五段目」を中心にして「五段目」の題で演じ、この型が「五段目」として、現在になんとか伝わっています。

同じ円喬が「素人芝居」と題した別の速記では、「五段目」の部分と「蛙茶番」を続けて演じるなど、長い噺なので、切り取り方に演者の工夫がありました。

【語の読みと注】
下谷北稲荷町 したやきたいなりちょう
庄屋杢左衛門 しょうやもくざえもん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ
敵役 かたきやく
斧九太夫 おのくだゆう
馬喰 ばくろう
損料 そんりょう
桃井若狭助 ももいわかさのすけ
長烏帽子 ながえぼし
高師直 こうのものなお
卒爾 そつじ
揶揄 やゆ

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しろうとずもう【素人相撲】落語演目

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【どんな?】

東京での草相撲。相撲好きが大集まって自慢話には花が咲くけど……。

勧工場というのは、今のデパートのことですね。

別題:大丸相撲(上方)

あらすじ

明治の初め、東京でも素人相撲がはやったことがある。

その頃の話。

ある男が相撲に出てみないかと勧められて、オレは大関だと豪語している。

こういうのに強い奴はいたためしがなく、この間、若い衆とけんかをしてぶん投げたと言うから
「病人じゃなかったのか」
「ばかにするねえ」
「血気の若えもんだ」
「いくつくらいの?」
「七つが頭ぐれえで」

こういう手合いばかりだから、いざ本番で少しでも大きくて強そうな奴が相手だと、尻込みして逃げてしまう。

「向こうはばかに大きいからイヤだ」
「本場所は小さい者が大きい者と取るじゃねえか」
「おやじの遺言で、けがするのは親不孝だから、大きい奴と取ったら草葉の陰から勘当だと言われてる」
「てめえのおやじはあそこで見てるじゃねえか」
「なに、ゆくゆくは死ぬからそのつもりだ」

与太郎も土俵に上がれとけしかけられるが、
「おばさんから、相撲を取ってけがしたら小遣いをあげないと言われてるんで、いいか悪いか横浜まで電報を打って」
とひどいもの。

そこに、やけに小さいのが来て、
「私が取る」
と言うので
「おい、子供はだめだ」
「あたしは二十三です」

どうしても、と言うから、しかたなくマワシを付けさせて土俵に上げると、その男、大男の前袋にぶら下がったりしてチョロチョロ動いて翻弄し、引き落としで転がしてしまう。

「それ見ろ。小さいのが勝った。煙草入れをやれ、紙入れも投げろ。羽織も放っちまえ」
「おい、人のを放っちゃいけねえ。てめえのをやれ」
「しみったれめ」
「おまえがしみったれだ、しかし強いねえ。あれは誰が知っているかい?」
「あれは勧工場かんこうばの商人だ」
「道理で負けないわけだ」

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お江戸の素人相撲 【RIZAP COOK】

辻相撲、草相撲とも呼ばれる素人相撲。

地方では、草相撲の盛んな地域はよくありますが、江戸では、相撲は見るもので、本来はするものではありませんでした。

それでも、祭りの奉納相撲としては、地域によって行われたようです。

三田村鳶魚の『江戸年中行事』には、「貞享度(1684-88)において、七月十五日の浅草蔵祭、同十六日の雑司ヶ谷の法明寺、享保度(1716-36)には五月五日の大鳥大明神祭」など、主に郊外を中心に行われたとあります。

ただし、「これらが草相撲なのか否かはにわかに断ぜられない」とのこと。

円喬は速記のマクラで、素人相撲を次のように、流行の一つとして説明しています。

「……よくこの、はやりすたりと申します。しかし此のはやりものも、あんまりパッとはやりますものは、すたるところへ行くとたいそう早いもので」

それに続き、茶番狂言、女義太夫、寄席くじなど、一時的に流行してすたれた物を列挙しています。

いずれ素人相撲も、明治30年代かぎりで、あまり長続きしなかったと見えます。

『武江年表』に、幕末の文久3年(1863)、下谷常在寺や本郷真光寺その他の境内で、子供相撲が盛んに催されたという記事があります。

この連中が壮年になるのが、明治20-30年代。昔取った杵柄か、と思えないでもありません。

類話「大安売り」 【RIZAP COOK】

よく似た噺に「大安売り」があります。

こちらは反対に、コロコロよく負ける力士が出て、それが安売り店の主人。

「なるほど、道理でよくまける」と、オチが反対になります。

東京では、相撲取り出身という異色の経歴と巨体が売り物の、三遊亭歌武蔵の持ちネタとして知られます。

大阪では、先代桂文枝が高座にかけていました。

「素人相撲」(大丸相撲)の方は、今はあまり演じ手がないようです。

原話について 【RIZAP COOK】

原話は二種類あり、古い方が、正徳6年(=享保元、1716)に京都で刊行の『軽口福蔵主』巻一中の「現金掛値なし」、次に、安永年(1778)江戸板の『落話花之家抄』中の「角力」です。

後者はオチもそっくりで、完全な原型とみられます。

志ん生も演じた噺 【RIZAP COOK】

戦後では、終生、四代目橘家円喬に私淑していた五代目古今亭志ん生が、独自のオチを工夫して、たまに演じていました。

志ん生のは、「よく押しがきくねえ」「きくわけだ。漬け物屋のセガレだから」というものでした。

オリジナルは上方落語 【RIZAP COOK】

明治30年代に、四代目橘家円喬が上方落語「大丸相撲」を東京に移したらしく、明治34年(1901)7月の『文藝倶楽部』に、同人の速記が載っています。

上方の方は、背景が村相撲で、商人風の男が飛び入りしてどんどん勝ち抜いていくので、「強いやっちゃなあ。どこの誰や?」「大丸呉服店の手代や}「道理でまけん」というオチです。

大阪では、大丸は掛け値しないことで有名だったので、こういうオチになったのを、円喬はそれを、明治の東京新風俗の「勧工場」に模したわけです。

勧工場の没落 【RIZAP COOK】

その後、商品の質が落ちたことで評判も落ち、明治40年代になると、新興の三越、高島屋、白木屋ほかの百貨店に客を奪われて衰退。

大正に入ると、ほとんどが姿を消しました。

勧工場の特徴は掛け値せず定価で売ったことで、これは当時としては新鮮でした。この噺のオチ「まけない」は、そこから来ています。

現在、新橋橋詰にある「博品館」の前身は勧工場で、場所もこの位置です。

勧工場 【RIZAP COOK】

家庭用品、文房具、衣類などをそろえた、今でいうデパートやスーパーのはしりです。

明治10年(1877)に開かれた、第一回内国勧業博覧会の残品を売りさばくために設けられたものです。

大阪では「勧商場かんしょうば」と呼びました。

明治11年(1878)1月創設の、東京府立第一勧工場を手始めに、明治25年ごろまでに、京橋、銀座、神田神保町、日本橋、上野広小路など、東京中の盛り場に雨後の筍のように建てられました。

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