【素人芝居】しろうとしばい 落語演目 あらすじ
【どんな?】
素人が演じる芝居を茶番といいます。
芝居=歌舞伎だった頃の噺。
別題:五段目 吐血
【あらすじ】
町内の素人芝居で、「仮名手本忠臣蔵」五段目、山崎街道の場を出すことになった。
例によって、オレも勘平、オイラも勘平、あたしも勘平と、主役ばかりやりたがり、さんざん役もめをした挙げ句、しかたがないのでくじ引きで配役を決め、伊勢屋の若だんなが幸運にも勘平に「当選」した。
鉄砲渡しで千崎弥五郎が花道から客席に落っこちたり、猪役に当たった建具屋の源さんが、おもしろくないから、いやがらせに舞台でチンチンやお預けをしたりといろいろあって、やっと勘平の出になる。
舞台で斧定九郎が与市兵衛を殺して五十両を奪い、金を数えて終わってほくそ笑んだところで、揚げ幕から勘平が猪を狙ってドンと鉄砲を撃つと、弾が定九郎に命中。
定九郎の役者が、あらかじめ口に含んでいた玉子紅を噛み、胸に仕込んでおいた糊紅をなでると、口から血がダラダラ、胸から腹にかけて血だらけになってウーンと倒れたところへバタバタになって、さっそうと勘平が花道へ登場。
という、おなじみのいい場面になるはずだったが、ならない。
小道具が口火をなくしてしまったので、いつまで待っても鉄砲の音がしないから、定九郎がじれて、舞台をグルグル三べんもまわった挙げ句、かんしゃくを起こして
「テッポ、テッポ」
と怒鳴ったからたまらない。
たちまち口の中の玉子紅が破れて、弾にも当たらず血がダラダラ。
見物が仰天して
「おい、鉄砲は抜きか」
「いや、今日は吐血で死ぬんだ」
底本:四代目橘家円喬
【うんちく】
オムニバスの一部 【RIZAP COOK】
「仮名手本忠臣蔵」を題材としたオムニバスの一部分で、このあらすじの部分のみを演じる場合は、普通「吐血」「五段目」と称します。
「素人芝居」の演題は、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が明治29年(1896)6月、『百花園』に速記を載せた際のものです。円喬はこの後「蛙茶番」につなげています。
「田舎芝居」と題して芝居噺の趣向を取り入れた同時代の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)は、この忠臣蔵五段目の失敗話を「大序」「四段目」に続いて最終話とするなど、昔から、部分部分の組み合わせや構成は演者によって異なります。詳しくは、「田舎芝居」の項をご参照ください。「五段目」のこの部分だけの原話は不詳です。
「忠臣蔵」各段ごとに小咄 【RIZAP COOK】
歌舞伎や文楽の「仮名手本忠臣蔵」は、人口に膾炙しているだけに、その各段にちなんだ落語や小咄が、かつては作られていました。
「大序」「二段目」「五段目」「七段目」「九段目」がそれですが、このうち独立した一席噺として扱われたのは「七段目」くらいでしょう。
本ブログでは、本編の「五段目」、「七段目」に加え、「田舎芝居」の項で、「大序」「四段目」の梗概を紹介しています。「九段目」は独立項目を設けていませんので、以下に明治25年(1892)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記をもとに、簡単にあらすじを記しておきます。
「九段目」あらすじ 【RIZAP COOK】
近江屋という呉服屋の隠居の賀の祝いに 素人芝居で忠臣蔵九段目「山科閑居」を 出すことになったが、主役の加古川本蔵を演じる者が風邪でダウンし、代役に、夜は医者、昼はタバコ屋という小泉熊山を立てた。ところが、大星力弥 に槍で突かれて手負いになる場面で、 血止めに自家製の刻みたばこを使ったので、客が「よう本蔵、血止めたばことは芸が細かい」とほめると「なあに、手前切り(自分で粗く刻んだたばこ)です」とオチになる。
オチが今ではわかりづらく、今ではほとんど口演されません。これも別題を「素人芝居」といい、ややこしいかぎりです。
落語を地でいったヘボ芝居 【RIZAP COOK】
十七代目中村勘三郎(1909-88)は、『中村勘三郎楽屋ばなし』(関容子)の中で、岳父六代目尾上菊五郎(1885-1949)に聞いた昔の役者の失敗談として、「五段目」のオチのまま(大道具の鉄砲が鳴らずに、定九郎がしかたなく舌をかんで「自殺」)の話を語っています。
これが実話だったのかどうかは、定かではありません。昔のヘボ役者のしくじり話は、梨園にはいくらでも伝わっているようです。
同じ菊五郎の座談として伝わっている話に、「忠臣蔵」三段目の喧嘩場、高師直と塩冶判官のやりとりで、判「気が違うたか、ムサシノカミ」、師「だまれ、ハンガン」と言うべきところを、判官が間違えて、判「気が違うたか、たくみのかみィ」とやってしまい、これにあせった師直が、師「だまれ、モロノオ」。
これで芝居はメチャクチャ、という一席がありました。
オレも勘平 【RIZAP COOK】
現在でも芝居噺のマクラによく使われる「勘平がずらりと花道に並んで、これで「カンペイ式(=観兵式)もめでたく済んだ」というくすぐりを四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)も用いていますが、「観兵式」がどんなものかわからなくなっている現在、くすぐりとして通じなくなっています。
二代目禽語楼小さんは、四代目円蔵よりさらに一時代前の人ですが、前述「九段目」のマクラで、並んだのは「勘平の子でございましょう」とやっています。
どのみち、おもしろくもなんともありませんが、こちらのほうがまだわかりやすいでしょう。
この噺、戦後は円蔵の弟子だった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、師匠の演出を継承して「五段目」として高座に掛け、音源も残されています。