【山岡角兵衛】やまおかかくべえ 落語演目 あらすじ
【どんな?】
角兵衛獅子は軽業芸が商売。
この噺は忠臣蔵物の講談が基。
【あらすじ】
浅野内匠頭の松の廊下刃傷事件の後。
赤穂の浪士たちはあらゆる辛苦に耐え、ある者は町人に化けて吉良邸のようすを探り、仇討ちの機会を狙っていたが、その一人の山岡角兵衛がついに志を得ないまま病死した。
その妻のお縫は、女ながらも気丈な者。
なんとか夫に代わって主君の仇を報じたいと、吉良上野介のところにお妾奉公に入り、間者となった。
あと三日で上野介が米沢に出発することを突き止め、すわ一大事とこのことを大石内蔵助に知らせた。
そこで、元禄十五年十二月十四日。
茶会で吉良が在宅しているこの日を最後の機会と、いよいよ四十七士は討ち入りをかける。
その夜。
今井流の達人、美濃部五左衛門は、長屋で寝ていたが、気配に気づき、ひそかに主君上野介を救出しようと、女に化けて修羅場と化した屋敷に入り込んだ。
武林唯七に見とがめられて合言葉を
「一六」
と掛けられ、これはきっと賽の目だと勘づいたものの、あわてていて
「四五一、三二六」
と返事をしてしまう。
見破られて、かくなる上は破れかぶれと、獅子奮迅に暴れまわるうち、お縫が薙刀を持って駆けつけ、五左衛門に斬りかかる。
しかし、そこは女、逆にお縫は斬り下ろされて縁側からまっさかさま。
あわや、と見えたその時、お縫はくるりと一回転して庭にすっくと立ち、横に払った薙刀で五左衛門の足を払って、見事に仕留める。
これを見た大石が
「えらい。よく落ちながらひっくり返った。今宵の働きはお縫が一番」
とほめたが、それもそのはず。
お縫は、角兵衛の女房。
【しりたい】
忠臣蔵講談の翻案 【RIZAP COOK】
原話は不詳で、忠臣蔵ものの講談を基にしたものです。
古い速記では、明治32年(1899)10月、「志士の打入り」と題した二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)、当時は初代三遊亭金馬でしたが、それも残っています。
その没後、息子の三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)が高座に掛けましたが、二人の没後、後継者はありません。音源は円歌のものがCD化されています。
三代目小円朝によると、二代目のは、本来は松の廊下のくだりから始まり、討ち入りまでの描写が綿密で長かったとか。
明治32年の速記を見ると、脇筋で、親孝行の将軍綱吉(1646-1709)が、実母の桂昌院(1627-1705)に従一位の位階をもらって喜ぶくだりが長く、その後、刃傷から討ち入りまでの説明はあっさり流しています。
オチの「角兵衛」は角兵衛獅子で、「ひっくり返った」は角兵衛のアクロバットから。
「角兵衛獅子」と言ったところで、現代ではもう説明なしにはとうていわからなくなりました。角兵衛獅子については、「角兵衛の婚礼」をご参照ください。
武林唯七 【RIZAP COOK】
武林唯七の祖父は中国杭州(旧名は武林)から来た医家の孟二寛。医術と拳法で毛利家や浅野家に仕えました。唯七も拳法に長けていました。
美濃部五左衛門は抜刀居合術の達人ですから、拳法にも長けています。唯七、五左衛門、お縫の取り合わせは、剣の戦いばかりか、拳の戦いをも意味していたのでしょう。そこでお縫が軽業を使うわけですから、その視覚的効果は抜群です。
主人同様、不運な吉良邸 【RIZAP COOK】
吉良上野介屋敷は「北本所一、二の橋通り」「本所一ツ目」「本所無縁寺うしろ」「本所台所町横町」などと記録にあります。
俗にいう「本所松坂町2丁目」は、吉良邸が没収され、町家になってからの名称なので誤りです。
現在の墨田区両国3丁目、両国小学校の道をはさんで北向かいになります。路地の奥にわずかに上野稲荷として痕跡を留めていましたが、「上野」の二字が嫌われ、同音の「河濯」と碑に刻まれました。
明治5年(1772)に松坂町2丁目が拡張されたとき、その五番地に編入されましたが、長い間買い手がつかなかったといいます。
討ち入り事件当時は東西30間、南北20間、総建坪五500坪、敷地2000坪。
上野介が本所に屋敷替えを命ぜられ、丸の内呉服橋内から、この新開地に移ってきたのは討ち入り三か月前の元禄15年9月2日(1702年10月22日)。
事件当日の12月14日は、新暦では1703年1月30日(火曜日)で、普通言われている1702年は誤りです。旧暦と新暦のずれを考慮に入れないためのミスなのでしょう。当日の即死者十六人中に、むろん美濃部某の名はありません。
【語の読みと注】
浅野内匠頭 あさのたくみのかみ
刃傷 にんじょう
間者 かんじゃ:スパイ
武林唯七:たけばやしただしち
薙刀 なぎなた
角兵衛獅子 かくべえじし