たかだのばば【高田馬場】落語演目

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  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

落語世界の仇討ち。
おおよそはこんなかんじ。

別題:仇討ち屋

【あらすじ】

春の盛りの浅草奥山。

見世物や大道芸人がずらりと並び、にぎやかな人だかりがしている。

その中で、居合い抜きを演じたあと、蝦蟇の油の口上を述べている若い男がいて、その後ろに美しい娘。これが鎖鎌の芸を見せる。

「その効能はなにかといえば、金創切り傷、出痔いぼ痔、虫歯で弱るお方はないか」

そこへ人を押し分けて、六十過ぎの侍。

蝦蟇の油売りに向かって
「それは二十年ほど前の古傷にも効くか」
と侍が尋ねると、若者は
「ちょっと拝見」
と傷を見るなり
「これは投げ太刀にて受けた傷ですな」
「さよう、お目が高い」

侍が
「身の懺悔だから」
と語るところでは、
「拙者は元福島の家中であったが、二十年前、下役、木村惣右衛門の妻女に横恋慕し、夫の不在をうかがって手ごめにしようとしたところ、立ち帰った夫に見とがめられ、これを抜き打ちに斬り捨てた。妻女が乳児を抱え『夫のかたき』とかかってくるのをやはり返り討ちに斬ったが、女の投げた懐剣が背中に刺さり、それがこの傷だ」
と言う。

若者は聞き終わると、きっと侍をにらみ
「さてこそ、なんじは岩淵伝内。かく言う我は、なんじのために討たれし木村惣右衛門が一子、惣之助。これなるは、姉、あや。いざ尋常に勝負勝負」
と呼ばわったから、周りは騒然となった。

岩淵伝内は静かに
「なるほど、二十年前のことなので油断し口外したは、拙者の天命逃れざるところ、いかにもかたきと名乗り討たれようが、今は主を持つ身。一度立ち返ってお暇をちょうだいしなければならんので、明日正巳の刻までお待ち願いたい」
「よかろう。出会いの場所は」
「牛込、高田馬場」
「相違はないな」
「二言はござらん」

というわけで、仇討ちは日延べになった。

翌日。

高田馬場は押すな押すなの黒山の人だかり。

仇討ち見物を当て込み、よしず張りの掛け茶屋がズラリ。

そのどれもぎゅうぎゅう詰め。

みんな勝手を言いながら待っているが、いっこうに始まらない。

とうとう一刻(二時間)過ぎて、正巳の刻に。

「また日延べじゃないか」
とざわつきだしたころ、ある掛け茶屋で、昨日の侍が悠々と酒を飲んでいるのを見つけた者がいた。

「もし、お侍さん、のんびりしてちゃあ困ります。仇討ちはどうなりました」
「はは、今日はなしだ」
「相手が済みますまい」
「心配いたすな。あれは拙者のせがれと娘」
「なんだって、そんなうそをついたんです」
「ああやって人を集め、掛け茶屋から上がりの二割をもらって、楽に暮らしておるのだ」

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【うんちく】

原作者は死罪に 【RIZAP COOK】

前半の蝦蟇の油売りの口上は「蝦蟇の油」を踏襲しています。この口上については「蝦蟇の油」をお読みください。

原話は、宝暦8年(1758)刊で馬場文耕(講釈師、1718-59)作『当代江都百化物』中の第六話「敵討ノ化物ノ弁」です。

「百化物」は、武士出身で易者から辻講釈師に転じた文耕が、江戸で起こったさまざまな珍談を、風刺を交えて世話講談風にまとめた読み物で、二十二話で中絶しています。

第六話は、この噺の通りヤラセの仇討ち騒動ですが、後半が違っていて、野次馬が二人のやり取りに夢中になっているうちに、片っ端から懐の財布をすり取られてしまう、というオチです。

原作者の文耕は「百化物」を上梓した宝暦8年9月10日、日本橋槫正町の小間物屋文蔵方で「珍説もりの雫」という政治風刺講談を口演中に南町奉行所に検挙されました。

この講談が、当時評定所で吟味中の、美濃郡上八幡藩三万九千石の百姓一揆騒動を風刺したので、お上のおとがめを受けたためです。

文耕は当初は遠島で済むはずでしたが、吟味中も幕府を批判してやまなかったため、ついに死罪獄門に。同年12月25日、小塚原の露と消えました。

その判決を下したのが、文耕が「百化物」中で「罪を軽く取りさばかるる」名奉行とたたえた土屋越前守だったのはなんとも皮肉で、ヨイショが肝心なときにまったく役立たなかったわけです。

金馬のおはこ 【RIZAP COOK】

古い速記はなく、五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)の昭和初期のものが残るくらいです。

なんと言っても、戦前から戦後にかけては、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番でした。

金馬没後、三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)が手掛け、ついで、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)が演じて以来、若手も高座に掛けるようになりました。

志ん朝が昭和56年(1981)4月12日夜、文京区千石、三百人劇場での「志ん朝七夜」第二夜。

そこで演じた「高田馬場」は、その軽快なテンポと現代的なセンスで、この噺の新たなスタンダードとして語り伝えられています。

浅草奥山 【RIZAP COOK】

奥山は浅草寺裏手の一帯のことで、江戸から明治末期まで、見世物小屋が所狭しと並ぶ、一大歓楽街でした。

享保年間(1716-36)には軍書講釈、ついで宝暦(1751-64)ごろには辻講釈がよく出ました。

文化年間(1804-18)ごろから見世物が盛んになります。

独楽回し、居合い抜き、軽業などの大道芸、女相撲の興行、因果物などのグロテスクな見世物、その他、ほとんどなんでもありの「魔境」と化します。

明治になると、浅草公園五区に区分され、あいかわらず見世物でにぎわいました。

明治末、隣の六区が活動写真や芝居小屋を中心に大歓楽街を形成すると、しだいに人手を奪われ、その役割を終えました。

高田の馬場 【RIZAP COOK】

古くは「たかたのばば」。

地名としては新宿区戸塚1、2丁目から西早稲田、早大正門付近の馬場下町あたりまでのかなり広い範囲を含みました。

家康の側妾で、越後高田藩主となった松平忠輝の実母阿茶局が賜った芝地で、同人が「高田さま」と呼ばれたことに由来します。

その後、寛永13年(1636)に馬場が設けられ、現在の穴八幡神社付近で流鏑馬が催されたといいます。

安兵衛の仇討ち 【RIZAP COOK】

この噺の仇討ち騒動は、もちろん、講談や映画でおなじみの堀部(中山)安兵衛の「高田馬場仇討ち」が元ネタです。

元禄7年(1694)2月11日に起こったこの事件。

講釈師が言う、はでな「十八人斬り」は真っ赤なうそで、安兵衛が斬ったのは、村上三郎右衛門以下三人に過ぎないというのが現在の定説のようです。まあ、伝説は無限に広がるもので。それでも、三人を切り殺したとは、みごとなもんです。

ことばよみいみ
浅草奥山あさくさおくやま
仇討ちあだうち敵討ちと同じ。敵討ちは「かたきうち」と読む
蝦蟇がまのあぶら
身の懺悔 みのざんげ
正巳の刻しょうみのこく午前10時
槫正町 くれまさちょう中央区日本橋3丁目あたり

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評価 :1/3。

やまおかかくべえ【山岡角兵衛】落語演目

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【どんな?】

角兵衛獅子は軽業芸が商売。
この噺は忠臣蔵物の講談が基。

【あらすじ】

浅野内匠頭たくみのかみの松の廊下刃傷にんじょう事件の後。

赤穂の浪士たちはあらゆる辛苦に耐え、ある者は町人に化けて吉良邸のようすを探り、仇討ちの機会を狙っていたが、その一人の山岡角兵衛がついに志を得ないまま病死した。

その妻のお縫は、女ながらも気丈な者。

なんとか夫に代わって主君の仇を報じたいと、吉良上野介のところにお妾奉公に入り、間者となった。

あと三日で上野介が米沢に出発することを突き止め、すわ一大事とこのことを大石内蔵助に知らせた。

そこで、元禄十五年十二月十四日。

茶会で吉良が在宅しているこの日を最後の機会と、いよいよ四十七士は討ち入りをかける。

その夜。

今井流の達人、美濃部五左衛門は、長屋で寝ていたが、気配に気づき、ひそかに主君上野介を救出しようと、女に化けて修羅場と化した屋敷に入り込んだ。

武林唯七たけばやしただしちに見とがめられて合言葉を
「一六」
と掛けられ、これはきっと賽の目だと勘づいたものの、あわてていて
「四五一、三二六」
と返事をしてしまう。

見破られて、かくなる上は破れかぶれと、獅子奮迅に暴れまわるうち、お縫が薙刀なぎなたを持って駆けつけ、五左衛門に斬りかかる。

しかし、そこは女、逆にお縫は斬り下ろされて縁側からまっさかさま。

あわや、と見えたその時、お縫はくるりと一回転して庭にすっくと立ち、横に払った薙刀で五左衛門の足を払って、見事に仕留める。

これを見た大石が
「えらい。よく落ちながらひっくり返った。今宵こよいの働きはお縫が一番」
とほめたが、それもそのはず。

お縫は、角兵衛の女房。

【RIZAP COOK】

【しりたい】

忠臣蔵講談の翻案  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、忠臣蔵ものの講談を基にしたものです。

古い速記では、明治32年(1899)10月、「志士の打入り」と題した二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)、当時は初代三遊亭金馬でしたが、それも残っています。

その没後、息子の三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)が高座に掛けましたが、二人の没後、後継者はありません。音源は円歌のものがCD化されています。

三代目小円朝によると、二代目のは、本来は松の廊下のくだりから始まり、討ち入りまでの描写が綿密で長かったとか。

明治32年の速記を見ると、脇筋で、親孝行の将軍綱吉(1646-1709)が、実母の桂昌院(1627-1705)に従一位の位階をもらって喜ぶくだりが長く、その後、刃傷から討ち入りまでの説明はあっさり流しています。

オチの「角兵衛」は角兵衛獅子で、「ひっくり返った」は角兵衛のアクロバットから。

「角兵衛獅子」と言ったところで、現代ではもう説明なしにはとうていわからなくなりました。角兵衛獅子については、「角兵衛の婚礼」をご参照ください。

武林唯七  【RIZAP COOK】

武林唯七の祖父は中国杭州ハンチョウ(旧名は武林ぶりん)から来た医家の孟二寛。医術と拳法で毛利家や浅野家に仕えました。唯七も拳法に長けていました。

美濃部五左衛門は抜刀居合術の達人ですから、拳法にも長けています。唯七、五左衛門、お縫の取り合わせは、剣の戦いばかりか、拳の戦いをも意味していたのでしょう。そこでお縫が軽業を使うわけですから、その視覚的効果は抜群です。

主人同様、不運な吉良邸  【RIZAP COOK】

吉良上野介屋敷は「北本所一、二の橋通り」「本所一ツ目」「本所無縁寺うしろ」「本所台所町横町」などと記録にあります。

俗にいう「本所松坂町2丁目」は、吉良邸が没収され、町家になってからの名称なので誤りです。

現在の墨田区両国3丁目、両国小学校の道をはさんで北向かいになります。路地の奥にわずかに上野稲荷として痕跡を留めていましたが、「上野」の二字が嫌われ、同音の「河濯」と碑に刻まれました。

明治5年(1772)に松坂町2丁目が拡張されたとき、その五番地に編入されましたが、長い間買い手がつかなかったといいます。

討ち入り事件当時は東西30間、南北20間、総建坪五500坪、敷地2000坪。

上野介が本所に屋敷替えを命ぜられ、丸の内呉服橋内から、この新開地に移ってきたのは討ち入り三か月前の元禄15年9月2日(1702年10月22日)。

事件当日の12月14日は、新暦では1703年1月30日(火曜日)で、普通言われている1702年は誤りです。旧暦と新暦のずれを考慮に入れないためのミスなのでしょう。当日の即死者十六人中に、むろん美濃部某の名はありません。

【語の読みと注】
浅野内匠頭 あさのたくみのかみ
刃傷 にんじょう
間者 かんじゃ:スパイ
武林唯七:たけばやしただしち
薙刀 なぎなた
角兵衛獅子 かくべえじし



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