すうこく【崇谷】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

今となっては聴くこともできない噺。

崇谷は実在の画家で、18世紀が舞台。

あらすじ

水戸藩に仕えていた、英林斎藤原崇谷という名高い絵師。

今は浪人で、本所の中之郷原庭町で気ままな暮らしをしている。

この先生、浅草観音堂の奉納額に「源三位頼政、鵺退治」の絵を書いたことで有名な天下の名人だが、気まぐれの変人で大酒呑み。

諸侯からの依頼が引きもきらないが、気が向かないと千両積まれてもダメ。

かと思えば、近所の子供に頼まれれば気さくに書いてやる、という具合。

弟子志願者も大勢いたが、絵はさっぱり教えないわ、弟子から小遣いは取り上げるわ、酔いつぶれているのを起こせばゲンコツを飛ばしてコブだらけにするわで、一人去り二人去り、今では虚仮の一念の内弟子二人だけ。

ある夜。

雲州候松平出羽守の命で、近習の中村数馬という若侍が、崇谷に絵の依頼に来る。

若殿の初節句なので、墨絵の鍾馗を描いてほしいという望み。

ところが、先生、例の通り朝から五升酒をくらって気持ちよさそうに寝ていたのをたたき起こされたからヘソを曲げ、数馬をコブだらけにした上、
「頼みたければ、出羽守じきじきに来い」
だのと、言いたい放題。

数馬はかっとして切り捨てようと思ったが、ぐっと堪えてその日は帰り、主君に復命すると、出羽守少しも怒らず、
「今一度頼んでまいれ」
と命じたので、数馬は翌日また中之郷原庭町を訪ねる。

崇谷は相変わらずのんだくれていて、
「大名は嫌いだ」
とごねるので、数馬が、
「どうしてもダメなら切腹する」
と脅すと、崇谷は二人の弟子に、
「武士の切腹が実地で見られるのだから、修行には願ってもない機会だ」
と言いだす始末。

これには数馬も降参して、再度懇願すると、その忠心に動かされたか、崇谷もやっと承知。

駕籠に酒を持ち込んでグビグビやりながら、赤坂の上屋敷へとやってきた。

先生、殿さまの前に出ても、あいさつの途中で寝てしまう体たらくだが、出羽守が礼儀正しくことを分けて頼んだので気をよくしたか、茶坊主に墨をすらせ、その顔をパレット代わり。

筆の代わりに半紙の反故紙で無造作に書きなぐったものを三間離れて見ると、鍾馗が右手に剣、左手に鬼の首をつかんでにらみつけた絵が生きて飛び出さんばかり。

「さすがに英林斎先生」
と感服した殿さま、今度は
「草木なき裸山を四季に分けて描いてほしい」
と注文。

崇谷、これも見事に描いてみせたので、
「さすがに名人」
と、浴びるほど酒をふるまって
「素人は山を描くのが難しいと申すが、画工といえどやはり描きにくいか」
「私はなにを描いても同じことだが、私の家の裏の、七十七歳の爺はそう申しております」
「して、その者も画工か」
「いえ、駕籠かきです」

底本:二代目禽語楼小さん

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

「蕎麦の殿さま」雲州候 【RIZAP COOK】

松江藩第七代藩主、松平治郷はるさと(1751-1818)は、明和4(1767)年に襲封。石高は十八万五千石。

藩財政の建て直しに努め、農政を改革、飢饉対策として、領国に信州からそばを移植、これが現在の出雲そばの始まりです。

不昧公ふまいこうと号され、風流人で茶道を好み、大名茶を大成しました。

この噺にもみられるとおり、芸術にも理解と造詣が深かったことで有名です。「蕎麦の殿さま」のあの方です。

どこかで聴いたオチ 【RIZAP COOK】

講釈(講談)を基に作られたと思われますが、はっきりしません。

明治23年(1890)11月、『百花園』に掲載された二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記がありますが、その後の後継者はいないようです。

オチの部分の原話は、元禄16年(1703)刊『軽口御前男かるくちごぜんおとこ』(初代米沢彦八・編著)中の「山水の掛物」とみられます。

これは、須磨という腰元が給仕をしていて雪舟の掛け軸の絵を見て涙をこぼすので、客が不審に思い、わけを尋ねると、「私の父親も山道をかいて死にました」。「そなたの父も絵師か」と聞くと、「いえ、駕籠かきでした」というもの。

このオチは「抜け雀」と同じです。

崇谷という人 【RIZAP COOK】

本姓は高崇谷こうすうこく(高嵩谷、1730-1804)で、別号は屠龍翁、楽只斎、湖蓮舎、曲江、翆雲堂などさまざま。英派はなぶさはの画家です。

噺中の英林斎というのは不詳です。

江戸中期の絵師で、佐脇嵩之さわきすうし(1707-72)の門人でした。佐脇嵩之は英一蝶いっちょう(1652-1724)の晩年の弟子です。

ということは、狩野安信(中橋狩野家の祖)→英一蝶→佐脇嵩之→高崇谷、という流れになります。

この噺に登場する額については、『武江年表』の天明7年(1787)の項に、「五月、屠龍翁高崇谷、浅草寺観音堂へ頼政猪早太鵺退治の図を画きたる額を納む。(中略)人物の活動、普通の画匠の及ぶ所にあらず」と記録されています。

土佐、狩野両派の手法を採り入れ、町絵師ながら、次代の浮世絵師に大きな影響を与えました。

要は、狩野派の品格をもって街場の風俗を題材に描くのが英派でした。

彼らが「町狩野」と呼ばれていたことからもわかるように、町人に親しまれてきた画風だったのですね。

高崇谷は多くの門弟を育て、明和年間(1764-72)から寛政年間(1789-1801)にかけて活躍しました。

それはちょうど、日本中が文化で膨張したした時代でもありました。都鄙も含めてあまた輩出した奇才や天才の一員だったといえるでしょう。

墓所は、浅草西福寺内の智光院にあります。

【語の読みと注】
中之郷原庭町 なかのごうはらにわちょう
鵺 ぬえ
虚仮 こけ:うそ、絵空事
鍾馗 しょうき
松平治郷 まつだいらはるさと
不昧公 ふまいこう

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席