ねこきゅう【猫久】落語演目

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【どんな?】

業の見えない長屋噺です。幕末に生まれた生ッ粋の江戸落語。珍品です。

【あらすじ】

長屋に住む行商の八百屋、久六は、性格がおとなしく、怒ったことがないところから「猫久」、それも省略して「猫」「猫」と呼ばれている。 その男がある日、人が変わったように真っ青になって家に飛び込むなり、女房に 「今日という今日はかんべんできねえ。相手を殺しちまうんだから、脇差を出せッ」 と、どなった。 真向かいで熊五郎がどうなるかと見ていると、かみさん、あわてて止めると思いの外、押し入れから刀を出すと、神棚の前で、三べん押しいただき、亭主に渡した。 「おい、かかァ、驚いたねえ。それにしても、あのかみさんも変わってるな」 「変わってるのは、今に始まったことじゃないよ。亭主より早く起きるんだから。井戸端で会ってごらん。『おはようございます』なんて言いやがるんだよ」 「てめえの方がよっぽど変わってらァ」 と熊がつぶやいて床屋に行こうとすると、かみさんが 「今日の昼のお菜はイワシのぬたなんだから、ぐずぐずしとくと腐っちまうから、早く帰っとくれ。イワシイワシッ」 とがなりたてる。 「かかァの悪いのをもらうと六十年の不作だ」 と、ため息をついて床屋に行くと、今日はガラガラ。 親方に猫の話を一気にまくしたてると、そばで聞いていたのが五十二、三の侍。 「ああ、これ町人、今聞くと猫又の妖怪が現れたというが、拙者が退治してとらす」 と、なにか勘違いをしているようす。 熊が、実は猫というのはこれこれの男手、と事情を話すと 「しかと、さようか。笑ったきさまがおかしいぞ」 急にこわい顔になって 「もそっと、これへ出い」 ときたから、熊五郎はビクビク。 「よおっく、うけたまわれ。日ごろ猫とあだ名されるほど人柄のよい男が、血相を変えてわが家に立ち寄り、剣を出せとはよくよく逃れざる場合。また、日ごろ妻なる者は夫の心中をよくはかり、これを神前に三べんいただいてつかわしたるは、先方にけがのなきよう、夫にけがのなきよう神に祈り夫を思う心底。身共にも二十五になるせがれがあるが、ゆくゆくはさような女をめとらしてやりたい。後世おそるべし。貞女なり孝女なり烈女なり賢女なり、あっぱれあっぱれ」 熊、なんだかわからないが、つまり、いただく方が本物なんだと感心して、家に帰る。 とたんに 「どこで油売ってたんだ。イワシイワシッ」 とくるから、 「こいつに一ついただかしてやろう」 と侍の口調をまねる。 「男子……よくよくのがれ……のがれざるやとけんかをすれば」 「ざる屋さんとけんかしたのかい」 「夫はラッキョ食って立ち帰り、日ごろ妻なる者は、夫の真鍮磨きの粉をはかり、けがのあらざらざらざら、身共にも二十五になるせがれが」 「おまえさん、二十七じゃないか」 「あればって話だ。オレがなにか持ってこいって言ったら、てめえなんざ、いただいて持ってこれめえ」 「そんなこと、わけないよ」 言い合っているうち、イワシを本物の猫がくわえていった。 「ちくしょう、おっかあ、そのその摺り粉木でいいから、早く持って来いッ。張り倒してやるから」 「待っといでよう。今あたしゃ、摺り粉木をいただいてるところだ」 志ん朝

【しりたい】

猫又   【RIZAP COOK】

猫が百年以上生きて、妖怪と化したものです。 日本の「原生種」は、尻尾が二つに分かれ、口は耳まで裂けて火を吹き、人を食い殺します。

脇差なら「免許不要」  【RIZAP COOK】

脇差は二尺(60cm)以下の小刀です。 これなら、護身用に町人が差してもさしつかえありませんでした。 実際はれっきとした大刀なのに、「長脇差」という名称で渡世人が差していたことはヤクザ映画などでおなじみです。 いいかげんなもんです。どうとでもなるもんで。

六代目円生の回想  【RIZAP COOK】

「この猫久という噺はあたくしは初めて三代目小さんのを聞いたんです。あんまり聞いておかしいんで、大きな声で楽屋で笑ったんで怒られました。(中略)その(後)『猫久』という噺はまあ、失礼ですがどなたのを聞いてもなンかちっともおしくないんです」

『江戸散歩』六代目三遊亭円生、朝日新聞社、1988年

小さん三代の工夫  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、幕末の嘉永年間(1848-54)ごろから口演されてきた、古い江戸落語です。 明治中期に二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)が完成させ、以後、代々の小さん系の噺として、三代目小さん(豊島銀之助、1857-1930)、四代目小さん(大野菊松、1888-1947)、三代目の高弟だった七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の可楽)を経て、五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番として受け継がれてきました。 二代目は、明治初期(つまり同時代)に時代を設定し、晩年の明治27年(1894)12月の速記では、町人も苗字を許されたというので、猫久も清水久六としました。 熊に意見をするのは、せがれの道楽で窮迫した氏族の老人となっています。 三代目小さんは、舞台を江戸時代に戻し、そのため、以後は熊五郎の侍への恐怖心という一種の緊張感が噺に加わっています。 オチは、ずっと地で「いただいていました」と説明していたのを、五代目小さんが今回のあらすじのように、すりこぎを押し戴く仕種オチでオチるよう工夫しました。 「馬に止動の間違いあり、狐にケンコンの誤りあり」とマクラに振り、世の中には間違いが定着してしまっていることがよくあると説明、そこから、猫よりも犬の方が人に忠実なのに、猫にたとえられると喜び、犬と呼ばれると怒るという不合理を風刺してから噺に入るのが、二代目小さん以来の伝統です。 【語の読みと注】 摺粉木 すりこぎ

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くらまえかご【蔵前駕籠】落語演目

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【どんな?】

維新間際、駕籠客狙う追い剥ぎの一党が。すさんだ世情も落語にかかれば、ほら。

あらすじ

ご維新の騒ぎで世情混乱を極めているさなか。

神田・日本橋方面と吉原を結ぶ蔵前通りに、夜な夜な追いぎが出没した。

それも十何人という徒党を組み、吉原通いの、金を持っていそうな駕籠かご客を襲って、氷のような刃を突きつけ
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるので、その方に所望いたす。命が惜しくば、身ぐるみ脱いで置いてゆけ」
と相手を素っ裸にむくと
「武士の情け。ふんどしだけは勘弁してやる」
「へえ、ありがとうございます」

こんなわけで、蔵前茅町くらまえかやちょう江戸勘えどかんのような名のある駕籠屋は、評判にかかわるので暮れ六ツの鐘を合図に、それ以後は一切営業停止。

ある商家のだんな。

吉原の花魁おいらんから、ぜひ今夜来てほしいとの手紙を受け取ったため、意地づくでも行かねばならない。

そこで、渋る駕籠屋に掛け合って、
「追いはぎが出たらおっぽり出してその場で逃げてくれていい、まさか駕籠ぐるみぶら下げてさらっていくことはないだろうから、翌朝入れ物だけ取りに来ればいい」
と、そば屋にあつらえるようなことを言い、駕籠賃は倍増し、酒手は一人一分ずつという条件もつけてようやく承知させる。

こっちも支度があるからと、何を思ったかだんな、くるくるとふんどし一つを残して着物を全部脱いでしまった。

それをたたむと、煙草入れや紙入れを間に突っ込み、駕籠の座ぶとんの下に敷いてどっかと座り、
「さあ、やれ」

駕籠屋が
「だんな、これから風ェ切って行きますから寒いでしょう」
とからかうと、
「向こうにきゃ暖め手がある」
と変なノロケを言いながら、いよいよ問題の蔵前通りに差しかかる。

天王橋てんのうばしを渡り、前方に榧寺かやでら門前の空地を臨むと、なにやら怪しい影。

「だんな、もう出やがったあ。お約束ですから、駕籠をおっぽりますよっ」
と言い終わるか終わらないかのうちに、ばらばらっと取り囲む十二、三人の黒覆面。

駕籠屋はとっくに逃げている。

ぎらりと氷の刃を抜くと、
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるのでその方に所望いたす。命が惜しくば……これ、中におるのは武家か町人か」

刀の切っ先で駕籠のすだれをぐいと上げると、素っ裸の男が腕組み。

「うーん、もう済んだか」

しりたい

江戸の駕籠屋

蔵前茅町の江戸勘、日本橋本町にほんばしはしもとちょう赤岩あかいわ芝神明しばしんめい初音屋はつねやを、江戸三駕籠屋と称しました。

江戸勘と赤岩は吉原通い、初音屋は品川通いの客が多く利用したものです。

これを宿駕籠しゅくかごといい、個人営業の辻駕籠つじかごとは駕籠そのものも駕籠舁かごかきも、むろん料金も格段に違いました。

駕籠にもランクがあり、宝仙寺ほうせんじ、あんぽつ、四ツ手と分かれていましたが、もっとも安い四ツ手は垂れ駕籠(むしろのすだれを下ろす)、あんぽつになると引き戸でした。

ルーツは『今昔物語』に

いかにも八代目正蔵(彦六)が得意にしていた噺らしい、地味で小味こあじな一編ですが、原話は古く、平安末期成立の説話集『今昔物語こんじゃくものがたり』巻二十八中の「阿蘇あそさかん、盗人にあひて謀りて逃げし語」です。

ちなみに、「史」は令制りょうせい四等官しとうかんの最下位「主典さかん」をさします。

時代がくだって安永4年(1775)刊の笑話集『浮世はなし鳥』中の「追剥おいはぎ」では、駕籠屋の方が気を利かせてあらかじめ客を裸にし、大男の追い剥ぎが出るや「アイ、これはもふ済みました」と、すでに「蔵前駕籠」と同じオチになっています。

榧寺門前

榧寺かやでらは現在の東京都台東区蔵前三丁目、池中山盈満院正覚寺じちゅうざんようまんいんしょうがくじのことです。

浄土宗で芝の増上寺に属します。

昔、境内に榧の大木があったので、この名が付いたといわれます。

その榧の木は、秋葉山の天狗が住職と賭け碁をして勝ち、そのかたに実を全部持って行ったために枯れ、その枯れ木で天狗の木像を刻んで本尊としたという伝説があります。

江戸時代は水戸街道に面し、表門から本堂までかなり長かったといいます。

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