はつねのつづみ【初音の鼓】落語演目 

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【どんな?】

歌舞伎『義経千本桜』中。
有名な「狐忠信」のパロディーです。

別題:ぽんこん

【あらすじ】

骨董好きの殿さまのところに、出入りの道具屋・金兵衛が怪しげな鼓を売り込みに来る。

側用人の三太夫に、これは下駄の歯入れ屋のじいさんが雨乞いに使っていた鼓で、通称「初音の鼓」という。

「じいさんが今度娘夫婦に引き取られて廃業するので形見にもらった」と説明。

これを殿さまに百両でお買い上げ願いたいと言うから、三太夫はあきれた。

なにしろこの金兵衛、先日も真っ黒けの天ぷら屋の看板を、慶長ごろの額と称して、三十両で売りつけた「実績」の持ち主。

金兵衛、殿さまの身になれば、「狐忠信」の芝居で名高い「初音の鼓」が百両で手に入れば安いもので、一度買って蔵にしまってしまえば、生涯本物で通ると平然。

「もし殿が、本物の証拠があるかと言われたら、どうする」
「この鼓を殿さまがお調べになりますと、その音を慕って狐がお側の方に必ず乗り移り、泣き声を発します、とこう申し上げます」
「乗り移るかい」
「殿さまがそこでポンとやったら、あなたがコンと鳴きゃ造作もないことで」

三太夫、
「仮にも武士に狐の鳴きまねをさせようとは」
と怒ったが、結局、一鳴き一両で買収工作がまとまる。

殿さまポンの三太夫コンで一両。

ポンポンのコンコンで二両、というわけ。

早速、金兵衛を御前に召し連れる。

話を聞いた殿さまが鼓を手にとって「ポン」とたたくと、側で三太夫が「コン」。

「これこれ、そちはただ今こんと申したが、いかがいたした」
「はあ、前後忘却を致しまして、いっこうにわきまえません」

「ポンポン」
「コンコン」
「また鳴いたぞ」
「前後忘却つかまつりまして、いっこうに」
「ポンポンポン」
「コンコンコン」
「ポンポン」
「コンコンコンコン」
「これ、鼓はとうにやめておる」
「はずみがつきました」

「次の間で休息せよ」
というので、二人が対策会議。

いくつ鳴いたか忘れたので、結局、折半の五十両ずつに決めたが、三太夫、鳴き疲れて眠ってしまい、ゆすっても起きない。

そこへ殿さまのお呼び出し。

一人で御前へ通ると、殿さまが
「今度はそちが調べてみい」

さあ困ったが、今さらどうしようもない。

どうなるものかと金兵衛が「ポン」とたたくと、殿さまが「コン」。

「殿さま、ただ今お鳴きに」
「何であるか、前後忘却して覚えがない」
「ありがとうさまで。ポンポンポン、スコポンポン」
「コンコンコン、スココンコン」
「ポンポン」
「コンコン……。ああ、もうよい。本物に相違ない。金子をとらすぞ」

「へい、ありがとうさまで」

金包みを手に取ると、えらく軽い。

「心配するな。三太夫の五十両と、今、身が鳴いたのをさっ引いてある」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

歌舞伎のパロディー 【RIZAP COOK】

古風な噺で、歌舞伎や文楽のファンにはなじみ深い『義経千本桜』の「狐忠信」のくだりのパロディーです。

「初音の鼓」はその前の場「吉野山」で、落ち行く義経が愛妾の静御前に形見に与える狐革の鼓をさします。

義経は、逃避行に足手まといとなるだろうと、静御前を吉野の山中に置き去りにします。

その際、初音の銘のある鼓を形見の品として静に与えました。

紫檀の胴に羊の皮を張った中国渡来の名器です。とは、『義経記』に載っています。

狐忠信とのかかわり   【RIZAP COOK】

『義経記』記載から転じて『義経千本桜』では、鼠退治に功労あった狐の皮でつくったその鼓を、親への愛惜の情を抱く子狐が、義経の忠臣、佐藤忠信に化けて静(初音の鼓を所持している)を守りながらにお供をするという筋立てに変えています。

鼓を奪おうとしますが、見破られ、静の打つ鼓の音で正体を現すのです。

子狐が涙ながらに述懐するくだりこそ、「狐忠信」の通称で知られる名場面でしょう。

「初音」の意味は、その浄瑠璃の詞章に「狐は陰の獣ゆえ、雲を起こして降る雨の、民百姓が喜びの声を初めてあげしより」に由来します。

噺の中で下駄屋の爺さんが雨乞いをしたのは、天気だと皆わらじばかり履き、下駄の歯がすりきれないから。

林家彦六がよく演じましたが、立川談志も持ちネタにしていました。

殿さま、金兵衛、三太夫みんな仲良しで、誰もがうそを承知で遊び戯れているような、ほのぼのと捨てがたい味わいが。別話の「継信」も、別題が「初音の鼓」なので、区別してこの噺は「ぽんこん」とも呼ばれています。

さらに猫忠も   【RIZAP COOK】

「初音の鼓」はここまでの筋立てですが、三味線に張った皮の猫の子と変えたのが「猫の忠信」(猫忠)となります。

酒を「ただ飲む」猫の忠信、駿河屋の次郎吉で駿河次郎、亀屋の六兵衛で亀井六兵衛、弁慶橋に住む吉野屋の常兄いで義経、常磐津文字静で静御前というふうに、登場人物も「義経記」や「義経千本桜」に沿ってあります。

猫忠

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はやしやきゅうぞう【林家久蔵】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1992年8月、林家木久蔵
【前座】1992年11月、林家久蔵
【二ツ目】1995年11月
【真打ち】2006年3月
【出囃子】梅の栄
【定紋】光琳蔦
【本名】木村朋幸
【生年月日】1969年8月23日
【出身地】東京都保谷市(西東京市)
【学歴】早稲田大学高等学院→早稲田大学理工学部
【血液型】A型
【ネタ】反対車 お菊の皿 勘定板
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は弓道。2001年5月、第48回早慶明遠的弓道大会OBの部優勝。「大江戸台風族」の台風1号

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ここんていきくしん【古今亭菊志ん】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1994年4月、二代目古今亭円菊(藤原淑、1928-2012)に
【前座】1994年6月、古今亭菊朗
【二ツ目】1998年5月
【真打ち】2007年3月、古今亭菊志ん
【出囃子】神田祭
【定紋】裏梅
【本名】山口直樹
【生年月日】1971年7月4日
【出身地】広島県広島市
【学歴】広島県立皆実高校→愛媛大学教育学部小学校教員養成課程
【血液型】A型
【ネタ】臆病源兵衛 野ざらし 真田小僧 持参金 兵庫舟 本膳 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は野球。1998年、岡本マキ賞。2003年、NHK新人演芸大賞落語部門大賞。2003年、北とぴあ若手落語家競演会大賞。2004年、さがみはら若手落語家選手権優勝。2008年、国立花形演芸会銀賞

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やなぎやきょうのすけ【柳家喬之助】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1993年11月、柳家さん喬
【前座】1993年12月、柳家さん市
【二ツ目】1997年9月、柳家喬之助
【真打ち】2007年3月
【出囃子】江島生島
【定紋】丸に三つ柏
【本名】加賀谷宗一
【生年月日】1971年3月4日
【出身地】埼玉県所沢市
【学歴】明海大学経済学部中退
【血液型】AB型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は機械いじり、バイク修理、煮込み料理、名画座巡り、楽屋情報収集。大学生時代、東京スポーツ新聞社で「坊や」。2002年、北とぴあ若手落語家競演会奨励賞。学習院大学非常勤講師

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すみだがわばせき【隅田川馬石】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1993年10月、六代目五街道雲助
【前座】1993年11月、五街道わたし
【二ツ目】1997年9月、五街道佐助
【真打ち】2007年3月、四代目隅田川馬石
【出囃子】岸の柳
【定紋】裏梅
【本名】村上覚
【生年月日】1969年7月14日
【出身地】兵庫県西脇市
【学歴】兵庫県立西脇工業高校→石坂浩二主宰劇団「急旋回」
【血液型】B型
【ネタ】金明竹 お富与三郎 名人長二 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は義太夫、マラソン。1999年、平成11年度北とぴあ若手落語家競演会奨励賞。2007年、第12回林家彦六賞。2012年12月、第67回文化庁芸術祭大衆芸能部門新人賞。2021年12月、第76回文化庁芸術祭賞大衆芸能部門芸術祭大賞。

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やなぎやじんごろう【柳家甚語楼】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1993年5月、三代目柳家権太楼
【前座】1993年6月、柳家太一
【二ツ目】1997年5月、柳家さん光
【真打ち】2006年3月、三代目柳家甚語楼
【出囃子】独楽
【定紋】丸にくくり猿
【本名】小柏一
【生年月日】1968年10月15日
【出身地】埼玉県上尾市
【学歴】早稲田大学法学部
【血液型】B型
【ネタ】愛宕山 幾代餅 井戸の茶碗 鰻の幇間 黄金の大黒 お見立て 火事息子 小言幸兵衛 子別れ 三枚起請 崇徳院 品川心中 茶の湯 佃祭 転宅 富久 猫と金魚 花見の仇討ち ふだんの袴 不動坊 味噌蔵 妾馬 百川 宿屋の仇討ち
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は海釣り、料理。特技は百面相。第2回さがみはら若手落語選手権優勝。「大江戸台風族」の台風2号

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いなかしばい【田舎芝居】落語演目

スヴェンソンの増毛ネット

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【どんな?】

町じゃ端役なのに田舎だと名代なんていうのは、ありそうなはなしですね。

【あらすじ】

田舎の鎮守の祭礼に、村芝居を出すことになった。

やり方を教えてくれるお師匠番が必要だが、一流の役者や振付師を頼むと千両ふんだくられると聞いた。

世話人がぶったまげ、
「それなら一番安くて悪い先生を頼もう」
と、捜し当てたのが江戸、下谷北稲荷町に住む本名、柴田与三郎。芸名、中村福寿という下回り役者だ。

この男、昼間は芝居で馬の足、夜は噺家になるという掛け持ち稼業。

江戸でこそ、昼馬、夜鹿(噺家=しか)で合わせて「ばか」だが、田舎に来ると、芝居の神さま扱い。

庄屋杢左衛門の家に招かれて、下にも置かぬ大歓迎。

すっかりいい気持ちになり、
「だしものはなんです」
と尋ねると、
「なんでも、よくわからねえべが、幕を取ると向けえにお鎮守さまが祭ってござって、その傍にお天神さまがえらくいて、黄色い頭の天神さまに青いお天神、黒い爺さまの天神さん、土地べたイ座って箱の中から戦する時かぶる笠のようなものを」
と、シドロモドエオで説明するので、どうやら「仮名手本忠臣蔵」大序兜改めの場と、知れた。

そこで、なんとか衣装をあり合わせでそろえ、セリフも付けたが、田舎言葉なのでなんともしまらない。

稽古の時に衣装を外に干しておいたので、その間に蜂が烏帽子に入ったのも知らずに師直役の農民が
「だまらっしゃい、若狭どん。義貞討死した時大わらわ、死げえの前に落ち取った兜の数四十七、どれがどれとはわからねえのを奉納したその後で、アタタ」

蜂の出所がないから、あっと言う間にコブだらけ。

頭がふくれ上がったから、見物
「どこの国に師直とデコスケの早変わりがあるだ」
と怒り出す。

次は、四段目判官切腹。

花道から出るはずの諸士が出てこない。

福寿があわてて
「ショシ、ショシ」
と呼んだのを、次の幕の山崎街道の場に出る猪役がシシと聞き間違え、飛び出したので芝居はメチャクチャ。

見物が
「判官さまが腹切るに、猪が出るちゅうことがあるか」
「それがさ、五万三千石の殿さまが腹切るから、領内の獣が暇乞いに来ただんべ」

底本: 六代目桂文治

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【しりたい】

おらが村の大歌舞伎

原型は、十返舎一九(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)の滑稽本『田舎草紙』と思われます。

十返舎一九は文化4年(1807)刊の『東海道中膝栗毛』で名高い、当時の売れっ子物書きでした。

これは丹波国(兵庫県)氷上郡の農村を舞台にし、村芝居で忠臣蔵七、九、十段目を農閑期の農民が土地のなまりそのままで演じていくおかしさを趣向にしたものです。

七段目で主人公、大星由良之助に、敵役の斧九太夫が芝居中に酔ってからみ、取っ組み合いの大ゲンカになったり、遊女おかる役の馬喰が転んで金玉を強打、悶絶したりと、さまざまなくすぐりを織り交ぜていますが、現行の落語の筋とは違っており、一九の趣向をヒントに、落語家が自由に、いろいろなくすぐりを創作してできたものでしょう。

この『田舎草紙』でちょっとおもしろいのは、村芝居を演じたり見物する百姓たちが、落語の中で揶揄されているのと異なり、決して本場の歌舞伎に無知ではなく、ある者は「去年江戸で見てきた」と言っているように、特に「忠臣蔵」の筋や登場人物くらいはほとんどの者がよく知っていることでしょう。

「近頃はいづくのうらでも、素人芝居はやりて、田舎も、まち場には、損料にて芝居の衣装、貸す所あり」と記されていて、江戸も末期になると、封建社会の農村にも、すでに「文化の波」が押し寄せてきていたことがわかります。

仮名手本

人形浄瑠璃としては寛延元年(1748)8月大坂竹本座、歌舞伎は同年12月大坂嵐座初演。竹田出雲(?-1747、浄瑠璃作者、元祖出雲、千前軒奚疑)ほか三人の合作です。

「黄色い頭の天神さま」は大序「鶴岡八幡宮境内・兜改めの場」で、足利直義公が黄色の立烏帽子を被っているのを言ったもの。

「青いお天神」は同じく桃井若狭助が青の長烏帽子、敵役の高師直が黒の長烏帽子を着用していることを指します。

「だまらっしゃい」は、反乱を起こし戦死した新田義貞の兜を八幡宮に奉納するという時、師直が文句を付けるのを若狭助がいさめたのに対し、師直が「だまれ若狭。出頭第一の師直に向かい、卒爾とはなにが卒爾。

義貞討死のみぎりは大わらわ。死骸のそばにうち散りし、兜の数が四十七。

どれがどうとも見知らぬ兜。

奉納をしたその後で、そうでなければ大きな恥。

生若輩のなりをして、お尋ねもなき評議。ええ、引っ込んでおいやれェ」と罵倒するセリフです。

さまざまなやり方

明治期、芝居噺を得意とした六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)の速記では、忠臣蔵の大序から五段目「山崎街道」までを通しで、その段ごとに村人の失敗を描く長講でした。

文治は上下に分けていて、現行は上の部分です。

オチは、江戸の役者(この噺では福寿)がコブだらけになる演出があり、その場合は「さすがは江戸の役者。師直と福助の早替わりだ」と落とします。

これは、顔が腫れてフクスケ人形そっくりになることと、江戸で有名な役者の中村福助を掛けたものです。

現在はわかりにくく、先の大戦後では、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、→彦六)が手がけたほか、演じ手がありません。

四代目円喬は「四段目」「五段目」を中心にして「五段目」の題で演じ、この型が「五段目」として、現在になんとか伝わっています。

同じ円喬が「素人芝居」と題した別の速記では、「五段目」の部分と「蛙茶番」を続けて演じるなど、長い噺なので、切り取り方に演者の工夫がありました。

【語の読みと注】
下谷北稲荷町 したやきたいなりちょう
庄屋杢左衛門 しょうやもくざえもん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ
敵役 かたきやく
斧九太夫 おのくだゆう
馬喰 ばくろう
損料 そんりょう
桃井若狭助 ももいわかさのすけ
長烏帽子 ながえぼし
高師直 こうのものなお
卒爾 そつじ
揶揄 やゆ

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ごうじょうきゅう【強情灸】落語演目



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【どんな?】

筋よりも表情や仕方(しぐさ)が命。
演技力が問われるなかなかの噺です。

 

別題:やいと丁稚(上方)

【あらすじ】

ある男が友達に、灸をすえに行った時の自慢話をしている。

大勢の先客が、さぞ熱いだろうと尻込みする中で、自分の番がきたので、すーッと入っていくと、
「この人ァ、がまんできますかな」
「まあ、無理でしょう」
と、ひそひそ話。

癪にさわった強情者、
「たかが灸じゃねえか、ベラボウめ、背中で焚き火をするわけじゃああるめえ」
と、先生が止めるも聞かばこそ、一つでも熱くて飛び上がるものを、両側で三十二もいっぺんに火をつけさせて、びくともしなかったと得意顔。

それだけならいいが、順番を譲ってくれたちょっといい女がニッコリ笑って、心で「まあ……この人はなんて男らしい……こんな人をわが夫に」なんて思っているに違いないなどと、自慢話が色気づいてくるものだから、聞いているほうは、さあ面目ない。

「やい、豆粒みてえな灸をすえやがって、熱いの熱くねえのって、笑わせるんじゃねえや。てめえ一人が灸をすえるんじゃねえ。オレの灸のすえ方をよっく見ろっ」

よせばいいのに、左腕にモグサをてんこ盛り。

「なんでえ、こんな灸なんぞ……石川五右衛門てえ人は、油の煮えたぎってる釜ん中へ飛び込んで、辞世を詠んでらあ。八百屋お七ィ見ろい。火あぶりだ。なんだってんだ……これっぽっちの灸……トホホホホ、八百屋お七……火あぶりィ……石川五右衛門……お七……五右衛門……お七……五右衛門……」
「石川五右衛門がどうした」
「ウーン、五右衛門も、熱かったろう」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

「やいと丁稚」と「強情灸」

江戸っ子の熱湯好きと強情のカリカチュアなので純粋な江戸落語という印象がもたれますが、実は、上方落語「やいと丁稚」が東京に移植されたものです。

両者を比べると、かなりのニュアンスの相違、東西の気質の違いが明白です。

「やいと丁稚」は、商家の主人が丁稚にやいと(灸)をすえ、泣き叫ぶので自分ですえてみせますが、あまりに熱いので「辛抱でけんかったら、こうやって払い落としたらええのや」とポンポンとはたく仕種でオチになるもので、子供の手前強がってみせるだけで結局がまんもなにもしませんから、強情噺でもなんでもありません。

古い商家の日常の一コマを笑い飛ばしたに過ぎないはなしでしょう。

その点、東京の「強情灸」のほうは、かなりの落語的誇張があるとはいえやせがまんという、いかにも「武士は食わねど…」の町らしい江戸っ子気質が前面に出ていますから、いわば本歌取りでまったく新しい噺を作ったに等しいといえます。

だいいち、プラグマティストの大阪人から見れば、こんなたわいなく子供じみたガマンくらべなど、ただのアホとしか見えないのではないでしょうか。

志ん生、小さんの強情くらべ

五代目古今亭志ん生、ついで五代目柳家小さんの十八番で、どちらを聴いても四、五十年前までは生き残っていた爺さん連、銭湯で水をうめようとするとどなりつけたという下町気質の人々を思い起こさせます。

いずれにしても「見る」要素の強い噺で、だんだん表情が変わり、顔が真っ赤になっていくところが見せ場です。

短いので、マクラ噺として、熱湯に入った男が強情を張り、「あー、ぬるい、トホホホ、あんまりぬるいんで気が遠くなっちゃった」「うん、ぬるくて、足に湯が食いつくね」「ぬるいってのに、あー、なんだ、こっちを向くな。動くんじゃねえっ」(志ん生)という次第になる小咄を入れます。

有痕灸と無痕灸があり、有痕灸の方は皮膚に直接モグサを乗せるので熱く、わざと火傷を作ってその強烈な刺激で、血液中に免疫物質を作り出して治す、というのが一応の能書きです。

無痕灸はずっと穏やかで、皮膚にショウガ、ニンニク、ニラ、杏の種、味噌、塩などを塗り、その上にモグサを乗せるので、痕も残らず苦痛もありません。

当然、この噺の灸は前者の有痕灸で、これは普通の人間で一回に米粒大のを一つ、それを五回程度といいますから一度に三十二すえたときの熱さがどれほどのものか。

やるほうもやるほう、やらせるほうもやらせるほうで、これは焼身自殺に近い、狂騒曲のさまです。

モグサ

ヨモギを乾燥させて精製したもので、伊吹山の麓が本場です。

モグサ売りの口上は、「江州伊吹山のほとり柏原、本家亀屋左京、薬もぐさよろし」というもので、節を付けて売り歩きました。

初代亀屋左京は江戸に出て、吉原のお女郎さんに頼んでこの宣伝歌を広めてもらった、というのが桂米朝師匠の説。

彦六の強情話

強情で「トンガリ」の異名があった、八代目林家正蔵(彦六)は熱湯好きで、弟子を引き連れて湯に行ってもうめさせず、尻込みしていると「てめえたちゃあ、へえらねえと破門だぞ」と脅したという、弟子の林家木久扇演じる「彦六伝」の一節。

志ん生のSP

昭和18年(1943)6月、「がまん灸」と題してテイチクレコードからリリースされました。

志ん生の戦前のレコードはこれが最後で、金原亭馬生時代の昭和10年(1935)2月に発売された「氏子中」以来、14種出されています。



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こうこうとう【孝行糖】落語演目



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【どんな?】

親孝行の与太郎が飴売りに。
長屋総出で応援する社会更生の麗しい一編。

あらすじ

今年二十一になるが、頭の中がうすぼんやりしている与太郎。

親孝行のほうびに、おかみから青緡五貫文あおざしごかんもんをちょうだいした。

大家がこれを機会に、この金を元手にして、なんとか与太郎の身の立つように小商いでも考えてやりたいと、長屋の衆に相談する。

一人が、昔、役者の嵐璃寛あらしりかん中村芝翫なかむらしかんの顔合わせが評判を呼んだのに当て込んで、璃寛糖りかんとう芝翫糖しかんとうという飴を売り出してはやらせた人がいるから、それにならって、与太郎に飴を売らせたらどうか、と提案。

璃寛糖は、頭巾ずきんをかぶりかねと太鼓を前につるして、
「チャンチキチン、スケテンテン」
というのを合い方に、
璃寛糖りかんとうの本来は、うるち小米こごめに寒ざらし、かやァに銀杏ぎんなん肉桂にっき丁子ちょうじ、チャンチキテン、スケテンテン。昔、むかし、唐土もろこしの、二十四孝にじゅうしこうのその中で、ほら老莱子ろうらいしといえる人、親を大事にしようとて、ほら、こしらえあげたる孝行糖、食べてみな、ほらおいしいよ、また売れたったら、うれしいねっ」
と歌って歩いたもの。今回、与太郎は孝行でほうびをもらったのだから、名前も「孝行糖」、文句はそっくり借りることにしよう、というので一同賛成し、それからというもの、総出で与太郎に歌を暗記させた。

ナントカの一つ覚えで、かえって普通の人より早く覚えたので、町内で笛、太鼓、身なりともにそっくりしたくしてやって、与太郎はいよいよ飴売りに出発。

親孝行の徳か、この飴を買って食べさせると子供が孝行になるという噂が広がって大評判。

売れると商売にも張り合いが出るもので、与太郎、雨の日も風の日も休まず、
「スケテンテン、コーコートー」
と流して歩く。

ある日、相変わらず声を張り上げながら、水戸さまの屋敷前を通りかかる。

江戸市中で一番やかましかったのがここの門前で、少しでもぐずぐずしていると、たちまち門番に六尺棒ろくしゃくぼうで「通れ」と追い払われる。

ところがもとより与太郎、そんなことは知らないから、能天気に
「孝行糖の本来は、粳の小米に寒ざらし……」
とやったから、門番、
「妙な奴が来たな。とおれっ」
「むかしむかし、もろこしの、二十四孝のその中で」
「行けっ」
「食べてみな、おいしいよ」
「ご門前じゃによって鳴り物はあいならん」
「チャンチキチン」
「ならんというんだ」
「スケテンテン」
「こらっ」
「テンドコドン」

……叱言を鳴り物の掛け声に使ったから、たちまち六尺棒でめった打ち。

通りかかった人が、
「逃げろ、逃げろ……どうぞお許しを。空ばかでございますが、親孝行な者……これこれ、こっちィこい」
「痛えや、痛えや」
「痛いどころじゃねえ。首斬られてもしょうがねえんだ。……どこをぶたれた」
と聞くと与太郎、頭と尻を押さえて
「ココォと、ココォと」

底本:三代目三遊亭金馬

しりたい

実在した与太郎

孝行糖売りは明治初期、大阪にいたという説があります。

実はそのずっと以前、弘化こうか3年(1846)2月ごろから藍鼠色あいねずいろ霜降しもふりたけのこを描いた半纏はんてんを着て、この噺の与太郎とまったく同じ唄をうたいながら江戸の町を売り歩いていた飴屋がいたことが、『藤岡屋日記ふじおかやにっき』に記されています。

政商だった藤岡屋由蔵よしぞうの見聞記です。まず、当人に間違いありません。

青緡五貫文

唐茄子屋政談」「松山鏡」にも登場しますが、銭五貫文は幕末の相場でおよそ一両一分。四千八百文にあたります。

現在の相場で約10万円。

それを青く染めた麻縄の銭挿し(これが青緡あおざし)に通して、孝行のほうびに町奉行より下されます。「青緡五貫文」といったら、なにか特別のことをしてお奉行さまから授かった特別な人、というイメージがついてまわるのです。

それにしても、賞状や勲章ではなくお金をくれるなんて、江戸幕府はずいぶん即物的な感覚だったのですね。

水戸さまの屋敷前

水戸藩の上屋敷。現在の後楽園遊園地、東京ドーム、小石川後楽園、飯田橋職業安定所を含む文京区後楽一丁目全部を占めました。

このうち、東京ドームの場所には、明治維新後、陸軍砲兵工廠こうしょうが建てられ、昭和12年(1937)、その移転後の跡地に旧後楽園球場が建設されました。

コワーイ門番

藩邸の門番は一般には身分は若党で、最下級の士分です。

水戸藩上屋敷は「日暮らし門」と呼ばれた華麗な正門が有名で、左甚五郎ひだりじんごろう作の竜の彫刻をあしらっていました。正門から江戸川堤まで「水戸さまの百軒長屋」といい、ずらりと中級藩士の住む長屋が続いていました。

門番だけでなく、こうした中・下級藩士による「町人いびり」も、ままあったようです。

これも上方由来

明治初期に作られた上方落語の「新作」といわれますが、作者は未詳。

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が東京に移植。

先の大戦後は三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番として知られ、二代目三遊亭金翁(松本 龍典、1929-2022、四代目金馬→)が継承して得意にしていました。

「本場」の大阪では、現在は演じ手がないようです。



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こいな【小いな】落語演目

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【どんな?】

柳橋の芸者さんが出てきて、ちょっと艶っぽい噺です。

【あらすじ】

幇間の一八が、この間の約束どおり芝居に連れていってくれと、だんなにせがみに来る。

ところがだんな、今日は都合でオレは行けないからと、代わりに、おかみさんに、女中と飯炊きの作蔵をつけて出そうとする。

作蔵、実は、これがだんなと一八の示し合わせた狂言らしいと見抜いているので、仮病を使って、家に残ってようすをうかがう。

二人きりになると、案の定、だんなは作蔵に、
「柳橋の小いなという芸者のところまで使いに行け」
と言いつけた。

かって知ったるだんなの女。

作蔵、にんまりして
「そう来べえと思ってた。行かれねえ」

さらに作蔵は
「おまえさま、あんだんべえ、今日はおかみさま、芝居エにやったなァ、柳橋の小いなァこけえ呼んで、大騒ぎする魂胆だんべえ」
と、すべて見通されては、だんなも二の句が継げない。

一八だけでなく、作蔵も代わりに芝居にやった藤助もグルなのだが、実はだんなは男の意気地で、小いなを三日でも家に入れてやらなければならない義理があるので、今日一日、おかみさんを芝居にやり、口実をこしらえて実家に帰すつもり。

「決して、かみさんを追い出そうというのではないから」
と作蔵を言いくるめ、やっと柳橋に行かせた。

まもなく、小いな始め、柳橋の芸者や幇間連中がワッと押しかけ、たちまちのめや歌えのドンチャン騒ぎ。

そこへ、藤助が血相変えて飛び込んできた。

「おかみさんが芝居で急に加減が悪くなり、これから帰ってくる」とのご注進だったので、さあ大変。

一八は、風を食らって逃げてしまった、という。

膳や盃洗を片づける暇もなく、小いなをどこかに隠そうとウロウロしている間に、玄関で、おかみさんの声。

しかたなく、部屋の中に入れないように、だんな以下、総出で襖をウンショコラショと、押さえる。

玄関に履物が散らばっているので、もうバレていておかみさんは、カンカン。

「きよや、早く襖をお開け」
「中で押さえてます」
「もっと強くおたたき」

女中が思い切りたたいたので、襖の引き手が取れて穴が開いた。

その穴からのぞいて、
「あらまあ、ちょいと。お座敷が大変だこと。おかみさん、ご覧あそばせ」
と言うと、襖の向こうから幇間が、縁日ののぞきカラクリの節で
「やれ、初段は本町二丁目で、伊勢屋の半兵衛さんが、ソラ、おかみさんを芝居にやりまして、後へ小いなさんを呼び入れて、のめや歌えの大陽気、ハッ、お目に止まりますれば、先様(先妻)はお帰り」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

明治の新作

三代目柳家小さんの、明治45年(1912)の速記が残るだけで、現在はすたれた噺です。

新富座

噺の中で、かみさんや女中を芝居見物にやる場面がありますが、その劇場は、新富座となっています。

新富座は、日本最初の西洋式座席、ガス灯による照明を備えた近代的な劇場として、明治8年(1875)に開場。

この噺は、それ以後の作になります。オチは、のぞきからくりの口上、特に先客を追い出す時の文句を取り込んだものですが、現在では事前の説明がいるでしょう。

小さんは、この噺のマクラとして「権助提灯」を短縮して入れています。

のぞきカラクリ

「のぞき眼鏡」ともいいます。代金は二銭で、絵看板のある小さな屋台で営業しました。

眼鏡(直径約10cmのレンズ)をのぞくと、西洋画、風景写真などの様々な画面が次々と変わって現れます。

両側の男女が細い棒をたたきながら、独特の節回しで「解説」を付け、それに合わせて紐を引くと、画面が変わる仕掛けです。

明治5年(1872)夏ごろから、浅草奥山の花屋敷の脇で始まり、神保町、九段坂上など十数か所で興行され、たちまちブームに。

原型は江戸中期にすでにありましたが、維新後の写真の普及とともに、開花新時代の夏の風物詩となりました。

早くも明治10年前後には飽きられ、下火になったようです。

歌舞伎では、河竹黙阿弥が、幕末に書いた極悪医者の狂言「村井長庵巧破傘」の外題を明治になり、「勧善懲悪覗機関」と変えて、時代を当て込みました。

男の意気地

このだんな、まだ小いなを正式に囲ってはいません。あるいは、何か金銭的な理由その他で妾宅を持たせてやれない代わりに、二、三日なりと本宅に入れて、実を見せたというところ。

いかにも明治の男らしい、筋の通し方です。

【語の読みと注】
幇間 たいこもち
内儀さん おかみさん
村井長庵巧破傘 むらいちょうあんたくみのやれがさ
勧善懲悪覗機関 かんぜんちょうあくのぞきからくり

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いじくらべ【意地くらべ】落語演目

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【どんな?】

強情と強情の張り合いの繰り返し。
筋を通すことをはき違えた群像。
ウケも少なく地味で難しい噺。
小三治にかかると珠玉の逸品に。

別題:強情くらべ

【あらすじ】

ある金持ちの地主のところに、金を三十円借りにきた男。

「あんたは今度、鼠の懸賞で当たったそうだから、三十円くらいなんでもないだろう」
などと言うので、地主が怒って断ると、
「今日中に金がそろわないと、あっしの顔が立たないことがあるから、貸してくれるまで四日でも五日でもここを動かない」
と粘る。

「飯を食わさない」
と言っても、
「勝手に仕出しから取って食う」
とあくまで強情。

「警察を呼ぶ」
と言えば、
「もし牢死でもすれば、あなたを取り殺す」
と脅す。

「今日中に要るのなら、四、五日先では間に合わないだろう」
と地主が言っても、
「役に立とうが立つまいが、借りると言いだしたものは借りずにはおかない」
と大変な威勢。

根負けして理由を聞くと、
「一家そろって強情で通り、だんなも強情、おかみさんも強情、若だんなも強情と三強情そろっている家に金を借りにいったところ、無利息無証文で貸してくれた上、おまえさんの都合のいい時にお返しなさいと言ってくれたが、自分は晦日までに返すと心決めましたので、どうしても今日中に返さないと男が立たない」
と、いう。

その三強情一家に勝るとも劣らぬあっぱれな強情ぶりに、地主もほとほと感心し、三十円貸してやると、男は
「必ず次の晦日に返す」
と約束して、さっそく、強情だんなの家に駆け込んだ。

ところがだんな、
「前に、おまえさんの都合のいい時に返せと言ったが、見たところまだ都合もよくなさそうなようすだから、そんな人から金を受け取るわけにはいかねえ」
と突っ返す。

一度受け取らないと言ったら、意地でも受け取らない。

「わざわざ金を借りてきた」
と話すと、
「一度貸さないと言ったものを後になって貸すとは、男の風上にも置けない、借りる奴も借りる奴だ」
と怒って追い出す。

しかたがないので、
「金は不要になったから」
と、もとの家に返しに行くと、今度はこっちのだんなが意地になり、
「晦日まではどうあっても受け取らない」
と、また突っ返される。

男はあっちへ行ったりこっちへ行ったり、右往左往。

またまたまた強情だんなのところに逆戻り。

「金を受け取ってくれるまでは動かない」
と、言うと、
「それはおもしろい。おまえさんも男だ。動かないといったん言ったら、生涯そこに座っていろ」

そこをなんとか頼み込んで、
「それほどに言うならしかたがない」
と、やっと承知してもらったはいいが、
「おまえさんに貸したのは当月一日の朝十時だから、明日の十時になったら受け取る」
と、どこまでも頑固一徹。

男も、こうなればそれまでここを動けない。

「飯でも食わしてやろう、牛肉はどうだ」
と聞くと、
「あっしは食わず嫌いで」
と言うので、
「言い出した以上は牛肉を食わさなければおかない」
と、だんな、せがれに買いにやらせる。

ところが、いつまで待っても帰らないので、ようすを見に表に出ると、せがれが知らない男とにらめっこの最中。

「この人が出会いがしらに、あたしの鼻っ先に突っ立ったんで、あたしもまっすぐ通らないじゃ気が済まないから、この男のどくまでここに立ってるんです」
「えらい、それでこそ、おれの息子だ。しかし、家じゃ腹すかせて待ってるだろう。早く牛肉を買ってきな」
「でも、おとっつぁん、この人がどかなきゃ行かれません」
「心配するな。おれが代わりに立ってる」

底本:初代三遊亭円左

【しりたい】

作者は「鬼」の評論家

岡鬼太郎おかおにたろう(1872-1943、劇作家、評論家)が、明治末期に初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909)のために書き下ろした「新作落語」です。

オチの部分は『笑府』(明代の笑話本)巻六・殊綸部の「性剛」から取っています。

岡は明治中期から先の大戦中まで、歌舞伎・落語の両分野で超辛口の批評で知られる人でした。

こわいものなしだった若き日の六代目尾上菊五郎(寺島幸三、1885-1949)なども、その増長慢の鼻を、何度もいやというほどへし折られたとか。

岡鹿之助(1898-1978、洋画家)は鬼太郎の長男です。

落語でも、若手真打ちはもちろん、老大家ですら、そのしんらつな批評に震え上がったそうです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)も「本当にこわい先生でした」と回想しています。

小さん一門が得意に

今回のあらすじは、おそらく初演の円左のものをテキストにしました。

書き下ろしなので、基本の演出や人物設定は今でもほとんど変わりません。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が磨き上げ、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)がよく継承しました。

先の大戦後は、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が演じました。

文楽の没後は、四代目譲りの五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)が一手専売で演じていました。五代目小さんは、四代目小さんが亡くなると、文楽の門弟にあったので。

小さんの没後は、柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)などがかけました。小三治亡き後も、柳家さん喬はじめ、五代目小さん一門が高座にかけています。

春風亭一之輔は、すじのばかばかしさに拍車をかけて、けた違いにダイナミックな悪強情ぶりを演じています。

江戸っ子の強情

落語にも、意地っぱりのカリカチュアともいえる「強情灸」がありますが。

江戸っ子の場合は特に、その異様なまでの義理がたさと細かいところまで「筋」を立てることにこだわる気質の表れとして、さまざまな小説や戯曲に、強情ぶりが描かれています。

たとえば、明治末の東京・下町の市井を舞台にした永井龍男(1904-90)の『石版東京図会』でこんな話が出てきます。

主人公がほれぬいて、おやじの反対を押し切って婚約した女。のちに、彼女には他の男との間に子供を身ごもったことが判明しました。仲人口を聞いた男に対して、職人肌で頑固一徹の主人公の父親が「女のせいではない、誰のせいでもない。ただせがれが未熟」の一点張りで、その弁明をがんとして受け付けない場面のやりとりなどにその潔癖さがよく表現されています。

鼠の懸賞が当たった

最初に男が言うこの言葉は、現在ではまったく通じないので、省かれることが多くなっています。

落語では「藪入り」にも登場しますが、明治38年(1905)、ペスト予防のため、東京市が1匹3-5銭で鼠を買い上げたことを指します。

明治38年2月現在で122万6900匹が駆除のため買い上げになった、という記録が残っています。

ところがその甲斐もなく、明治40年(1907)には東京市中全域でペストが猛威を振るい、328人が犠牲となりました。

ちなみに、円左のこの噺の速記は、明治41年(1908)6月ごろのものです。

仕出し屋

今もある、料理の出前専門の料亭です。

特に文化文政(1804-30)以後、食生活がぜいたくになり、大規模な料理店が江戸市中に乱立したのにともなって、花見など、行楽用の弁当を請け負う業者が増えたことが仕出し屋の始まりです。

江戸で名高い「八百善やおぜん」は、天保年間(1830-44)には、仕出し専門店になっていました。

小里ん語り、小さんの芸談

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)にとって、この噺は四代目と文楽から継承したものでした。思い入れの深かった噺だったのかもしれません。

では、五代目小さんの芸談を聴いてみましょう。弟子の小里ん師が語ります。

そうそう、「サゲが効かなきゃダメだ」とも師匠は言ってました。親父の「オレが代わりにに立っててやる」が、ちゃんとサガに聞こえなきゃいけない。「軽く運んで、サゲに持ってく噺だから、前は受けなくても、サゲでワッと来たら、噺としては成功してる」という話でした。それを目標にして、演出や、人の出し入れを考えなきゃいけない。つまり、「受けようと思って演るな」ってネタなんです。「受けさせよう」とすると、ウソっぽさがかえって強くなっちゃうから、「こういう人がいましたよ」ってくらいの演出で留めておくべき噺なんですね。

五代目小さん芸語録柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほどね。噺によって、心得が異なるものなんですね。

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ねこのさら【猫の皿】落語演目

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【どんな?】

お目当ては皿か猫か。
柳家小三治師匠が最後にやった演目です。

別題:高麗の茶碗 猫の茶碗

あらすじ

明治の初年。

ある端師はたしが、東京では御維新このかた、あまりいい掘り出し物が見つからなくなったので、
「これはきっと江戸を逃げだした人たちが、田舎に逸品を持ち出したのだろう」
と踏み、地方をずっと回っていた。

中仙道は熊谷在の石原あたりを歩いていた時、茶店があったので休んでいくことにし、おやじとよもやま話になる。

そのおやじ、旧幕時代は根岸あたりに住んでいて、上野の戦争を避けてここまで流れてきたが、せがれは東京で所帯を持っているという。

いろいろ江戸の話などをしているうちに、なんの気なしに土間を見ると、猫が飯を食っている。

猫自体はどうということないが、その皿を見て端師、内心驚いた。

絵高麗の梅鉢の茶碗といって、下値に見積っても三百円、つまり旧幕時代の三百両は下らない代物。

とても猫に飯をあてがうような皿ではない。

「さてはこのおやじ、皿の価値を知らないな」
と見て取った端師、なんとか格安で皿をだまし取ってやろうと考え、急に話題を変え
「時におやじさん、いい猫だねえ。こっちへおいで。ははは、膝の上に乗って居眠りをしだしたよ。おまえのところの猫かい」
「へえ、猫好きですから、五、六匹おります」

そこで端師、
「自分も猫好きでずいぶん飼ったが、どういうものか家に居つかない。あまり小さいうちにもらってくるのはよくないというが、これくらいの猫ならよさそうなので、ぜひこの猫を譲ってほしい」
と持ちかける。

おやじが妙な顔をしたので
「ハハン、これは」
と思って
「ただとは言わない、この三円でどうだい」
と、ここが勝負どころと思って押すと、しぶしぶ承知する。

さすが商売人で、興奮を表に出さずさりげなく
「もう一つお願いがあるんだが、宿屋へ泊まって猫に食わせる茶碗を借りると、宿屋の女が嫌な顔をするから、いっそその皿もいっしょにくれないか」

ところがおやじ、しらっとして、
「それは差し上げられない、皿ならこっちのを」
と汚い欠けた皿を出す。

端師はあわてて
「それでいい」
と言うと
「だんなはご存じないでしょうが、これはあたしの秘蔵の品で、絵高麗の梅鉢の茶碗。上野の戦争の騒ぎで箱はなくしましたが、裸でも三百両は下らない品。三円じゃァ譲れません」
「ふーん。なぜそんなけけっこうなもので猫に飯を食わせるんだい」
「それがだんな、この茶碗で飯を食わせると、ときどき猫が三円で売れますんで」

底本:四代目橘家円喬

しりたい

滝亭鯉丈

原作は、滝亭鯉丈りゅうていりじょう(?-1841)が文政4年(1821)に出版した滑稽本『大山道中膝栗毛』中の一話です。

鯉丈という人は、滑稽本作者、つまり、今でいう流行作家。

滑稽本というのは、『東海道中膝栗毛』に代表される、落語のタネ本のようなユーモア小説、コミック小説です。鯉丈は落語家も兼ねていたといいますから、驚きです。

自分の書いたものを、高座でしゃべっていたかもしれませんね。

原作では猫じゃなくて猿! 

それはともかく、もとの鯉丈の本では、買われるのは猫でなく、実は猿なのです。

汚い猿が、金銀で装飾した、高価な南蛮鎖でつながれていたので、飼い主の婆さんに、「あの猿の顔が、死んだ母親にそっくりだから」 と、わけのわからないことを言って猿ごと鎖をだまし取ろうとするわけです。

改めて、鯉丈について文学辞典ふうに。

滝亭鯉丈、本名は池田八右衛門。

生年は不明ですが、没年は天保12年(1841)6月10日です。

享年(数え年での没年齢)は60余とのこと。小石川の称名寺に葬られています。養家に入った池田家は300石取りの旗本でしたが、鯉丈が入婿した時には禄を失っていたそうです。

下谷広徳寺門前稲荷町で櫛屋を商っていましたが、浅草伝法院前に移り、さらに浅草駒形町河岸通りに引っ越しました。

三田村鳶魚みたむらえんぎょが取材した鯉丈の曽孫の話では、乗物師、または縫箔屋だったとか。

新内節の名手で遊芸にも通じ、寄席芸人だったとのこと。

器用な人だったのですね。これは、鯉丈の著作や弟だという話もある為永春水の著作からうかがえることです。

滑稽本作者としては、最初は十返舎一九や式亭三馬の亜流のようなものをいくつか出していましたが、一九と三馬の作風をまぜこぜにしたような『八笑人』初編-四編追加(文政3-天保5年刊)と『和合人』初-三編(文政6-天保12年刊)で知られるようになりました。

「廃頽期の江戸町人の低俗な遊戯生活を写実的に描いて独自の位置を占め、鯉丈の名が文学史に記録されるのは、この二作によるものである。他には、文政年間の二世南仙笑楚満人(為永春水)の作に合作者として関与したこともあり、人情本に『明烏後正夢あかがらすのちのまさゆめ』初-三編(文政二-五年刊)、『霊験浮名滝水』(同九年刊)があるが、いうに足りない」

これは『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1985年)での神保五弥じんぼかずや(1923-2009、早大、江戸文学)の言。

手厳しいですが、文学史的にはそんなところなのでしょう。

端師

はたし。「果師」とも「端師」とも書き、はした金で古道具を買いたたくところからついた名称であるようです。

「高く売り果てる(売りつくす)」意味の「果師」だともいいますが、「因果な商売」の「果」かもしれません。

いつも掘り出し物を求めて、旅から旅なので、三度笠をかぶり、腰に矢立やたて(携帯用の筆入れ)を差しているのが典型的なスタイルでした。

この男がだまし取りそこなう「高麗の梅鉢」は、「絵高麗」といって、白地に鉄分質の釉薬うわぐすりで黒く絵や模様を描いた朝鮮渡来の焼き物。

梅の花が図案化されています。たいへんに高価な代物です。

演者

明治の円喬も含め、五代目古今亭志ん生以前には、この噺の演題は「猫の茶碗」が一般的でした。

絵高麗は皿なので、志ん生が命名した「猫の皿」が妥当といえるでしょう。

明治44年(1911)の円喬の速記では、時代を明治維新直後、爺さんは江戸近郊・根岸の人で、上野の戦争の難を避けて、皿を持って疎開したと説明されます。

一方、志ん生は、江戸末期、武士が困窮のあまり、先祖伝来の古美術品を売り払ったのでこうした品が地方に流れたという時代背景を踏まえ、幕末のできごとにしています。

なかなかおもしろい見方です。

志ん生がただのいきあたりばったりでなく、相当な勉強家でもあったこともよくわかります。

最近のでいちばんのおすすめは、柳家小三治でした。

この方に尽きました。

あのすっとぼけたかんじがね、なんともね、よかったのでした。ザンネン。

【蛇足】

ここに登場する「はたし」は、果師、端師、他師などと書き習わされる。

骨董の仲買商だ。この噺のように、高価なものを安い値段で買い取って高く売りつけるのが商売。ささやかな欺きやだましはお手の物なのに、ここでは茶屋のおやじにしてやられる。そこが落語らしい。

かつては、五代目古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬がよくやったようだ。音源で知るだけのことであるが。とりわけ志ん生は骨董好きのためか、マクラをたっぷり振って毎度のおかしさだった。音源を聴くと明快だ。今ではだれもがよくやる。この噺は短いので、マクラをたっぷり振らないともたないのが難点。

オチでしか笑わせられないので、マクラでさんざん笑わせておくしかない。表現力の乏しい噺家には意外に難しいかもしれない。

もとは「猫の茶碗」という題だったのが、志ん生が「猫の皿」でやってから、今ではこの題が一般的になってしまった。

志ん生の型は、彼自身が尊敬してやまなかった四代目橘家円喬による。円喬は、明治期の中仙道熊谷在の石原に設定。茶屋のおやじは、明治元年(1868)5月15日に起こった彰義隊の戦いで江戸から逃げてきたことになっている。そのため、おやじが果師から東京の近ごろのようすを聞き出すくだりがある。

「あの、御見附なんぞなくなりましたそうですな」
「ああ、内曲輪うちくるわだけは残っているが、外曲輪はたいがい枡形ますがたもこわしてしまって、元の形はなくなった」
「へえ、浅草のほうはどうなりました」
「あの見附はいちばん早くなくなって、吾妻橋でもお厩橋うまやばし、両国橋、みんな鉄の橋に架けかわって立派なものだ」
「へえ、観音さまはやはりあすこにありますか」
「あんな大きな御堂はどこへも引っ越しはできない。まあひとつお茶をくんな」

会話に出てくる三つの橋は隅田川に架かっているが、鉄橋化した年は以下の通り。

吾妻橋  明治20年(1887) 
厩橋   明治26年(1893) 
両国橋  明治37年(1904) 

だからこの噺は、明治37年(1904)以降の話題なのだろう。

さきほど引用した円喬の「猫の茶碗」の速記は明治44年(1911)のもの。彰義隊の顛末が人々の記憶から消え去らずにいたころの話のようである。とはいえ、この噺の原話は意外に古い。文化年間(1804-17)刊行の滝亭鯉丈『大山道中膝栗毛』に「猿と南蛮鎖」として出てくる。

茶屋で南蛮鎖にゆわえられた猿。男は高価な南蛮鎖が欲しくて、
「猿の顔が死んだおふくろに生き写し。どうか売ってください」
と茶屋のばあさんに掛け合う。
ばあさん、
「この鎖をつけると、むしょうに猿が売れます」
と鎖を綱に取り替えて、にっこり。

こっちもおかしい。

古木優

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ゆめきん【夢金】落語演目

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【どんな?】

ある雪の晩。大川の船宿。
駆け込んできた素浪人は女連れ。
舟を出せと。船頭は金欲の熊だけ。
こいつとやさぐれ侍との鬼気迫るシークエンス。
どうなる。どうする。

別題:錦嚢 欲の熊蔵

あらすじ

山谷堀さんやぼりの吉田屋という船宿ふなやど

そこの船頭せんどう、熊五郎は、このところ毎晩のように超現実的な寝言をうなっている。

「金が欲しいな。二十両欲しい。だれかくれぇ」

ある夜、いつものように熊の
「金くれえ」
が始まったころ合いに、門口で大声で案内を乞う者がある。

亭主が出てみると、年のころは三十ばかり、赤羽二重あかはぶたえ黒紋くろもん羽織はおり献上博多けんじょうはかたの帯のぼろぼろになったのを着た侍が、お召し縮緬ちりめんの小袖に蝦夷錦えぞにしきの帯を締め、小紋こもんの羽織、文金高島田ぶんきんたかしまだしとやかにお高祖頭巾こそずきんをかぶった十六、七の娘を連れて、雪の中を素足で立っている。

話を聞くと、今日妹を連れて芝居見物に行ったが、遅くなり、この雪の中を難渋しているので、大橋おおはしまで屋根舟を一艘いっそう仕立ててもらいたいという。

今、船頭は相変わらず
「二十両くれえ」
とやっている熊五郎しかいない。

「大変に欲張りなやつですから、酒手さかて(チップ)の無心でもするとお気の毒ですので」
と断っても
「かまわない」
と言うので、急いで熊を起こして支度をさせる。

舟はまもなく大川の中へ。

酒手の約束につられてしぶしぶ起き出した熊五郎、出がけにグイっとあおってきたものの、雪の中。寒さにブルブル震えながら漕いでいる。

娘の顔をちらちら見て
「こいつら兄妹じゃねえな」
と踏んだが、まあなんにしろ
「早くゼニをくれればいい、酒手をくれ、早く一分くれ」
と独り言を言っていると、侍が舟の障子をガラリと開け
「おい、船頭。ちょっともやえ(止めろ)。きさまに話がある」

女は寝入っている。

「この娘は実は妹ではなく、今日、吉原土手よしわらどてのところで犬に取り巻かれて難儀していたのを助けてやったもの。介抱しながら懐に手を入れると、大枚二百両を持っていたから、これからこの女をさんざんなぐさんだ上、金をとってぶち殺すので手伝え」
という。

熊が仰天して断ると、侍は
「大事を明かした上は命はもらう」
とすごむ。

「それじゃあ、いくらおくんなさいます」
「さすがは欲深いその方。震えながらも値を決めるのは感心だ。二両でどうだ」
「冗談言っちゃいけねえ。二両ばかりの目くされ金で、大事な首がかけられるけえ。山分け、百両でどうでやす。イヤなら舟を引っくり返してやる」

とにかく話がまとまった。

舟中でやるのは証拠が残るからと言って中洲なかすまで漕ぎつけ、侍が先に上がったところをいっぱいにさおを突っ張り、舟を出す。

「ざまあみろ。土左衛門どざえもんになりゃあがれ」

これから娘を親元である本町ほんちょう三丁目の糸屋林蔵に届け、二十両の礼金をせしめる。

思わず金を握りしめた瞬間
「あちいッ」

夢から覚めると熊、おのれの熱いキンを握っていた。

しりたい

六代目円生の芸談

先の大戦後、稠密ちょうみつな人物描写の妙で、この噺には定評のあった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、「これは初めから終わりまで夢……まことにたあいのない噺ですが、出てくる人物の表現、言葉のやりとり、そういったものを形から何からととのえてやれば面白く聞けるというのが、むずかしいところでもあるわけです。(中略)とりわけこの『夢金』なぞは、まずくやったら聞いちゃいられないという噺でございます」と語り残しています。

「芝浜」などと同じく、最後まで夢であると客に悟らせず、緊密な構成と描写力で噺を運ぶ力量が必要とされる、大真打の出し物でしょう。

我欲の浅ましさ

古くは別題を「欲の熊蔵」ともいいました。その通り、熊に代表される人間の金銭欲のすさまじさ、浅ましさが中心になります。

ただ、その場合も落語のよいところで、その欲望を誰もが持っている業として、苦笑とともに認めることで、この熊五郎も実に愛すべき、今でもどこにでもいそうな人間に思えてきます。

円生は、金銭欲の深さを説明するのに、マクラで「百万円やるからおまえさんをぶち殺させろ」と持ちかけられた男が、「半分の五十万円でいいから、半殺しにしてくれ」という小ばなしを振っています。

オチの改訂

昔からそのものずばり、夢うつつで金玉を握り、その痛さで目覚めるというのが本当で、これでこそ「カネ」と「キン」の洒落でオチが成立するのです。

やはり下品だというので、そのあたりをぼやかす演者も少なくありません。

たとえば、「錦嚢」と題した明治23年(1890)の二代目古今亭今輔の速記では、熱いと思ったらきんたま火鉢(火鉢を股間に挟んで温まる)をして寝ていた、と苦肉の改訂をしていますし、七代目立川談志は、金玉の部分をまったくカットして、「静にしろッ、熊公ッ」と初めの寝言の場面に戻り、親方にどなられて目覚める幕切れにしていました。

明治の珍演出

『落語鑑賞』(安藤鶴夫、苦楽社、1949年)には「小さん・聞書」と題された四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)の芸談が収められています。これによると、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924)は、「夢金」を演ずるとき、始めから終わりまで、人物のセリフも地の語りもすべて、人気役者や故人の落語家、講釈師の声色(声帯模写)で通したということです。

これは「夢金」だけに限られたといいますから、それだけこの噺は、芝居がかったセリフが目立つということなのでしょう。

お召し縮緬と蝦夷錦

お召し縮緬は、横に強い撚りをかけた糸を織り込み、織ったあと、ぬるま湯に入れてしぼり立てた絹織物です。しま、無地、紋、錦紗きんしゃなどの種類があります。

「お召し」とは貴人が着用したことから付いた名称です。

蝦夷錦えぞにしきは、繻子地しゅすじに金糸、銀糸と染め糸で雲竜の紋を織り出した錦。

清国でつくられたものが、満洲(中国東北部)→樺太→蝦夷(北海道)経由で入ってきたため、この名があります。

清朝の役人がアイヌと交易していたのです。

このような密交易は清朝では禁じられていました。

密輸ですね。

アイヌの族長が蝦夷錦を羽織って得意顔の絵の数々は、蠣崎波響かきざきはきょうの作品群の中でも特徴的です。

夷酋列像「チョウサマ(超殺麻)ウラヤスベツ乙名」蠣崎波響・筆

文金高島田

日本髪で、島田髷しまだまげの根を高く上げ、油で固めて結ったものです。高尚、優美な髪型で、江戸時代には御殿女中、明治維新後は花嫁の正装となりました。

これに似せた「文金風」は男の髪型で、髷の根を上げて前に出し、月代さかやきに向かって急傾斜させた形です。

お高祖頭巾

おこそずきん。四角な切地に紐を付けた頭巾で、頭、面、耳を隠し、目だけを出します。

婦人の防寒用で、袖頭巾ともいいます。時代劇で、ワケありの女がお忍びで夜出歩くときに、よく紫地のものをかぶっていますね。

お高祖とは日蓮をさします。

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ひっこしのゆめ【引っ越しの夢】落語演目

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【どんな?】

店の女が落ち着かない商家。
そこで性悪女を雇ってみた。
それがもう、すごい効果を発揮。

別題:初夢 口入れ屋(上方)

【あらすじ】

たいへんに堅物の商家の主人。

奉公人に女のことで間違いがあってはならぬと、日が落ちると猫の子一匹外には出さない、湯にも行かせない、という徹底ぶり。

おかげで吉原にも行けず、欲求不満の若い手代や小僧が、店の女に夜な夜ないたずらを仕掛けるので、とうとう女の奉公人が居つかなくなってしまった。

困った果てに一計を案じただんな、口入れ屋にとびきり不器量な女だけを斡旋するように頼んだが、これも効き目なし。

しかたなく、今度は悪さをする連中を痛い目にあわそうと、特別性悪な女を、という注文。

そこで雇われてきたのがお梅という、二十五、六のいい女。

これが注文通り、たいていの男を手玉に取るという相当なシロモノ。

そうとは知らない店の連中、一目見たきりぼうっとなり、なんとか一番にお梅をモノにしようと、それぞれ悪だくみをめぐらす。

一番手は番頭の清兵衛。五十を越して独り身だが、まだ色気は十分。

飯を食いに行くふりをしてお梅のそばに寄り、ネチネチとかき口説く。

先刻承知、海千山千のお梅がしなだれかかり、股のところをツネツネするものだから、たちまちデレデレになり、「予約金」を一包み置いて、今夜の密会を約束して帰っていく。

続いては、手代の平助。

遊び慣れたふりをするが、お梅にかかっては赤子も同然。

清兵衛と同様、金を巻き上げられ、約束の時刻はまったく同じ。

以下、来る者来る者みんなオモチャにされ、金を包んで置いていく。

初日の夜も二日目の夜も、男という男は全員、すきあらばと一晩中寝ないものだから、誰一人首尾を果たせない。

昼間はそろいもそろって寝不足で、あちこちでいびきが聞こえる始末。

三日目の深夜、むっくりと起き上がったのは清兵衛で、抜き足差し足で台所まで来る。

お梅もわるもので、台所から自分の部屋へのはしごを外しておいたのも、知らぬが仏。

清兵衛はキョロキョロ探したあげく、釣ってある鼠入らずの棚に手を掛けて登ろうとしたから、たちまちガラガラッと棚が崩れ、鼠入らずを担いだまま、逃げるに逃げられなくなった。

続いてやって来たのが平助で、やっぱり同様に、清兵衛が担いでいるもう一方に手を掛けたから、二人とも泣くに泣かれぬ鉢合わせ。

もがく声を聞きつけた小僧がだんなにご注進したので「それッ、泥棒が入った」と、大騒ぎに。

だんなが駆けつけると、清兵衛と平助が、二人で鼠入らずを担いで目を開いたままグーグー。

「二人ともどうしたっていうんだ」
「へい、引っ越しの夢を見ました」

【しりたい】

「膝栗毛」からも拝借  【RIZAP COOK】

もっとも古い原話は、寛永5年(1628)成立の安楽庵策伝著「醒睡笑」巻七「廃忘」その四で、男色がテーマです。

美少年の若衆が、ある寺へ寺小姓奉公に。そこの坊主が少年に夢中になり、夜中、寝入ったところに夜這いをかけようと、そっと起き出すが、同じ獲物を狙っていた何人かが跡を付ける。足音に動転した坊主、壁に大手を広げ、へばりついたので、若衆が目を覚ます。問いただされて、「はい、蜘蛛のまねをして遊んでます」。

その後、寛政元年(1789)刊の笑話本『御祓川』中の「壬生の開帳」で、かなり現行に近づきますが、文化3年(1806)刊『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)五編・上からも趣向をいただいているようです。

これは、夜這いに忍び出た弥次郎兵衛が、落ちてきた棚を担いでしまい、やってきた喜多八にこれをうまく押し付けて逃げてしまう話です。

上方では「口入れ屋」で  【RIZAP COOK】

上方では、古くから「口入れ屋」として口演されてきました。

いつごろ伝えられたか、江戸でも少し違った型で、幕末には高座に掛けられていたようです。

明治以後、東京でも、上方の型をそのまま踏襲する演者と、古い東京(江戸)風の演出をとる者とに分かれました。

前者は、東京では三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が初演。この人は上方から流れてきた芸人らしく「口入れ屋」の演題を用いました。四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)もこちらで演じました。

後者は「初夢」、または「引越しの夢」と題したもので、明治27年(1894)3月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

東西で異なる型  【RIZAP COOK】

東西で、商家の奉公人が新入りの女中のところに夜ばいに行くという筋立ては変わりませんが、大ざっぱな違いは、上方ではこの前に、船場の布屋という古着屋に、口入れ屋(=桂庵)から女中が送り込まれる場面が発端としてつくことです。

女が毒婦という設定はなく、御寮人さんが、若い男の奉公人ばかりの商家に、美人の女中は風紀に悪いと、不細工なのばかり雇うのに、好色・強欲な一番番頭がカリカリ。

丁稚に十銭やっていい女を連れてこさせ、その後口八丁手八丁で口説く場面がつくことも特徴です。

狂言まわしの丁稚のませ振り、三番番頭が「湯屋番」の若だんなよろしく、女中との逢瀬を夢想して一人芝居するなど、いかにも大阪らしい、濃厚であざとい演出です。

上方の演題の「口入れ屋」は、東京の桂庵、今でいう職業紹介所のことです。

詳しくは「化け物つかい」「百川」もお読みください。

六代目円生の極めつけ  【RIZAP COOK】

先の大戦後、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、五明楼国輔(池田文次郎、1854-1923)から直伝された東京型でねっとりと演じました。「円生百席」に吹き込んだものは、極めつけの熱演です。

円生没後は、弟子の五代目円楽(吉河寛海、1932-2009)や六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)などに継承されました。その後も、よく高座に掛けられています。

鼠入らず  【RIZAP COOK】

もう説明がなければわらない時代になりました。

要するに、ネズミが入らないように細工した食器棚のこと。

吊り調度です。

吊り調度とは、底板を畳や板敷に置かずに天井から壁に寄って吊り下げた家具です。狭い長屋では便利な発想でした。

これは茶室のしつらえから起こった工法ですから、庶民ばかりか富裕な家でも使われていました。

おおざっぱには、室内空間の上の方には食器などを吊り調度で置き、下の方(床上)には瓶や桶を置くという発想が、江戸期では当たり前でした。

上方噺では、一番番頭と二番番頭が、「薪山」と称した、奉公人の箱膳を積んでおく膳棚を担ぐハメになります。かなり大きな戸棚です。

箱膳は、かぶせ蓋の質素な塗りの四角形の箱。中には食器を入れて、食事の時には蓋を裏にして載せ、食事が終わるとめいめいが食器を洗って、蓋をして膳棚に収納する、というものです。

たいした違いではありませんが、東西の風土の違いが微妙に現れていますね。

二代目桂枝雀(前田達、1939-99)のでは、その後三番番頭が、今度は台所の井戸の淵からターザンよろしく、天窓の紐にぶら下がって二階に着地しようとして失敗。

あえなく井戸にボッチャーン……というハチャメチャ騒動になります。

番頭の好色  【RIZAP COOK】

商家への奉公は、男性なら、早ければ数え年七歳ごろから小僧(上方では丁稚)で入り、十五歳前後で元服して手代となり、番頭に進みます。ここまでは住み込みです。

番頭で実績を重ねると主人から近所に家を借りて所帯を持つことも許されます。

これを通い番頭と言いましたが、この頃にはもう白髪交じりの中年になっているのが通り相場です。

歌舞伎ではよく番頭は好色家に描かれたりしていますが、女に縁薄い生活のためです。なかには、かわいい小僧との衆道に陥る者もいたりして、悩み多き職業でした。詳しくは「藪入り」をお読みください。

大坂以上に江戸の男女差は激しかった(軍事都市の江戸は女性が圧倒的に少なかった)ため、商家の住み込みの女日照りは小さな問題ではなかったようです。

【語の読みと注】

桂庵 けいあん:職業紹介所

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さんまいぎしょう【三枚起請】落語演目

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どんな?

性悪女にひっかかるのも、お得な人生かもしれませんね。

あらすじ

町内の半公が吉原のお女郎に入れ揚げた町内の半公。

家に帰らず、父親に頼まれた棟梁が呼んで意見をするが、当人、のぼせていて聞く耳を持たない。

かえってノロケを言いだす始末。あんな実のある女はいない、年季が明けたらきっとおまえさんといっしょになる、神に誓って心変わりしないという起請文も取ってあるという。

棟梁が見てみると「小照こと本名すみ……」

どこかで聞いたような名。

それもそのはず、棟梁も同じ女からの同じ起請文を一枚持っているのだ。

品川から吉原に住み替えてきた女だった。

江戸中探したら何千枚あるか知れやしねえとあきれているところへ、今度は三河屋の若だんながやってきて、またまた同じノロケを言いだした。

「セツに吉原の女がオカボレでげして、来年の三月に年季が明けたら、アナタのお側へ行って、朝暮夜具の揚げ下ろしをしたいなぞと……契約書まであるんでゲス」とくる。

「若だんな、そりゃひょっとして、吉原江戸町二丁目、小照こと本名すみ……」
「おや、よくご存じで」

これでエースが三枚、いやババか。

半公と若だんなはカンカンになり、これから乗り込んで化けの皮をひんむいてやると息巻くが、棟梁がそこは年の功、正面から強談判しても相手は女郎、開き直られればこっちが野暮天にされるのがオチ、それよりも……と作戦を授け、その夜三人そろって吉原へ。

小照を茶屋の二階へ呼びつけると、二人を押し入れに隠し、まず棟梁がすご味をきかせる。

起請てえのは、別の人間に二本も三本もやっていいものか、それを聞きに来たと言うと、女もさるもの、白ばっくれる。

「それじゃ、三河屋の富さんにやった覚えはねえか」
「なんだい、あんな男か女かわからない、水瓶に落ちた飯粒みたいなやつ」
「おい、水瓶に落ちたおマンマ粒、出といで」

これで一人登場。

「唐物屋の半公にもやったろう」
「知らないよ。あんな餓鬼みたいな小僧」
「餓鬼みたいな小僧、こちらにご出張願います」

こうなっては申し開きできないと観念して、小照が居直る。

「ふん、おまえたち、大の男が三人も寄って、一人の女にかかろうってのかい。何を言いやがる。はばかりながら、女郎は客をだますのが商売さ。だまされるテメエたちの方が大馬鹿なんだよ」
「このアマぁ、嘘の起請で、熊野の烏が三羽死ぬんだ。バチ当たりめ」
「へん、あたしゃ、世界中の烏をみんな殺してやりたいよ」
「こいつめ、烏を殺してどうしようってんだ」
「朝寝がしたいのさ」

しりたい

起請文

年季ねんが明けたら夫婦になる」は女郎のくどき文句ですが、その旨の誓いを、紀伊国・熊野三所権現発行の牛王ごおうの宝印に書き付け、男に贈ります。

宝印は、熊野権現のお使いの烏七十五羽をかたどった文字で呪文が記してあります。これを熊野の護符といい、それをのみ込むやり方もありました。

その場合、嘘をつくと熊野の烏(暗に当人)が血を吐いて死ぬといわれていました。

「三千世界の……」

オチの言葉は、倒幕の志士・高杉晋作が、品川遊郭の土蔵相模どぞうさがみ(「居残り佐平次」)で酒席で酔狂に作ったというざれ唄「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」から直接採られています。

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)で、佐平次(フランキー堺)がごきげんでこの唄をうなっていると、隣で連れションをしていた高杉晋作(石原裕次郎)ご本人。

「おい、それを唄うな。……さすがにてれる」

                   日本の至宝『幕末太陽傳』☞

お女郎の年季

吉原にかぎり、建前として十年で、二十七歳を過ぎると「現役引退」し、教育係の「やり手」になるか、品川などの岡場所に「住み替え」させられました。

「住み替え」とは、芸者、遊女、奉公人などが主家を替えることをいいます。

明治5年(1872)の「娼妓解放令」で、表向きは自由廃業が認められ、この年季も廃止されましたが、実際はほとんどのお女郎が借金のため引き続き身を売らざるを得ず、実態は何も変わりませんでした。

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しながわしんじゅう【品川心中】落語演目

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【どんな?】

品川宿のお染も寄る年波には勝てず。
いっそ、客の誰かと心中しちまえ、と。
落語中の最高傑作。長いので「上」と「下」に。
たっぷりどうぞ。

あらすじ

【上】

品川の白木屋という見世でずっと板頭を張ってきたお染。

寄る年波には勝てず、板頭とは名ばかり。

次第に客も減り、目前に迫る紋日のために必要な四十両を用立ててくれそうな、だんなもいない。

勝ち気な女だけに、恥をかくくらいならいっそ死んでしまおうと決心したが、一人より二人の方が、心中と浮き名が立ち、死に花が咲くから、適当な道連れはいないかと、なじみ帳を調べると、目に止まったのが、神田の貸本屋の金蔵。

独り者だし、ばかで大食らいで、助平で、欲張り。

あんな奴ァ殺した方が世のためと、
「これにきーめた」

金蔵、勝手に決められちまった。

お染は、さっそく金蔵あてに、
「身の上の相談事があるから、ぜひぜひ来てほしい」
という手紙がいく。

お染に岡惚れしている金蔵は、手紙を押しいただくと、喜んで品川にすっ飛んでくる。

ところが、当のお染が廻しに出たままなかなか帰らず、金蔵がふてくされて寝たふりをしている。

いつの間にか戻ってきたお染、なんと自分の遺書をしたためているので、金蔵は仰天。

家にあるもの一切合切たたき売っても、金蔵にこしらえられる金はせいぜい一両がいいとこ。

どうにもならないというので、つねづね年季が明けたら夫婦になると言っている手前、つい、
「いっしょに死んでやる」
と言ってしまった。

お染はしてやったりと大喜びで、さっそく明日の晩決行と決まる。

この世の名残と、その晩、お染がはりきってご奉仕したため、金蔵はもうフラフラ。

帰ると、二人分の死装束の白無垢と安い脇差を買う。

世話になっている出入りの親分の家に、この世のいとま乞い。

まさか
「心中します」
とは言えないから、
「西の方に出かけて帰ってくるのは盆の十三日」
とか、わけのわからないことを言って、まぬけなことに肝心の脇差を忘れていってしまう。

その晩は、「勘定は六道の辻まで取りにこい」とばかり、金蔵のみ放題の食い放題。

あげくの果ては、酔いつぶれて寝込んでしまった。

そのばか面の寝顔を見て、お染はこんな野郎と冥土の道行きをしなければならないかと思うとつくづく情けなくなるが、選んだ以上どうしようもない。

たたき起こして、用意のカミソリで片を付けようとするが、気の小さい金蔵、いざとなるとブルブル震えてどうにもならない。

「じゃ、おまえさん、いっしょに死ぬというのはウソだったんだね、そんな不実な人なら、あたしは死んだ後、七日たたないうちに取り殺してやる」
と脅し、引きづるように品川の浜へ。

「おまえばかりを殺しゃあしない、南無阿弥陀仏」
と金蔵を突き落として、続いてお染も飛び込もうとすると、気配に気づいた若い者が抱き留める。

「待った。お染さん、悪い料簡を起こしちゃいけねえ。たった今、山の御前が五十両届けてくれなすって、おまえさんの喜ぶ顔が見たいとお待ちかねだ」
「あーら……でももう遅いよ。金さんが先に……」
「金さん? 貸本屋の金蔵ですかい? あんなもんなら、ようがす」

金が整ったと知ると、お染は死ぬのがばかばかしくなり、浜に向かって
「ねえ金ちゃん、こういうわけで、あたしゃ少し死ぬのを見合わせるわ。人間一度は死ぬから、いずれあの世でお目にかかりますから。それでは長々失礼」

失礼な奴もあるもの。

金蔵、飛び込んだところが遠浅だったため助かったが、おかげで若い衆とお染の話を海の中で聞き、さあ怒るまいことか。

「こんちくしょう、あのあまァ、どうするか見てやがれ」

やっとの思いで浜に上がったが、髪はザンバラ、何かで切ったのか、顔面は血と泥がこびりつき、着物はぐっしょり。

まさに亡者のような姿で、ふらふらになって親分の家へ。

ちょうどその時、親分宅ではガラッポンと勝負事の真っ最中。

戸口でガタリと音がしたので、「すわ、手入れだ」と大あわて。

糠味噌の中に突っ込んだ手でなすの漬け物をあわててつかみ、自分の金玉がもげたと勘違いする奴も出て、さんざん。

ところが、金蔵とわかって、一同ひと安心。

その中で一人だけ、泰然と座っている者がいる。

「なんだ、みんな、だらしがねえ。……伝兵衛さんを見ろ。さすがにお侍さんだ。びくともしねえで座っておいでた」
「いや、面目ない。とっくに腰が抜けております」

【下】

金蔵から、心中のし損ないでお染が裏切った一件を聞いた親分、
「ひどい女だ」
と同情し、
「そいつはひとつ仕返しをしてやる」
と請け合い、
「まだお染はてめえが死んだと思い込んでいるから、怪談仕立てでだましてやろう」
と計画を練る。

まず、金蔵が大引け前に、白木屋に引き返す。

現れた金蔵に、お染は幽霊かと思ってびっくりする。

金蔵は
「十万億土の原っぱのような所まで行ったが、お地蔵さまに帰れと言われて引き返してきた」
と打ち合わせ通り陰気な声で言い、線香を焚いて白団子と水をくれと縁起の悪いことを並べ、
「気分が悪いから寝かせてくれ」
と奥の間に引きこもってしまう。

そこへ現れたのが親分と、金蔵の弟に化け込んだ子分の民公。

お染に会って
「実は金公が土左衛門で上がったが、おめえが金公と年季が明けたら、いっしょになると言って交わした起請文が、ヘソのところへべったりへばりついていた。おめえのことを思って死んだんだと思うから、通夜にはおめえも来てもらって、線香の一本も手向けてやってもらいたい」
と泣いてみせる。

お染は、
「たった今しがた金蔵が来たばかりだよ」
と、ばかにしてせせら笑う。

そこで、証拠に金蔵の位牌をここに持ってきたと民公が懐を探って、
「確かにあったのにない、ない」
と芝居をしてみせる。

論より証拠と、お染が、金蔵の寝ている部屋に二人を案内すると、かねての打ち合わせ通り金蔵は隠れていて、布団の中には「大食院好色信士」と戒名が書かれた位牌が一つ。

さてはと、さすがのお染も青くなり、金蔵を突き落として、自分だけ都合よく心中をやめたことを洗いざらい白状。

「こいつは間違いなく恨みが残っていて、てめえは取り殺される」
と親分が脅すので、お染はもうオロオロ。

そこで最後の仕上げ。

「おめえがせめても髪を下ろして、すまなかったと謝まれば、金公も浮かぶに違いねえ」

お染が恐ろしさのあまり、根元からぷっつり髪を切り、その上、回向料として五両出したところで、当の金蔵がノッソリ登場。

「あーら、こんちくしょう、人をだましたんだね。なんぼなんでも人を坊主にして、どうするのさ」
「そう怒るな。てめえがあんまり客を釣る(=だます)から、比丘びく(=魚籠びくに)されたんだ」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

めったに聴けない「下」  【RIZAP COOK】

三遊派に古くから伝わる郭噺の大ネタです。

先の大戦後も、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)ほか、ほとんどすべての大看板が演じており、もちろん現在も、よく高座に掛けられます。

ただ、「上」だけでも長いうえ、「下」となると陰気で、噺としてもあまりおもしろくないということで、昔からあまり演じられません。

その中で、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)は皮肉を含んで「下」のみを演じていました。

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)は、その円馬に多数の噺を教わり、もっとも私淑していました。

でも、「品川心中」は音源は残しているものの、好きな噺ではなかったようです。

昭和の大看板では珍しく、めったにやりませんでした。

「下」では、六代目円生と五代目志ん生の速記が残されています。貴重です。

品川宿  【RIZAP COOK】

東海道の親宿(起点)として古くから栄えました。

新宿、板橋、千住と並んで、江戸近郊で非公認の大規模な遊郭を持つ四つの宿場(四宿)の筆頭です。

吉原の「北国」に対し、江戸の南ということで、通称は「南」。

宿場は徒歩新宿、北本宿、南本宿に分かれていました。

目黒川の向こう岸の南本宿は「橋向こう」といって小見世が多く、この噺の「白木屋」も南本宿です。

居残り佐平次」の舞台になった相模屋(土蔵相模)、歌舞伎「め組の喧嘩」の事件の発端となる「島崎楼」など、有名な大見世はすべて北側にかたまっていました。

宿場の成立は、享保年間(1716-36)です。

飯盛り(宿場女郎)を置くことを許可され、本格的に遊郭として発足したのは、万治2年(1659)のことでした。

宿場よりも遊郭のほうが早かったことになります。

品川は芝・増上寺ほかの僧侶の「隠れ遊び」の本場でもありました。

六代目円生が「品川心中」のマクラでいくつか挙げている川柳。

品川は 衣衣の 別れなり

自堕落や 岸打つ波に 坊主寝る

表向き、僧侶は女犯厳禁ですから、同じ頭を丸めているということで、医者に化けて登楼するという、けしからん花和尚(なまぐさ坊主)が後を絶たなかったわけです。

品川を舞台にした噺は意外に少なく、「居残り佐平次」とこの「品川心中」のほかは艶笑落語の「品川の豆」ぐらいです。

演者によって「剃刀」「三枚起請」などの廓噺を、吉原から品川に代えて演じることもあります。

板頭  【RIZAP COOK】

いたがしら。女郎屋で、最も月間の稼ぎのいい、ナンバーワンの売れっ子のことです。

吉原では「お職」と呼ばれましたが、品川ほかの岡場所(非公認の遊廓)では、その名称は許されず、遊女の名札の板が、その月の稼ぎ高の順に並べられるところから、そのトップを板頭と呼んだわけです。

蛇足ながら。

岡場所の「岡」とは脇の意味です。吉原に対する脇なのですね。

「岡惚れ」「岡焼き」「岡目八目」の「岡」も同じ使われ方です。この場合の「岡」は傍と同意です。「傍惚れ」「傍焼き」「傍目八目」と記されたりもします。

紋日、物日  【RIZAP COOK】

もんび、ものび。

五節季や八朔(➡江戸入り)、月見、三社祭りなどのハレの年中行事には、着物や浴衣を新調し、手ぬぐいに祝儀をつけて、若い衆や遣り手などの廓の裏方に配るなど、女郎にとってはかなりの金がかかりました。

売れていない女郎には大変ですが、これをやらないと恥をかき、住み替え(今よりランクの落ちる岡場所へ移る)でもしなければなりませんでした。

この噺のお染の悩みは、それだけ切実だったわけです。

貸本屋  【RIZAP COOK】

江戸時代には、一軒構えの本屋はありませんでした。

もっぱら貸本屋が紺の前掛けをして、廓や大店などの得意先を回ったものです。

幕末太陽傳  【RIZAP COOK】

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)は、文久2年(1862)、幕末の世情騒然としていたころの品川、それも土蔵相模を舞台に、落語の「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」を巧みにアレンジした、世界の喜劇映画史に残る最高傑作です。

土蔵相模とは、屋号は「相模屋」で壁が土蔵づくりだったために、こう呼ばれていたそうです。

労咳(結核)病みの主人公・佐平次(フランキー堺)の「羽織落とし」のお座敷芸が評判でした。

「品川心中」のくだりでは、なんといっても、遊郭へ春本(エロ本)を売りに来る、小沢昭一(小澤昭一、1929-2012)が演じる「あばたの金造(あば金)」が絶品です。

映画では「金造」でした。

小沢は当時29歳だったそうです。とても見えませんが。

「これが唐人のアレで……」といやらしく笑う、小沢のあば金を見るだけでも、この作品は一見の価値あり。

並みの落語家では遠く及びません。

         幕末太陽傳を見ずして落語ファンと言うなかれ!☞

比丘尼される  【RIZAP COOK】

「下」のオチですが、今ではわかりにくいでしょう。

よく考えると単純で、「釣る(だます)」から「魚籠」を出し、女を坊主にしたため、それと「比丘尼(尼僧)」をダジャレで掛けただけです。

「比丘尼」は、安永年間(1772-81)まで新大橋付近に出没した尼僧姿の売女「歌比丘尼」の意味もあります。

品川遊郭の女郎であるお染が坊主にされて、最下級の「歌比丘尼」にまで堕ちたという侮辱もこめられているはずです。

【語の読みと注】
板頭:いたがしら:筆頭女郎
四宿:ししゅく:品川、新宿、板橋、千住の宿場
北国:ほっこく:吉原の異称
徒歩新宿:かちしんしゅく:品川
八朔 はっさく:8月1日。徳川家康が入ってきた日とか
お職:おしょく:吉原での筆頭女郎
労咳 ろうがい:肺結核
魚籠:びく:釣った魚を入れておく容器
比丘:びく:僧
比丘尼:びくに:尼僧



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ばけものつかい【化け物つかい】落語演目

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【どんな?】

使い方の荒い男の噺。
権助ばかりか化け物まで。
こき使っちゃったりして。
モーレツにすごいです。

【あらすじ】

田舎者で意地っ張りの権助。

日本橋葭町の桂庵から紹介された奉公人の口が、人使いが荒くて三日ともたないと評判の本所の隠居の家。

その分、給金はいいので、権助は
「天狗に使われるんじゃあるめえし」
と、強情を張って、その家に住み込むことに。

行ってみると、さすがの権助も度肝を抜かれた。

今日はゆっくり骨休みしてくれと言うので、
「なんだ、噂ほどじゃねえな」
と思っていると、その骨休みというのが、薪を十把割り、炭を切り、どぶをさらい、草をむしり、品川へ使いに行って、
「その足でついでに千住に回ってきてくれ。帰ったら目黒へ行って、サンマを買ってこい」
というのだから。

しかも、
「今日一日は骨休みだから、飯は食わせない」
ときた。

それでも辛抱して三年奉公したが、隠居が今度、幽霊が出るという評判の家を安く買いたたき、今までの家を高く売って間もなく幽霊屋敷に引っ越すと聞かされ、権助の我慢も限界に。

化け物に取り殺されるのだけはまっぴらと、隠居に掛け合って三年分の給金をもらい、
「おまえさま、人はすりこぎではねえんだから、その人使え(い)を改めねえと、もう奉公人は来ねえだぞ」

毒づいて、暇を取って故郷に帰ってしまった。

化け物屋敷に納まった隠居、権助がいないので急に寂しくなり、いっそ早く化け物でも現れればいいと思いながら、昼間の疲れかいつの間にか居眠りしていたが、ふと気がつくと真夜中。

ぞくぞくっと寒気がしたと思うと、障子がひとりでに開き、現れたのは、かわいい一つ目小僧。

隠居は、奉公人がタダで雇えたと大喜び。

皿洗い、水汲み、床敷き、肩たたきとこき使い、おまけに、明日は昼間から出てこいと命じたから、小僧はふらふらになって、消えていった。

さて翌日。

やはり寒気とともに現れたのはのっぺらぼうの女。

これは使えると、洗濯と縫い物をどっさり。

三日目には、、やけにでかいのが出たと思えば、三つ目入道。

脅かすとブルブル震える。こいつに力仕事と、屋根の上の草むしり。

これもすぐ消えてしまったので、隠居、少々物足りない。

四日目。

化け物がなかなか出ないので、隠居がいらいらしていると、障子の外に誰かいる。

ガラっと開けると、大きな狸が涙ぐんでいる。

「てめえだな、一つ目や三つ目に化けていたのは。まあいい、こってい入れ」
「とんでもねえ。今夜かぎりお暇をいただきます」
「なんで」
「あなたっくらい化け物つかいの荒い人はいない」

    
底本:七代目立川談志

【しりたい】

明治末の新作  【RIZAP COOK】

明治末から大正期にかけての新作と思われます。

原話は、安永2年(1773)刊『御伽草』中の「ばけ物やしき」や、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「化物屋敷」などとされています。

興津要は、『武道伝来記』(井原西鶴、貞享4=1687年刊)巻三「按摩とらする化物屋敷」としています。

桂庵  【RIZAP COOK】

江戸時代における、奉公や縁談の斡旋業で、現在のハローワークと結婚相談所を兼ね、口入れ屋とも呼びました。

日本橋葭町には、男子専門の千束屋、大坂屋、東屋、大黒屋、藤屋、女子専門の越前屋などがありました。

名の由来は、承応年間(1652-55)の医師・大和桂庵が、縁談の斡旋をよくしたことからついたとか。

慶庵、軽庵、慶安とも。

転じて、「桂庵口」とは、双方に良いように言いつくろう慣用語となりました。

名人連も手掛けた噺  【RIZAP COOK】

昭和後期でこの噺を得意にした七代目立川談志は、八代目林家正蔵(彦六)から習ったといいます。

その彦六は同時代の四代目柳家小さんから移してもらったとか。

いずれにしても、柳派系統の噺だったのでしょう。

昭和では七代目三笑亭可楽、三代目桂三木助、五代目古今亭志ん生、三代目古今亭志ん朝も演じました。

【語の読みと注】
桂庵 けいあん
千束屋 ちづかや

【RIZAP COOK】

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とみきゅう【富久】落語演目



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【どんな?】

すべてが崖っぷちの久蔵。
富くじ当たって土俵際でうっちゃった佳品。

【あらすじ

浅草阿部川町の長屋に住む幇間の久蔵は、人間は実直だが大酒のみが玉に瑕。

酒の上での失敗であっちのだんな、こっちのだんなとしくじり、仕事にあぶれている。

ある年の暮れ深川八幡の富くじを、義理もあってなけなしの一分で買った。

札は「松の百十番」。

一番富に当たれば千両、二番富でも五百両。

久蔵、大神宮さまのお宮(神棚)に札をしまい、
「二番富でけっこうですから当たりますように」
と祈る。
「そうしたら堅気になり、二百三十両で売りに出ている小間物屋の店を買って、岡ぼれしている料亭「万梅」の仲居・お松っつあんを嫁にもらって」
と楽しい空想にふけりながら、一升酒をあおってそのまま高いびき。

夜中にすきま風で目を覚ますと、半鐘の音。

火事は芝金杉見当だという。

しくじった田丸屋のだんなの店はその方角だ。

久蔵、ご機嫌を取り結ぶのはこの時とばかり、押っ取り刀で火事見舞いに駆けつけると、幸い火は回っていない。

期待通りだんなが喜んで、出入りを許されたので久蔵は大喜び。

さっそく、火事見舞い客の張付けに大奮闘するが、ご本家から届けられた酒を見ると、もう舌なめずりで上の空。

だんなが苦笑して
「のむのはいいがな、おまえは酒でしくじったんだから、たんとのむなよ」
と言ってくれたので、大喜びで冷酒をあおっているうち、またもへべれけで寝入ってしまう。

夜更けに、また半鐘の音。

今度は久蔵の家がある浅草鳥越方向というので、だんなは急いで久蔵を起こすと、
「万一のことがあれば必ず店に戻ってこい」
と、ろうそくを持たせて帰す。

とんだ火事の掛け持ち。

久蔵、冬の夜空を急いで長屋に戻ると既に遅く、家は丸焼け。

しかたなく田丸屋に引き返すと、だんなは親切に店に置いてくれたので、久蔵は田丸屋の居候になる。

数日後、深川八幡の境内を通ると、ちょうど富くじの抽選。

「ああ、そう言えばおれも一枚買ったっけ」
と思い出したが、
「どうもあの札も火事で焼けちまった」
と、あきらめめ半分で見ていると
「一番、松の百十番」
の声。

「あ、当たったッ」

久蔵、卒倒した。

今すぐ金をもらうと二割引かれるが、そんなことはどうでもいい。
八百両あれば御の字だ。

「札をお出し」
「札は……焼けちまってないッ」
「当たり札がなければダメだ」
と言われ、
「よくも首っくくりの足を引っ張るようなまねをしやがったな、覚えてやがれ、俺は先ィ死んでてめえをとり殺す」
と、世話人にすごんでみても、ダメなものはダメ。

あきらめきれずに泣く泣く帰る途中、相長屋の鳶頭にばったり。
「火事だってえのに何処へ行ってたんだ。布団と釜は出しといてやった。それにしても、さすがに芸人だ。りっぱな大神宮さまのお宮だな。あれも家にあるよ」
「ど、泥棒ッ。大神宮さまを出せッ」
と半狂乱で喉首を締め上げたから、鳶頭は目を白黒。

やっと事情を聞いて
「なるほど、千両富の当たり札とは、狂うのも無理はねえ。運のいい男だなァ。おまえが正直者だから、正直の頭に神宿るだ」
「へえ、これも大神宮さまのおかげです。近所にお払いをいたします」

底本:八代目桂文楽

しりたい

八代目文楽の名人芸   【RIZAP COOK】

江戸時代の実話をもとに、円朝が創作したといわれる噺ですが、速記もなく、詳しいことはわかりません。というか、円朝作というのはうそでしょう。

それよりも、この噺の演者は、なんといっても八代目桂文楽が代表格です。文楽はすぐれた描写力で、冬の夜の寒さ、だんなと幇間の人間関係まで見事に浮き彫りにし、押しも押されぬ十八番に練り上げました。ここでのあらすじも文楽版をテキストにしていますが、強いていえば、人物の性格描写が時に類型的できれいごとに過ぎるのが、この師匠の難点だったでしょう。

そんなことはありませんよ」   【RIZAP COOK】

文楽の「富久」について、榎本滋民が気のきいた一文を残しています。

駆け出そうとする久蔵を、旦那が呼び止めて、類焼した場合には、遠慮なくうちを頼ってこいといってやるのだが、絶品とうたわれた八代目桂文楽の演出では、その前置きに、「そんなことはないよ」と、打ち消して見せる。念頭に浮かびがちな、いまわしい状況を、まず断定的に否認してやることによって、相手の不安の軽減を計る。さらに、「そんなことはない」とくり返してから、柔らかに逆転の「けど」をそえ、「もしものことがあったら、よそへ行くな。うちへ帰ってきておくれよ」という主文に接続させる。窮迫した者に、援助を確約しながら、その表明に、恩着せがましさをもたせまいとつとめるデリカシーが、この簡潔な否定の前置きに、十分働いている。表記の上では、なんの綾も曲もない否定文にしかすぎないものが、練達のいい回しによって、真情あふれる、味わい深いことばになるのも、話芸なればこそである。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

なるほど。鋭く豊かな視点に脱帽です。

志ん生の「媚びない久蔵」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生の「富久」も、文楽のそれとはまったく行き方の違う名品でした。

文楽が久蔵の実直さ、気の弱さを全面に出すのに対し、志ん生は酒乱と貧乏ゆえの居直り、ふてぶてしさを強調しました。志ん生の久蔵は、決してだんなに媚びてはいません。

ながらく貧乏していた志ん生は、久蔵の不安、やるせなさ、絶望感、それを酒に逃避する弱さを、自らの貧乏体験からはじき出して放埓に演じ、それが観客を勘違いさせて感動に結び付けていました。評論家諸氏は「志ん生は貧乏のどん底だった」といったりしますが、どうも違和感があります。たしかに「どん底」ではあったのかもしれませんが、「貧苦」とは無縁です。どこか楽しんでいたふしもあり、本人は「貧困」「貧窮」とは異なる次元での楽観した生活だったように思えます。

火事で家に急ぐ場面でも、文楽は「しょい、しょい、しょいこらしょっ」と様式的。志ん生は「寒い寒い、寒いよォ」と嘘も飾りもない裸の人間そのまま。両者の違いがはっきり出ています。

浅草阿部川町   【RIZAP COOK】

東京都台東区元浅草三、四丁目から寿一、二丁目。町名主が駿河(静岡県)の阿部川から移住してきたことから、この名があります。

もともと寺社地だったところが町屋になったためか、今でもこのあたりは寺ばかりです。江戸の頃は、裏長屋や同心などの御家人の住居が多く、正徳3年(1713)、町奉行所の直轄御支配地になっています。江戸時代には、役所が担当・管轄することを「支配」と呼んでいました。現代の「支配」とは意味合いが異なります。

大神宮さまのお宮   【RIZAP COOK】

大神宮とは伊勢神宮のことです。「神宮」は天皇家となにがしかの関係がある、ということを示しています。熱田神宮、鹿島神宮、香取神宮、平安神宮、明治神宮など、いろいろあります。こんなこと、ガッコ―ではおせえてくれませんな。

伊勢神宮というのは、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)をあわせて総称です。内宮は天照大神をまつり、外宮は豊受大御神をおまつっています。この神さま天照大御神の食事係りです。さらには、衣食住、産業の守り神としても崇敬されています。そこまで敷衍されるのは、この神さま、じつはお稲荷さまと同一神だともいわれています。その話はいずれどこかの項目で。

さて。

この噺の大神宮さまとは伊勢の神さまを祭る神床をさします。歳末になると家々に回ってくる伊勢神宮の御師が神床を配ります。御師は旧年のお祓いをしに回ります。御師とは下級の神職者で、全国を分担して巡回していたようです。御師は来年の御札(神符、大麻)も配りますから、この来年用のを神棚にまつるのです。神棚はどんな貧しい長屋住まいにもあったようです。

大神宮信仰は、江戸では水商売や芸人に多くあったといわれています。縁起をかつぎ、霊験に誓い、大神宮の神床をおのれの経済力以上に大きなものをまつったりしていました。

神床は伊勢神宮の神明造を模したもので、これを「大神宮の御宮」と呼んでいました。

江戸の末期になると、都市部の町人に経済力が備わって、伊勢参宮ができるほどになりました。とはいえ、生涯一度のもので、大半の人々には夢のまた夢。江戸にいながら参拝できるようにと、伊勢神宮が代用品に売り出していたのがこれらの品々です。

それすら高価なので、買うのは芸者や幇間など花柳界の者が中心。芸人の見栄で、無理しても豪華なものを買う習わし、というのが本心だったようです。見栄を張って生きているのですが、富くじはこのあたりに隠しておくのが通り相場だったようです。」

伊勢の御師  【RIZAP COOK】

いせのおんし。伊勢神宮の下級神官で、全国を回って、伊勢暦や大麻(天照大御神のお札)を売るのがつとめです。ほかの神社では御師を「おし」と呼びますが、伊勢神宮だけは「おんし」と呼びならわしています。

伊世よりも 三河は顔が のどかなり   二31

伊勢の御師 さて銭の無い さかりに来る   五12

転宅を 奇妙にさがす 伊勢の御師   六39

このネットワークは全国の最新情報を仕入れてくるため、事情通の人たちでした。今と違って引越し先を探すのは骨の折れることですが、そこはプロで、どこまでもやってくる、考えようによってはそらおそろしい人たちでした。伊勢神宮以外の神社でも同じような御師が多数巡回していましたが、伊勢神宮だけは数も多いし、配る(売りさばく)商品も多かったようです。

「三河」は三河万歳。笑わせるわけです。伊勢の御師はもっともらしくふるまうものですから、笑いはなく、年末年始に顔を出す二様のよそびとは雰囲気がかなり違っていたのですね。

糊屋

久蔵の長屋の火事、出火元は糊屋のばあさんからで、「爪に火をともすようにしていたんで、そこから火が出た」とかいったフレーズがあったりします。

糊屋のばあさんは、「出来心」など多くの噺に出てきますが、「糊屋のばばあ」「糊屋のばあさん」と言われることが多く、その人柄などはまったく描かれないようです。不思議な謎の人物です。

落語の妙におもしろいところです。

糊屋というのは、ご飯粒をつぶして洗い張り用の姫糊をつくって売って歩く職業です。糊屋のばあさんも売って歩いていたのでしょうか。



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だいくしらべ【大工調べ】落語演目



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【どんな?】

店賃滞納で大家に道具箱を取り上げられた大工の与太。
棟梁が乗り込んだが、功なくお白州へ。奉行は質株の有無を訊く。
道具箱が店賃のかたなら質株が要る。ないので大家にとがあり。
大家は与太に手間賃を払うことで一件落着。

別題:大岡裁き あた棒

あらすじ

神田小柳町かんだこやなぎちょうに住む大工の与太郎よたろう

ぐずでのろまだが、腕はなかなか。

老母と長屋暮らしの毎日だ。

ここのところ仕事に出てこない与太郎を案じた棟梁とうりゅう政五郎まさごろうが長屋までやって来ると、店賃たなちんのかたに道具箱を家主いえぬし源六げんろくに持っていかれてしまったとか。

仕事に行きたくても行けないわけ。

四か月分、計一両八百文ためた店賃のうち、一両だけ渡して与太郎に道具箱を取りに行かせる。

政五郎に「八百ばかりはおんの字だ、あたぼうだ」と教えられた与太郎、うろおぼえのまま源六に「あたぼう」を振り回し、怒った源六に「残り八百持ってくるまで道具箱は渡せない」と追い返される。

与太郎が
「だったら一両返せ」
と言えば
「これは内金にとっとく」
と源六はこすい。

ことのなりゆきを聞いた政五郎、らちがあかないと判断。

与太郎とともに乗り込むが、源六は強硬だ。

「なに言ってやがんでえ。丸太ん棒と言ったがどうした。てめえなんざ丸太ん棒にちげえねえじゃねえか。血も涙もねえ、目も鼻も口もねえ、のっぺらぼうな野郎だから丸太ん棒てんだ。呆助ほうすけ藤十郎とうじゅうろう、ちんけいとう、芋っぽり、株かじりめ。てめえたちに頭を下げるようなおあにいさんとおあにいさんのできが、すこうしばかり違うんだ。ええ、なにを言いやがんだ。下から出りゃつけ上がり、こっちで言う台詞せりふだ、そりゃ。だれのおかげで大家おおやだの町役ちょうやくだの言われるようになったでえ。大家さん大家さんと、下から出りゃその気になりゃあがって、俺がてめえの氏素性うじすじょうをすっかり明かしてやるから、びっくりして赤くなったり青くなったりすんな。おう、おめえなんざな、元はどこの馬の骨だか牛の骨だかわかんねえまんま、この町内に流れ込んで来やがった。そん時のざまあ、なんでえ。寒空に向かいやがって、洗いざらしの浴衣ゆかた一枚でガタガタガタガタ震えやがって、どうかみなさんよろしくお願いしまうってんで、ペコペコ頭を下げてたのを忘れやしめえ。さいわいと、この町内の人はお慈悲じひ深いや。かわいそうだからなんとかしてやりましょうてんで、この常番じょうばんになったんだ。一文の銭、二文の銭をもらいやがって、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、この町内の使いやっこじゃねえか。なあ、そのてめえの運の向いたのはなんだ。六兵衛番太ろくべえばんたが死んだからじゃねえか。六兵衛のことを忘れるとバチが当たるぞ。おう、源六さん、おなかがすいたら、うちのいもを持っていきなよ、寒かったらこの半纏はんてんを着たらだらどうだいってんで、なにくれとなくてめえのめんどうを見てた。この六兵衛が死んだあと、六兵衛のかかあにつけ込みやがって、おかみさん芋洗いましょう、まき割りましょうってんで、ずるずるべったりに、このうち入り込みやがったんだ。二人でもって爪に火ぃともすように金をためやがってな、高い利息で貧乏人に金貸し付けやがって、てめえのためには何人泣かされてるのかわかんねえんだ。人の恨みのかかった金で株を買いやがって、大家でござい、町役でござい、なに言いやがんだ、てめえなんざ大悪おおわるだ。六兵衛と違って、場違いな芋を買ってきやがって、き付けをしむから生焼なまやけのガリガリの芋だ。その芋を食って、何人死んだかわからねえんだ。この人殺しぃ」

怒った政五郎は 啖呵たんかを切った。

「この度与太郎事、家主源六に二十日余り道具箱を召し上げられ、老いたる母、路頭に迷う」
と奉行所へ訴えた。

お白州で、両者の申し立てを聞いた奉行は、与太郎に、政五郎から八百文を借り、すぐに源六に払うよう申し渡した。

源六は有頂天。

またもお白州。

奉行が源六に尋ねた。
「一両八百のかたに道具箱を持っていったのなら、その方、質株しちかぶはあるのか」
源六「質株、質株はないッ」
奉行「質株なくしてみだりに他人の物を預かることができるか。不届き至極の奴」

結局、質株を持たず道具箱をかたにとったとがで、源六は与太郎に二十日間の大工の手間賃として二百もんめ払うよう申しつけられてしまった。

奉行「これ政五郎、一両八百のかたに日に十匁の手間とは、ちと儲かったようだなァ」
政五郎「へえ、大工は棟梁、調べをごろうじろ(細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ)」

しりたい

大家のご乱心

お奉行所の質屋に対する統制は、それは厳しいものでした。質物には盗品やご禁制の品が紛れ込みやすく、犯罪の温床になるので当然なのです。

早くも元禄5年(1692)には惣代会所そうだいかいしょへ登録が義務付けられ、享保きょうほうの改革時には奉行所への帳面の提出が求められました。

株仲間、つまり同業組合が組織されたのは明和年間(1764-72)といわれますが、そのころには株を買うか、譲渡されないと業界への新規参入はできなくなっていました。

いずれにしても、モグリの質行為はきついご法度。大家さん、下手するとお召し取りです。

この長屋の店賃、4か月分で一両八百ということは、月割りで一分二百。高すぎます。

店賃も地域、時代、長屋の形態によって変わりますから一概にはいえませんが、貧乏な裏長屋だと、文政年間(1818-30)の相場で、もっとも安いところで五百文、どんなにぼったくっても七百文がいいところ。ほぼ倍です。(銭約千文=一分、四分=一両)

日本橋の一等地の、二階建て長屋ならこの値段に近づきますが、神田小柳町かんだこやなぎちょうは火事で一町内ごと強制移転させられた代地ですから、地代も安く、店賃もそれほど無茶苦茶ではないはずです。

この噺でおもしろいのは、大家さんの素性です。どんな人が大家さんをしていたのかがうかがい知れるわけです。大家さんは長屋所有者の代行者に過ぎないのですね。

町年寄 名主 月行事

神田小柳町

かんだこやなぎちょう。現在の千代田区神田須田町かんだすだちょう一、二丁目、および神田鍛冶町かんだかじちょう三丁目にあたります。元禄11年(1698)の大火で下谷したや一丁目が焼けた際、代地だいちとして与えられました。

田島誓願寺たじませいがんじ(浄土宗)を経て寛永寺の寺地となっていたため、延享えんきょう2年(1745)以来、寺社奉行の直轄支配地となっています。柳原土手やなぎはらどての下にあったことから、土手の柳から小柳町という町名がついたそうです。

明治時代には「小柳亭」という寄席もありました。

町名は昭和8年(1933)に廃名となりました。

「まち」か「ちょう」か

ところで、落語で町名が出ると、いつも気になります。

田原町たわらまち稲荷町いなりちょう神田小川町かんだおがわまち神田小柳町かんだこやなぎちょう

「〇〇町」の「町」が「ちょう」と読むのか「まち」と読むのか、いつも釈然としません。

例外もあるのですべてに通用するわけではありませんが、江戸でも地方の城下町でも、武家の居住区は「まち」、町人の居住区は「ちょう」と呼びならわしていることが、江戸時代の基本形です。

ひとつの目安になりますね。

代地

江戸での話です。何かの理由で、幕府が強制的に収用した土地の代替地として、与えた別の土地のことです。

町を丸ごと扱う場合もあります。代地だいちに移転したり成立したりした町を、代地町だいちまちといいました。

あたぼう

語源は「当たり前」の「当た」に「坊」をつけた擬人名詞という説、すりこぎの忌み言葉「当たり棒」が元だという説などがあります。

一番単純明快なのは、「あったりめえでえッ、べらぼうめェッ」が縮まったとするもの。さらに短く「あた」とも。

でも、「あたぼう」は、下町では聞いたこともないという下町野郎は数多く、どうも、落語世界での誇張された言葉のひとつのようです。

落語というのは長い間にいろんな人がこねくりまわした果てに作り上げられたバーチャルな世界。

現実にはないものや使わないものなんかがところどころに登場するんです。

それはそれで楽しめるものですがね。

与太郎について

実は普通名詞です。

したがって、正確には「与太郎の〇〇(本名)と呼ばれるべきものでしょう。

元は浄瑠璃の世界の隠語で、嘘、でたらめを意味し、「ヨタを飛ばす」は嘘をつくことです。

落語家によって「世の中の余り者」の意味で馬鹿のイメージが定着されましたが、現立川談志が主張するように、「単なる馬鹿ではなく、人生を遊び、常識をからかっている」に過ぎず、世の中の秩序や寸法に自分を合わせることをしないだけ、と解する向きもあります。

頭と親方

かしらは職人の上に立つ人をさします。

大工、鳶、火消しなど。勇み肌、威勢のよい職業の棟梁とうりゅうを「かしら」と呼びます。火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたの長谷川平蔵も「かしら」です。勇み肌なんですね。

文字では「長官」と書いたりしますが、あれは便宜上のことで、現代的な呼び名です。自宅で仕事をする職人、これを居職いじょくと言いますが、居職の上に立つ人を親方おやかたといいます。親方は居職ばかりでもなく、役者や相撲の世界でも「親方」と呼ばれます。

こうなると、厳密な言い分けがあるようでないかんじですね。ややこしいことばです。

【蛇足】

大岡政談のひとつ。

裁き物には「鹿政談」「三方一両損」「佐々木政談」などがある。

政五郎の最後の一言は「細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ」のしゃれ。

棟梁を「とうりょう」でなく「とうりゅう」と呼ぶ江戸っ子ことばがわからないとピンとこない。

明治24年(1891)に禽語楼きんごろう小さんがやった「大工の訴訟しらべ」の速記には、「棟梁」の文字に「とうりゃう」とルビが振られている。

これなら「とうりょう」と発音するのだが。落語を聴いていると、ときにおかしな発音に出くわすものだ。

「大工」は「でえく」だし、「若い衆」を「わけえし」「わかいし」と言っている。

「遊び」は「あすび」と聞こえるし、「女郎買い」は「じょうろかい」と聞こえる。

歯切れがよい発音を好み、次のせりふの言い回しがよいように変化させているようだ。

池波正太郎は、落語家のそんな誇張した言いっぷりが気に入らなかった。

「下町で使われることばはあんなものではなかった。いつかはっきり書いておかなくてはならない」と書き散らしたまま、逝ってしまった。はっきり書いておいてほしかったものである。

この噺では、貨幣が話題となっている。

江戸時代では、金、銀、銭の3種類の貨幣を併用していた。

ややこしいが、一般的なところを記しておく。

1両=4分=16朱。金1両=銀60匁=銭4貫文=4000文。

いまの価格にすると、1両は約8万円、1文は20円となるらしい。

ただし、消費天国ではなかったから、つましく暮らせば1両でしのげた時代。

いまの貨幣価値に換算する意味はあまりないのかもしれない。

1両2分800文とは、6800文相当となる。

幕末期には裏長屋の店賃が500文だった。

ということは、13か月余相当の額。

五代目古今亭志ん生は「4か月」ためた店賃が「1両800」とやっている。

月当たり1200文。うーん、与太郎は高級長屋に住んでいたのだろうか。

質株とは質屋の営業権。

江戸、京阪ともに株がないと質屋を開業できなかった。

享保8年(1723)、江戸市中の質屋は253組、2731人いたという。ずいぶんな数である。

もぐりも多くいたそうだから、このような噺も成り立ったのだろう。

勘兵衛の職業は家主。落語でおなじみの「大家さん」のことだ。

「大家といえば親も同然」と言われながらも、地主(家持)に雇われて長屋を管理するだけの人。

地主から給金をもらい、地主所有の家を無料で借りて住んでいる。

マンションの管理人のような存在である。オーナーではない。

この噺では、大家の因業ぶりがあらわだ。

こんなこすい大家もいたものかと、政五郎や与太郎以上に人間臭くて親近感がわいてくる。

古木優     

町奉行



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つきうま【付き馬】落語演目



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【どんな?】

おじさーん。
怖い男衆も屁の河童。
だましもここまでくれば超一級。

別題:早桶屋

あらすじ】 

吉原で、さんざんドンチャン騒ぎをした男。

いざ帰る段になって、勘定が払えないというので、翌朝、若い衆を付き馬に連れて、仲見世なかみせのあたりをのんびりとぶらついている。

付き馬の方はいつ払ってくれるのかと、いらいらしてせっつく。

ところが、この男、なかなか口がうまく、
「金持ちのおじさんがいるから、すぐに倍増しで払ってやる」
となだめすかす。

挙げ句の果てに、朝飯代から銭湯代から、何から何まで若い衆に立て替えさせてしまう、相当のずうずうしさ。

いつまでたっても、いっこうにらちがあかず、金を払っているのは逆に自分だけというありさま。

さすがに付き馬も堪忍袋かんにんぶくろを切らすと、男が
「やっとおじさんの家に着いた」
と言って指さしたのが田原町たわらまち早桶屋はやおけや

「ちょいと交渉してくるから」
と言って中に入り、早桶屋のおやじに付き馬を指して小声で
「実はあの男の兄貴が昨晩急にれの病で死んだが、ふだんから太っていたところへ腫れがきたので、とても普通の早桶ではだめで、図抜け大一番小判型をあつらえなければならない」
と言い、急に大声になって
「ぜひこしらえておもらい申したい」
と妙な頼み。

早桶屋も商売だから
「ようがしょう」
と承知したが、男はその上
「なにしろ兄貴をなくして頭がポーッとしてやがるので、ときどきおかしなことを申しますが、お気になさらないで、あの男が来ましたら『大丈夫だ、おれが引き受けた』と大声で一言言ってやっていただきたいんで」
と言う抜け目のなさ。

若い衆をすっかりだまして安心させ
「自分はちょっと買い物があるから、もし先にできたらこいつに渡してやってもらいたい」
と言うとそのまま、風を食らって逃げだしてしまった。

さて、こちらは若い衆。

なんとなく早桶屋と話がかみ合わない。

「長かったのかい」
「いえ、昨夜一晩で」
「ゆうべが通夜かい」
「へえ、芸者衆が入りまして」
「へーえ、そんな陽気な通夜なら、仏さまァ喜んだろう」
「ええもう、ばかなお喜びようで」
というぐらいまではまだよかったが、
「どうして持っていきなさる」
「へえ、紙入れに入れまして」
「おまえさん、しっかりしなさいよ」
というあたりから若い衆、なにかおかしいと気づき始めたが、もう後の祭り。

できてきたのは、図抜け大一番小判型の早桶。

水風呂の化け物のようで、男のたくらみがついにバレた。

早桶屋もカンカンで
「てめえも間抜けじゃねえか。付き馬でもする奴は、もちッと頭を働かせな。しかたがねえ。木口代きぐちだい五円置いて、そいつをしょっていけ」

「五円はさておいて、もうあたしゃ一文なしだ」
「なに、銭がねえ? 小僧、吉原まで付き馬に行け」

しりたい】 

付き馬の由来   【RIZAP COOK】

遊興費が払えず、踏み倒した客への取り立ては、町人が乗馬を禁じられる元禄年間までは、その客を、馬を引いて吉原に連れてきた馬子まごナの責任で、同時に副業でした。「付き馬」の名は、これに由来します。

ところが、取り立てた金をネコババして全部使ってしまうことが多かったため、馬屋うまや始末屋しまつやとよばれたコワモテの業者が、この仕事を代行するようになりました。

この噺のように、遊郭の若い者が付き馬として客に同行するようになったのは、かなり後年のことです。

桶伏せ   【RIZAP COOK】

遊客からの代金取り立ては、明暦めいれき3年(1657)、今の場所の、新吉原開設当初は、かなり荒っぽいものでした。

桶伏おけぶせ」という私刑があり、吉原大門おおもんの外で、風呂桶を逆さにかぶせて客が逃げられないようにし、親や親類、知人が金を持ってくるまでそのまま「幽閉」していたとか。

付き馬の慣習が定着してからも、もし取り立てがうまくいかない場合は、客の身ぐるみ剥いで売り払い、弁済にあてていました。

早桶屋   【RIZAP COOK】

早桶は座棺で、菜漬けの樽同様の粗末なものです。死者が出た時に、間に合わせで急いで作るところからこの名があります。

早桶屋はしたがって、今日の葬儀社と棺桶製造業者を兼ねていたわけです。別名を早物屋ともいいました。

噺に出てくる「図抜け大一番小判型」は、親子をいっしょに入れ、葬るための特注の早桶のことです。

水風呂   【RIZAP COOK】

すいふろ。水を沸かして入る普通の風呂(桶)で、蒸し風呂や塩風呂と区別して呼びました。

【付き馬 古今亭志ん朝】



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くみたて【汲み立て】落語演目

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【どんな?】

『八笑人』からの構成。
町内の連中のすったもんだ噺。
少々匂い立ちますが。

あらすじ

町内の連中が、美人の常磐津のおっ師匠さん目当てに、張り合って稽古に通っている。

なぁに、常磐津などはどうでもいいので、気に入られていいことがしたい、ただそれだけ。

それだけに嫉妬が渦巻き、ライバルに対する警戒は相当なもの。

「野郎が四度稽古してもらったのになんでオレはまだ二度なんだ」
とか、
「膝と膝を突き合わせて、間違えたらツネツネしてもらえるから、唄より三味線を習おう」
とかいうような、不心得者も出る。

ところが、留さんが、
「師匠はどうやら建具屋の半公とできてるらしい」
という噂を持ってきたので、一同、顔色が変わる。

なんでも、師匠の部屋へ通ってみると、半公が主人然として、師匠と火鉢越しのさし向かい。

火鉢が真ん中。

半公向こうの師匠こっち、師匠こっち半公向こう。

やがて半公がすっと立つと、師匠もスッ。

ぴたっと障子を閉めて、中でコチョコチョと二人じゃれついていたというから、穏やかではない。

そこで、今、師匠の家に手伝いに行っている与太郎を捕まえて聞きただすと、案の定、このごろ、半公がちょくちょく泊まりに来る、という。

ある日、二人が大げんかして、半公が師匠の髪をつかんでポカポカなぐったが、その後、師匠が
「いやな奴に優しくされるより、好きな人にぶたれた方がいい」
と抜かしたそうな。

そういえば、与太郎、今日はいつになくいい身なりをしているので、聞いてみると、
「師匠と半公のお供で柳橋から船で夕涼みだ」
という。

「おっ師匠さんが『あの有象無象どもが来ると、せっかくの気分が台なしだから、ないしょにしておおき』って言ってた」
「なんだ、その有象無象ってえなあ」
「うん、おまえが有象で、こっち全部無象」
「こんちくしょうめっ」

「あんまり人をばかにしてやがるから、これから皆で押しかけて、逢瀬をぶちこわしてやろうじゃねえか」
と、すぐ相談がまとまった。

「半公の野郎が船の上で、師匠の三味線で自慢のノドをきかすに違いないから、こっちも隣に船を寄せて、鳴り物をそろえてドンチャカドンチャカ、ばか囃子でじゃましてやろう」
というわけ。

「逃げたらどこまでも追いかけていって、半公がなにかぬかしたら、かまわないから袋だたきにしちまおう」
という算段。

さて数刻後、船の中。

半公がいよいよ端唄をうなり出すと、待ってましたとばかり隣からピーヒャラドンドン。

そのうるさいこと。

「やあ、お師匠さん、見てごらん。有象無象が真っ赤になって太鼓をたたいてら」
「うるせえ、てめえじゃ分からねえ。半公を出せ」
「なんだ、なんだ。師匠とどういう仲になろうと、てめえたちの指図は受けねえ。糞でもくらいやあがれ」
「おもしれえ。くってやるから持ってこい」

やりあっていると、間に肥船がスーッ。

「汲み立てだが、一杯あがるけえ?」

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しりたい

「八笑人」の懲りない面々  【RIZAP COOK】

オチの部分の原話は、滝亭鯉丈(1777-1841)作の滑稽本『花暦八笑人』三編下(文政6年刊=1823)です。

「八笑人」は落語「花見の仇討ち」のネタ本でもあり、いわばこれは、その続編の一部。

あの能天気な連中が、また懲りずに、妙ちくりんな趣向を思いつきます。

これはその一人卒八が考えた納涼の趣向で、両国橋ぎわに小船と屋根舟を出し、仲間が両方に分かれてののしりあう、というもの。

卒八「サア両方でくそをくらえ、イヤうぬ(=おまえ)くらえ、われくらえと、いいつのっている中へ、おれが、こえ船をたのんで、うわのりをして、グツと中へのり込で、サア汲たてあがらんかあがらんかというが、おちだがどうだろう」

というわけで、オチがついた馴れ合い狂言を仕組むのですが、あまりに下品というのでこれは中止。改めて、両国橋から身投げのふりで飛び込むという人騒がせをやらかすことになります。

『花暦八笑人』と滝亭鯉丈については「花見の仇討ち」をお読みください。

六代目円生の極めつけ  【RIZAP COOK】

明治から大正にかけ、俗に品川の円蔵と呼ばれた四代目橘家円蔵が高座にかけました。記録は明治30年(1897)の円蔵の速記が最古で、その没後は、門下の五代目三遊亭円生、孫弟子の六代目円生へと継承されました。

もっとも、円蔵もあまり演じなかったので、円生は、初代三遊亭円右の速記などで覚えたと語っています。戦後は、円生の独壇場で、極めつけの十八番でした。

常磐津の素養がないとできない噺なので、円生没後は弟子の五代目円楽がたまにやるくらいでしたが、近年では三遊亭小遊三や五街道雲助などが手掛けています。

蚊弟子  【RIZAP COOK】

常磐津のお師匠さんは、「百川」始め、落語にはちょくちょく登場します。

「オシサン」または「オッショサン」と発音しますが、落語で師匠というと、美人でおつな年増ときまっています。そこで、我こそは師匠としっぽりと……と、よからぬ下心で経師屋連がわいわい押しかけ、騒動を起こすわけです。

なかには「蚊弟子」といって、暑いので、涼みがてら夏のうちだけ稽古にくる手合いもあったとか。

江戸末期には、各町内に一人は遊芸の師匠がいたもので、清元、常磐津、長唄、歌沢などさまざまでした。なんでもござれ教える師匠も中にはいて、それを俗に五目(寿司の五目から)の師匠と呼んだものです。

肥船  【RIZAP COOK】

葛飾や市川など江戸湾の在から肥を仲買いし、取り仕切る渡世人の組織は、香具師、博打などと並んで一種の治外法権を持ち、なかでも葛西の肥汲みは、江戸の裏社会に隠然たる勢力を持っていました。

彼らが立往生(ストライキ)をすれば、大名から長屋の町人に至るまで、肥の引き取り手がなく、たちまちに往生することになるわけです。

集めた肥を船で運ぶようになったのは、永代橋が落下する大惨事(文化4=1807年)のあと、橋を荷車が通れなくなったからだといいます。

船は出ませんが、肥汲みが登場する落語には、ほかに「法華長屋」があります。

【語の読みと注】
常磐津 ときわづ
有象無象 うぞうむぞう
逢瀬 おうせ
端唄 はうた
経師屋連 きょうじやれん:師匠を張り合う意味

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すねかじり【脛かじり】落語演目

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【どんな?】

怪談、はたかた食人譚か。
と思いきや。
ありゃりゃ、なーんだ、落語かよ。

別題:いろ屋の花嫁(上方) かいな食い(上方)

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【あらすじ】

勘当された若だんな。

今は居候の身だが、いっこうに改心するようすがない。

預かり先の亭主、このままではためにならないと、若だんなを目黒鬼子母神の近藤作右衛門方の婿養子に世話する。

実は、若だんなはもうとっくに偵察してあるが、そこの娘は婚期を逸してもう二十五、六になるものの、大変な美人。

おまけに資産もある。

ところが、亭主の言うには、縁がつかなかったにはわけがあり、原因は不明だが、今まで何度か婿を取ったものの、三日と居ついたことがない、という。

若だんなは、そんな話には耳を貸さず、色と欲との二人連れで、さっそく飛びついた。

順調に話がまとまり、さて、婚礼の晩。

仲人は宵の口と客が帰った後、いよいよ待ちに待った床入りという時になって、娘は
「これからちょっと用事がありますから、少しの間お暇を」
と、妙なことを言うと、部屋から出て行ってしまう。

スカタンを食わされた若だんな、こんな夜中にどこへ行くのかと跡をつけると、なんと新妻は鬼子母神の墓場へ。

見ていると、新仏の石塔をのけ、土饅頭の中に手を入れて、死人の手をむしゃむしゃ食らう。

「ははあ、さてはこれが婿の居つかなかった原因か」
と、若だんな、

部屋に逃げ戻ってガタガタ震えていると、女が戻ってきた。

「あたしはもう寝ないで神田に帰ります。命ばかりはお助けを」
「さては、私が墓場でやっていたことを」
「へえ、なにかおいしそうにお召し上がりで」

女は、
「見られたのならしかたがありません。私は子供のころから、どういうわけか人の肉が好きで、母親に、代わりにザクロを食べさせられていたのですが、両親が鬼子母神に願掛けをして授かった子なので、その因果か人肉の味を思い切れません。それさえがまんしてくれれば、どんなことをしてでもあなたに尽くします」
と誓ったので、若だんなも承知して、めでたく夫婦になる。

「私もずいぶん人を食っていると言われるが、いったい、体のうちじゃあ、どこが一番おいしいんでしょう」
「そうですね、まず腕が一番です」
「それは無理もない。あたしも親父の脛をかじった」

うんちく

上方落語を改作 【RIZAP COOK】

オチの部分の「親のすねをかじる」の原話は、安永3年(1774)刊『茶のこもち』中の「子息」。

別の原話として、宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、安永同5年(1776)刊『売言葉』中の「猫また」を挙げています。これは、遊女と同衾中の男が、夜中に、女が行灯の陰で人の腕をむさぼり食っているのを目撃、これは猫またかと恐れおののきますが、翌朝見ると、それはトウモロコシの殻だった、というオチで、「脛かじり」との関連性は薄いようです。

上方落語「かいな食い」「いろ屋の花嫁」が、明治中期に東京に移植されたもので、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が鬼子母神伝説を加味して改作しました。明治23年(1890)の円遊の速記が残っており、移植者も円遊かと思われますが、はっきりしません。

上方の「かいな食い」は伝説とは無関係で、勘当された若だんなが養子に行く設定は同じですが、女は単に人間の生血、死血を吸いたい病で、赤子の死骸を棺桶(または墓地)から引きずり出して食らうなど、よりリアルで、猟奇性が強いものとなっています。

現在、演じ手は東西ともに絶えています。

鬼子母神伝説 【RIZAP COOK】

鬼子母神とは、インドの仏教説話中の鬼女です。サンスクリット語でハーリーティといい、「歓喜母」「愛子母」とも記されています。

インド、王舎城の夜叉(鬼神)の娘で、絶世の美女でしたが、鬼神の王、般闍迦の妻になり、千人(一説に一万人)の子を産みました。人の子(一説に自分の子)を殺して食べるのを常としていたので、人々はおそれおののき、仏陀にすがると、仏陀は、鬼子母神がかわいがっていた末子の嬪迦羅を隠します。鬼母は狂乱し、仏陀を訪ねて助けを乞うと、仏陀は「千(万)の子がいてさえ、たった一人の子を失ってそなたは悲しんでいるが、多くて五、六人しかいない子の一人を殺された母親の悲しみを考えねばならない」と諭しました。鬼母は、今後決して子供を食うことはせず、すべての子供の守護神となることを誓ったので、仏陀は嬪迦羅を返してやりました。

仏陀が、また病気が出ぬようにと、味と色が人肉に似たザクロの実を与えたことから、鬼子母神像は、常に右手に吉祥果を持ち、左手に子供の嬪迦羅を抱いています。鬼女像もありますが、多くはギリシアのアフロディテを思わせる豊満な美女像とされます。

「清正公酒屋」で、せがれがおやじに鬼子母神伝説を説明し、「あたしは千人どころか一粒種だから、勘当なんぞはできません」と開き直る場面がありますが、日本でも鬼子母神は子授け、安産、幼児養育の守り神として各地で信仰されています。

鬼子母神を祀るのは神社ではありません。仏教説話由来ですから、とうぜんお寺です。しかも、日蓮宗が率先して鬼子母神をまつります。鬼子母神の名称が落語などに出てくれば、日蓮宗の教えやお寺を想起すると噺の理解が早いでしょう。

死体嗜好 【RIZAP COOK】

バーバリズム(人肉食)は、死体嗜好症(ネクロフィリア)と結びついてヨーロッパ各地にも多く、しばしば猟奇的な殺人事件が報告されますが、一種の精神障害といわれます。

【語の読みと注】
嬪迦羅 ビャンガラ
腕 かいな
般闍迦 ハンジャカ
吉祥果 きっしょうか:ザクロ

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やなぎやふくびき【柳家ふくびき】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会→廃業
【入門】2016年10月、二代目柳家蝠丸に、柳家まめ蝠で
【前座】修行中、病気療養のため、18年2月、二代目柳家蝠丸門下に再入門、柳家ふくびきで
【二ツ目】2022年3月21日。2023年7月、廃業
【真打ち】
【出囃子】富士山
【定紋】
【本名】岡田祥宏
【生年月日】1988年8月10日
【出身地】東京都昭島市
【学歴】
【血液型】
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は渓流釣り、ドラクエウォーク、廃墟巡り、心霊スポット巡り、ちいかわ巡り

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うらしまや【浦島屋】落語演目



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あらすじ

浦島太郎のパロディー。
きてれつ千万。
すこぶるのんきな噺。

別題:水中の球 竜宮 小倉船(上方)

あらすじ

横浜の弁天通りで鼈甲屋を営む、浦島多左衛門のせがれ、太郎。

この若だんな、ハイカラ好きで、人がやらないことをやってみたいと、いつも考えている。

「いっそ、親父を女郎に売って、おふくろを兵隊にしてしまおうか」
などと考えている矢先、ご機嫌伺いに現れたのが、幇間の桜川船八。

この男の悲運はここが始め。

若だんなは、
「今度こそ極めつけの大きなことをやってみようと思っている」
「へえ、なんでゲス」
「水中旅行さ」

大きなガラス球の潜水艇があるからそれに乗って行く、という。

なんでも、金魚鉢の親玉のような代物で、大きさは二畳敷。

最近、有名な理学士の先生が発明したのを、安く借りられる手はずだとか。

郵船会社に頼んで、船で上からぶら下げてもらえば、管が付いていて息もできるし、ゆうゆうと海底探検が楽しめるというので、船八、ぜひお供をと飛びついた。

そういう次第で、若だんなは万事手配りし、両親にいとま乞いすると、船八ともども汽笛一声新橋を、はや、わが汽車は離れたり。

あっという間に、安芸の宮島までやって来た。

さっそく海中に潜り、いろいろな珍しい魚を見物して喜んでいると、向こうから金ピカの着物を着た男が近づいて「われは竜神なり」とあいさつ。

なんでも、龍宮の乙姫が、日本から美男子両人が海底旅行に来るとの話を伝え聞き、ぜひお連れせよとの命令だという。

案内されて着いてみると、近ごろは龍宮も文明開化で開け、市区改正なども行って、メインストリートは酒屋に汁粉屋に寺に洋館と、なんでもあって、なかなかにぎやか。

人力車は車海老が引いている。

宮殿に着くと下にも置かない大歓迎。

乙姫さまは当たり前だが絶世の美女で、そのほか腰元も美人ぞろいなので、二人が鼻の下を伸ばしていると、乙姫は玉手箱を贈り物にくれる。

命令一下で、数寄屋橋を始め東京中の橋という橋があいさつに来たりで、のめや歌えの大騒ぎ。

そのうち、若だんなはシャバが恋しくなりだし、船八と相談して、二人で玉手箱を持ち、蓬莱の亀にまたがってトンズラ。

「それ、浦島が脱走した」
と追手がかかったので、あわてた拍子に玉手箱を落として壊してしまった。

たちまち二人はハゲ頭に総白髪。

それでもようやく横浜の店にたどり着くと、だいぶようすが変わっていて、中から鉦をたたく音。

二人が入って行くと、腰の曲がった爺さんと婆さんが現れ、見るなり「幽霊だっ」と騒ぐ。

よくよく話を聞けば、二人が行方不明になってからはや半世紀。

親父は九十、おふくろは八十五。

ちょうど若だんなの五十回忌法要の最中で、生まれたばかりだったせがれはもう五十。

後を継いで子供、若だんなには孫までいる。

これでめでたく三夫婦そろい。

船八、
「だんな、あちらからお戻りになったのはまったく年の功でしたね」
「いや、亀の甲で帰った」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

色あせた「円遊流」

原話は延享4年(1747)刊の笑話本『軽口花咲顔』中の「水いらず」です。この小咄の筋は以下の通り。

若だんなの言いつけで、海底に沈んだ難破船の黄金を探すために、ガラス玉に入って水中に潜った男が、見つけた金銀を早く取れとせかされ、「あっ、手が出ない」とオチになります。

この原話をほぼ踏襲した形で、従来同題で演じられていた噺を、大坂の林家系の祖といわれる林屋蘭丸(生没年不詳、文化文政期か)が上方落語「小倉船」としてまとめたものともいわれますが、この人の実在自体がはっきりせず、真偽は不明のままです。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が明治中期に東京にこの話を移すとともに、時代に合わせて改作したものと見られます。円遊の速記は「水中の球」と題した、明治25年(1892)のものが残っています。

「体内旅行」などと同じく、明治維新後、急激に流れ込んだ科学的知識を、いかにも聞きかじりで中途半端に取り入れ、発想自体は古めかしいままだったので、現実の世の中の進歩に取り残されたこの種の噺は、短期間で飽きられ、すたれました。

この噺も円遊以後は口演速記がありません。

「小倉船」

本家上方の「小倉船」のあらすじは、以下の通り。

九州小倉と大坂を往復する船に乗り込んだ男が、三十両の大金を海に落としたので、あわてて大きなガラスのフラスコに入り、潜って探すうちにフラスコが割れ、海底に沈むとそこが龍宮。乙姫がこの男を浦島と間違えて歓迎したので、いい気になって楽しんでいると、本物の浦島が亀に乗って現れたので逃げようと駕籠に乗るが、駕籠かきが猩猩で「駕籠賃は少々(猩猩)だが、酒手が高い」とオチるものです。

この噺は上方落語では、連作シリーズの「西の旅」の一部で、厳密には金を海に落とすところまでが「小倉船」、そのあと、フラスコで金を探しに海中にもぐるくだりになり、この部分は「フラスコ」または「水中の黄金」「天国旅行」とも呼ばれます。結びの竜宮のくだりは、上方の別題は「竜宮界竜の都」です。

東京の改作「浦島屋」が、時流に便乗しようとしてかえって早く消えたのに対し、「小倉船」の方は、古風な演出をそのまま残したためか「希少価値」で、現在も演じられます。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)の速記が『桂米朝コレクション』(ちくま文庫)第二集に収録されています。現在では「フラスコ」「竜宮界」をひっくるめて「小倉船」で演じるのが一般的です。

先の大戦後、東京に在住して上方落語をオリジナルで演じた桂小文治が得意にし、そのため東京でも、今では「小倉船」の方がよく知られています。

郵船会社事始

維新後、明治政府は海運業を発展させるため、郵船業、海運業を一手に三菱に独占させました。

明治14年(1881)の北海道官有物払い下げ事件で政府と三菱への攻撃が高まり、翌年、三井系の共同運輸会社が設立されましたが、政府は三菱汽船と合併させ、明治19年(1886)に日本郵船が発足、財閥による郵船事業の独占体制が固まりました。

市区改正

明治2年(1869)、明治政府による「朱引き」が行われ、東京の市街地の境界が定められました。

これは幕府の行政区画であった「御朱引内」を踏襲したものですが、明治4年(1871)、さらに市内を六大区・九十七小区に分け、6年(1873)には朱引内(旧江戸市街)六大区、朱引外五大区に改編。

明治11年(1878)には、朱引内が十五区に再編成され、ほぼ大筋が固まりました。

【語の読みと注】
鼈甲屋 べっこうや
鉦 かね
駕籠かき かごかき
猩猩 しょうじょう:中国の想像上の怪獣。オランウータンみたいな
酒手 さかて:①酒の代金。②心づけの金銭

 



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とんちき【とんちき】落語演目



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【どんな?】

「とんちき」とは「まぬけ」の意。
まったくもって奇妙な構成の噺です。
ムチャクチャ笑っちゃいます。

あらすじ

嵐の日なら廓はガラガラで、さぞモテるだろうと考えた男。

わざわざ稲光のする日を選んで、びしょ濡れで吉原へ。

揚がってなじみのお女郎を指名、寿司や刺し身もとってこれからしっぽり、という矢先に、女が
「ちょいと待ってておくれ」
と消えてしまう。

世の中には同じことを考える奴はあるもので、隣の部屋で、さっきから焦れて待っている男、女が現れると
「おめえ、今晩は客がねえてえからおらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、朝、おまえさんが顔を洗ってたら、二階から楊枝をくわえて髭の濃い、変な奴が下りてきたろ。足に毛が生えた、熊が着物を着ているような奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

隣の男、「あんな野郎なら」と安心して、花魁と杯のやりとりを始める。

そのうちに、花魁が
「だけどもね、いまチョイチョイと……」
とわけのわからない言い訳をして、また消えてしまう。

前の座敷へ戻ると
「おめえ、今晩は客がねえてえから、おらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と、嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、おまえさんが顔を洗いに二階から下りてきたとき、あたしが顔を洗わせてたお客があったろ。あの目尻が下がった、鼻が広がったあごの長い奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

底本:初代柳家小せん

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  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

しりたい

円遊から小せんへ

原話は不明。初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が「果報の遊客」の演題で明治26年(1893)7月『百花園』に速記を載せています。

円遊のものは、同じ廓噺の「五人廻し」をくすぐりたくさんにくずしたようなもので、文句を言う客に女郎が「おまはんはあたしの亭主だろう。自分の女房によけい客がつくんだから、いいじゃないか」と、居直って膝をキュっとつねり、隣の部屋に行ってまた、間夫気取りの男を翻弄。

「おまはんも甚助(焼き餅)だねえ。奥に来てる奴は知ってる人だよ。あのばかが来てるんだよ」「うん、あのばかか」とオチた上、「両方で同じことを言っております」と、よけいなダメを押しています。

明治末から大正初年にかけ、これを粋にすっきりまとめ、「とんちき」の演題を使い始めたのが、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)でした。近代廓噺のパイオニアです。

大正8年(1919)9月、その遺稿集として出た『廓ばなし小せん十八番』に収録の速記を見てみましょう。

マクラで、活動写真のおかげで近ごろは廓が盛らないなどと大正初期の世相を織り込み、若い落語家(自分)がなけなしのワリ(給金)を持って安見世に揚がり、「部屋ったって廻し部屋、たばこ盆もありゃアしません。たもとからマッチを出して煙草を吸い始める、お女郎衆のお座敷だか田舎の停車場だかわからない」と、当時の寒々とした安見世の雰囲気を活写し、今に伝える貴重な風俗ルポを残しています。

小せんはさらに、花魁がいつまでも向こうを向いて寝ているので、「こっちをお向きよ」「いやだよ、あたしは左が寝勝手(=寝やすい)なんだよ」「そうかい、それじゃ俺がそっちへ行こう」「いけないよ。箪笥があるんだよ」「あったっていいじゃないか」「中のものがなくならあね」という小咄をマクラに振っています。

これは、小せんに直伝で廓噺を伝授された五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が、しばしば使っていたネタ。

残念ながら志ん生自身の「とんちき」の速記や音源はありません。

それにしても、小せんと志ん生の年齢差はたった7歳でした。

昭和48年(1973)、83歳まで生きた志ん生に比べ、小せんは享年36。早すぎる天才の夭折でした。

とんちき

生粋の江戸悪態ことばで、「トンマ」「まぬけ」の意味。

もとは「とん吉」と言ったのが、いつの間にか音が転倒しました。

江戸語にはこの手が多く、好例に「こんちき」があります。

狐を意味する「こんこんさま」の「こん」に「吉」を付けて擬人化し、さらに「吉」を転倒させて「こんちき」とすることで、擬音にも使われ出し「こんこんちきちん」にまで通ずる語となりました。

「しだらがない」が「だらしがない」に転訛したように、誤用、または洒落てひっくり返して使っていたのが、そのまま定着してしまった例もあります。

深川の岡場所(幕府非公認の遊郭)で、ヤボな客を「とんちき」と呼んだので、廓噺だけにその意味も合体しています。

18世紀後半には、江戸の、しかも深川の遊里から「通」「粋」といった美意識が生まれていきました。

寛政の改革で吉原が締め付けられたことで遊びの中心が深川に移ってのこと、といわれています。

なんの確証もありませんが、とりあえず今は、この俗説を信じておきましょう。

となると、「とんちき」は、「粋」の対語となる「野暮」の派生語としてはやったのかもしれません。とりあえずの説です。



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ろくしゃくぼう【六尺棒】落語演目



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【どんな?】

ほとんど二人だけ。
おやじと息子の対話噺。

【あらすじ】


道楽息子の孝太郎が吉原からご帰還。

店が閉め切ってあるので、戸口をどんどんたたく。

番頭と思いのほか、中からうるさいおやじの声。

「ええ、夜半おそくどなたですな。お買い物なら明朝願いましょう。はい、毎度あり」
「いえ、買い物じゃないんですよ……。あなたのせがれの孝太郎で」

さすがにまずいと思っても、もう手遅れ。

「……ああ、孝太郎のお友達ですか。手前どもにも孝太郎という一人のせがれがおりますが、こいつがやくざ野郎で、夜遊びに火遊び。あんな者を家に置いとくってえと、しまいにゃ、この身上をめちゃめちゃにします。世間へ済みませんから、親類協議の上、あれは勘当しましたと、どうか孝太郎に会いましたなら、そうお伝えを願います」

あしたっからもう家にいます、と謝ろうが、跡取りを勘当しちまって家はどうなる、と脅そうが、いっこうに効き目なし。

自殺すると最後の奥の手を出しても……。

「止めんなら、今のうちですよ……ううう、止めないんですか。じゃあ、もう死ぬのはやめます」
「ざまァ見やがれ……と言っていた、とお伝えを願います」

孝太郎、とうとう開き直って、できが悪いのは製造元が悪いので、悪ければ捨てるというのは身勝手だと抗議するが……。

「やかましい。他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、よそさまのせがれさんは、おやじの身になって『肩をたたきましょう』『腰をさすりましょう』、おやじが風邪をひけば『お薬を買ってまいりましょう』と、はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のせがれを見習え」

親父が小言にかかると、孝太郎、
「養子をとってまでどうでも勘当すると言うなら、他人に家を取られるのはまっぴらなので、火をつけて燃やしてしまいましょう」
と脅迫する。

言葉だけでは効果がないと、マッチに火をつけてみせたから、戸のすきまからようすをうかがっていたおやじ、さすがにあわてだす。

六尺棒を持って、表に飛び出し
「この野郎、さァ、こんとちくしょう!」

幸太郎、追いかけられて、これではたまらんと逃げだした。

抜け裏に入って、ぐるりと回ると家の前に戻った。

いい具合に、おやじが開けた戸がそのままだったので、これはありがたいと中に入るとピシャッと閉め込み、錠まで下ろしてしまった。

そこへおやじが、腰をさすりながら戻ってくる。

「おい、開けろ」
「ええ、どなたでございましょうか」
「野郎、もう入ってやがる。おまえのおやじの孝右衛門だ」
「ああ、孝右衛門のお友達ですか。手前どもにも孝右衛門という一人のおやじがありますが、あれがまあ、朝から晩まで働いて、ああいうのをうっちゃっとくってえと、しまいにゃ、いくら金を残すかしれませんから、親類協議の上、あれは勘当いたしました」

立場がまるっきり逆転。

「やかましい、他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、世間のおやじは、せがれさんが風邪でもひいたってえと『一杯のんだらどうだ。小遣いをやるから、女のとこへ遊びにでも行け』。はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のおやじを見習え」

それを聞いて、おやじ、
「なにを言いやがんでェ。そんなに俺のまねをしたかったら、六尺棒を持って追いかけてこい」

底本:初代三遊亭遊三

【しりたい】

三遊亭遊三

文化4年(1807)の口演記録が残る、古い噺です。

明治末期には、御家人上がりで元彰義隊士という異色の落語家、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)が得意にしていました。

とはいえ、この遊三はヘナヘナ侍の典型で、幕府賄方役人でありながら、のむ打つ買うの三道楽だけが一人前。

お城勤めよりも、寄席で一席うかがうのがむしろ本業で、彰義隊に駆り出されて立てこもった上野の山からも、さっさと逃走。

維新後、裁判官になりましたが、被告の女に色目を使われてフラフラ。

カラスをサギ、有罪を無理やり無罪にして、あっさりクビに。

これでせいせいしたと喜んで落語家に「戻った」という、あっぱれな御仁です。

十朱幸代さん(俳優)の曽祖父にあたる人です。十朱久雄(俳優)の祖父ですね。あたりまえですが。

遊三から志ん生へ

遊三は、美濃部戌行と初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)と三人、御家人仲間で、若き日の遊び友達だったそうです。

美濃部戌行は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の父親、初代円遊は明治の爆笑王です。

その関係からか、遊三は孝蔵少年(志ん生)をかわいがりました。

志ん生は「火焔太鼓」「疝気の虫」「六尺棒」などを遊三から会得しています。

遊三の明治41年(1908)の速記を見ると、このおやじ、ガンコを装っていても、一皮むけば実に大甘で、セガレになめられっ放し、ということがよくわかります。

本当に勘当する気などさらさらなく、むしろ心配で心配でならないのです。

志ん生の方は、遊三のギャグなどは十分残しながら、親子して「勘当ごっこ」で遊びたわむれてるような爆笑編に仕上げています。

なかでも、おやじがいちいち、返事に「明日ッから明日ッからてえのは、もう聞き飽きた……とお言伝てを願います」「どうしようと大きなお世話だ……とお言伝てを願います」というぐあいに、いちいち「お言伝て」をつけるところは抱腹絶倒です。

十代のころ、巡査だったおやじの金キセルを勝手に質入れしてしまい、おやじに槍で追いかけられそれっきり家に帰らなかった、というほろ苦い思い出が、この噺には生きているのでしょう。

六尺棒

樫材などで作る、泥棒退治用の棍棒です。

警察署の前には門番みたいに屈強な巡査が六尺棒を持って立っていますね。アレです。

六尺(約180cm)ですから、人の身長ほどの長さでしょうか。

これを使った棒術や杖術といった武芸もあるようですから、武器になる代物です。

志ん生のおやじは、維新後は「棒」と呼ばれた草創期の巡査で、巡邏(巡回)のときは、いつも長い木の棒を持ち歩いていたとか。

高座でこの噺を演じながら、志ん生は、遊三と同年の大正3年(1914)に亡くなった、遠い日の父親を思い出していたのかもしれません。

数少ない「対話劇」

落語は、講談と違って、複数の登場人物の会話を中心に進めていく芸です。

例外的に「地ばなし」といって、説明が中心になるものもありますが、大半は演者は「ワキ」でしかありません。

「六尺棒」は、その中でも登場人物が二人しかいない、おやじと息子のやりとりのみで展開する「対話劇」とでもいえるものです。

「対話劇」などと言っても、どだい、落語という話芸は対話が中心となるわけで、とりわけこの噺に対話の特徴が強い、という程度の話です。

それだけに、イキ、テンポ、間の取り方が命で、芸の巧拙が、これほどはっきりわかる噺はないかもしれません。

この種のものは、落語にはそう多くありません。

隠居と八五郎しか登場しない「浮世根問」はじめ、「穴子でからぬけ」「今戸焼」「犬の目」なども登場人物二人の噺ですが、どちらかというと小咄程度の軽い噺ばかりです。

「六尺棒」のように本格的な劇的構成を持ち、背景としての人物も登場しない噺はかなりまれです。



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しろうとようしょく【素人洋食】落語演目

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【どんな?】

洋食に凝った金満地主。
長屋の連中に食べさせる。
どこかで聴いたような噺。
「寝床」にそっくり。
これがまた笑えるのです。

あらすじ

文明開化の東京。

「いまだ旧平」という名の地主。

大変な金満家で、土地や家作(貸家)はもちろん、桑畑も持っているいいご身分。

開化が大嫌いで、いまだにチョンマゲを乗せ、人力車が通ると胸が悪くなるだの、馬車の音がすると頭痛がするなどと言っている。

それで、長屋の者に「デボチン頭の旧平」と陰口をたたかれている。

当人もうすうすそれを知っているから、
「オレに金を借りている連中ばかりなのに生意気だ、今に見返してやる」
と一念発起。

文明開化に百八十度転向して、なんとか流行の先端を行く洋食屋を開業することにした。

コックを雇うのはめんどうだから、だんなが自分で料理をすることに決めた。

勧工場(デパート)で一銭五厘の『西洋料理煮方法』なる怪しげな虎の巻を買ってきた。

要は魚油でなんでもかんでも炒めて、パンを食わせておけばいいのだからと、さっそく大家以下長屋の連中を招集した。

料理の実験台にすることに決めたのだ。

勝手に決められた奴らこそいい迷惑。

なんだかだと理由をこしらえて、誰も来やしない。

怒った旧平だんな、
「来ない奴は洋食ならぬ店立てをくわせた上、貸金を利息共全部取り立てる」
と脅した。

しかたなく、みんなが集まる。

「あのだんなのことだから、陰口をきいたのを根に持って毒を入れるかもしれない」
と、毒消しを用意したりしている。

六十三歳になる女性は
「老い先短い命だから」
と、せがれの身代わりに念仏を唱えて出てきたりと、命がけの大騒ぎ。

ところが、やたらパンばかり出てくるので、一同閉口。

台所からお経のようなうなり声が聞こえるから、
「どうしたか」
と聞くと、
「魚油と水が火に入って燃え上がったが、たった一人の相談役の道具屋の吉兵衛がいなくなり、だんなが困ってうなっている」
という。

「スプンとかいうものがほしい」
と注文が出た。

だんなは知らないのでスッポンと聞き違え、さっそく取り寄せて、生きているままテーブルに出した。

みんな食いつかれて大騒ぎ。

そんな一幕の後、ようやく吉兵衛が帰ってくる。

「みなさん、どうしました」
「やたらパンばかり出て困ります」
「パンの多いはず。長屋一同バタ(バター=ばか)にされた」

【RIZAP COOK】

うんちく

洋食ことはじめ 【RIZAP COOK】

初めて日本人が洋食を口にしたのは、嘉永7年(=安政元、1854)、幕府の代表団がペリーの「黒船」に招かれての歓迎晩餐会。

ということに、これまではなっていましたが、最近は、そんな間抜けな説をとなえる人は、あまりいません。

すでに、長崎の阿蘭陀通詞(幕府の通訳、身分は幕臣)たちは、ふつうに洋食を食べていたのですから。

江戸中期(18世紀)には、彼らの間では一般的な生活習慣となっていました。

つまり、江戸時代にもすでに西洋文化をしっかり受容していた人たちが、一定数、確実にいたのです。

彼らの多くは、維新後、京都や東京などで西洋文化の橋渡しをする役割をしていきました。

明治維新後、肉食が解禁され、まず牛鍋屋が東京の各所に出現しました。

それ以前、慶応3年(1867)、『西洋衣食住』(福沢諭吉著)でマナー、ナイフやフォークなど食器の紹介がなされています。

明治4年(1871)には、横浜駒形町に本格的西洋料理店「開陽亭」がオープンしました。横浜居留地の西洋人相手の店でしたが。

明治5年(1872)、最初の本格的西洋料理レシピが掲載された『西洋料理通』(仮名垣魯文著)が刊行されました。

これに触発されたか、東京にも翌年、京橋区采女町(中央区銀座六丁目)に北村重威が「精養軒」を開店したのです。

これを手始めに、神田橋の三河屋、築地日新亭、茅場町海陽亭なども続々と開店していきました。

明治10年(1878)前後には数も増え、十軒ほどの洋食屋が記録されています。

この時期はまだ、日本人でこれらの店を利用するのは、役人、政治家、銀行家など、新興階級がほとんどでした。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記掲載の4年前、明治19年(1886)には、築地精養軒でテーブルマナーの講習会が開かれます。

このあたりから、従前の「西洋料理」が「洋食」と言い慣わされるなど、ようやく一般にも普及し始めました。

明治30年代に入ると、洋食はますます定着しきます。

明治39年(1906)9月発行の『東京案内』(東京市役所編)には、神田、日本橋、京橋を中心にした、比較的大規模な西洋料理店42軒が掲載されています。

この噺で、長屋のお歴々の悪夢のタネとなるパンは、かなり早く、寛政7(1795)年刊の『長崎見聞録』にすでに紹介されています。

この本は通詞とは関係なく刊行されていますから、西洋人の珍妙ぶりばかりが強調された手あかのついた風俗本でした。

やがて、相つぐ外国船の登場から武士を中心とした連中の国防意識が高まると、いざというときの兵糧用として乾パンが注目を集めました。

ペリー来航の2年後、安政2年(1855)には、水戸藩が長崎へ製法習得のため、家臣を派遣した記録があります。

通詞の生活に比べるとかなり遅れています。

このパンなるものは、固いビスケットに近いものだったようです。

その後も戊辰戦争(1868-69)を経て、乾パンは日本陸軍の軍隊食として定着します。

本格的なパン販売の広告は、慶応3年(1867)、横浜で発行の「万国新聞」に早くも見えます。

明治5年(1872)刊の『西洋料理指南』に「焙麦餅はわが飯と一般のものにして、方今横浜又は築地において製して売るなり」とあります。

普及は洋食そのものよりずっと早かったようです。

明治6年(1873)から7年(1874)になると、東京市内に雨後のタケノコのごとくパン店が増殖しました。

『明治事物起原』(石井研堂)によると、このころ「ばかの番付」で「米穀を食せずしてパンを好む日本の人」が大関に張り出されたとか。

バターとなると、前述の慶応3年(1867)の新聞広告に「ボットル」として販売広告があります。

おそらく輸入品で、ごく例外的なものでしょう。

国産は明治7年に試作されたものの、日本人の口に合わなかったか、なかなか普及しませんでした。

白牛酪 【RIZAP COOK】

明治13年(1880)の広告に「牛乳、粉ミルク、バター、クリーム、白牛酪」を製造販売する旨が見えます。

「白牛酪」はチーズのことです。

人々がおずおずと口に入れ始めたのは、明治20年代に入ってからでした。

日本人の舌にもっとも抵抗が強かったのは、乳製品です。

昭和30年代になっても、バターやチーズを受けつけない人は、都市部にもけっこういました。

円遊の開化カリカチュア 【RIZAP COOK】

この噺は、初代三遊亭円遊が「素人鰻」をよりモダンに改作したものです。

明治24年(1891)1月に雑誌『百花園』に掲載されているので、創作は前年ということでしょう。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は、明治の爆笑王で、大きな鼻が目立ったため「鼻の円遊」と呼ばれたりしていました。下の写真を見ても、そんなに大きい鼻だったのかどうか。

それでも、鼻をもいで「捨ててこ、捨ててこ」と踊ったそうです。

ステテコ踊りとして、高座での人気は沸騰しました。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の高弟で、四天王の一人です。

寝床」のだんなの義太夫を、洋食に置き換えた趣もあります。

主人公のような、断髪令が出ようがどうしようが、ガンとしてマゲを切らない士族や江戸町人は、明治末年に至るまで少なくなかったようです。

そんな旧弊の権化が百八十度転向して、洋食に凝りだすというおかしみは、今も昔も変らぬ日本人の「変わり身の早さ」をおもしろがって、当てこすっているようです。

キワモノとされるためか、円遊以後、後継者はありません。

円遊の速記は、今となっては、落語というよりも、当時の世相を語る貴重な資料といったところでしょう。

パンばかりをやたらに食わせるシーンは、「素人鰻」の六代目円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)の演出で、蒲焼きができず、コウコと酒ばかり出すくだりを、ほうふつとさせます。

鼻の円遊

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たいないりょこう【体内旅行】落語演目

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【どんな?】

明治人の想像力の凄さ。
独製の薬を塗り友人の体内に侵入した男。
ダジャレばっかりの落語版「ミクロの決死圏」。
根本敬の漫画にもこんなのがありました。

【あらすじ】

二人の男(以下、甲と乙)が牛鍋をつつきながら話している。

本町四丁目のウルコリポイ薬種店に、ドイツの薬が渡来した。

体に塗れば塗るほど、体が小さくなる薬とか。

さっそく乙が試し、甲の目から体内に侵入した。体内旅行の始まりだ。

入り口では、目黒瞳町の眉毛屋の黒兵衛がごあいさつ。

上にいる額区の味噌屋の主人が体内旅行の案内役になる。

まずは、黒毛町を経て頭山へ参詣としゃれこむ。

見渡せば、耳が淵脳骨山や痰仏が眺望できる。

「大変な地面ですから水を打つには税を出さなければならず、いくら税を出しても痰仏さまの税がゼーゼー」
と味噌屋。

喘息道の前に建つ石の門が喘門、その奥が咽家気管という工学士が設計した西洋館。

周りには椿(=唾き)の植え込みがあり、大きな泉水は水落ちの池、向こうの寺は溜院、広い公園は助膜園、りっぱな蔵付きの家が脹満銀行で、寄席は胃病亭。

ただいま心臓病の三味線で腸胃が義太夫を語っている。

乙「大勢聞いていますね」
味噌屋「虫が聞いてます。虫のいい奴で」

やがて疝気の虫、驚風の虫、癇癪の虫など多くの虫が傍聴している議事堂へ。

乙が
「虫諸君、人間を殺して生きていることはできません。外から来る者に害を与えるのは心得違いです」
と、演説をぶつ。

胃病の虫「私は甘いものが好きなので三度の食事の後に茶菓子をいただきたい」
乙「そりゃあできません」
ほかの虫「人間が食わなければいいのです」
乙「それは虫がいいというもの」
ほかの虫「虫が好きます」

まぜっかえしの混戦で、議会は解散する始末。

やがて甲のくしゃみで、乙は甲の鼻から飛びだしてきた。

甲「君は利口だな。目から鼻へ抜けた」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

「鼻の円遊」のシュール珍作

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が、明治30年(1897)12月の雑誌『百花園』に速記を掲載したものです。

この人、「鼻の円遊」「ステテコの円遊」と呼ばれ、明治初期の爆笑王でした。初代なのですが、「三代目」と自称していました。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の高弟で、四天王の一人と称揚されていました。

晩年は時代に合わず、あまり評価されませんでした。

当時の科学の進歩を当て込んだ、円遊の新作と思われます。

詳細はまったく不明で、それきり消えた珍品中の珍品です。

聞きかじりの怪しげな西洋医学の知識と、「疝気の虫」にも見られた、病気はすべて体内の「虫」が引き起こすという古めかしい俗信をないまぜにし、あとはダジャレばかり。

落語の構成としてはひどい愚作なのですが、あの時代に「ミクロの決死圏」よろしく、人間が「ナノ化」して体内をめぐるという発想は新鮮です。

現在読んでも楽しめるものになっています。

あるいは「疝気の虫」をヒントに、当時流布した体内解剖図を参照して作ったのかもしれません。

どなたかが、現代の最新医学(?)を採り入れて改作してくれると、おもしろいですね。

本町四丁目

ほんちょう。中央区日本橋本町2、3丁目にあたります。

家康が江戸入府後、最初に手掛けた町割りで、その意味で、まさしく「江戸のルーツ」といえる由緒ある町です。

それ以前には処刑場があったところ、とされます。

その「血の穢れ」が嫌われて、「天下祭り」と言われた山王権現や神田明神の祭礼の神輿渡御が許されなかった、という因縁があります。

江戸屈指の目抜き通りで、問屋や大商店が軒を並べました。

本町のうちでも、この噺に登場する薬種問屋は三、四丁目に集まっていました。

「ウルコリポイ」については不詳です。

目から鼻へ抜けた

オチは言うまでもなく、「頭の回転が速い」という意味の慣用句を掛けたものです。

「鼻」は円遊自身のあだ名を効かせてあるのでしょう。

これは、「大仏餅」のオチをちゃっかりとパクったものです。

「大仏餅」は、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)の最後の高座となった人情噺です。

【語の読みと注】
本町四丁目 ほんちょうよんちょうめ
ウルコリポイ薬種店 うるこりぽいやくしゅてん
目黒瞳町 めぐろひとみちょう
眉毛屋 まゆげや
黒兵衛 くろべえ
額区 ひたいく
黒毛町 くろげちょう
頭山 あたまやま
淵脳骨山 えんのうこうつざん
痰仏 たんぼとけ
喘息道 ぜんそくどう
喘門 ぜんもん
咽家気管 いんけきかん
椿 つばき
水落ちの池 みずおりのいけ
溜院 りゅういん
助膜園 ろくまくえん
脹満銀行 ちょうまんぎんこう
胃病亭 いびょうてい
腸胃 ちょうい
疝気の虫 せんきのむし
驚風の虫 きょうふうのむし
癇癪の虫 かんしゃくのむし

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にちれんだいしどうとくばなし【日蓮大士道徳話】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

【どんな?】

日蓮の出生譚。
遠州から房州へ。
奇瑞をからめて生まれた日蓮。
円朝噺。
改宗した円朝が日蓮の功徳を物語に。

あらすじ

日蓮の直接の先祖である貫名家の系譜と日蓮の誕生までを描く。

全七回中、最初の二回分は本題には入らない。

円朝が自身の身辺を語る。麻布鬼子母神堂の行者、磯村松太郎の手引きで日蓮宗に入信したことを語る。

円朝自身が日蓮宗に改宗した事実を披露するのは、現在残っている作品中、これを見るだけである。

ついで、在家が守るべき「五戒」(殺生戒、偸盗戒、邪淫戒、妄語戒、飲酒戒)を話題に、仏教の基本の考えを述べる。

立宗して後、「念仏無間」と鎌倉で流行していた念仏の宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗など)をそしるようす、念仏系がたたく鉦は陰気で法華(日蓮宗系)がたたく太鼓は陽気だ、といった落語でよく聞くたとえ話をまぜて語る。

第三回からは本題「大士系譜及び誕生話」に入る。

日蓮の遠祖は藤原鎌足に始まり、鎌足から十二代の藤原共資の代に一族は遠江に移った。

子が次々と夭逝し継嗣がいないことを苦にして、井谷明神に月に三度の願掛けを続けた1010年(寛弘7)、地元の井谷明神境内の橘の木の根方に白い綾のきれに包んで捨てられていた赤子を拾った。

これが日蓮の直接の先祖となる人で、井伊家の祖、共保となる。

井桁のそばの橘の大樹に捨てられてあったことから、紋所は「井桁に橘」が定紋となった。日蓮宗の紋所でもある。

共資から五代目の四男が四郎政直が山名郡貫名に移り住んだので貫名姓となる。

その後、貫名次郎重忠は岡本次郎の娘花鳥と結婚して一子をもうけたが、まもなく三浦泰村合戦に巻き込まれた。

重忠は安房へ流されて、在地の大野吉清の娘梅菊と結婚した。

妙の浦に蓮華が生じ泉が湧出する奇瑞、老翁が手の上に抱いた玉のような子を授ける霊夢などを経て、日蓮が誕生した。

しりたい

入信後に

日蓮宗では「8」のつく日をよしとするそうです。

円朝が麻布鬼子母神堂の磯村松太郎行者の導きで入信したのは、明治29年(1896)7月28日のことです。

その後、10月28日から、日蓮宗の週刊新聞「日宗新報」に連載されたのが、この噺です。

一般向けではなく、日蓮宗の信者に向けて円朝が語り起こした噺ですが、7回で終わってしまいました。

日蓮が生まれるところで終わりです。なんとも、いやはや。

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くまのかわ【熊の皮】落語演目



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【どんな?】

甚兵衛が先生に。
「女房がよろしく申してました」
思わずニヤリの艶笑噺。

別題:八百屋

【あらすじ】

横町の医者から、祝い事があったからと、赤飯が届けられた。

その礼に行かなければということで、少し人間のネジがゆるみ加減の亭主の甚兵衛に、女房が口上を教える。

「うけたまわれば、お祝い事がありましたそうで、おめでとう存じます。お門多のところを、手前どもまで赤飯をちょうだいしまして、ありがとう存じます。女房からくれぐれもよろしく申しました」

「おまえさんはおめでたいから、決して最後のを忘れるんじゃない。それからあの先生は道具自慢だから、なにか道具の一つも褒めといで」
と注意されて送り出される。

まあ、おなじみの与太郎ほどではないから、
「ありがとう存じます」
まではなんとか言えたが、肝心の 「女房が」 以下をきれいに忘れてしまった。

「はて、まだなにかあったみてえだが……」

座敷へ上げてもらっても、まだ首をひねっている。

「……えー、先生、なにかほめるような道具はないですか」
「ナニ、道具が見たいか。よしよし、……これはどうだ」
「へえ、こりゃあ、なんです」
「珍品の熊の皮の巾着だ」

なるほど本物と見えて、黒い皮がびっしりと生えている。

触ってみると、丸い穴が二か所開いている。鉄砲玉の痕らしい。

甚兵衛、感心して毛をなでまわしている間に、ひょいとその穴に二本の指が入った。

「あっ、先生、女房がよろしく申しました」

【しりたい】

触るものはいろいろ

原話は安永2年(1773)刊の笑話本『聞上手』中の「熊革」ですが、その他、同3年刊『豆談語』、同5年刊『売言葉』、同8年刊『鯛味噌津』など、複数の出典に類話があります。

男が最後になでるものは、「熊革」ではたばこ入れですが、のちに胴乱(腰に下げる袋)、熊の敷皮など、いろいろ変わりました。

前出の『売言葉』中の「寒の見まい」では敷皮になっていて、現在ではほぼこれが定着しています。

エロ味を消す苦心

五代目柳亭左楽(中山千太郎、1872-1953、八代目桂文楽の師匠)、六代目蝶花楼馬楽(河原三郎、1908-87)、六代目三升家小勝(吉田邦重、1908-1971、右女助の、糀谷の)など、かつてはどちらかというとマイナーで「玄人好み」の落語家が手掛けた噺でした。

二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)、柳家喜多八(林寬史、1949-2016、殿下)などもやっていました。おふたりとも、故人になられているのがじつにもう残念でありますが。

この程度の艶笑噺でも、やはり公ではそのままはやりにくいとみえ、昔からエロ味を消した、当たりさわりのないオチが工夫されています。

たとえば、同じ毛皮を触るやり方でも、女房が亭主のスネ毛を引っ張ったので、後でその連想で思い出したり、熊の皮は尻に敷くものだと言われて初めて「女房がよろしく……」となったり、演者によっていろいろですが、いずれもおもしろくもなんともなく、味も素っ気もありません。

医者と巾着

昔の医者は、往診の際に巾着を薬入れに使ったため、それがオチの「小道具」として用いられるのがいちばん自然ですが、現在では理解されにくくなっています。

隠語では巾着は女性の局部を意味するので、特別な会やお座敷で艶笑噺として演じる場合は当然、オチに直結するわけです。

鉄砲玉の痕をくじるやり方はかなり後発のものらしく、安永年間のどの原話にも見られません。

たばこ入れ、巾着、敷皮と品は変わっても、すべてなめし革ではなく、毛のびっしり付いたものですから触るだけでも十分エロチックで、穴まで出すのは蛇足なばかりか、ほとんどポルノに近い、えげつない演出といえます。



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