しながわしんじゅう【品川心中】落語演目

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【どんな?】

品川宿のお染も寄る年波には勝てず。
いっそ、客の誰かと心中しちまえ、と。
落語中の最高傑作。長いので「上」と「下」に。
たっぷりどうぞ。

あらすじ

【上】

品川の白木屋という見世でずっと板頭を張ってきたお染。

寄る年波には勝てず、板頭とは名ばかり。

次第に客も減り、目前に迫る紋日のために必要な四十両を用立ててくれそうな、だんなもいない。

勝ち気な女だけに、恥をかくくらいならいっそ死んでしまおうと決心したが、一人より二人の方が、心中と浮き名が立ち、死に花が咲くから、適当な道連れはいないかと、なじみ帳を調べると、目に止まったのが、神田の貸本屋の金蔵。

独り者だし、ばかで大食らいで、助平で、欲張り。

あんな奴ァ殺した方が世のためと、
「これにきーめた」

金蔵、勝手に決められちまった。

お染は、さっそく金蔵あてに、
「身の上の相談事があるから、ぜひぜひ来てほしい」
という手紙がいく。

お染に岡惚れしている金蔵は、手紙を押しいただくと、喜んで品川にすっ飛んでくる。

ところが、当のお染が廻しに出たままなかなか帰らず、金蔵がふてくされて寝たふりをしている。

いつの間にか戻ってきたお染、なんと自分の遺書をしたためているので、金蔵は仰天。

家にあるもの一切合切たたき売っても、金蔵にこしらえられる金はせいぜい一両がいいとこ。

どうにもならないというので、つねづね年季が明けたら夫婦になると言っている手前、つい、
「いっしょに死んでやる」
と言ってしまった。

お染はしてやったりと大喜びで、さっそく明日の晩決行と決まる。

この世の名残と、その晩、お染がはりきってご奉仕したため、金蔵はもうフラフラ。

帰ると、二人分の死装束の白無垢と安い脇差を買う。

世話になっている出入りの親分の家に、この世のいとま乞い。

まさか
「心中します」
とは言えないから、
「西の方に出かけて帰ってくるのは盆の十三日」
とか、わけのわからないことを言って、まぬけなことに肝心の脇差を忘れていってしまう。

その晩は、「勘定は六道の辻まで取りにこい」とばかり、金蔵のみ放題の食い放題。

あげくの果ては、酔いつぶれて寝込んでしまった。

そのばか面の寝顔を見て、お染はこんな野郎と冥土の道行きをしなければならないかと思うとつくづく情けなくなるが、選んだ以上どうしようもない。

たたき起こして、用意のカミソリで片を付けようとするが、気の小さい金蔵、いざとなるとブルブル震えてどうにもならない。

「じゃ、おまえさん、いっしょに死ぬというのはウソだったんだね、そんな不実な人なら、あたしは死んだ後、七日たたないうちに取り殺してやる」
と脅し、引きづるように品川の浜へ。

「おまえばかりを殺しゃあしない、南無阿弥陀仏」
と金蔵を突き落として、続いてお染も飛び込もうとすると、気配に気づいた若い者が抱き留める。

「待った。お染さん、悪い料簡を起こしちゃいけねえ。たった今、山の御前が五十両届けてくれなすって、おまえさんの喜ぶ顔が見たいとお待ちかねだ」
「あーら……でももう遅いよ。金さんが先に……」
「金さん? 貸本屋の金蔵ですかい? あんなもんなら、ようがす」

金が整ったと知ると、お染は死ぬのがばかばかしくなり、浜に向かって
「ねえ金ちゃん、こういうわけで、あたしゃ少し死ぬのを見合わせるわ。人間一度は死ぬから、いずれあの世でお目にかかりますから。それでは長々失礼」

失礼な奴もあるもの。

金蔵、飛び込んだところが遠浅だったため助かったが、おかげで若い衆とお染の話を海の中で聞き、さあ怒るまいことか。

「こんちくしょう、あのあまァ、どうするか見てやがれ」

やっとの思いで浜に上がったが、髪はザンバラ、何かで切ったのか、顔面は血と泥がこびりつき、着物はぐっしょり。

まさに亡者のような姿で、ふらふらになって親分の家へ。

ちょうどその時、親分宅ではガラッポンと勝負事の真っ最中。

戸口でガタリと音がしたので、「すわ、手入れだ」と大あわて。

糠味噌の中に突っ込んだ手でなすの漬け物をあわててつかみ、自分の金玉がもげたと勘違いする奴も出て、さんざん。

ところが、金蔵とわかって、一同ひと安心。

その中で一人だけ、泰然と座っている者がいる。

「なんだ、みんな、だらしがねえ。……伝兵衛さんを見ろ。さすがにお侍さんだ。びくともしねえで座っておいでた」
「いや、面目ない。とっくに腰が抜けております」

【下】

金蔵から、心中のし損ないでお染が裏切った一件を聞いた親分、
「ひどい女だ」
と同情し、
「そいつはひとつ仕返しをしてやる」
と請け合い、
「まだお染はてめえが死んだと思い込んでいるから、怪談仕立てでだましてやろう」
と計画を練る。

まず、金蔵が大引け前に、白木屋に引き返す。

現れた金蔵に、お染は幽霊かと思ってびっくりする。

金蔵は
「十万億土の原っぱのような所まで行ったが、お地蔵さまに帰れと言われて引き返してきた」
と打ち合わせ通り陰気な声で言い、線香を焚いて白団子と水をくれと縁起の悪いことを並べ、
「気分が悪いから寝かせてくれ」
と奥の間に引きこもってしまう。

そこへ現れたのが親分と、金蔵の弟に化け込んだ子分の民公。

お染に会って
「実は金公が土左衛門で上がったが、おめえが金公と年季が明けたら、いっしょになると言って交わした起請文が、ヘソのところへべったりへばりついていた。おめえのことを思って死んだんだと思うから、通夜にはおめえも来てもらって、線香の一本も手向けてやってもらいたい」
と泣いてみせる。

お染は、
「たった今しがた金蔵が来たばかりだよ」
と、ばかにしてせせら笑う。

そこで、証拠に金蔵の位牌をここに持ってきたと民公が懐を探って、
「確かにあったのにない、ない」
と芝居をしてみせる。

論より証拠と、お染が、金蔵の寝ている部屋に二人を案内すると、かねての打ち合わせ通り金蔵は隠れていて、布団の中には「大食院好色信士」と戒名が書かれた位牌が一つ。

さてはと、さすがのお染も青くなり、金蔵を突き落として、自分だけ都合よく心中をやめたことを洗いざらい白状。

「こいつは間違いなく恨みが残っていて、てめえは取り殺される」
と親分が脅すので、お染はもうオロオロ。

そこで最後の仕上げ。

「おめえがせめても髪を下ろして、すまなかったと謝まれば、金公も浮かぶに違いねえ」

お染が恐ろしさのあまり、根元からぷっつり髪を切り、その上、回向料として五両出したところで、当の金蔵がノッソリ登場。

「あーら、こんちくしょう、人をだましたんだね。なんぼなんでも人を坊主にして、どうするのさ」
「そう怒るな。てめえがあんまり客を釣る(=だます)から、比丘びく(=魚籠びくに)されたんだ」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

めったに聴けない「下」  【RIZAP COOK】

三遊派に古くから伝わる郭噺の大ネタです。

先の大戦後も、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)ほか、ほとんどすべての大看板が演じており、もちろん現在も、よく高座に掛けられます。

ただ、「上」だけでも長いうえ、「下」となると陰気で、噺としてもあまりおもしろくないということで、昔からあまり演じられません。

その中で、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)は皮肉を含んで「下」のみを演じていました。

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)は、その円馬に多数の噺を教わり、もっとも私淑していました。

でも、「品川心中」は音源は残しているものの、好きな噺ではなかったようです。

昭和の大看板では珍しく、めったにやりませんでした。

「下」では、六代目円生と五代目志ん生の速記が残されています。貴重です。

品川宿  【RIZAP COOK】

東海道の親宿(起点)として古くから栄えました。

新宿、板橋、千住と並んで、江戸近郊で非公認の大規模な遊郭を持つ四つの宿場(四宿)の筆頭です。

吉原の「北国」に対し、江戸の南ということで、通称は「南」。

宿場は徒歩新宿、北本宿、南本宿に分かれていました。

目黒川の向こう岸の南本宿は「橋向こう」といって小見世が多く、この噺の「白木屋」も南本宿です。

居残り佐平次」の舞台になった相模屋(土蔵相模)、歌舞伎「め組の喧嘩」の事件の発端となる「島崎楼」など、有名な大見世はすべて北側にかたまっていました。

宿場の成立は、享保年間(1716-36)です。

飯盛り(宿場女郎)を置くことを許可され、本格的に遊郭として発足したのは、万治2年(1659)のことでした。

宿場よりも遊郭のほうが早かったことになります。

品川は芝・増上寺ほかの僧侶の「隠れ遊び」の本場でもありました。

六代目円生が「品川心中」のマクラでいくつか挙げている川柳。

品川は 衣衣の 別れなり

自堕落や 岸打つ波に 坊主寝る

表向き、僧侶は女犯厳禁ですから、同じ頭を丸めているということで、医者に化けて登楼するという、けしからん花和尚(なまぐさ坊主)が後を絶たなかったわけです。

品川を舞台にした噺は意外に少なく、「居残り佐平次」とこの「品川心中」のほかは艶笑落語の「品川の豆」ぐらいです。

演者によって「剃刀」「三枚起請」などの廓噺を、吉原から品川に代えて演じることもあります。

板頭  【RIZAP COOK】

いたがしら。女郎屋で、最も月間の稼ぎのいい、ナンバーワンの売れっ子のことです。

吉原では「お職」と呼ばれましたが、品川ほかの岡場所(非公認の遊廓)では、その名称は許されず、遊女の名札の板が、その月の稼ぎ高の順に並べられるところから、そのトップを板頭と呼んだわけです。

蛇足ながら。

岡場所の「岡」とは脇の意味です。吉原に対する脇なのですね。

「岡惚れ」「岡焼き」「岡目八目」の「岡」も同じ使われ方です。この場合の「岡」は傍と同意です。「傍惚れ」「傍焼き」「傍目八目」と記されたりもします。

紋日、物日  【RIZAP COOK】

もんび、ものび。

五節季や八朔(➡江戸入り)、月見、三社祭りなどのハレの年中行事には、着物や浴衣を新調し、手ぬぐいに祝儀をつけて、若い衆や遣り手などの廓の裏方に配るなど、女郎にとってはかなりの金がかかりました。

売れていない女郎には大変ですが、これをやらないと恥をかき、住み替え(今よりランクの落ちる岡場所へ移る)でもしなければなりませんでした。

この噺のお染の悩みは、それだけ切実だったわけです。

貸本屋  【RIZAP COOK】

江戸時代には、一軒構えの本屋はありませんでした。

もっぱら貸本屋が紺の前掛けをして、廓や大店などの得意先を回ったものです。

幕末太陽傳  【RIZAP COOK】

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)は、文久2年(1862)、幕末の世情騒然としていたころの品川、それも土蔵相模を舞台に、落語の「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」を巧みにアレンジした、世界の喜劇映画史に残る最高傑作です。

土蔵相模とは、屋号は「相模屋」で壁が土蔵づくりだったために、こう呼ばれていたそうです。

労咳(結核)病みの主人公・佐平次(フランキー堺)の「羽織落とし」のお座敷芸が評判でした。

「品川心中」のくだりでは、なんといっても、遊郭へ春本(エロ本)を売りに来る、小沢昭一(小澤昭一、1929-2012)が演じる「あばたの金造(あば金)」が絶品です。

映画では「金造」でした。

小沢は当時29歳だったそうです。とても見えませんが。

「これが唐人のアレで……」といやらしく笑う、小沢のあば金を見るだけでも、この作品は一見の価値あり。

並みの落語家では遠く及びません。

         幕末太陽傳を見ずして落語ファンと言うなかれ!☞

比丘尼される  【RIZAP COOK】

「下」のオチですが、今ではわかりにくいでしょう。

よく考えると単純で、「釣る(だます)」から「魚籠」を出し、女を坊主にしたため、それと「比丘尼(尼僧)」をダジャレで掛けただけです。

「比丘尼」は、安永年間(1772-81)まで新大橋付近に出没した尼僧姿の売女「歌比丘尼」の意味もあります。

品川遊郭の女郎であるお染が坊主にされて、最下級の「歌比丘尼」にまで堕ちたという侮辱もこめられているはずです。

【語の読みと注】
板頭:いたがしら:筆頭女郎
四宿:ししゅく:品川、新宿、板橋、千住の宿場
北国:ほっこく:吉原の異称
徒歩新宿:かちしんしゅく:品川
八朔 はっさく:8月1日。徳川家康が入ってきた日とか
お職:おしょく:吉原での筆頭女郎
労咳 ろうがい:肺結核
魚籠:びく:釣った魚を入れておく容器
比丘:びく:僧
比丘尼:びくに:尼僧



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かずとり【数取り】落語演目



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【どんな?】

たまには趣向を変えて、ムフフな噺を。

【あらすじ】

町内の若い衆。

寄るとさわるとどこそこの誰はどこの娘とデキた、と噂をしあっている。

その前を通っていったのが、むちゃくちゃ色っぽい尼さん。

法衣の裾が、歩く度にチラチラとのぞいて、尼にしておくのはもったいないほどのいい女だが、はて、正体がわからない。

大工の留公が、あれは、実は紀州五十五万石のお姫さまで、さる旗本の若殿さまと許婚だったが、その若殿がポックリお亡くなりになったので世をはかなんで、しみひとつない生娘のまま尼になりなすったのだと、得意になって言いふらすと、そりゃア高嶺の花だと、一同よだれを垂らして、ため息ばかり。

ところが、そこに現れた八公が、
「明日きっとあの尼さんをモノにしてくる」
と大見得を切ってみせる。

翌朝、なにを考えたか、八公、ぼろをまとって顔には梅干しの皮で吹き出物をこしらえ、両手で竹の棒を突いて業病人を装い、尼さんの庵室目指して裏山を登っていく。

「そこにいるのは誰じゃ」

八公、あわれっぽい声で、
「自分はどの医者からも見放された重病人だが、ある夜、阿弥陀さまが枕元に立って『そちの病気は、富貴の家に生まれた若き尼僧にしっかり抱かれ、お念仏を唱えればたちまち治る』とのお告げがあったので、ぜひ、ご庵主さまのお情けを乞いたい」
と、とんでもないうそ八百を並べる。

尼さんも、阿弥陀さまの口添えでは簡単に断れない。

しかたなく、庵室に入れたのが運の尽き。

八公は「しめた」とばかり、だんだんと正体を現し、
「お床を敷いて、その中で抱いてください」
と言い出す。

「とんでもない。そのような淫らな」
「これは庵主さまのお言葉とも思えません。心が修行一筋でありなさるなら、邪心など起こらないはず」

こう言われては、しかたがない。

やがて、八公の手が胸のあたりをモゾモゾ。

「これ、何をしやる」
「修行が足りませんぞ」
「これ、そなたの手が、私の股のところへ」

なにをされても、ご修行が足りないの一点張りで、どうにもならない。

そのうちに、妙なものが、尼さんの腰のあたりで動く。

「こ、これ、この棒はなんじゃ」
「へえ、これは数取り棒でございまして、お念仏の数を取りますので」

そういうものかと、尼さんは一心不乱に
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」

やがて、両方とも、息も絶え絶え。

とうとう、尼さん、
「これ、お念仏はもうよい。数取りだけにしてくりゃれ」

【しりたい】

「オリジナル」では婆さんを

原話は安永2(1773)年刊の笑話本『今歳花時』中の「薬喰い」。

これは物乞いの老婆を犯すという設定で、オチは老婆が「病気が治まったらまたおいで」

古くは被害者(?)が旅の比丘尼であったり、戌の年月日そろった生まれの質屋の娘が、良縁がないのを苦に尼になったという設定もありました。

宇井無愁(上方落語研究家)は、この噺のさらに原型になる類話として、鎌倉時代中期に成立した説話集『古今著聞集』巻十六「興言利口」第二十五話を挙げています。

尼さんは蜜の味?

この「興言利口」では、若い僧が尼さんを見そめ、自ら尼に変装して弟子入りをし、三年間修行しますが、とうとうガマンできなくなり、ある晩、襲ってしまいます。

ヤラれて尼は持仏堂に走り、やたらに鉦を打ち鳴らしたあと、戻ってきて、「続き」をやってくれと迫るので、どうしたことかと鉦のわけをただすと、「あんまり気持ちよかったので、仏におすそ分けしてきた」

もっとも、昔からこの種の噺は各地の民話に流布しているようです。

絶品「いろはにほへと」

噺が噺だけに、演者の名が表ざたになることは少なく、現在ある速記のなかでは、五代目三遊亭圓楽(吉河寛海、1932-2009)の名があるだけです。

特筆されるべきは、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)が円熟の絶頂期に出した艶笑小咄の名盤「いろはにほへと」の続集にこの噺が収録されていることです。

米朝ならではの粋な味わい、冴えた描写力、流麗で不潔さをみじんも感じさせない語り口は、絶品の一言。

数取り

多くの数を勘定するとき、忘れないために用意するもので、この噺の場合は男が、病気平癒の祈願のため、千遍念仏を唱えると言って尼さんをだますため、五十遍ごとに棒を一本「立てて」数を取るのだと、ごまかします。

もっとも、そのたびごとに「いっぺん、スッとこの中へ入れさしてもらいます」(米朝)と、とんでもない行為に及ぶのですが。

数取りには昔は棒に限らず、串を用いたり、オハジキやこよりを用いることもありました。

平安時代には「数差し」といって、歌合わせなどの際に、勝った数を数えて数取りの串を数立てに差し、今でいうボードゲームの得点表のように使ったとか。

怪しげな「尼さん」も

尼は比丘尼ともいい、梵語の「ビクシュニー」からきています。

尼寺の始めは、崇峻天皇3年(590)年に百済から帰朝した尼僧の善信らを桜井寺に住まわせた時とされます。

8世紀、聖武天皇が諸国に国分尼寺を建立、京都には尼寺五山が設立されました。

高貴な出身の尼僧が住む寺は比丘尼御所と呼ばれ、尊崇を受けたましたが、大部分の尼寺は単に「庵」と呼ばれ、住職を庵主さまと呼びました。

最下級の尼は諸国を放浪し、売春まがいのことも。これらは、歌比丘尼・熊野比丘尼などと呼ばれました。



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