【数取り】かずとり 落語演目 あらすじ



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【どんな?】

たまには趣向を変えて、ムフフな噺を。

【あらすじ】

町内の若い衆。

寄るとさわるとどこそこの誰はどこの娘とデキた、と噂をしあっている。

その前を通っていったのが、むちゃくちゃ色っぽい尼さん。

法衣の裾が、歩く度にチラチラとのぞいて、尼にしておくのはもったいないほどのいい女だが、はて、正体がわからない。

大工の留公が、あれは、実は紀州五十五万石のお姫さまで、さる旗本の若殿さまと許婚だったが、その若殿がポックリお亡くなりになったので世をはかなんで、しみひとつない生娘のまま尼になりなすったのだと、得意になって言いふらすと、そりゃア高嶺の花だと、一同よだれを垂らして、ため息ばかり。

ところが、そこに現れた八公が、
「明日きっとあの尼さんをモノにしてくる」
と大見得を切ってみせる。

翌朝、なにを考えたか、八公、ぼろをまとって顔には梅干しの皮で吹き出物をこしらえ、両手で竹の棒を突いて業病人を装い、尼さんの庵室目指して裏山を登っていく。

「そこにいるのは誰じゃ」

八公、あわれっぽい声で、
「自分はどの医者からも見放された重病人だが、ある夜、阿弥陀さまが枕元に立って『そちの病気は、富貴の家に生まれた若き尼僧にしっかり抱かれ、お念仏を唱えればたちまち治る』とのお告げがあったので、ぜひ、ご庵主さまのお情けを乞いたい」
と、とんでもないうそ八百を並べる。

尼さんも、阿弥陀さまの口添えでは簡単に断れない。

しかたなく、庵室に入れたのが運の尽き。

八公は「しめた」とばかり、だんだんと正体を現し、
「お床を敷いて、その中で抱いてください」
と言い出す。

「とんでもない。そのような淫らな」
「これは庵主さまのお言葉とも思えません。心が修行一筋でありなさるなら、邪心など起こらないはず」

こう言われては、しかたがない。

やがて、八公の手が胸のあたりをモゾモゾ。

「これ、何をしやる」
「修行が足りませんぞ」
「これ、そなたの手が、私の股のところへ」

なにをされても、ご修行が足りないの一点張りで、どうにもならない。

そのうちに、妙なものが、尼さんの腰のあたりで動く。

「こ、これ、この棒はなんじゃ」
「へえ、これは数取り棒でございまして、お念仏の数を取りますので」

そういうものかと、尼さんは一心不乱に
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」

やがて、両方とも、息も絶え絶え。

とうとう、尼さん、
「これ、お念仏はもうよい。数取りだけにしてくりゃれ」

【しりたい】

「オリジナル」では婆さんを

原話は安永2(1773)年刊の笑話本『今歳花時』中の「薬喰い」。

これは物乞いの老婆を犯すという設定で、オチは老婆が「病気が治まったらまたおいで」

古くは被害者(?)が旅の比丘尼であったり、戌の年月日そろった生まれの質屋の娘が、良縁がないのを苦に尼になったという設定もありました。

宇井無愁(上方落語研究家)は、この噺のさらに原型になる類話として、鎌倉時代中期に成立した説話集『古今著聞集』巻十六「興言利口」第二十五話を挙げています。

尼さんは蜜の味?

この「興言利口」では、若い僧が尼さんを見そめ、自ら尼に変装して弟子入りをし、三年間修行しますが、とうとうガマンできなくなり、ある晩、襲ってしまいます。

ヤラれて尼は持仏堂に走り、やたらに鉦を打ち鳴らしたあと、戻ってきて、「続き」をやってくれと迫るので、どうしたことかと鉦のわけをただすと、「あんまり気持ちよかったので、仏におすそ分けしてきた」

もっとも、昔からこの種の噺は各地の民話に流布しているようです。

絶品「いろはにほへと」

噺が噺だけに、演者の名が表ざたになることは少なく、現在ある速記のなかでは、五代目三遊亭圓楽(吉河寛海、1932-2009)の名があるだけです。

特筆されるべきは、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)が円熟の絶頂期に出した艶笑小咄の名盤「いろはにほへと」の続集にこの噺が収録されていることです。

米朝ならではの粋な味わい、冴えた描写力、流麗で不潔さをみじんも感じさせない語り口は、絶品の一言。

数取り

多くの数を勘定するとき、忘れないために用意するもので、この噺の場合は男が、病気平癒の祈願のため、千遍念仏を唱えると言って尼さんをだますため、五十遍ごとに棒を一本「立てて」数を取るのだと、ごまかします。

もっとも、そのたびごとに「いっぺん、スッとこの中へ入れさしてもらいます」(米朝)と、とんでもない行為に及ぶのですが。

数取りには昔は棒に限らず、串を用いたり、オハジキやこよりを用いることもありました。

平安時代には「数差し」といって、歌合わせなどの際に、勝った数を数えて数取りの串を数立てに差し、今でいうボードゲームの得点表のように使ったとか。

怪しげな「尼さん」も

尼は比丘尼ともいい、梵語の「ビクシュニー」からきています。

尼寺の始めは、崇峻天皇3年(590)年に百済から帰朝した尼僧の善信らを桜井寺に住まわせた時とされます。

8世紀、聖武天皇が諸国に国分尼寺を建立、京都には尼寺五山が設立されました。

高貴な出身の尼僧が住む寺は比丘尼御所と呼ばれ、尊崇を受けたましたが、大部分の尼寺は単に「庵」と呼ばれ、住職を庵主さまと呼びました。

最下級の尼は諸国を放浪し、売春まがいのことも。これらは、歌比丘尼・熊野比丘尼などと呼ばれました。



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