しゃしんのあだうち【写真の仇討ち】落語演目



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【どんな?】

こんなかたき討ちならのんきです。
袖にされた怨念は底知れぬもの。

別題:一枚起請 恨みの写真 写真の指傷 指切り

【あらすじ】

信次郎には恋仲の芸者小照がいた。

多額の金を貢いでいたが、裏切られた。

思いつめた信次郎、
「あたしも士族の子。面目にかけても生かしちゃ置けないから、これから女を一突きにし、自分も死ぬから」
と、いとま乞いにやってきたので、伯父さんが意見をする。

「昔、晋国の智伯という人が趙襄子に殺され、その家来の予譲は主人の仇を討とうとして捕らえられた。趙襄子は大度量の人だから、そのまま許してくれたが、あきらめずに今度は顔に漆を塗って炭を飲み、人相を変え、物乞いに化けて橋の下で趙襄子を狙った。ところが敵の乗った馬がピタリと動かなくなり気づかれた。『この前、命を助けてやったのに、なぜ何度もわしを狙う。もともとおまえの主人は范氏で、それが智伯に滅ぼされた時に捕虜になって随身したもの。とすれば、わしはおまえの元主人の仇を討ってやったも同じではないか』と責めると『ごもっともだが、智伯には私を引き立ててくれた恩があります。士はおのれを知る者のために死すと申します』と悪びれずに言ったので、趙襄子は感心して『おまえの志にめでて討たれてやりたいが、今わしが死んでは世の中が乱れる。これをわしと思って、ぞんぶんにうらみを晴らせ』と自分の着物の片袖を与えたので、予譲が剣でそれを貫く。突いたところから血がタラタラ。結局、予譲は自害したが、ああ、人の執念は恐ろしいものと趙襄子は衝撃を受け、3年もたたないうちにそれが元で死んだ、という。おまえも相手は商売人で、だまされたのはおまえに軍配が上がるのだから、大切な命をそんな女のためにむだにせず、その女からもらったものを突くなり、切るなりしてうっぷんを晴らすがいい」

いや、じつに、長い。

そう言われて、信次郎もなるほどと思い、貸してもらった鎧通しで、持っていた女の写真を
「思い知れ」
とばかり、ズブリ。

とたんに写真から、血がダラダラ。

「ああ、執念は恐ろしい。写真から血が」
「いえ、あたくしが指ィ切ったんで」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

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【うんちく】

上野彦馬→伴野朗→藤浦敦→円朝

写真の日本伝来は天保12年(1841)のこと。

長崎の上野俊之丞常足うえのとしのじょうつねたり(1790-1851)が、オランダ船で輸入したダゲレオタイプカメラ(水銀蒸気を用いたものが始まり。1837年にフランスのダゲールが発明)を薩摩藩主島津斉興に献上したのが始まりとされますが、確証はありません。

ちなみに、上野常足は上野彦馬(1838-1904)の父です。

彦馬は天保9年生まれ、円朝は天保10年生まれ、渋沢栄一は天保11年生まれ、福沢諭吉は天保5年生まれ。

いずれも「天保老人」となる二世を生きた人です。「二世を生きた人」とは、人生のおよそ半々を江戸と明治で生きた人をさします。当時、よく使った用語です。

さて。

川本幸民(1809-70)が、安政元年(1854)に日本最初の写真に関する翻訳書『遠西記述』を刊行しました。

その後、下岡蓮杖(1823-1914)、上野彦馬の2人が最新のアメリカ式の写真術を会得しました。

下岡は横浜野毛で、上野は長崎で写真館を開業しました。

下岡は風景写真に、上野は肖像写真にと、それぞれの草分けとなりました。

上野彦馬は、「坂本龍馬の写真」を代表作とする伴野朗(1936-2004)の連作歴史推理小説集の主人公で、探偵役にされています。

伴野朗は、朝日新聞記者としての勤務のかたわら、歴史ミステリーを執筆するセミプロ作家でした。

この先出世の見込みのなさそうな朝日新聞を辞めて、映画監督に転身しています。

先の大戦での華北を舞台にした『落陽』(日活、1992年)という大作でした。

結果はおおこけで、配給会社の日活はいったん倒産しました。おおこけ大作については、次項を。

伴野もこれが原因なのか、朝日からいきなり「落陽」へと相成りました。

伴野をそそのかしたのは、藤浦敦(1930.1.1-2023.5.29)でした。

この人物は、赤坂区氷川下→早稲田大学政経学部→読売新聞記者→日活監督と、異色の人生を送った方。

記者から監督へ。なんでこんな寝返りができるのか。

それは、藤浦家が日活の大株主だったからです。死ぬまでの時間つぶしには格好のなりわいが、記者であり監督だったそうで、この人の生活環境ではどうとでもできたのだそうです。

げんに、藤浦敦監督作品の日活ロマンポルノ作品は艶笑ものばっかりで、落語の世界をきわどくビジュアルにしてくれています。噺家も出演していますし。

それがまた、みんなそこそのヒット作ばかりだったのですから、金のある奴はとことん運がついてまわるのでしょうか、「お天道さまとじゃらぜにはついて回る」という格言通り。なんとも、うらやましくも首をしめたくなるような人生です。

この方の父は藤浦富太郎と言います。

祖父は周吉(三周)で、「大根河岸のだんな」と呼ばれた一族です。大根河岸は京橋のあたり。三周は円朝の強力なパトロンでした。いまの東京シティ青果です。都内の青果卸の最大手の主。松本清張の『けものみち』のモデルかとささやかれてもいます。まあ、並みの世間に怖いもの知らずの人物です。

「三遊亭円朝」の名跡を抱える家で有名です。藤浦敦自身も「落語三遊派宗家」を名乗りました。

そのような一連の事情は、藤浦敦自身が放談本『日活不良監督伝 だんびら一代 藤浦敦』(藤木TDC構成、洋泉社、2016年)で大いに語り、吠えています。

虚実の雲間、しゃれかまじかはつゆ知らず。まあ、「戯言」として読めばけっこう楽しめる代物です。観客不在の映画興行を知り得た気分にもなれますし。むちゃくちゃです。

さらには、藤浦一族の語る円朝像はどうもあやしい、という思いにもさせてくれます。そういう意味では、落語ファンにはしっかり好著、必読の文献なのです、この代物は。

三大おおこけ大作

おおこけ大作というのは、庶民の目から眺めればきわどく痛快なものです。

映画館でのヘンなもの見ちゃった気恥ずかしさとシラケた心持ちが交錯していって「なにやってやがる」「ざまあみろ」「ひでえな」「金返せ」「このボケが」といった罵詈雑言が憤りとともに増長していくものです。

管見(古木)ではありますが、『天国の門』(マイケル・チミノ監督、こけたのはユナイト映画)、『幻の湖』(橋本忍監督、こけたのは橋本)、『落陽』(伴野朗監督、こけたのは日活と伴野)を「三大おおこけ大作」と認定しています。『落陽』は日活を本当に「落陽」させてしまいました。

彦六が復活

昭和初期の八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)の速記が残っていますが、先の大戦後は八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)が「指切り」の演題でレパートリーとしました。

本あらすじは、その正蔵の速記をテキストに依拠しています。

八代目正蔵は、二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)門下で、やはりこの噺を得意としていた三遊亭円流の口演を聴いて覚えたと語っていました。

「私の若いころ『写真を突くときは下へ置け。下へ置かなきゃ指までじゃ来ない』と教えてくれた先輩がありました」とは彦六の弁。二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)も演じました。

長編人情噺を落語化

別題は「恨みの写真」「指切り」「写真の指傷」「一枚起請」とさまざまです。明治17年(1884)に刊行された二代目五明楼玉輔の口演本『開化奇談写真の仇討』を落語化したものです。二代目五明楼玉輔とは、のちの玉の家梅翁(鈴木重蔵、1828-1897.9.16)のこと。

原作は、アメリカから帰朝した医学士の青年が父親を毒殺した男に復讐しようと狙ったものの明治政府の仇討禁止令で果たせず、写真を刺して孝道を貫くという筋立ての長編人情噺です。

この趣向を、古くからあった「一枚起請」という噺と結びつけたものと見られます。

「一枚起請」は、現行の「写真の仇討ち」と筋はほとんど同じですが、男が突くものがお女郎の起請文であるところが異なります。

予譲と趙襄子の故事

出典は『史記』「刺客伝」によるもの。司馬遷です。

ことばよみいみ
しん
智伯ちはく
趙襄子 ちょうじょうし
予譲よじょう
范氏はんし
随身ずいじん
鎧通しよろいどおし日本刀の一種。鎧の隙間から刺す短刀



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