ししゅくのへ【四宿の屁】落語演目

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【どんな?】

尾籠な小噺の寄せ集め。
これだけ集めりゃあね。
におってきそうです。

【あらすじ】

江戸時代、品川、新宿、千住、板橋の四つの岡場所(非公認の遊廓)を四宿といった。

吉原についでにぎわったわけだ。

これは、それぞれの女郎の特徴を、屁で表した小噺。

まず、品川。

昼遊びで、女郎が同衾中に布団のすそを足で持ち上げ、スーッとすかし屁。

客が
「寒い」
と文句を言うと
「あそこの帆かけ舟をごらんなさいよ」
と、ごまかす。

そろそろ大丈夫と足を下ろすと、とたんにプーンとにおう。

「うーん、今のは肥舟か」

次は、新宿。

これも、女郎が布団の中で一発。

ごまかそうと
「今、地震じゃなかった?」

今度は、千住。

女郎が客に酌をしようとしている時に、不慮の一発。

そばにいた若い衆が、自分が被ってやると、客は正直さに免じて祝儀をくれる。

女郎があわてて
「今のは私」

最後に、板橋。

ここは田舎出の女が多く、粗野で乱暴。

客が女郎に
「屁をしたな」
と文句を言うと、女は居直って客の胸ぐらをつかみ
「屁をしたがどうした。もししゃばりやがったらタダはおかねえ」
と脅す。

仰天して
「言わないからご勘弁を」
「きっと言わねえな」
と言うと
「それじゃ、もう一発。ブーッ」

スヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

四宿

四宿と呼ばれた新宿、品川、千住、板橋。

それぞれ、街道の親宿(=起点)で、吉原のように公許ではないものの、飯盛女の名目で遊女を置くことが許された四大「岡場所」でした。

以下、そのうち、新宿、板橋の沿革をひとくさり。

ほかの二宿については、「居残り佐平次」「品川心中」(以上が品川)、「藁人形」「今戸の狐」(以上が千住)を、それぞれお読みください。

内藤新宿

新宿は、正式名称は内藤新宿。

落語では「文違い」「五人廻し」(演者によって吉原)などに登場します。

地名の起こりは、家康公江戸入府直後、高遠城主・内藤信濃守に、現在の新宿御苑の地に屋敷を賜ったことからというのが定説です。

ほかにも諸説あって、確定しませんが。

甲州街道の起点で、宿場設立は元禄11(1698)年。

浅草阿部川町の名主・喜兵衛ら有志六人が設立を請願、その際、飯盛を置くことを許可されたものです。

当初は田んぼの中にあったとか。

遊女の客引きが目に余るというので、宿場そのものが享保3(1718)年にお取りつぶしに。

54年後の明和9年(1772)に復興しました。

その後、新宿追分(新宿一、二丁目)を中心に栄えました。

旗本・鈴木主水と遊女・白糸の情話もここが舞台。

遊女の投げ込み寺(死体遺棄所)として成覚寺がありました。

新宿の有名な郭は「豊倉」「新金」など。

中でも新金は、明治時代には、娼妓の扱いが過酷なところから「鬼の新金」の異名がありました。

現在の伊勢丹向かい、マルイのあたりにあった見世です。

板橋

板橋は中山道の起点。

上宿、中宿、平尾宿の三つに分けられていました。

宿場の起源ははっきりしません。

幕府が中山道の宿駅をを正式に定めた寛永7年(1630)当時からある、古い宿場です。

板橋の地名は、室町時代初期の成立とされる「義経記」にも記載されています。

上宿と中宿の境を流れる、石神井川に掛かっていた木橋から起こったとされます。

郭は、四宿の中では最も格下です。

飯盛もこの噺に登場するように粗野で田舎じみていると評されました。

板橋を舞台とする噺は、ほかには「阿武松」くらいです。

演者によっては、「三人旅」の出発を中山道回りとする場合に板橋を見送りの場に設定することもありますが。

名人たちの逃げ噺

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)が「客がセコな時にやったネタ」として有名です。この言い回しは、立川談志(松岡克由、1935-2011)によりますが。

六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)には、これをトリで毎日演じてて席亭に文句を言われた、というエピソードも。

円生の師匠、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)もしばしば演じたといいます。明治大正を代表する名人です。

屁の小咄

短い小咄の寄せ集めなので、演者によって異なったものを挿入することがよくあります。

以下、そのいくつかをご紹介。

花魁が、客の前でスーッ。

ごまかそうと、母親の病気を治すため願掛けして月に一度恥をかいていると言いつくろう。

客が感心して「えらいねえ」と言ったとたん、また一発。

「ほい、これは来月分」。

これは五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)のもの。

江戸城の大広間に、諸大名が集まっているところで、将軍が一発。

水戸さまが鼻を押さえて
「草木(=臭き)もなびく君の御威勢」
紀州さまが
「天下泰平(=屁)」
と続けると、諸大名が
「へーへーへー」

禿が客に酌をしながら一発。

花魁がしかって、下に降りろと言ったとたんに自分も一発。

「えー、早く降りないかい。あたしも行くから」

……まことにどうも、罪のないというか、あほらしいというか。

原話

千住の小咄の原話のみ分かっています。

明和9年(1772)刊の笑話本『鹿の子餅』中の「屁」です。

ただ、オチの部分は異なっています。

あとで、女郎がご祝儀をもらった若い衆にそっと「あたしのおかげだよ」とささやき、恩に着せるというもの。

現行のようなシャープさはありません。

これはこれで、その恩義が「屁」であるという、ばかばかしいおかしみがあります。

【語の読みと注】
岡場所 おかばしょ:非公認の遊廓
禿 かむろ



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とんちき【とんちき】落語演目



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【どんな?】

「とんちき」とは「まぬけ」の意。
まったくもって奇妙な構成の噺です。
ムチャクチャ笑っちゃいます。

あらすじ

嵐の日なら廓はガラガラで、さぞモテるだろうと考えた男。

わざわざ稲光のする日を選んで、びしょ濡れで吉原へ。

揚がってなじみのお女郎を指名、寿司や刺し身もとってこれからしっぽり、という矢先に、女が
「ちょいと待ってておくれ」
と消えてしまう。

世の中には同じことを考える奴はあるもので、隣の部屋で、さっきから焦れて待っている男、女が現れると
「おめえ、今晩は客がねえてえからおらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、朝、おまえさんが顔を洗ってたら、二階から楊枝をくわえて髭の濃い、変な奴が下りてきたろ。足に毛が生えた、熊が着物を着ているような奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

隣の男、「あんな野郎なら」と安心して、花魁と杯のやりとりを始める。

そのうちに、花魁が
「だけどもね、いまチョイチョイと……」
とわけのわからない言い訳をして、また消えてしまう。

前の座敷へ戻ると
「おめえ、今晩は客がねえてえから、おらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と、嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、おまえさんが顔を洗いに二階から下りてきたとき、あたしが顔を洗わせてたお客があったろ。あの目尻が下がった、鼻が広がったあごの長い奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

底本:初代柳家小せん

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しりたい

円遊から小せんへ

原話は不明。初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が「果報の遊客」の演題で明治26年(1893)7月『百花園』に速記を載せています。

円遊のものは、同じ廓噺の「五人廻し」をくすぐりたくさんにくずしたようなもので、文句を言う客に女郎が「おまはんはあたしの亭主だろう。自分の女房によけい客がつくんだから、いいじゃないか」と、居直って膝をキュっとつねり、隣の部屋に行ってまた、間夫気取りの男を翻弄。

「おまはんも甚助(焼き餅)だねえ。奥に来てる奴は知ってる人だよ。あのばかが来てるんだよ」「うん、あのばかか」とオチた上、「両方で同じことを言っております」と、よけいなダメを押しています。

明治末から大正初年にかけ、これを粋にすっきりまとめ、「とんちき」の演題を使い始めたのが、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)でした。近代廓噺のパイオニアです。

大正8年(1919)9月、その遺稿集として出た『廓ばなし小せん十八番』に収録の速記を見てみましょう。

マクラで、活動写真のおかげで近ごろは廓が盛らないなどと大正初期の世相を織り込み、若い落語家(自分)がなけなしのワリ(給金)を持って安見世に揚がり、「部屋ったって廻し部屋、たばこ盆もありゃアしません。たもとからマッチを出して煙草を吸い始める、お女郎衆のお座敷だか田舎の停車場だかわからない」と、当時の寒々とした安見世の雰囲気を活写し、今に伝える貴重な風俗ルポを残しています。

小せんはさらに、花魁がいつまでも向こうを向いて寝ているので、「こっちをお向きよ」「いやだよ、あたしは左が寝勝手(=寝やすい)なんだよ」「そうかい、それじゃ俺がそっちへ行こう」「いけないよ。箪笥があるんだよ」「あったっていいじゃないか」「中のものがなくならあね」という小咄をマクラに振っています。

これは、小せんに直伝で廓噺を伝授された五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が、しばしば使っていたネタ。

残念ながら志ん生自身の「とんちき」の速記や音源はありません。

それにしても、小せんと志ん生の年齢差はたった7歳でした。

昭和48年(1973)、83歳まで生きた志ん生に比べ、小せんは享年36。早すぎる天才の夭折でした。

とんちき

生粋の江戸悪態ことばで、「トンマ」「まぬけ」の意味。

もとは「とん吉」と言ったのが、いつの間にか音が転倒しました。

江戸語にはこの手が多く、好例に「こんちき」があります。

狐を意味する「こんこんさま」の「こん」に「吉」を付けて擬人化し、さらに「吉」を転倒させて「こんちき」とすることで、擬音にも使われ出し「こんこんちきちん」にまで通ずる語となりました。

「しだらがない」が「だらしがない」に転訛したように、誤用、または洒落てひっくり返して使っていたのが、そのまま定着してしまった例もあります。

深川の岡場所(幕府非公認の遊郭)で、ヤボな客を「とんちき」と呼んだので、廓噺だけにその意味も合体しています。

18世紀後半には、江戸の、しかも深川の遊里から「通」「粋」といった美意識が生まれていきました。

寛政の改革で吉原が締め付けられたことで遊びの中心が深川に移ってのこと、といわれています。

なんの確証もありませんが、とりあえず今は、この俗説を信じておきましょう。

となると、「とんちき」は、「粋」の対語となる「野暮」の派生語としてはやったのかもしれません。とりあえずの説です。



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たつみのつじうら【辰巳の辻占】落語演目



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【どんな?】

心中噺。
落語のは歌舞伎や文楽と違います。
本性丸出しで小気味よく。
辰巳とは東南。深川のことです。

別題:辻占 辻占茶屋(上方)

【あらすじ】

道楽者の猪之助が、おじさんのところに金の無心に来る。

辰巳(深川)の静というお女郎に首ったけで、どうしても身請けをして女房にしたいが、三百円の金が要るという。

つい今し方、猪之助の母親が来て、さんざん泣いて帰ったばかりなので、その手前、説教はしてみたものの、このおじさん、若いころ少しはその道に覚えのある身で、言って聞かせても当人がのぼせていて、どうにもならないと見て取ると、
「金を出す前に女の料簡を試してみろ」
と、一計を授ける。

翌日、猪之助がいやに深刻な顔で見世に現れた。

「どうしたの」
「実は借金が返せねえので、おじさんの判をちょろまかして金を融通したのがバレて、赤い着物を着なくちゃならねえ。この上は、死ぬよりほかないので、別れに来た」
「まあ、おまはんが死ぬなら、あたしも一緒に」

行きがかり上、そう言うしかしかたがない。

「それでいつ?」
「今晩」
「あら、ちょいと早過ぎるワ。日延べはできないの」
「できない」

……しまったと思ってももう遅く、その夜二人で大川にドカンボコンと身を投げることになってしまった。

静の方はいやいやながらなので、のろのろ歩いているうちに石につまづいて、
「あー、痛。この石がもっけの幸い」
とばかり、「南無阿弥陀仏」と声だけはやたら大きく、身代わりに石を川へドボーン。

男の方は、その音を聞いててっきり静が飛び込んだと思い込み、大変なことをしでかしたと青くなる。

「どのみち、オレは泳げねえ、でえいち、仕組んだおじさんが全部悪いんだから……どうしようか」
と迷ううち、こちらも石に蹴っつまづいて、
「……えい、そうだ。静、オレも行くからな……。悪く思うなよ」

やっぱり同じように身代わりに、石をドボーン。

静はこれを聞いて、
「あーら、飛び込んだわ。あのばかが。あー寒い。帰ろうっと」

両方がそろそろっと、寒さに震えながら戻ってくると、地獄宿の看板の行燈の前で、バッタリ。

「あっ、てめえ、静」
「あーら、猪之はん。ごきげんよう」
「ばか野郎。太ェアマだ」
「娑婆(しゃば=この世)で会って以来ねェ」

底本:四代目橘家円喬

【しりたい】

原話は男色の心中

最古の原話は、寛永13年(1636)刊の笑話集『きのふはけふのものがたり』」の一編です。

これは若衆と念者、つまり男同士の心中騒ぎです。衆道(男同士の性愛)です。

衆道は当時、一部の社会では一般的だったので、そこでは男同士の心中も珍しくありませんでした。

これが男女に変わったのは、宝永2年(1705)刊の初代露の五郎兵衛著『露休置土産』中の「心中の大筈者」です。

いやいやながらの心中行で、両人ともいざとなって逃げ出すという結末は、最初から一貫して同じです。

大阪では「辻占茶屋」と題し、音曲仕立てでにぎやかに演じます。

東京には明治中期に移植され、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

先の大戦後は三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)の十八番で、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)も得意としていました。

現在では、ほとんど手掛ける人がいなくなりました。滅びるには惜しい、なかなか小味で粋な噺なのですがね。

辻占

もとは、往来の人の言葉で吉凶を占うことです。ここでは、「辻占菓子」を指します。

せんべい、饅頭などの中に、恋占いのおみくじを入れたもので、遊里の茶屋などのサービス品でした。

噺の中で、主人公・猪之助が女を待つ間、退屈しのぎに菓子の辻占をひいてみる場面があることから、女の心を試すという展開とかけて、この題名がつけられました。

江戸時代には、町々を流し、おみくじを売り歩く「辻占売り」もいました。

辰巳

深川の岡場所(幕府非公認の遊郭)のこと。

深川は江戸の辰巳の方角(東南)にあたるので、こう呼ばれたのです。

元は洲崎すさきともいい、承応2年(1653)に富岡門前町が開かれて以来、「七場所」と称する深川遊郭が発展しました。

地獄宿

素人女性を使った、非合法の隠し売春宿のこと。地獄図を描いた絵看板が目印で、そこで「営業」する女を「地獄娘じごくむす」と呼びました。『東海道四谷怪談』にも出てきます。

オチで女が発する「娑婆しゃばで会って以来」というのは、遊里の通言で「お久しぶり」の意味です。

もとは、吉原を極楽に見立てて、その外の俗世間を「娑婆」と呼んだものです。



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