【どんな?】
明治人の想像力の凄さ。
独製の薬を塗り友人の体内に侵入した男。
ダジャレばっかりの落語版「ミクロの決死圏」。
根本敬の漫画にもこんなのがありました。
【あらすじ】
二人の男(以下、甲と乙)が牛鍋をつつきながら話している。
本町四丁目のウルコリポイ薬種店に、ドイツの薬が渡来した。
体に塗れば塗るほど、体が小さくなる薬とか。
さっそく乙が試し、甲の目から体内に侵入した。体内旅行の始まりだ。
入り口では、目黒瞳町の眉毛屋の黒兵衛がごあいさつ。
上にいる額区の味噌屋の主人が体内旅行の案内役になる。
まずは、黒毛町を経て頭山へ参詣としゃれこむ。
見渡せば、耳が淵脳骨山や痰仏が眺望できる。
「大変な地面ですから水を打つには税を出さなければならず、いくら税を出しても痰仏さまの税がゼーゼー」
と味噌屋。
喘息道の前に建つ石の門が喘門、その奥が咽家気管という工学士が設計した西洋館。
周りには椿(=唾き)の植え込みがあり、大きな泉水は水落ちの池、向こうの寺は溜院、広い公園は助膜園、りっぱな蔵付きの家が脹満銀行で、寄席は胃病亭。
ただいま心臓病の三味線で腸胃が義太夫を語っている。
乙「大勢聞いていますね」
味噌屋「虫が聞いてます。虫のいい奴で」
やがて疝気の虫、驚風の虫、癇癪の虫など多くの虫が傍聴している議事堂へ。
乙が
「虫諸君、人間を殺して生きていることはできません。外から来る者に害を与えるのは心得違いです」
と、演説をぶつ。
胃病の虫「私は甘いものが好きなので三度の食事の後に茶菓子をいただきたい」
乙「そりゃあできません」
ほかの虫「人間が食わなければいいのです」
乙「それは虫がいいというもの」
ほかの虫「虫が好きます」
まぜっかえしの混戦で、議会は解散する始末。
やがて甲のくしゃみで、乙は甲の鼻から飛びだしてきた。
甲「君は利口だな。目から鼻へ抜けた」
底本:初代三遊亭円遊
【しりたい】
「鼻の円遊」のシュール珍作
初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が、明治30年(1897)12月の雑誌『百花園』に速記を掲載したものです。
この人、「鼻の円遊」「ステテコの円遊」と呼ばれ、明治初期の爆笑王でした。初代なのですが、「三代目」と自称していました。
三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の高弟で、四天王の一人と称揚されていました。
晩年は時代に合わず、あまり評価されませんでした。
当時の科学の進歩を当て込んだ、円遊の新作と思われます。
詳細はまったく不明で、それきり消えた珍品中の珍品です。
聞きかじりの怪しげな西洋医学の知識と、「疝気の虫」にも見られた、病気はすべて体内の「虫」が引き起こすという古めかしい俗信をないまぜにし、あとはダジャレばかり。
落語の構成としてはひどい愚作なのですが、あの時代に「ミクロの決死圏」よろしく、人間が「ナノ化」して体内をめぐるという発想は新鮮です。
現在読んでも楽しめるものになっています。
あるいは「疝気の虫」をヒントに、当時流布した体内解剖図を参照して作ったのかもしれません。
どなたかが、現代の最新医学(?)を採り入れて改作してくれると、おもしろいですね。
本町四丁目
ほんちょう。中央区日本橋本町2、3丁目にあたります。
家康が江戸入府後、最初に手掛けた町割りで、その意味で、まさしく「江戸のルーツ」といえる由緒ある町です。
それ以前には処刑場があったところ、とされます。
その「血の穢れ」が嫌われて、「天下祭り」と言われた山王権現や神田明神の祭礼の神輿渡御が許されなかった、という因縁があります。
江戸屈指の目抜き通りで、問屋や大商店が軒を並べました。
本町のうちでも、この噺に登場する薬種問屋は三、四丁目に集まっていました。
「ウルコリポイ」については不詳です。
目から鼻へ抜けた
オチは言うまでもなく、「頭の回転が速い」という意味の慣用句を掛けたものです。
「鼻」は円遊自身のあだ名を効かせてあるのでしょう。
これは、「大仏餅」のオチをちゃっかりとパクったものです。
「大仏餅」は、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)の最後の高座となった人情噺です。
【語の読みと注】
本町四丁目 ほんちょうよんちょうめ
ウルコリポイ薬種店 うるこりぽいやくしゅてん
目黒瞳町 めぐろひとみちょう
眉毛屋 まゆげや
黒兵衛 くろべえ
額区 ひたいく
黒毛町 くろげちょう
頭山 あたまやま
淵脳骨山 えんのうこうつざん
痰仏 たんぼとけ
喘息道 ぜんそくどう
喘門 ぜんもん
咽家気管 いんけきかん
椿 つばき
水落ちの池 みずおりのいけ
溜院 りゅういん
助膜園 ろくまくえん
脹満銀行 ちょうまんぎんこう
胃病亭 いびょうてい
腸胃 ちょうい
疝気の虫 せんきのむし
驚風の虫 きょうふうのむし
癇癪の虫 かんしゃくのむし