くふうのいしゃ【工夫の医者】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

ばかばかしくてハイカラな明治の噺。

別題:新治療 頓知の医者(上方) 蘭方医者(上方)

【あらすじ】

藪で名高い先生の所へ、金さんが診察にやってくる。

のっけから、先生の所はいつ来ても病人が来ていたことがないと、嫌味を言われたので、先生、信用を取り戻そうと、薬なしで病を治すことを考えだしたと大きく出る。

「へえ、どういうんです」
「薬を使わず、理屈で治す。これはドイツの医者でもまだ発明してない」

金さんが、
「それじゃあ、あっしはさなだむしがわいたんですが、ひとつその理屈で治してほしい」
と頼むと、先生すまして
「それはわけない、蛙を飲め」
「どういうわけで?」
「腹の中へ入れば虫をくう」
「蛙が後に残ってあばれます」
「そんなら蛇をのみなさい」
「蛇が腹の中でのたくったら?」
「「ナメクジをのむ。蛇はとろける」
「ナメクジが残ったら?」
「雀をのむんだ」
「腹の中に巣を作られちゃ困ります」
「そうしたら鷹をのめばいい。雀をくっちまう」
「鷹が残ったら?」
「鷲」
「鷲が残ったら?」
「狩人」
「狩人が残ったら?」
「鬼をのむ」
「こっちがのまれる。それで、鬼が残って腹ん中を突っ付きまわしたら?」
「それなら節分の豆をのみなさい。鬼は外だ。もしいけなければ熱燗で一杯やれば、鬼は焼け死ぬ」
「その酒はなんといいます?」
「鬼殺し」
「先生、あなた頭がおかしくなりましたね」
「なに、鐘馗(=正気)だ」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

鼻の円遊の爆笑編

原話は、天保8年(1837)刊の笑話本『落噺仕立ておろし』中の「声の出る薬」とみられます。

もともと、小咄程度の短い藪医者噺を、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が独立させて、明治24年(1891)、速記に残したものです。

明治31年(1898)、円遊門下の初代三遊亭小円遊(鳥羽長助、1870-1902、鳥羽長の)の速記では「新治療」と題して、「工夫の医者」から「疝気の虫」につなげ、さらに、最初に出てきた患者(ここでは棟梁)が再び登場。

疝気の治療薬に、葵の葉三枚だけ処方されたので怒ると、「これは三つ葵(徳川の紋章)、虫はサナダ(=真田)であるから、病はじきに癒えます(=家康)」と、地口でオチるという、三編の小噺のオムニバスとしていました。

上方版はエロ噺

上方バージョンの「蘭方医者」は艶笑落語です。

最後に傘と竿を持った書生を患者が飲まされ、出てくる時に体内にそれらを置き忘れたので、患者は悶絶。医者が、「外科に行ってくれ。カサ(傘=瘡)がサオ(=男根)にかかった」というものです。

題名の「蘭方」はオランダ医学のことですが、「乱暴医者」と掛けてあるのでしょう。

話だけでなく、実際に飲ませてしまうのが東京と違ってしつこいところ。最後は「地獄八景」と同じく、「鬼を飲んだら、大王(閻魔大王=大黄)で下す」というオチも使われました。

上方でも、東京の「工夫の医者」そのままの「頓知の医者」があります。ただし、「頓知の医者」という演目は、東京では「金玉医者」の別題でもあります。ややこしいことです。

原話「声の出る薬」

よく声が出るように、ナメクジをのみ、そのあと、消化薬として蛙をのんだあと、雉→狐→狩人→庄屋→鬼→鬼殺しと、「虫拳」よろしく、次々に天敵をのんでいく小咄があります。

落語とは、順番とのむものにかなり異動があります。

藪医者の小咄5連発!

その1

ある医者のところに、盗人が忍び入った。タンスをかついで逃げるところを、女房が発見。「あれえ、どろぼおうッ」とだんなを起すと、盗人が居直って、「やいっ、手向かいしゃあがると、たたッ斬るぞ」。脇差を抜いたので、先生、薬箱から調合用の匙を出し、「これでもかッ」と、ひらめかす。アーラ不思議、盗人は「こりゃかなわん」と、タンスを捨てて退散。女房、びっくりして、「どうして逃げたの?」と聞くと、先生、「当たり前だ。この匙でどれだけ人を……」

安永2年(1773)刊『聞上手』中の「庸医匕」

その2

長屋の子供が道で遊んでいて、医者に蹴飛ばされた。親が怒ってねじこもうとすると、大家がなだめて、「足で蹴られただけで済んだのはめっけもんだ。今まであの先生の手にかかって、生き延びた患者は一人もねえんだ」

 安永6年(1777)刊『春-』中の「藪医者」

その3

ある男が、二階から落ちて気絶。女房が、あわてて三、四軒隣の、下手村毒庵先生を頼んだ。先生、みるなり、エヘンエヘンと咳払いして「はあ、こりゃもう息が切れた。もうとても助からんて。来るのが一日遅かったわ」

安永10年(1781)刊『民話新繁』中の「野父医者」

その4

閻魔大王が、明日をも知れない大病に。地獄の医者が、いろいろ手を尽くしても、容態は悪化の一途。最後の手段で、「シャバ(=この世)の名医を連れてこい」と青鬼が言いつけられた。「かしこまりましたが、シャバに参りましても、どれが名医だか分かりません。どうやって見分けましょう?」「そりゃ、門口に幽霊がいない医者が名医だわ」。教えられて青鬼、さっそくシャバで、片っ端から医者の玄関先をのぞいて回る。ところが、どこもかしこも、盛り殺された恨みの幽霊がうじゃらうじゃら。「こりゃいかん」と閉口して、新道(路地裏)に回ると、新しい格子と、医者の表札のある小さな家。ここには幽霊は一人もいない。これこそ名医と喜んで、入ってみれば昨日から開業した医者。

天明2年(1782)刊、『笑顔はじめ』中の「閻魔」

その5

医者同士が、今までに殺した数を自慢しあう。「拙者は、三十人ばかり」「はて、それは少ない。して、医者におなりなすって何年に?」「いや、去年から」。

安永2年(1773)刊『口拍子』中の「医の年数」

いやはやですが、今でもシャレで済まないのが怖いところです。

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くびや【首屋】落語演目



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【どんな?】

自分の首を売るという商売の男。
実にどうもばかばかしいお笑い。

別題:首売り

【あらすじ】

鳥羽伏見の戦い、上野の戦いなどで、江戸が騒然となっていたご一新のころ。

旗本の二、三男なども、今までのように安閑とはしていられなくなり、いざという時には大いに働かなければならないというので、自然と刀などは、良いものを求めるようになった。

買うには買っても、切れ味がわからなくては安心できない。

刀を試すにはまず胴試し、つまり、生体実験が一番手っ取り早いというわけで、江戸市中のあちらこちらで辻斬りや試し斬りが横行し、標的になる町人は、外もおちおち歩けない。

そんな折も折、番町あたりで、首のところに風呂敷を巻き付け、大声で
「首屋、くびいーやッ」
と売り歩く男が出現した。

さる旗本の殿さま、この声を聞きつけて、御用人の藤太夫を呼び、
「あの首屋を屋敷の中に連れて参れ」
と言いつける。

藤太夫、ばかばかしくなり、おそらく栗屋とでも聞き間違えたのだろうと思ったが、主命には逆らえないので、外に出てみると、確かにクビヤクビヤとがなっている男がいる。

「こりゃ町人、少し待て。その方、何を売っておる」
「私は首を売っております」

大変な奴だと思いながら、
「買ってやるからこちらにまいれ」
と勝手口で待たせた後、庭先に通す。

庭には粗むしろが敷かれて、手桶に清めの水。

殿さまが縁側から声をかけ、
「首屋は、その方か」
「へい、さようで」
「なぜそのようなつまらん考えを起こした」

男が言うには、人間わずか五十年、二十五年は寝て暮らし、病気で五年居眠りを五年、昼寝を十年と差し引くとなくなってしまう。

ばかばかしくなったので、いっそ、ひと思いに、というわけ。

殿さまは機嫌がよくなった。

「思い切りのよい奴。買ってやるが、いくらだ」
「掛け値なく七両二分で」

「金は家族に届けてやる」
と言うと、
「死んでも肌に付けておきたい」
となかなかの欲張り。

風呂敷を取り、その場に直ると、殿さま、白鞘の柄を払ってぎらりと氷の刃を抜き放ち、庭に下りて、ひしゃくの水を鍔元から掛けさせた。

「首屋、覚悟はよいな」
「へい」

イヤッと斬り下ろしてくる刃をひらりとかわし、後ろへ飛びのいてふところから張り子の首を放り出すと一目散。

「ややっ、これは張り子。そっちのだ」
「これは看板でございます」

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【しりたい】

値上げされた首代

原話は明和9年(1772)刊の笑話本『楽牽頭』中の「首売」。

オチも含めて、大筋は現行とほとんど同じですが、原話は本所割下水のあたりが舞台で、首代は一両となっています。

現行の七両二分は、間男の示談金と同じで、これを「首代」と呼んだため、噺の中の首代も、この値段にしたのでしょう。

七両二分については、「お釣りの間男」をお読みください。

三遊派伝統の噺

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)から四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)へと継承された、三遊派伝統の噺です。

明治29年(1896)の四代目円喬の速記が残っています。

円朝が明治になって、時代を幕末維新期に設定したと思われ、それが噺に一種の緊迫感とすごみを与えました。

オチについて円朝は、「首という言葉を何度も繰り返すようなムダはするな」という芸談を残しています。

明治から昭和にかけて、大看板の多くが手掛けていますが、戦後では、六代目円生と並び、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)の風格も忘れがたいものがあります。

類話「試し斬り」

短い噺なので、この前に「試し斬り」という小咄を付けることがあります。

刀の試し斬りをしたがっている侍が、朋輩が物乞いを真っ二つにしたという自慢話を聞き、さっそく出かけていって、同じようにバッサリ。

とたんに物乞いがムシロをはねのけて「誰だ、毎晩オレをなぐるのは」とオチる、シュールなオチです。

類話「首医者」

上方に「首医者」という噺があります。

洋行帰りの医者の所に、頭のおめでたい喜六がやってきて、女にもてそうな首と取り換えてほしいと頼みます。

見本をいろいろ見ますが、色男の首は高いので、結局、落語家某の首とすげ替えることにします。

手術が終わって、「これ、首代を置いていかんかい」と医者が言うと、喜六、「前へ回って見てみ。頼んだ奴と首が代わっとる」

張り子

木型に紙を重ねて張り、乾いたあと、型を取り去ったものです。

現在でも、芝居の切り首などに用いられます。

【語の読みと注】
本所割下水 ほんじょわりげすい



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よりあいざけ【寄合酒】落語演目

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【どんな?】

金がないのにわいわいがやがや。
がさつで喧しくてにぎやかな噺。

別題:ん廻し 田楽食い(上方)

【あらすじ】

町内の若い衆が、金がないので肴をめいめい持ち寄りでのむことにしたが、これが大混乱。

数の子を煮てしまう奴がいたり、山芋を糠味噌に漬けたり、せっかく乾物屋の餓鬼をチョロまかしてせしめた鰹節を、二十本もいっぺんにかいてしまって、大釜でグラグラ。

うどん屋をやるんじゃないと、ぼやいていると、そのダシで行水してしまい、後は全部捨ててバケツ一杯だけ残した奴が現れ、世話人は頭を抱える。

しかたがないのでそのバケツを持ってこいと言うと、いま褌を洗濯しているのがいると、いう。

「すまねえ。知らないから。絞って持っていこうか?」
「冗談じゃねえ」

とっておきの鯛は、料理しているところにどこかの犬がきて、ちょんと座って動かないので、
「そんなのは頭を一発食らわして追っ払え」
と言われて頭を食べさせ、
「胴体を食らわせろ」
と言うから胴体をやってしまい、まだ動かないので尻尾まで食らわせて、とうとう全部犬の腹へ。

大騒ぎしているところへ豆腐屋から田楽が焼き上がってくる。

運がつくように、「ん」がつく言葉を一つ言うごとに田楽を一枚食わせると取り決めた。

各自ない頭を絞り、しまいには
「オレ、せんねんしんぜんえんのもんぜんにげんえんにんげんはんみょうはんしんはんきんかっぱんきんかんばんぎんかんばん、きんかんばんこんぼんまんきんたんきんかんばんこんじんはんごんたんひょうたん、かんばんきほうてん」
とお経のような文句を一息に並べ立て、五十六本せしめる奴も出る始末。

負けずに、算盤を用意しろと大きく出た男
「半鐘でジャンジャン、ボンボンボン、あっちでジャンジャンジャンジャン、こっちでジャンジャンジャンジャンジャン、消防自動車が鐘をカンカンカンカンと五百」
「おい、こいつに生の田楽を食わせろ」
「なぜ」
「消防のまねだから、焼かずに食わせるんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

ルーツは元和年間

原話になる小ばなしは数多くあります。ルーツは古く、大坂夏の陣の終わった直後の元和年間(1615-24)に刊行された『戯言養気集』中の「うたの事」が最古の形です。

ここではすでに「ん」の音の入った単語を並べ、田楽を取り合うパターンが確立しています。

その後、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝(平林平太夫、1554-1642)著『醒睡笑』中の「児の噂」でも、僧たちの「ん」の字遊びの中に、田楽欲しさに稚児が割り込むという筋になっています。

小ばなしによっては「ん」の言い合いではなく、ゲームが謎掛けやダジャレ(たとえば医者の本尊で薬師如来=八串もらえるなど)になる場合もあります。

田楽食いのパターンは終始変わっていません。

初代春団治の十八番

上方噺では、「田楽食い」として長く親しまれ、後半の「ん」の字の言い合いから、「ん廻し」の別題もあります。

初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の爆笑編で知られ、レコードも残されています。

そのやり方が二代目桂春団治(河合浅次郎、1894-1953)、さらに三代目桂春団治(河合一、1930-2016)に継承されたほか、父の五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)譲りで、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)も得意にしていました。

東京には明治期に移され、先の大戦後は、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)のものでした。

古くは、後半の「ん廻し」に重点が置かれました。

どちらかといえば近年、東京でさかんに演じられるようになって、前半の、材料をメチャクチャにするくだりがより派手に演じられるようになり、その分、笑いも多くなっているようです。

ますます短くなる噺

オチは、本来、この先があって、「矢を射て、当たるとタイコがドン、ドンドンドン……」と際限なく繰り返す男がいるので、「そんなにたくさんっじゃ、焼くのが間に合わねえ」「いいよ、焼かず(=矢数)で食う」というものでしたが、長くなるので春団治が現行のところで切り、円生もこれにならっていました。

田楽のくだりまでいかず、時間の関係でさらに短く切る場合も最近は多く、ますます本来の「ん廻し」の要素が薄れてきています。

田楽

起源については、「味噌蔵」で紹介した通りです。

なお、田楽は店構えの豆腐屋のほか、上燗屋じょうかんやとも呼ばれた屋台のおでん屋、田楽茶屋という専門店でも売っていました。

田楽茶屋は、出合茶屋であいぢゃや(ラブホテル)を兼業していることが多かったといいます。

田楽と男女の濡れ事、何か縁がなさそうでしっくりきませんが、なに、どちらも焼けることに変わりはないようで。

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ねこただ【猫忠】落語演目

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【どんな?】

明治中期に上方から。
当初は「猫の忠信」でした。
お得意の縮めた呼称に。

あらすじ

美人の清元の師匠に、下心見え見えで弟子入りしている、次郎吉と六兵衛の二人。

次郎が、師匠と兄貴分の吉野屋常吉がいちゃついているのをのぞき、稽古を辞めると息巻くので、六さん、「常兄ィは堅い人なのにおかしいな」と首をひねり、二人で確かめに行くと、案の定、差し向かいで盃をさしつさされつ。

悔しいから、常吉のかみさんに告げ口して、夫婦げんかをあおってやろうと、相談する。

たまたま、今度のおさらい会で師匠が着る衣装を縫っていたかみさん、二人が「師匠が『お刺身の冷たいのは毒だよ』なんぞと口ん中でペロペロと温かにして、兄貴の口へ……」などと並べるのを聞いて「けんかをしずめてくれるのが情けなのに、わざわざ波風を立てに来るのはどういうつもりだい」と、怒り出す。

亭主は今の今、奥で寝ている、という。

噺を聞きつけて当の常吉がノッソリ現れたから、二人は仰天。

いきさつを聞いた常吉。

そういえば、最近床屋に行くと「やっぱり他人じゃないんで、唄のお仕込が違うんでしょう」などと妙なことを言われるので、オレの姿を借りて、師匠の家に入り込んでいる奴がいるのかもしれないと、思いめぐらす。

二人を連れて現場に駆けつけ、障子の隙間からのぞいてみると、なるほど、自分に瓜二つの男が師匠としっぽり濡れているから、驚いた。

これは狐狸妖怪に違いないと、二人に「先ィ入って、向こうで盃をくれたら、油断を見澄まして野郎の耳を触ってみろ。獣は耳を触られると動くから、そうしたら大声で『ぴょこぴょこッ』とでもどなれ」と、言いつける。

二人がおそるおそる声をかけると、酔っぱらった声で「よう、次郎と六じゃねえか。こっちィ入んねえ」

気のせいか、声の調子が違う。

酒を出されると「ひょっとして、馬の小便じゃねえか」と、二人はびくびく。

ご返盃に相手が手を出したところを押さえつけ、耳を触ると案の定、ぴくぴく動く。

「ぴょこぴょこだッ」
と叫ぶ声で、本物の常吉が飛び込んできたので、師匠は
「あら、常さんが二人」
と、仰天。

「やい、おれ……いや、てめえは化性のもんだな。真の吉野屋常吉、吉常(=義経)が調べる。白状しろ」

妖怪はすっかり恐れ入り、
(芝居がかりで)「はいはい、申します申します。わたくしの親は、あれ、あれあれあれ、あれに掛かりしあの三味線、わたくしはあの三味線の子でございます」

師匠の三味線の革にされた親を慕ってきた、とさめざめ泣く。ヒョイと見ると、正体を現した大きな猫がかしこまっている。

「兄貴、今度のおさらいは『千本桜』の掛け合いだろう。狐忠信てのはあるが、猫がただ酒をのんだから、猫がただのむ(=猫の忠信)だ。あっしが駿河屋次郎吉で駿河の次郎。こいつは亀屋六兵衛で亀井の六郎。兄貴が弁慶橋に住む吉野屋の常さんで吉常(義経)。千本桜ができたね」
「肝心の静御前がいねえ」
「師匠が延静だから静御前」

師匠が「あたしみたいなお多福に、静が似合うものかね」と言うと、側で猫が「にゃあう(似合う)」

【RIZAP COOK】

しりたい

上方説は怪しい  【RIZAP COOK】

もともと古い上方噺で、大阪の笑福亭系の祖とされる、初代松富久亭松竹(本名未詳、生没年未詳、1818年以前)の創作といわれてきました。

実は、この原話、文政12年(1829)江戸板の初代林屋正藏(1781-1842、怪談の、下総屋正蔵)著『たいこの林』中の「千本桜」で、ほとんど現行と同じです。

松竹という人、今もって生没年、経歴、年代不詳です。それどころか、実在自体が確認できない、「落語界の写楽」ともいえる伝説の噺家です。

それでいて、松竹の手になるといわれる噺は多く、この「猫忠」のほか、「初天神」「松竹梅」「千両みかん」「立ち切れ」など、ほとんど現在でも、東西でよく演じられる名作、佳作ばかりです。

江戸の正蔵が始祖とすると、噺の伝播は江戸→大坂であって、松竹説は怪しくなるのですが、ともかく、噺としては上方で確立しており、松竹の年代も不明なため、東西どっちがパクったか、真相は藪の中。

東西のやり方  【RIZAP COOK】

芝居噺の名手だった、六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)が明治中期に上方の型を東京に移植。初めは「猫の忠信」の題で演じられましたが、東京ではのちに縮まって「猫忠」とされ、それが現代では定着しました。

その文治の明治30年(1897)の速記を始め、八代目桂文治(1883-1955、山路梅吉)、大阪の五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)と、さまざまな名人の速記が残っています。

東西で大きな異同はありません。

上方では、初めに次郎吉が師匠の家を覗く場面があります。上方は見あらわしに乗り込むとき、最初に常吉ではなく、女房がいっしょに行くところが東京と異なり、大阪では女師匠が義太夫、東京では常磐津か清元である点も違っています。

円生は延静で演じましたが、「延」が付くのは清元の師匠で、家元の延寿太夫の一字を取ったもの。「百川」に登場の歌女文字師匠のように、「文字」が付けば常磐津です。

「千本桜」四段目の口の舞踊「道行初音旅」は、義太夫と清元もしくは常磐津の掛け合いになるので、噺にこうした師匠が登場するわけです。

東ではやはり、この人  【RIZAP COOK】

昭和に入って戦後にかけ、東京でのこの噺の第一人者はやはり、六代目三遊亭円生でした。円生は三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)から習っています。

オチは、円生以外は東西ともほとんど「ニャウニャウ」と二声でしたが、円生は円馬に倣って、すっきりと一声に改めました。東京ではほかに、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)も演じました。

「義経千本桜」のパロディー   【RIZAP COOK】

『義経千本桜』は人形浄瑠璃(文楽)の作品です。全五段の時代浄瑠璃で、通称「千本」とも。『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ三大浄瑠璃の一つとされています。

初演は延享4(1747)年11月、大坂・竹本座、作者は『仮名手本忠臣蔵』と同じチームで、竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作です。

この噺は、人物名がすべて「千本桜」の役名のもじり。オチ近くの化け猫のセリフは、四段目の切「河連法眼館」(通称「狐忠信」)のパロディーで、芝居の狐の、「わたくしはあの、鼓の子でござります」のもじりです。詳しくは「初音の鼓」をご参照ください。

5世尾上菊五郎演じる忠信を描いた錦絵/画・豊原国周 、国立国会図書館所蔵

弁慶橋  【RIZAP COOK】

東京都中央区岩本町二丁目のあたり。神田の藍染川に架かっていた橋ですが、幕末にはもうありませんでした。付近には駿河町、亀井町など、源義経の四天王にちなんだ町名が並んでいました。藍染川、駿河町については「三井の大黒」参照。「ちきり伊勢屋」の弁慶橋は同じ千代田区にあるのですが、ここではありません。

初音の鼓 三井の大黒 ちきり伊勢屋

【RIZAP COOK】

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しんぶんきしゃ【新聞記者】落語演目

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【どんな?】

新聞記者が珍しかったころの噺。
時代遅れでどうってことないです。

【あらすじ】

明治の中ごろ。

根岸お行の松の近くに「雷號堂」と表札を揚げた家があったが、主人はなにをやっているのか、正体不明。

朝は八時に起き、夕方まで部屋に閉じこもったきり。

それからどこかへ出かけて、夜中の二時三時、時には明け方まで帰らない。

女っ気は全くなく、ただ権助という用人を一人置いているだけ。

家に出入りする人種も、商人や官員、職人や芸人とさまざま。

この権助、大河内久左衛門というごりっぱな本名があるので、
「権助権助と呼ぶのはやめてくらっせえ」
と頼んでも、主人は
「なに、権助というのはあの白井権八の弟で、やっぱり女にもてた色男の名前だから、おまえにゃ、ふさわしい」
とはぐらかすうち、権助はふとだんなの正体が気にかかり、
「あんたの商売はいったいなんだ」
と尋ねると
「オレの商売は、実は商売往来にはない」

権助、これはひょっとしたらと思っているところへ、やってきたのが荒川という髭男。

鼻が高く、眼光鋭い。

荒川は
「この間の三千円の一件に早く片をつけたいから、ゆっくり内談をしたい」
と言うので、主人は権助に酒の用意をさせ、八畳の座敷でヒソヒソ話。

これはますます怪しいと、権助が立ち聞きしていると
「実は三千円持っているあの磯之丞の跡をつけ、仕込み杖で土手っ腹ァえぐって、金をいただいて長崎へ行き、あの久左衛門も生けておいては後日の祟りだから、寝ているところを、喉をダンビラで。死骸は橡の木の下に」
「なるほど、これは名案」
と、とんでもない会話が聞こえてきたので、権助、いきなり飛び出し
「どうか、お暇をくだせえ」
「どうしてだ」
「あんたの心に聞いたらわかるだんべえ」

わけを言わなければ暇はやらないと言われ
「今あんた方、おらを殺すと言いなさった」
と責めると、だんなは笑って
「そいつはおまえの勘違いだ。実は、荒川も私も新聞に出ている連載小説の筋立ての算段をしているだけだ」
と明かす。

「そんなことはどうでもええだ。こんな家にいると同類だと思われちゃなんねえ。お暇をおくんなせえ」
「われわれは記者だよ」
「えっ、あんな方、汽車で逃げる? そいじゃ、おらあ汽船で逃げよう」

存在薄い記者にはスヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

最初の新聞小説

明治8年(1875)、『東京平仮名絵入新聞』に三日間連載された「岩田八十八の話」(前田香雪)で、実際の殺人事件をスキャンダラスに小説化したものです。

以後、こうした通俗的新聞小説は、政治家のスキャンダル暴露記事とともに、小新聞の売り物となっていきました。

新聞ことはじめ

最初の日刊紙は、明治3年(1870)12月発刊の『横浜毎日新聞』といわれます。

以後、政治関係のニュースや論説中心の大新聞『東京日日』(明治5)や『郵便報知』(同)、通俗記事中心の小新聞『読売』(同7)や『大坂朝日』(同12)などに分かれていきます。

発想はダジャレから

明治32年(1899)9月、初代三遊亭円左が速記を雑誌『百花園』に掲載したものです。

内容としては、当時の新進メディアであった新聞、ハイカラな職業としての記者を登場させる新味をねらっただけの凡庸な作で、明治中期の風俗資料という以上の価値はないでしょう。

発想は、記者と汽車のダジャレからきたもので、そんなものからとにかく一席にしてしまう豪腕?には感じ入ります。

【語の読みと注】
小新聞 こしんぶん
大新聞 おおしんぶん

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こしょうのくやみ【胡椒の悔やみ】落語 演目

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【どんな?】

まじめなときになんだか笑っちゃう。
そんなことって、ありますよね。

別題:悔やみ 悔やみ丁稚(上方) 笑い男

あらすじ

なにを見てもおかしくなる、という幸せな男。

今日もケラケラ笑って兄貴分の家にやってくる。

「自分の長屋の地主の娘が、急に昨夜死んでしまったのが、おかしくてたまらない」
と言う。

「あきれけえった野郎だ」
と兄いがたしなめても、
「だって、七十、八十でもまだ腐らない奴があるのに、あんな十七、八の小娘が死んじまって生意気だ」
と、不思議な理屈でいつまでたっても笑いが止まらない。

兄貴分が
「てめえがいつも出入りさせてもらって、ふだんから半纏の一枚もいただいてる家じゃねえか。こういう時こそ手伝いに行って、くやみの一つも言ってみろ。また目をかけてくれる」
と勧めるが、
「くやみの言い方がわからないからやさしい奴を一つ教えてくれ」
という。

「……いいか。承って驚き入りました、お嬢さまはおかくれだそうでございます、さぞお力落としでございましょう」
「えー、お力が出たでしょう」
「ばか野郎。なぐられるぞ」

なんとかセリフだけは教え込まれ、
「悲しくなくても涙の一つくらい流さなくちゃならねえ、特にてめえは笑い止めが必要だ」
と兄貴分が言い、渡されたのが胡椒の粉。

なめると、なるほど涙がポロポロ。

「向こうまで遠いから、あんまり早くなめていくと効き目が切れる。かといって、向こうへ行ってからベロベロやってくやみを言ったのではバレてしまって体裁が悪いから、垣根か戸袋の陰でこっそりなめろ」
と、細かい「指導」の上、送りだされる。

さて式場。

早くも女どもが、クドクドと心にもないくやみを並べ立てるのを聞くと、野郎、またまた笑いがこみ上げてきた。

「あのオカミめ。あいつも胡椒なめやがったな。プッ、フ、フ、ハハ、いけねえ。俺もそろそろやるか」

ドジな奴で、いっぺんに全部口に放り込んだので、まるで舌に火がついたよう。

そこへ娘の母親。

「おまえ、どうおしだね。 ボロボロ涙をこぼして」
「へえ、少しなめすぎたらしくて……承って驚き入り……お嬢さまが……ハックショッ!! 鼻に入りやがって。……もし、水をすこしおくんなさい」

やっと落ちつき、
「えー、お嬢さまがおかくれでございまして、お嬢さまがおかくれで」

そこでグイッと水をのんで、
「あー、いい気分だ」

【RIZAP COOK】

しりたい

原話二題  【RIZAP COOK】

原話として知られる小ばなしは、安永2(1773)年江戸板『聞上手ききじょうず』中の「山椒さんしょう」と、同3年江戸板『茶の子餅』中の「悔やみ」です。

前者の「山椒」は、八百屋で山椒をかじっていた男が、からいので茶をもらってのんでいるうち、向こうの家で主人が二階から落ちて大けがという騒ぎ。男はまだスウスウ言いながら駆けつけ、家人と話しているうちに辛味が消え、「やれそれは、スウ、ホウ、いい気味(=気分)だ」と言ってしまうもの。

後者の「悔やみ」は、やや現行に近くなり、山椒のからさで悔やみの演技がよくできたので、思わず「いい気味だ」と口に出す筋立てです。

八代目柳枝のお得意  【RIZAP COOK】

昭和34年(1959)9月23日、ラジオの公開録音で「お血脈」を演じている最中に倒れ、亡くなった八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-1959)。

三遊亭円窓の最初の師匠ですが、美声を生かした端正で穏やかな語り口で、「野ざらし」「王子の狐」など、江戸前の噺で人気がありました。

その柳枝がもっとも得意にしたのがこの噺で、同師はオチの部分を「はあっくしょい。ああ顔がこわれちゃう。こりゃおどろいたねどうも。……一時はどうなることかと思いましてな、どうも。……うぷっ、うけたまわり、うけたまわりますれば……うふふふっ、お嬢さんお亡くなりになったそうで……うーい、あーあ、いい気持ちだ」と写実的に演じ、滑稽味を強く出しました。

この噺の場合、どのやり手も「いい気持ち」のきっかけがわかりにくいので、水をのんで辛味が治るという段取りをつけることが多いようです。

胡椒の効用  【RIZAP COOK】

古くから薬用として用いられ、特に、鼻の中に異物が入って出ないとき、胡椒粉をなめ、くしゃみをして出す民間療法がよく行われていました。

別話「悔やみ」  【RIZAP COOK】

この噺の別題は「悔やみ」ですが、ややこしいことにまったく別話で「悔やみ」があります。

お店のだんなの葬式に、女房から悔やみのセリフを教えてもらい、出かけたまぬけ亭主が、ふだん世話になっているおかみさんの前でお経をあげながら、だんなに冷奴で焼酎をごちそうになったとか、腹痛を起こしてはばかりに行ったら紙がなく、困っているのを助けてもらったとか、くだらない思い出話をさんざん並べたあげく、「ナムアミダブ……だんなが先に死んで、こんないい女のおかみさんを一人置くのは、もったいない。あらもったいないったら、ンニャアモリョリョン」と、最後は明治の五代目桂文楽がははやらせた奇妙な「モリョリョン踊り」の節で、とんでもない下心を出す。

この噺は、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が逃げ噺としてよく演じました。

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あいえんきえん【合縁奇縁】故事成語 ことば

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

人と人との交わりは不思議な縁によるものだ、ということ。

仏教由来。というよりもこれは、日本由来の成語ではないでしょうか。

「合縁機縁」「愛縁機縁」とも書きます。

とりわけ、男女の間での、気心が合うとか合わないとかについて言うことが多いようです。

つまずく石も縁のはし

道を歩いてつまずいた石にも縁があった、ということで、日本人は縁が大好きです。人間社会での合理的に説明できないことはすべて「縁」で片づけているようです。

袖すり合うも他生の縁

見ず知らずの人道ですれちがうのも前世からの因縁なのだ、ということ。なんだか説明がつかないのは前世からの因縁によるもの、それが縁というものである、という具合です。
能楽では「一樹の陰」「一河の流れ」ということばを使って「縁」を表現します。

「縁」は、江戸時代に入ると、人々の生活の細部に仏教がしみ込んでいき、「縁は異なもの味なもの」ということばが普通に使われるようになっていきます。

そして、明治6年(1873)頃に流行した俗曲「四季の縁」。

春は夕の手枕に
しっぽり濡るる軒の雨
ぬれてほころぶ山桜
花がとりもつ縁かいな

結びの「縁かいな」が特徴で、大流行しました。

明治24年(1891)頃には、これを替え歌にした徳永里朝(中井徳太郎、1855-1936、→三代目哥沢芝金→徳永徳寿)が、さらなる「縁かいな節」を大流行させました。

夏のすずみは両国の
出舟入り舟屋形船
あがる流星、星くだり
玉屋が取り持つ縁かいな

空ものどけき春風に
柳に添いし二人連れ
目元たがいに桜色
花が取り持つ縁かいな

「竜生」も「星くだり」も花火の種類で、花火業者の玉屋が取り持つという具合。

徳永里朝は上方の人で、盲目の音曲師。上方では桂派の門下でしたが、東京に移って三代目春風亭柳枝の門下となりましたので、柳派に。

しあわせは三世の縁を二世にする

という川柳があります。

江戸期に一般に通用していた、縁についての「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」という言い回しを踏まえて、その家のお女中が後妻になったことを詠んでいるのです。

主従の縁は、親子や夫婦のそれよりも深いのだということ。

これぞ、前近代的な感覚ですが、これを逆手にとって、主従の三世の縁を二世の縁につづめる、といって、それを「しあわせ」だと詠んでいるのです。

「しあわせはさんぜのえんをにせにする」と読んで、「二世の縁」は「偽の縁」だとこきおろしているのです。後妻に格上げされたお女中の面目躍如というところでしょうか。すごい句ですね。これも宿世の縁(ずっと前から決っていたこと)ということでしょうか。いやはや。

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ようしほうこう【雍歯封侯】故事成語 ことば

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部下をなだめ安心させるためにはまず嫌いな者を抜擢すること。そういう意味です。

前漢の高祖(劉邦)の頃。劉邦が項羽を倒した直後のこと、紀元前202年あたりのことでしょうか。

高祖が落陽の南宮から見下ろすと、広い砂庭のあちこちで諸将群臣がひそひそ話をしているようすが気になりました。

高祖は張良にたずねます。

張良「謀反の相談をしているのです」
高祖「なぜだ」
張良「陛下が侯に封ぜられたのは蕭何や曹参の直参ばかりで、誅罰されたのは外様の、陛下とあまり親しくなかった者たちです。いま宮中では諸将の功績を評定していますが、全員を賞するには天下の領土が足りません。そこで彼らは、自分たちは封ぜられるどころか、ひょっとして殺されるのではないかと恐れて、あのようにたむろしては、いっそのことやっちまうか、と謀反を相談しているのです」
高祖「ひえー。どうすればよいか」
張良「陛下がいちばん毛嫌いしていて、諸将もそれを知っている者は誰でしょうか」
高祖「そりゃ、雍歯だ」
張良「ならば、すぐに雍歯を侯に封じて、諸将にお示しください。さすれば、あの雍歯でさえ侯に封ぜられたのだから俺だって、と安堵することでしょう」

張良の言う通りに高祖が行ったら、諸将群臣は落ち着きました。

結局、「雍歯封侯」は「部下をなだめ安心させるためにはまず嫌いな者を抜擢すること」の意味で使われます。

とはいえ、この四字熟語が載っている辞典はめったにありません。実際にはあまり使われていないのでしょう。過去40年の読売新聞の記事中、一度も使われていません。記者が知らないでしょうし。これは無理。でも、この故事はとても興味を引きますね。

諸将が広い砂庭でひそひそ話するのは「沙中偶語」という成語として残っています。「臣下が謀反の相談をすること」という意味です。そのまんまです。これについてはいずれまたの機会に。

出典:『史記』高祖本紀、『史記』留侯世家

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しゃれこまち【洒落小町】落語演目

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【どんな?】

亭主の女遊びを陰で支える女房。
歌道から洒落へ。
業平故事をいじった噺です。

別題:口合小町(上方)

【あらすじ】

ガチャガチャのお松とあだ名される騒々しい女房。

亭主が近ごろ、吉原で穴っぱいり(浮気)して帰ってこないと、横町の隠居に相談に来る。

隠居は
「おまえが四六時中あまりうるさくて、家がおもしろくないので亭主が穴っぱいりする。昔、在原業平ありわらのなりひらが、愛人の生駒姫いこまひめの所に毎晩通ったが、奥方の井筒姫いづつひめは嫌な顔ひとつせず送りだすばかりか、ある嵐の晩、さすがに業平が外出しかねているのを、こういう晩に行かなければ不実と思われてあなたの名にかかわるから、無理をしても行きなさいと言う。嫉妬しっとするのが当たり前なのに、あまりものわかりがよすぎるから、業平は不審に思って、出かけたふりをして庭先に隠れてようすをうかがうと、縁の戸が開き、井筒姫が琴を弾きながら『風吹けば 沖津白波おきつしらなみたつ田山たやま 夜半よわにや君が 一人越ゆらん』と悲しげに詠んだので、それに感じて業平は河内かわち通いをやめたという故事がある。おまえも亭主が帰ったら、たとえ歌は無理としても、優しい言葉のひとつもかけ、洒落しゃれのひとつも言ったら、亭主はきっと外に出なくなる」
と、さとす。

「ご隠居さん、歌というのはけっこうですね」
「そりゃそうだ。小野小町おののこまちは歌を詠んで雨を降らせた、というくらいだからな」

家に帰ったお松、亭主の気を引こうと、さっそく洒落攻め。

大家おおやのところへ行くと言うと
「大家(=高野)さん弘法大師こうぼうだいし
「隣の茂兵衛もへえさんに喜兵衛きへえさん……」
「隣の茂兵衛(=モチ)つきゃ喜兵衛(=キネ)の音」

「うるせえな」
とどなると
「うさぎうさぎ、なに見てはねる」

あまり下らないのを連発するから、亭主はお松が頭がおかしくなったと思い、二、三日出かけずにいた。

ある日、雨が降ってきた。

これを待っていたお松、いきなり隣の水屋みずやからみのかさを借りてきて、うやうやしく亭主に着せかけると、そのまま外へ突き飛ばした。

亭主が行ってしまったので、ここぞと井筒姫の歌のつもりで間違えて
「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉いずみなる 信田しのだの森の うらくずの葉」
とやったが、いっこうに帰らない。

また心配になって隠居に掛け合うと、
「そりゃ狐の歌じゃないか」
「あ、道理でまた穴っぱいりだ」

【しりたい】

東西で異なるやり方

古風で、実に粋な噺です。こういう噺を達者にこなせる落語家は、もう絶えていないでしょう。

初代桂文治(伊丹屋惣兵衛、1773-1815 →千早ふる)がおそらく文化年間に作った古い上方落語を東京に移したもので、上方では「口合小町くっちゃいこまち」です。

「口合」は地口じくち駄洒落だじゃれのこと。

東西でやり方がもっとも変わる部分は、西(上方)では、かみさんが亭主のあとをつけて女郎屋に入るのを突き止め、乗り込んで大げんかになるのと、オチが異なり、狐の部分がないことです。

戦後、東京では八代目桂文治(山路梅吉、1883-1955)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900年9月3日-79年9月3日)の後は、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)がよく演じました。

小野小町の歌

古今和歌集こきんわかしゅう』の六歌仙ろっかせん紅一点こういってん、小野小町が、京に百日も大日照りがあったとき、神泉苑しんせんえん(現在の二条城の向かい)で、「ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた あめが下とは」という雨乞あまごいの歌を詠んだところ、七日続いて雨が降ったという「雨乞い小町」の伝説があります。

上方の「口合小町」のオチはこれを踏まえ、亭主が降参して、茶屋通いはやめると謝ると、「まあうれしい。百日の日照りがあったら知らして」「どないするのや?」「口合(洒落)で、雨降らせてみせるわ」と、なっています。

今で言う、男の浮気のことです。愛人のもとに行ったきり帰らないのを、狐が穴にもることにたとえたものです。

もっとも、これでは今はまったく通じないでしょう。

穴っぱいり

浮気を意味します。「狐」は女性器を意味する隠語でもあるため、当然、下ネタの意味もきかしてあります。

「風吹けば……」

伊勢物語いせものがたり』第二十三段中の歌です。

意味は「風が吹くと沖の白波が立つ、その龍田山たつたやまを、今ごろ夜中にあなたが一人で越えているのでしょうか(心配です)」。

「恋しくば……」

浄瑠璃じょうるり芦屋道満大内鑑あしやどうまんおおうちかがみ』(葛の葉子別れ)の四段目で、陰陽師おんみょうじ安部保名あべのやすな(安部晴明あべのせいめいの父)と夫婦になっためす白狐びゃっこ(晴明の母)が、自分が化けた、夫のかつての恋人が訪ねてきたので、泣きの涙で身を引き、夫と子供を残して去る、その別れ際に障子しょうじに書き残す歌です。この白狐は「信田狐しのだぎつね」と呼ばれています。

初代竹田出雲たけだいづも(?-1747)の作品です。この人は『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』の作者の一人でもあります。

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はなほしい【鼻ほしい】落語演目

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【どんな?】

滑稽噺の珍品。
遊びがたたって鼻がもげたお侍。
この弱いところをあざ笑う噺です。
落語にはこんな無責任ぶりも。

別題:口惜しい 鼻の仇討ち

【あらすじ】

手習いの師匠をしている浪人。

女遊びがたたって悪い病気をもらい、鼻の障子が落ちてしまった。

子供たちに素読の稽古をしても、言葉が鼻に抜け、
「みにゃひゃん、ぴゃんとおつくえにむがって。やまははきがゆえにはっとからず」

これではわからない。

自然、表へ出ると人が顔をじろじろ見るような気がして、恥じて昼間は外出もしないようになる。

心配した奥方は、気晴らしに戸塚の親戚のところに四、五日保養に行くよう勧めた。

それも気散じによかろうと、顔を隠して朝早く家を出て、送ってきた奥方と品川で別れると、東海道を西へ。

道中で知りびともいないので、気楽な旅を続けて鈴が森にさしかかった。

年をとった馬子に、帰り馬なので二百文でいいからと頼まれ、馬に乗ってよもやま話になる。

この馬子、年は六十一だというが、きれいに頭が禿げている。

そこで浪人、一首浮かんで
「はぎやま(禿山)の みゃえ(前)に 鳥居はなけれども うひろ(後ろ)にかみが ひょっとまひまふ(ちょっとまします)」

馬子、なるほど江戸のだんなは違うと感心しながら、浪人の顔をじろじろ。

「だんなァ、わしが一つ返歌すべえか。けれども、怒っちゃいけねえよ」
「怒らんからやれ」
「山々に名所古蹟は多けれど、はなのねえのが淋しかるらん」
「やまやまにめいひょこへきはおおけれど、はにゃのにゃいのが……うーむ、馬方、馬をとみろとみろッ」

浪人、恥をかかされて真っ赤になって怒った。

「それだから、怒っちゃだめと断ったでがす」
「だみゃれ、ぶひに対ひて不埒なことを言うやつ」

馬を飛び降り、そのまま駕籠に乗って家に引き返した。

怒りがおさまらず、驚く奥方に一件をぶちまけたが、興奮のあまり、最後はフニャフニャと、何を言っているか聴き取れない。

奥方、聞き終わると、やにわに長押の薙刀をつかんで
「あなた、御免あそばせ」
と、外へ駆け出した。

「これ女房、血相変えていずれへみゃいる」
「知れたこと。後追っかけてあなたさまの仕返しを」
「へぐまい(急くまい)、雉も鳴かずば撃たれみゃい、歌も詠ますば返歌もしみゃい」
「ちぇー、口惜しゅうございます」
「そちは口おひいか。わひは、はにゃが、ほひい」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原話は間男噺  【RIZAP COOK】

原話は、享保13年(1728)刊『軽口機嫌嚢』巻二の「油断大敵」です。

これは、女房が不義密通の現場を亭主に踏み込まれ仲裁が入った結果、命だけは助け、それ以外はご存分にということで話が決まります。

で、両人の鼻をそいだ後、「心がら(行い)とは言いながら、さぞ口惜しかろう」「いえ、口は惜しくありませんが、鼻が惜しい」と、現行と同じまぬけオチになっています。

これも円生の逃げ噺  【RIZAP COOK】

初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)の、明治44年(1911)の速記が残っています。

円右の叔父分で、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)直門の最後の生き残りだった三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)老人から、若き日の六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が直伝され、時々演じました。

もちろん、「四宿の屁」「おかふい」などと同様、客がセコなときにやる「逃げ噺」でした。

この噺、あまり後味がいいとは言えず、円生没後はあまり演じ手はありません。六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)もやりましたが。

差別云々はともかく、梅毒で鼻がもげるということがほとんど皆無の現代では、噺の実感が伝わらないからでしょう。

八代目雷門助六(岩田喜多二、1907-1991、六さん)が、最後の女房の言葉から「口惜しい」の題で演じたのは珍しい例で、「鼻の仇討ち」の別題もあります。

シャバにおさらば鈴が森  【RIZAP COOK】

品川区南大井2-5-6、大経寺(鈴森山、日蓮宗)の境内に跡地があります。

古くは山賊の巣として知られましたが、江戸時代には何を置いても慶安4年(1651)開設の処刑場で有名です。

江戸のタイバーンで、北の千住小塚原とともに公開処刑は市民の格好のレクリェーションとなりました。

いくら罪人とはいえ、人が殺されるのを、江戸のはずれまでわざわざ見にいくのですから。幕府の初志は見せしめでしょうが。第1号は丸橋忠弥でした。「お七」「お七の十」「真景累ケ淵」「三人旅」「本堂建立」など、多くの噺の舞台です。

そのものズバリ「鈴が森」は、上方落語「崇禅寺馬場」の改作で、東京では四代目三遊亭円遊(加藤勇、1902-1984)が演じた珍品。現在では十一代目桂文治の持ちネタです。派手な演出の爆笑編である上方のものに比べ、凡作の泥棒噺。おもしろくもなんともありません。

鼻の障子  【RIZAP COOK】

鼻腔を二つに分ける軟骨の美称(?)です。そこに梅毒の病原体が侵入し、末期は腐って鼻梁が落ちます。

鷹の名にお花お千代はきついこと

これは川柳の傑作で、夜鷹の女に鼻なしが多いのを皮肉ったもの。「お花お千代」はもちろん「お鼻落ちよ」の洒落です。

ほかに「夏座敷」などとも呼びましたが、まあ、汚水処理場を「○○公園」などと粉飾するようなもんでしょうか。

【語の読みと注】

馬子 まご
駕籠 かご
長押 なげし
薙刀 なぎなた

【RIZAP COOK】

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さんげんながや【三軒長屋】落語演目

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【どんな?】

両脇が鳶頭に剣術先生、間が妾宅。
女はうるさくて鬱々と。
そこでだんなが企んだ手は。
痛快、傑作、大笑い。

別題:楠運平

【あらすじ】

三軒続きの長屋があった。

一番端が鳶頭とびがしら政五郎の家、奥が剣術の先生で「一刀流指南」の看板を出す楠運平橘正国くすのきうんぺいたちばなのまさくにという、いかめしく間抜けな名の侍の道場兼住居。

その二軒にはさまれて、金貸しの伊勢屋勘右衛門、通称ヤカン頭のイセカンのお妾が、女中とチン一匹と一緒に住んでいる。このお妾、ここのところノイローゼ気味。

というのも、右隣の鳶頭の家には気の荒い若い者が四六時中出入りする上、年がら年中酒をのんでは「さあ殺せ」「殺さねえでどうする」とぶっそうな、けんか騒ぎ。

おまけに木遣りの稽古でエンヤラヤと野蛮な声を張り上げられては生きた心地もしない。

左隣の道場はといえば、このごろは夜稽古まで始め、夜中まで「お面、小手」とやられて眠れない。

たまりかねてだんなのイセカンに、引っ越させてくれと要求する。

だんなも鳶頭の家の前を通る度に二階から、ヤカンヤカンとはやされるので腹が立っているが、このお妾、わがままで今まで何度も転居させられたので、費用も馬鹿にならない。

この長屋は家質に取ってあってもうすぐ流れるから、その時きっと追い出してやると慰めたのを、井戸端で女中がしゃべったから、鳶頭のかみさん、さあ怒った。

家主ならともかく、イセカンのお妾風情に店立てを食ってたまるかと、亭主をたきつける。

鳶頭、思案の末、運平先生にこれこれと相談した。

おのれ勘右衛門、武士を侮る憎い奴、隣に踏んごみ素っ首を……と憤るのをなだめ、あっしに策がありますと一計を授けて、何やら打ち合わせ。

翌日、運平先生がまずイセカンを訪れ、
「この度道場が手狭になったので、転居することになったが、転居費用の捻出のため千本試合を催すことになった、真剣勝負もござるゆえ、首の二つや三つはお宅に転げ込むかと存ずるが、ご了承願いたい」
と脅すと、ヤカン頭はたまげて、五十両出すからどうか試合は中止してほしいと平身低頭。

次は鳶頭。

こちらも、
「転宅するが、やはり費用が馬鹿にならないので賭場を開く、座敷の真ん中にこもっかぶりの酒を置き、刺身は出刃を転がしておいて勝手に作ってもらうので、気の荒い鳶連中のこと、斬り合いになって首の二十や三十……」
と言いだしたから、イセカン、うんざりしてまた五十両。

それにしても、隣の先生も同じようなことを、と気になって、
「おまえさん。どこへ越すんだい」
「へえ、あっしが先生のところに、先生があっしのところへ」

底本:五代目柳家小さん

しりたい

長い噺  【RIZAP COOK】

長いはなしなので、伊勢勘のお妾がだんなに苦情を言った後、場面変わって、鳶の若い者が喧嘩を始めるあたりで切って上・下に分け、リレー落語として演じられることもあります。

三軒長屋というのは、落語によく登場する貧乏な裏長屋と異なり、表通りに面していて、二階建てです。鳶頭や大工の棟梁など、社会的信用があり、人の出入りが多い稼業の人間が借りたものでした。

棟続きでも実際は一戸建ての借家に近く、それだけ家賃も高かったのです。

人物の移動が頻繁で、登場人物も多いので、よほどの力量のある大真打でないとこなせません。

この噺を得意とした五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、自伝『びんぼう自慢』で、こんなことを語り残しています。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)は、鳶の者三十人ばかりが「まるでそこいらにモソモソしているのが目に見えるようでありました」とのこと。

円喬を尊敬する志ん生の回想です。

艶笑版「三軒長屋」  【RIZAP COOK】

同じ題名でも、こちらはポルノ版です。

三軒続きでの長屋で、左側に独り者、真ん中に夫婦者、右側に夫婦と赤ん坊。

真ん中の夫婦は、所帯を持ってもう七、八年になるのに、まだ子供ができない。

「てめえの畑が悪い」「いや、おまえさんのタネが悪い」と、けんかの末、隣の夫婦は新婚で、半年たたないうちに子供をこさえたのは、何か製造法に秘密があるのだろうと夜、こっそり秘儀を見学。

見ていると、亭主が後ろから……で、かみさんは、起きて泣き出した赤ん坊に乳をふくませ、

「ほら、オッパイないない」とあやしながらの大奮闘。

これを見ていた隣の夫婦も早速まねして始め、亭主が突然抜いて、「ほら、オチンチンないない」。

これをのぞいていた独り者が、「ほら、お手手ないない」。

鳶頭の女房  【RIZAP COOK】

ここに登場する鳶頭の女房は、自分を「おれ」と呼ぶなど、男言葉を使い、乱暴な物言いをします。

歌舞伎『め組の喧嘩』のめ組の辰五郎女房、お仲も同じです。

乱暴者ぞろいの鳶の若い者をなめられず押さえていくためにはそうしなければならなかったのです。

五代目志ん生も、声は女で口調は男、それでいて年増女の色気が出なければいけないので、難しいと語り残しています。

囲われ  【RIZAP COOK】

「囲われ」「囲い」「囲い者」はお妾さんやお妾さんの住む場所(妾宅)をさします。富裕な町人のお妾さんを詠んだ川柳は数多くあります。

経済力がなければ囲えないところから、やっかみ半分でさまざまに詠まれるのです。

囲われは 店賃でもの 見世をはり   十三2

お妾さんが店を出したようすです。裏長屋の土地持ちがだんななのでしょう。

店賃のもうけで店を出させてもらった、というかんじです。

囲われは 言ひ訳ほどの 見世を出し   四6

世間からなにか言われないように、世間の批判をかわすように、どうでもいいような店を出させてもらって、それでひっそりと生活しているように見せかけているようすです。

酢天蓋 などこしらへて 囲いまち   二十19

「天蓋」は、もとは虚無僧のかぶる編み笠のことですが、形が似ているため、お坊さん業界の隠語で「蛸」をも意味します。

「天蓋屋」は輿屋(葬儀屋)。

「酢天蓋」は「酢蛸」の意味です。

お坊さんがお妾さんを持ったようすですが、「蛸」そのものが僧侶を意味しています。つるつる頭のかげんが似ているからでしょう。

身分が保証されている僧侶。彼らが意外にお妾さんを持つことが多く、町民はやっかみ半分で蛸と呼んだわけです。

蛸にはもう一つの意味として、蛸の吸盤のようにひきつける女性器をさしますから、どこか淫靡な深読みができそうです。

昭和初期の「寓」  【RIZAP COOK】

以下は、「お妾横丁」と題した、昭和4年(1929)頃の東京の「寓」をつづった一文です。筆者は今和次郎(1888-1973、建築、民俗)。考現学で有名な方です。江戸の風景がぼんやり覗けます。

「何々寓」と苗字ばかりを書いた住宅は、近年殆ど見られなくなった。その所謂「何々寓」は多く妾宅だつたことも事實である。ところが昭和の今日、その筋の干渉は「寓」なぞといふ曖昧模糊たる名札を許さなくなつた。それといふのも、大正七年の國勢調査の時、「職業」と書いて「妾」は果して正業なりや否やが問題になり、延いては「寓」なる名札までが論議せられた結果舟板塀に見越の松と洒落れた粋造りの門口に「××うめ」とか、「△△トラ子」とか云ふ様な本名札を見るやうになつた。だから今日では、お妾町として有名な日暮里渡邊町、上野櫻木町、蒲田などの町々を歩るいても、どこが妾宅なのか、ついウツカリ見過してしまふ。それ程お妾稼業も近代性を帯び一般社會性の中に溶解して來たことがわかる。神田町線道灌山下で電車を捨てて日暮里へ抜ける大通りを一直線、あかぢ橋を超えてだらだら坂を上ると、やがて左りへ拓けた横丁がある。丁度渡邊町富士見臺の足の下邊りから右に左りに切れ込んだ露地、昔は一ケ所に集合してゐたものだが、近頃では大凡そ三筋の川の字型に流れてゐる。表に女名前の表札をかけたのは大抵それだと云ふ噂。一體ここのお妾さんの素性は玄人上りが大半で、仲居、藝妓、遊藝師匠などが過半數だと云ふことである。旦那筋には傳統的に日本橋堀留邊りの大木綿問屋の隱居といつたところが、寮式に隱居所兼妾宅と乙に構えてゐるさうだ。その外谷中の延命院日當式の亜流も案外サバサバと五分刈り頭を夜更けてこの通りに現はすと云ふ。上野櫻木町では美術學校裏から濱田病院神易家の上山五黄本宅へかけての一帶、吉原「角海老」や「大文字」の別宅からそれに連なる裏手の小ジンマリした小宅はおほかたそれである、ここは震災でも別段の被害を見なかった故、外觀では最もお妾横丁の名に適しいかも知れない。靜かな通りに晝間でも粹な三味線の爪弾が漏れ聞こえる。坂下町にもお妾町があつたが今日では少ないらしい。四谷坂町っもこの方面で人に知られてゐる。映畫女優の徘徊する蒲田も或る通り、西郊高圓寺のそこここにも、噂には上つてゐる。しかし高圓寺は、新宿のカフエの女給などが、多く住んでゐることは事實だ。

今和次郎編『新版大東京案内』(中央公論社、1929年)より

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にしきのけさ【錦の袈裟】落語演目

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【どんな?】

町内の若い衆が錦の褌締めて吉原に。
質流れの錦で仕立てた褌は一着足りず。
あぶれた与太は寺から錦の袈裟を。
蓋を開けたら与太ばかりがもてる。
異形の廓噺。上方から。

別題:金襴の袈裟 ちん輪 袈裟茶屋(上方)

【あらすじ】

町内の若い衆わけえし
「久しぶりに今夜吉原なかに繰り込もうじゃねえか」
と相談がまとまった。

それにつけてもしゃくにさわるのは、去年の祭り以来、けんか腰になっている隣町の連中。

やつらが、近頃、吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん一丁になってカッポレの総踊りをやらかして、
「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」
とさんざんにばかにしたという、うわさ。

そこで、ひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうということに。
相談の末、向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦のふんどしをそろいであつらえ、相撲甚句じんくに合わせて裸踊りとしゃれこもう、と。

幸い、質屋に質流れの錦があるので、それを借りてきて褌に仕立てる。

ただ、あいにく一人分足りず、少し足りない与太郎があぶれそうになった。

与太郎は、女郎じょおろ買いに行きたい一心。

鬼よりこわい女房におそるおそるおうかがいを立て、仲間のつき合いだというので、やっと許してもらったはいいが、肝心の錦の算段がつかない。

そこで、かみさんの入れ知恵を。

与太郎、寺の和尚に
「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、一晩だけぜひ貸してくれ」
と頼み込むという作戦に。

なんとか、これで全員そろった。

一同、その晩は、予定通りにどんちゃん騒ぎ。

お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めた。

驚いたのは、廓の連中一同。

特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪けさわという白い輪がぶーらぶら。

そこで
「あれは、実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」
ということになってしまった。

そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人が大もて。

残りは、全部きれいに振られた。

こうなると、おもしろくないのが「家来」連中。

翌朝。

ぶつくさ言いながら、殿さまを起こしに行く。

当人は花魁おいらんとしっぽり濡れて、
「起きたいけど花魁が起こしてくれない」
と、のろけまで言われて、踏んだり蹴ったり。

「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」
「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」

どうにもならなくて、「家来」は与太郎を寝床から引きずり出そうとする。

与太郎が
「花魁、起こしておくれよ」
「どうしても、おまえさんは、今朝ァ、帰さないよ」
「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

上方版の主人公は幇間

上方落語の「袈裟茶屋」を東京に移したものとみられますが、移植者や時期は不明です。

「袈裟茶屋」は、錦の袈裟を借りるところは同じですが、登場するのはだんな二人に幇間ほうかん(たいこもち)で、細かい筋は東京の噺とかなり違います。

東京のでは、いちばんのお荷物の与太郎が最後は一人もてて、残りは全部振られるという、「明烏」と同じ判官ほうがんびいき(弱者に味方)のパターンです。

上方では、袈裟を芸妓げいこ(芸者)に取られそうになって、幇間が便所に逃げ出すというふうに、逆にワリを食います。

東京では、この噺もふくめて、長屋一同が集団で繰り出すという設定が多いですが、上方はそれがあまりなく、「袈裟茶屋」でも主従3人です。

このように、一つ一つの噺を比較しただけでも、なにか東西の気質かたぎ(気風)の違いがうかがわれますね。

基礎づくりは初代小せん

四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の速記を見ると、振られるのは色男の若だんな二人、主人公は熊五郎となっています。

東京移植後間もなくの頃で、大阪の設定に近いことがわかります。

円蔵のでは、オチは「そんなら、けさは帰しませんよ」「おっと、いけねえ。和尚へすまねえから」となっています。

これを現行の形に改造したのは、大正期の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)とみられます。

先の大戦後、この噺の双璧だった五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、ともに若手のころ、小せんに直接教わっています。

それが現在も、現役の噺家に受け継がれているわけです。

かっぽれ

幕末の頃、上方で流行した俗曲です。「活惚れ」と書きます。

江戸初期、江戸にみかんを運んだ大坂の豪商・紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたものが、はじまりなんだそうです。

かっぽれかっぽれ
甘茶でかっぽれ
塩茶でかっぽれ
沖の暗いのに白帆が見える
ヨイトコリャサ
あれは紀の国
みかん船

こんな歌詞に乗って珍妙なしぐさで踊るもので、通称「住吉踊り」。

明治初期に東京で豊年斎梅坊主ほうねんさいうめぼうず(松本梅吉、1854-1927、初代かっぽれ梅坊主)が、願人坊主の大道芸だったかっぽれ芸をより洗練された踊りに仕上げて大流行しました。

新富座では九代目市川団十郎(堀越秀、1838-1903)も踊りました。

尾崎紅葉(尾崎徳太郎、1868-1903)も、じつは若い頃には梅坊主に入門していたんだとか。

尾崎紅葉は、「金色夜叉」で一世を風靡した明治の小説家です。

この作品、じつはアメリカの小説に元ネタがあったことがすでにわかっていますが、それは別の機会に記しましょう。

紅葉は、若気のいたりだったのでしょうか。

袈裟

サンスクリット語(梵語)の「カサーヤ(kasaya)」からきています。もとの意味は煩悩ですが、そこから不正雑色の意味となります。「懐色」と訳しています。

なんだか、わかったようなわからないような。

インドやチベットでは、お坊さんの服のことです。

中国や日本では、左肩から右腋の下にかけて衣の上をおおう長方形の布をさします。

これは、青、黄、赤、白、黒の五色を使わずに、布を継ぎ合わせます。

大小によって、五条、七条、九~二十五条の三種類があります。三番目の九~二十五条のタイプが錦の袈裟といわれるものです。

こんな具合ですから、国や宗派によってさまざまな種類が生まれました。

与太郎が借りたのは上方題の「ちん輪」ですから、輪袈裟わげさという種類のものです。

これは、天台宗、真言宗、浄土真宗で使われています。禅宗で使われるような、威儀細いぎぼそ掛絡からといった略式のものもあります。

貪欲どんよく瞋恚しんい(怒り)・痴愚ちぐの三毒を捨て去ったしるしにまといます。

僧侶の修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も変わります。

緑→紫→緋といった具合に。

甚句

甚句郎の略で、幕末に流行した俗謡です。

七七七五調で四句形式が普通ですが、相撲甚句は七五調の変則で長く「ドスコイドスコイ」の囃しことばがつきます。

これを洗練したものが、三味線の合い方(伴奏)でお座敷で唄われました。

【蛇足】

ついでに生きてる与太郎が女にもててしまう。珍しい噺だ。

もてるはずもない男が遊び場に行ったら仲間よりもててしまったというプロットは、どこか「明烏」にも似ている。

若い衆が派手に息張る雰囲気は、いまも下町あたりでは飽かず繰り広げられている。下町風土記なのだ。

ばかばかしいが、当人たちには男気を張る勢いなのだろう。

落語の格好の題材となる。

海賀変哲は『落語の落』で、「褌のくだりであまり突っ込んで話すと野卑に陥る点もあるから、そのへんはサラサラと話している」と書いている。

たしかに、褌やら吉原やらが出てくるのだから、そこにこだわると善男善女の集う寄席では聞けたものでなくなる。

「ちん輪」という野卑な別題もある。

この噺は初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が絶妙だったという。

大正8年(1919)の小せんの速記を読んでも、いまのスタイルと変わらない。

会話の応酬と洒落の連発で、スピーディーなのだ。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、小せんから習った。

円生の師匠は四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)で、当時100人以上の弟子を擁する巨大派閥の領袖だった。

円蔵もこの噺が得意だったのに、円生は人気の小せんから習っている。

この噺は、上方でも「袈裟茶屋」として演じられる。上方から東京に流れた説と、東京から上方に流れた説があるらしいが、どうだろう。

どちらでもかまわない。笑うにはおかまいなしだし。いいかげんなものなんだなあ。

古木優

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きんぎょのげいしゃ【金魚の芸者】落語演目



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【どんな?】

いやあ、奇妙な噺。
鶴の恩返しならぬ、金魚の……。

別題:錦魚のおめみえ

【あらすじ】

本所で金魚屋を営む六左衛門という男。

ある日、金魚の会の道すがら、小石川の武嶋町辺を通りかかると、子供らが池で魚をつかんでいる。

見ると、池から小さな金魚が飛び出してピンピン跳ねた。

丸っ子といって、泳ぎ方が変わっているので珍重される品種。

それを子供が素手でぐいとつかんで持っていこうとするので、あわてて、
「そんなことをしたら手の熱で死んでしまう」
と注意して、浦島よろしく、五銭銀貨一枚やって買い取り、珍品なので、太刀葵と名付け、家の泉水で大切に飼育した。

おかげで大きないい金魚に育ち、品評会でも好評なので気をよくしていると、ある夜、金魚が夢枕に立ち、
「私は武嶋町であなたに助けられましたから、なにか恩返しをと思っていますところへ、あなたが今日、もし私が人間に育って、芸者にでもなったら売れっ子になるだろうとおっしゃるのを聞きました。どうぞ私を芸者にして恩を返させてください。明日の朝、人間の姿で伺いますから、決してお疑いのないよう」
と言ったかと思うと、スーッと消えた。

不思議なこともあるものと、夫婦で話していると、戸口で「ごめんくださいまし」
と女の声。

出てみると、
「私、金魚のお丸でございます」

顔は丸いが、なかなかいい女。

まさかと思って池の中を見ると、金魚がいない。

これは本物と、六左衛門は大喜び。

お丸が「今日からでも柳橋から芸者に出たい、柏手を三つ打ってくれれば金魚の姿になるから、手桶に入れて置屋に連れていってくれればよい」というので、試してみると、お丸の言う通り。

柳橋の吉田屋の主人が芸者を一人欲しがっていたので、さっそく連れて行き、また柏手を打つと不思議や、お丸はまた女の姿に。

吉田屋のだんな、一目でお丸が気に入って、
「この人は、おまえさんの娘かい?」
「いえ、実は拾い子で」
「どこで拾いなすった」
「どぶの中で」
「ひどい親があるもんだ。兄弟はありますか?」
「ウジャウジャいますが、黒田さまへ一人、宮さま方にも二、三人」
「どんなものが好きだい?」
「そりゃあボーフラ、もとい、麩が好きなんで。飯粒はいけません。目が飛び出しますから」

変な具合だが、最後に、
「のどを聞かせてほしい」
とだんなが言うので、お丸、三味線を手に取って、器用に清元を一段語った。

「あー、いい声(=鯉)だ」
「いえ、実は金魚です」

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【しりたい】

初代円遊の新作

明治26年(1893)6月、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が「錦魚のおめみえ」の題で速記を残しています。

同時代の口演記録もなく、これは、夏の季節をあてこんだ、円遊の新作でしょう。

戦後では、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が、マクラの小咄程度に演じたのみです。

金魚の噺としては、ほかに、昭和初期の田河水泡(高見澤仲太郎、1899-1989)の「猫と金魚」が目立つくらいです。

金魚は江戸の風物詩

金魚が中国から最初に移植されたのは、文亀2年(1502)のこと。江戸期にはワキンとリュウキン(中国種)、ランチョウ(朝鮮種)などをかけあわせ、盛んに養殖、品種改良が行われるようになりました。

金魚屋ができたのは、慶安から延宝にかけて(1650-81)とか。

当初は、この噺の六左衛門のように、自宅に池を設けて放し、売っていました。

のち、江戸期から昭和初期にかけて夏の風物詩となる棒手振りの金魚屋が登場するのは、それから約1世紀後の安永年間(1772-80)でした。

三代目歌川豊国(1786-1865)が、金魚売りの錦絵を残しています。

容器はギヤマン(=ガラス)製の徳利型が、江戸時代にはもう現れましたが、なんといっても高価で、庶民には高根の花。

長屋では用水桶や盥で泳がすのが普通でした。棒手振りも見ての通りです。

犀星、晩年の佳作

室生犀星(室生照道、1889-1962、詩人、小説家)が晩年の昭和34年(1959)に刊行した小説「蜜のあはれ」は、金魚が、飼い主である画家に恋をするというロマンチックなもの。

小説でも、金魚の擬人化はきわめて珍しいものですが、果たして犀星が、この噺を知っていたかどうか。

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さんだいめこさんのえんちょうかん【三代目小さんの円朝観】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

尾崎秀樹おざきほつき(1928-99)。

尾崎秀実おざきほつみ(1901-44)の実弟です。こちらはゾルゲ事件で帰らぬ人となった朝日新聞のエリート記者。今では歴史上の人物でしかありません。

弟の秀樹はといえば、「国賊の家族」として冷遇されつつ、台北帝国大学の医学専門部を中退。先の大戦後も苦労は続き、大衆文学の評論家として名を馳せるようになりました。チャンバラ小説と言えば尾崎秀樹がダントツでしたが、いまは亡き人、もう忘れ去られた存在です。

ゾルゲ事件では、尾崎秀樹は自著『生きているユダ』(八雲書店、1959年)で、伊藤律(1913-89)を事件の「ユダ」として糾弾しました。しかしその後、さまざまな新研究の結果、「伊藤=ユダ」説がほぼ覆されています。そんなこともあってか、尾崎秀樹が語られる場面も少なくなっているのでしょう。

日本では、文芸評論家という立ち位置は、小説家とは異なります。生きている間はすさまじく席巻し影響を及ぼすのですが、死んでしまうとそれっきり。他人の褌で相撲を取る風情、文壇のダニみたいな気配が敬遠されるのでしょうか。「うるさい奴が消えた」くらいのもので、没後は顧みられることがあまりありません。

河上徹太郎かわかみてつたろう(1902-80)も、亀井勝一郎かめいかついちろう(1907-66)も、平野謙ひらのけん(平野朗、1907-78)も、十返肇とがえりはじめ(十返一、1914-63)も、保昌正夫ほしょうまさお(1925-2002)も、浅見淵あさみふかし(1899-1973)も、あるいは荻昌弘おぎまさひろ(1925-88)も、はたまた淀川長治よどがわながはる(1909-98)でさえも例外ではなかったかもしれません。

例外は小林秀雄(1902-83)でしょうか。小林の書いたものはクリティークとして残されているように、私には映るのです。

それはともかく。

尾崎秀樹の仕事はチャンバラ評論ばかりかと思っていましたら、初期の頃には落語、それも円朝について記した作品があったのです。

「三遊亭円朝」という、一冊の刊行物にするにはちょいと寸足らずではありますが、薄っぺらな書きなぐった雑文とは異なる味わい、重厚で濃密で、しかも、円朝と仏教とのかかわりについて言及しているのは、おそらく、ほかには関山和夫せきやまかずお(1929-2013)くらいかもしれません。

その中で、円朝より少し下った世代は円朝をどう見ていたのか、というくだりがありました。三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の円朝観を、小さんの『明治の落語』から引用している箇所を見つけました。

たいへんおもしろい内容なので、孫引きで載せさせていただきます。

「円朝は狂言作者を抱えて飼い殺しにしていた。芸は拙いし採る処はないが、作者がついていて常に新しいものを出した。一口に云えば山勘で興行師のような処がありました。年に春秋二回、十五日間位しかやらなくて高いお金をとっていたが、芸は拙い人でした。そこへいったら燕枝は円朝とは訳が違う。燕枝は人物が出来て居た。伯猿という人も、大した評判でしたが、講釈のまずさ加減というものは、無茶苦茶でまるで素人のようなものでした。伯猿と円朝は何故そんなに評判になったかというと、それは番付によい処に出すものですから、あんなになったのです。……(略)話が下手でも、狂言作者が附いていたので、次から次へと新しく行った。それだけのもので円朝は頭の悪い人でした」

以上が三代目小さんの弁。

いやあ、ひどい言いようです。でも、見ようによってはこんなところも円朝にはあったのかもしれませんね。

燕枝とは初代談洲楼燕枝(長島傳次、1837-1900)のこと。柳派における円朝のような存在です。小さんの立場からすれば自陣の人です。

円朝が逝った明治33年(1900)、燕枝も半年ほど早めに没しました。

燕枝も新作をものしています。

円朝と違って自ら書き残したものが多いため、今後、格好の研究対象として発掘されていってもよいのですが、円朝研究ほどの成果は上がっていません。

伯猿とは二代目松林伯円(手島達弥→若林義行→若林駒次郎、1834-1905)のこと。

当時の講談界の親分です。

明治政府からは、円朝と並んで「教導職」に任ぜられました。まあ、円朝と同列視される巨頭です。

「狂言作者を抱えて」のくだり、これは尾崎も触れていますが、仮名垣魯文かながきろぶん(野崎文蔵、1829-94)、条野採菊じょうのさいぎく(条野伝平、1832-1902)、三代目瀬川如皐せがわじょこう(六三郎、1806-81)、梅素亭玄魚ばいそていげんぎょ(宮城喜三郎、1817-80)、河竹黙阿弥かわたけもくあみ(吉村芳三郎、1816-93)などとのつきあいを皮肉っているのでしょう。

この方々は、幕末に盛り上がった「粋興連すいきょうれん」と称する同好の仲間でした。

条野採菊は、江戸期には山々亭有人さんさんていありんどという名の戯作者で、明治期には「警察新聞」を買い取って「やまと新聞」を創刊した新聞経営者に。鏑木清方(条野健一、1878-1972)の実父でもあります。

その変わり身ぶりは円朝にもいえることでしょう。

円朝は、江戸期には道具噺で歌舞伎もどきのにぎやかな芸風でしたが、明治5年(1872)には道具を弟子に譲り、わが身は扇子一本の枯れた素噺に変身したのですから。

三代目小さんと言えば、夏目漱石(夏目金之助、1867-1916)が「三四郎」などで絶賛した希代の話芸の名人でした。尾崎の言葉を借りれば、小さんとはこんな具合です。

三代目小さんは、頭の方はお留守だが腕はいい「与太郎」の登場する「大工調」とか、「笠碁」などをやらすと絶品で鈍重で邪気のない性格が、そのまま作中人物の性格になったといわれたはなしかだった。それだけに、才人で時代を見抜く眼のある円朝の動きは、ムシズが走るくらい嫌だったらしい。

「頭の方はお留守」なのは与太郎であって、小さんではありません。 誤読しそうです。日本語はややこしいです。

ここまで来たなら、ついでに、二派の違いを四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)からの引用でちょこっと。これも尾崎論文からの孫引きですが、まあ、お読みください。

柳派と三遊派のちがいについて四代目小さんはうまいことをいっている。「総じて柳の方は地味で、三遊は華やか、柳は隠居やお医者が巧く、三遊は若旦那や幇間、つまり天災や猫久が柳なら、湯屋番や干物箱は三遊といったわけ」(「小さん聞書」参照)これでもわかるように柳派はどちらかといえば地味、三遊派は派手で、小さんのこのみに円朝があわないのはあたりまえかもしれない。

ここらへんにくれば、落語通の方々は「そんなもんだろう」と納得されることでしょう。定着化された評価です。

三代目小さんが円朝をくさすのは、こんなところからきているのかもしれませんね。

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ちょうないのわかいしゅう【町内の若い衆】落語演目



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【どんな?】

すごいオチですね。
さすが。
長屋のかみさんは太っ腹!

別題:鉢山嬶(上方) 類話:氏子中

【あらすじ】

長屋の熊五郎、兄貴分の家に増築祝いに寄ると、かみさんが、今組合の寄り合いに出かけて留守だと言う。

熊がお世辞ついでに、兄貴はえらい、働き者でこんな豪勢な建て増しもできて、組合だって兄貴の働き一つでもっているようなもんだと並べると、このかみさんの言うことが振るっている。

「あら、いやですよ。うちの人の働き一つで、こんなことができるもんですか。言ってみれば、町内の皆さんが寄ってたかってこさえてくれたようなもんですよ」

熊公、この言葉のおくゆかしさにすっかり感心してしまい「さすがに兄貴のとこのかみさんだ。それに引き換え、うちのカカアは同じ女でありながら」と、つくづく情けなくなった。

帰るといきなり「どこをのたくってやがった」とヘビ扱い。

てめえぐれえ口の悪い女はねえ、これこれこういうわけだが、てめえなんざこれだけの受け答えはできめえと説教すると「ふん、それくらい言えなくてさ。言ってやるから建て増ししてごらん」

痛いところを突かれる。

形勢が悪いので「湯ィへえってくる」と言えば「ついでに沈んじゃえ。ブクブク野郎」

熊公が腹を立て「しらみじゃねえが、煮え湯ぶっかけてやろうかしらん」と考えながら歩いていると、向こうから八五郎。

そこで熊「カカアの奴、ああ大きなことを抜かしゃあがったからには、言えるか言えねえか試してやろう」と思いつき、八五郎に「オレが留守のうちに何かオレのことをほめて、うちの奴がどんな受け答えをするか、聞いてきてくんねえ」と頼む。

一杯おごる約束で引き受けた八五郎、いきなり熊のかみさんに「あーら、八っつあん、うちのカボチャ野郎、生意気に湯へ行くなんて出てったけど、どうせあんなツラ、洗ったってしょうがないのにさ。あきれるじゃないか」

先制パンチを食らわされ、目を白黒させたが、なにかほめなくてはとキョロキョロ見回しても、何もない。

畳はすりきれている。土瓶は口がない。かみさんは臨月で腹がせり出している。

これだと思って「いやあ、さすがに熊兄ィ。この物価高に赤ん坊をこさえるなんて、さすが働き者だ」

するとかみさんが「あら、いやですよ。うちの人の働き一つでこんなことができるものですか。言ってみれば、町内の皆さんが寄ってたかってこさえてくれたようなもんですよ」

出典:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

意外に珍しい、原話もそのまま 【RIZAP COOK】

たいていの噺は、原典があっても長い年月を経ているうちにかなりストーリーが変わってくるものですが、この「町内の若い衆」ばかりは最古の原話とされる元禄3年(1690)刊の笑話本『枝珊瑚珠』中の「人の情」以来、大筋はまったく同じなんです。

この笑話集は、江戸落語の始祖といわれる鹿野武左衛門(1649-99)の手になるものですが、それから1世紀を経た寛政10年(1798)刊の『軽口新玉箒』中の「築山」になると、オチの女房のセリフが「これも主(=主人)ばかりでなく、内の若い衆の転合(てんごう。いたずら)にこしらえました」と、よけいエスカレートしています。

いかに「若い衆がよってたかって」のオチにインパクトが強かったかがわかろうというものです。

「こさえてくれた」の一言でご難 【RIZAP COOK】

このたった一言のおかげで、あわれ、この噺はアジア太平洋戦争の間は禁演落語の一つに指定され、長瀧山本法寺(日蓮宗、台東区寿町2-9-7)の「はなし塚」に葬られていました。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がまだ七代目金原亭馬生だったころの昭和10年(1935)2月、レコードに吹き込んだ「町内の若い衆」の速記が残っています。

問題の最後の部分は「こさえてくれた」ではとても検閲を通らず、「育ててくれた」という、おもしろくもおかしくもないものになっています。

昭和10年の時点までは、こんな程度のゴマカシで、エロ落語もかろうじて命脈を保っていたことになります。

はなし塚が建立されて53席の噺が葬られたのは、昭和16年(1941)10月31日のことでした。

もっと強烈な「氏子中」 【RIZAP COOK】

前述の志ん生の速記は、実はタイトルが「氏子中」で、長男の十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)も同じ題で「町内の若い衆」を演じています。

ところが、同じ不倫噺でも本来、この二つは別話なんですね。

氏子中」の項目を見ていただければおわかりになると思いますが、ここでは、そっちを見るのもめんどうな方のために、さわりを記しておきます。

商用の旅から一年ぶりに帰った亭主の与太郎が、女房が妊娠しているのを見て、驚いて問いただすと、女房もさるもの、氏神の神田明神に願掛けして授かった子だと、しらばっくれる。親分に相談すると、「子供が産まれたら、祝いに友達連中を呼んで荒神さまのお神酒で胞衣(えな。胎盤)を洗えば、胞衣に本当の父親の紋が浮かび出る。そいつに母子ともノシつけてくれてやれ」そこで、言われたとおりにすると、「神田大明神」の文字がくっきり。疑いが晴れたかに見えたが、よくよく見ると横に「氏子中」。

こちらは、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)がたまに演じていました。

歌麿の『艶本 葉男婦舞喜』から 【RIZAP COOK】

この噺を絵にすると、こんなかんじでしょうか。

下の絵は、喜多川歌麿(北川信美、1753-1806)の『艶本 葉男婦舞喜』に収録されています。

「えほん はなふぶき」という、歌麿の有名な春画本の中の一枚ですね。

喜多川歌麿『艶本 葉男婦舞喜』上巻第七図より

この絵の書き入れ(絵のまわりにちりばめられた文字)は男女の会話です。じつは、こんなことを話しているのです。現代語訳にしてみました。

女「この子は確かおめえの子だよ。うちの亭主には少しも似ねえ。おめえにどこか似ているようだ」
男「世間の人は、とかく子持ちのぼぼは味が悪いというが、おいらあ、子持ちのぼぼでなけりゃアうま味は出ねえものと心得ている。あああ、いい。どうも言えねえ。豪勢、豪勢。まだ気をやるのは惜しいが、どうももう、たまらなくなってきた。さあさあ、十四の背骨がずんずんしてきたぞ」

絵に出ている子供はどうやら、おかみさんと「町内の若い衆」との子のようです。女は「あんたの子だよ」なんて詰め寄っているのに、男は「子持ちのぼぼがいい」とかほざいて、どこ吹く風。この子の認知をしません。会話のちぐはぐがなんとも笑いを誘います。

ひとつ、蛇足を。この絵では子供が乳を吸っています。乳を吸われると締まりがよくなるため、それを好んで男が挑むのだそうです。ということは、この男女はなかなかな手練れなのかもしれませんね。

参考文献:車浮代『歌麿春画で江戸かなを学ぶ』(中央公論新社、2021年)



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しろうとうらない【素人占い】落語演目

五代目古今亭志ん生

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【どんな?】

勘当された若だんな。
「お天道さまと米の飯は」
まぬけでのんき。

別題:きめんさん

あらすじ

紀伊国屋という綿屋の若だんな。

略して紀綿さんと呼ばれているが、大変な道楽者で、吉原の花魁に入れ揚げてとどのつまりは、勘当。

「お天道さまと米の飯はどこでも付いて回る」
と「唐茄子屋政談」の若だんなとちょうど同じことを言って、家を飛び出し、花魁の所へ転がり込むが、金の切れ目が縁の切れ目、ていよく追い出され、結局、見世に出入りの印判屋の喜兵衛の家で居候を決め込む身とはなった。

若だんながあんまりにも怠け者でずうずうしいから、案の定、かみさんが怒り出す。

喜兵衛は板挟みで、若だんなに
「なにか商売を」
と勧めると、今度の若だんなは
「易者になりたい」
と言い出す。

みかん箱を一つ借り、白布を掛けて見台、魚串が筮竹。

家の半分を借りて「人相手相墨色判断」と看板を書いてもらい、名も平安時代の陰陽師安倍晴明をもじって「今晴明」というごたいそうなのを付けた。

最初に来たのは女で、三味線のお師匠さん。

母親に琴も教えたらどうかと言われ、やった方がいいか見てもらいたいと言うので、無理はコトだからおやめなさいとくだらない駄じゃれでごまかし、三味線だけに心を太棹に持って辛抱が肝心と、落語家のようなことを言って帰す始末。

次は鳶頭の娘。縁談があるが、うまくいくか見てほしいと頼む。

娘が違うと言うのに、強引に娘は火性、先方の男は水性ということにしてしまって、
「だんなは水性だから、鰻と同じ穴っぱいり(浮気)の好きな質、おまえさんは火だから、カッカと焼くので、釣り合わないからおやめなさい。それよりいっそ、芸者にでも出て」
と、めちゃくちゃを言うので、娘は怒って帰ってしまう。

あとから若い者が押しかけ
「この野郎、てめえが易者か。家の姉御をおつゥまぜっ返しゃあがったな」

ポカポカポカと殴られ、コブだらけにされた若だんな。

自業自得とはいえ、すっかり易者に懲り、今度は医者をやると言い出す。

また看板を書き換え、今度は
「施しに五銭で診察する」
と宣伝したので、さっそく客が来る。

女が腰がつると言うと、にわか医者
「それは疝気」
「疝気は男の」
「女だって疝気だ。橙の粉にマタタビをなめなさい」

喜兵衛に女は寸白と教えられ
「おまえさんは医者をやったことがあるね」
「やらなくたってわかります」

そこへ蔵前の万屋という茶問屋から、
「奥方が風邪をこじらせたのでみてくれ」
と言ってくる。

金になりそうだからさっそく出かけて、かっこうをつけるため、お茶を所望。

「これはけっこうで。ご主人はどういうご流儀で?」
「千家でございます」
「それでわかった。奥さまは寸白でしょう」

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うんちく

後継者のいない噺 【RIZAP COOK】

大正4年(1915)9月刊『三遊連柳連名人落語十八番』に、六代目金原亭馬生の速記が掲載されています。

この馬生は、後年、四代目古今亭志ん生を襲名。五代目志ん生の二人目の師匠です。

歯切れのいい江戸前の芸風で人気がありましたが、襲名後わずか一年あまりの大正15年(1926)1月、48歳の若さで亡くなりました。

戦後では、初代林家三平や八代目橘家円蔵の師匠で、七代目橘家円蔵(あのねの円蔵)がたまに演じましたが、彼の没後、東京ではほとんどやり手はいません。

ならぬ勘当、するが勘当 【RIZAP COOK】

とうの昔に死語と化しましたが、勘当には二通りありました。

ほとんどの場合、こらしめのため、家に出入りを禁ずるという形をとり、落語の居候の若だんなはみなこれです。

ただ、どうにも手がつけられず、犯罪などで親族に累を及ぼす場合は、親類同意の上で除籍します。

これで、勘当された者は無籍、つまり無宿人となります。その名を記載したのが久離勘当帳、または言上帳ともいいました。「久離を切って勘当する」というのは、親父の脅しの常套文句でした。

これは町名主が管理し、復籍する際はそこから名前を消します。ついでに、これが「帳消し」の語の起こりです。

懲りない若だんな 【RIZAP COOK】

毎度おなじみ、懲りない若だんな。

今回は易者志望で、また一騒動。原話は不詳ですが、民話がルーツともいわれます。前半は「湯屋番」「素人車」などと同じく、勘当→居候という一連のパターンなので、誰かがバリエーションを変えて改作したのかもしれません。

「きめんさん」で演じることがあるのは、主人公が紀伊国屋という綿屋の息子だからで、上方ではこの題で演じられます。医者の息子という設定もあります。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
居候 いそうろう
筮竹 ぜいちく
太棹 ふとざお
鳶頭 とびのかしら
姉御 あねご
疝気 せんき
寸白 すばこ:女の生理病
久離 きゅうり:関係を断絶すること

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五代目古今亭志ん生

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にかいぞめき【二階ぞめき】落語演目

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【どんな?】

自宅の二階に吉原をこさえた若だんな。
ここまでなりきれれば、吉原マニア完成!

あらすじ

若旦那が毎晩、吉原通いをするものだから堅物かたぶつ親父おやじはかんかん。

世間の手前「勘当する」と言い出す。

番頭が心配して意見をしにくるが、この道楽息子、まるで受け付けない。

「女がどうのこうのじゃないんで、吉原のあの気分が好きなんだから、毎日行かずにはいられない、吉原全部を家に運んでくれれば、行かない」と言う。

これには番頭も驚いたが
「それで若旦那の気がすむなら」
と二階を吉原の通りそっくりに改造し、灯まで入れて、ひやかし(そぞろ歩き)ができるようにした。

棟梁とうりゅうの腕がいい上、吉原まで行って実地検分してきたので本物そっくりで、若旦那は大喜び。

番頭に
「服装が大事だから古渡こわた唐桟とうざんを出せ」
「夜露は毒だからっかぶりをしていく」
などと騒いだあげく
「じゃ、行ってくるよォ。だれが来ても上げちゃァいけないよォ」

二階の吉原へ、とんとんとん。

上ってみると、茶屋行灯ちゃやあんどんに明かりは入っているし、張り見世みせもあるし、そっくりなのだが、残念なことに、人がいない。

……当たり前だ。

そこで、人のいなくなった大引おおびけ(午前二時)過ぎという設定で、一人で熱演し始める。

『ちょいとあァた』
『なんでえ、ダメだよ、今夜は』
『そんなこと言わないで。あのコがお茶ひいちゃうから』

忙しいこと。背景音楽を新内しんないから都々逸どどいつへ。

「別れにヌシの羽織がァ、かくれんぼォ…ッと」

ここで花魁おいらんが登場。

『ちょいと、兄さん、あがっとくれよッ』
『やだよ』
『へん、おアシがないんだろ。この泥棒野郎』
『ドロボーたァなんでィ』
『まァまァ』

止めに入った若衆わけえしと花魁、一人三役で大立ち回り。

『この野郎、さあ殺せッ』

一階のおやじ、大声を聞きつけて、
「たまに家にいると思えば……」
と苦い顔。

ところがよく聞いてみると、なにか三人で喧嘩しているもよう。

あわてて小僧の定吉を呼んで
「二階へ行ってせがれを連れてこい」
と命じる。

定吉、上がってみると
「あれッ、ずいぶんきれいになっちゃたなあ。明かりもついてやがる」

頬っかぶりをした人がいるので、「泥棒かしらん」と思ってよく見ると、これが若旦那。

なにやら自分で自分の胸ぐら取って「さあ殺しゃあがれ」とやっている。

「しょうがねえなあ。ねえ、若旦那」
「なにをしやがる。後ろから小突きやがって。前から来い。だれだって? なあんだ。定か。悪いところで会ったなあ。おい、おめえな、ここでおれに会ったことは、家ィ帰っても、おやじにゃあ、黙っててくんねえ」

しりたい

ぞめき

「騒」と書きます。動詞形は「ぞめく」です。古い江戸ことばで、「大勢でわいわい騒ぎながら歩くこと」を意味します。

そこから転じて、「おもに吉原などの遊里を見世に上らずに、遊女や客引きの若い衆をからかいながら見物する」という意味になりました。

これを「ひやかし(素見)」ともいい、こちらの方が一般によく使われました。

要するに、遊興代がないのでそうするよりしかたがないのですが、そればかりともいえず、ひやかし(ぞめき)の連中と張り見世、つまりショウウィンドーにずらりと並ぶ遊女たちとの丁々発止のやりとりは、吉原の独特の文化、情緒となって、洒落本(遊里を描いた話)や芝居、音曲などのかっこうの題材となりました。

原話では少しつつましく……

もっとも古い原典は、延享4年(1747)、江戸で刊行された笑話本『軽口花咲顔かるくちはなえがお』中の「二階の遊興」ですが、オチを含め、現行の落語と大筋は変わりません。

こちらはそう大掛かりな「改築」をするわけでなく、若旦那が二階のふすまや障子に茶屋の暖簾のれんに似たものをつるし、それに「万屋」「吉文字屋」などと書き付けて、遊びの追憶にふけっている、という安手やすでの設定です。

そのあと一人三役の熱演中、小便に行きたくなって階段を下りる途中で小僧に出くわし、オチのセリフになりますが、落語のように、現実を完全に忘れ去るほどでなく、いたってつつましいものです。

その後、落語としては上方で発達したので、二階を遊郭(大坂では新町)にしてしまうという現実離れした、派手と贅沢は、完全に上方の気風によって付け加えられたといってよいでしょう。

志ん生好みの噺

落語の古い口演記録として、きわめて貴重な、万延2年(1861=文久元)の、上方の桂松光のネタ帳『風流昔噺ふうりゅうむかしばなし』に、この噺と思われる「息子二階のすまい ここでおうたゆうな」という記述があり、すでにこのころには上方落語として演じられていたことがわかります。

これを明治期に、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に「逆輸入」したとされますが、古い速記やレコードは一切なく、残っているのは七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)や五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)のものです。

志ん生がこの噺を誰に教わったかは不明ですが、おそらく、三代目小さん門下の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)でしょう。小せんは廓噺の天才です。「五人廻し」参照。

寄席や落語会で志ん生は、「二階ぞめき」をどれほどかけたことでしょうか。それだけに、志ん生の得意噺のうちでも、もっとも志ん生好みの噺といえます。自分が若き日に通いつめた、かぐわしき吉原への追慕もさることながら、志ん生がなにより愛したのは、この若旦那の一途さ、それを許してしまう棟梁、その他周囲の人々の洒落っ気や懐の深さではなかったでしょうか。

志ん生監修:正しい吉原の歩き方・序

「ひやかし」の語源は……。「昔、吉原の、近在に、紙漉場かみすきばがあって、紙屋の職人が、紙を水に浸して、待ってんのが退屈だから、紙の冷ける間ひと廻り回ろう-てんで、『ひやかし』という名前がついてきたんですな」とのことです。

ところで、ただ単に吉原をぶらつくといっても、おのずとそこには厳しいルールとマナーがあります。洗練された文化を体現し、粋な男になるためには、情熱と努力、そしてなにより年期が大切なのです。

次の若旦那の一言がすべてを物語っています。「俺ァ女はどうでもいいんだよ。うん。俺ァ吉原ってものが好きなんだよ」 好きこそものの上手なれ。

それでは、志ん生師匠指導「ひやかし道」の基本から。

正しい吉原の歩き方:まずは正しい服装

どの道も、修行はまず形からです。

それにふさわしい服装をして初めて、魂が入ります。

相撲取りはあの格好だからこそ相撲取り。スーツで土俵入りはできません。

その1

必ず古渡こわた唐桟とうざんを着用のこと。

唐桟は、ふつうは木綿の紺地に赤や浅黄あさぎ縦縞たてじまをあしらい、平織(縦糸・横糸を一本ずつ交差させたシンプルな織り方)に仕立ててあります。室町時代にインドから渡来した古いデザインなので、「古渡り」の名があります。縦縞という模様は粋の典型です。浮世絵に描かれた雨模様も同じ。細い縦線をすてきと感じる感覚が粋といえます。

はでな上に身幅が狭く、上半身がきゅっとしまっていかにもすっきりしたいい形なので、色街遊びには欠かせません。

その2

着物は必ずたもとを切った平袖にします。

いわばノースリーブです。

これは、吉原を漂っていると、必ず同じ格好のひやかし客とぶつかります。

そうすると、ものも言わずに電光石火でパンチが飛んできますから、袂があると応戦が遅れ、あえなくのされてしまいます。それでは男の面目丸つぶれ。

そこで、平袖にして常に拳を固めて懐に忍ばせ(これをヤゾウといいます) 、突き当たった瞬間、 間髪入れずに右フックを見舞わなければなりません。そのための備えなのです。

その3

必ず「七五三の尻はしょり」をします。

七五三とは、 七の図、つまり腰の上端、フンドシまたはサルマタの締め際まで 着物のすそをはしょり、内股をちらりとのぞかせることで、 鉄火な(威勢のいい)男の色気を見せつけます。

仕上げに、渋い算盤玉柄の三尺帯をきりりと締めれば一丁あがり。

ただし、くれぐれもフンドシを締め忘れないよう注意のこと。

公然わいせつで八丁堀の旦那にしょっ引かれます。

その4

最後に、手拭てぬぐいで頬かむりをすれば準備完了。

ただし、 この場合もどんな柄でもいいというわけにはいきません。

ひやかしに 最適なのは亀のぞきという、ごく淡い、品のいい藍色地に染めたものです。頬かむりは、深夜に出かけるため、夜露を防ぐ意味も ありますが、なによりも、かの有名な芝居の「切られ与三」が源氏店の 場でしているのがこの「亀のぞき」であることからも分かるように、 ちょっと斜に構えた男の色気を出すためには必携のアイテムです。

これで、夜の暗さとあいまって、あなたも海老蔵に見えないこともありません。

ただし、間違っても黒地で盗人結びになどしないこと。

八丁堀のだんなにしょっ引かれます。

その5

以上で、スタイルはOK。

あと、基本的な心得としては、その2でも触れましたが、必ず、100%間違いなく、一回の出撃でけんかが最低三度は起こりますから、無事に生きて帰るためにも、先制攻撃の覚悟を常に持つこと。

どんなに客引きの若い衆に泣き落とされ、はたまた張り見世のお茶ひき(あぶれ)女郎に誘惑され、果ては銭なしの煙草泥棒野郎とののしられても、絶対に登楼などしないという、固い決意と意志を持ってダンディズムを貫くことが大切です。

とまあ、こういうスタイルで若旦那は「出かけた」わけですが……。

この二階の改築費用、どのぐらいについたか、他人事ながら心配です。おまけに、当主の親父は知らぬが仏。この店の身代も、この分では十年ももつかどうか……。

いつの世も、かく破滅の淵をのぞかないと、道楽の道は極められないようで。

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きなこのぼたもち【きな粉のぼた餅】落語演目



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【どんな?】

明治期にできた落語。
小説にでもなり得る好編です。

【あらすじ】

二人の車屋。

居酒屋で一杯やりながら、同じ車屋仲間だった喜六という男のことを噂しあっている。

なんでも、コツコツためた黄金を同業者に高利で貸し付け、自分は食うものも食わずに倹約して大金をため込んだが、栄養失調で先ごろ、おっ死んでしまったとのこと。

細君はその金を、物好きにもそっくり寺へ寄付するつもりらしいというので、世の中にはもったいないことをする奴があるものだと、二人してため息ばかり。

話変わって、喜六の家。

女房が、義弟の届けてくれたぼた餠を仏壇に供え、お灯明を上げているところへ、菩提寺の谷中瑞林寺の者だと言って、一人の坊さんが訪ねてくる。

坊さんが言うには、
「昨夜、住職の夢枕に喜六が立ち、自分は非道に金を貯めて、施しということをしなかった報いで地獄におち、たいそう苦しんでいるので、なんとか救ってほしいと、泣きながら訴えたから、住職もあわれに思い、法事をしてあげようと言うが、その費用に百円ほどかかるので、奥方から受け取ってこいと言いつけられた」
という。

女房もちょうど寺に金を納めようと思っていたところなので、それで亭主が浮かばれるならと、
「今、金を取ってきますのでそれまでの間」
と、坊さんにきな粉のぼた餠を出す。

これは喜六の弟の錺職人の銀次郎が、兄の好物だったので手作りして届けたもの。

ところが、坊さん、ぼた餠を食べると、急に腹痛で七転八倒。

あわてて長屋の者を呼び、医者が駆けつけたりで大騒ぎ。

中毒だと容易ならぬことだと月番が警察に届け、まもなく関係者一同の尋問が始まる。

ほかの者が食べてもなんともなかったのに、なぜこの坊主だけがあたったのかも不思議。

銀次郎が呼ばれたが、これはシロ。

そもそも、死人が夢枕に立ったという話が怪しいと、オイコラ警官は当たりをつけ、瑞林寺に問い合わせると、そんな話はないというので、病人がニセ坊主だと知れた。

この男、実は縁日の露天商で南京鼠売りで、居酒屋で車引きの話を小耳にはさみ、坊主に化け込んで金をかたり取ろうとしたことを白状したので、これにて一件落着。

「ハァ、鼠売りか。これで、このぼた餠にあたった原因がわかったぞ」
「そりゃ、どういうわけで?」
「今、本官が食べたら、きな粉がみんなネコ(寝粉=古い粉)だったわい」

底本:二代目三遊亭小円朝

【RIZAP COOK】

【しりたい】

明治後期の新作

明治32年(1899)の初代三遊亭金馬(芳村忠次郎、1858-1923、→二代目三遊亭小円朝)の速記が残るのみで、その後の口演記録はありません。

同時期の金馬自身の新作と思われますが、詳細ははっきりしません。

人力車事始

和泉要助ら三人が官許を得て、明治3年(1870)に製造に取りかかり、改良を加えて明治8年(1875)ごろ、完成品ができました。

車輪は当初は木製、のち鉄製、さらにゴム製に。

そのころから、早くも東南アジア方面に「リキシャ」の名で輸出され始めました。

全盛期には全国で3万台以上を数えましたが、関東大震災を境に、ほとんど姿を消しました。

明治大正期には、落語家でも大看板ともなると、それぞれお抱えの車引きを雇います。売れっ子の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の抱え車屋があまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードまであります。

南京鼠売り

中国産の二十日鼠をペット用に売るもので、明治中期から後期にはけっこうはやりました。南京鼠は体長は6-7cmで、独楽鼠もその一品種です。

谷中瑞林寺

台東区谷中4丁目にあります。日蓮宗の古刹です。天正19年(1591)、身延山第十世・滋雲院日新が日本橋馬喰町に開基しました。慶安2年(1649)、現在地に移転。明治の元勲、井上毅の墓所があります。

安政ぼた餅殺人事件

岡本綺堂(岡本敬二、1872-1939)は『半七捕物帳』シリーズの作者としてよく知られた人ですが、「二十九日の牡丹餅」というサスペンス短編もあります。

ペリー艦隊再来航直後の安政元年(1854)旧暦7月、江戸市中に実際に飛び交った流言を題材にしたものです。

安政元年は7月の翌月が閏7月。

その流言とは、夏の閏月は残暑が厳しく、疫病も発生しやすいところから、晦日の7月29日にきな粉のぼた餅を食えば、暑気あたりを防げるというものでした。

ただし、それを他家に配ってはならず、家族や親類、奉公人などの身内で残らずその日のうちに食べつくすべし、という、ご親切な尾ひれ付き。

これを人々が真に受け、ぼた餅パニックが発生。米屋ではもち米が品切れ、粉屋からはきな粉が消えました。

自家で作れなくなった市民がぼた餅屋に殺到し、江戸中捜し歩いても、ことごとく売り切れ。

この、まじないめいた流言が、なにかの俗信に基づくものか、また、なんらかの根拠があったのかはわかりません。

小説では当日、清元の女師匠の家で食べたぼた餅で、パトロンのだんなが中毒死。

そこから発生する連続殺人事件を、綺堂は落日の江戸を背景に、情味濃く描いています。

殺人事件その後

原作者の綺堂も作中で「安政元年」と言っているのですが、実は、安政改元はその年の旧暦11月27日(1855年1月15日)で、厳密に言えば7月、閏7月の時点では、まだ嘉永7年です。

文中の7月29日は、1854年8月22日に当たりますが、調べてみると、この月はもう一日、30日があり、29日で終わっているのは、翌月の「閏7月」です。

したがって、29日を「晦日」としたのは誤りでした。失礼いたしました。

トリビアルにいえばこのタイトルも「嘉永ぼた餅殺人事件」と変えなければなりません。

岡本綺堂でさえ誤るのですから、旧暦と新暦の換算、西暦との整合はややこしいもの。

たとえば、機械的に「安政元年=1854年」とやると、同年旧暦11月13日から、もう西暦では1855年に入っているため、場合によっては、とんだ間違いを生じることになります。

おことわり

さらにいえば、もうひとつ。

これも文中で、「夏の閏月」と書きましたが、旧暦の季節で言うと7月はもう秋、ということになります。

現代の感覚から言いますと、盛夏のさなかに変わりなく、秋とするとかえってややこしくなりますので、あえて「夏」で通したことをお断りしておきます。

【語の読みと注】
錺職人 かざりしょくにん
独楽鼠 こまねずみ



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りんきのこま【悋気の独楽】落語演目

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【どんな?】

悋気=嫉妬。
浮気性のだんな。
行くか行かぬか。
小僧相手に独楽で占い。

別題:三ツ紋の独楽 辻占独楽 喜撰

【あらすじ】

だんなが田中さんのところへ行くと言って、夜出かけていった。

やきもち焼きのおかみさん、これは女のところだと当たりを付け、小僧の長吉に提灯ちょうちんの火を頼りに後をつけさせるが、これに気づいただんなが、長吉を買収しようとお妾さん宅へ連れていく。

長吉は抜け目がなく、口八丁手八丁くちはっちょうてはっちょう

小僧は口も身上しんじょうも軽いと脅し、酒をたらふく呑んだ挙げ句、二十銭で寝返ることにする。

「えー、まさに賄賂わいろ受納つかまつりました」

だんなは
「帰ったら、山田さん宅をのぞいてオレに声をかけられたことにし、ただいま碁が始まるようすですから、今夜のお帰りはないでしょう、と言え」
と言い含める。

証拠物件にと、
「これはだんなさまが店の者に食わせろとおっしゃったと、こう言うんだ」
と餡ころ餠まで渡す周到さ。

そうしているうち、長吉がきれいな箱を見つけた。

中には三つの独楽。

それぞれ違った紋がついている。

旦那が言うには、花菱はなびしの紋はおめかけさんの独楽。

「はあ、副細君ふくさいくんで」
「変な言い方をするな。こっちの三柏みつかしわがうちのやつのだ」
「ご本妻の」
「これが抱茗荷だきみょうがで、おれのだ。これを三つ一度にまわす。そこで、おれの独楽が花菱の方へ着けばここに泊まるという、辻占つじうらの独楽だ」

遊びに独楽売りから買ったものだからと、だんなが独楽をくれたので、長吉は喜んで、そろそろ引き揚げることにした。

「決してご心配ありません。お楽しみ」
「お楽しみだけ余計だ。こっちへ来たら時々寄れ」
「へい、日に三、四度」
「そんなに来られてたまるか」

どうせおかみさんからも、にせ情報を流した上二十銭ふんだくるつもり。

店はもう戸締まりしていたので、
「だんなのお帰り」
と大声で叫んで堂々と通ると、さっそく
「おかみさんがお呼びだ」
という。

だんなの筋書きが功を奏して、執拗な尋問をなんとかかわしたと思ったら、
「奉公人が用をするのは当たり前だよ」
と、なにもくれない。

逆に、肩をたたいてくれと言いつけられる。

しぶしぶ肩につかまっているうち、眠くなるので、長吉、本店のお嬢さんがこの間、踊りのおさらいにお出になったときの「喜撰きせん」はよかったと、
「チャチャチャンチン、世辞せじで丸めて浮気うわきでこねてェ、ツチドンドン」
と拍子に乗って背中を突いた。

その拍子に、独楽がポロリ。

紋がついているのでごまかしきれず、ついにすべて白状させられる。

おかみさんが
「やってお見せ」
と言うので実演すると、だんなの独楽はツツツーと花菱の方へ。

「えー、あちらにお泊まりです」
「おまえのやり方が悪いんだ。もう一度おやり」
「へい。……あっ、おかみさんの独楽が近づいた。だんなの独楽が逃げる逃げる逃げる……あちらへお泊まりです」

おかみさん、カンカンで、
「こっちィおよこし」
と自分でまわすが、なぜかだんなの独楽がまわらない。

「これはまわらないわけです。心棒しんぼう(=辛抱)が狂いました」

【しりたい】

やり手など

幕末には純粋な上方落語でした。

明治になって三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移しました。

あまり根付かなかったらしく、速記は小さんのほかは、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)のものくらいです。

先の大戦後では、やはり上方の三代目林家染丸(大橋駒次郎、1906-68)、東京で上方落語を演じた二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)が得意にし、小南門下だった二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)もレパートリーにしていました。

だんなと本妻の虚々実々の腹の探りあいがニヤリとさせ、「権助提灯」などよりずっとおもしろいのに、あまりやり手がいないのは惜しいことです。

四代目志ん生の改作

四代目古今亭志ん生(鶴本勝太郎、1877-1926、鶴本の)は、五代目志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の二度目の師匠です。

転宅」「あくび指南」などを得意とした、江戸前の粋な芸風でした。

その志ん生が音曲の素養を生かし、この噺を「喜撰」と題して改作しています。

後半の独楽回しの部分を切り、小僧が清元きよもとの「喜撰」に熱中するあまりおかみさんを小突くので、「おまえ、人を茶にするね(=馬鹿にするね)」「へい、今のが喜撰(宇治茶の銘柄と掛けた)です」というサゲにしました。

これは一代限りで継承者はなく、五代目志ん生にも伝わっていません。

五代目志ん生は「稽古屋」で「喜撰」をうたっています。

独楽

こま。日本渡来は平安時代以前で、コマは高麗こまから渡ったことから付いた名称です。

江戸時代になり、八方独楽はっぽうこま銭独楽ぜにこま博多独楽はかたこまなど、さまざまな種類が作られ、賭博とばく曲独楽きょくこまもさかんに行われました。

「喜撰」

歌舞伎舞踊「六歌仙容彩ろっかせんすがたいろどり」の四段目で、『古今和歌集』で有名な六歌仙のそれぞれを、それぞれの性格に応じて踊り分けるものです。

第一段が僧正遍昭そうじょうへんじょう(義太夫)、以下、文屋康秀ふんやのやすひで(清元)、在原業平ありわらのなりひら(長唄)、喜撰法師きせんほうし(清元・長唄の掛け合い)、大伴黒主おおとものくろぬし(長唄)となり、それぞれに小野小町おののこまちと、その分身である茶汲み女・祇園のお梶がからみます。

天保2年(1831)3月中村座初演で、代々の坂東三津五郎ばんどうみつごろうのお家芸となっています。

「世辞で丸めて浮気でこねて」は、喜撰が花道に登場するときの冒頭の歌詞で、浮き立つようなしゃれた節回しで有名です。

それにつけても、一介の商家の小僧にまで踊りや音曲の素養が根付いていた、かつての江戸東京の文化水準の高さには驚かされます。

花菱

はなびし。家紋の一つです。わりと一般的です。

菱とは、ヒシ科の一年生植物。池、沼などの中に生えて、水面に浮かんでいます。

葉の形状は菱状三角形です。夏に四弁の白い小花が咲きます。実は硬くて、角状のトゲが目立ち、中の白い種子は食用になります。

花菱とは、この菱の葉に似た四つの弁を並べて、花びらに見立てた形からつきました。

唐花菱からはなびし唐花からはなとも呼ばれます。

大陸由来の文様とされています。

平安期には有識ゆうそく文様として、公家の調度品や衣装などに用いられていました。

使いはじめは、甲斐の武田氏でした。

「武田菱」は有名です。

江戸期には、松田氏、安芸氏、板倉氏、松前氏なども使っていました。

三柏

みつかしわ。家紋です。日本十大家紋の一つとされています。

三柏は、柏紋の中でも一般的に広く使われています。

さまざまなバリエーションがついて派生しています。

「丸に三柏」「蔓柏」「剣三柏」「鬼三柏」「三土佐柏」「三巴柏」「実付き三柏」「八重三柏」などがあります。

抱茗荷

だきみょうが。こちらも家紋。

ミョウガの花を図案化したものです。

こちらも日本十大家紋の一つです。

バリエーションは70種類以上ありますが、実際に使われている紋のほとんどは「抱茗荷」と、それを丸で囲んだ「丸に抱茗荷」です。

普及したのは戦国時代以後で、しかも摩多羅神またらしんの神紋として用いられるのが大きな特徴です。

さらには、音が「冥加みょうが」に通じることから、神仏の加護が得られる縁起のよい紋と考えられています。

神社や寺などでよく目にします。

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きしゅう【紀州】落語演目



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【どんな?】

次の将軍は紀州か尾州か。
登城の駕籠で鍛冶の槌音。
「テンカトル」と聴いた尾州侯。
これは瑞兆と思いきや。
将軍は紀州侯に。
悔やしがる尾州侯。
帰りに鍛冶屋の前を通ると……。
据え膳は食うにかぎる。
そんなご教訓なのかも。

別題:槌の音

【あらすじ】

七代将軍家継が幼くして急死し、急遽、次代の将軍を決めなければならなくなった。

候補は尾州侯と紀州侯。

どちらを推す勢力も譲らず、幕閣の評定は紛糾。

ある朝、尾州侯が駕籠で登城する途中、遠くから鍛冶屋が 「トンテンカン、トンテンカン」 と槌を打つ音。

それが尾州侯の耳には 「テンカトル、テンカトル」 と聞こえた。

これは瑞兆であるとすっかりうれしくなったが、最後の大評定の席では、大人物であることをアピールしようと、 「余は徳薄く、将軍の任ではない」 と辞退してみせる。

むろん、二度目に乞われれば、 「しかしながらァ、かほどまでに乞われて固持するのは、御三家の身として責任上心苦しい。しからば天下万民のため……」 ともったいぶって受ける算段。

ところがライバルの紀州侯、やはり同じように 「余は徳薄くして……」 と断ったまではよかったが、その後すぐに 「しかしながらァ」 ときたので、尾州侯は仰天。

「かほどまでに乞われて固持するのは、御三家の身として責任上心苦しい。しからば天下万人のため」 と、自分が言うつもりのセリフを最初から言われてしまい、あえなくその場で次期将軍は紀州侯に決まってしまった。

野望がついえてがっかりした尾州侯、帰りに同じ所を通りかかると、また鍛冶屋が 「テンカトル、テンカトル」

ところが親方が焼けた鉄に水をさして、 「キシュー」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

『甲子夜話』の逸話

『甲子夜話』(文政4=1821年刊)・第十七巻にある逸話です。 作者は、文人大名として名高かった松浦静山(松浦清、1760-1841、九代目平戸藩藩主)。

六代目円生が受け継ぐ

明治から大正にかけて、五明楼国輔(池田文次郎、1854-1923)が得意にしていたのを、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が直伝で受け継いだ噺です。

七代将軍家継

没は享保元年(1716)旧暦4月30日。数え八歳。法号は有章院。その「治世」は側用人・間部詮房と新井白石の補佐によったもので、「正徳の治」と呼ばれます。

尾州侯

尾張藩第六代・徳川継友。名前からして「ツギテエ」で、権力欲の権化のような感じですが、八代将軍吉宗となった紀州侯への怨念はせがれの代まで尾を引きます。

継友が享保15年(1730)に憤死した後、嗣子の宗春は吉宗の享保改革による倹約令を無視して、藩内に遊郭の設置、芝居小屋の常時上演許可など、やりたい放題やったため、ついに逆鱗に触れて、元文4年(1739)、隠居謹慎を命じられました。

御三家でなければ、とうにお家は断絶、その身は切腹だったでしょう。

英国では成功例

権力を奪取する際、すぐ飛びついてはあまりに露骨なので、一度辞退してみせ、周りの者に無理やり薦められる形で「いやいやながら」という姑息な「手続き」を踏むのは洋の東西を問わないようです。

シェイクスピアの「リチャード三世」。

主人公が王位を簒奪するとき、腰巾着のバッキンガム公と「余は予定通り、女の子のようにいやだいやだと言うから、あとはそちたちが無理やり頼み込んでくれ」と、陰謀をめぐらします。

尾州侯と違って、こちらは対抗馬をみんな片付けた後ですから、この作戦は大成功でした。



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ゆうじょかい【幽女買い】落語演目

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【どんな?】

遊女と幽女。
ただのしゃれ。
暇人の手わざでなけりゃあ。
こんな噺は始まりません。

別題:魂祭 亡者の遊興

【あらすじ】

急に暗いところに来てしまった太助、三月前に死んだはずの源兵衛に声をかけられてびっくり。

「おめえは確かに死んだよな」
と念を押すと
「おめえ、おれの通夜に来たろ」

太助が通夜の席で
「世の中にこんな助平で女郎買いの好きな奴はなくて、かみさんは子供を連れて出ていくし、これ幸いと女を次々に引きずり込んだはいいが、悪い病気をもらって、目はつぶれる、鼻の障子は落ちる、借金だらけで満足な葬式もできない始末だから、どっちみち地獄おちは間違いない。弔いはいいかげんにして、焼いて粉にして屁で飛ばしちまおう」
とさんざん悪口を言ったのを、当人に全部聞かれている。

死骸がまだそこにあるうちは聞こえるという。

太助、死んだ奴がどうしてこんなところにいるのか、まだわからない。

「てめえも死んだからヨ」
「おれが死んだ? はてな」

そう言われれば、かみさんが枕元で医者に
「間違いなく死にました? 生き返らないでしょうね?……先生、お通夜は半通夜にしてみんな帰しますから、あの、今晩……」
なんぞと抜かしていたのを思い出した。

「ちきしょうめッ」
と怒っても、もう後の祭り。

ここのところ飢餓や地震で亡者が多くなり、閻魔えんまの庁でも忙しくて手が回らず、源兵衛も「未決」のまま放っておかれているという。

浄玻璃じょうはりの鏡も研ぐ時間がないため、娑婆しゃば悪業あくごうがよく写らないのを幸い、そのうちごまかして極楽へ通ってしまう算段を聞き、太助も一口乗らせてもらうことにした。

お互いに死んだおかげで、すっかり病気も治って元気いっぱい。

白団子をさかなに祝杯をあげるうち、こっちにも吉原ならぬ死吉原があり、遊女でなく幽女買いができるので、ぜひ繰り込もうとうことになった。

三枚駕籠さんまいかごの代わりに早桶はやおけ大門おおもんに乗りつけると、人魂ひとだま入りの提灯ちょうちんがおいでおいで。

ここでは江戸町えどちょう冥土町めいどちょう揚屋町あげやまちはあの世町。

見世も、松葉屋は末期屋まつごや、鶴屋は首つる屋と名が変わる。

女郎はというと、張り見世からのぞくと、いやに痩せて青白い顔。

ここではそれが上玉じょうだまだとか。

女が
「ちょいとそこの新亡者しんもうじゃ、あたしが往生さしてあげるからさ」
と袖をひくので揚がると
「へいッ、仏さまお二人ッ」

わっと陰気に枕団子の付け焼きで、まず一杯。

座敷では芸者が首から数珠じゅずをぶらさげ、りんと木魚もくぎょ
「チーン、ボーン」。

幇間たいこ
「えーご陰気にひとつ」
と、坊主姿で百万遍ひゃくまんべん

お引けになると、御詠歌ごえいかが聞こえ、生あたたかい風がスーッ。

「うらめしい」
「待ってました。幽ちゃん」

夜が明けると
「『おまはんが好きになったよ』って女が離れねえ。『いっそ二人で生きたいね』『生きて花実はなみが咲くものか』なんて」
と妙なノロケ。

帰りがけにのどがかわいたので、「末期の水」を一杯のみ干し、
「やっかいになった。また来るよ」
「冥土ありがとうございます」

表へ出ると向こうから
「お迎え、お迎え」

しりたい

縁起の悪さで五つ星!

上方落語の「けんげしゃ茶屋」と並び、私(高田)としては正月の初席でやってほしい噺の双璧そうへきなのですが、立川談志のあとはなぜか、ほとんどやり手がなさそうなのが残念しごく。

談志演出での、主人公二人の、地獄におちて当然の強悪ごうあくぶりには本当に感服させられました。

とりわけ、「焼いて屁で飛ばしちまう」には笑えます。

後半は、単に現実の茶屋遊びを地獄に置き換え、縁起の悪い言葉を並べただけで、ややパワーが落ちますが、談志が前半の通夜の太助の悪口あっこうと、女房と医者のちちくりあいを創作しただけで、この噺は聴くに値するものになりました。

どなたか、後半をもう少しおもしろくつくってもらえればいいのですが。

浄玻璃の鏡

地獄の閻魔えんまの庁で、亡者もうじゃ娑婆しゃばでの行状ぎょうじょうをありありと映し出す鏡。

昔の鏡は金属製でくもりやすく、そのつど鏡研師かがみとぎしがせなければなりませんでした。

三枚駕籠

三枚肩さんまいかたともいい、一丁いっちょう駕籠かごに三人の駕籠舁かごかきが付き、交代で担ぎます。急用のとき、またはくるわ通いで見栄みえを張る場合などに雇いました。

お迎え

盆に、精霊流しょうりょうながしの余りをもらい歩く物ごいの声と、吉原で茶屋の者が客を迎えに来る声を掛けたものです。

古いやり方と速記

明治中期、「魂祭たままつり」の題で演じた六代目桂文治ぶんじ(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)、「亡者もうじゃ遊興あそび」とした二代目三遊亭小円朝こえんちょう(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)の速記が残っています。

文治では、地獄の茶屋で、隣のもてぶりに焼き餅を焼き、若い衆に文句を言う官員と職人の二人を登場させていますから、あるいはこの噺は「五人廻し」のパロディーとして作られたのかもしれません。

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きくえのぶつだん【菊江の仏壇】落語演目

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【どんな?】

上方噺の傑作です。
東京ではあまり聴きません。
大ネタです。

別題:仏壇 白ざつま

あらすじ

ある大店のだんな。

奉公人にはろくなものも食わせないほどケチなくせに、信心だけには金を使う。

その反動か、せがれの若だんなは、お花という貞淑な新妻がいるというのに、外に菊江という芸者を囲い、ほとんど家に居つかない。

そのせいか、気を病んだお花は重病になり、実家に帰ってしまった。

そのお花がいよいよ危ないという知らせが来たので、だんなは若だんなを見舞いに行かせようとするが、番頭に、もしお花がその場で死にでもしたら、若だんなが矢面に立たされて責められると意見され、ふしょうぶしょう、自分が出かけていく。

実はこれ、番頭の策略。

ケチなだんながいないうちに、たまには奉公人一同にうまいものでもくわしてやり、気晴らしにぱっと騒ごう、というわけ。

若だんな、親父にまんまと嫌な役を押しつけたので、さっそく、菊江のところに行こうとすると番頭が止める。

「大だんなを嫁の病気の見舞いにやっておいて、若だんなをそのすきに囲い者のところへ行かせたと知れたら、あたしの立場がありません、どうせなら、相手は芸者で三味線のひとつもやれるんだから、家に呼びなさい」
と言う。

それもご趣向だと若だんなも賛成して、店ではのめや歌えのドンチャン騒ぎ。

そこへ丁稚の定吉が菊江を引っ張ってくるが、夕方、髪を洗っている最中に呼びに来られたので、散らし髪に白薩摩の単衣という、幽霊のようなかっこう。

菊江の三味線で場が盛り上がったころ、突然だんなが戻ってきたので、一同大あわて。

取りあえず、菊江を、この間、だんなが二百円という大金を出して作らせた、人の二、三人は入れるというばかでかい仏壇に隠した。

だんな、
「とうとうお花はダメだった」
と言い、かわいそうに、せがれのような不実な奴でも生涯連れ添う夫と思えば、一目会うまでは死に切れずにいたものを、会いに来たのが親父とわかって、にわかにがっくりしてそのままだ。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と、番頭がしどろもどろで止めるのも聞かず、例の仏壇の扉をパッと開けたとたん、白薩摩でザンバラ髪の女。

「それを見ろ、言わないこっちゃない。お花や、せがれも私も出家してわびるから、どうか浮かんどくれ、浮かんどくれ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」
「私も消えとうございます」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

しりたい

源流は男色もの

直接の原話は文化5年(1808)刊『浪花みやげ』中の「ゆうれい」で、すでに現行の落語と筋はほとんど同じです。

これにはさらに原型と思われる笑話があり、享保16年(1731)ごろ刊の『男色山路露』中の「謡による恋」がそれです。

これは、出典の書名から見てもわかるとおり、今でいうハードゲイのたぐい。

ある男が野郎(役者で男娼)を自宅に引き込み、よろしくお楽しみの最中、おやじが突然帰宅。あわてて男娼を仏壇に押し込みますが、「風呂敷」よろしく、おやじがその前に居座るので、出るに出られない男娼、そのうち小便がしたくなって……という、あまり趣味のよくないお笑いです。

上方の大ネタ

本家は上方落語で、大阪では三代目桂米朝(中川清、1925-2015)初め、三代目桂春団治(河合一、1930-2016)、五代目桂文枝(長谷川多持、1930-2005)など、上方を代表する実力者しかこなせない切りネタ(大ネタ)です。

上方の舞台は船場の淀屋小路で、菊江はキタの新地の芸妓という設定になります。

東京版は馬生が復活

東京には明治20年代に初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)が「白ざつま」の演題で東京に移植したといわれます。

明治29年(1896)に、円右と同門(円朝)で、当時上方で活躍していた二代目三遊亭円馬(竹沢釜太郎、1854-1918)が「白ざつま」の題で口演した速記が残っています。

東京ではその後あまり演じ手はなく、途絶えていたのを十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)が元の「白ざつま」の題で復活しました。

桂歌丸(椎名巌、1936-2018)も手掛けていました。

白薩摩

薩摩がすりは本来は琉球(沖縄)産。

薄い木綿織物で、白地のものは夏の浴衣などに用いられます。「佃祭」の次郎兵衛もこれを着ていたのが原因で、幽霊に見違えられました。

死人の経帷子は、普通、絹もしくは麻で作るので材質は違いますが、同じ単衣で白地ということで、その上ザンバラ髪なので、幽霊と間違えるのは無理もありません。

【語の読みと注】
経帷子 きょうかたびら

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がんりゅうじま【岸柳島】落語演目

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【どんな?】

渡し舟に乗り合わせた町人と侍。
戦わずして勝つの極意が披露。
間抜け武士の横柄と横暴を笑います。

別題:巌流島 桑名船(上方)

あらすじ

浅草の御廐河岸おんまやがしから渡し船に乗り込んだ、年のころは三十二、三の色の浅黒い侍。

船縁で一服つけようとして、煙管きせるをポンとたたくと、罹宇らおが緩んでいたと見え、雁首がんくびが取れて、川の中に落ちてしまった。

日頃よほど大切にしていたものと見え、たちまち顔色が変わる。

船頭に聞くと、ここは深くてもう取ることはできないと言われ、無念そうにブツブツ言っている。

そこへ、よせばいいのに乗り合わせた紙屑屋かみくずやが、不要になった吸い口を買い上げたいと持ちかけたので
「黙れっ、武士を愚弄ぐろういたすか。いま拙者せっしゃが落とした雁首と、きさまの雁首を引き換えにいたしてくれるから、そこへ直れっ」
ときたから紙屑屋は仰天。

いくらいつくばって謝っても、若侍は聞かばこそ。

へたに仲裁をすれば、今度はこっちにお鉢がまわりそうだから、誰もとりなす者はいない。

あわれ、首と胴とが泣き別れと思ったその時、小者こものに槍を持たせた七十過ぎの侍が
「お腹立ちでもござろうが、取るに足らぬ町人をお手討ちになったところで貴公の恥。ことに御主名が出ること、乗り合いいたししたる一同も迷惑いたしますから、どうぞご勘弁を」
と詫びたが、かえって火に油。

「しからば貴殿が相手。いざ尋常に勝負をさっしゃい」

けんかが別のところに飛び火した。

「それではやむを得ずお相手するが、ここは船中、たってとあれば広き場所で」
「これはおもしろい。船頭、船を向こう岸にやれ」

さあ、船の中は大騒ぎ。

若侍ははかま股立ももだち(袴の左右両脇の開きの縫い止め部分)を取り、たすきを掛けて、この爺、ただ一撃ちと勇んで支度する。

老人の方はゆっくりと槍のさやを払い、りゅうりゅうとしごく。

対岸近くなると、若侍は勢いこんで飛び上がり、桟橋にヒラリと下り立った。

とたんに老人が槍の石突きでトーンと杭を突くと、反動で船が後戻り。

「あ、こら、卑怯者。船頭、返せ、戻せ」
「これ、あんなばかにかまわず、船を出してしまえ」
「へいっ。ざまあみやがれ、居残り野郎め。満潮になって、魚にでもかじられちまえ」

真っ赤になって怒った若侍、なにを思ったか、裸になると、大小を背負い、海にざんぶと飛び込んだ。

こりゃあ、離されて悔しいから、腹いせに船底に穴を開けて沈めちまおうてえ料簡らしいと、一同あわてるが、老侍は少しも騒がず、船縁でじっと待っていると、若侍がブクブクと浮き上がってきた。

「これ、その方はそれがしにたばかられたのを遺恨に思い、船底に穴を開けに参ったか」
「なーに、落ちた雁首を探しにきた」

しりたい

原話のキモは無手勝流

呂氏春秋りょししゅんじゅう』の「察今さつこん編」にこんな話があります。

其の剣、舟中より水中におつ。にわかにその舟にきざみていわく、「これわが剣のよりておちし所なり」と。

これが「岸柳島」の原典と見られていましたが、ちょっと違うと思います。

これは「舟に刻みて剣を求む」という故事に過ぎません。

『呂氏春秋』は中国の戦国末期、紀元前239年、呂不韋りょふい雑家ざつかに編集させた書です。

雑家とは、諸子百家のひとつで、儒、道、法、墨、農、名など諸家ごちゃまぜの流派です。

ですから、この書は百科事典のような役割を果たしてきました。広く浅く、という。

乗っている舟から剣を落とした人が、あわてて舟べりに印をつけてその下の川底を捜したという故事です。

古い物事(剣)にこだわって、状況の変化(舟)に応じることができないでいる男の愚かぶりが描かれています。

原話は、塚原卜伝つかはらぼくでん(1489-1571)の逸話です。

塚原卜伝は戦国期の武術者です。常陸ひたち(茨城県)の鹿島神流かしましんりゅうから出て、鹿島新当流かしましんとうりゅうという新流派を打ち立てました。

「剣聖」とも呼ばれ、並みいる武芸者とは少々格が違います。

しかも、長生きしたせいか、逸話がたいへん多く残っているのですね。

その中に、『甲陽軍鑑こうようぐんかん』に載っている無手勝流の逸話があります。

この書はつい最近までは偽書の疑いがありましたが、山本勘助やまもとかんすけ(?-1561)も実在したとされるようになって、資料的価値もにわかに出てきています。

『甲陽軍鑑』での話の舞台は琵琶湖ですが、すじだては「岸柳島」とまったく同じです。

この噺の軸足は「舟に刻みて剣を求む」ではなく、「戦わずして勝つ」にあるのだと思います。

日本では昭和48年(1973)に公開されたワーナー映画『燃えよドラゴン』(Enter the Dragon、龍争虎闘)。

この作品の前半部にも無手勝流のサイドストーリーが描かれていました。

無手勝流の勝者は、もちろんブルース・リーが演じています。

巌流島か、岸柳島か

この話は、安永2年(1773)刊の『坐笑産ざしょうみやげ』中の小ばなし「むだ」を始め、さまざまな笑話本に脚色されています。

その後、上方落語「桑名船」として口演されたものを東京に移す際、佐々木小次郎の逸話をもとにした講談の「佐々木巌流」の一節が加味され、この名がついたものです。

そのせいか、もとは若侍を岸に揚げた後、老人が、昔、佐々木巌流(小次郎)がしつこく立ち合いを挑む相手を小島に揚げて舟を返し勝負をしなかった、という伝説を物語る場面がありました。

この説明がなければ、「巌流」といってもなんのことかわからず、むしろ「岸柳島」の演題が正しい、と三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が述べています。

こちらも志ん生の十八番

古くは三遊亭円朝、四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が演じ、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)を経て、先の大戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が抱腹絶倒のくすぐり満載で大ヒットさせました。

志ん生が昭和31年(1956)に演じた「巌流島」は、志ん生自身の数少ない貴重な映像の一つとして残っています。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)などの大看板も手掛けました。

上方では、東海道の桑名の渡し場を舞台にしています。

志ん生のくすぐり

●若侍が舟中に飛び込んできて

「あー、これッ。もっとそっちィ寄れッ。じゃまだッ。町人の分際でなんだその方たちは。あー? うー、人間の形をしてやがる。生意気にィ……あー、目ばたきをしてはならん。……息をするなッ」

●果たし合いが決まって舟中の連中

「あのじいさんは斬られる。するってえと、返す刀であの屑屋を斬る。そいからこんだ、てめえを斬る。斬らなきゃオレが頼む。『えー、そっちが済みましたらついでに……』」
「床屋じゃねえや」

●置いてけぼりの若侍をののしって

「ざまあみやがれ、宵越しの天ぷらァ」
「なんだい、そりゃ?」
「揚げっぱなしィ」

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がんぶろ【雁風呂】落語演目



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【どんな?】

これは珍しい。
水戸の御老公も落語に登場。
ご一行漫遊の一席です。

別題:天人の松(上方)

【あらすじ】

かの有名な黄門、水戸光圀公。

ご隠居の身の気軽さで、供そろいわずか八人を引き連れて諸国を漫遊中、東海道は掛川の宿に来かかった。

ある質素な、老夫婦二人だけでやっている立場で休憩し、昼食をとっていると、田舎のことで庭に肥桶が置いてあると見え、プーンと臭い匂いが漂ってくる。

さりとて、障子を閉めてしまうと陰気臭くなるので、屏風か衝立を持ってくるようにおやじに言いつける。

恐縮したおやじが運んできた屏風の絵を見て、驚いた。

こんな粗末な立場にあるとは思えないような、土佐光信の屏風絵。

ただ、図柄が変わっていて、松の枝に雁。

屏風は一対だから、別のには松の大木が描かれてあろうと思われる。

松には鶴、雁には月を描くのが普通。

「ははあ、光信の奴、名声におごって、なにを描いてもよいと増長したか」
と光圀公、不快になって、帰館のあかつきには光信の絵はすべて取り捨てると言い出す。

そこへ相客。

上方者らしい、人品卑しからぬ町人の、主従二人連れ。

主人の方は屏風絵を見て感嘆し、
「さすがに光信さんや、松に雁とは、風流の奥義を極めた絵やなァ。これは秋の雁やのうて、春の帰雁や。なにも知らん奴が見たら、雁頼まれたら月を描き、鶴なら松を描くと思い込むやろが、そんな奴は眼あって節穴同然や。もう、他に二人とない名人やなァ」

聞いた光圀公、自分の不明を思い知らされ、町人ながら風流なる者と感心して、近習に命じて男を呼ばせ、松と雁の取り合わせの由来を尋ねた。

初めは、えらいことがお武家さまのお耳に入ったと恐縮していた町人、たってと乞われて語り出したところによると、
「雁は海の向こうの常盤の国という暖国から渡ってきて、冬を函館の海岸で過ごし、春にまた帰っていくが、大きく体が重い鳥だから、海を渡る途中に墜落して命を落とすこともたびたびある。海上で体がくたびれると、常盤の国を出る時くわえてきた枝を海に落として、それを止まり木にして羽を休め、またくわえて、ようやく函館の松までたどり着く。松に止まると、枝をその下に落として、春まで日本全国を飛び回るが、その間に函館の猟師たちが、枝の数を数えて束にし、雁が南に帰る季節になると、また松の下に、その数だけ置いてやる。雁は自分の枝がわかるので、帰る時に各々それをくわえていく。猟師は残った枝を数え、ああ、またこれだけの雁が日本で命を落としたか、あわれなことだと、その枝を薪にして風呂を炊き、追善のため、金のない旅人や巡礼を入れて一晩泊め、なにがしかの金を渡して立たせてやる。これはその時の、帰雁が枝をくわえようとしている光景だ」
という。

すっかり感心した光圀公、身分を明かし、
「そちの姓名はなんと申す」
とご下問になる。

町人、びっくり仰天して、額を畳にこすりつけながら、おそるおそる
「私は大坂淀屋橋の町人で、分に過ぎたぜいたくとのおとがめを受け、家財没収の上、大坂三郷お構いに相なりましたる、淀屋辰五郎と申す者にござります」
と言上。

昔、柳沢美濃守さまに三千両お貸ししたが、ずっとお返しがなく、今日破産し浪々の身となったので、なんとかお返しを願おうと、供を連れてはるばる江戸までくだる途中、と聞いて、光圀公、雁風呂の話の礼にと、柳沢に、この者に三千両返しつかわすようにという手紙を書いてやり、その金でめでたく家業の再興がなったという、一席三千両のめでたい噺。

底本:初代談洲楼燕枝

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【しりたい】

上方版はオチ付き

「水戸黄門漫遊記」を題材にした講談をもとに作られた噺のようですが、はっきりしたネタ元は不明です。

もともとは上方噺で、別題を「天人の松」ともいいますが、上方版ではオチがついていて、「雁風呂の話一つで三千両とは、高い雁(かりがね=借り金)ですな」「そのはずじゃ。貸し金を取りにいく」とオチます。

現在、この噺を得意にしていた桂米朝(中川清、1925-2015)は「雁風呂の講釈をしたおかげで、借金しゃっきんが取れますがな」「そらそうや、かりがね(雁=借り金)の話をしたんじゃ」としています。

このオチの部分の原話は、最古の噺本として知られる『醒睡笑』(安楽庵策伝、寛永5年=1628)巻一の「祝ひ過ぎるも異なもの」とみられ、「借り金」=「雁がね」の、まったく同じダジャレオチがみられます。

東京では円生

初代談洲楼燕枝(長島傳次、1837-1900)の速記では、このあらすじの通り講談に近い形をとり、オチはついていません。燕枝は明治の落語界で三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)と並び称された人でした。

戦後は、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)直伝で、オチのある上方系のやり方で演じました。

速記、音源とも、残されているのは上方の米朝版を除けば、円生のもののみです。

円生の芸談

「この噺でむずかしいところというと、副将軍である光圀公の描写、また辰五郎というのは大阪では有名な金持ちの息子ですから、言葉つきから何から品が悪くてはいけません。これを第一に心がけるということが大事だと思います」

雁風呂

噺に出てくる伝説の正確な出自は不明ですが、雁風呂もしくは雁供養の習慣は、本来、青森県・津軽の外ヶ浜のものです。

したがって、函館としているこの噺とは食い違いますが、函館にもそんな習俗があっても不思議はありません。

このエピソード、昭和の終わりごろに、某洋酒メーカーのコマーシャルにも使われていました。

「雁風呂」は春の季語にもなり、「雁風呂の 燃ゆるままなる 淋しさよ」(一樹)ほか、多くの句があります。

函館の松

歌枕として著名で、六代目円生は淀屋の説明の中で、
「秋は来て 春かえり行く かりがねの はがい休めむ 函館の松」
という紀貫之の歌を出していました。

淀屋辰五郎

生没年は不詳です。

鴻池と並ぶ大坂の豪商でしたが、この噺のとおり、あまりに金の使いっぷりがよすぎて公儀ににらまれ、資産没収のうえ大坂追放処分になったのが宝永2年(1705)。

したがって、野暮をいえば、その五年前の元禄13年(1700)に没した水戸光圀と、ここで出会うことはないはずです。

上方では辰五郎の息子で演じるのが普通で、円生もこれにならっていました。

【語の読みと注】
肥桶 こえおけ
屏風 びょうぶ
衝立 ついたて

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かんばんのぴん【看板のピン】落語演目

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【どんな?】

賭場の若い衆。
親分の見事な手さばきに見惚れた。
どこかで真似したくなった。
鉄火場が舞台、珍しい博打噺。
鸚鵡返しと同型です。

あらすじ

鉄火場で、若い衆わけえしが今日もガラッポン、丁だ半だとやっている。

ところが今日は、もうけた奴は先に帰り、残ったのはピイピイになった連中ばかりで、さっぱり場が盛り上がらない。

そこへ現れたのが、この道では年季の入った親分。

景気付けに一つどうを取って(サイコロを振って)もらいたいと頼まれたので、
「オレは四十二の時からバクチはやめているが、てめえたちがそういうなら」
と、壺皿の前に座る。

一っ粒の勝負で、賽粒さいつぶを一つ無造作にざるに投げ入れると、上手の手から水が漏れたか、粒が壺皿の外にポロリとこぼれ、一が出ている。

いっこうにそれに気づかないようで、
「さあ、張んな」

……このじじい、相当に耄碌もうろくしてタガがゆるんだんだろう、こいつはタダでいただき、とばかり、みんな一に張る。

「親分、本当にいいんですかい」
「なにを言いやがる。そう目がそろったら、看板のこのピン(一の目)は、こうして片づけて……オレがみるところ、中は五だな」
「あれっ、これ看板だとよ」

壺の中は、ちゃんと別の粒。

五が出ていたので、一同唖然。

「ばか野郎、オレだからいいが、ほかの野郎なら銭は全部持ってかれちまう。銭は返してやるから、これに懲りたらバクチはするな」
と、小言を言って帰ってしまう。

ばかな奴もいるもので、これに感心して、自分もまねしたくてたまらなくなった。

別の賭場へ行って、
「オレは、バクチは四十二の時に止めた」
「てめえ、まだ二十六じゃねえか」

むりやり筒を取ると、わざとピンをこぼして、
「さあ、張んな。みんな一か。そう目がそろったら、看板のピンは、こうして片づけて」
「あれ、おい、ピンは看板かい」
「オレが見るところ、中は五だな。みんな、これに懲りたらバクチは……あっ、中もピンだ」

底本:五代目柳家小さん

しりたい

小さん代々のマクラ噺

もともと独立して演じられることは少なく、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)は「三で賽」、四代目小さん(大野菊松、1888-1947)は「竃幽霊」、若いころセミプロの博打打ちだった三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)は「狸賽」と、それぞれ博打噺のマクラにつけていました。

五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)は、師匠四代目小さん直伝の噺を初めて独立させ、「看板のピン」として磨きをかけました。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)、大阪では、東京からの移植で桂米朝(中川清、1925-2015)も演じていました。

現行では、中のサイの目は「三」で演じられます。

一っ粒

「チョボイチ」ともいいます。

一個のサイコロを用い、出た目が当たると賭金の4倍から5倍返しになるので、ギャンブル性がより強いものです。

サイコロを三つ使う「狐チョボ」もあります。

鉄火

鉄火はプロの博徒、鉄火場は賭博場です。

もともと鉄火場の勝負には素人を入れなかったといいます。

むろん血の雨が降りやすいからで、「鉄火」の語源も、場が白熱して焼けた鉄のように熱くなることからとされています。

素人のバクチ好きは「白無垢鉄火しろむくでっか」といい、三代目桂三木助は「へっつい幽霊」のレコードで説明抜きに使っていますが、今ではもちろん通用しないでしょう。

ピン

サイコロの目の「一」のことで、賭博用のサイコロでは、ピンの部分もすべて黒塗りです。

【語の読みと注】

白無垢鉄火 しろむくでっか:素人のばくち好き

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かんにんぶくろ【堪忍袋】落語演目



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【どんな?】

こんな便利な袋があったら。
世の中丸くおさまるんですがねぇ。

【あらすじ】

長屋に住む大工の熊五郎夫婦はけんかが絶えない。

今日も朝から、「出てけッ、蹴殺すぞ」と修羅場を展開中。

出入り先のだんなが用事で来あわせ、隣にようすを聞くと、今朝からもう四度目という。

見かねただんな、仲裁に入り、
「昔、唐土もろこしのある人が、腹が立つと家の大瓶にみんなぶちまけて蓋をすると、人前ではいつも笑い顔しか見せない。友達連中が何とかあいつを怒らしてみようと、料亭に呼んで辱めたが、ニコニコしているだけ。そのうち中座して帰宅し、例の通り瓶に鬱憤をぶちまける。友達連中、不審に思って男の家に行ってみると、逆に厚くもてなされたので、それから、あれは偉い人間だと評判になり、出世をして、しまいには大金持ちになった。笑う角には福来るというが、おまえたちもそうのべつけんかばかりしていては福も逃げるから、その唐土のまねをしてごらん」
と、さとす。

瓶の代わりに、おかみさんが袋を一つ縫って、それを堪忍袋とし、ひもが堪忍袋の緒。

お互いに不満を袋にどなり込んで、ひもをしっかりしめておき、夫婦円満を図れと知恵を授ける。

熊公、なるほどと感心して、さっそく、かみさんに袋を縫わせた。

まず、熊が
「亭主を亭主と思わないスベタアマーッ」
と、どなり込む。

続いて、かみさんが
「この助平野郎ゥーッ」

亭主「この大福アマッ」
かみ「しみったれ野郎ッ」

隣で将棋をさしている連中、さすがにうんざりして、代表がしぶしぶ止めに来るが、熊がケロっとしているので面食らう。

事情を聞くと、ぜひ貸してくれと頼み、こちらも袋に向かって
「やい、このアマッ、亭主をなんだと思ってやがるんだッ」

これが大評判になり、来るわ、来るわ。

おかげで、袋は長屋中のけんかでパンク寸前。

明日は、海にでも捨ててくるしかない。

また、誰かが来ると困るから戸締まりをして寝たとたん、酔っぱらった六さんが表をドンドン。

開けないと、雨戸の節穴から小便をたれると脅かす。

しかたがないので中に入れると、
「仕事の後輩が若いのに生意気で、オレの仕事にケチをつけやがるから、ポカポカ殴ったら、みんなオレばかりを止めるので、こっちは殴られ放題、がまんがならねえから、どうでも堪忍袋にぶちまけさせろ」
と、聞かない。

「もう満杯だから、明日中身を捨てるまで待ってくれ」
と言っても、承知しない。

「こっちィ貸せ」
とひったくると、袋の紐をぐっと引っ張ったから、中からけんかがいっぺんに
「パッパッパッ、この野郎ッ、こんちくしょう、ちくしょう、この野郎ーッ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

作者は三井の放蕩息子 【RIZAP COOK】

益田太郎冠者(益田太郎、1875-1953)の作。益田孝(1848-1938、鈍翁)の次男です。

益田孝は三井財閥の大番頭。三井物産や中外商業新報(日本経済新聞)などの創始者で、三井合名会社の理事長でした。

太郎冠者はその息子ですから、これはもう筋金入りの道楽息子です。本名の太郎を太郎冠者と呼ばせるのですから、あきれます。

ところが、才能は垂れ流されて、大正初期には帝劇のオペレッタを多数制作したりして、「コロッケの唄」などのヒット曲などで、またたく時代の寵児となりました。

落語界に対しては、明治末から大正初期にかけて、第一次落語研究会のために新作落語を多数創作しています。

この噺もその一つで、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)の十八番だった「かんしゃく」同様、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)のために書き下ろされたものです。

詳しくは「松竹梅」「粗忽の釘」「反対車」をお読みください。

落語も含め芸能や演芸という、まるで生産活動と無関係の世界が、このような大富豪の道楽息子の、ときに偏頗なときに病的な趣味に支えられてきた側面があることは、見逃せません。

堪忍袋 【RIZAP COOK】

ギリシア神話の「ミダス王の耳はロバの耳」を下敷きにしているふしもあります。

「堪忍五両思案は十両」
「堪忍五両負けて三両」
など、江戸時代には、「堪忍」は単なる処世術、道徳というより、功利的な意味合いで使われることが多かったようです。

オチの工夫 【RIZAP COOK】

ここでのあらすじ、オチは、五代目柳家小さんのものをもとにしています。

オリジナルの原作では、袋が破れたとたんに亭主が酔っ払いを張り倒し、「なにをするんだ」「堪忍袋の緒が切れた」と落としていたといいますが、古い速記はなく、現在は、このやり方は行われません。

やはりこの噺を得意にしていた三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)は「中のけんかがガヤガヤガヤガヤ」としています。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は口喧嘩が過激で派手でしたが、「堪忍」の実例に「十八史略」などにある、韓信の股くぐりの故事、大坂城落城の木村重成や、講談の、忠臣蔵の神崎与五郎の逸話(あらすじでは省略)を出すなど、どの演者も大筋のやり方は同じです。

それにしても「カンニン」という言葉自体ももう死語になろうとしていますね。

いっそ「八つ当たり袋」「ブチ切れ袋」などと改題した方が、わかりやすいかもしれません。

【RIZAP COOK】



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からぢゃや【唐茶屋】落語演目

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【どんな?】

ガリバーのような稀有壮大な作り話です。

別題:島めぐり 万国島めぐり

【あらすじ】

お調子者の総兵衛が隠居の家で「朝比奈島巡り」という絵草子を見せられる。

小人国、大人国、一つ目の国など、珍しい国が数ある中で、女島というのは、女ばかり産まれて男は一人もいないというので、総兵衛にわかに身を乗り出し
「でも、男と女が蒸さなけりゃ、子ができないでしょう」
「それができる。女島の女は朝、浜辺に立って『日本の男風日本の男風』と三べん招くと東風が吹いてきて、それが女の前に入って子ができる。子供は風の子といって」

からかわれているようだが、総兵衛、それでも女島に行ってみたくてたまらなくなり、つてを頼って外国船に乗せてもらい、密航同然に航海に出発。

途中、小人国で殿さまをつまみ上げてからかったり、大人国では逆につまみ上げられて宿屋に着くとそこの子供にキーホルダーにされかかったりしながら、着いたところが、唐人の国。

向こうから髭を生やした人が来るので、聞いてみると、日本人だという。

十年前、嵐でここに漂流してきて、今では商人となっているとやら。

同国人は懐かしいと大歓迎し、なんと吉原に連れていってくれた。

大門から仲の町から全部あって、案内されたのが碧妙館という引手茶屋。

芸者を呼ぶが、中国語なので言葉が通じない。

男に通訳してもらいながら、いよいよお陽気に騒ごうということになり、お座付きに端唄に三下がり、幇間が
「チューチューペイウンホンチョイベー」
と踊る。

そのうち芸者が酔っぱらいだし、総兵衛が河東節をうなりだすと、女はみんな逃げた。

「それもそのはすだ。トラは河東(=加藤清正)が天敵だから」

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【しりたい】

長編冒険活劇の後半

後半の唐人国の部分が、本来の「唐茶屋」で、上方落語の長編スペクタクル「万国島めぐり」の後半です。「世界一周」参照。

あらすじは、六代目桂文治の明治30年(1897)9月の速記を基にしていますが、大人(巨人)国までは「島めぐり」そのものです。

「島めぐり」をひっくるめての原話は、小人国と大人国の部分が延宝8年(1680)刊『噺物語』中の「大風に逢し舟の咄し」で安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子』中の「島」も類話です。

それ以前にも、室町時代の『お伽草子』に「御曹司島わたり」のような島めぐりものが広く存在しました。

このテーマで、平賀源内(=風来山人)が辻講釈師が女護が島へ渡る「風流志道軒伝」(宝暦13年=1763)を執筆。

これも原話の一つと見られます。

実録・朝比奈

ここにいう朝比奈は、朝比奈義秀(生没年不詳)がモデルです。

義秀は鎌倉期の武将で、和田義盛の四男。豪遊をもって知られ、建暦3年(1213)、父にしたがって反乱(和田合戦)に従軍。

獅子奮迅の働きを見せたあと、行方知れずになりました。一説には朝鮮に渡ったともいいます。

豪傑の典型として、狂言「朝比奈」のほか、歌舞伎(「寿曽我対面」ほか)や浄瑠璃などにその架空の冒険が描かれました。

トラと加藤

加藤清正の虎退治伝説をオチにしたものです。

清正は神(清正公=セイショウコウ)に祀られ、江戸時代には最も親しまれた英雄でした。「清正公酒屋」参照。

清正は豊臣恩顧の武将で、徳川幕府にとっては目の上のタンコブだったはず。

事実、その死後、嫡男忠広の代、寛永9年(1632)に加藤家は肥後五十二万石からなんと出羽庄内一万石に飛ばされ、事実上のお取りつぶしです。

清正自身は最後まで表面上は家康に忠実で、関が原役にも東軍として参戦の事実がありますから、幕府もその神格化を黙認するほかなかったのでしょう。

清正公信仰

清正は母親の影響で日蓮宗の熱心な信者でした。高輪の清正公さま=禅林寺も日蓮宗の寺院です。日蓮宗の寺院で加藤清正を祀っていたりしていました。

祀るということは、加藤清正を神さまにして祈ることです。

明治の神仏分離令で、日蓮宗の宗旨と加藤清正を神さまにあがめることとは分けなくてはならなくなりました。

寺院と加藤神社に分けたのです。

そうはいっても、日蓮宗寺院でも清正公信仰は連綿と生きています。

浜町の清正公寺。ここも日蓮宗の寺です。

ここは、熊本細川藩の下屋敷跡で、熊本本妙寺の別院です。

文久元年(1861)に、細川藩主細川斎護が熊本本妙寺に安置する加藤清正公の分霊を勧請して当地にあった下屋敷に創建、清正公を祀っていましたが、維新後には一時加藤神社と称したとのことです。

明治18年(1885)には仏式に戻して清正公堂と改称、管理を熊本本妙寺(日蓮宗)に委託して本妙寺別院となりました。

トージン

江戸時代には、ヨーロッパ人も中国人も韓人も日本人以外はひっくるめてすべて「唐人」。

これは当時、「唐、天竺」が外国のすべてを象徴していたのと同じ理屈です。

唐人のケツで「空っケツ」という下らない洒落も残っています。

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)で、品川遊郭へエロ本のセールスに来た貸本屋の金造(小沢昭一)が「今度は唐人のアレをね」と、いやらしそうな笑みを浮かべていたのが印象的です。

    落語のおもしろさがギュッと詰まっている『幕末太陽傳』☞

東西の演者

東京の「唐茶屋」は昭和初期に八代目桂文治と三代目三遊亭金馬が演じ、それぞれSPレコードに吹き込んでいます。

上方の方は、「島巡り」と題した桂文紅が唯一CD化されました。

艶笑落語のオムニバスの一編として、小咄的に女護島のくだりを演じた程度です。

朝比奈島めぐり

「実録・朝比奈」と前後してしまいましたが、総兵衛の憧れをかきたてる「朝比奈島巡り」とは、滝沢(曲亭)馬琴(1767-1848)作の読本「朝夷奈巡島記」のことです。

文化12年(1815)から文政10年(1827)まで、12年かけて刊行されました。

未完に終わったのを、のちに松亭金水が書き継いで完成させましたが、結局題名とは裏腹に島めぐりの場面まで書かれずに終わっています。

これの種本は古浄瑠璃の「あさいなしまめぐり」。

島めぐりのくだりがないのに、この噺で女護島や航海の場面があるのは変ですが、ナニ、落語なんぞ元からいい加減なものです。

あるいは、隠居はこの種本を含め、そういう場面がある浄瑠璃本を見せたのかも知れません。まさか、「ガリバー」を読んだわけではないでしょうが。

【語の読みと注】
朝夷奈巡島記 あさいなしまめぐりのき

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おかめだんご【おかめ団子】落語演目

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【どんな?】

母孝行の息子。
名物「おかめ団子」に盗みに。
たまさか、そこの娘を助けて……。
飯倉片町が舞台、地味でつつましい人情噺。
志ん生のお得意。

あらすじ

麻布飯倉片町いいくらかたまちに、名代のおかめ団子という団子屋がある。

十八になる一人娘のお亀が、評判の器量よしなので、そこからついた名だが、暮れのある風の強い晩、今日は早じまいをしようと、戸締まりをしかけたところに
「ごめんくだせえまし、お団子を一盆また、いただきてえんですが」
と、一人の客。

この男、近在の大根売りで、名を太助。

年取った母親と二人暮らしだが、これが大変な親孝行者。

おふくろがおかめ団子が大好物だが、ほかに楽はさせてやれない身。

しかも永の患いで、先は長くない。

せめて団子でも買って帰って、喜ぶ顔が見たい。

店の者は、忙しいところに毎日来てたった一盆だけを買っていくので、迷惑顔。

邪険に追い返そうとするのを主人がしかり、座敷に通すと、自分で団子をこしらえて渡したので、太助は喜んで帰っていく。

中目黒の家に帰った太助、母親がうれしそうに団子を食べるのを見ながら床につくが、先ほど主人が売り上げを勘定していた姿を思い出し、
「大根屋では一生おふくろに楽はさせられない、あの金があれば」
と、ふと悪心がきざす。

頬かぶりをしてそっと家を抜け出すと、風が激しく吹きつける中、団子屋の店へ引き返し、裏口に回る。

月の明るい晩。

犬にほえたてられながら、いきあたりばったり庭に忍び込むと、雨戸が突然スーッと開く。

見ると、文金高島田ぶんきんたかしまだ緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん、 鴇色縮緬ときいろちりめん扱帯しごきを胸高に締めた若い女が、母屋に向かって手を合わすと、庭へ下りて、縁側から踏み台を出す。

松の枝に扱帯を掛ける。言わずと知れた首くくり。

実はこれ、団子屋の娘のおかめ。

太助あわてて、
「ダミだァ、お、おめえッ」
「放してくださいッ」

声を聞きつけて、店の者が飛び起きて大騒ぎ。

主人夫婦の前で、太助とおかめの尋問が始まる。

父親の鶴の一声で、むりやり婿を取らされるのを苦にしてのこととわかって、主人が怒るのを、太助、泥棒のてんまつを洗いざらい白状した上、
「どうか勘弁してやっておくんなせえ」

主人は事情を聞いて太助の孝行に感心し、罪を許した上、こんな親孝行者ならと、その場で太助を養子にし、娘の婿にすることに。

おかめも、顔を真っ赤にしてうつむき、
「命の親ですから、あたくしは……」。

これでめでたしめでたし。

主人がおかみさんに、
「なあ、お光、この人ぐらい親孝行な方はこの世にないねえ」
「あなた、そのわけですよ。商売が大根(=コウコ、漬け物)屋」。

太助の母親は、店の寮(別荘)に住まわせ、毎日毎日、おかめ団子の食い放題。

若夫婦は三人の子をなし、家は富み栄えたという、人情噺の一席。

底本:五代目古今亭志ん生、四代目麗々亭柳橋

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した団子店

文政年間(1818-30)から明治30年代まで麻布飯倉片町に実在し、「鶴は餅 亀は団子で 名は高し」と、川柳にも詠まれた名物団子屋をモデルとした噺です。

おかめ団子の初代は諏訪治太夫という元浪人。釣り好きでした。

あるとき品川沖で、耳のある珍しい亀を釣ったので、女房が自宅の庭池の側に茶店を出し、亀を見に来る客に団子を売ったのが、始まりとされます。それを亀団子といいました。二代目の女房がオカメそっくりの顔だったので、「オ」をつけておかめ団子。

これが定説で、看板娘の名からというのは眉唾の由。

黄名粉きなこをまぶした団子で、一皿十六文と記録にあります。四代目麗々亭柳橋(斎藤亀吉、1860-1900)の速記には「五十文」とあります。これは幕末ごろの値段のようです。

志ん生得意の人情噺

古風で、あまりおもしろい噺とはいえませんが、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、→彦六)が演じ、事実上、志ん生が一手専売にしていたといっていいでしょう。

明らかに自分の持ち味と異なるこの地味でつつましい人情ものがたりを志ん生がなぜ愛したのかよくわかりませんが、あるいは、若い頃さんざん泣かせたという母親に主人公を通じて心でわびていたのかもしれません。

志ん生は、太助を「とし頃二十……二、三、色の白い、じつに、きれいな男」と表現しています。

この「きれいな男」という言葉で、泥にまみれた農民のイメージや、実際にまとっているボロボロの着物とは裏腹の、太助の美男子ぶりが想像できます。同時に、当人の心根をも暗示しているのでしょう。

古いやり方では、実は太助が婿入りするくだりはなく、おかめは、使用人の若者との仲が親に許されず、それを苦にして自殺をはかったことになっていました。それを、志ん生がこのあらすじのように改めたものです。

大根屋

太助のなりは、というと。

四代目麗々亭柳橋の速記では、こうです。

「汚い手拭いで頬っ被りして、目黒縞の筒ッ袖に、浅葱あさぎ(薄い藍色)のネギの枯れッ葉のような股引をはいて、素足に草鞋ばき」

当時の大根売りの典型的なスタイルです。

近在の小作農が、農閑期の冬を利用して大根を売りに来るものです。「ダイコヤ」と呼びます。

大根は、江戸近郊では、
練馬が秋大根(8、9月に蒔き10-12月収穫)、
亀戸が春蒔き大根(3、4月に蒔き5-7月収穫)、
板橋の清水大根が夏大根(5-7月に蒔き7-9月収穫)
として有名でした。

太助の在所の目黒は、どちらかといえば筍の名産地でしたが、この噺で売っているのは秋大根でしょう。

大八車に積んで、山の手を売り歩いていたはずです。

麻布飯倉片町

港区麻布台三丁目。東京タワーの直近です。

今でこそハイソな街ですが、旧幕時代はというと、武家屋敷に囲まれた、いたって寂しいところ。

山の手ですが、もう江戸の郊外といってよく、タヌキやむじなも、よく出没したとか。

飯倉片町おかめ団子は、志ん生ファンならおなじみ「黄金餅」の、道順の言い立てにも登場していました。

志ん朝の「黄金餅」でも、言い立てには必ず触れていました。

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だんだんよくなるほっけのたいこ【だんだんよく鳴る法華の太鼓】むだぐち ことば

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現代でも知られたむだぐちです。

情勢がだんだん好転してくるというのを、「なる」→「鳴る」から太鼓の音に引っ掛けたもの。「だんだん」は「どんどん」のダジャレです。

江戸では法華宗(日蓮宗)信者が数多かったので、お題目を唱えながら集団で太鼓を打ち鳴らし、町中を練り歩く姿は頻繁に見られたもの。

「だんだん」には、「ドンツクドンドン」と遠くから法華大鼓(団扇太鼓)の音が聞こえてきて、近づくにつれ徐々に大きく響くさまも含んでいるでしょう。

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よだいめ れいれいていりゅうきょう【四代目麗々亭柳橋】噺家

【芸種】落語
【所属】柳派→三遊派→柳派
【入門】1874年、三代目麗々亭柳橋に、初代春風亭小柳で。初高座は神田区白銀町(千代田区神田司町2丁目辺か)の寄席豆蒔亭まめまきていで「釜泥」。14歳 ※読売新聞1900年8月22日付4面による
【前座】
【二ツ目】
【真打ち】1978年、四代目麗々亭柳橋。日本橋木原店きわらだな
【出囃子】
【定紋】
【本名】斎藤亀吉
【生没年月日】万延元年9月15日-明治33年8月21日(1860-1900) 享年41  
【出身地】江戸
【前歴】京橋八官町はちかんちょう(中央区銀座8丁目)の時計店の奉公 ※京橋八官町は八官という名のオランダ人に与えた土地とされるところからの由来
【血液型】
【ネタ】父親をまねて。道具を使う人情噺が中心。「四谷怪談」「九州吹き戻し」「茶碗屋敷」「唐茄子屋」「おかめ団子」「稽古屋」など。
【出典】Wiki
【蛇足】三代目麗々亭柳橋(斎藤文吉)の長男。父親の没後、柳派の噺家と不和に。1895年には柳派の内紛で三遊派に移籍。1899年、和解して柳派に復帰

円朝逝去(8月11日)の10日後、芝日蔭町1丁目(港区新橋2、3丁目)の自宅で死去。墓所は浅草本願寺寺中の宗恩寺そうおんじ(浄土真宗大谷派、台東区西浅草1-6-7)。釈春麗院柳演居士

三代目の次男は二代目桃川如燕、三代目の三男は五代目麗々亭柳橋と、父、本人、2人の実弟こぞって芸人家族だった。読売新聞1903年11月3日付34面の特集「三十年間全国人物 千人評」中、「麗々亭柳橋(落語柳派元祖)」の評言には「伯は先代柳橋、仲は今の桃川如燕、叔は今の柳橋、子供三人束ねても親爺の一人に及ばず」とある。「伯は柳橋」が四代目麗々亭柳橋のこと

参考文献:『口演速記 明治大正落語集成』(暉峻康隆・興津要・榎本滋民編、講談社、1980-81年)、『名人名演落語全集 第9巻 昭和篇4』近代落語家歿年譜(斎藤忠市郎・山本進他編、立風書房、1981-82年)、『古今東西 落語家事典』(諸芸懇話会+大阪芸能懇話会、平凡社、1989年)、読売新聞、朝日新聞