かんにんぶくろ【堪忍袋】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

こんな便利な袋があったら。
世の中丸くおさまるんですがねぇ。

【あらすじ】

長屋に住む大工の熊五郎夫婦はけんかが絶えない。

今日も朝から、「出てけッ、蹴殺すぞ」と修羅場を展開中。

出入り先のだんなが用事で来あわせ、隣にようすを聞くと、今朝からもう四度目という。

見かねただんな、仲裁に入り、
「昔、唐土もろこしのある人が、腹が立つと家の大瓶にみんなぶちまけて蓋をすると、人前ではいつも笑い顔しか見せない。友達連中が何とかあいつを怒らしてみようと、料亭に呼んで辱めたが、ニコニコしているだけ。そのうち中座して帰宅し、例の通り瓶に鬱憤をぶちまける。友達連中、不審に思って男の家に行ってみると、逆に厚くもてなされたので、それから、あれは偉い人間だと評判になり、出世をして、しまいには大金持ちになった。笑う角には福来るというが、おまえたちもそうのべつけんかばかりしていては福も逃げるから、その唐土のまねをしてごらん」
と、さとす。

瓶の代わりに、おかみさんが袋を一つ縫って、それを堪忍袋とし、ひもが堪忍袋の緒。

お互いに不満を袋にどなり込んで、ひもをしっかりしめておき、夫婦円満を図れと知恵を授ける。

熊公、なるほどと感心して、さっそく、かみさんに袋を縫わせた。

まず、熊が
「亭主を亭主と思わないスベタアマーッ」
と、どなり込む。

続いて、かみさんが
「この助平野郎ゥーッ」

亭主「この大福アマッ」
かみ「しみったれ野郎ッ」

隣で将棋をさしている連中、さすがにうんざりして、代表がしぶしぶ止めに来るが、熊がケロっとしているので面食らう。

事情を聞くと、ぜひ貸してくれと頼み、こちらも袋に向かって
「やい、このアマッ、亭主をなんだと思ってやがるんだッ」

これが大評判になり、来るわ、来るわ。

おかげで、袋は長屋中のけんかでパンク寸前。

明日は、海にでも捨ててくるしかない。

また、誰かが来ると困るから戸締まりをして寝たとたん、酔っぱらった六さんが表をドンドン。

開けないと、雨戸の節穴から小便をたれると脅かす。

しかたがないので中に入れると、
「仕事の後輩が若いのに生意気で、オレの仕事にケチをつけやがるから、ポカポカ殴ったら、みんなオレばかりを止めるので、こっちは殴られ放題、がまんがならねえから、どうでも堪忍袋にぶちまけさせろ」
と、聞かない。

「もう満杯だから、明日中身を捨てるまで待ってくれ」
と言っても、承知しない。

「こっちィ貸せ」
とひったくると、袋の紐をぐっと引っ張ったから、中からけんかがいっぺんに
「パッパッパッ、この野郎ッ、こんちくしょう、ちくしょう、この野郎ーッ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

作者は三井の放蕩息子 【RIZAP COOK】

益田太郎冠者(益田太郎、1875-1953)の作。益田孝(1848-1938、鈍翁)の次男です。

益田孝は三井財閥の大番頭。三井物産や中外商業新報(日本経済新聞)などの創始者で、三井合名会社の理事長でした。

太郎冠者はその息子ですから、これはもう筋金入りの道楽息子です。本名の太郎を太郎冠者と呼ばせるのですから、あきれます。

ところが、才能は垂れ流されて、大正初期には帝劇のオペレッタを多数制作したりして、「コロッケの唄」などのヒット曲などで、またたく時代の寵児となりました。

落語界に対しては、明治末から大正初期にかけて、第一次落語研究会のために新作落語を多数創作しています。

この噺もその一つで、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)の十八番だった「かんしゃく」同様、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)のために書き下ろされたものです。

詳しくは「松竹梅」「粗忽の釘」「反対車」をお読みください。

落語も含め芸能や演芸という、まるで生産活動と無関係の世界が、このような大富豪の道楽息子の、ときに偏頗なときに病的な趣味に支えられてきた側面があることは、見逃せません。

堪忍袋 【RIZAP COOK】

ギリシア神話の「ミダス王の耳はロバの耳」を下敷きにしているふしもあります。

「堪忍五両思案は十両」
「堪忍五両負けて三両」
など、江戸時代には、「堪忍」は単なる処世術、道徳というより、功利的な意味合いで使われることが多かったようです。

オチの工夫 【RIZAP COOK】

ここでのあらすじ、オチは、五代目柳家小さんのものをもとにしています。

オリジナルの原作では、袋が破れたとたんに亭主が酔っ払いを張り倒し、「なにをするんだ」「堪忍袋の緒が切れた」と落としていたといいますが、古い速記はなく、現在は、このやり方は行われません。

やはりこの噺を得意にしていた三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)は「中のけんかがガヤガヤガヤガヤ」としています。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は口喧嘩が過激で派手でしたが、「堪忍」の実例に「十八史略」などにある、韓信の股くぐりの故事、大坂城落城の木村重成や、講談の、忠臣蔵の神崎与五郎の逸話(あらすじでは省略)を出すなど、どの演者も大筋のやり方は同じです。

それにしても「カンニン」という言葉自体ももう死語になろうとしていますね。

いっそ「八つ当たり袋」「ブチ切れ袋」などと改題した方が、わかりやすいかもしれません。

【RIZAP COOK】



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

かんしゃく【癇癪】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

大正時代。
小言ばかり言ってるだんなは家中でうるさい。
家人が大掃除をしたら……。
近代人の小言幸兵衛。
他人に当たり散らす怒りんぼうの噺。

あらすじ

大正のころ。

ある大金持ちのだんなは、有名な癇癪持ち。

暇さえあれば家中点検して回り、
「あそこが悪い、ここが悪い」
と小言ばかり言うので、奥方始め家の者は戦々恐々。

今日も、その時分にはまだ珍しい自家用車で御帰宅遊ばされるや、書生や女中をつかまえて、やれ庭に水が撒いていないの、天井にクモの巣が張っているのと、微に入り細をうがって文句の言い通し。

奥方には、
「茶が出ていない、おまえは妻としての心掛けがなっていない」
と、ガミガミ。

おかげで、待っていた客がおそれをなして、退散してしまった。

それにまた癇癪を起こし、
「主人が帰ったのに逃げるとは無礼な奴、首に縄付けて引き戻してこい」
と言うに及んで、さすがに辛抱強い奥方も愛想をつかした。

「妻を妻とも思わない、こんな家にはいられません」
と、とうとう実家へ帰ってしまう。

実家の父親は、出戻ってきた娘のグチを聞いて、そこは堅い人柄。

「いったん嫁いだ上は、どんなことでも辛抱して、亭主に気に入られるようにするのが女の道だ、『けむくとも 末に寝やすき 蚊遣かな』と雑俳にもある通り、辛抱すれば、そのうちに情けが通ってきて、万事うまくいくのが夫婦だから、短気を起こしてはいけない」
と、さとす。

「いっぺん、書生や女中を総動員して、亭主がどこをどうつついても文句が出せないぐらい、家の中をちゃんと整えてごらん」
と助言し、娘を送り返す。

奥方、父親に言われた通り、家中総出で大掃除。

そこへだんなが帰ってきて、例の通り
「おい、いかんじゃないか。入り口に箒が立てかけて」
と見ると、きれいに片づいている。

「おい、帽子かけが曲がっていないか。庭に水が撒いてある。ウン、今日は大変によろしい。おいッ」
「まだなにかありますか」
「けしからん。これではオレが怒ることができんではないか」

しりたい

作者は若だんな

益田太郎冠者(益田太郎、1875-1953)が明治末に、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)のためにつくった落語です。

作者の父親は男爵益田孝(1848-1938)。三井財閥の大番頭として近代日本の財界に重きをなした人物です。

せがれの太郎は「太郎冠者」という名乗った帝劇の重役兼座付作者で、主に軽喜劇と女優劇のための台本を執筆しました。

「女天下」「心機一転」「ラブ哲学」「新オセロ」などの作品があります。

特に大正9年(1920)、森律子主演のオペレッタ「ドッチャダンネ」の劇中歌として作詞作曲した「コロッケの唄」は流行歌となり、今にその名を残しています。

落語も多数書いていますが、現在演じられるのはこの「癇癪」くらいです。

富豪の日常を描写

明治末から大正期に運転手付きの自家用車を持ち、豪壮な大邸宅で大勢の書生や女中さんにかしづかれ、そのころはまだ珍しい扇風機まで持っているこのだんなの生活は、そのまま作者の父親のそれを模写したものと容易に想像できます。

現代的感覚からすると、もはや古色蒼然。さほどおもしろくもありません。

わずかに主人公の横暴ぶりを、演者の腕によって誇張されたカリカチュアとして生かせると、掘り出し物になるかもしれません。

文楽の十八番

初演の円左の速記は残っていません。

円左没後は、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)を経て、先の大戦後は、八代目文楽(並河益義、1892-1971)が一手専売に、十八番のひとつにしました。

ひところはよく客席から「かんしゃく!」と、リクエストされたとか。

噺が作られたのは明治期でした。文楽が、作者の許可と監修のもとに細部を整え、明治とは一味垢ぬけた大正時代に設定し直したもののようです。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席