かみなりひこう【雷飛行】落語演目

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【どんな?】

今のところ、三代目今輔だけ。
すこぶるとんでも、奇妙奇天烈な珍品です。

【あらすじ】

頃は大正。

なじみの芸者を連れて日光へ遊びにきた男。

ふと好奇心がわいて、芸者を先に東京に帰すと、一人で山奥まで足を踏み入れた。

ところが、慣れない山奥で案の定道に迷い、日も暮れたので困っていると、遠くに人家の灯。

「これはありがたい、一晩泊めてもらおう」
と近づくと、なんと、りっぱなお屋敷。

「はて、こんな所に」
といぶかしがりながら案内を乞うと、取り次ぎに出てきた男
「きさま人間か」

よくよく見ると、素っ裸の虎の革の褌。

ここは日光屋雷右衛門という、雷の元締めの屋敷だったから、男は仰天。

とにかく、中に入れてもらうと、貫禄十分の雷が、座敷で酒をのんでいる。

横を見ると、天人のように美しい娘が一人。

雷右衛門の一人娘で、名前は稲妻とか。

一目惚れした男、娘に酌をしてもらい、あれこれお世辞を並べているうちに、娘もまんざらでなさそうで、いつしか二人は深い仲になった。

実は、例の芸者とも、もう夫婦約束をしてあるのだが、そんなことはきれいに忘れ、ずるずると娘といちゃついて二日、三日と過ぎるうち、とうに二人の仲を悟った雷親父
「オレも野暮なこたあ言わねえ。ただ、こうなったら、家の養子になってもらおう」

もとより惚れた仲、二つ返事で承知したが、先方にはまだ条件がある。

「養子になるんなら、やっぱり雷にならなくちゃあいけねえ」
「へえ、人間でも雷になれますか?」
「そりゃあ、修業しだいよ」

というわけで、雷学校に入って勉強する羽目になった。

東京から来たから、東雷と名を変えて、一心に修行に励むうち、まだ成績が足りないが、元締めの養子だから卒業させてやってよかろうということになり、いよいよ卒業飛行の日。

先生が、
「おい東雷。うっかりすると雲を踏み外して落っこちるから注意しろよ。太鼓のたたき方でスピードが変わるから、むやみにたたいたり低空飛行をするな。それから、てめえは助平だから、飛行中に下界の女なんぞ見ちゃあならねえ。必ず墜落するから」

こまごまと注意され、いよいよ雲に乗って出発。

針路を南に取って、ピカリピカリと稲妻を光らせながら進むうち、いつしか東京上空へ。

浅草あたりに来かかると、実によく下界が見える。

ひょいと見ると、前の婚約者の芸者が、やらずの雷というやつで、男としっかり抱きあっている。

「こら、あんまりそばへ寄るな。私は雷は虫が好かないんです、だって。ばかにしてやがる。一番脅かしてやろう」

焼き餅半分、ゴロゴロガラガラとあんまり電気を強くしたものだから、東雷、あえなく雲を踏み外して墜落。

「あー、恥ずかしい。落第(=落雷)だ」

底本:三代目古今亭今輔

★auひかり★

【しりたい】

大正後期の新作

大正10年(1921)3月の『文藝倶楽部』に掲載された三代目古今亭今輔(村田政次郎、1869-1924、代地の、せっかちの)の速記が、唯一の資料です。

もちろん、ネタ元と思われる笑話などもなく、第一次世界大戦前後の「飛行機ブーム」を当て込んだ新作と思われます。

今輔自身の創作かもしれませんが、これもはっきりしません。

同じ月の『文藝倶楽部』には、これもやがて文明の花形となる自動車を題材にした「自動車の蒲団」(二代目三遊亭金馬・演)の速記もあり、科学文明の時代に突入していく「大正新時代」の世相がしのばれます。

「際物」の宿命として、当然ながら今輔以来、今日まで手掛けた演者はありません。

雷の登場する噺

雷の噺としては「雷の子」「へその下(艶笑)」「雷夕立」などがありますが、いずれも小咄程度で、古典落語では長編は見当たりません。

雷学校

昇学校から宙学、雷学校と、もちろんすべてダジャレ。くすぐりもほとんどダジャレを並べただけです。

たとえば、雷学校で、東雷が教授に質問。

「あそこで勉強しないで遊んでいるのは?」
「フーライ(=風来坊)だ」
「頭を抑えていやな顔をしているのがいます」
「あれはキライ(=嫌い)じゃ」
「雲に乗って行ったり来たりしているのは?」
「オーライ(=往来)」

こんな調子です。東雷先生の本名は中山行夫。本職は会社員としてありますが、これだけはダジャレではなさそうです。

【語の読みと注】
褌 ふんどし

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すもうのかや【相撲の蚊帳】落語演目

【RIZAP COOK】

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【どんな?】

これまた、くだらないといえば実にくだらないネタですね。

別題:蚊帳相撲 こり相撲 妾の相撲 賽投げ

あらすじ

横町の米屋のだんな。

大の相撲好きで、町で会っても「関取」と呼ばないと、返事をしない。商売のことも、商談で出かけることを興行と呼ぶくらい。

十日の相撲なら、小屋を建てるところから壊すところまで、十二日間見ないと気が済まないほど。

今日も、贔屓の相撲が負けたのでご機嫌斜めで妾宅に帰ってくる。

あまりぐちるので、お妾さんがなんとか慰めようと、私と相撲を取って負かせば敵討ちをしたつもりになって気分が晴れるでしょうと、提案する。

それもいいだろうと、帯を締め込みに、蚊帳を四本柱に見立て、布団を土俵にハッケヨイ。

お妾さんは、裸にだんなのフンドシ一丁だけを腰に巻かれるというあられもない姿にされたが、恥ずかしがっても、自分が言いだしたことだからしかたがない。

だんなが立ち上がると、お妾さんは捕まれば投げられるから、蚊帳の中をぐるぐる逃げ回る。

それをだんなが追いかけて、まるで鬼ごっこ。

とうとう、だんなの上手がマワシに掛かり、エイとばかりに豪快な上手投げ。

弾みは怖いもので、ほうり投げられたお妾さんが、蚊帳にくるまったまま台所へ転がった。

だんな、仁王立ちになって土俵をにらみつけると、蚊帳がなくなったので、蚊の大群がここぞとばかり攻め寄せる。

「ブーン」
「ははあ、勝ったから、数万の蚊がうなってくれた」

底本:三代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

うんちく

三語楼が改作 【RIZAP COOK】

原話は文政7年(1824)刊『噺土産』中の「夫婦」。

明治29年(1896)11月、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記が残り、このオリジナル版は「こり相撲」「妾の相撲」「蚊帳相撲」など、いろいろな別題があります。

大正末に、初代柳家三語楼(山口慶三、1875-1938)が「賽(妻)投げ」として改作しました。

三語楼は、異色のナンセンス落語で売り出した、英語のできる落語家。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)の本名「強次」の名付け親でもありました。当時、志ん生が三語楼の弟子だったからなのですが、三語楼は「強次」を置き土産にして逝ってしまいました。

三語楼版では、投げるのをお妾さんでなく本妻とし、夫婦げんかで奥方が外へ放り出されると、巡査が通りかかって家に同道。だんなに賭博容疑で署まで来てもらうと言います。

なぜだと聞くと、「今、サイ(賽=妻)を投げたではないか」というダジャレオチ。

まあ、ここまではぎりぎりで普通のお色気噺、寄席で演じられるギリギリの限界は保っていたのですが、後がもういけません……。

弟子の改作 【RIZAP COOK】

三語楼門下で語ん平と言っていた二代目古今亭甚語楼(1903-71)が、戦後、師匠の「妻投げ」をまた改作。さらにきわどくし、お座敷などで演じました。

筋は変わらないものの、たとえば、だんなが細君をフンドシ一丁にする場面で「帯がアソコに食い込んでいるじゃないか」と言ったり、「わき毛が濃いねえ」などとからかった後、取り組んで「ここでおまえの前袋を取る」「私、殿方のように前に袋はございませんから、私がつかみましょう」。「これはいかん、いつもの気分になってきた」「まわし、じゃまですわね。はずしましょうか……」。

ところが、まだこれでは終わりません。改作三度目、とうとうポルノに。作者、演者は不明。

ある男、毎夜毎夜、細君を喜ばそうと苦心中。折も折、悪友から、女の門口を大金玉でピタンピタンたたくと喜ぶと聞き、さっそく夏みかんの特大を買い込む。これが大当たりで、かみさんは連日連夜「死ぬ、死ぬ」と大狂乱。真夜中なので、巡邏中のおまわりがこれを聞きつけ、戸を蹴破って踏み込んでくる。すったもんだでようやく事情をのみこんだおまわり、「あー、以後再びにせ金を使うこと、まかりならん」。

四度目は……、もうありません。

超特急、大相撲史 【RIZAP COOK】

宝暦から明和年間(1751-72)には、相撲の中心は上方から江戸に移り、初めて江戸独自の一枚刷り番付が発行されたのは宝暦7年(1757)でした。

相撲場は、蔵前八幡境内から深川八幡、芝神明社、神田明神、市ヶ谷八幡、芝西久保八幡などを転々とし、天保4年(1833)に本所回向院境内が常打ち場に。

以来、両国国技館開館の明治42年(1909)まで72年間、「回向院の相撲」が江戸の風物詩として定着。

当初は小屋がけで晴天八日間興行だったのが、安永7年(1778)からは十日間になりました。

天明から寛政年間(1789-1801)に入ると東西の大関に谷風、小野川が並立。

雷電為右衛門の出現もあって、史上空前の寛政相撲黄金時代が到来します。

時代が下って、この速記の明治29年(1906)ごろは、明治中期の梅(梅ヶ谷)常陸(常陸山)時代の直前。

当時、初代高砂浦五郎(1838-1900)の相撲組織改革により、明治22年(1889)1月、江戸以来の相撲会所が廃止され、大日本相撲協会(実際は東京のみ)が発足しました。

翌年2月、初めて番付に横綱(初代西ノ海嘉治郎)が表記されるなど、幕末以来、一時すたれていた相撲人気が再び盛り返してきていました。

四本柱が廃止されたのは、はるかのちの先の大戦後、昭和27年(1952)秋場所からです。

【語の読みと注】
贔屓 ひいき
妾宅 しょうたく:愛人の家

【RIZAP COOK】

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かんしょうばくや【干将莫邪】故事成語 ことば

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中国春秋時代(BC771-BC403)につくられた、二振りの名剣。

そこには説教もたとえ話もありません。

剣にまつわるどろどろの物語があるだけです。

ふつう、中国の故事とか名言とかは、説教や教訓に包んでありがたみを無理やり感じさせるものですが、「干将莫耶」にはそれがまったくありません。

神秘と妖気がただよっているだけです。

「干将」も「莫邪(鏌鋣とも)」も人の名前ですが、ややこしいことに、二振りの剣にそれぞれ付けられた名前でもあります。

「干将莫邪」が長いので「干鏌」とも呼びます。

刀剣といいますが、「刀」は片方だけが刃になっているもの。

「剣」は両端が刃になっているものです。

刀は日本で、剣は中国で多く使われました。

なのに、刀鍛冶、剣道と、日本では腑に落ちない使われ方をしているものです。

さて。

「干将」は呉の刀鍛冶、「莫邪(鏌鋣とも)」はその妻。干将は「欧冶子」の弟子、欧冶子の娘が莫邪、という関係。莫邪も刀鍛冶をします。

楚王が、剣の鑑定士である風胡子に鋳剣を命じます。風胡子は、欧冶子と干将に「龍淵(龍泉とも)」「泰阿(太阿とも)」「工布(工市とも)」という三振りの鉄剣をつくらせています。

これを知った晋王は剣を所望しましたが、楚王に断られます。怒った晋王は楚を攻めます。都城を囲んで三年。楚は食糧が尽きます。やけのやんぱち、楚王は城楼に上って泰阿剣を掲げるや、あーらふしぎ、晋軍は混乱して敗走しました。

楚王が「これは宝剣の威力なのか、わしの力なのか」と問えば、風胡子は「宝剣の威力です。でも、少しは王の差配も影響しています」と忖度を。

欧冶子も干将も、とんでもない武器を製造する技術者だったのでした。

以上は、『越絶書』(袁康、呉平、後漢)に出ている話です。

ほかにも、『荀子』『呉越春秋』『漢書』などにも干将莫邪の話は登場します。干将莫邪に鋳剣を命じる王は呉王闔閭です。でも、『捜神記』では楚王となっています。呉も越も楚も、揚子江流域にあった国です。

福光光司によれば、、古代中国での剣に関する神秘化し神霊化する思想は、そのほとんどが呉越の地域が舞台だとのこと(『道教思想史研究』岩波書店、1987)。興味深い考察です。

ですから、干将莫邪にまつわる話では、呉でも越でも楚でもかまわないのです。江南地方ならOKということですね。

話としてはいちばんおもしろい『捜神記』に沿って、干将莫邪の物語を記します。ただ、前段には『呉越春秋』にだけある物語があるので、まずはそれを。

楚王の夫人が、暑さしのぎに、鉄の棒に体を添えて寝ていた。そしたら、たちまち懐妊となり、十か月後には出産。それも黒い鉄の固まりを。楚王は、これは神霊の威が宿るものと、干将と莫邪に鋳剣を命じた。

奇妙な話ですが、「眉間尺」ではこのくだりもしっかり入っています。興味のある方はそちらもお読みください。

では、『捜神記』の物語に入りましょう。

干将と莫邪は協力し合い、三年がかりで類例の及ばない二振りの剣をつくった。陽の剣を「干将」と、陰の剣を「莫邪」と名づけた。なんで自分のをわざわざ付けるのか。意味不明。その頃、莫邪は身重だった。楚王は剣の出来上がりが遅いので怒っていた。しかも、このような優れた剣を他者のためにつくられることにも恐れた。干将は王に剣を献上する日が来た。出かける前、干将は莫邪に「私は陰の剣だけを王に差し出す。王は怒って私を殺すだろう。生まれてくる子が男だったら、南山麓の木の下に隠してある陽の剣を見つけ出して、その剣で仇を討ってもらいたい」と告げた。王は干将を殺した。莫邪が産んだのは男児で、「赤比」と名づけられた。眉間が1尺(15.8cm)もあるため「眉間尺」ともあだ名された。少年となった赤比は父親のいないわけを莫邪から打ち明けられた。赤比は仇討ちのため、木の下から剣を見つけ出し、修行に旅立った。その頃、王は夢を見た。眉間尺の少年が自分を討とうとする夢だった。恐れた王は眉間尺少年に懸賞付きで探させる。赤比は山に隠れたが、父の仇を討てないもどかしさで日々泣いて暮らしていた。そこを通りかかった旅の男が泣く理由を尋ねる。赤比はわけを語った。うーん。なみの方法では王には近づけない。ならばいっそ。男はとんでもないことを提案する。赤比の首と剣を持っていけば王に会えるだろうから、その機に私が王の首を刎ねよう、と。赤比は大いに賛成して、すぐに剣でおのれの首を刎ねた。え、そんなに早く。首と剣を携えた男は、王に面会がかなった。王は喜び「これは勇者の首だから釜ゆでにしよう」と。赤比の首は三日三晩ゆでられるが、とろけずくずれず。目なんかいからせたまま。どうしたことか。男は「王よ、釜の中をご覧ください。王の威厳で必ずや勇者の首はとろけくずれるでしょう」と。王は言われたままに釜を覗いた。その瞬間、男は王の首を斬り落とした。釜の中へ。男も自身の首を斬り落として釜の中へ。三人の首がぐらぐらととろけくずれていった。三つ巴のどろどろ。もう区別がつかなくなったので、家臣は三人まとめて墓に入れた。それが「三王墓」。汝南県にいまも残る。

これが、だいたい一般的な干将莫邪のストーリーです。

日本に渡ると、少し変わってきますが、剣の神秘と、剣に魅せられた王の権力、仇討ちの潔癖は、変わらず伝わります。

まずは『今昔物語集』巻九「震旦の莫邪、剣を造りて王に献じたるに子の眉間尺を殺される語」を見てみましょう。

震旦(中国)に莫邪という刀鍛冶がいた。この話には莫邪だけ。しかも男。王の妃は夏の暑さにがまんがならず、鉄の柱を抱いて寝ていた。冷えて気持ちがいいので。ほどなく妃は懐妊。王は「そんなわけない」といぶかしんだが、やがて妃は鉄の塊を出産した。「こ、これは」とあやしんでも後の祭り。王は莫邪を呼んで、この鉄で鋳剣を命じた。莫邪は二振りの剣をつくり、一振りは隠した。剣を受け取った王だが、その剣はつねに音を立てている。尋ねられた大臣は苦し紛れに「この剣は陰陽二振りあって、もう一方を恋い慕っているのではないでしょうか」と。王は怒り、莫邪を捕まえてくるように命じた。莫邪は妻に「凶なる夢を見た。だから、王の使いが来て、私は王に殺される。おまえのおなかの子が男だったら、南の山の松の中を見よと告げ、私の仇を討つよう」と。莫邪は北の門から出て南の山に入り、大きな木のほこらに隠れて死んだ。妻は男子を産んだ。眉間の幅が1尺もあり、眉間尺とあだ名されるほどだった。十五歳の眉間尺は南の山の松のもとに行けば、一振りの剣があった。その剣を握ると、復讐への思いが湧いてきた。王は、眉間の広い男が自分を殺そうとする夢を見た。王は恐れた。眉間尺は手配の身となった。眉間尺は山に逃げた。探索する連中の一人が、山中で眉間尺を見つけた。「眉間尺か」「そうだ」「王命でおまえの首と剣を差し出すことになっている」。眉間尺は自らの首を斬り落とした。刺客は首と剣を携えて王に差し出した。王は喜び、首を釜でゆでて形なきものにするよう命じた。七日たっても首は変わらなかった。王はいぶかしんで釜の中を覗き込んだ。そのとき、王の首が体から離れて釜に落ちた。釜の中で二つの首は噛み合った。それを見ていた刺客は剣を釜の中に投じた。剣の霊力か、二首は煮とろけた。その変化を見ているうち、刺客の首も自然に斬り落ちて釜に入った。三首がどろどろとなった。区別もつかないので、一つの墓に三つの首を葬った。これが三王墓で、宜春県に残る。

話はスマートになっているようにも見えます。『捜神記』での莫邪はあまり活躍の場面もありませんでした。『今昔物語集』では名前のない妻になっています。王の首が斬り落ちるのが不可解ですが、ここはもう剣の霊力によるものと解釈すれば、刺客の首ポトンも同じでしょう。つまり、この物語の大半は剣の霊力がストーリーを突き動かしているのです。

では、もうひとつ。『太平記』巻十三の「眉間尺釬鏌剣の事」に見える干将莫邪の話を見てみましょう。

舞台は建武2年(1335)7月23日の鎌倉。北条時行が鎌倉を攻めた中先代の乱で、その混乱に紛れて、幽閉されていた護良親王が謀殺されます。この日、親王の首を斬り落としたのは淵野辺義博ですが、義博はその首を藪に投げ捨てて戻ります。なぜか。その理由が、干将莫邪の故事を通して語られるのです。

ところで、淵野辺甲斐守(義博)が兵部卿(護良親王)の首を左馬頭(足利直義)に見せることなく藪に捨てた理由は、義博自身が少々考えるところあってこのようにふるまった。その理由は。春秋時代の楚王の物語である。甫湿夫人なる楚王の后は鉄の柱に寄りかかって涼んでいたが、ただならぬ心持ちとなって、たちまち懐妊。鉄の玉を出産した。楚王は、この玉は金鉄の精霊だろうからと、干将という鍛冶に鋳剣を命じた。鉄を拝領した干将は呉山に入り、竜泉の水で鍛えて三年がかりで雌雄二振りの剣を仕上げた。献上する前に、妻の莫邪は干将に「この二振りの剣は精霊がひそかに備わっていて、いながらにして仇敵を滅ぼせるほどです。生まれてくるのは勇ましい男子でしょう。それなら、一振りは隠しておいてわが子にお与えください」と言った。干将はもっともだと、雄剣のみを楚王に献上した。王が剣を箱の中に納めると剣が泣いた。毎晩と。王は家臣に尋ねると、ある知恵者が「きっと雌雄二振りの剣で、同じところにいないことを悲しんで泣くのでしょう」と奏上した。王は怒った。干将に問いただしたが、干将は答えない。王は干将を獄に投じ首を刎ねた。莫邪は男児を出産。眉と眉の間が1尺あったので眉間尺と名づけられた。眉間尺が十五歳になると、莫邪は父の遺書を読ませた。そこには「太陽が北向きの窓から射す南山に松の木がある。松は石のはざまで成長する。剣はその中にある」と記されてあった。眉間尺は「ならば、剣は北向きの窓の柱の中にあるのだな」と言って柱を割って中を見ると、剣があった。眉間尺は喜び、「この剣で父の仇を討とう」という気持ちが骨の髄までしみ込んだ。眉間尺が怒っていることを知った王は、数万の兵をやって眉間尺を攻めた。眉間尺一人の強い力に打ち砕かれて、剣の刃先に死ぬ者や負傷する者が数え切れないほどだった。王は困り果てた。甑山からの旅人が眉間尺のもとにやって来た。干将と交わりを結んだことのある人だった。旅人は「おまえの父親と結んだ友情は金を断ち切るほどの強いものだ。友の恩に謝するために楚王を討とうとしたが、できなかった。おまえがともに仇を晴らそうと思うのなら、剣の切っ先を三寸食い切って口に含んで死ぬがよい。わたしはおまえ首を持って王に献上しよう。おまえはそのとき口に含んだ剣の切っ先を王に吹きかけて相討ちにしろ」と申し出た。眉間尺は喜んで、すぐさま剣の切っ先を三寸食い切って口に含み、自ら首を斬り落とし、旅人に差し出した。旅人も首を持って王に目通りを。王は喜び、首を獄門にかけさせた。首は三か月たってもただれず、目は見開き歯を食いしばって歯ぎしりしていた。王は恐れ、首を鼎で煮るよう命じた。あまりにも念入りに煮られたので、首も目を閉じた。王は恐れることなく鼎をご覧になった。眉間尺の首は王に向かって剣の切っ先を吹きかけた。切っ先は正確に王の首の骨を貫いたので、首は鼎の中に落ちた。王も荒々しく気が強かったので、煮えたぎる鼎の中で双首は上になり下になりからりひしりと食い合っていた。眉間尺の首が負けそうな気配に見えたので、旅人はおのれの首を斬り落とし、鼎の中に投げ入れた。眉間尺と協力し合って王の首を食い破り粉砕した。眉間尺の首が「死んでから父の仇を晴らした」と言えば、旅人の首も「死んであの世から友の恩に感謝する」と喜んだ。一度にどっと笑う声が聞こえ、首はは煮ただれて形をなくした。眉間尺が口に含んだ三寸の剣の切っ先はその後、燕国に残され、太子丹の宝物となった。太子丹が荊軻と秦舞陽を使って始皇帝を殺そうとしたとき、この剣の切っ先は地図を入れた箱からひとりでに飛び出し、始皇帝を追いかけた。が、侍医に薬袋を投げつけられたため、さしわたし六尺の銅の柱を半分ほど切って、三つに折れてそのまま行方不明になった短剣がこれだった。干将の鋳した雌雄二振りの剣の残りは、干将莫邪の剣といわれて、代々天子の宝物となっていたが、陳の時代に行方不明となった。あるとき、彗星が現れ、災いの前兆となるできごとが怒った。臣下の張花と雷煥が高殿に昇って彗星を見るや、古い獄門のあたりから剣の形の光が天空に昇って、彗星と戦っている気配だった。張花は不思議に思い、光が射す場所を掘ってみた。干将莫邪の剣が地下五尺の地点に埋もれていたのだった。二人は喜んで、剣を掘り出し、天子に献上するために自身で腰に差して延平津という船着き場を通った。天子の宝物になってはいけないいわれでもあったのか、二振りの剣はひとりでに抜け落ちて水中に入ってしまった。それが雌雄二頭の竜となって、はるか遠い波間に沈んでいった。以来、剣は行方不明である。淵野辺甲斐守(義博)は、このような奇譚を思い出したからか、兵部卿(護良親王)が刀の切っ先を食い切ってお口に含みなされたのを見て、首を左馬頭(足利直義)に近づけることをせず、遠い先を見通して藪に捨てたという判断はりっぱなことだったと、この故事を知る者たちは感心したものだ。

いやあ、えらい長い物語でした。

お読みになっておわかりの通り、『捜神記』や『呉越春秋』などよりも細部が行き届いてあます。

人の心の動きも見えてきています。

この故事は、「擬宝珠」「眉間尺」などで下敷きに使われています。

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かぼちゃや【かぼちゃ屋】落語演目



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【どんな?】

とんまな奴。
なんだか味わい深くてほのぼの。
唐茄子はかぼちゃのことです。
与太郎噺。

【あらすじ】

二十歳になっても、頭に霧がかかっている与太郎。

おじさんが心配して、商売を覚えさせようと、唐茄子とうなすを売らせることにした。

元値が大が八銭、小七銭。

勘定のしやすいように、大小十個ずつかごに振り分けてやり、
「これは元値だから、よく上を見て(掛け値をして)売れ」
と、よく言い聞かせて送り出す。

与太郎、裏通りでいきなり
「かぼちゃぁ」
と蛮声を張り上げたので、そこにいた男、自分の顔を言われたと思って目を白黒。

「へっ、かぼちゃよりジャガイモに似てらぁ」

品物は新しいかと聞かれて
「新しいとも。今まで生きてた」

大二つ買って
「二十銭で釣りをくれ」
と言うと
「釣りはねえから、二十銭にまけとかぁ」

上にまける始末。

「上を見て」がわからないから、もとの七銭と八銭で売って、文字通り平和に空を見上げている。

見かねて男が相長屋の衆に売りさばいてくれ、安いからたちまち売り切れたが、もうけは一銭もなし。

おじさん、ようすを聞いて
「おまえのばかは慢性だな」
万世橋まんせばしの次は須田町すだちょう
「停留所じゃねえ」

そんなことじゃ女房子が養えないからもう一度行ってこい、と追い出す。

もとの所へ来ると
「唐茄子ばっかり食っちゃいられねえ。まあ安いから、八銭のをまた三つ」
「今度は十銭」

掛け値の意味を教わったと聞き、
「ぼんやりだな。おまえ、いくつだ?」
「六十だ」
「見たとこ二十歳ぐれえだな」
「二十は元値で、四十は掛け値だ」

【しりたい】

もとは「みかん屋」

上方の「みかん屋」を、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)が小三治時分の大正初年に東京に移しました。

小さんも当初は「みかん屋」でしたが、日本橋常盤木倶楽部ときわぎくらぶでの第一次落語研究会で、売り物を唐茄子に変えました。

「みかん屋」で与太郎が「今年のみかんは唐茄子のように大きい」と言うくすぐりがあります。

初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924)が人情噺の「唐茄子屋政談」を得意にしていたこともあり、洒落で変えてみたと、小さんは語っています。円右は当時の大看板で、円朝の孫弟子です。二代目円朝を継いだのですが、高座に上がることなく亡くなりました。

オチも含め、大筋は売り物が違うだけで、「みかん屋」もまったく変わりません。

東京では五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)とその門下に伝わり、CDでは五代目と談志のものがありますが、現在の上方ではあまりやり手がいないようです。

原話は『醒睡笑』

オチの「掛け値」のくだりの原話は、安楽庵策伝の『醒睡笑』(「子ほめ」参照)巻五「人はそだち」第十九話です。

あきんどの持ちたる子を見て、「これの息子は、ことしいくつぞや」。 親のいひける、「あれはそら値十三といふて、定の値十二ぢゃ」。

唐茄子野郎と言われたら

唐茄子はかぼちゃを小型化し、甘味を強くした改良品種で、明和年間(1764-72)から出回りました。

唐茄子もかぼちゃも、初物でも安値で、「初かぼちゃ女房はいくらでも買う気」という川柳があります。

そのせいか、「かぼちゃ(唐茄子)野郎」といえば、安っぽい間抜け野郎の代名詞。

与太郎が唐茄子を売らされるのには必然性があるわけです。

五代目小さんのくすぐり

●おじさんが小言で与太郎に

おじ「遊んでちゃなあ、飯が食われない。なんで飯を食うか知ってるか?」与太「箸と茶碗じゃねえか」
おじ「当たりめえだ」
与太「だって、ライスカレーはシャジで食う」

●かごが空になって

客「ありがとうございますとか、なんとか言え」
与太「どういたしまして」



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しびん【尿瓶】落語演目



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【どんな?】

江戸期に知らない人がいるなんて!
現代とおんなじじゃないですか。
この噺のおかしみはどう伝えられるのかな。

別題:花瓶 尿瓶の花生け(上方)

【あらすじ】

田舎の侍が、道具屋をあさると、古いしびんを見つけた。

侍、これを花瓶と間違えて、
「明日国元に帰るが、土産物にしたいからぜひほしい」
という。

道具屋が
「それはしびんでございます」
と正直に言っても
「ああ、しびんという者が焼いたか」
と、いっこうに通じない。

そこで道具屋の安さん、このばかを一つ引っかけてやれと
「これは日本に二つとないものでございます。だんなさなのお目利きには感服いたします」
とおべんちゃらを並べ、
「五両」
と吹っ掛ける。

知らぬほど怖いものはなく、侍は
「安い」
と喜び、即金で買っていった。

花瓶と勘違いして、侍が宿で花をいけていると、知り合いの本屋があいさつに来て、
「それは小便をするしびんでございます」
と教えたから、さあ怒ったのなんの。

道具屋にどなり込み、
「手討ちに致すから首を出せ」
と刀の柄に手を掛けたから、安さんは真っ青になって震えた。

「病気の老母に、朝鮮人参という五両もする高い薬をのまさなければなりません。その金欲しさ、悪いこととは知りながら、ただのしびんを五両でお売りしました。母の喜ぶ顔を見ますれば、もうこの世に思い置くことはございませんから、その時まで命を預けてください」

もちろん、その場からドロンするつもりでのウソ八百。

侍は
「孝行のためとあらばさし許す」
と帰っていった。

おふくろなんぞ、もう三年前に死んでいる。

隣の吉つぁんが騒ぎを聞きつけてやって来て
「おい、首ゃあついているかい。それにしてもさすがはお侍、よく代金を返せと言わなかったな」
「それもそのはず。小便(売買契約破棄)はできねえ。しびんは向こうにある」

【RIZAP COOK】

うんちく

朝鮮人参  【RIZAP COOK】

時代劇に登場する、高価な薬といえばこれ。享保年間(1716-36)に種子が朝鮮から渡来しました。

根を乾燥したものが、漢方薬に用いられます。

肝心の薬効は、強壮・健胃などで、疲労や虚脱、胃腸虚弱などに効果があるとされますが、むろん万能薬ではありません。

「仮名手本忠臣蔵」七段目の大星由良之助に、「人参のんで首くくるようなもの」というセリフがあります。

これは、高価な人参を無理して手に入れて病人が回復しても、べらぼうな薬代の借金で結局は首をくくらなければならない、という皮肉で、ムダな骨折りという意味のことわざになっています。

この程度の薬でも町人にとっては「高嶺の花」で、江戸時代では事実上、無医、無薬同然、病気になればほとんどが「はいそれまでよ」だったわけです。

しびん  【RIZAP COOK】

「しゅびん」ともいい、昔は陶製でした。

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)もマクラで説明しているのですが、江戸時代は瀬戸物屋で、たかだか20-25文が相場。

日用品なので、いくら侍でも知らないのはおかしいと言えなくはありません。

現代同様、元来病人、老人の使うものなので、どこの家にもあるという品ではありませんでした。

文楽の隠れた十八番  【RIZAP COOK】

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が、大阪在住中に仕込んだ上方落語「しびんの花活け」を東京風に直しました。

円馬に芸を仕込まれた八代目桂文楽が直伝で継承、十八番の一つに仕立てたものです。

文楽在世中は、東京ではほかにやり手はありませんでした。

本家の大阪では、橘ノ円都(池田豊次郎、1883-1972)が持ちネタとし、道具屋は大坂の日本橋筋の露店、武士は鳥取藩士で演じました。

演題は「こいがめ」と同様に汚いので、「花瓶」で演じられることもあります。

「小便」はご法度  【RIZAP COOK】

買わずに逃げる意味の「小便」は、もともと江戸ことばですが、現在でも業界では普通に使われているようです。

道義的には、商取引上は一種の詐欺行為と見なされるので、「引っ掛ける」から「小便」としゃれたものでしょう。

もとは、露天商などの符丁でした。

「左少弁」は、どうも怪しいものです。

「小便」の由来  【RIZAP COOK】

原話は、宝暦3年(1753)刊の『軽口福徳利』中の「しゆびん」、続いて同13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「しゅびんの花生」があげられます。

いずれも大坂ルーツです。

もっとも古い原型には、元禄7年(1694)、江戸で刊行の『正直咄大鑑』赤之巻四「買て少弁」中の「商人の物売にねをつけてまけたるとき、かわぬを江戸ことばにしやうべんのするといふ由来」という、長ったらしい題の小咄もみられます。

これは、左少弁道明卿という公家の家人が主命で江戸に下り、日本橋の骨董屋でさんざん値切ったあげく買わなかったことから、常識をわきまえないのを「少弁」→「しょうべん」と呼んだ由来話です。

これが「小便=買わずに行く」と転化したわけでしょうが、ともかく現行のオチの部分の元となっています。

宝暦年間の二つの原話は田舎者と無筆の者をからかう内容です。

前者は、田舎者がしびんを十個も買うのでわけを尋ねると、「故郷でそばを打つので、つゆを入れる猪口にする」という笑話。

後者は、逆に客がしびんと気付いて詰問するので、花瓶だとだまそうとした亭主がしどろもどろになり「いえ、そんな名のあるものではありません」とごまかすもの。

どちらも「小便」のくだりはありませんが、後者の方が現行により近い内容です。

【語の読みと注】
日本橋筋 にっぽんばしすじ

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こうこうのしつ【膏肓の疾】故事成語 ことば

 成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

不治の病気。転じて、物事に夢中になってやめられないこと。

よい意味では使われません。

病膏肓やまいこうこうる」というフレーズのほうが有名でしょうか。

「肓」を「盲」と間違えて「こうもうにいる」と読む人もいますが、まだ「こうこう」が正解です。「こうもう」と読む人がもっと増えれば、国語辞典も「こうもう」を許容するかもしれません。

「入る」は古語では「いる」と読みます。「はいる」は現代語です。

出典は『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん成公せいこう十年。紀元前581年ですから、相当古い時代の話です。

ところで、この四字熟語にはどんな故事来歴があるのでしょうか。

一般には、こんな話が伝わっています。

しん景公けいこうが病気になった。病気が二人の子どもとなって現れ「名医が来るから膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)に上に隠れよう」と話していた。そんな夢を景公は見た。医者の見立てでは「膏肓の間に病があるので治せません」と。景公はこの医者を「名医」と称賛し、礼物を尽くして帰させた。

せっかく名医にみてもらったのに、見放されてしまったとは。晋の景公は死が迫りながらも治せない医者を名医と称賛するなんて、なかなかの大人たいじんぶりです。夢と見立てがぴったりだったので驚愕きょうがくしたのかもしれません。

もう少し詳しい解説本になると、こんな具合に記されています。

晋の景公が病気になった。みこに自分の寿命を占わせたところ「公は新麦をお召しになる前に亡くなられます」とのことだった。景公は、病気が二人の子どもとなって現れ「名医が来るから膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)に上に隠れよう」と話していた夢を見た。名医がやってきた。彼の見立てでは「膏肓の間に病があるので治せません」と。景公は「名医なり」と、礼物を尽くして帰させた。新麦が収穫された。景公は食膳に就いた。占いがはずれたとして巫を斬った。いざ新麦を食べようとすると、にわかに腹具合が悪くなった。公は便所に立ったが、転落して亡くなった。

え、なに。大人たいじんの風だと思われた晋の景公、占いが「当たらなかった」として巫を斬ってしまうとは。ずいぶんな暴君ぶりではありませんか。

原典の『春秋左氏伝』成公十年には、さらに詳しい物語が記されています。こんな具合です。まずはお読みください。

晋の景公は夢を見た。背の高い亡霊が長い髪を振り乱し、胸をたたいて踊りながら「わしの子孫を殺すとは不埒な奴」と公を殺そうと迫ってきた。目を覚ました公は桑田そうでん(晋の地名)から巫を呼んだ。巫は夢をそっくり言い当てた。公が「どうなるのか」と聞けば、巫は「今年の新麦を召し上がれないでしょう」。まもなく景公は病気になった。公は隣国のしんに医者を求めた。秦からかんという医者が来ることになった。緩が着く前、景公は、病気が二人の子どもとなり「緩は名医だから、膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)の上に隠れよう」と話す夢を見た。緩がやってきた。「膏肓の間に病があるので残念ながら私には治せません」という見立てだった。夢とぴったり。景公は「名医なり」と、礼物を尽くして帰させた。新麦収穫の季節が来た。景公は食膳に就いた。占いがはずれたとして巫を斬った。いざ新麦を食べようとすると、にわかに腹が張ってきた。公は便所に立ったが、転落して亡くなった。その日の明け方、公を背負って天に昇る夢を見た宦官かんがんがいた。昼になって、その宦官は公を背負って便所から担ぎ出すことになった。宦官は殉死をさせられた。

「膏肓之疾」にはこんなにも込み入った物語があったとは。知りませんでした。

晋の景公が見た最初の夢。そこに登場した亡霊は、ちょう一族の先祖のようです。『春秋左氏伝』成公八年は、公が趙一族を皆殺しにさせたことを記してます。なかでも趙同ちょうどう趙括ちょうかつという大夫たいふ(領地を持った貴族)の兄弟の名はしっかりと載っています。

夢に出てきた二人の子どもは、この兄弟を暗示しているのでしょう。景公にとって、趙一族皆殺しは慙愧ざんきえない黒歴史だったはずです。

景公は、緩には名医だと称賛し礼を与えて帰させたのに、桑田そうでんみこには占いが当たらなかったとして、新麦を食べる直前に殺させています。二人は同じことをしているのに。どういうことでしょうか。

医者のかんは隣国の秦から派遣されてきているので、殺すわけにはいきません。感情の赴くままに殺してしまったら、秦は攻めてくるに違いありませんし。緩はお客さんだったのです。だから、腹いせは自国の巫で、ということでしょうか。景公はやはり、おのれに迫る死にがまんならなかったのですね。大人でも名君でもありませんでした。

夢に登場した二人の子どもが趙同と趙括の化身で、いまそこにある病はこの二人によるもの、いやいや、この病は趙一族による復讐なのだという気づきが、景公の心には彷彿ほうふつとしたのでしょう。自分はいずれあいつらに殺される。そういう悟りです。

晋の景公は二度、夢を見ます。夢の中でのできごとをまともにとらえているのです。だからでしょうか。「膏肓之疾」には、なにかに夢中になることを戒める思いが込められているようですね。夢中はよくない、ということでしょうか。

糞まみれだったであろう、景公の亡骸なきがらを担いだ宦官。公の夢を見たことを漏らしたばっかりに殉死を強いられてしまった彼。とんだとばっちりかと思うのですが、この時代、殉死は名誉なことでしょうから、いちおう、そと見的には、彼は喜んで道連れになってくれたのでしょう。この噺の、ちょっとしたオチなのかもしれません。

これは、衰退してやがては消えていく運命の晋と、いずれは統一国家を実現する上り調子の秦との噺です。「膏肓之疾」が意味する「不治」とは、滅亡する晋の運命なのだと思います。

余談ですが、趙一族には生き残った者が一人いました。趙武ちょうぶです。成長した彼が仇討ちを果たした物語は、元代の紀君祥きくんしょうによる雑劇ざつげき「趙氏孤児」で有名になりました。そのおかげで、これまでにさまざまな脚色作品が流布されてきたのです。例をあげてみましょう。

日本では『孟夏の太陽』(宮城谷昌光、文藝春秋、1991年)、『洛陽の姉妹』(安西篤子、講談社、1999年)所収の「趙氏春秋」などで。フランスでは戯曲『中国の孤児』(ヴォルテール、1755年)、現代中国では映画『運命の子』(原題:趙氏孤児、チェン・カイコー監督、2011年)などの作品で、広く知られています。

敵役かたきやくとなる屠岸賈とがんこは『春秋左氏伝』には登場せず、『史記』に出てきます。屠が趙を憎むにはそれなりの理由があり、こちらのエピソードがまた、さらに複雑になっていきます。

「膏肓之疾」という四字熟語に、こんな物語があるなんて。四字熟語、軽んずべからず。

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しゅっせのはな【出世の鼻】落語演目

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【どんな?】

すたれてしまった明治の噺。
工夫次第ではおもしろくなりそう。
こんなところに落語の妙味が隠れてます。

別題:鼻利き源兵衛

【あらすじ】

下谷長者町に住む、棒手振りの八百屋源兵衛。

ある日、仕事の帰りに両国橋に来かかると、大川で屋形船が芸者を揚げてどんちゃん騒ぎをしているのを見た。

つくづく貧乏暮らしがいやになり、
「あれも一生これも一生、こいつぁ宗旨を替えにゃあならねえ」
とばかり、その場で商売道具の天秤棒を川に放り捨ててしまった。

家に帰った源さん。

なにを思ったか、驚く女房を尻目に、家財道具一切たたき売った。

日本橋通一丁目の、有名な白木屋という呉服屋の真向かいで、間口九間、土蔵付きの広い売家を強引に手付け五両で借りた。

「近江屋三河屋松阪屋」という珍妙な三つ名前の屋号の看板まで出す。

ただし、商売はなにもせず、日がな一日はったりに大きな声で
「畳屋はどうした。大工はまだか」
と、どなるだけ。

そんなある日。

向かいの白木屋に、りっぱな身なりの侍が現れ、
「先祖が拝領した布地の銘を調べてほしい」
と、預けていく。

誰もわからないまま店先にぶらさげていたその布が、三日後、風に飛ばされて行方不明になったので、店中大騒ぎ。

布が白木屋の二つの蔵の間の戸口に引っ掛かるのを、偶然見ていた源兵衛。

好機到来とばかり店に乗り込み、どんな紛失物でもかぎ当てる鼻占い師といつわって、まんまとありかを当ててみせた。

礼金五百両で、たちまち左ウチワ。

すっかり白木屋の主人の信用を得た源兵衛。

半年ほどたった。

白木屋の京の本店お出入り先の、関白殿下。

藤原定家卿の色紙と八咫の御鏡を盗まれたので、京に行ってその二品をかぎ出してほしいとのこと。

源兵衛、それを白木屋の主人から頼まれる。

まあ、白木屋の金で上方見物でもしてこようと太い料簡で都にやってきた源兵衛。

仕事そっちのけで、ブラブラ遊んで過ごしているが、宮中のトイレまでかいで回らなければならない。

「従五位近江守源兵衛鼻利」と位までちょうだいした。

とんだにわか公家ができあががった。

ある日。

暑い中を衣冠束帯を付けさせられ、うんざりしながら庭をかいで回っている。

木のうろから、突如飛び出す怪しの人影一つ。

聞いてみると、その男、関白の家から例の二品を盗んだ犯人。

十里以内のものはみなかぎ出すという名高い方が探索に見えると聞き、もはや逃げられないと観念した。

「命ばかりはお助けを」
と、平身低頭。

柳の下には、ドショウが二匹いるもんだ。

無事に品が戻り、関白は大喜び。

「あっぱれな奴、望みのものをほうびに取らせる」
「金をください」
「金はたっぷりつかわす。なにか望みは」
「望みは金」
「いやしい奴。金のほかには」

こうして、源兵衛は吉野山に御殿を賜った。

洛中洛外は、その噂で持ちきり。

「一度でいいからその鼻が見たいものや」
「鼻(花)が見たけりゃ吉野山へござれ」

【RIZAP COOK】

うんちく

円楽が復活させても 【RIZAP COOK】

原話は不詳。民話がルーツでしょう。

明治25年(1892)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

同趣向の「お神酒徳利」に押されてすたれ、昭和50年代に五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が復活したものの、その後は後継者もありません。

大正期に、大阪の曽我廼家五郎が「一堺漁人」の筆名で書き下ろした脚本「鼻の六兵衛」は、やはり鼻でかぎわけるのが得意な男の出世譚で、劇団の当たり狂言になりましたが、落語とのかかわりは不明です。

同じ鼻利き男が登場する噺に「鼻きき長兵衛」がありますが、こちらは後半が「寄合酒」の後半(「ん廻し」)と同じで、まったく別話です。

白木屋盛衰記 【RIZAP COOK】

白木屋の開祖、大村彦太郎(1636-1689)は、近江国長浜で材木屋を営んでいましたが、志を立てて江戸に出てきて、寛文2年(1662)、日本橋通二丁目に小間物屋を開店しました。

3年後、通一丁目に進出して、呉服店を兼業。

以来、事業を拡大していって、後発の三井越後屋呉服店(→三越、1673年創業)や大丸江戸店だいまるえどだな(1743年創業)、いとう松坂屋(1768年創業、名古屋松坂屋の江戸進出)などと肩を並べる大店おおだなに発展しました。

屋号の「白木」は材木屋だったときの名残で、杉や檜を白木と総称することから付けられたとか。

縁起をかついで「かする」という言葉を家訓で禁じ、白木屋にかぎり、絣の着物を奉公人に着せない習慣がありました。

明治36年(1903)、通一丁目の本店敷地に「白木屋百貨店」を開業。

日本橋の顔として繁盛しましたが、昭和7年(1932)12月16日の「白木屋火災」で全焼、大打撃をこうむります。

このとき、女店員がズロースをはいていなかったため、着物のすその乱れを気にして飛び降りられず、十名の死者を出したことで、一挙に女性用下着が普及した、後世なにかと話題となります。

でも残念ながら、これは事実ではないようです。伝聞と想像が都合よく膨らんだだけの話なんだそうです。話としてはおもしろいのですがね。おもしろい話は、えてしてまゆつばものが多くて。

昭和23(1948)年の「白木屋争議」などで経営が傾き、昭和31(1956)年に東急傘下に。デパートはそのまま「白木屋」の名で存続しました。

でも結局、昭和42(1967)年、東急百貨店日本橋店に衣替えし、事実上三百年の歴史に終止符を打ちました。「日本橋東急」として親しまれ栄えました。平成3年度(1991)の売上高(565億円)をピークに緩やかに下降して、これは全国百貨店の衰退と軌を一にしているだけのことですが、1999年1月31日に閉店。三井不動産が「コレド日本橋」を建て、外資系企業数社が入っています。

昭和24年(1949)頃、この近辺は夜になるとひっそりとしたたたずまいだったそうです。消える数日前の下山貞則は、このあたりのGHQ系オフィスに何度も通っていたとか。97年以降のマネー敗戦後、似たような現象がかいま見えました。

あれも一生これも一生 【RIZAP COOK】

このくだりは、歌舞伎の場面をそのまま借りています。

河竹黙阿弥で、慶応2(1866)年2月守田座初演の「文字ふねにうちこむはしまのしらなみ」序幕で、主人公の鋳掛屋いかけや松五郎が、屋形船のドンチャン騒ぎを見て、みみっちい堅気暮らしに嫌気が差し、心機一転盗賊になろうと決心する場面のセリフです。

下谷長者町 【RIZAP COOK】

台東区上野3丁目。当時は一丁目と二丁目とがあり、名前とは裏腹に、江戸有数のスラムでした。

町名は昔、このあたりに朝日長者という分限者が住んでいたことにちなみます。

幕府の公有地でしたが、明暦の大火(1657)後町割りが許可されました。

掛け取り万歳」に出てくる「貧乏をしても下谷の長者町 上野の鐘のうなるのを聞く」という狂歌でも、おなじみです。

「通」は江戸のブロードウェイ 【RIZAP COOK】

神田万世橋あたりから日本橋、京橋を経て芝金杉にいたる、江戸を南北に貫く大通りを単に「通り」または「通町」と呼びました。

江戸の者ならこれだけで通じるからで、吉原を「ナカ」というのと同じ、いかにもムダを嫌う江戸っ子らしい表現です。

町名としては通り一丁目から四丁目まであり、一丁目は現在の中央区日本橋通1丁目。

初代歌川(安藤)広重が「名所江戸百景」の一として、通一丁目の白木屋呉服店前の繁華街を生き生きと描きました。安政5(1858)年夏の情景です。

【語の読みと注】
八咫 やた
絣 かすり
船打込橋間白浪 ふねにうちこむはしまのしらなみ

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みついのだいこく【三井の大黒】落語演目

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【どんな?】

名人噺。
能たる鷹は爪を隠す。
ときたまさらす甚五郎の爪。

別題:左小刀 出世大黒 左甚五郎

【あらすじ】

名人の噺。飛騨ひだの名工・左甚五郎ひだりじんごろうの。

伏見ふしみに滞在中に、江戸の三井(越後屋)の使いが来て、運慶うんけい作の恵比寿と一対にする大黒を彫ってほしいと依頼される。

手付けに三十両もらったので、甚五郎、借金を済ました残りで江戸に出てきた。

関東の大工仕事を研究しようと、日本橋を渡り、藍染川あいぞめがわに架かる橋に来かかると、板囲いの普請場ふしんば(工事現場)で、数人の大工が仕事をしている。

のぞいてみると、あまり仕事がまずいので
「手切り釘こぼし……皆半人前やな。一人前は飯だけやろ」

これを聞きつけて怒ったのが、血の気の多い大工連中、寄ってたかって袋だたき。

棟梁とうりゅう政五郎まさごろうが止めに入り、上方の番匠ばんじょう(大工)と聞くと、同業を悪く言ったおまえさんもよくないと、たしなめる。

まだ居場所が定まらないなら、何かの縁だからあっしの家においでなさいと、勧められ、甚五郎、その日から日本橋橘町たちばなちょうの政五郎宅に居候いそうろう

とにかく口が悪いので、政五郎夫婦は面くらうが、当人は平気な顔。名前を聞かれ、まさか、日本一の名人でございとは名乗れないから、箱根山に名前を置き忘れたとごまかすので、間が抜けた感じから「ぬうぼう」とあだ名で呼ばれることになった。

翌朝、甚五郎はさっそく、昨日の藍染川の仕事場に出向いたが、若い衆、
「名前を忘れるような、あんにゃもんにゃには、下見板を削らしておけ」
ということになった。

これは小僧上がりの仕事なので、大工の作法を知らないと、むっとしたが、棟梁への義理から腹に納め、削り板に板を乗せると、粗鉋あらしこで二枚削り。

これを合わせて水に浸け、はがして、またぴたりと合わせると、さっさと帰ってしまう。

後でその板をみると、二枚が吸いつくように離れない。

話を聞いた政五郎、若い者の無作法をしかり、「離れないのは板にムラがないからで、これは相当な名人に違いない」と悟る。

その年の暮れ。

政五郎は居候を呼んで、
「江戸は急ぎ仕事が求められるから、おまえさんの仕事には苦情がくると、打ち明け、上方に帰る前に、歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないか」
と勧めるので、甚五郎、ぽんと手を打ち
「やらしてもらいたい」

それから細工場さいくばに二階を借り、備州檜びしゅうひのきのいいのを選ぶと、さっそくこもって仕事にかかる。

何日かたち、甚五郎が風呂へ行っている間に政五郎が覗くと、二十組ぐらいはできたかと思っていたのが一つもない。

隅を見ると、風呂敷をかけたものがある。

取ると、二尺はある大きな大黒。

これが、陽に当たってぱっちり目を開けた。

そのとき、下から呼ぶ声。

出てみると、駿河町するがちょうの三井の使い。

手紙で、大黒ができたと知らせを受けたという。

政五郎、やっと腑に落ち、
「なるほど、大智は愚者に似るというが」
と感心しているところへ、当人が帰ってくる。

甚五郎、代金の百両から、お礼にと、政五郎に五十両渡した。

「恵比寿さまになにか歌があったと聞いたが」
「『商いは濡れ手で粟のひとつかみ』というのがございますが」

そこで、さらさらと「守らせたまえ二つ神たち」と書き添えると、いっしょに三井に贈ったという、甚五郎伝の一節。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

左甚五郎

甚五郎(1594-1641)は江戸前期の彫刻・建築の名匠です。

異名を左小刀ひだりこがたなといい、京都の御所大工ごしょだいくでしたが、元和げんな6年(1620)、江戸へ出て、将軍家御用の大工として活躍する一方、彫刻家としても、日光東照宮の眠り猫、京都知恩院の鶯張りなど、歴史に残る名作を生み出し、晩年は高松藩の客分となりました。

落語や講談では「飛騨の甚五郎」が通り相場です。

姓の「左」は「飛騨」が正しいとする説もありますが、実際は播磨国・明石の出身ともいわれ、詳しい出自ははっきりしません。

甚五郎という名工は実在したのでしょうが、現在伝わる甚語楼像はスーパーマンで、かなりの潤色ぶりで、伝説化されてしまっています。

実在と伝説は分けてとらえるしかありません。

落語では「竹の水仙」「」に登場するほか、娘が甚五郎作の張形はりがた(女性用の淫具)を使ったため「処女懐胎」してしまうバレ噺「甚五郎作」があります。

要するに、江戸時代には、国宝級の名作はすべて「甚五郎作」にされてしまうぐらい、左甚五郎は「名人の代名詞」だったわけです。

三木助最後の高座

講談から落語化されたものです。

戦後では六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)と三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、ともに十八番としました。

とりわけ三木助は、同じ甚五郎伝の「鼠」も事実上の創作に近い脚色をするなど、甚五郎にはことのほか愛着を持っていたようです。

この噺もたびたび高座に掛けました。

三木助最後の高座となった、昭和35年(1961)11月の東横落語会の演目も「三井の大黒」でした。

三木助没後は弟子の入船亭扇橋(橋本光永、1931-2015)に、さらにその弟子の扇遊へと継承されていきました。

藍染川 今川橋

藍染川は神田鍛冶町から紺屋町こんやちょうを通り、神田川に合流した掘割ほりわりです。

紺屋町の染物屋が、布をさらしたことから、こう呼ばれました。

明治18年(1885)に埋め立てられています。

六代目円生は「今川橋」の出来事として演じましたが、実際の今川橋は、藍染川あいぞめがわ南東の八丁堀に架かっていた橋で、日本橋本白銀町ほんしろがねちょう二丁目と三丁目を渡していました。

下見板

噺の中で甚五郎がくっつけてしまう「下見板」は、家の外壁をおおうための横板で、大工の見習いが練習に、まず削らされるものでした。

甚五郎が怒ったのも、無理はありません。

駿河町の三井

初代・三井八郎右衛門高利が延宝元年(1673)、日本橋本町一丁目に呉服屋を開業。天和2年(1682)の大火で、翌年、駿河町(東京都中央区日本橋室町一、二丁目)に移転、「現金掛け値なし」を看板にぼろもうけしました。

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かつぎや【かつぎ屋】落語演目

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【どんな?】

正月ネタの噺。
縁起でもないことばがドッカンドッカン。
「縁起かつぎ」の「かつぎ」です。

別題:七福神 正月丁稚(上方)

【あらすじ】

呉服屋の五兵衛だんなは、大変な縁起かつぎ。

元旦早々、番頭始め店の者に、
「元旦から仏頂面をしていては縁起がよくない」
「二日の掃き初めが済まないうちに、箒に触るのはゲンが悪い」
などと、うるさく説教してまわるうち、飯炊きの作蔵がのっそりと現れた。

「魔除けのまじないになるから、井戸神さまに橙を供えてこい」
と、言いつける。

「ただ供えるんじゃない。歌を添えるんだ。『新玉の 年立ち返る あしたには 若柳水を 汲みそめにけり、これはわざとお年玉』。いいか」

間もなく、店中で雑煮を祝う。

そこへ作蔵が戻ってきた。

「ご苦労。橙を供えてきたか」
「りっぱにやってきたでがす」
「なんと言った」
「目の玉の でんぐりげえる 明日には 末期の水を 汲みそめにけり、これはわざとお入魂」
「ばか野郎」

ケチを付けられて、だんなはカンカン。

そこで手代が、餅の中から折れ釘が出てきたのは、金物だけに金がたまるしるしと、おべんちゃら。

作蔵が、またしゃしゃり出た。

「そうでねえ。身上を持ちかねるというこんだ」

そうこうするうち、年始客が来だしたので、だんな自ら、書き初めのつもりで記帳する。

伊勢屋の久兵衛というと長いからイセキュウというように、縮めて読み上げるよう言いつけたはいいが、アブク、シブト(=死人)、ユカンなど、縁起でもない名ばかり。

それぞれ、油屋久兵衛、渋屋藤兵衛、湯屋勘兵衛を縮めたものだから、怒るに怒れない。

そこへ現れたのが、町内の皮肉屋、次郎兵衛。

ここのだんながゲンかつぎだから、一つ縁起の悪いことを並べ立て、嫌がらせをしてやろうという趣向。

案の定、友達が首をくくって死んだので弔いの帰りだの、だんながいないようだが、元旦早々おかくれになったのは気の毒だだのと、好き放題に言った挙げ句、
「いずれ湯灌場で会いましょう。はい、さようなら」

だんなはとうとう寝込んでしまう。

なお悪いことに、ゲン直しに呼んだはずの宝船絵売りが、値段を聞くと一枚シ文、百枚シ百文と、シばかりを並べるので、いらないと断ると、
「あなたの所で買ってくれなきゃ、一家で路頭に迷うから、今夜こちらの軒先を借りて首をくくるから、そう思いねえ」
と脅かされて、踏んだり蹴ったり。

次に、また別の宝船屋。

今度は、いろいろ聞くと家が長者町、名は鶴吉、子供の名は松次郎にお竹と、うって変わって縁起がいいので、だんなは大喜び。

たっぷり祝儀をはずむ。

「えー、ごちそうに相なりまして、お礼におめでたい洒落を」
「うん、それは?」
「ご当家を七福神に見立てましょう。だんなのあなたが大黒柱で大黒様、お嬢さまはお美しいので弁天さま」
「うまいねえ、それから?」
「それで七福神で」
「なぜ?」
「あとは、お店が呉服(五福)屋さんですから」

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【しりたい】

原話は多数

極端な縁起かつぎをからかった笑話は、各地の民話にも数多く残されていますが、笑話集で最古とみられる原典は、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻一の「祝ひ過ぎるも異なもの」と題した一連の小咄とみられます。

この章は23話からなり、ほとんどがこの噺のプロット通り、主人公がせっかく縁起をかついでいるのに、無神経な連中に逆に縁起の悪いことばかり並べられて全部ぶち壊しになってしまうパターンです。

古くは、三遊亭円朝の速記もあります。

明治22年(1889)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記では「かつぎや五平」と題していますが、これは、「御幣かつぎ(=縁起かつぎ)」のシャレでしょう。

上方では丁稚が悪役

上方版の「正月丁稚」では、丁稚の定吉が不吉なことを並べる役で、後半は、番頭始め店の者がゲン直しに「裏を閉めて、裏閉め(=浦島)太郎は八千歳」など、厄払いのダジャレを並べます。

オチは定吉が、布団を出して「夜具(=厄)払いましょう」と言うもので、古い江戸落語の「厄払い」の類話にもなっています。

上方落語では、だんなが愛人にしている芸者の縁起かつぎをからかって、正月早々不吉なことばかり並べる「けんげしゃ茶屋」もあります。

古風な噺で、先代の桂文枝が絶品でしたが、「けんげしゃ」は京ことばで「かつぎや」と同じです。

元日は掃除は禁物?

江戸には古くから、元旦には箒を持たない(=掃除をしない)慣習がありました。

明和2年(1765)刊の『川柳評万句合勝句刷』に「箒持つ 下女は叱られ はじめをし」とあります。

このタブーのいわれはは不明確ですが、箒を逆さに立てて手拭いを被せ、客を早く帰らせるまじないがあったので、あるいは箒の呪力により、福の神を追い払ってしまうことをおそれたからかもしれません。

若柳水

わかやぎみず。若水ともいい、旧年の邪気を取り除き、人を若返らせる願いをこめた習慣です。

虫除け

むしよけ。腹痛を防ぐまじない。「わざと」は「心ばかりの」の意味です。

宝船の絵

正月になると、宝船売りが、七福神の乗った船の図に、廻文歌「長き夜の とをのねぶりの 皆目覚め 波のりぶねの 音のよきかな」を書き添えた刷り物を売り歩きました。

上から読んでも下から読んでも同じですね。

正月二日の夜、これを枕の下に引き、吉夢の初夢を見るようにとのまじないでした。

歌舞伎「松浦の太鼓」で、吉良邸討ち入り前夜、すす竹売りに身をやつした大高源吾(俳名子葉)が俳句の師宝井其角に出会い、其角の「年の瀬や 水の流れと 人の身は」という前句に「明日待たるる その宝船」と付け、密かに決意を披露する場があります。

類話「しの字ぎらい」

同じ題材を扱った噺に、隠居が、「死」につながるというので「し」のつく言葉を使うことを下男に禁止する類話「しの字ぎらい」があります。

これは、「かつぎや」の噺のマクラ及び最初の宝船屋とのくだりを独立、ふくらませたものと考えられます。

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ごんすけざかな【権助魚】落語演目

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【どんな?】

女通いのだんな、権助を金で口止め。
おかみさんは金で権助を吐かせようと。
権助、高額のだんなになびく。
田中さんと向島で網打ち、ということに。
権助は魚屋で鰹片身、伊勢海老、目刺し、蒲鉾を。
「どこの川に蒲鉾が泳いでる」
「網をブッて捕った時、みんな死んでた」

別題:熊野の牛王

【あらすじ】

だんながこのところ外に女を作っているらしい、と嗅ぎつけたおかみさん。

嫉妬しっとで黒こげになり、いつもだんなのお供をしている飯炊きの権助ごんすけを呼んで、問いただす。

権助はシラを切るので、饅頭まんじゅうと金三十銭也の出費でたちまち買収に成功。

両国広小路りょうごくひろこうじあたりで、いつもだんなが権助に「絵草紙を見ろ」と言い、主命なのでしかたなく店に入ったすきに逃走する事実を突き止めた。

「今度お伴をしたら間違いなく後をつけて、だんなの行き先を報告するように」
と命じたが……。

なにも知らないだんな。

いつもの通り、
「田中さんのところへ行く」
と言って、権助を連れて出かける。

この田中某、正月には毎年権助にお年玉をくれる人なので、いわば三者共謀だ。

例によって絵草紙屋の前にさしかかる。

今日に限って権助、だんながいくら言っても、
「おらあ見ねえ」
の一点張り。

「ははあ」
と察しただんな、手を変え、
「餠を食っていこう」
と食い気で誘って、餠屋の裏路地の家に素早く飛び込んだ……かに見えたが、そこは買収されている権助、見逃さずに同時に突入。

ところが、だんなも女も、かねてから、いつかはバレるだろうと腹をくくっていたので泰然自若たいぜんじじゃく

「てめえが、家のかみさんに三十銭もらってるのは顔に出ている。かみさんの言うことを聞くなら、だんなの言うことも聞くだろうな」

逆に五十銭で買収。

駒止こまどめで田中さんに会って、これから網打ちに行こうと、船宿から船で上流まで行き、それから向島に上がって木母寺もくぼじから植半うえはんでひっくり返るような騒ぎをして、向こう岸へ渡っていったから、多分吉原でございましょう、茶屋は吉原の山口巴やまぐちともえ、そこまで来ればわかると言え」
と細かい。

「ハァー、向島へ上がってモコモコ寺……」
「そうじゃねえ、木母寺だ」

その上、万一を考えて、別に五十銭を渡し、これで証拠品に魚屋で川魚を買って、すぐ帰るのはおかしいから日暮れまで寄席かどこかで時間をつぶしてから帰れ、とまあ、徹底したアリバイ工作。

権助、指示通り日暮れに魚屋に寄るが、買ったものはかつおの片身に伊勢海老、目刺しに蒲鉾。

たちまちバレた。

「……黙って聞いてれば、ばかにおしでないよ。みんな海の魚じゃないか。どこの川に蒲鉾が泳いでるんだい」
「ハア、どうりで網をブッて捕った時、みんな死んでた」

【しりたい】

ゴンスケは一匹狼?

権助は、落語国限定のお国訛りをあやつって江戸っ子をケムにまく、商家の飯炊き男です。

与太郎のように周りから見下される存在ではなく、江戸の商家の、旧弊でせせこましい習俗をニヒルに茶化してあざ笑う、世間や制度の批判者として登場します。「権助提灯」参照。

権助芝居」でも、町内の茶番(素人芝居)で泥棒役を押し付けようとする番頭に、「おらァこう見えても、田舎へ帰れば地主のお坊ちゃまだゾ」と、胸を張って言い放ち、せいいっぱいの矜持を示す場面があります。

蛇足ですが、少年SF漫画「21エモン」では、この「ゴンスケ」が、守銭奴で主人を主人とも思わない、中古の芋掘り専用ロボットとして、みごと「復活」を遂げていました。

作者の藤子・F・不二雄(藤本弘、1933-96)は大の落語ファンとして有名でした。ほかにも落語のプロットをさまざまな作品に流用しています。

「21エモン」は『週刊少年サンデー』(小学館、1968-69年)などで連載されました。

噺の成り立ち

上方が発祥で、「お文さん」「万両」の題名で演じられる噺の発端が独立したものですが、いつ、だれが東京に移したかは不明です。

明治の二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923)や二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)が「お文さま」「おふみ」の演題で速記を残しています。

前後半のつながりとしては、後半、「おふみ」の冒頭に権助が魚の一件でクビになったとしてつじつまを合わせているだけで、筋の関連は直接ありません。

古くは、「熊野の牛王ごおう(護符)」の別題で演じられたこともありました。

この場合は、おかみさんが権助に白状させるため、熊野神社の護符をのませ、それをのんで嘘をつくと血を吐いて死ぬと脅し、洗いざらいしゃべらせた後、「今おまえがのんだのは、ただの薬の効能書だよ」「道理で能書(=筋書き)をしゃべっちまった」と、オチになります。

絵草紙屋

役者絵、武者絵などの錦絵を中心に、双六や千代紙などのオモチャ類も置いて、あんどん型の看板をかかげていました。

明治中期以後、絵葉書の流行に押されて次第にすたれました。

明治21年(1888)ごろ、石版画の美女の裸体画が絵草紙屋の店頭に並び評判になった、と山本笑月(1873-1936)の『明治世相百話』(1936年、第一書房→中公文庫)にあります。

山本笑月は東京朝日新聞などで活躍したジャーナリスト。

深川の材木商の生まれで、長谷川如是閑(長谷川萬次郎、1875-1969)や大野静方(山本兵三郎、1882-1944)の実兄にあたります。

長谷川如是閑は日本新聞や大阪朝日新聞などので活躍したジャーナリスト、大野静方は水野年方門の日本画家です。

「おふみ」の後半

日本橋の大きな酒屋で、だんなが外に囲った、おふみという女に産ませた隠し子を、万事心得た番頭が一計を案じ、捨て子と見せかけて店の者に拾わせます。

ついでに、だんな夫婦にまだ子供がいないのを幸い、子煩悩な正妻をまんまとだまし、おふみを乳母として家に入れてしまおうという悪辣あくらつな算段なのですが……。

いやまあ、けっこう笑えます。おあとはどうなりますやら。

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なめる【なめる】落語演目



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【どんな?】

ちょっと色っぽくて。
けど、怪談めいてて。
奇妙なおもむきの噺です。

別題:菊重ね 重ね菊

あらすじ

猿若町の芝居が評判なので、久しぶりに見物しようとやって来た、ある男。

三座とも大入りで、どこも入れない。

ようやく立見で入れてもらい
「音羽屋、音羽屋ッ」
とやっていると、前の升席に十八、九のきれいなお嬢さんが、二十五、六の年増女を連れて見物している。

年増女が男に
「あなたは音羽屋びいきのようですが、うちのお嬢さまもそうなので、よかったら自分たちの升で音羽屋をほめてやってほしい」
と声をかけた。

願ってもないことと、ずうずうしく入り込み、弁当やお茶までごちそうになって喜んでいると、年増女が
「あなた、おいくつ」
と聞く。

「二十二」
と答えると、
「ちょうど良い年回りだ」
と思わせぶり。

聞けば、お嬢さんは体の具合が悪く、目と鼻の先の先の業平の寮で養生中だという。

そこで自然に
「お送りいたしましょう」
「そう願えれば」
と話がまとまり、芝居がハネた後、期待に胸をふくらませてついていくと、大店の娘らしく、大きな別宅だが、女中が五人しか付いていないとのことで、ガランと静か。

お嬢さんと差し向かいで、酒になる。

改めて見ると、その病み疲れた細面は青白く透き通り、ぞっとするような美しさ。

そのうちお嬢さんがもじもじしながら、
「お願いがあるのですが」
と言う。

「ここだ」と思って、お嬢さんのためなら命はいらないと力むと、
「恥ずかしながら、私のお乳の下にあるおできをなめてほしい。かなえてくだされば苦楽をともにいたします」
という、妙な望み。

「苦楽ってえと夫婦に。よろしい。いくつでもなめます。お出しなさい」

お嬢さんの着物の前をはだけると、紫色に腫れ上がり、膿が出てそれはものすごいものがひとつ。

「これはおできじゃなくて大できだ」
とためらったが、お嬢さんが無理に押しつけたから、否応なくもろになめてしまった。

「その見返りに」
と迫ったとたん、表でドンドンと戸をたたく音。

聞くと、
「本所表町の酒乱の伯父さんで、すぐ刃物を振り回して暴れるから、急いでお帰りになった方がよろしい」
と言うので、しかたなく、その夜は引き上げる。

翌朝。

友達を連れて、うきうきして寮へ行ってみると、ぴったり閉まって人の気もない。

隣の煙草屋の親父に尋ねると、笑いながら
「あのお嬢さんのおできが治らないので易者に聞くと、二十二の男になめさせれば治るとのこと。そこで探していたが、昨日芝居小屋でばか野郎を生け捕り、色仕掛けでだましてなめさせた。そいつが調子に乗って泊まっていく、と言うので、女中があたしのところに飛んできたから、酒乱の伯父さんのふりをして追い出した。今ごろ店では全快祝いだろうが、あのおできの毒をなめたら七日はもたねえてえ話だ」
と言ったから、あわれ、男はウーンと気絶した。

「おい、大丈夫か。ほら気付け薬の宝丹だ。なめろ」
「うへへ、なめるのはもうこりごりだ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

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しりたい

宝丹

上野の守田治兵衛商店で、今も販売する胃腸薬です。

別荘、下屋敷、隠居所、遊女の療養所などの総称でした。

落語では、たいてい大店のお嬢さんが恋わずらいのブラブラ病で、向島の寮に隔離されます。

猿若町

猿若町は台東区花川戸の北側。

いわゆる江戸三座の中村座、市村座、守田座があったことで知られます。江戸三座については、「淀五郎」をお読みください。

業平

墨田区吾妻橋三丁目の内。

昔も今も低湿地帯で、五代目古今亭志ん生ゆかりの「なめくじ長屋」で、落語マニアにはおなじみです。

類話「狸娘」

前半が似た噺に「狸娘」があります。

男二人が、芝居で娘と女中に声をかけられるくだりまでは同じです。

後半は、浅草・花屋敷の常磐屋という料亭で飲み食いした後、女中が「先に帰りますが、今度は、両国亀沢町の自分の実家にお嬢さんをお泊めするから、ぜひ後から来てほしい」と言うので、二人は据え膳だと大喜び。

約束の印にと懐中時計(いかにも明治!)を持っていかれ、後で見ると紙入れもないので、かたりだと気付いたときにはもう手遅れ。

しばらくして女が警察に挙げられ、「あれは狸穴(まみあな、港区麻布)の狸娘のおきんという評判のワル」と聞かされて、「道理で尻尾を出した」と、オチるものです。

エロ場面はなく、官憲をはばかった「なめる」の改作と思われますが、はっきりしません。

こちらは明治中期に、初代三遊亭円左が演じましたが、その後はすたれました。

バレ噺としての演出も

演じようによっては、完全なバレ(ポルノ)になってしまう、キケンな噺です。

げんに、明治期には、乳房ではなく女陰をなめるやり方もあったそうですから。

別題に「重ね菊」「菊重ね」があります。

これは、音羽屋(尾上菊五郎)の紋の一つで、同時にソノ方の意味も掛けているとか。

円生十八番

原話は古く、元禄4年(1691)刊の初代露の五郎兵衛著『露がはなし』中の「疱瘡の養生」です。

明治の四代目三遊亭円生から、四代目橘家円蔵を経て戦後は六代目円生が得意としました。

現在でも、円生一門によって継承されています。



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かげきよ【景清】落語演目

 

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【どんな?】

目があくようにと赤坂の円通寺に。
日朝さまから景清さまに。
だから、あくんだ、と……。
開眼の願掛けは人生至高の祈りでした。

あらすじ

もとは腕のいい木彫師だが、酒と女に溺れた挙げ句、中年から目が不自由になった。

杖を頼りにをして歩いているが、まだ勘がつかめず、あちらこちらで難渋している。

その時、声を掛けたのが、知り合いの石田のだんな。

家に上げてもらってごちそうになるうち、定さんは不思議な体験を語る。

医者にも見放された定さんが、それでもなんとか目が開くようにとすがったのが、赤坂の日朝さま。

昔の身延山の高僧で、願掛けをして二十一日の間、日参すれば、霊験で願いがかなえられると人に勧められたからだ。

心配をかけ続けの老母のためにもと、ひたすら祈って祈って、明日は満願という二十日の朝、気のせいか目の底で黒い影が捉えられた。

喜びいさんでお題目を繰り返していると、自分の声に、誰か女の声が重なって、「ナムミョウホウレンゲキョウ」とお題目の掛け合いになったので、驚いて声の主に話しかけてみた。

女はやはり目が見えず、老いた母親が生きているうちに、片方でもいいから見えるようになりたいと願掛けしているという。

うれしくなって、並んでお題目を唱えるうち、定さんが女をひじでトーンと突くと、どういう案配か向こうもトーン。

トーン、トーンとやっているうちにいつしか手と手がぴったり重なった。

とたんに、かすかに見えかけていた目の前が、また真っ暗になった。

日朝にっちょう坊主め、ヤキモチを焼いていやがらせをしやがって」
と腹を立て、
「もうこんなとこに願掛けをするのは真っ平だ」
と、たんかを切って帰ってきてしまった、というわけ。

聞いただんな、
「おまえさんは右に出る者がいないほどの木彫師だったんだから、年取ったおっかさんのためにも短気を起こさず、目が開くように祈らなくてはいけない」
とさとし、
「日朝さまが嫌なら、昔、平景清という豪傑が目玉をくり抜いて納めたという上野清水の観音さまへ願えば、きっとご利益がある」
と勧める。

だんなの親切に勇気づけられた定さん、さっそく清水に百日の日参をしてみたが、満願の日になっても、いっこうに目は明かない。

絶望し、また短気を起こして、
「やい観公、よくも賽銭を百日の間タダ取りしやがったな、この泥棒っ」

定さんが境内でわめき散らしていると、そこへ石田のだんながようすを見にくる。

興奮する定さんをしかり、よく観音さまにおわびして、また一心に願を掛け直すように言い聞かせ、二人で池の端の弁天さまにお参りして帰ろうとすると、一天にわかにかき曇り、豪雨とともに雷がゴロゴロ。

急いで掛け出し、足が土橋に掛かったと思うと、そこにピシッと落雷。

だんなは逃げ出し、定さんはその場で気を失ってしまう。

気がついて、ふと目に手をかざすと……

「あっ! 眼……眼……眼があいたっ」

次の日、母親といっしょにお礼参りをしたという、観音の霊験を物語る一席。


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景清

一般には平家の遺臣ということになっています。

豪傑として名高く、「悪七兵衛景清あくしちびょうえかげきよ」(生没年不詳)とも呼ばれます。

姓はまちまちで、平、藤原、伊藤とも。

藤原秀郷ふじわらのひでさとの子孫、伊勢藤原(伊藤)氏の出身といわれているからです。

「悪」は剛勇無双の意味で、悪者の意味ではありません。

古くから伝説的な英雄として、浄瑠璃や歌舞伎、謡曲の題材になっています。

目玉をくり抜くくだりは、東大寺大仏供養に乗じて頼朝暗殺を企てて失敗し、捕らえられた景清が、助命されて頼朝の高恩に感じ、自らの両眼をくり抜いて清水寺に奉納するという浄瑠璃「嬢景清八島日記むすめかげきよやしまにっき」の筋を元にしたものです。

NHK大河ドラマ『源義経』(1966年)では、加藤武が錣曳しころびきの景清に扮していました。

日朝さまに願掛け

日朝上人(1422-1500)は、江戸中期の日蓮宗の高僧で、身延山久遠寺三十六世です。

赤坂寺町の円通寺を開基しました。

願掛けは、神社仏閣に願い事のため日参する行で、期日は五十日、百日、一年などさまざまです。

浄瑠璃「壺坂霊験記つぼさかれいげんき」では、按摩あんま沢市さわいちが女房・お里に連れられ、壺坂観音つぼさかかんのんに日参して開眼しています。

壺阪観音とは、奈良県高取町の壺阪山南法華寺みなみほっけじのこと。

真義真言宗豊山派しんぎしんごんしゅうぶざんはの寺院です。

清水の観音

上野・寛永寺の清水観音堂で、しばしば歌舞伎狂言の舞台になっています。

寛永8年(1631)、寛永寺と同じ、天海の開基。桜の名所としても知られます。

上方のやり方

東京では、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)の直伝で八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が人情噺として十八番にしていました。

上方では、はるかにくすぐりが多く、後半がかなり異なります。

東京と違い、昔は鳴り物入りで観音さまが出てきて景清の目玉を定次郎に授けます。

今度は景清の精が定次郎にのりうつって大名行列に暴れ込んだりする、というもの。

(殿)「そちゃ気が違うたか」
(定)「いえ、目が違いました」
とオチになります。

軽快な噺となっていますが、人情噺の部分と対比して荒唐無稽に傾くので、現在は上方でもほとんど演じられません。

同じ上方落語の「瘤弁慶」と似た、荒唐無稽の奇天烈噺です。

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かみそり【剃刀】落語演目

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【どんな?】

めったに聴けない珍品です。

別題:隠れ遊び 散髪茶屋 坊主の遊び 坊主茶屋(上方)

【あらすじ】

せがれに家を譲って楽隠居の身となったある商家のだんな。

頭を丸めているが、心は道楽の気が抜けない。

お内儀には早く死なれてしまって、愛人でも置けばいいようなものだが、それでは堅物の息子夫婦がいい顔をしない。

そこで、ピカピカ光る頭で、せっせと吉原に通いつめている。

今日も出入りの髪結いの親方といっしょに、夕方、紅灯の巷に繰り出した。

洒落っ気があり、きれい好きなので、注文しておいたヒゲ剃り用の剃刀を取りに髪結床に寄ったところ、親方が、吉原も久しぶりだからぜひお供を、ということで話がまとまったもの。

ところが、この親方、たいへんに酒癖が悪い。

いわゆる「からむ酒」というやつで、お座敷に上がってしこたま酒が入ると、もういけない。

花魁にむりやり酌をさせた上、
「てめえたちゃ花魁てツラじゃねェ、普通のなりをしてりゃあ、化け物と間違えられる」
だの、
「こんなイカサマな酒ェのませやがって、本物を持ってこい」
だのと、悪態のつき放題。

隠居がなだめると、今度はこちらにお鉢が回る。

「ツルピカのモーロクじじいめ、酒癖が悪い悪いと抜かしゃあがるが、てめえ悪いところまでのませたか、糞でもくらやァがれ」
とまで言われれば、隠居もがまんの限界。

大げんかになり、
「こんな所にいられるもんけえ!」
と捨てぜりふを吐いて、親方はそのまま飛び出してしまう。

座がシラけて、隠居はおもしろくないので、早々と寝ることにしたが、相方の花魁がいっこうにやってこない。

しかたなくフテ寝をして、夜中に目が覚めたとたん、花魁がグデングデンになって部屋に飛び込んでくる。

「だんな、お願いだから少し寝かしておくれ」
と、ずうずうしく言うので文句をつけると、
「うるさいよ。年寄りのくせに。イヤな坊さんだよ」
と、今度は花魁がからむ。

隠居は
「おもしろくもねえ。客を何だと思ってやがる。こんな奴には、目が覚めたら肝をつぶすような目に会わせてやろう」

持っていた例の剃刀で、寝込んでいる花魁の眉をソリソリソリ。

こうなるとおもしろくなって、髪も全部ソリソリソリソリ。

丸坊主にしてしまった。

夜が明けると、さすがに怖くなり、ひどい奴があるもの、隠居、はいさようならと、廓を脱出。

一方、花魁。

遣り手ばあさんに、
「お客さまがお帰りだよ」
と起こされ、寝ぼけ眼で立ち上がったから、すべって障子へ頭をドシーン。

思わず頭に手をやると
「あら、やだ。お客はここにいるじゃないか。じゃ、あたしはどこにいるんだろう」

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【しりたい】

原話の坊主は流刑囚

中国明代の笑話集『笑府』巻六で奇人変人の話を集めた「殊稟部」中にある「解僧卒」がネタ元、原典です。 

これは、兵卒が罪人の僧侶を流刑地まで護送する途中、悪賢い坊主は兵卒をうまく酔いつぶし、頭をくりくりに剃った上、自分の縄を解いてしばると、そのまま逃走。目覚めた兵卒が、自分の頭をなでてみて……という次第。オチは同じです。

江戸笑話二題 

江戸の笑話としては、正徳2年(1712)に江戸で刊行の『新話笑眉』中の「夜明のとりちがへ」がもっとも古い原話で、ついで寛政7年(1795)刊の『わらふ鯉』中の「寝坊」があります。

「夜明…」の方は、主人公は年をくって、もう売れなくなった陰間。このへんが見切り時と、引退披露を兼ねて盛大な元服を催し、したたかに酒をくらって酔いつぶれて寝いってしまいます。

朝目覚めて頭をなでると、月代を剃ってあるのでツルツル。寝ぼけていつもの癖でハゲの客と間違え、「もし、だんな。夜が明けました」。

それから八十年以上たった「寝坊」では、筋はほとんど現行の落語と同じで、主人公は坊主頭の医者。オチは、くりくり坊主にされた女郎が「ばからしい。ぬしゃ(=あなたは)まだ居なんすか(まだいたの?)」というもの。

志ん生演じた珍品

めったに聴けない珍品の部類です。

古くは四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)の大正4年(1915)の速記が残っています。

先の大戦後では、「坊主の遊び」の題で五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)が時々演じました。

特に志ん生は、短い郭噺として好んで取り上げていたようです。

本あらすじも、志ん生の速記を参考にしました。

志ん生は、しばしばオチを「坊さん(お客)はここにいるじゃないか」と短く切り、前半に「三助の遊び」の発端部をつけるのが常でしたが、主筋とのつながりはなく、単に時間を埋めるだけのものだったようです。

円歌は、坊主遊びの本場であった品川を舞台にしていました。継承して、三遊亭円歌も演じていました。

あざとい上方噺

上方の「坊主茶屋」は、大坂新町の「吉原」が舞台。

ただし、吉原は、新町の外れの最下級の売春窟で、「お直し」に登場する羅生門河岸の蹴転けころというところ。

女もひどいのが多く、梅毒で髪の毛は抜け、眉毛もなければ鼻もない代物。これをあてがわれて腹を立てた客が、「どうせ抜けているのやから」ときれいにクリクリ坊主にしてしまうという、悪質度では東京の隠居の比ではない噺。

その鼻欠け女郎の付け鼻を、客が団子と間違えて食わされてしまう場面は、東京人には付いていけないあざとさでしょう。

オチはいろいろ

「あらすじ」のオチがもっともスタンダードですが、昔から、演者によって、微妙に違うニュアンスのオチが工夫されています。

上方のものでは、古くから「そそっかしいお客や。頭を間違えて帰りはった」というオチもよく使われ、そのほか「湯灌ゆかんして帰ってやった」(桂小文治)とか、「医者の手におえんさかい坊主にされたんや」(米朝)とかいうのもあります。

いずれにしても、「大山参り」の趣向と、「粗忽長屋」に似た異次元的錯覚を感じさせるオチを併せ持つ名品なのに、現在、あまり高座に掛けられないのは残念です。

頭丸めても

坊さんといっても、ここでは本物の僧侶ではなく、隠居して剃髪している商家のだんなが主人公です。江戸時代には東西とも隠居→剃髪の習慣は広く行われました。

隠居名を名乗ることも多く、上方では「○○斎」と付けるのが一般的でした。「斎」は「身を清めて神に仕える」意。

隠居すれば、俗世の煩わしさから離れて明窓浄机でひねもす穏やかに暮らすだろう、くらいの意味があるのでしょう。

ただ馬齢を重ねたからって、さほど変わるものではありませんが。

本物の坊主の方も、廓遊びにかけてはかなりお盛んで、女犯は表向きは厳禁なので、同じ頭が丸いということで医者に化けて登楼する不届きな坊主も多かったとか。

「中宿(=茶屋)の 内儀おどけて 脈を見せ」という川柳もあります。隠居の方も、「新造は 入れ歯はずして みなという」など、からかわれ放題。

まあ、おさかんなのはけっこうですが、いつの時代も、やはり趣味はトシ相応が無難なようです。

【語の読みと注】
お内儀 おかみ
紅灯の巷 こうとうのちまた
髪結床 かみゆいどこ
花魁 おいらん
相方 あいかた:相手。合方とも
遣り手 やりて
陰間 かげま:少年男娼
元服 げんぷく
月代 さかやき
蹴転 けころ

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ふたなり【ふたなり】落語演目

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【どんな?】

タイトルとはイメージ違った爆笑噺。
いまではあまり聴けない珍品です。

別題:亀右衛門 書き置き違い(上方)

【あらすじ】

ある田舎のお話。

土地の親分で、面倒見がよいので有名な亀右衛門のところに、猟師が二人泣きついてくる。

五両の借金が返せないので、夜逃げをしなければならないという。

何でも呑み込む(頼みを引き受ける)ため、鰐鮫わにざめと異名を取っている手前、なんとかしてやると請け負ったものの、亀右衛門にも金はない。

そこで、妖怪が出ると噂の高い天神の森を通って小松原のおかんこ婆という高利貸しのところへ借金に行くことになった。

森に差しかかると、ふいに若い女に声をかけられる。

どうせ狐か狸だろうと思ったが、これがなかなかいい女なので、話を聞いてみると
「若気の至りで男と道ならないことをした、連れて逃げてもらおうと思ったが、薄情にも男は行方をくらましてしまい、この上は死ぬよりほかはないから、書き置きを親許に届けてほしい」
との願い。

「もし聞き届けてくださるのなら、死ぬ身にお金は必要なし、持ち出した十両があるので、それを差し上げます」

こんなおいしい話はない。

亀右衛門はたちまち飛びついた。

「もう一つお願いがございます」
「なんだい」
「あんまり急いだので、死ぬ用意が有りません。ここは飛び込む川もなし、どうしたら死ねるか、教えてください」

そこで、目についたのが目の前の松の木。

亀右衛門、首くくりの実技指導をしているうちに、熱が入りすぎて、縄から思わず手を放したのが運の尽き。

自分がぶら下がってしまい、あえない最期。

「あァらいやだわ、この人。あたし、なんだか死ぬのが嫌になっちゃった。死人にお金は必要ないから、今この人に渡した十両、また返してもらおう」

ひどい奴があるもので、風を食らって逃げてしまった。

翌朝、親分の帰りが遅いのを心配した例の猟師二人が捜しに来て、哀れにもぶらぶら揺れている亀右衛門の死骸を発見して大騒ぎ。

さっそく、役人のお取調べとなる。

「ここに書き置きがあるな。覚悟の自殺と見える。どれどれ『ご両親さまに、先立つ不幸、かえりみず、かの人と深く言い交わし、ひと夜、ふた夜、三夜となり、ついにお腹に子を宿し…』。なんじゃ、これは。これこれ、その方ども、この者は男子か女子か、いずれじゃ」

「へえ、猟師(両子)でございます」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

志ん生、米朝の珍品  【RIZAP COOK】

別題「書置き違い」の上方落語を東京に移植したものですが、古い速記もなく、原話ほか、詳しいこともよくわかりません。

東京では「亀右衛門」の題も使われ、戦後は五代目古今亭志ん生の一手専売でした。

その志ん生も、しょっちゅうやった噺ではありません。埋もれるには惜しい逸品ですが、発想が古めかしいためか、なぜか演者は少なく、珍品の部類に入るでしょう。

男女の垣根が取っ払われつつある現代では、この噺程度の「不道徳性」では刺激が少ないかもしれません。

上方では、桂米朝が東京通り「ふたなり」の題で演じていました。弟子の枝雀のも「それなりに」エキセントリックで、けっこうでした。

上方のオチと演出  【RIZAP COOK】

現行のものもダジャレオチで、決してほめられたものではありませんが、それだけに、演者によってオチの工夫がみられます。

上方のオチは、「おまえの親父はふたなりか」と聞かれ、「夜前食うたなりです」というもので、これもかなり苦し紛れ。

上方では、古くは首をつる主人公は、名前はありませんでした。

役人が「亀右衛門はふたなりであろう」と先に言ってしまい、「いえ、昨晩着たなりです」とする演者もあったようです。これなど、早とちりで「ふたなり」を先に出してしまい、あわてて咄嗟にゴマかしたにおいがぷんぷんするのですが。

ふたなり  【RIZAP COOK】

両性具有、アンドロギュヌスのことです。古くは「はにわり」ともいいました。雌雄一体は、下等生物にはよくあるそうですが、さすがに人間となると……。



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かいちょうのせっちん【開帳の雪隠】落語演目

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五代目古今亭志ん生

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【どんな?】

のんきでばかばかしい。
でも、たっぷりうなずける噺です。

別題:開帳 雪隠の競争(上方)

【あらすじ】

回向院で開帳があるというので、参拝客を当て込んで、雪隠を一人四文ずつ取って貸し、銭もうけをしてやろうという、二人組。

四方へ青竹を立て、四斗樽を埋めて板を二枚渡してあるだけのお粗末な代物だが、とくに女の参拝者にはあるだけまし、というもの。

当日、うまく目算が当たって、押すな押すなの大盛況。

「さあ、はばかりはこちら。御用のお方は向こうで切符をお早めに。お一人普通席四文、特等八文。へーい、特等さんご案内ッ」

大入り満員、札止め。まるで相撲場のようだ。

五、六日はこうして、ジャラジャラと銭がもうかったが、これはいかに、急にぴったり客足が止まり、しまいには、猫の子一匹小便をしに来なくなった。

「はて、おかしい、当節の人間は小便をしなくなったらしい。そうするてえと、したくなるオレはいったいなんだろう」
と、少しボンヤリした一人が頭をひねっていると、これよりは多少目はしの利く相棒が、顔色を変えて戻ってくる。

「おい、いけねえ。商売敵ができた」

向こうの方が同じ値段で、清潔できれいだというから、客が流れるのは当たり前。

あわてて「元祖雪隠」と看板を出してもダメ。

ボンヤリした男、なにを考えついたのか
「ちょいと行ってくる。おめえ一人で番をしていてくんねえ」

しばらくすると、あら不思議、突然客が続々と押し寄せる。

相棒、うれしい悲鳴をあげて、
「はい、いらっしゃい、こっちが普通、向こうが特等。はい、切符はこちら。押さないで、押さないでェ」
と一人二役で大奮闘。

銭はたまったが、くたびれ果てた。

夕方、出ていってそれっきりだった相棒が、ようやく帰ってくる。

なんだか、こちらも疲れた顔。

「おい、どこィ行ってたんだ。オレ一人で、てんてこ舞いしてたんだぞ。それにしても、どうして、ああ急に客が大勢……」
「そりゃ、来るはずだ」
「どうして」
「向こうの雪隠へ行って、四文で日暮れまでしゃがんでた」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

隠れた円生十八番

原話は明和9年(1772)刊の笑話本『鹿の子餅』中の「貸雪隠」。

古い形では、舞台は上野の不忍弁天の開帳。上方では「せんちの競争」。せんちは雪隠の上方なまりです。

オチは同じですが、筋立ては少し違っていて、開帳を当て込んで、一人五文の女子用有料雪隠を貸して、ボロもうけした男を見て、オレもというのでまぬけ亭主が、二番煎じはダメと言うかみさんの反対を押し切り、やはり貸雪隠を建てるが、さて……というわけ。

オチがちょっと小味の効いた、なかなか優れた小品ですね。

短い噺なので、比較的多くの演者が手掛けますが、六代目三遊亭円生はこの噺が気に入っていたらしく、「開帳」の演題で速記・音源を残しています。

円生は、主人公二人を回向院近くの駄菓子屋の老夫婦として演ずることもありました。 

珍品「御印文」

円生はマクラに、やはり開帳の寺をを舞台にした「御印文」という小咄を振ることがありました。あらすじを簡単に記すと以下の通りです。

ある開帳で、霊験あらたかな御印文を額に押してくれるというので、ある男が仲間を誘ったが、一人がどうしても嫌だと言う。ついてくるだけでいいからとなだめすかして出かけた帰り道に、茶屋に入って、そこの老婆にその御印文のことを話し、「この中にこんなありがたいものをいただくのを拒んだ変わり者がいるが、どいつかあててごらん」と持ちかけると、婆さんはすんなり当てる。一同驚いて、「もう御印文は消してあるはずなのに、どうしてわかった? もう霊験が現れたのかしらん」と聞くと、婆さん、「この方がいちばん利口そうだから」

皮肉なオチで、これは「お血脈」のマクラに付けることもあり、こちらは円生から、門下の三遊亭生之助に受け継がれています。

出開帳

開扉ともいい、各地の名刹が、厨子を開いて秘仏を公開するイベントです。平安末期から、広く行われました。

よそへ出張して行うのを出開帳と呼び、今のデパートの特別展に似ています。

開帳の当日は縁日が立ち、たいへんなにぎわいでした。

各宗派、寺によって、多いときは三年に一度、まれなものは六十年に一度というのも。有名なところでは身延山久遠寺、成田不動尊、浅草の観世音など。

諸国からの出開帳は、この噺のように、おもに両国の回向院境内を借りて行われました。

雪隠

せっちん。上方では同じ字で「せんち」と読みます。

語源は、中国の雪竇禅師が、浙江省の雪隠寺で厠の掃除をしていたという故事により、禅宗で寺名の「雪隠」がトイレを指すようになったことから。

【語の読みと注】
雪隠 せっちん トイレ
御印文 ごいんもん
雪竇禅師 せっとうぜんじ
厠 かわや トイレ
雪隠寺 せついんじ

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五代目古今亭志ん生

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くしゃみこうしゃく【くしゃみ講釈】落語演目

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【どんな?】

胡椒は南蛮渡来の高級品。
江戸ではすでに知られた調味料でした。

別題:くっしゃみ講釈(上方) 音楽会(改作) くしゃみ義太夫(改作)

あらすじ

ある講釈師の先生。

芸はたいしたことはないくせに気位ばかり高く、愛想がないので、町内の常連に嫌われている。

なにしろ、道で会うと、あいさつ代わりに頭をそっくり返らせるし、出番の時、客が寝ていると
「講釈が読みにくいっ。それほど眠たきゃ家へ帰って寝たらよかろう」
と嫌味を言って恥をかかせる。

そんなこんなで堪忍袋の緒が切れた二人組、どうにかして講釈が読めねえように妨害してやろうと相談した。

ぶん殴るのはたやすいが、芸人を殴ってもこっちが笑われる。

それより、高座の前にかぶりつきで陣取り、落語家と違って講釈師は釈台という机を置いているから真下が見えないのを幸い、胡椒の粉を下から一斉にぶっ放せば、きっとそいつを吸い込んで、むせてくしゃみが出て講釈が読めなくなる。

そこで、
「先生、この前は寝ていてすまねえことをした。こういううまい講釈は聞いてられねえから、おらァ帰る」
と立って、あと四、五人抱え込んでいっしょに立ち上がれば、高座はメチャクチャ。

それで意趣返しするという趣向。そこでみんな胡椒を買い込み、夜になると予定通り講釈場へ乗り込む。

そうとは知らない先生、例の通り張り扇で釈台バタバタたたき、
「……時は何時なんめり元亀三年壬甲の年十月十四日、武田晴信入道信玄、其の勢三万五千余人を引率して甲府を雷発に及び、遠州周知郡乾の城主天野宮内左衛門景連、蘆田下野守、この両人を案内者とし、先手山県三郎兵衛昌景に五千余騎を差し添えて、同国飯田、多々羅の両城攻めかかる……」
と、三方ヶ原の戦いを読み始めた。

「……これぞ源三位兵庫頭政入道雷円の御胤、甲陽にて智者の聞こえある……」
「それっ、やっつけろ」

そろそろ潮時とばかり、一人の合図で一斉に胡椒を扇で口座に扇ぎ上げる。

「……その下に黒糸おどしの大鎧、同じ毛五枚しころ、金の向い兎の前立打ったる兜を猪首にいか物づくりの太刀を横たえ、黒……ハックシ、羅紗の陣……ハクショ……黒唐革のサイハイハックシ、これではハックシ、とてもクシュッ、講釈はハックシ、よめまハクション、せん、今晩はこれで御免を」
「やい、ハックシハックシやりゃあがって。唾がはねたじゃねえか、まぬけ。明日は用があるから来られねえ。今夜中に戦の決着ゥ付けろい」
「だめです。外からコショウ(故障)が入りました」

底本:二代目三遊亭小円朝

しりたい

胡椒と日本人

胡椒の日本伝来は古く、平安時代初期にさかのぼるのだそうです。

もちろん、シルクロードから唐に伝来したもののおこぼれを、遣唐船あたりが持ち帰ったのでしょう。

その後、室町時代には、中国(明)経由でさかんに輸入され、主に僧坊で、精進料理の薬味として使われました。

江戸期に入って、海外渡航が禁止されるまでの間、ポルトガル船やオランダ船、スペイン船などが大量に持ち込み、いっそうの普及を見ました。

海外貿易が自由にできなくなると、胡椒の輸入量は激減し、その代用品として七色唐辛子が普及していったのです。

平戸藩主の松浦鎮信(1549-1614)が、オランダ貿易を平戸に誘致するために、慶長14年(1609)、胡椒を買い占め、そのため相場が高騰したといわれます。

近松門左衛門(1653-1724)の浄瑠璃中の詞章には「本妻の悋気とうどんに胡椒はお定まり」ともあります。

正徳3年(1713)3月初演の歌舞伎十八番「助六」でも、主人公が出前のうどんにたっぷり胡椒をふった上、くゎんぺら(かんぺら)門兵衛の頭にぶちまける場面があります。

当時はこうした食べ方が一般的だったのでしょう。

胡椒丸のみ

江戸には、うろ覚えを意味する「胡椒丸のみ」という俚諺がありました。「胡椒丸呑」です。

胡椒もかまずに丸のみしてはその辛さがわからないところから、物事をよく咀嚼、理解していないさまを言います。その発想、おもしろいですね。

初代春団治の十八番

本来は上方落語で、「くっしゃみ講釈」の題で親しまれました。

「芸のためなら女房も泣かした」、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)のお得意で、レコードも残されています。

春団治は「胡椒のこ」と言っています。

なるほど、これを聞くと、大阪人がしかつめらしい軍談講釈(師)を生理的に嫌ったのがよくわかります。

上方のやり方は、胡椒が売り切れていたので唐辛子粉をふりまき、「なんぞ、私に故障(=落ち度)があるのですか」「胡椒がないから、唐辛子をくべたんや」とオチになります。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)など、多くの演者が手がけてきました。

東京では三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)が得意にしていました。

金馬没後は、ほとんど、オチは大阪通りになっています。

改作として、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)の「くしゃみ義太夫」、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)の「音楽会」があります。



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かいくさ【蚊いくさ】落語演目

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【どんな?】

家を城と見立てて蚊と一合戦を講じる噺。
黄表紙ばりのばかばかしさが真骨頂です。

別題:蚊のいくさ

【あらすじ】

町内の八百屋の久六。

このところ剣術に凝り、腕はからっきしナマクラのくせに剣客気取り。

横町の道場に通い詰めで商売を怠けっぱなしなので、がまんならなくなったのが女房。

亭主の剣術狂いのため家は左前で、去年の暮れに蚊帳を曲げて(質入れ)しまったため、この夏は親子で蚊に食われ通し。

ほとほと愛想が尽きたから、別れて子供をつれて家を出ると脅かされ、久さん、しかたなく先生の所にお断りに行く。

事情を聞いた先生、
「それなら今日から大名になったつもりで、蚊と一合戦してみろ」
とそそのかす。

家は城、かみさんは北の方、子供は若君。

家の表が大手、裏口が搦手、引き窓が櫓、どぶ板が二重橋。

「はあ、大変なことになりましたね」
「蚊といくさをするのだから、暮れ方になると幕下の大名の陣から、ノロシが上がるな」
「なんです、それは」

つまり、長屋中一斉に蚊燻しの煙が上がる。

そこで軍略で、久さんの「城」にだけノロシを上げない。

敵は空き城だと油断して一斉に攻めてくる。

そこを十分に引きつけて、大手搦手櫓を閉め、そこでノロシ(蚊燻し)を上げて、敵が右往左往するところで四方を明け放てば、敵軍は雪崩を打って退却する。

あとをしっかり閉めて
「けむくとも 末は寝やすき 蚊遣りかな」
で、ぐっすり安眠というわけ。

怪しげな戦法だが、久さん、すっかり感心して、家に帰るとすぐ籠城準備に取りかかった。

女房に紙屑駕籠を持ってこさせて兜。

手に埃たたきで刀。

気が違ったんじゃないのかいと言われても、何のその。

「やあやあ敵の奴ばら、当城にては今宵は蚊帳は吊らんぞや……それ、敵が攻めてきた。北の方、ノロシの支度を」
「なんだい、ノロシってのは」
「蚊燻しを焚けってんだ」

ゴホンゴホンとむせながら、それでもようやく敵を退散させて勝ちいくさ。

しかし、先生に、
「落武者が殿さまを暗殺しに来るかもしれないので、その時は一騎打ちをしなければならないから、寝てはいけない」
と言われてきた久さん、目をむいて待ち構えていると、やっぱり
「ブーン」
ときた。

ポンとつぶして、
「大将の寝首をかこうとは、敵ながらあっぱれ、死骸をそっちへ」
「ブーン」
「今度は縞の股引きをはいているから、雑兵だな。旗持ちの分際で大将に歯向かうとは……ポン」
「ブーン」
「ポン」
「ブーン」
「ポン」
「これ北の方、城を明け渡してよかろう」

底本:四代目柳亭左楽

【しりたい】

町人めらもヤットウ、ヤットウ

同じく町人が生兵法で失敗する「館林」同様、物騒な世情の中、百姓町人が自衛のため、武道を習うことが流行した幕末の作といわれます。

剣術は、町人の間では、気合声(ヤッ、トー)を模して「ヤットウ」と呼ばれました。

すでにサムライの権威は地にち、治安も乱れるばかりで、刀もまともに扱えない腰抜け武士が増えていました。

町人が武士を見限って自衛に走った時点で、封建的身分制度はくずれ、幕府の命運も尽きていたといえます。たわいない蚊退治の笑い話の裏にも、時代の流れは見えていました。

後半の久さんの蚊への名乗り上げは、明らかに軍記物の講釈(講談)を踏まえています。

蚊いぶし

蚊遣かやりのことで、原料はダジャレではありませんが、かやの木の鉋屑かんなくずです。

下町の低湿地帯の裏長屋に住む人々にとって、蚊とのバトルはまさに食うか食われるか、命がけでした。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の自伝『なめくじ艦隊 志ん生半生記』(朋文社、1956年→ちくま文庫、1991年)に、長屋で蚊の「大軍」に襲われ、息を吸うと口の中まで黒い雲の塊が攻め寄せてきたことが語られています。

昭和初期の本所あたりでのことです。

ついでに、ジョチュウギクを用いた渦巻き型の蚊取り線香は、次第に姿を消しつつありますが、大正中期に製品化された、画期的な商品でした。

落語の珍・防「蚊」対策

二階の窓に焼酎を吹きかけ、蚊が二階に集まったらはしごを外すという、マクラ小ばなしがあります。

これなぞは、頭の血を残らず蚊に吸い取られたとしか思えませんが、まあ、二階建ての長屋に住めるくらいだから富裕で栄養たっぷりなのでしょうから、蚊の餌食になるのも当然でしょう。

そのほか、「二十四孝」では、親不孝の熊五郎に大家が、呉猛という男が母親が蚊に食われないよう、自分の体に酒を塗り、裸になって寝たという教訓話をします。

バクチをすると蚊に食われないという俗信も、昔はあったといいます。

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たつみのつじうら【辰巳の辻占】落語演目



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【どんな?】

心中噺。
落語のは歌舞伎や文楽と違います。
本性丸出しで小気味よく。
辰巳とは東南。深川のことです。

別題:辻占 辻占茶屋(上方)

【あらすじ】

道楽者の猪之助が、おじさんのところに金の無心に来る。

辰巳(深川)の静というお女郎に首ったけで、どうしても身請けをして女房にしたいが、三百円の金が要るという。

つい今し方、猪之助の母親が来て、さんざん泣いて帰ったばかりなので、その手前、説教はしてみたものの、このおじさん、若いころ少しはその道に覚えのある身で、言って聞かせても当人がのぼせていて、どうにもならないと見て取ると、
「金を出す前に女の料簡を試してみろ」
と、一計を授ける。

翌日、猪之助がいやに深刻な顔で見世に現れた。

「どうしたの」
「実は借金が返せねえので、おじさんの判をちょろまかして金を融通したのがバレて、赤い着物を着なくちゃならねえ。この上は、死ぬよりほかないので、別れに来た」
「まあ、おまはんが死ぬなら、あたしも一緒に」

行きがかり上、そう言うしかしかたがない。

「それでいつ?」
「今晩」
「あら、ちょいと早過ぎるワ。日延べはできないの」
「できない」

……しまったと思ってももう遅く、その夜二人で大川にドカンボコンと身を投げることになってしまった。

静の方はいやいやながらなので、のろのろ歩いているうちに石につまづいて、
「あー、痛。この石がもっけの幸い」
とばかり、「南無阿弥陀仏」と声だけはやたら大きく、身代わりに石を川へドボーン。

男の方は、その音を聞いててっきり静が飛び込んだと思い込み、大変なことをしでかしたと青くなる。

「どのみち、オレは泳げねえ、でえいち、仕組んだおじさんが全部悪いんだから……どうしようか」
と迷ううち、こちらも石に蹴っつまづいて、
「……えい、そうだ。静、オレも行くからな……。悪く思うなよ」

やっぱり同じように身代わりに、石をドボーン。

静はこれを聞いて、
「あーら、飛び込んだわ。あのばかが。あー寒い。帰ろうっと」

両方がそろそろっと、寒さに震えながら戻ってくると、地獄宿の看板の行燈の前で、バッタリ。

「あっ、てめえ、静」
「あーら、猪之はん。ごきげんよう」
「ばか野郎。太ェアマだ」
「娑婆(しゃば=この世)で会って以来ねェ」

底本:四代目橘家円喬

【しりたい】

原話は男色の心中

最古の原話は、寛永13年(1636)刊の笑話集『きのふはけふのものがたり』」の一編です。

これは若衆と念者、つまり男同士の心中騒ぎです。衆道(男同士の性愛)です。

衆道は当時、一部の社会では一般的だったので、そこでは男同士の心中も珍しくありませんでした。

これが男女に変わったのは、宝永2年(1705)刊の初代露の五郎兵衛著『露休置土産』中の「心中の大筈者」です。

いやいやながらの心中行で、両人ともいざとなって逃げ出すという結末は、最初から一貫して同じです。

大阪では「辻占茶屋」と題し、音曲仕立てでにぎやかに演じます。

東京には明治中期に移植され、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

先の大戦後は三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)の十八番で、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)も得意としていました。

現在では、ほとんど手掛ける人がいなくなりました。滅びるには惜しい、なかなか小味で粋な噺なのですがね。

辻占

もとは、往来の人の言葉で吉凶を占うことです。ここでは、「辻占菓子」を指します。

せんべい、饅頭などの中に、恋占いのおみくじを入れたもので、遊里の茶屋などのサービス品でした。

噺の中で、主人公・猪之助が女を待つ間、退屈しのぎに菓子の辻占をひいてみる場面があることから、女の心を試すという展開とかけて、この題名がつけられました。

江戸時代には、町々を流し、おみくじを売り歩く「辻占売り」もいました。

辰巳

深川の岡場所(幕府非公認の遊郭)のこと。

深川は江戸の辰巳の方角(東南)にあたるので、こう呼ばれたのです。

元は洲崎すさきともいい、承応2年(1653)に富岡門前町が開かれて以来、「七場所」と称する深川遊郭が発展しました。

地獄宿

素人女性を使った、非合法の隠し売春宿のこと。地獄図を描いた絵看板が目印で、そこで「営業」する女を「地獄娘じごくむす」と呼びました。『東海道四谷怪談』にも出てきます。

オチで女が発する「娑婆しゃばで会って以来」というのは、遊里の通言で「お久しぶり」の意味です。

もとは、吉原を極楽に見立てて、その外の俗世間を「娑婆」と呼んだものです。



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おやのむひつ【親の無筆】落語演目

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【どんな?】

息子は学校で読み書きできる。
おとっつぁんはできない。
くやしい!
おとっつぁんは勝ち気です。

別題:清書無筆 無筆の親(上方)

あらすじ

明治の初め、まだ無筆の人がざらにいたころの話。

ようやく学制が整い、子供たちが学校に通い出すと、覚え立ての難しい言葉を使って、無筆の親をへこますヤカラが出てくる。

そうなると、親父はおもしろくない。

「てめえは学校へ行ってから行儀が悪くなった、親をばかにしゃあがる」
と、小言を言い、
「習字を見せてみろ」
と見栄を張る。

「おとっつぁん、字が読めるの?」
「てめえより先に生まれてるんだ。読めなくってどうするものか」

よせばいいのに大きく出て、案の定シドロモドロ。

「中」の字を見せればオデンと読んでしまい、昔は仲間が煮込みのオデンを食ったからだとごまかし、木を二つ並べた字はなんだと聞かれて、
「ひょうしぎ」
と読んだあげく、
「祭りバヤシでカチカチと打つから昔は拍子木といった」
と、強弁する始末。

「じゃあ、おとっつぁん、このごろ、疫病よけに方々で仁加保金四郎宿と表に張ってあるのに、家にはないのは、なぜ?」
「忙しいからよ」
「書けないんだろう」

「とっとと外で遊んでこい」
と追い払ったものの、親の権威丸つぶれ。

癪でならない親父、かみさんに、
「しかたがないから近所のをひっぺがしてきて、子供が帰るまでに張っておけ」
と言われ、隣から失敬してくる。

今度こそはとばかり、
「表へ行って見てこい。おとっつぁんが書いて張っといたから」
「おとっつぁん、貸家と書いてあるよ」
「そう張っときゃあ、空き家と思って、疫病神も入ってこねえ」

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しりたい

原型はケチ+粗忽噺

原話は、最古のものが元禄14年(1701)、かの浅野刃傷の年に京都で刊行された、露の五郎兵衛『新はなし』中の「まじなひの札」。

ついで、そのほぼ半世紀後の宝暦3年(1753)、これも上方で刊行の笑話本『軽口福徳利』中の「疫神の守」があります。

「まじなひ…」の方は、ケチでそそっかしい男が、家々の戸口に張ってある、判読不能の厄病除けのまじない札を見て、自分も欲しくなりますが、買うのは代金が惜しいので、夜中にこっそりある家から盗み出します。

それを、よせばいいのに自慢げに隣人に見せると「これは貸家札だよ」と言われ、へらず口で「それは問題ない。疫病も空家と思って、入ってこないから」。

ここでは、男が札の文字を本当に読めなかったのか、それとも、風雨にさらされて読み取れなくなっていたのを勘違いしただけなのか。

どちらとも解釈できますが、噺のおかしみの重点は、むしろ男のしみったれぶりとそそっかしさ、負け惜しみに置かれています。

後発の「疫神の守」は「まじなひ……」のコピーとみられ、ほとんどそっくりですが、やはり主人公は「しはき(=ケチな)」男となっていて字が読めないというニュアンスはあまり感じません。

実際に「空き家」と張って、疫病神をごまかす方法もよく見られたらしいので、オチはその事実を前提にし、利用しただけとも考えられ、なおさら、これらの主人公が無筆文盲だったのかどうか疑問符がつくわけです。

もともとはケチ、または粗忽噺の要素が強かったはずが、落語化された段階で、いつの間にか無筆の噺にすりかえられたわけです。

読む人間にとって、筋は同じでもさまざまな「解釈」ができるという典型でしょう。

明治の無筆もの

もともと江戸(東京)では「清書無筆」、上方で「無筆の親」として知られていた噺を、明治維新後、学制発布による無筆追放の機運を当て込んで、細部を改作したものと思われますが、はっきりしません。

明治28年(1895)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)、29年(1896)の三代目小さん(豊島銀之助、1857-1930)師弟の、ほとんど同時期の速記が残っています。

それより前、明治27年(1894)には二代目小さんによる類話「無筆の女房」の速記も見られることから、この時期、落語界ではちょっとした「無筆ブーム」だったのかもしれません。

無筆を題材にした噺では、古くは「按七」「三人無筆」「無筆の医者」「手紙無筆」「犬の無筆」があります。

明治以後につくられたと思われる噺にも、「無筆の女房」「無筆の下女」などがあります。

江戸末期には、都市では寺子屋教育が定着、浸透し、すでに識字率はかなり高かったはずです。

階層によっては、明治になっても多くの無筆者が多かったのでしょう。

三代目金馬の改作

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)は、昭和初期にこの噺を「勉強」と改題して改作しています。

張り紙は「防火週間火の用心」に変え、しかも、おやじが盗んできたものには「ダンサー募集」とあったというオチにしました。

いかにもその時代らしいモダン風俗を取り込んでいましたね。

豪傑の名前で厄病退治

二代目小さんの速記が『百花園』に掲載された明治28年は日清戦争終結と同時に、東京でコレラ大流行の年でした。

もっともこの年ばかりではなく、維新後は明治10、15、19、23、28年と、ほとんど五年置きに猛威を振るっています。

さすがに安政のコロリ騒動のころよりは衛生教育が浸透してきたためか、年間の死者が百人を超える年はなかったものの、市民の疫病への観念は江戸時代同様、いぜん迷信的で、この噺のような厄除け札を戸口に張ることを始め、梅干し療法、祈祷などがまだまだ行われていました。

「仁加保金四郎」については詳細は未詳ですが、疫病神を退治したとされる豪傑の名です。

三代目小さんでは「三株金太郎」、時代が下って三代目三遊亭金馬の改作では「鎮西八郎為朝」としていました。

幕末のころは、嵯峨天皇の御製「いかでかは御裳濯川の流れ汲む人に頼らん疫病の神」を書いて張ったこともあったとか。

くすぐり

二代目小さん

おやじがくやしまぎれに「こりゃなんだ。赤犬と黒犬がかみあっているところなんぞ書いて」(犬の字が赤筆で直してある)  

三代目小さん

「おとっつぁん、百の足と書いてムカデと読むね」
「そうよ。五十の足ならゲジゲジ、八本がタコで、二本がズボン。一本なら傘のバケモノだ」                       

【語の読みと注】
仲間 ちゅうげん
癪 しゃく
御裳濯川 みもすそかわ

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おやこぢゃや【親子茶屋】落語演目

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【どんな?】

親父も粋な男でした、という、鉢合わせの噺。

あらすじ

ちょうど、夜桜も見ごろの春のころ。

せがれが吉原に居つづけして、三日ぶりに堂々と帰ってきたので、親父はカンカン。

「花見に行っていた」
とごまかすので、
「どこに泊まりがけで花見をしてくる奴がある。去年おふくろが死んだのだから、その分親父に孝行して心配をかけないようにするのが本当だ」
と説教し、
「今夜は無尽で遅くなるから、しっかり留守番して、どこへも出かけちゃあならねえ」
と言い置いて、出かけていく。

無尽の後世話人連中と一杯やって、すっかりご機嫌になった親父、ほろ酔いかげんで山谷から馬道の土手にかかると、急に吉原の夜桜が見たくなる。

大門を入ると、例によって大変なにぎわい。

つい、遊び気分にひかされて茶屋に入り、結局、芸者、幇間を揚げて、年がいもなく、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

一方、おもしろくないのが家に「監禁」されたせがれ。

どうせまた今夜、花魁と約束がしてあるので、親父が帰らないうちに、顔だけでも見せてこようと、番頭をゴマかして家を飛び出し、宙を飛ぶように吉原のなじみの茶屋へ。

お内儀に
「いつもの連中を呼んでくれ」
と言うと、
「あいにく今夜は六十ぐらいのご隠居さんが貸し切りで、幇間も芸者もみんなそっちのお座敷にかかりっきりで」という。

「へえ、粋な爺さんもいるもんだ、家の親父に爪のアカでものましたい」
と感心して、
「どうだい、それならいっそ、その隠居といっしょに遊ぼうじゃないか」
「ようございます」
とお内儀が座敷に話を通すと、親父も乗り気。

幇間が趣向をこしられ、チャラチャラチャンとお陽気な歌でステテコ踊りから、サッと襖を開けると、目の前にせがれ。

「お父っつぁん」
「清次郎か。ウーム、これから、必ずバクチはならんぞ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原型をそのまま伝承  【RIZAP COOK】

親子でヘベレケとなる「親子酒」とともに、小咄としてはもっとも古典的で、原型がほぼそっくり、現行の落語に伝わっている数少ない噺です。

原話は明和4年(1767)刊の笑話本『友達ばなし』中の「中の町」。

落語としては上方種で、現在でも上方落語色が強く、四代目桂米団治を経て、高弟の桂米朝に伝わりました。

大坂の舞台は島之内の遊廓で、鳴り物入り、より華やかではでな演出がとられています。

東京は文治が代々明治期では、六代目桂文治の速記が残るほか、八代目文治も演じましたが、東京では手がける演者は少なく、大阪のものばかりです。

オチは「必ず飲み過ぎはならんぞ」とする場合もあります。

名物、吉原の夜桜  【RIZAP COOK】

仲の町の夜桜は、灯籠、吉原俄とともに吉原三大名物の一つでした。

起源は寛延元年(1748)、石井守英という絵師が江の島弁財天のご神体修復を志した時、吉原の廓主連がその費用を請け負い、江の島の桜は古来からの名物なので、それに便乗して翌年3月、修復後初のご開帳を前に廓内にも花を植えることにしたことに遡ります。

この植樹が宣伝を兼ねていたことは間違いなく、堺町の芝居ともタイアップして、華々しいイベントを繰り広げたことが、吉原細見に見えます。

明治中期には、三河島の植木屋惣八という者が毎年植樹を請け負っていたことが、六代目桂文治のマクラにあります。

無尽無尽講ともいい、講親と呼ばれる世話人が、仲間を集めて掛け金を募り、そのプールした金を講中の仲間が必要に応じて借り合うもの。

いわば共済基金のようなものです。定期的に寄り合いを開いて入札を行い、大山参り、富士まいりなどの費用としても利用されました。

頼母子講も同じようなものです。

六代目桂文治のくすぐり  【RIZAP COOK】

●若だんなが茶屋のお内儀に遅れた言い訳

「ジが起こった(=怒った)んで出られなかった」
「お痛みじゃありませんか?」
「その痔じゃねえ。オヤジだ」

茶屋にもいろいろありまして  【RIZAP COOK】

茶屋にはさまざまな種類がありました。美人ばかり雇っている店もあれば、表も裏も融通無碍な店も。

川柳が取り上げるのは、なかでも目立った印象に残る茶屋ということでしょうね。

べら坊で居所の無い二十軒   十一10

「二十軒」とは浅草仲見世の隣にあった「二十軒茶屋」の略称。最初は三十六軒あったので「歌仙茶屋」と呼ばれました。「お福茶屋」とも。享保年間に二十軒ほどになったので、こう呼ばれるようになりましたが、文化には十六軒、天保には十軒、明治30年には一軒に。それでも「二十軒」といえば、ここの茶屋をさしたそうです。美人を雇っていることが特徴でした。「二十軒=美人茶屋」というイメージでしょうか。これも落語や川柳のお約束です。

ほれるかほれるかと茶をくらつて居   十二42

これはわかりやすいですね。今も変わらずの句。

手前まあ内はどこだと楊枝見世   五34

「楊枝見世」は浅草奥山にあった楊枝の店。ここも美人を置いていました。娘の住所を聞いているところ。繁盛したわけです。

楊枝屋は残米も売り緡も売り   二十二18

「緡」は銭の穴を通して百文、四百文、一貫文にまとめるための細い藁縄のこと。楊枝屋で売っていました。とりわけ欲しくもないのに美人見たさに買いに行く風景ですね。

美しさ男へたんと五倍子が売れ   十六36

「五倍子」は「五倍子鉄漿」のこと。五倍子とは、ヌルデの葉にアリマキが寄生して、その刺激によってできたこぶ。タンニンを含み、染色、インクなどの原料になるものです。鉄漿は、鉄を酸化させてできた暗褐色の液で、お歯黒に使いました。五倍子の粉を鉄漿にひたして作った黒い染料が五倍子鉄漿です。真っ黒です。この句は五倍子を売る店(五倍子店)の美人の売り子に惹かれて買いに来る亭主たちの長い鼻の下を詠んでいるそうですが、わかりますかね。

大和茶でただの話もくどくやう   十六36

「大和茶」とは「大和茶屋」のこと。浅草などにあって、美人を接客に雇っていたそうです。今のキャバクラみたいな店だったようです。

水茶屋と見せ内証はこれこれさ   十七23

裏表ある水茶屋ははやるなり   二十一10

水茶屋とはいっても、裏でのサービスもいろいろあったようです。江戸時代はなんでもありなんですね。

茶屋女せせなげほどな流れの身   六02

「せせなげ」は下水やどぶ。「流れの身」とは「川竹の流れの身」のことで、遊女の境涯をさします。「川竹の身」とか「流れの身」とかは清らかな川の流れのイメージなのですが、遊女を連想させる鍵語です。この句に詠まれた茶屋女は遊女ほどに清らか(?)ではないながらも、つまり下水の流れのような境涯ながらも、同じ春を売る身の上だ、ということを言っているようです。なんとも雅味のある句でしょう。

【語の読みと注】
緡 さし
五倍子 ふし
鉄漿 かね

【RIZAP COOK】

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おみたて【お見立て】落語演目

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【どんな?】

志ん生もやってる、やけっぱちじみた廓の噺。

別題:墓違い

【あらすじ】

吉原の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今日も今日とて、田舎住まいの杢兵衛大尽がせっせと通って来るので、嫌で嫌でたまらない。

あの顔を見ただけで虫酸むしずが走って熱が出てくるぐらいだが、そこは商売、「なんとか顔だけは」と、廓の若い衆に言われても嫌なものは嫌。

「いま病気だと、ごまかして追い返しとくれ」
と頼むが、大尽、いっこうにひるまず、
「病気なら見舞いに行ってやんべえ」
と言いだす始末だ。

なにしろ、ばかな惚れようで、自分が嫌われているのをまったく気づかないから始末に負えない。

で、めんどうくさくなった若い衆、
「実は花魁は先月の今日、お亡くなりになりました」
と言ってしまった。

こうなれば、毒食らわば皿までで、
「花魁が息を引き取る時に『喜助どん、わちきはこのまま死んでもいいが、息のあるうちに一目、杢兵衛大尽もくべえだいじんに会いたいよ』と、絹を裂くような声でおっしゃって」
と、口から出まかせを並べたものだから、杢兵衛は涙にむせび、
「どうしても喜瀬川の墓参りに行く」
と言って、きかない。

「それで、墓はどさだ」
「えっ? 寺はその、えーと」

困った若い衆、喜瀬川に相談すると
「かまやしないから、山谷あたりのどこかの寺に引っ張り込んで、どの墓でもいいから、喜瀬川花魁の墓でございますと言やあ、田舎者だからわかりゃしない」
と意に介さないので、しかたなく大尽を案内して、山谷のあたりにやってくる。

きょろきょろあたりを見回して、その寺にしようかと考えていると大尽、
「宗旨はなんだね」
「へえ、その、禅寺宗ぜんでらしゅうで」
「禅寺宗ちゅうのがあるか」

中に入ると、墓がずらりと並んでいる。

いいかげんに一つ選んで
「へえ、この墓です」

杢兵衛大尽、涙ながらに線香をあげて
「もうおらあ生涯やもめで暮らすだから、どうぞ浮かんでくんろ、ナムアミダブツ」
と、ノロケながら念仏を唱え、ひょいと戒名を見ると
養空食傷信士ようくうしょくしょうしんじ天保八年酉年てんぽうはちねんとりどし

「ばか野郎、違うでねえか」
「へえ、あいすみません。こちらで」

次の墓には、
天垂童子てんすいどうじ安政二年卯年あんせいにねんうどし
とある。

「こりゃ、子供の墓じゃねえだか。いってえ本当の墓はどれだ」
「へえ、よろしいのを一つ、お見立て願います」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

見立てる墓も時代色

原話ははっきりしません。

武藤禎夫(1926-)の説では文化5年(1808)刊の笑話本『噺の百千鳥』に収載の「手くだの裏」とのこと。

武藤禎夫は朝日新聞在職中、「日本古典文学全書」を企画担当した編集者です。

その後、共立女子短大教授に転じました。専門はいちおう近世の舌耕芸。

これは、吉原の遊女が、気に入らない坊主客を帰そうと、若い衆に、花魁は急病で昨夜死んだと言わせるもので、なるほど現行の噺と共通しています。

江戸で古くから口演されてきた廓噺くるわばなしです。

現存でもっとも古いのは、「墓違い」と題した明治28年(1895)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記。

ここでは、最後の墓を彰義隊士のそれにするなど、いかにも時代色が出ています。

「陸軍上等兵某」を出すなどは、現在でも行われます。

林家彦いちなんかもそうやっていました。

現代風のタレントの名を出すなどの入れごとは可能なはずですが、差し障りがあるのか、この場面は、昔通りにアナクロにやるのが決まりごとのようです。

先の大戦後は、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)はじめ、多くの大看板が手がけました。

お見立て

オチは、張り見世で客が、格子内にズラリと居並んだ花魁を吟味し、敵娼あいかたを選ぶことと掛けたものです。

「お見立てを願います」というのは、その時若い衆(牛太郎ぎゅうたろう)が客に呼びかける言葉でした。

張り見世は夕方6時ごろから、お引け(10時過ぎ)までで、引け四ツの拍子木を合図に引き払いました。

この「実物見立て」は、明治36年(1903)に吉原角町すみちょうの全盛楼が初めて写真に切り替えてから次第にすたれ、大正5年(1916)には全くなくなりました。

『幕末太陽傳』にも登場

「お見立て」は落語を題材にした映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)にもサイドストーリーの一つとして取り上げられています。

杢兵衛大尽に扮していたのは市村俊幸(石川清之助、1920-83)。太めのジャズピアニストで、コメディアンや俳優としても異色の存在でした。愛称ブーちゃん。

                                                         『幕末太陽傳』☞

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おもとちがい【おもと違い】落語演目

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【どんな?】

ぶち殺す。
同音異義語から掛け違いが始まります。
たわいもないすじなんですがね。
大笑いです。

【あらすじ】

ある大工の棟梁とうりゅう

兄貴分に盆栽の万年青おもとを預かったが、金の入り用に迫られ、ついそれを、これも万年青好きの質屋にぶち殺し(=質入れ)て洞穴を埋めた(=金の手当てをした)ので、面目なくて兄貴に顔出しできないと、知人の家でこぼしていく。

それを隣の部屋で、酔っぱらって夢うつつで聞いていた男。

奉公先のだんなの姪で、年ごろで悪い虫がついたようなので、用心のためしばらく、堅いと評判の棟梁の家に預けられていた娘の名がたまたま、「おもと」といったからさあ大変。

「おもとがあろうことか、棟梁の野郎にぶち殺されて洞窟に埋められた」と早合点し、さっそく、だんなにご注進する。

聞いただんな、
「おもとからはたった今、手紙が着いたばかりなので、なにかの間違いだろう」
と半信半疑だが、男が、
「それはきっと偽装工作で、かみさんにでも書かしたものに違いない」
と言い張るので、棟梁もだんだん心配になる。

かと言って、出入りの棟梁だから、家から縄付きを出して世間に恥をさらしたくないので、
「それじゃおまえ、棟梁の兄貴を知っているんだから、兄貴からことの白黒をつけてもらえ」
と言いつけられる。

兄貴も、いきさつを聞いてびっくり。

さっそく、棟梁を呼びにやり、
「てめえはあろうことかあるめえことか、恩人から預かったものをぶち殺すとは何事だ」
と責めたてるが、当人は質入れのことがバレたと思い込んでいるから、話がかみあわない。

「召し連れ訴えされるのがイヤなら自首しろ」
とネジ込むと、
「三日のうちに必ず返すから待ってくれ」
と平身低頭。

とどのつまり、棟梁が川上という質屋に万年青を放り込んだと白状。

押し入れに隠れていた男、やにわに飛び出して、
「あんた、その川上へ放り込んだのはいつのこってす」
「そうさなあ、九か月ほど前のこった」
「それじゃもう、とうに流れたんべえ」
「なに、利上げしてある」

底本:初代三遊亭円左

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【しりたい】

初代円左が創作か

初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が速記(明治32年)中、マクラで、この噺は自分の専売ということを言っています。

この人は明治後期から末年にかけ、自作自演を始め、益田太郎冠者(益田太郎、1875-1953)の新作なども多く手掛けたこともあるので、おそらくはこれも円左の当時の創作でしょう。

昭和初期から戦後にかけ、八代目桂文治(1883-1955、山路梅吉)がよく演じ、ついで五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がレパートリーにしました。

志ん生のは、ごく短く演じてだんなは登場せず、おもとを質入れしたのは棟梁の義弟辰公で、質屋の隠居の方が、おもとの見事なのに感嘆して、枯らさないから、自分の店に質入れしてくれろと頼んでくる設定になっています。

万年青ブーム

万年青おもとはユリ科の、葉の厚い常緑多年草です。

江戸中期の享保年間(1716-36)あたりから盛んに栽培されました。

江戸時代を通して、はやりすたりを繰り返したようで、文政期(1818-30)には江戸最後のブームで、品種60種以上を数えたとか。

その後、明治20-30年代にも、つまり円左の速記の前後にも再びはやりだし、盛んに品評会が催されました。

この噺も、そうしたブームを当て込んで、作られたものでしょう。

現在知られている品種は、約200種もあり、主に葉を鑑賞するもので、栽培には手間がかかります。

通は、葉の広がり方、表面のつや、葉に斑点があるなしなどにうるさく、この噺の棟梁が、預かった万年青を「墨流しといって一番高い」ものだと言っていますが、これは墨流し染めのように葉の表面に波紋がある品種のこと。

万年青の茎は、漢方で強心剤・利尿剤として用いられます。

利上げ

質入れ品の期限が来た時に、利息だけを払ってその期限をさらに延ばすこと。または、その利息をも意味します。利揚げとも。

質屋蔵」でも触れましたが、質流れの期限は天保年間(1830-44)以後は8か月で、利上げは、それ以前に借り主が利息を入れて、質流れを防ぐ処置です。

五代目志ん生は、オチをわかりやすく「心配すんな、利息が入れてあるから」と言い換えていました。

ぶち殺す

「打ち殺す」と書いて「ぶちころす」「ぶっころす」と読みます。

意味は、①うち殺す②質に入れる③芸娼妓をたらしこむ④芸娼妓が客をたらしこむ。ここでは②ですが、②も③も④も、①からの転義ですね。

江戸の俗語でして、「死地(=質)に入れる」の洒落かと思ったりもしますが、よくわかりません。

同義語に「曲げる」があり、こちらは、質=同音の七で、七の字は十の字の尻を右に「曲げる」ことから。

江戸には職人言葉からきた「物騒な」言い回しがかなりあり、たとえば、山芋を完全にとろろに下ろさず、かけらを半分残したものを「半殺し」と呼んでいました。

噺のアラを補う工夫

この噺、鉢植えの「万年青」と人名の「おもと」の食い違いだけのかなりたわいない噺ですが、 両者の「オモト」は、アクセントからしてモトモト違う語なので、よけい無理が目立ちます。

そこで、初代円左から志ん生まで、このアラをなるべく目立たせないため、けっこう苦心していたようです。円左や八代目文治では、なるべく「オモト」という言葉を使わない、噺をスピーディーに運んで、客にアラを気づかせないなどの工夫がみられます。

噺の重心を「ぶち殺した」をめぐっての、権助を加えた登場人物三人の、話の食い違いによるチンプンカンなやりとりにおくことで、それぞれの話芸によって笑いを誘ったと思われます。

円左では、棟梁が問い詰められて「三日でカタをつけます」と言うところがちょっとおかしく、志ん生では、権助の「殺すのはいいぜェ、洞穴ィ埋めるとァなんだい」というセリフが、ちょっとアナーキーで笑えます。

この噺、オチで、質屋の名と実際の川が混同されているわけなので、誰が演じても質屋の名は「川上」でなければならないはず。当然ながら、江戸時代を舞台にしてはできないわけです。

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はおりのあそび【羽織の遊び】落語演目

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【どんな?】

遊びといえば、吉原が舞台。
とはいえ、苦労するもんですね。

別題:羽織の女郎買い 羽織 ご同伴

【あらすじ】

町内の若い衆が、キザな伊勢屋の若だんなをたらし込み、タダでお遊びのお相伴をしようとたくらむ。

そこへ現れた若だんな、さっそく吉原の自慢話をひけらかし始める。

「昨日は青楼へふけりまして」
と漢語を使うので、一同、牢に入ったと勘違いする始末。

「北国へ繰り込みまして、初会でカクカイオイロウへ上がりました」

これは吉原の大見世、角海老楼のこと。

「ショカボのベタボで」

つまり、花魁に初会惚れのべた惚れされた、ということ。

二の腕をつねられたのが一時三十五分で、ほっぺたが二時十五分、明け方が喉笛と、いやに詳しいノロケぶり。

いいかげんあてられて、ぜひお供をと頼むと若だんな、「では、これからセツとご同伴願って、ぜひご耽溺をくわだてましょう」と、くる。

「おい、タンデキてえのを知ってるかい」
「うん。焼き芋みてえな形をして、塩をつけるとオツなもんだ」

いいかげんなことを言い合った末、若だんなが
「セツの上がる見世は大見世ばかりでゲスから、半纏着を相手にいたしやせん。ぜひとも羽織とおみ帯のご算段を願いとうございますな」

要するに、オレの顔にかかわるから、羽織と帯だけは最低限着てこなけりゃあ連れていかねえという、ご意向。

そこで一時間の猶予をもらい、それぞれ羽織の調達に行く。

八五郎は出入り先のお内儀さんのところに行き、正直に「女郎買いのお相伴で」とわけを話したため、祝儀不祝儀でないと貸せないとあっさり断られた。

あわてて、
「ええ、その祝儀不祝儀でござんす。向こうから祝儀、こっちから不祝儀で、どーんと突き当たって」
と、トンチンカンに言いつくろう。

冠婚葬祭のことだと教えられ、
「へえ、長屋でお弔いがございます」

誰が死んだかと尋ねられて答えにつまり、屑屋の爺さんを勝手に殺してしまう。

「いつ死んだんだい」
「ゆうべの十一時で」
「ばかをお言いでない。さっき鉄砲ざる背負って通ったよ」
「えっ、通った? ずうずうしい爺イだ」

困って、今度は洗濯屋の婆さんを殺すと、たった今二階で縫い物をしている、という。

大汗をかいてようよう貸してもらい、集合場所へ。

一人は、帯の代わりに風呂敷でゴマかし、別の男は、子供の羽織。

もう一人はふくらんだ紙入れを持ってきたが、実は煉瓦を中に入れて、金があるように見せかけているだけ。

「こりゃご趣向でゲス。しかしそのふくらんだ具合は、懐中が温かそうに見えますな」
「あったけえどころか、煉瓦だから冷えます。途中で小便を二度しました」


【しりたい】

演者を選ぶ噺  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、文化年間から口演されてきた古い江戸噺です。

古い速記では「羽織の女郎買ひ」と題した二代目古今亭今輔のもの(明治22年11月)が現存します。

戦後では、三代目、四代目の春風亭柳好、六代目三遊亭円生が得意にし、古今亭志ん朝も明るく、スピーディーな高座が絶品でした。

現役では、桂文治が平治時代からやるほか、若手もぼつぼつ手掛け始めてはいますが、演者はさほど多くありません。

登場人物も多く、よほどの円滑洒脱な話芸達人でないとこなせない、難しい噺だからでしょう。

六代目円生は「羽織」、七代目柳枝は「御同伴」と、演題はまちまちです。

オチはいろいろ  【RIZAP COOK】

オチのやり方はいくつかあって、八五郎が羽織の調達に出かけるくだりを後半に回し、婆さんを「殺した」後、嘘がばれて問い詰められ、「だれかそのうちに死にましょう」とオチるのが、現在では普通で、古今亭志ん朝もこのやり方でした。

かってはこの続きがあり、若だんなに引率されて遊びに出かけた後、食通を気取って「ただいまは重箱の鰻でもねえのう」と、後ろへそっくり返るのを教えられた男が、そっくり真似してひっくり返るところで切るのが、明治の今輔のオチ。

「世界は妙でげす、不思議でげす」と言って紙入れを出し、見せびらかせと若旦那に言われ、その通りにしたら、懐のレンガが飛び出した、というのもありました。

志ん朝のくすぐり  【RIZAP COOK】

古今亭志ん朝では、若だんなのノロケが抱腹絶倒。

一時には、マナコの中に熱燗の酒を注がれ、二時には簪を鼻の穴に。
「先がのどのところから出やした」
「魚焼くのがうまいよそういう女は」
三時には、みぞおちの辺りを尻でぐりぐりっと。明け方にはのど笛を食らいつき……という次第。
八公が親分のかみさんに、遊びに行くんなら羽織は貸せないと言われて興奮し、
「姐さんは女だからそんなこと言うんだよ。ねえ、こっちゃあ男だよ。まして若えんだ。ええ、んとに。からだア達者なんだしさ、ずっとここんところ行ってねえんだよ。なんだかイライライライラしてしょうがねえんだから。鼻血は出るしね。朝なんかもう大変なんだから」

半泣きになるところなど、妙にリアルで生臭いところは、いかにもこの人らしい味でした。

ゲス言葉は上品でげす  【RIZAP COOK】

「げす」などの通人ことばは、滑稽本や洒落本などに江戸中期ごろから、頻繁に登場するようになりました。

自称の「セツ」などと並んで、半可通のエセ通人が連発します。接尾語としては「げえす」というのが本来で、「であります」の意味です。

噺家や幇間も日常的に使い、六代目三遊亭円生は口癖のようにしていました。

明治以後になると、この噺や「酢豆腐」の若旦那のように聞きかじりの漢語を交えたりもするので、余計に分かりにくくなってきます。

【語の読みと注】

青楼:せいろう。遊郭
北国:きた。吉原
大見世:おおみせ
角海老楼:かどえびろう
花魁:おいらん
拙:せつ。拙者。私
耽溺:たんでき
半纏着:はんてんぎ。職人
お内儀さん:おかみさん
ご相伴:ごしょうばん
重箱:じゅうばこ。鰻の老舗
祝儀:しゅうぎ
屑屋:くずや
煉瓦:れんが
懐中:かいちゅう
簪:かんざし
姐さん:ねえさん
半可通:はんかつう
幇間:ほうかん。たいこ

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くびったけ【首ったけ】落語演目

五代目古今亭志ん生

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【どんな?】

吉原で火事が。
いつも袖にしてきたお女郎。
おはぐろどぶに浸かってる。
ざまあみろ。
女の殺し文句にはしびれます。

あらすじ

いくら、廓でお女郎に振られて怒るのは野暮だといっても、がまんできることとできないことがある。

惚れてさんざん通いつめ、切り離れよく金も使って、やっとなじみになったはずの紅梅花魁が、このところ、それこそ、宵にチラリと見るばかり。

三日月女郎と化して
「ちょいとおまはん、お願いだから待ってておくれ。じき戻るから」
と言い置いて、行ったきり。

まるきり、ゆでた卵で帰らない。

一晩中待ってても音さたなし。

それだけならまだいいが、座敷二つ三つ隔てて、あの女の
「キャッキャッ」
と騒ぐ声がはっきり聞こえる。

腐りきっているこっちに当てつけるように、お陽気なドンチャン騒ぎ。

ふて寝すると、突然ガラガラドッシーンという地響きのような音で起こされる。

さすがに堪忍袋の緒を切って、若い衆を呼んで文句を言えば、なんでも太った大尽がカッポレを踊ろうと
「ヨーイトサ」
と言ったとたんに尻餅で、この騒ぎらしい。

ばかにしゃあがって。

その上、腹が立つのがこの若い衆。

当節はやりかは知らないが、キザな漢語を並べ立て、
「当今は不景気でござんすから、芸者衆を呼んで手前どもの営業隆盛を図る」
だの、
「あなたはもうなじみなんだから、手前どもの繁盛を喜んでくだすってもいい」
だのと、勝手な御託ばかり。

帰ろうとすると紅梅が出てきて、とどのつまり、売り言葉に買い言葉。

「二度と再びてめえの所なんか来るもんか」
「ふん、おまはんばかりが客じゃない。来なきゃ来ないでいいよ。こっちにゃあ、いい人がついてんだから」
「なにをッ、このアマ、よくも恥をかかせやがったな」
「なにをぐずぐず言ってるんだい。さっさと帰りゃあがれ」

せめてもの嫌がらせに、野暮を承知で二十銭ぽっちのつり銭を巻き上げ、腹立ちまぎれに、向かいのお女郎屋に上がり込む。

なじみのお女郎がいるうちは、ほかの見世に上がるのはこれも吉原のタブーだが、そんなこと知っちゃあいない。

なんと、ここの若柳という花魁が、前々から辰つぁんに岡惚れで、紅梅さんがうらやましいと、こぼしていたそうな。

そのご本人が突然上がって来たのだから、若柳の喜ぶまいことか。

もう逃がしてなるものかと、紅梅への意地もあって、懸命にサービスに努めたから、辰つぁんもまた紅梅への面あてに、毎晩のように通いつめるようになった。

そんなある夜、たまたま都合で十日ほど若柳の顔を見られなかったので、今夜こそはと思っていると、表が騒がしい。

半鐘が聞こえ、吉原見当が火事だという。

押っ取り刀で駆けつけると、もう火の海。

お女郎が悲鳴をあげながら逃げまどっている。

ひょいとおはぐろどぶの中を見ると、濁水に首までどっぷり浸かって溺れかけている女がいる。

助けてやろうと近寄り、顔を見ると、なんと紅梅。

「なんでえ、てめえか。よくもいつぞやは、オレをこけにしやがったな。ざまあみやがれ。てめえなんざ沈んじゃえ」
「辰つぁん、そんなこと言わずに助けとくれ。今度ばかりは首ったけだよ」

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しりたい

原話は寄せ集め  五代目古今亭志ん生

四代目三遊亭円生(1904年没)の作といわれます。

原話は複数残っていて、元文年間(1736-40)刊の笑話本「軽口大矢数」中の「はす池にはまったしゃれ者」、安永3年(1774)刊「軽口五色帋」中の「女郎の川ながれ」、天明2年(1782)刊の「富久喜多留」中の「迯そこない」などがあります。

どれも筋やオチはほとんど変わらず、女郎がおぼれているのをなじみの男が助けずに逃げます。

女郎は溺れながらくやしがって、
「こんな薄情な男と知らずにはまったのが、口惜しい」
というもの。

愛欲におぼれ、深みにはまったのに裏切られたのを、水の深みにはまったことに掛けている、ただのダジャレです。

ただ、時代がもっとも新しい「逃げそこない」のオチは、「エエ、そういう心とはしらず、こんなに首ったけ、はまりんした」と、なっていて、「首ったけ」の言葉が初めて表れています。

首ったけ  五代目古今亭志ん生

「首ったけ」は、「首っきり」ともいい、足元から首までどっぷり、愛欲につかっていること。

おもに女の方が、男に惚れ込んで抜き差しならないさまをいいます。

戦後まで残っていた言葉ですが、今ではこれも、完全に死語になったようです。

志ん生の専売  五代目古今亭志ん生

古い速記では、大正3年(1914)の四代目橘家円蔵(柴田清五郎、1865-1912)のものがあります。死後に出た速記になります。

戦後は、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)が演じたほかは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の、ほぼ一手専売でした。

志ん生、円歌とも、おそらく初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)の直伝でしょう。

志ん生は、後味の悪い印象をやわらげるため、お女郎さんに、こんなことを言わせています。

「騒々しいッたってしょうがないじゃァないかねェお前さん、こういう場所ァ、みんなああいうふうに賑やかなのが、本当のお客さまなのよ。お金ェ使うから」と、図々しいものです。

若い衆には「弁解に窮します」「出るとこィ出まして法律にてらして」と、やたら漢語を使わせて、笑いを誘うなどしています。

後半の火事の場面は、自ら25歳のときに遭遇した吉原の昼火事の体験を踏まえていて、リアルで生々しいものとなっています。

志ん生から、長男の十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に伝わりました。馬生のはレコードもあります。

この噺、最近ではほとんど手掛ける人がいません。

吉原の火事  五代目古今亭志ん生

吉原遊郭は、建て替えを考えていた矢先、都合よくも(?)、明暦の大火(1657年)のあおりで全焼しました。

日本橋から浅草日本堤に移転します。

その後も、明治維新(1868年)まで、平均十年ごとに火事に見舞われ、その都度ほとんど全焼しました。

小咄でも、「吉原が焼けたッてな」「どのくらい焼けた? 千戸も焼けたかい?」「いや、万戸は焼けたろう」という、いささか品がないのがあります。

明治以後は、明治44年(1911)の大火が有名で、6500戸が消失し、移転論が出たほどです。

火事の際は、その都度、仮託営業が許可されましたが、仮託というと不思議に繁盛したので、廓主連はむしろ火事を歓迎していたとか。

おはぐろどぶ  五代目古今亭志ん生

おはぐろどぶは、吉原遊廓を囲む幅約二間(3.6m)の下水。

下水の黒く汚いところを、江戸時代、既婚女性がつけていたお歯黒に見立てて名づけたものです。

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おふみ【おふみ】落語演目

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【どんな?】

高座ではあまり掛からない、珍しい噺です。

別題:捨て子の母 万両(上方)

あらすじ

日本橋あたりの酒屋のだんな。

愛人のいることがおかみさんにばれ、今後、決して女の家には近寄らないと誓わされた。

ある日、赤ん坊を懐に抱いた男が、店に酒を買いにくる。

ついでに祝い物を届けたいから、先方に誰かいっしょについてきてほしいと言うので、店では小僧の定吉をお供につけた。

ある路地裏まで来ると、男は定吉に、
「少し用事ができたから、しばらく赤ん坊を預かってほしい」
と頼み、小遣いに二十銭くれたので、子供好きの定吉は大喜び。

懸命にあやしながら待っていたが、待てど暮らせど男は現れない。

定吉が困ってベソになったところへ、番頭がなぜかおあつらえ向きに路地裏へ現れて、定吉と赤ん坊を店に連れて帰る。

さては捨て子だというので、店では大騒ぎ。

案の定、男が買った樽に、
「どうか育ててほしい」
という置き手紙がはさんであった。

おかみさんは、もう子供はできないだろうとあきらめかけていた折なのですっかり喜び、家の子にすると言って聞かない。

だんなも承知し、
「育てるからには乳母を置かなくてはならない」
と、さっそく、蔵前の桂庵まで出かけていった。

ところが、だんなが足を向けたのは、なんと、切れたはずの例の女の家。

所は柳橋同朋町。

実は、これはだんなの大掛かりな狂言。

愛人のおふみに子供ができてしまったので始末に困り、おふみの伯父さんを使って捨て子に見せ掛け、おかみさんをだまして合法的に(?)赤ん坊を家に入れてしまおう、という魂胆だった。

その上、おふみを乳母に化けさせて住み込ませよう、という図々しさ。

もちろん、番頭もグル。

こうして、うまうまと母子とも家に引き取ってしまう。

奥方はすっかりだまされ、毎日赤ん坊に夢中。

そのせいか、日ごろの焼き餅焼きも忘れて「乳母」のおふみまで気に入ってしまう。

一方、だんなはその間、最後の工作。

問題は定吉で、これも、ふだん、だんなに買収され、愛人工作にかかわっていたため、妾宅にも出入りし、もちろんおふみの顔を知っている。

で、魚心あれば水心。

「口をつぐめば小遣いをやる」
と約束して、こちらも落着。

だが、定吉はふだんからおふみに慣れているから、ついおふみを「さま」付けで呼んでしまうので、あぶなっかしい。

「いいか、乳母に『さま』なんぞつける奴はねえ。うっかり口をすべらして『さま』付けなんぞしてみろ、ハダカで追い出すからそう思え」

数日は無事に過ぎたが、ある日、おかみさんがひょっと気づくと、だんながいない。

「ちょいと、定吉や。だんなはどこにおいでだね」
「ちょいとその、おふみさ、もとい、おふみを土蔵によんでいらっしゃいます」

昼日中から乳母と二人で土蔵とは怪しいと、おかみさん、忘れていた嫉妬が急によみがえり、鬼のような形相で土蔵へ駆け込む。

ガラリと戸を開けると、早くも気配を察しただんな、
「我先や人や先、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、今日とも知らず明日とも知らず、遅れ先立つ人は本の雫」

おかみさんは面食らって、
「ちょいと定吉、どういうことだい。おふみじゃないじゃあないか。だんなさまが読んでいるのは、一向宗の『おふみさま』だよ」
「でも、『さま』をつけると、ハダカで追い出されます」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

しりたい

「権助魚」とのかかわり

原話は不詳で、上方落語で「万両」または「お文さん」と呼ばれる切りねたが東京に移植されたもの。

移植者、時期などは不明ですが、明治32年(1899)、40年(1907)の二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)の速記が残っています。

この小円朝は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の最初の師匠です。大河ドラマ「いだてん」にも出ていました。

上方の「万両」の演題は、舞台である大坂船場の酒屋の名からとったものです。

上方版では、下女がだんなとおふみの濡れ場を目撃、ご寮人さんに告げ口して、ことがバレる演出になっています。

この噺にはもともと、現在は「権助魚」「熊野の牛王」として独立して演じられる「発端」がついていて、明治23年(1890)、二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)が「おふみ」の題でこの発端部分を演じた速記が残っています。

後半との筋のつながりはなく、いかにもとって付けたようで、本当にもともと一つの噺だったかどうかさえ怪しいものです。

おふみさま

浄土真宗東本願寺派(大谷派)で、本願寺八世蓮如上人が真宗(一向宗)の教義を民衆向きにやさしく述べた書簡文154編を総称していうものです。

門徒は経典のように暗記し唱えます。

ここでは、だんなの女の名が同じ「おふみ」であることがミソです。

これが当然伏線になっていますが、ストーリーに起伏があって、なかなかおもしろい噺なのに、現在演じ手がいないのは、特定の宗派の教義に基づくオチが、一般にはわかりにくくなっているせいでしょう。

場所の設定が 柳橋同朋町 であることも念仏系宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗など)とのかかわりをにおわせていますね。

かんぐれば、この噺は、本願寺の熱烈な門徒により教派の布教宣伝用に作られたのではと、思えないでもありません。

げんにその手のはなしはいくらでもあります。

それもはなしの成り立ちのひとつととらえられます。

落語世界の登場人物で、浄土真宗の熱烈な信者といえば「後生鰻」の隠居、「宗論」のオヤジが双璧です。

桂庵

けいあん。慶庵、口入れ屋とも。就職斡旋所です。

男女の奉公人の斡旋、雇われる側の職業紹介を兼ね、縁談の斡旋までしたとか。

人の出入りが激しいためか、花街、遊廓の近くに集まっていました。

江戸で最も有名なのは「百川」に登場する葭町よしちょう千束屋ちづかやです。

岡本綺堂(岡本敬二、1872-1939、劇作家)は、この店の所在地を麻布霞町といっています(『風俗江戸物語』による)。おそらく支店なのでしょう。

「おふみ」では、蔵前第六天社の「雀屋」に設定することが多くなっています。

【語の読みと注】
桂庵 けいあん:就職斡旋所。慶庵、口入れ屋とも
形相 ぎょうそう
切りねた きりねた:真打しか演じられない大ネタ
ご寮人さん ごりょんさん:若奥さん。上方中流以上の商家で

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よかちょろ【よかちょろ】落語演目

【RIZAP COOK】

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【どんな?】

なんだかよくわからない「よかちょろ」。
遊蕩放蕩の道楽息子が出てきます。
こんなご身分、うらやましいもんです。

別題:山崎屋・上

あらすじ

若だんなの道楽がひどく、一昨日使いに行ったきり戻らないので、大だんなはカンカン。

番頭に、おまえが信用しないとよけい自棄になって遊ぶからと、与田さんの掛け取りにやるように言ったのがいけないと、八つ当たり。

今日こそみっちり小言を言うから、帰ったら必ず奥へ寄越すように、言いつける。

実はこっそり帰っている若だんな、おやじが奥へ入るとちゃっかり現れ、番頭にさんざん花魁のノロケを聞かせた挙げ句、ずうずうしくも、これからおやじに意見してくるという。

「おやじは、癇癪持ちだから、すぐ煙管の頭でポカリとくるが、あたしの体は花魁からの預かり物で、顔に傷をつけるわけにはいかない。もし花魁が傷のわけを知ったら『なんて親です。おやじというのは人間の脱け殻で、死なないように飯をあてがっとけばいいんです。そういうおやじは片づけてくださいッ』」

興奮してきて番頭の首を締め上げ、大声を出すので奥に筒抜けで、
「番頭ォ」
と、どなる声。

「あたしがやりこめて、煙管が飛んできたら体をかわすから、おまえが代わりに首をぬっと出しな」
「ご免こうむります」

嫌がるのをぽかりとなぐり、一回二円で買収し、おやじの前へ。

「おとっつぁん、ご機嫌よろしゅう」
「ちっともご機嫌よくないッ。黙って聞いてりゃいい気になりゃあがってッ。おまえみたいなのは、兄弟があれば家に置く男じゃないんだ」

与田さんとこで勘定は取ってきたかと追及すると、確かに十円札で二百円もらったが、使っちまったと、いう。

おやじ、唖然として、
「たった一日や半日で二百円の大金を使い切れるものじゃない」
と言うと、
「ちゃんと筋道の通った、むだのない出費です」
と、譲らない。

いよいよ頭に来て
「なら、内訳を言ってみろ。十銭でも計算が違ったら承知しないからな」

若だんな、いわく、
「まず髭剃り代が五円」

大正のそのころで、一人三十銭もあれば顔中髭でもあたってくれる。

「おとっつぁんのは普通の床屋で、あたしのは、花魁が『あたしが湿してあげます。こっちをお向きなさいったら』って」
と、おやじの顔をグイと両手でこっちへ向けたから、おやじは毒気を抜かれてしまう。

あとは
「『よかちょろ』を四十五円で願います」

「安くてもうかるものだ」
というので、
「ふうん、おまえはそれでも商人のせがれだ。あるなら見せなさい」
「へい。女ながらもォ、まさかのときはァ、ハッハよかちょろ、主に代わりて玉だすきィ……しんちょろ、味見てよかちょろ、しげちょろパッパ。これで四十五円」

あきれ返って、そばの母親に
「二十二年前に、おまえの腹からこういうもんができあがったんだ。だいたいおまえの畑が悪いから」
「おとっつぁんの鍬だってよくない」
と、ひともめ。

「孝太郎が自分の家のお金を喜んで使ってるんだから、それをお小言をおっしゃるのはどういう料簡です。それに、あなたと孝太郎は年が違います」
「親子が年が同じでたまるかい」
「いいえ、あなたも二十二のときがありました。あなたが二十二であたしが十九で、お嫁に来たとき三つ違い。今でも三つ違い」
「なにを、ばかなことを言ってるんだ」

これから若だんな勘当とあいなる。

底本:八代目桂文楽

しりたい

遊三、文楽

山崎屋」の発端部分を、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)が明治20年(1887)前後に、当時流行の「よかちょろ節」を当て込んで滑稽落語に改作したものですが、現在では別話と見なされます。

遊三以後はほとんど演じ手がなく、昭和に入ると八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)の独壇場となりました。

文楽の没後は、継承者がいません。

遊三では、このあと、母親が父親とのなれそめをえんえんとのろけたあげく夫婦げんかになり、おやじが今聞いた「よかちょろ」の歌詞をもう忘れているというので、「パッパというところがありますよ。お父さんパッパ」「ハッハ、よかちょろパッパ」となっていますが、わかりづらい(英語のパパ=パッパを効かしたものか?)ので、文楽が以下をカットしています。

文楽晩年の演出ではオチはありませんが、かつては、若だんながこれ以外の出費を並べて二百円ちょうどにしたので、おやじがケムにまかれて「うん、してみると無駄が少しもない」と落とすやり方もありました。

山崎屋

長編で、道楽者の若だんなが番頭の知恵でおやじをだまし、めでたく吉原の花魁を身請けしてかみさんにするという筋です。

「よかちょろ」のもとになった発端部分は、若だんながする花魁のノロケを、そっくり小僧がまねしてしかられる、というたわいないお笑いです。

本体の「山崎屋」でも、この部分はかなり早くから演じられなくなっていました。

よかちょろ節

明治21年(1888)ごろ流行した俗曲です。

芸者だませば七代たたる
パッパよかちょろ
たたるはずだよ猫じゃもの
よかちょろ
スイカズワノホホテ
わしが知っちょる
知っちょる
言わでも知れちょるパッパ

こういう歌詞が伝わりますが、意味は不明。

この噺のとは違いますが、とにかく「パッパよかちょろ」が付けばいいとかなり替え歌ができたようです。

「よか」と「ちょろ」

「よかちょろ」の「ちょろ」は、東京ことばの「ちょろ」または「ちょろっか」で、「安易」「たやすい」の意味。

「よか」は薩摩なまりに引っかけたものでしょう。

つまり、「いいよいいよ、ちょろいもんだ」ということ。

遊三の現存の速記は明治40年(1907)のものです。

噺中の替え歌「女ながらも……」の元唄は不明で、おそらく内容から、日清か日露の戦時中のものと思われます。

スイカズワ

「猫」は芸者の異称で、猫皮の三味線を商売道具にし、客を「化かす」ところから。

「スイカズワのホホテ」は、おそらく「すいかづら(忍冬=ツルクサ、カヅラの一種)の這うて」の誤記・誤聞で、ツルクサが長く這うように、相手をずっと思い続ける意味なのでしょう。

「玉かづら→這(延)う」は万葉集の古代からの代表的な枕詞です。

「いいよいいよ、おまえたちの仲はお見通しだ。ワシがなにもかにものみこんでいるから心配するな」という内容の、粋な唄ですね。

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だいじんぐう【大神宮】落語演目



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【どんな?】

大神宮とは伊勢神宮のこと。
神さまと仏さまが吉原へ。
どこかで読んだコミックみたい。

別題:神仏混淆 大神宮の女郎買い お祓い

あらすじ

昔、浅草雷門脇に、磯辺大神宮というほこらがあった。

弁天山の暮れ六ツの鐘がなると雷門が閉ざされるので、吉原通いの客は、みなここの境内を通り抜けた。

待ち合わせの連中が、
「今朝はお女郎が便所に立ってそのまま消えてしまったので、あいつは丑歳うしどぢだろう」
とか、
「つねられた痕を見ると女を思い出すから、消えないように友達にまたつねってもらった」
などと、愚痴やノロケを並べる。

大神宮がほこらからこれを聞き、
「人間どもがあれだけ大騒ぎをするからには、女郎買いというのはよほどおもしろいものに違いない」
と、自分も行ってみたくてたまらなくなった。

一人で行くのはつまらないから、誰か仲間を、と、あれこれ考えているうち、黒い羽織で粋ななりをした門跡さま(阿弥陀如来)がそこを通りかかった。

誘うと乗ってきたので、自分も茶店でいかめしい直垂ひたたれと金の鉢巻きを脱ぎ、唐桟とうざんの対、茶献上ちゃけんじょうの帯という姿になると、連れ立って吉原へ。

お互いに正体がばれるとまずいから、「大さん」「門さん」と呼び合うことにした。

その晩は芸者を揚げて、ワッと騒いでお引けになる。

明くる朝。

若い衆が勘定書きを持っていくのに、一人は唐桟づくめで商家の旦那然とし、もう一方は黒紋付きの羽織で頭が丸く、医者のようなこしらえだから、これは藪医者が旦那を取り巻いて遊んでいるのだろうと、門跡さまの方に回すことにした。

「ええ、おはようございます。恐れ入りますが、昨夜のお勤め(=勘定)を願いたいので」

「お勤め」というから、大神宮、正体がバレたかと思い、
「いたしかたありません。手をこうやって合わせなさい」
「へい」
「では、やりますよ。ナームアミー」
「へへ、これはどうもおからかいで。お払いを願います」
「お祓いなら、大神宮さまへ行きなさい」

【RIZAP COOK】

うんちく

円遊の創作かも 【RIZAP COOK】

直接の原話は不詳です。

神仏がお女郎買いに行くという趣向は、宝暦7年(1757)刊の洒落本しゃれぼん聖遊廓ひじりゆうかく』(作者不詳)にすでにあり、これは孔子と老子と釈迦の三人が、大坂道頓堀で茶屋遊びするという、罰当たりなお話。

ついで、天明3年(1783)刊の洒落本『三教色さんきょうしき』では、天照大神と釈迦と孔子と老子が吉原でお女郎買いという、天をも地をも怖れぬものすごさ。

『三教色』は唐来参和とうらいさんな(1744-1810)作、喜多川歌麿(1753-1806)画による作品です。

ちなみに、洒落本とは18世紀後半にさかんにつくられた遊里を舞台にした物語集です。

この本から人々は「通」なる感覚を身に着けていきました。

この噺の現存最古の速記は「神仏混淆しんぶつこんこう」と題して明治24年(1891)10月、『百花園』に掲載された初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のものです。

噺の中に「神仏ともに力をあわせて日本人民を助けましょう」などのセリフがあるので、この噺は、明治20年代、明治初期の神仏分離、廃仏毀釈はいぶつきしゃくの政策が見直され、宗教の融和が進んだことを当て込んだ、初代円遊の新作ではないか、というのが、暉峻康隆てるおかやすたか(1908-2001、江戸文学)の見立てです。

大正期は小せん 【RIZAP COOK】

初代円遊は、品川鮫洲さめずの荒神さまが幇間役で大神宮と阿弥陀さまを吉原へ誘う、という設定で、神仏が三人(?)となっています。

荒神さま(かまどの神)も大神宮の末社なので、当時、円遊以外でも、これを主役にする演者がいたようです。

明治末から大正にかけては、廓噺を集大成した初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)の独壇場でした。

演題を「大神宮」として磯辺大神宮に設定したのも小せんでした。

遺稿集『廓噺小せん十八番集』に、晩年の速記が収録されています。

別題は「大神宮の女郎買い」「お祓い」などです。

パーツを取られ、本体消滅 【RIZAP COOK】

現在は継承者がなく、すたれた噺ですが、小せんのマクラ部分は、多くの後輩が「いただい」ています。

お女郎の便所が長いので、あいつは丑年だろうというくすぐりは、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が「明烏」に、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が「義眼」に、それぞれ使っていました。

二人とも小せんに廓噺を直伝された「門下生」です。

志ん生はこのほか、あらすじでは略しましたが、小せんの振ったもう一つのマクラ小咄「蛙の女郎買い」を、「首ったけ」その他、自らの廓噺にそっくり頂戴していました。

なお、前半の遊客のノロケ部分をふくらませたものがかつて「別れの鐘」として一席噺になっていました。

これは、あまりにもお女郎に振られるので、意趣返しに帰り際、お女郎屋の金たらいをくすね、背中に隠したはいいが、女に「また来てくださいよ」と背中をたたかれ、「ボーン」と鐘のようにたらいが鳴ってバレる、というもの。

現在では演じ手がありません。

「大神宮」自体、昭和16年(1941)10月31日、長瀧山本法寺(日蓮宗、台東区寿町2-9-7)境内の「はなし塚」に葬られた53種の禁演落語にすら入らないため、当時でもすでに後継者はなかったのかもしれません。

磯辺大神宮 【RIZAP COOK】

富久」でおなじみの大神宮さま。

大神宮は、伊勢の内宮ないぐう(皇大神宮こうたいじんぐう)と外宮げぐう(豊受大神宮とようけだいじんぐう)を併せた尊称です。

磯辺大神宮は、伊雑とも書き、伊勢内宮の別宮です。

江戸では、北八丁堀の塗師町ぬしちょうにも勧請してありましたが、浅草のは、浅草寺内の日音院にちおんいんが別当(管理者の親玉)をしていました。

別当とは、本来の職務のある人が別の職務を兼任することです。たいていはその組織の親玉です。

明治以前の神仏習合(神道と仏教を調和融合する信仰)の時代には、神社と寺がセットになっている形態がよくありましたが、その場合、宮司か住職のどちらかが両方を管理しているのが一般的でした。

現在の雷門付近にありましたが、明治元年(1868)3月28日の新政府の神仏分離令で廃され、今はありません。

門跡さま 【RIZAP COOK】

もとは本願寺のこと。「築地の門跡もんぜきさま」とも。

そこから、阿弥陀仏の異称に転化しました。



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さんぽういちりょうぞん【三方一両損】落語演目

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【どんな?】

柳原土手で拾った金が、なんと三両。
ホントの意味はこういうことなのね。

別題:一両損 三方目出度い

【あらすじ】

神田白壁町かんだしろかべちょうの長屋に住む左官さかんの金太郎。

ある日、柳原やなぎはら土手どてで、同じく神田竪大工町かんだたてだいくちょうの大工・熊五郎名義の書きつけと印形、三両入った財布を拾ったので、さっそく家を訪ねて届ける。

ところが、偏屈へんくつ宵越よいごしの金を持たない主義の熊五郎、
印形いんぎょうと書きつけはもらっておくが、オレを嫌って勝手におさらばした金なんぞ、もうオレのものじゃねえから受け取るわけにはいかねえ、そのまま持って帰れ」
と言い張って聞かない。

「人が静かに言っているうちに持っていかないとためにならねえぞ」
と、親切心で届けてやったのを逆にすごむ始末なので、金太郎もカチンときて、大げんかになる。

騒ぎを聞きつけた熊五郎の大家おおやが止めに入るが、かえってけんかが飛び火する。

熊が
「この逆蛍さかぼたる店賃たなちんはちゃんと入れてるんだから、てめえなんぞにとやかく言われる筋合いはねえ」
と毒づいたから、大家はカンカン。

「こんな野郎はあたしが召し連れ訴えするから、今日のところはひとまず帰ってくれ」
と言うので、腹の虫が納まらないまま金太郎は長屋に引き上げ、これも大家に報告すると、こちらの大家も、
「向こうに先に訴えられたんじゃあ、てめえの顔は立ってもオレの顔が立たない」
と、急いで願書を書き、金太郎を連れてお恐れながらと奉行所へ。

これより名奉行、大岡越前守おおおかえちぜんのかみ様のお裁きとあいなる。

白州しらすで、それぞれの言い分を聞いいたお奉行さま。

問題の金三両に一両を足し、金太郎には正直さへの、熊五郎には潔癖さへのそれぞれ褒美として、各々に二両下しおかれる。

金は、拾った金をそのまま取れば三両だから、都合一両の損。

熊も、届けられた金を受け取れば三両で、これも一両の損。

奉行も褒美ほうびに一両出したから一両の損。

したがって三方一両損で、これにて丸く収まるという、どちらも傷つかない名裁き。

二人はめでたく仲直りし、この後奉行の計らいで御膳が出る。

「これ、両人とも、いかに空腹でも、腹も身のうち。たんと食すなよ」
「へへっ、多かあ(大岡)食わねえ」
「たった一膳(=越前)」

【しりたい】

講談の落語化

文化年間(1804-18)から口演されていた古い噺です。

講談の「大岡政談おおおかせいだんもの」の一部が落語に脚色されたもので、さらにさかのぼると、江戸初期に父子で名奉行とうたわれた板倉勝重いたくらかつしげ(1545-1624)、重宗しげむね(1586-1656)の事績を集めた『板倉政要いたくらせいよう』中の「聖人公事せいじんくじさばき」が原典です。

大岡政談

落語のお奉行さまは、たいてい大岡越前守と決まっていて、主な噺だけでも「大工調べ」「帯久」「五貫裁き」「小間物屋政談」と、その出演作品はかなりの数です。

実際には、大岡忠相おおおかただすけ(1677-1751)が江戸町奉行職にあった享保きょうほう2年-元文げんぶん元年(1717-36)に、自身で担当したおもな事件は白子屋しらこや事件くらいです。

有名な天一坊てんいちぼう事件ほか、講談などで語られる事件はほとんど、本人とはかかわりありません。

伝説だけが独り歩きし、講釈師や戯作者げさくしゃの手になった『大岡政談実録』などの写本から、百編近い虚構の逸話が流布。

それがまた「大岡政談」となって講談や落語、歌舞伎に脚色されたわけです。➡町奉行

古いやり方

明治の三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)は、このあとに「文七元結」を続ける連作速記で、全体を「江戸っ子」の題で演じています。

柳枝のでは、二人の当事者の名が、八丁堀岡崎町おかざきちょうの畳屋・三郎兵衛と、神田江川町かんだえがわちょうの建具屋・長八となっていて、時代も大岡政談に近づけて享保のころ、としています。

長八が金を落としてがっかりするくだりも入れてオチの部分を省くなど、現行とは少し異なります。

昭和に入って八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)が得意とし、その型が現在も踏襲されています。

召し連れ訴え

「大家といえば親も同然」と、落語の中でよく語られる通り、大家おおや(家主いえぬし)は、店子たなこに対して絶対権力を持っていました。

町役ちょうやくとして両御番所(南北江戸町奉行所)、大番屋などに顔が利いた大家が、店子の不正を上書を添えて「お恐れながら」とお上に訴え出るのが「召し連れ訴え」です。

もちろん、この噺のように店子の代理人として、ともども訴え出ることもありました。

十中八九はお取り上げになるし、そうなれば判決もクロと出たも同然ですから、芝居の髪結新三かみゆいしんざのようなしたたかな悪党でも、これには震え上がったものです。

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ふくろくじゅ【福禄寿】落語演目

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【どんな?】

年の瀬、実家に戻った禄太郎。
父にはないしょで母に無心を。
円朝噺。悩みはわが子朝太郎に。
22歳の朝太郎、いまだ定まらず。

【あらすじ】

年の瀬、深川万年町。

福徳屋万右衛門の喜寿の祝いをしている家。

こっそり帰ってきた、長男の禄太郎。

無心に戻ってきたのだ。

母は、父にないしょで金を渡す。

その金で遊ぶ心づもりの禄太郎だった。

金をうっかり落としてしまった。

おのれの器量や才覚を悟った禄太郎。

一念発起、開墾に携わるため北海道に渡る。

出典:岩波版「円朝全集」第7巻

【しりたい】

禄太郎と朝太郎

禄太郎は、あきらかに一子朝太郎のイメージでしょう。

この噺、朝太郎の一件をあらかじめ知っていれば、円朝がどんな思いで創作したのかは容易に想像がつきます。

北海道に渡る禄太郎。

これが円朝の願望だったのでしょうか。朝太郎にはなにかをきっかけに悟り社会的に更生してほしい、という思いがにじみ出ている噺ではないでしょうか。

朝太郎が実際に渡ったのは、北海道ではなく小笠原でした。

その直後の連載が「熱海土産温泉利書」となっていきます。

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おつりのまおとこ【お釣りの間男】落語演目



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【どんな?】

間男をネタにしたバレ噺。
主人公はあの与太郎。
あとはどうなりますやら。

別題:七両二分 二分つり

【あらすじ】

町内の与太郎。

女房が昼間中から間男を引き込んで、堂々と家でいちゃついているのにも、いっこうに気づかない。

知らぬは亭主ばかりなりで、髪結床ではもう、おあつらえ向きの笑い話となっている。

悪友連中、火のあるところにさらに煙をたきつけてやろうと、通りかかった与太郎に
「てめえがおめでてえから、留守に女房が粋な野郎を引きずり込んで間男をやらかしてるんだ。友達の面汚しだから、帰って暴れ込んでこい」
とたきつける。

悪い奴もあるもので
「今ごろ酒でものんでチンチンカモカモやっている時分だから、出し抜けに飛び込んで『間男見つけた、重ねておいて四つにするとも八つにするともオレの勝手だ。そこ一寸も動くな』と芝居がかりで脅かしてやれ」
と、ごていねいにも出刃まで用意してけしかけたから、人間のボーッとした与太郎、団十郎のマネができると大喜び。

その上、間男の相場は七両二分しちりょうにぶだから、脅せば金が取れると吹き込まれ、喜び勇んで出かけていく。

乗り込んでみると、案の定、女房と間男がさしつさされつ堂々とお楽しみ中。

「間男見つけた。重ねておいて」
「なにを言ってるんだねえ。どこでそんなことを仕込まれてきたんだい」
「文ちゃん、源さん、八つァんに、七公に、髪結床で教わった」
「あきれたもんだねえ」
「さあ、八つになるのがイヤなら、七両二分出せ」
「今あげるからお待ち」

金でまぬけ亭主を追い出せるなら安いものと、こちらも願ったりかなったり。

八円で手を打った。

「一枚二枚三枚……八枚。毎度あり」
「さあ、この女ァ、オレが連れていくぜ」
「ちょっと待っておくれ」
「まだ文句があるのか」
「八円だから、五十銭のお釣りです」

底本:初代三遊亭円遊

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

原話「七両二分」

原話は寛政6年(1794)刊『喜美談話』中の「七両二分」。「竹里作」とある、この小咄は……。

どうも女房がフリンしているらしいので亭主、遠出すると見せかけてかみさんを油断させた上、隣家に頼んで、朝早くから張り込ませてもらい、壁越しにようすをうかがっていると、果たして間男が忍んできたようす。さあ重ねておいて四つ切りだと、勇んで踏み込んでみると、なんと、枕屏風の外に小判で八両。亭主、これを見るとすごすごと引き返し、隣のかみさんに、「ちょっと二分貸してくれ」。

八両から間男の示談金の「七両二分」を引いて、二分の釣りというわけですが、思えばこの「竹里」なるペンネーム、どう考えても「乳繰り」をもじったもので、怪しげなこと、この上なしです。

初代円遊のバレ噺

この噺、別題「二分つり」「七両二分」ともいい、上方でも江戸でも、しょせん、ある種の会やお座敷でしか演じられなかった代物です。

むしろ江戸時代よりさらに弾圧がきびしくなった明治になって大胆不敵にも、これを堂々と何度も寄席でやってのけた上、速記(明治26年)にまで残したのが、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)でした。

よくもまあ、検閲をすり抜けたものだと感心しますが、さすがにお上の目は節穴でなく、それ以後の口演記録はありません。

現在でも、さすがにこういう噺を寄席で一席うかがう猛者はいませんが、この噺を短くしたものや、類話の間男噺で、与太郎が間男の噂を当の亭主にばらしてしまい、「誰にも言うなよ」というオチがつく小噺がよく「紙入れ」などのマクラにも用いられます。

間男代金・七両二分の由来については、「紙入れ」をご覧ください。

間男の川柳、名セリフ

間男の類語は「不義」「密通」「姦通」、今でいう「不倫」。武家社会の「不義」は、間男のみならず、恋愛一般の同義語でした。

つまり、当事者が奥方でも娘でもお妾でも女中さんでも、色恋ざたは、見つかり次第なます斬りがご定法だったわけで。間男の川柳は数々あります。

主に、噺のマクラに用いられるものです。

町内で 知らぬは亭主 ばかりなり

間男と 亭主抜き身と 抜き身なり

据えられて 七両二分の 膳を食い

天明期に「賠償金」の額が下落すると、こんなのがつくられました。

生けておく 奴ではないと 五両とり

女房は ゆるく縛って 五両とり

女房の 損料亭主 五両とり

亭主が現場を押さえた時の口上は、この噺にもある通り、出刃包丁を突きつけ「間男めっけた。重ねておいて四つにするとも八つにするともオレが勝手だ。そこ一寸も動くな」が通り相場。

「団十郎のマネができる」と、与太郎が喜ぶことでもわかるように、このセリフは芝居からきています。

歌舞伎でも生世話物がすたれつつある今日、このセリフを歌舞伎座で聞くことも、あまりなくなりました。

【語の読みと注】
竹里 ちくり
乳繰り ちちくり

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能



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