にかいのまおとこ【二階の間男】落語演目

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【どんな?】

女房が亭主を尻目に自宅であいびきして。
バレ噺。二階付き長屋での。

別題:お茶漬け 二階借り 茶漬け間男(上方)

【あらすじ】

ある夫婦、茶飲み話に亭主の友達の噂話をしている。

「畳屋の芳さんは粋でいい男だなァ」
「あらまァ、私もそう思っているんですよ。男っぷりもよし、読み書きもできるし、子供好きでつきあいもいいし」
「おらァ、男ながら惚れたョ」
「あたしも惚れましたよ」

ところが、間違いはどこに転がっているかわからないもの。

この女房、本当に芳さんに惚れてしまった。

こうなると、もう深みにはまって、はらはらどきどき密会を重なるうち、男の方はもうただでは刺激がない、となる。

一計を案じて、亭主のいる所で堂々と間男してやろうと。

ある日、ずうずうしくも乗り込んでくる。

「実はさる亭主持ちの女と密通しているので、お宅の二階を密会の場所にお借り申したい」
というのである。

まぬけな亭主、わがことともつゆ知らず、
「そいつはおもしろい」
というわけ。

言われるままに当の女房を湯に入ってこいと追い出した。

ごていねいにも
「いろ(相手の女)は明るい所は体裁が悪いと言っているから、外でエヘンとせき払いをしたらフッと明かりを消してください」
という頼みも二つ返事。

こうもうまくいくと、かえって女房の方が心配になり、表で姦夫姦婦の立ち話。

「あたしゃいやだよ。そんなばかなことができるもんかね」
「まかしとけ。しあげをごろうじろだ」
「明かりをつけやしないかしら」

亭主は能天気にパクパクと煙草をふかした後、かねての合図でパッと灯火を消すと、あやめも分かたぬ真っ暗闇。

「どこの女房だかしらないが、ズンズンおはいんなさいよ」

うまくいったとほくそ笑んだ二人。

女房は勝手を知ったる家の中。

寝取られ亭主になったとも知らず
「この闇の中で、よくまァぶつからねえで、さっさと上がれるもんだ」
と、妙に感心しているだんなを尻目に、二階でさっさとコトを始めてしまった。

亭主、思わず上を眺めて
「町内で知らぬは亭主ばかりなり。ああ、そのまぬけ野郎のつらが見てえもんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【うんちく】

二階付き長屋

三軒長屋」にも登場しました。二階付き長屋は数が少なく、おもに鳶頭のように、大勢が出入りする稼業の者が借りました。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、終生、稲荷町の二階付き長屋に住んでいたことはよく知られています。

円生の逸品

原話は、天保13(1842)年刊の『奇談新編』中の漢文体笑話です。

明治23年(1890)5月の雑誌『百花園』に掲載された、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記が残っています。

紙入れ」「風呂敷」と同じく、間男噺ですが、その過激度では群を抜いていて、現在、継承者がいないのが惜しまれます。

この噺は演者によって題が異なります。

桂米朝(中川清、1925-2015)は「茶漬け間男」で、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)は「二階の間男」で、五代目春風亭柳昇(秋本安雄、1920-2003)は「お茶漬け」で、それぞれやっていました。

ここでの「茶漬け」は亭主が茶漬けを食っている間にコトを済ます、というすじだからです。

ここでは六代目三遊亭円生の速記を使いました。あの謹厳実直を絵に描いたようなイメージの、昭和の名人の、です。

寝取られ男

この言葉に対応するフランス語は「コキュ(cocue)」が有名です。

cocuはカッコウから来ている言葉のようで、「かっこうの雌は他の鳥の巣で卵を産むことから」のようです。

そういえば、私が大学に通っていた頃に、こんなカッコウのようなことをしていた女子がいましたっけ。ちゃっかりしてます。

フランスでは伝統的にコキュを描いた文学や演劇などが多くあります。

他人のセックスを覗いて笑うネタにするのは世界共通ですが、フランスはもう少し高度な文化のようです。

他人の持ち物で楽しむ人を覗いて笑う趣味がある、ということでしょうか。

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かぜのかみおくり【風の神送り】落語演目

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【どんな?】

なあんだ、だじゃれが言いたくて作った噺、かな。

別題:町内の薬屋(前半部分)

【あらすじ】

町内に悪い風邪が流行したので、まじないに「風(=風邪)の神送り」をすることになった。

奉加帳を回し、その夜、町内総出でにぎやかに掛け声。

鳴り物に合わせて
「そーれ、かーぜのかーみ、送れ、どんどん送れ」
「送れ、送れ、かあぜのかあみ送れ」
という具合に、一人一人順番に送りながら最後の人間で風の神を川に放り込むという趣向。

ところが、
「かーぜのかーみー、おくれ」
と言うと、
「おなごりィ、おーしい」
と誰かが引き止めてしまったから、みんなカンカン。

寄ってたかって引きずり出すと、覆面をしているので、むしり取ったら薬屋の若だんな。

「とんでもねえ野郎だ」

やっとこ、若だんなが改心して、ようやく風の神を川の中へ。

ちょうどその時、大川で夜網をしている二人が大物を釣り上げた。

引き上げると人間。

「おい、てめえは何だ」
「オレは風の神だ」
「あァ、夜網(=弱み)につけ込んだな」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

原話は藪医者ばなし

安永5年(1776)、大坂で刊行の落語本『夕涼新話集』中の「風の神」が原話です。

あらすじは、以下の通り。

新春早々患者が寄り付かず、食うや食わずで悲鳴をあげている藪医者が、風邪が流行りだしたと聞いて大喜び。これで借金とおさらばできると、同じ境遇の藪仲間二、三人と陽気にお祝いをしていると、外で鉦や太鼓の音。聞いてみると、「これは風の神送り(=追放)の行事です」と言うので藪医者はくやしがり「ええ、いらんことを。無益な殺生だ」

米朝、彦六が復活

本来、上方落語としてポピュラーな噺でしたが、上方では長くすたれていたのを、桂米朝が昭和42年(1967)に復活。

東京では、二代目桂三木助の直伝で八代目林家正蔵(彦六)が専売特許としました。

それ以前にも、前半の薬屋の若だんなまでのくだりは、小咄程度の軽い噺として、明治期に二代目談洲楼燕枝、三代目蝶花楼馬楽などが演じていました。

オチについては、正蔵(彦六)が、昔は「風の神が弱みにつけこむ」といった俚言があり、それを踏まえたのではないかと述べていますが、出典ははっきりしません。

風の神

風の神は風邪をはやらせる疫病神です。

江戸の頃、悪性のインフルエンザによる死亡率は、特に幼児や老人といった抵抗力の弱い者にとって、コレラ、赤痢、ジフテリアに劣らぬ高さだったでした。

個々人による祈祷や魔除けのまじないのほかに、この噺のような町内単位の行事が行われたのは、無理もないところでした。

『武江年表』で「風邪」を検索すれば、幕末の嘉永3年(1850)、4年(1851)、安政元年(1854)、4年(1857)、万延元年(1860)、慶応3年(1867)と、立て続けに流行の記事が見えます。この際、幕府から「お助け米」が出ています。

風の神送れ

「風の神送り」のならわしは、本来は物乞いを雇って、灰墨を顔に塗って風の神に見立てたり、鬼や人形を作って町中で練り歩き、鉦太鼓でにぎやかに「風の神送れ」(上方では「送ろ」)と隣の町内に追い払うもの。

そうして、順送りにし、最後は川に流してしまうわけです。

江戸末期になると、しだいに簡略化され、明治初期には完全にすたれたといいます。

音曲噺「風の神」

風の神の新入りが義太夫語りの家に忍び込み、失敗するという音曲噺「風の神」がありましたが、現在は演じ手がありません。

【語の読みと注】
奉加帳 ほうがちょう
藪医者 やぶいしゃ
鉦 かね
談洲楼燕枝 だんしゅうろうえんし
蝶花楼馬楽 ちょうかろうばらく

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つるつる【つるつる】落語演目



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【どんな?】

終始わさわさそわそわの噺。
ちょっとばかり艶冶でよいかんじ。

別題:思案の外幇間の当て込み 粗忽の幇間

【あらすじ】

頃は大正。

吉原の幇間たいこ一八いっぱちは、副業に芸者置屋おきやを営む師匠の家に居候いそうろうしている。

美人の芸者お梅に四年半越しの岡ぼれだが、なかなか相手の気持ちがはっきりしない。

今夜こそはと、あらゆる愛想あいそを尽くし、三日でいいから付き合ってくれ、三日がダメなら二日、いや一日、三時間、二時間、三十分十五分十分五分三分一分、なし……なら困ると、涙ぐましくかき口説く。

その情にほだされたお梅。

色恋のような浮いた話ならご免だが、
「こないだ、あたしが患わずらった時に寝ずの看病をしてくれたおまえさんの親切がうれしいから、もし女房にしてくれるというのならかまわないよ」
という返事。

ところが、まだあとがある。

今夜二時に自分の部屋で待っているが、
「おまえさんは酒が入るとズボラだから、もし約束を五分でも遅れたら、ない縁とあきらめておくれな」
と、釘を刺されてしまう。

一八は大喜びだが、そこへ現れたのがひいきのだんな樋ィさん。

吉原は飽きたので、今日は柳橋の一流どころでわっと騒ごうと誘いに来たんだとか。

今夜は大事な約束がある上、このだんな、酒が入ると約束を守らないし、ネチネチいじめるので、一八は困った。

今夜だけは勘弁してくれと頼むが、
「てめえもりっぱな幇間になったもんだ」
と、さっそく嫌味を言って聞いてくれない。

事情を話すと、
「それじゃ、十二時までつき合え」
と言うので、しかたなくお供して柳橋へ。

一八、いつもの習性で、子供や猫にまでヨイショして座敷へ上がるが、時間が気になってさあ落ちつかない。

遊びがたけなわになっても、何度もしつこく時を聞くから、しまいにだんながヘソを曲げて、「おまえの頭を半分買うから片方坊主になれ」だの、「十円で目ん玉に指を突っ込ませろ」だの、「五円で生爪をはがさせろ」だのと、無理難題。

泣きっ面の一八。

結局、一回一円でポカリと殴るだけで勘弁してもらうが、案の定、酔っぱらうとどう水を向けてもいっこうに解放してくれないので、階段を転がり落ちたふりをして、ようやく逃げ出した。

「やれ、間に合った」

安心したのも束の間。

お梅の部屋に行くには、廊下からだと廓内の色恋にうるさい師匠の枕元を通らなければならない。

そこで一八、帯からフンドシ、腹巻と、着物を全部継ぎ足して縄をこしらえ、天井の明かり取りの窓から下に下りればいいと準備万端。

ところが、酔っている上、安心してしまい、その場で寝込んでしまう。

目が覚めて、あわててつるつるっと下りると、とうに朝のお膳が出ている。

一八、おひつのそばで、素っ裸でユラユラ。

「この野郎、寝ぼけやがってッ。なんだ、そのなりは」
「へへ、井戸替えの夢を見ました」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

文楽vs.志ん生

この噺は文化年間(1814-18)にはできていたそうです。

明治23年(1889)7月5日刊『百花園』には、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の噺が「思案の外幇間ほかたいこ当込あてこみ」の題で載っています。明治初年の吉原と柳橋が舞台。幇間は文仲ぶんちゅう、芸妓はお松。とりとめないただの滑稽噺の印象です。

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)が、円遊流の滑稽噺としてだけで演じられてきたものに、幇間一八の悲哀や、お梅の性格描写などを付け加えて、十八番に仕上げました。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)もよく演じました。

こちらは、お梅とのやりとりを省いて、だんなに話す形にし、いじめのあざとい部分も省略。柳橋から帰る途中で、蒲鉾かまぼこをかじりながらさいこどん節口三味線くちじゃみせんで浮かれるなど、全体的に滑稽味を強くして特色を出しています。

いま、両者を聴き比べてみても、両者甲乙つけがたいところです。私(高田)は志ん生版が好みですがね。

以前、美濃部美津子さんにうかがったところでは、「文楽さんはお座敷に毎晩のように呼ばれて、ご本人もいやではなかったようですけど、うちのおとうさん(志ん生)はお座敷がいやであんまり出なかったんです」とのことでした。「つるつる」の芸風の違いは、そんなところから両者、醸成されていったのではないでしょうか。場数の違いです。

実録「樋ィさん」

文楽が得意とするこの噺や「愛宕山」に登場するだんなは、れっきとした実在の人物です。

八代目桂文楽の『芸談あばらかべっそん』(青蛙房、1957→ちくま文庫)によれば、樋ィさんの本名は樋口由恵ひぐちよしえといい、山梨県会議員の息子で、運送業(川崎陸送)で財をなした人です。現在、川崎陸送の本社は新橋にあります。

文楽と知り合ったのは、関東大震災の直後だそうです。

若いころから道楽をし尽くした粋人すいじんで、文楽の芸に惚れこみ、文楽が座敷に来ないと大暴れして芸者をひっぱたくほどわがままな反面、取り巻きの幇間や芸者、芸人には、思いやりの深い人でもあったとか。

「つるつる」の一八を始め、文楽の噺に出てくる幇間などは、すべて当時、樋口氏がひいきにしていた連中がモデルで、この噺の中のいじめ方、からみ方も実際そのままだったようです。

柳橋の花柳界

安永年間(1772-81)に船宿を中心にして起こりました。

実際の中心は現在の両国西詰にしづめ付近で、天保末年に改革でつぶされた新橋の芸者をリクルートした結果、最盛期を迎えました。

明治初年には芸者600人を数えたといいますが、盛り場の格としては、深川(辰巳)よりワンランク下とみなされました。

映画『流れる』(幸田文原作、成瀬巳喜男監督、1952年)は、敗戦直後、時代の波とともにたそがれゆく柳橋の姿を、リアルな視点で描写しています。

井戸替え

井戸浚い、さらし井戸とも。

夏季に感染症予防のために、一年に一度、井戸水を全部汲みだして中を掃除することです。年中行事でした。

大家の陣頭指揮、長屋総出で行います。

専門業者の井戸屋が請け負うこともあります。

いずれにしても、ふんどし一丁で縄をつたって井戸底に下りる、一日がかりの危険な作業でした。

とはいえ、江戸は井戸のある長屋はかなり限定的。どこの長屋にあったわけでもないのです。

川向こうの深川や本所にはありません。

掘っても海水ばかりが出てきてしまうからです。

そこらへんの人々は水屋から水を買っていました。

本所の長屋には井戸はなかったのです。

井戸替えは深さを横へ見せるなり 横へ引っ張られる綱の長さで井戸の深さがわかるのだそうです。

総じて、川向こうの水事情は、上水道の恩恵ゆたかな神田や日本橋あたりの下町とは、えらい違いでした。



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ひものばこ【干物箱】落語演目

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【どんな?】

声色が天下一品の善公。
若だんなの身代わりに。
おやじを最初はだませたが。

別題:大原女 作生 吹き替え息子(上方) 

【あらすじ】

銀之助は、遊び好きの若だんな。

外出を親父に禁止されている。

「湯へ行く」と偽り、貸本屋の善公の長屋へ。

借金漬けの善公、声色こわいろは天下一品。

亀清楼の宴会で銀之助の声色をしたら大ウケだった。

厠から戻った銀之助の親父が「家で留守番していろというのに、またてめえ来やがって」と、怒りだしたほどだ。

その一件を思い出した若だんな、自分が花魁に会っている間、善公に家での身代わりを頼む。

善公は羽織一枚と十円の報酬で引き受けた。

「お父っつぁん、ただいま帰りました。おやすみなさい」
と善公、うまく二階に上がりはしたが、
「今朝、お向こうの尾張屋からもらった北海道の干物は何の干物だった」
との父親の質問には
「お魚の干物です」
「青物の干物があるかい。どこに入れといた」
には
「干物箱」
と、しどろもどろ。

「干物箱? どんな箱だい」
「これは困った。羽織一枚と十円ぐらいじゃ割が合わねえ。今ごろ若だんなは芸者、幇間とばか騒ぎかよ」
などと長い独り言。

「変な声を出しやがって」
と、いよいよ親父が二階に上がってしまい、善公であることがばれる。

そこへ、忘れ物を取りに戻ってきた若だんな。

「この罰当たりめ。どこォ、のそのそ歩いてやがる」

親父のどなり声を聞いて
「はっはァ、善公は器用だ。親父そっくりだ」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

亀清楼  【RIZAP COOK】

安政元年(1854)創業にして現在も台東区柳橋に健在のこの店こそ、日本の近代史の裏側を見つめてきた貴重な老舗でしょう。

伊藤博文はじめ、政府高官が柳橋花柳界とともに贔屓にしたことで知られる「亀清楼」。

150年以上にもわたり、その奥座敷は歴史を左右した談合が何度も行われてきた密会場です。森鷗外の「青年」にも登場します。

ルーツは上方  【RIZAP COOK】

原話は古く、延享4年(1747)京都板の笑話集『軽口花咲顔』の「物まねと入れ替り」で、筋は現行の噺とほぼ同じです。

オチらしいオチはなく、身代わりを頼まれた悪友が親父に踏み込まれ、「こは不調法」と言って逃げた、というだけです。

別題としては上方落語版で使われる「吹き替え息子」が一般的です。

「大原女」「作生」とも呼ばれています。

「大原女」は、東京で五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がやった演出に由来するものです。

「作生」とは禅問答での「作麼生そもさん」のことで、禅語で尋ねることば。

長老の禅師ぜんじが若い雲水うんすいに「さあどうだ」「いかに」と矢継ぎ早に質問する時に使うわけです。

畳みかけるようなおやじの「作麼生」に、善公が苦し紛れに「説破せっぱ」しようとしているさまを、禅問答に見立てているわけです。しゃれてますね。

鼻の円遊から文楽、志ん生へ  【RIZAP COOK】

明治期の東京では、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が独特のくすぐりを入れごと満載で改作し、十八番にしていました。

明治22年(1889)5月20日刊『百花園』掲載の円遊の速記「乾物箱」では、若だんなは金之助、身代わりになるのは取り巻きのお幇間医者竹庵となっています。

昭和期には八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がともに好んで演じました。ここでのあらすじは、よりスタンダードな文楽版を参考にしています。

志ん生のやり方を改めて。

文楽のものとはやや趣を違えています。

若だんなが親父の代理で出席した俳諧の運座(出席者が俳句を作り秀句を互選するサークルで、19世紀初頭に一般化)で出た、「大原女も 今朝新玉の 裾長し」の句を、親父と身代わり(善公)とのやり取りに使っています。

親父が若だんな宛の花魁の手紙を読み、自分の悪口が書いてあるのを見つけ、怒って二階へ上がるというやり方も。

【語の読みと注】
作生 さくなま 要は「作麼生」の意味
大原女 おはらめ
新玉 あらたま



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おしのつり【唖の釣り】落語演目



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【どんな?】

もう聴けない噺です。
物語の底力に魅力横溢なので、
こちらで笑ってください。

【あらすじ】

ばかの与太郎に、釣りをする奴はばかと言われた七兵衛、思わずむっとして、殺生禁断せっしょうきんだん不忍池しのばずのいけで鯉を密猟し、売りさばいてもうけていることをばらしてしまう。

弱みを握られ、その夜、与太郎を連れて「仕事」に行く羽目に。

そこで七兵衛、
「見張りの役人に見つかったら、どうせ4発はぶたれるから、出る涙を利用し『長の患いの両親に、精のつく鯉を食べさせたいが金がなく、悪いこととは知りながら孝行のため釣りました。親の喜ぶ顔さえ見れば名乗って出るつもりでした』と泣き落とせば、孝行奨励はお上の方針、見逃してくれる」
と知恵をつける。

ところが与太郎、あまりに簡単に釣れたので大はしゃぎ。

案の定、捕まって10発も余計にぶたれたが、教えられた泣き落としがなんとか効き、お目こぼしでほうほうの体で逃げていく。

一方、七兵衛、池の反対側でせっかくこっそり釣っていたのに、与太郎のとばっちりで見つかり、これまたポカポカポカ。

恐怖と痛さで腰が抜け、ついでにあごも外れてしまう。

とっさにこれを利用して、アーウーアーウーと身振り手振りを交えて大熱演。

役人、
「口がきけない奴ではしかたがない」
と、これまためでたく釈放。

許してつかわす、と言われて思わず
「ありがたいッ」

【しりたい】

これも上方発祥

口の不自由な者が最後に口を利くというオチの部分の原話はかなり古く、京都辻ばなしの祖とされる初代露の五郎兵衛(1643-1703)が元禄11年(1698)に刊行した『露新軽口つゆしんかるくちばなし』中の笑話「又言ひさうなもの」です。

この人は、日蓮宗の談義僧だんぎそう(仏教の教えをわかりやすく語る僧)の出身でした。

おしゃべりが得意だったわけです。

上方落語「唖の魚釣り」として細部が整えられ、東京には八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)に教わったものを移しました。

場所は、大阪では天王寺の池とし、東京では正蔵あたりは寛永寺の池としていますが、具体的には言わないのが一般的のようです。

正蔵は、大阪で甚兵衛といっている主人公の名を七兵衛と変えましたが、これは身振り手振りで名前が出やすいように、という配慮なんだそうです。

殺生禁断

江戸時代、寺社の池はどこも仏教の殺生戒せっしょうかいにより、殺生禁断が寺社奉行より申し渡されていましたが、上野の近辺は寛永寺の将軍家御霊屋みたまやがあるため、不忍池では禁忌が特に厳しく徹底されていたわけです。

下手をすれば密漁者は死罪に処さなければならないので、番人もなるべく未遂で済まそうと警戒怠りなかったのでしょう。

蛇足ですが、松竹新喜劇の人気演目『浪花の鯉の物語』(平戸敬二作)は、やはり狩猟禁止の大坂・厳島神社の鯉の密漁騒動をめぐる人情喜劇で、あるいは落語になんらかのヒントを得ているのかもしれません。

オチが同じ「ひねりや」

正蔵も芸談で触れていますが、今はもうやり手のいない、古い江戸落語「ひねりや」はオチが「唖の釣り」と同じで、明治33年(1900)の初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909)の速記が残っています。

円左は円朝の弟子で、明治33年は円朝の没年にあたります。

あらすじは、町内一のひねり屋(=変わり者、あまのじゃく)捻屋素根右衛門ひねりやすねえもんが、沢庵石たくあんいし注連縄しめなわを張って拝んだ結果、素根吉すねきちという男の子を授かります。

この子が成長するとひきこもりになり、本ばかり読んでいるので、親父おやじが「明烏あけがらす」よろしく、道楽をしないと勘当だと脅すので、しぶしぶ大八車で吉原へ。

これが親父まさりのひねくれで、さんざん妙なものを注文したあげく、目が三つあるような変わった花魁おいらんを出してくれたら、ご祝儀しゅうぎに二十両、花魁には百両はずむと言い出したので、欲にかられた帳場では目は不自由ながら耳は聞こえるという女郎を「急造」して座敷に出します。

にわか花魁、百両欲しさに目をむいて身振り手振りで大奮闘。ムームー言っているうち、女の名前を「権兵衛」と聞き違えた素根吉若だんな、喜んで百両出すと、女は感激のあまり「ああら、ちょいと、ありがとう」「おや、口をきいた」。

すたれさせるにはもったいないエスプリの利いた噺です。

時代の趨勢、「唖の釣り」同様まったく演じられません。

「唖の釣り」はもはや無理だとしても、「ひねりや」は工夫次第で復活できるかもしれません。



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おしちのじゅう【お七の十】落語演目



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【どんな?】

「お七」に似ているのですが、
ぜんぜん違う噺。
ただただばかばかしいだけ。
いいですねえ、そういうの。

別題:お七の幽霊(上方)

あらすじ

本郷の八百屋の娘お七。

駒込吉祥院の寺小姓吉三といい仲になり、離ればなれになりたくないばっかりに自宅に放火し、鈴が森で火あぶりに。

それを聞いた吉三は悲しみ、生きていてもしかたがないと、吾妻橋から身を投げてお七の後を追い、地獄へ。

そこで巡り合った二人。

「そこにいるのはお七か」
「吉三さん、会いたかった」
と抱き合ったとたんに、ジュウッという音。

お七が火で死んで、吉三が水で死んだから、火に水が掛けられてジュウ。女が七で男が三だから、合わせて十。

そのうちに、お七の亡霊が毎晩鈴が森に出没するというので、世間の評判になった。

たまたま、ある夜、通りかかった侍、いきなり幽霊に出くわして、
「うらめしい」
とやられたので怒り、
「おまえに恨みを受けるいわれはない」
とお七の幽霊の一方の手と一方の足を斬り落とした。

お七が一本足で逃げだすので
「その方、一本足でいずこへ参る」
「片足(あたし)ゃ、本郷へ行くわいな」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

しりたい

悲劇のお七伝説 

史実・伝説ともに諸説入り乱れています。

浄瑠璃・歌舞伎などで一般に語られているのは、お七は駒込片町の八百屋久兵衛の娘で、絶世の美女。

数え十六歳の天和元年(1681)、火事で自宅が焼け、駒込吉祥院(文京区本駒込三丁目)に一家で仮住まいしている時、そこの寺小姓吉三郎と恋仲になります。

翌年夏、家の新築が成って吉三郎(吉三)と離れ離れになるのを悲しみ、また家が焼ければ寺に戻れると思い詰め、その年の暮れ、ついに自宅に放火。捕らえられて天和3年(1683)旧暦3月29日、鈴が森で火刑になったというものですが……。

実際は、お七の一家は天和2年(1682)2月の本郷丸山の火事で焼け出され、菩提寺の本郷浄心寺坂(文京区向丘一丁目)の円乗寺に寄宿、そこに、家督相続のごたごたからかくまわれていた、神田お玉ヶ池の旗本のせがれ小堀左門と恋仲になったというのが、そもそもの発端のようです。

「江戸のジャンヌ」はバカ正直

実録の吉三というのは恋人ではなく、寺の湯灌場買い、死人の着物を買う商売。一説に地回りのヤクザともいわれ、火事場泥棒が目的でお七に近づき、放火をそそのかした張本人とされます。

一説には、お七と円乗寺住職その人とのスキャンダルも絡んでいるというので、ことはややこしくなります。

お七の出生年、家のあった場所、父親の名前から恋人の名前、出自まで全て複数の説があり、真相は闇の中。

お七の起こした火事が天和2年(1682)12月28日で、本郷から川向こうの本所一体まで焼いた大火になったため、若年とはいえ、事件当時数え十七、(寛文6=1666年丙午生まれ)、情状酌量の余地なく、火盗改め中山勘解由の裁きで火刑となったというのは確かなようです。

これも風説では勘解由が情けをかけ、白州で「そちは(刑事責任免除の)十四であろうな」と何度も問いただしたのに、頭がクリスマスのお七は意味を察せず、「いいえ、あたいは十五(または十六)です」と言い張ったため、結局かばいきれなくなり、あえなく火あぶりになった、というのですが、年齢も含め、真偽は不明です。

文芸、芸能とお七事件

お七の一件は、年端もゆかない早熟な美少女が恋に陥って放火、丸焼きにされるというセンセーショナルな事件だったため、井原西鶴が「好色五人女」で小説化したのを端緒に、歌舞伎、浄瑠璃、戯作などあらゆるジャンルで取り上げられました。

特に浄瑠璃では、処刑後一世紀近くを経た、安永2年(1773)初演の菅専助作「伊達娘恋緋鹿子」が有名です。

その中の、お七が火の見櫓に登って火事告知の太鼓を打ち、町の木戸を開けさせて吉三に逢いに行くシーンは歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」に脚色され、四代目岩井半四郎が大評判を取りました。

お七の恋の一途さを描いた島村洋子の好短編「八百屋お七異聞」があります。岡本綺堂の怪異掌編「夢のお七」は、上野の戦いで敗れ、落武者となった彰義隊士が、夢にくりかえし現れたお七の霊告によって危うく命を永らえるという奇譚です。

落語では、「お七」「お七の十」ほか「強情灸」「神道の茶碗」「本堂建立」でも取り上げられています。

お七の古跡

舞台の寺もいくつかが本家争いをしており、そのため各地に供養塔が残っています。

代表的なもので、駒込吉祥院の比翼塚、円乗寺の供養塔とお七延命地蔵、処刑の地・鈴が森に近い密巌院(大田区大森三丁目)のお七地蔵などが、今なお残っています。

演者など

落語としての原話は不詳です。戦後、「恋の山手線」で一世を風靡した先代柳亭痴楽が数少ない古典の持ちネタとして得意にしていましたが、残念ながら後継者もありません。

【語の読みと注】
伊達娘恋緋鹿子 だてむすめこいのひがのこ

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おしち【お七】落語演目

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【どんな?】

あの与太郎も結婚して
子供もできました。
八五郎と一騎打ちに。

別題:お産見舞い 火の用心

あらすじ

縁起かつぎの与太郎。

今度子供が生まれてめでたいので、どうかして縁起のいいことを聞きたいと考えている。

そこへ現れた兄弟分の八五郎。

来るなり、
「おめえの家は陰気で湯灌場にいるようだ、オレも伯父貴の葬式帰りだから、死人が出たのならいっしょに骨揚げしてやろう」
だのと、縁起の悪いことばかり並べる。

子供が生まれたと聞くと、赤ん坊の顔を見て
「小せえ餓鬼だ。これは今にも息を引き取るな」

「戒名はなんとつけた」
と聞くから、
「お初だ」
と言うと、
「こいつは今に、徳兵衛という仕立屋と心中する」
というご託宣。

「あちらからお初を嫁にもらいたいと言っても、てめえは一人娘だからやりゃしめえ。向こうも一人息子だから婿にはやれない。お互い夫婦になれないならと、『覚悟はよいか』『南無阿弥陀仏』土左衛門が浮き上がる」

言いたい放題言って、帰ってしまう。

シャクでならないのが、おかみさん。

「あいつのおかみさんも来月臨月だから、生まれたら、行って敵討ちをしておやり」
と亭主をけしかける。

さて。

いよいよ八公のところも生まれたと聞いて、与太郎、勇んで乗り込む。

「よく来た。おまえは伯父さんの葬式帰りで、家が陰気で、流しが湯灌場で、末期の水をピシャピシャのんでると言いてえんだろ」

言いたいことを片っ端から言われてしまう。

それでも子供を見て
「これは今に息を」
「引き取った方がいいや。踏みつぶしちまおうかと思ったんだ」
「名前はお初だな」
「うんにゃ、お七だ」

「お初徳兵衛」なら心中とすんなりいくが、「お七徳兵衛」ではなんだか変。

空振りして帰ると、かみさんが、
「お七ならほかにやっつけようがあるから、もう一度行っといで」
と知恵を授ける。

「昔、本郷二丁目の八百屋の娘お七は、小姓の吉三と不義をして、娘心の一筋に、火をつけたらあの人に会えるかと家に放火して、釜屋武兵衛に訴人され、とうとう江戸市中引き廻しの上火あぶりになった。おまえの娘も火刑になる、と言っておやり」

「今度こそ」
と引き返した与太郎、八公に
「昔、本郷で八百屋で火事で、娘がお七だ。お七がアワくって、こしょうをなめて、武兵衛の釜ァ破って逃げ出して、お茶の水へ落っこってオマワリにとっ捕まった」
とやると
「そうじゃあるめえ。昔、本郷二丁目の八百屋お七は、小姓の吉三と不義をして、娘心の一筋に、火をつけたらあの人に会えるかと家に放火して、釜屋武兵衛に訴人され、とうとう江戸市中引き廻しの上火あぶり。おまえの娘に火刑になるてえんだろう」
「うーん、もう女房に聞きやがったな」

底本:初代三遊亭円遊

★auひかり★

しりたい

円生の持ちネタ

原話は、寛延4年(1751=宝暦元)刊の笑話本『軽口浮瓢箪』中の「名の仕返し」。

これは、男達の親分の息子の元服式に別のなわばりの親分が祝いに訪れ、息子が庄兵衛と改名すると知ると、「それはいい名だ。昔、獄門になった大泥棒、日本左衛門(本名、浜嶋庄兵衛)にあやかろうというのだな」と、嫌味を言って帰ります。

おやじは腹を立て、「いつか仕返しをしてやろう」と思ううち、その親分に女の子が生まれと聞いて、さっそく出かけていき、名を聞くとお七。

「なるほどいい名だが、火の用心をなさいよ」と、嫌味を言い返して引き上げたというお話。

天和3年(1683)、自宅放火のとがで、数え十七(一説に十六)で火刑になった本郷の八百屋の娘お七の伝説を踏まえ、パロディー化したものの一つです。

現存する最古の速記は、明治23年(1890)の「百花園」に連載された初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のものです。

その後、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)、五代目三升家小勝(加藤金之助、1858-1939)らが大正から昭和初期まで高座に掛け、その後途絶えていたのを、先の大戦後には六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が復活させました。

円生の没後、後継者はありません。

円生のオチは、「火をつけたらどうしたというんだ」「だから火の用心に気をつけねえ」というもので、ここから「火の用心」の別題があります。

ほかに「お産見舞い」とも呼ばれます。別話「お七の十」の別題も「お七」というので、それと区別するためでもあったでしょう。

落語、歌舞伎、お七伝説

お七伝説は、歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」に取り入れられるなど、歌舞伎ではポピュラーな題材です。

落語でも「強情灸」のオチに使われるほか、マクラ噺で「もぐら泥」「七段目」などにも使われます。

「本堂建立」では、托鉢坊主が髪結いで、自分は実はお七の恋人吉三の後身だとヨタ話をします。

釜屋武兵衛

噺の中に出る「釜屋武兵衛」は、芝居や浄瑠璃でお七に横恋慕する人物です。

お七伝説をパロディー化した河竹黙阿弥の歌舞伎世話狂言「三人吉三」でも、悪役として登場します。

湯灌場

八五郎が嫌がらせを並べ立てる場面に登場する「湯灌場」。

現在でも「湯灌」といって、納棺や葬式の前に、遺体を湯で洗い清める風習が広く残っています。

江戸時代は、地主や家持ちは自宅で、借家人は納棺して寺に運び、墓地の一隅の湯灌場で行いました。

1坪程度の空間でした。地主や家持ちでない者は民家で湯灌することがご法度でした。湯灌場を詠んだ川柳です。

湯灌場の きわなはみんな 竹になり   十二9

湯灌場とは死者の身体を粗い清める場所。

墓場にもあったそうで、墓場はたいてい竹藪の中にあるもので、そこらへんの筍は、誰も気味悪がって取らないから、竹にせいちょうしてしまう、という滑稽な詠みです。

湯灌場買い

江戸時代には「湯灌場買い」と呼ばれる業者がいました。

湯灌場で死者から脱がせた衣服を買い取る商売です。古着屋です。死者には経帷子を着せる風習でした。

歌舞伎では、黙阿弥作「湯灌場吉三」の主人公がこの湯灌場買いをなりわいにしています。

「真景累ケ淵」の「聖天山」に湯灌場が描写され、「ちきり伊勢屋」では若だんなが、生き弔い(生前葬)で湯灌の代わりに風呂に入ります。

「こんにゃく問答」でも「湯灌場踊り」の話が出ますが、実態は不明です。

経帷子

経帷子とは、死者に着せる着物をいいます。

白麻などでつくり、その白地に真言、名号、題目などを書いて死者を冥土に送るものです。ですから、仏教での葬式で行われるものです。

きょうえ、寿衣とも。

縁起かつぎ

この噺では、ゲンかつぎの人間にわざと縁起の悪いことを並べて嫌がらせするくだりが中心です。

こうしたモチーフは、ほかに「かつぎや」「しの字ぎらい」「けんげしゃ茶屋」(上方)などがあります。

よくある都会のデカダン趣味、偽悪趣味のの一種でしょう。

やられる人間もけっこう楽しんでいるわけです。

こうしたことにムキになって怒ると、シャレのわからないヤボ天としてよけいばかにされ、いじめられるわけです。

土左衛門

ドゼエムともいいます。水死体のこと。

享保年間の関取、成瀬川土左衛門の顔色が悪く、水死人にそっくりだったことからとも、肥った人間を称した「どぶつ」の変化ともいわれます。

お初徳兵衛

近松門左衛門作の人形浄瑠璃「曽根崎心中」(元禄16=1703年5月、大坂竹本座初演)のカップル。

大坂内本町の醤油屋の手代と、北新地「天満屋」抱えの芸妓(芝居では遊女)で、同年4月7日に梅田堤(同・曽根崎の森)で心中したものです。

落語でも「船徳」のもととなった同題の人情噺があり、五代目古今亭志ん生が好んで演じました。

【語の読みと注】
湯灌場 ゆかんば
伯父貴 おじき
骨揚げ こつあげ:火葬にした死者の遺骨を拾い上げること。灰よせ、骨拾い
餓鬼 がき
戒名 かいみょう
ご託宣 ごたくせん
土左衛門 どざえもん
小姓 こしょう
釜屋武兵衛 かやまぶへえ
市中引き廻し しじゅうひきまわし
軽口浮瓢箪 かるくちうかれひょうたん
男達 おとこだて:江戸初期の侠客
元服 げんぷく:成人式
獄門 ごくもん
京鹿子娘道成寺 きょうかのこむすめどうじょうじ
河竹黙阿弥 かわたけもくあみ
三人吉三 さんにんきちさ
経帷子 きょうかたびら:死者に着せる着物
湯灌場買い ゆかんばがい:死者の着物を買い取る古着屋
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
生き弔い いきとむらい:生前葬
聖天山 しょうてんやま
成瀬川土左衛門 なるせがわどざえもん
お初徳兵衛 おはつとくべえ
曾根崎心中 そねざきしんじゅう

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おけちみゃく【お血脈】落語演目



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【どんな?】

善光寺で「血脈の御印」をもらえば極楽に行ける。
その結果、地獄は閑古鳥状態。
地獄の起死回生、御印盗みに石川五右衛門を。
五右衛門は善光寺に乗り込み、御印を見つけた。
会話なし。噺家が語り進めていく地噺。

別題:血脈 骨寄せ(上方) 善光寺骨寄せ(上方)

【あらすじ】

信濃の善光寺で、お血脈の御印というのを売り出した。

これは、百文出して額に印を押してもらえば、どんな罪を犯しても極楽往生間違いなしという、ありがたい代物。

なにしろ、たった百文出せば、人を何万人絞め殺そうが罪業消滅というのだから、世界中から人が押しかけ、ハンコ一つで一人残らず極楽へ行ってしまい、しまいには地獄へ来るものが一人もなくなった。

おかげで地獄では不景気風が吹き荒れ、浄玻璃の鏡などの貴重品はおろか、鬼の金棒に至るまですべて供出させ、シャバの骨董屋に売っぱらってしまうありさま。

赤鬼も青鬼も栄養失調で餓生(?)寸前。

虎の皮のフンドシまで売りとばし、前を隠してフラフラと血の池をさまよっている。

元締めの閻魔大王も、このままでは失脚必至とあって、幹部を集めて対策会議。

部下の見る目と嗅ぐ鼻(ともに探査係)が、こうなれば誰か腕のいい大泥棒を雇い、元凶の、例のお血脈を盗み出すほかないと提案し、全会一致でそれに決まった。

問題は泥棒の人選で、ありとあらゆる大泥棒のリストをあさったが、いずれも帯に短したすきに長しで、結局、最後は人格力量抜群のご存じ、石川五右衛門と決定。

さて五右衛門、地獄の釜の中で都々逸どどいつを三十六曲歌ってのぼせているところ。

大王からのお召しとあって、シャバにいたころそのままに、黒の三枚小袖、朱鞘の大小、素網を着て、重ね草鞋、月代を森のごとくに生やし、六方を踏みながらノソリノソリと御前へ。

「……これこれしかじかだが、血脈の印を盗み出せるのはその方以外になし。やってのけたら重役にしてやる」
「ハハー、いとやすきことにござりまする」

というわけで、久しぶりにシャバに舞い戻った五右衛門、さすがに手慣れたもので、昼間は善光寺へ参詣するように見せかけて入り込み、ようすを探った上で、夜中に奥殿に忍び入って血脈を探したが、なかなか見当たらない。

そのうち立派な箱が見つかったので、中を改めるとまさしくお血脈の印。

見つかったらさっさと地獄へ持って帰ればいいものを、この泥棒、芝居気があるから、
「ありがてえ、かっちけねえ。まんまと首尾しゅびよく善光寺の、奥殿おくどのへ忍び込み奪い取ったるお血脈の印。これせえあれば大願成就」
と押しいただいて、そのままスーッと極楽へ。

底本:四代目橘家円蔵、六代目三遊亭円生

【しりたい】

善光寺の伝承に由来

はっきりした原話は不明ですが、信濃の善光寺にまつわる縁起・伝承が起源とみられます。

四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の明治44年(1911)の速記が残っています。

その円蔵の演出を踏襲して、戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が得意にしました。

円蔵、円生ともにマクラに釈迦の逸話と善光寺の由来を滑稽化して入れています。

上方では、芝居の「骨寄せの岩藤」の趣向を取り入れ、五右衛門のバラバラになった骨を集めて蘇生させるというやり方なので「善光寺骨寄せ」「骨寄せ」の題でも演じます。

お血脈

おけちみゃく。

六代目円生が生前、善光寺に参詣していただいてきたと語っていました。

それによると、上書きに「信州善光寺、融通念仏血脈譜、別当大勧進」とあり、裏は中央に「浄業者」、脇に「念佛弟子、日課、百遍」、紙包みの中には半紙一枚に、中央に「良忍上人直授元祖聖應大師」、以下、多数の大僧正、上人、阿闍梨(高位の僧侶)の名が書きつらねてある、とのこと。

「血脈」とは、仏教で師匠から弟子に伝えられる戒律や系譜書です。

それを伝えることを「血脈相承」といい、在家の信者にその儀式を省略して護符のように分け与えたのが「お血脈」の始まりとか。

のちに札になりましたが、かつては額に直接押印していました。

ただしタダではなく、浄財百疋(一疋=二十五文)が必要です。

たった二分ちょっとで極楽往生できれば、安いものです。

善光寺

長野市元善光寺町にあります。

無宗派の単立寺院。天台宗と浄土宗とで運営管理されている、珍しい寺です。

本尊は三国伝来一光三尊阿弥陀如来。

天竺(=インド)から閻浮檀金という身の丈一寸八分の阿弥陀像が渡来、それを「仏敵」の物部守屋が難波ヶ池に簀巻きにして放り込み、「処刑」。

それを見つけた本多善光が、仏像を信州に勧請(神仏の分霊を迎える)して寺ができた、というのが沿革です。

本多善光が実在したかどうか。今のところ、可能性は薄いそうです。

石川五右衛門

伝説上の人物として、長く小説、芝居、落語などさまざまなジャンルで取り上げられてきました。

当人が主人公として直接登場するものは意外に少なく、落語ではこの「お血脈」でしょう。

ほかに、歌舞伎では「絶景かな……」で有名な「楼門の場」を含む「釜渕双級巴」、小説では古くは司馬遼太郎の「梟の城」、平成になってからは赤木駿介の「石川五右衛門」、劇画ではケン月影の「秀吉に挑んだ男石川五右衛門」などが、主なところでしょうか。

地噺

じばなし。セリフがほとんどなく、演者の地の語りを中心に進める噺のこと。

その意味では講談に近いわけですが、あれほどエクセントリックではなく、淡々と語ります。

「あたま山」「西行」「紀州」など、歴史上の人物の逸話や民間伝承、寺社縁起などを題材にしたものが多く、江戸前落語特有のジャンルといえます。

短くても笑いが少なく、地味なものが多いので、飽きずに聴かせるには円熟した話芸が必要です。生半可な噺家にはこなせません。

そういう意味では、いまどきははやらないでしょう。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)などは、滋味あふれる地噺の名手で、その語り口は、晩年にはさながら高僧の説教のような趣があったものです。いささか眠くなりますが。



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おくびょうげんべえ【臆病源兵衛】落語演目

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【どんな?】

その昔「臆病」というものは病気だったのでしょうか? 

別題:浄行寺

【あらすじ】

「臆病源兵衛」とあだ名がつく男。

大変なこわがりで、日が暮れては戸を閉ざしてガタガタ一晩中震えているし、自分の家では夜は一人で便所にも行けない、というくらい。

退屈をもてあました近所のご隠居。

洒落心といじめ心があるので、ひとつ、この男をこっぴどく脅かしてやろうと、源兵衛の職人仲間の八五郎を抱き込み、一芝居たくらむ。

源兵衛、根は好色で、しかも独り身なので、まず隠居が嫁さんを世話してやると持ちかけた。

源兵衛が渋るのをむりやりに、夕方、自分の家に連れ込んだ。

幽霊が出そうだと、早くも震え出すのをなんとかなだめ、
「俺がここで見ていてやるから、水を汲んできてくれ」
と台所へ行かせる。

おっかなびっくり水瓶に近づくと、暗がりから八五郎の手がニューッ。

逆手に持った箒で顔をスーッとなでたからたまらず、
「ギャアーッ」

源兵衛、恐怖のあまり八五郎にむしゃぶりつき、金玉をギュッと握ったから、八五郎、目をまわした。

ところが隠居もさるもの。

少しもあわてず、これを利用して続編を考えつく。

化け物だと泣き騒ぐ源兵衛に
「ともあれ、おまえが八公を殺しちまったんだから、お上にバレりゃ、打ち首獄門だ。それがイヤなら死骸をつづらに押し込み、夜更けに高輪あたりの荒れ寺に捨ててこい」
と言う。

臆病も命には代えられない。

源兵衛、泣く泣く提灯を片手、念仏を唱えながら葛籠を背負って芝の古寺の前まで来ると、これ幸いとお荷物を軒下に放り棄て、あとは一目散。

そこへ通りかかった、品川遊廓帰りの三人組。

ふと葛籠に目を止めると、てっきり泥棒の遺留品と思い込み、欲にかられて開けてみると手がニョッキリ。

失神していた八五郎が「ウーン」と息を吹き返す。

三人、驚いたのなんの、悲鳴を上げて逃げ出した。

あたりは真っ暗闇。

八五郎は、すっかり自分が地獄へ来てしまったと思い込み、つづらからようよう這いだすと、幽霊のようにうろうろさまよい始める。

たまたま迷い込んだ寺の庭に蓮池があったので、
「ありがてえ、こりゃ極楽の蓮の花だ、ちょいと乗ってみよう」
と、さんざんに踏み散らかしたから、それを見つけた寺男はカンカン。

棒を持って追いかけてくる。

「ウワー、ありゃ鬼。やっぱり地獄か」

やっと逃げ出して裏道へ駆け込むと、そこにいたのは、なかなかいい女。

「姐さん、ここは地獄かい」
「冗談言っちゃいけないよ。表向きは銘酒屋なんだから」

底本:三代目柳家小さん

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【しりたい】

やり方 その1

原話はまったく不明で、別題は「浄行寺」。

これは、源兵衛が死骸を捨てていく、芝寺町の古寺の名から取ったものです。

明治大正期では、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)と二代目三遊亭金馬(碓井米吉、1868-1926、お盆屋の、碓井の)が得意にしました。

この金馬は俗に「お盆屋の金馬」。

柳家金語楼(1901-72、山下敬太郎)の師匠です。昭和の爆笑王、多彩な人でした。

続いて昭和に入ってからは、八代目桂文治(1883-1955、山路梅吉)が手掛けました。

あらすじでは、明治30年(1897)の三代目小さんの速記を参照しました。

二代目金馬のやり方は、後半が違っていて、葛籠が置き去りにされるのは浅草寺の境内、開ける二人は赤鬼と青鬼の扮装で脅かして金をせびる物乞いになっています。

逃げ込む先は付近の人家ですが、出てきたのが地獄のショウヅカの婆さん(奪衣婆)そっくりの奇怪な老婆。

八五郎は自分も白装束なので、てっきり死んだと思い込み、「ここは地獄ですか」と聞くと、「いいえ、だんな(娘)のおかげで極楽さ」というオチになります。

やり方 その2

つまり、娘が囲われ者で、母親まで楽をさせてもらっているという食い違いですが、どちらにしても初めに説明しておかないと、現在では通じません。

前半は、「お化け長屋」や「不動坊」のように、臆病者を脅かすおもしろ味がありますが、後半がこのように古色蒼然としているため、八代目文治以後はまったくすたれていたのを、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)が復活し、後者のオチで演じていました。

今度こそもう継承者はないだろうと思ったら、桃月庵白酒が2005年11月、落語研究会の高座で熱演。

こうした埋もれた噺が、意欲的な若手中堅によって次々に復活されるのは頼もしいかぎりです。

銘酒屋

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)なんかは、「めいしや」と言っているように聞こえます。

下町の人々はそう呼んでいたようです。

曖昧屋あいまいやともいい、ゴマカシのために申し訳程度に酒を置き、酌婦は娼婦も兼ねました。

日本人の好きなダブルスタンダードです。

ソープと言いながら売春しているという、アレ。

じつは誰でも知っていることながら、公には言わないという、アレです。

その伝にならえば。

銘酒屋は、「銘酒を売ります」という意味の「銘酒屋」の看板を掲げて飲み屋のふりをしながらも、私娼を抱えて売春する店のことです。

呑み屋ではなく、売春屋です。

明治から大正期、東京市を中心にありましたが、関東大震災(1923年)で、銘酒屋のほとんどが倒壊しました。

銘酒屋と同じ趣旨で私娼を置いたあやしげな店は、小料理屋、遊技場、新聞縦覧所、碁会所などにもあったそうです。

看板から見れば居酒屋のように見えても、世間が「銘酒屋=売春の店」と承知すれば、銘酒屋の中は魔窟となり、酒や肴は通り一遍の添え物となります。

震災前までは、浅草の十二階の下のあたりは銘酒屋ばかりだったそうです。

銘酒屋の始まりは矢場からです。

江戸後期から、浅草、芝、両国などで矢場(楊弓店)で接客した矢場女(矢取り女)が、ついでに売春もしたことで私娼となっていったのが、そもそもの始まりでした。

次第に、銘酒屋のほうがちゃぶ台、茶棚、長火鉢などを用意すれば成り立つことから安直となり、私娼窟の中心は、矢場から銘酒屋に移っていきました。

矢場がほぼ完全にすたれたのは、明治20年(1887)頃からです。

明治20年代から「銘酒屋」の看板が、東京市中で見るようになっていきました。

日清、日露の二つの戦争が、男たちの心身をささくれだたせて客にしたてさせ、戦争がきっかけで転げ落ちた女の受け皿となって、銘酒屋は機能しました。

浅草公園五区(奥山地区)、公園六区、浅草千束町あたりで増えていき、震災前までその繁栄をほしいまでにしました。

東京ではほかに、芝愛宕、芝神明前、日本橋馬喰町、小石川指ヶ谷などにもありました。

たとえば、小石川指ヶ谷。

明治4年(1871)、東京砲兵工廠(後楽園スタヂアム→東京ドーム)ができると、小石川区指ヶ谷(文京区白山)には工廠の工員を相手にした銘酒屋ができていきました。

当然、日清、日露の戦争を契機に、銘酒屋の街を形成していったものです。

昼は小銃をつくり、夜は短銃を撃つ。

樋口一葉は、指ヶ谷に隣接する丸山福山町(文京区白山一丁目、西片一丁目)に、亡くなるまで住みました。

「にごりえ」では、丸山福山町の銘酒屋の女、お力と客の源七の物語です。

震災後でも、東京が復興してモダン都市にさま変わりする昭和初期までは、銘酒屋の呼び方が残っていたようです。

銘酒屋は私娼窟ですから、先の大戦後は、十把一絡げに「青線」と称されていました。

さて。

銘酒屋を「地獄宿」、女を「ジゴク」「ジゴクムス」とも呼んだため、そこの女将が勘違いしたというのが、「臆病源兵衛」のオチです。

小さんのくすぐり

源兵衛が隠居に、ことが露見すれば死罪だと脅されて、
「キンタマぁ二つあるから、おまえさんと一つずつ握りつぶしたということに……」                  (三代目柳家小さん)

【語の読みと注】
箒 ほうき
葛籠 つづら
銘酒屋 めいしゅや

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さらやしき【皿屋敷】落語演目

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【どんな?】

播州、怪談で名高い皿屋敷。

そこは落語。なんでもパロディーにしちゃいますね。

別題:お菊の皿

【あらすじ】

播州赤穂城下の怪奇譚に、有名な皿屋敷というのがあった。

その昔、青山鉄山という藩士が、お女中のお菊という絶世の美女をわがものにしようと口説いたが、お菊は三平という夫のある身。

貞節な女なので、いかに主人の命とはいえ、どうしてもなびかない。

そこで鉄山、かわいさあまって憎さが百倍。

お菊が預かっていた家宝の皿十枚のうち、一枚をわざと隠し、客があるから皿を出して数えてみろと、言いつけた。

なにも知らないお菊、何度数え直しても九枚しかないので、真っ青になってぶるぶる震えるのを、鉄山はサディスティックにうち眺め、
「おのれ、憎っくき奴。家代々の重宝の皿を紛失なすとは、もはや勘弁相ならん、そちが盗んだに相違いない。きりきり白状いたせ」

さんざん責めさいなんだ挙げ句、手討ちにして死骸を井戸にドボーン。

「ざまあみゃあがれ」

それ以来、毎晩、井戸からお菊の亡霊が出て、恨めしそうな声で
「一枚、にまああい」
と、風邪を引いた歌右衛門のような不気味な声で九枚まで数え終わると
「ヒヒヒヒヒ」
と笑うから、鉄山は悪事の報いか、鬱が高じてとうとう悶死して家は絶えた、という。

今なお、その幽霊が出るという評判なので、退屈しのぎに見物に行こうという罰当たりな連中が続出し、毎晩井戸の周りは花見さながら、押すな押すなの大盛況。

ホットドッグ屋や焼きソバ屋、缶ビールの売り子まで出る始末。

いよいよ丑三ツ時、お菊が登場して、
「いちまーい、にまーい……」

数えはじめると、
「音羽屋ァ」
「お菊ちゃん、こっち向いて」
と、まあ、うるさいこと。

お菊もすっかりその気になり、常連には、
「まあ、だんな、その節はどうも」
と、あいきょうを振りまきながら、張り切って勤めるので、人気はいや増すばかり。

ところがある晩。

いつもの通り
「いちまあい、にいまああい」
と数えだしたはいいが、
「くまああい、じゅうまああい、じゅういちまあい」
……とうとう十八枚までいった。

「おいおい、お菊ちゃん。皿は九枚で終わりじゃねえのか?」
「明日休むから、その分数えとくのさ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

皿屋敷伝説

兵庫県・姫路ほか、各地に類話があります。

江戸のそれは、番町の青山主膳という旗本が、家宝の南京絵皿を腰元・お菊が誤って割ったので責めさいなみ、お菊が井戸に身を投げて死んだといわれるものです。

舞台化された現存最古の脚本は寛保元年(1741)7月、大坂・豊竹座で上演された、為永太郎兵衛・浅田一鳥ほか合作の人形浄瑠璃「播州皿屋敷」です。

歌舞伎の「皿屋敷」

歌舞伎では文政7年(1824)9月、大坂・嵐座初演の「播州皿屋敷」がもっとも有名です。

これはのち、文久3年(1863)6月市村座に河竹黙阿弥(吉村芳三郎、1816-93、当時は二世河竹新七)が「皿屋敷化粧姿視」として改作・脚色しました。

これは、播州・姫路の国家老・浅山鉄山がお家乗っ取りをたくらみ、下屋敷の宝物蔵から御家の重宝・唐絵の十枚揃いの皿のうち一枚を盗ませます。

お皿係りの腰元・お菊はその罪を着せられて鉄山の屋敷に連れ込まれ、かねてお菊に横恋慕している鉄山にくどかれますが、夫のある身なのでこれを拒否。

その上、主君毒殺の陰謀までお菊に知られたのでかわいさ余って憎さが百倍、激怒した鉄山がお菊を責めさいなんだ上、井戸でつるし斬りにしたため、のちにお菊の亡霊が皿を数えながら現れ、鉄山をとり殺すものです。

これに近代的解釈を加えた、岡本綺堂(岡本敬二、1872-1939)作で大正5年2月・本郷座初演の「番町皿屋敷」(→「厩火事」)もよく上演されます。

オチが効いたパロディー

皮肉で、捨てがたいオチを持つ佳作です。

口演記録はかなり古いようです。

文化年間(1804-18)に活躍した噺家の初代喜久亭寿暁きくていじゅぎょう(道具屋万吉→矢野治助、18世紀末-19世紀初、青陽舎)が書き留めた演題控え『滑稽集』(800題収載、1807-09)には、「さらやしき 明日休」とあります。

また、天保年間(1830-44)の笑話本「新板おとしばなし」中の「皿屋敷お菊が幽霊」などに、ほとんどそのままの類話があります。

落語としては上方ダネで、東京では六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)に教わったものを演じていました。

このあらすじは円生のものをテキストとしました。

九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)も得意で、現役では春風亭小朝の十八番です。

古くは、「明日はお盆で休みます」と落としていました。

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なりたこぞう【成田小僧】落語演目



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【どんな?】

今は廃れた明治の噺。
マセガキを「成田小僧」といったんだとか。

あらすじ

本郷春木町の塗り物屋、十一屋の小僧長松ちょうまつは、口から先に生まれたようなおしゃべり小僧。

父の代参で深川不動に参詣する若だんな江崎清三郎のお供。途中、深川の茶屋松本楼まつもとろうで昼食に。

それも、清三郎が長松の口車に乗ったためだ。

座敷で食事をしていると、芸者がかわやに来たのを長松が見つけ大騒ぎ。店の女に聞けば、山谷堀大和屋さんやぼりやまとや小千代こちよ幇間たいこもち正孝しょうこう花洲かしゅうといっしょに来ているとのこと。

長松は、幇間ともども呼んでしまう。しめて五十両。

清三郎は
「茶屋へ来たことさえおとっつぁんに知れたらどうしようかと思っているところだのに。私は勘当だ」
とビビるのを、長松は
「長男除きはできやしません。親子の縁の切れなくなったのは、王政ご一新のお上のありがたいところでゲス」
と平気のへいざ。

これが縁で、小千代と清三郎はいい仲に。

後日、吉原の幇間花洲の家に大和屋の女将おかみが訪れた。

小千代が清三郎にばか惚れなのに、近頃、清三郎の姿を見なくなった。

これが続いて、小千代がブラブラ病(恋わずらい)を患う始末。

ついては、花洲に見舞いに来てほしい。

そんな話を、女将は花洲に語って聞かせた。

花洲は、幇間仲間の船八せんぱちと連れ立ち、山谷堀の大和屋へ。

清三郎との思い出話に花が咲き、小千代の気も紛れる。

ところが、船八は
「若だんなは芸者を連れて逃げたそうです」
と無神経にもしゃべくった。

これを聞いた小千代は顔色を変えて、いきなり外の人力車に乗ってどこかへ走り去った。

花洲、船八、下働きのお梅、大和屋の女将が、次々と車に乗って小千代を追いかける。

話変わって、午後十時過ぎの吾妻橋あずまばし辺。

清三郎が失踪した日を命日に定め、大だんなが菩提寺の深川浄心寺ふかがわじょうしんじに長松を連れてお参りに行った帰り道。

清三郎には双子の妹がいた話などを大だんなが長松に語って聞かせているところに、女の身投げを長松が見つけて思い止まらせる。

女は、なんと小千代だった。

話しているうち、小千代こそが大だんなの娘、つまりは清三郎の双子の妹だということが明らかに。

小千代は
「それを聞きましては、なおさら生きてはいられません」
と、ふたたび飛び込みにかかるところ、店の番頭善兵衛が駆けつけた。

若だんなが外務省の役人とサンフランシスコにいる、という手紙が届いたとの知らせ。

一同はほっと安堵、胸をなでおろした。

大だんなが小千代に
「なぜにおまえは貞女ていじょかがみを立てる」
と言えば、小千代が
「元が塗り物屋の鏡台きょうだい(=兄弟)」

底本:初代三遊亭円遊、「百花園」明治22年5月10日



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しりたい

深川不動

深川不動は江東区富岡1丁目。成田山新勝寺の東京出張所です。

江戸時代には、日本橋坂本町や蔵前八幡境内に置かれていましたが、明治3年(1870)、現在地の永代寺境内の吉祥院内に移されました。

独立の不動堂が建ったのは明治14年(1881)です。演題の由来はここからです。

成田小僧の意味

当時、ませた子供を「成田小僧」と呼んでいましたが、それがこの噺からきたものかどうか。よくわかりません。

長松のませぶりを成田小僧に見立てて、物語の狂言回しにしようとしたのかもしれません。

本郷の人を深川不動に参詣させて「成田」を取り込んでいるわけです。

物語の重要な転換点では長松がいつも活躍するわけで、狂言回しどころか、やはり主人公なのかもしれません。

円遊の改作

幕末から明治初期にかけて、二代目春風亭柳枝(本名不詳、1822-74)が得意にしていたそうです。

二代目柳枝の芸風は陰気だったそうですから、この噺も元は暗かったことが推しはかられます。

清三郎と小千代がじつは双子の兄妹だったというあたり、幕末に流行した陰惨な因果噺の雰囲気が漂っています。

たとえば、河竹黙阿弥(吉村芳三郎、1816-93)の「三人吉三」なんかが好例ですね。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が、明治22年(1889)5月、23年(1890)11月と、2回に分けて速記を『百花園』に残しています。

陰気な因果噺だったのを、円遊が陽気なこっけい噺に改作しました。

この噺の大きな特徴はここにあります。

二代目柳枝がつくった陰気な噺を、当世人気の初代円遊が陽気な滑稽噺に化粧直しさせてしまった、という。

それでも、今では誰もやらない噺になってしまったのかもしれません。まったくすたれてしまっているのですが。

『落語大会』(松陽堂書店、明治33年12月刊)という落語集に「成田小僧」が「円朝口演」として載っているそうです(筆者未見)。

これを受けてか、角川書店版『三遊亭円朝全集』には「成田小僧」が円朝口演として載っています。

『落語大会』の本文は『百花園』1号(明治22年5月10日)のそれと一致するため、円遊の口演速記を円朝名義で収録したものではないか、というのが佐藤至子氏(東大)の見解です。

この見解のいきさつは、岩波書店版『円朝全集』第13巻に載っています。ちなみに、円遊は円朝の弟子です。

浄心寺

江東区深川平野町ひらのちょう2丁目。旧霊厳寺表門前町。

日蓮宗身延山派の名刹で、山号は法苑山。万治元年(1658)開山で、四代将軍家綱の乳母三沢局(浄心院)の菩提を弔うため創建されたものです。

浄心寺門前は、曲亭馬琴(滝沢興邦→解、1767-1848)の出生の地でもあります。馬琴は旗本松平信成家の用人、滝沢興義の五男。曲亭は『漢書』から、馬琴は『十訓抄』から取り、17歳には使っていました。

山谷堀

隅田川から今戸橋いまどばしを経て、山谷にいたる掘割ほりわり

江戸情緒の象徴のような名勝でした。一般には、吉原の入り口付近を指します。

松本楼

富岡八幡宮の鳥居内にあった料亭です。伊勢屋とともに二軒茶屋と称された名店でした。

深川の老舗は、ほかに、平清や小池などがありました。

本郷春木町

文京区本郷3丁目の内。元禄9年(1696)から町地となりました。

町名は、元和年間(1615-24)にこの地に滞在した、伊勢の御師春木太夫に由来します。

明治6年(1873)、同町内に「奥田座」が開場。明治9年(1776)に春木座、35年(1902)に本郷座と改称。

小芝居ながら、明治の名優団菊も出演した由緒ある劇場でしたが、昭和5年(1930)に廃場となりました。

家橘について

「百花園」の「成田小僧」には、長松が、若だんな(清三郎)のことを「家橘かきつに似てる」って絵草紙屋の娘さんが言ってましたよ、とおだてるくだりがあります。

ここで言う「家橘」とは、歌舞伎役者の「市村家橘」のこと。「百花園」が刊行された明治22年(1889)当時なら、九代目市村家橘のことでしょうか。

ややこしいことに、この人は十四代目市村羽左衛門(1848-93、九代目市村家橘)と同一人物。借金返済の事情があって、この時期は初代坂東家橘を名乗っていました。兄は五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903、音羽屋)で、この人も前名は八代目市村家橘の名乗りでした。

明治17年(1884)に初代坂東家橘を名乗ったのはいいのですが、その後、地方廻りばかりで東京にはしばらく戻ってきていません。

長松の口を通して、清三郎が家橘に似ていると言わせることは、そののち、清三郎が行方知れずになってしまう事態を、聴者に暗示させていたのでしょう。

ちなみに、十代目市村家橘は十五代目市村羽左衛門(市村録太郎、1874-1945)の前名でした。明治10~30年代、「家橘」の八代目、九代目、十代目が続いており、よい名としての通り名だったことがうかがえます。

初代坂東家橘=九代目市村家橘=十四代目市村羽左衛門

明治の料亭

この噺では深川の料理茶屋が出てきますが、幇間の花洲がはやりの店を並べ立てるくだりがあります。いずれも、隅田川沿いの老舗です。

以下に列挙してみましょう。

植半 向島木母寺 境内の植木屋が発端 芋、蜆など 「隅田川花御所染」にも登場 
八百松 向島水神森 森鴎外や小山内薫の作品などにも登場
亀清 柳橋 安政元年(1854)、亀屋清兵衛が万八楼を買い取って始めたとか 現存
川長 柳橋
常盤屋
柳光亭 柳橋
倉田屋
柏木 日本橋万町
花清
伊勢源
梅茶
八百善
松源
中村屋
生稲

語の読みと注】
御師 おんし:伊勢神宮でのみ「おんし」。他社では「おし」。御札を配る人。



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しんがん【心眼】落語演目

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【どんな?】

円朝の名作。
按摩さんが主人公。
気の利いた短編小説を読む心地よさです。

別題:心の眼

【あらすじ】

浅草馬道に住む、目が不自由な按摩の梅喜。

今日ははるばる横浜まで流しに行ったが、ろくに仕事がなかったと、しょんぼりと帰ってくる。

顔色が真っ青なので、恋女房のお竹が、なにかあったと勘づき、聞いてみると、梅喜はこらえ切れずに泣き出した。

両親を早く亡くした梅喜が、幼いころから育てた弟の金公に、大恩ある兄の自分が藁にもすがる思いで金を無心に行くと、こともあろうに目の不自由なのをあざけられた。

「『また食いつぶしに来やがった』と抜かしやがった。もう悔しくて口惜しくて、いっそあのちくしょうの喉笛に食らいついて……と思ったが、こんな不自由な体だから負けてしまうし、いっそ面当てに軒ででも首をくくって死んでしまおうと本気で考えたものの、親身になって心配してくれるおまえがさぞ力を落とすと思い、人間は一心になったらどんなことでもできるのだから、茅場町の薬師さまを信心して、たとえ片方だけでも目を開けていただこうと気を取り直し、横浜から歩いて帰ってきた」

お竹は懸命に慰めて、
「あたしも自分の寿命を縮めても、おまえさんの目が開くようにお願いするから」
となだめ、その夜は寝かせる。

翌日から、さっそく薬師如来に三七、二十一日の日参。

ちょうどその満願の日、目が開かないので梅喜が絶望して、
「いっそあたしを殺してくれ」
と叫んでいるところへ、得意先の上総屋のだんなが声をかける。

「おまえ、目が開いているじゃないか」
と言われてはっと気がつくと、なるほど、見える見える、なにもかもはっきりと目に映る。

さては夫婦の一念が通じたかと狂喜し、いちいち
「へえ、あれが人力車……あれが……」
と確かめながら、だんなについて浅草仲見世まで行く途中で、自分が男前であること、女房のお竹は人三化七の醜女だが、気だてのよい貞女であることをだんなから聞かされた梅喜、わが女房ながらそんなにひでえご面相かとがっかり。

そこでぱったり出くわしたのが、これもお得意の芸者、小春。

誘われるままに富士横丁の「釣堀」という待合に入り、杯をさしつさされつしているうち、小春が
「実は、ずっとおまえさんを思っていた」
と告白し、誘惑する。

すっかり有頂天になった梅喜、
「化け物面のお竹なんぞはすっぱり離縁して、おまえさんと一緒になる」
と怪気炎。

二人はしっぽり濡れ、いつしか一つ床に……。

そこへ、二人が待合に入ったという上総屋の知らせで、お竹が血相を変えて飛び込んでくる。

いきなり梅喜の胸ぐらをつかんで、
「こんちくしょう、この薄情野郎っ」
「しまった、勘弁してくれっ、おい、お竹、苦しいっ」

とたんに、はっと目が覚める。

「うなされてたけど、悪い夢でも見たのかい」
という優しいお竹の言葉に、梅喜我に返って、
「あああ、夢か。……おい、お竹、おらあもう信心はやめるぜ」
「なぜさ」
「目が見えねえてえなあ、妙なものだ。寝ているうちだけ、よォく見える……」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

円朝、晩年の作

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が、盲目の音曲師だった円丸の、横浜での体験談をもとにまとめあげたといわれます。

一説には円丸は門人で、三代目円生(嶋岡[野本]新兵衛、1839-81)から円朝門に移り、のち右多丸と改名した人ともいいますが、はっきりしません。

円朝の原作は、現行とは少し異なり、亭主の目が開くなら自分の目がつぶれてもいいと、ひそかに薬師に願掛けしていた女房、お竹の願いが聞き届けられ、梅喜は開眼するものの、お竹の目はつぶれます。梅喜と小春が富士下(浅草馬道の富士浅間神社の坂下)の「釣堀」という料亭にしけこんだと聞いて、お竹が女按摩に化けて乗り込み、さんざん恨みごとを並べたあげく、堀に身を投げ……、というところで梅喜の目が覚めます。

オチは「目が覚めたら何も見えない」という、後年の八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)のものとは正反対で、陳腐なものとなっています。

文楽の十八番

先の大戦後は、八代目桂文楽の、文字通りの独壇場でした。

文楽は、二代目談洲楼燕枝(町田銀次郎、1869-1935)から習ったこの噺を盲人のせつない心情をみごとに描ききった独自の人情ものとして磨き、その存命中はほかに誰も演じ手がないほどの極め付けでした。

現在出ている速記、音源とも、文楽のものばかりで、唯一古いものでは、円朝の原作をほぼ踏襲した初代三遊亭金馬(芳村忠次郎、1858-1923、→二代目三遊亭小円朝)の「心の眼」と題した明治32年(1899)の速記が残っていますが、これは円朝在世中のものです。

心眼

物事の真実を見抜く心の働きをいいます。

これはオチの「寝ているうちだけ……」に通じ、この場合は梅喜が、夢の中で眼の開いた自分が女の色香にうつつをぬかす姿の浅ましさを、目覚めてはっきり悟り、改めて妻の愛情の深さをかみしめたことを意味するのでしょう。

浄瑠璃や歌舞伎の「壷坂霊験記」に一脈通ずるものがあります。

茅場町の薬師

現在の中央区日本橋茅場町一丁目。

薬師如来は、別名、大医王仏、医王善逝とも呼ばれます。

病を癒して悟りに導くとされ、江戸では多田の薬師(墨田区東駒形一丁目の今の東江寺)とともに信仰を集めました。

眼病のほか、歯痛にも霊験あらたかということで、歯守薬師というのもあります。

人々は目に紅絹の布をあてて参詣し、文銭という、裏に文の字を鋳出した穴開き銭をめの字型に並べた額や、めの字を書いた絵馬を奉納して祈願しました。

【もっとしりたい】

三遊亭円朝の作といわれている。盲人の弟子円丸の体験に材を取ったのだそうだ。この噺を得意とした八代目桂文楽は、マクラにそんないわれを語っていた。話を広げていった果てに「なんだ夢か」で終わる。この手の構成は小説の新人賞ではもっとも嫌われる。創作の禁じ手である。明治32年(1899)にやった初代三遊亭金馬の速記を見ても、さほどのできでもない。文楽の「心眼」が秀逸なのは、梅喜とお竹との細やかな交情を前半で随所にたっぷり演じているからだ。それが十分でなければ、鼻白む伝助劇場で終わる。つまり、構成そのものができそこないではあっても、演じ方次第で客をうならせられるのが落語の魅力だ。落語研究会で入船亭扇辰がこの噺をやっていた。演技過多なのだろうか、盲人の所作がこなれていなかった。按摩をあまり見なくなったことと関係するのかもしれない。かつての日本社会には盲人を支えるシステムが存在していた。室町時代には「当道座」という幕府公認の職能特権集団があった。もとは「平家物語」を語る(平曲)琵琶法師が主体だった。江戸期には箏曲、三絃、針灸、按摩なども加わった。元締めとして、京の久我家が当たり、全国の盲人を支配した。公家が差配していたのだ。検校、別当、勾当、座頭、衆分という五階級の盲僧官の認定や管理をつかさどっていた。ところが、針灸にたけていた杉山和一という検校が五代将軍綱吉の病気を治してしまってから信を得て、元禄五年(1692)、本所一ツ目の屋敷に関東総録なる役所を置けるようになった。これは、関東八か国においてのみ、久我家ではなく杉山検校が盲人を統括するというもの。これも享保年間までのことだった。以降はまたも久我家に戻った。ただ、名目だけは残り、本所一ツ目弁天堂の琵琶会という催しは、明治期まで2月と6月に開かれていたという。座頭金というのがある。盲人は公に貸し金業が許可されていた。これも盲人の生活を支えるシステムだった。小口現金の短期貸付だから、いまの消費者金融のイメージだろう。盲人同士は横の連帯が強かったらしく、集団で旗本など借り手の玄関に立って、外聞外見をはばからずに強催促したという。債務者は困るだろう。座頭にはどこか因業なイメージがついて回った。按摩は導引とも言った。盲人の按摩は杉山流、それ以外の按摩は吉田流とすみ分けされていた。体全体を揉んで四十八文が相場。骨折や脱臼の治療なども行っていたそうだが、明治44年(1911)の施行法によって完全に禁止された。これ以降、按摩の需要が変わったようである。寒空に響く、物悲しい心持ちを誘い出すような按摩の笛の音。江戸の前半期では、按摩が笛を吹いて歩いていたのは吉原界隈だけでだった。吉原以外でも行われるようになったのは寛政年間(1789-1800)からだという。私の記憶では、昭和40年代までは日本全国の街場で按摩の物悲しい笛が聴こえたと思う。こういう流しの按摩を「振り按摩」と呼んだ。「振り」とは、常連やなじみの客がいないこと。近ごろのフーゾクでは、指名をせずに店に入ることを「フリー」と呼んでいる。「振り」のつもりなのだろうが、いまや「フリー」という言葉のほうが通じてしまう。

古木優



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やぶいり【藪入り】落語演目

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【どんな?】

たっぷり笑わせ、しっかり泣かせる名品。
エロネタなんですね。

別題:お釜さま 鼠の懸賞

あらすじ

正直一途の長屋の熊五郎。

後添いができた女房で、一粒種の亀をわが子のようにかわいがる。

夫婦とも甘やかしたので、亀は、朝も寝床で芋を食べなければ起きないほど、わがままに育った。

「これではいけない、かわい子には旅をさせろだ」
と、近所の吉兵衛の世話で、泣きの涙で亀を奉公に出した。

それから三年。

今日は正月の十五日で、亀が初めての藪入りで帰ってくる日。

おやじはまだ夜中の三時だというのに、そわそわと落ち着かない。

かみさんに、奉公をしていると食いたいものも食えないからと、
「野郎は納豆が好きだから買っておけ。鰻が好きだから中串で二人前、刺し身もいいな。チャーシューワンタンメンというのも食わしてやろう。オムレツカツレツ、ゆで小豆にカボチャ、安倍川餠」
と、きりがない。

時計の針の進みが遅いと、一回り回してみろと言ったり、帰ったら品川の海を見せて、それから川崎の大師さま、横浜から江ノ島鎌倉、足を伸ばして静岡、久能山、果ては京大阪から、讃岐の金比羅さま、九州に渡って……と、一日で日本一周をさせる気。

無精者なのに、持ったこともない箒で家の前をセカセカと掃く。

夜が明けても
「まだか。意地悪で用を言いつけられてるんじゃねえか。店に乗り込んで番頭の横っ面を」
と大騒ぎ。

そのうち声がしたので出てみると
「ごぶさたいたしました。お父さんお母さんにもお変わりがなく」

すっかり大人びた亀坊が、ぴたりと両手をついてあいさつしたので、熊五郎はびっくりし、胸がつまってしどろもどろで
「今日はご遠方のところをご苦労さまで」

涙で顔も見られない。

「こないだ、風邪こじらせたが、おめえの手紙を見たらとたんに治ってしまった」
と、打ち明け
「こないだ、店の前を通ったら、おめえがもう一人の小僧さんと引っ張りっこをしているから、よっぽど声を掛けようと思ったが、里心がつくといけねえと思って、目をつぶって駆けだしたら、大八車にぶつかって……」
と泣き笑い。

亀が小遣いで買ったと土産を出すと、
「もったいねえから神棚に上げておけ。子供のお供物でござんすって、長屋中に配って歩け」
と大喜び。

ところが、亀を横町の桜湯にやった後、かみさんが亀の紙入れの中に、五円札が三枚も入っているのを見つけたことから、一騒動。

心配性のかみさんが、子供に十五円は大金で、そんな額をだんながくれるわけがないから、ことによると魔がさして、お店の金でも……と言いだしたので、気短で単純な熊、さてはやりゃあがったなと逆上。

帰ってきた亀を、いきなりポカポカ。

かみさんがなだめでわけを聞くと、このごろペストがはやるので、鼠を獲って交番に持っていくと一匹十五円の懸賞に当たったものだと、わかる。

だんなが、子供が大金を持っているとよくないと預かり、今朝渡してくれたのだ、という。

「見ろ、てめえがよけいなことを言いやがるから、気になるんじゃねえか。へえ、うまくやりゃあがったな。この後ともにご主人を大切にしなよ。これもやっぱりチュウ(=忠)のおかげだ」

底本:三代目三遊亭金馬

しりたい

お釜さま

原話は詳細は不明ながら、天保15年(1844=12月から弘化と改元)正月、日本橋小伝馬町の呉服屋島屋吉兵衛方で、番頭某が小僧をレイプし、気絶させた実話をもとに作られた噺といいます。

表ざたになったところを見ると、なんらかのお上のお裁きがあったものと思われますが、当時、商家のこうした事件は珍しいことではなく、黙阿弥の歌舞伎世話狂言『加賀鳶』の「伊勢屋の場」にもこんなやりとりがあります。

太助「これこれ三太、よいかげんに言わないか、たとえ鼻の下が長かろうとも」
左七「そこを短いと言わなければ、番頭さんに可愛がられない」
三太「番頭さんに可愛がられると、小僧は廿八日だ」
太・左「なに、廿八日とは」
三太「お尻の用心御用心」

金馬の十八番へ

明治末期に初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が男色の要素を削除して、きれいごとに塗り替えて改作しました。

それまでは、演題は「お釜さま」で、オチも「これもお釜さま(お上さま=主人と掛けた地口)のおかげだ」となっていました。

亀が独身の番頭にお釜(=尻)を貸し、もらった小遣いという設定で、小せんがこれを当時の時事的話題とつなげ、「鼠の懸賞」と改題、オチも現行のものに改めたわけです。

小僧奉公がごくふつうだった明治大正期によく高座に掛けられましたが、昭和初期から戦後にかけては、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)が「居酒屋」と並ぶ、十八番中の十八番としました。

金馬の、親子の情愛が濃厚な人情噺の要素は、自らの奉公の経験が土台になっているとか。五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)も得意でした。

鼠の懸賞

明治38年(1905)、ペストの大流行に伴い、その予防のため東京市が鼠を1匹(死骸も含む)3-5銭で買い上げたことは「意地くらべ」をご参照ください。

補足すると、ペストの最初の日本人犠牲者は明治32年(1899)11月、広島で。

東京市は翌33年(1900)1月に、鼠を買い取る旨の最初の布告を出しています。

希望者は区役所や交番で切符を受け取り、交番に捕獲した鼠を届けた上、銀行、区役所で換金されました。

東京市内の最初のペスト患者は明治35年(1902)12月で、38年(1905)にピークとなりました。

噺の中の15円は、特別賞か、金馬が昭和初期の物価に応じて変えたものでしょう。

鼠の買い上げは、大正12年(1923)9月、関東大震災まで続けられました。

藪入り

「藪入りや 曇れる母の 鏡かな」という、あわれを誘う句をマクラに振るのが、この噺のお決まりです。

あるいは、「かくばかり いつわり多き 世の中に 子のかわいさは まことなりけり」なんという歌も。

寿限無」「子褒め」「初天神」「子別れ」なんかでも使いまわされています。

藪入りは江戸では、古くは宿入りといい、商家の奉公人の特別休暇のことです。

高等科

江戸から明治大正にかけ、町家の男の子は10歳前後(明治の学制以後は尋常または高等小学校卒業後)で商家や職人の親方に奉公に出るのがふつうでした。

明治40年(1907)からは、それまで4年制だった尋常小学校は6年制に改編されました。高等小学校(高等科)はさらに2年間、小学校で学ぶ制度でした。

さまざまな事情で旧制の中学校、高等女学校、実業学校などの上級学校に進めない人が学ぶコースでした。

昭和11年(1936)時点で、尋常小学校の卒業者の66%が高等科に進学しています。

上級学校の受験で落ちると、高等科を予備校代わりにする人もいましたし、手工、実業、算術などの実務的な初歩を学んで社会に巣立つ人もいて、まちまちでした。

奉公

一度奉公すると、3年もしくは5年は、親許に帰さないならわしでした。それが過ぎると年2回、盆と旧正月に1日(女中などは3日)、藪入りを許されました。商家の手代や小僧は奉公して10年は無給で、5年ほどは小遣いももらえないのが建て前でした。

「藪」は田舎のことで、転じて親許を指したものです。

「藪入り」の言葉と習慣は、労働条件が改善された昭和初期まで残っていて、横綱双葉山の「70連勝ならざるの日」がちょうど藪入りの日曜日(昭和14年1月15日)だったことは、今でも昭和回顧談などでよく引き合いに出されます。

川崎大師

正しくは平間寺へいけんじ。川崎市川崎区にある真言宗智山派ちざんはの大本山。大治3年(1128)建立。川崎大師かわさきだいしは通称。山号は金剛山こんごうざん。院号は金乗院きんじょういん尊賢そんけんが開山、平間兼乗ひらまかねのりが開基。

真言宗智山派は京都の智積院ちしゃくいんが本山で、この系統は布教活動よりも仏典研究に重きを置きます。

二十五と 四十二で込む わたし舟   二21

25歳と42歳は男の厄年やくどしです。川崎大師に参詣する客で六郷川(多摩川)の渡し舟がごった返すさま。

やく年に 東海道を ちつと見る   十六08

あなたもか わたしも三と 万年屋   二十一29

「三」とは33歳の女の厄年をさします。万年屋は、川崎宿の奈良茶飯で有名な老舗で、大師土産も販売していました。



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そばせい【そば清】落語演目



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【どんな?】

そば賭けで金をせしめる清兵衛。
もっとそばを食べて、もうけたい。
草をなめて消化する蛇をまねて、草をぺろり。
すると、そばが羽織を着て座っていた。

類話:そばの羽織 蛇含草(上方)

あらすじ

旅商人の清兵衛は、自分の背丈だけのそばが食べられるという、大変なそば好き。

食い比べをして負けたことがないので、もう誰も相手にならないほど。

ある時、越後えちごから信州の方に回った時、道に迷って、木陰で一休みしていると、向こうの松の木の下で狩人が居眠りをしている。

見ると、その木の上で大蛇だいじゃがトグロを巻いていて、あっと言う間もなく狩人を一のみ。

人間一匹丸のみしてさすがに苦しくなったのか、傍に生えていた黄色い草を、長い真っ赤な舌でペロペロなめると、たちまち膨れていた腹が小さくなって、隠れて震えていた清兵衛に気づかずに行ってしまった。

「ははん、これはいい消化薬になる」
と清兵衛はほくそ笑み、その草を摘めるだけ摘んで江戸へ持ち帰った。

これさえあれば、腹をこわさずに、無限にそばが食えるので、また賭けで一もうけという算段。

さっそく友達に、そばを七十杯食ってみせると宣言、食えたらそば代は全部友達持ち、おまけに三両の賞金ということで話が決まり、いよいよ清兵衛の前に大盛りのそばがずらり。

いやその速いこと、そばの方から清兵衛の口に吸い込まれていくようで、みるみるうちに三十、四十、五十……。

このあたりでさすがの清兵衛も苦しくなり、肩で息を始める。

体に毒だから、もうここらで降参した方が身のためだという忠告をよそに、少し休憩したいからと中入りを申し出て、皆を廊下に出した上、障子をピタリと閉めさせて、例の草をペロリペロリ……。

いつまでたっても出て来ないので、おかしいと思って一同が障子を開けると、清兵衛の姿はない。

さては逃げだしたかとよくよく見たら、そばが羽織を着て座っていた。

しりたい

食いくらべ

有名なのは、文化14年(1817)3月、柳橋の万屋八郎兵衛方で催された大食・大酒コンクールです。

酒組、飯組、菓子組、鰻組、そば組などに分かれ、人間離れのした驚異的な記録が続出しました。

そば組だけの結果をみると、池之端いけのはたの山口屋吉兵衛(38歳)がもり63杯でみごと栄冠。

新吉原の桐屋惣左衛門(42歳)が57杯で2位、浅草の鍵屋長助(45歳)が49杯で3位となっています。

したがって、清兵衛の50余杯(惜しくも永遠に未遂)は決して荒唐無稽こうとうむけいではありません。

これこそデカダンの極北、醤油ののみ比べもありました。

これについては、高木彬光(1920-1995)の短編「飲醤志願」に実態が詳しく描写されています。まさしく死と隣り合わせです。

上方は餅食い競争

類話の上方落語「蛇含草じゃがんそう」は、餅を大食いした男が、かねて隠居にもらってあった蛇含草なる「消化薬」をこっそりのむ設定です。

したがってオチは「餅が甚兵衛(夏羽織)を着てあぐらをかいていた」となります。

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、この上方演出をそのまま東京に移植して十八番とし、それ以来、「そば清」とは別に「蛇含草」も東京で演じられるようになりました。

三木助演出は「餅の曲食きょくぐい」が売り物で、「出世は鯉の滝登りの餅」「二ついっぺんに、お染久松相生そめひさまつあいおいの餅」と言いながら、調子よく仕草を交えて、餅をポンポンと腹に放り込んでいきます。

「そば清」の古いやり方

明治期には、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)も演じました。

その型を忠実に踏襲した四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)の速記では、清兵衛がなめるとき、「だんだん腹がすいてきたようだ」とつぶやきます。

内臓が溶けつつあるのを、腹の中のそばが溶けたと勘違いしているわけで、笑いの中にも悲劇を予感させる一言ですが、今はこれを入れる人はいないようです。

そばを溶かす草の話

根岸鎮衛ねぎしやすもり(1737-1815)は、『耳嚢みみぶくろ』巻二に「蕎麦そばを解す奇法の事」と題して、荒布あらめ(海藻の一種で食用)がそばを溶かす妙薬であるとの記述を残しています。

真偽のほどはわかりませんが。



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おおどこのいぬ【大どこの犬】落語演目



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【どんな?】

動物が主人公の上方噺。
大富豪に飼われていた犬の物語です。

別題:鴻池の犬(上方)

【あらすじ】

日本橋石町の、さる乾物屋。

朝、表戸を開けようとすると、なにかが引っ掛かっているのか、開かない。

小僧が裏口から回って見てみると、戸袋のところに箱が置いてあり、中には白と黒とぶちの犬の赤ん坊。

川の中に放り込んでも寝覚めが悪いから、飼ってやることにしたが、そのうち、黒いのを小僧が大変かわいがり、兄弟同然にして育てた。

ある日、商人風の男が尋ねてきて、主人にお宅の黒犬を譲ってほしいと、五両差し出す。

飼い主の小僧は品川に使いに行って留守なので、一日返事を待ってもらったが、翌日の昼、男がやってきても小僧はまだ戻らない。

これ以上引き延ばすことはできないので、事情によっては独断で決めようと主人がわけを尋ねた。

男は大坂鴻池の、東京の出店の者。

主人の坊ちゃんがかわいがっていた黒犬が死んだので代わりを探しているが、その犬は熊そっくりに喉に月の輪型の差し毛があり、そっくりなのがなかなか見つからずに困っていたところ、たまたま、ご当家の犬が同じ所に同じ形の月の輪があるのを見てお願いにあがった、決して殺して生き血を取るというような料簡はなく、大坂へ連れて帰って坊ちゃんの遊び相手をするだけだから、ぜひ譲ってほしいと事を分けて頼むので、主人も、鴻池のような大家にもらわれれば、クロもぜいたくができ、出世だからと、その場で承知して犬を引き渡す。

大坂にもらわれたクロは、下にも置かず大切にされ、エサがいいせいか、毛もつやつやとして、体もずんずん大きくなった。

いつしか近所の犬どものボスになり、「鴻池のクロ」といえば知らぬ者はないぐらいのはぶり。

ある日、クロが門前で日向ぼっこをしていると、見慣れない、みすぼらしい灰色の犬がよたよたと現れる。

おっそろしく汚いので
「てめえは何者だ」
「へえ、このへんに鴻池のクロさんてえ方が」
「クロはオレだ」
「あっ、兄さん、お懐かしゅうございます」

よく見ると、犬は末の弟のシロ。

兄弟感激して対面をして、わけを尋ねると、自分がもらわれた後、それを知った小僧が大変に怒って、腹いせにシロと中の弟のブチは家を追いだされた、という。

二匹で食うや食わず、掃き溜めでゴミあさりをしていた。

突然、野犬狩りの太い棒が飛んできて、ブチは
「キャーン」
と言ったのが、この世の別れ。

シロは一匹になって、上の兄貴を頼ろうと艱難辛苦の末、ボロボロになって大坂にたどり着いたとやら。

聞いたクロ、
「オレに任せておけばもう心配いらねえ。エサはゲップが出るほどもらえるし、オレの犬小屋は人間サマが寝られるくらい広いから、二、三匹来たって驚きゃしねえ、大船に乗った気でいろ」
と請け合い、
「クーロ、クロクロクロクロ」
と呼ばれるたびに、鯛だのカステラだのを、弟に持ってきてやる。

シロは食べたことのないものばかりで、目をシロクロ。

また
「クーロ、クロクロ」
と兄貴が呼ばれたから、今度はどんなものを持ってくるかと期待して待っていると、今度はしおしおと手ぶらで、
「坊ちゃんのオシッコだった」

【しりたい】

上方落語の逆輸入版

原話は、安永2年(1773)刊の笑話本『聞上手』中の「犬のとくゐ」。 

これは、オチを含む後半部分の原型で、黒とブチ、2匹の犬の会話になっています。

「黒こいこい」と呼ぶ声がするので、何かエサでももらえるのだろうとブチに促されて黒が行ってみると、「子供の小便だった」というたわいないもので、これは、上方で子供に小便させる時の「クロクロクロ」(またはシーコイコイ)を利かせたものです。

この原話を含む笑話本は、江戸のものですが、落語としては上方で、「鴻池の犬」として磨かれました。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)は「題名を明かさずに演じた方が、初めの捨て子のくだりがおもしろい」と述べています。

オチは、今では「クロクロ」がわかりにくいので、米朝は「コイコイコイ」とやっています。

東京版は「彦六十八番」

明治30年(1897)ごろ、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が東京に「逆輸入」しました。

円左は大阪のものをそのままやっていました。

のちに三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が「大どこの犬」と改題して東京風に演じ直し、鴻池を岩崎、犬が最初に拾われる場所を、大坂南本町から江戸日本橋石町と変えました。

円馬の芸の愛弟子だった八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)は手掛けることなく、東京では戦後、上方の桂文次郎直伝のものを八代目林家正蔵が再構成し、十八番にしました。

正蔵は、もらわれ先を再び大坂鴻池に戻し、犬がはるばると東海道を下っていくことにして、噺に奥行きとスケールを出していました。

その没後は、六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)が継承して演じました。

最近は、地味ながらアットホームな一種の人情譚として若手の高座にも取り上げられているようです。

鴻池善右衛門

鴻池の始祖新六は、講談で名高い山中鹿之助の次男と伝えられます。

その子、初代善右衛門が、摂津鴻池村で造り酒屋を営んだことから家名がつき、初代は海運業に進出する傍ら、明暦2年(1656)、大坂内久宝寺町に両替屋を開き、延宝2年(1674)、現在の大阪市東区今橋2丁目に本拠を移しました。

以来、大名貸しや新田開発などで巨富を築き、「今橋の鴻池」といえば、全国どこでも富豪の代名詞で通るほどになりました。

上方落語では「三十石」「莨の火」「占い八百屋」などに数多くその名が出ていて、明治までで十代を数えます。

十代目善右衛門(1841-1920)は、明治10年(1877)に第十三国立銀行を設立するなど、明治大正の関西財界に君臨しました。

黒犬の生き血

難病治療に効果があると信じられました。

ヨーロッパでも黒犬は魔力を持つものと見なされ、黒ミサや呪術でしばしば生贄とされていました。

大どこ

東京版のタイトルですが、大金持ちの意味です。

「オオドコロ(大所)」が略されたものでしょう。

「犬になるとも大どこ(所)の犬になれ」という諺があり、意味は「寄らば大樹の陰」と同じです。

【語の読みと注】
石町 こくちょう
鴻池 こうのいけ



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おおおとこのけ【大男の毛】落語演目



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【どんな?】

図抜けたお相撲さん。
吉原に行ったらどうなる?
きてれつなバレ噺です。

【あらすじ】

ヌッと立つと、乳から上は雲に隠れて見えないというくらいの、大男の関取を連れて、ひいきの石町のだんなが吉原へ。

なにしろ、とてつもなく巨大な代物なので、お茶屋は大騒動。

座敷に通して酒を出すのに、普通の杯では飲み込んでしまうというので、酒樽を猪口代わりに、水瓶であおるというすさまじさ。

その関取、これでも
「ワシは酒が弱い」
と言って、こくりこくりと居眠りを始めた。

部屋の中に山ができたようなもので、じゃまでしようがないので、どこかへ片づけてしまえと、襖をぶち抜いて一六五畳敷きの広間をこしらえ、そこに寝かせることにしたが、それがまた一大事。

布団は蔵からあるだけ運んで、座敷中、片っ端から並べ、枕は長持ちを三つ分くくり付けた代用品。

寝間に担ぎ込むのに十人がかりで
「頭はどこだ」
「巽の方角だ」
「磁石を持ってこい」
と大騒ぎ。

掛け蒲団も山のように盛り上げて、まるで熊野浦に鯨が揚がったよう。

ようやく作業が完了したところで、今度は花魁の出番。

年増ではダメだから、せいぜい若いのをというだんなの指示で、年は十七だが、そこはプロ。

泰然自若として、心臓に毛が生えている。

ところが、この大山にはさすがに仰天。

無理もない。関取がいびきをかくごとに、魔術のように火鉢が中空へ。

下りると、また噴き上げられる。

寝返りを打つと家鳴りがして、まるで地震か噴火。

「驚いたねえ。ちょいと、関取の懐はどこだい」
「へえ、向こうが五重の塔になりますから、三の輪見当でしょう」

それでも花魁、関取の腹にヒョイとまたがった。

「おそろしく高いねえ。江戸中が見渡せるよ。わちきの家があそこに見える。おや、段々坂になった。ここは穴蔵かしらん」
「これ、ワシのへその穴をくすぐるな」

そのうちに、段々坂から花魁がすべり落ちて、コロコロ転がる拍子に、薪ざっぽうのようなものにぶつかった。

妙な勘違いをして
「不思議なこと。大男に大きな○○はないというけど、関取、おまはんのは、体に似合わず小粒だねえ」
「ばかァ言え。そりゃ毛だ」

底本:四代目橘家円喬

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【しりたい】

円喬の艶笑落語

原話は天明6年(1786)刊の絵入笑話本『腹受想』中の「大物」。

この噺のようなバレ噺(艶笑落語)で、実名で速記や上演記録が残ることはまずありません。

今回、あらすじの参考にしたのは明治28年(1895)4月の「百花園」に掲載された、四代目橘家円喬の速記です。

名前入りで、しかも当時の大看板の口演記録が残るのは、きわめて珍しい例です。

艶笑がかっているのは、オチの部分だけで、前半はただ、関取の巨人ぶりの極端な誇張による笑いと、右往左往する宿の連中の滑稽だけです。

これと対照的なのが、「小粒」「鍬潟」といった小物力士の噺です。

どちらも艶笑噺の要素はありません。

この噺の前半と似て、力士の巨体を誇張する噺に「半分垢」があります。

巨人ランキング

相撲取りで歴代随一の巨人は、土俵入り専門の看板力士だった生月鯨太左衛門(1827-50)にとどめをさすでしょう。

記録によると、二十歳で身長233cmといわれます。

一説には243cmあったとも。

それに次ぐのが、大関、釈迦ケ獄雲右衛門(1749-75、227cm)、文政期の看板力士、龍門好五郎(1807-33、226cm)、同じく大空武右衛門(1796-1832、228cm)という面々。

明治以後では、関脇、不動岩三男(1924-64、212cm)が現在に至るまでの記録保持者です。

外国人力士も多くなり、身長、体重の平均値は昔とは比較にならないほどの現在の相撲界でも、210cmを超えるとなると、そうザラには出ないということでしょう。

大男に大きな……というのはまったく当てにならないらしく、相撲界に巨根伝説は数多いのですが、その反対の話はついぞ聞きません。

これは普通人のやっかみ、負け惜しみと思った方がいいでしょう。

【語の読みと注】
猪口 ちょこ
襖 ふすま
巽 たつみ:東南の方角
花魁 おいらん
年増 としま
腹受想 ふくじゅそう
生月鯨太左衛門 いけづきげいたざえもん



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おうじのきつね【王子の狐】落語演目

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【どんな?】

狐が人に化かされてひどい目にあった、
という、江戸前のはなしです。

別題:乙女狐(上方)、高倉狐(上方)

あらすじ

神田あたりに住む経師屋の由さん。

王子稲荷に参詣の途中、道灌山の原っぱに来かかると、なんと、大きな狐が昼寝中。

「ははーん、狐は人を化かすというが、こう正体を現しているなら、俺が逆にこうつをたぶらかしてやろう」
といたずら心を起こし、狐に
「もし、姐さん、こんな所で寝ていちゃ、風邪ひくよ」

起こされた狐は、出し抜けに姐さんと呼ばれたから、あわててビョンと飛び上がり、十八、九の美人にたちまち化けた。

正体がバレたとも知らず、これはいいカモだと、
「私は日本橋あたりの者で、乳母を連れて王子稲荷に参りましたが、はぐれてしまい、難渋しております。あなたはどなた?」

由さん、笑をかみ殺し、
「自分は神田の者だが、日本橋はすぐそばなので送ってあげたい、ただ空腹なので、途中、なにかごちそうしたい」
と持ちかけた。

狐は成功疑いなしと、ワナとも知らず、喜んでエサに食いつく。

連れ立って稲荷を参拝した後、土地の海老屋という料理屋の二階に上がる。

盃のやりとりをするうち、狐はすっかり油断して、酒をのみ放題。

ぐでんぐでんになると、いい心持ちで寝入ってしまう。

由さん、しめたとばかり喜んで、土産物をたんまり持ち、帳場に、
「二階の連れは疲れて寝込んでいるから、そのままにしてやってくれ、起きたら勘定はあっちが持つから」
と言い置くと、風を食らってドロン。

さて、料理屋の方では、そろそろ勘定をというので、二階に仲居が上がってみると、狐は酔いつぶれてすっかり化けの皮がはがれ、頭は狐、体はまだ女、足は毛むくじゃらで大きな尻尾を出すという、まさに化物。

仲居の悲鳴で駆けつけた男どもが
「やや、こりゃ狐。さては先刻帰った男も、うむ、太いやつだ」
と寄ってたかってさんざんに打ちのめしたから、狐はたまらず、命からがら逃げだした。

一方、由さん。

かえってこの自慢話をすると、年寄りに
「狐は稲荷の使い。そんなイタズラをすれば必ずたたるから、ボタ餠でも持ってわびに行け」
とさとされて、道灌山へ戻ると、子狐が遊んでいる。

聞けば、おっ母さんが人間に化かされたあげく、全身打撲と骨折の重傷とか。

由さん、さてはと合点して平謝り。

餠を子狐に渡すと、ほうほうの体で逃げ帰った。

子狐は、ウンウンうなっている母狐に、
「おっかさん、人間のオジサンがボタ餠を持ってあやまりに来たよ。たべようよ」
「お待ち。たべちゃいけないよ。馬の糞かもしれない」

【RIZAP COOK】

しりたい

原話は江戸  【RIZAP COOK】

正徳2年(1712)刊江戸板『新話笑眉』巻1の11の「初心な狐」が原話といわれます。

これは、狐が、亀戸の藤を見物に行く男を化かそうとして、美貌の若衆に変身し、道連れになります。

男はとっくに正体を見破っていますが、そ知らぬ顔でだまされたふりをし、狐の若衆に料理屋でたっぷりとおごってやります。

別れた後、男がこっそりと跡をつけると、案の定、若衆は狐の穴へ。

狐が一杯機嫌で、得意そうに親狐に報告すると、親狐は渋い顔で、「このばか野郎。てめえが食わされたなあ、馬糞だわ」

「高倉狐」  【RIZAP COOK】

この原話は江戸のものですが、落語としては上方で磨かれ、「高倉狐」として口演されました。

こちらは、東京のものと大筋は同じですが、舞台が大坂高津の高倉稲荷境内、狐を連れ込む先が、黒焼きと並んで高津の名物の湯豆腐屋の2階となっています。

東京には、明治16年(1883)、真打に昇進直後で、当時23歳の初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)が逆移入したものです。

古い速記では、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のものが残っています。

先の大戦後では、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)の十八番として知られ、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)も得意でした。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)や五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)を経て、現在も多くの演者に継承されています。

類話「乙女狐」  【RIZAP COOK】

上方には、「高倉狐」「王子の狐」と筋はほとんど同じながら、舞台が大坂の桜の宮で、二人の男との化かしあいに負けた狐が、「眉に唾をつけておけばよかった」、または「今の素人には油断がならん」というオチの「乙女狐」があります。「高倉狐」は、この噺の改作ではないかともいわれます。

狐の悪行は世界共通  【RIZAP COOK】

狐の出てくる噺は多いものです。

「稲荷車」
「稲荷の土産」
「今戸の狐」
「王子の狐」
「王子の白狐」
「お盆」
「蛙の子」
「狐つき」
「狐と馬」
「木の葉狐」
「九尾の狐」
「けつね」
「七度狐」
「初音の鼓」
「紋三郎稲荷」
「安兵衛狐」
「吉野狐」

思いついただけでも、ざっとこんなに。

狐は「稲荷の使い」として特別な呪力を持つものと、日本では古くから見なされてきましたが、ずるい動物という認識は東西同じなのか、フランスの「狐物語」、ドイツの「ライネッケ狐」など、手に負えない狐の話は世界中に流布伝承されています。

王子稲荷  【RIZAP COOK】

東京都北区岸町1丁目。
稲荷の本体は倉稲魂、または御食津神で、どちらにしても穀物神。五穀豊穣を司ります。王子稲荷社は、関東の稲荷の総社です。

大晦日には関東一帯の狐がご機嫌伺いに集まるので、狐火が連なって松明のようになると伝えられてきました。

歌川広重が「名所江戸百景」の内で、「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」。王子稲荷の怪異「狐松明」を描いています。狐が顔の近くに狐火を浮かべているのが見えます。

歌川広重「名所江戸百景」の内「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」

志ん生流は抱腹絶倒  【RIZAP COOK】

料理屋の二階で、狐と人間が、互いに相手を化かそうと虚々実々の腹の探りあいを演じるおかしさが、この噺の一番の聞かせどころです。

そのあたりは、江戸の昔から変わらない、政財界の妖怪同士による、料亭談合のカリカチュアの趣ですね。

五代目古今亭志ん生の「扇屋二階の場」は抱腹絶倒です。

前半の2人(1匹と1人)のやりとりでは、男が「油揚げでも……」と口走って、あわてて口を押さえたり、疑わしげに「これ、お酒だろうねェ?」と確かめたあと、まだ眉唾で、肥溜めでないかと畳のケバをむしってみたりするおかしさ。

「第二場」では、だまされたと知って茫然自失の狐が、思わず「化けてるやつがふァーッと、半分出てきたン」で、帯の間から太い尻尾がニュー、耳が口まで裂けて……とか、狐退治に2階に押し上げられた源さんが、内心びくびくで、「狐けェ? オロチじゃねえのか。俺ァ天狗があぐらァけえていやがんのかと」と、強がりを言うシーンなど。

筋は同じでも、ここらの天衣無縫のくすぐりのつけ方が、まさに志ん生ならではです。

同時に、狐を悪獣として憎むのではなく、むしろ隣人として、いたずらっ子を見るまなざしで、どこかで愛し、いとおしんできた江戸人の血の流れが、志ん生の「王子の狐」を聴き、速記を読むと、確かに伝わります。

海老屋と扇屋  【RIZAP COOK】

男が狐同伴で揚がりこむ料理屋は、古くは海老屋、現行ではほとんど、扇屋で演じます。海老屋は、扇屋と並ぶ土地の代表的な大店で、扇屋は武家屋敷、海老屋は商家や町人筋がおもな顧客でした。

したがって、町人の登場するこの噺には、海老屋の方がふさわしかったのですが、残念ながら明治初年に廃業したので、昭和以後では、現存の扇屋に設定することが多くなったのでしょう。

扇屋の方は、慶安年間(1648-52)の創業で、釜焼きの厚焼き卵の元祖として名高い老舗です。

【語の読みと注】
経師屋 きょうじや
道灌山 どうかんやま
倉稲魂 うかのみたま
御食津神 みけつかみ

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ほうちょう【包丁】落語演目

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【どんな?】

まぬけなワルを描いた噺。
落語堪能の極北です。

別題:えびっちゃま 出刃包丁 庖丁間男(上方)

【あらすじ】

居候いそうろうになっていた先の亭主がぽっくり死んで、うまく後釜に納まった常。

前の亭主が相当の小金をため込んでいたので、それ以来、五円や十円の小遣いには不自由せず、着物までそっくりちょうだいして羽振りよくやっていたが、いざ金ができると色欲の虫が顔を出し、文字カナの清元の師匠といつしかいい仲になった。

だんだん老けてきた二十四、五になる女房の静と比べ、年は十九、あくぬけて色っぽい師匠に惚れてしまったので、こうなるとお決まりで、女房がじゃまになってくる。

どうにかしてたたき出し、財産全部をふんだくって師匠といっしょになりたいと考えているところに、ひょっこり現れたのが、昔の悪友の寅。

こちらの方はスカンピン。

常は鰻をおごって寅に相談を持ちかけるが、その筋書きというのがものすごい。

亭主の自分がわざと留守している間に、寅が友達だと言ってずうずうしく入り込み、うまくかみさんをたらし込んで、今にも二人がしっぽり濡れるというころあいを見計らって、出刃包丁を持って踏み込み、
「間男見つけた、重ねておいて四つにする」
と言えば、もうどうにもならないだろう、という計略。

じゃまな女房を離縁の上、
「洲崎や吉原に売れば水金みずきん(わいろ)引いても二、三百にはなるだろうが、年増なので品川や大千住で手取り八十円だろう。二人で山分けだ」
と持ちかけたので、こうなると、色と欲との二人連れ。

寅は飛びつく。

当日。

新道で「貸し夜具」をなりわいとする常の家。

予定通り、寅が静をくどこうとするが、この女、聞かばこそで、やたらに頭をポカポカこづくものだから、寅はコブだらけ。

閉口して、あろうことか、悪計の一切合切を白状してしまう。

「まあ、なんて奴だろう。もうあいつには愛想が尽きましたから、寅さん、おまえさん、こんなおばあさんでよければ、あたしを女房にしておくれでないか」
「よーし、そうと決まったら、野郎、表へ引きずり出して」

瓢箪ひょうたんから駒。

寅がすっかり寝返って、二人で今度は本当にしっぽりと差しつ差されつ酒を飲んでいるところへ、台本が差し替えられているとも知らない常さん、
「間男見つけた」
と、威勢よく踏み込んだとたん
「ふん、出ていくのはおまえだよ」

したたかにぶんなぐられ、下着一枚で表に放り出された。

やっと起き上がると
「ひでえことしやがる。さあ、出刃を返せ」
「なんだ、まだいやがった。切るなら切ってみろ」
「横町の魚屋へ返してくるんだい」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

恵比寿さま 鰻でタイを釣りそこね?  【RIZAP COOK】

上方落語「庖丁間男」を明治期に東京に移したもので、移植者は三代目三遊亭円馬とされます。

明治31年(1898)11月の四代目柳亭左楽の速記が残っていて、この年、円馬はまだ16歳なので、この説はあやしいものです。

左楽は「出刃包丁」の題で演じていますが、明治期までは東京での演題は「えびっちゃま」。

にやにや笑って相手の言うことをまともに聞かないことを恵比寿のにこやかな笑いに例えた慣用表現ですが、オチにこの語を使ったことからとも言われ、はっきりはわかりません。

左楽の古い速記では、常が寅を鰻屋に誘うとき、「霊岸島の大黒屋、和田、竹葉、神田川、芝の松金、浅草の前川へ行くというわけにはいかないから」と明治30年代の人気店を挙げています。

昭和の両巨匠の競演  【RIZAP COOK】

戦後では六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生の二名人が得意としました。

本来は音曲噺で、円生は橘家橘園という音曲師に習っています。

現在、速記・音源ともほとんど円生のもので、残念ながら志ん生のはありません。

円生からは一門の五代目円楽、円弥、円窓らに継承。志ん生からは長男の十代目金原亭馬生に受け継がれていました。

水金  【RIZAP COOK】

みずきん、みずがね。元の意味は、文字通り、湯水のように使いきる金のことですが、ここでは、常が「水金引いても…」と言っているので、女の斡旋手数料を意味します。

「水」は「廓の水が染み込んで…」という慣用句があるとおり、今でいう「水商売」のこと。

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りんきのひのたま【悋気の火の玉】落語演目

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【どんな?】

「悋気」は「ねたみ」。
「吝嗇」は「けち」。
この噺はねたみがテーマなんですね。

【あらすじ】

浅草は花川戸の、鼻緒問屋の主人。

堅物を画に描いたような人間で、女房のほかは一人として女を知らなかった。

ある時、つきあいで強引に吉原へ誘われ、一度遊んでみると、遊びを知らない者の常ですっかりのめり込んでしまった。

とどのつまりは、いい仲になった花魁を身請けして妾宅に囲うことになる。

本妻の方は、このごろだんながひんぱんに外泊するからどうもあやしいと気づいて調べてみると、やっぱり根岸の方にオンナがいることがわかったから、さあ頭に血がのぼる。

本妻はちくりちくりといやみを言い、だんなが飯を食いたいといっても
「あたしのお給仕なんかじゃおいしくございますまい、ふん」
という調子でふてくされるので、亭主の方も自分に責任があることはわかっていても、おもしろくない。

次第に本宅から足が遠のき、月の大半は根岸泊まりとなる。

そうなると、ますます収まらない本妻。

あの女さえ亡き者にしてしまえば、と物騒にも、愛人を祈り殺すために「丑の時参り」を始めた。

藁人形に五寸釘、恨みを込めて打ちつける。

その噂が根岸にも聞こえ、今度は花魁だった愛人の方が頭にくる。

「よーし、それなら見といで」
とばかり、こちらは六寸釘でカチーン。

それがまた知れると、本妻が負けじと七寸釘。

八寸、九寸と、エスカレートするうち、呪いが相殺して、二人とも同日同時刻にぽっくり死んでしまった。

自業自得とはいえ、ばかを見たのはだんなで、葬式をいっぺんに二つ出す羽目になり、泣くに泣けない。

それからまもなく、また怪奇な噂が近所で立った。

鼻緒屋の本宅から恐ろしく大きな火の玉が上がって、根岸の方角に猛スピードですっ飛んで行き、根岸の方からも同じような火の玉が花川戸へまっしぐら。

ちょうど、中間の大音寺門前でこの二つがぶつかり、火花を散らして死闘を演じる、というのだ。

これを聞くとだんな、このままでは店の信用にかかわると、番頭を連れて大音寺前まで出かけていく。

ちょうど時刻は丑三ツ時。

番頭と話しているうちに根岸の方角から突然火の玉が上がったと思うと、フンワリフンワリこちらへ飛んできて、三べん回ると、ピタリと着地。

「いや、よく来てくれた。いやね、おまえの気持ちもわかるが、そこは、おまえは苦労人なんだから、なんとかうまく下手に出て……時に、ちょっと煙草の火をつけさしとくれ」
と、火の玉の火を借りて、スパスパ。

まもなく、今度は花川戸の方から本妻の火の玉が、ロケット弾のような猛スピードで飛んでくる。

「いや、待ってました。いやね、こいつもわびているんで、おまえもなんとか穏便に……時に、ちょいと煙草の火……」
「あたしの火じゃ、おいしくございますまい、ふん」

【しりたい】

これも文楽十八番  【RIZAP COOK】

安永年間(1772-81)に、吉原の大見世の主人の身に起きた実話をもとにしていると言われます。

原話は笑話本『延命養談数』中の「火の玉」です。

これは天保4年(1833)刊、桜川慈悲成(1762-1833)によるもの。

現行は、この小咄のほとんどそのままの踏襲で、オチも同じ。

わずかに異なるのが、落語では、オチの伏線になる本妻の、「あたしのお給仕なんかじゃ…」というセリフを加えるなど、前半のの筋に肉付けしてあるのと、原話では、幽霊鎮めに最初、道心坊(乞食坊主)を頼んで効果がなく、その坊さんの忠告でしぶしぶだんあ一人で出かけることくらいです。

この噺を十八番の一つとした八代目桂文楽は、仲介者を麻布絶口木蓮寺の和尚にして復活させていました。

文楽は、だんながお妾と本妻にそれぞれ白髪と黒髪を一本ずつ抜かれ、往復するうちに丸坊主、というマクラを振っていました。

文楽の没後は五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)がよく演じ、現在でも高座に掛けました。

音源は文楽のみです。

ケチと悋気は親類?  【RIZAP COOK】

悋(ねたむ)と吝(おしむ)は同訓で、悋には吝嗇(吝も嗇もおしむ)、つまりケチと嫉妬(悋気)の二重の意味があります。

一つの漢語でこの二つを同時に表す「吝嫉りんしつ」という言葉もあるため、ケチとヤキモチは裏腹の関係、ご親類という解釈だったのでしょう。

こじつけめきますが、よく考えれば原点はどちらも独占欲で、他人が得ていて自分にない(または足りない)ものへの執着。

それが物質面にのみ集中し、内向すればケチに、広く他人の金、愛情、地位などに向かえば嫉妬。

悋気は嫉妬の中で、当事者が女、対象が性欲と、限定された現れなのでしょう。

やきもちは遠火で焼け  【RIZAP COOK】

「ヤキモチは 遠火で焼けよ 焼く人の 胸も焦がさず 味わいもよし、なんてえことを申します」
「疝気は男の苦しむところ、悋気は女の慎むところ」
というのは、落語の悋気噺のマクラの紋切り型です。

別に、「チンチン」「岡チン」「岡焼き」などともいいます。

「チンチン」の段階では、まだこんろの火が少し熾きかけた程度ですが、焼き網が焦げ出すと要注意、という、なかなか味わい深いたとえです。

花川戸  【RIZAP COOK】

花川戸は、現在の台東区花川戸一、二丁目。

西は浅草、東は大川(隅田川)、北は山の宿で、奥州街道が町を貫き、繁華街・浅草と接している場所柄、古くから開けた土地でした。

芝居では、なんと言っても花川戸助六と幡随院長兵衛の二大侠客の地元で名高いところです。

花川戸から北の、山の宿(現在は台東区花川戸に統合)にかけて、先の大戦前まではこの噺の通り、下駄や雪駄の鼻緒問屋が軒を並べていました。今は靴などの製造卸業が多く並びます。

そういえば、舞台で助六が髭の意休の頭に下駄を乗せますが、まさか、スポンサーの要請では……。

大音寺  【RIZAP COOK】

台東区竜泉一丁目で、浄土宗の正覚山大音寺をさします。

向かいは、樋口一葉(樋口なつ、1872-96)ゆかりの地、かつての下谷竜泉寺町です。

箕輪の浄閑寺(浄土宗、荒川区南千住二丁目)、新鳥越橋南詰(台東区浅草七丁目)にあった西方寺(浄土宗、俗称は土手の道哲、豊島区西巣鴨に移転)とともに、吉原のお女郎さんのむくろが投げ込まれる、投げ込み寺でもありました。

蔵前駕籠」にも登場しますが、大音寺門前は夜は人通りが少なく、物取り強盗や辻斬りが出没した物騒なところで、幽霊など、まだかわいい方です。

【語の読みと注】
悋気 りんき
吝嗇 りんしょく
悋嫉 りんしつ

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あかし【明石】川柳 ことば



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明石からおこし手の来る花の朝  十六38

江戸の川柳で「明石」と出てきたら、二つ思い起こすべきことがあります。①柿本人麻呂の歌と②源氏物語の明石。

この句は①が対象です。「ほのぼのと明石の浦の朝ぎりに島がくれゆく舟をしぞ思ふ」の上の句を唱えて寝ると、翌朝には早く目が覚めて、その際に下の句を唱えると風習があります。

なぜ、そんな風習があるのかといえば。

大奥づとめの御殿女中の世界では、花見は外に出かけられる行事のひとつ。桜の下で解放感を感じるためには、早起きが肝心なので、この歌を唱える風習が育ったのですね。

十四字は来月よんで顔を見る  安七桜01

十月晦日十七字、十一月一日の芝居の顔見世の朝十四字、そして鏡に向かい化粧、これも女性のたのしみ。

いしいしをたべて明石へ書きなぐり 十一34

こちらの明石は、①のケース。

「いしいし」は団子のこと。明石を書きなぐっているのは紫式部。いしいしから石山寺を連想させます。紫式部は明石の巻を石山寺で書いたといわれています。ただそれだけのことで、どうということもない句です。


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あいさつ【挨拶】川柳 ことば

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あいさつに女はむだな笑ひあり  二05

いつも笑顔の女性は愛敬があるとされて世間では高評価なのですが、「むだな笑ひ」とはうわべだけの笑いや心にもない笑いのことで、この句はどうやら、飾ったり偽ったりの笑いはよろしくない、と暗に言っているようです。

「女は愛敬」が当たり前の、江戸の価値観による句です。

前だれでふきふき内儀おかみあいさつし  宝十三松03

あいさつを内儀はくしで二ツかき  一34

あいさつに困りかんざし差し直し  五22

ちょっとした義理は天気の噂なり  三十七38

世間とどうつきあっていくか。そんなとき、「笑ひ」ばかりか、さまざまな所作が緩衝材になったりちょっとした手助けになったりしてくれるんですね。いまも同じでしょう。

ちなみに、「挨拶」は仏教語、しかも禅語です。『碧巌録』に載っています。「挨」はおす、「拶」はせまる。師僧と弟子との禅問答の応酬を意味し、これを何度も何度も繰り返します。だから、コミュニケーションの手始めを意味するようになったのですね。どこか厳しさが込められたことばなのですがね。

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あい【あい】川柳 ことば



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奥行おくゆきのない呉服屋はあいという  十三31

「あい」は「はい」という応答語。日本橋あたりの大きな呉服屋なら「あーい」と長ったらしくこたえる返事も、奥行きのない小さな店では「あいッ」と短い。それだけのこと。こんな、どうでもよいことでも江戸の人はおもしろがったのですね。

小半日こはんにちいなないてゐる呉服店ごふくだな  八31

こちらは、通行人にまで呼び込もうとしています。高級店じゃありません。新宿や銀座にもその手の店がありました。ある種の風物詩でしたが。



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あいがさ【相傘】川柳 ことば

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相傘を淋しく通す京の町  三17

「相傘」は男女が一本の傘をさすこと。相合傘とも。

相合傘の男女が歩いていても、穏やかな京の町では誰もひやかさない。江戸では悪口やひやかしの浴びせ倒しがあるから相合傘をするわけで、だいぶ違うものだ、という程度の話。

いまは相合傘の男女がいてもひやかしたりはしませんが、昭和40年代までの東京の下町ではひやかしは当たり前でした。ご祝儀です。

相傘はだまって通すものでない  二十27

右の手と左でうまい傘をさし  明七満01

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あいきょう【愛敬】川柳 ことば

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「あいきょう」は「愛敬」「愛嬌」と記すことが多いようです。「接すると好感を催させる柔らかなようす」「見て(聞いて)笑いを覚えさせる感じ」といった意味合い。その人がもつ雰囲気をさします。似たことばで「愛想」がありますが、こちらはその人の行為からの印象で、「愛敬」とはちょっと異なります。

もとは仏教語の「あいぎゃう」で、「愛敬(愛嬌)」は「あいぎょう」と濁っていましたが、どうしたわけか、室町期以降、「あいきょう」と清音となります。

愛敬はこぼれてへらぬ宝也  六十一29

愛敬はこぼれるもので、減るものでもないのでいくらでも。若い女へのご教訓めいた句でしょうか。愛敬は人柄にも通じるようで、悪からぬ印象です。

愛きゃう娘そこからもここからも  十三10

「そこからもここからも」は縁談をさしているのですね。川柳は言外を察する気働きがないとわからないものですが、これも江戸の空気というもの。

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あいそう【愛想】川柳 ことば

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あいさうにふくぶくしいと嫁をほめ  二十九24

ここでの「愛想」はお世辞。おもてなしでの好印象をさします。「ふくぶくしい」とは肥えていることで、近代以前は、肥えていることが美でしたし、器量のよしあしでした。ダイエットは近代の概念なんですね。

本来の「愛想」はその人の行為からの印象。「愛敬」はその人がもつ雰囲気からの印象。似ていますが、ちょっと違います。

愛想のよいをほれられたと思ひ  八28

よくあること。愛想笑いを「おれに惚れてる」と勘違いしているわけ。色恋は勘違いから始まります。

ちっとづつ焼くのも女房あいそ也  天五智06

「焼く」と言えば嫉妬。女房が焼いてくれないと調子が出ない、という平和な風景です。

あいそうに傾城やけどさせる也  十六06

「傾城」は遊女。このシチュエーションで「やけど」と言えば、遊女が煙管の雁首を客の手やら腕やらにたたいてやけどさせるという、まさに焼いてる状態。

これだって、遊里サービスの一環にすぎませんが。あまり遊んでない男は勘違いして本気になってしまいます。野暮の始まりです。

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あいのやま【相の山】川柳 ことば

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面白くなる銭のなくなる相の山  八十二18

「相の山」は伊勢神宮の内宮ないぐう外宮げぐうの間にある小高い山。「間の山」とも。

江戸時代を通して有名な話ですが、ここには、三味線を弾いて参詣客から銭も乞う女がいました。

客が女目当てに投げる銭をばちではじいてわが身に当たらせない特技が売り物でした。客は絶対当ててやろうとついつい銭を使ってしまうという、まるでゲーセン感覚の遊びです。いつも二人でやっていて、「お杉」「お玉」と名乗っていました。

相の山→お杉お玉→銭当ての連想です。それにしても、すごい商売ですね。

抜打ぬきうちにお杉お玉へ銭つぶて  七十四02

客はいろんな手でお杉お玉を狙い撃ちです。

手がらなりお杉お玉をいたがらせ  宝十三松03

たまには当たるわけで。これも彼女らの手の内でしょうか。

毛のばちで弾けばあわれな相の山  宝七、十一

「毛のばち」とは胡弓こきゅうを連想させます。これでは銭をうまくはじけませんね。かわいそうな話ですが、「だったらいいな」という、ただの妄想でしょう。

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あいぼれ【相惚れ】川柳 ことば

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相ぼれの仲人実はまわしもの  五32

「相ぼれ」は相思相愛。大店おおだなの若だんなと遊里の花魁おいらんの、なんかが理想的なストーリー運びです。「まわしもの」は間者とかスパイ。大店のだんな(若者の親父)からの指示で、ひそかに乗り込んだ番頭とかのイメージでしょうか。好例は「山崎屋」ですね。

仲人なこうどのあとからできる面白さ  九31

仲人を地者じものとおもやたいこ持ち  一27

「地者」はふつうは素人女で、芸子や娼妓の対語として使います。ここでは素人男性のようですね。「地者とおもやたいこ持ち」は素人と思ったら幇間だった、という意。

相ぼれのおさきにつかふ隣の子  三十七27

「おさきにつかふ」は利用する。同じ町内の男女の相思相愛を詠んだ句。

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あかいしんにょ【赤い信女】川柳 ことば

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石塔せきとうの赤い信女をそそのかし  拾二09

「赤い信女」は夫に先立たれた女性。

落語の世界では「後家さん」として登場します。

「信女」とは仏式で葬った女性の戒名(僧が死者に付ける名)の付ける称号で、男性の場合は「信士」。先に亡くなった夫の墓に「〇〇信女」と法号を刻んで、この人の妻はまだ生きていますよというしるしに赤で字を塗るところから、「赤い信女」という熟語が生まれました。

たいていの辞書には項目として載っています。

川柳に登場する「赤い信女」なるものは、亡夫に操を立てたのはいいけれど、人生そう短くはなく、生きているうちに世間の誘惑に惑わされて後悔している妻の心境を詠む場合に登場します。

これも川柳や落語の中での類型です。

川柳の世界では、このような後家さんをまどわすのは寺の坊さんだというのが通り相場です。

妻帯できない浄土真宗以外の各宗派の僧侶がこの手の女性を狙っている、というのが世間の常識でした。

浄土真宗は略して「真宗」としても登場しますが、この宗派は、宗祖の親鸞自身が妻帯したため、今日まで真宗の僧侶は頭も丸めず妻帯しています。

ただ、現在の仏教界では、真宗以外の各宗の坊さんも妻帯しています。これは明治以降のことです。真宗化しているのが日本の仏教界の現在です。

これを戒律が緩い状態にあると見るかどうかはかならずしも一律ではありませんが、現在よりも江戸時代のほうがまだ厳しかったのかもしれません。

辻善之助が『日本仏教史』で唱えた「江戸時代以降、日本の仏教は葬式仏教に堕した」といった説は、最近の研究では見直されています。

そうはいっても、江戸時代、寺社は大きな幕府や各藩から禄をいただいていたために、生活には困らず、自由な時間もしっかりもあった、という見方もできます。

そのような状態では、ろくでもない思いにいたる僧侶も少なくはなかっただろうという推測もかなうことでしょうね。

信女の月をよどませる和尚也  筥二15

「月をよどませる」とは生理が止まった由。和尚がはらませた、ということ。

「信女の月」は「真如の月」の洒落。

「真如」とは万物の本体。すべてに通じる絶対普遍の真理。「真如の月」は闇と照らすように真理が人の心の迷いを破ること。

真理は迷妄を開くわけで、はらませれば別な迷妄が開く、というわけでしょうか。

ろくでもない坊さんが描かれています。

ちなみに、「真如の月」の対語は「無明長夜むみょうじょうや」。煩悩にとらわれて仏法の根本がわからずに迷った状態でいることで、光のない長い夜にたとえたものです。

「無明の闇」といった表現でも登場します。真如の月=悟り、無明の闇=迷い、ということですね。

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あかいぬ【赤犬】川柳 ことば

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赤犬が紛失したと芝で言い  明五鶴03

「赤犬」と「芝」とをかませた連想から、この句の舞台は薩摩上屋敷(港区芝5丁目)あたりであることがわかります。芝では赤犬がいなくなるといわれる、当時の都市伝説があります。赤犬は薩摩屋敷のへんで忽然と消えるのだと。

江戸の人が嫌う肉食を、薩摩侍は好むからだ、という噂がまことしやかに信じられていました。その噂はあらかたまことだったのでしょう。それを江戸の人々は気味悪がっていたのですね。赤犬は美味だというのも通り相場。

そもそも赤犬とは、べつにそういう種類の犬がいるわけではありません。茶毛の犬を赤犬と称するだけのこと。

とすれば、日本古来の犬はおおよそが赤犬となります。柴犬なんかですね。そうか、柴犬ならぬ芝犬となる。ということだったのですね。

赤犬は食いなんなよと女郎言い  明八義06

この句の「女郎」は品川遊郭の、ということになりますね。芝の近所の遊郭です。

赤犬を食って精力みなぎったまんま来られたんじゃ、威勢よく突かれてアタシのカラダがどうにかなっちまうからさ、てなぐあい。

麹町芝の屋敷へ丸で売れ  拾20

川柳で「芝」とセットに語られる「麹町」は、入り口にあった山奥屋という獣肉店をさします。

ここの獣肉店に「芝の屋敷」(薩摩屋敷)から注文が入った、しかも「丸」で。「丸」は一匹丸ごとのことですから、上得意さんだったという詠みです。

いまでも「駒形どぜう」などで「丸」と注文すれば、割いていないまんまのどじょうが皿にどっさり盛られてきますよね。こっちのほうが「さき」よりお得です。

いのししの口は国分でさっぱりし  明六智04

薩摩産の「国分」は高級煙草で、肉食のあとには煙草で口内をさっぱりさせる、と。国分煙草は「国府煙草」とも記され、元禄年間(1688-1704)あたりから嗜まれていました。薩摩地方の食風習に「えのころ飯」というのがありました。

「えのころ」とは犬ころの意。皮を削いだ犬体からはらわたを取り、そこに米を詰めて蒸し焼きにして、その米を食べるというもの。

大田南畝(覃、直次郎、1749-1823)が『一話一言補遺』に記しています。美味なんだとか。

家畜のはらわたに米などを詰めて蒸し焼きにする食風習は太平洋全体に散見されます。珍しくはありません。

ハワイのカルアピッグも祝祭用の豚の丸焼き料理で、同類といえます。

犬食文化は、中国(とりわけ玉林市)、朝鮮半島、台湾、沖縄など広域にわたり、日本も例外ではありません。古代からほそぼそながらも連綿と続いてきた食文化でした。

なにも、薩摩だけのものではなかったのです。現代のわれわれが犬食を毛嫌いする感覚は、明治に入ってきた西洋風価値観が、旧来の価値観に上塗りされたからです。ご先祖さまはけっこうつまんでいたのでした。

よかものさなどと壷からはさみ出し  明五信06

「よかものさ」と薩摩訛りで「上物だ」と、自慢げに壷漬けの獣肉を箸でつまんでいる薩摩武士の奇矯な食道楽ぶり。江戸ではこのように詠まれていたのですね。

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しょうじきせいべえ【正直清兵衛】落語演目

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【どんな?】

もう半分」とつながりのありそうな噺。こっちは陰惨です。

あらすじ

本所林町三丁目で八百屋を営む、清兵衛。

今年十七になる、おしげという娘と二人暮らしだが、大変に正直者なので、「正直清兵衛」とあだ名にまで呼ばれている。

酒好きなので、今日も杉酒屋の忠右衛門という居酒屋で、つつましくチビリチビリとやっている。

雪が降ってきたので
「早めに帰る」
と言って清兵衛が店を出た。

そのあと、今日は早じまいをしようと、かみさんが後片付けをしていると、戸口になにか落ちている。

よく見ると、中に十五両もの金が入った汚い財布。

清兵衛が落としていったに違いない。

だが、これは天からの授かりものと夫婦でほくそ笑み、さっそくネコババすることに決めて、たんすの後ろに隠した。

そこへ案の定。

清兵衛が息せき切って駆け込んでくる。

「確かにここに十五両の金を忘れたに違いないから、返してくれ」
と頼むのを忠右衛門、
「そんなものは知らない」
と突っぱねるばかりか、
「おまえのようなじいさんが十五両もの大金を持っているわけがねえ、お上でも怪しいと思うだろうから、そっちにも嫌疑がかかる、訴え出るなら勝手にしねえ」
と、逆ねじをくわせた。

涙ながらに清兵衛、
「あの金は去年の秋、自分が大病した時に、薬代で全財産使ってしまって途方に暮れていると、孝心あつい娘のおしげが、吉原京町二丁目の朝日丸屋に身を売って、おとっつぁんの商売の元手にとこしらえてくれた金だ」
と、話す。

しかし、なおも忠右衛門が「知らない」と言い通すので、清兵衛はあきらめ、とぼとぼ雪の中を引き返して行った。

金のいきさつを聞いて、心穏やかでなくなった忠右衛門。

あのじじいは正直者と評判だから、いつ「お恐れながら」とお上に訴え出ないとも限らないし、こっちもすねに傷を持つ身。というのは、桶川の問屋場で帳付けをしていた頃、遠州浜松在の一の宮から来た六蔵という男から預かった十両の金を横領し、そのため六蔵が井戸へ身を投げたので、悪評判が立って、在所にいられなくなり、江戸へ流れてきた、といういきさつがあったから。

この上、余罪が露顕すれば首が胴についていないので、用心にしくはないと清兵衛の後を追いかけ、金が見つかったと渡すふりをして、あいくちでズブリ。

しかし、たたりはあるもので、その月、女房のお里が懐妊した。

十月十日たって生まれたのが、玉のような男の子、ではなかったから、産婆が腰を抜かした。

顔にしわが寄って、頭は白髪。

これがお里を見て、ニヤリとすごい顔で笑う。

さては清兵衛の生まれ変わりかと、夫婦は青くなったが、いくら悪党でも親子の情。

殺しきれずに育てたが、やがてこの子が成人の後忠右衛門夫婦を殺すという、因果は巡る糸車。

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うんちく

問屋場 【RIZAP COOK】

といやば。宿場はずれで、宿泊の斡旋、伝馬、荷馬、駕籠などを調達し、旅行者や荷物の運送を取り扱う、公設の会所です。

大名行列の宿割りや、下座触れといって、大名行列が通るときに、沿道の旅人や土地の者に、土下座をしておくように触れ回る役目もありました。

問屋場の責任者を長、下役を手代と呼びました。噺の中で忠右衛門がしていた帳付けは、出納帳に出入りの金を書き付ける仕事です。

「問屋駕籠」は、宿駅の問屋場に常備している粗末な駕籠で、これは、非常の、急な必要に備えるためでした。

「もう半分」の姉妹編 【RIZAP COOK】

天保年間(1830-44)につくられた長編怪談噺「正直清兵衛雪埋木」の抜き読みですが、全編は現在伝わっていません。

興津要は、井原西鶴の『本朝二十不孝』巻三(貞享3=1686年刊)中の「当社の案内申す程をかし」を原話としていました。

これは、油売りを殺して金を奪い、その娘といっしょになって子ができたが、その子が油を飲み、殺人のいきさつを物語るという因果話です。

もう半分」はあらすじが似ているので、原話は同じで、「正直清兵衛」の一部が分かれて改作されたのではないかと思われます。

この噺は大詰めの敵討ちの場面を中心に二世河竹新七(黙阿弥)の手で歌舞伎に脚色され、安政4年(1857)5月、「敵討噂古市」の外題で、市村座で初演されています。

怪老人「百歳正蔵」 【RIZAP COOK】

明治40年(1907)7月、『文藝倶楽部』に載った五代目林家正蔵の速記が、現存する唯一のものです。

この正蔵、異名の「百歳正蔵」が示す通り、芸よりなにより、今なお破られていない落語家の最長寿レコード保持者として語り伝えられています。

当人は速記の冒頭で「私は当年八十四歳の老人でございますが」と語っています。文政7年(1824)11月11日生まれが現在の一応の定説で、大正12年(1923)3月6日没、享年百。ただし、当人も正確な年はわからなかったらしく、数え百二歳説もあります。

五代目古今亭志ん生が、正蔵の享年を「一束十五(115)」としているのは、いくらなんでもオーバーでしょうが。

この正蔵、志ん生が若き日、ドサ回りでいっしょになった時は少なくも、もう九十に手が届く年。それが……。「下座のおばさんのところへ夜ばいに行った」と。「大変な爺ィがあったものであります」と、志ん生が脱帽している「怪人」でした。

「正直清兵衛」、正蔵爺さんが冥土へ持っていったと見え、彼の没後はまったくと途絶えています。

杉酒屋 【RIZAP COOK】

入り口に、丸く切った杉板を看板代わりに掛けてある安酒屋です。

【語の読みと注】
長 おさ:問屋場の責任者
手代 てだい:問屋場の下役
敵討噂古市 かたきうちうわさのふるいち

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