【大男の毛】おおおとこのけ 落語演目 あらすじ
【どんな?】
図抜けたお相撲さん。
吉原に行ったらどうなる?
きてれつなバレ噺です。
【あらすじ】
ヌッと立つと、乳から上は雲に隠れて見えないというくらいの、大男の関取を連れて、ひいきの石町のだんなが吉原へ。
なにしろ、とてつもなく巨大な代物なので、お茶屋は大騒動。
座敷に通して酒を出すのに、普通の杯では飲み込んでしまうというので、酒樽を猪口代わりに、水瓶であおるというすさまじさ。
その関取、これでも
「ワシは酒が弱い」
と言って、こくりこくりと居眠りを始めた。
部屋の中に山ができたようなもので、じゃまでしようがないので、どこかへ片づけてしまえと、襖をぶち抜いて一六五畳敷きの広間をこしらえ、そこに寝かせることにしたが、それがまた一大事。
布団は蔵からあるだけ運んで、座敷中、片っ端から並べ、枕は長持ちを三つ分くくり付けた代用品。
寝間に担ぎ込むのに十人がかりで
「頭はどこだ」
「巽の方角だ」
「磁石を持ってこい」
と大騒ぎ。
掛け蒲団も山のように盛り上げて、まるで熊野浦に鯨が揚がったよう。
ようやく作業が完了したところで、今度は花魁の出番。
年増ではダメだから、せいぜい若いのをというだんなの指示で、年は十七だが、そこはプロ。
泰然自若として、心臓に毛が生えている。
ところが、この大山にはさすがに仰天。
無理もない。関取がいびきをかくごとに、魔術のように火鉢が中空へ。
下りると、また噴き上げられる。
寝返りを打つと家鳴りがして、まるで地震か噴火。
「驚いたねえ。ちょいと、関取の懐はどこだい」
「へえ、向こうが五重の塔になりますから、三の輪見当でしょう」
それでも花魁、関取の腹にヒョイとまたがった。
「おそろしく高いねえ。江戸中が見渡せるよ。わちきの家があそこに見える。おや、段々坂になった。ここは穴蔵かしらん」
「これ、ワシのへその穴をくすぐるな」
そのうちに、段々坂から花魁がすべり落ちて、コロコロ転がる拍子に、薪ざっぽうのようなものにぶつかった。
妙な勘違いをして
「不思議なこと。大男に大きな○○はないというけど、関取、おまはんのは、体に似合わず小粒だねえ」
「ばかァ言え。そりゃ毛だ」
底本:四代目橘家円喬
【しりたい】
円喬の艶笑落語
原話は天明6年(1786)刊の絵入笑話本『腹受想』中の「大物」。
この噺のようなバレ噺(艶笑落語)で、実名で速記や上演記録が残ることはまずありません。
今回、あらすじの参考にしたのは明治28年(1895)4月の「百花園」に掲載された、四代目橘家円喬の速記です。
名前入りで、しかも当時の大看板の口演記録が残るのは、きわめて珍しい例です。
艶笑がかっているのは、オチの部分だけで、前半はただ、関取の巨人ぶりの極端な誇張による笑いと、右往左往する宿の連中の滑稽だけです。
これと対照的なのが、「小粒」「鍬潟」といった小物力士の噺です。
どちらも艶笑噺の要素はありません。
この噺の前半と似て、力士の巨体を誇張する噺に「半分垢」があります。
巨人ランキング
相撲取りで歴代随一の巨人は、土俵入り専門の看板力士だった生月鯨太左衛門(1827-50)にとどめをさすでしょう。
記録によると、二十歳で身長233cmといわれます。
一説には243cmあったとも。
それに次ぐのが、大関、釈迦ケ獄雲右衛門(1749-75、227cm)、文政期の看板力士、龍門好五郎(1807-33、226cm)、同じく大空武右衛門(1796-1832、228cm)という面々。
明治以後では、関脇、不動岩三男(1924-64、212cm)が現在に至るまでの記録保持者です。
外国人力士も多くなり、身長、体重の平均値は昔とは比較にならないほどの現在の相撲界でも、210cmを超えるとなると、そうザラには出ないということでしょう。
大男に大きな……というのはまったく当てにならないらしく、相撲界に巨根伝説は数多いのですが、その反対の話はついぞ聞きません。
これは普通人のやっかみ、負け惜しみと思った方がいいでしょう。
【語の読みと注】
猪口 ちょこ
襖 ふすま
巽 たつみ:東南の方角
花魁 おいらん
年増 としま
腹受想 ふくじゅそう
生月鯨太左衛門 いけづきげいたざえもん