えじまやそうどう【江島屋騒動】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

三遊亭円朝の怪談。
舞台は江戸、下総、さらに江戸。
イカモノの因縁が恐怖と化す。

別題:鏡ヶ池操松影 老婆の呪い

あらすじ

【上】

深川佐賀町の倉岡元庵という医者がポックリ亡くなり、残された女房お松は、娘お里と共に自分の郷里、下総の大貫村に帰った。

ある日、村の権右衛門がやってきて、名主の源右衛門のせがれ、源太郎が、檀那寺の幸福寺の夜踊りでお里を見初め、嫁にもらってくれなければ死ぬという騒ぎだという。

自分が仲人役を言いつかったので、どうしても承知してくれなければ困ると権右衛門に乞われ、お松に不服のあるはずがない。

支度金五十両を先方からもらうという条件で婚約が整う。

その金で婚礼衣装を整えるために江戸へ母娘で出て、芝日陰町の江島屋という大きな古着屋で、四十五両二分という大金をはたき、すべて新品同様にそろえた。

いよいよ婚礼の当日、天保二年(1832)は旧暦十月三日。

お里は年は十七、絶世の美人。

権右衛門が日暮れに迎えに来て、馬に乗って三町離れた名主宅まで行く途中、降り出した雨でずぶ濡れになってしまう。

お里が客の給仕をしているうち、実は婚礼衣装は糊付けしただけのイカモノだったため、雨に濡れて持たなくなり、ふいに腰から下が破れて落っこちてしまった。

お里は泣き崩れ、源右衛門は恥をかかされたとカンカン。

婚約は破棄になる。

世をはかなんだお里は、花嫁衣装の半袖をちぎって木に結んだ上、神崎川の土手から身を投げ、死骸も上がらない。

【下】

ある日、江島屋の番頭、金兵衛が商用で下総に行き、夜になって道に迷い、そのうえ雪までちらつきだす。

ふと見ると、田んぼの真ん中に灯が見えたので、地獄に仏と宿を頼むと「お入りなさい」と声を掛けたのは六十七、八の、白髪まじりの髪をおどろに振り乱した老婆。

目が不自由のようだ。

寒空にボロボロの袷一枚しか着ていないから、あばら骨の一枚一枚まで数えられる。

ぞっとする。

老婆は金兵衛に、ここは藤ヶ谷新田だと教え、疲れているだろうから次の間でお休み、という。

うとうとしているうちに、なんだかきな臭い匂いが漂ってきた。

障子の穴からのぞくと、婆さんが友禅の切れ端を裂いて囲炉裏にくべ、土間に向かって、五寸釘をガチーン、ガチーン。

あっけに取られている金兵衛に気づき、老婆が語ったところでは、まさしく老婆はお松。

江島屋のイカモノのため娘が自害し、自分も目が不自由にされた恨みで、娘の形見の片袖をちぎり、囲炉裏にくべて、中に「目」の字を書き、それを突いた上、受取証に五寸釘を打って、江島屋を呪いつぶすとすさまじい形相でにらむ。

金兵衛はほうほうの体で逃げ去った。

江戸へ帰ってみると、おかみさんが卒中で急死、その上小僧が二階から落ちて死に、いっぺんに二度の弔いを出す、という不運続き。

ある夜、金兵衛が主人に呼ばれて蔵に入ると、島田に結った娘がスーッと立っている。

ぐっしょりと濡れ、腰から下がない。

「うわーッ」
と叫んで、主人に老婆のことをぶちまけた。

「つまり、目を書きまして、こっちにある片袖を裂いて、おのれッ、江島屋ッ」

ガッと目の字を突くと、主人が目を押さえてうずくまる。

見ると、植え込みの間から、あの婆さんが縁側へヒョイッ。

これがもとで江島屋がつぶれるという、因縁噺の抜き読み。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

円朝の怪談噺  【RIZAP COOK】

本名題は「鏡ヶ池操松影」といいます。全十五席の長講です。

明治2年(1869)、三遊亭円朝30歳のとき、「真景累ヶ淵」に続いて創作したものです。

先の大戦後、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)がよくやりました。

並んで、この噺を得意にしたのが四代目古今亭今輔(中島市太郎、1886-1935)と六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)。

円生は、マクラでこの噺のネタを実在した江島屋の元番頭から仕入れたと語っていますが、この情報の出自は不明です。

明治中期には、円朝の高弟、四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が得意にしていました。

原題の「鏡ヶ池」は、古く浅草の浅茅原にあったとされる池で、入水伝説があったところから、この噺のお里の入水に引っ掛けたと思われます。

倉岡元庵  【RIZAP COOK】

円朝の最初の妻はお里といいます。その父親は倉岡元庵といいました。

御徒町に住むお同朋だったそうです。

お同朋、同朋衆にはいろいろの職種がありましたが、倉岡自身は茶坊主だったようです。とうぜん、江戸城出入りの、です。

権力をかさに着た人々の一人だったのですね。

円朝はお里との間に、朝太郎という一子をもうけましたが、円朝は晩年、朝太郎のために苦しめられました。

五代目志ん生が復活  【RIZAP COOK】

長らく途絶えていたものを、戦後、五代目古今亭志ん生、ついで五代目古今亭今輔があいついで復活させ、ともに夏の十八番としました。

志ん生は円朝の速記か「円朝全集」(春陽堂、1926年)で覚えたのでしょうが、因縁噺の陰惨さをできるだけ和らげるため、特に前半、ところどころ脱線して、「色の真っ黒いところへ白粉を塗って、ゴボウの白あえ」と言ったり、お里に「身を投げるからよろしく」と言われた村の者が「ンじゃあ、気をつけて行ってくんなさい」と、ボケをかましたりと、さまざまな苦心をしています。

志ん生の長男、十代目金原亭馬生も父親譲りで、「もう半分」とともに怪談のレパートリーにしていました。残念ながら音源はありません。

芝日陰町  【RIZAP COOK】

しばひかげちょう。港区新橋二~六丁目にあたります。

日当たりが悪かったことから、この名が付いたとか。

江戸時代から古着屋が多く、この噺の江島屋のように田舎者相手のイカサマ商売も多かったといいます。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」で、悪党・道玄をやりこめる加賀鳶・松蔵がここに住んでいました。

イカモノ

イカモノは、見てくれだけの偽物のこと。

語源は「いかにもりっぱそうに見える」からとも、武士で、将軍に拝謁できないお目見え以下の身分の低い御家人を「以下者」と呼んだことから、ともいわれています。

値段をごまかす隠語で「げそる」というのがあります。

烏賊の足は「げそ」。「いか」と「げそ」。

値段や品物をごまかすことに、烏賊がなにかかかわりあるのでしょうか。

江島屋の「その後」  【RIZAP COOK】

大正末期頃まで、江島屋の末裔が木挽町(中央区銀座二~八丁目)で質屋をしていたとのこと。

木挽町といえば、通称は東銀座、歌舞伎座あたり。

芝居関係者の「ごひいき」が多く、界隈では知らぬ者のない、けっこう大きな店だったとか。

怨霊につぶされたというのは、どうもヨタくさいです。

ことばよみいみ
深川佐賀町ふかがわさがちょう
倉岡元庵くらおかげんあん
下総しもうさ
大貫村おおぬきむら
檀那寺だんなでら
幸福寺こうふくじ
芝日陰町しばひかげちょう
神崎川こうさきがわ
あわせ
囲炉裏 いろり
藤ヶ谷新田ふじがやしんでん
鏡ヶ池操松影かがみがいけみさおのまつかげ
真景累ヶ淵しんけいかさねがふち
因縁噺 いんねんばなし

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さらやしき【皿屋敷】落語演目

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【どんな?】

播州、怪談で名高い皿屋敷。

そこは落語。なんでもパロディーにしちゃいますね。

別題:お菊の皿

【あらすじ】

播州赤穂城下の怪奇譚に、有名な皿屋敷というのがあった。

その昔、青山鉄山という藩士が、お女中のお菊という絶世の美女をわがものにしようと口説いたが、お菊は三平という夫のある身。

貞節な女なので、いかに主人の命とはいえ、どうしてもなびかない。

そこで鉄山、かわいさあまって憎さが百倍。

お菊が預かっていた家宝の皿十枚のうち、一枚をわざと隠し、客があるから皿を出して数えてみろと、言いつけた。

なにも知らないお菊、何度数え直しても九枚しかないので、真っ青になってぶるぶる震えるのを、鉄山はサディスティックにうち眺め、
「おのれ、憎っくき奴。家代々の重宝の皿を紛失なすとは、もはや勘弁相ならん、そちが盗んだに相違いない。きりきり白状いたせ」

さんざん責めさいなんだ挙げ句、手討ちにして死骸を井戸にドボーン。

「ざまあみゃあがれ」

それ以来、毎晩、井戸からお菊の亡霊が出て、恨めしそうな声で
「一枚、にまああい」
と、風邪を引いた歌右衛門のような不気味な声で九枚まで数え終わると
「ヒヒヒヒヒ」
と笑うから、鉄山は悪事の報いか、鬱が高じてとうとう悶死して家は絶えた、という。

今なお、その幽霊が出るという評判なので、退屈しのぎに見物に行こうという罰当たりな連中が続出し、毎晩井戸の周りは花見さながら、押すな押すなの大盛況。

ホットドッグ屋や焼きソバ屋、缶ビールの売り子まで出る始末。

いよいよ丑三ツ時、お菊が登場して、
「いちまーい、にまーい……」

数えはじめると、
「音羽屋ァ」
「お菊ちゃん、こっち向いて」
と、まあ、うるさいこと。

お菊もすっかりその気になり、常連には、
「まあ、だんな、その節はどうも」
と、あいきょうを振りまきながら、張り切って勤めるので、人気はいや増すばかり。

ところがある晩。

いつもの通り
「いちまあい、にいまああい」
と数えだしたはいいが、
「くまああい、じゅうまああい、じゅういちまあい」
……とうとう十八枚までいった。

「おいおい、お菊ちゃん。皿は九枚で終わりじゃねえのか?」
「明日休むから、その分数えとくのさ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

皿屋敷伝説

兵庫県・姫路ほか、各地に類話があります。

江戸のそれは、番町の青山主膳という旗本が、家宝の南京絵皿を腰元・お菊が誤って割ったので責めさいなみ、お菊が井戸に身を投げて死んだといわれるものです。

舞台化された現存最古の脚本は寛保元年(1741)7月、大坂・豊竹座で上演された、為永太郎兵衛・浅田一鳥ほか合作の人形浄瑠璃「播州皿屋敷」です。

歌舞伎の「皿屋敷」

歌舞伎では文政7年(1824)9月、大坂・嵐座初演の「播州皿屋敷」がもっとも有名です。

これはのち、文久3年(1863)6月市村座に河竹黙阿弥(吉村芳三郎、1816-93、当時は二世河竹新七)が「皿屋敷化粧姿視」として改作・脚色しました。

これは、播州・姫路の国家老・浅山鉄山がお家乗っ取りをたくらみ、下屋敷の宝物蔵から御家の重宝・唐絵の十枚揃いの皿のうち一枚を盗ませます。

お皿係りの腰元・お菊はその罪を着せられて鉄山の屋敷に連れ込まれ、かねてお菊に横恋慕している鉄山にくどかれますが、夫のある身なのでこれを拒否。

その上、主君毒殺の陰謀までお菊に知られたのでかわいさ余って憎さが百倍、激怒した鉄山がお菊を責めさいなんだ上、井戸でつるし斬りにしたため、のちにお菊の亡霊が皿を数えながら現れ、鉄山をとり殺すものです。

これに近代的解釈を加えた、岡本綺堂(岡本敬二、1872-1939)作で大正5年2月・本郷座初演の「番町皿屋敷」(→「厩火事」)もよく上演されます。

オチが効いたパロディー

皮肉で、捨てがたいオチを持つ佳作です。

口演記録はかなり古いようです。

文化年間(1804-18)に活躍した噺家の初代喜久亭寿暁きくていじゅぎょう(道具屋万吉→矢野治助、18世紀末-19世紀初、青陽舎)が書き留めた演題控え『滑稽集』(800題収載、1807-09)には、「さらやしき 明日休」とあります。

また、天保年間(1830-44)の笑話本「新板おとしばなし」中の「皿屋敷お菊が幽霊」などに、ほとんどそのままの類話があります。

落語としては上方ダネで、東京では六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)に教わったものを演じていました。

このあらすじは円生のものをテキストとしました。

九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)も得意で、現役では春風亭小朝の十八番です。

古くは、「明日はお盆で休みます」と落としていました。

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ねこかいだん【猫怪談】落語演目

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【どんな?】

やり方次第でどうとでもなる魅力的な噺。

円生のお気に入りでした。

【あらすじ】

浅草蛤町の長屋に住む、与太郎。

幼いころに両親が死んで、身よりもなく路頭に迷うところを引き取って育ててくれた恩人の親分が急にあの世へ行ってしまっても、ぽおっとしているばかり。

見かねた大家がしかりつけた。

葬式を出さなくては、と、長屋の衆から香典を集めてもらうなどして二分の金をこしらえ、早桶を買う。

ホトケを一晩でもよけいに置けばそれだけ銭がいるから、今夜のうちに寺に送ってしまおうという世話人の意見。

月番の羅宇屋の甚兵衛を片棒に頼み、後棒を与太郎、大家が提灯を持って先に歩くという三人連れで、早桶を担いで長屋を出た。

目的地は、谷中の寺。

提灯の明りだけが頼りという暗く寂しい道を、真夜中、上野の森下の弁天町あたりにさしかかる。

時候は霜が下りようという、初冬の寒いさなか。

前棒を担ぐ甚兵衛は大の臆病者だ。

加えて与太郎が能天気に
「もうそろそろ出る時分」
だの、
「出る方にきっと請け合う」
だのとよけいなことを言うから、甚兵衛はすくみ上がる。

死人が早桶からにゅっと手を出して背中をたたきゃしないかと、足もおちおち前に進まない。

甚兵衛が
「肩を替えて後棒に回りたい」
というので交替することになったが、与太郎が力まかせに、頭越しに桶を投げて入れ替わろうとした拍子に縄が切れ、ホトケがにゅっと飛び出した。

直そうとして与太が桶の縁をたたいたのが悪く、タガが外れて早桶はバラバラに。

前代未聞だが、早桶の替えを買わなくてはならなくなり、死人を外に寝かせたまま、与太を番に残し、大家と甚兵衛は出かける。

さすがの与太郎も少し薄気味悪くなってきたころ、魔がさしたか、寝かせておいた親分の死骸がぴくりぴくり。

見ている与太郎の前にちょんと座り、こわい顔でゲタゲタ笑う。

仰天して思わず横っ面を張り倒すと、また起き上がり、今度は宙に上がったり下りたり、両手を振って、ひょっこりひょっこり踊り。

与太郎が恐怖のあまり、
「ヨイコラ、ヨイコラ、セッ」
とはやすと、急に上空に舞い上がり、風に乗って上野の森の中へ入ってしまった。

……で、それっきり。

帰ってみて驚いたのは、大家と甚兵衛。

なんせ、せっかく早桶の新しいのを担いできたのに、今度はホトケがない。

与太郎がわけを話すと甚兵衛、恐ろしさで腰が抜けた。

このホトケ、三日目に浅草安部川町の伊勢屋という質屋の屋根に突然、降ってきた。

身元もわからず、しかたがないので店で改めて早桶をしつらえ、始末をしたという。

一人のホトケで三つの早桶を買ったという、不思議でアホらしい「谷中奇聞猫怪談」。

【しりたい】

ひょっこりひょっこり踊り

円生はただ「ぴょこぴょこ」と言っていました。

歌舞伎で、仰向けに寝ていて、手をつかず弾んで飛び起きるというアクロバット的なトンボを「ひょっくり」と呼ぶので、死骸が空中を飛び跳ねるのを、それにたとえたのでしょう。

魔物の正体

噺の中では「魔がさした」と説明されます。

死骸が突如動き出したり、口をきいたりすることで、年月を経て魔力を持った猫のしわざと考えられていました。

つまり、死霊やゾンビでなく、この場合は、死骸はあやつり人形にすぎません。

「捻兵衛」では、首吊り死体が八公を脅かして無理に歌わせなどしますが、これも実は猫の魔力によるもの。

「猫定」でも化け猫が人に憑りつきます。

明治時代の玉輔の速記には、猫の記述はありませんが、当時の客は、こういうくだりを見ればすぐわかったので、特に言及の必要はなかったのでしょう。

円生バージョンでは、題名もはっきり「猫怪談」とし、猫の魔力も、十分にマクラで説明しています。

効果的な後日談

事実上のオチは、(甚兵衛)「ぬ、抜けました」(大家)「しょうがねえな、また桶の底が抜けたか」(甚兵衛)「いえ、あたしの腰が」という最後の会話ですが、それで終わっては噺の結末として不十分なので、あらすじにご紹介の通り、玉輔も円生も最後に後日談を、地で説明して終わっています。

円生は死骸が落ちてきた先を、「七軒町の上総屋」としていました。

与太郎の「深い孤独」

円生は、四代目玉輔にこの噺を教わった三遊亭円駒(三代目小円朝門下、1899-1976)に移してもらったと語っています。

円駒は、曲芸の海老一染之助、染太郎兄弟の父親です。

昭和5年(1930)ごろから円駒を名乗り、同10年(1935)に長唄囃子に転向しているので、円生が教わったのは昭和初期、橘家円蔵時代でしょう。

円生は、与太郎に養父を親分でなく、おとっつあんと呼ばせ、幼年期のあわれなその境涯を大家がしみじみと語る場面を加えることで、単なるばかでなく、孤独な、血肉を持った人間として描きました。

「与太郎が親父の亡骸の前で『おとつぁん、なぜ死んだんだ』という。ばかとは言っても、肉親を失って悲しい。その思いを与太郎の言葉で言うところがこの噺の特徴」と、芸談として自ら語ったように、玉輔のものにはなかった人情噺の要素を加え、この噺に厚みを与えています。

三人が早桶を担いで暗い道を行く場面、怪異が現れるシーンでも、円生は訥々とした本格の怪談噺の語り口を通しています。

珍しい「爆笑怪談」

原話は不詳。元は長い人情噺か世話講談の一部だったのが、独立したものと見られます。

「不忍の早桶」と題した明治42年(1909)の、四代目五明楼玉輔(1855-1935)の速記が残ります。

先の大戦後では六代目円生、八代目正蔵の両巨匠が手掛けましたが、速記や音源が残るのは前者のみです。

円生は、その集大成である「円生百席」にもこの噺を入れています。

気にいった噺だったのでしょう。「捻兵衛」「七度狐」などと同じく、あまり類のない怪談喜劇です。

【語の読みと注】
羅宇屋 らおや

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