むらさきしきぶとみちながのねんぴょう【紫式部と道長の年表】古木優

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紫式部と藤原道長の頃(11世紀前後)の年表です。当時の貴人たちは「セックス&バイオレンス」に明け暮れていたことがよくわかります。陰湿な暗闘とおおっぴらな性欲。よくもまあここまで。天皇や公卿(三位以上)の権威もなんだかなあというかんじ。カッコ内の数字は数え年齢。

和暦(西暦)主なできごと
康保3年(966)閏8.19京都に大洪水、五条・六条以南が海のように。9.9洪水で京畿内に賑給(支援支給)し、今年の庸調(労役と繊維品納入)を免除に。10.28延暦寺31宇が焼亡。この年、藤原道長誕生
康保4年(967)5.20村上天皇疾病で畿内など26国に卒塔婆6000基を建立。5.25村上天皇没、憲平親王(冷泉天皇)践祚。6.22実頼を関白に。7.9延喜式を施行。10.11冷泉天皇即位。11.7諸国の交替使を定める。12.12実頼を太政大臣に
康保5年/安和元年(968)7.15東大寺と興福寺が寺田をめぐり乱闘。8.13改元。12.18信濃国が藤原千常(藤原秀郷の子)の乱を報告⇒乱の内容は不明
安和2年(969)2.7師尹と兼家の家人が乱闘、死者出る。2.19昭陽舎が放火。3.25源満仲の密告で橘繁延と僧蓮茂を逮捕、源高明を大宰権帥に左遷⇒安和の変。4.1高明の西宮第が焼亡。4.1橘繁延を土佐へ配流。4.2僧蓮茂を佐渡へ配流。4.2藤原千晴を隠岐へ配流。4.3諸国に命じて源連、平貞節を追討させる。8.13冷泉天皇譲位、守平親王(→円融天皇)受禅。9.21内教坊が焼亡。1015師尹没(50)。11.8平貞時を越前へ配流。12.26陸奥国、国守致正と権守貞茂の訴訟を報告
安和3年/天禄元年(970)4.2冷泉院が焼亡。5.18実頼没(71)。5.20伊尹を摂政に。紫式部誕生⇒不確定。970年代で諸説あり
天禄2年(971)9.10広平親王没(22)。10.29高明を召還。11.2伊尹を太政大臣に
天禄3年(972)閏2.21山城国山崎津で乱闘。民家40余戸が放火に。6.28神泉苑南門が倒れる。9.11空也没(70)。9.23大宰府、高麗使が対馬来着を報告。10.20大宰府に命じて高麗に報符(返信)を送らせる。11.27兼通を関白右大臣に。11.1伊尹没(49)
天禄4年/天延元年(973)2.27薬師寺が焼亡。3.13北野社御在所・礼殿が焼亡。4.2強盗が満仲邸を放火→300余戸類焼。4.10大宰府学校院が焼亡。5.17風雨で宮中舎屋が多数破損。12.20改元
天延2年(974)2.28兼通を太政大臣に。8.28疱瘡流行、紫宸殿前庭・建礼門・朱雀門で大祓。閏10.30高麗交易使が帰る
天延3年(975)5.29大炊寮糒倉に盗賊が入り米を奪う。6.15天皇が疱瘡。祇園感神院に走馬、勅楽、東遊、御幣などを奉納。6.16諸衛府官人らが諸国からの大粮米(食糧米)を下行(与える)しないと訴える。7.29東国に風害、信濃国御坂路(甲斐路)が壊れる。8.10公卿以下に命じ封事(密封意見)を進上(献上)させる。8.24上総国が天変を報告。8.27橘繁延らを召還。10.9施薬院倉に強盗が入り雑物を奪う。11.14朔平門の右衛門陣屋が放火される。
天延4年/貞元元年(976)1.2陸奥国で不動穀倉21宇を焼く。2.25但馬国出石社の怪異で御卜。5.11内裏焼亡。天皇は職曹司に移る。6.9内裏焼亡で服御常膳を減らし天禄3年以前の未納庸調などを免除。6.18地震、朝堂院・諸寺・民家など多数倒壊。6.18地震で近江国国分寺大門・国府庁雑屋が倒れる。7.12改元。7.26天皇、職曹司から兼通の堀河第に移る
この年、『蜻蛉日記』終わる
貞元2年(977)4.24 源兼明を親王に。7.29天皇、新造内裏に移る。10.11関白藤原兼通が辞任、藤原頼忠を関白に。11.8兼通没(53)
貞元3年/天元元年(978)3-橘時望(備前介)が海賊に殺される。4.10頼忠の娘遵子が入内。7.9天変怪異で16社に奉幣。8.17兼家の娘詮子が入内。10.2頼忠を太政大臣に。11.29改元
天元2年(979)4.21備中国、飯様の異物が降りこれを領民が食べると報告。5.13内裏に盗賊が入る。5.22下野国、前武蔵介藤原千常と源肥らの合戦を報告。
天元3年(980)閏3.16近江国の俘囚が上京、その首長を殴損した阿闍梨念禅の弟子を訴える。7.9暴風雨で羅城門・宮門ほかの諸門・諸司・諸道
天元4年(981)2.9采女司庁が焼亡。7.7天皇が頼忠四条坊門大宮第に移り四条後院(譲位後の御所)とする。10.27天皇、新造内裏に。12.1越前国気比大神宮が雷火で焼亡
天元5年(982)2.23伊予国、海賊能原兼信を追討したと報告。3.26来朝宋人に答金を給するために陸奥国に貢金を促す。5-法隆寺金堂に盗賊。6.5式乾門に強盗、小屋を放火。12.25天皇、堀河院に移る
天元6年/永観元年(983)2.21検非違使に命じ畿内で弓箭・兵杖を帯びる者を捕らえさせる。4.15改元。7.尹の一条第が焼亡。8.13大風で朝堂院・豊楽院の殿舎が倒れる。11.20讃岐国、異児(一頭二身八足)の解文(上奉文)と図を進上する。
この年、加賀国金剣神に従二位を授ける
永観2年(984)3.15 兼家の東三条院が焼亡。5.26非職者の兵杖を帯びる者の罰則を定める。6-旱魃で米価高騰。8.27円融天皇譲位、師貞親王(花山天皇)受禅。頼忠を関白に。10.10花山天皇即位。11.28破銭法を定め、格後の荘園を廃止。12.28水害旱災で公卿大夫に封事を進上させる
永観3年/寛和元年(985)1.21播磨介藤原季高・弾正少弼大江匡衡らを傷つけた左兵衛尉藤原斉明を追捕(追いかけて捕らえる)させる。4.22前播磨掾惟文王、近江国高島郡で藤原斉明を殺す。4.27改元。7.10旱災で左右獄の囚人33人を釈放。円融上皇落飾。9.19円融法皇、堀河院から円融院に。9.28伊勢斎王済子内親王の野営に盗賊が入り侍女の衣装を奪う
寛和2年(986)2.26興福寺僧徒が備前国鹿田荘での備前守藤原理兼の乱行を訴える。3.22 円融法皇、東大寺で受戒。3.29沽価法。6.23花山天皇が兼家らの計略で花山寺に連れ出され出家へ。6.24花山天皇譲位。懐仁親王(一条天皇)受禅、兼家が摂政。7.9大宰府、宋商鄭仁徳の来着を報告。僧奝然も帰国。7.22一条天皇即位。8.15満仲が出家。11.20頼忠、理兼の氏を奪う
この年、武蔵国で平忠頼・忠光らが乱行
寛和3年/永延元年(987)2.1阿波国の東大寺領新島・勝浦・枚方荘に使者を下して地子の徴収と散田の務めを行わせる。3.5 新制十三か条を定める。5.5新制五か条を定める。6.1旱魃で神泉苑の池水を放出。7.21兼家の東三条院が再建。7.26美濃国の百姓数百人が陽明門で国守源遠資の延任を請う。7.28天変旱災で封事を進上。9.7伊勢国の神人数十人が陽明門で伊勢国司清邦を訴える。11.2検非違使に銭貨の使用を促進させる。11.27諸寺に銭貨の流通を祈らせる。
永延2年(988)6.2僧徒従者の武器敬体を禁じる。6.13盗賊藤原保輔を藤原顕光の第で捕らえる。9.16兼家が二条京極第新造の宴を催し、河陽の遊女が群参する。11.8尾張国の郡司・百姓らが国守藤原元命の非法を訴える。この年、彰子(01)誕生。
永延3年/永祚元年(989)4.5尾張国司藤原元命を解任し、藤原文信を新任。6.1 衛府・帯刀・滝口の怠慢者を解官。8.8改元。8.13大風雨で宮城殿舎・門廊などが転倒、鴨川が決壊、諸国も被害大。9.29僧余慶を天台座主とし宣命使を派遣するが山僧が妨害。12.20兼家を太政大臣とする
永祚2年/正暦元年(990)1.25道隆の娘定子(14)が入内。一条(11)と結婚した。2.2西寺が焼亡。3.-源頼光らが丹波国の大江山の賊を討つ。5.5兼家を関白に。5.8道隆を関白に。5.10兼家、二条京極第を積善寺とする。道隆を摂政に。10.17諸司・諸衛の官人の故なく畿外に出る者を本司に勘申(朝廷で儀式などに必要な先例や典故を調べたり、行事の日時などを占い定めたりして報告する)させる。11.7改元。11.16阿波国に復一年を給する。12.28実資、円融法皇に信濃国の梨一櫃を献上
正暦2年(991)1.-藤原佐理が大宰大弐となり、赴任途上で離洛帳を記す。4.3太皇太后昌子内親王の三条御所が焼亡。6.13降雨を祈り東大寺で七大寺の僧600人が大般若経を読む。6.22旱魃で神泉苑の治水を放出。9.7為光を太政大臣に。9.10尾張国、白雉を献上。9.16円融皇太后詮子が出家、東三条院を宣下される
正暦3年(992)9.20大宰府、筑前国に命じて検田使の筥崎領への入部を停止させる。10.14検非違使の尉以下の官人が看督長を京外に派遣することを禁じる。11.30阿波国の海賊追討使源忠良、海賊16人を討つ。12.2忠良が進上した海賊の首を東獄門(のちの東西市)に梟し、投降者を投獄。12.4筑前国安楽寺、天満天神の託宣(お告げ)を注進する
正暦4年(993)3.30道隆の東三条院が焼亡。5.20託宣により菅原道真に左大臣正一位を追贈(死後に称号や勲位・勲章などを贈る)。8.11疱瘡流行で大赦を実施、庸調を免除。8.21疫災駆除のため紫宸殿・建礼門・朱雀門で大祓。8.-円仁系と円珍系の僧が争う。円珍系が比叡山を出る。閏10.20道真に大乗大尽を追贈。冬、清少納言が定子の女房(推定28)
この冬、大宰府管内諸国に疫病が流行、翌年まで続く
正暦5年(994)2.11道隆が積善寺建立。2.17弘徽殿と飛香舎が放火される(一条が住む清涼殿の北隣、定子が住む登花殿の南隣にある)
正暦6年/長徳元年(995)権力の流れが中関白家(道隆系)からそれた年。正月の時点では道長(権大納言、30)の序列は第8位。上には、①道隆(関白、長兄43)、②源重信(左大臣、74)、③道兼(右大臣、次兄35)、④伊周(内覧、従兄弟22)。道長は伊周よりも2階級下
1.9御所鴨院・藤原伊周の二条第が焼亡。2.22改元。道隆没(43)。4.27疫災で五畿七道諸国に六観音像・大般若経を図写させる。4.27道兼を関白に。在職7日で死没。七日関白。5.11道長を内覧に。6.19道長を右大臣に。7.24道長と伊周が仗座で論争。9.6若狭に来着した宋人朱仁聰ら70人余を越前国に移す。10.18宇佐宮の訴えで藤原佐理を罷免。10.24尾張国の勧学院領玉江荘荘司を殺害した班員を逮捕
この年、疫病流行で、7月までに五位以上63人が死没
996年(長徳2年)1.16伊周と隆家の従者が花山法皇を射る⇒長徳の政変。2.-県召除目で源国盛が越前守に任じられるが、道長の指示で藤原為時に改められる。4.2伊周を大宰権帥、隆家を出雲権守に⇒左遷。5.1定子が落飾。5.19石見国に高麗人が来着。5.-伊周が赴任途中で病と称して播磨国に留まる。6.1群盗が大納言藤原顕光の第を襲う。11.8宋商朱仁聰の罪名を調べさせる。12.1諸国の申請した宮門ほかの作料のことを定める。12.8伊周、大宰府に到着
この年の夏、紫式部は父為時と越前に赴く
この年、米価高騰で京中で火災が頻発
この頃、清少納言が『枕草子』をあらわす
997年長徳3年)4.5伊周と隆家に積みを許して召還。6.11河内国若江郡の美努氏一族に内紛起こる。10.1大宰府、筑前・筑後・薩摩など諸国に奄美人が乱入したのを報告。11.2大宰府、奄美人(南蛮人)40余人を伐獲すると報告
998年(長徳4年)
999年(長徳5年/長保元年)1.13改元。11.1彰子(12)、一条(20)に入内。11.7定子、敦康親王(01)出産
1000年
1001年4.25宣孝没。6.20隆光、蔵人に
1002年
1003年
1004年
1005年
1006年
1007年
1008年7.16彰子、出産に向けて土御門殿を退出。『紫式部日記』始まる。8.26彰子と女房たちが薫物調合。9.9重陽の節句。紫式部、彰子の母倫子(45)から菊の綿拝受。夜半、彰子が陣痛。9.10彰子、出産用の白い帳台に入る。9.10彰子、北廂の分娩場所に移動、一条の次男敦成親王(01)出産。御湯殿の儀。9.13三日の産養(中宮職主催)。9.15五日の産養(道長主催)。9.17七日の産養(一条主催)。9.19九日の産養(彰子の弟頼通主催)。10.16一条が土御門殿に行幸。10.17敦成親王家家司人事決定。11.1敦成親王五十日の儀。11月上旬、彰子が紫式部を係に御冊子制作。『源氏物語』新本か。11.17彰子、内裏へ還啓。11.20五節始まる。11.28賀茂臨時祭。12.20敦成親王百日の儀。12.29紫式部、内裏へ帰参。初出仕時を回想。12.30追儺。中宮御所に盗賊
1009年1.3 敦成親王(02)戴餅
1010年
1011年
1012年
1013年
1014年
1015年
1016年
1017年
1018年
1019年
1020年
1021年
1022年
1023年
1024年
1025年
1026年
1027年12.4藤原道長没
1028年
1029年
1030年
1031年
1032年
1033年
1034年
1035年
1036年
1037年
1038年
1039年
1040年
1041年
1042年
1043年
1044年
1045年
1046年
1047年
1048年
1049年
1050年
1051年
1052年
1053年3.4藤原頼通、平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)を供養

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むらさきしきぶをめぐるひとびと【紫式部をめぐる人々】古木優

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仕事のからみで紫式部の関係人脈図を作成します。備忘録です。五十音。一条天皇の時代の情報が主です。

人名よみ生没年何者か
赤染衛門あかぞめえもん967-1041源倫子、中宮彰子の女房。歌人。大江匡衡の妻。右衛門尉だった赤染時用の娘で、赤染衛門。夫とはおしどり夫婦で、正衡衛門といわれるほど。当時のゴシップ小説『栄花物語』の作者か。平中古三十六歌仙
敦良親王あつながしんのう1009-45後一条天皇(1036-45)。一条天皇の三男。彰子の第二子
敦成親王あつひらしんのう1008-36一条天皇の次男。彰子の第一子
敦康親王あつやすしんのう定子の第一子
和泉式部いずみしきぶ978-1027以降彰子の女房。夫は橘道貞。任国が和泉国だったので和泉式部だといわれるが、「式部」はどう由来するのかが不明。いいかげんなものである
伊勢大輔いせのたいふ未詳彰子の女房
一条天皇いちじょうてんのう980-1011在位986-1011。父は円融。母は詮子
右大将道綱母うだいしょうみちつなのはは937-995藤原兼家の妻
馬の中将/馬の中将の君うまのちゅうじょう/うまのちゅうじょうのきみ未詳彰子の女房
叡効えいこう965-1021天台僧。権律師
大江正衡おおえのまさひら952-1012文章博士。妻は赤染衛門
大左衛門のおもとおおさえもんのおもと未詳道長家、彰子の女房
大式部/大式部のおもとおおしきぶ/おおしきぶのおもと未詳道長の女房。宣旨(女房集団の最高位)。夫は藤原済家(敦成親王の家司)
花山天皇かざんてんのう968-100817歳で即位。19歳で出家、退位
儀同三司母ぎどうさんしのはは?-996高階貴子
内蔵の命婦くらのみょうぶ未詳彰子の弟教通の乳母。大中臣輔親の妻。助産のベテラン
源式部げんしきぶ未詳彰子の女房。
小馬こうま未詳彰子の女房。高階道順の娘
小左衛門こざえもん未詳彰子の女房
小式部内侍こしきぶのないし?-1025和泉式部の娘
小式部の乳母こしきぶのめのと未詳嬉子の乳母。藤原泰通の妻
小少将/小少将の君こしょうしょう/こしょうしょうのきみ彰子の女房
五節の弁ごせちのべん未詳彰子の女房。平惟仲の養女
小中将の君こちゅうじょうのきみ未詳彰子の女房
小兵衛こひょうえ未詳彰子の女房
小兵部こひょうぶ未詳彰子の女房。藤原庶政の娘
宰相の君/北野の三位の宰相の君さいしょうのきみ/きたののさんみのさいしょうのきみ未詳彰子の女房。藤原遠度の娘
宰相の君さいしょうのきみ未詳藤原豊子。彰子の女房。敦成親王の乳母。大江清通の妻。大江定経の母。藤原道綱の娘
左衛門の内侍さいものないし内裏女房、彰子の女房
左京/左京の命婦さきょう/さきょうのみょうぶ内裏女房、彰子の女房
式部のおもとしきぶのおもと彰子の女房
少将のおもとしょうしょうのおもと道長の女房と彰子の女房を兼職
少輔の乳母しようのめのと彰子の女房
尋光じんこう971-1038天台僧。藤原為光の息
心誉阿闍梨しんよあじゃり971-1029天台僧。藤原顕忠の孫。藤原重輔の息。→法成寺別当→権僧正
清少納言せいしょうなごん966-?定子の女房。清原元輔の娘
選子内親王せんしないしんのう964-1035村上天皇の第十皇女。母は藤原師輔の娘の安子
大納言の君だいなごんのきみ彰子の女房
大弐三位だいにのさんみ未詳藤原賢子。紫式部の娘。越後弁→弁乳母→弁典侍→大弐三位→藤三位
大輔の命婦たいふのみょうぶ源倫子、彰子の女房
平幸義たいらのゆきよし965-1010高階敏忠の息。道長に近い
橘の三位たちばなのさんみ内裏女房、彰子の女房
筑前/筑前の命婦ちくぜん/ちくぜんのみょうぶ内裏女房、彰子の女房
中将の君ちゅうじょうのきみ選子内親王の女房
藤三位とうさんみ藤原繁子。内裏女房
具平親王ともひらしんのう964-1009村上天皇第七皇子
中務の君なかつかさのきみ源隆子。彰子の女房
中原致時なかはらのむねとき未詳明経博士→伊勢守従四位。実直な官人
念覚阿闍梨ねんがくあじゃり967-1030天台僧。園城寺。→権少僧都
藤原顕光ふじわらのあきみつ944-1021藤原兼通の長男
藤原有国ふじわらのありくに943-1011藤原冬嗣の兄。真夏系。橘の三位の夫。道長家司→参議
藤原景斉ふじわらのかげまさ?-1023越前国司→大和国司→楽人
藤原兼家ふじわらのかねいえ
藤原兼隆ふじわらのかねたか985-1053道兼の次男
藤原懐平ふじわらのかねひら935-1017藤原実頼の孫。藤原実資の同母兄。参議正三位→東宮権大夫。道長と対立
藤原嬉子ふじわらのきし1007-25藤原道長の娘。彰子の末妹
藤原公季ふじわらのきんすえ957-1029藤原師輔の十一男。兼家の28歳下の異母弟
藤原公任ふじわらのきんとう966-1041
藤原公信ふじわらのきんのぶ977-1026
藤原妍子ふじわらのけんし994-1027
藤原惟風ふじわらのこれかぜ未詳
藤原実資ふじわらのさねすけ957-1046
藤原実成ふじわらのさねなり975-1044
藤原彰子ふじわらのしょうし988-1074
藤原資業ふじわらのすけなり988-1070
藤原詮子ふじわらのせんし962-1001
藤原隆家ふじわらのたかいえ979-1044
藤原隆光ふじわらのたかみつ973-?藤原宣孝の長男。紫式部の義息。受領職を歴任
藤原斉信ふじわらのただのぶ967-1035
藤原為時ふじわらのためとき未詳紫式部と藤原惟規の父。文章生→蔵人式部丞→越前守→越後守→出家
藤原遠理ふじわらのとおまさ未詳
藤原中清ふじわらのなかきよ未詳
藤原惟規ふじわらののぶのり?-1011藤原為時の息。紫式部の同母弟
藤原教通ふじわらののりみち996-1075道長の五男
藤原広業ふじわらのひろなり977-1028藤原有国の息
藤原正光ふじわらのまさみつ957-1014藤原兼通の六男
藤原道綱ふじわらのみちつな955-1020兼家の次男
藤原道長ふじわらのみちなが966-1027兼家の五男
藤原道雅ふじわらのみちまさ992-1054定子の兄。伊周の息
藤原泰憲ふじわらのやすのり1007-1081父は藤原泰通憲、母は中務の君
藤原泰通ふじわらのやすみち未詳藤原宣孝の甥。中務の君との間に藤原泰憲を儲ける
藤原行成ふじわらのゆきなり972-1027
藤原頼通ふじわらのよりみち992-1074
源経房みなもとのつねふさ969-1023
源俊賢みなもとのとしかた959-1027源高明の三男
源済政みなもとのなりまさ?-1041源雅信の孫
源憲定みなもとののりさだ?-1017村上天皇の子為平親王の長男
源雅通みなもとのまさみち?-1017倫子の同母兄時通の息
源道方みなもとのみちかた969-1044源重信の五男
源頼定みなもとのよりさだ977-1020村上天皇の子為平親王の次男。源憲定の弟。東宮(三条天皇)尚侍綏子と密通
源倫子みなもとのりんし964-1053源雅信の娘
宮の宣旨みやのせんじ未詳源陟子。彰子の女房。源伊陟の娘
宮の内侍みやのないし未詳彰子の女房
紫式部むらさきしきぶ973?-1031?藤原為時の娘。兄または弟に藤原惟規。為時も惟規も式部省の役人で、『源氏物語』の紫の上から、紫式部と当時から呼ばれていた。夫は藤原宣孝で、父親と同じ世代。側室だった
靫負ゆげい未詳彰子の女蔵人

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あかし【明石】川柳 ことば



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明石からおこし手の来る花の朝  十六38

江戸の川柳で「明石」と出てきたら、二つ思い起こすべきことがあります。①柿本人麻呂の歌と②源氏物語の明石。

この句は①が対象です。「ほのぼのと明石の浦の朝ぎりに島がくれゆく舟をしぞ思ふ」の上の句を唱えて寝ると、翌朝には早く目が覚めて、その際に下の句を唱えると風習があります。

なぜ、そんな風習があるのかといえば。

大奥づとめの御殿女中の世界では、花見は外に出かけられる行事のひとつ。桜の下で解放感を感じるためには、早起きが肝心なので、この歌を唱える風習が育ったのですね。

十四字は来月よんで顔を見る  安七桜01

十月晦日十七字、十一月一日の芝居の顔見世の朝十四字、そして鏡に向かい化粧、これも女性のたのしみ。

いしいしをたべて明石へ書きなぐり 十一34

こちらの明石は、①のケース。

「いしいし」は団子のこと。明石を書きなぐっているのは紫式部。いしいしから石山寺を連想させます。紫式部は明石の巻を石山寺で書いたといわれています。ただそれだけのことで、どうということもない句です。


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