かわずちゃばん【蛙茶番】落語演目

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【どんな?】

町内で繰り広げられる素人の芝居。
腹を抱えて笑っちゃいます。

別題:素人芝居 舞台番

【あらすじ】

町内の素人芝居で「天竺徳兵衛」の「忍術ゆずり場」を出すことになった。

大盗賊の徳兵衛が、赤松満祐の幽霊から忍術の極意を伝授され、ドロンドロンとガマに化ける場面である。

ところが、そのガマの役にくじ引きで当たってしまったのが、伊勢屋の若だんな。

やりたくないから、当然、仮病を使って出てこない。

困った世話役の番頭、しかたなく芝居好きの丁稚の定吉をなだめすかし、ガマ賃をやる約束で、ようやく代役を承知させる。

安心したのもつかの間、今度は、舞台のソデで客の騒ぎを鎮める役である舞台番をつとめる建具屋の半公が来ない。

この男、通称バカ半、ハネ半と呼ばれるほどお調子者。

とにかく舞台番がいないと幕が開かないので、定吉に呼びに行かせると、この前、だんなに
「今度、化物芝居の座頭に頼む」
と言われたのがしゃくで、
「誰が行ってやるもんか」
と大変な剣幕。

困った番頭、一計を案じて定吉に、
「半公が岡惚れしている小間物屋のみい坊が、『役者なんかしないで舞台番と逃げたところが半さんらしくていい』と誉めていたと言って、だまして連れてこい」
と言いつける。

これを聞いて有頂天になった半公、どうせならと、自慢の緋縮緬のフンドシを質屋から急いで請け出し、湯屋で入念に「男」を磨く。

ところが、催促に来た定吉に
「早く来ないとみいちゃんが帰っちまう」
とせかされ、あわてて湯から上がって外へ飛び出したのはいいが、肝心のフンドシを締め忘れ、マル出しのまま気づかずに……。

さて、半公が息せききって駆けつけ、ようやく開幕。

客はもちろん、舞台番なんぞに目もくれない。

半公、ソデからみいちゃんをキョロキョロ探すが、いるワケがない。

しかたなく、フンドシの趣向だけでも見せようと
「しょっしょっ、騒いじゃいけねえ」
と客が静かに芝居を見ているのに、一人で騒ぎ立てる。

あまりのうるささに一同ひょいと舞台番を見ると、半公の股間から妙なものがカマ首をもたげている。

「あれは作り物じゃない」
と場内騒然。

「ようよう、半公、日本一! 大道具!」

誉められた半公、喜んでいっそうはでに尻をまくり、客席の方に乗り出した……。

この間にも芝居は進んで、いよいよ見せ場の忍術ゆずり場。

ドロンドロンと大どろになるが、ガマの定吉が出てこない。

「おいおい、ガマはどうした。おい、定、早く出なきゃあだめだよ」
「へへっ、出られません」
「なぜ」
「あすこで、青大将がねらってます」

底本:三代目三遊亭金馬ほか

しりたい

茶番

もとは歌舞伎のの大部屋の役者が、毎年5月29日の曽我祭の日に酒宴を催し、その席で、当番がおもしろおかしく口上をのべたのが始まりです。

それを「酒番」といいましたが、享保年間(1716-36)の末に、下戸の初代澤村宗十郎が酒席を茶席に代えたので、酒番も茶番になったわけです。

宝暦年間(1751-64)になると、遊里や戯作者仲間、一般町人の間にもこの「口上茶番」が広まり、いろいろな道具を並べてシャレながら口上を言う「見立て茶番」、素人芝居に口上茶番の趣向を加味した「素人茶番」も生まれました。

この噺のイベントはその「素人茶番」、別名「立茶番」です。

「芝居」と銘打つとお上がうるさいので、あくまでタテマエは茶番とし、商家の祝い事や町内の催しものに、アトラクションとして盛んに行われました。

落語では、ほかに「権助芝居」があります。

天竺徳兵衛

ここに登場する芝居は、正式な外題を「天竺徳兵衛韓噺てんじくとくべえいこくばなし」といいます。現在も市川猿之助一座のレパートリーになっています。

四代目鶴屋南北(1755-1829)が、文化元年(1804)七月の河原崎座に書き下ろした作品です。

日本がまだ海外渡航できた寛永10年(1633)の頃。インド(天竺)に渡航して「天竺聞書」を出版した徳兵衛。徳兵衛が天下をねらい、ガマの妖術をあやつる大盗賊に仕立てた、壮大な歌舞伎狂言です。

19世紀初頭の南北にとって、それより200年も前に海外で活躍した徳兵衛の生涯は奇異に映ったはず。

「昔は外海に勝手に出かけられたのに、今といったらもう……」という心持ちでしょうか。

ご時勢のめぐりあわせを通して、徳兵衛のような勝手気ままな生き方にあこがれたのかもしれません。

金馬の「サクラ」作戦

この噺は、「素人芝居」という長い噺の後半が独立したものです。

オリジナルは、明治29年(1896)の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)。円喬の速記が残っています。

先の大戦後は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番でした。

その金馬がまだ円洲といった大正末期のこと。神田・立花亭の独演会でこの噺を演じたとき。客席に潜ませた子分の春風亭小柳、のちの三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)に「ガマが出ないじゃないか」と叫ばせ、待ってましたとばかり、「あそこで青大将がねらってます」とサゲて下りるという、派手な演出をしたそうです。

初代談洲楼燕枝

この噺、バレ噺の色が濃いのが特徴です。

明治のころ、これを口演した初代談洲楼燕枝(長島傳次、1837-1900)を始め、昭和20年まで、かなりの落語家が警察署に呼ばれて油をしぼられたそうです。

燕枝は、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)のライバルとして有名な人で、柳派の頭目でした。

明治33年(1900)という年は、燕枝が2月に、円朝が8月に逝って、柳派も三遊派もともに巨星堕つの感が当時の新聞各紙からうかがえます。

円朝は語り起こしの速記で自作を数多く残していますが、燕枝は自ら執筆して自作を残しています。

島鵆沖白浪しまちどりおきつしらなみ」「天保奇談孝行車」「西海屋騒動」「御所車花五郎」といったオリジナル作ばかりか、翻案の「侠客小金井桜」「岡山奇聞筆之命毛」「善悪草園生咲分」も残っています。

「島鵆沖白浪」だけは、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)が一部を、柳家三三が全編を通しでやったこともあります。

円朝のように全集もなく、燕枝は現在では、きわめて疎遠な存在とみなされています。

これほどポテンシャルの高い噺家も珍しいですし、円朝との対比と考察するのでも興味津々の存在です。研究者がもっとアプローチしてもいいのでしょうが。

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さんだいめこさんのえんちょうかん【三代目小さんの円朝観】

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尾崎秀樹おざきほつき(1928-99)。

尾崎秀実おざきほつみ(1901-44)の実弟です。こちらはゾルゲ事件で帰らぬ人となった朝日新聞のエリート記者。今では歴史上の人物でしかありません。

弟の秀樹はといえば、「国賊の家族」として冷遇されつつ、台北帝国大学の医学専門部を中退。先の大戦後も苦労は続き、大衆文学の評論家として名を馳せるようになりました。チャンバラ小説と言えば尾崎秀樹がダントツでしたが、いまは亡き人、もう忘れ去られた存在です。

ゾルゲ事件では、尾崎秀樹は自著『生きているユダ』(八雲書店、1959年)で、伊藤律(1913-89)を事件の「ユダ」として糾弾しました。しかしその後、さまざまな新研究の結果、「伊藤=ユダ」説がほぼ覆されています。そんなこともあってか、尾崎秀樹が語られる場面も少なくなっているのでしょう。

日本では、文芸評論家という立ち位置は、小説家とは異なります。生きている間はすさまじく席巻し影響を及ぼすのですが、死んでしまうとそれっきり。他人の褌で相撲を取る風情、文壇のダニみたいな気配が敬遠されるのでしょうか。「うるさい奴が消えた」くらいのもので、没後は顧みられることがあまりありません。

河上徹太郎かわかみてつたろう(1902-80)も、亀井勝一郎かめいかついちろう(1907-66)も、平野謙ひらのけん(平野朗、1907-78)も、十返肇とがえりはじめ(十返一、1914-63)も、保昌正夫ほしょうまさお(1925-2002)も、浅見淵あさみふかし(1899-1973)も、あるいは荻昌弘おぎまさひろ(1925-88)も、はたまた淀川長治よどがわながはる(1909-98)でさえも例外ではなかったかもしれません。

例外は小林秀雄(1902-83)でしょうか。小林の書いたものはクリティークとして残されているように、私には映るのです。

それはともかく。

尾崎秀樹の仕事はチャンバラ評論ばかりかと思っていましたら、初期の頃には落語、それも円朝について記した作品があったのです。

「三遊亭円朝」という、一冊の刊行物にするにはちょいと寸足らずではありますが、薄っぺらな書きなぐった雑文とは異なる味わい、重厚で濃密で、しかも、円朝と仏教とのかかわりについて言及しているのは、おそらく、ほかには関山和夫せきやまかずお(1929-2013)くらいかもしれません。

その中で、円朝より少し下った世代は円朝をどう見ていたのか、というくだりがありました。三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の円朝観を、小さんの『明治の落語』から引用している箇所を見つけました。

たいへんおもしろい内容なので、孫引きで載せさせていただきます。

「円朝は狂言作者を抱えて飼い殺しにしていた。芸は拙いし採る処はないが、作者がついていて常に新しいものを出した。一口に云えば山勘で興行師のような処がありました。年に春秋二回、十五日間位しかやらなくて高いお金をとっていたが、芸は拙い人でした。そこへいったら燕枝は円朝とは訳が違う。燕枝は人物が出来て居た。伯猿という人も、大した評判でしたが、講釈のまずさ加減というものは、無茶苦茶でまるで素人のようなものでした。伯猿と円朝は何故そんなに評判になったかというと、それは番付によい処に出すものですから、あんなになったのです。……(略)話が下手でも、狂言作者が附いていたので、次から次へと新しく行った。それだけのもので円朝は頭の悪い人でした」

以上が三代目小さんの弁。

いやあ、ひどい言いようです。でも、見ようによってはこんなところも円朝にはあったのかもしれませんね。

燕枝とは初代談洲楼燕枝(長島傳次、1837-1900)のこと。柳派における円朝のような存在です。小さんの立場からすれば自陣の人です。

円朝が逝った明治33年(1900)、燕枝も半年ほど早めに没しました。

燕枝も新作をものしています。

円朝と違って自ら書き残したものが多いため、今後、格好の研究対象として発掘されていってもよいのですが、円朝研究ほどの成果は上がっていません。

伯猿とは二代目松林伯円(手島達弥→若林義行→若林駒次郎、1834-1905)のこと。

当時の講談界の親分です。

明治政府からは、円朝と並んで「教導職」に任ぜられました。まあ、円朝と同列視される巨頭です。

「狂言作者を抱えて」のくだり、これは尾崎も触れていますが、仮名垣魯文かながきろぶん(野崎文蔵、1829-94)、条野採菊じょうのさいぎく(条野伝平、1832-1902)、三代目瀬川如皐せがわじょこう(六三郎、1806-81)、梅素亭玄魚ばいそていげんぎょ(宮城喜三郎、1817-80)、河竹黙阿弥かわたけもくあみ(吉村芳三郎、1816-93)などとのつきあいを皮肉っているのでしょう。

この方々は、幕末に盛り上がった「粋興連すいきょうれん」と称する同好の仲間でした。

条野採菊は、江戸期には山々亭有人さんさんていありんどという名の戯作者で、明治期には「警察新聞」を買い取って「やまと新聞」を創刊した新聞経営者に。鏑木清方(条野健一、1878-1972)の実父でもあります。

その変わり身ぶりは円朝にもいえることでしょう。

円朝は、江戸期には道具噺で歌舞伎もどきのにぎやかな芸風でしたが、明治5年(1872)には道具を弟子に譲り、わが身は扇子一本の枯れた素噺に変身したのですから。

三代目小さんと言えば、夏目漱石(夏目金之助、1867-1916)が「三四郎」などで絶賛した希代の話芸の名人でした。尾崎の言葉を借りれば、小さんとはこんな具合です。

三代目小さんは、頭の方はお留守だが腕はいい「与太郎」の登場する「大工調」とか、「笠碁」などをやらすと絶品で鈍重で邪気のない性格が、そのまま作中人物の性格になったといわれたはなしかだった。それだけに、才人で時代を見抜く眼のある円朝の動きは、ムシズが走るくらい嫌だったらしい。

「頭の方はお留守」なのは与太郎であって、小さんではありません。 誤読しそうです。日本語はややこしいです。

ここまで来たなら、ついでに、二派の違いを四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)からの引用でちょこっと。これも尾崎論文からの孫引きですが、まあ、お読みください。

柳派と三遊派のちがいについて四代目小さんはうまいことをいっている。「総じて柳の方は地味で、三遊は華やか、柳は隠居やお医者が巧く、三遊は若旦那や幇間、つまり天災や猫久が柳なら、湯屋番や干物箱は三遊といったわけ」(「小さん聞書」参照)これでもわかるように柳派はどちらかといえば地味、三遊派は派手で、小さんのこのみに円朝があわないのはあたりまえかもしれない。

ここらへんにくれば、落語通の方々は「そんなもんだろう」と納得されることでしょう。定着化された評価です。

三代目小さんが円朝をくさすのは、こんなところからきているのかもしれませんね。

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