素人洋食 しろうとようしょく 演目

 落語演目の索引 落語あらすじ事典 web千字寄席

どこかで聴いたような、デキのよろしくない噺。「寝床」じみてます。

【あらすじ】

文明開化の東京。

「いまだ旧平」という名の地主。

大変な金満家で、土地や家作(貸家)はもちろん、桑畑も持っているいいご身分だが、開化が大嫌いで、いまだにチョンマゲを乗せ、人力車が通ると胸が悪くなるだの、馬車の音がすると頭痛がするなどと言うので、長屋の者に、「デボチン頭の旧平」と陰口をたたかれている。

当人もうすうすそれを知っているから、
「オレに金を借りている連中ばかりなのに生意気だ、今に見返してやる」
と一念発起、文明開化に百八十度転向して、なんとか流行の先端を行く洋食屋を開業することにした。

コックを雇うのはめんどうだから、だんなが自分で料理をすることに決めた。

勧工場(デパート)で一銭五厘の『西洋料理煮方法』なる怪しげな虎の巻を買ってきて、要は魚油でなんでもかんでも炒めて、パンを食わせておけばいいのだからと、さっそく大家以下長屋の連中を招集し、料理の実験台にすることに決めた。

勝手に決められた奴こそいい迷惑で、なんだかだと理由をこしらえて誰も来ない。

怒った旧平だんな、
「来ない奴は洋食ならぬ店立てをくわせた上、貸金を利息共全部取り立てる」
と脅すので、しかたなく、みんな集まる。

「あのだんなのことだから、陰口をきいたのを根に持って毒を入れるかもしれない」
と、毒消しを用意したり、六十三になる女性が
「老い先短い命だから」
と、せがれの身代わりに念仏を唱えて出てきたりと、命がけの大騒ぎ。

ところが、やたらパンばかり出てくるので、一同閉口。

台所からお経のようなうなり声が聞こえるから、
「どうしたか」
と聞くと、「魚油と水が火に入って燃え上がったが、たった一人の相談役の道具屋の吉兵衛がいなくなり、だんなが困ってうなっている」
という。

「スプンとかいうものがほしい」
と注文が出たが、だんなは知らないのでスッポンと聞き違え、さっそく取り寄せて、生きているままテーブルに出した。

みんな食いつかれて大騒ぎ、という一幕の後、ようやく吉兵衛が帰ってくる。

「みなさん、どうしました」
「やたらパンばかり出て困ります」
「パンの多いはず。長屋一同バタ(バター=ばか)にされた」

【うんちく】

洋食ことはじめ 

初めて日本人が洋食を口にしたのは、記録上は、嘉永7年(=安政元、1854)、幕府の代表団がペリーの「黒船」に招かれての歓迎晩餐会、ということにこれまではなっていましたが、最近は、そんな間抜けな説をとなえる人はあまりいません。

すでに長崎の阿蘭陀通詞(幕府の通訳、身分は幕臣)たちはふつうに洋食を食べていました。江戸中期には彼らの間では一般的な生活習慣となっていました。つまり、江戸時代にもすでに西洋文化をしっかり受容していた人たちが一定数いたのです。彼らの多くは、維新後、東京なので西洋文化の橋渡しをする人たちとなりました。

明治維新後、肉食が解禁され、まず牛鍋屋が東京の各所に出現しました。

それ以前、慶応3年(1867)、『西洋衣食住』(福沢諭吉)でマナー、ナイフやフォークなど食器の紹介がなされ、明治4年(1871)には、横浜駒形町に本格的西洋料理店「開陽亭」がオープンしました。横浜居留地の西洋人相手の店でしたが。

明治5年(1872)、最初の本格的西洋料理レシピが掲載された『西洋料理通』(仮名垣魯文)が刊行されました。

これに触発されたか、東京にも翌年、京橋区采女町(今の銀座六丁目あたり)に北村重威が「精養軒」を開店したのを手始めに、神田橋の三河屋、築地日新亭、茅場町海陽亭などが開店しました。

明治10年(1878)前後には数も増え、十軒ほどの洋食屋が記録されています。この時期はまだ、日本人でこれらの店を利用するのは、役人、政治家、銀行家など、新興上層階級がほとんどでした。

初代三遊亭円遊の速記掲載の4年前、明治19年(1886)には、築地精養軒でテーブルマナーの講習会が開かれます。このあたりから、従前の「西洋料理」が「洋食」と言い慣わされるなど、ようやく一般にも普及し始めました。

明治30年代に入ると、洋食はますます定着し、39年(1906)9月発行の『東京案内』(東京市役所編)には、神田、日本橋、京橋を中心にした、比較的大規模な西洋料理店42軒が掲載されています。

この噺で、長屋のお歴々の悪夢のタネとなるパンは、かなり早く、寛政7(1795)年刊の『長崎見聞録』にすでに紹介されています。この本は通詞とは関係なく刊行されていますから、西洋人の珍妙ぶりばかりが強調された手あかのついた風俗本でした。

やがて、相つぐ外国船の登場から武士を中心とした連中の国防意識が高まると、いざというときの兵糧用として乾パンが注目を集めました。ペリー来航の2年後、安政2年(1855)には、水戸藩が長崎へ製法習得のため、家臣を派遣した記録があります。通詞のせいかつに比べるとかなり遅れています。

このパンなるものは、固いビスケットに近いものだったようです。その後も戊辰戦争を経て、乾パンは日本陸軍の軍隊食として定着します。

本格的なパン販売の広告は、慶応3年(1867)、横浜で発行の「万国新聞」に早くも見えますが、明治5年刊の『西洋料理指南』に「焙麦餅はわが飯と一般のものにして、方今横浜又は築地において製して売るなり」とあるように、普及は洋食そのものよりずっと早かったようです。

明治6年(1873)から7年(1874)になると、東京市内に雨後のタケノコのごとくパン店が増殖しました。『明治事物起原』(石井研堂)によると、このころ「ばかの番付」で「米穀を食せずしてパンを好む日本の人」が大関に張り出されたとか。

バターとなると、前述の慶応3年の新聞広告に「ボットル」として販売広告があります。おそらく輸入品で、ごく例外的なものでしょう。

国産は明治7年に試作されたものの、日本人の口に合わなかったか、なかなか普及しませんでした。

白牛酪

明治13年(1880)の広告に「牛乳、粉ミルク、バター、クリーム、白牛酪」を製造販売する旨が見えます。「白牛酪」はチーズのことです。

庶民がおずおず口に入れ始めたのは、明治20年代に入ってからでした。日本人の舌にもっとも抵抗が強かったのは乳製品です。昭和30年代になっても、バターやチーズを受け付けない人が都市部にもけっこういました。

円遊の開化カリカチュア

このサイトでもたびたびご紹介した、明治の爆笑王・初代(「鼻の」)三遊亭円遊が、古典落語の「素人鰻」をよりモダンに改作したもので、明治24年1月に「百花園」に掲載されているので、創作は前年でしょう。

「寝床」のだんなの義太夫を、洋食に置き換えた趣もあります。

主人公のような、断髪令が出ようがどうしようが、ガンとしてマゲを切らない士族や江戸町人は、明治末年に至るまで少なくなかったようです。

そんな旧弊の権化が百八十度転向して、洋食に凝りだすというおかしみは、今も昔も変らぬ日本人の「変わり身の早さ」をおもしろがって、当てこすっているようです。

キワモノなので、もちろん円遊以後、後継者はありません。円遊の速記は、今となっては落語というより、当時の貴重な学術的文献といったところでしょう。

パンばかりやたらに食わせるシーンは、「素人鰻」の六代目円生の演出で、蒲焼ができず、コウコと酒ばかり出すくだりを髣髴とさせます。

コメントを残す