すずふり【鈴ふり】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

遊行寺が舞台。
仏道の修行。
禁欲の証に鈴を託して。
バレ噺の傑作。
「甚五郎作」も併載。

別題:鈴まら

【あらすじ】

藤沢の遊行寺ゆぎょうじという名刹。この寺の住職は大僧正だいそうじょうの位にあって、千人もの若い弟子が一心に修行に励んでいる。

なにせ弟子の数が多いので、さしもの大僧正も、この中から誰を自分の跡継ぎに選んだらよいか、さっぱりわからない。

そこでいろいろ相談した結果、迷案がまとまった。

旧暦五月のある日、いよいよ次の住職を決める旨のお触れが出る。

その当日、誰も彼も、ひょっとして俺が、いや愚僧ぐそうがというので、寺の客殿には末寺から押し寄せた千人の僧侶がひしめき合って、青々としてカボチャ畑のような具合。

そこでなにをするかというと、千人一人一人の男のモノに、太白の紐が付いた小さな金の鈴をちょいと結んで
「どうぞ、こちらへ」

次々と奥に通される。

一同驚いていると、やがて御簾みすの内から大僧正の尊きお声。

「遠路ご苦労である。今日は吉例吉日たるによって、御酒ごしゅ、魚類を食するように」

ただでさえ生臭物は厳禁の寺で、酒をのめ、それ鰻だ、卵焼きだというのだから、どうなっているのかと目を白黒させていると、なんとお酌に、新橋、柳橋のえりすぐりの芸者がずらりと並んで入ってくる。

しかも、そろって十七、八から二十という若いきれいどころ。色気たっぷりにしなだれかかってくるものだから、ふだん女色禁制で免疫のできていない坊さんたちはたまったものではない。

色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき
と必死に股間を押さえていると、隣で水もしたたる美女が
「あなた、何をそう、下ばかり向いて」
と、背中をぽんとたたく。

「あっ」
と手を放したとたんに、親ではなくセガレの方が上を向き、くだんの鈴がチリーン。

たちまち、あっちでもこっちでもチリーン、チリーン、チリチリリーン。

千個の鈴の妙なる音色、どころではない。

そのかまびすしい音を聴いて、大僧正、嘆くまいことか。

涙にくれて、
「ああ情けなや。もう仏法も終わりである。千人の全部が全部、鈴を鳴らそうとは」

ところがふと見ると、年のころ二十くらいの若い坊さんがただ一人、数珠じゅずをつまぐりながら座禅を組んでいる。

よく聞くと、その坊さんの股間からだけは、鈴の音なし。

大僧正、感激の涙にむせび、これで合格者は決まったと、さっそく呼び寄せて前をまくってみたら鈴がない。

「はい、とっくに振り切れました」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

志ん生おはこのバレ噺 【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の一手専売だったバレ噺(エロ噺)です。

ネタがネタだけに、当人も寄席ではやれず、特殊な会やお座敷だけのサービス品でした。

ただし、珍しくずうずうしくも昭和36年(1961)5月の東横落語会とうよこらくごかいで堂々と演じたライブの音源は、脳出血で倒れる半年ほど前の、元気な頃の最後の高座のものです。

「鈴ふり」のマクラに志ん生が必ずつけたのが、関東十八檀林だんりんの言い立て。檀林とはお坊さんを養成する学校のことです。

挙げられる十八か寺は、浄土宗で大僧正となるために修行しなければならない関東の諸名刹です。

この噺の舞台、藤沢の遊行寺は、一遍上人いっぺんしょうにんの「踊り念仏」で有名な時宗じしゅうの総本山。

正しくは藤沢山とうたくざん無量光院むりょうこういん清浄光寺しょうじょうこうじといいます。

「時宗」という呼称は寛永8年(1631)から。江戸幕府から時宗274寺の総本山と認められるところから始まります。

意外に新しいのです。

一遍は鎌倉時代の人ではあるのですが。

この一派、規模が小さいことと、同じ念仏宗派のため、浄土宗系寺院と重なるようにみえますが、この噺のごちゃごちゃぶりはさすがに落語的。

時宗と浄土宗の混在はでたらめ。よくこんなので、長いこと通用しているものです。逆に、落語の底知れぬ奥行きに偉大さを感じてしまいます。

江戸時代の時宗

時宗は自らの檀林(時宗では学寮といいます)は1784年までなかったといわれています。

現在は全国に500余の寺院がありますが、江戸時代には2000を超えるほどだったそうです。

それなりの宗派だったのですが、なんせ踊り念仏を旨とするため、定着性が薄く、他の宗派のような法灯を絶やさず、といった思いも弱く、それでも、江戸幕府の宗門制度に合わせて本山、末寺の管理を厳密化するようになったことで、本山を藤沢の清浄光寺にまとめたのです。

志ん生の「鈴ふり」

志ん生の長男で、まじめそのものの芸風だった(ここがまたいいのですが)十代目金原亭馬生きんげんていばしょう(美濃部清、1928-82)もたまに演じていました。

そこのギャップがなかなかに心愉しいものでした。

昭和33年(1958)10月11日の「第67回三越落語会」。

志ん生はトリで「黄金餅こがねもち」をやる予定でした。

その前に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が「藁人形わらにんぎょう」を。これは関係者の不手際ふてぎわによるものでした。

ひとつの興行で同じ傾向の噺が続くのを「噺がつく」とむのが落語の世界です。

そこで、志ん生は客にことわって「鈴ふり」をみっちりやったといいます。こういうところが志ん生のいきなところですね。

関東十八檀林の言い立て 【RIZAP COOK】

「檀林」とはお坊さんの修行道場で学問所。

ここでいう「関東十八檀林」は浄土宗の寺院をさします。

浄土宗は徳川家康が信仰していたことから、宗派間における地位は優越でした。

江戸の町では、浄土宗と日蓮宗(当時は法華宗といいました)が信者獲得競争に明け暮れしており、その勢力と知名度では他宗派をしのいでいました。

浄土宗のお坊さんは寺を巡るごとに出世していったわけです。

志ん生の言い立てを再現してみましょう。

その修行の一番はなへ飛び込むのはってェと、下谷に幡随院ばんずいいんという寺がある。その幡随院に入って修行をして、その幡随院を抜けて、鴻巣こうのす勝願寺しょうがんじという寺へ入る。この勝願寺を抜けまして、川越の蓮馨寺れんけいじへ。蓮馨寺を抜けまして、岩槻の浄国寺じょうこくじという寺に入る。浄国寺を抜けまして、下総小金しもうさこがね東漸寺とうぜんじという寺に入り、東漸寺を抜けて、生実おゆみ大巌寺だいがんじへ入り、滝山の大善寺へ入る。ここから、常陸江戸崎ひたちえどさき大念寺へ入って、上州館林じょうしゅうたてばやし善導寺へ入る。それから、本所の霊山寺れいざんじへ入って、下総結城しもうさゆうき弘経寺ぐぎょうじへ入って、ここで紫の衣一枚となるまで修行をしなければならない。それから、下総国飯沼しもうさいいぬま弘経寺ぐぎょうじというところへ入る。ここは十八檀林のうちで、隠居檀林といって、この寺で、たいがい体が尽きちゃう。そこを、一心になって修行をして、この寺を抜けて、深川の霊巌寺れいがんじに入り、霊巌寺を抜けて、上州新田じょうしゅうにった大光院に入って、常陸瓜連ひたちうりづら常福寺に入って、そうして、紫の衣二枚になって、それより、えー、小石川の伝通院でんづういんへ入り、伝通院を抜けて、鎌倉の光明寺こうみょうじへ入って、そこでの衣一枚となって、それより、江戸は芝の増上寺ぞうじょうじに入って、増上寺で修行をして、緋の衣二枚となって、はじめて大僧正の位となるという……ここまでの修行が大変であります。

「甚五郎作」 【RIZAP COOK】

「鈴ふり」が短い噺なので、志ん生は「甚五郎作」という小咄をセットで語っていました。

これもバレ噺です。

昭和31年(1956)1月8日号の『サンケイ読物』で、志ん生は福田蘭童らんどうと対談をしています。

タイトルは「かたい話やわらかい話」で、二人で昔の吉原の思い出を肴に笑っています。

その中で、志ん生は「甚五郎作」を語っていました。

対談を読むと、志ん生にとって「甚五郎作」は相当なお気に入りの噺だったように思えるのですが、当の福田蘭童は「なるほど。きれいなオチですね」とかえした程度。

福田の笑いのセンスは志ん生のそれとはズレていたようです。

残念な人です。

では、福田が聴いた「甚五郎作」を再現してみましょう。

昔はいいとこの娘でも、行儀見習いといって、大名屋敷へ奉公へ行ったでしょう。方向へ上がるてえとみんな女ばかり。年頃となってくると男なしではいられない。といって、不義はお家のご法度、男は絶対に近づけられない。そこへつけこんで商売を始めたのが張り形屋。つまり、男の代用品ですね。両国の四ツ目屋よつめやなんぞへ、御殿女中がこれを買いにやってくる。ある家の娘が、やはりこのご奉公に上がって、体の具合が悪くなって帰ってきた。医者にみせると妊娠しているという。おっかさんが驚いて、娘に相手は誰かと聞く。娘は「相手なんかいない」というんです。相手がなくて妊娠するわけはないと問い詰めて、娘の手文庫てぶんこを調べたら、中から張り形が出てきた。「おまえ、これで赤ん坊ができるわけがないよ」と言って、張り形の裏を返したら「左甚五郎作」と彫ってあった。左甚五郎の作ったものは、生き物のように飛び出るという、あれですね。

志ん生という人は、元来、こういうスマートな噺を好んだようです。粋だなあ。

ところで、福田蘭童(石渡幸彦、1905-76)。

この人は、青木繁(画家)の長男で、尺八、フルート、バイオリン、ピアノなんかを演奏する音楽家にして、随筆家。

かつてはこのような、得体のしれない型破りの通人がごろごろいたもんです。

息子の石橋エータロー(石橋英市、1927-94)もそんな範疇の方なんでしょう、きっと。

ハナ肇とクレージーキャッツのメンバーで、桜井センリとのピアノ連弾なんですから。人生の後半は料理研究家でした。

■関東十八檀林

名称内訳現在地
下谷の幡随院新知恩寺。浄土宗系単立寺院。本尊は阿弥陀如来東京都小金井市前原町
鴻巣の勝願寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来埼玉県鴻巣市本町
川越の蓮馨寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来埼玉県川越市連雀町
岩槻の浄国寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来埼玉県さいたま市岩槻区
下総小金の東漸寺浄土宗千葉県松戸市小金
生実の大巌寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来千葉県千葉市中央区 
滝山の大善寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来東京都八王子市大谷町
常陸江戸崎の大念寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来茨城県稲敷市江戸崎甲
上州館林の善導寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来群馬県館林市楠町
本所の霊山寺浄土宗。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来東京都墨田区横川
下総結城の弘経寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来。隠居檀林茨城県結城市西町
下総飯沼の弘経寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来茨城県常総市豊岡町
深川の霊巌寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来東京都江東区白河
上州新田の大光院浄土宗。本尊は阿弥陀如来群馬県太田市金山町
常陸瓜連の常福寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来茨城県那珂市瓜連
小石川の伝通院浄土宗。本尊は阿弥陀如来東京都文京区小石川
鎌倉の光明寺浄土宗鎮西派大本山。本尊は阿弥陀如来
神奈川県鎌倉市材木座
芝の増上寺浄土宗鎮西派大本山。本尊は阿弥陀如来東京都港区芝公園



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

しわいや【吝嗇屋】落語演目

 



  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

「しわい」とはケチのこと。
ケチもここまできわまると至芸。
ケチの達人です。

【あらすじ】

ケチ道をきわめた男。

飯を食う時に、一年間一つの梅干で済ませるという自慢を聞いてせせら笑い、
「まだ修行が足りねえ、オレなら梅干を食わずににらんでいて、口がすっぱくなったところで飯を食う」
とやっつける。

それに挑戦しようという男が現れ、夜訪ねると、先生、明かりも点けない真暗がりで裸で座っている。

「寒くないか」
と聞くと、
「よく見ろ、頭の上から大石を吊るしてあるから、いつ落ちるかと冷や汗をかくので、それで温まる」
と言う。

大変な野郎があるものだと降参して退散しようと、履物を探すからマッチを貸してくれと頼むと
「てめえはそれだからダメだ。目と鼻の間をゲンコツで殴り、その火で探せ」
と言うので、
「そんなことだろうと思って、初めから裸足で来ました」
「オレもそうだろうと思ったから、あらかじめ畳を裏っ返しておいた」

【しりたい】

吝兵衛、しつこく登場!

吝嗇しわい」はもともと上方言葉です。

「しわん坊」「しわいの根っこ」「赤螺屋あかにしや」「六日知らず」「始末屋」などの同義語があります。

ほかに「伊勢屋」ともいいますが、これは、質屋の屋号に多く、質屋はケチが多いと一般的通念の連想から。

落語ではケチの苗字(屋号)が「あかにしや」か「吝嗇屋」、名前を「吝兵衛けちべえ」「吝左衛門けちざえもん」「吝右衛門けちえもん」などとしています。

ケチ噺いろいろ

一席の独立した噺としては「味噌蔵」「死ぬなら今」「位牌屋」「片棒」「あたま山」などがあります。

「吝嗇屋」は、どちらかというと、ケチの小ばなしのオムニバスとも呼べる軽い噺です。

似たような小品に、「二丁ろうそく」「始末の極意」があります。この三席は互いに、内容が一部重複していますが、それぞれにケチぶりを競います。

吝兵衛流「ケチ道実践」

「吝嗇屋」では、以下の噺をよく付け加えます。

●火事で全焼した家におき火をもらってこいと小僧に言いつけ、断られると、
「今度こっちが焼けても、火の粉ひとつやるもんか」

●蒲焼きのにおいで飯をかっこんでいた男が鰻屋にかぎ賃を請求され、金をチャリンとばらまいて
「音だけ持って帰れ」

だそく

本場・大阪のケチ道の極意は、「生き金」を使うことにあり、むやみに節約ばかりするのは「シブチン」「しみったれ」として、かえって軽蔑されるとか。

要するに、五円使ったら十円となって戻るような、有効な投資こそ大切、ということなのでしょう。

西洋では「スコットランド人」がケチの代名詞とされています。



  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

いのこりさへいじ【居残り佐平次】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

映画『幕末太陽傳』の元ネタ。
痛快無比な廓噺。
佐平次は佐平治とも記します。
嫌がられ役の代名詞。

別題:おこわ

                 落語映画の最高峰!☞

あらすじ

仲間が集まり、今夜は品川遊廓で大見世遊びをして散財しようということになったが、みんな金がない。

そこで一座の兄貴分の佐平次が、俺にまかせろと胸をたたく。

大見世では一晩十五円はかかるが、のみ放題食い放題で一円で済まそうという。

一同半信半疑だが、ともかく繰り込んだのが「土蔵相模」という有名な見世。

その晩は芸者総揚げで乱痴気騒ぎ。

さて寝る段になると、佐平次は仲間を集めて割り前をもらい、この金をお袋に届けてほしい、と頼んだ。

一同驚いて、「兄貴はどうするんだ」と聞くと、「どうせ胸を患っていて、医者にも転地療養を勧められている矢先当分品川でのんびりするつもりなので、おまえたちは朝立ちして先に帰ってくれ」と言う。

翌朝若い衆が勘定を取りに来ると、佐平次、早速舌先三寸で煙にまき始める。

まとめて払うからと言いくるめ、夕方まで酒を追加注文してのみ通し。

心配になってまた催促すると、帰った四人が夜、裏を返しにきて、そろって二日連続で騒ぐから、きれいに明朝に精算すると言う。

いっこうに仲間など現れないから、三日目の朝またせっつくと、しゃあしゃあと「金はねえ」。

帳場はパニックになるが、当人少しも騒がず、蒲団部屋に籠城して居残りを決め込む。

だけでなく、夜になり見世が忙しくなると、お運びから客の取り持ちまで、チョコマカ手伝いだした。

無銭飲食の分働くというのだから、文句も言えない。

器用で弁が立ち、巧みに客を世辞で丸めていい気持ちにさせた上、幇間顔負けの座敷芸まで披露するのだから、たちまちどの部屋からも「居残りはまだか」と引っ張りだこ。

面白くないのが他の若い衆で、「あんな奴がいたんでは飯の食い上げだからたたき出せ」と主人に直談判する。

だんなも放ってはおけず、佐平次を呼び、勘定は待つからひとまず帰れと言う。

ところがこの男、自分は悪事に悪事を重ね、お上に捕まると、三尺高い木の空でドテッ腹に風穴が開くから、もう少しかくまっててくれととんでもないことを言いだし、だんなは仰天。

金三十両に上等の着物までやった上、ようやく厄介払いしたが、それでも心配で、あいつが見世のそばで捕まっては大変と、若い衆に跡をつけさせると、佐平次は鼻唄まじり。

驚いて問いただすと居直って、「おれは居残り商売の佐平次てんだ、よく覚えておけ」と捨てぜりふ。

聞いただんな、
「ひでえ奴だ。あたしをおこわにかけた」
「へえ、あなたのおツムがごま塩です」

底本:五代目古今亭志ん生

古今亭志ん朝

しりたい

居残り  【RIZAP COOK】

「居残り」は遊興費に足が出て、一人が人質として残ることです。もとより、そんな商売があるわけではありません。

「佐平次」ももともとは普通名詞だったのです。古くから芸界で「図々しい人間」を意味する隠語でした。

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)では、「居残り佐平次」を中心に、「品川心中」「三枚起請」「お見立て」などが挿入されています。

こんなすばらしい作品が生まれた日本は、これだけで世界に誇れます。

品川遊郭  【RIZAP COOK】

品川は、いわゆる四宿ししゅく(=品川、新宿、千住、板橋)の筆頭。

吉原のように公許の遊廓ではないものの、海の近くで魚はうまいし、佐平次が噺の中で言うように、労咳ろうがい(結核)患者の転地療養に最適の地でした。

おこわ  【RIZAP COOK】

オチの「おこわにかける」は古い江戸ことばで、すでに明治末年には死後になっていたでしょう。

語源は「おおこわい」で、人を陥れる意味でした。

それを赤飯のおこわと掛けたものですが、もちろん今では通じないため、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)が「あんな奴にウラを返されたら、あとがこわい」とするなど、各師匠が工夫しています。

昔から多くの名人・上手が手がけましたが、戦後ではやはり六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)のものだったでしょう。

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

しろきや【城木屋】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

大店の娘お駒に、邪恋が沸き立つ丈八。
そっぽむかれた丈八はついにお駒を殺す……。
豆尽くしの噺。
ここでいう「豆」は女性をさす隠語です。

別題:お駒丈八 白木屋 白子屋政談

あらすじ】  

日本橋新材木町の呉服屋、城木屋庄左衛門が亡くなり、あとには、お常と、十八になる一人娘のお駒が残された。

お駒は界隈で評判の器量良しだが、こともあろうにそのお駒に、醜男の番頭丈八が邪恋を抱いた。

丈八は四十四歳になるが、背はスラッと低く、色はまっ黒けで、顔の表と裏がわからない、という、大変な代物。

ところが当人は本気で、お駒の婿は自分と一人決めをし、恋文を送りつけたが、もちろん、お駒は梨のつぶて。

それが、母親のお常の手に渡ってしまったので、丈八はお常に手ひどくしかりつけられ、
「どうせクビになるならば破れかぶれ、いっそのこと」
と、店の金五十両を盗み出して、吉原で全部使い果たしてしまう。

この上は、お駒を殺して自分も死ねば、心中と言われて浮き名が立つと、夜中にこっそりお駒の部屋に忍び込んだ。

お駒の寝顔を見て急に惜しくなり、さらって逃げようとゆり起こす。

承知したらよし、嫌と言ったら殺っちまおうと、刀で頬っぺたをピタピタたたいたから、お駒が目を覚まして悲鳴を上げる。

かわいさあまって憎さが百倍、やっと突くと、狙いが外れて床板まで突き通してしまい、抜けなくなって、そのまま刀と煙草入れの遺留品を残して逃走。

これから足がついて、丈八はお召し捕りに。

お白州に引き出され、南町奉行の大岡越前守のお裁きを待つ身となった。

奉行に
「不届き至極な奴。娘駒とその方のなれ初めを申せ」
と尋問され、ごまかそうと
「十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の挿し絵を見ておりますと、お駒さんが参りまして『これはなにか』と聞きますので『岡部の宿で夜這いに行くところです』『夜這いとは何じゃ』『いずれ今宵』と、それにかこつけて豆泥棒(夜這い)に参りまして」
「豆泥棒とはなんじゃ」
「へえ、お駒さんは素人娘で白豆、商売女は黒豆で、十二、三の小娘はおしゃらく豆、十五、六がはじけ豆、天人はソラ豆」

一喝されて
「娘御を 駿河細工と 思えども 籠の鳥にて 手出しならねば」
という艶書の文句の意味を問われると
「もとの起こりが膝栗毛、もう東海道から思い詰め、鼻の下も日本橋、かのお駒さんの色、品川に迷いまして、川さきざきの評判にも、あんないい女を神奈川に持ったなら、さぞほどもよし程ヶ谷と」
と東海道尽くしでしゃれるので、奉行は
「その方、東海道を巨細(=詳しく)に存じおるが、生国はどこじゃ」
「へい、駿河のご城下で」
「うむ、ここな府中(=不忠)者め」

出典:三代目春風亭柳枝

【RIZAP COOK】

【うんちく】  

大岡政談の落語化 【RIZAP COOK】

「大岡政談」の中で、唯一、大岡忠相ただすけが裁いたのは白子屋しらこやお熊事件だったといわれています。ほかの「大岡政談」は架空のお話に過ぎません。

「城木屋」は、その貴重な実録大岡政談を落語にしたもの。元ネタは人情噺「白子屋政談」です。明治期、三代目麗々亭柳橋れいれいていりゅうきょう(斉藤文吉、1826-1894)が得意としていました。

その作者は乾坤坊良斎けんこんぼうりょうさい。「今戸の狐」に登場した、あの良斎です。大岡政談に白子屋お熊事件をからめて創作した長編人情噺「白子屋政談」を落語化し、滑稽噺に仕立てたものが、この「城木屋」。落語の作者(改作者)は不祥です。

「東海道五十三次」「名奉行」(または「評判娘」)「伊勢の壷屋の煙草入れ」という題での三題噺として作られたともいいます。

白子屋の悲劇 【RIZAP COOK】

実録の白子屋お熊事件は、以下の通りです。

日本橋新材木町にほんばししんざいもくちょう稲荷新道いなりじんみちの材木問屋、白子屋庄三郎の娘お熊は、母親お常の乱費のため傾いた店を立て直すため、持参金五百両を当てにした両親によって日本橋大伝馬町にほんばしおおでんまちょうの大地主川喜田弥兵衛かわきたやへえの番頭又四郎またしろうをむりやり婿に取らされます。

又四郎は、身持ちが固いだけが取り得の、つまらない男。

いやでたまらないところに、店の番頭で、渋い中年男の忠八にたらしこまれ、気がつけばお熊の腹はポコリン、ポコリン。

これでは店の信用にかかわると、母親は、今度は又四郎を離縁して追い出そうとしますが、持参金がネックでそれもできません。

そこで、女中二人に手伝わせ、ある夜、又四郎の寝首をかこうとして失敗。関係者はあえなく、全員逮捕されました。

大岡忠相のお裁きで、享保12年(1727)2月25日、「一審即決上告を許さず、弁護人これを付せず、審理は公開せず」の暗黒裁判で判決が下ります。

母お常は殺人未遂の主犯で死罪。お熊と忠八は不義密通で死罪、はりつけ

お女中二人は主殺し未遂で死罪、逆さ磔。父庄三郎は闕所けっしょ(財産没収)。

23歳のお熊は絶世の美女で、引き回しで裸馬に乗せられ、千住小塚原せんじゅこづかっぱらの刑場に向かう途中、白無垢しろむく黄八丈きはちじょう小袖こそで、首に水晶の念珠ねんじゅというなんとも色っぽい風情だったとか。

沿道を埋め尽くした野次馬連中。

ああ、もったいねえと生唾ゴクン。

大岡忠相が実際に裁いたこの事件、その後、浄瑠璃「恋娘昔八丈こいむすめむかしはちじょう」や、人情噺でのち黙阿弥もくあみの芝居にもなった「髪結新三かみゆいしんざ」などに脚色され、今にその名を残しています。

志ん生から歌丸まで 【RIZAP COOK】

明治期では、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)の、明治24年(1891)9月の速記が残っています。「城木屋」「お駒丈八」の別題があります。

東海道尽くしの言い立てが聴かせどころで、軽く、粋なパロディー噺なので、昭和に入っても名人連が好んで取り上げ、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)らがよく演じました。桂歌丸(椎名巌、1936-2018)もレパートリーにしていました。

志ん生の豆尽くし 【RIZAP COOK】

「東海道尽くし」と並んで、この噺は「豆尽くし」が眼目。豆はもちろん、女性自身の隠語です。

五代目志ん生はこの部分だけを、艶笑小咄として、独立して演じていました。

これも志ん生が得意にした「駒長」で、「白子屋政談」の登場人物の名前が借用されています。

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

しゃしんのあだうち【写真の仇討ち】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

こんなかたき討ちならのんきです。
袖にされた怨念は底知れぬもの。

別題:一枚起請 恨みの写真 写真の指傷 指切り

【あらすじ】

信次郎には恋仲の芸者小照がいた。

多額の金を貢いでいたが、裏切られた。

思いつめた信次郎、
「あたしも士族の子。面目にかけても生かしちゃ置けないから、これから女を一突きにし、自分も死ぬから」
と、いとま乞いにやってきたので、伯父さんが意見をする。

「昔、晋国の智伯という人が趙襄子に殺され、その家来の予譲は主人の仇を討とうとして捕らえられた。趙襄子は大度量の人だから、そのまま許してくれたが、あきらめずに今度は顔に漆を塗って炭を飲み、人相を変え、物乞いに化けて橋の下で趙襄子を狙った。ところが敵の乗った馬がピタリと動かなくなり気づかれた。『この前、命を助けてやったのに、なぜ何度もわしを狙う。もともとおまえの主人は范氏で、それが智伯に滅ぼされた時に捕虜になって随身したもの。とすれば、わしはおまえの元主人の仇を討ってやったも同じではないか』と責めると『ごもっともだが、智伯には私を引き立ててくれた恩があります。士はおのれを知る者のために死すと申します』と悪びれずに言ったので、趙襄子は感心して『おまえの志にめでて討たれてやりたいが、今わしが死んでは世の中が乱れる。これをわしと思って、ぞんぶんにうらみを晴らせ』と自分の着物の片袖を与えたので、予譲が剣でそれを貫く。突いたところから血がタラタラ。結局、予譲は自害したが、ああ、人の執念は恐ろしいものと趙襄子は衝撃を受け、3年もたたないうちにそれが元で死んだ、という。おまえも相手は商売人で、だまされたのはおまえに軍配が上がるのだから、大切な命をそんな女のためにむだにせず、その女からもらったものを突くなり、切るなりしてうっぷんを晴らすがいい」

いや、じつに、長い。

そう言われて、信次郎もなるほどと思い、貸してもらった鎧通しで、持っていた女の写真を
「思い知れ」
とばかり、ズブリ。

とたんに写真から、血がダラダラ。

「ああ、執念は恐ろしい。写真から血が」
「いえ、あたくしが指ィ切ったんで」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

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【うんちく】

上野彦馬→伴野朗→藤浦敦→円朝

写真の日本伝来は天保12年(1841)のこと。

長崎の上野俊之丞常足うえのとしのじょうつねたり(1790-1851)が、オランダ船で輸入したダゲレオタイプカメラ(水銀蒸気を用いたものが始まり。1837年にフランスのダゲールが発明)を薩摩藩主島津斉興に献上したのが始まりとされますが、確証はありません。

ちなみに、上野常足は上野彦馬(1838-1904)の父です。

彦馬は天保9年生まれ、円朝は天保10年生まれ、渋沢栄一は天保11年生まれ、福沢諭吉は天保5年生まれ。

いずれも「天保老人」となる二世を生きた人です。「二世を生きた人」とは、人生のおよそ半々を江戸と明治で生きた人をさします。当時、よく使った用語です。

さて。

川本幸民(1809-70)が、安政元年(1854)に日本最初の写真に関する翻訳書『遠西記述』を刊行しました。

その後、下岡蓮杖(1823-1914)、上野彦馬の2人が最新のアメリカ式の写真術を会得しました。

下岡は横浜野毛で、上野は長崎で写真館を開業しました。

下岡は風景写真に、上野は肖像写真にと、それぞれの草分けとなりました。

上野彦馬は、「坂本龍馬の写真」を代表作とする伴野朗(1936-2004)の連作歴史推理小説集の主人公で、探偵役にされています。

伴野朗は、朝日新聞記者としての勤務のかたわら、歴史ミステリーを執筆するセミプロ作家でした。

この先出世の見込みのなさそうな朝日新聞を辞めて、映画監督に転身しています。

先の大戦での華北を舞台にした『落陽』(日活、1992年)という大作でした。

結果はおおこけで、配給会社の日活はいったん倒産しました。おおこけ大作については、次項を。

伴野もこれが原因なのか、朝日からいきなり「落陽」へと相成りました。

伴野をそそのかしたのは、藤浦敦(1930.1.1-2023.5.29)でした。

この人物は、赤坂区氷川下→早稲田大学政経学部→読売新聞記者→日活監督と、異色の人生を送った方。

記者から監督へ。なんでこんな寝返りができるのか。

それは、藤浦家が日活の大株主だったからです。死ぬまでの時間つぶしには格好のなりわいが、記者であり監督だったそうで、この人の生活環境ではどうとでもできたのだそうです。

げんに、藤浦敦監督作品の日活ロマンポルノ作品は艶笑ものばっかりで、落語の世界をきわどくビジュアルにしてくれています。噺家も出演していますし。

それがまた、みんなそこそのヒット作ばかりだったのですから、金のある奴はとことん運がついてまわるのでしょうか、「お天道さまとじゃらぜにはついて回る」という格言通り。なんとも、うらやましくも首をしめたくなるような人生です。

この方の父は藤浦富太郎と言います。

祖父は周吉(三周)で、「大根河岸のだんな」と呼ばれた一族です。大根河岸は京橋のあたり。三周は円朝の強力なパトロンでした。いまの東京シティ青果です。都内の青果卸の最大手の主。松本清張の『けものみち』のモデルかとささやかれてもいます。まあ、並みの世間に怖いもの知らずの人物です。

「三遊亭円朝」の名跡を抱える家で有名です。藤浦敦自身も「落語三遊派宗家」を名乗りました。

そのような一連の事情は、藤浦敦自身が放談本『日活不良監督伝 だんびら一代 藤浦敦』(藤木TDC構成、洋泉社、2016年)で大いに語り、吠えています。

虚実の雲間、しゃれかまじかはつゆ知らず。まあ、「戯言」として読めばけっこう楽しめる代物です。観客不在の映画興行を知り得た気分にもなれますし。むちゃくちゃです。

さらには、藤浦一族の語る円朝像はどうもあやしい、という思いにもさせてくれます。そういう意味では、落語ファンにはしっかり好著、必読の文献なのです、この代物は。

三大おおこけ大作

おおこけ大作というのは、庶民の目から眺めればきわどく痛快なものです。

映画館でのヘンなもの見ちゃった気恥ずかしさとシラケた心持ちが交錯していって「なにやってやがる」「ざまあみろ」「ひでえな」「金返せ」「このボケが」といった罵詈雑言が憤りとともに増長していくものです。

管見(古木)ではありますが、『天国の門』(マイケル・チミノ監督、こけたのはユナイト映画)、『幻の湖』(橋本忍監督、こけたのは橋本)、『落陽』(伴野朗監督、こけたのは日活と伴野)を「三大おおこけ大作」と認定しています。『落陽』は日活を本当に「落陽」させてしまいました。

彦六が復活

昭和初期の八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)の速記が残っていますが、先の大戦後は八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)が「指切り」の演題でレパートリーとしました。

本あらすじは、その正蔵の速記をテキストに依拠しています。

八代目正蔵は、二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)門下で、やはりこの噺を得意としていた三遊亭円流の口演を聴いて覚えたと語っていました。

「私の若いころ『写真を突くときは下へ置け。下へ置かなきゃ指までじゃ来ない』と教えてくれた先輩がありました」とは彦六の弁。二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)も演じました。

長編人情噺を落語化

別題は「恨みの写真」「指切り」「写真の指傷」「一枚起請」とさまざまです。明治17年(1884)に刊行された二代目五明楼玉輔の口演本『開化奇談写真の仇討』を落語化したものです。二代目五明楼玉輔とは、のちの玉の家梅翁(鈴木重蔵、1828-1897.9.16)のこと。

原作は、アメリカから帰朝した医学士の青年が父親を毒殺した男に復讐しようと狙ったものの明治政府の仇討禁止令で果たせず、写真を刺して孝道を貫くという筋立ての長編人情噺です。

この趣向を、古くからあった「一枚起請」という噺と結びつけたものと見られます。

「一枚起請」は、現行の「写真の仇討ち」と筋はほとんど同じですが、男が突くものがお女郎の起請文であるところが異なります。

予譲と趙襄子の故事

出典は『史記』「刺客伝」によるもの。司馬遷です。

ことばよみいみ
しん
智伯ちはく
趙襄子 ちょうじょうし
予譲よじょう
范氏はんし
随身ずいじん
鎧通しよろいどおし日本刀の一種。鎧の隙間から刺す短刀



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

こうやたかお【紺屋高尾】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

【どんな?】

「幾代餅」は志ん生系。
映画「の・ようなもの」。
冒頭のプロットです。

別題:幾代餅 かめのぞき 紺屋の思い染め 駄染高尾

あらすじ

神田紺屋町の染め物職人、久蔵。

親方のところに十一の年から奉公して、今年二十六にもなるが、いまだに遊びひとつ知らず、まじめ一途の男。

その久蔵がこの間から患って寝ついているので、親方の吉兵衛は心配して、出入りの、お玉が池の竹内蘭石という医者に診てもらうことにした。

この先生、腕の方は藪だが、遊び込んでいて、なかなか粋な人物。

蘭石先生、久蔵の顔を見るなり
「おまえは恋患いをしているな。相手は今吉原で全盛の三浦屋の高尾太夫。違うか」

ズバリと見抜かれたので、久蔵は仰天。

これは不思議でもなんでもなく、高尾が花魁道中している錦絵を涎を垂らして眺めているのだから、誰にでもわかること。

久蔵はあっさり、
「この間、友達に、話の種だからと、初めて吉原の花魁道中を見に連れていかれたのですが、その時、目にした高尾太夫の、この世のものとも思えない美しさに魂を奪われ、それ以来、なにを見ても高尾に見えるんです」
と告白。

「ああいうのを一生一度でも買ってみたいものですが、相手は大名道具と言われる松の位の太夫、とても無理です」
とため息をつくと、先生、
「なに、いくら太夫でも売り物買い物のこと、わしに任せておけば会わせてやるが、初会に座敷に呼ぶだけでも十両かかるぞ」
と言う。

久蔵の三年分の給料だ。

しかし、それを聞くと、希望が出たのか、久蔵はにわかに元気になった。

それから三年というもの、男の一念で一心不乱に働いた結果たまった金が九両。

これに親方が足し増してくれて、合わせて十両持って、いよいよ夢にまで見た高尾に会いに行くことになったが、いくら金を積んでも紺屋職人では相手にしてくれない。

流山のお大尽ということにして、蘭石先生がその取り巻き。

帯や羽織もみな親方にそろえてもらい、すっかりにわか大尽ができあがった。

さて、吉原。

下手なことを口走ると紺屋がバレるから、久蔵、感激を必至で押さえ、先生に言われた通り、なんでも
「あいよ、あいよ」

茶屋に掛け合ってみると、折よく高尾太夫の体が空いていたので、いよいよご対面。

太夫だから個室。

その部屋の豪華さに呆気にとられていると、高尾太夫がしずしずと登場。

傾城座りといい、少し斜めに構えて、煙管で煙草を一服つけると
「お大尽、一服のみなんし」
「へへーっ」

久蔵、思わず平伏。

太夫ともなると、初会では客に肌身は許さないから、今日はこれで終わり。

花魁が型通り
「ぬし(主)は、よう来なました。今度はいつ来てくんなます」
と聞くと、久蔵、なにせこれだけで三年分の十両がすっ飛び、今度といったらまた三年後。その間に高尾が身請けされてしまったら、これが今生の別れだと思うと感極まり、思わず正直に自分の素性や経緯を洗いざらいしゃべってしまう。

ところが、それを聞いて怒るどころか、感激したのは高尾太夫。

「金で源平藤橘四姓の人と枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人か……わちきは来年の二月十五日に年季が明けるから、女房にしてくんなますか」
と言われ、久蔵、感激のあまりり泣きだした。

この高尾が、紺屋のかみさんとなって繁盛するという、「紺屋高尾」の由来話。

底本:四代目柳亭左楽、六代目三遊亭円生

古今亭志ん朝

しりたい

藍染め   【RIZAP COOK】

布染めや糸染めを手がける職業を紺屋といいました。

糸染めだけを商売とするのは青屋といいました。

紺でも青でも、それ以外の色を染め出しても、染め物業は紺屋、青屋といっていました。

防虫防蛇の効果がある藍が染め物の代表格だったからです。

藍は色あせにくく、作業衣に向き、庶民衣装の基本の色だったからです。

発酵させた葉藍(蒅=すくも)を臼でつき、藍玉にして瓶に注ぎ、水と石灰を付け足して藍汁をとつくります。

瓶に添えた火壷で加熱しながら、ゆででつぶした甘藷(または水)で溶かした黒砂糖を添加して蓋をし、蓋をとってはかき回したりして、藍汁に光沢が出て泡(これを花と呼びます)が立つまで。しめて八日間かかる藍染め作業です。

作業場(染め場)には愛染明王を祀り(「愛染」を「あいぞめ」と読める音から)、四六時中、藍汁をなめてその具合を確認しながらの忍耐強い作業から、藍は生まれていきます。

職人の指は藍がしみついているのです。

高尾太夫代々   【RIZAP COOK】

高尾は代々吉原の名妓で、歌舞伎十八番「助六」でおなじみの三浦屋の抱え女郎です。

詳しい年代は不詳ですが、宝永(1704-11)から正徳(1711-16)にかけてが全盛といわれます。

紺屋の名は、実際は九郎兵衛とも伝わっています。

九郎兵衛の妻となった紺屋高尾または駄染め高尾は、三代目、または五代目ともいわれています。確証はありません。

高尾太夫は、吉原の三浦屋の抱え遊女の源氏名です。

これは複雑で、しかのも不詳や異説が多く、記すのもはばかられます。

七代、九代、十一代で混乱しているため、通称で呼んだりしています。

あえて整理してみましょう。

一般的な流布説をまとめました。

初代 通称なし。元吉原時代(1617-57)
二代 万治高尾、仙台高尾。伊達綱宗との巷説で。ここから新吉原時代に
三代 紺屋高尾、駄染め高尾。水谷高尾の一説も
四代 浅野高尾。浅野紀伊守(壱岐守とも)が身請けした巷説で
五代 紺屋高尾の異説も
六代 榊原高尾、越後高尾。姫路藩主榊原政岑が身請けし巷説で。越後高田に移封
七代 六つ指高尾。足の指が六本あったことで例外的に足袋を履いていた巷説で
八代 浅野高尾とも
九代 水茶屋高尾。采女が原(中央区東銀座)の水茶屋女になった巷説で
十代 榊原高尾とも
十一代 榊原高尾とも

高尾の素性も履歴も、まるでわかっていないことがわかります。

これが現状です。

わざわざこんなものを調査する、まともな研究者がいないのですね。

残念です。紺屋高尾は三代、五代でダブっています。

浅野高尾は四代、八代でダブり。

榊原高尾にいたっては、六代、十代、十一代で。こうなると、ほとんどあやしいとしかいえません。

高尾太夫を史実で探るのはナンセンス。伝説や物語でしか通用しません。

落語の世界でたっぷり楽しみましょう。

三代目の「水谷高尾」   【RIZAP COOK】

三代目高尾には異説があります。その名を水谷高尾という、もう一人の高尾像が伝えられています。

この人、もっともドラマチックな人生を経めぐったのではないでしょうか。

これだって、史実かどうかといわれれば、はなはだあやしいかぎりですが。

ただ、おもしろい人生です。

いろいろ着色したくなりますね。

新吉原の三浦屋で三代目高尾太夫を名乗っていた遊女が、水戸家の為替御用達、水谷六兵衛(水谷庄左衛門とも)に身請けされました。

この人は武士ではなく商人です。六兵衛の下人、当時六十八歳だった平右衛門と不義に陥って出奔。

その後、浄瑠璃語りの半太夫の妻となるも、家を出て牧野駿河守の側女に。

中小姓の河野平馬と通じて出奔。

めぐりめぐって深川の髪結いの女房となりながらも、やがては役者の袖岡政之助とつながったそうです。

最後には、神田三崎町の元結売りの妻となったそうですが、ここも落ち着かず。いつの日か、下谷大音寺前の茶屋、鎌倉屋の前で倒死していたといいます。

すごい人生です。

この女性は「三九高尾」とも呼ばたとか。達筆だったそうで、「ん」の字に特徴があったので、「はね字高尾」とも呼ばれたそうです。

万事こんな調子で尾ひれが付いていくのです。

さらには、島田重三郎(「反魂香」参照)とも恋仲だったという巷説まで付いて、盛り盛り高尾です。

花魁   【RIZAP COOK】

おいらん。吉原の遊女、女郎の別称です。最高位の「太夫」となれたのは二百人に一人といわれます。

享保(1716-36)ごろまでは、吉原では遊女のランクは、
(1)太夫
(2)格子
(3)散茶
(4)梅茶
(5)局
の順で、太夫と格子がトップクラスでした。

この(1)と(2)を合わせて、部屋持ち女郎の意味で「おいらん」(花魁は中国語の当て字)という名称が付きました。

語源は「おいら(自分)のもの」からとか。だいたい明和年間(1764-72)から使われ出したものです。

のちに、単に姉女郎に対する呼びかけ、さらには下級女郎に対しても平気で使われるようになりました。

これは、早く宝暦年間(1751-64)にトップ2の太夫と格子が絶えたのを端緒に、なし崩しに呼び名が下へ下がっていったためです。

ただし、どんな時代でも「おいらん」は吉原の女郎に限られました。

花魁については「盃の殿さま」の「吉原花魁盛衰記」にも記しておきました。

落語よりも浪曲で   【RIZAP COOK】

遊女は客にほれたといい
客はきもせでまたくるという
うそとうそとの色里で
恥もかまわず身分まで
よう打ち明けてくんなました
金のある人わしゃきらい
あなたのような正直な方を捨ておいて
ほかに男をもったなら
女冥利に尽きまする
いやしい稼業はしていても
わしもやっぱり人の子じゃ
情けに変わりがあるものか
義理という字は墨で書く

これは初代篠田実(1898-1985)の「紺屋高尾」です。

大正から昭和にかけての浪曲師。本名です。

京都府福知山市の出身。

大正12年(1923)9月、埋め草にかつて録音してあった「紺屋高尾」が、傾いたレコード会社が震災後のどさくさに苦し紛れに発売。

それが空前の大ヒットとなりました。

ヒコーキレコードという会社(その後日蓄と合併)が起死回生、V字回復をを演じました。

昭和初期には全国津々浦々でこの一節がうなられていたわけです。

というか、「紺屋高尾」といえば、落語よりも浪曲で知られていました。

ありんす言葉   【RIZAP COOK】

吉原では、古くから独特の廓(さと)言葉が使われていました。

この噺の高尾が使う「なます」「ありんす」「わちき」などの語彙がそれで、「ありんす」言葉ともいいました。

起源ははっきりしませんが、京の島原遊廓で諸国から集められた女たちが、里心がついて逃走しないよう、吉原の帰属意識をもたせるために考え出されたものといわれます。

エスペラント同様の人工語であるわけです。

したがって、島原(京)や新町(大坂)の遊女も当然同じような言葉を使っていたわけです。

江戸が18世紀後半以後、文化の中心になると「吉原詞」として全国に知れ渡り、独自の表現や言い回しが生まれていきました。

「行きまほう(=行きましょう)」「くんなまし」「そうざます」などもそうです。

昭和30年代に東京山の手の奥サマが使う「ざあます言葉」というのがさかんに揶揄されました。

実は、女郎言葉の名残だったわけです。

なんともいやはや、お皮肉なことでありんす。

極めつけ円生十八番   【RIZAP COOK】

この噺、実話をもとにしたものとされますが、詳細は不詳です。

戦後では六代目三遊亭円生の独壇場でした。

「かめのぞき」のくだりは、高尾が瓶にまたがるため、水に「隠しどころ」が映るというので、客が争ってのぞき込む、というエロチックな演出がとられることが昔はありました。

円生はその味を生かしつつ、ストレートな表現を避け、「ことによると……映るんじゃないかと」と、思わせぶりで演じるところが、なんとも粋でした。

この噺はふつう、オチらしいオチはありません。

四代目柳亭左楽(オットセイの左楽、「松竹梅」)は、与三という男が高尾の顔を見に行きたいが、染めてもらうものがないため、長屋のばあさんに手拭いを借りにいくものの、みな次から次へと持っていくからもうないと断られ、たまたま黒猫が通ったので「おばさん、これ借りるよ」「なんだって黒猫を持っていくんだ」「なに、色揚げ(色の褪めた布を染め直す)してくる」とオチていました。円生もときにこれを踏襲して落としていました。

後日談   【RIZAP COOK】

この後、久蔵と高尾が親方の夫婦養子になって跡を継ぎ、夫婦そろってなんとか店を繁盛させたいと、手拭いの早染め(駄染め)というのを考案し、客がまた高尾の顔見たさに殺到したので、たちまち江戸の名物になったという後日談を付けることがあります。

高尾が店に出て、藍瓶をまたいで染めるのを客が待ちます。

高尾が下を向いていて顔が見えないので、客が争って瓶の中をのぞき込んだことから染め物に「かめのぞき」という名がついたという由来話で締めくくります。

前項のエロ演出は、もちろんこれの「悪のり」です。

類話に「幾代餅」   【RIZAP COOK】

まったく同じ筋ですが、人物設定その他が若干異なります。

「紺屋高尾」の改作と思われますが、はっきりしません。

五代目古今亭志ん生の系統は「幾代餅」でやっていました。

志ん生の弟子、古今亭円菊も、その弟子の古今亭菊之丞も。十代目金原亭馬生の弟子、五街道雲助もご多分に漏れず「幾代餅」です。雲助の弟子、桃月庵白酒も。志ん朝は「幾代餅」でも「紺屋高尾」でもやっていました。

志ん朝の弟子、古今亭志ん輔も。別系統ながら、柳家さん喬柳家権太楼もよい味わいです。

類話はもう一つ。「搗屋無間」も同工異曲の噺といってよいかもしれません。

「幾代餅」のあらすじ   【RIZAP COOK】

日本橋馬喰町一丁目の搗き米屋の奉公人、清蔵。人形町の絵草紙屋で見た、吉原の姿海老屋の幾代太夫の一枚絵に恋患いし、仕事も手につかない。

親方六右衛門の助言で一念発起、一年とおして必死に働いた。

こさえた金が十三両二分。ちょっと足りない。そこに六右衛門が心づけて、しめて十五両に。

六右衛門は近所の幇間医者、籔井竹庵に事情を話して、吉原への手引きを頼んだ。

竹庵、蹴転のあそびから大籬のあそびまでの通人だ。

竹庵の手引きで、野田の醤油問屋の若旦那という触れ込みで清蔵は吉原に。

初会ながらも情にほだされた幾代太夫は、年季明けに清蔵の元に、という約束。

明けた三月、幾代は清蔵に嫁いだ。

親方の六右衛門は清蔵を独立させ、両国広小路に店を持たせた。

店のうまい米を使って二人が考案した「幾代餅」が大評判となり名物となった。

二人は幸せに暮らし天寿を全うした、というめでたい一席。

古今亭志ん朝 二朝会 CDブック

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評価 :2/3。

うまのす【馬のす】落語演目

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【どんな?】

意外に珍しい、釣りの噺。
オチがうまく機能しているのかが不明です。 

別題:馬の尾(上方)

あらすじ

釣好きの男。

今日も女房に文句を言われながら、こればかりは止められないと、ウキウキして出かけていく。

釣り場に着くと、さっそく道具の点検。オモリよし、浮きよし、ところが肝心のテグスがダメになっている。

出先で替えはない。

困っていると、馬方が馬を引いて通りかかる。

そこで馬がどうしても言うことを聞かず、前に進まなくなったので、しかたなく木につないで、男に「ちょっとの間お願い申します」と見張りを押しつけると、そのまま行ってしまった。

「ああ、ダメだよ。おい、そんなところに……あああ、行っちまいやがった」

舌打ちしたが、何の気なしに馬の尻尾を見て、はたと手を打つ。

こいつは使えそうだと引っ張ると、なかなか丈夫そう。

三本、釣糸代わりにちょうだいしたところへ、友達の勝ちゃん。

馬の尻尾を抜いたと聞くと、いやに深刻な顔をして
「おまえ、えれえことをした。馬の尻尾を抜いたらどういうことになるか知らないな」
と思わせぶりに言う。

不安になって、教えてくれと頼んでも
「オレだってタダ習ったんじゃねえんだから、親しき中にもなんとやらで、酒でも一杯ごちそうしてくれれば教えてやる」
と条件をつける。

酒はないと言っても、今朝、かみさんがよそからもらった極上の一升瓶をぶらさげているのを見られている。

知りたさと不安はつのるばかりなので、しかたなく承知して、勝公を家に連れていく。

腰を据えた勝公、酒はのみ放題、枝豆は食い放題。

じれた相棒がせっついても、話をそらしていっこうに教えようとしない。

そればかりか、オレも同じように馬の尻尾の毛を抜いてると、年配の人に、これこれこういう祟りがあると聞いて、恐ろしさに震え上がっただの、気を持たせるだけ持たせ、ついに酒も枝豆もきれいに空にしてしまった。

「ごちそうさん。さあ、馬の尻尾のわけ、教えてやろう」
「どうなるんだい」
「馬の尻尾……抜くとね」
「うん」
「馬が」
「馬が」
「痛がるんだよ」

底本:八代目桂文楽

しりたい

ふしぎな怖さを覚える噺   【RIZAP COOK】

どこがどうということもない、たわいないといえばたわいない噺なのですが、オチの「痛がるんだよ」を聴いてしまった後も、なんとはなしに、これで終わりではないのではないか、まだ、とてつもなく恐ろしいなにかが隠されているのではと、薄気味悪さ、不気味さがぬぐいきれません。みなさんはいかがでしょうか。

相手がなにも言わないから、よけい不安がつのります。たぶん、脅かす常套手段でしょうが、そうでないかもしれません。

馬のすは本来、白馬の尾をいい、この噺の馬も、当然そうでしょうが、実を言うと、飯島友治は、日本人は古来、白い動物に神秘性や呪力を感じていて、それを恐怖し畏怖する本能が受け継がれている、という説を述べています。

この噺の「えれえことをした」ということばも、その恐怖の象徴というのです。さて、どんなものでしょうか。

八代目文楽の「逃げ噺」   【RIZAP COOK】

れっきとした東京の噺家ながら長く大阪で活躍した三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)の直伝で、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、黒門町、実は六代目)が得意にしていました。

とはいっても、これは、大ネタの十八番と違って、夏場の、客が「セコ」なときなどに短く一席やってお茶をにごす、いわゆる「逃げ噺」です。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)の「四宿の屁」などもそうですが、大看板は必ずこうした「逃げ噺」を持っています。文楽も、ある夏はトリ(=主任、興行の責任者)の席以外は毎日「馬のす」で通したこともあったといいます。

文楽の写実芸   【RIZAP COOK】

この噺、もともとは上方ダネですが、小品といえども、後半の枝豆を食べる仕種に「明烏」の甘納豆を食べる伝説的な名場面同様、文楽一流の巧緻な写実芸が発揮されていました。

短い噺で、本来は小ばなしとしてマクラに振られるに過ぎなかったのを、前述の円馬が独立した一席に仕立て、文楽がそれを受け継いで、それなりに磨きをかけたものです。

文楽も「大仏餅」のような大物人情噺をじっくり演じる時間があるときには、そのマクラに「馬のす」を添えることがありました。

馬のす   【RIZAP COOK】

「馬尾毛」とも書き、一説には、群馬県多野郡の万馬というところの方言ともいいます。先に紹介の通り、白馬の尾で、上方では味噌こし網に用いました。

テグスとはテングス?   【RIZAP COOK】

天蚕糸と書き、絹製の釣り糸で、テグス蚕の幼虫から取り出すので、この名があります。

釣りの出てくる噺はほかに、「野ざらし」「おしの釣り」「釣り指南」があり、そのほか、「船徳」「あたま山」にも釣り竿や釣り師が登場しますが、あまり多くありません。これは、江戸も幕末になるまでは、釣りは主に武士のたしなみで、庶民の娯楽としては、いまひとつ浸透していなかったためかもしれません。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :0/3。

たちきり【立ち切り】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

美代吉と新三郎の粋なしんねこ。
そこに嫌われ男が逆上して割り込んで。
もとは上方の人情噺。聴かせる物語です。

別題:立ち切れ 立ち切れ線香(上方)

あらすじ

昔は、芸妓げいぎ花代はなだいを線香の立ち切る(=燃え尽きる)時間で計った。

そのころの話。

美代吉は、築地の大和屋抱えの芸妓。

新三郎は、質屋の若だんな。

二人は、互いに起請彫きしょうぼりをするほどの恋仲だ。

ある日。

湯屋ゆうやで若いが二人の仲を噂しあっているのを聞き、逆上したのが、あぶく。

美代吉に岡惚れの油屋の番頭、九兵衛のこと。

通称、あぶく。

この男、おこぜのようなひどいご面相なのだ。

美代吉があぶくを嫌がっていると、同じ湯船にあぶくがいるとも知らずに、若い衆がさんざん悪口を言った。

あぶくは、ますます収まらない。

さっそく、大和屋に乗り込んで責めつける。

美代吉は苦し紛れに、お披露目のため新三郎の親父から五十円借金していて、それが返せないのでしかたなく言いなりになっていると、でたらめを言ってごまかした。

自分はわけあって三年間男断ちをしているが、それが明けたらきっとだんなのものになると誓ったので、あぶくも納得して帰る。

美代吉は困った。

新さんに相談しようと手紙を書くが、もう一通、アリバイ工作をしようと、あぶくにも恋文を書いたのが運の尽き。

動転しているから、二人の宛名を間違え、新三郎に届けるべき手紙をあぶくの家に届けさせてしまう。

それを読んだあぶく。

文面には、あぶくのべらぼう野郎だの、あんな奴に抱かれて寝るのは嫌だのと書いてあるから、さては、とカンカン。

あぶくは、美代吉が新三郎との密会場所に行くために雇った船中に、先回りして潜んだ。

美代吉の言い訳も聞かばこそ、かわいさ余って憎さが百倍と、あぶくは匕首あいくち(鍔のない刀)で美代吉をブッスリ。

あわれ、それがこの世の別れ。

さて、美代吉の初七日。

新三郎が仏壇に線香をあげ、念仏を唱えていると、現れたのが美代吉の幽霊。

それも白装束でなく、生前のままの、座敷へ出るなりをしている。

新三郎が仰天すると、地獄でも芸者に出ていて大変な売れっ子だ、という。

なににしても久しぶりの逢い引き。

新三郎の三味線で、幽霊の美代吉が上方唄を。

いいムードでこれからしっぽり、という時、次の間から
「へーい、お迎え火」

あちらでは、芸妓を迎えにくる時の文句と聞いて、新三郎は
「あんまり早い。今来たばかりじゃないか」
「仏さまをごらんなさい。ちょうど線香がたち切りました」

底本:六代目桂文治

しりたい

上方人情噺の翻案

京都の初代松富久亭松竹しょうふくていしょうちく(生没年不詳)作と伝えられる、生っ粋の上方人情噺を、明治中期に東京に移植したもの。

移植者は三代目柳家小さん小さん(豊島銀之助、1857-1930)とも、六代目桂文治(1848-1928、平野次郎兵衛)ともいわれています。

文化3年(1806)刊の笑話本『江戸嬉笑』中の「反魂香」が、さらに溯った原話です。

東京では「入黒子いれぼくろ」と題した、明治31年(1898)12月の六代目桂文治の速記が最古の記録です。

その後、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)を経て、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)が継承しました。

ここでのあらすじは、古い文治のものを参考にしました。ちょっと珍しい、価値あるあらすじです。

文治は、しっとりとした上方の情緒あふれる人情噺を、東京風に芝居仕立てで改作しています。

線香燃え尽き財布もカラッポ

芸者のお座敷も、お女郎の「営業」も、原則では、線香が立ち切れたところで時間切れでした。

線香が燃え尽きると、客が「お直しぃー」と叫び、新たな線香を立てて時間延長するのが普通でした。

落語「お直し」のような最下級の魔窟では、客引きの牛太郎ぎゅうたろう(店の従業員)の方が勝手に自動延長してしまう、ずうずうしさです。

明治以後は、時計の普及とともにさすがにすたれました。

この風習、東京でも新橋などの古い花柳界では、かなり後まで残っていたようです。

この噺の根っこには、男女の恋愛だろうが、しょせんは玄人(プロ)と客とのでれでれで、金の切れ目が縁の切れ目、線香が燃え尽きたらはいおしまい、という世間のおおざっぱな常識をオチに取り入れているわけですね。

上方噺「立ち切れ線香」

現在でも大阪では、大看板しか演じられない切りネタ(大ネタ)です。

あらすじは、以下の通り。

若だんなが芸者小糸と恋仲になり、家に戻らないのでお決まりの勘当かんどうとなるが、番頭の取り成しで百日の間、蔵に閉じ込められる。

その間に小糸の心底を見たうえで、二人をいっしょにさせようと番頭がはかるが、蔵の中から出した若だんなの恋文への返事が、ある日ぷっつり途絶える。

若だんなは蔵から出たあと、このことを知り、しょせんは売り物買い物の芸妓と、その不実をなじりながらも、気になって置き屋を訪れた。

事情を知らない小糸は、自分は捨てられたと思い込み、焦がれ死んだという。

後悔した若だんなが仏壇に手を合わせていると、どこからか地唄の「ゆき」が聞こえてくる。

「……ほんに、昔の、昔のことよ……」

これは小糸の霊が弾いているのだと若だんなが涙にくれる。

ふいに三味線の音がとぎれ、
「それもそのはず、線香が立ち切れた」

起請彫り

入れぼくろの風習からの発展形です。

江戸初期、上方の遊廓でおこりました。

遊女が左の二の腕の内側に相手の年齢の数のほくろを入れたり、男女互いが親指のつけ根にほくろを入れたりしたそうです。

互いの心に揺らぎはないという、証しのつもりなんですね。

人は、内なる思いをなにかの形で示さないと信じ合えない、悲しい生き物なのです。

「起請」とは「誓い」のことですから、このような名称になりました。

江戸中期(18世紀以降)になると、江戸でも流行しました。同じ江戸時代とはいっても、初期と中後期では人々のもの考え方や慣習も違ってきています。

それと、じわじわ入ってきた西洋の文物や考え方が江戸の日本に沁み込んでいきました。なにも、ペリーが来たから日本ががらりと変わったわけではありません。

江戸時代は平和が200年以上続いた時代でした。この平和な時間がなによりもすごい。

平和が100年ほど続くと、人間は持続して考えることができるのですね。そうなると、いろんなことを考えたり編み出したりするものなんでしょう。

そんな中で、江戸で生まれたのが「〇〇命」という奇習。今でもたまに見ることがあります。相手の名前を彫る気っ風のよさが身上です。平和ずっぽり時代の象徴といえましょう。鳩よりすごい。

ことばよみいみ
花代はなだい遊女や芸妓への遊興費
揚げ代あげだい芸妓や娼妓などを揚屋に呼んで遊ぶ代金。=玉代
揚げ屋あげや遊里で遊女屋から遊女を呼んで遊ぶ家
遊女屋ゆうじょや置き屋
置き屋おきや芸妓や娼妓を抱えておく家
芸妓げいぎ芸者、芸子
娼妓しょうぎ遊女、公娼
入れ黒子いれぼくろいれずみ
匕首あいくちつばのない短刀




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

どうかん【道灌】落語演目

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【どんな?】

ご隠居と八五郎とのやりとり。
太田道灌の故事がためになる滑稽噺。
鸚鵡返しの、前座がよくやる噺です。

別題:太田道灌(上方) 横理屈

あらすじ

八五郎が隠居の家に遊びに行った。

地口(駄洒落)を言って遊んでいるうち、妙な張りまぜの屏風絵が目に止まる。

男が椎茸の親方みたいな帽子をかぶり、虎の皮の股引きをはいて突っ立っていて、側で女が何か黄色いものを持ってお辞儀している。

これは大昔の武将で歌詠みとしても知られた太田道灌が、狩の帰りに山中で村雨(にわか雨)に逢い、あばら家に雨具を借りにきた場面。

椎茸帽子ではなく騎射笠で、虎の皮の股引きに見えるのは行縢(むかばき)。

中から出てきた娘が黙って山吹の枝を差し出し引っ込んでしまった。

道灌、意味がわからずに戸惑っていると、家来が畏れながらと
「これは『七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき』という古歌をなぞらえて、『実の』と『蓑』を掛け、雨具はないという断りでございましょう」
と教える。

道灌は
「ああ、余は歌道にくらい」
と嘆き、その後一心不乱に勉強して立派な歌人になった、という隠居の説明。

「カドウ」は「和歌の道」の意。

八五郎、わかったのかわからないのか、とにかくこの「ナナエヤエー」が気に入り、自分でもやってみたくてたまらない。

表に飛び出すと、折から大雨。

長屋に帰ると、いい具合に友達が飛び込んできた。

しめたとばかり
「傘を借りにきたんだろ」
「いや、傘は持ってる。提灯を貸してくんねえかな。これから本所の方に用足しに行くんだが、暗くなると困るんだ」

そんな用心のいい道灌はねえ。

傘を貸してくれって言やあ、提灯を貸してやると言われ、しかたなく「じゃしょうがねえ。傘を貸してくんねえ」
「へっ、来やがったな。てめえが道灌で、オレが女だ。こいつを読んでみな」
「なんだ、ななへやへ、花は咲けどもやまぶしの、みそひとだると、なべとかましき……こりゃ都々逸か?」
「てめえは歌道が暗えな」
「角が暗えから、提灯を借りにきた」

しりたい

前座の悲哀「道灌屋」   【RIZAP COOK】

「道灌」は前座噺で、入門するとたいてい、このあたりから稽古することが多いようです。

前半は伸縮自在で、演者によってギャグその他、自由につくれるので、後に上がる先輩の都合で引き伸ばしたり、逆に短く切って下りたりしなければならない前座にとっては、まずマスターしておくべき噺なのでしょう。

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が入門して、初めて教わったのもこの「道灌」。

一年間、「道灌」しか教えてくれなかったそうです。

雪の降る寒い夜、牛込の藁店という席に前座で出たとき、お次がまったく来ず、つなぎに立て続けに三度、それしか知らない「道灌」をやらされ、泣きたい思いをしたという、同師の思い出話。

そのとき付いたあだ名が「道灌屋」。

たいして面白くもないエピソードですが、文楽師の人となりが想像できますね。

志ん生や金馬の「道灌」

あらすじの参考にしたのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の速記です。

どちらかというと後半の八五郎の「実演」に力を入れ、全体にあっさりと演じています。

かつての大看板でほかによく演じたのが、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)でした。

金馬では、姉川の合戦のいくさ絵から「四天王」談義となり、ついで「太平記」の児島高徳こじまたかのりを出し、大田道灌に移っていく段取りです。

太田道灌   【RIZAP COOK】

太田道灌(1432-86)は、長禄元年(1457)、江戸城を築いたので有名です。

この人、上杉家の重臣なんですね。

主人である上杉(扇谷)定正に相模国糟谷で、入浴中に暗殺されました。

歌人としては、文明6年(1474)、江戸城で催した「江戸歌合」で知られています。

七重八重……   【RIZAP COOK】

『後拾遺和歌集』所載の中務卿なかつかさきょう兼明親王かねあきらしんのう(914-87、前中書王さきのちゅうしょおう)の歌です。

行縢   【RIZAP COOK】

むかばき。狩の装束で、獣皮で作られ、腰に巻いて下半身を保護するためのものです。

【道灌 立川談志】

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評価 :1/3。

いざかや【居酒屋】落語演目

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どんな?

森田芳光監督の傑作、映画「の・ようなもの」はここからきてるんですね。

別題:ないものねだり

あらすじ

縄のれんに-油樽、切り回しているのは番頭と十二、三の小僧だけという、うらぶれた居酒屋に、湯の帰りなのか濡れ手拭いを肩に掛け、ドテラに三尺帯という酔っぱらいがふらふらと入ってくる。

むりやり小僧に酌をさせ、
「おめえの指は太くて肉がいっぱい詰まってそうだが、月夜にでも取れたのか」
と、人を蟹扱いにしたりして、からかい始める。

「肴はなにができる」
と聞かれて、小僧が早口で、
「へえい、できますものは、けんちん、おしたし、鱈昆布、あんこうのようなもの、鰤(ぶり)にお芋に酢蛸でございます、へえーい」
と答えるのがおもしろいと言って、
「今言ったのはなんでもできるか?」
「そうです」
「それじゃ『ようなもの』ってのを一人前持ってこい」

その次は、壁に張ってある品書きを見て
「口上てえのを一人前熱くしてこい」
と言ったりして、小僧をいたぶる。

そうかと思えば、
「とせうけてえのはなんだ」
と聞くから、小僧が
「あれは『どぜう汁』と読むので、濁点が打ってあります。イロハは、濁点を打つとみな音が違います」
と言うと、
「それじゃあ、イに濁点が付けばなんと読む、ロはどうだ、マは?」
と、点が打てない字ばかりを選んでからかう。

今度は
「向こうの方に真っ赤になってぶら下がっているのはなんだ」
と聞くので、
「あれはゆで蛸です」
と答えると、
「ゆでたものはなんでも赤くなるのか、じゃ猿のお尻やお稲荷さんの鳥居はゆでたか」
と、ますますからむ。

しまいに、
「その隣で腹が裂けて、裸になって逆さまになっているのはなんだ?」
「あんこうです。鍋にします」
「それじゃ、その隣に鉢巻きをして算盤を持っているのは?」
「あれは番頭さん」
「あれを一人前持ってこい」
「そんなものできません」
「番公(=あんこう)鍋てえのができるだろう」

金馬の回想記『浮世断語』(有信堂、1959年)によると、先の大戦後、この「居酒屋」をラジオで放送したとき、「この酒は酸っぱいな。甘口辛口は今までずいぶん飲んだことがあるが、酢ぱ口の酒は初めてだ」とやったら、スポンサーの酒造会社が下りてしまったとか。

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底本:三代目三遊亭金馬

しりたい

金馬の「居酒屋伝説」  【RIZAP COOK】

昭和初期、居酒屋の金馬か金馬の居酒屋か、というぐらい三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)はこの噺で売れに売れました。

もちろん、先の大戦後も人気は衰えず、金馬生涯の大ヒットといっていいでしょう。

とりわけ、独特の抑揚で、「できますものはけんちんおしたし」と早口で言い、かん高く「へーい」と最後に付ける小僧の口調がウケにウケたわけです。

噺そのものはさしておもしろいわけでもなく、ただ、いい年をしたオッサンが子供をいたぶるというだけのもので、これといってくすぐりもないのに、こんなにも人気が出たのは、ひとえにこの「金馬節」とでも呼べる口調の賜物だったのでしょう。

噺のなりたち  【RIZAP COOK】

文化3年(1806)刊の笑話本『噺の見世開』中の「酒呑の横着」が原話です。

本来、続編の「ずっこけ」とともに、「両国八景」という長い噺の一部だったようですが、三代目金馬が一席噺として独立させました。

金馬の速記にも、「ずっこけ」をつなげて演じているものがあります。この噺、「万病円」とも深いかかわりがあります。

ずっこけ  【RIZAP COOK】

居酒屋で小僧をいたぶったりして長っ尻をし、看板になってもなかなか帰らない酔っ払いを、たまたま通りかかった友達がやっと連れ帰る。

よろよろして歩けないので、ドテラの襟をつかんでようやく家までひきずっていき、かみさんに引き渡そうとするとドテラだけ残って当人が消えている。

あわててさがすと、往来で裸でグウグウ。

かみさんいわく
「よく拾われなかったわねえ」

上方落語の「二日酔」では、さらにこの続きがあり、実は、往来で寝込んでいたのは物乞い。それを間違えて連れ帰り、寝かしてしまいます。

翌朝、亭主の方は酔いもさめて、コソコソ帰ってきますが、さすがに気恥ずかしくて裏口にまわり、
「ごめんください」
とそっと声をかけると、かみさんはてっきり物乞いと勘違いし、
「(やるものはなにも)ないよ」

するってえと奥で寝ていた「本物」が、
「おかみさん、一文やってください」
というものです。

ここまでいかないとおもしろくありませんが、本来、「ずっこけ」も「二日酔」も、「居酒屋」とは原話が別で、まったく別の噺を一つにつなげたものとみられます。

居酒屋事始  【RIZAP COOK】

江戸市中に初めて居酒屋が現れたのは、宝暦13年(1763)とされています。

それ以前にも、神田鎌倉河岸(千代田区内神田1、2丁目)の豊島屋という酒屋が、田楽を肴に出してコモ樽の酒を安売りしたために評判になったという話がありますが、これは、正式な店構えではなく、店頭でキュッと一杯やって帰る立ちのみ形式で、酒屋のサービス戦略だったようです。

初期の居酒屋は、看板に酒旗(さかばやし)を立てて入口に縄のれんを掛け、店内には樽の腰掛と、板に脚をつけただけの粗末な食卓を置いて、肴も出しました。

「一膳めし屋」との違いは、一応飯が看板か、酒が主かという点ですが、実態はほとんど変わりなかったようです。

なお、木にうるしを塗った従来の盃が、陶磁器製に変わったのは、居酒屋が興隆してからです。

金馬の名調子  【RIZAP COOK】

金馬のレコード初吹き込みは昭和4年(1929)7月。ほかに同時代で、七代目春風亭柳枝や初代昔々亭桃太郎も演じましたが、金馬の名調子の前には影の薄いものでした。

金馬の回想記『浮世断語』(有信堂、1959年)によると、先の大戦後、この「居酒屋」をラジオで放送したとき、「この酒は酸っぱいな。甘口辛口は今までずいぶん飲んだことがあるが、酢ぱ口の酒は初めてだ」とやったら、スポンサーの酒造会社が下りてしまったとか。

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きょうかいえぬし【狂歌家主】落語演目

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【どんな?】

江戸前の噺。
これは狂歌噺。
全編に洒落がたっぷり。

別題:三百餅

【あらすじ】

ある年の大晦日。

正月用の餅きを頼む金がないので、朝からもめている長屋の夫婦。

隣から分けてもらうのもきまりが悪いので、大声を出して餅をついているように見せかけた挙げ句、三銭(三百文)分。

つまり、たった三枚だけお供え用に買うことにした。

それはいいのだが、たまりにたまった家賃を、今日こそは払わなくてはならない。

もとより金の当てはないから、大家が狂歌に凝っているのに目を付けた。

夫婦は、それを言い訳の種にすることで、相談がまとまった。

「いいかい、『私も狂歌に懲りまして、ここのところあそこの会ここの会と入っておりまして、ついついごぶさたになりました。いずれ一夜明けまして、松でも取れたら目鼻の明くように致します』というんだよ」

女房に知恵を授けられて、言い訳に出向いたものの、亭主、さあ言葉が出てこない。

「狂歌を忘れたら、千住の先の草加か、金毘羅さまの縁日(十日=とうか)で思い出すんだよ」
と教えられてきたので、試してみた。

「えー、大家さん、千住の先は?」
「ばあさん、どうかしやがったな、こいつは。竹の塚か」
「そんなんじゃねえんで、金毘羅さまは、いつでした?」
「十日だろう」
「そう、そのトウカに凝って、大家さんは世間で十日家主って」
「ばか野郎、オレのは狂歌だ」

大家は、
「うそでも狂歌に凝ったてえのは感心だ。こんなのはどうだ」
と、詠んでみた。

「玉子屋の 娘切られて 気味悪く 魂飛んで 宙をふわふわ」

「永き屁の とほの眠りの 皆目覚め 並の屁よりも 音のよきかな」

「おまえも詠んでみろ」
と、言われた。

「へえ、大家さんが屁ならあっしは大便」
「汚いな、どうも。どういうんだ」

「尻の穴 曲がりし者は ぜひもなし 直なる者は 中へ垂れべし」

これは、総後架そうごうか(共同便所)に大家が張った注意書きそのまま。

「それだから、返歌しました」
「どう」
「心では 中へたれよと 思えども 赤痢病なら ぜひに及ばん」

だんだん汚くなってきた。

「どうだい、あたしが上をやるから、おまえが後をつけな」
と言うと、
「右の手に 巻き納めたる 古暦」
と言って
「どうだい?」
ときた。

「餅を三百 買って食うなり」
「搗かないから、三百買いました」

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【しりたい】

原話は元禄ケチ噺

最古の原話は、元禄5年(1692)刊の大坂笑話本『かるくちはなし』巻五中の「買もちはいかい」です。

これは、金持ちなのに正月、自分で餅をかず、餅屋で買って済ますケチおやじが、元旦に「立春の 世をゆずり葉の 今年かな」という句をひねると、せがれが、「毎年餅を 買うて食ふなり」と付け句をします。

おやじが、「おまえのは付け句になっていない」と言うと、せがれは「付かない(=搗かない)から買って食うんだろ」

ここではまだ、現行のオチにある「(狂歌が)付く」=「(餅を)搗く」のダジャレが一致するだけです。

狂歌

狂歌は、滑稽味や風刺を織り込んだ和歌です。

詩歌で滑稽味を含ませていることを「狂体」と呼びます。

狂歌とは、狂体の和歌の意味です。

起源は『万葉集』巻十六の「戯咲歌ぎしょうか」まで遡れます。大伴家持おおとものやかもちが詠んだ、遊戯と笑いを含んだ歌です。

平安時代には「狂歌」という言葉がありました。

『古今和歌集』の俳諧歌はいかいかも狂歌の一種でしょう。

とはいえ、古い記録があまり残っていません。

日本人の歌への姿勢には、歌道神聖が根底に漂っていたからです。

まじめな歌は歌集に残るのですが、遊戯と笑いの歌は、詠んだその場でひとしきり笑えばそれで終わりにしていたからです。

歌壇をはばかって「言い捨て」(=記録しない)にされることが多かったわけです。

歌に笑いを求めなかったのです。

日本人は、笑いの感情を一段低く見ていたのかもしれません。

中世になると、落首や落書などの機知や滑稽を前面に表現した文芸が登場しました。

ただ、これも、たぶんに匿名性がセットになっていました。

うしろめたさがついてまわっていました。

ここでも、滑稽や風刺を含んだ笑いは、歌への冒瀆ととらえていました。

豊臣秀吉などは出身とのかかわりもあるのか、狂歌を楽しんだといいます。

人情の機微、認識の矛盾、世相の混乱といった人の心の摩擦を、皮肉や風刺で卑俗化する手法を獲得しました。

その導線に、京都で松永貞徳まつながていとく(1571-1653)によって創始された貞門俳諧ていもんはいかいがありました。

この一派が、江戸時代に花咲く狂歌の基本を形作ったのでした。

江戸の狂歌

狂歌が江戸で人気を得るまでには少々時間がかかりました。

明和6年(1769)、唐衣橘洲からごろもきっしゅう(1743-1802、幕臣、四谷忍原横丁)が自宅で狂歌の会を催したのが始まりとされます。

初期の狂歌は、古歌のパロディーが主だったので、まずは、歌の素質のある御家人や上層町人の間に広まりました。

その後、狂歌合わせなどが、安永・天明期(1772-89)にかけて盛んに催されました。

狂歌合わせとは、左右に分かれて狂歌の優劣を競う遊びです。

なかでも、太田南畝おおたなんぽ(1749-1823、幕臣、牛込生まれ)は「狂歌の神さま」的存在でした。

この方は、四方赤良よものあから、のちに蜀山人しょくさんじんとも称しました。

ほかには、朱楽菅江あけらかんこう(1738-99、幕臣、市谷二十騎町)、大屋裏住おおやのうらずみ(1734-1810、更紗屋→貸家業、日本橋金吹町)、元木網(1724-1811、京橋北紺屋町で湯屋→芝西久保土器町で落栗庵)、智恵内子ちえのないし(1745-1807、元木網の妻、芝西久保土器町で落栗庵)、宿屋飯盛やどやのめしもり(1753-1830、日本橋小伝馬町で旅籠、石川雅望)、鹿都部真顔しかつべまがお(1753-1829、数寄屋橋門外で汁粉屋、恋川好町)などが、狂歌師(作者)として名を馳せました。

幕末が迫ってくると、この噺にも見られるようにきわめて卑俗化し、川柳とともに大いに支持されていきました。

狂歌噺としては、ほかに「紫壇楼古木」「蜀山人」「狂歌合わせ」などがあり、「掛け取り万歳」の前半でも狂歌で家賃を断るくだりがあります。

古くから親しまれた噺

原話は上方のものですが、噺としては純粋な江戸落語です。

古い噺で、文化年間(1804-18)に初めにはもう狂歌噺として口演されていたようです。

明治期の速記もけっこう残っています。

「三百餅」または「狂歌家主」の題で、四代目橘家円喬(明治29年)、初代春風亭小柳枝(同31年)、三代目蝶花楼馬楽(同41年)のものがあります。

初代小柳枝の速記はかなり長く、大家が「踏み出す山の 横根よこね(性病)を眺むれば うみ(=海と膿)いっぱいに はれ渡るなり」とやれば、亭主が「『淋病で 難儀の者が あるならば 尋ねてござれ 神田鍛冶町かんだかじちょう』、これは薬屋の広告で」と返します。

大家が蜀山人先生の逸話を、長々と披露する場面もあります。

別題の「三百餅」はもちろんオチからきた演題です。

ここでの「三百」は餅代の三百文のこと。最近は餅の部分までいかず、滑稽な狂歌の応酬で短く切る場合もあります。

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やどやのあだうち【宿屋の仇討ち】落語演目



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【どんな?】

旅籠泊の「始終三人」。
あんまりうるさくてたまらない。
隣室の武士ににらまれた。
とうとう「仇討ち」に。
滑稽無比な噺です。

別題:庚申待 甲子待ち 宿屋敵(上方)

【あらすじ】

やたら威勢だけはいい魚河岸うおがしの源兵衛、清八、喜六の三人連れ。

金沢八景見物の帰りに、東海道は神奈川宿の武蔵屋という旅籠はたご草鞋わらじを脱ぐ。

この三人は、酒をのむのも食うのも、遊びに行くのもすべていっしょという悪友で、自称「始終三人」。

客引きの若い衆・伊八がこれを「四十三人」と聞き違え、はりきって大わらわで四十三人分の刺身をあつらえるなどの大騒ぎの末、「どうも中っ腹(腹が立つ)になって寝られねえんだよ」と、夜は夜で芸者を総あげでのめや歌え、果ては寝床の中で相撲までとる騒々しさ。

たまったものではないのが隣室の万事世話九郎ばんじせわくろうという侍。

三人がメチャクチャをするたびに
「イハチー、イハチー」
と呼びつけ、静かな部屋に替えろと文句をつけるが、すでに部屋は満室。

伊八が平身低頭でなだめすかし、三人に掛け合いにくる。

こわいものなしの江戸っ子も、隣が侍と聞いては分が悪い。

しかたなく、「さっきは相撲の話なんぞをしていたから身体が動いちまっんたんだ」と、今度はお静かな色っぽい話をしながら寝ちまおうということになった。

そこで源兵衛がとんでもない自慢話。

以前、川越で小間物屋をしているおじさんのところに世話になっていた時、仕事を手伝って武家屋敷に出入りしているうちに、石坂段右衛門という百五十石取りの侍のご新造と、ふとしたことからデキた。

二人で盃のやりとりをしているところへ、段右衛門の弟の大助というのに
「不義者見つけた、そこ動くな」
と踏み込まれた。

逆にたたき斬ったあげく、ご新造がいっしょに逃げてたもれと泣くのを、足弱がいては邪魔だとこれもバッサリ。

三百両かっぱらって逃げて、いまだに捕まっていないというわけ。

清八、喜六は素直に感心し
「源兵衛は色事師、色事師は源兵衛。スッテンテレツクテレツクツ」
神田囃子かんだばやしではやしたてる始末。

これを聞きつけた隣の侍、またも伊八を呼び
「拙者、万事世話九郎とは世を忍ぶ仮の名。まことは武州川越藩中にて、石坂段右衛門と申す者。三年探しあぐねた妻と弟の仇。今すぐ隣へ踏んごみ、血煙上げて……」

さあ大変。

もし取り逃がすにおいては同罪、一人も生かしてはおかんと脅され、宿屋中真っ青。

実はこの話、両国の小料理屋で能天気そうなのがひけらかしていたのを源兵衛がそのままいただいたのだが、弁解してももう遅い。

あわれ、三人はぐるぐる巻きにふん縛られ、「交渉」の末、宿屋外れでバッサリと決定、泣きの涙で夜を明かす。

さて翌朝。

昨夜のことをケロッとわすれたように、震えている三人を尻目に侍が出発しようとするので、伊八が
「もし、お武家さま、仇の一件はどうなりました」
「あ、あれは嘘じゃ」
「冗談じゃありません。何であんなことをおっしゃいました」
「ああでも言わにゃ、拙者夜っぴて(夜通し)寝られん」

【しりたい】

二つの流れ   【RIZAP COOK】

東西で二つの型があり、現行の「宿屋の仇討ち」は上方の「宿屋敵」を三代目柳家小さんが東京に移植、それが五代目小さんにまで継承されていました。

宿屋敵やどやがたき」では、兵庫の男たちがお伊勢参りの帰途、大坂日本橋にっぽんばしの旅籠で騒ぎを起こす設定です。

戦後、東京で「宿屋の仇討ち」をもっとも得意とした三代目桂三木助は、大阪にいた大正15年(1926)、師匠の二代目三木助から大阪のものを直接教わり、あらすじに取り入れたような独自のギャグを入れ、十八番に仕上げました。

三木助以後では、春風亭柳朝のものが、源兵衛のふてぶてしさで天下一品でしたが、残念ながら、現在残る録音はあまり出来のいいものではありません。

東京独自の「庚申待」   【RIZAP COOK】

もうひとつの流れが、東京(江戸)で古くから演じられた類話「庚申待」です。

これは、江戸日本橋馬喰町にほんばしばくろうちょうの旅籠に、庚申待ちのために大勢が集まり、世間話をしているところへ、大切な客がやって来たことから始まり、以下は「宿屋の仇討ち」と大筋では同じです。

五代目古今亭志ん生や六代目三升家小勝みますやこかつが演じましたが、今は継承者がいないようです。

庚申待ちという民間信仰   【RIZAP COOK】

庚申かのえさるの夜には、三尸さんしという腹中の虫が天に昇って、その人の罪過を告げるので、徹夜で宴を開き、いり豆を食べるならわしでした。もとは中国の道教の風習です。

庚申は六十日に一回巡ってくるので、年に六回あります。三尸の害を防ぐには、青面金剛しょうめんこんごう帝釈天たいしゃくてん猿田彦さるたひこをまつるのがよいとされました。柴又しばまたの帝釈天が有名です。

聴きどころ   【RIZAP COOK】

三木助版は、マクラからギャグの連続で、今でもおもしろさは色あせません。

なかでも、源兵衛らが騒ぐたびに武士が「イハチー」と呼びつけ、同じセリフで苦情を言う繰り返しギャグ、源兵衛の色事告白の妙な迫真性、二人のはやし立てるイキのよさなどは無類です。

テンポのよさ、場面転換のあざやかさは、芝居を見ているような立体感があります。

【蛇足】

 「宿屋の仇討ち」には、以下の3つの型があるといわれる。

 (1)江戸型  天保板「無塩諸美味」所収の小話「百物語」が原話といわれているもの。明治期には「甲子待きのえねまち」「庚申待かのえさるまち」として高座にかけられていた。明治28(1895)年に柳家禽語楼きんごろうがやった「甲子待」が速記で残っている。以前は「宿屋の仇討ち」というと、この噺をさしたそうだ。げんに、大正7(1918)年に出た海賀変哲かいがへんてつの「落語のさげ」での「宿屋の仇討ち」のあらすじは、この型が紹介されている。六代目三升家小勝、五代目古今亭志ん生がやった。最近では、五街道雲助あたりがマニア向けにやるだけ。今となっては珍しい。この型は、なんといっても江戸の風俗がにおい立つ。なかなかに捨て難い。ただ、速記本を読んでも、登場するしゃれの数々が古びており、笑う前にわからない。うなるだけで先に進まない。悔しいかぎり。

 (2)上方1型 「宿屋敵やどやがたき」といわれるもの。兵庫の若い衆がお伊勢参りの帰りに大坂・日本橋の宿屋でひともんちゃく、という筋。これを、明治期に三代目柳家小さんが東京に持ってきた。上方から帰る魚河岸の三人衆が東海道の宿で大騒ぎ、という筋に作り変えたのだ。七代目三笑亭可楽さんしょうていからくを経て五代目小さんに伝わった。

 (3)上方2型 上方型にはもうひとつある。それが、今回取り上げた噺だ。大阪の二代目桂三木助に習った三代目三木助が、東京に持ってきて磨き上げたもの。他と比べると秀逸だ。現在「宿屋の仇討ち」といえば、ほとんどがこの型なのもうなずける。とはいえ、筋から見ればどれも大同小異ではあるが。

 3人衆が夜更けに興に乗ってがなり立てる「神田囃子」。これについて少々。

 江戸の祭囃子まつりばやしといったら、神田囃子だ。京都の祇園囃子、大阪のだんじり囃子と並び称される。神田明神の祭礼に奏でられるわけだが、もとは里神楽さとかぐらの囃子から出たもの。享保(1716-36)年間に葛西(現在の葛飾区あたり)で起こった「葛西囃子」がネタ元だという。葛西の代官が地元の若者の健全育成をねらって香取明神かとりみょうじんの神主と図り、神楽の囃子を作り変えたものだという。ものの起こりは「大きなお世話」からだったわけ。

 「和歌囃子」、転じて「馬鹿囃子」などともいわれた。ローカルな音だった。葛西囃子が、天下祭といわれる幕府公認の祭である「山王祭」や「神田祭」に出演していった。赤浜のギター弾きが、いきなり国際音楽祭に参加するようなもの。その結果、葛西囃子の奏法が江戸の方々に広まった。それが神田囃子として普遍化していったのだ。

 権威と様式はあとからついて回るもので、明治末期まで、神田大工町には神田囃子の家元と称する新井喜三郎家があったという。

 大太鼓(大胴)1、締太鼓しめだいこ(シラベ)2、篠笛しのぶえ(トンビ)1、鉦(ヨスケ)1の5人一組で構成される。一般に演奏される曲式には「打ち込み」「屋台」「聖天しょうでん」「鎌倉」「四丁目」がある。これらを数回ずつ繰り返してひとつづりに演奏する。さらには、「神田丸」「亀井戸」「きりん」「かっこ」「獅子」といった秘曲もある。概して静かな曲が多いのだが、「みこし四丁目」などは「すってんてれつく」のにぎやかな調子。これを深夜にやられたのではいい迷惑だ。

 神田囃子の数々は、小唄、端唄はうた木遣きやり、俗曲などに大なり小なりの影響を与えている。その浮き立つような心地よい調子は、落語家の出囃子、あるいは大神楽などで時折、耳に飛び込んでくる。江戸の音である。

(古木優)



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やどやのとみ【宿屋の富】落語演目



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【どんな?】

金なし男が投宿し、金満ぶりをふかしまくる。
富くじに当たって、震え止まらず。

別題:千両富 富くじ 高津の富(上方)

あらすじ

日本橋は馬喰町ばくろうちょうの、あるはやらない旅籠はたご

そこに飛び込んできた客が、家には奉公人が五百人いて、あちこちの大名に二万両、三万両と貸しているの、漬け物に千両箱を十乗せて沢庵石にしているの、泥棒が入ったので好きなだけやると言ったのに、千両箱八十くらいしか持っていかなかったのと、好き放題に吹きまくる。

人のいい主人、これは大変な大金持ちだ、とすっかり感心。

「実は私どもは宿屋だけではやっていけないので、とみふだを売っているが、一枚余ったのを買ってくれないか」
と持ちかける。

値は一分いちぶで、一番富は千両、二番富は五百両。

「千両ぽっち当たってもじゃまでしょうがないから嫌だ」
と男が言うのを、主人がむりに説得、買ってもらった上、万一当たったら半分もらう、という約束まで取り付けた。

男は一人になると、
「なけなしの一分取られちゃった」
と、ぼやくこと、しきり。

「あれだけ大きなことを吹いたから、当分宿賃の催促はねえだろう。のむだけのんで食うだけ食って逃げちゃおう」
と開き直る。

翌朝。

「二万両返しにくる予定があるので、断ってくる」
と宿を出た男、なんとなく湯島天神の方に足が向く。

ちょうど富の当日で、境内では一攫千金いっかくせんきんを夢見るともがらが、ああだこうだと勝手な熱を吹いている。

ある男、自分は昨夜夢枕に立った神さまと交渉して、二番富に当たることになっているので
「当たったら一反いったんの財布を作って、五百両を細かくして入れ、吉原へ行きます」
と、素見ひやかしでなじみみの女郎と口説くぜつの上、あがって大散財し、女郎を身請けするまでを一人二役の大熱演。

「それでおまえさん、当たらなかったらどうすんの」
「うどん食って寝ちまう」

騒いでいるうち、寺社奉行立ち会いの上、いよいよ富の抽選開始。

子供のかん高い声で
「おん富いちばーん、子のォ、千三百、六十五ばァん」
と呼び上げる。

二番富になると、さっきの夢想男、持ち札が辰の二千三百四十一番なので、期待に胸をふくらませる。

「おん富にばーん、たつのォ、二千三百四十」
「ここですよ、女を身請けするか、うどん食って寝るかの別れ目は。一番ッ」
「七番」
「ふわー」

あわれ、引っくり返った。

一方、一文なしになった宿の客、当たり番号を見て
「オレのが子の千三百六十五番。少しの違いだな。うーん、子の、三百六十五番……三百六十五……うわっ、当たったッ、ウーン」

ショックで寒気がし、そのまま宿へ帰ると、二階で蒲団かぶってブルブル震えている。

旅籠のおやじも、後から天神の森に来て、やっぱり、
「子の千三百六十五……アリャリャリャリャー、ウワーッ」

こっちもブルブル震えて、飛ぶように家に帰ると、二階へすっとんで行き、
「あたあた、ああたの富、千両、当たりましたッ」
「うるせえなあ、貧乏人は。千両ばかりで、こんなにガタガタ……おまえ、座敷ィ下駄履いて上がってきやがったな。情けないやつだね」
「えー、お客さま、下で祝いの支度ができております。一杯おあがんなさい」
「いいよォ、千両っぱかりで」
「そんなこと言わずに」
と、ぱっと蒲団をめくると、客は草履ぞうりをはいたまま。

しりたい

毎日どこかで富くじが

各寺社が、修理・改築の費用を捻出するために興行したのが江戸時代の富くじで、単に「富」ともいいます。

文政年間(1818-30)の最盛期には江戸中で毎日どこかで富興行があったといいます。

有名なところは、湯島天神、椙森稲荷、谷中天王寺、目黒不動境内など。

これら寺社では、多い時は月に20日以上、小規模な富が行われました。

富久」で記したように、千両富となるとめったにありませんでした。

富くじは、明治に入ると廃止となりました。

先の大戦後の困窮した国民にわずかながらも一筋の希望をと、日本勧業銀行(現みずほ銀行)の管轄で「宝くじ」が昭和21年(1946)に始まり、現在にいたっています。

明治維新から先の大戦後までの77年間は、富くじの伝統は中断されていたことになるのでした。

陰富もあった

当たりの最低金額は一朱(1/16両)でした。

「突き富」の別名があるのは、木札が入った箱の中央の穴から錐で突き刺すからで、ほとんどの場合、邪気のない子供にさせました。

普通、二番富から先にやりますが、落語では演出上、細かい点は気にしません。

富はあくまで公儀(ここでは寺社奉行)の許可を得てその管轄下で行うものですが、幕末には「陰富」という非合法な興行が、旗本屋敷などで密かに催されるようになりました。

河竹黙阿弥の『天衣紛上野初花くもにまごううえののはつはな』に、今はカットされますが、「比企屋敷陰富の場」があり、大正15年(1926)11月の帝劇でただ1回上演されています。

これも上方から

上方落語の「高津の富」を、三代目柳家小さんが大阪の四代目桂文吾に教わり、明治末に東京に移しました。

その高弟の四代目小さん、七代目三笑亭可楽を経て五代目小さんに受け継がれましたが、小さんの型は、境内のこっけいなようすがなく、すぐに主人公が登場します。

オチは、あらすじで参照した五代目古今亭志ん生や次男の志ん朝は「客は草履をはいたままだった」と地(説明)で落としましたが、小さんのでは「あれっ、お客さんも草履はいてる」とセリフになります。

馬喰町は繁華街だった

ばくろうちょう。東京都中央区日本橋馬喰町。

現在はさほどではありませんが、当時は江戸随一の繁華街でした。

元禄6年(1693)に信濃善光寺の開帳(秘蔵物を見せて金を取ること)が両国回向院で行われたとき、参詣人が殺到して以来、旅籠町として発展しました。

お神酒徳利」にも登場します。



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ながさきのこわめし【長崎の赤飯】落語演目

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【どんな?】

上方の人情噺。
突拍子もないこと。
「長崎の赤飯」といいます。

別題:上方芝居(上方)

【あらすじ】

日本橋金吹町の質両替商、金田屋金左衛門。

勘当した一人息子の金次郎はどこでどうしていることかともらすと、女房の許には季節の変わり目に手紙が届いている、という。

女房の言うことには、金左衛門が勘当するや、伊勢の弥左衛門の家に預けたとか。

弥左衛門が商用で長崎に赴いた折に同行した金次郎、回船問屋・長者屋の娘お園に見初められ身を固めたとのこと。

それをきいた金左衛門、番頭の久兵衛に「おとっつぁん、一生の大病」と、手紙を書かせる。

開封した金次郎は身重のお園を気にしながらも急ぎ長崎をたった。

わが家に戻った金次郎の姿を見て、金左衛門夫婦は大喜びだが、またも長崎に行かれては寂しいので、久兵衛と画策。

八丁堀岡崎町の町方取締与力、渡辺喜平次の娘おいちと添わせるべく手はずを整えた。婚礼が近づいた日、身重のお園が物乞いの姿に身をやつして現れる。

これは女一人で江戸までの旅路も物乞い姿なら遂げやすかろうということから。

金左衛門も久兵衛もヒキガエルの化け物のようななりのお園に驚き、金次郎は死んだ、と告げる。

落胆するお園。

そこへ金次郎が帰ってきた。

金左衛門らの不実にまたも落胆するお園だが、身繕いをし、支度を整えれば元の美しい姿に。金左衛門もこの娘なら嫁に許そうという気にころりと変わった。

そこへ喜平次が訪ね、お園を連れ去ってしまう。

金左衛門は、
「おいちさまをひとまずもらいなさい。その間に手を回してお園さんを返してもらい、家風が合わないといっておいちさまを出せばいい」

婚礼の晩。

現れた花嫁はおいちではなく、お園だった。

金左衛門は
「こりゃどうも。お料理が粗末でいけないからすぐ取り換えて」

関所破りを改めようとしたが、お園の思いが強いことを知った喜平次のはからいで、このような具合に。

おいちはかねて望みの尼になる。

お園は男子を産み、金太郎と名付けた。

この子に長者屋を継がせ、金次郎は金田屋を相続。

金太郎の初節句に、十軒店から人形を買って長崎に送ると、長崎から赤飯が返礼に届いた。

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

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【しりたい】

二つの系統

原話は井原西鶴の作品といわれますが、未確認です。

上方落語として文化年間(1804-18)から口演された古い噺で、明治期に五代目金原亭馬生(1864-1946)が東京に移植したものです。

馬生は大阪出身で、副業に玩具屋をやっていたため「おもちゃ屋の馬生」とあだ名されました。

この噺は系統が二つあります。一つの系統はこの「長崎の赤飯」。

五代目馬生直伝で、六代目三遊亭円生が一手専売で演じ、円生在世中は当人も言っていますが、ほかには誰も演じ手はありませんでした。

その円生没後、弟子の円窓に継承されたものの、ほとんどすたれていました。

その後、鈴々舎馬桜ほかが高座に掛け、若手も手掛けるようになって、ようやく復活をみています。

別の系統は、八代目林家正蔵(彦六)が演じた「上方芝居」です。

これは、前半、女が老けづくりをし、物乞いに変装して若だんなに会いに来るところが「長崎の赤飯」と共通しています。

ルーツは同じと思われますが、いつ枝分かれし、誰が脚色して改作したかは不明です。

大阪で演じられた形跡はなく、明治期では、四代目橘家円喬、初代三遊亭円右と、円朝門の名人が得意にしました。

二人と同門の三遊一朝老人から、八代目正蔵(彦六)が若き日に教わり、晩年、時々高座に掛けました。

もっとも、こちらは、発端とオチはまったく違っていて、女は若だんなが上方見物に行ったとき、芝居小屋でけんかした相手との手打ちの座敷に出た、春吉という芸妓という設定です。

二人は親に無断で夫婦約束をしますが、若だんなが江戸へ帰ってから音沙汰がないので、春吉はしびれを切らして出てきます。

ところが、若だんなは奥州へ行って留守なので、仕方なく死んだことにし、麻布絶口木蓮寺に墓があると偽って、小春を連れて行きます。

オチは「お見立て」と同じで、「どれでも好きなの(墓石)を選んでください」となっています。

初代円右はこれをさらに怪談仕立てに変え、春吉がニセの墓前で自害、のちに化けて出ることにしたので、「長崎の強飯」とはますます違った噺になりました。

長崎のこわめし

オチは、江戸の古い慣用表現で、突拍子もないことを言うと「長崎から赤飯が来る」などと言いました。

同じ意味で「天竺から古ふんどしが来る」とも。

ありえない話の意味から転じて、「気長な」「間延びしたこと」のたとえにも使われました。

この噺のオチのニュアンスでは、後者の方を効かせているのでしょう。

「こわめし」は今の「おこわ」の語源で、もち米で炊いた冠婚葬祭用の飯のことです。

日本橋金吹町

にほんばしかなぶきちょう。中央区本石町三丁目の内。日銀本店の真向かいあたりです。

元禄(1688-1704)以前に、この地に金座が置かれていたことから、起こった町名といわれます。

当時は文字通り「かねふきちょう」と読んだとか。

元禄年間、金座はすぐ南の今の日銀の位置に移り、明治維新に至りました。

【RIZAP COOK】

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さるごけ【猿後家】落語演目

五代目古今亭志ん生

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【どんな?】

会社で舌禍席巻。
その果てにリストラ。
憂き目やつすオッサンには
身につまされる話です。

別題: お猿だんな

【あらすじ】

さる商家の後家さん。

四十過ぎだが、ご面相が猿そっくり。

外出するたびに近所の者に
「サル、サル」
と後ろ指さされるので、気がめいって、家に閉じこもりきり。

周囲の者には「サル」という言葉は絶対に言わせない。

口に出したが最後、奉公人はクビ、職人も出入り禁止になるので、みな戦々恐々。

先日も植木屋がうっかり
「サルすべり」
と言ってしまい、大げんかになったばかりで、番頭は頭を抱えている。

ちょうど現れたのが出入りの源さん。

これが口八丁手八丁で、うまくおかみさんの機嫌を取り結ぶので、みな重宝がっている。

源さん、さっそく奥へ通ると、いつもの通りお世辞の連発。

親類で京美人の娘と間違えたふりをしたり、素顔なのに化粧していると言ってみたりで、おかみさんはすっかり有頂天。

おかみさんは、鰻だ酒だと、ごちそう攻め。

三、四日来なかったわけを聞かれると、待ってましたとばかり、源さん、知人に案内して東京の名所を回った話をする。

「浅草の広小路に出ると大勢の人だかりで、これが近ごろ珍しいサル回し……」

あっと思ったが、もう手遅れ。

おかみさんは烈火のごとく怒り、あえなく源さん、永久追放とあいなった。

失業中で、ここのご祝儀だけで親子三人露命をつないでいたのに、クビになった日には干上がってしまう、とべそをかき、番頭に取りなしを頼む。
番頭は番頭で、前任者で仕立て屋の太兵衛という男の悲惨な運命を語る。

子供の踊りの話から「靭猿」がついて出て、失敗。

二か月後、物乞いの格好で現れ、絵草紙屋で見つけた絶世の美女の錦絵があまりにも奥さまに瓜二つなので、これをご本尊に、これから四国巡礼の旅に出るとうまく言って、見事失地回復。

ところが、おまえは知恵者だとほめられた拍子に「ほんのサル知恵で」とやった。

これで完全に回復不能、というわけ。

そんな話を聞いていてひらめいた源さん、
「日本古来の美人は」
と番頭に尋ねると、
「小野小町、袈裟(けさ)御前に静御前、常盤御前」
と番頭。

それだけ覚えると再び奥へ。

「さっきのは皿回しと言ったんですよ」
とゴマかしてご機嫌を直し、ダメ押しに
「おかみさんほどの美人は小野小町か袈裟御前」
とまくしたてたから、
「おまえ、生涯家に出入りしておくれ」
と、おかみさんは大喜び。

「その代わり、あたしの気にさわることは、絶対に口におしでないよ」
「そりゃ大丈夫です。ご当家をしくじったら、木から落ちたサル」
「なんだい?」
「いえ、猫同様でございます」

底本:六代目蝶花楼馬楽、十代目柳家小三治

【しりたい】

オリジナルは上方落語

純粋の上方落語で、先代桂文枝のは、中年女の脂っけたっぷりで絶品でした。

大阪の演出では、伊勢参りから奈良を回った話から「猿沢の池」が出て失敗。寒いので「さむそうの池」と言ったとごまかしますが、最後に「ようヒヒ(=楊貴妃)に似てござります」と地口(ダジャレ)オチになります。

東京紹介はわりに早かったようで、昭和4年(1929)講談社刊の『落語全集』下巻に、「お猿だんな」として主人公を男性に替えた、藤波楽斎なる演者名での東京演出の速記が載っています。実際にこの演題で口演されたかどうかは不明ですが。この速記では、オチは「木から落ちたリス」となっています。

現在は東京でも「猿後家」で演じられ、六代目蝶花楼馬楽の速記もありますが、現役では柳家小三治のもので、小三治は「猿でございます」と、失敗のままオチています。

靭猿

うつぼざる。同題の狂言を常磐津舞踊に仕立てたもので、本題を「花舞台霞の猿曳」といいます。歌舞伎舞踊では現在もよく上演される代表的なもので、長唄にもアレンジされています。

狂言には珍しい「人情噺」で、太郎冠者を引き連れた大名に、靭(=矢筒)の革にしたいから猿を差し出せと強要された猿曳きが、涙ながらに自分の手で杖で打ち殺そうとすると、猿がその杖を取って舟の櫓を押すまねをするので、大名も哀れに思い、猿を助命する、という筋です。

四国巡礼

「一つとや、一つ長屋の佐次兵衛殿、四国を廻って猿になる」という俗謡からの連想と思われます。

美人

このほか、大阪では照手姫、衣通(そとおり)姫の名を挙げたりします。

木から落ちた猿

頼りとする者から、見放されるたとえです。

五代目古今亭志ん生

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評価 :0/3。

いもりのまちがい【いもりの間違い】落語演目



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【どんな?】

夢の中で、家主の娘に恋わずらいした源治。
ここはもう、黒焼きを使って……。
惚れ薬が話題。
ホントに、こんなのがあればねえ。

噺のお約束:いもりの黒焼き=惚れ薬

別題:薬違い

【あらすじ】

呉服商伊勢屋の娘に恋患いした、源治。

伊勢屋は長屋の家主でもある。

ところが、当人は一度もその娘を見たことがない。

夢の中でさらしのふんどしを一本買いに行ったところ、娘が出てきて、
「あの方は家の長屋にいる人だから、おアシを取っちゃいけないよ」
と言いながらこっちを横目で見た時、思わずブルブルっと震えがきた。

(引き続き夢で)それから湯に行って、出て来ると外に娘が立っている。

「おまえさんの家が、どこだかわからなかった」
「さあ、おうちに行きましょう」
と言って、一緒に帰ってくると、さっそく娘が
「おかみさんは? お独り身でございますか」
と聞くなり、上がり込み、それから二人で差し向かう。

茶を飲んで焼き芋をつまんだところで目が覚めたという、「見ぬ恋に焦れる」という、いじらしさ。

見舞いに来た友達が、
「そういうのに一番効き目があるのが、いもりの黒焼きだ」
という。

つまり、惚れた相手の身につけるものに振りまけば、たちまち恋がかなうという惚れ薬。

これを、少しおめでたい六兵衛に買ってこさせ、機会をうかがうと、伊勢屋の物干しに娘の襦袢が干してあったので、これ幸いと屋根伝いに潜入し、襦袢にいもりの粉をたっぷりと振りかけて帰った。

二、三日待ったが、娘からなんの音沙汰もない。

焦れていると、やっと待望の手紙が来た。

無筆なので、友達に代わって読んでもらう。

父親は墓参で留守、母親は耳が遠いから、私から源治さんに直接お話ししたいからちょっと来てほしい、とのこと。

「なんだかわからねえが、定めて薬が効いてきたのだろう」
と、喜んで行ってみると、予想に反して娘は意外に年増。

「まあ、年増も悪くない」
と源治がほくそ笑むと、娘が切り出したのは、なんと家賃の催促。

「あなたは八か月もためているので、あと三日以内に払えなければ店を空けて出ていってほしい」
という、恐ろしく冷酷な宣言。

それだけ。

がっかりして帰った源治、また病がぶり返し、六兵衛を呼びつけて、
「おめえ、たしかにいもりを買ったのか」
と念を押すと
「あ、しまった。ヤモリ(家守=家主)の黒焼きだった」

【RIZAP COOK】

しりたい

昔も今も同じ、男の願望

原話は安永10年(1781=天明元)刊の笑話本『民和新繁』中の「ほれ薬」です。

昔も今も男の考えることは、いっこうに変わらないようです。

上方には別話の「いもりの黒焼き」があります。

惚れた女にいもりの粉をかけようとした男が、間違って米俵にかけてしまい、俵が追いかけてくるため「苦しい、苦しい」と言いながら逃げるドタバタ劇。

友達が「なにが苦しいねん?」と聞くと「飯米に追われ(生活が苦しい意)てます」というオチになります。

こちらは、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)が復活して演じました。

民話の「惚れ薬」をそのままいただいたもので、こうした話は全国各地に伝わっているようなのです。

本編「いもりの間違い」の方も、おそらく類似の民話が原型なのでしょう。

三代目小さんの速記

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の明治29年(1896)の速記では「いもりの間違ひ」と題しています。本サイトでもそれにならっています。

薬違い

「薬違い」の題で演じられる時はオチが少し違っていて、「あっ、しまった。薬違いだ」としていました。「道理で家賃の催促をされた」となる場合もあります。

七代目雷門助六(島岡大助、1899-1961)の速記が残っていますが、現在ではやり手はいません。

いもりの黒焼き

原料は伊吹山産のいもりのつがい。

伊吹山は滋賀県と岐阜県の境にあります。神宿る山。白猪(古事記)、あるいは大蛇(日本書紀)が神だとされていますが、どちらも不気味で強そうな動物です。『古事記』ではヤマトタケルが山の神(白猪)を退治します。読みは多くが「いぶきやま」。

薬草が採れることで有名。特産はさしも草(よもぎ→もぐさの原料)。お灸に使います。その連想から、和歌では「伊吹山」は「燃ゆ」との縁語に使われます。

そういうわけで、伊吹山のいもりも霊的なイメージがつきまといます。そこらへんのただのいもりでないところがミソ。

交尾中のものを黒焼きにすると媚薬になると伝えられてきましたが、効果の方はかなり怪しいもの。

黒焼きは「霜」とも呼び、漢方薬に「伯州散」という、黒焼きを用いたものがあるほか、猿の脳味噌、蛇、オケラ、孫太郎虫などのゲテモノを黒焼きにして薬用にしました。

動物だけでなく、草の根を用いたものもあります。

大坂高津宮南側(大阪市南区瓦屋町)の黒焼き屋は、天正年間が創始という老舗で有名でしたが、昭和54年(1979)に廃業。

井原西鶴(1642-93)の「好色五人女」(貞享3=1686年刊)に登場するほか、各種の洒落本などにも見えます。

江戸でも元禄年間(1688-1703)からはやり始め、下谷黒門町(台東区上野1丁目~3丁目)や山下御成街道に「元祖黒焼き」の看板を揚げた店が軒を並べました。

東京にも戦前まで残っていました。

桂米朝は「東京・上野の鈴本(演芸場)の近くに、二軒の黒焼き屋が並んでいて、片方が『本家いもりの黒焼き』と看板を上げていて、おかしかったのを、覚えています」と『米朝ばなし 上方落語地図』(桂米朝、講談社文庫、1984年)の中で語っています。

いもりとやもりは、江戸時代にはよく混同されていました。いもりは爬虫類、やもりは両生類と学校で習っても、現代でもまあ、どっちでもいいような動物でしょう。

ことばよみいみ
襦袢じゅばん
たな
そう
洒落本 しゃれぼん遊郭を舞台にした艶本

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

そこつながや【粗忽長屋】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

 【どんな?】

「粗忽」とはあわてん坊の意。
行き倒れの主が自分!? 
粗忽者はさて、どうする。

あらすじ

長屋住まいの八五郎と熊五郎は似た者同士で、兄弟同様に仲がいい。

八五郎は不精ぶしょうでそそっかしく、熊五郎はチョコチョコしていてそそっかしいという具合で、二人とも粗忽さでは、番付がもしあれば大関を争うほど。

八の方は信心はまめで、毎朝浅草の観音さまにお参りに行く。

ある日、いつもの通り雷門かみなりもんを抜け、広小路ひろこうじにさしかかると、黒山の人だかり。

行き倒れだという。

強引に死体を見せてもらうと、そいつは借りでもあって具合が悪いのか、横を向いて死んでいる。

恐ろしく長っ細い顔だが、こいつはどこかで見たような。

「こいつはおまえさんの兄弟分かい」
「ああ、今朝ね、どうも心持ちが悪くていけねえなんてね。当人はここで死んでるのを忘れてんだよ」
「当人? おまえさん、兄弟分が浅ましい最期さいごをとげたんで、取りのぼせたね。いいかい、しっかりしなさいよ」
「うるせえ。のぼせたもクソもあるもんけえ。うそじゃねえ明かしに、おっ死んだ当人をここへ連れて来らァ」

八五郎、脱兎だっとのごとく長屋へ駆け込むや、熊をたたき起こし、
「てめえ、浅草の広小路で死んだのも知らねえで、よくもそんなにのうのうと寝てられるな」
と息巻く。

「まだ起きたばかりで死んだ心持ちはしねえ」
と熊。

昨夜どうしていたかと聞くと、本所ほんじょの親類のところへ遊びに行き、しこたまのんで、吉原をヒヤカした後、田町でまた五合ばかり。その後ははっきりしないという。

「そーれ見ねえ。つまらねえものをのみ食いしやがるから、田町から虫の息で仲見世なかみせあたりにふらついてきて、それでてめえ、お陀仏だぶつになっちまったんだ」

そう言われると、熊も急に心配になった。

「兄貴、どうしよう」
「どうもこうもねえ。死んじまったものはしょうがねえから、これからてめえの死骸しがいを引き取りにいくんだ」
というわけで、連れ立ってまた広小路へ。

「あらら、また来たよ。あのね、しっかりしなさいよ。しょうがない。本人という人、死骸をよくごらん」

コモをまくると、いやにのっぺりした顔。

当人、止めるのも聞かず、死体をさすって、
「トホホ、これが俺か。なんてまあ浅ましい姿に……こうと知ったらもっとうめえものを食っときゃよかった。でも兄貴、何だかわからなくなっちまった」
「何が」
「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう」

しりたい

主観長屋?   【RIZAP COOK】

アイデンティティー(本人に間違いないこと)の不確かさを見事に突いた鮮やかなオチです。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は、主人公の思い込みの原因は「あまりにも強すぎる『主観』にある」という解釈で、「主観長屋」の題で演じましたが、この場合の「主人公」は八五郎の方で、いったん、こうと思い込んだが最後、刀が降ろうが槍が降ろうがお構いなし。1+1は3といったら3なのです。

対照的に相棒の熊は、自我がほぼ完璧に喪失していて、その表れがオチの言葉です。

どちらも誇張されていますが、人間の両極を象徴しています。

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、「死んでいるオレは……」と言ってはならないという教訓を残していますが、なるほど、この兄ィは、自分の生死さえ上の空なのですから当然でしょう。

代々の小さんに受け継がれた噺で、脳内に霞たなびく熊五郎が抱腹絶倒ほうふくぜっとうの十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)の芸風こそ、その直系を感じさせました。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の貴重な音源が残っているほか、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、七代目談志のものが多く出ています。

自身番のこと   【RIZAP COOK】

自身番屋じしんばんやは、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。

昼間は普通、町役ちょうやく(おもに地主)の代理である差配さはい(大家)が交代で詰め、表通りに地借りの商家から出す店番たなばん1名、事務や雑務いっさいの責任者で、町費で雇う書役しょやく1名と、都合3名で切り盛りします。

行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目です。

身元引受人が名乗り出れば確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院えこういんなどの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。

その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でした。

したがって、自身番にすれば、こういうおめでたい方々が現れてくれれば、かえって渡りに船だったかもしれません。

浅草広小路   【RIZAP COOK】

浅草寺の雷門前のあたりをいいました。雷門広小路とも。台東区浅草1丁目、2丁目。

浅草広小路には、女川菜飯めかわなめしという人気の飯屋がありました。

ここの菜飯は、東海道の石部・草津間にある目川めかわ村でつくられる菜飯の風味をまねていたそうです。

客寄せから、目川が女川に。値段は1膳12文、菜飯以外に田楽も出したそうです。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

まんきんたん【万金丹】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

江戸を食い詰めた梅吉と初五郎。
寺に転がり込んで一波乱。

別題:戒名万金丹 鳥屋引導(上方)、鳥屋坊主(上方)

【あらすじ】

道中で路銀が底をつき、水ばかり飲んで腹は大シケという、餓死寸前の大ピンチ。

とある古寺に、地獄にホトケとばかり転がり込む。

いざとなればタコの代わりくらいにはなるから、坊主でも食っちまおう、というひどい料簡。

やっと食い物にありついたと思ったら、先代住職の祥月命日とやらで、精進物の赤土と藁入り雑炊を食わされる。

これで左官をのみゃあ、腹ん中に壁ができらァという大騒ぎの末、同情した和尚の勧めで、先の当てもないこともあり、しぶしぶ出家して、この寺に居候同然の身とはなった。

梅坊、初坊と名を変えた二人、ひっきりなしにこき使われ、飲酒も女郎買いも厳禁というひどい境遇に、はや不満たらたら。

その折も折、和尚が京都の本山に出張で一月は帰れないという。

留守番を頼まれた梅と初、さあこの時とばかり、
「それ酒だ」
「網がねえから麻衣で鯉をとってこい」
「金がなきゃァ阿弥陀さまから何から一切合切売っ払っちまえ」
というわけで、飲めや歌えのドンチャン騒ぎをし始める。

そこへやって来たのが檀家の衆。

近在の大金持ち、万屋の金兵衛が死んだので
「葬式をお願え申してェ」
と言う。

「どうしよう、兄貴、経も読めねえのに」
「なに、かまうこたァねえ。経なんざイロハニホヘトでゴマけて、どさくさに香典かっつァらってずらかっちめェ」

りっぱな坊主があったもので、香典目当てに金兵衛宅に乗り込んだ二人、さっそく怪しげな読経でケムにまく。

「いーろはーにほへと、富士の白雪ャノーエ、おてもやーん、チーン」

なんとかかんとか終わったはいいが、どうぞ戒名をいただきたいと言われて、さあ困った。

「なにか字のあるものは……」
と探すと、和尚の部屋を掃除していて、たまたま見つけた薬の効能書き。

「あー、戒名、官許伊勢朝熊霊法万金丹」
「坊さま、こんな戒名聞いたことがねえ」
「なに、上等だ。ホトケのニンにあってらあな。棺の前で経を読むからカンキョ、生きてるときは威勢がいいが死んだら浅ましくなるから、イセイアサマ、死んだら幽霊になるから霊宝、おまけにホトケが万屋金兵衛だから万金だァ。なに? 屋根から転がり落ちて死んだ? それならゴロゴロゴロゴロ落っこったんの丹だ。…リッパなカイミョウじゃねえか」
「それじゃあ、わきに白湯にて用うべしとあるのは、なんだね」
「このホトケはお茶湯をあげるにゃ及ばねえ」

【しりたい】

原型は『醒睡笑』に  【RIZAP COOK】

直接の原話は延宝3年(1675)刊の笑話本『軽口曲手毬』中の「文盲坊主戒名付る事」ですが、さらに遠い原型は『醒睡笑』(安楽庵策伝、寛永5=1628年稿)巻一の小咄「無智の僧」その六です。

こんな話です。

バクチに負けて取り立て逃れのため、にわか坊主になった男が、葬式で読経させられるハメに。困って、若いころ薬屋に奉公したとき覚えた漢方薬の名をでたらめに並べ立てますが、たまたま列席していた薬屋の主人が勘違いし、「あらありがたや。われわれが売買する薬の名は、すべて法華経の経文にあったのか」と感激、ニセ坊主を伏し拝む。

この話が上方で旅の噺として落語化され、「鳥屋坊主」または「鳥屋引導」として親しまれたものが、幕末か明治初期に東京に移植されたと思われます。

元は「七度狐」の一部にも  【RIZAP COOK】

上方の演出は、長編シリーズ「東の旅」で、清八と喜六の極楽コンビが寺(または尼寺)で狐に化かされる「七度狐」の前半、住職に赤土と藁のベチョタレ雑炊を食わされるシーンの後に、入れ込み噺(別バージョン)として挿入されるのが普通です。

東京のと、やり方はさほど変わりません。

「お茶湯」のオチも同じですが、「霊法」のこじつけで、「幽霊になって出んよう、法で押さえてある」とするところが異なります。

頭屋  【RIZAP COOK】

上方の演題「鳥屋坊主」はもとは「頭屋坊主」で、頭屋とは西日本で葬儀を取り仕切る村の長老のこと。

旅の噺になり、旅回りの芸人が楽屋で寝泊まりするのを「鳥屋につく」といったのを誤用したのでは、というのが宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)の説です。

鳥や船は葬制にかかわる言葉です。死を導く言葉でもあります。

金さんは「要解剖?」  【RIZAP COOK】

古くは「戒名万金丹」と題した明治23年(1890)1月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記があり、さらに孫弟子にあたる三代目蝶花楼馬楽(本間弥太郎、1864-1914)が、明治43年(1910)4月の『文藝倶楽部』に速記を載せていて、それ以来ずっと小さん系の噺です。

二代目小さんのでは、坊主に化けるのは一人で、江戸を出てすぐの出来事としてあります。

「丹」のこじつけでは、二代目や馬楽、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)あたりまでは単に「落っこったんのタンだ」としていましたが、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)や七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は「痰がからんだんで」「だめだい、屋根から落っこちて死んだ」「だから、落っこちたんさ」と、細かくなっていました。

「白湯にて用ゆべし」を、「おぼれ死んだから水には懲りてる」としたり、効能書きに「食物いっさい差し支えなし」と加え、だから「精進には及ばない」とこじつけるオチもあります。

万金丹  【RIZAP COOK】

目まい、癪、下痢、痛みなどの万病に効くとされる常備薬です。

「丹」は中国で不老不死の霊薬を指し、一般に丹薬の形状は練り薬です。

「万金丹」は「仁丹」と共に例外的に丸薬で、わらべ唄などにも唄われ、悪童どもの「鼻くそ丸めて万金丹」という囃し言葉にもなりました。

お茶湯  【RIZAP COOK】

「おちゃとう」と読みます。

禅家のことばです。お茶と白湯さゆをさします。転じて、仏前、祖師や霊前に供える茶のこと。さらには、その点茶法をもさします。

「先祖の仏前に供えるお茶のこと」でもよいのですが、ちょっと粗い解釈です。禅宗系で使われることばで、あくまでも、お茶と白湯のこと。

ことばよみいみ
鳥屋とりや鶏肉を売る店。「とや」と読むと梅毒にかかった遊女の療養所。ここでは鶏肉販売店のことですから「とりや」
精進物しょうじんもの、しょうじもの植物質の食べ物。非肉系の食料や料理。仏教系の食料全般
わら稲や小麦などイネ科植物の茎を乾燥させたもの。さまざまな用途で利用する
頭屋 とうや寺社の行事での世話役の家
檀家だんか決まった寺に属し、寺が葬式や供養を営む代わりに、家が寺を金銭的に支える、その家のこと。浄土宗では信徒、浄土真宗では門徒
万屋 よろずや雑貨店、荒物店

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評価 :1/3。

ろくろくび【ろくろ首】落語演目

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【どんな?】

上方噺の与太郎噺。
どことなくユーモラスで、愛らしい感じの妖怪が主人公。

【あらすじ】

与太の入った、松公。

おじさんの家にぼーっとやって来て、モジモジしたあげく、突然大声で
「おかみさんが欲しいッ」

二十五になってもおふくろと二人暮らしで、ぶらぶら遊んでいる。

兄嫁がご膳差し向かいで兄貴を「あなたや」などと色っぽい声で呼ぶので、うらやましくなったらしい。

「そりゃいいが、おまえどうして食わせる?」
「箸と茶碗」
「どうしてかみさんを養ってくかってんだ」
「大丈夫だよ。おふくろとかみさんを働かせて……」
「てえげえにしろ、ばか野郎」

すると、おばさんが何か耳打ち。

「え? なに? こいつを? そうよなあ。こういうのは感じねえから、いいかもしれねえ」

そこでおじさん、
「もしおまえがその気なら」
と、けっこうづくめの養子の話をする。

さるお屋敷のお嬢さんで、年ははたち。両親は亡くなって乳母、女中二人と四人暮らし。資産はあるし、美人だし、と聞いて、松公は早くもデレデレ。

ところが、奇病がある。

草木も眠る丑三ツ時になると、首がスーッと伸び、行灯(あんどん)の油をペロペロなめるとか。

「お、おじさん、それ、どくどっ首」
「ろくろっ首だ」
「そんな遠くに首があったんじゃ、たぐらなくちゃならねえ」
「帆じゃねえや」

夜しか首は伸びないし、寝たら目を覚まさないからいいと、松公、能天気に行く気になった。

おじさん、あいさつもできなければまとまらないと、松公の褌にひもを結び、乳母が出てきてなにか行ったとき、一回引っ張れば「さようさよう」、二回なら「ごもっともごもっとも」、三回なら「なかなか」と返事するんだと教え込み、
「これでまとまりゃ、人間の廃物利用だ」
と松公を連れてお屋敷へ。

ところが、乳母が
「ご両親さまが草葉の陰でお喜びでございましょう」
と、あいさつすると松公、
「ごもっともごもっともォ。あとはなかなか」
と後まで言ってしまい、おじさんは冷や汗。

庭を見ると猫がいたので
「柔らかくてうまそうな猫だ」
とヒゲを抜く。

そのうち、お嬢さんが庭を通る。

「お、おじさん、あの首が」
「しッ、聞こえるじゃねえか」

よく見ると大変にいい女なので、松公うれしくなり
「あなたッ、おまえさん、さようさようッ」

お嬢さん、顔を赤くして逃げてしまう。

おじさんが小言を言っていると、猫が褌に取りついて、松公、
「さようさよう、なかなか、ごもっともごもっともッ」
と大騒ぎ。

縁があったか、話がまとまって吉日を選び、婚礼の夜。

こういう者でも床が違うから寝つかれず、夜中に目を覚ました。

時計がチンチンと二つ打つ。

「ごもっともごもっとも」
と寝ぼけていると、隣のお嬢さんの首がスーッ。

松公
「伸びたァー」
と肝をつぶしてそのまま飛び出し、おじさんの家の戸をドンドン。

「あばばば、伸びたーッ」
「ばか野郎。静かにしろ。伸びるのを承知で行ったんじゃねえか」
「承知だってダメだよ。初日から。あんなのだめだ」
「なにがあんなのだ。第一、おまえ、夫婦のちぎりは結んだんだろ?」
「なんだい、そのちぎりって」
「そんなことはっきり言えるか。家へけえれ」
「あたい、おふくろんとこに帰る」
「この野郎。どのツラ下げておふくろんとこィ帰れる。大喜びで、明日はいい便りの聞けるように、首を長くして待っているじゃねえか」
「えっ、大変だ。家へも帰れねえ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

ろくろ

ろくろとは、物をつるしあげる滑車。

「ろくろ首」とは、その宙高く伸びた形から名がついた妖怪です。

江戸の古い洒落で、「ろくろ首のへど」とは「長い」の意味。

歌舞伎「髪結新三」の「永代橋の場」のセリフに、「ろくろのような首をして」とあるように、首の長い人を揶揄するたとえにも使われました。

首の正体

この妖怪、どうも中国にルーツがあるようで、あちらでは「飛頭蛮」と書きます。

水木しげる(武良茂、1922-2015)によれば、ろくろ首はたいてい女で、一説には夜中に寝ている男の精気を吸い取るとか。

さる大名が参勤で道中、本陣に泊まっているとき、馬番が居眠りしているスキに、牡馬がろくろ首に股間からすっかり精を吸われ、翌日フラフラで使いものにならなかったという、笑話ともエロ噺とも、はた怪談ともつかない昔話があるそうです。

これをみると、どうも淫乱な女性のカリカチュアのようですが、夜な夜な魂が肉体を離れる「離魂病」だというオカルト的解釈もあります。

いやな話ですが、ろくろ首には首に青あざがあるという説があるので首つり死体から連想されたのでは、と考えられなくもありません。

上方の「後日談」

この噺、幕末から大阪で演じられていたものを明治期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移しました。

直接の原典ではありませんが、「ろくろ首」の小咄は明和9年(1772)刊『楽牽頭がくたいこ』中の「ろくろ首」ほか、たくさんあります。

上方落語では、まだこの続きがあって、アホが逃げたので離婚の交渉になり、すったもんだの末、蚊帳を吊る夏だけ「別居」することに。

「首の出入りに、蚊が入って困るのや」とオチになります。

上方版だと、仲人の「先方をキズものにして、いまさら嫌とは言わせない」というセリフがあるので、怖くてもしっかり「コト」だけは済ませていたのがわかります。

その点、江戸っ子のいくじのないこと。

東京では代々の柳家小さんが本家として得意にしたほか、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)もよく演じました。

オチはいろいろ

オチは演者によって何通りかあり、四代目小さん(大野菊松、1888-1947)は「じゃ、おふくろもろくろ首だ」としていましたが、五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)があらすじのように改めました。

三木助のは、「そんなこと言わねえで、お屋敷に帰れ。お嬢さんが首を長くして待っている」というものでした。

インチキも楽じゃない

江戸時代、浅草・奥山などの盛り場では、よく「ろくろ首」の見世物が出ました。

これはむろん、からくりもしくはお座敷芸の二人羽織よろしく、複数の人間を使ったインチキでした。

それにしても、具体的にどういう仕掛けでゴマカシたのか、一度見てみたいものです。

「ろくろ首」小咄三題

●その1  『楽牽頭』中の「ろくろ首」

ろくろ首が酒をごちそうになり、「これはうらやましい。あなたなぞは、酒を味わう楽しみが長いでしょう」と言われ、「いや、そのかわり、オカラを食べるときは味気ない」        

●その2 『言軍話江戸嬉笑』中の「ろくろ首」   文化3=1806年刊

長崎・丸山遊郭のお女郎になじんだ男。請け出して女房にしようと話が決まったが、実はあの女はろくろ首だと耳打ちされ、恐怖のあまり夜逃げした。女は怒って、体は長崎のまま、首だけどこまでも伸ばして、男を追いかける。追いつ追われつ、海越え山越え、とうとう松前(北海道)まで追い詰めた。さすがの化物もくたびれ果て、腹が減って、そこらの芋畑からサトイモを掘り出してむさぼり食ったので、松前の頭はなんともないが、長崎の尻がブーブー。

●その3  『露新軽口ばなし集』中の「言いさうな事」  元禄11=1698年刊

盲目の瞽女の首が夜な夜な伸びると聞いて見に行った男。夜中に伸びた首があんどんにぶつかりそうになると、思わず「右、右」。

ことばよみいみ
丑三ツ時うしみつどき午前2時頃
行灯あんどん
ふんどし
瞽女ごぜ

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評価 :0/3。

わらにんぎょう【藁人形】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

苦界の女にだまされ金をだまし取られた願人坊主。
煮えたぎる鍋の中には……。
陰々滅々な。
怪談噺でもなく人情噺でもなさそうな。落とし噺ですか。

別題:丑の刻参り

【あらすじ】

神田竜閑町 の糠屋の娘おくまは、ぐれて男と駆け落ちをし、上方に流れていった。

久しぶりに江戸に舞い戻ってみると、すでに両親は死に、店も人手に渡っていた。

どうにもならないので千住小塚っ原の若松屋という女郎屋に身を売り、今は苦界の身である。

同じく千住の裏長屋に住む、西念という願人坊主。

元は「か」組の鳶の者だったが、けんかざたで人を殺し、出家して、家々の前で鉦を叩いてなにがしかの布施をもらう、物乞い同然の身に落ちぶれている。歳は、もう六十に手が届こうかという老人。

その西念が若松屋に出入りするようになり、おくまの親父に顔がそっくりだということもあって、二人は親しい仲になった。

ある梅雨の一日。

いつものように西念がおくまの部屋を訪れると、おくまは上機嫌で、
「近々上方のだんなに身請けされ、駒形に絵草紙屋を持たせてもらうから、そうなったら西念さん、おまえを引き取り、父親同然に世話をするよ」
と言ってくれる。

数日後にまた行ってみると、この前とうって変わって、やけ酒。

絵草紙屋を買う金が二十両足りないと、いう。

西念、思案をして、
「実は昔出家する時、二十両の金を鳶頭にもらったが、使わずにずっと台所の土間に埋めてあるから、それを用立てよう」
と申し出る。

西念が金を取ってきて渡すと、おくまは大喜び。

「きっとすぐに迎えに行くから」
と約束した。

それから七日ほど夏風邪で寝ていた西念。

久しぶりに若松屋に行っておくまに会い、あのことはどうなったと尋ねると、意外にも女はせせら笑って
「ふん、おまえが金を持っているという噂だから、だまして取ってやったのさ。何べんも泊めてやったんだ。揚げ代代わりと思いな」

西念はだまされたと知って、憤怒の形相すさまじく
「覚えていろ」
と叫んでみてもどうしようもなく、外につまみ出された。

二十日後。

甥の陣吉が西念を尋ねてくる。

大家に聞くと、もう二十日も戸を締め切って、閉じこもったままだという。

この陣吉、やくざ者で、けんかのために入牢していたが、釈放されたのを機にカタギとなり、伯父を引き取るつもり。

陣吉に会って、そのことを聞いた西念は喜んで、祝いにそばを頼み方々、久しぶりに外の風に当たってくると、杖を突いて出ていったが、行きしなに
「鍋の中を覗いてくれるな」
と、言い残す。

そう言われれば見たくなるのが人情で、留守に陣吉がひょいと仲をのぞくと、呪いの藁人形が油でぐつぐつ煮え立っている。

帰ってきた西念、
「見たか。これで俺の念力もおしまいだ。くやしい」

泣き崩れるので、事情を聞いてみると、これこれしかじか。

「やめねえ伯父さん、藁人形なら釘を打たなきゃ」
「だめだ。おくまは糠屋の娘だ」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

オチは諺から

オチの部分の原話は安永2年(1773)刊の笑話本、『坐笑産』中の「神木」。

これは、ある神社で丑の時参りの呪詛をしている者がご神木にかけた藁人形に灸をすえているのを神主が見つけて、「これこれ、なぜ釘を打たぬのか?」と尋ねると、「もうなにを隠しましょう。私が呪う男は、糠屋さ」というものです。 

どちらにせよ、オチが「のれんに腕押し」と同義の「ぬかに釘」を踏まえていて、ぬらりくらりで釘を打っても効果がないほどしたたかな女、ということと掛けてあるわけです。

もう一つ、「糠釘」と呼ぶ、屋根のこけら葺きに用いる小さな釘があるので、縁語としても効いているのでしょう。

願人坊主

その姿は、歌舞伎舞踊「浮かれ坊主」や世話狂言「法界坊」に活写されています。

ボロボロの衣らしきものをまとっただけの、ほとんど裸同然で町々をさまよい、物乞いをしたり、時には代参や代垢離を請け負ったりします。

もっとも、願人坊主といってもピンからキリまでです。

黄金餅」やこの「藁人形」に登場の西念は、それ相応の小金も溜め込み、第一裏店とはいえちゃんとした長屋に住んでいるのですから、身分は人別帳(=戸籍)にも載っている普通民です。

もともと願人坊主の語源は、上野の寛永寺の支配下で、出家を願って僧籍の欠員があるのを待っている者という説があります。

西念は身を持ち崩してもまだ身内も住居もあり、いわゆる「はっち坊主」と呼ばれる乞食坊主にまでは落ちぶれていないということでしょう。

落語では、ほかに「らくだ」にも登場します。

西念の名の由来

西念は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の十八番「黄金餅」にも、アンコロ餅といっしょに金をのみ込んで悶死する守銭奴として登場します。

西念の名は、四谷、鮫ヶ橋谷町(新宿区若葉2丁目)の西念寺(現存)から採ったものと思われます。

ここは旧幕時代には江戸有数のスラム街で、願人坊主が特に多く住みついていました。

西念寺は、家康の懐刀で伊賀系三河忍者の棟梁、服部半蔵正成が、晩年の文禄年間(1592-96)に剃髪して西念と号した際、自らの菩提のために開基したものです。

寺名はその法号にちなみます。

千住小塚っ原

千住宿は四宿(ほかに新宿、板橋、品川)の一で、奥州・日光街道の親宿(起点)ですが、大きく千住大橋をはさんで上宿と下宿に分けられました。

橋の北側の上宿に本陣がありましたが、南詰めの下宿には小塚原、中村町の二つの遊郭があり、千住の仕置場(=処刑場)が近いことから通称「コツ(=骨)」または「コヅカッパラ」と呼ばれました。

全盛期には旅籠14軒を数えたといいます。上宿にももちろん飯盛女(=お女郎)がいましたが、どちらかというと南の「コツ」の方は一般の旅人を始め、船頭・農民などの遊ぶごく安っぽい岡場所でした。

落語には「今戸の狐」に「コツのお女郎」が登場するほか、五代目志ん生の「お直し」でも、主人公の吉原の若い衆がこっそり遊びに行く場所として説明されています。

小塚原遊郭は荒川区南千住5丁目から6丁目、回向院から素盞鳴神社に向かうあたりで、細い路地(コツ通り)の両側に遊女屋が並んでいました。ただし、五代目志ん生は、下宿のコツではなく、上宿(本宿)で演じました。

か組

町火消は享保5年(1720)に町奉行、大岡忠相の献策で発足したものです。

西念の前身が「か組」の鳶の者だったという設定ですが、町火消はいろは四十八組に分けられ、か組は神田佐久間町、旅籠町、湯島天神前辺を分担していました。

佐久間町は火事が多く、悪魔町と呼ばれたとか。

彦六から歌丸へ

明治期には、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)が得意にしていました。

円朝門下で、初代円右の「叔父分」に当たる三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)の直伝で、八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)が戦後十八番とし、初代円右に傾倒していた五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)も好んで演じました。

別題を「丑の刻参り」というように、元来は陰気で怪奇性が強い噺でした。

五代目今輔の方はどちらかというと、従来通りすごみをきかせて演じ、八代目正蔵は人情噺の要素を多くして、西念の哀れさや甚吉の誠実な生きざまを描写することで後味のよい佳品に仕上げました。

両師の没後、継承者がなくすたれていましたが、桂歌丸(椎名巌、1936-2018)が復活させ、八代目正蔵のやり方を多く取り入れて演じていました。

神田竜閑町

現在の千代田区内神田2丁目、首都高速神田橋ランプの東側です。

かつては南側の神田堀入り口に竜閑橋が架かり、付近には白旗稲荷神社があって、にぎわいました。

地名の由来は、井上立閑という者がこのあたりを開発したことにちなみます。

ことばよみいみ
神田龍閑町 かんだりゅうかんちょう
糠屋ぬかや
千住小塚っ原 せんじゅこづかっぱら
若松屋わかまつや
鳶 とび
坐笑産ざしょうみやげ
糠釘ぬかっくぎ
人別帳にんべつちょう
素盞鳴神社 すさのおじんじゃ
井上立閑 いのうえりゅうかん

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

スヴェンソンの増毛ネット

評価 :1/3。

たかだのばば【高田馬場】落語演目

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  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

落語世界の仇討ち。
おおよそはこんなかんじ。

別題:仇討ち屋

【あらすじ】

春の盛りの浅草奥山。

見世物や大道芸人がずらりと並び、にぎやかな人だかりがしている。

その中で、居合い抜きを演じたあと、蝦蟇の油の口上を述べている若い男がいて、その後ろに美しい娘。これが鎖鎌の芸を見せる。

「その効能はなにかといえば、金創切り傷、出痔いぼ痔、虫歯で弱るお方はないか」

そこへ人を押し分けて、六十過ぎの侍。

蝦蟇の油売りに向かって
「それは二十年ほど前の古傷にも効くか」
と侍が尋ねると、若者は
「ちょっと拝見」
と傷を見るなり
「これは投げ太刀にて受けた傷ですな」
「さよう、お目が高い」

侍が
「身の懺悔だから」
と語るところでは、
「拙者は元福島の家中であったが、二十年前、下役、木村惣右衛門の妻女に横恋慕し、夫の不在をうかがって手ごめにしようとしたところ、立ち帰った夫に見とがめられ、これを抜き打ちに斬り捨てた。妻女が乳児を抱え『夫のかたき』とかかってくるのをやはり返り討ちに斬ったが、女の投げた懐剣が背中に刺さり、それがこの傷だ」
と言う。

若者は聞き終わると、きっと侍をにらみ
「さてこそ、なんじは岩淵伝内。かく言う我は、なんじのために討たれし木村惣右衛門が一子、惣之助。これなるは、姉、あや。いざ尋常に勝負勝負」
と呼ばわったから、周りは騒然となった。

岩淵伝内は静かに
「なるほど、二十年前のことなので油断し口外したは、拙者の天命逃れざるところ、いかにもかたきと名乗り討たれようが、今は主を持つ身。一度立ち返ってお暇をちょうだいしなければならんので、明日正巳の刻までお待ち願いたい」
「よかろう。出会いの場所は」
「牛込、高田馬場」
「相違はないな」
「二言はござらん」

というわけで、仇討ちは日延べになった。

翌日。

高田馬場は押すな押すなの黒山の人だかり。

仇討ち見物を当て込み、よしず張りの掛け茶屋がズラリ。

そのどれもぎゅうぎゅう詰め。

みんな勝手を言いながら待っているが、いっこうに始まらない。

とうとう一刻(二時間)過ぎて、正巳の刻に。

「また日延べじゃないか」
とざわつきだしたころ、ある掛け茶屋で、昨日の侍が悠々と酒を飲んでいるのを見つけた者がいた。

「もし、お侍さん、のんびりしてちゃあ困ります。仇討ちはどうなりました」
「はは、今日はなしだ」
「相手が済みますまい」
「心配いたすな。あれは拙者のせがれと娘」
「なんだって、そんなうそをついたんです」
「ああやって人を集め、掛け茶屋から上がりの二割をもらって、楽に暮らしておるのだ」

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【うんちく】

原作者は死罪に 【RIZAP COOK】

前半の蝦蟇の油売りの口上は「蝦蟇の油」を踏襲しています。この口上については「蝦蟇の油」をお読みください。

原話は、宝暦8年(1758)刊で馬場文耕(講釈師、1718-59)作『当代江都百化物』中の第六話「敵討ノ化物ノ弁」です。

「百化物」は、武士出身で易者から辻講釈師に転じた文耕が、江戸で起こったさまざまな珍談を、風刺を交えて世話講談風にまとめた読み物で、二十二話で中絶しています。

第六話は、この噺の通りヤラセの仇討ち騒動ですが、後半が違っていて、野次馬が二人のやり取りに夢中になっているうちに、片っ端から懐の財布をすり取られてしまう、というオチです。

原作者の文耕は「百化物」を上梓した宝暦8年9月10日、日本橋槫正町の小間物屋文蔵方で「珍説もりの雫」という政治風刺講談を口演中に南町奉行所に検挙されました。

この講談が、当時評定所で吟味中の、美濃郡上八幡藩三万九千石の百姓一揆騒動を風刺したので、お上のおとがめを受けたためです。

文耕は当初は遠島で済むはずでしたが、吟味中も幕府を批判してやまなかったため、ついに死罪獄門に。同年12月25日、小塚原の露と消えました。

その判決を下したのが、文耕が「百化物」中で「罪を軽く取りさばかるる」名奉行とたたえた土屋越前守だったのはなんとも皮肉で、ヨイショが肝心なときにまったく役立たなかったわけです。

金馬のおはこ 【RIZAP COOK】

古い速記はなく、五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)の昭和初期のものが残るくらいです。

なんと言っても、戦前から戦後にかけては、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番でした。

金馬没後、三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)が手掛け、ついで、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)が演じて以来、若手も高座に掛けるようになりました。

志ん朝が昭和56年(1981)4月12日夜、文京区千石、三百人劇場での「志ん朝七夜」第二夜。

そこで演じた「高田馬場」は、その軽快なテンポと現代的なセンスで、この噺の新たなスタンダードとして語り伝えられています。

浅草奥山 【RIZAP COOK】

奥山は浅草寺裏手の一帯のことで、江戸から明治末期まで、見世物小屋が所狭しと並ぶ、一大歓楽街でした。

享保年間(1716-36)には軍書講釈、ついで宝暦(1751-64)ごろには辻講釈がよく出ました。

文化年間(1804-18)ごろから見世物が盛んになります。

独楽回し、居合い抜き、軽業などの大道芸、女相撲の興行、因果物などのグロテスクな見世物、その他、ほとんどなんでもありの「魔境」と化します。

明治になると、浅草公園五区に区分され、あいかわらず見世物でにぎわいました。

明治末、隣の六区が活動写真や芝居小屋を中心に大歓楽街を形成すると、しだいに人手を奪われ、その役割を終えました。

高田の馬場 【RIZAP COOK】

古くは「たかたのばば」。

地名としては新宿区戸塚1、2丁目から西早稲田、早大正門付近の馬場下町あたりまでのかなり広い範囲を含みました。

家康の側妾で、越後高田藩主となった松平忠輝の実母阿茶局が賜った芝地で、同人が「高田さま」と呼ばれたことに由来します。

その後、寛永13年(1636)に馬場が設けられ、現在の穴八幡神社付近で流鏑馬が催されたといいます。

安兵衛の仇討ち 【RIZAP COOK】

この噺の仇討ち騒動は、もちろん、講談や映画でおなじみの堀部(中山)安兵衛の「高田馬場仇討ち」が元ネタです。

元禄7年(1694)2月11日に起こったこの事件。

講釈師が言う、はでな「十八人斬り」は真っ赤なうそで、安兵衛が斬ったのは、村上三郎右衛門以下三人に過ぎないというのが現在の定説のようです。まあ、伝説は無限に広がるもので。それでも、三人を切り殺したとは、みごとなもんです。

ことばよみいみ
浅草奥山あさくさおくやま
仇討ちあだうち敵討ちと同じ。敵討ちは「かたきうち」と読む
蝦蟇がまのあぶら
身の懺悔 みのざんげ
正巳の刻しょうみのこく午前10時
槫正町 くれまさちょう中央区日本橋3丁目あたり

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  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

がまのあぶら【蝦蟇の油】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

懐かしさがこみ上げるの縁日風景。
大道芸、香具師の極致。
テレメンテエカマンテエカ。
ポルトガル語だったのですね。奥が深い。

あらすじ

その昔、縁日にはさまざまな物売りが出て、口上を述べ立てていたが、その中でもハバがきいたのが、蝦蟇がまの油売り。

ひからびたガマ蛙を台の上に乗せ、膏薬こうやくが入った容器を手に、刀を差して、白袴しろばかまに鉢巻き、タスキ掛けという、いで立ち。

「さあさ、お立ち会い。ご用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠め山越やまごし笠のうち、物の文色あいろ理方りかたがわからぬ。山寺の鐘はごーんと鳴るといえども、童子どうじ一人来たって鐘に撞木しゅもくをあてざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とんとその音色ねいろがわからぬが道理。だが、てまえ持ちいだしたるなつめの中には、一寸八分いっすんはちぶ唐子からこぜんまいの人形。のんどには八枚の歯車を仕掛け、大道だいどうへ棗を据え置く時は、天の光と地のしめりをうけ、陰陽合体おんようがったいして、棗のふたをぱっととる。つかつか進むが虎の小走り虎走り、雀の小間こまどり小間返し、孔雀くじゃく霊鳥れいちょうの舞い、人形の芸当は十二通りある。だがしかし、お立ち合い、投げ銭放り銭はおことわりするよ。では、てまえなにを生業なりわいといたすかといえば、てまえ持ちいだしたるは、蟇蝉噪四六ひきせんそうしろく蝦蟇がまの油だ。そういう蝦蟇は、おれのうち縁の下や流しの下にもいる、というお方がいるが、それは俗に言うおたまがえる、ひきがえるといって、薬力やくりきと効能のたしにはならん」

さまざまに言い立てて、なつめという容器のふたをパッととり、
「てまえ持ちいだしたるは四六の蝦蟇だ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名づけて四六の蝦蟇。この蝦蟇のめるところは、これより、はーるーか北にあたるつくばさんのふもとにて、おんばこという露草つゆくさを食らう。この蝦蟇のとれるのは五月に八月に十月、これを名づけて五八十ごはっそうは四六の蝦蟇だ、お立ち合い。この蝦蟇の油をとるには、四方しほうに鏡を立て、下に金網かなあみを敷き、その中に蝦蟇を追い込む。蝦蟇はおのれの姿が鏡に映るのを見ておのれで驚き、たらーりたらりと、脂汗あぶらあせを流す。これを下の金網にて、すきとり、柳の小枝をもって、三七二十一日さんしちにじゅういちにちの間、とろーり、とろりと煮詰めたるのが、この蝦蟇の油だ。赤いは辰砂しんしゃ椰子やしの実、テレメンテエカに、マンテエカ、金創には切り傷、効能は、出痔いでじ、イボ痔、はしり痔、横根よこね、がんがさ、その他、れもの一切に効く。まあ、ちょっとお待ち。蝦蟇の油の効能はそればかりではない。まだある。切れものの切れ味を止めて切り傷を治す。てまえ持ちいだしたるは、鈍刀どんとうたりといえども、先が切れて元が切れぬ、なかば切れぬというのではない。ごらんの通り抜けば玉散たまちこおりやいばだ、お立ち合い。お目の前にて白紙はくしを一枚切ってお目にかける。あ、一枚の紙が二枚に切れる。二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚、三十二枚が六十四枚、六十四枚が一束と二十八枚、春は三月落花の形。比良ひら暮雪ぼせつ雪降ゆきふりの形だ、お立ち合い」
と、あやしげな口上で見物を引きつけておいて、膏薬こうやくの効能を実証するため、一枚の白紙を刀で次々と切ってみせた。

「かほどに切れる業物でも、差しうら差しおもてへ、蝦蟇の油を塗る時は、白紙一枚容易に切れぬ。さ、このとおり、たたいて切れない。引いても切れない。拭き取る時はどうかというと、鉄の一寸板いっすんいたもまっ二つ。触ったばかりでこれくらい切れる。だが、お立ち会い、こんな傷は何の造作ぞうさもない。蝦蟇の油をひとつけつける時は、痛みが去って血がぴたりと止まる。いつもは一貝ひとかいで百文だが、こんにちはおひろめのため、小貝こがいを添え、二貝ふたかいで百文だ」

こんな案配で、むろんインチキだが、けっこう売り上げがいいので気を良くした蝦蟇の油売り、売り上げで大酒をくらってベロンベロンに酔ったまま、例の口上を。

ロレツが回らないので支離滅裂しりめつれつ

それでもどうにか、紙を切るところまではきたが、
「さ、このとおり、たたいて……切れた。どういうわけだ」
「こっちが聞きてえや」
「驚くことはない、この通り、蝦蟇の油をひとつけ、つければ、痛みが去って……血も……止まらねえ……。二つけ、つければ、今度はピタリと……かくなる上は、もうひと塗り……今度こそ……トホホ、お立ち会い」
「どうした」
「お立ち会いの中に、血止めはないか」

しりたい

はなしの成立と演者

「両国八景」という風俗描写を中心とした噺の後半部が独立したものです。

酔っぱらいが居酒屋でからむのを、連れがなだめて両国広小路りょうごくひろこうじに連れ出し、練り薬売りや大道のからくり屋をからかった後、がまの油売りのくだりになります。

前半部分は三代目金馬が酔っぱらいが小僧をなぶる「居酒屋」という一席ばなしに独立させ、大ヒット作にしました。

金馬は、蝦蟇の油の口上をそのまま「高田馬場」の中でも使っています。

昭和期では、三代目春風亭柳好が得意にし、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵も演じました。

大阪では、「東の旅」の一部として、桂米朝など大師匠連も演じました。

上方版では、ガマの棲息地は「伊吹山のふもと」となります。

オチは現行のもののほか、「(血止めの)煙草の粉をお持ちでないか」とすることもあります。

本物は……?

本物の「蝦蟇の油」はセンソといい、れっきとした漢方薬です。ガマの分泌液を煮詰めて作るのですから、この口上もあながちデタラメとはいえません。ただし、効能は強心剤、いわゆる気付け薬です。一種の覚醒剤のような作用があるのでしょう。

口上中の「テレメンテエカ」は、正しくは「テレメンテエナ」で、ポルトガル語です。松脂を蒸留して作るテレピン油のこと。芳香があり、染料に用います。

六代目円生「最後の高座」

1979年(昭和54)8月31日、死を四日後にひかえた昭和の名人・六代目三遊亭円生は、東京・三宅坂の国立小劇場でのTBS落語研究会で、「蝦蟇の油」を回想をまじえて楽しそうに演じ、これが公式には最後の高座となりました。

この高座のテレビ放送で、端正な語り口で解説を加えていた、劇作家・榎本滋民氏も2003年(平成15)1月16日、亡くなっています。

マンテエカ

周達生著『昭和なつかし博物学』(平凡社、2005年)によると、マンテエカはポルトガル語源で豚脂、つまりラードのことで、薬剤として用いられたそうです。

いやあ、知識というものはどこに転がっているかわかりませんね。不明を謝すとともに、周氏にはこの場を借りて御礼申し上げます。

同書は、ガマの油売りの詳細な実態ほか、汲めども尽きぬ文化人類学的知識が盛りだくさんでおすすめの一冊です。

ディジー・ガレスピー

上項目から派生して、ここから先は周達生教授も言及していません。さあお立ち合い。

米ジャズの伝道師、ディジー・ガレスピー。ご当地シリーズの名曲「manteca」はキューバをイメージして彼が作ったものですが、「マンテカ」はこの噺の「マンテエカ」と同語源です。

ポルトガル語、またはスペイン語でラード、豚の脂、転じて膨れた死体(脂肪の塊)をさします。

隠語では大麻を呼ぶときもあります。

かつてスペイン人が現地人を虐殺、そのごろごろした死体の山をマンテカと呼んだというのが曲名の由来だそうです。

この作品は1947年につくられましたが、フリューゲルホルンを頬を膨らませて奏でるガレスピーは曲の合間に「もうジョージアには戻らない」と言っているそうで(私には聞こえませんが)、当時の米国内での黒人差別に仮託しているふしがうかがえます。

と同時に、キューバのコンガ奏者(コンゲーロ)チャノ・ポソが編曲。みごとなアフロキューバンジャズのスタンダードにブラッシュアップしています。

その後まもなく、ポソは射殺されました。マンテカになってしまいました。

こんないわくつきの、楽しくもない、むしろ呪われたような曲ながら、不思議な進行と変化にとんだメロディーラインが脳波を心地よく刺激してくれ、まさに大麻のような習慣性を帯びてるものです。何度も何度も聴きたくなるのです。

昭和48年(1973)から昭和60年(1985)まで大阪の朝日放送で放映されていた、お見合いバラエティー番組「プロポーズ大作戦」のメインテーマはキダタローの作曲でしたが、出だしがマンテカとぴったり。パクリですね。

これも習慣性を帯びる番組になっていました。総じて、蝦蟇の油の効用と一脈通じていたのかもしれません。

「manteca」大西順子トリオ

「蝦蟇の油」でご難の志ん生

五代目古今亭志ん生が前座で朝太時分のこと。東京の二ツ目という触れ込みでドサ(=田舎)まわりをしているとき、正月に浜松の寄席で「蝦蟇の油」を出し、これが大ウケでした。

ところが、朝の起き抜けにいきなり、宿に四,五人の男に踏み込まれ、仰天。

「やいやい、俺たちゃあな、本物のガマの油売りで、元日はばかに売れたのに、二日目からはさっぱりいけねえ。どうも変だてえんで調べてみたら、てめえがこんなところでゴジャゴジャ言いやがったおかげで、ガマの油はさっぱりきかねえってことになっちまったんだ。おれたちの迷惑を、一体全体どうしてくれるんだッ」

ねじこまれて平あやまり、やっと許してもらったそうです。

志ん生が自伝「びんぼう自慢」で、懐かしく回想している「青春旅日記」の一節です。

【蝦蟇の油 三遊亭円生】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しょうのうだま【樟脳玉】落語演目

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【どんな?】

これはもう、お笑い版の降霊術ですね。

別題:捻兵衛、源兵衛人玉(上方)

あらすじ

古紙回収をなりわいとする捻兵衛は、正直者で気が弱く愛妻家。

その女房おきんがぽっくりあの世へ。

捻兵衛はショックのあまり、それ以来商売にも出ず、メソメソと泣きながら念仏三昧。

ここに、人の不孝に便乗して、小金の一つも稼ごうという料簡の二人組。

おきんは元武家屋敷に奉公していた関係で、所帯を持った時持参した着物類がどっさりある上、捻兵衛自身も金を相当貯め込んでいるという噂。

二人組の計画はおきんの幽霊をでっち上げた上、動揺した捻兵衛に
「おかみさんが出るのは着物と金に気が残っているせいだから、わっちらが寺へ納めてあげましょう」
とうまく言いくるめて、全部いただいてしまおうというもの。

まず、長太郎玉を用意し、夜そいつに火を着けて青白い火の玉をこしらえ、捻兵衛宅の天井の引き窓から糸を付けて垂らし、仏壇に手を合わせている鼻っ先にユーラユーラと振ってみせる。

案の定、捻兵衛肝をつぶして
「南無阿弥陀仏、ナムアミダブ、あたしも後からすぐ行くから、どうぞ浮かんどくれ」

まずは、序幕成功とほくそえんだ二人、翌朝、弟分の熊が何食わぬ顔で捻兵衛に会い、
「あんなりっぱな葬式をしたから仏さんもきっと成仏したでしょう」
と、水を向けると、「浮かんでいない」と言う。

ここぞと、
「それはおかみさんが着物に気が残っているからですぜ」
と計画通り持ちかけ、まんまとだまして高価な形見の着物を一枚残らずかすめ取ってしまった。

ところが肝心の金は
「あっ、忘れちまったッ」

しかたがないのでもう一幕やることにし、今度はもっと大きいのを用意して、ユーラリ、ユラリ。

見当があやまって、火の玉が捻兵衛の頭に。

「ナムアミダブツ、アチチチチチ」

また翌朝、熊がようすを探りに行く。

「へい、まだウチの奴は浮かんでません。もっと大きな火の玉が出て、あたしは火傷をこさえました」
「そいつはすみません、もとい、そりゃあ、まだお金に気が残っているんでしょう」
「いえ、葬式で使って、もう一文もありません」

熊は未練たらしく、
「でも、なにかあるでしょう」
と押すと、捻兵衛、押入れからお雛さまを出して、しばらく考え込み、
「熊さん、わかりました。女房はこれに気を残しています」
「へーえ、なぜ」
「昨夜の魂の匂いがします」

古今亭志ん朝 二朝会 CDブック

うんちく

長太郎玉 【RIZAP COOK】

衣服保存に使う樟脳粉を丸めたもの。

縁日で、子供用のおもちゃとして売っていた、樟脳粉の丸めたものです。掌に乗せても熱くなく、芝居では焼酎火とともに人魂に使われていました。

蛇足ですが、「樟脳玉」の方は、大阪では、主人公の名が源兵衛となっているので、演題も「源兵衛玉」「源兵衛人玉」として演じられます。ストーリーはまったく同じです。

いずれにしても、落語には珍しい愛妻家が登場することから、この噺は民話がルーツだとする説もあります。東京の円遊が強引に結びつけただけで、「源兵衛玉」と「夢八」はもともと別話でしょう。「源兵衛玉」が江戸から大坂に移植されたものなのか、それとも、逆にオリジナルは上方の方なのかは、はっきりしません。

捻兵衛 【RIZAP COOK】

後日談として、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が創作した「捻兵衛」があります。初代円遊は明治の爆笑王として知られます。

上方落語の「夢八」に酷似していて、円遊が「夢八」のストーリーを取って「樟脳玉」の続編としたのではないかといわれます。

あらすじは、以下の通り。

捻兵衛がここ二、三日姿を見せないので、大家に頼まれて八五郎が様子を見に行くと、なんとブランコ往生を遂げている。ところが、魔がさしたのか、死骸がブキミな声でしゃべりだし、八公に、ヨイトコセーを踊れ、さもないと喉笛を食い破ると脅すので、ガタガタ震えながら鉦をたたいて踊ると、振動で帯が切れ、ホトケが八公の上に落下。八五郎、死骸と堅く抱き合ったまま、あえなく気絶。長屋の連中が来て、やっと蘇生させると「おや、いつの間にか首くくりが増えた」

こちらは、東京では現在はやり手がありません。

大阪の「夢八」の方はまだ演じられていて、二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)や二代目露の五郎兵衛(明田川一郎、1932-2009)などが手掛けていました。

かつては円生だけ 【RIZAP COOK】

原話は不詳ですが、文化年間(1804-18)から口演されてきた古い江戸落語です。明治末から大正にかけて、二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-98、めっかちの)などがよく演じていましたが、その後すたれていたのを、先の大戦後、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が復活させ、同人以外演じ手のないほど、十八番としていました。

音源も、円生のみで昭和36年(1961)の初録音を手始めに5種類もあります。その没後、しばらくまた後継者がいなかったのを桂歌丸が復活して手掛け、今では、ぼつぼつ中堅も若手も高座に掛けるようになりました。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

かじかざわ【鰍沢】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

江戸の商人が身延参詣の帰り。
吹雪で宿を借りたら命狙われた。
毒を盛られいやはや雪中逃避行。
続編は「晦の月の輪」で。円朝噺。

別題:鰍沢雪の夜噺 鰍沢雪の酒宴 月の輪お熊 参照噺:鰍沢二席目

あらすじ

おやじの骨を甲州こうしゅう身延山みのぶさん久遠寺くおんじに納めるため、参詣かたがたはるばる江戸からやってきた新助。久遠寺は日蓮宗の本山だ。

帰り道に山中で大雪となり、日も暮れてきたので道に迷って、こんな場所で凍え死ぬのは真っ平だから、どんな所でもいいから一夜を貸してくれる家はないものかと、お題目だいもくを唱えながらさまよううち、遠くに人家の灯、生き返った心地で宿を乞う。

上総戸かずさどを開けて出てきたのは、田舎にまれな美しい女。年は二十八、九か。

ところが、どうしたことか、のどから襟元にかけ、月の輪型の傷跡がある。

家の中は十間ほどの土間。

その向こうの壁に獣の皮が掛かっていて、欄間には火縄の鉄砲。

猟師の家とみえる。

こんな所だから食べる物もないが、寝るだけなら、と家に入れてくれ、囲炉裏の火にあたって人心地つくうち、ふとした会話から女が江戸者だとわかる。

それも浅草の観音さまの裏あたりに住んでいたという……。

「あの、違ったらお詫びしますが、あなた、吉原は熊蔵丸屋の月の戸花魁(おいらん)じゃあ、ありませんか」
「えっ? おまえさん、だれ?」

男にとっては昔、初会惚れした忘れられない女。

ところが、裏を返そうと二度目に行ってみると、花魁が心中したというので、あんなに親切にしてくれた人がと、すっかり世の無常を感じて、それっきり遊びもやめてしまったと、しみじみ語ると、花魁の方も打ち明け話。

心中をし損ない、喉の傷もその時のものだという。

廓の掟でさらされた後、品川の岡場所に売られ、ようやく脱走してこんな草深い田舎に逃れてきたが、今の亭主は熊撃ちをして、その肝を生薬屋きぐすりやに売って細々ほそぼそと生計を立てている身。

「おまえはん、後生ごしょうだから江戸へ帰っても会ったことは内密にしてください」
としんみりと言うので、新助は情にほだされ、ほんの少しですがと金包みを差し出す。

「困るじゃあありませんか」
と言いつつ受け取った女の視線が、ちらりとその胴巻きをかすめたことに、新助は気づかない。

もと花魁おいらん、今は本名お熊が、体が温まるからと作ってくれた卵酒に酔いしれ、すっかりいい気持ちになった新助は、にわかに眠気を催し、別間に床を取ってもらうと、そのまま白川夜船しらかわよふね

お熊はそれを見届け、どこかへ出かけていく。

入れ違いに戻ってきたのが、亭主の伝三郎。

戸口が開けっ放しで、女房がいないのに腹を立て、ぶつくさ言いながら囲炉裏を見ると、誰かが飲んだらしい卵酒の残り。

体が冷えているので一気にのみ干すと、そこへお熊が帰ってくる。

亭主の酒を買いに行ったのだったが、伝三郎が卵酒をのんだことを知ると真っ青。

「あれには毒が……」
と言う暇もなく伝三郎の舌はもつれ、血を吐いてその場で人事不省じんじふせいになる。

客が胴巻きに大金を忍ばせていると見て取り、毒殺して金を奪おうともくろんだのが、なんと亭主を殺す羽目に。

一方、別間の新助。

目が覚めると、にわかに体がしびれ、七転八倒の苦しみ。

それでもなんとか陰からようすを聞き、事情を悟ると、このままでは殺されると、動かぬ体をひきずるように裏口から外へ。

幸い、毒酒をのんだ量が少なかったか、こけつまろびつ、お題目を唱えながら土手をよじ登り、下を見ると東海道は岩淵に落ちる鰍沢の流れ。

急流は渦巻いてドウドウというすさまじい水勢。

後ろを振り向くと、チラチラと火縄の火。

亭主の仇とばかり、お熊が鉄砲を手に追いかけてくる。

雪明りで、下に山いかだがあるのを見ると、新助はその上にずるずると滑り落ちる。

いかだは流され、岩にぶつかった拍子にバラバラ。

たった一本の丸太にすがり、震えてお題目を唱えていると、上からお熊が狙いを定めてズドン。

弾丸はマゲをかすって向こうの岩に命中した。

「ああ、大難を逃れたも、お祖師そしさまのご利益りやく。たった一本のお材木(=題目)で助かった」

底本:四代目三遊亭円生、四代目橘家円喬

しりたい

三題噺から創作  【RIZAP COOK】

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の作。

幕末には、お座敷や特別の会の余興に、客が三つの題を出し、落語家が短時間にそれらを全部取り入れて一席の噺をまとめるという三題ばなしが流行しました。この噺は、円朝がそのような席で「小室山の御封」「玉子酒」「熊の膏薬」の三つのキーワードから即座にまとめたものです。

三題噺からできた落語では、円朝がつくったといわれる「芝浜」があります。

原話は道具入り芝居噺として作られ、その幕切れは「名も月の輪のお熊とは、食い詰め者と白浪の、深きたくみに当たりしは、のちの話の種子島が危ないことで(ドンドンと水音)あったよなあ。まず今晩はこれぎり」となっています。

というのは、これまでの通説でした。最近の研究ではちょっと違ってきています。以下をお読みください。

文久年間に「粋狂連すいきょうれん」のお仲間、河竹黙阿弥かわたけもくあみ(吉村芳三郎、1816-93)がつくったものを円朝が譲り受けた、というのが、最近のおおかたの説です。

歌舞伎の世界では日蓮宗の篤信家が多かったこと、幕末期の江戸では浄土宗と日蓮宗の話題を出せばウケがよいため、信心がなくても日蓮宗を話材に取り上げることが多々ありました。

黙阿弥の河竹家は浄土真宗で、菩提寺は浅草北島町の源通寺げんつうじです。

興行で提携していた四代目市川小団次(栄次郎、1812-66)こそが法華信心(日蓮宗系)の篤信家だったのです。黙阿弥は作者に徹していたわけですね。

このころの円朝は、異父兄・玄昌げんしょうの住持する日暮里の南泉寺なんせんじ(臨済宗妙心寺派)などで 座禅の修行をしていましたから、日蓮系とは無縁だったはず(晩年は日蓮宗に改宗)。

ですから、当時の円朝はお題目とは無縁だったのですが、江戸の町では、浄土宗(念仏系)と法華信心(日蓮、題目系)との信心対立が日常茶飯事で、なにかといえば「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」が人の口の端について出る日々。

円朝も「臨済禅だから無関係」といっているわけにはいかなかったようですね。人々が信じる宗派を噺に取り込まなくては芸の商売になりませんし。黙阿弥と同じ立場です。

江戸期にはおおざっぱに、上方落語には念仏もの(浄土宗、浄土真宗、時宗など)が多く登場し、江戸落語には題目もの(法華宗など)が多く取り上げられる、といわれています。この噺もご多分に漏れなかったようです。

「鰍沢」と名人たち  【RIZAP COOK】

円朝は維新後の明治5年(1873)、派手な道具入り芝居噺を捨て、素噺すばなし一本で名人に上り詰めました。

「鰍沢」もその関係で、サスペンスがかった人情噺として演じられることが多くなりました。

円朝門下の数々の名人連に磨かれ、三遊派の大ネタとして、戦後から現在にいたるまで受け継がれてきました。

明治の四代目橘家円喬たちばなやえんきょう(柴田清五郎、1865-1912)の迫真の名演は今も伝説的です。

明治22年(1888)6月20日刊『百花園』には四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が「鰍沢雪の酒宴」という題で残してあります。このあらすじでは、これもテキストの一部に使いました。

近年では八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)に正統が伝わり、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も晩年好んで演じました。

元の形態の芝居噺としては、彦六が特別な会で復活したものの、門弟の林家正雀しょうじゃく(井上茂、1951-)に継承されたほかはやり手はいないようです。

志ん生の「鰍沢」  【RIZAP COOK】

志ん生は、自らが円朝→円喬の系統を継ぐ正統の噺家であるという自負からか、晩年、「円朝全集」(春陽堂版)を熟読し、「塩原多助」「名人長二」「鰍沢」など、円朝がらみの長編人情噺を好んで手がけました。

志ん生の「鰍沢」は、全集の速記を見ると、名前を出しているのはお熊だけで、旅人も亭主も無人称なのが特色ですが、残念ながら成功したとは言いがたい出来です。リアルで緻密な描写を必要とする噺の構造自体が、志ん生の芸風とは水と油なのでしょう。

音源は、病後の最晩年ということもあり、口が回らず、無残の一語です。五十代の志ん生が語る「鰍沢」を一度聞いてみたかったと思います。

続編は「晦の月の輪」  【RIZAP COOK】

歌舞伎作者の黙阿弥作で、やはり円朝が芝居噺として演じたとされる、この噺の続編らしきものが「鰍沢二席目」です。

正式には「みそかの月の輪」といい、やはり三題噺(「花火」「後家」「峠茶屋」)から作られたものといわれます。

毒から蘇生した伝三郎が、お熊と信濃しなの明神峠みょうじんとうげで追いぎを働いているところへ、偶然新助が通りかかり、争ううちに夫婦が谷底へ転落するという筋立てです。

明治以後、演じられた形跡もなく、芝居としての台本もありません。岩波書店版『円朝全集』別巻2に収められています。

鰍沢とは  【RIZAP COOK】

現在の山梨県南巨摩みなみこま郡鰍沢町。甲州は甲斐国かいのくに(山梨県)。東海道から甲府に至る交通の要衝ようしょうです。

古くから富士川沿いの川港として物資の集積点となり、栄えました。

「鰍沢の流れ」は富士川の上流のことです。

東海道岩淵在は現在の静岡県庵原いはら郡富士川町にあたります。

「鰍沢」は人情噺には珍しく、新助が急流に転落したあと「今のお材木(=お題目)で助かった」というオチがついています。

おせつ徳三郎」のオチと同じなので、これを拝借したものでしょう。

晒し刑  【RIZAP COOK】

男女が心中を図って亡くなった場合は死骸取り捨てで三ノ輪の浄閑寺じょうかんじや亀有の善応寺ぜんのうじなどの投げ込み寺に葬られました。

どちらかが生き残った場合は下手人げしゅにんの刑として処刑されました。

両方とも生き残った場合は、日本橋南詰みなみづめ東側に三日間、さらし刑にされました。

これは悲惨です。

縄や竹などで張られた空き地に、かや棕櫚しゅろなどでいた三方開きに覆いの中にむしろを敷いて、その上に座らせられて、罪状が記された捨て札、横には刺す股、突く棒、袖搦そでがらみみといった捕り方道具を据えられて、往来でさんざんに晒されます。

物見高い江戸っ子の娯楽でもありました。

江戸っ子は無責任で残酷です。四日後、男女は別々に非人に落とされていきます。

日本橋 馬鹿をつくした 差し向かい
江戸のまん中で わかれる情けなさ
死すべき時 死なざれば 日本橋
日本に 死にそこないが 二人なり
日本橋 おしわけてみる 買った奴
四日目は 乞食で通る 日本橋
吉原の 咄をさせる 小屋頭

「江戸のまん中」「日本」は日本橋のこと。

吉原で「買った奴」がまざまざと眺める光景は世間の非情と滑稽を点描しています。

「乞食」とは非人のことでしょう。江戸っ子には乞食も非人も同類の認識だったのがわかります。「小屋頭」とは非人頭のこと。

浅草では車善七くるまぜんしち、品川では松右衛門まつえもんと決まっていました。

吉原で遊女をしていた頃の話を根掘り葉掘り聞こうとする非人頭も、ずいぶんといやらしい了見です。

そんなこんなの非道体験を経た後、伝三郎とお熊は鰍沢に人知れず消えていったわけです。

彼らの心境も多少は推しはかれるかもしれません。

上総戸

かずさど。粗末な板戸のこと。上総国は千葉県中部一帯です。「上総」を冠する言葉にはほかに、上総節かずさぶし上総部屋かずさべや上総木綿かずさもめんなどがあります。

上総節は、「上総節のツツテンはさわぎの中にうれひをあらわし」(面美多動身おもいたつみ、郭通交、寛政二)とあって、にぎやかな調子ながらもどこか切なさを感じさせる、今風にいえば、サンバやボサノヴァのような曲調だったようです。

ちなみに、寛政年間は松平定信の改革が厳しくて、吉原が弾圧を受けて閑古鳥だったために深川が新しい遊里として栄えた時期でした。「面美多動身」は「おもいたつみ」と読ませて、その頃の江戸の東南である深川を描いた洒落本です。ここを俗に「たつみ」と呼びます。「郭通交」は文人気取りながら、「くるわがよい」を自認した通人。この時期は「粋」の美意識がばかばかしくも異様なほどに研ぎ澄まされた頃。その頃を代表する作品です。

上総部屋は、大名屋敷に巣食う中間ちゅうげん小者こものがたむろする大部屋のこと。上総出身者が多かったからのようです。小者は武家の雑役をこなす下僕ですが、狭義には中間より格下に、広義には中間と同じくくりで見られています。足軽、若党→中間→小者の順で格が下がっていきます。中間や小者は折助おりすけとも呼ばれました。

上総木綿は、上総国でつくられた木綿のこと。丈が短いのが特徴だったため、「上総木綿で丈なし」「上総木綿で情がない」などと言って、深川遊里のはやりことばでした。

上総戸、上総節、上総部屋、上総木綿と、どれをとっても、粗末、粗品、劣性といったマイナスイメージを抱かせる熟語となっています。もっとも、江戸の人から見た偏見にすぎません。江戸の人からすれば、常陸も上総も相模も同じような低質で俗悪な世界だったわけです。まことのひどいもんですが、ここが理解できないと江戸文化なるものはどうもわかりにくくなります。

ことばよみいみ
浄閑寺 じょうかんじ荒川区南千住二丁目の浄土宗寺院。投げ込み寺でした
善応寺ぜんのうじ足立区中川三丁目の真言宗寺院。投げ込み寺でした

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

かまどろ【釜泥】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

泥棒の噺。
のんきでほのぼのしてますねえ。

別題:釜盗人(上方)

あらすじ

大泥棒、石川五右衛門の手下で、六出無四郎と腹野九郎平という二人組。

親分が釜ゆでになったというので、ほおっておけば今に捕まって、こちとらも天ぷらにされてしまう、と心配になった。

そこで、親分の追善と将来の予防を兼ね、世の中にある釜という釜を全部盗み出し、片っ端からぶちこわしちまおうと妙な計画を立てた。

さしあたり、大釜を使っているのは豆腐屋だから、そこからとりかかろうと相談がまとまる。

間もなく、豆腐屋ばかりに押し入り、金も取らずに大釜だけを盗んでいく盗賊が世間の評判になる。

なにしろ新しい釜を仕入れても、そのそばからかっさらわれるのだから、業界は大騒ぎ。

ある小さな豆腐屋。

じいさんとばあさんの二人きりで、ごく慎ましく商売をしている。

この店でも、のべつ釜を盗まれるので、じいさんは頭を悩ませている。

なにか盗難防止のいい工夫はないかと相談した結果、じいさんが釜の中に入り、酒を飲みながら寝ずの晩をすることになった。

ところが、いい心持ちになり過ぎて、すぐに釜の中で高いびき。

ばあさんもとっくに船をこいでいる。

と、そこに現れたのが、例の二人組。

この家では先だっても仕事をしたが、またいい釜が入ったというので、喜んでたちまち戸をひっぱずし、釜を縄で縛って、棒を通してエッコラサ。

「ばかに重いな」
「きっと豆がいっぺえへえってるんだ」

せっせと担ぎ出すと、釜の中の爺さんが目を覚まして
「ばあさん、寝ちゃあいけないよ」

泥棒二人が変に思っていると、また釜の中から
「ほい、泥棒、入っちゃいけねえ」

さすがに気味悪くなって、早く帰ろうと急ぎ足になる。

釜が大揺れになって、じいさんはびっくりして
「婆さん、地震か」

その声に二人はがまんしきれず、そっと下ろして蓋を開けると、人がヌッと顔を出したからたまらない。

「ウワァー」
と叫ぶと、なにもかもおっぽり出して、泥棒は一目散。

一方、じいさん。

まだ本当には目が覚めず、相変わらず
「婆さん、オイ、地震だ」

そのうちに釜の中に冷たい風がスーッ。

やっと目を開けて上を向くと、空はすっかり晴れて満点の星。

「ほい、しまった。今夜は家を盗まれた」

底本:六代目朝寝坊むらく

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しりたい

諺を地でいった噺

古くから、油断して失敗する意味で「月夜に釜を抜かれる」という諺があります。

大元をたどれば、この噺は、この諺を前提に作られたと思われます。

寛延4年(1751)刊『開口新語かいこうしんご』中の漢文体の笑話が原型ですが、直接の原話は安永2年(1773)刊の笑話本『近目貫きんめぬき』中の「大釜」です。

原話では、入られるのは味噌屋で、最初に強盗一人が押し入り、家財はおろか夜具まで一切合財とっていかれて、おやじがしかたなく、大豆を煮る大釜の中で寝ていると、味をしめた盗人がずうずうしくも翌晩、また入ってきて……ということになります。オチは現行と同じです。

上方落語では「釜盗人」と題しますが、東京のものと、大筋で変わりはありません。

明治にできた噺

もともと、小咄やマクラ程度に軽く演じられていたものが、明治後期から一席噺となったものです。

四代目麗々亭柳橋は、明治7年(1874)、父親の三代目麗々亭柳橋をみようみまねでまねた芸のつおもりで、初代春風亭小柳で、神田区新銀町(千代田区神田司町2丁目辺)の寄席豆蒔亭で「釜泥」をやりました。当時14歳。小咄のつもりでやったのでしょうね。

明治34年(1901)8月、「文藝倶楽部」所載の六代目朝寝坊むらく(永瀬徳久、1859-1907)の速記がもっとも古く、現行のやり方は、オチも含めてほとんど、むらくの通りです。

同時代の大物では、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の速記もあります。

先の大戦後は、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)などが演じ、特に小円朝が得意にしていました。

小円朝は、釜ごと盗まれたじいさんが「おい、ばあさん」と夢うつつで呼ぶ声を、次第に大きくすることを工夫した、という芸談を残しています。

その後は、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)がよく手掛けていました。

戦時中は禁演もどき

野村無名庵(野村元雄、1888-1945、落語評論家)の『落語通談』によれば、戦時中、時局に合わない禁演落語を定めた時、自粛検討会議の席で、泥棒噺にランクが付けられました。

甲乙丙に分け、甲はまあお目こぼし、丙は最悪で無条件禁止、ということに。

その結果、甲には「釜泥」「眼鏡屋」「穴泥」碁泥」「だくだく」「絵草紙屋」「探偵うどん」「熊坂」が。

不道徳な部分を抹消すれば、という条件付きの乙には「出来心」「しめ込み」「夏泥」「芋俵」「つづら泥」「にかわ泥」「やかん泥」「もぐら泥」「崇禅寺馬場」が。

丙には「転宅」と決まったとか。

泥棒に不道徳もヘチマもないでしょうが。

ところが、実際に設定された結果、「噺塚」に葬られた五十三種には、なんと泥棒噺は一つも入っていません。

この五十三種は、大半がエロ噺か不倫噺でした。

「釜泥」など泥棒噺はエロ噺や不倫噺の次のランクで、事実上「自粛」させられたことは間違いないでしょう。

エロよりドロはまあいいか、てなもんで。

禁演落語なんぞといっても、しょせんはこんな程度のものです。思想や宗教の弾圧などと比べれば、かわいいもんです。

戦時下ではあっても、落語の心映えがまだ許される、のどかな時代だったのかもしれません。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

しりもち【尻餅】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

切羽詰まった大晦日の極貧夫婦。
女房の尻をたたき餅つきにみせる。
苦いバレ噺もどき。

あらすじ

亭主が甲斐性かいしょうなしで、大晦日おおみそかだというのに、餠屋もちやも頼めない貧乏所帯びんぼうじょたい

女房が、せめて近所の手前、音だけでもさせてほしいと文句を言う。

これは、少しでも金を都合してきてくれという心なのだが、能天気な亭主、これを間に受けて、自作自演で景気よく餠屋に餠をかせている芝居をしようと言い出す。

夜、子供が寝たのを見計らい、そっと外に出て、聞こえよがしに大声で
「えー、親方、毎度ありがとうございます」
と叫び、子供にお世辞せじを言ったりする場面も一人二役で大奮闘。

いやがるかみさんに着物をまくらせ、手に水をつけて尻をペッタン、ペッタン。

そのうち、尻は真っ赤になる。

かみさんはしばらくがまんしていたが、とうとう、
「あの、餠屋さん、あと、幾臼いくうすあるの?」
「へい、あと二臼ふたうすです」
「おまえさん、後生ごしょうだから餠屋さんに頼んで、あとの二臼はおこわにしてもらっとくれ」

しりたい

原話は「笑府」から

中国明代みんだいの笑話本『笑府しょうふ』に類話があるといわれています。これは、明和めいわ5年(1768)に抄訳しょうやくが刊行され、それ以降につくられた多くの落語や小咄こばなしのネタ本になっていますが、具体的にどの話が「尻餅」に相当するのか、いまひとつはっきりしません。

「尻をたたく」というシチュエーションでいえば、新婚初夜に派手に「泣き声」が聞こえたので、客が後で冷やかすと、実はそれは花婿が、新婦に尻をたたかれて発した声だったという、『笑府』閨風部けいふうぶ艶笑えんしょう小ばなし「婿呼痛せいこつう」がそれかもしれません。

おこわと白蒸

もとは上方落語で、オチは東京では「お強にしとくれ」ですが、上方は「白蒸しろむしでたべとくれ」です。

白蒸は、糯米もちごめを蒸して、まだいていない状態のもので、なるほど、「もうたたかないどくれ」という意味ではこちらの方が明快でしょう。

上方では笑福亭系の噺です。五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)の十八番でした。東京では、あらすじでもテキストにした八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)のやり方が現行の基本になっています。

可楽はこの前に「掛け取り万歳」の後半部を付け、この夫婦の貧乏と能天気を強調しておくやり方でした。

餅屋

江戸時代、ふつう餅搗もちつきは12月26日から。これを餅搗始もちつきはじめといいました。この日から大晦日おおみそかまで、「引摺ひきずり」といって、餅屋が何人かで道具を持ち、得意先を回って歩きます。

正月の餅はおろか、鏡餅かがみもちも買えない切羽詰せっぱつまった状況というのは、落語では「三百餅」「子ころし」などにも描かれます。

「尻餅」の直接の原話である、享和2年(1802)刊の江戸板笑話本『へそくり金』中の「餅搗もちつき」では、貧乏な医者が下男の三介の尻をたたく設定になっています。

ほのかなエロティシズム

東京でも上方でも、女房の尻をまくって亭主が「白い尻だなあ」と、思わず見とれたように言う(生唾なまつばをのみ込む?)セリフがあります。

江戸時代には、アノ時の「後ろから」の体位は、畜生道ちくしょうどうということで禁断だったわけで、この亭主も、所帯を持って初めて、まじまじとその部分を拝み、新鮮な感動をおぼえたのでしょう。

いずれにしても、この「餅搗」、禁断のセックスの暗喩あんゆと勘ぐれば、エロの色調もより濃厚になってきそうです。とはいうものの、さほどのもんじゃありません。



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評価 :1/3。

くびぢょうちん【首提灯】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

芝の辺で酔っぱらいの町人。
訛りの強い侍を侮った。
えいやあっ。あとは謡を鼻歌で。
サンピンめ。首が横にずれて。
ざらにない傑作です。

別題:上燗屋(上方)

【あらすじ】

芝山内しばさんない

追い剥ぎや辻斬りが毎日のように出没していた、幕末の頃。

これから品川遊廓に繰り込もうという、町人一人。

すでに相当きこしめしていると見え、千鳥足でここを通りかかった。

かなり金回りがいいようで、
「これからお大尽遊びだ」
と言いかけて口を押さえ
「……おい、ここはどこだい。おっそろしく寂しいところだ。……おや、芝の山内さんないだ。物騒な噂のある場所で、大金を持ってるのはまずかったかな……」

さすがに少し酔いが醒めた。

それでも空元気を出し、なんでも逆を言えば反対になるというので
「さあ、辻斬り出やがれ。追いぎ出ろい。出たら塩つけてかじっちまうぞ」
と、でかい声を張り上げる。

増上寺の四ツ(午後十時ごろ)の鐘がゴーン。

あたりは人っ子一人通らない。

「……おい、待て、おい……」

いきなり声をかけられて、
「ぶるっ、もう出たよ。何も頼んだからって、こうすみやかに出なくても……」

こわごわ提灯の灯をかざして顔を見上げると、背の高い侍。

「おじさん、何か用か」
「武士をとらえて、おじさんとはなにを申すか。……これより麻布の方へはどうめえるか、町人」

なまっていやがる……。

ただの道聞きだという安心で、田舎侍だからたいしたことはねえという侮り、脅かされたむかっ腹、それに半分残っていた酒の勢いも手伝った。

「どこィでも勝手にめえっちまえ、この丸太ん棒め。ぼこすり野郎、かんちょうれえ。なにィ? 教えられねえから、教えねえってんだ。変なツラするねえ。このモクゾー蟹。なんだ? 大小が目に入らぬかって? 二本差しが怖くて焼き豆腐は食えねえ。気のきいた鰻は五本も六本も刺してらあ。うぬァ試し斬りか。さあ斬りゃあがれ。斬って赤え血が出なかったら取りけえてやる。このスイカ野郎」

カッと痰をひっかけたから、侍の紋服にベチャッ。

刀の柄に手が掛かる、と見る間に
「えいやあっ」

……侍、刀を拭うと、謡をうたって遠ざかる。

男、
「サンピンめ、つらァ見やがれ」
と言いかけたが、声がおかしい。

歩くと首が横にずれてくる。

手をやると血糊ちのりがベッタリ。

「あッ、斬りゃあがった。ニカワでつけたら、もつかな。えれえことになっちゃった」

あわてて走っていくと、突き当たりが火事で大混雑。

とびの者に突き当たられて、男、自分の首をひょいと差し上げ、
「はい、ごめんよ、はい、ごめんよ」

【しりたい】

原話と演者

安永3年(1774)刊の『軽口五色帋かるくちごしきかみ』中の「盗人ぬすっと頓智とんち」です。

忍び込んだ泥棒が首を斬られたのに気づかず、逃げて外へ出ると暗闇で、思わず首を提灯の代わりにかざします。

もともと小ばなしだったのを、明治期に四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)が、一席にまとめたものです。

円蔵直伝の六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が得意としました。

現在でもよく演じられます。

オチで、男が火事見舞いに駆けつけ、店先に、「ヘイ、八五郎でございます」と、自分の首を差し出すやり方もあります。

上方の「上燗屋じょうかんや

のみ屋で細かいのがなく、近くの古道具屋で仕込み杖を買って金をくずした男が、その夜入った泥棒を仕込み杖でためし斬り。

泥棒の首がコロコロ……という筋立て。

オチは同じです。

首なしで口をきくという、やや似たパターンの噺に、「館林」「胴取り」があります。

芝の山内

品川遊郭からの帰り道だったため、幕末には辻斬り、追い剥ぎなどが、ひんぱんに出没しました。

「山内」とは寺の境内。ここでいう「山内」は、三縁山広度院増上寺さんえんざんこうどいんぞうじょうじのこと。「芝山内」とは、増上寺の境内、という意味です。

浄土宗鎮西派じょうどしゅうちんぜいはの大本山です。徳川将軍家の菩提寺ぼだいじ(祖先の墓、位牌を置く寺)。徳川家康は熱心な浄土宗の門徒でした。

三代家光の時代に、上野に東叡山寛永寺とうえいざんかんえいじを建て、こちらも将軍家の菩提寺と認定されました。天台宗の寺院です。比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじの向こうを張ったわけです。家康と家光の墓は日光にあります。こちらの寺院は輪王寺りんのうじです。神仏習合しんぶつしゅうごうですが、いちおう天台宗です。寛永寺の系統の寺院です。

寛永寺のなにがすごいかといえば、その命名です。「東叡山」とは関東の比叡山という意味。寺号に元号を冠するのは当時の最高の寺院を意味します。

仁和寺、延暦寺、建仁寺、永観堂、建長寺、天龍寺。限られています。これらを「元号寺」と称します。

延暦寺も元号寺ですから、寛永寺は完全に比叡山延暦寺の向こうを張っているわけです。天海の悲願、いやいや執念といえるでしょう。

徳川将軍家は多重信仰の一族でした。徳川家は、多くの宗派のパトロン(後援者)をも兼ねていました。

なんといっても、江戸時代という時代ほど、日本国内の宗教者にとってらくちんな時代はありませんでした。毎年、幕府や藩などから禄(米=給料)をもらえるのですから。なにもしなくても生活できたわけです。

例外的に弾圧されたのは、キリスト教と日蓮宗不受不施派にちれんしゅうふじゅふせはだけだそうです。

武江年表ぶこうねんぴょう』の文久3年(1863)の項にも「此頃、浪士徘徊して辻斬り止まず。両国橋畔に其の輩の内、犯律のよしにて、二人の首級をかけて勇威を示せり。所々闘諍とうじょうありて穏ならず」とあります。

蔵前駕籠」の舞台となった蔵前通りあたりは、まだ人通りがありました。

幕末の芝山内は荒野も同然。こんな、ぶっそうな場所はなかったのでしょう。

江戸っ子の悪態解説

「ぼこすり野郎」の「ぼこすり」は蒲鉾用のすりこぎ。

「デクノボー」「大道臼おおどううす」などと同じく、体の大きい者をののしった言葉です。

「かんちょうれえ(らい)」は弱虫の意味ですが、語源は不明です。

この男もわかっていません。

「モクゾー蟹」は、藻屑蟹ともいい、ハサミに藻屑のような毛が生えている川蟹で、ジストマを媒介します。

要するに、「生きていても役に立たねえ、木ッ葉野郎めッ」くらいの意味でしょう。

サンピン

もとは、渡り中間ちゅうげんや若党をののしる言葉でした。のちには、もっぱら下級武士に対して使われました。

中間の一年間の収入が三両一分だからとも、三両と一人扶持ぶち(日割り計算で五合の玄米を支給)だったからとも、いわれます。「サン」は三、「ピン」は一のこと。

浅黄裏

諸藩の武士、つまり、田舎侍のこと。別に、「浅黄裏あさぎうら(着物の浅黄木綿の裏地から)」「武左ぶざ」「新五左しんござ」などとも呼びました。

「浅黄裏」は野暮の代名詞で通っています。「棒鱈」にも登場しました。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

こうふい【甲府い】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

甲州から浅草に出た善吉はすられて無一文に。
法華の豆腐屋に救われた縁で奉公十年。
人柄が見込まれ、入り婿に。
夫婦は家業に精出す。やがて身延山に。
「甲府ぃ、お参り、願ほどきぃ」

別題:お礼まいり 出世豆腐 出世の島台 法華豆腐

【あらすじ】

甲府育ちの善吉ぜんきち

早くから両親をなくし、伯父おじ夫婦に育てられたが、今年二十になったので、江戸に出てひとかどの人間になり、育ての親に恩を返したいと、身延山みのぶさんに断ち物をして願を掛け、上京してきた。

生き馬の目を抜く江戸のこと、浅草寺せんそうじ境内けいだい巾着きんちゃくをすられ、無一文むいちもんに。

腹を減らして市中しじゅうをさまよったが、これではいけないと葭町よしちょう千束屋ちづかやという口入れ屋をめざすうち、つい、とある豆腐屋の店先でオカラを盗みぐい。

若い衆わけえしが袋だたきにしようというのを、主人が止めた。

事情を聞いてみると、善吉はこれこれこういうわけと涙ながらに語ったので、主人が気の毒に思い、ちょうど家も代々の法華宗ほっけしゅうで、 「これもお祖師そしさまの引き合わせだ」 と善吉を家に奉公させることにした。

仕事は、豆腐の行商。

給金きゅうきんは出ないが、商高あきないだかに応じて歩合ぶあいが取れるので励みになる。

こうして足掛け三年、影日向かげひなたなく懸命に 「豆腐ィ、胡麻ごま入り、がんもどき」 と売って歩いた。

愛想あいそがよく、売り声もなかなか美声だから客もつき、主人夫婦も喜んでいる。

ある日、娘のお孝も年ごろになったので、一人娘のこと、ほおっておくと虫がつくから、早く婿むこを取らさなければならないと夫婦で相談し、宗旨しゅうしも合うし、まじめな働き者ということで、善吉に決めた。

幸い、お孝も善吉に気があるようす。

問題は本人だとおかみさんが言うと、気が短い主人、まだ当人に話もしていないのに、善吉が断ったと思い違いして怒り出し 「なにっ、あいつが否やを言える義理か。半死半生でオカラを盗んだのをあわれに思い、拾ってやった恩も忘れて増長しやがったな。薪雑把まきざっぽ持ってこい」 と大騒ぎ。

目を白黒させた善吉だが、自分ふぜいが、と遠慮しながらも、結局、承知し、めでたく豆腐屋の養子におさまった。

それから夫婦で家業に励んだから、店は繁盛。

土地を二か所も買って、居付いつき地主に。

そのうち、年寄り夫婦は隠居。

ある日、善吉が隠居所へ来て、もう江戸へ出て十年になるが、まだ甲府の在所ざいしょへは一度も帰っていないので、 「両親の十三回忌じゅうさんかいきと身延さまへのお礼を兼ね、里帰りさせてほしい」 と申し出る。

お孝もついて行くというので、喜んで旅支度たびじたくしてやり、翌朝出発。

「ちょいと、ごらんな。縁日にも行かない豆腐屋の若夫婦が、今日はそろって、もし若旦那、どちらへお出かけで?」 と聞かれて善吉が振り向き 「甲府(=豆腐)ィ」 と言えば、お孝が 「お参り(=胡麻入り)、願ほどき(=がんもどき)」

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【しりたい】

古い江戸前人情噺

古くから口演されている、江戸前の噺ですが、原話はまったくわかっていません。

「出世の島台」と題した、明治33年(1900)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、四代目桂文治の息)の速記が残っています。大筋は現行とほとんど変わりません。六代目文治は円朝と同時代の噺家です。

明治以来、人情噺の大ネタとして、多くの名人連が手掛けましたが、先の大戦後は、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)がとくによく高座に掛けました。意外なのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がやったこと。珍しくくすぐりも入れず、ごくまじめに演じています。

CDでは、この三者のほか、古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)も手掛けました。今どきウケる噺ではなさそうではありますが、それでも芸の力技か、三遊亭歌武蔵(若森正英、1968-)もたまに泣かせます。こちらもCDがあります。

身延山

鰍沢」にも登場しますが、寺号は久遠寺。日蓮宗の総本山です。

流罪を許されて身延に隠棲いんせいした日蓮(1222-82)が、この地域の豪族、波木井はきい氏から寄進を受けて開いたものです。

日蓮の没後、中興の祖と称される第十一世日朝にっちょう(1422-1500)が、現在の山梨県南巨摩郡みなみこまぐん身延町に移してますます発展させました。

日蓮宗の本拠としては、江戸・池上の本門寺ほんもんじがあるので、江戸の信徒(檀越だんのつ)は通常、ここに参詣すればよいとされました。池上は日蓮の亡くなった地です。

江戸時代には、「日蓮宗」という名称はまだ一般的ではなく、「法華」「法華宗」と呼ぶことが多かったようです。

江戸の豆腐屋

江戸市中に豆腐屋が急増したのは、宝永ほうえい年間(1704-11)といわれています。

宝永3年(1706)5月、市中の豆腐屋7人が大豆相場の下落にもかかわらず高値売りをして処罰されたという記録もあります。

居付き地主

自分の土地や家屋に住んでいる者、すなわち地主のことです。土地家屋を人に貸し、自分は他の町に住んでいる者を「他町地主」といいました。

落語にひんぱんに登場する「大家」は差配さはいともいい、地主に雇われ、長屋の管理を委託されている人のことです。

大商店主を兼ねた居付き地主のうちには、大家を介さず、自分で直接、家作を管理する者も多かったようです。その場合、地主と大家を兼ねていることになります。

こうした居付き地主が貸すのは、長屋でも表長屋おもてながやです。通りに面し、多くは二階建てです。

大工の棟梁とうりゅう鳶頭とびのかしらなど、町人でも比較的地位のある者が住みました。「三軒長屋」のイセカンが、典型的な居付き地主です。

改作「お福牛」

野村無名庵むめいあん(野村元雄、1888-1945)は『落語通談』に記しています。

斯界の古老扇橋は、この噺を今様にでっち直して、お福牛と題するものを作った。

この「古老扇橋」とは、声色こわいろ(声帯模写)の名人としても知られた、八代目入船亭扇橋(宗匠の扇橋、進藤大次郎、1865-1944)のことでしょう。「でっち直す」という言い方もおもしろいですね。

改作といっても速記も残らず、作った年代もわかりません。『落語通談』によれば、筋は大同小異とのこと。この『落語通談』は、初出が1943年9月刊。中公文庫版(1982年)は品切れですが、古本市場でまだ入手できるかも。

豆腐屋を牛乳屋に代え、主人公は苦学生となっています。

主人公は牛乳屋に婿入りし、牧場経営もして大成功。終わりに故郷の伯父が亡くなり、遺産を受け取るため帰郷することに。

オチは、しゅうと夫婦が留守を心配して、牧場の牛は大丈夫かと聞くと「お案じなさいますな。ウシ(=ウチ)は女房にまかせてあります」という、くだらないダジャレオチです。

紙芝居にもなった「模範落語」

『落語通談』によれば、オリジナルの「甲府い」は「鰍沢」とつなげて、先の大戦中、報国紙芝居ほうこくかみしばいにもなったとのこと。

いかにこの噺の主人公が、当時の軍部や当局(内務省や文部省など)にとって「期待される人間像」の典型であったかがわかろうというもの。でも、泣かせます。

野村無名庵は当時の政府の片棒をかついで、昭和15年(1940)、「不道徳」な噺53種を「禁演落語」に設定した中心人物です。忖度そんたくの人でした。空襲の犠牲となりました。

『落語通談』には、こんなことも記しています。

何にしても納まりの目出度い勧善の落語で、禁演五十三種を悪い方として西へ廻して見立番附の出来たとき、善い方すなわち東の方の、大関へあげられたのはこの甲府ィであった。

そういう噺、つまりは、悪くない噺なんですね。

日蓮が開いた、鎌倉新仏教のひとつです。最高の教えは「法華経」にある、というのが日蓮の教えです。「南無妙法蓮華経」と唱える宗派です。題目ですね。後醍醐天皇からは、法華宗という名称をいただきました。鎌倉新仏教の特徴は「易行いぎょう」です。修行や教えがわかりやすくてカンタン、ということ。 女性や一般人にも、手を差し伸べたのです。

とはいえ、当時の人々からは胡散臭うさんくさく思われていたようです。信者が増えたのは応仁の乱以降。 死が日常的になった頃からでした。次第に大きくなって、江戸時代にはものすごい勢力となっていました。当時は、法華、法華宗などと呼ばれてたものです。

法華のライバルは、念仏宗。これは、歌舞伎や落語ではお決まりの知識です。念仏宗とは、「南無阿弥陀仏」という、念仏を唱える宗派のこと。浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗などが、念仏宗と呼ばれていました。

江戸の町では、法華と念仏が、信者獲得に必死でした。「宗論」は、両宗派の対立が噺になっています。法華の各宗派が束になって「日蓮宗」となったのは、明治5年(1872)のこと。

その後、紆余曲折あって名称が変更に。「宗教法人・日蓮宗」となるには、昭和16年(1941)まで待たねばなりませんでした。日蓮宗、歴史的には新しい名称だったのですね。日蓮宗の寺格はこんなかんじです。寺格とは、宗派内の寺の等級のこと。宗派最高の寺院は、身延山久遠寺で、総本山とされています。山梨県にあります。

ここの住職は、法主と呼ばれます。その下に、日蓮や日蓮宗に関わりの深い重要な寺院として、大本山があります。 大本山は、以下の七寺院です。誕生寺たんじょうじ(千葉県)、 清澄寺せいちょうじ(千葉県)、 中山法華経寺なかやまほけきょうじ(千葉県) 、北山本門寺(静岡県) 、池上本門寺(東京都) 、妙顕寺みょうけんじ(京都府) 、本圀寺ほんこくじ(京都府) 。

日蓮の出身地が房総半島だったからか、圧倒的に関東に集中しているのがわかります。

大本山の下には由緒寺院があって、これは42寺院あります。「堀の内」で有名な妙法寺は、由緒寺院に入ります。ほかに霊跡寺院があって、これは大本山の7寺院と由緒寺院の7寺院の計14寺院が、そう呼ばれています。

妙法寺のホームページには「本山」とあります。総本山→大本山→本山の序列です。由緒寺院はすべて本山です。霊跡寺院には大本山が7寺院、本山が7寺院あります。ということは、本山は計49寺院ある、ということになります。ややこしいです。

日蓮宗は、いまでは約5200寺、信者は330万人を抱えます。信者を檀越と呼びます。「だんのつ」「だんおつ」と呼びます。

有名な檀越は、ざっと思いついても、以下のような方々があげられます。

狩野永徳(1543-90) 、長谷川等伯(1539-1610)、 葛飾北斎(1760-1849)、 太田南畝(1749-1823)、 橋本雅邦(1835-1908)、 辰野金吾(1854-1920)、 石橋湛山(1884-1973)、 芥川龍之介(1892-1927)、 宮沢賢治(1896-1933)、 美空ひばり(1937-1989) ……。

芸人や芸能稼業には多く、珍しくもありません。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900、※晩年の4年間)、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、三代目三遊亭円右(粕谷泰三、1923-2006)、二代目古今亭円菊(藤原淑、1929-2012)、三代目三遊亭円歌(中沢信夫、1932-2017) ……。

とまあ、数え上げたら、きりないほど。もっと、もっと。

【語の読みと注】 薪雑把 まきざっぱ まきざっぽう:切ったり割ったりした薪。まき。



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評価 :1/3。

さいきょうみやげ【西京土産】落語演目



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【どんな?】

御一新で没落した士族。
その悲哀を背にした滑稽譚。

【あらすじ】

長屋に住む、独り者の熊五郎。

隣の元士族で、今は反故屋の作蔵が、女を引き込んでいちゃついているようすなので、おもしろくない。

嫌味を言いに行くと作蔵、実はこれこれこういうわけと、不思議ないきさつを物語る。

母一人子一人の身で、死んだおやじの士族公債も使い果たし、このままでは先の見込みもない。

いずれは道具屋の店でも開こうと一念発起した作蔵。

上方を回って掘り出し物の古道具でも買い集めようと、京から奈良と旅するうち、祇園の芸妓の絵姿が手に入った。

この絵の中の女に一目惚れした作蔵、東京に帰ると、母親が嫁取りを勧めるのも聞かず、朝夕飯や茶を供えて、どうか巡り合えますようと祈っている。

と、その一念が通じたか、ある日、芸妓が絵からスーッと抜け出し
「どうか、あんたのお家はん(=妻)にしてかわいがっとくれやす」

都合のいいことに、女は作蔵がいる時だけ掛け軸の中から出てきて、かいがいしく世話をしてくれる。

この世の者でないから食費もかからず。

しかも絶世の美女ときているので、わが世の春。

毎日、鼻の下を伸ばしている。

母親に見つかってしかられた。

だが、わけを話して許しを得て、今では三人仲良く暮らしている、という次第。

話を聞いてうらやましくてならない熊公、
「こんないい女が手に入るなら、オレも古紙回収業になろう」

熊公は、作蔵からかごを借りる。

鵜の目鷹の目で、抜け出しそうな女の絵を買おうと、近所をうろつきだす。

都合よく、深川の花魁の絵姿の掛け軸が手に入った。

熊は大喜びで毎日毎晩一心に拝んでいる。

その念が通じたか、ある夜、花魁がスーッと絵から抜け出て
「ちょいと、主は本当に粋な人だよ。おまえさんと添い遂げたいけど、ワチキは今まで客を取ってて、体がナマになっているから、鱸の洗いで一杯やりたいねえ。軍鶏が食いたい、牛が食べたい。朝はいつまでも寝てるよ。起きない(=畿内)五か国山城大和」

隣とはえらい違いで、本当に寝ているだけでなにもしない。
「これは、ひどい奴を女房にした」
とぐちる。

ある朝。

熊さんが自分で朝飯をこしらえて花魁の枕元に置き、夕方、仕事から帰ると、もぬけのカラ。

ほうぼう探したが、行方がわからない。

しかたなく、易に凝っている大家に卦を立ててもらうと「清風」と出た。

「セイは清し、フウは風だから。神隠しにあったんだろう」
「そりゃあ、違いましょう。実は柱隠しでございます」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

「鼻の円遊」の創作  【RIZAP COOK】

明治25年(1892)10月、『百花園』掲載の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記が、唯一の記録です。

いわゆる没落士族の悲哀を背景にした噺です。

筋自体は「野ざらし」と「応挙の幽霊」を継ぎ足した感じで、後半の花魁のずうずうしさだけが、笑いのタネです。

円遊は、その年の5月末から8月いっぱい、西京(京都)から関西、東海地方を旅興行で回っているので、噺の題名はその土産話という、ニュアンスなのでしょう。

「西京」は、明治以後に使われた名称です。

江戸が「東京」と改名して首都とされたため、それと区別するために用いたものです。

士族公債

明治2年(1869)の版籍奉還に伴い、同10年(1877)に政府から士族に発行された秩禄(=金禄)公債証書。

明治政府が武士に渡した手切れ金です。1人当たり、平均40円にも満たないケースがほとんどでした。

そのため、士族の多くは生活に困窮。子女が身売りしたり、落語でよく登場するように慣れない商売に手を出して失敗する悲劇が明治初期、いたるところで見られました。

神隠し  【RIZAP COOK】

いわゆる「蒸発」です。

その当時、子供の「蒸発」はほとんどが人さらいでした。

柱隠し  【RIZAP COOK】

オチが今ではわかりにくくなっていますが、柱隠しは、柱の表面に掛けた装飾のことです。

「たがや」にも登場する「柱暦」もその一つですが、多くは、細長い紙に書画を描いたもので、柱掛け、柱聯ともいいました。

この噺の場合は、柱隠しに使った掛け軸の中から花魁が出現したことを言ったものです。

つまり、神隠しではなく、掛け軸の中にまた戻っていったのだろう、ということでしょう。

江戸時代には、柱隠しを利用した、「聯合わせ」という優雅な遊びがありました。

柱に木製や竹製の聯を掛け、単に飾って自慢しあうだけでなく、その上に手拭い、扇面、短冊、花などをあしらい歌舞伎の下題に見立てて、洒落るなどしたものです。

明治期には、ハンカチを使うこともありました。

のちには、祭礼の神酒所の飾りにしか、見られなくなりました。

清風  【RIZAP COOK】

せいふう。江戸時代、神隠しは天狗の仕業と考えられ、天狗の羽うちわが起こす風をこう呼びました。

ここでは、冗談半分にそれとしゃれたものです。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :0/3。

てんたく【転宅】落語演目



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【どんな?】

泥棒より数枚上手な女の話。
この泥棒のお人よしぶりには口あんぐり。

あらすじ

おめかけさんが「権妻ごんさい」と呼ばれていた明治の頃。

船板塀に見越みこしの松の妾宅しょうたくに、だんなが五十円届けて帰った後、これを聞きつけて忍び込んだのが間抜けな泥棒。

お膳の残りものをムシャムシャ食っているところを、おめかけさんのお梅に見つかり、
「さあ、ダンツクが置いてった五十円、蛇が見込んだ雨蛙。四の五の言わずに出せばよし、いやだ応だと抜かしゃがると、伊達には差さねえこの大だんびら、うぬがどてっ腹へズブリズブリとお見舞い申すぞ」
と居直ったが、このおめかけさん、いっこうに動じないばかりか、
「あたしも実は元はご同業で、とうにだんなには愛想が尽きているから、あたしみたいな女でよかったら、連れて逃げておくれ」
と言い出したから、泥棒は仰天。

「五十円はおろか、この家にはあたしの蓄えも入れて千円あるから、この金を持って駆け落ちし、世界一周した後、おまえさんに芸者屋でもやってもらう」
と色仕掛けで迫る。

泥棒、でれでれになって、とうとう、めおとの約束を。

「そう決まったら今夜は泊まっていく」
と泥棒がずうずうしく言い出すと、
「あら、今夜はいけないよ。二階にはだんなの友達でえらく強いのが、酔っぱらって寝てるんだから」

明日の朝に忍んでいく約束をしたが、
「亭主のものは女房のもの。このお金は預かっておくよ」
と稼いだなけなしの二十円を巻き上げられる始末。

で、その翌朝。

うきうきして泥棒が妾宅にやってくると、あにはからんや、もぬけのカラ。

あわてて隣の煙草屋のおやじに聞くと、
「いや、この家には大変な珍談がありまして、昨夜から笑いつづけなんです」

女は実は、元は旅稼ぎの女義太夫がたり。ほうぼうで遊んできた人だから、人間がすれている。間抜け野郎の泥棒を口先でコロッとだまし、あの後、だんなをすぐに呼びにやったところ、あとでなにか不都合があるといけないというので、泥棒から巻き上げた金は警察に届け、明け方のうちに急に転宅(=引っ越し)した、とか。

「えっ、引っ越した。義太夫がたりだけに、うまくかたられた(=だまされた)」

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しりたい

たちのぼる明治の匂い

「権妻」「転宅」ともに明治初期から使われだした言葉。まぎれもなく明治の新時代につくられた噺です。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が得意にしました。

この円遊は明治を代表する噺家で、大きい鼻のために「鼻の円遊」とも、落語の後の余興として奇妙な踊りを披露したため「ステテコの圓遊」とも呼ばれていました。

円遊は、文明開化の新風俗を当て込み、鉄道馬車を登場させたり、オチも「あそこにシャボンが出ています」と変えるなどとしていました。

同時代で音曲の弾き語りや声色などで人気のあった二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-1898)は、女が「目印にタライを置いておく」と言い、オチは「転宅(=洗濯)なさいましたか。道理でタライが出ています」としています。

ちなみに、二代目今輔は右目が不自由だったことから「めっかちの今輔」と当時の資料には出てきます。

やはり、ひとつの時代の風俗に密着しているだけに、いつまでも生き残るには難しい噺かもしれません。

三代目三遊亭円遊(伊藤金三、1878-1945)も得意ネタにしていました。こちらのネタでも同じような運命をたどっています。

権妻

本妻に対しての愛人、妾、おめかけさんをいいます。

「権」を「けん」ではなく「ごん」と読みます。

「ごん」と読む場合は、「権大納言ごんだいなごん」「権禰宜ごんねぎ」というように、「次の」「二番目の」をさす敬称となります。

愛人に対してわざとしゃれて使ったものです。明治時代の特徴です。

船板塀に見越しの松

「黒板塀に……」ともいいます。当時の典型的な妾宅しょうたくの象徴として、三代目瀬川如皐じょこう(六三郎、1806-81)の代表的な歌舞伎世話狂言『源氏店げんじだな』(お富与三郎)にも使われました。

瀬川如皐は歌舞伎作者です。

船板塀は、廃船となった船底板をはめた塀で、ふつう「忍び返し」という、とがった竹や木を連ねた泥棒よけが上部に付いていました。

見越みこしの松は、目印も兼ねて塀際に植え、外から見えるようにしてあります。

いずれも芸者屋の造りをまね、主に風情を楽しむために置かれたものです。

「ドウスル!」女義太夫

「娘義太夫」「タレギダ」ともいいます。これも幕末に衰えていたのが、明治初年に復活したものです。

明治中期になると全盛期を迎え、取り巻きの書生連が義太夫の山場にかかると、「ドウスル、ドウスル」と声をかけたので、「ドウスル連」と呼ばれました。

ちなみに、「タレギダ」の「タレ」は女性の隠語、「ギダ」は義太夫のことで、娘義太夫を意味しています。内訳を知るとばかばかしいだけ。

娘義太夫は、今でいうアイドルのはしりで、その人気のほどは、木下杢太郎(1885-1945)の詩「街頭初夏」(明治43年)にも。

濃いお納戸の肩衣の
花の「昇菊、昇之助」
義太夫節のびら札の
藍の匹田しったもすずしげに

この噺のおめかけさんのように旅回りの女芸人となると、泥水もさんざんのみ、売春まがいのこともするような、かなり凄絶な境遇だったのでしょう。

そこから這い上がってきたのですから、したたかにもなるわけです。

それにしても

この噺、男女の愛欲を貫くよりも、泥棒を犯罪者とみなして追及するほうを優先しています。

明治期の世俗価値観が強く出ていて、いまいちどうも、とびきりのおもしろさはありません。

とはいえ、妾囲いを是とする風潮は許容しているわけです。

落語は、社会の不備や政治の不正に物申す、発信元の役割を果たしたわけではなかったようです。

自由民権運動では、講談や浪曲が媒体として使われはしても、落語は使われませんでした。

現代でも、聴者はそんなところを落語に求めていません。ただげらげら笑いたいだけなんですよね。私(古木)もです。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

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