おかめだんご【おかめ団子】演目

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【RIZAP COOK】

麻布名物「おかめ団子」を舞台にした地味でつつましい人情噺。 志ん生のお得意。

あらすじ

麻布飯倉片町いいくらかたまちに、名代のおかめ団子という団子屋がある。

十八になる一人娘のお亀が、評判の器量よしなので、そこからついた名だが、暮れのある風の強い晩、今日は早じまいをしようと、戸締まりをしかけたところに
「ごめんくだせえまし、お団子を一盆また、いただきてえんですが」
と、一人の客。

この男、近在の大根売りで、名を太助。

年取った母親と二人暮らしだが、これが大変な親孝行者。

おふくろがおかめ団子が大好物だが、ほかに楽はさせてやれない身。しかも永の患いで、先は長くない。

せめて団子でも買って帰って、喜ぶ顔が見たい。

店の者は、忙しいところに毎日来てたった一盆だけを買っていくので、迷惑顔。

邪険に追い返そうとするのを主人がしかり、座敷に通すと、自分で団子をこしらえて渡したので、太助は喜んで帰っていく。

中目黒の家に帰った太助、母親がうれしそうに団子を食べるのを見ながら床につくが、先ほど主人が売り上げを勘定していた姿を思い出し、
「大根屋では一生おふくろに楽はさせられない、あの金があれば」
と、ふと悪心がきざす。

頬かぶりをしてそっと家を抜け出すと、風が激しく吹きつける中、団子屋の店へ引き返し、裏口に回る。

月の明るい晩。

犬にほえたてられながら、いきあたりばったり庭に忍び込むと、雨戸が突然スーッと開く。

見ると、文金高島田ぶんきんたかしまだ緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん、 鴇色縮緬ときいろちりめん扱帯しごきを胸高に締めた若い女が、母屋に向かって手を合わすと、庭へ下りて、縁側から踏み台を出す。

松の枝に扱帯を掛ける。言わずと知れた首くくり。

実はこれ、団子屋の娘のおかめ。

太助あわてて、
「ダミだァ、お、おめえッ」
「放してくださいッ」

声を聞きつけて、店の者が飛び起きて大騒ぎ。

主人夫婦の前で、太助とおかめの尋問が始まる。

父親の鶴の一声で、むりやり婿を取らされるのを苦にしてのこととわかって、主人が怒るのを、太助、泥棒のてんまつを洗いざらい白状した上、
「どうか勘弁してやっておくんなせえ」

主人は事情を聞いて太助の孝行に感心し、罪を許した上、こんな親孝行者ならと、その場で太助を養子にし、娘の婿にすることに。

おかめも、顔を真っ赤にしてうつむき、
「命の親ですから、あたくしは……」。

これでめでたしめでたし。

主人がおかみさんに、
「なあ、お光、この人ぐらい親孝行な方はこの世にないねえ」
「あなた、そのわけですよ。商売が大根(=コウコ、漬け物)屋」。

太助の母親は、店の寮(別荘)に住まわせ、毎日毎日、おかめ団子の食い放題。

若夫婦は三人の子をなし、家は富み栄えたという、人情噺の一席。

底本:五代目古今亭志ん生、三代目麗々亭柳橋

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した団子屋

文政年間(1818-30)から明治30年代まで麻布飯倉片町に実在し、「鶴は餅亀は団子で名は高し」と川柳にも詠まれた名物団子屋をモデルとした噺です。

おかめ団子の初代は諏訪治太夫という元浪人で、釣り好きでしたが、あるとき品川沖で、耳のある珍しい亀を釣ったので、女房が自宅の庭池の側に茶店を出し、亀を見に来る客に団子を売ったのが、始まりとされます。

それを亀団子といいましたが、二代目の女房がオカメそっくりの顔だったので、「オ」をつけておかめ団子。これが定説で、看板娘の名からというのは眉唾の由。

黄名粉きなこをまぶした団子で、一皿十六文と記録にありますが、明治の三代目麗々亭柳橋れいれいていりゅうきょうの速記には五十文とあり、これは幕末ごろの値段のようです。

志ん生得意の人情噺

古風で、あまりおもしろい噺とはいえませんが、五代目古今亭志ん生、八代目林家正蔵(彦六)が演じ、事実上、志ん生が一手専売にしていたといっていいでしょう。

明らかに自分の持ち味と異なるこの地味でつつましい人情ものがたりを志ん生がなぜ愛したのかよくわかりませんが、あるいは、若い頃さんざん泣かせたという母親に主人公を通じて心でわびていたのかもしれません。

志ん生は、太助を「とし頃二十……二、三、色の白い、じつに、きれいな男」と表現しています。

この「きれいな男」という言葉で、泥にまみれた農民のイメージや、実際にまとっているボロボロの着物とは裏腹の、太助の美男子ぶりが想像できます。同時に、当人の心根をも暗示しているのでしょう。

古いやり方では、実は太助が婿入りするくだりはなく、おかめは、使用人の若者との仲が親に許されず、それを苦にして自殺をはかったことになっていました。それを、志ん生がこのあらすじのように改めたものです。

大根屋

太助のなりは、麗々亭柳橋の速記では「汚い手拭いで頬っ被りして、目黒縞の筒ッ袖に、浅葱あさぎ(薄い藍色)のネギの枯れッ葉のような股引をはいて、素足に草鞋ばき」といいますから、当時の大根売りの典型的なスタイルです。

近在の小作農が、農閑期の冬を利用して大根を売りに来るものです。「ダイコヤ」と呼びます。

大根は、江戸近郊では、
練馬が秋大根(8、9月に蒔き10-12月収穫)、
亀戸が春蒔き大根(3、4月に蒔き5-7月収穫)、
板橋の清水大根が夏大根(5-7月に蒔き7-9月収穫)
として有名でした。

太助の在所の目黒は、どちらかといえば筍の名産地でしたが、この噺で売っているのは秋大根でしょう。大八車に積んで、山の手を売り歩いていたはずです。

麻布飯倉片町

港区麻布台三丁目。東京タワーの直近です。今でこそハイブローな街ですが、旧幕時代はというと、武家屋敷に囲まれた、いたって寂しいところ。山の手ですが、もう江戸の郊外といってよく、タヌキやむじなも、よく出没したとか。

飯倉片町おかめ団子は、志ん生ファンならおなじみ「黄金餅」の、道順の言い立てにも登場していました。志ん朝の「黄金餅」でも必ず触れていました。

【RIZAP COOK】

てれすこ【てれすこ】演目

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てんしき、つるつるなど、落語には奇妙なことばが登場します。今回も珍妙な。

別題:長崎の代官

あらすじ【RIZAP COOK】

ある漁村で、珍しい魚が捕れたが、専門家の漁師たちにも名前がわからない。

そこで奉行所に聞きに行ったが、もとより役人が知るはずがない。

困って、これこれの魚の名を存じる者は申し出れば百両の賞金をつかわすという高札が立った。

これが評判になり、近在から人が押し寄せる。

それに目をつけたのが、多度屋茂兵衛たどやもへえという商人。

金に目がくらみ、「これは『てれすこ』と申す魚にございます」とでたらめを申し立てたが、役人の方も本当か嘘か証明できないので、茂兵衛はまんまと賞金をせしめる。

これは臭いと眉に唾をした奉行、一計を案じて、魚を干物にし、「この度もかような珍魚が捕れた。この名を知っている者は役宅へ申し出よ。百両つかわす」と、前と同じような高札を出した。

計略とは知らない茂兵衛、欲にかられてまた奉行所に出向き、「これはステレンキョウと申します」と言い立てたから運の尽き。

「上をいつわる不届き者。吟味中、入牢申しつけるッ」と、たちまち縛られてしまう。

吟味の末「多度屋茂兵衛。その方、『てれすこ』と申せし魚をまた『すてれんきょう』と申し、上をいつわり、金子をかたり取ったる罪軽からず。重き咎にも行うべきところなれど、お慈悲をもって打首申しつくる」と判決が下った。

世にいう「てれすこ裁判」。最後に何か望みがあれば、一つはかなえてつかわすというので、茂兵衛うなだれて「妻子に一目、お会わせを願いとう存じます」

かみさんがやせ衰えた姿で、乳飲ちのみ子を抱いて出頭した。

茂兵衛が驚いてようすを聞くと、亭主が身の証が立つようにと、断食をしていたが、赤ん坊のお乳が出ないのはかわいそうなので、そば粉を水で溶いたものをすすっていたという。

「それほどわしの身を案じてくれてありがたい。もう死んでいく身、思い残すことはないが、子供が大きくなっても、決してイカの干したのをスルメと言わせてくれるな」と茂兵衛が遺言ゆいごん

それを伝え聞いた奉行、膝を打って「多度屋茂兵衛、言い訳あい立った。無罪を申し渡す」

首のなくなるのを、スルメ一枚で助かった。

助かるはずで、かみさんが火物ひもの(=干物ひもの)断ちをしたから。

しりたい【RIZAP COOK】

民話がルーツのとんち噺

土壇場で口をついて出た苦し紛れの頓知とんちで、あやうく命が助かる噺ですが、類話は各地の民話にあります。

地方によって、最初のでたらめな魚名(てれすこ)は「きんぷくりん」「ばばくろう」、二度目(ステレンキョウ)が「かんぷくりん」などと変わるようです。

「てれすこ」は実は何のことはなく、「テレスコピョ」つまりテレスコープ、望遠鏡のこと。「ステレンキョウ」はよく分りませんが、立体メガネのことだという説もあります。

直接の原話は、笑話本『醒睡笑せいすいしょう』(安楽庵策伝あんらくあんさくでん寛永かんえい5年=1628年)巻六「うそつき」第二話です。

ここでは、舞台がの国(摂津せっつ)兵庫浦ひょうごがうら

男がとがめられ、「無塩(鮮魚)のときはほほらほ、今はさがり(干からび)なのでばくくらく」と言い訳するのがオチになっています。

円生十八番は上方ダネ

もとは上方落語で、大阪の五代目金原亭馬生(「長崎の赤飯」を参照)が得意にしていました。

大阪では、桂米朝の持ちネタでした。

東京では戦後、三代目三遊亭金馬、二代目三遊亭円歌がよく演じました。その後は六代目円生の一手専売になりました。

円生は場所を明確にしていませんが、漁業の盛んな地方で奉行がいるから、長崎だろうというので、そのものずばり「長崎の代官」の別題で演じられることもあります。

サゲはダジャレで、本来「干物絶ちをしたから助かったのはあたりめ(スルメの忌み言葉=当たり前を掛けたもの)と説明しますが、円生は、それは蛇足だというので、本あらすじのように切っていました。

火物絶ちって?

一定期間、満願まで、火を通して料理した食物を断ち、願掛けをすることです。

【てれすこ 三遊亭円生】

やどやのあだうち【宿屋の仇討ち】演目

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旅籠泊の「始終三人」。あんまりうるさくて武士ににらまれ。痛快なお噺です。

別題:庚申待 宿屋敵(上方)

【あらすじ】

やたら威勢だけはいい魚河岸うおがしの源兵衛、清八、喜六の三人連れ。

金沢八景見物の帰りに、東海道は神奈川宿の武蔵屋という旅籠はたご草鞋わらじを脱ぐ。

この三人は、酒をのむのも食うのも、遊びに行くのもすべていっしょという悪友で、自称「始終三人」。

客引きの若い衆・伊八がこれを「四十三人」と聞き違え、はりきって大わらわで四十三人分の刺身をあつらえるなどの大騒ぎの末、「どうも中っ腹(腹が立つ)になって寝られねえんだよ」と、夜は夜で芸者を総あげでのめや歌え、果ては寝床の中で相撲までとる騒々しさ。

たまったものではないのが隣室の万事世話九郎ばんじせわくろうという侍。

三人がメチャクチャをするたびに
「イハチー、イハチー」
と呼びつけ、静かな部屋に替えろと文句をつけるが、すでに部屋は満室。

伊八が平身低頭でなだめすかし、三人に掛け合いにくる。

こわいものなしの江戸っ子も、隣が侍と聞いては分が悪い。

しかたなく、「さっきは相撲の話なんぞをしていたから身体が動いちまっんたんだ」と、今度はお静かな色っぽい話をしながら寝ちまおうということになった。

そこで源兵衛がとんでもない自慢話。

以前、川越で小間物屋をしているおじさんのところに世話になっていた時、仕事を手伝って武家屋敷に出入りしているうちに、石坂段右衛門という百五十石取りの侍のご新造と、ふとしたことからデキた。

二人で盃のやりとりをしているところへ、段右衛門の弟の大助というのに
「不義者見つけた、そこ動くな」
と踏み込まれた。

逆にたたき斬ったあげく、ご新造がいっしょに逃げてたもれと泣くのを、足弱がいては邪魔だとこれもバッサリ。

三百両かっぱらって逃げて、いまだに捕まっていないというわけ。

清八、喜六は素直に感心し
「源兵衛は色事師、色事師は源兵衛。スッテンテレツクテレツクツ」
神田囃子かんだばやしではやしたてる始末。

これを聞きつけた隣の侍、またも伊八を呼び
「拙者、万事世話九郎とは世を忍ぶ仮の名。まことは武州川越藩中にて、石坂段右衛門と申す者。三年探しあぐねた妻と弟の仇。今すぐ隣へ踏んごみ、血煙上げて……」

さあ大変。

もし取り逃がすにおいては同罪、一人も生かしてはおかんと脅され、宿屋中真っ青。

実はこの話、両国の小料理屋で能天気そうなのがひけらかしていたのを源兵衛がそのままいただいたのだが、弁解してももう遅い。

あわれ、三人はぐるぐる巻きにふん縛られ、「交渉」の末、宿屋外れでバッサリと決定、泣きの涙で夜を明かす。

さて翌朝。

昨夜のことをケロッとわすれたように、震えている三人を尻目に侍が出発しようとするので、伊八が
「もし、お武家さま、仇の一件はどうなりました」
「あ、あれは嘘じゃ」
「冗談じゃありません。何であんなことをおっしゃいました」
「ああでも言わにゃ、拙者夜っぴて(夜通し)寝られん」

【しりたい】

二つの流れ   【RIZAP COOK】

東西で二つの型があり、現行の「宿屋の仇討ち」は上方の「宿屋敵」を三代目柳家小さんが東京に移植、それが五代目小さんにまで継承されていました。

宿屋敵やどやがたき」では、兵庫の男たちがお伊勢参りの帰途、大坂日本橋にっぽんばしの旅籠で騒ぎを起こす設定です。

戦後、東京で「宿屋の仇討ち」をもっとも得意とした三代目桂三木助は、大阪にいた大正15年(1926)、師匠の二代目三木助から大阪のものを直接教わり、あらすじに取り入れたような独自のギャグを入れ、十八番に仕上げました。

三木助以後では、春風亭柳朝のものが、源兵衛のふてぶてしさで天下一品でしたが、残念ながら、現在残る録音はあまり出来のいいものではありません。

東京独自の「庚申待」   【RIZAP COOK】

もうひとつの流れが、東京(江戸)で古くから演じられた類話「庚申待」です。

これは、江戸日本橋馬喰町にほんばしばくろうちょうの旅籠に、庚申待ちのために大勢が集まり、世間話をしているところへ、大切な客がやって来たことから始まり、以下は「宿屋の仇討ち」と大筋では同じです。

五代目古今亭志ん生や六代目三升家小勝みますやこかつが演じましたが、今は継承者がいないようです。

庚申待ちという民間信仰   【RIZAP COOK】

庚申かのえさるの夜には、三尸さんしという腹中の虫が天に昇って、その人の罪過を告げるので、徹夜で宴を開き、いり豆を食べるならわしでした。もとは中国の道教の風習です。

庚申は六十日に一回巡ってくるので、年に六回あります。三尸の害を防ぐには、青面金剛しょうめんこんごう帝釈天たいしゃくてん猿田彦さるたひこをまつるのがよいとされました。柴又しばまたの帝釈天が有名です。

聴きどころ   【RIZAP COOK】

三木助版は、マクラからギャグの連続で、今でもおもしろさは色あせません。

なかでも、源兵衛らが騒ぐたびに武士が「イハチー」と呼びつけ、同じセリフで苦情を言う繰り返しギャグ、源兵衛の色事告白の妙な迫真性、二人のはやし立てるイキのよさなどは無類です。

テンポのよさ、場面転換のあざやかさは、芝居を見ているような立体感があります。

【もっと知りたい】

 「宿屋の仇討ち」には、以下の3つの型があるといわれる。

 (1)江戸型  天保板「無塩諸美味」所収の小話「百物語」が原話といわれているもの。明治期には「甲子待きのえねまち」「庚申待かのえさるまち」として高座にかけられていた。明治28(1895)年に柳家禽語楼きんごろうがやった「甲子待」が速記で残っている。以前は「宿屋の仇討ち」というと、この噺をさしたそうだ。げんに、大正7(1918)年に出た海賀変哲かいがへんてつの「落語のさげ」での「宿屋の仇討ち」のあらすじは、この型が紹介されている。六代目三升家小勝、五代目古今亭志ん生がやった。最近では、五街道雲助あたりがマニア向けにやるだけ。今となっては珍しい。この型は、なんといっても江戸の風俗がにおい立つ。なかなかに捨て難い。ただ、速記本を読んでも、登場するしゃれの数々が古びており、笑う前にわからない。うなるだけで先に進まない。悔しいかぎり。

 (2)上方1型 「宿屋敵やどやがたき」といわれるもの。兵庫の若い衆がお伊勢参りの帰りに大坂・日本橋の宿屋でひともんちゃく、という筋。これを、明治期に三代目柳家小さんが東京に持ってきた。上方から帰る魚河岸の三人衆が東海道の宿で大騒ぎ、という筋に作り変えたのだ。七代目三笑亭可楽さんしょうていからくを経て五代目小さんに伝わった。

 (3)上方2型 上方型にはもうひとつある。それが、今回取り上げた噺だ。大阪の二代目桂三木助に習った三代目三木助が、東京に持ってきて磨き上げたもの。他と比べると秀逸だ。現在「宿屋の仇討ち」といえば、ほとんどがこの型なのもうなずける。とはいえ、筋から見ればどれも大同小異ではあるが。

 3人衆が夜更けに興に乗ってがなり立てる「神田囃子」。これについて少々。

 江戸の祭囃子まつりばやしといったら、神田囃子だ。京都の祇園囃子、大阪のだんじり囃子と並び称される。神田明神の祭礼に奏でられるわけだが、もとは里神楽さとかぐらの囃子から出たもの。享保(1716-36)年間に葛西(現在の葛飾区あたり)で起こった「葛西囃子」がネタ元だという。葛西の代官が地元の若者の健全育成をねらって香取明神かとりみょうじんの神主と図り、神楽の囃子を作り変えたものだという。ものの起こりは「大きなお世話」からだったわけ。

 「和歌囃子」、転じて「馬鹿囃子」などともいわれた。ローカルな音だった。葛西囃子が、天下祭といわれる幕府公認の祭である「山王祭」や「神田祭」に出演していった。赤浜のギター弾きが、いきなり国際音楽祭に参加するようなもの。その結果、葛西囃子の奏法が江戸の方々に広まった。それが神田囃子として普遍化していったのだ。

 権威と様式はあとからついて回るもので、明治末期まで、神田大工町には神田囃子の家元と称する新井喜三郎家があったという。

 大太鼓(大胴)1、締太鼓しめだいこ(シラベ)2、篠笛しのぶえ(トンビ)1、鉦(ヨスケ)1の5人一組で構成される。一般に演奏される曲式には「打ち込み」「屋台」「聖天しょうでん」「鎌倉」「四丁目」がある。これらを数回ずつ繰り返してひとつづりに演奏する。さらには、「神田丸」「亀井戸」「きりん」「かっこ」「獅子」といった秘曲もある。概して静かな曲が多いのだが、「みこし四丁目」などは「すってんてれつく」のにぎやかな調子。これを深夜にやられたのではいい迷惑だ。

 神田囃子の数々は、小唄、端唄はうた木遣きやり、俗曲などに大なり小なりの影響を与えている。その浮き立つような心地よい調子は、落語家の出囃子、あるいは大神楽などで時折、耳に飛び込んでくる。江戸の音である。

(古木優)

【RIZAP COOK】

のざらし【野ざらし】演目

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釣りの帰途、川べりに髑髏どくろ。手向けの酒を。宵にはお礼参りの幽霊としっぽりと。

別題:手向けの酒

あらすじ

頃は明治の初め。

長屋が根継ねつぎ(改修工事)をする。

三十八軒あったうち、三十六軒までは引っ越してしまった。

残ったのは職人の八五郎と、もと侍で釣り道楽の尾形清十郎の二人だけ。

昨夜、隣で
「一人では物騒だったろう」
などと、清十郎の声がしたので、てっきり女ができたと合点した八五郎、
「おまえさん、釣りじゃなくていい女のところへ行くんでしょう?」
とカマをかけると
「いや、面目ない。こういうわけだ」
と清十郎が始めた打ち明け話がものすごい。

昨日、向島で釣りをしたら「間日まび(暇な日)というのか、雑魚ざこ一匹かからん」と、その帰り道、浅草寺の六時の鐘がボーンと鳴ると、にわかにあしが風にざわざわ。

鳥が急に茂みから飛び立ったので驚き、葦の中を見ると野ざらしになった髑髏が一つ。

清十郎、哀れに思って手向たむけの回向えこうをしてやった。

「狸を食った? ひどいね」
「回向したんだ」
「猫もねらった」
「わからない男だ。五七五の句を詠んでやったのだ。一休和尚の歌に『骨隠す皮には誰も迷うらん皮破れればかくの姿よ』とあるから、それをまねて『野を肥やせ骨の形見のすすきかな』と浮かんだ」

骸骨がいこつの上に持参した酒をかけてやり、いい功徳をしたと気持ちよくその晩寝入っていると、戸をたたく者がいる。

出てみると女で
「向島の葦の中から来ました」

ぞっとして、狸が化かしに来たのだろうとよく見ると、十六、七の美しい娘。

娘の言うには
「あんなところに死骸をさらし、迷っていましたところ、今日、はからずもあなたのご回向えこうで浮かぶことができましたので、お礼に参りました。腰などお揉みしましょう」

結局、一晩、幽霊としっぽり。

八五郎、すっかりうらやましくなり、自分も女を探しに行こうと強引に釣り竿を借り、向島までやってきた。

大勢釣り人が出ているところで
「ポンと突き出す鐘の音はいんにこもってものすごく、鳥が飛び出しゃコツがある」
と能天気に鼻歌を唄うので、みんなあきれて逃げてしまう。

葦を探すと骨が見つかったので、しめたとばかり酒をどんどんぶっかける。

「オレの家は門跡さまの前、豆腐屋の裏の突き当たりだからね。酒肴をそろえて待っているよ、ねえさん」
と、俳句も何も省略して帰ってしまった。

これを聞いていたのが、悪幇間わるだいこの新朝という男。

てっきり、八五郎が葦の中に女を連れ込んで色事をしていたと勘違い。

住所は聞いたから、今夜出かけて濡れ場を押さえ、いくらか金にしてやろうとたくらむ。

一方、八五郎、七輪の火をあおぎながら、今か今かと待っているがいっこうに幽霊が現れない。

もし門違いで隣に行ったら大変だと気を揉むところへ、
「ヤー」
と野太い声。

幇間、
「どうもこんちはまことに。しかし、けっこうなお住まいで、実に骨董家の好く家でゲスな」
とヨイショを始めたから、八五郎は仰天。

「恐ろしく鼻の大きなコツだが、てめえはいったいどこの者だ」
「新朝という幇間たいこでゲス」
「太鼓? はあ、それじゃ、葦の中のは馬の骨だったか」

しりたい

元祖は中華風「釜掘り」

原典は中国・明代の笑話本『笑府』中の「学様」で、これは最初の骨が楊貴妃、二番目に三国志の豪傑・張飛ちょうひが登場、「拙者の尻をご用立ていたそう」となります。

さらに、これの直接の影響か、落語にも古くは類話「支那の野ざらし」がありました。

こちらは『十八史略』中の「鴻門こうもんの会」で名高い英雄・樊會はんかいが現れ、「肛門(=鴻門)を破りに来たか」という、これまた臭気ただようオチです。

上方では五右衛門が登場

上方落語では「骨釣り」と題します。

若旦那が木津川へ遊びに行き、そこで骨を見つける演出で、最後には幇間ではなく、大盗賊・石川五右衛門登場。これがまた、尻を提供するというので、「ああ、それで釜割りにきたか」。

言うまでもなく、釜ゆでとそっちの方の「カマ」を掛けたものですが、どうも今回は、こんなのばかりで……。

それではここらで、正統的な東京の「野ざらし」をまじめに。

因果噺から滑稽噺へ

こんな、尻がうずくような下品な噺では困ると嘆いたか、禅僧出身の二代目林家正蔵(生没年不詳)が、妙な連中の出現するオチの部分を跡形もなくカット、新たに仏教説話的な因果噺にこしらえ直しました。

二代目正蔵は「こんにゃく問答」の作者ともいわれます。

ところが、明治になって、それをまたひっくり返したのが、爆笑王の初代三遊亭円遊(鼻の円遊)です。

円遊は「手向たむけの酒」の題で演じ、男色の部分は消したまま、あらすじのような滑稽噺としてリサイクルさせました。

「野ざらしの」柳好、柳枝

昭和初期から戦後にかけては、明るくリズミカルな芸風で売った三代目春風亭柳好、端正な語り口の八代目春風亭柳枝が、それぞれこの噺を得意としました。

特に柳好は「鐘がボンと鳴りゃ上げ潮南……」の鼻唄の美声が評判で、「野ざらしの……」と一つ名でうたわれました。

柳枝も軽妙な演出で十八番としましたが、サゲ(オチ)まで演らず、八五郎が骨に酒をかける部分で切っていました。今はほとんどこのやり方です。

現在も、よく高座にかけられています。

TBS落語研究会でも、オチのわかりにくさや制限時間という事情はあるにせよ、こういう席でさえも、途中でチョン切る上げ底版がまかり通っているのは考えものです。

馬の骨?

幇間と太鼓を掛け、太鼓は馬の皮を張ることから、しゃれただけです。

牡馬が勃起した陰茎で下腹をたたくのを「馬が太鼓を打つ」というので、そこからきたという説もあります。

さんまいぎしょう【三枚起請】演目

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性悪女にひっかかるのも、お得な人生かもしれませんね。

あらすじ

町内の半公が吉原の女郎に入れ揚げて家に帰らず、父親に頼まれた棟梁が呼んで意見をするが、当人、のぼせていて聞く耳を持たない。

かえってノロケを言いだす始末。あんな実のある女はいない、年季が明けたらきっとおまえさんといっしょになる、神に誓って心変わりしないという起請文も取ってあるという。

棟梁が見てみると「小照こと本名すみ……」

どこかで聞いたような名。

それもそのはず、棟梁も同じ女からの同じ起請文を一枚持っているのだ。

品川から吉原に住み替えてきた女だった。

江戸中探したら何千枚あるか知れやしねえとあきれているところへ、今度は三河屋の若だんながやってきて、またまた同じノロケを言いだした。

「セツに吉原の女がオカボレでげして、来年の三月に年季が明けたら、アナタのお側へ行って、朝暮夜具の揚げ下ろしをしたいなぞと……契約書まであるんでゲス」とくる。

「若だんな、そりゃひょっとして、吉原江戸町二丁目、小照こと本名すみ……」
「おや、よくご存じで」

これでエースが三枚、いやババか。

半公と若だんなはカンカンになり、これから乗り込んで化けの皮をひんむいてやると息巻くが、棟梁がそこは年の功、正面から強談判しても相手は女郎、開き直られればこっちが野暮天にされるのがオチ、それよりも……と作戦を授け、その夜三人そろって吉原へ。

小照を茶屋の二階へ呼びつけると、二人を押し入れに隠し、まず棟梁がすご味をきかせる。

起請てえのは、別の人間に二本も三本もやっていいものか、それを聞きに来たと言うと、女もさるもの、白ばっくれる。

「それじゃ、三河屋の富さんにやった覚えはねえか」
「なんだい、あんな男か女かわからない、水瓶に落ちた飯粒みたいなやつ」
「おい、水瓶に落ちたおマンマ粒、出といで」

これで一人登場。

「唐物屋の半公にもやったろう」
「知らないよ。あんな餓鬼みたいな小僧」
「餓鬼みたいな小僧、こちらにご出張願います」

こうなっては申し開きできないと観念して、小照が居直る。

「ふん、おまえたち、大の男が三人も寄って、一人の女にかかろうってのかい。何を言いやがる。はばかりながら、女郎は客をだますのが商売さ。だまされるテメエたちの方が大馬鹿なんだよ」
「このアマぁ、嘘の起請で、熊野の烏が三羽死ぬんだ。バチ当たりめ」
「へん、あたしゃ、世界中の烏をみんな殺してやりたいよ」
「こいつめ、烏を殺してどうしようってんだ」
「朝寝がしたいのさ」

しりたい

起請文

年季ねんが明けたら夫婦になる」は女郎のくどき文句ですが、その旨の誓いを、紀伊国・熊野三所権現発行の牛王ごおうの宝印に書き付け、男に贈ります。

宝印は、熊野権現のお使いの烏七十五羽をかたどった文字で呪文が記してあります。これを熊野の護符といい、それをのみ込むやり方もありました。

その場合、嘘をつくと熊野の烏(暗に当人)が血を吐いて死ぬといわれていました。

「三千世界の……」

オチの言葉は、倒幕の志士・高杉晋作が、品川遊郭の土蔵相模どぞうさがみ(「居残り佐平次」)で酒席で酔狂に作ったというざれ唄「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」から直接採られています。

1958年の映画『幕末太陽傳』で、佐平次(フランキー堺)がごきげんでこの唄をうなっていると、隣で連れションをしていた高杉本人(石原裕次郎)。

「おい、それを唄うな。……さすがにてれる」

お女郎の年季

吉原にかぎり、建前として十年で、二十七歳を過ぎると「現役引退」し、教育係の「やり手」になるか、品川などの岡場所に「住み替え」させられました。「住み替え」とは、芸者、遊女、奉公人などが主家を替えることをいいます。

明治5年の「娼妓解放令」で、表向きは自由廃業が認められ、この年季も廃止されましたが、実際はほとんどのお女郎が借金のため引き続き身を売らざるを得ず、実態は何も変わりませんでした。

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みやとがわ【宮戸川】演目

【RIZAP COOK】

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江戸の噺。隅田川が舞台のお花半七なれそめで始まるめでたい噺。後半は悲惨ですが。

あらすじ

日本橋小網町の質屋、茜屋半右衛門のせがれ、半七。

堅物なのはいいが、碁将棋に凝って、家業をほったらかして碁会所に入りびたり。

頑固一徹で勝負事が嫌いなおやじは、とうとう堪忍袋の緒を切って、夜遅く帰ってきた半七を家から締め出し、
「若い奉公人に示しがつきません」
と勘当を言い渡す。

気が弱い半七が謝っていると、隣でも同じような騒ぎ。

こちらは、半七の幼なじみで、船宿桜屋の娘、お花。

友達の家でお酌をさせられて遅くなったのだが、日ごろから折り合いの悪い義母は聞く耳持たず、
「若い娘が夜遅くまでほっつき歩いているのはふしだらで、おとっつぁんが明日帰ってくるまで家に入れない」
とこちらも締め出しを食った。

いつしか二人はばったり。

話をするうち、半七が、
「今夜は霊岸島のおじさんの家に泊めてもらう」
と言うと、行き場のないお花は
「連れてってほしい」と頼む。

「とんでもない。男女七歳にして席を同じうせず。変な噂が立ったらどうします」
と、女に免疫のない半七が断っても
「半七さんとならうれしいわ」
とお花の方が積極的。

結局、お花は夜道を強引に霊岸島までついてきてしまう。

一方、おじさん、おいの声を聞きつけ
「また碁将棋でしくじりやがったな。女の一人も連れ込んでくりゃあ、世話のしがいもあるんだが」
とぶつぶつ言いながら戸を開けてやると、珍しくも女連れだから、
「こいつもやっと年相応に色気づいたか」
と、大喜び。

違うと言っても耳を貸さず、早のみ込みして、
「万事おじさんが引き受けて夫婦にしてやるから、今夜は早く寝ちまえ」と強引に二人を二階に上げてしまう。

「そんなんじゃありません。今夜はおじさんと寝ます」
「ばか野郎。てめえがいらなきゃ、オレがもらっちまうぞ」

下りてくるとぶんなぐると言われて、二人はモジモジ。

下ではおじさんが、
「若い者はいい。婆さん、半七はいくつだった? 十八? あの娘は十七、一つ違いってとこだな。オレたちが逢ったのもちょうど同じ年ごろだった。おめえはいい女だったな」
「おじいさんもいい男だったよ」
「おい、ちょっとこっちィ来ねえ」
「なんだね、いい年をして」
と昔を思い出している。

二階の二人、しかたなく背中合わせで寝ることにしたが、年ごろの男女が一つ床。

こうなればなりゆきで、ああしてこうなって、その夜、とうとう怪しい夢を結んだ。

翌朝、昨夜とはうって変わって、仲を取り持ってほしいと二人が頼むので、昔道楽をして酸いも甘いも心得たおじさん、万事引き受け、桜屋に掛け合いに行くと、おやじは
「茜屋のご子息なら」
と即時承知。

ところが、半七のおやじは頑固で、
「人さまの娘をかどわかすようなやつを、家に入れることはできない」
の一点張り。

おじさんはあきれ果て
「それなら勘当しねえ。オレがもらう」
とおやじから勘当金を取って養子にし、横山町辺に小さな店を持たせ、二人が仲むつまじく暮らしたという、お花半七なれそめ。

しりたい

実際の心中事件に取材

六代将軍・家宣が亡くなった正徳2年(1712)、この噺のカップルと同名のお花半七という男女が京都で心中した事件を、近松門左衛門(1653-1724)が同年、浄瑠璃「長町裏女腹切」に仕立てたのがきっかけで、「お花半七」ものが、芝居や音曲で大流行しました。

それから1世紀もたった文化2年(1805)3月、「東海道四谷怪談」で有名な四世鶴屋南北が江戸・玉川座に書き下ろした「寝花千人禿(やよいのはな・せんにんかむろ)」(茜屋半七)が大当たりしたため、落語の方でも人気にあやかろうと、初代三遊亭円生がこれを道具入り芝居噺に脚色したのが、この噺の原型です。

すたれた後半部分

明治中期までは、初代三遊亭円右、三代目春風亭柳枝などが、芝居噺になる後半までを通して、長講で演じることがあり、柳枝の通しの速記(明治23年)も残されています。

上のあらすじは、その柳枝の速記の前半部分を参照しました。

その後、古風な芝居ばなしがすたれると共に、次第に後半部は忘れ去られ、今では演じられることが少なくなりました。

昭和に入って八代目柳枝、五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生といった名人連が得意にしましたが、いずれも前半のみで、円生一門の三遊亭円楽や円窓などに継承されていました。

三代目三遊亭円歌、柳家小満ん、五街道雲助、金原亭世之介、古今亭菊生、柳家喬太郎などが後半を含めてやったことがあります。

後半のあらすじ

前半から四年ほどのちの夏、お花が浅草へ用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると夕立に逢う。

傘を忘れたので、一人で雨宿りしていると、突然の雷鳴でお花は癪(しゃく)を起こして気絶。それを見ていた付近のならず者三人組、いい女なのでなぐさみものにしてやろうと、気を失ったお花をさらって、いずこかに消えてしまう。

女房が行方知れずになり、半七は泣く泣く葬式を出すが、その一周忌に菩提寺に参詣の帰り、山谷堀から舟を雇うと、もう一人の酔っ払った船頭が乗せてくれと頼む。

承知して、二人で船中でのんでいると、その船頭が酒の勢いで、一年前お花をさらい、まわした上、殺して吾妻橋から捨てたことをべらべら口走る。

雇った船頭もグルとわかり、ここで、
「これで様子がガラリと知れた」
と芝居がかりになる。

三人の渡りゼリフで。

「亭主というはうぬであったか」
「ハテよいところで」
「悪いところで」
「逢ったよなァ」

……というところで起こされた。

お花がそこにいるのを見て、ああ夢かと一安心。小僧が、おかみさんを待たせて傘を取りに帰ったと言うので、
「夢は小僧の使い(=五臓の疲れ)だわえ」
と地口(=ダジャレ)オチになる。

宮戸川

夢でお花が投げ込まれた墨田川の下流・浅草川の旧名で、地域でいえば山谷堀から駒形あたりまでの流域を指します。「宮戸」は、三社権現の参道入り口を流れていたことから、この名がついたとか。

この付近は白魚や紫鯉の名産地でした。

文政年間(1818-30)、駒形の酒屋・内田甚右衛門が地名にちなんで「宮戸川」という銘酒を売り出し、評判になりました。

小網町

現在の東京都中央区日本橋小網町。

小網町三丁目の行徳河岸から下総(千葉県)行徳まで三里八丁を、行徳船という、旅客と魚貝、野菜などを運ぶ定期航路が結んでいました。

ここは、江戸の水上交通の中心地で、船荷の集積地でもあり、船宿や問屋が軒を並べていました。

霊岸島

東京都中央区新川一、二丁目。万治年間(1658-61)に埋め立てが始まるまで、文字通り島でした。

船宿

舟遊び、釣り、水上交通など、大川(隅田川)を行き来する船を管理する使命がありました。柳橋、山谷堀など、吉原に近い船宿は、遊里への送迎、宴席、密会の場の提供も行いました。

【もっとしりたい】

芝居噺が得意だった初代三遊亭円生の作といわれている。この噺は、前半と後半がある。今は「なれそめ」として前半ばかりが演じられる。では、後半とは、どんな噺なのか。 霊岸島の契りで二人はめでたく夫婦に。その4年後の夏。お花が浅草に用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると、夕立にあう。傘を忘れたので、1人で雨宿りしていると、突然の雷鳴で、癪を起こして気絶。それを見ていた、ならず者3人がお花をさらって消えてしまう。お花が行方知れずになって、半七は泣く泣く葬式を。一周忌に菩提寺の参詣の帰り、山谷堀から船を雇うと、酔っ払った船頭・正覚坊の亀が乗せてくれと頼んでくる。船中で、亀が問わず語りに、1年前お花をさらってさんざん慰んだ末に殺して吾妻橋から投げ捨てた、と。実は、乗せた船頭の仁三も仲間だった。ここから、鳴り物が入って芝居噺めく。

半「これでようすがカラリと知れた」
亀「おれもその日は大勢で、寄り集まって手慰み、すっかり取られたその末が、しょうことなしのからひやかし。すごすご帰る途中にて、にわかに降り出すしのつく雨」
仁「しばし駆け込む雷門。はたちの上が、二つ三つ、四つにからんで寝たならばと、こぼれかかった愛嬌に、気が差したのが運の尽き」
半「丁稚の知らせに折よくも、そこやここぞと尋ねしが、いまだに行方の知れぬのは」
亀「知れぬも道理よ。多田の薬師の石置場。さんざん慰むその末に、助けてやろうと思ったが、のちのうれいが恐ろしく、ふびんと思えど宮戸川」
仁「どんぶりやった水けむり」
半「さては、その日の悪者はわいらであったか」
2人「亭主いうは、うぬであったか」
半「はて、よいところで」
2人「悪いところで」
3人「逢うたよな」
小僧「もしもし、だんなさま。たいそううなされておいででございます」
半「おお、帰ったか、お花は」
小僧「いま、浅草見附まで来ますと、雷が鳴って大粒な雨が降ってきましたゆえ、おかみさんを待たしておいて傘を取りにまいりました」
半「それじゃ、お花に別条はないか」
小僧「お濡れなさるといけませんから、急いで取りにきました」
半「ああ、それでわかった。夢は小僧の使い(=夢は五臓の疲れ)だわえ」

結局、夢だったわけ。話をさんざん振っておいて夢のしわざにしてしまう。ふざけている。できのよくない筋運び。オチも凡庸。だからか、今では演じる者がいない。長いし。ただし、なぜ「宮戸川」という題なのかは、後半の筋を知ればおのずとわかる。宮戸川とは隅田川の別称で、駒形辺から上流を隅田川、下流を宮戸川と呼んだそうである。「みやこがわ」なのだろう。噺の舞台は、前半は霊岸島、後半は山谷辺。ともに隅田川がらみの地だ。なによりもお花が投げ捨てられたのが吾妻橋。隅田川まみれの噺なのである。

古木優

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きくえのぶつだん【菊江の仏壇】演目

【RIZAP COOK】

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上方噺の傑作です。東京ではあまり聴きませんが。大ネタです。

別題:白ざつま(上方噺)

あらすじ

ある大店のだんな。

奉公人にはろくなものも食わせないほどケチなくせに、信心だけには金を使う。

その反動か、せがれの若だんなは、お花という貞淑な新妻がいるというのに、外に菊江という芸者を囲い、ほとんど家に居つかない。

そのせいか、気を病んだお花は重病になり、実家に帰ってしまった。

そのお花がいよいよ危ないという知らせが来たので、だんなは若だんなを見舞いに行かせようとするが、番頭に、もしお花がその場で死にでもしたら、若だんなが矢面に立たされて責められると意見され、ふしょうぶしょう、自分が出かけていく。

実はこれ、番頭の策略。

ケチなだんながいないうちに、たまには奉公人一同にうまいものでもくわしてやり、気晴らしにぱっと騒ごう、というわけ。

若だんな、親父にまんまと嫌な役を押しつけたので、さっそく、菊江のところに行こうとすると番頭が止める。

「大だんなを嫁の病気の見舞いにやっておいて、若だんなをそのすきに囲い者のところへ行かせたと知れたら、あたしの立場がありません、どうせなら、相手は芸者で三味線のひとつもやれるんだから、家に呼びなさい」
と言う。

それもご趣向だと若だんなも賛成して、店ではのめや歌えのドンチャン騒ぎ。

そこへ丁稚の定吉が菊江を引っ張ってくるが、夕方、髪を洗っている最中に呼びに来られたので、散らし髪に白薩摩の単衣という、幽霊のようなかっこう。

菊江の三味線で場が盛り上がったころ、突然だんなが戻ってきたので、一同大あわて。

取りあえず、菊江を、この間、だんなが二百円という大金を出して作らせた、人の二、三人は入れるというばかでかい仏壇に隠した。

だんな、
「とうとうお花はダメだった」
と言い、かわいそうに、せがれのような不実な奴でも生涯連れ添う夫と思えば、一目会うまでは死に切れずにいたものを、会いに来たのが親父とわかって、にわかにがっくりしてそのままだ。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と、番頭がしどろもどろで止めるのも聞かず、例の仏壇の扉をパッと開けたとたん、白薩摩でザンバラ髪の女。

「それを見ろ、言わないこっちゃない。お花や、せがれも私も出家してわびるから、どうか浮かんどくれ、浮かんどくれ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」
「私も消えとうございます」

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しりたい

源流は男色もの

直接の原話は文化5年(1808)刊『浪花みやげ』中の「ゆうれい」で、すでに現行の落語と筋はほとんど同じです。

これにはさらに原型と思われる笑話があり、享保16年(1731)ごろ刊の『男色山路露』中の「謡による恋」がそれです。これは、出典の書名から見てもわかるとおり、今でいうハードゲイのたぐい。

ある男が野郎(役者で男娼)を自宅に引き込み、よろしくお楽しみの最中、おやじが突然帰宅。あわてて男娼を仏壇に押し込みますが、「風呂敷」よろしく、おやじがその前に居座るので、出るに出られない男娼、そのうち小便がしたくなって……という、あまり趣味のよくないお笑いです。

上方の大ネタ

本家は上方落語で、大阪では桂米朝初め、三代目桂春団治、先代桂文枝など、上方を代表する実力者しかこなせない切りネタ(大ネタ)です。上方の舞台は船場の淀屋小路で、菊江はキタの新地の芸妓という設定になります。

東京版は馬生が復活

東京には明治20年代に初代三遊亭円右が「白ざつま」の演題で東京に移植したといわれます。明治29年(1896)に、円右と同門の円朝門下で、当時上方で活躍していた二代目三遊亭円馬(1918年没)が「白ざつま」の題で口演した速記が残ります。

東京ではその後あまり演じ手はなく、途絶えていたのを十代目金原亭馬生が元の「白ざつま」の題で復活しました。桂歌丸も手掛けていました。

白薩摩

薩摩がすりは本来は琉球(沖縄)産。

薄い木綿織物で、白地のものは夏の浴衣などに用いられます。「佃祭」の次郎兵衛もこれを着ていたのが原因で、幽霊に見違えられました。

死人の経帷子は、普通、絹もしくは麻で作るので材質は違いますが、同じ単衣で白地ということで、その上ザンバラ髪なので、幽霊と間違えるのは無理もありません。

【語の読みと注】
経帷子 きょうかたびら

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よかちょろ【よかちょろ】演目

【RIZAP COOK】

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なんだか意味不明の「よかちょろ」。道楽息子の噺です。

別題:山崎屋・上

あらすじ

若だんなの道楽がひどく、一昨日使いに行ったきり戻らないので、だんなはカンカン。

番頭に、おまえが信用しないとよけい自棄になって遊ぶからと、与田さんの掛け取りにやるように言ったのがいけないと、八つ当たり。

今日こそみっちり小言を言うから、帰ったら必ず奥へ寄越すように、言いつける。

実はこっそり帰っている若だんな、おやじが奥へ入るとちゃっかり現れ、番頭にさんざん花魁のノロケを聞かせた挙げ句、ずうずうしくも、これからおやじに意見してくるという。

「おやじは、癇癪持ちだから、すぐ煙管の頭でポカリとくるが、あたしの体は花魁からの預かり物で、顔に傷をつけるわけにはいかない。もし花魁が傷のわけを知ったら『なんて親です。おやじというのは人間の脱け殻で、死なないように飯をあてがっとけばいいんです。そういうおやじは片づけてくださいッ』」

興奮してきて番頭の首を締め上げ、大声を出すので奥に筒抜けで、
「番頭ォ」
とどなる声。

「あたしがやりこめて、煙管が飛んできたら体をかわすから、おまえが代わりに首をぬっと出しな」
「ご免こうむります」

嫌がるのをぽかりとなぐり、一回二円で買収し、おやじの前へ。

「おとっつぁん、ご機嫌よろしゅう」
「ちっともご機嫌よくないッ。黙って聞いてりゃいい気になりゃあがってッ。おまえみたいなのは、兄弟があれば家に置く男じゃないんだ」

与田さんとこで勘定は取ってきたかと追及すると、確かに十円札で二百円もらったが、使っちまったと、いう。

おやじ、唖然として、
「たった一日や半日で二百円の大金を使い切れるものじゃない」
と言うと、
「ちゃんと筋道の通った、むだのない出費です」
と、譲らない。

いよいよ頭に来て
「なら、内訳を言ってみろ。十銭でも計算が違ったら承知しないからな」

若だんな、いわく、
「まず髭剃り代が五円」

大正のそのころで、一人三十銭もあれば顔中髭でもあたってくれる。

「おとっつぁんのは普通の床屋で、あたしのは、花魁が『あたしが湿してあげます。こっちをお向きなさいったら』って」
と、おやじの顔をグイと両手でこっちへ向けたから、おやじは毒気を抜かれてしまう。

あとは
「『よかちょろ』を四十五円で願います」

「安くてもうかるものだ」
というので、
「ふうん、おまえはそれでも商人のせがれだ。あるなら見せなさい」
「へい。女ながらもォ、まさかのときはァ、ハッハよかちょろ、主に代わりて玉だすきィ……しんちょろ、味見てよかちょろ、しげちょろパッパ。これで四十五円」

あきれ返って、そばの母親に
「二十二年前に、おまえの腹からこういうもんができあがったんだ。だいたいおまえの畑が悪いから」
「おとっつぁんの鍬だってよくない」
と、ひともめ。

「孝太郎が自分の家のお金を喜んで使ってるんだから、それをお小言をおっしゃるのはどういう料簡です。それに、あなたと孝太郎は年が違います」
「親子が年が同じでたまるかい」
「いいえ、あなたも二十二のときがありました。あなたが二十二であたしが十九で、お嫁に来たとき三つ違い。今でも三つ違い」
「なにを、ばかなことを言ってるんだ」

これから若だんな勘当とあいなる。

底本:八代目桂文楽

しりたい

遊三、文楽

「山崎屋」の発端部分を、初代三遊亭遊三が明治20年(1887)前後に、当時流行の「よかちょろ節」を当て込んで滑稽落語に改作したものですが、現在では別話と見なされます。

遊三以後はほとんど演じ手がなく、昭和以後は八代目桂文楽の独壇場でしたが、その没後は継承者はいません。

遊三では、このあと、母親が父親とのなれそめをえんえんとのろけたあげく夫婦げんかになり、おやじが今聞いた「よかちょろ」の歌詞をもう忘れているというので、「パッパというところがありますよ。お父さんパッパ」「ハッハ、よかちょろパッパ」となっていますが、わかりづらい(英語のパパ=パッパを効かしたものか?)ので、文楽が以下をカットしています。

文楽晩年の演出ではオチはありませんが、かつては、若だんながこれ以外の出費を並べて二百円ちょうどにしたので、おやじがケムにまかれて「うん、してみると無駄が少しもない」と落とすやり方もありました。

山崎屋

長編で、道楽者の若だんなが番頭の知恵でおやじをだまし、めでたく吉原の花魁を身請けしてかみさんにするという筋です。

「よかちょろ」のもとになった発端部分は、若だんなの花魁のノロケを、そっくり小僧がまねしてしかられる、というたわいないお笑いです。本体の「山崎屋」でも、この部分はかなり早くから演じられなくなっていました。

よかちょろ節

明治21年(1888)ごろ流行した俗曲です。

芸者だませば七代たたる
パッパよかちょろ
たたるはずだよ猫じゃもの
よかちょろ
スイカズワノホホテ
わしが知っちょる
知っちょる
言わでも知れちょるパッパ

こういう歌詞が伝わりますが、意味は不明。

この噺のとは違いますが、とにかく「パッパよかちょろ」が付けばいいとかなり替え歌ができたようです。

「よか」と「ちょろ」

「よかちょろ」の「ちょろ」は、東京ことばの「ちょろ」または「ちょろっか」で、「安易」「たやすい」の意味。

「よか」は薩摩なまりに引っかけたものでしょう。つまり、「いいよいいよ、ちょろいもんだ」ということ。

遊三の現存の速記は明治40年(1907)のものです。噺中の替え歌「女ながらも……」の元唄は不明で、おそらく内容から、日清か日露の戦時中のものと思われます。

スイカズワ

「猫」は芸者の異称で、猫皮の三味線を商売道具にし、客を「化かす」ところから。「スイカズワのホホテ」は、おそらく「すいかづら(忍冬=ツルクサ、カヅラの一種)の這うて」の誤記・誤聞で、ツルクサが長く這うように、相手をずっと思い続ける意味なのでしょう。「玉かづら→這(延)う」は万葉時代からの代表的な枕詞です。

「いいよいいよ、おまえたちの仲はお見通しだ。ワシがなにもかにものみこんでいるから心配するな」という内容の、粋な唄ですね。

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とうなすやせいだん【唐茄子屋政談】演目

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若だんな。放蕩の行き着く果てはかぼちゃ売り。人生のお楽しみはこれからです。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

あらすじ

若だんなの徳三郎。

吉原の花魁に入れ揚げて家の金を湯水のように使うので、おやじも放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当だと言い渡される。

徳三郎は蛙のツラになんとやら。

「勘当けっこう。お天道(てんと)さまと米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」

威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だと、体よく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」と、ケンもほろろ。

もう土用の暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。

おまけに夕立でずぶ濡れ。

吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。

つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所の達磨(だるま)横丁で大家をしているおじさん。

止めようとして顔を見ると甥の徳。

「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」
「アワワ、助けてください」
「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
「お天道様はついて回るけど、米の飯はついて回らない」
「ざまあみやがれ」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。

翌朝。

おじさん、唐茄子を山のように仕入れてきた。

「今日からこれを売るんだ」

格好悪いとごねる徳を
「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」
としかりつけ、天秤棒(てんびんぼう)を担がせると、弁当は商いをした家の台所を借りて食えと、教えて送りだす。

徳三郎、炎天下を、重い天秤棒を肩にふらふら。

浅草の田原町まで来ると、石につまづいて倒れ、動けない。

見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋の者に売りさばいてくれ、残った唐茄子は二個。

礼を言って、売り声の稽古をしながら歩く。

吉原田んぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店。

裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当を遣っていると、五つばかりの男の子が指をくわえ、
「おまんまが食べたい」

事情を聞くと、亭主は元侍で今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされないと、いう。

同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。

聞いたおじさん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。

あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家に出くわし、金を店賃に取られてしまったという。

八百屋さんに申し訳ないと、女はとうとう首くくり。

聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。

長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。

おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青ざし五貫文のほうび。

めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうにはお奉行さまは登場しません。

「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右、三代目柳家小さんという三遊派、柳派を代表する名人が得意にしました。

大正13年(1924)刊行の、晩年の小さんの速記が残っていますが、滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若だんなの唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。

五代目小さんは手掛けず、現在は柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。

古くは、女はそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬、八代目林家正蔵(彦六)もしばしば演じていました。

志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。

叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。

円生は饒舌で、徳がおやじの愚痴をひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。

キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。

若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。この古い江戸ことばは、語源が「お履物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。

履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あづまばし。架橋は安永3年(1774)。元は大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形一-三丁目、吾妻橋一丁目、本所三丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草四丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。

誓願寺は、浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、十五の塔頭を持つ大寺院でしたが、現在は府中市の多磨霊園正門前に移転しています。

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やくばらい【厄払い】演目

【RIZAP COOK】

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いまはすたれた「おはらい」をネタにした噺。興味津々の話題ですね。

【あらすじ】

頭が年中正月の与太郎。何をやらせてもダメなので、伯父おじさん夫婦の悩みの種。

当人に働く気がまるでないのだから、しかたがない。

おふくろを泣かしちゃいけないと説教し、
「今夜は大晦日おおみそかだから、厄払いを言い立てて回って、豆とお銭をもらってこい」
と言う。

小遣こづかいは別にやるから、売り上げはおふくろに渡すよう言い聞かせ、厄落やくおとしのセリフを教える。

「あーらめでたいな、めでたいな、今晩今宵のご祝儀に、めでたきことにて払おうなら、まず一夜明ければ元朝の、かどに松竹、注連飾しめかざり、床に橙鏡餅だいだいかがみもち蓬莱山ほうらいさんに舞い遊ぶ、鶴は千年、亀は万年、東方朔とうほうさくは八千歳、浦島太郎は三千年、三浦の大助百六ツ、この三長年が集まりて、酒盛りをいたす折からに、悪魔外道げどうが飛んで出で、妨げなさんとするところ、この厄払いがかいつかみ、西の海へと思えども、蓬莱山のことなれば、須弥山の方へ、さらありさらり」
というものだが、伯父さんの後について練習しても文句が覚えられないので、紙に書いてもらって出かける。

表通りで
「ええ、こんばんは」
「なんだい」
「厄払いでござんす」
「もう払ったよ」
「もういっぺん払いなさい」
「なにを言やがる!」

別の厄払いに会ったので
「おいらも連れってくれ」
「てめえを連れてっても商売にならねえ」
「おまえが厄ゥ払って、おいらが銭と豆をもらう」

追っ払われて
「えー、厄払いのデコデコにめでたいの」
とがなって歩くと、おもしろい厄払いだと、ある商家に呼び入れられる。

前払いで催促し、おひねりをもらうと、開けてみて
「なんだい、一銭五厘か。やっぱりふところが苦しいか」
「変なこと言っちゃいけない」

もらった豆をポリポリかじり、茶を飲んで
「どうも、さいならッ」
「おまえはなにしに来たんだ」
とあきれられ、ようやく「仕事」を思い出す。

表戸を閉めさせて「原稿」を読み出すが、つっかえつっかえではかどらない。

「あらあらあら、荒布、あらめでたいな。あら、めでたいなく」
「おい、めでたくなくちゃいけない」
「くの字が大きいんだ。鶴は十年」
「鶴は千年だろ」
「鶴の孫」
「それだって千年だ」
「あ、チョンが隠れてた。鶴は千年。亀は……あの、少々うかがいます」
「どなたで?」
「厄払いで」
「まだいやがった。なんだ」
「向こうの酒屋は、なんといいます」
「万屋だよ」
「ええ、亀はよろず年。東方」

ここまで読むと、与太郎、めんどうくさくなって逃げ出した。

「おい、表が静かになった。開けてみな」
「へい。あっ、旦那、厄払いが逃げていきます」
「逃げていく? そういや、いま逃亡(=東方)と言ってた」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

「黒門町」の隠れ十八番  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、文化年間(1804-18)から口演されてきました。東西ともに演じられますが、上方の方はどちらかというとごく軽い扱いで、厄払いのセリフをダジャレでもじるだけのもの。オチは「よっく挟みまひょ」で、「厄払いまひょ」の地口です。

明治34年(1901)の四代目柳亭左楽りゅうていさらくの速記では、「とうほうさく」のくの字が「く」か「ま」か読めず、「とうほうさま、とうほうさく」とうなっていると、客「弘法さまの厄除けのようだ」、与太郎「百よけいにもらやあ、オレの小遣いになる」とダジャレの連続でオチています。

昭和期では、たまに八代目桂文楽(黒門町くろもんちょうの師匠)が機嫌よく演じ、これも隠れた十八番の一つでした。文楽没後は、三笑亭夢楽も得意にしました。以後、若手もけっこう手がけていましたが、音源は文楽、夢楽のほか古くは初代桂春団治のレコードがあり、米朝、小三治もCDに入れていました。

一年を五日で暮らす厄払い  【RIZAP COOK】

古くは節分だけの営業でしたが、文化元年(1804)以後は正月六日と十四日、旧暦十一月の冬至、大晦日と、年に計五回、夜にまわってくるようになりました。この噺では大晦日の設定です。古くは、厄年の者が厄を落とすため、個人個人でやるものでしたが、次第に横着になり、代行業が成り立つようになったわけです。

もっとも、個人でする厄落としがまったくなくなったわけではなく、人型に切り抜いた紙で全身をなで、川へ流す、また、大晦日にふんどしに百文をくくり、拾った者に自分の一年分の厄を背負わせるといった奇習もありました。要は、フンドシが包んでいる部分は、体中でもっとも男の厄と業がたまっているから、というわけです。

江戸の厄落としは「おん厄払いましょう、厄落とし」と、唄うように町々を流し、それが前口上になっています。文句は京坂と江戸では多少異なり、江戸でも毎年、また節季ごとに変えて工夫しました。厄落としの祝詞は、もとは平安時代に源を発する厄除けの呪文・追儺祭文ついなさいもんからきたといわれています。

前口上で家々の気を引いて、呼び込まれると門付かどづけで縁起のいい七五調の祝詞のりとを並べます。いずれも「あーらめでたいな、めでたいな」で始まり、終わりに「西の海とは思えども、東の海へさらーり」の決まり文句で、厄を江戸湾に捨て流して締めます。祝儀しゅうぎを余計はずむと、役者尽くし、廓尽くしなど、スペシャルバージョンを披露することもありました。

こうなると縁起ものというより、万歳まんざい同様、一種の芸能、エンターテインメントでしょう。祝儀は、江戸期では十二文、明治期では一銭から二銭をおひねりで与え、節分には、それに主人の年の数に一つ加えた煎り豆を、他の節季には餅を添えてやるならわしでした。

『明治商売往来』(仲田定之助、ちくま文庫)」に言及がありますが、1888年(明治21)生まれの仲田でさえ、記憶が定かでないと述べているので、おそらく明治30年代終わりには、もういなくなっていたのでしょう。

こいつぁ春から  【RIZAP COOK】

歌舞伎で、河竹黙阿弥かわたけもくあみの世話狂言「三人吉三さんにんきちざ」第二幕大川端おおかわばたの場の「厄落やくおとし」のセリフは有名です。夜鷹よたかのおとせが、前夜の客で木屋の手代てだい十三郎じゅうざぶろうが置き忘れた百両の金包みを持って、大川端をうろうろしているところを、親切ごかしで道を教えた女装の盗賊・お嬢吉三に金を奪われ、川に突き落とされます。ここで七五調の名セリフ。

月もおぼろに白魚しらうお
かがりもかすむ春の空冷てえ風もほろ酔いに
心持ちよくうかうかと浮かれがらすのただ一羽
ねぐらへ帰る川端でさおしずくか濡れ手であわ
思いがけなく手に入る百両

懐の財布を出し、にんまりしたところで、「おん厄払いましょう、厄落とし」と、厄払いの口上の声。

ほんに今夜は節分か
西の海より川の中落ちた夜鷹は厄落とし
豆だくさんに一文の
銭と違って金包み
こいつぁ春から(音羽屋!)縁起がいいわえ

「西の海」の厄払いの決まり文句、豆と一文銭というご祝儀の習慣がちゃんと読み込まれた、心憎さです。

こんなぐあいですから、歌舞伎の世界ではすらすら流れる名調子を「厄払い」と言っているそうです。

東方朔  【RIZAP COOK】

東方朔(BC154-)は中国・前漢の人。西王母(仙人)の、三千年に一度実る桃を三個も盗み食いし、人類史上ただ一人、不老不死の体になった人。李白の詩でその超人ぶりを称えられ、能「東方朔」では仙人として登場します。漢の武帝に仕え、知略縦横、また万能の天才、漫談の祖としても知られました。BC92年、62歳で死んだと見せかけ、以後、仙人業に専念。2175歳の今も、もちろんまだご健在のはずです。ただし、捜し出して桃のありかを吐かせようとしても、次に実るのはまだ千年も先ですので、ムダでしょう。

三浦の大助百八つ  【RIZAP COOK】

平安末期の武将、三浦義明(1092-1180)のこと。相模の有力豪族、三浦氏の総帥で、治承2年(1178)、源頼朝の挙兵に応じましたが、石橋山の合戦で頼朝が敗北後、居城の衣笠城きぬがさじょう籠城ろうじょう。一族の主力を安房あわに落とし、自らは敵勢を引き受け、城を枕に壮絶な討死を遂げました。実際には88歳までしか生きませんでしたが、古来まれな長寿者として、誇張して伝承され、「三浦大助」として登場する歌舞伎「石切梶原いしきりかじわら」では106歳とされています。厄払いでは「みうらのおおすけ」と発音されます。

【RIZAP COOK】

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どうぐや【道具屋】演目

【RIZAP COOK】

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 ご存じ、与太郎の商売。屑物売りで抱腹絶倒の笑い話が生まれます。

別題:道具の開業 露天の道具屋

あらすじ

神田三河町かんだみかわちょうの大家、杢兵衛もくべえおいの与太郎。

三十六にもなるが頭は少し鯉のぼりで、ろくに仕事もしないで年中ぶらぶらしている。

この間、珍しくも商売気を出し、伝書鳩を売ったら、自分の所に帰ってくるから丸もうけだとうまいことを考えたが、鳥屋に帰ってしまってパー、という具合。

心配したおじさん、自分が副業に屑物くずものを売る道具屋をやっているので、商売のコツを言い聞かせ、商売道具一切を持たせて送り出す。

その品物がまたひどくて、おひなさまの首が抜けたのだの、火事場で拾った真っ赤にびたのこぎりだの、はいてひょろっとよろけると、たちまちビリッと破れる「ヒョロビリの股引ももひき」だので、ろくなものがない。

「元帳があるからそれを見て、倍にふっかけて後で値引きしても二、三銭のもうけは出るから、それで好きなものでも食いな」
と言われたので、与太郎、早くも舌なめずり。

やってきたのが蔵前の質屋、伊勢屋の脇。

煉瓦塀れんがべいの前に、日向ぼっこしている間に売れるという、昼店の天道干てんとぼしの露天商が店を並べている。

いきなり
「おい、道具屋」
「へい、なにか差し上げますか」
「おもしれえな。そこになる石をさしあげてみろい」

道具屋のおやじ、度肝を抜かれたが、ああ、あの話にきいている杢兵衛さんの甥で、少し馬……と言いかけて口を押さえ、品物にはたきをかけておくなど、商売のやり方を教えてくれる。

当の与太郎、そばのてんぶら屋ばかり見ていて、上の空。

最初の客は、大工の棟梁とうりゅう

釘抜きを閻魔えんまだの、ノコが甘いのと、符丁ふちょうで言うからわからない。

火事場で拾った鋸と聞き、棟梁は怒って行ってしまう。

「見ろ、小便されたじゃねえか」

つまり、買わずに逃げられたこと。

次の客は隠居。

唐詩選とうしせん」の本を見れば表紙だけ、万年青おもとだと思ったらシルクハットの縁の取れたのと、ろくな代物がないので渋い顔。

毛抜きを見つけてひげを抜きはじめ、
「ああ、さっぱりした。伸びた時分にまた来る」

その次は車屋。

股引きを見せろと言う。

「あなた、断っときますが、小便はだめですよ」
「だって、割れてるじゃねえか」
「割れてたってダメです」

これでまた失敗。

お次は田舎出の壮士風。

「おい、その短刀を見せんか」

刃を見ようとするが、錆びついているのか、なかなか抜けない。

与太郎も手伝って、両方からヒノフノミィ。
「抜けないな」
「抜けません」
「どうしてだ」
「木刀です」

しかたがないので、鉄砲を手に取って
「これはなんぼか」
「一本です」
「鉄砲の代じゃ」
かしです」
「金じゃ」
「鉄です」
「ばかだな、きさま。値じゃ」
「音はズドーン」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

円朝もやった  【RIZAP COOK】

古くからある小咄を集めてできたものです。

前座の修行用の噺とされますが、三遊亭円朝(1839-1900)の速記も残っています。「大」円朝がどんな顔でアホの与太郎を演じたのか、ぜひ聴いてみたかったところです。

切り張り自在  【RIZAP COOK】

小咄の寄せ集めでどこで切ってもよく、また、新しい人物(客)も登場させられるため、寄席の高座の時間調整には重宝がられます。したがって、オチは数多くあります。

明治の初代三遊亭円遊のは、小刀の先が切れないので負けてくれと言われ、「これ以上負けると、先だけでなく元が切れない(=原価割れ)」というものです。

そのほか、隠居の部分で切ったり、小便されたくだりで切ることもあります。侍の指が笛から抜けなくなり、ここぞと値をふっかけるので「足元を見るな」「手元を見ました」というもの、その続きで、指が抜けたので与太郎があわてて「負けます」と言うと、「抜けたらタダでもいやだ」とすることも。

八代目林家正蔵(彦六)は、侍の家まで金を取りに行き、格子に首をはさんで抜けなくなったので、「そちの首と、身どもの指で差っ引きだ」としていました。

天道干し  【RIZAP COOK】

てんとうぼし。露天の古道具商で、昼店でむしろの上に古道具、古書、荒物あらものなどを敷き並べただけの零細れいさいな商売です。

実態もこの噺に近く、ほとんどゴミ同然でロクなものがなかったらしく、お天道さまで虫干しするも同様なのでこの名がつきました。品物は、古金買いなどの廃品回収業者から仕入れるのが普通です。

こうした露天商に比べれば、「火焔太鼓かえんだいこ」の甚兵衛などはちゃんとした店舗を構えているだけ、ずっとましです。

くすぐりあれこれ  【RIZAP COOK】

与太郎が伯父おじさんに、ねずみの捕り方を教える。
「わさびおろしにオマンマ粒を練りつけてね、ねずみがこう、夜中にかじるでしょ。土台がわさびおろしだからねずみがすり減って、朝には尻尾だけ。これがねずみおろしといって」

三脚を買いに来た客に。
「これがね、二つ脚なんで」
「それじゃ、立つめえ」
「だから、石の塀に立てかけてあるんです。この家に話して、塀ごとお買いなさい」

五代目柳家小さんでは、隠居が髭を剃りながら与太郎の身の上を
「おやじの墓はどこだ」
まで長々聞く。

これを二回繰り返し、与太郎がそっくり覚えて先に言ってしまうという、「うどんや」の酔っ払いのくだりと同パターンのリピートくすぐり。

弓と太鼓で「どんかちり」  【RIZAP COOK】

意外なことですが、落語には「弓矢」があまり出てきません。刀剣と違って弓矢は、町民には縁遠いものだったのでしょうか。ところが、浅草などの盛り場には「土弓場どきゅうば」という店がありました。土を盛ったあづちに掛けた的を「楊弓ようきゅう」で射る遊びを客にさせる店です。

土弓場は、寛政年間(1789-1801)には「楊弓場ようきゅうば」と混同していました。土弓場は「矢場やば」とも。客を接待する店の女はときに売春もしました。男たちは弓よりもこっちが目的だったのですね。この女たちを「矢場女」「土弓むす」「矢取り女」などと呼びました。

店はおしなべて、寺社仏閣の境内に設けた「葭簀張よしずばり」にあったそうです。葭簀張りというのは「ヒラキ」といわれていた、簡易な遊芸施設です。葭簀張りというのがその施設名だったのです。明治中頃まで栄えていました。

土弓場は「どんかちり」とも呼ばれていました。店でつるした的の後ろに太鼓をつるし、弓が的に当たると後ろの太鼓が「かちり」と鳴り、はずれると「どん」と鳴るため、二つ合わせて「どんかちり」と。転じて、歌舞伎囃子でも「どんかちり」と呼びました。弓と太鼓は性的な連想をたやすく膨らませてくれます。

土弓場へ けふも太鼓を 打ちに行き   十三30

江戸人はこうも暇だったのでしょうか。今なら駅前のパチンコ店に繰り出すようなものでしょう。もうそれもないか。吉原に行くには少々覚悟がいるような手合いが、安直に出入りできる遊び場だったと想像できます。

混同された「楊弓」についても記しておきます。

こちらは、長さ2尺8寸(約85cm)の遊び用の小弓のことです。古くは楊柳ようりゅう、つまりはやなぎの木でつくっていたからだそうです。雀を射ることもあったため、雀弓すずめゆみとも呼ばれていました。

唐の玄宗が楊貴妃と楊弓をたのしんだ故事があります。そこで江戸の人は、楊弓は中国から渡来したものと思っていました。いずれにしても、9寸(約27cm)の矢を、直径3寸(約9cm)の的に向けて、7間半(約13.5m)離れて座ったまま射る遊びです。

その歴史は古く、平安時代には子供や女房の遊び道具でした。室町時代でも公家の遊び道具で、七夕行事にも使われたそうです。江戸時代になると、広く伝わって各所で競技会も開かれました。

寛政年間(1789-1801)には、寺社の境内や盛り場に「楊弓場」が登場。これは主に上方での呼称だったようです。江戸ではこの頃になると「土弓場」と混同されていきます。江戸では「矢場」とも呼ばれて、土弓場とごちゃごちゃに。

金紙張りの1寸の的、銀紙張りの2寸の的などを使って、賭け的遊びもしたそうですが、賭博までは発達しなかったといいます。理由は安易に想像できます。モノの出来具合がヤワで粗末だったからでしょうね。

それよりも、矢場は矢取り女という名の私娼の表看板になっていきました。男たちの主眼はこっちに移ったのです。江戸の遊び人は女性の陰部を的にたとえてにんまりしたわけです。となると、上の川柳も意味深です。

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こうこうとう【孝行糖】演目

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親孝行の与太郎が飴屋に。長屋総出で応援する社会更生の麗しい一編。

あらすじ

今年二十一になるが、頭の中が少々薄暮状態の与太郎。

親孝行のほうびに、お上から青ざし五貫文をちょうだいした。

大家がこれを機会に、この金を元手にして、なんとか与太郎の身の立つように小商いでも考えてやりたいと、長屋の衆に相談する。

一人が、昔、役者の嵐璃寛と中村芝翫の顔合わせが評判を呼んだのに当て込んで、璃寛糖と芝翫糖という飴を売り出してはやらせた人がいるから、それにならって、与太郎に飴を売らせたらどうか、と提案。

璃寛糖は、頭巾をかぶり鉦と太鼓を前につるして、
「チャンチキチン、スケテンテン」
というのを合い方に、
「璃寛糖の本来は、粳の小米に寒晒し、榧ァに銀杏、肉桂に丁字」
と歌って歩いたもの。

今回、与太郎は孝行でほうびをもらったのだから、名前も「孝行糖」、文句はそっくり借りることにしよう、というので一同賛成し、それからというもの、総出で与太郎に歌を暗記させた。

ナントカの一つ覚えで、かえって普通の人より早く覚えたので、町内で笛、太鼓、身なりともにそっくりしたくしてやって、与太郎はいよいよ飴売りに出発。

親孝行の徳か、この飴を買って食べさせると子供が孝行になるという噂が広がって大評判。

売れると商売にも張り合いが出るもので、与太郎、雨の日も風の日も休まず、
「スケテンテン、コーコートー」
と流して歩く。

ある日、相変わらず声を張り上げながら、水戸さまの屋敷前を通りかかる。

江戸市中で一番やかましかったのがここの門前で、少しでもぐずぐずしていると、たちまち門番に六尺棒で「通れ」と追い払われる。

ところがもとより与太郎、そんなことは知らないから、能天気に
「孝行糖の本来は、粳の小米に寒ざらし……」
とやったから、門番、
「妙な奴が来たな。とおれっ」
「むかしむかし、もろこしの、二十四孝のその中で」
「行けっ」
「食べてみな、おいしいよ」
「ご門前じゃによって鳴り物はあいならん」
「チャンチキチン」
「ならんというんだ」
「スケテンテン」
「こらっ」
「テンドコドン」

……叱言を鳴り物の掛け声に使ったから、たちまち六尺棒でめった打ち。

通りかかった人が、
「逃げろ、逃げろ……どうぞお許しを。空ばかでございますが、親孝行な者……これこれ、こっちィこい」
「痛えや、痛えや」
「痛いどころじゃねえ。首斬られてもしょうがねえんだ。……どこをぶたれた」
と聞くと与太郎、頭と尻を押さえて
「ココォと、ココォと」

底本:三代目三遊亭金馬

しりたい

実在した与太郎

孝行糖売りは明治初期、大阪にいたという説がありますが、実はそのずっと以前、弘化3年(1846)2月ごろから藍鼠色の霜降に筍を描いた半纏を着て、この噺の与太郎とまったく同じ唄をうたいながら江戸の町を売り歩いていた飴屋がいたことが、『藤岡屋日記』に記されています。政商だった藤岡屋由蔵の見聞記です。まず、当人に間違いありません。

青ざし五貫文

「唐茄子屋政談」「松山鏡」にも登場しますが、銭五貫文は幕末の相場でおよそ一両一分。四千八百文にあたります。

それを青く染めた麻縄の銭挿しに通して、孝行の褒美に町奉行より下されます。

水戸さまの屋敷前

水戸藩の上屋敷。現在の後楽園遊園地、東京ドーム、小石川後楽園、飯田橋職業安定所を含む文京区後楽一丁目全部を占めました。

このうち、東京ドームの場所には、明治維新後、陸軍砲兵工廠が建てられ、昭和12年(1937)、その移転後の跡地に旧後楽園球場が建設されました。

コワーイ門番

藩邸の門番は、一般には、身分は若党で、最下級の士分です。

水戸上屋敷は「日暮らし門」と呼ばれた華麗な正門が有名で、左甚五郎作の竜の彫刻をあしらっていました。正門から江戸川堤まで、水戸さま百軒長屋といい、ずらりと中級藩士の住む長屋が続いていました。門番だけでなく、こうした中・下級藩士による「町人いびり」も、ままあったようです。

これも上方ダネ

明治初期に作られた上方落語の「新作」といわれますが、作者は未詳。

三代目三遊亭円馬が東京に移植、戦後は三代目金馬の十八番として知られ、四代目金馬が継承して得意にしています。「本場」の大阪では、現在は演じ手がないようです。

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ふなとく【船徳】演目

【RIZAP COOK】

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勘当若だんなの噺。船頭にあこがれる道楽の過ぎた野郎は見上げたもんです。

別題: お初徳兵衛

あらすじ】 【RIZAP COOK】

道楽が過ぎて勘当され、柳橋の船宿・大枡(だいます)の二階で居候の身の上の若だんな、徳兵衛。

暇をもてあました末、いなせな姿にあこがれて「船頭になりたい」などと、言いだす始末。

親方始め船宿の若い者の集まったところで「これからは『徳』と呼んどくれ」と宣言してしまった。

お暑いさかりの四万六千日。

なじみ客の通人が二人やってきた。あいにく船頭が出払っている。

柱に寄り掛かって居眠りしている徳を認めた二人は引き下がらない。

船宿の女将が止めるのもきかず、にわか船頭になった徳、二人を乗せて大棧橋までの約束で舟を出すことに。

舟を出したのはいいが、同じところを三度も回ったり、石垣に寄ったり。

徳「この舟ァ、石垣が好きなんで。コウモリ傘を持っているだんな、石垣をちょいと突いてください」

傘で突いたのはいいが、石垣の間に挟まって抜けずじまい。

徳「おあきらめなさい。もうそこへは行きません」

さんざん二人に冷や汗をかかせて、大桟橋へ。

目前、浅瀬に乗りあげてしまう。

客は一人をおぶって水の中を歩いて上にあがったが、舟に残された徳、青い顔をして「ヘッ、お客さま、おあがりになりましたら、船頭を一人雇ってください」

底本:八代目桂文楽

しりたい】 【RIZAP COOK】

文楽のおはこ   【RIZAP COOK】

八代目桂文楽の極めつけでした。

文楽以後、無数の落語家が「船徳」を演じていますが、はなしの骨格、特に、前半の船頭たちのおかしみ、「四万六千日、お暑い盛りでございます」という決め文句、客を待たせてひげを剃る、若旦那船頭の役者気取り、舟中での「この舟は三度っつ回る」などのギャグ、正体不明の「竹屋のおじさん」の登場などは、刷り込まれたDNAのように、どの演者も文楽に右にならえです。

ライバルの五代目古今亭志ん生は、前半の、若旦那の船頭になるくだりは一切カットし、川の上でのドタバタのみを、ごくあっさりと演じていました。

この噺は元々、幕末の初代志ん生作の人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」発端を、明治の爆笑王・鼻の円遊こと初代三遊亭円遊がパロディ化し、こっけい噺に仕立てたものです。

元の心中がらみの人情噺は、五代目志ん生が「お初徳兵衛」として時々演じました。

四万六千日さま   【RIZAP COOK】

浅草の観世音菩薩の縁日で、旧暦7月10日にあたります。現在の8月なかば、もちろん猛暑のさ中です。

この日にお参りすれば、四万六千日(約128年)毎日参詣したのと同じご利益が得られるという便利な日です。なぜ四万六千日なのかは分かりません。

この噺の当日を四万六千日に設定したのは明治の三代目柳家小さんといわれます。

「お初徳兵衛浮名桟橋」のあらすじ   【RIZAP COOK】

(上)勘当された若旦那・徳兵衛は船頭になり、幼なじみの芸者お初を送る途中、夕立に会ったのがきっかけで関係を結ぶ。

(中)ところが、お初に横恋慕する油屋九兵衛の策謀で、徳兵衛とお初は心中に追い込まれる。

(下)二人は死に切れず、船頭の親方のとりなしで徳兵衛の勘当もとけ、晴れて二人は夫婦に。

竹屋のおじさん   【RIZAP COOK】

客を乗せて船出した後、徳三郎が「竹屋のおじさあん、今からお客を 大桟橋まで送ってきますゥッ」と橋上の人物に呼びかけ、このおじさんなる人が、「徳さんひとりかいッ?大丈夫かいッ?」と悲痛に絶叫して、舟中の旦那衆をふるえあがらせるのが、「船徳」の有名なギャグです。

「竹屋」は、今戸橋の橋詰、向島に渡す「竹屋の渡し」の山谷堀側にあった、同名の有名船宿を指すと思われます。

端唄「夕立や」に「堀の船宿、竹屋の人と呼子鳥」という文句があります。

渡船場に立って、「竹屋の人ッ」と呼ぶと、船宿から船頭が艪を漕いでくるという、夏の江戸情緒にあふれた光景です。

噺の場面も、多分この唄からヒントを得たものでしょう。

舫う

舟を岸につなぎとめておくこと。

「おい、なにやってんだよ。舟がまだもやってあるじゃねえか。いや、まだつないであるってんだよ」

古今亭志ん朝

「舫う」という古めかしい言葉が「繋ぐ」意味だということを客の話しぶりで解説していることろが秀逸でした。

東北風

東日本の海沿いで吹く、冬の寒い風。東北地方から三重県あたりまでのおおざっぱな一帯で吹きます。

「あーた、船頭になるって簡単におっしゃいますけどね、沖へ出て、東北風ならいにでもごらんなさい。驚くから」

古今亭志ん朝

知っている人は知っている言葉、としか言いようがありません。知らない人はこれを機会に。落語の効用です。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

【船徳 古今亭志ん朝】

いえみまい【家見舞】演目

【RIZAP COOK】

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物語を知れば、そっちのほうがしっくりくるかもしれません。

別題:祝いがめ 肥瓶 祝いの壺(上方) 雪隠壺(上方)

【あらすじ】

借金をしても義理だけは欠かないのが江戸っ子。

今度、兄貴分の竹さんが引っ越したので、日ごろ世話になっている手前、祝いの一つも贈らなくてはならないと考えた二人組。

ところが、なにを買っていいか見当がつかないので、直接本人に聞きに行く。

竹兄イが
「そんな無理をしなくてもいい」
と断るのに、
箪笥たんす長持ながもち一式はどうです?」
なんぞと大きなことを言う相棒に、
「どこにそんな金があるんだ」
と片一方はハラハラ。

ところが、ふと台所を見ると、昔はどこの家でも必需品の水瓶がなく、バケツで代用しているようす。

「さあ、これだ」
と二人、兄イが止めるのも聞かず、脱兎だっとのごとく外に飛び出した。

さっそく、ある道具屋に飛び込んで物色すると、手ごろなのがあった。

値段を聞けば二十八円。

少しばかり、いや大いに高い。

一番安いのを見ると四円。

ところが、ばかなことに、所持金額は一人が一銭、相棒は一文なし。

お互いに相手の懐を当てにしていたわけ。

しかたなく消え入りそうな声で、
「あの、もう少しまかりませんか?」
「へえ、どのくらいに?」
「あの一銭」
「ははあ、一銭お引きするんで?」
「一銭はそのまま。後の方をずーっと……」

これでは怒らない方がおかしい。

「顔を洗って出直してこい、来世になったら売ってやる」
と、おやじにケンツクを食わされた。

別の道具屋をのぞくと、またよさそうなのがある。

当たって砕けろと、おそるおそる一銭と切り出すと、
「一銭? そんな金はいらない。タダで持ってきなさい」

大喜びの二人。

さっそく、差し担いで運ぼうとすると道具屋、
「あんた方、それをなにに使いなさる?」
「水瓶だよ」
「そりゃいけねえ。見たらわかりそうなもんだ。おまえさん方、毎朝あれにまたがってるでしょう」

ん……? 毎朝またがる? 

よくよく見ると、はたしてそれは紛れもなく、便器用の肥瓶こいがめ

タダなわけだ。

と言って、今さらどうしようもない。

洗ってみても、猛烈な悪臭で鼻が曲がりそう。

しかたなく水を張ってゴマかし、引っ越し祝いに届けると、兄イは大喜び。

飯を食っていけと言われて、出てきたのが湯豆腐。

うめえ、うめえと食っているうちに、ふと気づいて二人、腰が抜けた。

「豆腐を洗った水はどこから汲んだ?」
「へえ、その、豆腐は断ってまして」
と言うと、
「それじゃ香の物はどうだ」
と出され
「そりゃいい、古漬はかくやに刻んで水に……あの、コウコも断ってます」
「なんでも断ってやがる。それじゃ焼き海苔で飯を食え」
「その飯はどこの水で炊きました?」
「決まってるじゃねえか。てめえたちがくれたあの水瓶よ」
「さいならツ」
「おい、待ちな。あの瓶が……おい、こりゃひでえおりだ。こんだ来る時、ふなァ二、三匹持ってきてくれ。鮒は澱を食うというから」
「なに、それにゃあ及ばねえ。今までコイ(肥=鯉)が入ってた」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

水瓶と肥瓶

水瓶は、明治31年(1898)に近代的な水道が敷設され始めてからも、その普及がなかなか進まなかったため、昭和に入るまでは家庭の必需品でした。

特に長屋では、共同井戸から汲んでくるにしても水道の溜枡からにしても、水をためておく容器としては欠かせません。素焼きの陶磁器で、二回火といって二度焼きしてある頑丈なものは値が張りました。噺に最初に出てくる28円のものがそれで、備前焼です。水がめより低く、口が広いのが肥がめです。五人用、三人用など、人数によって横幅・容量が異なりました。 江戸の裏長屋では、総後架そうごうか(そうこうかとも)と呼ばれた共同便所に、大型のものを埋めて使用し、トイレが各戸別になっているところでは、それぞれの裏口の突き出しに置かれました。

上方の「雪隠壺」

雪隠せんち」は東京では「せっちん」と読みますが、元々関西の言葉です。上方のやり方は、東京のものとはかなり異なり、家相を見てもらって、ここに雪隠を立てて、肥壺(肥瓶)は一回だけ使えとアドバイスされた男がもったいないと、使用後道具屋に売る場面が前に付きます。それを水がめ用に買っていった男が、新築祝いにしますが、宴会でバアサン芸者が浮かれたので、「ババ(=糞)も浮くわけや。雪隠壺へ水張った」と汚いオチになります。それをはばかってか、桂米朝は「祝いの壺」として演じました。

東京では小さん系

明治期に三代目小さんが東京に移植、改作しましたが、速記は残されていません。八代目春風亭柳枝しゅんぷうていりゅうしを経て、五代目小さんが十八番にしていました。今回のあらすじのテキストも小さんのものですが、小さんは高座では「こいがめ」で演じても、後年、レコードやCDでは「家見舞」「祝いがめ」の題名で入れていました。

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ためしざけ【試し酒】演目

【RIZAP COOK】

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今村信雄の新作。いや、ブラックの。いやいや、中国笑話だとか。紛々。

別題:英国の落話

あらすじ

ある大家の主人。

客の近江屋おうみやと酒のみ談義となる。

お供で来た下男久造きゅうぞうが大酒のみで、一度に五升はのむと聞いて、とても信じられないと言い争い。

挙げ句の果てに賭けをすることになる。

もし久造が五升のめなかったら近江屋のだんなが二、三日どこかに招待してごちそうすると取り決めた。

久造は渋っていたが、のめなければだんなの面目が丸つぶれの上、散財しなければならないと聞き
「ちょっくら待ってもらいてえ。おら、少しべえ考えるだよ」
と、表へ出ていったまま帰らない。

さては逃げたかと、賭けが近江屋の負けになりそうになった時、やっと戻ってきた久造、
「ちょうだいすますべえ」

一升入りの盃で五杯、息もつかさずあおってしまった。

相手のだんな、すっかり感服して小遣いをやったが、しゃくなので
「おまえにちょっと聞きたいことがあるが、さっき考えてくると言って表へ出たのは、あれは酔わないまじないをしに行ったんだろう。それを教えとくれよ」
「いやあ、なんでもねえだよ。おらァ、五升なんて酒ェのんだことがねえだから、心配でなんねえで、表の酒屋へ行って、試しに五升のんできただ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

今村次郎、信雄

今村信雄いまむらのぶお(1894-1959)が昭和初期にものした新作といわれています。

父は講談や落語を専門とした速記者、今村次郎いまむらじろう(1868-1937)。明治期に始まった第一次落語研究会の発起人の一人でもありました。

息子の信雄も速記者で、『落語の世界』(青蛙房せいあぼう、1956年、のち平凡社ライブラリー)などもある落語研究家でした。

諸説紛々

ところが、この噺には筋がそっくりな先行作があります。

明治の豪人落語家、初代快楽亭かいらくていブラックが明治24年(1891)3月、演芸雑誌『百花園ひゃっかえん』に速記を残した「英国えいこく落話おとしばなし」がそれです。主人公が英国ウーリッチの連隊の兵卒ジョン、のむ酒がビールになっている以外、まったく同じなのです。

このときの速記者が今村次郎ということもあり、今村信雄はこのブラックの速記を日本風に改作したのでは、と思われます。

では、オリジナルはブラックの作または英国産の笑話かというと、それも怪しいらしく、さらにさかのぼって、中国(おそらく唐代)の笑話に同パターンのものがあるともいわれます。具体的な文献ははっきりしません。

結局、この種のジョークは気の利いた文才の持ち主なら誰でも思いつきやすいということでしょう。案外、世界中に類話が分布しているのかもしれません。

小さん十八番

初演は七代目三笑亭可楽さんしょうていからくで、その可楽の演出を戦後、五代目柳家小さんが継承、ほぼ古典落語化するほどの人気作にしました。

今村信雄自身も『落語の世界』で、「今(1956年)『試し酒』をやる人は、柳橋りゅうきょう三木助みきすけ小勝こかつ、小さんの四人であるが、(中略)中で小さん君の物が一番可楽に近いので、今、先代可楽をしのぶには、小さんの『試し酒』を聞いてくれるのが一番よいと思う」と述べています。

のんべえ噺を得意にしていた人だけに、大杯たいはいをあおる場面の息の継ぎ方のうまさなど今さら言うまでもありません。

その小さん門下を中心に、現在もよく演じられ、大阪では桂米朝べいちょうの持ちネタでもありました。

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ゆうじょかい【幽女買い】演目

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遊女と幽女。ただのしゃれ。暇人の手わざでなけりゃこんな噺は始まりません。

別題:魂祭 亡者の遊興

あらすじ

急に暗いところに来てしまった太助、三月前に死んだはずの源兵衛に声をかけられてびっくり。

「おめえは確かに死んだよな」
と念を押すと
「おめえ、おれの通夜に来たろ」

太助が通夜の席で
「世の中にこんな助平で女郎買いの好きな奴はなくて、かみさんは子供を連れて出ていくし、これ幸いと女を次々に引きずり込んだはいいが、悪い病気をもらって、目はつぶれる、鼻の障子は落ちる、借金だらけで満足な葬式もできない始末だから、どっちみち地獄おちは間違いない。弔いはいいかげんにして、焼いて粉にして屁で飛ばしちまおう」
とさんざん悪口を言ったのを、当人に全部聞かれている。

死骸がまだそこにあるうちは聞こえるという。

太助、死んだ奴がどうしてこんなところにいるのか、まだわからない。

「てめえも死んだからヨ」
「おれが死んだ? はてな」

そう言われれば、かみさんが枕元で医者に
「間違いなく死にました? 生き返らないでしょうね?……先生、お通夜は半通夜にしてみんな帰しますから、あの、今晩……」
なんぞと抜かしていたのを思い出した。

「ちきしょうめッ」
と怒っても、もう後の祭り。

ここのところ飢餓や地震で亡者が多くなり、閻魔えんまの庁でも忙しくて手が回らず、源兵衛も「未決」のまま放っておかれているという。

浄玻璃じょうはりの鏡も研ぐ時間がないため、娑婆しゃば悪業あくごうがよく写らないのを幸い、そのうちごまかして極楽へ通ってしまう算段を聞き、太助も一口乗らせてもらうことにした。

お互いに死んだおかげで、すっかり病気も治って元気いっぱい。

白団子をさかなに祝杯をあげるうち、こっちにも吉原ならぬ死吉原があり、遊女でなく幽女買いができるので、ぜひ繰り込もうとうことになった。

三枚駕籠さんまいかごの代わりに早桶はやおけ大門おおもんに乗りつけると、人魂ひとだま入りの提灯ちょうちんがおいでおいで。

ここでは江戸町えどちょう冥土町めいどちょう揚屋町あげやまちはあの世町。

見世も、松葉屋は末期屋まつごや、鶴屋は首つる屋と名が変わる。

女郎はというと、張り見世からのぞくと、いやに痩せて青白い顔。

ここではそれが上玉じょうだまだとか。

女が
「ちょいとそこの新亡者しんもうじゃ、あたしが往生さしてあげるからさ」
と袖をひくので揚がると
「へいッ、仏さまお二人ッ」

わっと陰気に枕団子の付け焼きで、まず一杯。

座敷では芸者が首から数珠じゅずをぶらさげ、りんと木魚もくぎょ
「チーン、ボーン」。

幇間たいこ
「えーご陰気にひとつ」
と、坊主姿で百万遍ひゃくまんべん

お引けになると、御詠歌ごえいかが聞こえ、生あたたかい風がスーッ。

「うらめしい」
「待ってました。幽ちゃん」

夜が明けると
「『おまはんが好きになったよ』って女が離れねえ。『いっそ二人で生きたいね』『生きて花実はなみが咲くものか』なんて」
と妙なノロケ。

帰りがけにのどがかわいたので、「末期の水」を一杯のみ干し、
「やっかいになった。また来るよ」
「冥土ありがとうございます」

表へ出ると向こうから
「お迎え、お迎え」

しりたい

縁起の悪さで五つ星!

上方落語の「けんげしゃ茶屋」と並び、私(高田)としては正月の初席でやってほしい噺の双璧そうへきなのですが、立川談志のあとはなぜか、ほとんどやり手がなさそうなのが残念しごく。談志演出での、主人公二人の、地獄におちて当然の強悪ごうあくぶりには本当に感服させられました。

とりわけ、「焼いて屁で飛ばしちまう」には笑えます。

後半は、単に現実の茶屋遊びを地獄に置き換え、縁起の悪い言葉を並べただけで、ややパワーが落ちますが、談志が前半の通夜の太助の悪口あっこうと、女房と医者のちちくりあいを創作しただけで、この噺は聴くに値するものになりました。

どなたか、後半をもう少しおもしろくつくってもらえればいいのですが。

浄玻璃の鏡

地獄の閻魔えんまの庁で、亡者もうじゃ娑婆しゃばでの行状ぎょうじょうをありありと映し出す鏡。昔の鏡は金属製でくもりやすく、そのつど鏡研師かがみとぎしがせなければなりませんでした。

三枚駕籠

三枚肩さんまいかたともいい、一丁いっちょう駕籠かごに三人の駕籠舁かごかきが付き、交代で担ぎます。急用のとき、またはくるわ通いで見栄みえを張る場合などに雇いました。

お迎え

盆に、精霊流しょうりょうながしの余りをもらい歩く物ごいの声と、吉原で茶屋の者が客を迎えに来る声を掛けたものです。

古いやり方と速記

明治中期、「魂祭たままつり」の題で演じた六代目桂文治ぶんじ、「亡者もうじゃ遊興あそび」とした二代目三遊亭小円朝こえんちょうの速記が残っています。

文治では、地獄の茶屋で、隣のもてぶりに焼き餅を焼き、若い衆に文句を言う官員と職人の二人を登場させていますから、あるいはこの噺は「五人廻し」のパロディーとして作られたのかもしれません。

【幽女買い 立川談志】

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ちゃのゆ【茶の湯】演目

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お金儲けは簡単に熟せても、文化は熟しがたいもんです。

あらすじ

家督を息子に譲った大店おおだなのご隠居、小僧を一人付けて、根岸の隠居所でのんびり暮らしているが、毎日することがなく、退屈でしかたがない。

若旦那わかだんなは少し茶の湯のたしなみがあるので、いくらかは気が紛れるだろうと気を利かせて、茶室を作ってくれたが、隠居の方はまるで風流気がなく、道具なども放ったまま。

しかし、さすがに退屈に耐えかねて、まあちょっとやってみようかと小僧と相談するが、何をそろえていいのだか、二人ともとんとわからない。

青い粉ならとにかくよかろうと、買ってきたのが青黄粉あおきなこ

茶筅ちゃせんでガラガラかき回してみたものの、黄粉だから沸騰もしなければ泡も立たない。

これではしかたがないと、何か泡立つものをというので、小僧がむくの皮を買ってきた。

もともとシャボン代わりに使うものだから、これはブクブクと派手に泡ばかり。

とてものめる代物ではないが、そうしているうちに二人ともだんだんおもしろくなり、お客を呼びたくなった。

呼ばれる奴こそいい面の皮だが、みんなお店に義理があるから、渋々ながらゾロゾロやってくる。

のんでみると青黄粉に椋の皮のお茶。

一同、のどに通らず、脂汗あぶらあせをダラリダラリ。

「あのォ、口直しを」
「茶の湯に口直しはありません」

しかたなく、お茶受けの羊羹ようかんを毒消しにと、来る人来る人が羊羹ばかり食らうので、もともとケチで通った隠居のこと、こう菓子代ばかり高くついたのではたまらないと、茶菓子も自前で作ることにした。

といって、作り方など知るわけがなく、サツマ芋をして、砂糖は高いから蜜で練って、とやっているうちに、粘って型から抜けなくなる。

「ええいッ、ままよ」と灯油を塗ってスポッと抜いたからさあ、ものすごいものができあがった。

これを「利休饅頭りきゅうまんじゅう」と勝手に名づけ、羊羹の代わりにふるまったから、もう救いがない。

こんなヘドロのようなものを食わされた上、青黄粉と椋の皮では、命がいくつあっても足りないと、とうとうだれも寄りつかなくなった。

ある日、そんなこととは知らない金兵衛さんが訪ねてきたので、しばらく茶の湯をやれなかった隠居は大はりきり。

出されたものが、例の利休饅頭。

さあ、てえへんなものォ食わしゃあがったと、思わず吐き出して、残りはこっそり袂へ。

せめてお茶で口をゆすごうと、のんだが運の尽きで青黄粉と椋の皮。

慌てて便所に逃げ込み、捨てる場所はないかと見渡すと、窓の外には建仁寺垣けんにんじがきの向こうの田んぼ。

田舎道ならかまわないだろうと、垣根越しにエイッとほうると百姓の顔にベチャッ。

「あ、痛ァ、また茶の湯か」

しりたい

不運な人々

殺人的ティーパーティーに招かれる面々は、六代目三遊亭円生の演出では、手習いの師匠、豆腐屋、鳶頭とびのかしらの三人でした。

この隠居が、長屋の居付き地主、つまり地主と大家を兼ねているため、行かないと店立たなだてを食らって追い出されるので、しぶしぶながら出かけます。

「寝床」と同じ悲喜劇です。泣く子と隠居には勝てません。

青黄粉は、ウグイス餅などにまぶす青みの粉、椋の皮は石鹸の代用品で、煮ると泡立ちます。

さぞ、ものすごい代物だったでしょう。

円生、先代金馬の十八番

この犠牲者三人がそろって茶の作法を知らないので、恥をかくのがいやさに夜逃げしようとしたりするドタバタは、円生ならではのおかしさでした。

茶をのむ場面は、仕草で表現する仕方噺しかたばなしのように三人三様を演じ分けます。

茶道の心得のある人間が見るとなおおかしいでしょうと、円生は述べていますが、演ずる側も素養は必要でしょう。

若い頃、年下の円生に移してもらった先代(三代目)金馬の当たり芸でもありました。柳家小三治のも、抱腹絶倒でした。ザンネン。

【茶の湯 柳家小三治】

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なかざわどうに【中沢道二】演目 

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全編これ心学しんがく。今はすたれたべたべたのご教訓も落語で聴いてみると味わいあります。

あらすじ

江戸名物に「火事とけんかとちゅうぱら」とあるぐらい、江戸の職人は短気で、縁日などで足を踏んだ踏まれたで始終けんかばかりしている。

これを伝え聞き、少しは気を和らげてやりたいと、中沢道二という心学の先生が、はるばると京から下向してきた。

中橋なかばし寒菊かんぎくという貸席かしせきを道場に借り、「木戸銭、中銭、一切なし」というビラをまいたので、物見高い江戸者のこと、なかには、京都の田楽屋でんがくやが開店祝いにタダで食わせると勘違いする輩もいて、我も我もと押しかける。

下足番の爺さんに
「おまえさんとこの田楽はうまいかい?」
と早くも舌なめずり。

「手前どもの先生は、田楽じゃござんせん。心学でござんす」
「へえ、おい、田楽は売り切れちまって、しぎ焼きになっちまったとよ」

なんでも食えれば、後はそば屋で口直ししようと、二階へ通る。

当然、なにも食わせない。

高座へ上がってきた、頭がピカピカ光って十徳を着込んだ道二先生、ていねいにおじぎをして講義にとりかかる。

金平糖こんぺいとうの壺へ手を突っ込んで抜けなくなり、高価な壺だがしかたがないと割ってみたら、金平糖を手にいっぱい握っていたという話や、手と足が喧嘩して足がぶたれ、
「覚えてろよ。今度湯ィ入ったら、てめえに洗わせる」
という、落とし噺などで雰囲気を和らげ、本来の儒教の道徳を説こうとするが、おもしろくもなんともないので、みんな腹ぺこのまま、ぶうぶう言って帰ってしまう。

一人残された道二先生、
「どうしてこうも江戸っ子は気が短いのか」
と嘆いていると、客席にたった一人もじもじしながら残っている職人がいた。

先生喜んで
「あなたさま、年がお若いのに恐れ入りました。未熟なる私の心学が、おわかりですか」
「てやんでえ、しびれが切れて立てねえんだい」

【RIZAP COOK】

しりたい

中沢道二  【RIZAP COOK】

なかざわどうに。享保10年(1725)-享和3年(1803)、江戸中期、後期に活躍した人です。京都、西陣織元の家の出身。40歳頃に手島堵庵てじまとあんに師事し、石門心学せきもんしんがくを修め、安永8年(1779)、江戸にくだって日本橋塩町に「参前舎さんぜんしゃ」という心学道場を開き、その普及に努めました。手島は石門心学の祖、石田梅岩いしだばいがんの弟子です。ということは、中沢は石田梅岩の孫弟子。

のちに老中松平定信まつだいらさだのぶの後援を受け、全国に道場を建設、わかりやすい表現で天地の自然の理を説きました。心学については「天災」のその項をご参照ください。

実話を基に創作  【RIZAP COOK】

この噺は中沢道二の逸話を基に作ったとみられます。本来は短いマクラ噺で、ここから「二十四孝」や「天災」につなげることが多くなっています。一席にして演じたのは八代目林家正蔵(彦六)くらいでしょう。

【語の読みと注】
中っ腹 ちゅうっぱら:むかむか。いらいら
鴫焼き しぎやき:ナスのみそ田楽の別名

【RIZAP COOK】

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あおな【青菜】演目

【RIZAP COOK】

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柳家の噺。屋敷でだんなから聞きかじった「奥や」を植木職人が家で鸚鵡返し。

別題:弁慶

【RIZAP COOK】

あらすじ

さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みでだんなから「酒は好きか」と聞かれる。

もとより酒なら浴びるほうの口。

そこでごちそうになったのが、上方の柳影(やなぎかげ)という「銘酒」だが、これは実は「なおし」という安酒の加工品。

なにも知らない植木屋、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまで相伴して大喜び。

「時におまえさん、菜をおあがりかい」
「へい、大好物で」

ところが、次の間から奥さまが
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸が出まして、名を九郎判官(くろうほうがん)」
と妙な返事。

だんなもだんなで
「義経にしておきな」

これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう=九郎」、「それならよしとけ=義経」というわけ。

客に失礼がないための、隠し言葉だという。

植木屋、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房に
「やい、これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」
「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」

もめているところへ、悪友の大工の熊五郎。

こいつぁいい実験台とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押し入れに押し込み、熊を相手に
「たいそうご精がでるねえ」
から始まって、ご隠居との会話をそっくり鸚鵡返し……しようとするが……。

「青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」
「あのゴミためを通してくる風が……」
「変なものが好きだな、てめえは」
「大阪の友人から届いた柳影だ。まあおあがり」
「ただの酒じゃねえか」
「さほど冷えてはおらんが」
「燗がしてあるじゃねえか」
「鯉の洗いをおあがり」
「イワシの塩焼きじゃねえか」
「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」
「植木屋はてめえだ」
「菜はお好きかな」
「大嫌えだよ」

タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。

ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて
「しょうがねえ。食うよ」
「おーい、奥や」

待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が転げ出し、
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」
と、先を言っちまった。

亭主は困って
「うーん、弁慶にしておけ」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

青菜とは   【RIZAP COOK】

東京(江戸)では主に菜といえば、一年中見られる小松菜をいいます。冬には菜漬けにしますが、この噺では初夏ですから、おひたしにでもして出すのでしょう。

値は三文と相場が決まっていて、「青菜(は)男に見せるな」という諺がありました。これは、青菜は煮た場合、量が減るので、びっくりしないように亭主には見せるな、の意味ですが、なにやら、わかったようなわからないような解釈ですね。

柳影は夏の風物詩   【RIZAP COOK】

柳影とは、みりんとしょうちゅうを半分ずつ合わせてまぜたものです。江戸では「直し」、京では「やなぎかげ」と呼びました。夏のもので、冷やして飲みます。暑気払いによいとされていました。

みりんが半分入っているので甘味が強く、酒好きには好まれません。夏の風物詩、年中行事のご祝儀ものとしての飲み物です。

これとは別に「直し酒」というのがあります。粗悪な酒や賞味期限を過ぎたような酒をまぜ香りをつけてごまかしたものです。

イワシの塩焼き   【RIZAP COOK】

鰯は江戸市民の食の王様で、天保11年(1840)正月発行の『日用倹約料理仕方角力番付』では、魚類の部の西大関に「目ざしいわし」、前頭四枚目に「いわししほやき(塩焼き)」となっています。

とにかく値の安いものの代名詞でしたが、今ではちょっとした高級魚です。

隠語では、女房ことば(「垂乳根」参照)で「おほそ」、僧侶のことばでは、紫がかっているところから、紫衣からの連想で「大僧正」と呼ばれました。

判官   【RIZAP COOK】

源義経は源義朝の八男ですから、八郎と名乗るべきなのですが、おじさんの源為朝が鎮西八郎為朝と呼ばれることから、遠慮して「九郎」と称していたといわれています。これは、「そういわれていた」ことが重要で、ならばこそ、後世の人々は「九郎判官義経」と呼ぶわけです。

それともうひとつ。判官は、律令官制で、各官司(役所)に置かれた4階級の幹部職員の中の三番目の職位をいいます。4階級の幹部職員とは四等官制と呼ばれるものです。上から、「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と呼ばれました。これを役所ごとに表記する文字さまざまです。表記の主な例は以下の通り。

かみ(長官):伯、卿、大夫、頭、正、尹、督、帥、守
すけ(次官):副、輔、亮、助、弼、佐、弐、介
じょう(判官):祐、丞、允、忠、尉、監、掾
さかん(主典):史、録、属、疏、志、典、目

この一覧の字づらを覚えておくとなにかと便利なのですが、それはともかく。義経は、朝廷から検非違使の尉に任ぜられたことから、「九郎判官義経」と呼ばれるのです。もっとも、兄の頼朝の許可をもらうことなく受けてしまったため、兄からにらまれ始め、彼らの崩壊のきっかけともなりました。朝廷のおもわくは二人の仲を裂かせて弱体化させようとするところにありました。戦うことにしか関心がなくて政治の闇に疎い義経はいいカモだったのでしょう。

「判官」は「はんがん」が普通の呼び方ですが、検非違使の尉の職位を得た義経に関しては「ほうがん」と呼びます。検非違使では「ほうがん」と呼んだらしいのです。検非違使は「けびいし」と読み、都の警察機関です。

ちなみに、「ほうがんびいき」とは「判官贔屓」のことで、兄に討たれた義経の薄命を同情することから、弱者への同情や贔屓ぶりを言うわけです。

弁慶、そのココロは   【RIZAP COOK】

オチの「弁慶」は「考えオチ」というやつで、「立ち往生」の意味を利かせています。

今では、『義経記』に描かれる弁慶立ち往生の故事がわかりづらくなったり、「途方にくれる、困る」という意味の「立ち往生」が死語化している現在では、説明なしには通じなくなっているかもしれません。

上方では人におごられることを「弁慶」というので、(これは上方落語「舟弁慶」のオチにもなっています)このシャレにはその意味も加わっているでしょう。

弁慶は、『吾妻鏡』には「弁慶法師」と1回きりの登場だそうです。まあ、鎌倉幕府の視点からはどうでもよい存在だったのでしょう。負け組ですから。それでも、主君を支える忠義な男、剛勇無双のスーパースターとしては、今でも最高の人気を得ています。

小里ん語り、小さんの芸談   【RIZAP COOK】

この噺は柳家の十八番といわれています。ならば、芸談好き、五代目柳家小さんの芸談を聴いてみましょう。弟子の小里んが語ります。

植木屋が帰ったとき、「湯はいいや。飯にしよう」って言うでしょ。あそこは、「一日サボってきた」っていう気持ちの現れなんだそうです。「お客さんに分かる分からないは関係ない。話を演じる時、そういう気持ちを腹に入れておくことを、自分の中で大事にしろ」と言われましたね。だから、「湯はいいや。飯にしよう」みたいな言葉を、「無駄なセリフ」だと思っちゃいけない。無駄だといって刈り込んでったら、落語の科白はみんななくなっちゃう。そこを、「なんでこの科白が要るんだろうって考えなきゃいけない。落語はみんなそうだ」と師匠からは教えられました。

五代目小さん芸語録柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほどね。芸態の奥は深いです。

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がまのあぶら【蝦蟇の油】演目

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ホント、昔はよく縁日で見かけたもんです、こういうの。

あらすじ

その昔、縁日にはさまざまな物売りが出て、口上を述べ立てていたが、その中でもハバがきいたのが、蝦蟇の油売り。

ひからびたガマ蛙を台の上に乗せ、膏薬が入った容器を手に、刀を差して、白袴に鉢巻、タスキ掛けという出て立ち。

「さあさ、お立会い。御用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠目山越し笠のうち、物の文色(あいろ)と道理がわからぬ……」

さまざまに言い立てて、なつめという容器の蓋をパッと取り、「手前持ち出したるはこれにあるヒキセンソウはがまの油。……手前持ちいだしたるは四六のがまだ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名づけて四六のがま。このがまの棲める所は、これより、はァるゥか北にあたる筑波山の麓にて、オンバコという露草を食らう。……このがまの油を取るには、四方に鏡を立て、下に金網を敷き、その中にがまを追い込む。がまはおのれの姿が鏡に映るのを見ておのれで驚き、たらーりたらりと脂汗を流す。これを下の金網にてすき取り、柳の小枝をもって、三七二十一日の間とろーり、とろりと煮詰めたるのがこのがまの油だ。赤いはシンシャヤシイの実、テレメンテエカにマンテエカ、金創には切り傷、効能は、出痔イボ痔、はしり痔ヨコネガンガサ、その他腫れ物一切に効く。いつもはひと貝で百文だが、今日はおひろめのため、小貝を添え、二貝で百文だ」と、怪しげな口上で見物を引きつけておいて、膏薬の効能を実証するため、刀で白紙を三十六枚に切ってみせた。

「……かほどに斬れる業物でも、差裏差表へがまの油を塗る時は、白紙一枚容易に斬れぬ。さ、このとおり、たたいて……斬れない。引いても斬れない。拭き取る時はどうかというと、鉄の一寸板もまっ二つ。触ったばかりでこれくらい斬れる。だがお立会い、こんな傷は何の造作もない。がまの油をこうして付ければ、痛みが去って血がピタリと止まる」

こんな案配で、むろんインチキだが、けっこう売り上げがいいので気を良くしたがまの油売り、売り上げで大酒をくらってベロンベロンに酔ったまま、例の口上。

ロレツが回らないので支離滅裂。それでもどうにか紙を切るところまではきたが、「さ、このとおり、たたいて……切れた。どういうわけだ?」

「こっちが聞きてえや」
「驚くことはない、この通りがまの油をひと付け付ければ、痛みが去って……血も……止まらねえ……。二付け付ければ、今度はピタリと……かくなる上はもうひと塗り……今度こそ……トホホ、お立会い」
「どうした」
「お立会いの中に、血止めはないか」

しりたい

はなしの成立と演者

「両国八景」という風俗描写を中心とした噺の後半部が独立したものです。酔っぱらいが居酒屋でからむのを、連れがなだめて両国広小路に連れ出し、練り薬売りや大道のからくり屋をからかった後、がまの油売りのくだりになります。

前半部分は先代(三代目)金馬が酔っぱらいが小僧をなぶる「居酒屋」という一席ばなしに独立させ、大ヒット作にしました。金馬は、がまの油の口上をそのまま「高田の馬場」の中でも使っています。

昭和期では三代目春風亭柳好が得意にし、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵も演じました。大阪では、「東の旅」の一部として桂米朝など大師匠連も演じました。

上方版ではガマの棲息地は「伊吹山のふもと」となります。

オチは現行のもののほか、「(血止めの)煙草の粉をお持ちでないか」とすることもあります。

本物は……?

本物の「がまの油」はセンソといい、れっきとした漢方薬です。ガマの分泌液を煮詰めて作るのですから、この口上もあながちデタラメとはいえません。ただし、効能は強心剤、いわゆる気付け薬です。一種の覚せい剤のような作用があるのでしょう。

口上中の「テレメンテエカ」は、正しくは「テレメンテエナ」で、ポルトガル語です。松脂を蒸留して作るテレビン油のこと。芳香があり、染料に用います。

六代目円生「最後の高座」

1979年(昭和54)8月31日、死を四日後にひかえた昭和の名人・六代目三遊亭円生は、東京・三宅坂の国立小劇場でのTBS落語研究会で、「蝦蟇の油」を回想をまじえて楽しそうに演じ、これが公式には最後の高座となりました。

この高座のテレビ放送で、端正な語り口で解説を加えていた、劇作家・榎本滋民氏も2003年(平成15)1月16日、亡くなっています。

マンテエカ

『昭和なつかし博物学』(周達生、平凡社新書)によると、マンテエカはポルトガル語源で豚脂、つまりラードのことで、薬剤として用いられたそうです。いやあ、知識というものはどこに転がっているかわかりませんな。不明を謝すとともに、周氏にはこの場を借りて御礼申し上げます。同書は、ガマの油売りの詳細な実態ほか、汲めども尽きぬ文化人類学的知識が盛りだくさんでおすすめの一冊です。

ディジー・ガレスピー

米ジャズの伝道師、ディジー・ガレスピー。ご当地シリーズの名曲「manteca」はキューバをイメージして彼が作ったものですが、「マンテカ」はこの噺の「マンテエカ」と同語源です。ポルトガル語、またはスペイン語でラード、豚の脂、転じて膨れた死体(脂肪の塊)をさします。隠語では大麻を呼ぶときもあります。かつてスペイン人が現地人を虐殺、そのごろごろした死体の山をマンテカと呼んだというのが曲名の由来だそうです。この作品は1947年につくられましたが、フリューゲルホルンを頬を膨らませて奏でるガレスピーは曲の合間に「もうジョージアには戻らない」と言っているそうで(私には聞こえませんが)、当時の米国内での黒人差別に仮託しているふしがうかがえます。と同時に、キューバのコンガ奏者(コンゲーロ)チャノ・ポソが編曲。みごとなアフロキューバンジャズのスタンダードにブラッシュアップしています。その後まもなく、ポソは射殺されました。マンテカになってしまいました。こんないわくつきの、楽しくもない、むしろ呪われたような曲ながら、不思議な進行と変化にとんだメロディーラインが脳波を心地よく刺激してくれ、まさに大麻のような習慣性を帯びてるものです。何度も何度も聴きたくなるのです。昭和48年(1973)から昭和60年(1985)まで大阪の朝日放送で放映されていた、お見合いバラエティー番組「プロポーズ大作戦」のメインテーマはキダタローの作曲でしたが、出だしがマンテカとぴったり。パクリですね。これも習慣性を帯びる番組になっていました。総じて、蝦蟇の油の効用と一脈通じていたのかもしれません。

落語好きが「manteca」をたのしむならば、やはり大西順子トリオでしょう

「ガマの油」でご難の志ん生

五代目古今亭志ん生が前座で朝太時分のこと。東京の二ツ目という触れ込みでドサ(=田舎)まわりをしているとき、正月に浜松の寄席で「がまの油」を出し、これが大ウケでした。

ところが、朝の起き抜けにいきなり、宿に四,五人の男に踏み込まれ、仰天。

「やいやい、俺たちゃあな、本物のガマの油売りで、元日はばかに売れたのに、二日目からはさっぱりいけねえ。どうも変だてえんで調べてみたら、てめえがこんなところでゴジャゴジャ言いやがったおかげで、ガマの油はさっぱりきかねえってことになっちまったんだ。おれたちの迷惑を、一体全体どうしてくれるんだッ」

ねじこまれて平あやまり、やっと許してもらったそうです。

志ん生が自伝「びんぼう自慢」で、懐かしく回想している「青春旅日記」の一節です。

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いちがんこく【一眼国】演目

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みんなが同じならヘンでもナンでもないんですねえ。

【あらすじ】

諸国をまわり歩く六部ろくぶが、香具師やしの親方のところに一晩の宿を借りた。

香具師はなにか変わった人間でもいれば、いや化物ならなおさらいいが、とにかく捕まえて見世物にし、金もうけの種にしようと八方手を尽くして探している。

翌朝、六部に
「おまえさんは諸国をずいぶんと歩いている間に、ヘソで唄をうたったとか、足がなくって駆けだしたとか、そういう変わった代物を見ているだろう。ひとつ話を聞かせてくれないか」
と持ちかけたが、六部は
「そんな話はとんとない」
という。

一宿の恩をたてにさらにしつこく聞くと、ようやく、
「まァ、つまらないことですが……」
と、六部が思い出した話を披露する。

こちらに来る途中、道に迷って東へ東へと歩いていくと、森に入り、日も暮れかかったので、野宿でもしなければならないかと、ため息をつきながら木の根方に腰を掛け、一服やっていた。

すると、
「おじさん、おじさん」
と呼ぶ声がしたので、振り返って見ると、五つか六つの女の子。

よく眺めると目が一つしかない。

仰天して夢中で駆け出し、ようやく里に出た、というもの。

香具師は喜んで、六部に金を包んで出発させ、さっそくその日のうちに旅支度をして家を出た。

東へ東へと歩いたが、なにも出ない。

そのうちに日も暮れてきて、これは六部のやつに一杯食ったかと悔しがっているうち、四、五丁も歩いたところで森に出た。

話の通り木の根方でプカリプカリと煙草をふかしていると、後ろの方で
「おじさん、おじさん」
という声。

「しめた、こいつだ」
と思って振り返ると、案の定、目が一つ。

これは見世物にすればもうかると欲心に駆られて、ものも言わずに飛びかかってひっ捕まえると、子供を小脇に抱え、森の外に向かって一目散。

子供はキャアッと悲鳴を上げる。

その声を聞きつけたのか、ホラ貝の音が響きわたったかと思うと、鋤鍬すきくわ担いだ百姓たちが大勢追いかけてくる。

みんな一つ目。

必死で逃げたが、ついに木の根っこにつまずいて
「この人さらいめ」

寄ってたかってふん縛られ、突き出された先がお奉行所。

奉行が
「こりゃ、人さらい。面を上げい」

ひょいと見上げると、お奉行も役人もみんな一つ目。

奉行の方もびっくり。

「やや、こやつ……おのおの方ごらんなされ。こやつ目が二つある。調べは後回しじゃ。見世物に出せ」

【しりたい】

彦六の古風な味

柳家小さん系の噺で、生ッ粋の江戸落語です。

四代目小さんが得意にしていましたが、戦後この噺を磨き上げた彦六の八代目林家正蔵は、円朝門下の最後の生き残り、一朝爺さんこと三遊一朝さんゆういっちょう(昭和5年没)からの直伝で、小さんの型も取り入れたと述べています。

ほかにこの噺をよく演じた五代目志ん生のようなおもしろさはありませんが、正蔵独特の、古風なしっとりとした語りを聞かせました。

志ん生の「一眼国」

六部が珍しい話などないと言うと、それまで、泊まっていけ、飯を食えと愛想を振りまいていたのが一変し、「ああ、お茶なんぞォいれなくったっていいやァもう、うん。ああご飯いいんだよ、もう、帰ってもらやァいいんだからァ」と豹変して脅しにかかるところが、この人独自で笑わせます。

そのほか、行く先が「江戸から東へ三日行った森」(一眼国は小田原あたりか?)だったり、奉行が「なぜ、人の子供を黙ってさらう?」と言ったり(いちいち許可を得てさらうかどわかしはありません)、とにかくハチャメチャなのが、いかにも志ん生です。

見世物

地味な噺なので、正蔵も志ん生も、笑いをとるため、マクラに江戸時代の両国広小路や浅草奥山のインチキ見世物をおもしろおかしく説明します。

これについては「がまの油」や「花見の仇討ち」でも詳しく記しましたが、正蔵は「鬼娘」「目が三つ歯が二本の化物(ゲタ)」「八間の大燈籠(ただ通って表に出されるだけ)」といった向両国・回向院境内の見世物、俗に「モギドリの小屋」について説明していて、今では貴重な証言です。

「モギドリ」は、銭を客からもぎ取ってしまえば、あとはいっさいかまわないということからきています。

香具師

やし。見世物師ですが、「鬼娘」「手なし男」など、身体障害者を「親の因果が子に報い……」の口上で見世物にする悪質な香具師を「因果者師」と呼びました。

この噺の主人公がそれで、八代目正蔵では「男の子と女の子が背中合わせで生まれたとか、アヒルの首が逆にくっついているなんてえのはねえかい?」と六部に尋ねていますし、志ん生は「足がなくって駆け出すとか、へそでなんか食べるとかね、なんか変わってるものがいいんだがねェ、ないかねェ? 天井裏ィ足の裏くっつけて歩く人とか……」と香具師に言わせています。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言『因果小僧』では、主人公の盗賊・六之助の老父・野晒小兵衛が落ちぶれた因果者師の成れの果てという設定です。

六部

ろくぶ。巡礼者で、法華経六十六部を写経し、日本全国六十六か所の霊場に各一部ずつを納めたことにその名が由来します。したがって、正しくは「六十六部」と記します。

全国の国分寺や一の宮を巡礼する行者です。

のちにはかねをたたき、鈴を振って各家を物ごいして歩く者の名称にもなりました。落語には「花見の仇討ち」「山崎屋」「長者番付」などにも登場します。

古郷へ 廻る六部は 気の弱り (俳風柳多留・初)

一眼

ギリシア神話のキュクロプスをはじめ、世界各国に伝説があります。

山の神信仰が元といわれ、山神の原型である天目一箇命あまのまのひとつのみことが隻眼隻足とされていたことから、こうした山にすむ妖怪が考えられたとみられます。

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うめみのやかん【梅見の薬缶】演目

【RIZAP COOK】

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「勘違い」がテーマのはなしですね。

別題:癪の合薬 薬缶なめ 茶瓶ねずり(上方)

【あらすじ】

町内の源さんと八つぁん。

髪結床でバカ話をしているうちに、ちょうど向島の花屋敷の臥龍梅が見ごろなので、梅見としゃれこもうと話がまとまり、さっそく舟に乗り込む。

ちょうど相客に、十八くらいのきれいなお嬢さん。

どこか大店の娘らしく、侍女を連れている。

源さん、たちまちでれでれで、よせばいいのにずうずうしく話しかける。

この男、お世辞にもモテるタイプでなく、おまけに四十を過ぎて、もう頭がピカピカ。

それでも口八丁、なんだかだとお世辞を並べて気を引こうとするが、女の方がなにやら、ようすがおかしい。

いやにジロジロと、源さんの顔を見つめてばかり。

そのうち、舟が向こう岸に着き、娘の一行は三囲神社の土手を下りていく。二人がいぶかしがりながら言問橋のたもとまで来ると、後ろから先ほどの侍女が追いかけてきて、源さんに、
「お嬢さんが、いま三囲の茶店で待っているので、ぜひおいで願いたい。お願いしたいことがあります」
と頼んだから、さあ源さんは有頂天。

うまくすると、あのお嬢さんに見初められて入婿にでも、とワクワクし、ぶつぶつ文句をいう八つぁんを五円でなだめて、いそいそと二人で茶屋まで出かけていく。

ところが、案の定というか当然というか、侍女が言い出したことには、お嬢さんがこのごろ癪の持病が出て困っているが、癪には銅をなめるのが一番。

だが、このへんにはなく、難渋していたところ、あなたの頭は見たところ薬缶そっくりで、なめれば銅同様の効き目がありそうだから、ぜひにというわけ。

さあ喜んだのが八。

「どうせそんなこったろうと思った、てめえのツラはどう見ても情夫 まぶ)てえツラじゃねえ」
と、調子に乗って
「その男の頭はたいへんうまいと評判ですから、たっぷりおなめなさい」

源さん、悔しがってももう遅い。

不承不承、頭を差し出すと、お嬢さん、遠慮なくベロベロとナメナメ。

そのうち急に発作が起きたと見え、薬缶頭をガブリ。
「あら、お気の毒さま。どこもお傷がついてはおりませんか」
「なーに、傷はつきましたが、漏ってはいません」

底本:初代三遊亭円遊

【RIZAP COOK】

【しりたい】

スキンヘッドは口に苦し?

「金の味」、別題「擬宝珠」では、銅をなめたくなる金属嗜好症がテーマなのですが、この噺は逆に、ある種の病気には銅をなめるのがよい、という俗信に基づくものです。

原話と思われる小咄は三種あります。

最も古いのは万治2年(1659)刊の『百物語』巻下ノ四にある無題のもので、これはある男が意気がって山椒を大量になめ、むせかえって苦し紛れに、山椒でむせたときには銅をなめればよいと、通りがかりの侍の薬缶頭にいきなりかぶりつきます。

無礼者ッと、バッサリ斬られそうになりますが、往来の町衆が栄耀食いでなく、薬食いなのでご勘弁を」と取りなしてくれ、なんとか収まるというお笑い。

宝永7年(1710)刊『軽口都男』中の「薬罐」では、ハゲあたまの大金持ちの屋敷に夜、三人組の盗賊が侵入。おやじが物音で目覚め、賊が外へ盗品を運び出すのを出窓からそっとうかがっていると、月光でアタマが光り輝き、ヤカンと間違えた盗賊は、これもついでに頂こうと、むんずとつかんだので、仰天したおやじが大声でわめきます。

そうなればブッスリやる方が早いのに、賊の方もあわてて、「山椒にむせたので、通りがかりにだんなの頭を見て、やかんと勘違いしてつい、なめようと……」と、わけのわからない言い訳をするもの。

続いて明和9年(1772)刊の『鹿の子餅』中の「盗人」は、これを短くしたもので、盗人が盗品を運び出す穴を土蔵に空け、目覚めた主人が不審に思って、ピカピカ頭を穴から出したのを外にいる一味が勘違い。「あ、ヤカンから先か」というオチです。これは落語「薬缶泥」の直接の原話でもあります。

こうした小咄を、怪談ばなしの始祖でもある初代林屋(家)正蔵(1781-1842)が一席噺にまとめたというのが野村無明庵(戦前の落語研究家)が『落語通談』で述べている説ですが、根拠に乏しく、あまりあてにはなりません。

本家上方の「茶瓶ねずり」

上方落語「茶瓶ねずり」が東京に移されたものが現行の型です。「ねずる」は、しゃぶる、なめるの意。上方のやり方では、女中を連れて野歩きしていた奥方が、へびを見て持病の癪 しゃく)を起こします。

癪は茶瓶(=薬缶)をなめれば治るというので、女中が、通りかかった薬缶頭の武士に決死の覚悟で頼んで、代用に頭をなめさせてもらうというものです。オチは供の下男と侍の会話で、東京と同じです。

あらすじは、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊の速記を参照しましたが、これは今ではちょっと珍しい演出。東京では現在は「薬缶なめ」の演題が普通で、その場合、円遊の前半のお色気をカットした上、癪を起こすのを大家のかみさんとし、あとはほぼ上方通りに演じます。

古いオチの型と演者

オチは、古くは、侍の下男が「あなたが謡をうたって歩くから、狐が化かしたんでしょう」と言うと侍が、「狐か。道理で野干 野狐の古称。やかんと掛けた)を好んだ」とオチていましたが、分かりにくいので円遊が変えたものでしょう。

東京では長く絶えていたのを柳家小三治が復活。ただ、それ以前に、戦後東京に定住し、上方落語を広く東京に紹介した桂小文治が「癪の合薬」の名で演じました。

臥龍梅

江東区亀戸三丁目にあった伊勢屋喜右衛門の別荘「清香庵」は、「梅屋敷」の異称で知らぬ者はなかったほどの梅の名所でした。

中でも、竜がとぐろを巻くように枝がうねっているところから「臥龍梅」と名づけられた白梅は、江戸一番と賞され、シーズンには見物人が絶えなかったとか。

この梅は、吉原の名妓、初代高尾太夫から喜右衛門の先祖が譲り受けたもので、その命名者は徳川光圀でした。水戸黄門で知られた人す。

夏目漱石の有名な「修善寺大患」とともに必ず語られる明治43年(1910)の大水害で惜しくも枯れましたが、幕末に編まれた年代記『武江年表』の寛政4年(1792)の項に、「七月二十一日、亀戸梅屋敷の梅旧根消失するよし、『江戸砂子書入』といふ草書にあり」とあるので、それ以前に少なくとも一度は枯れ、接ぎ木したようです。

【語の読みと注】
臥龍梅 がりょうばい
大店 おおだな
三囲神社 みめぐりじんじゃ
言問橋 ことといばし
癪 しゃく:胃けいれん
擬宝珠 ぎぼし
栄耀食い えようぐい:美食
薬食い くすりぐい:治療食

【RIZAP COOK】

落語演目

はつてんじん【初天神】演目

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悪ガキの上手をいく、ピンボケな、すれたおやじ、熊五郎の噺です。

あらすじ

新しく羽織をこしらえたので、それをひけらかしたくてたまらない熊五郎。

今日は初天神なので、さっそくお参りに行くと言い出す。

かみさんが、
「それならせがれの金坊を連れていっとくれ」
と言う。

熊は
「口八丁手八丁の悪がきで、あれを買えこれを買えとうるさいので、いやだ」
とかみさんと言い争っている。

当の金坊が顔を出して
「家庭に波風が立つとよくないよ、君たち」

親を親とも思っていない。

熊が
「仕事に行くんだ」
とごまかすと
「うそだい、おとっつぁん、今日は仕事あぶれてんの知ってんだ」

挙げ句の果てに、
「やさしく頼んでるうちに連れていきゃ、ためになるんだけど」
と親を脅迫するので、熊はしかたなく連れて出る。

道々、熊は
「あんまり言うことを聞かないと、炭屋のおじさんに山に捨ててきてもらうぞ」
と脅すと
「炭屋のおじさんが来たら、逃げるのはおとっつぁんだ」
「どういうわけでおとっつぁんが逃げる」
「だって、借金あるもん」

弱みを全部知られているから、手も足も出ない。

そのうち案の定、金坊は
「リンゴ買って、みかん買って」
と始まった。

「両方とも毒だ」
と熊が突っぱねると
「じゃ、飴買って」

「飴はここにはない」
と言うと
「おとっつぁんの後ろ」
と金坊。

飴売りがニタニタしている。

「こんちくしょう。今日は休め」
「冗談いっちゃいけません。今日はかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」

二対一ではかなわない。

一個一銭の飴を、
「おとっつぁんが取ってやる」
と熊が言うと
「これか? こっちか?」
と全部なめてしまうので、飴売りは渋い顔。

金坊が飴をなめながらぬかるみを歩き、着物を汚したのでしかって引っぱたくと
「痛え、痛えやい……。なにか買って」

泣きながらねだっている。

「飴はどうした」
と聞くと
「おとっつぁんがぶったから落とした」
「どこにも落ちてねえじゃねえか」
「腹ん中へ落とした」

今度は凧をねだる。

往来でだだをこねるから閉口して、熊が一番小さいのを選ぼうとすると、またも金坊と凧売りが結託。

「へへえ、ウナリはどうしましょう。糸はいかがで?」

結局、特大を買わされて、帰りに一杯やろうと思っていた金を、全部はたかされてしまう。

金坊が大喜びで凧を抱いて走ると、酔っぱらいにぶつかった。

「このがき、凧なんか破っちまう」
と脅かされ、金坊が泣き出したので
「泣くんじゃねえ。おとっつぁんがついてら。ええ、どうも相すみません」

そこは父親で、熊は平謝り。

そのうち、今度は熊がぶつかった。

金坊は
「それ、あたいのおやじなんです。勘弁してやってください。おとっつぁん、泣くんじゃねえ。あたいがついてら」

そのうち、熊の方が凧に夢中になり
「あがった、あがったい。やっぱり値段が高えのはちがうな」
「あたいの」
「うるせえな、こんちきしょうは。あっちへ行ってろ」

金坊、泣き声になって
「こんなことなら、おとっつぁん連れて来るんじゃなかった」

しりたい

オチが違う原話

後半の凧揚げのくだりの原話は、安永2年(1773)、江戸で出版された笑話本『聞上手』中の小ばなし「凧」ですが、オチが若干違っています。

おやじが凧に夢中になるまでは同じですが、子供が返してくれとむずかるので、おやじの方のセリフで、「ええやかましい。われ(おまえ)を連れてこねばよかったもの(を)」。

ひねりがなく平凡なものですが、古くは落語でもこの通りにやっていたようです。

文化年間から口演か

古い噺で、上方落語の笑福亭系の祖といわれる初代松富久亭松竹(生没年不詳)が前項の原話をもとに落語にまとめたものといわれています。

松竹は少なくとも文政年間(1818-30)以前の人とされるので、この噺は上方では文化年間(1804-18)にはもう演じられていたはずです。

松竹が作ったと伝わる噺には、このほか「松竹梅」「たちぎれ」「千両みかん」「猫の忠信」などがあります。

東京には、比較的遅く、大正に入ってから。三代目三遊亭円馬が移植しました。

仁鶴の悪童ぶり

東京では柳家小三治、三遊亭円弥、上方では桂米朝でしたが、六代目松鶴から継承した笑福亭仁鶴も得意としていました。オチは同じでも、上方の子供のこすっからさは際立っています。みなさん、物故者ばっかりで残念です。

初天神

旧暦では1月25日。そのほか、毎月25日が天神の祭礼で、初天神は一年初めの天神の日をいいます。

現在でも同じ正月25日で、各地の天満宮が参拝客でにぎわいますが、大阪「天満の天神さん」の、キタの芸妓のお練りは名高いものです。

ふじまいり【富士詣り】演目

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

富士信仰を扱っています。今ではあまり聴かない噺です。

別題:六根清浄

【あらすじ】

長屋の連中。

日ごろの煩悩を清めようというわけで、大家を先達にして、ぞろぞろと富士登山に出かけた。

五合目まで来ると、全員くたくた。

そのうちにあたりが暗くなってきた。

「これは、一行の中に五戒を犯した者がいるから、山の神さまのお怒りに触れたんだ。一人一人懺悔をしなくちゃいけねえ」
ということになって、一同、天狗に股裂きにされるのがこわくて、次々と今までの悪事を白状する。

出るわ出るわ。

留さんは湯へ行った時、自分の下駄が一番汚いので、上等なのをかっさらい、ついでに番台から釣り銭をありったけ懐に入れて逃げた、偸盗戒。

八五郎は、屋台で天ぷらを二十一食ったが、親父に「いくつ食った」と聞くと、親父は間違えて「十五だ」と答えたので、差し引き天ぷら六つ偸盗戒。

先達さんがひょいと見ると、貞坊が青くなり震えている。

聞いてみると「粋ごと戒でェ」。要は邪淫戒だとか。それも人のかみさんと。おもしろくなってきた。

貞坊の告白が始まる。

去年の六月ごろから最近までのことだ。

女湯の前を通ったら湯上がりの年増にぞっこん。跡をつけたら二丁目の新道の路地へ。その裏でまごまごしていたら、女が手桶さげてやってきた。

「井戸端の青苔に足をすべらすといけやせんから」
と、代わりに水をくんであげ、その後はお釜を焚きつけ、米を洗って、まるで権助。

そんなこんなで、お茶を飲んだり堅餠をかじったりの仲に。

このおかみさんを口説こうとしたがなかなか「うん」と言わない。

結局、今日まで「うん」と言わない。

先達「なんだ、つまらねえ。いったいどこの女だい」
貞坊「いいのかい」
先達「いいよ、言っちまいな」
貞坊「先達さん、おまえさんのだ」
先達「とんでもねえッ」

元さんも青ざめている。

大便をがまんしているという。

「半紙を五、六枚敷いてその上に用を足して、四隅を持って谷へほうるんだ」
と、先達が勧めるので、念仏を唱えながら用を足し
「もったいない、もったいない」
と、この半紙を袂に入れてしまった。

先達「自分の大便を袂に入れる奴があるか。おめえ、山に酔ったな」
元「へえ、ここが五合目でございッ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

なつかしの柳朝節  【RIZAP COOK】

原話は不詳。明治34年(1901)の初代三遊亭円遊の速記が残っています。

昭和初期には七代目三笑亭可楽、戦後では三代目三遊亭小円朝、三笑亭夢楽と、どちらかといば地味な、腕っこきの噺家が好んで演じました。

印象深いのは春風亭柳朝で、独特のぶっきらぼうな口調が、間男(近年では熊五郎)の、神をも恐れぬふてぶてしさを表現して逸品でした。

オチは、現行では「先達つぁん、おまえのだ」で切ることが多く、こちらの方がシャープでしょう。

前半の懺悔の内容は、演者によってまちまちです。

富士講  【RIZAP COOK】

意外な話ですが、享保17年(1732)という年は大飢饉で、翌年には、江戸で初めての打ちこわしが起こったほど。このさなか、江戸の油商、伊藤伊兵衛は、富士登山45回の実績にかんがみて、無為無策の武家政治を批判しました。自らを「食行身禄」と名乗り、世直し実現を祈って富士山七合目で35日間の断食を敢行、入滅しました。目的完遂です。人々はこの偉業をたたえて余光にあずかろうと、19世紀前後になると、富士講がさかんになっていきました。富士講は、先達、講元、世話人の三役で運営されます。

富士は古くから修験道の聖地で、一般人の入山は固く禁じられていました。室町後期から民間でも富士信仰が盛んになり、男子に限り、一定の解禁期間のみ登山を許されるようになりました。富士講の開祖といわれるのは角行という行者です。室町後期から江戸初期の人。

江戸時代には「富士講」と呼ばれる信者の講中が組織され、山開きの旧暦六月一日から七月二十六日まで約二か月間、頂上の富士浅間神社参拝の名目で登山が許可されました。

富士講は、地域などを中心に組織され、有力な富士講は富士山自体を近所に勧請して富士塚を築きました。

あらかじめ三日か七日の精進潔斎を済ませることが前提です。隅田川などで水垢離をするのです。白衣に、首に大数珠をかけて金剛杖を突いて、先達にくっついて「六根清浄、お山は晴天」と唱えながら登っていきます。

あくまで信仰が目的。命がけの神聖な行事なので、大山参りのような物見遊山半分とはわけが違い、五戒(妄語戒、殺生戒、偸盗戒、邪淫戒、飲酒戒)を保つのは当然。

したがって、この噺のようなお茶らけた連中は論外で、必ずや神罰がくだったことでしょう。

江戸の富士信仰  【RIZAP COOK】

富士登山は大変な行事で、それこそ一生に何度もないというほど。江戸からは往復十日の日程がかかり、費用もばかになりません。山伏でもない一般市民が、近代的登山装備もなく、富士山頂上に登ろうというのですから、それこそ生還すら保障されません。

そこで、江戸にいながらお手軽に、危険もなく金もヒマも要らず、富士登山の疑似体験をしたいという熱望に応え、こしらえたのがミニ富士山。

富士塚、お富士さんと呼ばれたこの小ピラミッド、高いものでも標高わずか十メートル程度ながら、どうして、形は本格的な「ミニチュア」でした。

頂上には当然、富士浅間神社を勧請。はるばる本物の富士から溶岩を運んで築き、一合目から始まって、つづら折りの「登山道」までこしらえる凝りようでした。

富士開きの旧暦六月一日に同時に解禁。富士講の連中が金欠で本物に登れないとき、富士塚に「代参」で済ませることも多く、登山のしきたりは「女人禁制」を含め、本物とほとんど同じタテマエ。

富士塚  【RIZAP COOK】

最初のニセ富士=富士塚は、安永8年(1779)に築かれた高田富士。現在の早稲田大学構内あたりにあったといいます。水稲荷内です。

次は、千駄ヶ谷村(渋谷区千駄ヶ谷)の鎮守、鳩森八幡の境内に造られた富士塚で、寛政元年(1789)です。都の有形民俗文化財に指定されています。

国指定重要民俗文化財として、以下の三基が現存しています。

坂本富士 文政11年(1829)、台東区下谷二丁目
高松富士 文久2年(1862)、豊島区高松二丁目
江古田富士 天保10年(1839)、練馬区小竹町

次の二基は広重の「江戸名所百景」にも描かれています。

目黒の元富士 文化9年(1812)
新富士 文政2年(1819)

駒込富士権現分社、浅草富士権現分社、深川八幡、神田明神、茅場町薬師、高田水稲荷などの境内に築かれたものが、いまも親しまれています。

高田富士  【RIZAP COOK】

高田稲荷社は、戸塚村の鎮守でした。元禄15年(1702)に境内榎の中から水が湧き出し、これを霊泉として、眼病が治るという評判でした。それで、水稲荷ともいいます。

ここにある高田富士が最古の富士塚とされています。富士の五合目以上を模した高台の全体を富士山の溶岩で覆い、富士山らしく見せ、奥宮、登山道標石、胎内、経ヶ岳題目碑、石尊碑などを設けるという、設置様式がありました。高田富士は高さ五メートルながら、延べ数千人の講者が無償協力(ボランティア)で築造したものです。

朱楽管江が『大抵御覧』で紹介したことで、有名になり、さまざまな理由で実際の富士まいりができない人々が疑似体験するようになりました。これを口火に、江戸府内に多くの富士塚がつくられていきます。

朱楽菅江  【RIZAP COOK】

元文3年(1837)生まれ。狂歌師、戯作者。幕臣。山崎景基(のちに景貫)。市谷二十騎町に住みました。内山椿軒に和歌を学びました。同門には太田南畝がいます。ともに、安永年間あたりから狂歌を始めました。妻女は狂歌作者の節松嫁々です。寛政10年(1798)没。富士塚を取り上げた『大抵御覧』は安永8年(1879)の刊行です。もちろん、「太平御覧」ももじった命名ですね。これは北宋の類書(百科事典)で、983年に成りました。「御覧」と略されます。

そもそもの富士信仰

富士山への信仰は、縄文中期から見いだせます。静岡県富士宮市上条の千居遺跡には、富士山を遥拝したまつりの場所があったといわれています。

日本の神社で、石や岩がご神体というところは、もとは縄文時代からの信仰を引き継ぐ古い形態の信仰やまつりをうかかがれるものといわれています。富士信仰はその典型です。

富士神は浅間神と呼ばれます。富士信仰は浅間神社が取り仕切っています。富士山頂に奥宮を持つ富士山本宮浅間神社は、全国の浅間神社の総本宮で、富士信仰の中心です。

富士宮市にある「人穴ひとあな」は、浅間大菩薩御在所であるとされ、その後、人穴信仰もさかんになっていきました。

浅間の「あさま」は火山の古語といわれます。古代では、富士山も浅間山も火を噴く山として同じものとみていたようです。

食行身禄  【RIZAP COOK】

寛文11年1月17日(1671年2月26日)-享保18年7月13日(1733年8月22日)。本名は伊藤伊兵衛。食行身禄じきぎょうみろくは富士講修行者としての名前です。伊藤食行身禄、伊藤食行などとも呼ばれます。

伊勢国一志郡美杉村川上(三重県津市)出身です。生家には身禄の産湯が残り、子孫によって石碑が建てられているそうです。

元禄元年(1688)、江戸に入って、角行の四世(五世とも)弟子である富士行者月行に弟子入りし、油商を営みながら修行を積みました。「身禄」とは、弥勒菩薩から取ったといわれます。弥勒菩薩は、釈迦が入滅して56億7千万年たってから出現して世直しをするという神です。

もう一方の富士講の指導者、村上光清が私財をなげうって、荒廃していた北口本宮冨士浅間神社を復興させて「大名光清」と呼ばれたのに対して、食行身禄は貧しい庶民に教線を広げ「乞食身禄」と呼ばれました。対照的ですね。

享保18年(1733)6月10日、駒込の自宅を出て富士山七合五勺目(現在は吉田口八合目)にある烏帽子岩で断食行を行い、35日後にそのまま入定しました。63歳でした。

ここまでの逸話は『食行身禄御由緒伝記』に記されています。板橋の宿で、身禄との別れを惜しむ妻子や弟子との、涙なしでは読めない逸話、縁切り榎の由来の逸話も、この本に載っています。江戸時代には感動ものの一書として読まれました。

身禄が死んだ後、身禄の娘や門人が枝講(派生した講集団)を次々と増やし、「江戸八百八講」と呼ばれるまでになりました。

身禄は開祖角行といっしょに富士講の信者の崇敬を集めました。身禄は救世主、教祖的な存在として、現世に不満を抱く人々から熱狂的に迎え入れられ、新宗教団体としての「富士講」が誕生することになりました。

身禄の教えを受け継いだ各派富士講の一つに、身禄の三女・伊藤一行(お花)の系統を受け継いだ、武蔵国足立郡鳩ヶ谷(埼玉県川口市)の小谷三志の「不二道」があります。教派神道の「実行教」となって今日に至っています。

教派神道十三派中、「扶桑教」「丸山教」には身禄の教えが受け継がれています。

墓所は東京都文京区の海蔵寺。区の指定文化財に指定されています。

身禄は呪術による加持祈祷を否定しました。正直と慈悲をもって勤労に励むことを信仰の原点としたのです。米を菩薩と称し、最も大切にすべきものと説きました。陰陽思想から来る男女の和合、身分差別の現実を認めたうえでの武士、百姓、町人の協調と和合、「世のおふりかわり」という世直しにつながる考え方など、江戸時代を生き抜くための独自の倫理観を説いています。

身禄の教えは、その後の富士講の流行を生みました。庶民が徒党を組むことを嫌った江戸幕府から再三の禁止令を受けましたが、その教えは江戸の人々に静かに広がっていきました。

六根清浄  【RIZAP COOK】

ろっこんしょうじょう。聖なる場所を汚さないよう心身を清浄にして見えないものに接する、という意味が込められています。「六根」とは、仏教で説く、認識作用を起こす六つの器官をさします。眼、耳、鼻、舌、身、意。これを「げん、にー、びー、ぜつ、しん、い」と一気に繰り返し唱えます。富士信仰のような山岳信仰では、山の精霊に告げることばとされています。

富士登山では、「懺悔懺悔、六根清浄、お山は晴天」と唱えます。「懺悔」は「さんげ」と読み、気合の入った掛け声のようなもの。山の霊地で過去の罪障を懺悔する意味であり、実際にそのような行為もあったそうです。自分の罪障をことばに発しなければ、富士山に棲息するという、富士太郎(陀羅尼坊)や小御嶽正真坊といった天狗に身体を八つ裂きにされないよう、「懺悔懺悔、六根罪障、大峰八大おしめにはったい、金剛童子、大山大正不動明王、石尊大権現せきそんだいごんげん、大天狗、小天狗」と唱えます。懺悔の内容は、たいていは、間男したとか、借金踏み倒したとかのようですが。

【語の読みと注】
先達 せんだつ:引率者
懺悔 さんげ
勧請 かんじょう:神仏の分霊を請じ迎えまつること。 
食行身禄 じきぎょうみろく
人穴 ひとあな

【RIZAP COOK】

ねずみあな【鼠穴】演目

【RIZAP COOK】 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

金にまつわる壮大かつシリアスな人間ドラマ、と思いきや……。ふざけんな!

【あらすじ】

酒と女に身を持ち崩した百姓の竹次郎。

おやじに譲られた田地田畑もみんな人手に渡った。

しかたなく、江戸へ出て商売で成功している兄のところへ尋ね、奉公させてくれと頼むが、兄はそれより自分で商売してみろと励まし、元手を貸してくれる。

竹次郎は喜び、帰り道で包みを開くと、たったの三文。

馬鹿にしやがってと頭に血が昇ったが、ふと気が変わり、地べたを掘っても三文は出てこないと思い直して、これで藁のさんだらぼっちを買い集め、ほどいて小銭をくくる「さし」をこしらえ、売りさばいた金で空俵を買って草鞋わらじを作る、という具合に一心不乱に働く。

その甲斐あって二年半で十両ため、女房も貰って女の子もでき、ついに十年後には浅草蛤町はまぐりちょうに蔵が三戸前みとまえある立派な店の主人におさまった。

ある風の強い日、番頭に火が出たら必ず蔵の目塗りをするように言いつけ、竹次郎が出かけたのはあの兄の店。

十年前に借りた三文と、別に「利息」として二両を返し、礼を述べると、兄は喜んで酒を出し、
「あの時におまえに五両、十両の金を貸すのはわけなかったが、そうすれば景気付けに酒をのんでしまいかねない。だからわざと三文貸し、それを一分にでもしてきたら、今度は五十両でも貸してやろうと思った」
と、本心を語る。

「さぞ恨んだだろうが勘弁しろ」
と詫びられたので、竹次郎も泣いて感謝する。

店のことが心配になり、帰ろうとすると兄は、
「積もる話をしたいから泊まっていけ。もしおめえの家が焼けたら、自分の身代を全部譲ってやる」
とまで言ってくれたので、竹次郎も言葉に甘えることにした。

深夜半鐘が鳴り、蛤町方向が火事という知らせ。

竹次郎がかけつけるとすでに遅く、蔵の鼠穴から火が入り、店は丸焼け。

わずかに持ち出したかみさんのへそくりを元手に、掛け小屋で商売してみたがうまく行かず、親子三人裏長屋住まいの身となった。

悪いことにはかみさんが心労で寝付き、どうにもならず、娘のお芳を連れて兄に五十両借りにいく。

ところが
「元の身代ならともかく、今のおめえに五十両なんてとんでもねえ」
と、けんもほろろ。

店が焼けたら身代を譲ると言ったとしても、
「それは酒の上の冗談だ」
と突っぱねられる。

「お芳、よく顔を見ておけ、これがおめえのたった一人のおじさんだ。人でねえ、鬼だ。おぼえていなせえッ」

親子でとぼとぼ帰る道すがら、七つのお芳が、
「あたしがお女郎じょろうさんになってお金をこしらえる」
とけなげに言ったので、泣く泣く娘を吉原のかむろに売り、二十両の金を得るが、その帰りに大切な金をすられてしまった。

絶望した竹次郎、首をくくろうと念仏を唱え、乗っていた石をぽんとけると、そのとたんに
「竹、おい、起きろ」

気がつくと兄の家。

酔いつぶれて夢を見ていたらしいとわかり、竹次郎、胸をなでおろす。

「ふんふん、えれえ夢を見やがったな。しかし竹、火事の夢は焼けほこるというから、来年、われの家はでかくなるぞ」
「ありがてえ、おらあ、あんまり鼠穴ァ気にしたで」
「ははは、夢は土蔵どぞう(=五臓ごぞう)の疲れだ」

【しりたい】

夢は五臓の疲れ   【RIZAP COOK】

五臓は心・肝・肺・腎・。陰陽五行説で、万物をすべて木・火・土・こん・水の五性に分類する思想の名残です。「夢は五臓のわずらい」ともいいます。

それにしても、普通、夢の「悪役」(しかも現実には恩人)に面と向かって、馬鹿正直に「あんたが人非人に変わる夢を見ました」なんぞとしゃべりませんわなあ。

なんぞ、含むところがあるのかと思われてもしかたありません。精神科医なら、どう診断するでしょう。

ハッピーエンドの方が、実は夢だった、とでもひっくり返せば、少しはマシな「作品」になるでしょうが。誰か改作しないですかね。

浅草蛤町   【RIZAP COOK】

東京都江東区門前仲町の一部です。三代将軍・家光公に蛤を献上したのが町名の起こりで、樺太探検で名高い間宮林蔵(1775–1844)の終焉の地でもあります。

三戸前   【RIZAP COOK】

「戸前」は、土蔵の入口の戸を立てる場所。そこから、蔵の数を数える数詞になりました。「三戸前みとまえ」は蔵を三つ持つこと。蔵の数は金持ちのバロメーターでした。

さんだらぼっち   【RIZAP COOK】

俵の上下に付いた、ワラで編んだ丸いふた。桟俵さんだわらともいいます。

演者   【RIZAP COOK】

大正から昭和にかけての名人・三代目三遊亭円馬えんばから立川ぜん、六代目三遊亭円生えんしょうと継承されました。円生は昭和28年に初演して以来、ほとんど一手専売にしていましたが、五代目円楽一門に伝わり、立川談志一門もけっこうやっています。十代目柳家小三治もよく演じましたが、田舎ことばは、この人がもっとも愛嬌があって達者でしたね。

あ、それと   【RIZAP COOK】

十代目小三治師匠といえば、昭和14年(1939)12月生まれで都立青山高校卒であることは有名ですが、東宝が、いや、日本が誇るアジアン・ビューティー、若林映子あきこさんも同年12月生まれで青山高校を出ています。お二人は同級生だったそうです。若い頃の小三治師匠に「郡山クン、おつかれさま」とかなんとか言って楽屋に差し入れを持って来てくれてたのでしょうか。勝手に想像しちゃいます。彼女は「不良少女モニカ」とか呼ばれてたんだとか。ベルイマンの、ですかい。

日本の美宝、若林映子さん。これぞ美女の最高峰

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ときそば【時そば】演目

【RIZAP COOK】  落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

みんな知ってる「いまなんどき」。名人がやると、がぜん映えますね。

あらすじ

夜鷹そばとも呼ばれた、屋台の二八にはちそば屋。

冬の寒い夜、屋台に飛び込んできた男、
「おうッ、何ができる? 花巻きにしっぽく? しっぽくウ、しとつ、こしらいてくんねえ。寒いなァ」
「今夜はたいへんお寒うございます」
「どうでえ商売は? いけねえか? まあ、アキネエってえぐらいだから、飽きずにやんなきゃいけねえ」
と最初から調子がいい。

待って食う間中、
「看板が当たり矢で縁起がいい、あつらえが早い、割り箸を使っていて清潔だ、いい丼を使っている、鰹節をおごっていてダシがいい、そばは細くて腰があって、ちくわは厚く切ってあって……」
と、歯の浮くような世辞をとうとうと並べ立てる。

食い終わると
「実は脇でまずいそばを食っちゃった。おまえのを口直しにやったんだ。一杯で勘弁しねえ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手ェ出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「九ツで」
「とお、十一、十二……」

すーっと行ってしまった。

これを見ていたのがぼーッとした男。

「あんちきしょう、よくしゃべりやがったな。はなからしまいまで世辞ィ使ってやがら。てやんでえ。値段聞くことねえ。十六文と決まってるんだから。それにしても、変なところで時刻を聞きやがった、あれじゃあ間違えちまう」
と、何回も指を折って
「七つ、八つ、何どきだい、九ツで」
とやった挙げ句
「あ、少なく間違えやがった。何刻だい、九ツで、ここで一文かすりゃあがった。うーん、うめえことやったな」

自分もやってみたくなって、翌日早い時刻にそば屋をつかまえる。

「寒いねえ」
「へえ、今夜はだいぶ暖かで」
「ああ、そうだ。寒いのはゆんべだ。どうでえ商売は? おかげさまで? 逆らうね。的に矢が……当たってねえ。どうでもいいけど、そばが遅いねえ。まあ、オレは気が長えからいいや。おっ、感心に割り箸を……割ってあるね。いい丼だ……まんべんなく欠けてるよ。のこぎりに使えらあ。鰹節をおごって……ぶあっ、塩っからい。湯をうめてくれ。そばは……太いね。ウドンかい、これ。まあ、食いでがあっていいや。ずいぶんグチャグチャしてるね。こなれがよくっていいか。ちくわは厚くって……おめえんとこ、ちくわ使ってあるの? 使ってます? ありゃ、薄いね、これは。丼にひっついていてわからなかったよ。月が透けて見えらあ。オレ、もうよすよ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手を出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「四ツで」
「五つ六つ七つ八つ……」

しりたい

夜鷹そば   【RIZAP COOK】

夜鷹は、本所吉田町や柳原土手やなぎはらどてを縄張りにした、「野天営業」の街娼ですが、その夜鷹がよく食べたことからこの名がつきました。

ですから、本来は夜鷹の営業区域に屋台を出す夜泣きそば屋だけに限った名称だったはずなのです。

夜泣きそば(夜鷹)は一杯16文と相場が決まっていて、異名の二八そばは二八の十六からきたとも、そば粉とつなぎの割合からとも諸説あります。

夜鷹そばの値上げ

種物たねものが充実して、夜鷹そばが盛んになったのは文化ぶんか年間(1804-18)から。

ちなみに、夜鷹の料金は一回24文で、それより8文安かったわけですが、幕末には20文に、さらに24文に値が上がりました。

明治になると、新興の「夜泣きうどん屋」に客を奪われ、すっかり衰退しました。

何どきだい?   【RIZAP COOK】

冬の夜九ツ刻ここのつどきはおよその刻、午前0-2時。

江戸時代の時刻は明け六ツから、およそ2時間ごとに五四九八七、六五四九八七とくり返します。

後の間抜け男が現れたのは四ツですから、夜の10-0時。

あわてて2時間早く来すぎたばっかりに、都合8文もぼられたわけです。

ひょっとこそば   【RIZAP COOK】

この噺を得意にしていた三代目桂三木助は、マクラに「ひょっとこそば」の小ばなしを振っています。

客が食べてみるとえらく熱いので、思わずフーフー吹く、「あァたのそのお顔が、ひょっとこでござんす」

これは六代目三遊亭円生もやりました。

蛇足   【RIZAP COOK】

それまでそばの代金の数え方を「ひいふうみい」とする演者が多かったのを、時刻との整合から、「一つ、二つ」と改めたのは三代目三木助でした。

なるほど、こうでなければそば屋はごまかされません。今ではほとんど三木助通りです。

たしか、先代・春風亭柳橋だったと記憶しますが、「何どきだい?」「へい九ツで」のところで、お囃子のように、二人が間を置かず、「なんどきだーいここのつでー」とやっていたのが、たまらないおかしさでした。

これだと、そば屋も承知でいっしょに遊んでいるようで、本当は変なのですが。

もっとも古い原話   【RIZAP COOK】

享保きょうほう11年(1726)、京都で刊行された笑話本『軽口初笑かるくちはつわらい』中の「他人は喰より」がもっとも古い形です。

それによると、主人公は中間ちゅうげん(武家屋敷の奉公人)、そば(そばきり)の値段は六文で、「四ツ、五ツ、六ツ……」と失敗します。

享保のころは、まだ物価が安かったということでしょう。

この噺は夜鷹そばの屋台が登場するため、生粋きっすいの江戸の噺と思われがちですが、実は上方落語の「時うどん」を、明治中期に三代目柳家小さんが東京に移したものです。

なんだかんだいっても、弟子の真打ち襲名披露で古今亭志ん朝が本牧亭でやった「時そば」、これはすこぶるの絶品でした。

【時そば 古今亭志ん朝】

どうかん【道灌】演目

【RIZAP COOK】  落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ご隠居と八のやりとり。道灌の故事が題材の前座がよくやる鸚鵡返し型の滑稽噺。

別題:太田道灌(上方)

あらすじ

八五郎が隠居の家に遊びに行った。

地口(駄洒落)を言って遊んでいるうち、妙な張りまぜの屏風絵が目に止まる。

男が椎茸の親方みたいな帽子をかぶり、虎の皮の股引きをはいて突っ立っていて、側で女が何か黄色いものを持ってお辞儀している。

これは大昔の武将で歌詠みとしても知られた太田道灌が、狩の帰りに山中で村雨(にわか雨)に逢い、あばら家に雨具を借りにきた場面。

椎茸帽子ではなく騎射笠で、虎の皮の股引きに見えるのは行縢(むかばき)。

中から出てきた娘が黙って山吹の枝を差し出し引っ込んでしまった。

道灌、意味がわからずに戸惑っていると、家来が畏れながらと
「これは『七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき』という古歌をなぞらえて、『実の』と『蓑』を掛け、雨具はないという断りでございましょう」
と教える。

道灌は
「ああ、余は歌道にくらい」
と嘆き、その後一心不乱に勉強して立派な歌人になった、という隠居の説明。

「カドウ」は「和歌の道」の意。

八五郎、わかったのかわからないのか、とにかくこの「ナナエヤエー」が気に入り、自分でもやってみたくてたまらない。

表に飛び出すと、折から大雨。

長屋に帰ると、いい具合に友達が飛び込んできた。

しめたとばかり
「傘を借りにきたんだろ」
「いや、傘は持ってる。提灯を貸してくんねえかな。これから本所の方に用足しに行くんだが、暗くなると困るんだ」

そんな用心のいい道灌はねえ。

傘を貸してくれって言やあ、提灯を貸してやると言われ、しかたなく「じゃしょうがねえ。傘を貸してくんねえ」
「へっ、来やがったな。てめえが道灌で、オレが女だ。こいつを読んでみな」
「なんだ、ななへやへ、花は咲けどもやまぶしの、みそひとだると、なべとかましき……こりゃ都々逸か?」
「てめえは歌道が暗えな」
「角が暗えから、提灯を借りにきた」

しりたい

前座の悲哀「道灌屋」   【RIZAP COOK】

「道灌」は前座噺で、たいてい入門すると、このあたりから稽古することが多いようです。

前半は伸縮自在で、演者によってギャグその他、自由につくれるので、後に上がる先輩の都合で引き伸ばしたり、逆に短く切って下りたりしなければならない前座にとっては、まずマスターしておくべき噺なのでしょう。

八代目桂文楽が入門して、初めて教わったのもこの「道灌」。一年間、「道灌」しか教えてくれなかったそうです。

雪の降る寒い夜、牛込の藁店という席に前座で出たとき、お次がまったく来ず、つなぎに立て続けに三度、それしか知らない「道灌」をやらされ、泣きたい思いをしたという、同師の思い出話。

そのとき付いたあだ名が「道灌屋」。

たいして面白くもないエピソードですが、文楽師の人となりが想像できますね。

志ん生や金馬の「道灌」

あらすじの参考にしたのは五代目志ん生の速記ですが、どちらかというと後半の八五郎の「実演」に力を入れ、全体にあっさりと演じています。

かつての大看板でほかによく演じたのが、三代目金馬でした。金馬では、姉川の合戦のいくさ絵から「四天王」談義となり、ついで「太平記」の児島高徳を出し、大田道灌に移っていく段取りです。

太田道灌   【RIZAP COOK】

太田道灌(1432-86)は、長禄元年(1457)、江戸城を築いたので有名です。

この人、上杉家の重臣なんですね。主人である上杉(扇谷)定正に相模国糟谷で、入浴中に暗殺されました。

歌人としては、文明6年(1474)、江戸城で催した「江戸歌合」で知られています。

七重八重……   【RIZAP COOK】

『後拾遺集』所載の中務卿・兼明親王の歌です。

行縢   【RIZAP COOK】

むかばき。狩の装束で、獣皮で作られ、腰に巻いて下半身を保護するためのものです。

【道灌 立川談志】

ももかわ【百川】演目

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

日本橋の料亭を舞台にした、ちぐはぐなおなはし。実話だそうです。

あらすじ

日本橋浮世小路うきよこうじにあった名代の料亭「百川ももかわ」。

葭町よしちょう桂庵けいあん千束屋ちづかやから、百兵衛ひゃくべえという新規の抱え人が送られてきた。

田舎者で実直そうなので、主人は気に入って、当分洗い方の手伝いを、と言っているときに二階の座敷から手が鳴る。

折悪しく髪結いが来て、女中はみな髪を解いてしまっているので座敷に出せない。

困っただんな、百兵衛に、
「来たばかりで悪いが、おまえが用を伺ってきてくれ」
と頼む。

二階では、祭りが近づいたというのに、隣町に返さなくてはいけない四神剣しじんけんを質入れして遊んでしまい、もめている最中。

そこへ突然、羽織を着た得体の知れない男が
「うひぇッ」
と奇声を発して上がってきたから一同びっくり。

百兵衛が
「わしゃ、このシジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)でごぜえます」
と言ったのを、早のみ込みの初五郎が「シジンケンの掛け合い人」と聞き違え、さては隣町からコワモテが催促に来たかと、大あわて。

ひたすら言い訳を並べ立て、
「決して、あぁたさまの顔はつぶさねえつもりですからどうぞご安心を」と平身低頭。

百兵衛の方は
「こうだなつまんねえ顔だけんどもはァ、つぶさねえように願えてえ」
と「お願いした」つもりが、初五郎の方は一本釘を刺されたと、ますます恐縮。

機嫌をそこねまいと、酒を勧める。

百兵衛が下戸だと断ると、それならと、慈姑くわいのきんとんを差し出し
「ここんところは一つ、ぐっとのみ込んでいただきてえんで」

ばか正直な百兵衛、客に逆らってはと、大きな慈姑のかたまりを脂汗あぶらあせ流して丸のみし、目を白黒させて下りていった。

みんな腹を抱えて笑うのを、初五郎、
「なまじな奴が来て聞いたふうなことを言えばけんかになるから、なにがしという名ある親分が、わざとドジごしらえで芝居をし、最後にこっちの立場を心得たのを見せるため、わざときんとんをのみ込んで笑わしたに違いない」
と一人感心。

一方、百兵衛。

のどをひりつかせていると、二階からまた手が鳴ったので、またなにかのまされるかと、いやいや引き返す。

二階の連中驚いたが、やっと百兵衛がただの抱え人とわかると、
「長谷川町三光新道さんこうじんみち常磐津歌女文字ときわづかめもじという三味線の師匠を呼んでこい」
と言いつける。

名前を忘れたら、三光新道でかの字のつく名高い人だと聞けばわかるから、百川に今朝けさから河岸かしの若い者が四、五人来ていると伝えろと言われ、出かけた百兵衛。

やっぱり名を忘れ、教えられた通りに尋ねると、鴨池かもじという医者の家に連れていかれた。

百兵衛が
「かし(魚河岸)の若い方が、けさ(今朝)がけに四、五人き(来)られやして」
と言ったので、鴨池先生、「袈裟がけに斬られた」と誤解。

「自分が着くまでに、焼酎と白布、鶏卵けいらん二十個を用意するように」
と、百兵衛に言いつける。

この伝言を聞いた若い衆、
「師匠は大酒のみだから、景気づけに焼酎をのみ、白布はさらしにして腹に巻き、卵をのんでいい声を聞かせようって寸法だ」
と、勝手に解釈しているところへ、鴨池先生があたふた駆け込んできた。
「間違えるに事欠いて、医者の先生を呼んできやがって。この抜け作」
「どのくれえ抜けてますか」
「てめえなんざ、みんな抜けてらい」
「そうかね。かめもじ、かもじ、……いやあ、たんとではねえ。たった一字だけだ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

コマーシャルな落語  【RIZAP COOK】

実在の江戸懐石料理の名店、百川が宣伝のため、実際に店で起こった事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。いずれにしても、こういう成り立ちの噺は、現在これだけでしょう。

ペリーも賞味  【RIZAP COOK】

「百川」は代々日本橋浮世小路に店を構え、「浮世小路」といえばまず、この店を連想するほどの超有名店でした。もともとは卓袱(中華風鍋料理のはしり)料理店で、安永6年(1777)に出版された江戸名物評判記『評判江戸自慢』に「百川 さんとう 唐料理」とあります。創業時期は詳しくはわかりませんが、明治32年(1899)の「文藝倶楽部」に載った二代目古今亭今輔の速記によると、芳町にあった料亭「百尺」の分店だったとか。天明年間(1781-89)には最盛期を迎え、文人墨客が書画会などを催す文化サロンとしても有名になりました。この店の最後の花は、安政元年(1854)にペリー一行が再来日した際、幕命で千両の予算で百川一店のみ饗応を受け持ったことでしょう。そのときのメニューがまだ残っているといいますが、中でも柿にみりんをあしらったデザートは、彼らを喜ばせたとか。明治初年に廃業しました。

日本橋浮世小路  【RIZAP COOK】  

にほんばしうきよこうじ。中央区日本橋室町二丁目の東側を入った横丁で、明和年間以後の江戸後期には飲食店が軒を並べ、「百川」は路地の突き当たり右側にあったといいます。

四神剣  【RIZAP COOK】

しじんけん。祭りに使用した四神旗です。四神は四方の神の意味で、青龍(東)白虎(西)朱雀(南)玄武(北、玄=亀)の図が描かれ、旗竿に鉾がついていたため、この名があります。神田祭、山王祭のような大祭には欠かせないもので、その年の当番の町が一年間預かり、翌年の当番に当たる町に引き継ぎます。五輪旗のようなものですね。

長谷川町三光新道  【RIZAP COOK】

はせがわちょうさんこうじんみち。中央区日本橋堀留二丁目の大通り東側にある路地です。入り口が目抜き通りに面している路地を江戸では新道と呼びました。

円生が「家元」の噺  【RIZAP COOK】

前述した明治32年(1899)の今輔のものを除けば、古い速記は残されていません。古くから三遊派(三遊亭)系統の噺で、この噺を戦後、一手専売にしていた六代目円生は、義父の五代目円生から継承していました。昭和40年代の一時期、若手落語家が競ってこの「百川」をやったことがありましたが、すべて「家元」円生に稽古してもらったもの。

五代目古今亭志ん生も時々演じました。志ん生のオチは、若い衆のリーダーが市兵衛で、「百兵衛に市(=一)兵衛はかなわない」というもの。これは「多勢に無勢はかなわない」をダジャレにした「たへえ(太兵衛)にぶへえ(武兵衛)はかなわない」という「永代橋」のオチを、さらにくずしたものでしょうが、あまり感心しません。

円生没後は、五代目三遊亭円楽、柳家小三治らが次代に伝えていました。古今亭志ん朝のは絶品でした。三遊亭円窓も伝えています。

カモジ先生はえらい人  【RIZAP COOK】

この噺で、とんだとばっちりを被る鴨池先生。実在も実在、本名が清水左近源(みなもとの)元琳宜珍といういかめしさで、後年、江戸市井で開業したとき、改名して鴨池元琳(がんりん)。鴨池は「かもいけ」と読み、「かもじ」は、この噺のゴロ合わせに使えるように、落語家が無断で読み変えただけでしょう。実にどうも、けしからんもんで。

十一代将軍・家斉の御殿医を勤めたほどの、江戸後期の漢方外料(=外科)の名医中の名医。『瘍科撮要』という全三巻の医書を口述しています。したがって、本来なら町人風情が近寄れもしない身分ながら、晩年は官職を辞して市井で貧しい市民の治療に献身したという、まさに「赤ひげ」そのものだったとか。

【語の読みと注】
百川 ももかわ
葭町 よしちょう
桂庵 けいあん
千束屋 ちづかや
四神剣 しじんけん
下戸 げこ
慈姑 くわい
歌女文字 かめもじ
鴨池 かもじ
卓袱 しっぽく
新道 じんみち
太兵衛 たへえ
武兵衛 ぶへえ

【RIZAP COOK】

  【RIZAP COOK】 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【百川 六代目三遊亭円生】

【RIZAP COOK】

しながわしんじゅう【品川心中】演目

落語の名作です。長いので「上」と「下」に分かれています。たっぷりどうぞ。

あらすじ

【上】

品川の白木屋という見世でずっと板頭を張ってきたお染。

寄る年波には勝てず、板頭とは名ばかり。

次第に客も減り、目前に迫る紋日のために必要な四十両を用立ててくれそうな、だんなもいない。

勝ち気な女だけに、恥をかくくらいならいっそ死んでしまおうと決心したが、一人より二人の方が、心中と浮き名が立ち、死に花が咲くから、適当な道連れはいないかと、なじみ帳を調べると、目に止まったのが、神田の貸本屋の金蔵。

独り者だし、ばかで大食らいで、助平で、欲張り。

あんな奴ァ殺した方が世のためと、
「これにきーめた」

金蔵、勝手に決められちまった。

お染は、さっそく金蔵あてに、
「身の上の相談事があるから、ぜひぜひ来てほしい」
という手紙がいく。

お染に岡惚れしている金蔵は、手紙を押しいただくと、喜んで品川にすっ飛んでくる。

ところが、当のお染が廻しに出たままなかなか帰らず、金蔵がふてくされて寝たふりをしている。

いつの間にか戻ってきたお染、なんと自分の遺書をしたためているので、金蔵は仰天。

家にあるもの一切合切たたき売っても、金蔵にこしらえられる金はせいぜい一両がいいとこ。

どうにもならないというので、つねづね年季が明けたら夫婦になると言っている手前、つい、
「いっしょに死んでやる」
と言ってしまった。

お染はしてやったりと大喜びで、さっそく明日の晩決行と決まる。

この世の名残と、その晩、お染がはりきってご奉仕したため、金蔵はもうフラフラ。

帰ると、二人分の死装束の白無垢と安い脇差を買う。

世話になっている出入りの親分の家に、この世のいとま乞い。

まさか
「心中します」
とは言えないから、
「西の方に出かけて帰ってくるのは盆の十三日」
とか、わけのわからないことを言って、まぬけなことに肝心の脇差を忘れていってしまう。

その晩は、「勘定は六道の辻まで取りにこい」とばかり、金蔵のみ放題の食い放題。

あげくの果ては、酔いつぶれて寝込んでしまった。

そのばか面の寝顔を見て、お染はこんな野郎と冥土の道行きをしなければならないかと思うとつくづく情けなくなるが、選んだ以上どうしようもない。

たたき起こして、用意のカミソリで片を付けようとするが、気の小さい金蔵、いざとなるとブルブル震えてどうにもならない。

「じゃ、おまえさん、いっしょに死ぬというのはウソだったんだね、そんな不実な人なら、あたしは死んだ後、七日たたないうちに取り殺してやる」
と脅し、引きづるように品川の浜へ。

「おまえばかりを殺しゃあしない、南無阿弥陀仏」
と金蔵を突き落として、続いてお染も飛び込もうとすると、気配に気づいた若い者が抱き留める。

「待った。お染さん、悪い料簡を起こしちゃいけねえ。たった今、山の御前が五十両届けてくれなすって、おまえさんの喜ぶ顔が見たいとお待ちかねだ」
「あーら……でももう遅いよ。金さんが先に……」
「金さん? 貸本屋の金蔵ですかい? あんなもんなら、ようがす」

金が整ったと知ると、お染は死ぬのがばかばかしくなり、浜に向かって
「ねえ金ちゃん、こういうわけで、あたしゃ少し死ぬのを見合わせるわ。人間一度は死ぬから、いずれあの世でお目にかかりますから。それでは長々失礼」

失礼な奴もあるもの。

金蔵、飛び込んだところが遠浅だったため助かったが、おかげで若い衆とお染の話を海の中で聞き、さあ怒るまいことか。

「こんちくしょう、あのあまァ、どうするか見てやがれ」

やっとの思いで浜に上がったが、髪はザンバラ、何かで切ったのか、顔面は血と泥がこびりつき、着物はぐっしょり。

まさに亡者のような姿で、ふらふらになって親分の家へ。

ちょうどその時、親分宅ではガラッポンと勝負事の真っ最中。

戸口でガタリと音がしたので、「すわ、手入れだ」と大あわて。

糠味噌の中に突っ込んだ手でなすの漬け物をあわててつかみ、自分の金玉がもげたと勘違いする奴も出て、さんざん。

ところが、金蔵とわかって、一同ひと安心。

その中で一人だけ、泰然と座っている者がいる。

「なんだ、みんな、だらしがねえ。……伝兵衛さんを見ろ。さすがにお侍さんだ。びくともしねえで座っておいでた」
「いや、面目ない。とっくに腰が抜けております」

【下】

金蔵から、心中のし損ないでお染が裏切った一件を聞いた親分、
「ひどい女だ」
と同情し、
「そいつはひとつ仕返しをしてやる」
と請け合い、
「まだお染はてめえが死んだと思い込んでいるから、怪談仕立てでだましてやろう」
と計画を練る。

まず、金蔵が大引け前に、白木屋に引き返す。

現れた金蔵に、お染は幽霊かと思ってびっくりする。

金蔵は
「十万億土の原っぱのような所まで行ったが、お地蔵さまに帰れと言われて引き返してきた」
と打ち合わせ通り陰気な声で言い、線香を焚いて白団子と水をくれと縁起の悪いことを並べ、
「気分が悪いから寝かせてくれ」
と奥の間に引きこもってしまう。

そこへ現れたのが親分と、金蔵の弟に化け込んだ子分の民公。

お染に会って
「実は金公が土左衛門で上がったが、おめえが金公と年季が明けたら、いっしょになると言って交わした起請文が、ヘソのところへべったりへばりついていた。おめえのことを思って死んだんだと思うから、通夜にはおめえも来てもらって、線香の一本も手向けてやってもらいたい」
と泣いてみせる。

お染は、
「たった今しがた金蔵が来たばかりだよ」
と、ばかにしてせせら笑う。

そこで、証拠に金蔵の位牌をここに持ってきたと民公が懐を探って、
「確かにあったのにない、ない」
と芝居をしてみせる。

論より証拠と、お染が、金蔵の寝ている部屋に二人を案内すると、かねての打ち合わせ通り金蔵は隠れていて、布団の中には「大食院好色信士」と戒名が書かれた位牌が一つ。

さてはと、さすがのお染も青くなり、金蔵を突き落として、自分だけ都合よく心中をやめたことを洗いざらい白状。

「こいつは間違いなく恨みが残っていて、てめえは取り殺される」
と親分が脅すので、お染はもうオロオロ。

そこで最後の仕上げ。

「おめえがせめても髪を下ろして、すまなかったと謝まれば、金公も浮かぶに違いねえ」

お染が恐ろしさのあまり、根元からぷっつり髪を切り、その上、回向料として五両出したところで、当の金蔵がノッソリ登場。

「あーら、こんちくしょう、人をだましたんだね。なんぼなんでも人を坊主にして、どうするのさ」
「そう怒るな。てめえがあんまり客を釣る(だます)から、比丘(=魚籠)にされたんだ」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

めったに聴けない「下」  【RIZAP COOK】

三遊派に古くから伝わる郭噺の大ネタです。戦後も六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生ほか、ほとんどすべての大看板が演じており、もちろん現在もよく高座に掛けられます。

ただ、「上」だけでも長いうえ、「下」となると陰気で、噺としてもあまりおもしろくないということで、昔からあまり演じられません。

その中で、三代目三遊亭円馬は皮肉に「下」のみ演じていました。八代目桂文楽は、その円馬に多数の噺を教わり、もっとも私淑していましたが、「品川心中」は音源は残しているものの、好きな噺ではなかったようで、昭和の大看板では珍しく、めったにやりませんでした。

「下」では、六代目円生と五代目志ん生の速記が残されています。貴重です。

品川宿  【RIZAP COOK】

東海道の親宿(起点)として古くから栄えました。新宿、板橋、千住と並んで、江戸近郊で非公認の大規模な遊郭を持つ四つの宿場(四宿)の筆頭です。

吉原の「北国」に対し、江戸の南ということで、通称は「南」。宿場は徒歩新宿、北本宿、南本宿に分かれ、目黒川の向こう岸の南本宿は「橋向こう」といって小見世が多く、この噺の「白木屋」も南本宿です。

「居残り佐平次」の舞台になった相模屋(土蔵相模)、歌舞伎「め組の喧嘩」の事件の発端となる「島崎楼」など、有名な大見世はすべて北側にかたまっていました。

宿場の成立は享保年間(1716-36)ですが、飯盛り(宿場女郎)を置くことを許可され、本格的に遊郭として発足したのは万治2年(1659)でした。宿場よりも遊郭のほうが早かったことになります。

品川は芝・増上寺ほかの僧侶の「隠れ遊び」の本場でもありました。

六代目円生が「品川心中」のマクラでいくつか挙げている川柳。

品川は 衣衣の 別れなり
自堕落や 岸打つ波に 坊主寝る

表向き、僧侶は女犯厳禁ですから、同じ頭を丸めているということで、医者に化けて登楼するという、けしからん坊主が後を絶たなかったわけです。

品川を舞台にした噺は意外に少なく、「居残り佐平次」とこの「品川心中」のほかは艶笑落語の「品川の豆」ぐらいです。

演者によって、「剃刀」「三枚起請」などの廓噺を吉原から品川に代えて演じることもあります。

板頭  【RIZAP COOK】

いたがしら。女郎屋で、最も月間の稼ぎのいい、ナンバーワンの売れっ子のことです。

吉原では「お職」と呼ばれましたが、品川ほかの岡場所(非公認の遊廓)では、その名称は許されず、遊女の名札の板が、その月の稼ぎ高の順に並べられるところから、そのトップを板頭と呼んだわけです。

紋日、物日  【RIZAP COOK】

もんび、ものび。五節季や八朔(➡江戸入り)、月見、三社祭りなどのハレの年中行事には、着物や浴衣を新調し、手ぬぐいに祝儀をつけて、若い衆や遣り手などの廓の裏方に配るなど、女郎にとってはかなりの金がかかりました。

売れていない女郎には大変ですが、これをやらないと恥をかき、住み替え(よりランクの落ちる岡場所へ移る)でもしなければなりませんでした。

この噺のお染の悩みは、それだけ切実だったわけです。

貸本屋  【RIZAP COOK】

江戸時代は一軒構えの本屋はなく、もっぱら貸本屋が紺の前掛けをして、郭や大商店などの得意先を回りました。

幕末太陽傳  【RIZAP COOK】

昭和32年(1957)の映画『幕末太陽傳』(監督川島雄三、日活)は、文久2年(1862)、幕末の世情騒然としたころの品川、土蔵相模を舞台に、落語の「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」を巧みにアレンジした、喜劇映画史上に残る傑作です。

土蔵相模とは、屋号は「相模屋」で、壁が土蔵づくりだったために、こう呼ばれていたそうです。

労咳病みの主人公・佐平次(フランキー堺)の「羽織落とし」のお座敷芸が評判でしたが、「品川心中」の部分では、なんといっても、遊郭へ春本(エロ本)を売りに来る当時29歳の小沢昭一の「あばたの金蔵」が絶品です。

「これが唐人のアレで……」といやらしく笑うこの小沢のあば金を見るだけでも、この映画は一見の価値あり。たいていの落語家はとうてい及びません。

比丘尼される  【RIZAP COOK】

「下」のオチですが、今ではわかりにくいでしょう。よく考えると単純で、「釣る(「だます」の意味あり)」から「魚籠」を出し、女を坊主にしたため、それと「比丘尼(=尼僧)」をダジャレで掛けただけです。

「比丘尼」は、安永年間(1772-81)まで新大橋付近に出没した尼僧姿の売女「歌比丘尼」の意味もあり、品川遊郭の女郎であるお染が坊主にされて、最下級の「歌比丘尼」にまで堕ちたという侮辱もこめられているはずです。

【語の読みと注】
板頭:いたがしら:筆頭女郎
四宿:ししゅく:品川、新宿、板橋、千住の宿場
北国:ほっこく:吉原
徒歩新宿:かちしんしゅく
八朔 はっさく:8月1日
お職:おしょく:吉原での筆頭女郎
労咳 ろうがい:肺結核
魚籠:びく
比丘:びく:僧
比丘尼:びくに:尼僧

【RIZAP COOK】

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ににんたび【二人旅】演目

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謎かけは落語の代表的なジャンル。謎かけがふんだんの噺です。

別題:煮売屋(上方)

あらすじ

気楽な二人連れの道中。

一人が腹が減って、飯にしようとしつこく言うのを、謎かけで気をそらす。

例えば
「二人で歩いていると掛けて、なんと解く?」
「豚が二匹と犬っころが十匹と解く」
「その心は?」
「豚二ながらキャンとう者(二人ながら関東者)」

そのうち、即興の都々逸になり
「雪のだるまをくどいてみたら、なんにも言わずにすぐ溶けた」
「山の上から海を眺めて桟橋から落ちて、泳ぎ知らずに焼け死んだ」
と、これもひどい代物。

ぼうっとした方が人に道を尋ねると、それが案山子だったりして、さんざんぼやきながらやっととある茶店へ。

行灯に、なにか書いてある。

「一つ、せ、ん、め、し、あ、り、や、な、き、や」
「そうじゃねえ。一ぜんめしあり、やなぎ屋じゃねえか」

茶店の婆さんに酒はあるかと聞くと
「いいのがあるだよ。じきさめ、庭さめ、村さめとあるだ」
「へえっ、変わった銘だな。なんだい、そのじきさめってのは」
「のんだ先からじきに醒めるからじきさめだ」
「それじゃ、庭さめは?」
「庭に出ると醒めるんだ」

村さめは、村外れまで行くうちに醒めるから。

まあ、少しでも保つ方がいいと「村さめ」を注文したが、肴が古いと文句を言いながらのんでみると、えらく水っぽい。

「おい、ばあさん、ひでえな。水で割ってあるんだろう」
「なにを言ってるだ。そんだらもったいないことはしねえ。水に酒を落としますだ」

底本:五代目柳家小さん

しりたい

煮売屋

上方落語「煮売屋にうりや」を四代目柳家小さんが東京に移したもので、東京で演じられるようになったのは、早くても大正後期以後でしょう。「煮売屋」は、長い連作シリーズ「東の旅」のうち、「七度狐」と題されるくだりの一部です。

「七度狐」はさらに細かく題名がついていて、発端が、おなじみ清八と喜六の極楽コンビがお伊勢参りの道中、奈良見物のあと、野辺で尻取り遊びなどしてふざけ合う「野辺歌」から「煮売屋」に続き、このあと、イカの木の芽あえを盗んで捨てたすり鉢が化け狐の頭に当たったことから怒りを買って化かされる「尼寺つぶし」へと入ります。

煮売屋は、ここでは道中ですから、宿外れの立て場酒屋ということになります。

上方では独立して演じられることは少なく、一席にする場合は、侍を出し、煮売屋のおやじとの、このあたりでは夜な夜な白狐が出るというやりとりをコンビが聞きかじり、隣の荒物屋で侍気取りの口調で口真似するという滑稽をあとに付けます。

小さんの工夫

道中のなぞ掛け、都々逸を付けたのは四代目小さんの工夫で、上方の「野辺歌」のくだりを参考にしたと思われます。

ただ、それ以前に、東京の噺家ながら長く大阪に在住して当地で活躍した三代目三遊亭円馬が上方の「七度狐」をそのまま江戸っ子二人組として演じた速記があり、その中で二人が珍俳句をやりとりするくだりがあるので、そのあたりもヒントになっているのでしょう。

四代目の演出は、そのまま五代目小さん、さらにその門下へと受け継がれ、現在もよく口演されます。

都々逸

どどいつ。文政年間(1818-30)に発祥し、流行した俗謡です。前身は「よしこの節」で、その囃し詞「どどいつどんどん」から名が付きました。歌詞は噺に登場する通り、七七七五が普通で、江戸独特の洒落や滑稽を織り交ぜたものです。昭和初期から戦後にかけては、柳家三亀松が「お色気都々逸」で一世を風靡しました。

【語の注】
都々逸 どどいつ
案山子 かかし
行灯 あんどん