とうなすやせいだん【唐茄子屋政談】落語演目

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どんな?

遊びが過ぎて勘当された若だんな。相手にする者はいない。 身投げのすんで、叔父さんに助けられ、唐茄子を売り歩くことに。 人の情けでたちまち売れて、残ったのは二個。 その帰途、ひもじい母子に唐茄子と売上をくれてやった……。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

【あらすじ】

若だんなの徳三郎とくさぶろう。 吉原の花魁おいらんに入れ揚げて家の金を湯水ゆみずのように使うので、親父も放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当かんどうだと言い渡される。 徳三郎は、蛙のツラになんとやら。 「勘当けっこう。お天道てんとさま(太陽)と米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」 威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だ、とていよく追い払われる。 どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと 「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」 と、ケンもほろろ。 もう土用どようの暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。 おまけに夕立ちでずぶ濡れ。 吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。 つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所ほんじょ達磨横丁だるまよこちょう大家おおや(管理人)をしている叔父おじさん。 止めようとして顔を見るとおいの徳。 「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」 「アワワ、助けてください」 「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」 「お天道さまはついて回るけど、米の飯はついて回らない」 「ざまあみやがれ」 ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。 翌朝。 おじさん、唐茄子(かぼちゃ)を山のように仕入れてきた。 「今日からこれを売るんだ」 格好悪いとごねる徳を、叔父さんは 「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」 としかりつけ、天秤棒てんびんぼうをかつがせると、 「弁当は商いをした家の台所を借りて食え」 と教えて送りだす。 炎天下、徳三郎は重い天秤棒を肩にふらふら。 浅草の田原町たわらまちまで来ると、石につまづき倒れて、動けない。 見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋あいながやの者たち(同じ長屋の住人)に売りさばいてくれ、残った唐茄子はたった二個。 礼を言って、売り声の稽古けいこをしながら歩く。 吉原田圃たんぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店せいがんじだな。 裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当をつかっている(食っている)と、五つばかりの男の子が指をくわえ、 「おまんまが食べたい」 事情を聞くと、亭主は元武士で、今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされない、という。 同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。 聞いた叔父さん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。 あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家いんごうおおやに出くわし、金を店賃たなちん(家賃)に取られてしまった、という。 八百屋さんに申し訳ない、と女はとうとう首くくり。 聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。 長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。 おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青緡五貫文あおざしごかんもん褒美ほうび。 めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうには、お奉行さまは登場しません。 「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、二代目円朝)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)という、三遊派と柳派を代表する名人が得意にしました。 大正13年(1924)刊行の、晩年の三代目小さんの速記が残っています。 滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若だんなの唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。 五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)は手がけず。現在、柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。 古くは、女がそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)もしばしば演じていました。 志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。 叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。 円生は饒舌じょうぜつで、徳がおやじの愚痴ぐちをひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。 キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。 若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。 この古い江戸ことばは、語源が「お履き物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。 履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あずまばし。架橋は安永3年(1774)。 もとは大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形1-3丁目、吾妻橋1丁目、本所3丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。 地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草4丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。 誓願寺は浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、15の塔頭を持つ大寺院でした。 現在は、府中市の多磨霊園正門前に移転しています。

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さんゆうていときん【三遊亭ときん】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2003年4月、三遊亭金時(→五代目三遊亭金馬)
【前座】2003年7月、三遊亭時松
【二ツ目】2006年5月
【真打ち】2017年3月、三遊亭ときん
【出囃子】せつほんかいな
【定紋】三ツ鱗
【本名】吉田大介
【生年月日】1976年1月28日
【出身地】東京都
【学歴】東京都立九段高校→東京農業大学農学部
【血液型】AB型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は旅、銭湯、酒。



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ねこときんぎょ【猫と金魚】落語演目

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【どんな?】

ああ言えばこう言う。
そんな相手も落語にかかればこんな具合に。

あらすじ

ある商家の番頭。

ああ言えばこう言うで、素直に言うことを聞かないばかりか、かなりピントがずれているので、だんなの悩みのタネ。

金魚の大きいのが二匹いなくなったので問いただせば「あたしは食べません」

「誰が、おまえが食べた、と言った。隣の猫が庭続きだから、縁側に上がって食べるんだから、どこか高いところへ上げておけ」と言いつけると「それじゃ、湯屋の煙突の上へ」

「あたしが眺められない」と文句を付けると「望遠鏡で見れば」と始末に終えない。

ようよう金魚鉢を湯殿の棚の上に置かせて一安心、と思ったら「金魚はどこへ上げましょう」

「金魚鉢と金魚を放したら、金魚は死んじまう、あたしゃ金魚の干物を見たいんじゃない」と叱りつけて、しばらくすると、番頭が悠々と報告に来た。

「実はその、棚へ上げましたらァ、お隣の物干しとつながってるもんですから、猫が入ってまいりまして……」

金魚鉢の中に手を突っ込んで食べてるというから、だんなは大あわて。

猫の衿っ首を捕まえてひっぱたいてやれと命じても、あたしはネズミ年だから、そばに寄ったら食われちまうといやがる。

こんな奴に任せておいたら、いくら買っても一匹残らず猫の栄養になってしまうと頭を抱えて、思い出したのが、横丁の鳶頭の虎さん。

力はあるし、背中に刺青を彫っているし、尻にたくさんの毛が生えているから猫もびっくりするだろうというので、早速呼びにやる。

常日ごろ、だんなのためなら命はいらねえ、たとえ火の中水の中……と豪語している鳶頭だから、何とかしてくれるだろうと思って「おまえさん、猫は恐くないかい」「猫ォ? あたしゃあ名前が虎で、寅年ですよ。世の中に恐いものなんか一つもない。で、猫は何匹で」

「あたしは猫屋をやろうってんじゃないよ。一匹でいいんだから、金魚鉢ィかき回してる奴を捕まえてなぐっておくれ」
「へえ、そいじゃあ、日を改めて」

なんだか、また雲行きが怪しくなってきた。

ともかく、むりやり湯殿に押し込むと「猫、おらァこの横丁の虎ってもんだぞォ。どうだァ」という、虎さんの大声が聞こえる。

そのうち「きゃあー」という悲鳴と金魚鉢を引っくり返した音。静かになったので戸を開けてみると、虎さんはびしょ濡れで目を回し、猫は棚で悠然と顔を洗っている。

金魚は外でピンピン跳ねているから、だんな驚いて「虎さん、しっかりしとくれ。早く猫ォ捕まえてなぐっとくれ」

「あたしゃあもう猫は恐いからイヤだ」
「恐いって、おまえさん、虎さんじゃないか」
「今はこの通り、濡れネズミです」

【しりたい】

新作落語史上の最高傑作!

「のらくろ」シリーズの作者として一世を風靡した田河水泡(高見澤仲太郎、1899-1989、漫画家)が、まだ落語作家時代の昭和初期、売り出し中の初代柳家権太楼(北村市兵衛、1897-1955)に書き下ろした「猫」シリーズの第一弾です。

このあと、「猫と電車」「猫とタコ」と続きますが、「猫の金魚」がギャグの連続性と底無しのナンセンスで、もっとも優れています。

そのセンスは今聞いても全く古びず、近代新作落語史上、金箔付きの最高傑作と呼んで過言ではないでしょう。

十代目桂文治(関口達雄、1924-2004)のが無類におかしく、なかでも虎さんの表現が秀逸でした。

八代目橘家円蔵(大山武雄、1934-2015、五代目月の家円鏡→平井の)は、前半のだんなと番頭のやりとりがテンポよく、軽快に笑わせました。

前半の趣向は「質屋庫」に似ています。口だけは英雄豪傑の虎さんのキャラクターも「質屋庫」の熊さんと重なります。何らかのヒントを得ていると思われます。

続編「猫と電車」

校長宅で産まれた六匹目の子猫を、鰹節一本付けて押しつけられた田舎出の用務員が、子猫を風呂敷に隠して満員電車に乗ります。

ところが、いつの間にか帽子の中に入った子猫に小便をかけられ、あわてて降ります。

「車掌さん、今の客、シャッポに猫を隠してた」
「道理で猫をかぶっていた」

「金魚」ほどではありませんが、校長とのやりとりで、

「キミの家にネズミおるかい?」
「校長先生さま、ネズミたべるんでェ?」
「わしのうちに猫がおるよ」
「猫とネズミに相撲をとらせるんでェ?」
「実はァ、子どもが今度、産まれてな」
「お坊ちゃまで?」
「わしの子ではないよ」
「奥様のお子さまで?」
「猫の子じゃよ」
「すると、奥様が猫の子を産んだのでェ?」

こういったトンチンカンなギャグの連続で笑わせます。

【猫と金魚 八代目橘家円蔵】

 

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べんざいていいずみ【弁財亭和泉】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2005年8月、三遊亭歌る多
【前座】2006年3月、三遊亭歌すみ
【二ツ目】2009年6月、三遊亭粋歌
【真打ち】2021年3月、弁財亭和泉
【出囃子】竹生島
【定紋】片喰 陰七つ浪輪に三つ網目(オリジナル)
【本名】児玉啓子
【生年月日】1976年7月31日
【出身地】東京都墨田区
【学歴】食品系企業の人事担当
【血液型】O型
【ネタ】新作中心
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は映画鑑賞。2016年12月、第2回渋谷らくご創作らくご大賞。2020年7月、横浜にぎわい座第4回白鳥彦いちの新作ハイカラ通り決勝大会優勝。夫は柳家小八



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はやしやひろき【林家ひろ木】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2002年4月、林家木久蔵(→林家木久扇)
【前座】2002年9月、林家ひろ木
【二ツ目】2005年11月
【真打ち】2017年9月
【出囃子】ユー・アー・マイ・サンシャイン
【定紋】光琳蔦
【本名】沖上比呂志
【生年月日】1979年6月6日
【出身地】広島県
【学歴】早稲田大学人間科学部
【血液型】A型
【ネタ】初天神 時うどん 読書の時間 など。※津軽三味線も
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はTVドラマ鑑賞。津軽三味線は太田家元九郎(太田元、1954-2014、落語協会所属の津軽三味線漫談家)に師事。



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だいどころおさん【台所おさん】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2002年3月、柳家花緑
【前座】2002年7月、柳家花ごめ
【二ツ目】2005年11月、台所鬼〆
【真打ち】2016年3月、台所おさん
【出囃子】おうま
【定紋】剣片喰
【本名】吉開泰視
【生年月日】1970年12月30日
【出身地】福岡県柳川市
【学歴】福岡大学法学部
【血液型】B型
【ネタ】古典⇒三方一両損 二階ぞめき 鼠 浜野矩随 新作⇒プリン付き
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は映画、喫茶店で雑誌や新聞を読む。特技は都内自転車移動。



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はやしやぼたん【林家ぼたん】噺家



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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2002年3月、林家こん平(笠井光男、1943-2020)に
【前座】2002年6月、林家ぼたん
【二ツ目】2005年5月
【真打ち】2016年3月
【出囃子】茶摘み
【定紋】中陰花菱
【本名】近田登司枝
【生年月日】1980年1月18日
【出身地】静岡県浜松市
【学歴】静岡県立浜松工業高校情報技術科→日本大学生産工学部数理工学科 ※経商法落研
【血液型】A型
【ネタ】辰巳の辻占 悋気の独楽 締め込み など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は野球観戦(中日)、フィギュアスケート鑑賞。落語ガールズ。

落語ガールズ:女性落語家の認知・精進などを目的として、落語協会、落語芸術協会、落語立川流の真打、二ツ目のユニット。平成29年(2017)結成。現在のメンバーは、川柳つくし、林家ぼたん、古今亭駒子、三遊亭藍馬、立川小春志、三遊亭律歌、春雨や風子、柳家花ごめ、三遊亭遊かり、林家あんこ、春風亭一花、立川だん子、三遊亭遊七、三遊亭あら馬。



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はやしやたけへい【林家たけ平】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2001年12月、林家こぶ平(→九代目林家正蔵)
【前座】2002年6月、林家たけ平
【二ツ目】2005年5月
【真打ち】2016年3月
【出囃子】蛇の目のかげで
【定紋】中陰花菱
【本名】草野武史
【生年月日】1977年10月27日
【出身地】東京都足立区
【学歴】東海大学文学部広報学科
【血液型】AB型
【ネタ】幾代餅 おかめ団子 おせつ徳三郎 お見立て お若伊之助 鰍沢 景清 紀州 五人廻し 小間物屋政談 芝居の喧嘩 芝浜 大師の杵 茶の湯 付き馬 鼠 寝床 百年目
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は食べ歩き、懐メロ鑑賞とその研究。2007年、NHK新人演芸大賞入選。2011年、北とぴあ若手落語家競演会大賞。2011年、池上落語会大賞。2017年、第7回オーディオブックアワード企画賞。2019年、平成30年度彩の国落語大賞。



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はやしやひこまる【林家彦丸】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】2001年5月、林家正雀に、林家彦丸で
【二ツ目】2004年11月
【真打ち】2016年3月
【出囃子】しめろやれ
【定紋】光琳蔦
【本名】疋田雅巳ひきたまさし
【生年月日】1982年12月1日
【出身地】東京都
【学歴】
【血液型】
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】



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やなぎやえんや【柳家燕弥】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2000年11月、三代目柳家権太楼
【前座】2001年2月、柳家さん太
【二ツ目】2004年7月、柳家右太楼
【真打ち】2015年3月、柳家燕弥
【出囃子】郡上踊り
【定紋】丸にくくり猿
【本名】中島康貴
【生年月日】1977年3月14日
【出身地】岐阜県岐阜市
【学歴】愛知大学中退
【血液型】A型
【ネタ】元犬
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は麻雀、書道、ゴルフ、散歩、寺社巡り、庭園巡り。RAKUGOもんすたぁず(古今亭志ん陽、柳家小傳次、柳家燕弥、春風亭三朝)



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やなぎやさんすけ【柳家さん助】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2000年7月、柳家さん喬
【前座】2000年11月、柳家さん角
【二ツ目】2004年7月、柳家さん弥
【真打ち】2015年3月、三代目柳家さん助
【出囃子】夜祭り
【定紋】三ツ柏
【本名】益子敦
【生年月日】1975年8月16日
【出身地】茨城県常陸太田市
【学歴】明治大学
【血液型】B型
【ネタ】黄金の大黒 雁風呂 子別れ 三助の遊び 三人旅 しゃっくり政談 松竹梅 だくだく 莨の火 玉川上水の由来 胴斬り 長者番付 二十四孝 ねずみ 雛鍔 兵庫舟 妾馬 もぐら泥 やかん やかんなめ らくだ
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はそぞろ歩き。2011年、第22回北とぴあ若手落語家競演会大賞



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きんげんていばぎょく【金原亭馬玉】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2000年4月、十一代目金原亭馬生
【前座】2000年7月、金原亭駒介
【二ツ目】2003年11月、金原亭馬吉
【真打ち】2015年3月、二代目金原亭馬玉
【出囃子】新一つとや
【定紋】鬼蔦
【本名】遠藤雄介
【生年月日】1979年2月2日
【出身地】神奈川県伊勢原市
【学歴】神奈川県立伊志田高校
【血液型】O型
【ネタ】元犬 鮑のし 近日息子
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は散歩、まりも。前橋若手落語家選手権優勝。



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はやしやきよひこ【林家きよ彦】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2016年9月、林家彦いちに、林家きよひこで
【前座】2017年10月
【二ツ目】2021年3月、林家きよ彦
【真打ち】
【出囃子】仲よし小道
【定紋】光琳蔦 でんでんこぶし
【本名】早坂清花
【生年月日】1988年4月10日
【出身地】北海道札幌市
【学歴】札幌市立札幌藻岩高校→藤女子大学
【血液型】B型
【ネタ】創作中心
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はスーパーめぐり、アート、お酒、YOSAKOIソーラン、バイク(クロスカブ100)。特技は剣道(三段)、スキー(SAJ公認1級)。社会福祉士、学芸員。チャノマ(落語協会二ツ目の木曜勉強会)。2022年4月、第1回プリモ芸術コンクール落語部門グランプリ。



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いりふねていせんぞう【入船亭扇蔵】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1999年12月、入船亭扇遊
【前座】2000年6月、入船亭ゆう一
【二ツ目】2003年11月、入船亭遊一
【真打ち】2015年3月、四代目入船亭扇蔵
【出囃子】娘道成寺 チンチリレンの合方
【定紋】蔦
【本名】橋本典明
【生年月日】1971年2月28日
【出身地】埼玉県騎西町(加須市)
【学歴】埼玉県立騎西高校→洋大学文学部国文学科
【血液型】O型
【ネタ】たらちね 干物箱 厩火事
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は読書、格闘技観戦。2004年、第9回岡本マキ賞



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かつらうめすけ【桂右女助】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】2000年1月、八代目三升家小勝に、三升家勝好で
【二ツ目】2003年10月、三升家勝菜。08年11月、三升家う勝
【真打ち】2015年3月、四代目桂右女助
【出囃子】いやとび
【定紋】三升
【本名】梅田勝之
【生年月日】1962年5月26日
【出身地】千葉県
【学歴】千葉県立匝瑳高校→ツアコン→豪加遊学→葬儀社→37歳で入門→落語家やりながら50歳で千葉大学文学部史学科→その間に小説賞多数 ※なんだこの型破りは!
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は競馬(英仏米日4か国のGⅠ生観戦)、お寺めぐり、神社めぐり、浮世絵の舞台めぐり、地酒の蔵元めぐり。2013年、第56回千葉文学賞。15年、第10回ちよだ文学賞。20年、第19回湯河原文学賞。



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やなぎやこでんじ【柳家小傳次】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2000年1月、柳家さん喬
【前座】2000年4月、柳家さん市
【二ツ目】2003年10月、柳家喬之進
【真打ち】2015年3月、柳家小傳次
【出囃子】子守り
【定紋】丸に三ツ柏
【本名】奥山直人
【生年月日】1978年2月19日
【出身地】東京都目黒区
【学歴】東京アニメーター学院声優本科→東京劇団ルネッサンス
【血液型】B型
【ネタ】そば清 ちりとてちん 天狗裁き 文七元結 井戸の茶碗 与太郎噺 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は野球、バイオリン、雑談、麻雀、競馬観戦。2011年2月、第21回北とぴあ若手落語家競演会奨励賞。RAKUGOもんすたぁず(古今亭志ん陽、柳家小傳次、柳家燕弥、春風亭三朝)



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さんゆうていつかさ【三遊亭司】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】1998年5月、四代目桂三木助(小林盛夫、1957-2001)に、桂六久助で。2001年3月、三遊亭歌司に再入門、三遊亭麹
【二ツ目】2003年5月、三遊亭司
【真打ち】2015年3月
【出囃子】土手の提灯
【定紋】笹竜胆 中陰片喰
【本名】坂本一人
【生年月日】1979年10月2日
【出身地】東京都大田区
【学歴】
【血液型】A型
【ネタ】紺屋高尾 明烏 湯屋番 干物箱 六尺棒 七段目 猫の忠信 おせつ徳三郎 船徳 鼠穴
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は日本舞踊(坂東流)、小唄、ドライブ、料理。



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ごにんまわし【五人廻し】落語演目

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【どんな?】

明治の噺。
安い遊びをする客のありさまが。

別題:小夜千鳥

あらすじ

上方ではやらないが、吉原始め江戸の遊廓では、一人の花魁おいらんが一晩に複数の客をとり、順番に部屋を廻るのが普通で、それを「廻し」といった。

これは明治初めの吉原の話。

売れっ子の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今夜は四人もの客が待ちぼうけを食ってイライラし通しだが、待てど暮らせど誰の部屋にもいっこうに現れない。

宵にちらりと見たばかりの三日月女郎などはまだかわいいほうで、これでは新月女郎の月食女郎。

若い者、といっても当年四十六になる牛太郎ぎゅうの喜助は、客の苦情に言い訳するのに青息吐息。

最初にクレームを付けたのは、職人風のお兄さん。

おいらんに、空っケツになるまでのみ放題食い放題された挙げ句、思わせぶりに「すぐ来るから待っててね」と言われて夜通し、バターンバターンと草履ぞうりの音がするたびに今度こそはと身を乗り出しても、あわれ、すべて通過。

頭にくるのも無理はない。

男が喜助に
「おい、こら、玉代返せ」
「これも吉原の法でございますから」

その一言に、男が気色けしきばんだ。

「なにをー。勘弁ならねえことを、ぬかしやがったな。吉原の法でござい、といわれて、はいそうですか、と引っ込む、おあにいさんじゃねえんだ。おぎゃあと生まれた時から大門おおもんくぐってるんだ。吉原のことについちゃ、なんでも知らねえことはねえぞ。なあ、そもそも吉原というところはな、元和げんな三年に庄司甚右衛門しょうじじんえもんてえおせっかい野郎がな、繁華な土地に廓は具合が悪いてんで、ご公儀に願ってできたんだ。もとは日本橋の葺屋町ふきやちょうにあったんだが、配置替えを命じられてここに移ってきたんだ。ここはもともと葭、茅の茂った原だった。だから葭原といったのを、縁起商売だから、キチゲンと書いて吉原。日本橋の方を元吉原もとよしわら、こっちを新吉原しんよしわらといったてぇんだ。わかったか。土手どてから見返り柳、五十間を通って大門をくぐれば、仲之町なかのちょうだ。まず左手に伏見町ふしみちょうだ。その先は江戸町えどちょう一丁目、二丁目、それから揚屋町あげやちょう角町すみちょう、奥が京町きょうまち一丁目、二丁目。これが五丁町ごちょうまちってえんだ。いいか、この吉原に茶屋が何軒あって、女郎屋じょうろやが何軒、大見世おおみせが何軒、中見世ちゅうみせが何軒、小見世こみせが何軒あって、どこの見世は女郎じょうろが何人で、どこの誰が間夫まぶにとらわれているのか、どこの見世のなんという者がいつどこから住み替えてきたのか、源氏名げんじなから本名からどこの出身かまで、ちゃーんとこっちはわかってるんでえ。横丁の芸者が何人いてよ、どういうきっかけで芸者になってどういう芸が得意で、幇間たいこもちが何人いて、どういう客を持っているか、こっちはなんでも知ってるんだ。台屋だいやの数が何十軒あって、おでん屋はどことどことどこにあって、どこのおでん屋のツユが甘いか辛いかだの、どこのおでん屋のハンペンはうめえが、チクワがうまくねえとか、ちゃーんとこっちは心得てんだ。雨がふらあ、雨が。この吉原のどこに水たまりができるなんて、てめえなんぞドジだから知るめえ。どこんところにどんな形でどんな大きさの水たまりがあるのか、ちゃーんと知ってるからな。目えつぶったって、そういう中に足を入れねえで歩いていかれるんだ。水道尻すいどじりにある犬のくそだってな、クロがしたのか、ブチがしたのか、チャがしたのか、はなからニオイをかぎ分けようっておあにいさんだ。モモンガァ、チンケートー、脚気衝心かっけしょうしん、肺結核、発疹チフス、ペスト、コレラ、スカラベッチョー。まごまごしゃあがると頭から塩ォかけて食らうから、そう思え。コンチクショウ」

喜助、ほうほうの体で逃げ出すと、次は役人らしい野暮天男。

四隣沈沈しりんじんじん空空寂寂くうくうじゃくじゃく閨中寂寞けいちゅうじゃくまくとやたら漢語を並べ立てて脅し、閨房けいぼう中の相手をせんというのは民法にでも出ておるのか、ただちに玉代を返さないとダイナマイトで……と物騒。

平謝りで退散すると今度は通人らしいにやけた男。

黄色い声で、
「このお女郎買いなるものはでゲスな、そばに姫が待っている方が愉快とおぼし召すか、はたまた何人も花魁方が愉快か、尊公のお胸に聞いてみたいねえ、おほほほ」
と、ネチネチいや味を言う。

その次は、最初の客に輪を掛けた乱暴さで、てめえはなんぞギュウ(牛太郎)じゃあもったいねえ、牛クズだから切り出し(細切れ)でたくさんだ、とまくしたてられた。

やっとの思いで喜瀬川花魁を捜し当てると、なんと田舎大尽の杢兵衛もくべえ旦那の部屋に居続け。

少しは他の客の所へも廻ってくれ、と文句を言うと
「いやだよ、あたしゃあ」

お大尽、
「喜瀬川はオラにおっ惚れていて、どうせ年季が明ければヒイフ(夫婦)になるだからっちゅうて、オラのそばを離れるのはいやだっちゅうだ」
と、いい気にノロケて、
「玉代をけえせ(返せ)っちゅうんならオラが出してやるから、帰ってもらってくれ」
と言う。

一人一円だから都合四円出して喜助を追い払うと、花魁が
「もう一円はずみなさいよ」

あたしにも一円くれ、というので、出してやると、喜瀬川が
「もらったからにはあたしのものだね。……それじゃあ、改めてこれをおまえさんにあげる」
「オラがもらってどうするんだ」
「これ持って、おまはんも帰っとくれ」

しりたい

みどころ  【RIZAP COOK】

明治初期の吉原遊郭のようすを今に伝える、貴重な噺です。

「五人廻し」と題されていますが、普通、登場する客は四人です。

やたらに漢語を連発する明治政府の官人、江戸以来(?)のいやみな半可通など、当時いたであろう人々の肉声、時代の風俗が、廓の雰囲気とともに伝わってきます。

とりわけ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)のような名手にかかると、それぞれの人物の描き分けが鮮やかです。

それにしても、当時籠の鳥と言われた女郎も、売れっ子(お職)ともなると、客の選り好みなど、結構わがままも通り、勝手放題にふるまっていたことがわかります。

廓噺と初代小せん  【RIZAP COOK】

吉原遊郭の情緒と、客と女郎の人間模様を濃厚に描く廓噺は、江戸の洒落本しゃれぼんの流れを汲み、かつては数多く作られ演じられました。

現在では一部の噺を除いてすたれました。

洒落本は、遊郭を舞台にして「通人つうじん」についておもしろおかしく描いた読み物です。

18世紀後半に流行しました。

「五人廻し」始め、「居残り佐平次」「三枚起請」など、今に残るほとんどの廓噺の原型を作り、集大成したのが、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)です。

歌人の吉井勇(1886-1960)にも愛された小せん。薄幸の天才落語家です。

若い頃から将来を期待されましたが、あまりの吉原通いで不幸にも梅毒のため盲目となり、足も立たなくなって、おぶわれて楽屋入りするほどに衰え果てました。

それでも、最後まで高座に執念を燃やし、大正8年(1919)5月26日、36歳の若さで亡くなるまで、後の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目円生ら「若手」に古き良き時代の廓噺くるわばなしを伝え残しました。

「五人廻し」の演出  【RIZAP COOK】

現行のものは、初代小せんが残したものがひな型です。

登場人物は六代目円生では、江戸っ子官員、半可通はんかつう田舎大尽いなかだいじん(金持ち)で、幻のもう一人は、喜瀬川の情夫まぶということでしょう。古くはもう一人、しまいに花魁を探してくれと畳を裏返す男を出すこともありました。

「web千字寄席」のあらすじでは古い速記を参照して、その客を四人目に入れておきました。

ギャグでは、三人目の半可通が、「ここに火箸が真っ赤に焼けてます……これを君の背中にじゅう……ッとひとつ、押してみたい」と喜助を脅すのが小せんのもので、今も生きています。

円生は、最初の江戸っ子が怒りのあまり、「そも吉原てえものの始まりは、元和三年の三月に庄司甚右衛門……明治五年、十月の幾日いっかに解放(=娼妓解放令)、貸座敷と名が変って……」と、えんえんと吉原二百五十年史を講義してしまいます。

そのほか、「半人前てえ人間はねえ。坐って半分でいいなら、ステンショで切符を坐って買う」というこれも小せん以来の、いかにも明治初期らしいギャグ、また、「てめえのへそに煙管きせるを突っ込む」(三代目三遊亭円馬)などがあります。

オチは各自で工夫していて、小せんは、杢兵衛大尽の代わりに相撲取りを出し、「マワシを取られて振られた」とやっています。

二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の古い速記では「ワチキは一人で寝る」、六代目円生では、大尽がフラレた最後の一人で、オチをつけずに終わっていますし、五代目志ん生は大尽が二人目、最後に情夫を出して、これも「帰っとくれ」と振られる皮肉な幕切れです。

新吉原の図

新吉原の俯瞰図です。真ん中の仲之町通りを中心に整然と区画されています。店や建物は変わっても、区画そのものは現在もさほど変わっていません。

新吉原

甚助

甚助じみていけねえ。

この噺には、そんなフレーズが登場します。

吉原ならではの言葉です。

甚助じんすけ」とは、①すけべえ、②やきもちやき。吉原で「甚助」と言われたら、まずは①ととらえるべきでしょう。

①の使い方は、「腎張り」の擬人化用法です。

「腎張り」とは、腎が強すぎる→性欲の強い人→多淫な人→好色家→すけべえ、といった意味になります。

②とは少々異なります。

「甚助」はほかの噺にも出てきます。



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こがねもち【黄金餅】落語演目

五代目古今亭志ん生

 

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【どんな?】

円朝作。
逝った西念を弔う。
下谷から麻布。
焼き場は桐ヶ谷で。
金兵衛の執念が笑いを誘う。

あらすじ

下谷山崎町の裏長屋に住む、金山寺味噌売りの金兵衛。

このところ、隣の願人坊主西念の具合がよくないので、毎日、なにくれとなく世話を焼いている。

西念は身寄りもない老人だが、相当の小金をため込んでいるという噂だ。

だが、一文でも出すなら死んだ方がましというありさまで、医者にも行かず薬も買わない。

ある日、
「あんころ餠が食べたい」
と西念が言うので、買ってきてやると、
「一人で食べたいから帰ってくれ」
と言う。

代金を出したのは金兵衛なので、むかっ腹が立つのを抑えて、「どんなことをしやがるのか」と壁の穴から隣をこっそりのぞくと、西念、何と一つ一つ餡を取り、餠の中に汚い胴巻きから出した、小粒で合わせて六、七十両程の金をありたけ包むと、そいつを残らず食ってしまう。

そのうち、急に苦しみ出し、そのまま、あえなく昇天。

「こいつ、金に気が残って死に切れないので地獄まで持って行きやがった」
と舌打ちした金兵衛。

「待てよ、まだ金はこの世にある。腹ん中だ。何とか引っ張りだしてそっくり俺が」
と欲心を起こし、
「そうだ、焼き場でこんがり焼けたところをゴボウ抜きに取ろう」
とうまいことを考えつく。

長屋の連中をかり集めて、にわか弔いを仕立てた金兵衛。

「西念には身寄りがないので自分の寺に葬ってやるから」
と言いつくろい、その夜のうちに十人ほどで早桶に見立てた菜漬けの樽を担いで、麻布絶口釜無村のボロ寺・木蓮寺までやってくる。

そこの和尚は金兵衛と懇意だが、ぐうたらで、今夜もへべれけになっている。

百か日仕切りまで天保銭五枚で手を打って、和尚は怪しげなお経をあげる。

「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」

なにを言ってるんだか、わからない。

金兵衛は長屋の衆を体よく追い払い、寺の台所にあった鰺切り包丁の錆びたのを腰に差し、桐ケ谷の焼き場まで早桶を背負ってやってきた。

火葬人に
「ホトケの遺言だからナマ焼けにしてくれ」
と妙な注文。

朝方焼け終わると、用意の鰺切りで腹のあたりりをグサグサ。

案の定、山吹色のがバラバラと出たから、「しめた」とばかり、残らずたもとに入れ、さっさと逃げ出す。

「おい、コツはどうする」
「犬にやっちめえ」
「焼き賃置いてけ」
「焼き賃もクソもあるか。ドロボー!」

この金で目黒に所帯を持ち、餠屋を開き繁盛したという「悪銭身につく」お話。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

不思議な黄金餅  【RIZAP COOK】

下谷山崎町は江戸有数のスラム。当時は三大貧民窟のひとつでした。現在の台東区東上野4丁目、首都高速1号線直下のあたりです。そこは底辺の人々が闇にうごめくといわれた場所でした。どれほどのものかは、いまではよくわかりませんが。

金をのみ込んでもだえ死ぬ西念は願人坊主という職業の人。僧形なんですが、身分は物ごい。七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)の演出では、長屋の月番は猫の皮むきに犬殺しのコンビ。

そんな連中が、深夜、西念の屍骸を担ぎ、富裕な支配階級の寝静まる大通りを堂々と押し通るわけ。目指すは、架空の荒れ寺・木蓮寺。港区南麻布2丁目辺でしょうか。

付近には麻布絶口の名の起こり、円覚禅師絶江が開いたといわれる曹渓寺があります。

しかし、一行を待つのは怪しげな経を読むのんだくれ和尚、隠亡おんぼうと呼ばれた死体焼却人。

加えて、死骸を生焼けにして小粒金を抉り出す凄惨なはずの描写。

それでいて薄情にも爆笑してしまうのは、彼らのしたたかな負のエネルギー、なまじの偽善的な差別批判など屁で吹っ飛ばす強靭さに、かえって奇怪な開放感を覚えるためではないでしょうか。

いやいや、志ん生の話し方が理屈なんかすっ飛ばしてただおかしいから、笑っちゃうのですね。金は天下の回り物だわえ、てか。

ついでに、志ん生の道行きの言い立てを。

わァわァわァわァいいながら、下谷の山崎町を出まして、あれから、上野の山下ィ出まして、三枚橋から広小路ィ出まして、御成街道から五軒町ィ出まして、その頃、堀さまと鳥居さまというお屋敷の前をまっすぐに、筋かい御門から大通りィ出て、神田の須田町ィ出まして、須田町から新石町、鍛冶町から今川橋から本銀町、石町から本町ィ出まして室町から、日本橋をわたりまして、通四丁目、中橋から、南伝馬町ィ出まして京橋をわたってまっつぐに、新橋を、ェェ、右に切れまして、土橋から、あたらし橋の通りをまっすぐに、愛宕下ィ出まして、天徳寺を抜けて神谷町から飯倉六丁目へ出た。坂を上がって飯倉片町、その頃おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして、十番へ出て、大黒坂を上がって、麻布絶口釜無村の木蓮寺ィ来たときには、ずいぶんみんなくたびれた……。そういうわたしもくたびれた。

ああ、写したあたしもくたびれた。

【RIZAP COOK】

もっとしりたい】

円朝作といわれる原型ではこの噺にはオチがない。噺にはオチのあるものとないものとがある。オチのある噺を落語といって、オチのないものは人情噺や怪談噺などと呼んでいるが、これはどっちだろう。そんなことは評論家のお仕事。楽しむほうにはどっちでもいい。

五代目古今亭志ん生のが有名だ。二男の志ん朝もやった。志ん朝没後まもく、春風亭小朝が国立劇場で演じてみせた。多少の脚色はうかがえたが、志ん生をなぞる域を出なかった。とても聴いちゃいられなかった。しらけた。

志ん生は、四代目橘家円喬のを踏襲している。舞台は幕末を想定していたという。全編に漂うすさんだ空気と開き直りの風情は、たしかに幕末かもしれない。

三遊亭円朝が演じたという速記は残っているが、これだと長屋は芝金杉あたりだ。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったらしい。芝金杉は芝新網町のあたり。円喬という人は落語は名人だったらしいが、人柄はよくなかったようだ。二代目円朝を継ぎたかったのは円喬と円右だったそうだが、名跡を預かる藤浦家のお眼鏡にはかなわなかった。藤浦(周吉)はよく見ていたようだ。だからか、円喬の「黄金餅」はその人柄をよくさらしていたように思える。凄惨で陰気で汚らしく。どうだろう。

金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを、われわれに伝えているのだが、志ん生の手にかかると、そんなことはどうでもよくなってしまう。山崎町はみんな貧乏だったんだから。円朝のだと、ホトケを芝金杉から麻布まで運ぶので違和感はない。距離にして2キロ程度。志ん生系の「黄金餅」では、下谷から麻布までの道行きを言い立てるのがウリのひとつになっている。これは13kmほどあるから、ホントに運んだらくたびれるだろう。桐ヶ谷は、浅草の橋場、高田の落合と並ぶ火葬場。「麻布の桐ヶ谷」と呼ばれた。火葬場は今もある。

下谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたり。上野の山(つまり寛永寺)の際にあるのでそんな地名になった。「山崎町=ビンボー」のイメージがあんまり強いので、明治5年(1872)に「万年町」に変わった。中身は変わらずじまいだったから、東京となってからは「万年町=ビンボー」にすりかわっただけ。明治大正の新聞雑誌には、万年町のすさんだありさまが描かれているものだ。

円朝は最晩年、病癒えることなくもう逝っちゃいそうな頃、万年町に住んだ。名を替えても貧乏の風景は変わらなかった。ここで死ぬにはいくらなんでも大円朝が、と、弟子や関係者が気を使って、近所の車坂町に引っ越させた。結局、円朝はそこで逝った。万年町とはそのようにはばかられるほどの町だった。

西念の職業は噺では「坊主」となっている。文脈から、これが願人坊主であることは明白だ。願人坊主とは、流しの無資格僧。依頼に応じて代参、代待ち、代垢離するのが本来の職務なのだが、家々を回っては物乞いをした。奇抜な衣装、珍奇な歌や踊りで人の耳目を傾けた。ときに卑猥な所作をも強調した。カッポレや住吉踊りは願人の発明だったらしい。多くは、神田橋本町、芝金杉、下谷山崎町などに住んでいた。

木蓮寺の和尚があげたあやしげなお経は、願人が口ずさむセリフのイメージなのだろう。麻布は江戸の僻地だ。神田、日本橋あたりの人は行きたがらない場所。絶口釜無村とは架空の地名だが、「口が絶える」とか「釜が無い」と貧しさを強調している。たしかに、絶江坂なる地名が今もある。ここらへんにいたとかいう和尚の名前だという。

好事家はこれを鬼の首を取ったかのように重視するが、だからといって、それらの地名が噺とどうかかわるかといえば、どうということもない。「黄金餅」について評論家諸氏は「陰惨を笑わせる」などと言っているが、そんなことよりも「全編、貧乏を笑わせている」噺であることが重要なのだと思う。金兵衛の親切めかした小狡さ、西念の渋ちんぶり、菜漬けの樽を早桶に見立てるさま、木蓮寺の和尚の破戒僧のなりふり、というふうに、この噺は貧乏とでたらめのオンパレード。この噺、そんなすさまじき貧乏すらも忘れて、志ん生の仕掛けたくすぐりで笑っちゃうだけ。それだけでいいのだろう。

(古木優)

【RIZAP COOK】



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らくだ【らくだ】落語演目

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【どんな?】

長屋の嫌われ者が急死。
兄貴分がむりむりに葬式を。
巻き込まれる屑屋の豹変ぶりで立場が逆転。
上方噺。

別題: 駱駝らくだ葬礼そうれん 駱駝の友達

あらすじ

駱駝らくだ」の異名をとる馬さんは、乱暴で業腹ごうはらで町内の鼻つまみ者。

ある夜、フグに当たって、ひとり、あえない最期を遂げた。

翌朝、兄弟分の、これまた似たようなろくでもない男が、らくだの死体を発見した。

葬式ともらいを出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。

通りかかった屑屋の久蔵を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香奠こうでんを出させようと思い立ち、屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。

みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香奠を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、なにをするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる屑屋を、今度は大家おおやのところに、今夜通夜つやをするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせた。

店賃たなちんを一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
「嫌だと言ったら、らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」
「おもしれえ、退屈で困っているから、ぜひ一度見てえもんだ」

大家は、いっこうに動じない。

屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、屑屋にむりやり死人しびとを背負わせ、大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽よんとだるをぶんどってくると、屑屋、もうご用済みだろうと期待するが、男はなかなか帰してくれない。

酒をのんでいけと言う。

女房子供が待っていて鍋の蓋が開かないから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきた。

「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」

酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋。

「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、俺の知り合いの落合の安公やすこうに焼いてもらいに行こうじゃねえか。その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

安公に渡す手間賃は、途中にある池田屋という質屋でこの四斗樽を質入れして始末する、という算段。

相談がまとまり、死骸の髪をむしり取って丸めた上、樽に押し込んで、首の骨なんかは折り曲げて、二人差しにないで出発した。

途中の池田屋では案の定、葬式ともらいは質入れできないと抗うところを、内会ないけえ(非合法の博打)の噂をささやけば、質屋の番頭がさらに嫌がって、追っ払いに二両をくれた。

この二両を安に渡せば焼けると、高田馬場を経て落合の火葬場へとっとと向かった。

落合の火葬場に。

お近づきの印に安公と三人でのみ始めたが、いざ焼く段になると、死骸がない。

どこかへ落としたのかと、二人はもと来た道をよろよろと引き返す。

願人坊主がんにんぼうずが一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、焼き場で火をつけると、坊主が目を覚ました。

「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋ひやだ」
冷酒ひやでいいから、もう一杯くれ」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

上方落語を東京に  【RIZAP COOK】

元ネタは上方落語の「駱駝らくだ葬礼そうれん」です。

「駱駝の葬礼」では、死人は「らくだの卯之助」、兄貴分は「脳天熊」ですが、東京では、死人は「らくだの馬」、兄貴分は無名です。

「らくだ」は江戸ことばで、体の大きな乱暴者を意味しました。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植したものです。明治大正の滑稽噺の名人で名高い噺家ですね。

三代目小さんが京都で修行していた頃、四代目桂文吾(鈴永幸次郎、1865-1915)にならったものとされており、こちらも有名な逸話です。

宮松へ行けばらくだの尾まで聞け

「宮松」とは茅場町薬師境内にあった寄席の宮松亭のことで、第一次落語研究会(1905-23)のセンターでした。

三代目小さんは第一次落語研究会の中心人物で、上方由来の噺をさかんにおろしていました。

「らくだ」もそのひとつだったのですね。

川柳に詠まれるほどさかんに演じられていたのが、三代目小さんの「らくだ」だったということでしょう。

聴きどころ

この噺の聴きどころはなんといっても、気の弱い紙屑屋が男の無理いで飲まされ、男との支配被支配の関係が、酒の力でいつの間にか立場が逆転するおかしさです。

後半の願人坊主のくだりはオチもよくないので、今ではカットされることが多くなっています。

これも五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の十八番の一つで、志ん生は発端を思い切りカットすることもありました。

「生き返らねえように、アタマつぶしとけ」は、志ん生でしか言えない殺し文句です。

実際には、いろんな噺家がやってはいますが、志ん生ほどの凄愴せいそうと滑稽は浮かび上がりません。

いかにも五代目志ん生らしい、身も蓋もない噺のイメージがあり、古今亭の系統の噺かと思ってしまいます。

とはいえ、三代目小さん由来ですから、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)も五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)も演じてきて、柳家の系統の噺のひとつなんです。

とうぜん、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)にまでもつながっていたわけです。

長い噺のため、最後までやる演者はあまりいませんが、柳家小三治は最後までやっていました。40分ないし45分でできる噺なんだそうです。

三代目小さんという噺家は、つまらなそうな顔つきで聴き手を抱腹絶倒の坩堝るつぼに陥れたそうですから、これはもう、小三治の芸風と深くかかわっていますね。

らくだの髪の毛をむしりとる演出は、五代目志ん生、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)が継承しています。

五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)と六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は、長屋の中の女暮らしの家から剃刀かみそりを借りてきてる演出にしています。

上品ですが、この噺全体を支える粗雑で豪胆な雰囲気は消えてしまいます。

昭和初期にエノケン劇団が舞台化し、戦後映画化もされています。まあ、これはもう、どうでもよい話です。

「らくだ」の構成

この噺の構成は、以下の通りです。

①男、兄弟分のらくだが長屋で死んでいるの見つける。
②長屋の前を屑屋が通りかかる。
③男は葬式代捻出のため、らくだの家財を屑屋に売ろうとするが、なにもない。
④男は月番へ香奠を集めるよう、屑屋を使わせ、月番はやむなく応じる。
⑤男は大家へ酒と煮しめを出すよう、屑屋を使わせるが、大家は拒否する。
⑥男は大家宅で、屑屋にらくだの死骸を背負わせかんかんのうを踊らせる。
⑦大家は気味悪がって、酒と煮しめの用意を約束する。
⑧男は豆腐屋へ屑屋を使わせ、四斗樽をせしめる。
⑨香奠、酒、煮しめが届き、男は嫌がる屑屋に酒を強要する。
⑩屑屋は三杯目から豹変し、二人の立場が逆転する。
⑪友達づくで焼かせようと、らくだを入れた四斗樽を二人でかつぎ落合に出発。
⑫通り道の質屋では、内会の噂と四斗樽の質入れで強請ゆすって二両をせしめる。
⑬落合で、二両と四斗樽を受け取った安公が焼こうとしたら死骸がない。
⑭二人は道中を戻り、泥酔の願人坊主をらくだと間違えて運び戻る。
⑮安公が焼き始めると、坊主が熱さで目が覚めた。「ひやでいいからもう一杯」

これを全部ていねいにやれば、軽く1時間以上はかかってしまいます。

多くの噺家は、男と屑屋との立場逆転のあざやかな⑩で終わりにしています。

「ひやでいいからもう一杯」のオチを聴かせるならば40分、質屋強請ゆすりを含めれば45分でできるんだそうです。小三治や小里ん師はこっちのコース。

屑屋のパシリのもたもたは、月番、大家、豆腐屋(演者によっては八百屋)と、3回あります。聴き手にはここがくどくてダレるもの。

ここをうまく刈り取れば、30分以内でオチまでいける、というのがプロの観点とか。

質屋ゆすりも端折はしょられますが。放送主体ではこちらがえじきになります。質屋強請りのくだりはあまり聴きません。

三遊亭小遊三師がNHK「日本の話芸」でやっていたものでも質屋強請りはありませんでした。この番組は30分ですし。

質屋強請りと焼き場に軸足を置いた演じ方もありで、おもしろい演出になります。

五代目小さんはこれを嫌がって省きましたが、弟子の柳家小里ん師は省かない視点です。

かんかんのう  【RIZAP COOK】

らくだの兄弟分が、紙屑屋を脅して死骸むくろを背負わせ、大家の家に乗り込んで、かんかんのうを踊らせるシーンが、この噺のクライマックスになっています。

「かんかんのう」は「看々踊り」ともいい、清楽の「九連環」が元の歌です。

九連環は古代中国で発明された「知恵の輪」だそうです。日本では「かんかんのう(看々踊)」といわれた、歌と踊りのセットです。

文政3年(1820)に長崎から広まって、大坂、名古屋、江戸へとで流行していきました。飴売りがおもしろおかしく町内を踊り歩いてさらに爆発的流行して、文政5年(1822)には禁止令が出たほど。一時下火になってくすぶっていましたが、明治初期に花柳界で流行しました。つまり、文政年間から途絶えずはやっていたのでしょう。

「かんかんのうをきめる」という江戸ことばがあります。これは夜這いに成功したことを言うのですが、「かんかんのう」の踊りで四つん這いのかっこうをするところからの発想のようです。

さて。

「九連環」の歌が元歌で「かんかんのう」が生まれましたが、歌詞もメロディーも変形されています。

以下、「かんかんのう」の歌詞を紹介します。福建語の珍妙な語感が特徴です。福建語は台湾語と同系で、音韻が日本語にも一部同じものがあります。長崎に来た中国人は、じつは福建人ばかりでした。江戸期の中国文化や文物というのは福建省経由のものです。

かんかんのう きうれんす きゅうはきゅうれんす さんしょならえ さあいほう
にいかんさんいんぴんたい やめあんろ めんこんふほうて しいかんさん
もえもんとわえ ぴいほう ぴいほう

歌の中身は花柳界で放歌する卑猥な内容だそうです。日本人はこの歌を聴いても意味などわからず、ただ音の奇妙に惹かれたようです。どこかコミカルに聴こえ、踊りもコミカルに見えたのですね。詳しくは明清楽資料庫をご覧ください。

かんかんのう
梅ヶ枝の手水鉢

志ん生のくすぐり3選

五代目志ん生の「らくだ」でのくすぐりは、ほかの噺家のそれをはるかに圧倒しています。凄愴で滑稽なんです。

志ん生流を踏襲する噺家もいますが、本家を知っているとなんだかなぞっているようで、いまいち。以下が、きわめつきの3選です。読むだけでも笑っちゃいます。

●屑屋がらくだの死を知った場面

「へえ、ふぐに当たって……まあ、どうもふぐってえものも当てるもんですな、こりゃァ。当てましたなぁ、ふぐが」
「おい、福引きみてえなこと言うなよ」

●屑屋が月番の家に行った場面

「いえね、らくださんがね、ええ、ふぐに当たって死んじゃったんです」
「らくだがァ……。死んだァ。本当か、おい、そんなこと言って、人を喜ばせるんじゃないかい」
「いえ、喜ばせやしませんよ」
「そうかい、へえ、生き返りゃあしねえかァ」
「いや、生き返りませんよ」
「いやァ、あの野郎、ずうずうしいから生き返ってくるかもしれねえぞ。あたまァ、よくつぶしといたらどうだい」

●屑屋がらくだの髪の毛をむしる場面

ぐんだよゥ、もっと。もっと注げよ、もっと……。しみったれめ、けつを上げろ、尻をォ、てめえの尻じゃねえ、徳利の尻をあげんだい……なにを言ってやんだい、こんちくしょう。へええ、なんだい、なんだい、なんだ。らくだァ……、らくだがなんだってんだ。べらぼうめぇ。らくだもきりんもあるかァ。こんちくしょう、まごまごしやがるってえと、おっぺしょって、鼻ァかんじゃうぞう、ほんとうにィ、屑屋さんの久さん、知らねえかってんだ」

くううぅ、たまりませんなあ、志ん生。ぞっろぺいです。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

くわがた【鍬潟】落語演目

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【どんな?】

珍しい相撲ネタの噺です。
巨人と赤ん坊のような極端な対比の大一番。

【あらすじ】

身長が二尺二寸(68cm)という小さな男。

何か背が伸びる方法はないかと、隣の長屋の甚兵衛に相談した。

甚兵衛、
「背丈はどうにもならないが、おまえさんが奮起すれば、大男にも負けないだけの働きができる」
と言って、昔の大坂相撲の鍬潟という力士の話をする。

鍬潟も、なんと三尺二寸(97cm)の、超ミニサイズ力士。

ところが、ある時、江戸で無敵の大関雷電為右衛門を破って、満天下をあっと言わせた。

雷電は、六尺五寸(197cm)、四五貫(170kg)はあろうという、雲つく大男。

身長は、ゆうに倍以上、巨人と赤ん坊。

まともならぶつかっただけで、バラバラにされてしまう。

ところが、鍬潟、一計を案じて体中に油を塗り、立ち上がると土俵の中をチョロチョロと逃げ回る。

雷電、あせって捕まえようとするが、油でツルツル滑る上、なにせ小さいからどこにいるのかわからない。

さんざん追い駆けっこをした挙げ句、滑ってつんのめったところを、鍬潟が足にくいついたので、雷電たまらず土俵下へ、という、前代未聞の一番。

満場は爆笑の渦へ。

のちに、この雷電と義兄弟の縁を結び、名力士として名をなしたという話。

これを聞いて、小男は一念発起した。

「ワシも第二の鍬潟になれるかも」
と、相撲部屋に入って修行を積むが、ある日、稽古疲れで家に帰ると高イビキ。

起こされると、布団から手足が出ていたから、稽古のおかげで背が伸びたと喜んだ。

女房、
「足が出るわけさ。そりゃ座布団だもの」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【しりたい】

大酒の甲斐もなく

原話は安永6年(1777)に大坂で刊行された笑話本『新撰噺番組』巻五の「一升入る壺は一升」です。

これは、子供並みに小さな男が、なんとか背を伸ばしたいと、日夜神に祈ると、ある晩、不思議な童子が夢枕に。童子は男に、「飯、餅、酒を一斗(10升=18L)ずつ飲食し、目覚めたあと背伸びをすれば、なんじの背は布団から足が出るくらいにはなるぞよ」と、妙なご託宣。男は下戸だったのに、大きくなりたい一心。命がけで酒をのみ干し、馬のように食らって目覚めると、アーラ不思議、本当に足がにゅっと布団の外へ。やれありがたいと狂喜して立ち上がると、背は元のまま。後ろを振り返ると、寝ていたのは座布団の上。

オチの部分がそっくりですが、この小咄の題は、しょせん、人には生得の定められた器しか与えられないという教訓でしょう。

円生の逃げ噺

上方噺で、東京にいつ移植されたかは不詳です。上方の演出では、発端が少し違っています。

道頓堀の芝居小屋に、関取が顔パスの無料で入場。見ていた二尺二寸の小男が、巨体の陰に隠れていっしょに入ろうとし、つまみ出されます。そこで、男がくやしがって一念発起。相撲取りになってやろうと決心するわけです。

東京では、大正から昭和初期に五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)が得意にしました。五代目は「デブの円生」とあだ名されたほど、相撲取りなみに恰幅のいい落語家でした。

先の大戦後は、養子となった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が継承。客種が悪いときに演じる「逃げ噺」の一つにしていました。円生自身、相撲に造詣が深く、相撲ネタの「阿武松」「花筏」なども十八番でした。

類話「小粒」

類話「小粒」では、こうなります。

ある小男が大きくなりたい一心で芝山の仁王尊に願掛けします。すると、仁王さまが夢枕に立ち、「なんじの信心の威徳により、背丈を三寸伸ばしてとらす」とありがたいお告げ。目覚めて、半信半疑で足を伸ばすと、蒲団から足がニュッ。やれありがたやとはね起きると、布団を横にして寝ていた、というものです。

原話の形には、こちらの方が近いですが、オチのダメ押しが効いています。

上方噺「野崎まいり」

小男がからかわれる噺では、上方の「野崎まいり」があります。

野崎まいりの慣習、船上と土手の上の悪口合戦。船の小男がさんざん悪態をつかれ、くやしまぎれに「山椒は小粒で、ひりりと辛いわい」と言い返そうとして、「さんしょは、ええと、ひりりと辛いわい」。土手の男が、「やい、教えてもろたんならちゃんと言え。小粒が抜けとるわい」と言うと、小男、川の中をキョロキョロ探して「えっ? ど、どこに」

雷電について

雷電為右衛門(1767-1825)は信濃(長野県)出身。最高位は大関。松江藩主松平家の抱え力士で、怪力無双、優勝相当25回。生涯成績は254勝10敗2分14預かり5無勝負、勝率9割6分2厘。文化8年(1811)2月、43歳で引退。全盛時は197cm、170kg。43、44、38連勝、各1回。

横綱や大関には一度も負けず、生涯10敗は、小結に1敗した以外はすべて平幕や十両相手のポカ負けというところから、この噺のようなヨタ噺が考えられたのでしょう。

相撲至上最強といわれる、伝説の強豪ですが、横綱とならなかったのは、免許を出す吉田司家が外様の肥後細川家の家臣だったので、松平家が申請しなかったためと伝えられます。

鍬潟について

もちろん架空の力士です。

江戸時代には、小人力士や巨人力士、子供力士などを見世物的に巡業の看板にすることはあっても、実際に割りを組んで相撲を取らせることはしませんでした。

【語の読みと注】
雷電為右衛門 らいでんためえもん



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かさご【笠碁】落語演目

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【どんな?】

碁打ちの二人が「待った」で大げんか、はては絶交へ。
数日たつと二人はそわそわしてきて、そんな雨の昼下がり。
だんなが菅笠かぶってやってきて、仲直りして碁打ちを。
雨はあがったのに、盤に水が漏るのはどうしたことか。

別題:雨の将棋

あらすじ

碁がたきのだんなが二人。

両方ともザル碁で、下手同士だが、ウマがあって毎日のように石を並べあっている。

仲がいいとつい馴れ合うから、いつもお互いに待った、待ったの繰り返し。

そんなことでは上達しないからと、今後一切待ったはなしということにしようと取り決めたのはいいが、言い出しっ屁がついいつもの癖で
「そこ、ちょいと待っとくれ」

「おまえさんが待ったなしを言いだしたんだからダメだ」
と断ると、
「それはそうだが、そこは親切づくで一回ぐらいいいじゃあないか」
と、しつこい。

自分で作ったルールを破るのは身勝手だと「正論」を吐けば、おまえは不親切だ、理屈っぽすぎると、だんだん雲行きが怪しくなる。

しまいにはかんしゃくのあまり、昔金を貸したことまで持ち出すので、売り言葉に買い言葉。

「その恩義があるから大晦日には手伝いに行ってやれば蕎麦一杯出しゃがらねえ、このしみったれのヘボ碁め」
「帰れ」
「二度と来るもんか」

……という次第で決裂したが、意地を張っているものの、そこは「碁がたきは憎さも憎しなつかしし」。

雨の二、三日も降り続くと、退屈も手伝って、
「あの野郎、意地ィ張らずに早く来りゃあいいのに」
と、そぞろ気になって落ちつかない。

女房に鉄瓶の湯を沸かさせ、碁盤も用意させて、外ばかり見ながらソワソワ。

一方、相方も同じこと。

どうにもがまんができなくなり、こっそり出かけてようすを見てやろうと思うが、あいにく一本しか傘がないので、かみさんが、
「持っていかれると買い物にも行けない」
と苦情を言うから、しかたなく大山詣りの時の菅笠をかぶり、敵の家の前をウロウロと行ったり来たり。

それを見つけて、待ったのだんなは大喜び。

「やいやい、ヘボ」
「なに、どっちがヘボだ」
「ヘボかヘボでねえか、一番くるか」

めでたく仲直りして碁盤を囲んだのはいいが、なぜか盤に雨漏り。

それもそのはず、まだ菅笠をかぶったまま。

しりたい

碁敵

ごがたき。碁打ちのライバルをいいます。

この噺の原話は古く、初代露の五郎兵衛(1643-1703)作の笑話本で元禄4年(1691)刊『露がはなし』中の「この碁は手みせ金」です。「唖の釣り」をお読みください。

マクラに「碁敵は憎さも憎しなつかしし」という句を振るのがこの噺のお約束ですが、この句の出典は明和2年(1765)刊の川柳集『俳風柳多留』初編で、「なつかしし」は「なつかしさ」の誤伝です。

円朝をうならせた三代目小さんの至芸

明治に入ると、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、碁好きの緻密な心理描写と、いぶし銀のような話芸の妙で、十八番中の十八番としました。いまでは、柳家系の噺となったゆえんです。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)も、はるか後輩の小さんの芸に舌を巻き、「もう決して自分は『笠碁』は演じない」と宣言したといいます。

三代目小さんは、円朝の存在をつねに敵視していました。円朝はそうでもなかったようなのですが、小さんだけが、です。

円朝のこの宣言は、三代目小さんには「ざまあみろ」といったところでしょうか。

五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)も、もちろん得意にしました。五代目の「笠碁」は、大師匠の三代目の直系ではなく、三代目柳亭燕枝(進藤勝利、1894-1955)に教わったものです。

従来は、待ったのだんなが家の中から碁敵を目で追うしぐさだけで表現したのを、笠をかぶって雨中をうろうろするところを描写するのが特徴でした。

「待った」はタブー

西洋のチェスでは、待った(Take Back)は即負け。「将棋の殿さま」では、殿さまが家来に待ったを強制する場面がありますが、碁盤、もしくは将棋盤の裏側のくぼんだところは、待ったをした者の首を乗せるためのものとか。

碁も、「いったん石を下ろしたら、もう手をつけることはできない」と「笠碁」のだんなの一人が言っていますが、これもチェスのTouch and move&quot(触れたら動かせ!)の原則と共通して、勝負事は洋の東西を問わず、厳しいものという証でしょう。

とはいえ、そう豪語した当人がすぐ臆面もなく「待った」するところが、落語の、人間の弱さに対する観察の行き届いたところです。

囲碁の出てくる噺は、ほかに「碁泥」「柳田格之進」があります。

志ん生の「雨の将棋」

楽屋内でも将棋マニアで知られ、素人離れしてかなり強かったという五代目古今亭志ん生。彼は「笠碁」を改作して碁を将棋に代え、「雨の将棋」と題して、より笑いの多いものに仕立てました。

オチは、奮戦しているうちに片方の王様が消え、あとで股ぐらから出てきたので、「かなわないから、金の後ろへ逃げた」という珍品です。

小里ん語り、小さんの芸談

「笠碁」の「笠」は、かならず「雨」をイメージさせるものなのですね。弟子の小里んが記憶の底から掘り出した、五代目小さんの芸談です。

師匠に言われたのは「これは秋の雨だぞ」ということです。「秋は人恋しくなるから、じっとしていると、出ていきたくなる。梅雨は鬱陶しいから、碁を打とうという気分とは違う。シトシトシトシトした、大降りじゃない、物悲しいような雨だ」と教わりました。「大山詣りの菅笠で凌げる程度の降りだから」ってね。(中略)「やっぱり、この噺は雨の音が聞こえるようじゃないとダメだ」とも言ってましたよ。喧嘩のあとの物悲しさが、雨で増すというかな。

五代目小さん芸語録 柳家小里ん+石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年



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おびきゅう【帯久】落語演目

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【どんな?】

日本橋の商人、和泉屋与兵衛と帯屋久七。
金にからんだ大岡政談の一編。

別題:和泉屋与兵衛(上方) 名奉行(上方) 指政談(上方)

あらすじ

享保5年、春のこと。

日本橋本町四丁目に和泉屋与兵衛いずみやよへえという呉服屋があった。

主人は温厚な人柄で、町内の評判もよく、店はたいそうな繁盛ぶり。

本町二丁目にも帯屋という、これも呉服屋があるが、対照的にこちらは、主人久七きゅうしちの性格が一癖あるのに加え、店も陰気な雰囲気で、「売れず屋」という異名がついてしまうぐらい、さっぱりはやらない。

とうとう三月の晦日みそかの決済もできず、久七が和泉屋に二十両の金を借りにきた。

人のいい与兵衛は、「商人は相身互あいみたがい」と、証文、利息もなしで快く用立てた上、ごちそうまでして帰す。

二十日ほどして返しにきたが、これに味をしめたか、たて続けにだんだん高額の金を無心しにくるようになった。

その都度、二十日ほどできちんと返済に来たので、十一月に百両という大金を借りに来た時も、与兵衛はあっさりと貸してしまう。

今度は、一月たっても梨のつぶて。

さすがに気になりだしたころ、大晦日になって、やっと返しにきた。

ところが、座敷に通して久七が金を出し、入帳したところで、番町の旗本から与兵衛に緊急の呼び出し。

大晦日でてんてこ舞いの折から、与兵衛があわただしく出かけると、不用意にも金はそのまま、久七一人座敷に残された。

久七、悪心あくしんが兆し、これ幸いと金を懐に入れ、なに食わぬ顔でさようなら。

帰宅した与兵衛は金がないのに気づき、さてはと思い至ったが、確かな証拠もないので、自分の不注意なのだとあきらめてしまう。

帯屋の方では、百両浮いたのが運のつき始め。

新年早々、景品をつけて大奉仕したので、たちまち大繁盛。

一方、和泉屋はこれがケチのつき始めで、三月に一人娘が、次いで五月にはおかみさんがぽっくりみまかった。

追い打ちをかけるようにその年の暮れ、享保きょうほう六年十二月十日の神田三河町の大火で、蔵に戸前とまえもろとも店は全焼。

あえなく倒産した。

与兵衛は、以前に分家してあった武兵衛という忠義な番頭に引き取られるが、どっと病の床につく。

武兵衛もまた、他人のけ判をしたことから店をつぶし、今はうらぶれて、下谷長者町に裏長屋住まいの身だが、懸命に旧主の介抱をするうち、十年の歳月が流れた。

ようやく全快した与兵衛、自分はもうなんの望みもないが、長年貧しい中、自分を養ってくれた武兵衛に、もう一度店を再興させてやりたいと、武兵衛が止めるのも聞かず、帯屋に金を借りにいく。

相手も昔の義理に感じて善意で報いてくれるだろう、という期待だが、当の帯屋は冷酷無残でけんもほろろ。

「銭もらい」
とののしり、
「びた一文も貸す金はない」
と言い放つ。

思わず、かっとして百両の件を持ちだし、
「人間ではない」
とののしると、
「因縁をつけるのか」
と、久七は煙管で与兵衛の額を打ち、表にたたき出す。

与兵衛は悔しさのあまり、帯屋の裏庭の松の木で首をくくってやろうとふと見ると、不用心にもかんなくずが散らばっているので、いっそ放火して思いを晴らそうと火をつけたが、未遂のうちに取り押さえられる。

事情を聞いた町役人は同情し、もみ消してくれるが、久七は近所の噂から、百両の一件が暴かれるのを恐れ、先手を打って奉行所に訴え出る。

これで与兵衛は火つけの大罪でお召し捕り。

名奉行、大岡越前守さまのお裁きとなる。下調べの結果、帯屋の強悪ぶりがわかり、百両も久七が懐に入れたと目星をつけた。

越前守はお白州で、
「その方、大晦日で間違いが起こらぬものでもないと、親切づくで春ながにでも改めて持参いたそうと持ち帰ったのを忘れておったのではないか」
とカマをかけるが、久七は
「絶対に返しました」
とシラを切る。

そこで、久七に右手を出させ、人指し指と中指を紙で巻いて張り付け、判を押す。

「これはものを思い出す呪いである。破却する時はその方は死罪、家は闕所けっしょ、そのむね心得よ」

久七は、紙が破れれば首が飛ぶというので、飯も食えない。

三日もすると音を上げて青ざめ、出頭して、まだ返していないと白状する。

奉行はその場で元金百両出させた上、十年分の利息百五十両を払うように久七に命じた。

持ち合わせがないとべそをかくと、百両を奉行所で立て替えた上、残金五十両を年賦一両ずつ払うよう、申し渡す。

「……さて、和泉屋与兵衛。火付けの罪は逃れられぬ。火あぶりに行うによって、さよう心得よ」

これを聞いて、久七が喜んだのなんの。

「さすがは名奉行の大岡さま。どうかこんがりと焼いていただきましょう」
「なれど、五十両の年賦金、受け取りし後に刑を行う」

これだと、和泉屋がフライになるまで五十年も待たねばならない。あわてたのは久七。

「恐れながら申し上げます。ただちに五十両払いますので、どうかすぐに和泉屋をお仕置きに」
「だまれッ。かく証文をしたためたるのち、天下の裁判に再審を願うとは不届き千万。その罪軽からず」
「うへえッ、恐れいりました」

奉行、与兵衛に
「その方、まことに不憫ふびんなやつ。何歳にあいなる」
「六十一でございます」
還暦かんれきか。いやさ、本卦ほんけ(=本家)じゃのう」
「今は分家の居候いそうろうでございます」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

享保5年  【RIZAP COOK】

享保5年とは、1720年のこと。

大岡政談がネタ本  【RIZAP COOK】

講談の大岡政談ものと、『明和雑記』中の名奉行、曲淵景漸まがりぶちかげつぐ(曲淵甲斐守)の逸話をもとに、上方で落語化されたものです。

曲淵景漸は、隠居年齢ともいえる41歳で大坂西町奉行に就任して甲斐守の受領名を拝名しました。明和6年(1769)には江戸北町奉行に出世して、約18年間その職を務め、江戸の治安統治に尽力しました。その間、田沼意知おきとも刃傷にんじょう事件を裁定し、犯人である佐野政言まさことを取り押さえなかった若年寄や目付などに出仕停止などの処分を下したという人です。

『明和雑記』は和歌や俳諧について見聞したことを記した雑記随筆。作者は尾張藩士で俳人の東条有儘とうじょうゆうじんです。大坂の風聞雑記が中心です。明和元年(1764)、朝鮮通信使が大坂に立ち寄ったところから書き起こされています。

「名奉行」と題して、明治末に『文藝倶楽部』に載った大阪の二代目桂文枝(のち文左衛門)の速記をもとに、六代目三遊亭円生が東京風に改作し、昭和32年(1957)10月、上野・本牧亭での独演会で初演しました。円生没後は三遊亭円窓が復活させて演じています。立川志の輔もまた。

円生は『三遊亭円生全集』(青蛙房)中で、大岡政談では加賀屋四郎右衛門と駿河屋三郎兵衛の対決として、ほとんど同類のネタがあることを紹介しています。

米朝の十八番  【RIZAP COOK】

大阪では古くから演じられ、桂米朝が得意にしていました。大阪のやり方は円生のものとほとんど変わりませんが、和泉屋の所在地が東横堀三丁目、帯屋が同二丁目で、奉行は松平大隅守となっています。

米朝は発端の火事を、宝暦6年(1756)夏の大坂・瓦町の大火(銭亀の火事)としています。

火あぶり  【RIZAP COOK】

江戸中期からは放火のみに科されました。千住小塚原または鈴ヶ森で執行され、財産は没収(闕所)、引回しが付加され、文字通り「こんがり」焼かれた上、男は止め焚(罪人が焼死後再び火をつけ、鼻と陰嚢を焼く)までされました。

焼死体は三日二夜さらされました。火付けの罪科がここまで過酷なのも、いかに幕府が、一夜で江戸の町が灰になってしまう大火を恐れたかのあらわれでしょう。その流れは脈々と生きていて、放火の罪が重いのは現行法でも変わりません。

町火消

本卦  【RIZAP COOK】

本卦返りで、満60歳(数え61)で、生まれたときの干支に返ること。還暦のことです。

陰陽道で十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせ、その(10と12)最小公倍数で60年ごとに干支が一回りするため、誕生時と同じ干支が回ってくる、数え61歳を本卦返りとし、赤い着物を贈って祝う風習は今でもありますね。子供に返るという意味で赤い着物なのだそうです。

分家  【RIZAP COOK】

分家は本来は親戚筋の店で、奉公人ののれん分けは「別家」と呼んで区別しますが、この噺の武兵衛のように、忠節で店への功労があった大番頭を、特別に親類扱いで同店名を許し、「分家」と認めることがありました。

つっこみ  【RIZAP COOK】

あらすじでは略しましたが、お白洲で、奉行が最初、利息の返済を「月賦にするか」と久七にただし、年賦がいいというので、「それでは年十両か」「もう少しご猶予を」「では五両か」「もう少しご勘弁を」と値切り、年一両に落ち着くというやり取りがあります。

しかし、これでは、奉行の腹をもし久七が察知して、最初の条件で承諾すれば、数年で与兵衛はフライですから、危ない橋で、噺の盲点といえます。奉行の智略、貫禄で押し切らないと、名裁判にも難癖がつきかねません。

【語の読みと注】
享保5年 きょうほうごねん:1720年
請け判 うけはん:連帯保証人
闕所 けっしょ:お取りつぶし
曲淵景漸 まがりぶちかげつぐ
田沼意知 たぬまおきとも
佐野政言 さのまさこと
東条有儘 とうじょうゆうじん
本卦 ほんけ
本卦返り ほんけがえり:還暦
十干 じっかん
十二支 じゅうにし
陰陽道 おんみょうどう



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

せんきのむし【疝気の虫】落語演目

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【どんな?】

虫の夢を見た医者。
命乞いしている疝気の虫。
蕎麦が好物でトウガラシが苦手とか。
アソコにとりついて悪さしてる。
ならば、女体ではどうなる?
疝気とは泌尿器科全般の病のこと。

あらすじ

ある医者が妙な夢を見る。

おかしな虫がいるので、掌でつぶそうとすると、虫は命乞いをして「自分は疝気の虫といい、人の腹の中で暴れ、筋を引っ張って苦しめるのを職業にしているが、蕎麦そばが大好物で、食べないと力が出ない」と告白する。

苦手なものはトウガラシ。

それに触れると体が腐って死んでしまうため、トウガラシを見ると別荘、つまり男のキンに逃げ込むことにしているとか。

そこで目が覚めると、これはいいことを聞いたと、張り切って往診に行く。

たまたま亭主が疝気せんきで苦しんでいて、何とかしてほしいと頼まれたので、先生、この時とばかり、かみさんが妙な顔をするのもかまわず、そばをあつらえさせ、亭主にその匂いをかがせながら、かみさんにたべてもらう。

疝気の虫は蕎麦の匂いがするので、勇気百倍。すぐ亭主からかみさんの体に乗り移り、腹の中で大暴れするので、今度はかみさんの方が七転八倒。

先生、ここぞとばかり、用意させたトウガラシをかみさんになめさせると、仰天ぎょうてんした虫は急いで逃げ込もうとその場所に向かって一目散いちもくさんに腹を下る。

「別荘はどこだ、別荘……あれ、ないよ」

しりたい

疝気

江戸時代の漢方の病名など大ざっぱですから、要するに男のシモの病全般、尿道炎にょうどうえん胆石たんせき膀胱炎ぼうこうえん睾丸炎こうがんえんなどをひっくるめて疝気と称していました。昔から「疝気の大きんたま」などというのもそのためです。ちょうど女のしゃくに相当するもので、

悋気りんきは女の慎むところ、 疝気は男の苦しむところ」

というのは、落語のマクラの紋切り型。落語に登場の病気では、しゃく、恋わずらいと並んでビッグ3でしょう。「藁人形わらにんぎょう」「万病円まんびょうえん」「夢金ゆめきん」ほか、あげればキリがありません。

この噺の「療法」はもちろんインチキのナンセンスですが、実は、疝気の正体はフィラリアという寄生虫病という説もあり、あながち虫に縁がなくもありません。

なお、噺の中で疝気の虫が蕎麦が好物というのは、蕎麦は腹が冷えるので、疝気には禁物とされていたのを戯画化したのでしょう。

先の大戦後では、五代目古今亭志ん(美濃部孝蔵、1890-1973)生の独壇場どくだんじょうで、四代目三遊亭円遊えんゆう(伊藤金三、1878-1945)も得意でした。

志ん生と「疝気の虫」

昭和24年(1949)の新東宝映画『銀座カンカン娘』で、落語家・桜亭新笑しんしょうに扮した五代目古今亭志ん生(当時59歳)が「疝気の虫」を縁側で稽古けいこする場面をご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。

旧満州から帰国後間もなく、まだすっきりと痩せていますが、蕎麦をたぐるしぐさはなかなかあざやかなものです。

志ん生は実演では最後に「別荘……」と言って、キョロキョロあたりを見回す仕草で落としていました。

その他の演者では、バレ(艶笑)の要素を消すため、

「ひょいと表に飛び出した」「畳が敷いてあった」「スポッ」

などとすることもあります。 

疝気のマジメな療法

根岸鎮衛やすもり著『耳嚢みみぶくろ』巻五に、疝気の薬としてブナの木の皮を用いたところ、翌日にはケロリと治ってしまったという逸話が載っています。漢方にはこのような処方はなく、

阿蘭陀オランダ法の書を翻訳 する者有て其の説を聞くに、 符を号するが如しとかや(よく合致するようだ)」

とあります。同書にはそのほかにも、疝気治療に関するまじないや薬の記述が多く、やれ「マタタビ一もんめを酒か砂糖湯に 溶かしてのむ」とか、四国米を毎日4-5粒ずつ食べろとか、著者当人も相当悩まされた末、ワラにもすがったあとがありありです。

【疝気の虫 古今亭志ん生】



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にわかに【庭蟹】落語演目

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【どんな?】

洒落のわからないだんな、番頭に洒落を求める。
「なにかお題を」
「庭に蟹が這い出したが」
「そうニワカニ(俄に)は洒落られません」
だんなはわからない。
小僧が洒落になってると言うと、だんなはもう一度と。
「早急におっしゃられても洒落られません」
「これはうまい」

別題:洒落番頭

あらすじ

洒落のわからない、無粋なだんな。

得意先のだんなから、お宅の番頭さんは粋で洒落がうまいとほめられ、番頭に
「おまえさんは洒落がうまいと聞いたが、あたしはまだ洒落というものを見たことがない。ぜひ見せておくれ」
と頼む。

番頭が
「洒落は見せるものではないから、なにか題を出してください」
と言うので、
「庭に蟹が這い出したが、あれはどうだ」
「そうニワカニ(俄に)は洒落られません」

それなら、雨が振り出して、女が傘を半開きにしていくところではどうかと聞くと
「さようで。そう、さしかかっては(=差し当たっては)洒落られません」

だんな、
「主人のあたしがこれほど頼んでいるのに、洒落られないとはなんだ」
とカンカン。

そこへ小僧が来て、ちゃんと洒落になっていることを説明。

だんなは、なんだかまだわからないが、謝まって、ほめるからもう一度洒落てくれと頼むと、番頭、
「だんなのようにそう早急におっしゃられても、洒落られません」
「うーん、これはうまい」

底本:五代目古今亭志ん生

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ダジャレを集めた逃げ噺

昭和では六代目三升家小勝(1971年没)が時折演じました。三代目三遊亭金馬が自著『浮世談語』中で梗概を紹介しているので、金馬のレパートリーにもあったと思われます。

ダジャレを寄せ集めただけの軽い噺で、小咄、マクラ噺、逃げ噺として扱われることが多く、洒脱で捨てがたい味わいを持ちながら、速記もなく、演者の記録も残りにくい性質のものです。

「洒落番頭」の別題もあるようですが、ほとんど使用例を聞きません。

志ん生の音源で

『志ん生、語る。』(岡本和明編著、アスペクト、2007年)は、家族、門弟、落語界の朋友・後輩たちが五代目志ん生の知られざる、とっておきの逸話を語る貴重なものです。付録CDで「小咄二題」として「小僧とぼた餅」とともに「庭蟹」が収録されています。

志ん生の「庭蟹」はこれまで、「化物つかい」のマクラとして音源化されたものはありましたが、まさに「幻の音源」にふさわしい、貴重なものです。

噺の進め方は極めてオーソドックスで、「庭蟹」「さしかかっては…」のダジャレのほか、「ついたて(=ついたち)二日三日」のシャレも入れ、きちんとオチまで演じています。

原話もダジャレの寄せ集め

安永9年(1780)刊の笑話本『初登』中の「秀句」が原話です。

「これは「庭蟹=にわかに」のくだりを始め、ほぼ」現行通りの内容ですが、オチは、下男の十助が茶を持って出て、「だんな、あがりませ」と言うのをだんながダジャレと勘違いし、「これはよい秀句」と言う、たわいないものです。

秀句傘

狂言「秀句傘」に原型があるともいわれます。「秀句」は本来、美辞麗句のことで、のち、テレビの大切りで言う「座布団もの」の秀逸な洒落を意味するようになりましたが、ここでは単なる地口、ダジャレに堕しています。



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やなぎやこもん【柳家小もん】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2013年5月、柳家小里ん
【前座】2014年11月、柳家小多け
【二ツ目】2018年3月、柳家小もん
【真打ち】
【出囃子】春駒
【定紋】剣片喰
【本名】竹澤まさし
【生年月日】1990年9月10日
【出身地】群馬県前橋市
【学歴】群馬県立前橋高校→学習院大学文学部史学科
【血液型】B型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki YouTube
【蛇足】住吉踊り連。上州事変(2018年、三遊亭ぐんま、林家つる子、柳家小もん、立川がじら⇒群馬県出身)



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はやしやたまへい【林家たま平】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2013年4月、九代目林家正蔵
【前座】2014年8月、林家たま平
【二ツ目】2017年11月
【真打ち】
【出囃子】三ツ面子守り ひょっとこの合方
【定紋】花菱
【本名】海老名泰良
【生年月日】1994年5月29日
【出身地】東京都台東区
【学歴】明治大学中野高校
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は日本舞踊、筋トレ、ボクシング、シンセサイザー演奏。父は九代目林家正蔵、叔父は二代目林家三平、弟は林家ぽん平。海老名一家。若旦那の会



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はるかぜいっとう【春風一刀】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2013年4月、春風亭一朝
【前座】2014年8月、春風亭朝太郎
【二ツ目】2017年11月、春風一刀
【真打ち】
【出囃子】江戸独楽
【定紋】光琳蔦
【本名】帯将也おびまさや
【生年月日】1987年12月17日
【出身地】東京都世田谷区
【学歴】
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は山登り。



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はやしやあんこ【林家あんこ】噺家



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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2013年3月、林家しん平
【前座】2014年5月、林家あんこ
【二ツ目】2017年5月
【真打ち】
【出囃子】金魚の昼寝
【定紋】花菱
【本名】阿部ゆき絵
【生年月日】1986年5月7日
【出身地】東京都墨田区両国
【学歴】東洋大学文学部日本文学文化学科
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】父は林家時蔵。趣味は歌舞伎鑑賞、舞台鑑賞、コント。2021年、第21代すみだ親善大使。若旦那の会。落語ガールズ

落語ガールズ:女性落語家の認知・精進などを目的として、落語協会、落語芸術協会、落語立川流の真打、二ツ目のユニット。平成29年(2017)結成。現在のメンバーは、川柳つくし、林家ぼたん、古今亭駒子、三遊亭藍馬、立川小春志、三遊亭律歌、春雨や風子、柳家花ごめ、三遊亭遊かり、林家あんこ、春風亭一花、立川だん子、三遊亭遊七、三遊亭あら馬。



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さんゆうていかじつ【三遊亭歌実】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2013年3月、三遊亭歌之介(→四代目三遊亭円歌)
【前座】2014年5月、三遊亭歌実
【二ツ目】2017年5月
【真打ち】
【出囃子】茶わんむしの唄
【定紋】片喰
【本名】塩満拓也しおみつたくや
【生年月日】1992年9月16日
【出身地】鹿児島県鹿児島市
【学歴】鹿児島県立鹿児島実業高校→警察官 ※鹿実で歌実とか
【血液型】O型
【ネタ】古典と新作 交番戦記 元犬 初天神 湯屋番 お見立て
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は銭湯で大汗をかく、剣道(二段)、バイク、爬虫類、古代魚。



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