やなぎやきさぶろう【柳家㐂三郎】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2005年12月、柳家さん喬
【前座】2006年6月、柳家小ぞう
【二ツ目】2009年6月、柳家小太郎
【真打ち】2021年3月、柳家喜三郎
【出囃子】牛若丸
【定紋】丸に三ツ柏
【本名】塚本洋平
【生年月日】1979年6月14日
【出身地】神奈川県厚木市
【学歴】大正大学仏教学部
【血液型】A型
【ネタ】食べる噺、シュールな噺、妖怪モノや怪談など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は妖怪散策、プロレス観戦。2022年3月、令和3年度国立演芸場花形演芸大賞銀賞。



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さんゆうていかせん【三遊亭歌扇】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2005年8月、三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)に
【前座】2006年3月、三遊亭歌五
【二ツ目】2009年6月、四代目三遊亭歌扇(自称)。2017年、師没後、三遊亭若円歌に移門
【真打ち】2020年3月
【出囃子】我は海の子→末広狩
【定紋】片喰
【本名】桒原秀章くわはらひであき
【生年月日】1971年7月29日
【出身地】広島県尾道市
【学歴】広島県立尾道工業高校
【血液型】A型
【ネタ】子ほめ 桃太郎 やかんなめ 締め込み 竹の水仙
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はランニング、パソコン、釣り、読書。



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さんゆうていしうか【三遊亭志う歌】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2004年8月、三遊亭歌武蔵に
【前座】2005年8月、三遊亭歌ぶと
【二ツ目】2008年11月、三遊亭歌太郎
【真打ち】2020年3月、三遊亭志う歌
【出囃子】ベロベロの神様
【定紋】右二つ巴
【本名】磯部成伸
【生年月日】1982年7月7日
【出身地】東京都大田区
【学歴】二松学舎大学中退
【血液型】A型
【ネタ】大工調べ 夢の酒 居残り佐平次 文七元結 明烏 寝床 磯の鮑 鼠穴
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は筆ペン、宇宙、北海道、水泳、飲酒。遅刻でしくじり。2013年、第23回北とぴあ若手落語家競演会大賞。2013年、第3回池上落語会大賞。2017年、平成29年度NHK新人落語大賞大賞(磯の鮑)。



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しゅんぷうていいっさ【春風亭一左】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2004年11月、春風亭一朝
【前座】2005年8月、春風亭一左
【二ツ目】2008年11月
【真打ち】2020年3月
【出囃子】あわ餅
【定紋】中陰光琳蔦
【本名】鶴身一也
【生年月日】1979年2月19日
【出身地】神奈川県秦野市
【学歴】神奈川県立伊志田高校→武蔵工業大学中退
【血液型】O型
【ネタ】粗忽の釘 締め込み 堪忍袋 らくだ
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はテニス、サーフィン。落語協会サーフィン部副部長。はだのふるさと大使。2014年、第13回さがみはら若手落語家選手権入賞。



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さんゆうていじょうすけ【三遊亭丈助】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2004年9月、二代目三遊亭円丈(大角弘、1944-2021)に ※42歳
【前座】2005年4月、三遊亭たん丈
【二ツ目】2008年11月
【真打ち】2020年3月、三遊亭丈助
【出囃子】千本桜
【定紋】三ツ組橘
【本名】浅野成司あさのせいじ
【生年月日】1962年1月15日
【出身地】秋田県男鹿市
【学歴】秋田県立男鹿高校→東京デザイナー学院→テレビ局の大道具係など
【血液型】O型
【ネタ】ナマハゲ小噺 秋田弁金明竹 死神
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はスキューバダイビング。ナマハゲ伝導士。脱サラ高齢還暦一歩前(58歳)で真打ち。



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やなぎやごんのすけ【柳家権之助】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2004年6月、三代目柳家権太楼に、柳家ごん坊で
【前座】2005年1月
【二ツ目】2008年3月、柳家ほたる
【真打ち】2019年9月、柳家権之助
【出囃子】星空のディスタンス
【定紋】丸にくくり猿
【本名】木村茂樹
【生年月日】1976年10月5日
【出身地】東京都渋谷区
【学歴】東京都立深沢高校
【血液型】B型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は猫、ギター、写真、野鳥観察、絵画。



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ここんていぎんし【古今亭ぎん志】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2004年6月、初音家左橋
【前座】2005年1月、初音家左吉
【二ツ目】2008年3月
【真打ち】2019年9月、古今亭ぎん志
【出囃子】銀のぴらぴら
【定紋】梅の花
【本名】廣田康太
【生年月日】1974年11月26日
【出身地】東京都世田谷区
【学歴】岩手リハビリテーション学院→法政大学人間環境学部(社会人入試で)
【血液型】
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は献血、リハビリ、ロックンロール。理学療法士。2007年、2007年度 銀色有功章(献血)。2010年、2010年度金色有功章(献血)。2014年、第二回うらわ落語選手権優勝。



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やなぎやこしん【柳家小志ん】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2004年5月、柳家さん喬
【前座】2005年1月、柳家小きち
【二ツ目】2008年、柳家喬の字
【真打ち】2019年9月、五代目柳家小志ん
【出囃子】江戸の春
【定紋】丸に三ツ柏
【本名】
【生年月日】1978年3月14日
【出身地】埼玉県岩槻市(さいたま市)→東京都江東区
【学歴】埼玉県立大宮東高校→福祉施設8年→東京福祉大学通信教育学部社会福祉学科
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki YouTube
【蛇足】趣味は落語・ハシゴ酒・酒収集・落語会の企画構成。岩槻ねぎわい親善大使、岩槻人形大使。



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あくいんあっか【悪因悪果】故事成語 ことば

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わるい原因にはわるい結果がある、ということ。

仏教の「因果応報」に基づいたことばです。

善因善果=果報
悪因悪果=因果

本来は、「因」にも「果」にも善悪の違いはないのですが、日本で長いこと使われている間に、こんなエッセンスが生まれてしまいました。


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いんがおうほう【因果応報】故事成語 ことば

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善い行いにはよい報いがあり、悪い行いには悪い報いがあるものだ、という意味。

仏教の因果思想です。原因があって結果が生まれる、という考え方。

この考え方は仏教よりも以前に、すでに古代インドに広まっていたものでした。仏教では、この考えに時間軸を取り入れて、過去や現在の善行悪行に応じて、現在や未来に善悪の報い(こたえ=結果)がもたらされる、という説。

よく「因果」ということばを使いますが、この語にはなぜか悪い行いの結果がこんなろくでもないことにつながった、という意味となるものです。悪因悪果にしか使われないようになっています。

まとめると、こうなります。

善因善果=果報
悪因悪果=因果

これを覚えておくと、円朝作品に触れる時に便利です。円朝がとらえる世界はこのふたつによって、人々が転がされているのです。



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ぜんいんぜんか【善因善果】故事成語 ことば

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よい原因にはよい結果がある、という意味。

転じて、よいことをすればよいごほうびがもらえる、ということ。

仏教由来の成語です。因果応報の基づいたことば。

その根底にあるのは、過去や現在の善悪の行いに応じて、現在や未来の善悪の報いがもたらせれる、という考えです。

反対語は「悪因悪果」です。

行いに応じた善なり悪なりの報いを「果報」といいます。このことば、昔は悪い報いにしか言われなかったのですが、どうしたわけか、今では「果報は寝て待て」と使われるように、よい報いに使われています。

狂言「箕被みかずき」に「果報は寝て待てといういふことがある」と出てきます。500年以上前からこのように使われていたのですね。



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せきあくのよおう【積悪余殃】故事成語 ことば

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悪いことをし続けた家には、必ず子孫に悪い影響が出る、という意味。

個人ではなく家に、であるところが特徴です。

ろくでもないことを四六時中している奴の家には子々孫々にわたって悪い影響があるもんだ、という呪詛にも似た警句です。恐ろしい発想ですが、世の中は、誰かがきっと見ているんだからどうしようもないよ、という、最後は正義が勝つのだよ、という人々の切実な理想社会のありかたを語っているのですが、現実にはなかなかそうもいきません。

積善余慶」の対語です。詳しくはそちらを。



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はやしやたこぞう【林家たこ蔵】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2003年11月、林家こぶ平(→九代目林家正蔵)に
【前座】2004年3月、林家たこ平
【二ツ目】2007年5月
【真打ち】2018年9月、林家たこ蔵
【出囃子】たこ踊り
【定紋】花菱
【本名】木道義明
【生年月日】1979年7月4日
【出身地】大阪府吹田市
【学歴】
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】大丸・松坂屋「ハタラク オトコグミ」の広告に出演。



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せきぜんのよけい【積善余慶】故事成語 ことば

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よいことをし続けた家ではその余徳がその子孫にふりそそがれる、という意味。

「積善の家に余慶あり」を省略したことばです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)が演じる「ちきり伊勢屋」での最後のキメ台詞が「ちきりの暖簾をかけて、りっぱに家を再興するという、積善の家に余慶あり、ちきり伊勢屋でございます」です。

柳家さん喬師も長い「ちきり伊勢屋」を演じていますが、こちらにはこのことばは出てきません。ただし、こちらはこちらで独特のすばらしい世界を展開しているもので、一聴の価値はあふれるほど。

「積善余慶」の反対語は「積悪余殃」です。

易経えききょう坤卦文言こんかぶんげん伝には「積善の家にはかならず余慶あり。積不善の家には余殃あり」とあります。なんだか、難しいです。

それから約500年後の『説苑ぜいえん』一六には変容しています。「積善の家、かならず余慶あり。積悪の家、かならず余殃あり」となりました。善と悪との対比で、だいぶわかりやすくなっていますね。

『易経』は孔子(前551-前479)が一部手を加えており、『説苑』は前漢(前206-8)の劉向りゅうきょう(前77-6)の作品。二書は約500年の時間差があります。『説苑』は君主向けの訓戒書。説話集の類です。この手は読みやすさがいちばん。ですから、上記のような文体差があらわれます。ちなみに、ちなみに、春秋戦国時代という呼び方は、孔子の『春秋』と劉向の『戦国策』にちなんでつけられています。

「殃」はわざわい。積悪=積不善。よいことをすれば必ず報われるかで、悪いことしていると必ずろくなことがない、という呪いめいた考えです。

仏教には「善因善果」という考え方があります。よい行いをすれば必ず果報がその人にもたらされる、という考えです。仏教では、あくまでも人それぞれが説教の対象です。

ところが、「積善余慶」「積悪余殃」をうたった古代中国では、人ではなく、家がその対象となります。家、先祖、代々、家族、子孫といった単位が考え方の対象となるのですね。個人ではなく、家なのです。

ということは、「ちきり伊勢屋」の伝二郎。

親父の代には「乞食伊勢屋」と唾棄されるほどの家だったのを、人生と財産すべてを懸けた伝二郎自身の行為が、天に「積善」と認められ、噺の最後に触れられた「再興したちきり伊勢屋」はまさに余慶に報われた、ということなのですね。

伝次郎個人には報われないところが、このことばが噺の芯となっている由縁なのでしょう。



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ししゅくのへ【四宿の屁】落語演目

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【どんな?】

尾籠な小噺の寄せ集め。
これだけ集めりゃあね。
におってきそうです。

【あらすじ】

江戸時代、品川、新宿、千住、板橋の四つの岡場所(非公認の遊廓)を四宿といった。

吉原についでにぎわったわけだ。

これは、それぞれの女郎の特徴を、屁で表した小噺。

まず、品川。

昼遊びで、女郎が同衾中に布団のすそを足で持ち上げ、スーッとすかし屁。

客が
「寒い」
と文句を言うと
「あそこの帆かけ舟をごらんなさいよ」
と、ごまかす。

そろそろ大丈夫と足を下ろすと、とたんにプーンとにおう。

「うーん、今のは肥舟か」

次は、新宿。

これも、女郎が布団の中で一発。

ごまかそうと
「今、地震じゃなかった?」

今度は、千住。

女郎が客に酌をしようとしている時に、不慮の一発。

そばにいた若い衆が、自分が被ってやると、客は正直さに免じて祝儀をくれる。

女郎があわてて
「今のは私」

最後に、板橋。

ここは田舎出の女が多く、粗野で乱暴。

客が女郎に
「屁をしたな」
と文句を言うと、女は居直って客の胸ぐらをつかみ
「屁をしたがどうした。もししゃばりやがったらタダはおかねえ」
と脅す。

仰天して
「言わないからご勘弁を」
「きっと言わねえな」
と言うと
「それじゃ、もう一発。ブーッ」

スヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

四宿

四宿と呼ばれた新宿、品川、千住、板橋。

それぞれ、街道の親宿(=起点)で、吉原のように公許ではないものの、飯盛女の名目で遊女を置くことが許された四大「岡場所」でした。

以下、そのうち、新宿、板橋の沿革をひとくさり。

ほかの二宿については、「居残り佐平次」「品川心中」(以上が品川)、「藁人形」「今戸の狐」(以上が千住)を、それぞれお読みください。

内藤新宿

新宿は、正式名称は内藤新宿。

落語では「文違い」「五人廻し」(演者によって吉原)などに登場します。

地名の起こりは、家康公江戸入府直後、高遠城主・内藤信濃守に、現在の新宿御苑の地に屋敷を賜ったことからというのが定説です。

ほかにも諸説あって、確定しませんが。

甲州街道の起点で、宿場設立は元禄11(1698)年。

浅草阿部川町の名主・喜兵衛ら有志六人が設立を請願、その際、飯盛を置くことを許可されたものです。

当初は田んぼの中にあったとか。

遊女の客引きが目に余るというので、宿場そのものが享保3(1718)年にお取りつぶしに。

54年後の明和9年(1772)に復興しました。

その後、新宿追分(新宿一、二丁目)を中心に栄えました。

旗本・鈴木主水と遊女・白糸の情話もここが舞台。

遊女の投げ込み寺(死体遺棄所)として成覚寺がありました。

新宿の有名な郭は「豊倉」「新金」など。

中でも新金は、明治時代には、娼妓の扱いが過酷なところから「鬼の新金」の異名がありました。

現在の伊勢丹向かい、マルイのあたりにあった見世です。

板橋

板橋は中山道の起点。

上宿、中宿、平尾宿の三つに分けられていました。

宿場の起源ははっきりしません。

幕府が中山道の宿駅をを正式に定めた寛永7年(1630)当時からある、古い宿場です。

板橋の地名は、室町時代初期の成立とされる「義経記」にも記載されています。

上宿と中宿の境を流れる、石神井川に掛かっていた木橋から起こったとされます。

郭は、四宿の中では最も格下です。

飯盛もこの噺に登場するように粗野で田舎じみていると評されました。

板橋を舞台とする噺は、ほかには「阿武松」くらいです。

演者によっては、「三人旅」の出発を中山道回りとする場合に板橋を見送りの場に設定することもありますが。

名人たちの逃げ噺

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)が「客がセコな時にやったネタ」として有名です。この言い回しは、立川談志(松岡克由、1935-2011)によりますが。

六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)には、これをトリで毎日演じてて席亭に文句を言われた、というエピソードも。

円生の師匠、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)もしばしば演じたといいます。明治大正を代表する名人です。

屁の小咄

短い小咄の寄せ集めなので、演者によって異なったものを挿入することがよくあります。

以下、そのいくつかをご紹介。

花魁が、客の前でスーッ。

ごまかそうと、母親の病気を治すため願掛けして月に一度恥をかいていると言いつくろう。

客が感心して「えらいねえ」と言ったとたん、また一発。

「ほい、これは来月分」。

これは五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)のもの。

江戸城の大広間に、諸大名が集まっているところで、将軍が一発。

水戸さまが鼻を押さえて
「草木(=臭き)もなびく君の御威勢」
紀州さまが
「天下泰平(=屁)」
と続けると、諸大名が
「へーへーへー」

禿が客に酌をしながら一発。

花魁がしかって、下に降りろと言ったとたんに自分も一発。

「えー、早く降りないかい。あたしも行くから」

……まことにどうも、罪のないというか、あほらしいというか。

原話

千住の小咄の原話のみ分かっています。

明和9年(1772)刊の笑話本『鹿の子餅』中の「屁」です。

ただ、オチの部分は異なっています。

あとで、女郎がご祝儀をもらった若い衆にそっと「あたしのおかげだよ」とささやき、恩に着せるというもの。

現行のようなシャープさはありません。

これはこれで、その恩義が「屁」であるという、ばかばかしいおかしみがあります。

【語の読みと注】
岡場所 おかばしょ:非公認の遊廓
禿 かむろ



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したんろうふるき【紫檀楼古木】落語演目 

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【どんな?】

渋ーい噺。
爺さんが妙にカッコいいんです。

別題:古木 紫檀楼

あらすじ

ある冬の夕暮れ、薬研堀やげんぼりのさる家。

なかなかおつな年増としまで、芸事げいごとならばなんでもいけるというご新造しんぞが、お女中一人と住んでいる。

「らおやーァ、きせるー」
と売り声がしたので出てみると、ボロボロの半纏はんてん袖口そでくちが水っぱなでピカピカ光っている、きたない爺さん。

ちょうどご新造の煙管きせるが詰まっていたので、女中が羅宇らおの交換を頼む。

いやに高慢ちきな態度で、専門家の目で見ると趣味の悪い代物しろものなのに、金がかかっていることを自慢たらたら。

じいさんは嫌な気がしたが、仕事なのでしかたがない。

じいさん、玄関先で煙管をすげ替えていると、ご新造がそれを窓から見て、
「あんな、きたならしいじじいを煙管に触れさせるのはイヤだ」
と文句を言う。

二人の「きたない、きたない」という言葉が聞こえてきたので、爺さんはむっとして、代金を受け取る時、
「これをご新造に取り次いでほしい」
と、なにか書いてある紙切れを渡した。

ご新造がそれを読んでみると
「牛若の ご子孫なるか ご新造の 吾れを汚穢むさし(=武蔵坊)と 思いたまひて」
という皮肉な狂歌きょうか

だんなが狂歌をやるので、自分も少しはたしなみがあるご新造。

「ふーん」
と感心して、矢立やだてでさらさらと
「弁慶と 見たはひが目か すげ替えの のこぎりもあり 才槌さいづちもあり」
返歌へんかをしたためて、届けさせる。

それを爺さんが見て、またも、
「弁慶の 腕にあらねど 万力まんりきは 煙管の首を 抜くばかりなり 古木ふるき
と、今度は署名入りの返歌をよこした。

その署名を見て、ご新造は仰天。

紫檀楼古木したんろうふるきといえば、だんなの狂歌の先生の、そのまた先生という、狂歌界の大名人。

元蔵前の大きな羅宇問屋の主人だったが、番頭ばんとうにだまされて店をつぶされ、今は裏店うらだなに住んで、市中を羅宇のすげ替えに歩く身。

ご新造は、さっそく無礼をわびて家に招き入れた。

とりあえず、お風邪でも召しては、と綿入れの羽織を差し出す。

古木、断って
「ご親切はありがたいが、私はこのこの荷物をこう担げば、はおりゃー、着てるゥー(らおやー、きせるー)」

★auひかり★

うんちく

現行は短縮版

原話は不詳ですが、文化年間(1804-17)に作られた、古い狂歌噺といわれています。

最古の速記は、明治28年(1895)6月、雑誌『百花園ひゃっかえん』に掲載の二代目柳家小さんのものですが、小さんは当時すでに引退していて隠居名「禽語楼きんごろう」を名乗っています。

その小さんのバージョンは、現行よりかなり長く、この前に、零落した古木が女房に別れてくれと迫られ、「いかのぼり 長きいとまに さるやらば 切れて子供の 泣きやあかさん」と詠んで、女房が思いとどまるくだり、子供が、自身番の前でいたずらをし、町役になぐられて泣いて帰ってきたので、「折檻せっかん頂戴ちょうだいいたす おかげには せがれ面目めんもく なく(無く=泣く)ばかりなり」と詠んで、町役ちょうやくを謝らせる逸話いつわを付けています。

円生、彦六の演出

戦後は八代目林家正蔵しょうぞう(彦六ひころく)と六代目三遊亭円生がやっていました。

二人は同世代で犬猿の仲といわれた、ともに巨匠です。

競うように演じていました。

ともに円朝門弟の最後の一人、三遊一朝さんゆういっちょう(1847-1930)に習ったもので、本寸法ほんすんぽうです。

やり方では、円生の方が、ご新造と女中のやりとりなど、細かくなっています。

正蔵は、ご新造の返歌の「すげ替えの」を「背に負いし」としていますが、こうした演者による細かい異同は、昔からあったようです。

オチ近くでご女中がご新造にたしなめられ、ペコペコしながらもつい「今は落ちぶれて」だの、「これは私がいただいて、私のボロ半纏をこのじじいに」などと口にしてしまうくだりが円生演出にはありましたが、これは二代目小さんからの踏襲でした。

正蔵は、取り次ぎの女中が最後までなにがなにやらわからず、つっけんどんのまま終わるやり方でした。

狂歌

滑稽味を骨子こっしとする、和歌のジャンルとしては平安時代からありましたが、歌壇をはばかり「言い捨て」として記録されることはほとんどありませんでした。

近世に入って江戸初期、松永貞徳まつながていとく(1571-1653)の指導で、大坂で盛んになりました。初期には石田未得いしだみとくの『吾吟我集ごぎんわがしゅう』のような古歌こかのパロディーが主流でした。

江戸では、明和6年(1769)、唐衣橘洲からごろもきつしゅう(1743-1802)が自宅で狂歌会を催したのがきっかけで、同好の大田南畝おおたなんぽ( 1749-1823 )らとさかんに会を開くうち、これが江戸中の評判に。

ちなみに、この年は海の向こうでナポレオンが生まれています。

天明年間(1781-89)になると、狂歌の大ブーム、黄金時代を迎えました。

その時期の狂歌は、自由な機知と笑いがあふれ、「天明ぶり」とうたわれています。

文化年間(1804-18)になると低俗化し、次第に活力を失います。

狂歌師の中でも蜀山人しょくさんじん(太田南畝)は偶像的存在で、落語にも、その逸話や狂歌を紹介するだけの多くの「狂歌噺」が生まれました。

今ではこの「紫壇楼古木」を除いて、すたれています。

それすら、円生、正蔵没後は、ほとんど後継者がいません。

現代は、狂歌よりも川柳が好まれるようです。

島田裕巳の『大和魂のゆくえ』(集英社インターナショナル、2020年)を読んでいましたら、三島由紀夫の章がありまして、「三島の辞世の句」とやっていました。

三島は明らかに「辞世歌」ですね。あんな大智識ですらこんな具合です。現代の風潮、推して知るべしです。

噺家兼業の狂歌名人

紫壇楼古木( 1777-1832 )は、この噺で語られる通り、元は大きな羅宇屋の主人でした。

朱楽管江あけらかんこう( 1740-1800 )に師事した、寛政から文化年間にかけての狂歌後期の名匠です。

同時に落語家でもあって、狂歌噺を専門にしていたため、その創始者ともいわれます。

本名は藤島古吉。辞世歌は以下の通り。

六道の 辻駕籠に 身はのり(乗り=法)の 道念仏ねぶつ申して 極楽へ行く

羅宇屋

煙管きせる雁首がんくびと吸い口をつなぐ道具にラオス産の竹を使ったことから、この部分を羅宇らおと言いました。

ですから、羅宇屋らおやとは、煙管の竹の交換や修理をする職人をさします。

羅宇らおはラオス産、南瓜かぼちゃはカンボジア産、桟留さんとめはコロマンデル海岸のセントトマス産、咬𠺕吧じゃがたらはジャワ島産、錫蘭せいらんはセイロン島産、弁柄べんがらはベンガル地方産など、江戸時代は意外に国際的だったようです。

このように見ると、どこが鎖国だったのだろう、と思えてしまいます。

オランダ東インド会社と中国の船によって、南アジア方面から持ち込まれたものが多いのですね。

「鎖国」という用語がいずれ、教科書から消える日が来るそうです。

【語の読みと注】
新造 しんぞ:下級武士や上級町人の妻女
煙管 きせる
羅宇 らお
裏店 うらだな
唐衣橘洲 からごろもきっしゅう:1743-1802
大田南畝 おおたなんぽ:蜀山人、1749-1823
紫壇楼古木 したんろうふるき:1777-1832
朱楽管江 あけらかんこう:1740-1800



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やまおかかくべえ【山岡角兵衛】落語演目

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【どんな?】

角兵衛獅子は軽業芸が商売。
この噺は忠臣蔵物の講談が基。

【あらすじ】

浅野内匠頭たくみのかみの松の廊下刃傷にんじょう事件の後。

赤穂の浪士たちはあらゆる辛苦に耐え、ある者は町人に化けて吉良邸のようすを探り、仇討ちの機会を狙っていたが、その一人の山岡角兵衛がついに志を得ないまま病死した。

その妻のお縫は、女ながらも気丈な者。

なんとか夫に代わって主君の仇を報じたいと、吉良上野介のところにお妾奉公に入り、間者となった。

あと三日で上野介が米沢に出発することを突き止め、すわ一大事とこのことを大石内蔵助に知らせた。

そこで、元禄十五年十二月十四日。

茶会で吉良が在宅しているこの日を最後の機会と、いよいよ四十七士は討ち入りをかける。

その夜。

今井流の達人、美濃部五左衛門は、長屋で寝ていたが、気配に気づき、ひそかに主君上野介を救出しようと、女に化けて修羅場と化した屋敷に入り込んだ。

武林唯七たけばやしただしちに見とがめられて合言葉を
「一六」
と掛けられ、これはきっと賽の目だと勘づいたものの、あわてていて
「四五一、三二六」
と返事をしてしまう。

見破られて、かくなる上は破れかぶれと、獅子奮迅に暴れまわるうち、お縫が薙刀なぎなたを持って駆けつけ、五左衛門に斬りかかる。

しかし、そこは女、逆にお縫は斬り下ろされて縁側からまっさかさま。

あわや、と見えたその時、お縫はくるりと一回転して庭にすっくと立ち、横に払った薙刀で五左衛門の足を払って、見事に仕留める。

これを見た大石が
「えらい。よく落ちながらひっくり返った。今宵こよいの働きはお縫が一番」
とほめたが、それもそのはず。

お縫は、角兵衛の女房。

【RIZAP COOK】

【しりたい】

忠臣蔵講談の翻案  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、忠臣蔵ものの講談を基にしたものです。

古い速記では、明治32年(1899)10月、「志士の打入り」と題した二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)、当時は初代三遊亭金馬でしたが、それも残っています。

その没後、息子の三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)が高座に掛けましたが、二人の没後、後継者はありません。音源は円歌のものがCD化されています。

三代目小円朝によると、二代目のは、本来は松の廊下のくだりから始まり、討ち入りまでの描写が綿密で長かったとか。

明治32年の速記を見ると、脇筋で、親孝行の将軍綱吉(1646-1709)が、実母の桂昌院(1627-1705)に従一位の位階をもらって喜ぶくだりが長く、その後、刃傷から討ち入りまでの説明はあっさり流しています。

オチの「角兵衛」は角兵衛獅子で、「ひっくり返った」は角兵衛のアクロバットから。

「角兵衛獅子」と言ったところで、現代ではもう説明なしにはとうていわからなくなりました。角兵衛獅子については、「角兵衛の婚礼」をご参照ください。

武林唯七  【RIZAP COOK】

武林唯七の祖父は中国杭州ハンチョウ(旧名は武林ぶりん)から来た医家の孟二寛。医術と拳法で毛利家や浅野家に仕えました。唯七も拳法に長けていました。

美濃部五左衛門は抜刀居合術の達人ですから、拳法にも長けています。唯七、五左衛門、お縫の取り合わせは、剣の戦いばかりか、拳の戦いをも意味していたのでしょう。そこでお縫が軽業を使うわけですから、その視覚的効果は抜群です。

主人同様、不運な吉良邸  【RIZAP COOK】

吉良上野介屋敷は「北本所一、二の橋通り」「本所一ツ目」「本所無縁寺うしろ」「本所台所町横町」などと記録にあります。

俗にいう「本所松坂町2丁目」は、吉良邸が没収され、町家になってからの名称なので誤りです。

現在の墨田区両国3丁目、両国小学校の道をはさんで北向かいになります。路地の奥にわずかに上野稲荷として痕跡を留めていましたが、「上野」の二字が嫌われ、同音の「河濯」と碑に刻まれました。

明治5年(1772)に松坂町2丁目が拡張されたとき、その五番地に編入されましたが、長い間買い手がつかなかったといいます。

討ち入り事件当時は東西30間、南北20間、総建坪五500坪、敷地2000坪。

上野介が本所に屋敷替えを命ぜられ、丸の内呉服橋内から、この新開地に移ってきたのは討ち入り三か月前の元禄15年9月2日(1702年10月22日)。

事件当日の12月14日は、新暦では1703年1月30日(火曜日)で、普通言われている1702年は誤りです。旧暦と新暦のずれを考慮に入れないためのミスなのでしょう。当日の即死者十六人中に、むろん美濃部某の名はありません。

【語の読みと注】
浅野内匠頭 あさのたくみのかみ
刃傷 にんじょう
間者 かんじゃ:スパイ
武林唯七:たけばやしただしち
薙刀 なぎなた
角兵衛獅子 かくべえじし



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じごくばっけい【地獄八景】落語演目

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【どんな?】

上方では米朝のが有名です。
ここでは明治の円遊ので。
ほとんど同じ。

別題:地獄 地獄八景亡者の戯れ

【あらすじ】

根岸でのんびり日を送る大店の隠居。

そこに、隠居が最近ドイツの名医からもらったという「旅行薬」の噂を効いて、源さんと八っつぁんの二人連れが訪ねてくる。

隠居が、この薬を飲めば、一時間以内で好きなところへ行ってこられるから、試しにどこかへ行ってみないかと言うので、二人は渡りに舟と、地獄旅行としゃれ込む。

すっかり薬が回ると、何だかスーッとしていい気持ち。

いつの間にか、だだっ広い野原にいる。

洋服を着た人が立っていて
「きさまらは新入りだな。自分はこの国の人民保護係だ」
と言う。

ここはシャバを去ること、八万億土のあだし野の原。

吹く風は無常の風、ぬかるみの水は末期の水と名がつく。

役人が、きさまらは娑婆しゃばで罪を犯したので、ここでザンゲをしなければならないと言う。

まず源さんが
「えー、私は間男まおとこしました」

「とんでもねえ奴だ。相手はだれのかみさんだ」
「ここにいるこいつで」
「チクショー、こないだから変だと思った」

これで大げんか。

「八五郎、きさまはなにをした」
「へえ、私は泥棒で」
「どこに入った」
「こいつのとこです」
というわけで、間男と差し引き。

もめながら三途の川まで来ると、ショウヅカの婆さんが、
「当節、地獄も文明開化で、血の池は肥料会社に売却して埋め立て、死出の山は公園に」
と、いろいろ教えてくれる。

いよいよ、三途の川の渡し。

死に方で料金が違う。

心中だと二人で死んだから二四が八銭、お産で死ねば三四が十二銭という具合。

着いたのが閻魔の庁。

役人が一人一人呼び上げる。

「磐梯山破裂、押しつぶされー」
「ホオー」
「ノルマントン沈没、土左衛門」
「ヘイー」
「肺病、胃病、リューマチ、脚気」
「ヘイ」

全部中に通ると、罪の申し渡しがある。

有罪全員が集められ
「その方ら、いずれも極悪非道、針の山に送るべき奴なれど、今日はお閻魔さまの誕生日につき、罪一等を減じ、人呑鬼に呑ませる。さよう心得ろ」

塩をかけて食われることになったが、歯医者がいて、人呑鬼の歯をすっかり抜いちまったから、しかたなく丸飲み。

腹の中で、みんなで、あちこちの筋を引っ張ったので、さすがの人呑鬼もたまらず、トイレに行って全員下してしまった、というところで気がつくと、いつの間にか元の根岸の家。

「どうだ、地獄を見てきたか」
「もし、ご隠居、あの薬の正体はなんです」
「おまえらは腹から下されたから、あれは大王(大黄=下剤)の黒焼きだ」

底本:初代三遊亭円遊

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【うんちく】

本家は上方落語

天保10年(1839)刊の上方板笑話本『はなしの種』中の「玉助めいどの抜道」が上方落語「地獄八景(亡者戯)」の原型。

さらに遡れば、宝暦13年(1763)刊の『根南志具佐』を始め、宝暦から文化年間まで流行した地獄めぐり滑稽譚が源流です。

上方では長編連作旅シリーズ「東の旅」の番外編という扱いで、古くは、道中の点描で、軽業師が村祭りで興行中木から転落。そのまま地獄へ直行するのが発端になっていました。

あらすじの東京バージョンは珍しいのでご紹介しましたが、明治中期に初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が東京に移植・改作したものです。

あだし野の原

実在のあだし野(化野)は、京都府北嵯峨・念仏寺の、京都最古の土葬墓地です。

八千体の石仏や石塔がひしめく荒涼たる風景は、「あだし野の露消ゆる時なく」と兼好が『徒然草』に記しているように、この世の無常、ひいては地獄を感じさせます。

それもそのはず、「あだし野」は特定の地名でなく、冥界を意味する言葉でした。

「八万億土」は、もともとこんな言葉はなく、西方十万億土の少し手前というくすぐりです。

生塚の婆さん

しょうづかのばあさん。脱衣婆のことです。地獄の入り口、三途の川の岸辺で亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹の上にいる懸衣翁に渡す仕事の鬼婆。

「ショウヅカ」は「三途河」がなまったものとか。

落語では、「朝友」「地獄の学校」「死ぬなら今」など、地獄を舞台にしたものにはたいてい登場。「朝友」を除けば悪役のイメージは薄く、特にこの噺では、情報通の茶屋の婆さんという扱われ方です。

三途の川の渡し賃

普通は六文と考えられていました。

棺桶(早桶)に六文銭を入れる習わしはそのためです。

磐梯山破裂

明治21年(1888)7月の、会津磐梯山の大噴火を指します。

ノルマントン号事件

明治29年(1896)10月24日、日本人乗客23名を乗せた英国貨物船ノルマントン号が紀州沖で沈没。水死したのが日本人のみだったため、全国で対英感情が悪化しました。

米朝十八番、すたれた円遊改作

円遊は、オチを含む後半はほとんど上方版と同じながら、発端をあらすじのように変え、明治25年(1892)4月の速記では「大王の黒焼」を受けて「道理でぢごく(=すごく)効きがよかった」と、ひどいダジャレオチにしています。

円遊版の特色は、あらすじでは略しましたが、当時すでに死亡していた多くの有名人が、続々と地獄に来ている設定になっていること。

川路利良(明治12年没)、三島通庸(21年没)、西郷隆盛(10年没)、その他三条、岩倉、大久保、木戸の維新の元勲連から、森有礼暗殺犯の西野文太郎、大津事件の津田三蔵、毒婦高橋お伝まで。明治のにおいが伝わってきます。

円遊のこの演出は時代を当て込んだものだけに、当然、以後継承者はなく、明治期にできた地獄噺は、オリジナルの大阪版以外はすべて滅びたといっていいでしょう。

先の大戦後では、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)が、発端をフグにあたってフグに死んだ若だんなと取り巻き連のにぎやかな冥土道中にした上、より近代的なくすぐりの多いものに変え、「地獄八景亡者戯」として、一世のヒット作、十八番としています。

この米朝演出を、門弟の二代目桂枝雀(前田達、1939-99)がさらにはでなスペクタクル落語に変え、昭和59年(1984)3月の歌舞伎座公演のトリでも大熱演しました。

枝雀のオチでは、体内を責めさいなまれた人呑鬼が悲鳴を上げるので、閻魔大王がしかたなく「極楽へやってやる」とだまして一同を外にひきずり出してしばりますが、うそをついたというので、閻魔自身が舌を抜かれるという皮肉なものです。

演題の読みはあくまで上方のものを踏襲して「じごくばっけい」と読むのが正式です。

古くは「地獄めぐり」「明治の地獄」「地獄」など、さまざまな別題で演じられていました。

【語の読みと注】
根南志具佐 ねなしぐさ:風来山人、つまり平賀源内の作
脱衣婆 だつえば
衣領樹 えりょうじゅ
懸衣翁 けんえおう:三途の川のほとりにいるといわれる老人
三途河 さんずか
地獄八景亡者戯 じごくばっけいもうじゃのたわむれ



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ひとめあがり【一目上がり】落語演目

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【どんな?】

讃、詩、語……。無知な男の厚顔ぶりを笑う噺。寄席では前座がやってます。

あらすじ

隠居の家に年始に来た熊五郎。

床の間の掛け軸に目を止め、もうちょっときれいなのを掛けたらどうですと文句をつけると
「この古いところに価値がある。汚いところに味わいと渋みがある。こうして眺めるのが楽しみなものだ」
とたしなめられる。

「へえ、道理で端の方がはげてて変だと思った。子供に壁土を食うのがいるが、それは虫のせいだね」
「なにが?」
「なめるって」
「なめるんじゃない。眺めるんだ」

笹っ葉の塩漬けのような絵が描いてあって、上に能書きが書いてある。

これは狩野探幽の絵で雪折り笹、下のは能書きではなく
「しなはるる だけは堪(こら)へよ 雪の竹」
という句を付けた芭蕉の讃だと教えられる。

掛け軸のほめ方ぐらい知らなくては人に笑われるから、こういうものを見たときは
「けっこうなな讃です」
とほめるよう教えられた熊、
「大家がしょっちゅう、ものを知らないとばかにしてしゃくだから、これから行ってひとつほめてくる」
と出かける。

「大家さんはしみったれだから掛け物なんぞないだろう」
とくさすと、
「ばか野郎。貧乏町内を預かっていても、これでも家守やもりだ。掛け物の一つや二つねえことがあるものか」
と大家。

大家が見せたのが根岸鵬斎ねぎしほうさいの詩の掛け軸。

近江きんこうの うぐいすは見がたし 遠樹えんじゅからすは見やすし」
とある。

金公きんこうが酒に当たって、源次のカカアが産をした」
「誰がそんなことを言うものか」

シだと言われて、サンしか知らない熊公、旗色が悪くなって退散。

「なるほど、絵と字の両方書いてあればサンシと言えばいいんだ」
と、今度は手習いの師匠の家へ。

「掛け軸を見せてくれ」
と頼むと、師匠が出したのが一休宗純いっきゅうそうじゅん

「仏は法を売り、末世まっせの僧は祖師そしを売る。なんじ五尺の身体を売って、一切衆生いっさいしゅじょう煩悩ぼんのうを安んず、柳は緑花は紅のいろいろか、池の面に夜な夜な月は通えども、水も濁さず、影も宿らず」
という長ったらしいもの。

「南無阿弥陀仏」
「まぜっ返しちゃいけない」
「こいつはどうもけっこうなシだ」
「いや、これは一休の語だ」

また新手が現れ、
「サイナラッ」
と逃げ出す。

「ばかばかしい。ひとつずつ上がっていきやがる。三から四、五だから今度は六だな」
と検討をつけ、半公の家へ。

ここのは、なにか大きな船に大勢乗っている絵。

「この上のは能書きか」
「能書きってやつがあるか。これは初春にはなくてはならねえものだ。上から読んでも下から読んでも読み声が同じだ。『なかきよの とおのねむりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな』。めでてえ歌だ」
「わかった。こいつは六だな」
「ばかいえ。七福神の宝船だ」

しりたい

センスあふれる前座噺

全編ダジャレ。

といえば、それまでですが、讃、詩、語という掛け軸の書画に付き物の文辞ぶんじを、同音の数字と対応させ、今度はどうにもしゃれようがない「六」でどうするのかと、冷やかし半分に聞いている見物をさっとすかして同じ掛け軸の「七福神」とあざやかに落とすあたり、非凡な知性とセンスがうかがえます。

この噺の作者は、ただ者ではありません。

前座の口慣らしの噺とされながらも、五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さんのような名だたる大真打ちが好んで手掛けていました。なるほど、うなずけます。

加えて、書画骨董や詩文の知識が、庶民の間でも不可欠な教養、たしなみとされていた時代の、文化レベルの高さ。つくづくため息が漏れます。

入れごとは自由自在

軽快なテンポと洒落のセンスだけで聞かせる噺で、伸縮自在なので、いろいろな入れごとやくすぐりも自由に作れます。

たとえば、七福神から、「八」を抜かして「芭蕉の句(=九)だ」と落とすこともあります。

この噺の原話の一つ、安永4年(1775)刊の『聞童子きくどうじカナ』(小松屋百亀こまつやひゃっき著)中の小ばなし「掛物かけもの」では、「七」は「質(札)でござる」とサゲ(オチ)ています。

同じく文化5年(1808)刊『玉尽一九噺たまづくしいっくばなし』(十南斎一九となんさいいっく著)中の「品玉しなだま」では、質=七の字を分解し、「十一」(十一屋=といちや=質屋の別称)まで飛んで終わっています。

こんなふうに、調子よくとんとんと落とすオチの型を「とんとん落ち」と呼んでいます。

讃、詩、語

讃は書画に添える短いことばで、この噺のように俳句などが多く用いられます。

詩はもちろん漢詩。これも掛け軸や襖の装飾の定番です。

語は格言や、高僧の金言など。一休の語にある「柳は緑花は紅」は禅語で、『禅林類聚ぜんりんるいじゅう』(道泰どうたい著、1631年刊が有名)などにある成句です。万物をありのままにとらえる哲学で、夏目漱石も座右の銘としました。

クレージーキャッツの「学生節」の歌詞にもありました。

回文歌と宝船

長き夜の 遠の睡りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな

前から読んでも後ろから読んでも同じ音になって、なおかつ意味が通じる文を「回文かいぶん」といいます。

歌の形をとっているものを「回文歌」と呼びます。

正月の宝船の絵に添える紋切り型でした。

少し詳しく説明しましょう。

正月2日夜、または3日夜のおもしろい風習です。

「宝船」というのがありました。

紙に回文歌と七福神が乗た帆掛け船が刷られた一枚の紙っぺらのことです。

この「宝船」を枕の下に差し込み回文歌を三度詠んで寝ると吉夢を見られる、という風習があります。

歌を詠じながら千代紙や折り紙などに歌を記し、その紙を帆掛け船の形に折って(「宝船」と同じ効果が期待されます)、枕の下に差し込むと吉夢が見られる、ともいわれていました。

悪い夢を見た場合には、枕の下の「宝船」を川に流すことで邪気を払って縁起直しをしたそうです。

江戸では、暮れになると「お宝、お宝」と声を掛けて「宝船」を売り歩く「宝船売り」がいました。

専業ではなく、このときだけやる、にわかの商売です。

回文歌については、ほかにもいくつかの例をあげておきましょう。

いずれも室町時代にできたものです。

村草に くさの名はもし 具はらは なそしも花の 咲くに咲くらむ

惜しめとも ついにいつもと 行く春は 悔ゆともついに いつもとめしを

それにしても、「かな」というものは、漢字の補助的な文字ということがよくわかります。

狩野探幽

狩野探幽かのうたんゆう(1602-74)は江戸前期の絵師で、鍛冶橋かじばし狩野派の祖。幕府御用絵師で、江戸城紅葉山天井の龍、芝増上寺安国殿、金剛峯寺金堂の壁画などで知られます。

熱心な法華(日蓮宗)信徒だったことでも有名です。

根岸鵬斎

根岸鵬斎とは、儒学者・漢詩人の亀田鵬斎かめだほうさい(1752-1826)のこと。根岸に住んだので、この別称があります。

その書は名高く、永井荷風が敬愛した、江戸文人のシンボルのような粋人でもありました。



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たこぼうず【蛸坊主】落語演目

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【どんな?】

お坊さんが登場する噺。
ちょっと珍しいですかね。

【あらすじ】

不忍池の端にある料理屋、景色はよし味はよし、器もサービスも満点で大評判。

ある日、坊さんの四人組が座敷にどっかと上がり込んだ。

「われわれは高野一山の修業僧だが、幼少の折から戒律堅固に過ごしているから、なまぐさものは食らわない、精進料理を出してくれ」
と注文する。

出された料理に舌鼓を打っていた四人、急に主人を呼び出し、料理や器をほめた後、このお碗の汁はおいしいが、出汁はなにを使っているかと、尋ねる。

「はい、世間さまではよく土佐とおっしゃいますが、てまえどもでは親父の代から、薩摩を使っておりますので」
「はあ、そりゃいったい、なんのことで?」
「鰹節の産地でございます」

鰹節とは何で作るのかと重ねて問われて、主人は青ざめたが、もう遅い。

「とんだことで、ご勘弁を願います」
と平謝りし、
「すぐに清めの塩を持ってこさせ、昆布の出汁で作り直させます」
と言い訳しても、坊さん四人はいっかな聞かない。

かえって居丈高になり、
「魚類の出汁を腹の中へ入れてしまっては、口などすすいでも清まるものではない。われわれ四人は戒律堅固に暮らしていたのが、この碗を食したために修業が根こそぎだめになった。もう高野山には帰れないから、この店で一生養ってもらう」
と、無理難題。

新手のゆすりとわかった時には、もう手遅れ。

坊さんは寺社奉行のお掛かりで、町奉行所に訴えてもどうにもならない。

困り果てていると、向こうの座敷で食事をしていた、鶴のように痩せた老僧がこれを聞きつけた。

主人を呼んで、
「愚僧が口を聞いて信ぜよう」
と申し出たので、主人は藁にもすがる思いで頼む。

ほかの座敷の町人連中、
「なにやら坊さんが四枚そろったが、けんかになりそうだから、ドサクサに紛れて勘定を踏み倒しちまおう」
と、ガヤガヤうるさい。

老僧、四人の座敷へおもむくと、
「料理をうまくしたいという真心がかえって仇となったので、刺し身を食らっても豆腐だと思えば修業の妨げにはなりますまい」
と、おだやかに説くが、四人は相手にしない。

老僧、急に改まって
「最初から高野一山の者とおっしゃるが、貴僧たちはこの愚僧の面体をご存じか」

知らないと答えると、大音声で
「あの、ここな、いつわり者めがッ」
(芝居がかりで)「そも高野と申す所は、弘仁七年空海上人の開基したもうところにして、高野山金剛峯寺と名づけたる真言秘密の道場。諸国の雲水一同高野に登りて修業をなさんとする際、この真覚院の印鑑なくして足を止めることができましょうや。高野の名をかたって庶民を苦しめるにせ坊主、いつわり坊主、なまぐさ坊主、蛸坊主」
「これ、蛸坊主と申したな。そのいわれを聞こう」
「そのいわれ聞きたくば」
と、四人が取りついた手を振り払い、怪力で池の中にドボーン。片っ端から放り込んでしまった。

四人とも足を出して、池の中にズブズブズブ。

「そーれ、蛸坊主」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【うんちく】

東京では彦六 【RIZAP COOK】

原話は不詳で、本来は純粋な上方落語です。

明治以来、大阪方が「庇を貸して母屋を乗っ取られた」演目は数多いのですが、この噺ばかりは、東京はほんのおすそ分けという感じです。

桂米朝、露の五郎兵衛、桂文我ほか、レパートリーとしているのは、軒並み西の噺家。

東京では、八代目林家正蔵(彦六)が、かつてこの噺を得意にしていた大阪の二代目桂三木助(1884-1943)に習い、舞台を江戸に移して演じたのみです。正蔵の口演は映像が残されているので、古格の芝居噺の型を、今も偲ぶことができます。

あまりおもしろい噺ではないうえ、後半は鳴り物入りで芝居噺となる古風さも手伝ってか、正蔵没後は東京では今のところ、継承者がいません。

舞台設定はいろいろ 【RIZAP COOK】

二代目三木助は、大坂茶臼山ちゃうすやま(大坂の陣の古戦場)の「雲水」という普茶料理ふちゃりょうりの店を舞台としていました。これが、上方の古い型だったのでしょう。

正蔵は、ここに紹介したように、上野不忍池のほとりとし、店の名は特定していません。でも、幕末の池之端あたりには、この噺に登場するような大きな料亭が軒を並べていました。

「不忍池にすると、上野(=寛永寺)の宗旨は天台ですから、そこへ真言の僧が来るのはおかしいということになりますが、これはまァ見物にでも来たとすれば、そう無理はないと思います」
という、正蔵の芸談が残っています。

場所一つ設定するのも、いいかげんにはできないもののようです。

上方でも、桂米朝は、舞台を生玉神社近くの池のほとり、老僧の名を「修学院」としていました。

雲水 【RIZAP COOK】

一般には、托鉢たくはつしながら旅の修行を続ける禅宗系の僧侶をさします。ここでは、老僧の言葉にあるように、高野聖こうやひじりと呼ばれる諸国修行の真言僧です。

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やなぎやかんのすけ【柳家勧之助】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2003年4月、柳家花緑
【前座】2003年8月、柳家緑太
【二ツ目】2007年2月、柳家花ん謝
【真打ち】2018年9月、柳家勧之助
【出囃子】とんこ節
【定紋】剣片喰
【本名】柏木雅博
【生年月日1981年12月18日
【出身地】愛媛県八幡浜市
【学歴】愛媛大学中退
【血液型】A型
【ネタ】寿限無 平林
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】2016年、三遊亭圓歌杯優勝。2016年、第15回さがみはら若手落語家選手権優勝。2017年、第三回若手演芸選手権優勝。2017年、第28回北とぴあ若手落語家競演会大賞。



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ちんけんへいも【椿萱並茂】故事成語 ことば

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「椿」と「萱」がともに茂れる状態。転じて、父と母が健在。

「椿萱並び茂る」と読みます。

「椿」は日本のツバキではありません。伝説上の「大椿」という巨木は、八千年を春とし、八千年を秋とするといわれるとてつもないもの。霊木です。これを父親に見立てます。

「萱」は、母親のいる北堂の庭に憂いを忘れるといわれる「萱草=忘れ草」を植えるならわしから、母親に見立てます。

「椿萱」は父と母になります。それが「並茂」、つまり繁栄するわけですから、両親がともに健康でいることをしめします。

ちなみに、「萱草」は、中国では、女性の近くに置いておくと男子を身ごもるといわれ、奥さんがいる北堂に植えたとされています。

「萱」の読みと意味は、①わすれぐさ。ユリ科の多年草。「藪萱草やぶかんぞう」「椿萱」「萱堂けんどう」。 ②かや。ススキ、スゲなど屋根をふくイネ科、カヤツリグサ科の植物の総称。「刈萱かるかや」「茅萱ちがや」。

ちなみにこの「椿萱並茂」、過去40年間の読売新聞の記事では一度も使われていません。

【前文】

幼い頃は「ちん」とか「まん」とか「へい」とかの音がどこかコミカルに感じたものでしたか、不思議な語感を呼び覚ましてくれたものです。



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はやしやきりん【林家希林】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2009年3月、林家木久扇
【前座】2009年9月、林家木りん
【二ツ目】2013年11月
【真打ち】2023年9月下席、林家希林
【出囃子】オーシャンゼリゼ
【定紋】中陰光琳蔦
【本名】佐藤嘉由生
【生年月日】1989年2月10日
【出身地】東京都文京区→台東区浅草
【学歴】
【血液型】A型
【ネタ】寿限無 道具屋 垂乳根
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】七代目伊勢ヶ浜親方清国勝雄の長男。江戸東京落語まつり2023(2023年6月30日-7月5日、総勢36人)。身長193cm。



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やなぎやへいわ【柳家平和】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2007年4月、柳家獅堂
【前座】2009年7月、柳家いっぽん
【二ツ目】2013年11月、二代目柳家かゑる。19年7月、六代目柳家小さんに移門
【真打ち】2023年9月下席、二代目柳家平和
【出囃子】夫婦万歳 ニューラリーXのテーマ
【定紋】鈴 八つ矢車 舞對ひ鳩
【本名】菅野兆司
【生年月日】1990年6月13日
【出身地】埼玉県鳩ヶ谷市(川口市)
【学歴】埼玉県立川口高校
【血液型】O型
【ネタ】弥次郎 おすわどん 崇徳院 権兵衛狸
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は柔道(講道館柔道参段)、アニソン・特ソン、氣志團、岩下の新生姜。2017年7月、下丸子らくご倶楽部若手バトル。2022年4月、第1回プリモ芸術コンクール落語部門グランプリ。

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はやしやまめへい【林家まめ平】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2008年3月、九代目林家正蔵に
【前座】2008年10月、林家まめ平
【二ツ目】2013年6月
【真打ち】2023年9月下席
【出囃子】俳諧師
【定紋】花菱
【本名】前田将臣
【生年月日】1980年8月21日
【出身地】愛知県名古屋市
【学歴】
【血液型】B型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は料理、スポーツ観戦

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やなぎやふくたろう【柳家福多楼】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2009年1月、三代目柳家権太楼
【前座】2009年7月、柳家おじさん
【二ツ目】2013年11月、柳家さん光
【真打ち】2023年9月下席、柳家福多楼
【出囃子】ぼんちかわいや
【定紋】くくり猿
【本名】上野裕司
【生年月日】1976年7月27日
【出身地】福岡県築紫野市
【学歴】西九州大学
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はおしゃれ。
【逸話】権太楼師匠が近所の焼肉店に連れていってくれた時。師匠が「のせろ、のせろ、遠慮すんな」と言うので、入門したてのさん光さん(当時はおじさん)はさかんに肉片を網にのせたんだとか。「のせる」は「たべる」の符丁なのですね。その光景、目に浮かびます。権太楼師「くしゃみ講釈」のマクラで言ってました。

古今亭始さんの制作



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ここんていしんご【古今亭志ん五】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2003年2月、初代古今亭志ん五(篠崎進、1949-2010)に
【前座】2003年9月、古今亭章五
【二ツ目】2006年11月、古今亭志ん八
【真打ち】2010年、師没後、六代目古今亭志ん橋に移門
【出囃子】2017年9月、二代目古今亭志ん五
【定紋】芸者ワルツ
【本名】鬼蔦
【生年月日】1975年6月16日
【出身地】埼玉県川越市
【学歴】立正大学法学部
【血液型】O型
【ネタ】古典と新作
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は家庭菜園、釣り、ゴルフ。2008年、さがみはら若手落語選手権決勝進出。2010年、TENプレゼンツ大ネタ10分バトル優勝。2019年1月、平成30年度国立演芸場「花形演芸大賞」銀賞。2020年3月、令和元年度国立演芸場「花形演芸大賞」金賞。2022年3月、令和3年度国立演芸場「花形演芸大賞」金賞。



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りゅうていこみち【柳亭こみち】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】2003年10月、七代目柳亭燕治に、柳亭こみちで
【二ツ目】2006年11月
【真打ち】2017年9月
【出囃子】供奴
【定紋】変わり羽団扇
【本名】板垣愛
【生年月日】1974年12月10日
【出身地】東京都東村山市
【学歴】東京都立国分寺高校→早稲田大学第二文学部→出版社
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はピアノ、ギター、ウクレレ演奏、野球(落語協会野球部所属)、日本舞踊吾妻流名取(吾妻晴美)、長唄。夫は漫才の宮田昇



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れいれいしゃまるこ【鈴々舎馬るこ】噺家

 

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2003年5月、十代目鈴々舎馬風
【前座】2003年6月、鈴々舎馬るこ
【二ツ目】2006年5月
【真打ち】2017年3月
【出囃子】UWFプロレスのメインテーマ
【定紋】鈴
【本名】松友宏士
【生年月日】1980年8月4日
【出身地】山口県防府市
【学歴】大正大学文学部中退
【血液型】A型
【ネタ】新牛ほめ 新死神 など
【出典】公式 落語協会 Wiki YouTube
【蛇足】趣味はプロレス観戦、お酒。2011年、第9回さがみはら若手落語家選手権優勝。2011年、平成23年度NHK新人演芸大賞 決勝進出。2012年、第6回落語一番勝負若手落語家選手権優勝。2013年、平成25年度NHK新人演芸大賞大賞※「平林」で。2014年、第25回北とぴあ若手落語家競演会奨励賞。2018年3月、平成29年度国立演芸場「花形演芸大賞」銀賞。



 

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とうなすやせいだん【唐茄子屋政談】落語演目

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どんな?

遊びが過ぎて勘当された若だんな。相手にする者はいない。 身投げのすんで、叔父さんに助けられ、唐茄子を売り歩くことに。 人の情けでたちまち売れて、残ったのは二個。 その帰途、ひもじい母子に唐茄子と売上をくれてやった……。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

【あらすじ】

若だんなの徳三郎とくさぶろう。 吉原の花魁おいらんに入れ揚げて家の金を湯水ゆみずのように使うので、親父も放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当かんどうだと言い渡される。 徳三郎は、蛙のツラになんとやら。 「勘当けっこう。お天道てんとさま(太陽)と米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」 威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だ、とていよく追い払われる。 どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと 「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」 と、ケンもほろろ。 もう土用どようの暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。 おまけに夕立ちでずぶ濡れ。 吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。 つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所ほんじょ達磨横丁だるまよこちょう大家おおや(管理人)をしている叔父おじさん。 止めようとして顔を見るとおいの徳。 「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」 「アワワ、助けてください」 「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」 「お天道さまはついて回るけど、米の飯はついて回らない」 「ざまあみやがれ」 ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。 翌朝。 おじさん、唐茄子(かぼちゃ)を山のように仕入れてきた。 「今日からこれを売るんだ」 格好悪いとごねる徳を、叔父さんは 「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」 としかりつけ、天秤棒てんびんぼうをかつがせると、 「弁当は商いをした家の台所を借りて食え」 と教えて送りだす。 炎天下、徳三郎は重い天秤棒を肩にふらふら。 浅草の田原町たわらまちまで来ると、石につまづき倒れて、動けない。 見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋あいながやの者たち(同じ長屋の住人)に売りさばいてくれ、残った唐茄子はたった二個。 礼を言って、売り声の稽古けいこをしながら歩く。 吉原田圃たんぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店せいがんじだな。 裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当をつかっている(食っている)と、五つばかりの男の子が指をくわえ、 「おまんまが食べたい」 事情を聞くと、亭主は元武士で、今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされない、という。 同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。 聞いた叔父さん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。 あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家いんごうおおやに出くわし、金を店賃たなちん(家賃)に取られてしまった、という。 八百屋さんに申し訳ない、と女はとうとう首くくり。 聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。 長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。 おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青緡五貫文あおざしごかんもん褒美ほうび。 めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうには、お奉行さまは登場しません。 「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、二代目円朝)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)という、三遊派と柳派を代表する名人が得意にしました。 大正13年(1924)刊行の、晩年の三代目小さんの速記が残っています。 滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若だんなの唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。 五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)は手がけず。現在、柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。 古くは、女がそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)もしばしば演じていました。 志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。 叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。 円生は饒舌じょうぜつで、徳がおやじの愚痴ぐちをひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。 キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。 若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。 この古い江戸ことばは、語源が「お履き物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。 履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あずまばし。架橋は安永3年(1774)。 もとは大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形1-3丁目、吾妻橋1丁目、本所3丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。 地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草4丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。 誓願寺は浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、15の塔頭を持つ大寺院でした。 現在は、府中市の多磨霊園正門前に移転しています。

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