ゆうずうむげ【融通無碍】故事成語 ことば

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

考えや行いが一つのことにとらわれることなく、その場その場に応じて、のびのびしている状態。

融通無礙とも。

「融通」は成り行き次第。「無碍」はじゃまなものがないこと。

【文例】

子供の創造性を重んじるなら、決まりごとにとらわれることなく、融通無碍なところも認めなくてはならないだろう。

【類語】

融通自在、無礙自在。

融通無碍は、志ん生のためにあることばでしょう。

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しんしょうとにんじゃ【志ん生と忍者】志ん生雑感 志ん生!

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古今亭志ん生を語ろうとすると、いまだに「貧乏」の二字がついて回ります。

でも、志ん生自身は貧乏ではなかったようなのです。

志ん生の懐にはしっかり金が入ってきていました。志ん生はこの金を家に渡さなかったのです。

貧乏だったのは美濃部の家族です。りん、美津子、喜美子、清(十代目金原亭馬生)までが辛酸をなめ尽くしました。最後の強次(三代目古今亭志ん朝)は、貧とは無縁でした。

強次が生まれた昭和13年(1938年)あたりから、志ん生は売れ出しているからです。

おまけにこの年は、師匠の初代柳家三語楼(山口慶三、1875-1938)が逝っています。志ん生は三語楼の話財をまるごといただいているのです。「ヘービーチーデー」とかの。噺家の世界にはよくある類型です。

美濃部家は高位の旗本直参だったという話ですが、これもどこまで高位なのだか。

ただ、美濃部という家は近江国おうみのくに(滋賀県)の甲賀こうか郡の国人(土豪)ですから、甲賀衆の流れをくんでいるのはたしかです。美濃部達吉も美濃部亮吉も同じ系統なんでしょうね。

神君伊賀甲賀越えに随従した甲賀者の一人だった、ということでしょう。

名前を17回も変えてみたり、「二階ぞめき」をやっているうちに「王子の狐」に代えてしまったり(最後の高座、1968年10月9日)、といった融通無碍ぶりは、こっちの系統だったからなんでしょうかね。

融通無碍。すてきなことばです。これこそが、志ん生を読み解くためのキーワードでしょう。

貧乏も忍者もこの四字熟語にパックリのみ込まれて、いずれはとろけてしまうのです。だから、なめくじとも縁があるんですね。

古木優



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特設 しんしょうさんせんじゅうよんばんしょうぶ【志ん生三選 十四番勝負】志ん生雑感 志ん生!

特設

古今亭志ん生の本名は美濃部孝蔵といいました。美濃部家は徳川宗家の旗本でした。遠くは甲賀の出身だそうです。そう、甲賀忍者を先祖とする家だったのです。神君伊賀甲賀越えに随従したのだとか。ほら、「大河」でやってたアレですね。忍者と噺家。どこか似ていますね。人をけむに巻く、とかで。そこで、2023年9月21日、志ん生の没後五十年をしのんで、志ん生の人となりを、さまざまな観点から考察していきます。これぞ考察!

高田裕史

第一番 天敵三選

①円生 ②漬物 ③ナメクジ


①志ん生が、人間的にも芸風にもどうにも好きになれなかったのが、十歳下の円生だった。後年、両者が、時に知人に、または対談などで、かなり露骨に互いに辛辣な言葉を浴びせている。これは矢野誠一が指摘している通り、たたき上げでのし上がった志ん生と、御曹司(継父が五代目円生)でエリート意識が強かった円生では、ウマが合うはずもない。なまじ満洲(中国東北部)で食うや食わずの極限状況の共同生活をするうち、些細なことで衝突、なじり合いを繰り返し、それが戦後帰国してお互い大幹部になっても尾を曳いていたということだろう。※『志ん生のいる風景』(矢野誠一、文藝春秋) 

②志ん生の漬物嫌いは、長女美濃部美津子の著書などでも紹介されているが、これはひとえに志ん生が生涯持っていた、自分は士族、それもれっきとした旗本の子だという自負と矜持によるものとみえる。「漬物(コウコ)は農民の食べ物」と麻生芳伸にも漏らし、若い頃から親しかった宇野信夫にも「士族自慢」をたびたびしていたという。ということは、①についてはじつはこんなこともいえよう。志ん生はすさまじいエリート意識で芸人出の円生を見下していたと。志ん生も円生も別なベクトルのエリート意識をひっさげていたわけ。矢野の見方は皮相で、真相はこんなところだろう。

③これは志ん生ファンには説明の要はない。五寸もあるのが「カカアの足に食いつき」「這った後の壁がピカピカに」「猛毒で猫が七転八倒」……よくまあ、食い殺されなかったものだ。

第二番 好物三選

①納豆 ②マグロブツ ③酒茶漬け 番外 氷水


①「お父さんは納豆が大好物でした。昔、納豆売りに失敗したとき、やんなるほど食べたでしょ。普通ならそれで嫌いになりそうなもんなのに、年とってっからも毎日食べてた。ほんとに好きだったんでしょうね。(中略)とにかく、納豆なしじゃいらんないってくらいでしたね」。1961年ごろ録音の、志ん生一家の朝の日常を生撮りしたドキュメンタリー(?)でも、妻のりんが「よく毎日ナット食べるね」と呆れている。※『三人噺 志ん生・馬生・志ん朝』(美濃部美津子、扶桑社) 

②晩年の志ん生が贔屓にした文京区千駄木の居酒屋「酒蔵松風」の女将の証言。「(酒の)サカナはブツ専門でした。普通のおさしみはあがらないの。マグロが大のお好みでしたね」……。これは美津子の著書にもある。よほど好きだったと見え、1946~58年まで、アメリカによる23回もの核実験の影響で放射能汚染が問題となった「ビキニまぐろ」も、志ん生は値下がりしたのを幸い、モノともせずにパクついていたという。※『志ん生伝説』(野村盛秋、文芸社) 

③弟子、古今亭円菊の証言。「てんぷらなんか食べにいっても、とにかく、キューッと一杯、冷やで飲んで、あともう一杯は、天ドンなら、どんぶりのなかへビャーッとかけて、”酒茶漬け”というか(略)酒でごはんを食べますからね。。うまいんだそうです」※『志ん生伝説』。

番外「氷水」 これは四代目三遊亭円楽の証言前座時分、楽屋では志ん生は「出来れば氷水という方。猫舌だったのか熱いお茶は好みませんでした」。※『円楽芸談しゃれ噺』(四代目三遊亭円楽、白夜書房)

第三番 迷言三選

①酒はウンコになる ②二円五十銭よこせ ③女、とっかえろ


①正確には「ウーン、ビールは小便になって出ちまうけれども」に続く。「すごい奥の深いことをおっしゃる方でございますね。並大抵の人じゃ言えないお言葉でございましてね。(笑)ずいぶんいろんなお話を伺ったんですが、これが一番わたくしの心に、強く強く残っている名言なんでございます(笑)」。亡き名優に敬意をこめて、断然これがトップ。ビールは水代わりで、夜中に弟子が「水持ってこい」と言われて本当に水を持っていくと「バカ野郎」と雷が落ちたそうな。※『小沢昭一的新宿末廣亭十夜・第二夜 志ん生師匠ロングインタビュー』(小沢昭一、講談社) 

②「天敵」に関連して、六代目円生が後に対談で暴露。満洲時代のこと。奉天へ向かうため、新京(長春)のホテルを引き払うとき、一台しか来なかった人力車に志ん生一人だけ乗ったのに、後で円生に「五円取られたから二円五十銭よこせ」と割前を要求。「君一人しか乗らなかったじゃないか」「お前のカバンを乗っけてやった」。聴いていた一同は爆笑。こりゃ誰でも怒る。 

③志ん生の若き日の飲む打つ買うのメチャクチャぶり、珍談なら、もうこれは甚語楼時分からパトロンだった坊野寿山の証言にかぎる。すさまじい話が多すぎるが、女に関してはとにかく手が早く、貪欲だったようだ。これもその一つで、ポン友だった当時の馬の助(のち馬生)に女郎屋で十銭出して、こう強要した。友達の相方でもおかまいなしに「強奪」しようという。さすがに「冗談じゃねえ。ワリ(寄席の給金)じゃねえや」と拒絶されたよし。

第四番 パトロン取り巻き三選

①坊野寿山(1900-88) ②小山観翁(1929-2015) ③宇野信夫(1904-91)


①若い頃からのパトロンにして、生涯の遊び仲間だった。当人が都合よく忘れている旧悪はすべて覚えていて、ほとんどこの人によって暴露され、貴重な記録として残されている。志ん生より十歳下にもかかわらず、日本橋の呉服屋の若旦那で金は湯水のごとく使い放題だから、噺家が食らいつくにはこれ以上ない。後年は「川柳家」として大をなす。志ん生も寿山の勧めであまりうまくない川柳をひねっている。

②知る人ぞ知る「昭和の大通人」。もとは電通のプロデューサーで、川尻清譚門下の歌舞伎研究家、特に歌舞伎座の初心者向きイヤホンガイドでも有名だが、もとより落語の方も生き字引。志ん生とこの人の結びつきは『対談落語芸談4・古今亭志ん生』(弘文出版)にくわしい。学生時代から始まり、就職後は電通制作の落語番組で志ん生を起用したことから公私ともに親交を深め、狷介な志ん生を巧みになだめすかして仕事の面倒を誰よりもよく見たことで、「小山亭が言うんじゃしょうがねえ」と晩年の志ん生が唯一「何でも言うことを聞く」といわれたほどの人。 

③劇作家。昭和初期、六代目尾上菊五郎のために、数々の新作歌舞伎脚本を書き下ろしたことで有名。若い頃から落語にも造詣が深く、六代目円生とは特に親しかったが、志ん生とは柳家甚語楼時代、宇野がまだ学生だった昭和初期からの遊び仲間。埼玉・熊谷に本店を持つ染物店の若旦那だった。坊野ほどではないが、やはりパトロン的存在である。『昭和の名人名優』(宇野信夫、講談社)には、あまり知られていない甚語楼時代の貴重なエピソードが多数収まる。

第五番 コレクション道楽三選

①たばこ入れ ②和時計 ③金魚


志ん生の古道具、骨董趣味は家族や門弟などによってよく語られるが、もちろん戦後、極貧とおさらばして功成り名遂げ、趣味に金と余暇を使えるようになった晩年の楽しみだったろう。 

①は文楽と競争してコレクションしたという※『志ん生伝説』。「オレが文楽に教えたんだ」と威張っていたとか。これに関しては坊野寿山の回想も。「私しゃ死んでも離しませんから」と志ん生に高価なタバコ入れをねだられ、しかたなく中身ごとやると、五、六日して柳枝(八代目)が来たら、その煙草入れでうまそうにスパスパ。志ん生から五円で買ったらしい。「あの野郎、モートル(=博打)で負けて、五円なんかで売っちまったんだ」 

②これも『志ん生伝説』による。谷中の時計店氏の回想。弟子(おそらく円菊)におぶわれて来店したというから最晩年だろう。一度買っても気に入らないと、何度でもまた買い直しにきたくらい凝っていたとか。もっぱら白の和時計で、飽きると片っ端から人にやってしまったようだ。 

③古道具や骨董同様、ペットも欲しいとなったら片っ端から衝動買いし、片っ端から飽きてまた別の動物を飼う。長女美津子の証言によると鳥ではインコやカナリア、ウグイス。犬もしょっちゅう取り換える。その中でもっとも長続きしたのが「金魚金魚ミイ金魚」。自宅裏庭の池で泳がせ、金魚釣りをして無邪気に喜んでいたという。

第六番 志ん生の新作落語三選

①一万円貰ったら 「講談倶楽部」1939年5月増刊号所載 
②隣組の猫 「富士」1940年10月号所載 
③強盗屋 「キング」1937年4月増刊号所載


新作を中心にした速記を集成した『昭和戦前傑作落語全集』には志ん生のものは計21題が掲載されているが、矢野誠一によると、志ん馬改名(1934年7月)の頃から自作と称して新作の速記をよく出版社に持ち込んでいたらしい。ここにラインナップした3題はそのうちまあまあおもしろいと勝手に判断して順に並べたもの。いずれもどうやら自作らしい。 

①は志ん生襲名後のもの。 古典の「気養い帳」風に、長屋で大家が景気づけに「仮に1万円(現代だと数百万)貰ったら何に使うかと次々に聞く。例によって頓珍漢な解答の後、最後に「双葉山贔屓だから、国技館で祝儀に双葉にやっちまう」「全部?」「いえ、九千九百九十九円九十三銭」「あとの七銭は?」「帰りの電車賃にとっとく」というセコいもの。 

②の噺の眼目は不細工なかみさんをグチるくすぐりで、それも後世「火焔太鼓」などに使ったものよりずっと過激で、なぜか戦後はほとんど消えた幻の逸品揃い。「唇が薄いというからてめえを貰ったんだ。薄けりゃベラベラしゃべるから、借金の言い訳になると思ってよ」「あの顔色をごらんよ。頬骨が出て眼肉がこけて、まるで患ってる鰻だよ」と亭主が言えば女房も「(貧乏暮らしで)人の肉を盗っちまいやがって、泥棒っ」と応酬するなど、この夫婦げんかだけでも二位の価値は十分。 

③はまだ七代目馬生時代で、実は気の弱い旦那が、細君に自分は柔道三段だから強盗なんぞ怖くないと見栄を張り、それを証するため、これも気の弱いルンペンに、5円で狂言の強盗役を頼むが……というライトコメディー。オチも含め、なかなかよくできている。

第七番 志ん生作の川柳三選

①羊羹の匂いをかいで猫ぶたれ
②のみの子が親のかたきと爪を見る
③捨てるカツ助かる犬が待っている

志ん生が「旦那」の坊野寿山の勧めで、生涯かなりの数の川柳をものしたことは「パトロン」の項でも触れたが、あくまで「川柳」であって文人気取りの俳句でなかったことがこの人らしい。割にファンの間で有名なものには、『びんぼう自慢』の巻末にある「エビスさま鯛を取られて夜逃げをし」「松茸を売る手にとまる赤とんぼ」「豆腐屋の持つ庖丁はこわくない」「雨だれに首を縮める裏長屋」など、ペーソスを効かせたなかなか洒脱なものも多い。ここではあえて、「コレクション道楽」の項でも紹介したように当人が動物好きであったことも考え、動物で三句を選んでみた。矢野誠一が一度直接当人に尋ねたら「別に」とそっけなかったそうだし、せっかく飼っても例のズボラと気まぐれですぐ飽き、ペットもとっかえひっかえではあったようだが、これは江戸っ子特有の照れやシャイな気質の表出と見る。志ん生は得意ネタ、マクラ、小噺でも動物を擬人化したものがうまく、そこには、弱い虐げられた者の怒りや悲しみを動物に託した、敗残の江戸人の生き残りの精一杯の反骨心があるといえる。その意味で、飢えてぶたれた猫も、親をつぶされたノミの子も、捨てられたカツに飛びつく野良公も、すべて若き日の餓えた美濃部孝蔵そのものの分身だったのだろう。

第八番 志ん生の恩人三選

①美濃部りん
②初代柳家三語楼
③三代目小金井芦州
番外 上野鈴本・島村支配人

①はもう、これは誰も文句はないところ。ミセス・ミノベなくして美濃部孝蔵も五代目古今亭志ん生もなく、それどころか噺家を廃業したまま、陋巷に野垂れ死にしていたかもしれない。あらゆる資料のあらゆる関係者でこの老夫人を褒めない者はいない。「賢夫人」「『あわびのし』のような夫婦」「器用で裁縫上手で、自分の内職一本で夫と子供たちを養った」「普通の人間なら、たとえ大正の昔でもとっくに別れている」「子供の頃からの苦労人で、極貧生活なのに、困っている人間を見ると有り金をやってしまう」……。こうなるともう菩薩、聖母マリアそのもの。にもかかわらず背信亭主は、祝言の夜から仲間と居続けでチョーマイ(女郎買い)。ヒモ同然に同棲していた女と、結婚後もしばらく縁が切れず(二人の子が後の某大女優という説あり)、大看板になっても向島の芸者のところに回数券付きで通っていた(円菊談)……。菩薩の顔も三度までで、「さしものお袋がもう別れようと思ったことは二度三度じゃなかった」(長男馬生談)。にもかかわらず、とうとう50年間添い遂げてしまう。こんなかみさん、絶滅種どころか、もはや日本のどこにも存在しないだろう。 

②③はそれぞれ、五人目(最後)とその前の師匠。志ん生自身は、「師匠」と仰ぐのは、終生最初の師匠と頑なに言い続けた名人・四代目橘家円喬だけで、実際の最初の師匠・二代目三遊亭小円朝を含め、他の師匠には尊敬もなにもなかった。ただ、三語楼と芦州は、それぞれ芸の上では大恩人だった。

第九番 志ん生への寸評三選

①志ん生は色彩、文楽は写真(小絲源太郎)
②文楽は古典音楽、志ん生はジャズ(徳川夢声)
③オヤジ自体が落語(古今亭志ん朝)

①は日本芸術院会員で文化勲章受章者の洋画家によるもので、この言葉だけで志ん生のみを「芸術家」と遇しているようなもの。黒門町ファンには大いに反発を招くだろうが、古い世代の画家(1887年生、志ん生より三歳上)にとって、写真はただ「機械的な現実もどき」の大量生産に過ぎないとするなら、いつも固定して動かない文楽の芸をこう例えたとしてもおかしくはない。 

②の夢声は対談相手でもあり、個人的にも親交があったから、古今亭贔屓なのには違いないが、①に比べ、より公正でわかりやすい評。つまりは厳格な格式・様式と自由奔放な変奏・くずしという、ごく一般的な両者の芸への感想を西洋音楽に例えたセンス。ただ、若き日の志ん生がどちらかというとオーソドックスな正統派の芸を志向し、結局それでは売れなくて、やむを得ず三語楼流の破格の芸に走った事実は、同世代の夢声老(1894年生)なら当然知っていたはずだが。 

③は円朝にはなれて志ん生にはなれなかった次男坊の、シンプルかつすべてを包含した嘆息。

第十番 あだ名三選

①人差し指
②貧乏神
③オケラのコーちゃん

①複数の出典があるが、代表的なものでは、甚語楼時分の志ん生のパトロンの一人で、遊び友達だった宇野信夫が自著『昭和の名人名優』ほかで暴露している。バクチ狂いだが始終負けてはスッテンテン。どうにもならなくなると「ここへこれだけ(タネ銭を貸せ)」と人差し指を出す。ということはたぶん一円。もちろん誰も相手にしない。単に「指」とも。 

②四代目柳家小さん。「甚語楼に渋団扇を持たせたら貧乏神」と評した、同業者で同世代ならではの辛辣な命名。つまりは昭和初年の志ん生は、なりがほとんど物乞い同然であるばかりか、芸もまた垢じみてて貧乏臭かったということでもある。 

③三味線漫談、都家かつ江の証言。志ん生三回忌の1975年、『志ん生伝説』の著者野村盛秋に語った追想コメントで、例えば花札でオケラ(麻雀でいうハコテン)になると、例によって「貸してくれ」。で、自称二円五十銭の高級時計をカタに置いていくが、案の定受け出しに来ない。結局、始終時計屋へ直しにいかなければならない、二束三文のオンボロ時計だということがばれ、ねじ込むと「だからさー、キミがあの時計を持ってネ、時計屋へ養子に入りゃいいんだよ」……。これが大看板の志ん生を継いだ後だから、あきれ果てる。というか、志ん生というパターン化に成功したわけ。

第十一番 芸のポリシー三選

①教えた噺はやらない
②汚い噺はやらない
③言葉が、正宗の名刀であれ

①これはどの門弟後輩に対しても共通したポリシーで(真打ちに限るが)、噺は財産なので、きちんと教えたネタは譲ってやったも同じだから、原則としてもう自分では封印する。これは江戸っ子の美学であると同時に、その教えた相手がどんなに汗をかいて熱演しても、到底志ん生には及ぶべくもないから、それによって自信を失わせることを避けた思いやりでもあるだろう。 

②は、どんなに薄汚れた世界を演じても、美学に反する噺だけはやらない、というサムライの末裔のプライドか。例えばどんなに勧められても、弱い立場の女郎をよってたかって酷い目に遭わせる「突き落とし」だけは頑として演じなかった。また、バレばなしはやっても、「汲み立て」「禁酒番屋」ほかの、文字通りのスカトロネタは演じなかった。志ん生にとっての「汚い噺」というのは、その両方の意味を兼ねるのだろう。 

③はえらく大きく出た言い方に聞こえるが、内弟子時代から私生活にも密着し、せがれ同然にかわいがられた円菊の語り残し。長男の馬生に稽古をつけているそばで聞いていたことで、言葉のメリハリには厳しかったということ。細かい表現などは意味が通じればいいが、名刀のようにコトバが切れなくっちゃいけない、間違っても二度同じことを言うな、とも。なるほど、フニャクニャムニャムニャ言っているようでも、よく聞けば志ん生の「セリフ」ははっきりわかる。メリハリのよさ、センテンスをスッパリと短く切るさわやかさは、即妙のギャグを活かすもっとも重要なポイントだったわけだ。

第十二番 同い年生まれ三選

①ドワイト・アイゼンハウアー
②シャルル・ド・ゴール
③教育勅語(本人推薦)
番外 花王石鹸 帝国ホテル、凌雲閣、国会議事堂、電気椅子(米)

明治23年(1890)戊五黄寅生まれの赤ん坊は、統計資料によれば、日本だけで男女合わせて約119万人。世界中を見渡せば、おそらくその二十倍はいただろう。どの年でも同じだが、その中で、少なくとも人名事典に名を残すほどになった者も山ほどいる。もっとも、「偉人」の領域になるとかなり絞られるが、それをいちいちあげていればキリがない。五代目古今亭志ん生こと故美濃部孝蔵氏が偉人かどうかは評価がわかれるだろうが、少なくとも「芸術家」の分野に限れば、まあまあ世界トップ100には入れたい気がする。そこで①と②、現代史をひもとけば必ず出てくる世界的な政治家(将軍→大統領)ながら、美濃部孝蔵との共通点は……見事にまったくない。むしろ、同じ年に大小便垂れ流しながら生まれてから、70年も経過して、よくもまあ、これほど隔絶した人生をたどるものと、その究極の例としてだけあげておいた。いや、本当は③をトップに据えたいくらいで、これはご当人が『びんぼう自慢』で「教育勅語が降下になったのが、その年(明治23年)の10月だから、あたしのほうが教育勅語より少うし兄貴てえことになる」と胸を張っている。なるほど、志ん生流の四次元的発想では、別に「同い年」といったところで人間に限定しなければならないということはないはず。ところがあいにく、日本では明治23年という年、珍しく天下泰平極まる年で、主なできごととしては教育勅語のほかは、せいぜいが2月- 金鵄勲章制定だの、4月-内国勧業博覧会開催だの、その他、第一回衆議院議員総選挙、花王石鹸新発売、凌雲閣、帝国ホテル開業と、あまり歴史に残るイベントはない。そこでどうせ中途半端なら、志ん生も明治の子、尋常小学校の頃は「大臣・大将」が理想像だったろうから、いっそ大統領二人の同年生の方が喜ぶだろうと愚考した次第。番外では人間以外の方々もいくつかご紹介しておいた。

第十三番 冥途の道連れ三選

①七世芳村伊十郎-長唄唄方、9月20日没、享年72
②二十四代木村庄之助-大相撲立行司、9月19日没、享年72
③ J・R・トールキン-英、作家・詩人、9月2日没、享年81

残念ながら、少なくとも人名事典に名を残すほどの著名人では、志ん生師匠と同日(9月21日)に三途の川を渡った人は見当たらない。師匠より一日早く旅立った①の7世伊十郎は不世出の名人。人間国宝の肩書もあってトップに据えた。②とした24代庄之助は、柏鵬時代を裁いた名物立行司。「山伏庄之助」とも。③のトールキンは、文学の最高峰『指輪物語』の著者。サルバドール・アジェンデ(チリ大統領、9.11)、グスタフ六世(スウェーデン国王、9.15)、パブロ・ネルーダ(チリの詩人、9.23)なども。これらの人々と志ん生の接点は一切なし。強いて言えば共通点は「男」というだけだが、そういえば同行者の中には、残念ながら老いて逝った元女優何人かを除けば、妙齢のご婦人は見当たらなかった。肝心の同業者だが、この1973年には、同世代でただ一人、最初の師匠・三遊亭小円朝の長男、三代目小円朝があの世へ行っている。小円朝は二か月早く7月11日没(享年80)。若き日、志ん生が「ねずみの殿様」とあだ名を付けた人で、この人は二歳年下でもそこは「師匠のお坊ちゃん」で、なんとなく煙たい存在のまま終生あまり仲はよくなかったようだから、いっしょに道中したい相手ではなかっただろう。

第十四番 志ん生の弟子三選

①初代金原亭馬の助
②二代目古今亭円菊
③八代目古今亭志ん馬

志ん生が満州から帰国後、弟弟子(三語楼門下)から志ん生門に移った志ん太(のち二代目甚語楼)、同じく三寿(のち志ん好)を別格として、志ん生直門の弟子は長男の四代目むかし家今松(のち十代目金原亭馬生)を筆頭に、最後の志ん五まで12人。そのうち、早く廃業した者、五代目古今亭今輔門下に移籍した志ん治(のち鶯春亭梅橋で真打、早世)を除いて、真打になった者は8人。順に馬生、初代金原亭馬の助、八代目志ん馬、二代目円菊、三代目吉原朝馬、三代目志ん朝、初代志ん駒、初代志ん五。このうち、志ん生の実子だった馬生、志ん朝を別格とし、残り5人から3人をピックアップした。この選択はあくまでランダムで、人気や芸の評価からの順位付けではない。なお、2018年1月18日の志ん駒の死去を最後に、この8人はすべて故人となった。悲劇的にも、享年で師匠を超えたのは円菊ただ一人で、没年齢は順に馬生54、馬の助47、志ん馬59、朝馬47、志ん朝63、円菊84、志ん駒81、志ん五61。80歳を超えた2人を除いて、早世した弟子が多いのは、赤貧に鍛え上げられ、重い脳出血から奇跡的によみがえって83歳まで酒を飲み続け、なお芸への執念を燃やし続けた明治男の強烈なエネルギーに、どいつもこいつもみな生命力を吸い取られたためかとさえ思える。

ごじゅうねんごのしんしょうは【五十年後の志ん生は】志ん生雑感 志ん生!

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2023年8月26日、美濃部美津子さんが「お父ちゃん」の元に旅立った。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の長女である。マネジャーとして、長年、名人を支えてきた人でもあった。白寿の享年。合掌。

奇しくも、あれから五十年。経めぐってきたこのとき。はやいようなおそいような。

志ん生はまだ向こうでおとなしくやっているかのどうか。知りはしないが。

美津子さんは美濃部ファミリーの語り部だった。志ん生、りん、喜美子(次女、三味線豊太郎、1925-81)、馬生、志ん朝……。志ん生志ん朝マニアには、美津子さんご自身が伝説であり続けた。

伝説といえば、このこと。

この半世紀、落語界の枠を超えて針小棒大に手垢をなすられ続けた感のある志ん生。

その人気は、ネット時代となっても衰えを知らない模様である。

こころみにYouTubeで検索すれば、出るわ出るわ。

病後のくたびれた時期の録音も、数少ない実写などもあわせたら、ゆうに100件を超えている。

中身もふるっている。

五十回忌での「五十年追善興行記者会見」とか、新作落語「志ん生がスティック買う?」とか。

百花繚乱である。

ひところは、当人出演の古いTVインタビューも、ざくざくアップされていた。

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894.10.25-1964.11.8)との、ともに入れ歯ガチャガチャの対談など、まだまだ掘り出しものがさらされることだろう。

現在、Wikipediaの外国語版では、ドイツ語版にのみ志ん生のページがある。奇妙なことだ。次男志ん朝との因縁なのだろうか。

こんな現象が続くならば、志ん生の私生活や心象風景をも覗き込めるかもしれない。

志ん生という人は、その芸が好きになると、もう風呂場の中まで覗きたがるたちだったという。

岡本和明著『志ん生、語る』は、近親者や弟子の聞き書きで、要領よくまとめられてある。そんな生身の志ん生が浮き上がっている。全編、興味深い。

骨董贔屓に力士贔屓が活写されている。印象深い逸話の数々。

ただ、やれ骨董道楽だの、それ鶴ヶ嶺贔屓だのと、それは過ぎし世の老爺たちがいとなむ、ありふれた日常にすぎないようにも見える。

あたりまえのことだが、志ん生は噺家である。そこらの爺とは違う。

肝心の落語についてはどうか。

あえて、私見を。

志ん生の一見アナーキーなギャグや客の掴み方は、演芸界で生き残らんがための当人の悪戦苦闘と、そこから生み出された冷徹な計算の賜物ではないか、と私は思うのだ。

当人が意図的に拡散した虚実ない交ぜの武勇伝。例の極貧譚なども、すべてはおのれが落語でのし上がるための方便だったのではないだろうか。

具体例を出そう。

五銭の遊び」である。

紙くず屋との「十銭か」「五銭か」と、たたみみ掛けるやり取り。

その末に、「三銭か」「当たった」「あ、三銭」の最後の「あ」と同時に客の笑いがどっと被り、末尾をかき消すと同時に、笑いは百倍にも増幅する。

痛快な場面である。

スタジオ録音などでは、とうてい得られない誘爆力だろう。

これもまた、志ん生流の落語の立体化である。

没後、半世紀にもなって、なおマニアを量産する魔術、催淫効果と言えないか。

なにか、身ぶるいのする凄みさえ感じるというのは、大仰だろうか。

で、蛇足を。

明治23年(1890)生まれの美濃部孝蔵クンには、日本だけでも119万人もの赤ん坊仲間がいた。世界中の「同級生」を挙げれば、アイク、ドゴールがすぐに思い浮かぶ。この二人で十分だろう。

しかし、である。と、私は強調したいのだが。

たかだか米仏大統領二人の朗々たる名演説ごときは、志ん生が成し遂げた酔いどれ聴衆掌握の珍妙きてれつな話術に比べれば、屁でもない。それは断言できる。

冥界の当人は、さぞ、もう、多分、うんざりなことだろう。

娑婆ではまだそんな繰り言めいた妄言を広げているのか、いいかげんに瞑目させてくれ、と怒っているかもしれない。

だが、まだまだ当分、娑婆にたゆとう「古今亭志ん生」は、解脱などできそうにない。マニアの脳裏にしっかり根付いているのだから。

あれこれ含め、古今亭志ん生はつくづく不世出、永久欠番の天才噺家であったことだなぁ。

高田裕史

ごせんのあそび【五銭の遊び】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

五銭をもって吉原で遊んだ男の珍体験談。
いくらなんでも五銭では。
それがりっぱにあがれたのです。

別題:白銅の女郎買い

【あらすじ】

明治から大正の頃。

吉原は金さえあれば、どうとでもなる場所だ。

花魁の格はピンからキリまである。

下の方にくると「じょーろ(女郎)」というのがいる。

町内の連中が、なか(吉原)のじょーろの評判をしている。

とめ公が
「おれは五銭で遊んできたぜ」
と自慢しはじめた。

そのわけを話す。

その日は、二銭しか持ち合わせがなかった。

外にも行けず、家にいて小説本を読んでいたのだ。

おふくろが
「馬道まで、無尽のお金をもらってきておくれ」
と頼まれた。

無尽で五銭が当たったのだ。

用が済んで、浅草の瓢箪池まで来てみると、しめて七銭持っていることに気づいた。

心が動いた。

足がなんとなく吉原に向いていった。

七銭もってむらむらと。

どうせ、ひややかすだけだ。

そんでもって、女を安心させてやろう、と。

千束から吉原土手に出て、大門をくぐって、江戸町二丁目を突き抜ける。

ひやかしていると、角海老の大きな時計が、夜の12時を打った。

腹が減った。

おでん屋に飛び込んで、コンニャクを食べた。

金がないから、コンニャクの二銭を払って、それ以外は食べずに出てきた。

コンニャクで威勢がついた。

「まるで小石川の閻魔さまだな」

話を聴いている連中にひやかされる。

話はさらに。

夜が明ける頃に帰れば、母親も安心するだろう。もう少し冷やかしていこうかと思った。

投げ節をうたった。

ある店の前を通った。

「ちょいとぉ」
と、後ろから声がかかった。

二十四、五歳の女だった。

「二日続けてお茶を引いちゃったんで、今晩ぐらいお客を取らないと、ごないしょに怒られるからさ、どうしても助けておくれよ」
「だめだ、金がねえんだ」
「いったい、いくらあんのさ」

さすがに「五銭なんだ」とは言えないので、右手を出して「これくらい」と伝えた。

女が少し考えて出たひとことが、「なら、お上がりよ」だった。

浮き立つ心で、トントーンと二階にあがった。

「むりを言ってすまないね。恩に着るよ。寝ようよ」
「その前に、腹が減ったんで、なにか食わしてくれ」

この時分では注文もできない。

女は親切にも、廊下から台屋のお鉢を抱え込んで、食べさせてくれた。

おかずは、といえば、これがすごい。

「ぜいたく言わないで、梅干し食べていると思って食べな」

しょうがない。すっぱい唾で飯をかき込んだ。

さて、寝ようと。

若い衆の松どんが入ってきて、「宵勘だから」と催促された。

「はいよ」と五銭を投げた。

すぐに女が言った。

「足りない分は、私が足すから文句を言わないで承知しな」
「承知もなにも」
「がまんおしいよ」
「五銭ですよッ」

女はジイッと俺の顔を見ていた。

「片手を出したじゃないいか」
「そうだよ。五銭だから」
「まあ、五銭でよく店の敷居をまたいだね。その上、飯まで食べてさ。あんたは面の皮が厚いね」
「俺は薄くはないいよ」

【しりたい】

白銅

明治期からの通貨です。

「安い」の代名詞として知られます。



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かつらなんなん【桂南なん】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会
【入門】1977年4月、二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)に、桂南なんで
【前座】1977年7月
【二ツ目】1981年10月
【真打ち】1991年5月
【出囃子】あほだら経
【定紋】丸に橘
【本名】柳沢洋市
【生年月日】1957年7月30日
【出身地】千葉県鎌ヶ谷市
【学歴】千葉明徳高校
【血液型】B型
【ネタ】棒鱈 など
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は映画鑑賞、散歩など。吉原で居残りなど、武勇伝あまた。



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さんゆうていうきょう【三遊亭右京】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会
【入門】1975年12月、三代目三遊亭円右(粕谷泰三、1923-2006)に
【前座】1976年12月
【二ツ目】1981年4月
【真打ち】1991年5月
【出囃子】寿、三番叟
【定紋】高崎扇
【本名】京田健治
【生年月日】
【出身地】北海道岩内町
【学歴】北海道立岩内高校
【血液型】A型
【ネタ】新作
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は地震研究(串田地震前兆険知モニター、日本地震雲研究会会員)、気象友の会会員、国連人口基金モニター。



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かつらゆきまる【桂幸丸】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会
【前座】1974年6月、四代目桂米丸に、桂幸丸で
【二ツ目】1980年9月
【真打ち】1990年5月
【出囃子】会津磐梯山
【定紋】丸に桔梗
【本名】二瓶真一
【生年月日】1954年12月23日
【出身地】福島県須賀川市
【学歴】日本大学文理学部国文学科
【血液型】O型
【ネタ】古典と新作
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は熱帯魚飼育、イラスト、旅行



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さんゆうていしょうゆう【三遊亭笑遊】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会
【入門】1973年10月、四代目三遊亭圓遊(加藤勇、1902-1984)に、三遊亭勢遊で
【前座】1974年
【二ツ目】1979年4月、三遊亭笑遊。84年1月、師没後、三代目三遊亭若圓遊(→五代目三遊亭圓遊)に移門
【真打ち】1989年5月
【出囃子】麦ついて小麦ついて
【定紋】糸輪に覗き剣片喰
【本名】北島元道
【生年月日】1950年4月21日
【出身地】東京都江戸川区
【学歴】日本大学文理学部国文学科中退 ※落研 林家正雀と同期
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】



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「VIVANT」の最終回は?

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ごたぶんに漏れず「VIVANT」を見ています。とてもおもしろい。

ただ、YouTubeでの多くの「考察」を拝聴していると、そんなに緻密なドラマかなあ、とも思えます。

長野利彦専務(小日向文世)は出番ないでしょうし。黒須駿(松坂桃李)は憂助が裏切ったとマジで思っていましたし。野崎守(阿部寛)は裏切らないでしょうからね。ジャミーン(ナンディン・エルデネ・ホンゴルズラ)が野崎になつかないのはちょっと気になりますが。首都クーダンには国際空港があるのかどうか。全編を通じたこまやかさもここらへんが限度のようです。

そこで、最終回(2023年9月17日放送)はどうなるか、かんじんなところだけを手当たり勝手に考えてみました。

テントがいくら孤児院をつくって慈しみ深く大枚を注いだところで、しょせんは殺人者集団。裏切りには殺しで粛清する手合いです。まともではない。

テントは壊滅されてしかるべし、です。ピヨ(吉原光夫)も、ノコル(二宮和也)も、ベキ(役所広司)も、マタ(内村遥)も、シチ(井上肇)も。

ゲルもろともに木っ端微塵、地下帝国が亡びるシーンなんかが最終回にふさわしい。

ベキだけには、乃木憂助(堺雅人)とのいまわの際でのやりとりがあるでしょう。

ベキはおのが来し方を語り、孤児院の行く末を憂助に託します。親子の絆が初めて結ばれた瞬間です。

そして、最後のシークエンス。

除隊した憂助が、柚木薫(二階堂ふみ)、ジャミーンとともにバルカで孤児院経営に励みます。

バトラカ(林泰文)だけは夫婦で生き残り、ジャミーンの行く末を傍らで見守ります。顛末のすべてを見届ける、この物語の語り部なのです。

これじゃ、つまんないですね。

このシナリオの下敷きは、コンラッドの『闇の奥』やコッポラの『地獄の黙示録』のように思えます。以上は、そこからの推測でした。

神田明神布多天神の祭神はスクナビコナ。船で出雲に渡来した外来の神です。オオナムチに協力して国つくりにいそしみ、さまざまな先進技術を伝えます。奥出雲のたたら製鉄もそのひとつなのでしょう。インフラが整うと、スクナビコナは去っていきました。

余韻は響映します。



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えどござんまい【江戸五三昧】ことば

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江戸にあった代表的な五つの火葬場のことです。

もちろん、死体を焼却する施設。火葬場、焼き場、龕堂、火屋、荼毘所などと呼ばれます。

東京の火葬場は現在、23か所あります。民営が7、公営が16、都営が1。

たとえば、民営火葬場は以下の7施設です。

町屋斎場(荒川区)東京博善㈱
四ツ木斎場(葛飾区)東京博善㈱
桐ヶ谷斎場(品川区)東京博善㈱
代々幡斎場(渋谷区)東京博善㈱
落合斎場(新宿区)東京博善㈱
堀ノ内斎場(杉並区)東京博善㈱
戸田葬祭場(板橋区)㈱戸田葬祭場

都営と公営は、合わせると以下の18施設です。

瑞江葬儀所(江戸川区)都営
臨海斎場(大田区)大田区、目黒区、世田谷区、品川区、港区の共同運営
青梅市民斎場(青梅市)青梅市
立川聖苑(立川市)立川市
八王子市斎場(八王子市)八王子市
日野市営火葬場(日野市)日野市
府中の森市民聖苑(府中市)府中市
南多摩斎場(町田市)町田市
瑞穂斎場(瑞穂町)西多摩郡
ひので斎場(日の出町)西多摩郡
大島町火葬場(大島)大島町
小笠原村父島火葬場(父島)小笠原村
小笠原村母島火葬場(母島)小笠原村
神新島村火葬場 神津島村
津島村火葬場(新島)新島村
式根島火葬場(式根島)新島村
八丈町火葬場(八丈島)八丈島
三宅村火葬場(三宅島)三宅島

では、かんじんの江戸期の江戸の町では、どうだったでしょうか。

火葬場は、基本的には寺ごとにあるもので、寺の奥隅に建てられた荼毘所や火屋として成り立っていたようです。

それが、大きく変わるのが、明暦の大火(1657年)。

これ以降、火葬場は江戸の郊外に移っていきました。

土地を多く確保できたため、専用施設化に。

江戸時代には、「江戸五三昧」ということばがありました。

ここでいう「三昧」は供養→火葬場の意味です。以下の5つの火葬場をさしました。これは諸説がありますが、以下はとりあえずの説です。

小塚原火葬地

寛永年間(1624-45)、浅草下谷周辺に19か所あった火葬寺を、火葬の煙や臭いが寛永寺へ及ぶことを懸念し、四代将軍徳川家綱(1641-80)の命で小塚原にまとめて移転となりました。寛永寺は将軍家の菩提寺のひとつですから、これはやはりまずかったのでしょう。明治期になると、木村荘平(牛鍋いろは大王、1841-1906)の起こした旧東京博善が日暮里火葬場と合併して町屋日暮里斎場となり、現在では町屋斎場となっています。
※小塚原→南千住南組→町屋日暮里斎場→町屋斎場

代々木村火屋

文禄年間(1593-96)、四谷千日谷の火屋(=火葬場)が千駄ヶ谷村に移転し、寛文4年(1664)に代々木村狼谷にさらに移転しました。四ッ谷西念寺、勝典寺、戒行寺、麹町栖岸院、必法院など5施設の荼毘所となったのがはじまりです。900坪の敷地を有し、ここには火葬の仕事に従事する家が3軒あったそうです。明治初期には個人経営だったのが、明治26年(1893)に旧東京博善に譲渡され、代々幡斎場となりました。
※四谷千日谷→千駄ヶ谷村→代々木村狼谷→代々幡斎場

上落合村法界寺

市谷薬王寺町の蓮秀寺(日蓮宗、新宿区市谷薬王寺町22)の末寺、無縁山法界寺に荼毘所があったことがはじまりです。法界寺は廃寺となりました。法界寺は外から目隠しの垣根で囲まれていて中を見ることはできず、入り口は2か所あって「焼場法界寺」の表札がかかっていたそうです。法界寺には檀家がないため、死者を火葬するだけの施設だったようです。明治26年(1893)、旧東京博善に移り、落合斎場へ。「らくだ」に出てきます。
※高田上落合村法界寺→落合斎場

桐ヶ谷村霊源寺内荼毘所

桐ヶ谷斎場の道路を隔てた隣にある霊源寺(浄土宗、品川区荏原1-1-2)の龕堂(=荼毘所)でした。江戸期には「火葬寺」と呼ばれていました。3538坪有した境内には、その中を街道が通り、「浄土宗江戸三田長松寺末諸宗山無常院」と号したそうです。明治18年(1885)、火葬場と寺が分離され、福永幸兵衛など10人の組合経営となり、法行合名会社(匿名組合経営)となりました。昭和4年(1929)、東京博善に併合されました。「黄金餅」に出てきます。
※桐ヶ谷霊源寺→法行合名会社(匿名組合経営)→桐ヶ谷斎場

砂村新田阿弥陀堂荼毘所

砂村(江東区)の十間川と小名木川の間にある岩井橋付近にあった砂村新田の阿弥陀堂、極楽寺の荼毘所がはじまりです。「砂村の隠坊」と呼ばれていました。「四谷怪談」第三幕「隠亡堀の場」の舞台でも有名。「隠亡堀の戸板返し」ですね。明治期には砂村荻新田に移り、明治26年(1893)、旧東京博善の傘下となり、東京博善に引き継がれました。同年、旧東京博善傘下となった亀戸火葬場は、深川浄心寺(日蓮宗、江東区平野2-4-25、江戸十祖師の一)の荼毘所としてはじまり、亀戸に移転した火葬場です。明治27年(1894)、砂村火葬場と合併して砂町葬祭場(砂村亀戸)となりましたが、昭和40年(1965)に廃止されました。
※砂村新田極楽寺→砂村荻新田→亀戸火葬場(←深川浄心寺)と合併→砂町火葬場→廃止

これら以外には、炮録新田(葛西)や芝増上寺今里村下屋敷(白金)などにも火葬場があったそうです。

炮録新田は都営の瑞江葬儀所(江戸川区春江)とのかかわりが推定されます、よくわかりません。

芝増上寺今里村下屋敷(白金)は、明治期には東京府の公営屠畜場(港区白金台2-20)となりました。明治43年(1910)まで営業していましたが、移転しました。この地域には外国公館が点在し外国人居留者が多いのは明治以来のことで、新鮮で良質な精肉の需要があったのでしょう。明治期に開店した肉料理店には「今半」のように「今」を冠した店が多かったのですが、その意味は、今里町の「良い肉を使っていますよ」という客へのメッセージだったのだそうです。

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えどじっそし【江戸十祖師】ことば


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江戸市中にある著名な日蓮上人(祖師)像がある、日蓮宗系の十寺院をさします。

法苑山浄心寺(通称:除災祖師、江東区平野2-4-25)
旧本山は久遠寺

平河山法恩寺(通称:本所法恩寺、墨田区太平1-26-16)
旧本山は本圀寺

龍鳴山本覚寺(通称:日限祖師、台東区松が谷2-8-16)
旧本山は本圀寺

安立山長遠寺(通称:どぶだな祖師、台東区元浅草2-2-3)
旧本山は本門寺

妓楽山妙音寺(通称:安産飯匙の祖師、池の妙音寺、台東区松が谷1-14-6)
旧本山は蓮永寺

慈雲山瑞輪寺(通称:谷中瑞輪寺、台東区谷中4-2-5)
旧本山は久遠寺 ※現在は由緒寺院 押尾川の乱(1975年)

報新山宗延寺(通称:読経祖師、杉並区堀之内3-52-19)
旧本山は久遠寺 ※元は浅草神吉町

妙祐山宗林寺(通称:舟守祖師、台東区谷中3-10-22)
旧本山は本圀寺

正定山幸國寺(通称:除厄布引祖師、新宿区原町2-20)
旧本山は誕生寺

妙祐山幸龍寺(通称:たんぼの幸龍寺、世田谷区北烏山5-8-1)
旧本山は本圀寺 ※元は浅草新谷町


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やなぎやふくまる【柳家蝠丸】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会 理事
【入門】1973年3月、二代目桂伸治→十代目桂文治(関口達雄、1924-2004)に
【前座】1973年4月、桂なか治
【二ツ目】1977年10月、柳家小蝠
【真打ち】1988年5月、二代目柳家蝠丸
【出囃子】どて福
【定紋】丸に橘、蝙蝠
【本名】中島俊一
【生年月日】1954年9月29日
【出身地】青森県むつ市
【学歴】青森県立田名部高校
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】1982年、第11回NHK新人落語コンクール最優秀賞。



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さんゆうていせんば【三遊亭扇馬】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会
【入門】1973年2月、四代目三遊亭圓馬(森田彦太郎、1899-1984)に
【前座】1973年4月、三遊亭きそ馬
【二ツ目】1977年10月、三遊亭扇馬。1984年11月、師没後、四代目三遊亭小圓馬(森山清、1925-99)に移門
【真打ち】1988年5月
【出囃子】あじゃら
【定紋】高崎扇
【本名】大久保勝美
【生年月日】1956年4月11日
【出身地】東京都八王子市
【学歴】東京都立南多摩高校中退
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】



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りゅうていらくすけ【柳亭楽輔】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会 理事
【前座】1972年8月、四代目柳亭痴楽(藤田重雄、1921-1993.12.1)に、柳亭楽輔で。1973年10月、師病に伴い、三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)に移門
【二ツ目】1976年11月
【真打ち】1987年5月
【出囃子】砧
【定紋】結び片喰
【本名】笹本邦雄
【生年月日】1953年1月25日
【出身地】静岡県静岡市
【学歴】静岡市立高校
【血液型】A型
【ネタ】明烏 幾代餅 死神 寝床 風呂敷 など
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は映画鑑賞、プロ野球観戦(阪神ファン)、ゴルフ、宝塚歌劇観劇。女優の笹本れいかは長女。



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かつらとみまる【桂富丸】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会
【前座】1970年12月、四代目桂米丸に、桂麦夫で
【二ツ目】1976年4月、桂富丸
【真打ち】1986年5月
【出囃子】お富さん(深川づくし)
【定紋】三ツ茶の実、丸に蔦
【本名】松井正夫
【生年月日】1948年10月11日
【出身地】東京都江東区深川
【学歴】川口市立県陽高校→東洋大学
【血液型】AB型
【ネタ】新作
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味はボウリング、ゴルフ、野球観戦。



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うんりゅうていあめか【雲龍亭雨花】噺家


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【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】2007年秋、四代目春雨や雷蔵
【前座】2008年2月、春雨や風子
【二ツ目】2012年3月
【真打ち】2024年5月、雲龍亭雨花
【出囃子】北風小僧の勘太郎
【定紋】雷(稲妻)紋、杏葉牡丹
【本名】
【生年月日】1980年1月16日
【出身地】埼玉県
【学歴】明治大学短期大学法律学科
【血液型】O型
【ネタ】古典、新作両用
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】特技はものまね、顔まね。落語ガールズの結成に尽力

落語ガールズ:女性落語家の認知・精進などを目的として、落語協会、落語芸術協会、落語立川流の真打、二ツ目のユニット。平成29年(2017)結成。現在のメンバーは、川柳つくし、林家ぼたん、古今亭駒子、三遊亭藍馬、立川小春志、三遊亭律歌、春雨や風子、柳家花ごめ、三遊亭遊かり、林家あんこ、春風亭一花、立川だん子、三遊亭遊七、三遊亭あら馬。



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かつらうたはる【桂歌春】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会 理事
【入門】1970年10月、二代目桂枝太郎(池田芳次郎、1895.5.7-1978.3.6)に、桂枝八で
【前座】1972年4月
【二ツ目】1976年4月。師没後の1979年3月、桂歌丸(椎名巌、1936-2018)に移門、桂うたはち
【真打ち】1985年9月、桂歌春
【出囃子】さわぎ
【定紋】丸に蔦の葉
【本名】田代修吉
【生年月日】1949年9月9日
【出身地】宮崎県日向市
【学歴】宮崎県立延岡西高校→西南学院大学中退
【血液型】B型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味はゴルフ、料理。娘はタレントの田代沙織



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さんゆうていさえんば【三遊亭左圓馬】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会
【前座】1969年1月、四代目三遊亭円馬(森田彦太郎、1899-1984)に、三遊亭喜久馬で
【二ツ目】1973年4月、三遊亭桂馬
【真打ち】1984年4月、三遊亭左圓馬
【出囃子】鉄道唱歌
【定紋】高崎扇
【本名】横手基彦
【生年月日】1944年4月10日-2023年10月27日
【出身地】群馬県中之条町
【学歴】日本大学 ※落研
【血液型】B型
【ネタ】寝床 大山詣り 選挙風景
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味はスポーツ、小唄、茶道、古美術。大江戸小町会。



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しろうとしばい【素人芝居】落語演目

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【どんな?】

素人が演じる芝居を茶番といいます。
芝居=歌舞伎だった頃の噺。

別題:五段目 吐血

あらすじ

町内の素人芝居で、「仮名手本忠臣蔵」五段目、山崎街道の場を出すことになった。

例によって、オレも勘平、オイラも勘平、あたしも勘平と、主役ばかりやりたがり、さんざん役もめをした挙げ句、しかたがないのでくじ引きで配役を決め、伊勢屋の若だんなが幸運にも勘平に「当選」した。

鉄砲渡しで千崎弥五郎が花道から客席に落っこちたり、猪役に当たった建具屋の源さんが、おもしろくないから、いやがらせに舞台でチンチンやお預けをしたりといろいろあって、やっと勘平の出になる。

舞台で斧定九郎が与市兵衛を殺して五十両を奪い、金を数えて終わってほくそ笑んだところで、揚げ幕から勘平が猪を狙ってドンと鉄砲を撃つと、弾が定九郎に命中。

定九郎の役者が、あらかじめ口に含んでいた玉子紅を噛み、胸に仕込んでおいた糊紅をなでると、口から血がダラダラ、胸から腹にかけて血だらけになってウーンと倒れたところへバタバタになって、さっそうと勘平が花道へ登場。

という、おなじみのいい場面になるはずだったが、ならない。

小道具が口火をなくしてしまったので、いつまで待っても鉄砲の音がしないから、定九郎がじれて、舞台をグルグル三べんもまわった挙げ句、かんしゃくを起こして
「テッポ、テッポ」
と怒鳴ったからたまらない。

たちまち口の中の玉子紅が破れて、弾にも当たらず血がダラダラ。

見物が仰天して
「おい、鉄砲は抜きか」
「いや、今日は吐血で死ぬんだ」

底本:四代目橘家円喬

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うんちく

オムニバスの一部 【RIZAP COOK】

「仮名手本忠臣蔵」を題材としたオムニバスの一部分で、このあらすじの部分のみを演じる場合は、普通「吐血」「五段目」と称します。

「素人芝居」の演題は、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が明治29年(1896)6月、『百花園』に速記を載せた際のものです。円喬はこの後「蛙茶番」につなげています。

「田舎芝居」と題して芝居噺の趣向を取り入れた同時代の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)は、この忠臣蔵五段目の失敗話を「大序」「四段目」に続いて最終話とするなど、昔から、部分部分の組み合わせや構成は演者によって異なります。詳しくは、「田舎芝居」の項をご参照ください。「五段目」のこの部分だけの原話は不詳です。

「忠臣蔵」各段ごとに小咄 【RIZAP COOK】

歌舞伎や文楽の「仮名手本忠臣蔵」は、人口に膾炙かいしゃしているだけに、その各段にちなんだ落語や小咄が、かつては作られていました。

「大序」「二段目」「五段目」「七段目」「九段目」がそれですが、このうち独立した一席噺として扱われたのは「七段目」くらいでしょう。

本ブログでは、本編の「五段目」、「七段目」に加え、「田舎芝居」の項で、「大序」「四段目」の梗概を紹介しています。「九段目」は独立項目を設けていませんので、以下に明治25年(1892)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記をもとに、簡単にあらすじを記しておきます。

「九段目」あらすじ 【RIZAP COOK】

近江屋という呉服屋の隠居の賀の祝いに 素人芝居で忠臣蔵九段目「山科閑居」を 出すことになったが、主役の加古川本蔵かこがわほんぞうを演じる者が風邪でダウンし、代役に、夜は医者、昼はタバコ屋という小泉熊山こいずみゆうざんを立てた。ところが、大星力弥 に槍で突かれて手負いになる場面で、 血止めに自家製の刻みたばこを使ったので、客が「よう本蔵、血止めたばことは芸が細かい」とほめると「なあに、手前切り(自分で粗く刻んだたばこ)です」とオチになる。

オチが今ではわかりづらく、今ではほとんど口演されません。これも別題を「素人芝居」といい、ややこしいかぎりです。 

落語を地でいったヘボ芝居 【RIZAP COOK】

十七代目中村勘三郎(1909-88)は、『中村勘三郎楽屋ばなし』(関容子)の中で、岳父六代目尾上菊五郎(1885-1949)に聞いた昔の役者の失敗談として、「五段目」のオチのまま(大道具の鉄砲が鳴らずに、定九郎がしかたなく舌をかんで「自殺」)の話を語っています。

これが実話だったのかどうかは、定かではありません。昔のヘボ役者のしくじり話は、梨園にはいくらでも伝わっているようです。

同じ菊五郎の座談として伝わっている話に、「忠臣蔵」三段目の喧嘩場、高師直こうのもろのお塩冶判官えんやはんがんのやりとりで、判「気が違うたか、ムサシノカミ」、師「だまれ、ハンガン」と言うべきところを、判官が間違えて、判「気が違うたか、たくみのかみィ」とやってしまい、これにあせった師直が、師「だまれ、モロノオ」。

これで芝居はメチャクチャ、という一席がありました。

オレも勘平 【RIZAP COOK】

現在でも芝居噺のマクラによく使われる「勘平がずらりと花道に並んで、これで「カンペイ式(=観兵式)もめでたく済んだ」というくすぐりを四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)も用いていますが、「観兵式」がどんなものかわからなくなっている現在、くすぐりとして通じなくなっています。

二代目禽語楼小さんは、四代目円蔵よりさらに一時代前の人ですが、前述「九段目」のマクラで、並んだのは「勘平の子でございましょう」とやっています。

どのみち、おもしろくもなんともありませんが、こちらのほうがまだわかりやすいでしょう。

この噺、戦後は円蔵の弟子だった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、師匠の演出を継承して「五段目」として高座に掛け、音源も残されています。



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しろうとうなぎ【素人鰻】落語演目

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【どんな?】

鰻噺。
維新直後の東京。
没落した士族の泣き笑いです。

別題:鰻屋 士族の商法 素人洋食(改作)

あらすじ

明治の初め。

士族の中村のだんな、新政府から金禄公債きんろくこうさいをもらったのを機になにか商売を始めようと、手頃な家を探し歩いている時、偶然、昔、屋敷に出入りしていた鰻職人の神田川の金に会う。

事情を話すと、
「及ばずながら、あっしがお役に立ちやすから、ぜひ鰻屋をおやんなさい」
と勧める。

この男、腕は確かなのだが酒乱で、一度酒が入ると手がつけられない。

だんながためらうと、金毘羅こんぴらさまに願掛けして、きっぱり酒は断つと誓ったから、それならと万事任せることにし、空店まで金に探してもらって、開店にこぎつけた。

なるほど、金は人が変わったように、たった一人で獅子奮迅。

住み込みで、流しから料理から出前から、なにもかも一切合切引き受ける。

だんな夫婦も喜び、金には腫れ物に触るように、大事にしている。

ある日。

だんなの昔の遊び仲間で、金ともなじみの麻布のだんなが来る。

旧幕時代の思い出話などしているうち、麻布のだんなが、金が酒断ちをしていると断るのに、無理にのませるから、中村のだんなはハラハラ。

案の定、だんだん金の目が座ってきて、気がついた時はもう手遅れ。

やめさせようとすると
「なんでえ、一杯二杯の酒ェのんだがどうしたってんでえ。こんな職人がどこにある。下流しから料理から、出前までするんだ。……ばかたぁなんでぇ。大きなツラぁするねぇ。だんな、だんなと持ち上げりゃあいい気に……」
「出ていけっ」
「こんな家ィ、誰がいるかいっ」

売り言葉に買い言葉。

しかし、金に出ていかれると営業はできないので、夫婦で心配していると、翌朝、吉原の付き馬を連れて金が面目なさそうに帰ってくる。

酒をのんだ後のことは皆目記憶になく、気がつくと女郎が横に寝ていた、という。

怒るに怒れないので、金に立て替えてやり、十分酒に気をつけるよう注意して、また元のさやに。

それからしばらくは、金も懸命に働き、腕がいいので店も少しずつ繁盛した。

ところが、だんながある夜、金に遠慮しいしい寝酒をやっていると「ガラガラガラ」とすごい音。

金の声がするので、さてはと駆けつけると、案の定、もうご機嫌。

この前のことがあるから思わずだんなもカッとして
「出てけえっ」

翌朝戻ってきたが、またその夜同じことの繰り返し。

仏の顔も三度で、もう帰ってはこられない。

そうなると、困るのが店の方。

すぐには金ほどの腕の職人は雇えないから、しかたなく、だんなが自分で料理しようと奮闘。

ぬるぬるしてつかめず、糠を滑り止めにしてやっと一匹捕まえて、キリで往生させたと思ったら、今度は隣の奴がニョロニョロ逃げ出す。

だんな、捕まえようとして両手で交互につかみ、とうとう外へ。

「これこれ、履物を出せ、履物を。……どこへまいるるかわかるか。鰻に聞いてくれ」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

しりたい

黒門町の極めつけ  【RIZAP COOK】

この噺は現在、二通りのパターンが伝わっています。

オチの部分の原話は、安永6年(1777)刊『時勢噺綱目じせいばなしこうもく』中の「俄旅にわかたび」。このオチをもとに、同題で二通りの「素人鰻」が作られました。

一つはここで紹介した噺です。別題を「士族の商法」といいます。それはこんな噺が元にあります。

幕府倒壊した直後、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)がとある武家屋敷の前を通りかかると、そこには「この内に汁粉あり」の看板がかかってありました。

気になって中に入ってみると、屋敷の家来がうやうやしく取り次いで、殿さまがたすき掛けであんをこしらえていたり、姫君が小笠原流で汁粉を運んできたりと、場違いな雰囲気の汁粉屋でした。

円朝はそそくさと退出したとか。この体験をもとに円朝がつくった噺が「士族の商法」。これに、先述の「俄旅」を合体させたのが「素人鰻」となったようです。

戦後、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)の十八番中の十八番として称賛されました。これは明治維新直後の実話をもとに作られたと言われています。噺に登場する「神田川」も神田明神下の老舗です。

初代三遊亭円馬(野末亀吉、1828-1880)、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909)、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)を経て、文楽に直伝で伝えられました。

文楽自身が華麗な語り口で没落士族の悲哀と明治初期の世相を見事に描き、一世を風靡しました。

なお、この噺には別のオチがあり、鰻が裂けないのでしかたなく丸焼きにして出し、客が文句を言うと「なに、無理すれば食える」という陳腐なもので、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が小咄としてマクラに振っていたようです。

もちろん、今はやり手がありません。もう一つについては、次項で。

滑稽丸出しの「鰻屋」  【RIZAP COOK】

二つ目について。

オチは同じですが、こちらはナンセンスに徹したもので、普通は「鰻屋」の別題で演じられます。

二人の男の噂話から始まり、鰻裂きの職人が留守でキュウリのコウコで二時間酒をのました鰻屋があるが、主人がわびて金を取らず、またのみなおしにどうぞと言ったというので、それじゃあお言葉に甘えてタダ酒にありつこうと、職人がいない時を見計らって二人で押しかけたので、困った主人が自分で料理しようとして「どこへ行くか鰻に聞いてくれ」となります。

「素人鰻」が長らく文楽の独壇場だったのとは対照的に、こちらは初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)の型とされているものです。

遊三は徳川家の御家人の出なので、成れの果ての士族の来し方が身に染みていたのでしょう。

この型が、大正期に五代目三升家小勝(加藤金之助、1858-1939)が改作し、大阪の初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)、戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、五代目志ん生と、多士済々です。

小勝は、幕切れの鰻をつかむ手さばきに合理的な工夫を見せ、東京の「鰻屋」はみなこの師匠から出たと円生も語っています。

明治維新の時代の風潮が噺からは消えて、鰻屋のコミカルなようすだけが浮き彫りに出たものに変わっていきました。

これを「素人鰻」と区別する意味で、「鰻屋」と呼ぶゆえんです。

春団治は、鰻をつかんだ男が最後に電車に飛び込むという破天荒なオチで有名でしたが、この上方爆笑路線は、二代目桂枝雀(前田達、1939-1999)が継承していました。

「鰻鰻鰻つかみて春団治 歩む高座にさんざしの降る」という吉井勇よしいいさむ(1886-1960)の歌が残ります。

士族の商法  【RIZAP COOK】

明治6年(1873)からの士族の秩禄奉還に基づき、同9年、金禄公債証書発布条例が発令されました。

これは、それまで幕府や各藩からもらっていた家禄を没収する代わり、一定のまとまった金額を公債の形で支給するものです。

一部は現金でもらえましたが、これを元手に商売を始める元サムライが多かったのです。

ところがその結果は、八代目文楽もマクラで引用しているとおり、「士族の商法とかけて、子供の月代さかやき(散髪)と解く。そのココロは、泣き泣き摩(す=剃)る」というありさま。

慣れない商売で客や使用人、取引相手に頭を下げられず、あっという間に全財産をすって落ちぶれ果てる人があとを絶ちませんでした。

からいばりしてもどうにもならず、貧窮のあまり没落士族の娘が女郎に身を売るなど、珍しくもなかったようです。

量産された没落士族もの  【RIZAP COOK】

というわけで、明治初期にはこの噺を始め、「士族の車」「御前汁粉」「西京土産」など、没落士族を主人公にした噺がやたらと作られました。

まあ、人の不幸は笑いのタネというわけで、二百数十年も両刀のご威光で押さえつけられてきた町人のうっぷん晴らしもあったでしょう。

「士族の車」は、零落して人力車を引いている元サムライが、客に号令をかけさせて勇ましく走り出すもののはずみに梶棒が持ち上がって、客を落としたりしたあげく「疲れたから、今度はおまえが引け」とオチになる噺。

「御前汁粉」は、殿さまとお姫さまで汁粉屋を開業、お姫さまが運んできて「町人、代わりを食すか」「へい、おありがとう存じます」「暫時そこに控えておれ」「へへー」どっちが客かわからない、という噺です。

しょせんはキワモノで、「素人鰻」を除けばほとんどが早々にすたれましたが、これらの残された速記は、当時の風俗を知る上で貴重な資料といえるでしょう。

続編?「鰻の天上」  【RIZAP COOK】

ところで、鰻をつかんで飛び出したあと、いったいどうなったのか、気になるところですが、ちゃんと考えた人がいたとみえます。

上方落語で、「鰻の天上」と題したマクラ噺で、徳やんという男が、つかんだ鰻の頭を上に向けたばっかりにそのままいっしょに天上し、一年後に妻子のもとに空から「去年の今日鰻と共にのぼりしがいまに絶へせずのぼりこそすれ(=今も絶えずずっと上り続けている)」と書いた短冊がヒラヒラ。裏書に「手を離す暇がないので、代筆させた」とあったという、荒唐無稽な後日談となっています。

この噺、さらに続きがあって、とうとう鰻に振り落とされた男が墜落するところを雷さまに助けられ、弟子入りして月宮殿を見物するうち、雷の秘蔵のヘソ入りつづらを盗んで逃走、追いかけられて墜落したのがちょうど我が家の庭……というわけで、ここらになると鰻とはまったく関係なく、「月宮殿星の都」というごたいそうな題がついています。

珍品改作「素人洋食」  【RIZAP COOK】

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が文明開化の新時代を当て込んで「素人鰻」を改作し、「素人洋食」と題した速記が残されています。

円遊は円朝門の四天王の一人で爆笑噺家。「ステテコの円遊」「鼻の円遊」などと呼ばれて一世を風靡しました。

これは、開化ぎらいで頑としてチョンマゲを切らなかった今田旧平(いまだ旧弊)という大金持ちの地主が、ある日突然改心(?)して西洋かぶれになり、こともあろうに洋食屋を始めるというので、いやがる長屋の連中を無理やり集めますが、料理人を雇う金をケチったので料理ができず、パンとバターばかりやたらに出すというドタバタです。

旧平が、来ない奴は店立てをくわせると脅すところは、「素人鰻」よりむしろ「寝床」の趣向が濃厚です。



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しんじゅうのしんじゅう【心中の心中】落語演目

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【どんな?】

悲劇の温床「心中」。
これも落語の手にかかっては……。

別題:情死の情死 花見心中

あらすじ

明治元年、夏。

京から江戸に出て呉服の行商をしている善次郎。

土地慣れないから得意先もつかず、七月の暑い最中で、母親と二人暮らしだから、どうにも立ちいかない。

京へ帰ろうにも路銀もないありさまなので、恥を忍んで借金に行った先でも、すげなく断られたばかりか、
「生きていたって甲斐性がない奴は豆腐の角へ頭をぶつけて死んでしまった方がいい」
と、ののしられる。

とぼとぼと向島の土手に来かかり、いっそ首をくくろうと桜の枝に帯を結んで手を掛けると、枕橋の方からバタバタと足音。

見とがめられてはと、あわてて桜の木に登って隠れていると、若い男と女。

親の許さぬ仲とかで、しょせん生きてはいられないと話がまとまり、男の方が、死骸の始末金にと家から持ち出してきたという百両の金を桜の木の下に置くと
「覚悟はよいか」
「南無阿弥陀仏」
と、刀をスパッと引き抜く。

上にいる善次郎、驚いた拍子に、二人の頭の上にドサッと落っこちた。

びっくりした二人は、金をそのまま置いて逃げてしまう。

しかたなくその金を持って、大家の所に相談に行ったが、頃はご維新のさ中。

奉行所も解体同然だから、
「どうでもしたらよかろう」
と取りあってくれない。

善次郎はためらいながらもその金で借金を返し、残りを元手に懸命に働いた甲斐あって、数年後には蔵付きの立派な呉服屋を開店することができた。

月日は流れて、明治7年。

善次郎が帳場に座っていると、年の頃、三十四、五、黒の山高帽子に南部の糸織のお召しという、りっぱななりの紳士が、似合いの奥方といっしょに店先で反物を見ている。

その顔を見て善次郎は、はっと驚く。

それもそのはず、その夫婦はあの時の心中者。

飛び出して行ってあの時の話をし
「そういうわけで、あんたはんらは私にとっては命の親。あのお金は利息を添えてお返しせななりまへん」
と言うと、だんなの方も、
「実はあの時、人が上から降ってきたのに仰天し、二人で枕橋まで逃げたが、親戚の者の取りなしで無事夫婦になり、今では子供もいる身」
と語る。

「それではあなたが、あの時の。よく落ちてくだすった。私たちの命の親」
「あほらしい。あんたの方が親や」
「いいや、おまえさん親」
「なに、あんた親」
とやっていると、奥から母親が
「してみると、あたしのためには継子かしらん」

底本:四代目橘家円喬

生きてるうちが花スヴェンソンの増毛ネット

うんちく

明治の名人が創作 【RIZAP COOK】

別題「花見心中」。四代目橘家円喬がものした新作とみられます。明治29年(1996)2月の『百花園』に速記が掲載されましたが、原題表記は「情死の情死」となっています。

榎本滋民が指摘しているとおり、速記をよく読むと、細かい年代のミスが多いのですが、そこは落語で、言うだけヤボでしょう。

わかりにくいオチ

現在ではすたれ、高座にかかることはありません。明治維新前後の世相がよく描写されていて、今となっては貴重な資料です。

オチは、「命の恩人」という意味で「命の親」と言ったのを、ばあさんが取り違え、「客がせがれの親なら、あたしはママハハか」と頭をひねるマヌケオチ。

最後の「-のためには」は、「-にとっては」という意味の、古風な江戸ことばです。

奉行所も解体同然 【RIZAP COOK】

二人が大家に相談に行き、世が世なら、さっそくお白洲で、名奉行のお裁きという場面ですが、あいにくもう幕府は崩壊。奉行所もあってなきがごとしという、情けない無政府状態です。

最後の江戸町奉行は、北が石川河内守、南が佐久間ばん(ばんは金偏に番)五郎。南北両奉行所を官軍に引き渡したのは、慶応4年(1868)5月22日で、明治改元はこの年の10月23日。折しも江戸は、彰義隊騒ぎで大混乱の最中。この一週間前、5月17日に上野の戦争が勃発し、5日前に片づいたばかり。

円喬は「明治元年夏」と説明していますが、実際はまだ慶応4年。町人みな小さくなって家に隠れ住み、多くの者が大八車に家財を積んで江戸を逃げ出そうとして時に、心中騒ぎを起こすとはのんきな野郎があったものです。

このころの奉行所与力や同心の乱れぶりは相当なもの。幕府も、万一、彰義隊に駆け込む者があっては大変と気を使ったものの、そんな心配は無用。『戊辰物語』(岩波文庫)によると、満足に馬に乗れる者などほとんどなく、十手を振って、房が顔の前で、いかにかっこよく開くかのコンクールをやっていたというテイタラク。こりゃあ、負けるわな。

南部の糸織 【RIZAP COOK】

かつての心中者が、維新の騒ぎを切り抜け、7年後、さっそうと登場。南部の糸織は、南部紬のお召しで、『壬生義士伝』(浅田次郎)で主人公の故郷、旧南部藩領(岩手県)特産の、よった絹糸で作る織物です。「お召し」は、その中で練り糸で表面にしわを寄せた最高級品で、お召し縮緬とも呼びます。

枕橋 【RIZAP COOK】

旧名は源森橋。墨田区吾妻橋1丁目から向島1丁目の墨田公園までを渡しています。源森川(のち北十軒堀)を寛文3年(1663)に掘削する際、関東奉行伊奈半十郎の監督で架けられました。

のちに、橋向こうに水戸藩下屋敷まで新橋が架かり、源森橋の名を譲って枕橋と改名。その「新・源森橋」の方は、その後、新小梅橋と改称されましたが、二つ合わせて枕橋と呼ぶ習慣もあったとか。なにやらややこしい話です。対岸の山の宿から、枕橋詰の桟橋まで、渡し舟が出ていました。



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そうかん【宗漢】演目

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【どんな?】

古代中国が舞台のバレ噺。
戦国七雄を題材にしても所詮はね。

別題:薬籠持ち

あらすじ

中国は、魏の国の宗漢という医者。

この先生、名医だが大変に貧乏で、日本でいうと裏長屋住まい。

ある雨の日、玄関先で
「お頼み申します」
という声がするので出てみると、
「楚の国からはるばるやってきたものだが、主家のお嬢さまが長い病で難渋しているので、先生にぜひお見舞いを願いたい」
と言う。

先生大喜びで、二つ返事で引き受けたものの、金がないのでお供の者も雇えない。

そこで、やむなく細君を連れていくことにしたが、医者が女の供を連れていては外聞が悪いので、細君を男装させ、長旅をして楚までやってきた。

先方に着くと、下へも置かない大歓迎。

お茶を出されても、細君の方は返事をするとバレるので、おっかなびっくり下を向いているばかり。

見舞ってみると、さほどたいしたことはないので、薬を与えて帰ろうとすると、日はとっぷりと暮れなずみ、折しも大雨が降りり出した。

いくら待っても、やむ気配がない。

恐縮した主人が、一晩泊まっていくようにすすめるので、宗漢先生もその気になったものの、この家ではあいにく、夜具を洗濯に出してしまって余分なものが今ない、という。

そこで、
「まことに申し訳ないことながら、先生は十一歳になる息子と寝ていただき、お供の方は、手前の家の下男とかじりついて、肌と肌とを押しつけて寝ていただくと温かでございます」
ときたので、先生は仰天した。

今さら自分の女房だと言うわけにもいかず、とうとうその晩は心配のあまり、まんじりともせず夜を明かした。

翌朝。

宗漢夫婦が帰ったあと、例の十一歳の息子が
「お父さん、昨夜ボク、あのお医者さんと寝たでしょ。あのオジサン、貧乏だね」
「なぜ」
「フンドシしてなかったよ」

それを聞いていた下男が
「そりゃそうだろう。あのお供なんか、金玉がなかったからな」

うんちく

戦国七雄 【RIZAP COOK】

魏、楚ともに、紀元前4-3世紀に割拠した戦国七雄。

魏は山西省南部から河南の北部一帯にかけて、楚は揚子江中流一帯を占めていました。隣国とはいえ、日帰りなどとてもできませんが、時空間をものともしないのが落語の落語たるところです。

細君に男装 【RIZAP COOK】

なんのことはなく、かんざしを抜かせただけです。

昔、中国では男女とも、服装から髪型からまったく同じで、これでは困るというので、女には目印として簪を付けさせたというのがこの噺の前提ですが、もちろん、噺家のヨタを真に受けられては困ります。

少年愛も隠れている噺 【RIZAP COOK】

原話は不詳。四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が明治28年(1895)8月、『百花園』に寄せた速記以後、内容が内容だけに演者の記録はもちろんありません。

薬籠やくろう持ち」と題して、バレ小咄として演じるときは、宗漢を日本の医者で、前田宗漢とかなんとかもっともらしい名前にし、薬籠(薬箱)持ちの下男をクビにしたばかりなので、しかたなくかみさんを男装させて出かけることにしています。

その場合、中国のようにはいかないので、ちゃんと男の着物を着せ、頭には頭巾ずきんをかぶせて、下男に化けさせています。

往診先は山向こうの村の金持ちで、医者は診察したばかりの子供といっしょに寝かされます。

オチは、貧乏医者で「金がない」というダジャレを含んでいますが、勘ぐれば少年愛のにおいまでする噺ではあります。

【語の読みと注】
魏 ぎ
楚 そ



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そうじょうのじん【宋襄の仁】故事成語 ことば


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無益な情をかける。→いらぬ気遣い。

なんとも、お人よしのとのさまだこと。

初出は『春秋左氏伝』僖公二十二年。

お話はこんなぐあいです。

春秋時代の宋は、かつての殷(商とも)の生き残りが運営している国。小国でしたが、プライドだけは異様に高いのです。

宋は斉と友好関係でした。ともに、春秋の五覇に数えられたりしています。

斉の桓公が亡くなると、おれもなれるかと、宋の襄公は盟主気取りとなります。それを快く思わない楚の成公。楚は南の大国です。宋の比ではありません。

そんなこんなで、前638年、宋軍と楚軍が、泓水おうすい(河南省商丘市)を挟んでにらみあうことに。

楚軍がいよいよ泓水を越えようとしています。

目夷が襄公にささやきます。この人は宋の令尹(宰相)です。

「楚は体形をくずして川を渡っています。いまですぞ。ここを討ちましょう」

「君子はそんな卑怯な手は使わないものだ」

ええー。いまがチャンスなのに。

楚軍は渡河を終えて、陣形を整えました。

そこで勝負。

あれれ。またたくまに宋軍は楚軍に殲滅されてしまいました。襄公も矢傷を。

うーん。これでは。

襄公は矢傷がもとで、二年後に亡くなります。

あーあ。

これが宋襄の仁です。なんとも、いやはや。

ときどき、このような原則を貫こうとするアタマのお固い人がいるものです。これでは厳しい現実社会は生き抜けません。

当時、宋国の人(宋人そうひと)は殷のなれの果て、遺民であることを、周囲からは侮られていたようです。宋を題材とする故事はことごとく、宋人が愚かで嘲笑の的となるものばかりです。これもそのひとつなのですね。

過去40年間の読売新聞記事では、5回使われていました。数は少ないのですが、なかなかぐっとくる使われ方をしていましたよ。


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ここんていじゅすけ【古今亭寿輔】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】1968年3月、三代目三遊亭円右(粕谷泰三、1923-2006)に
【前座】1968年5月、古今亭右詩夫
【二ツ目】1972年5月、古今亭寿輔
【真打ち】1983年4月
【出囃子】シャボン玉
【定紋】違い鷹の羽
【本名】宮川幸夫
【生年月日】1944年5月15日
【出身地】山梨県甲府市
【学歴】山梨県立甲府第一高校
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】



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はるさめやらいぞう【春雨や雷蔵】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会
【前座】1968年3月、八代目雷門助六(岩田喜多二、1907-1991、六さん)に、雷門助三
【二ツ目】1972年5月
【真打ち】1983年4月、四代目春雨や雷蔵
【出囃子】本調子かっこ
【定紋】杏葉牡丹
【本名】山田良平
【生年月日】1951年1月27日
【出身地】東京都葛飾区
【学歴】東京都立葛飾野高校中退
【血液型】AB型
【ネタ】古典中心 浮世根問
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は登山、温泉、オカリナ。1980年、NHK新人落語コンクール最優秀賞受賞。1991年、国立劇場「花形演芸会」大賞。1999年、文化庁芸術祭優秀賞。



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さんしょうていゆめたろう【三笑亭夢太朗】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会 理事
【入門】1967年2月、三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)に
【前座】1967年3月、三笑亭夢二
【二ツ目】1971年4月
【真打ち】1981年4月、三笑亭夢太朗
【出囃子】勧進帳舞の相方
【定紋】夢
【本名】大石雅一
【生年月日】1948年12月3日
【出身地】東京都大田区
【学歴】日本学園高校
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は書道、ゴルフ。1979年10月、第8回NHK新人落語コンクール優秀賞。1980年芸術祭優秀賞(芸協若手五人衆の一人として)。1980年6月、国立演芸場花形新人賞銀賞。2021年12月、令和3年度文化庁長官表彰。大田区桓公PR特使。



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きゅうぎゅうのいちもう【九牛の一毛】故事成語 ことば

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多くの牛の中の一本の毛→気多数の中のごく少ない一部分→取るに足りない

初出は司馬遷(前145-前86)の文から。

用例は、こんなかんじです。

この年、南米移民が行われたが、全体の人口増加からみれば九牛の一毛にすぎなかった。

読売新聞の過去40年の記事では4件ありました。意外に使われていませんね。

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ちみもうりょう【魑魅魍魎】故事成語 ことば

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化け物いろいろ。

意味もなんにもありません。ただ化け物が3種か4種の羅列です。

「魑」は虎の形の山の神。「魅」は猪頭で胴体は人身の沢の神。「魍魎」は山水や木石の精気から生まれる怪物。

困ったことに、人を害する存在なのです。災厄の主です。死神の類でしょうかね。

鬼=霊。离=山の精。といわれてもいまいちどうもわかりません。重要なのは、四字すべてにつく「鬼」が霊をさす、ということでしょう。

この四文字が登場すれば、非日常的で神秘のベールが漂ってきます。

初出は『春秋左氏伝』宣公三年。水沢の神として登場します。

平安時代には「すたま(須太万)」。江戸時代には「すだま」と濁って凄みを増幅させました。

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たざんのいし【他山の石】故事成語 ことば


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「詩経」のことば。

「他山の石もって玉をおさむべし」

よその山から出た粗悪な石も自分の宝石を磨くのに使える。転じて、他人のつまらない言行でも自分を磨く参考になる、という意味。

石=凡人、玉=賢者または君子。たとえているのですね。

ですから、他人のりっぱな原稿をお手本にする、といった意味で使うのは間違いとされています。

うーん、使い方が難しいことばです。

他人の醜聞、失敗、挫折などをわが身の参考にしようとするときに、このことばは力を発揮します。

ちなみに、読売新聞の記事では過去40年間に「他山の石」が使われたのは508回ありました。さすがは新聞社、他人の成功をお手本にする意味には使われていません。現実には政治家などが誤用したまま問題発言になったりしている例もあるようです。使い方は要注意。

そんなぐあいですから、いまどき、勇気をもって使う人が減っているようです。使ったところで「誤用だ」などと笑われてしまえば恥かいてしまうものですから、つい敬遠するんですね。それなりの「知性」が試されることばは、やがては消えていくのでしょうか。和語の「人の振り見てわが振り直せ」が類義語です。こちらのほうがわかりやすいですね。

文学者の文学論,文学観はいくらでもあるが,科学者の文学観は比較的少数なので,いわゆる他山の石の石くずぐらいにはなるかもしれないというのが,自分の自分への申し訳である。

寺田寅彦「科学と文学」1933年

この使い方は秀逸。おのれを卑下して効果的です。知性と大胆の結合。うなります。

「他山の石もって玉をみがくべし」からの命名されたのが、攻玉社。近藤真琴(1831-86)が開塾しました。中高一貫の男子校。四代目笑福亭円笑師の母校です。

品川区西五反田なのですが、JR山手線の目黒駅を降りて東急目黒線に乗り換えて一個目の不動前駅で下車。ここらへんは目黒区と品川区が接しているのですね。芝にあったのですが、関東大震災目で倒壊したためこちらに移ってきました。目黒駅のホームには広告看板が見えます。「攻玉社」と。この看板を見るたび「玉を攻めるとは、はて、なんていやらしいんだ」と内心思った人は少なくないことでしょう。ものを知らないとあらぬ方向に妄想が躍るのですね。

「攻」を「おさめる」または「みがく」と読んだりしますが、「磨く→修める」意味で、同義です。

先の大戦前には、攻玉社は海軍兵学校の予備校のような学校で、海兵の海城、陸士の成城(新宿の)と同じ役割を請け負っていました。「攻」の文字はむしろ好戦的なイメージで喜ばれたのでしょう。


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