かみいれ【紙入れ】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

年増女に誘われた町内の新吉。
だんながいきなり帰ってきて。
逃げられたが、紙入れを忘れた。
悩んだ末に新吉は一計を案じる。

別題:鼻毛 紙入れ間男(上方)

あらすじ

いたって気が小さい小間物問屋の新吉。

お出入り先のおかみさんから、今夜はだんなが帰らないので寂しいから、遊びに来てくれという手紙をもらった。

だんなにバレれば得意先をしくじるが、年増のちょっといい女で食指も動く。

結局、おそるおそる出かけてみると、おかみさんの方は前々から惚れていた男だから、下にも置かないサービスぶり。

盃をさしつさされつしているうちに、酔ったおかみさんがしなだれかかってきた。

いまだに、いつだんなが踏み込んでくるかとびくびくものの新吉に比べ、こういう時は女の方が度胸が座っている。

「今夜は泊まってっとくれ」
「困ります。だんなが……」
「帰ってきやしないさ。おまえ、あたしが嫌いかえ」
「いえ、そんな……」

おかみさん、
「もしイヤというならあたしの立場がないから、だんなが帰った後、おまえが押し込んできてむりやりあたしを……」
と言い立てると新吉を脅し、布団に引きずり込む。

さて、これから……という時に、突然表戸をドンドンとたたく音。

「おい、開けねえか」

だから言わないこっちゃないと、文句を言う暇もない。

新吉、危うく裏口から脱出した。

翌朝。

床の間に、おかみさんの呼び出し状をはさんだままの紙入れを忘れてきたことに気づいた新吉、真っ青になる。

あの紙入れは自分の物だとだんなにも知られている。

とすると、もうバレているだろうが、もしそうでないのにこっちが逃げたんじゃあ、かえってヤブヘビだと考えて、おそるおそるようすを見にいくことにした。

だんながもし顔を見て
「この野郎、ふてえ野郎だ」
と言いかけたら、風を食らって逃げちまえばいい。

行ってみるとだんな、いつもと変わらず、
「おめえはそうして朝早くから商売熱心なのは感心だ」
とほめるので、新吉、これはことによると不意を突く策略かも、とますます緊張。

「……おい、どうしたんだ。顔が青いぜ。何か心配事か。使い込みだな」
「いえ」
「女の一件か」
「へえ」
「相手はカタギか、商売人か?」
「いえ……」
「てえとまさかおめえ、人の……」
「へえ、実はそうなんで」

とうとう言っちまった。

「他人の女房と枯れ木の枝は登り詰めたら命懸け、てえぐらいだ、てえげえにしゃあがれ」
と小言を言いながら、だんなが根掘り葉掘り聞いてくるの。

新吉、
「実はお世話になっている家のおかみさんが、……」
と一部始終をしゃべり出して、
「……そこィ長襦袢一枚でおかみさんが」
「こんちくしょう、いいことしやがって」「
寝たとたんにだんなが」
「悪いところィ帰りやがったな」

「逃げるには逃げたが、紙入れを……」
と言っているところへ、泰然自若として当のおかみさんが起きてきた。

話を聞いても少しもあわてず、
「あーら、そりゃあ心配だけどさ、けど、亭主の留守に若い男を引っ張り込んで、いいことをしようというおかみさんだもの、そこにぬかりはないと思うよ。紙入れぐらい」
とポンと胸をたたいて
「ちゃんと隠してありますよ。ねえ、おまいさん」
「そうだとも。たとい見たころで、間男されるような野郎だあな。そこまで気がつくめえ」

底本:四代目三遊亭円生

しりたい

原話は安永年間に

安永3年(1774)江戸板『豆談語まめだんご』中の「紙入」といわれています。「風呂敷」「包丁」と並び、不倫噺の傑作です。因果と、どれもおもしろく、傑作ぞろいなんです、これが。

明治22年(1889)6月5日刊『百花園』は「鼻毛」という題で、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が演じたものを掲載しています。

「鼻毛」とは、「鼻毛を読まれる(男が自分が惚れた女から弄ばれる)」「鼻毛を伸ばす(女の色香に迷って女の言いなりになる)」などと使われるように、女に甘い男、女に弄ばれる男をあらわしているのでしょう。

円朝門下で、円遊の先輩の四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)もやっていて、あらすじはそちらを底本に使いました。こちらは、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)を経て、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)に伝わっています。

この型は、オチで「そうだとも。たとい見たころで、間男されるような野郎だあな。そこまで気がつくめえ」と亭主が言っています。

円遊の型では、こういうオチとなります。

女「いやだよ、ちょいと、この人は気が小さい。間男でもしてのける者がそんな肝っ玉でどうするんだえ。またその内儀だって如才はない。おまえが帰ったあとではほうぼうグルグル見回して、もし紙入れなどが残ってれば、亭主にしれないように隠してしまうのはきまってから、亭主の気づく気遣いはありません。ねえ、だんな」
亭「ああ、そうともそうとも」

円遊の描く女は剣術に長けていて法律に詳しい賢女。円遊落語の特徴は入れごと満載のところです。

人の女房と……なんとやら

下半身のお楽しみは、昔も今も変わらないようです。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目円生のが傑作でしたが、おかみさんのしたたかさ、タチの悪さでは円生が図抜けていたでしょう。

代金は七両二分

「不倫」「姦通」というとなにか陰惨なイメージですが、「間男まおとこ」というとどこかユーモラスで憎めない印象があります、てなことを、さる師匠がマクラで語っていました。なに、やることと「罰則」に違いはありません。

間男を発見された場合、助命のための示談金は享保年間(1716-36)以後、ずっと七両二分と相場が決まっていました。

十両盗めば死罪ですから、人の女房を盗んだ「命金」も本来十両というのが理屈のようですが、これは十両大判の法定相場が七両二分ですから、額面十両、実利七両二分としたというのが本当のようです。

安永年間(1772-81)以後、幕府財政の悪化で貨幣が改鋳され、相場は五両に下落。しかし、間男の首代はそのまま七両二分で、死罪の限度額も下がりませんでした。

上方のおそるべきオチ

上方ではまだ続きがあります。

おかみさんが調子に乗って、「その間抜け亭主の顔が見たいもんや」と言うと、だんなが顔を突き出して、「大方、こんな顔やろ」

ぞっとするようなすご味ですが、なるほど、これだけ微に入り細をうがってご説明申し上げれば、勘づかない方がどうかしていますね。

間男小ばなし「七両二分」

ある男が隣のかみさんとの間男を見つかり、示談金の相場は七両二分だが、金がないので、逢い引きした回数が二回だから、一回を一両と考えて二両に負けてもらう。家に帰って女房に恥ずかしながらと相談すると、かみさん、ニヤリと笑い、「金はやることないよ。隣へ行って、一両お釣りをもらっといで」「なぜ?」「あたしゃあ、隣の亭主に三度させてるんだ」

志ん生師匠に座布団二枚!

「浴衣ァ着て湯にへえっているような」
  ……おかみの手紙を読んだ新吉の心境。
              (五代目古今亭志ん生)

不倫の絶品

喜多川歌麿(北川信美、1753-1806)の『艶本 床の梅』。その一枚。こんな構図でもしっかり不倫をやっています。子供は女の実子のようですが、あやしている男は間男。乳を吸えない子供は男をいやがっています。男は子供が乳を吸っているところを待っているようす。具合がよいらしいのです。まさに笑い絵。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

にんぎょうかい【人形買い】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

 

【どんな?】 

初節句のお返しに人形を。
いい年した大人が青っぱなのガキにそそのかされて。
ここらへんが噺のおかしみどころ。

あらすじ

長屋の神道者しんとうじゃの赤ん坊が初節句で、ちまきが配られたので、長屋中で祝いに人形を贈ることになった。

月番の甚兵衛が代表で長屋二十軒から二十五銭ずつ、計五円を集め、人形を選んでくることになったが、買い方がわからない。

女房に相談すると、
「来月の月番の松つぁんは人間がこすからいから、うまくおだててやってもらいな」
と言う。

馬鹿正直な甚兵衛がそれを全部しゃべってので、本人は渋い顔。

行きがかり上、しかたなく同行することになったが、転んでもただで起きない松つぁん、人形を値切り、冷や奴で一杯やる金をひねり出す腹づもり。

人形屋に着くと、店番の若だんなをうまく丸め込み、これは縁つなぎだから、この先なんとでも埋め合わせをつけると、十円の人形を四円に負けさせることに成功。

候補は豊臣秀吉のと神功皇后じんぐうこうごうの二体で、どちらに決めるかは長屋に戻り、うるさ方の易者と講釈師の判断を仰がなければならない。

そこで、さっき甚兵衛が汚い人形と間違えた、青っぱなを垂らした小僧に二体を担がせて店を出る。

ところがこの小僧は、とんだおしゃべり。

「この人形は、実は一昨年の売れ残りで処分に困り、だんなが、店に出しておけばどこかの馬鹿が引っかかって買っていく、と吹っ掛けて値段をつけた代物で、あと二円は値切れた」
とバラしたから、二人はまんまとだまされたとくやしがる。

その上、この小僧は、若だんなが女中おもよに言い寄るシーンを話し、十銭せしめようとするので、またまた騒然。

帰って易者に伺いを立てると、早速、卦を立て
「本年お生まれの赤さんは金性。太閤秀吉公は火の性で『火剋金』で相性はよろしからず。神功皇后さまは女体にわたらせられるから、水性。水と金は『金生水』と申して相性がよい。神功皇后になさい」
というご託宣。

二人が喜んで帰ろうとすると、
「見料五十銭置いていきなさい」

これで酒二合が一合に目減り。講釈師のところへ行くと
「そも太閤秀吉という人は、尾州愛知郡百姓竹阿弥弥助のせがれにして幼名を日吉丸……」
と、とうとうと「太閤記」をまくしたてる。

「それで先生、結局どっちがいいんで」
「豊臣家は二代で滅んだから、縁起がよろしくない。神功皇后がよろしかろう」

それだけ聞けば十分と、退散しようとすると
「木戸銭二人前四十銭置いていきなさい」

これで冷や奴だけになったと嘆いていると
「座布団二枚で十銭」

これで余得はなにもなし。

がっかりして、神道者に人形を届けにいくと、甚兵衛が、ちまきは砂糖をかけなくてはならないからかえって高くつくという長屋の衆の陰口を全部しゃべってしまう。

神道者は
「お心にかけられまして、あたくしを神職と見立てて、神宮皇后さまとはなによりもけっこうなお人形でございます。そも神功皇后さまと申したてまつるは、人皇十四代仲哀天皇の御后にて……」
と講釈を並べ立てるから、松つぁんあわてて
「待った待った、講釈料は長屋へのお返しからさっ引いてください」

【RIZAP COOK】

しりたい

三代目円馬が上方から  【RIZAP COOK】

上方落語です。

三代目三遊亭円馬が明治末年に東京に移植しました。

隠れた円生の十八番  【RIZAP COOK】

円馬の元の型は、人形屋の主人が親切から負けてくれる演出でした。

それを、三代目桂三木助と六代目三遊亭円生が直伝で継承し、それぞれ得意にしていました。

円生のでは、長屋から集金せず、辰んべという男が博打で取った金を、前借するという段取りです。

現在聞かれる音源は、東京のものは円生の吹き込みのみです。

インチキ祈禱師はいつの世も  【RIZAP COOK】

神道者は、神道系の祈禱師のこと。

京都の白河家か吉田家の支配(管理)を受け、烏帽子えぼし狩衣かりぎぬ姿で鈴を振ってお祓いして回ります。

俗に「拝み屋」。

上方では「祓いたまえ屋」とも呼ばれました。

仏教系の願人坊主同様、かなり胡散臭い手合いでした。

読み方はいくつかありますが、江戸では「しんとうじゃ」と読むことが多かったようです。

江戸の人形屋  【RIZAP COOK】

人形屋は、大店は俗に十軒店じっけんだな、現在の日本橋室町三丁目付近に集まっていました。

そのほか露店で主に土人形や市松人形を安く売る店がそこここにありました。

この噺の人形は節句の武者人形で、相当値段が張りますから、十軒店のちゃんとした店でしょう。

頭が木彫り、胴体は藁と紙の衣装人形です。

神功皇后  【RIZAP COOK】

仲哀天皇の皇后。

熊襲くまそ侵攻に従って筑紫つくしに向かっているさなか急の崩御にも遭い、身重をもいとわず、韓半島の新羅しらぎに出向いて制圧、百済くだら高句麗こうくりも帰服させ、出産した幼帝とともに大和に凱旋、70年以上も摂政につとめた人、と記紀にはそういうことになっていますが、よくわかりません。

幼帝は応神天皇です。

新羅の王子アメノヒボコの系統ということですから、韓半島とのかかわりが強かったのでしょう。

戦前は武内宿禰たけうちのすくねと並んで節句人形の人気キャラでした。

武内宿禰たけうちのすくねは高齢の忠臣として、これまた記紀中の人物。

両者とも国威発揚にかなった人物でしたが、いまは顧みられません。

【語の読みと注】
神道者 しんとうしゃ しんとうじゃ しんどうじゃ
十軒店 じっけんだな
神功皇后 じんぐうこうごう
武内宿禰 たけうちのすくね



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

にらみがえし【にらみ返し】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

小さん系の噺。
伝統の「ビジュアル落語」として有名。
聴くだけではありません。
演者の表情をもお楽しみです。

あらすじ

大晦日箱提灯はこわくなし

長屋の熊五郎、貧乏暮らしで大晦日になると、弓提灯の掛け取りがこわい。

家にいて責められるのが嫌さに、日がな一日うろついて帰ると、その間、矢面に立たされたかみさんはカンカン。

「薪屋にも米屋にも、うちの人が帰りましたら夜必ずお届けしますと、言い訳して帰したのに、金策もしないでどうするつもりなんだい」
と、責めたてる。

もめているところへ、その薪屋。本日三度目の「ご出張」。

熊が
「払えねえ」
と開き直ると、薪屋は怒って、
「払うまで帰らない」
と、すごむ。

熊は
「どうしても帰らねえな。おっかあ、面に心張り棒をかえ。薪ざっぽうを持ってこい」

さらには
「払うまで半年、そこで待っててもらうが、飯は食わせねえから、遺言があったら言え、しかたがねえから葬式ぐらいはオレが出してやる」

薪屋はあえなく降参。

おまけに、借金を払った(つもり)の受取まで書かされ、
「おい、十円札で払ったから、釣りを置いてけ」

一人やっと撃退したものの、あと何人相手にしなきゃならねえかと、熊はうんざり。

そのとき表で
「ええ、借金の言い訳しましょう」
という声。

変わった商売だが、これはもっけの幸いと呼び入れると、言い訳屋は
「どんな強い相手も追っ払ってごらんに入れます」
と自信満々。

一時間二円だという。

どうにか小銭をかき集めて払うと、言い訳屋
「すみませんが、ご夫婦で押し入れに入っていていただきましょう。クスリと一声を出されても、こっちの仕事がうまくいきませんから、交渉中は黙っていただくよう」

しばらくすると、米屋。

「えー、熊さんは、親方はお留守で?」

見ると、見慣れない男が煙草を吸いながら、無言でにらみつけるだけ。

何を聞いても返事をしない。米屋はこわがって帰ってしまう。

次は酒屋。同じようにすごすご退散。

また次は、高利貸の代理人で、那須という男。

「何ですか、君は。恐ろしい顔だな。ご親戚ですか。おい君、黙っておってはわからん。無礼だね。君……」

何を言っても、ものすごい目でにらむばかり。

さすがの海千山千の取立人も、気味が悪くなって帰った。

喜んで熊が礼を言うと、ちょうど十二時を打った。

「時間が来ましたようで、これで失礼を」
「弱ったな。あと二、三人来るんだが、もう三十分ばかり」
「いや、せっかくですが、お断りします」
「どうして」
「これから、自宅の方をにらみに帰ります」

出典:七代目三笑亭可楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

師走の弓提灯 【RIZAP COOK】

弓提灯は、弓なりに曲げた竹を上下に引っ掛け、張って開くようにしたものです。

小型・縦長で、携帯に便利なことから、特に大晦日、商家の掛け取りが用いました。

江戸の師走の風物詩ではありますが、取り立てられる側は、さぞ、これを見ると肝が冷えたことでしょう。

これに対し、箱提灯は大型で丸く、武家屋敷などで使われました。

上方噺を東京に 【RIZAP COOK】

原話は、安永6年(1777)刊の笑話本『春帒はるぶくろ』中の「借金乞しゃくきんこい」です。「春」とは「春袋」で、正月に児女がつくる縁起物の縫い袋のこと。「借金乞」とは借金取り立て人のこと。

ここでの話は、後半のにらみの場面の、そっくりそのままの原型になっていて、オチも同じです。

もとは上方噺です。

それを「らくだ」と同様、四代目桂文吾(1865-1915)から三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が移してもらい、東京に移植しました。

皮肉にも、大正以後は本家の大阪ではほとんど演じ手がなく、もっぱら東京の柳派、小さん一門の持ちネタになりました。

三代目小さんから七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)を経て、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番の一つ。小三治までつながりました。

前半の薪屋を撃退するくだりは「掛け取り万歳」と同じで、オチはこれまた類話の「言い訳座頭」と同じです。

「見せる落語」の典型 【RIZAP COOK】

蒟蒻問答」と同じく、噺のヤマを仕種で見せる典型的な「ビジュアル落語」です。

速記となると、活字化されたものは七代目可楽によるもの。

「講談倶楽部」昭和9年(1934)1月号に載ったもののみ。

『昭和戦前傑作落語全集』(講談社、1981年)に収録されました。本あらすじも、これを参考にしています。

【RIZAP COOK】



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しんしょうのひとこと002【志ん生のひとこと 002】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

二十四、五から三十くらいまででしたね。その頃は、どうしてもわたしといっしょになるてえ女が来て、しょうがなかった。

『サンケイ読物』1956年1月8日号「かたい話やわらかい話」から。


■福田蘭堂との対談で、福田が「師匠がいちばん女のほうではなやかなりし頃はいくつです?」の問いにこたえてのひとこと。志ん生は上のひとことのあとに「わたしの仲人がね、おまえさん、もう女房もらったらいいでしょうって言ってきた。いいかげんな返事をしているうちに半月ほどして、ほかの女をズルズルベッタリに引っ張り込んでいっしょにいたんです。そこへね、とつぜん、前の話の女を引っ張ってこられたんです、仲人に。しかたがないから、いっしょにいた女を戸棚ン中にしまいこんじゃって……。実はそのとき、仲人に連れてこられたのが今のかかあなんです」と告白しています。戸棚の中に女を隠す、とは。これって、「今戸の狐」をなんとなく彷彿とさせるじゃありませんか。志ん生の噺っていうのは、ディテールが実体験からの連想なのですね。

福田蘭堂(石渡幸彦、1905-76、音楽家、随筆家)は青木繁の息子で、石橋エータローの実父にあたる人。青木繁は洋画家、石橋エータローはクレージーキャッツのメンバーで料理家です。

 古木優



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

しんしょうのひとこと001【志ん生のひとこと 001】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

ほんとの落語は四千ぐらいあるね。わたしなんぞは一年毎日別なやつをやれるね。

『娯楽よみうり』1957年2月1日号「おしゃべり道中」から。

■対談で、大宅壮一(1900-70、ジャーナリスト、作家)から「大体、しゃべるネタというのは、幾つぐらい持てばいいんですか」と聴かれてのひとこと。落語の数が 「四千」もあるとは知りませんでしたが。 志ん生の持ちネタは普通の落語家よりも多かったと言われています。全集に収録されているだけでも150余。音源もそれなりにあります。ただ、志ん生落語で聴けるのはせいぜい30ほどとも。あくまでも一般論の凡庸なお説ですが。「やれる」噺と「持ちネタ」とは別の問題だという観点からのもの言いでしょう。コアなファンは、志ん生が倒れた後の滑舌の悪い、聴いちゃいられない噺(粟田口とか寝床とか)を聴いて喜ぶわけです。「味がある」とかなんとか言って。音源に残らず、志ん生の口の端にこぼれたままになった噺。ほごでもしくじりでもいいから聴いてみたかったなあ、とつくづく思うわけです。ここまでくれば志ん生熱も「狂」を帯びてきます。さて。「おしゃべり道中」は大宅壮一がホストの対談連載、志ん生は第64回を飾るゲストでした。お互いに気合入ってます。志ん生が「お直し」で文部大臣賞をもらったことが当時の話題だったため、白羽の矢が立ったようです。「一億総白痴化」「口コミ」「駅弁大学」「恐妻」など新語の発明家にして時代の狙撃手。大宅壮一は当時最強最良のジャーナリストでした。1957年。「戦後」が終わって高度経済成長のレールを走り出すあわい。周りはけたたましいばかりの活気と熱気。志ん生も大宅も、とっても活きのよかった頃だったのでしょう。時代とともに。二人のおしゃべりも躍っています。時は過ぎて。大宅壮一が亡くなったのは1970年11月22日。三島事件の三日前でした。三島事件を評せられなかった大宅はあの世で怨んでいるかもしれません。戦後最高のジャーナリストが戦後最高に話題をさらった事件に言及できなかったのですから。これは痛恨。さらに過ぎて。2020年は大宅壮一の没後50年、憂国忌も50年に。誰も忘れています。三島事件もどこか滑稽味を携えながら忘却のかなたへ。列島人の忘れっぽい習性のなせるわざでしょうか。さてさて。「娯楽よみうり」という雑誌は「週刊読売」とは別に刊行されていました。しょっぱい「読売」が大盤ぶるまいのなりふり。時代の勢いを感じさせます。当時の活字文化も、志ん生や大宅といっしょに躍っていたのですね。「娯楽よみうり」も「週刊読売」もすでに消えています。いずれ「読売新聞」が消える日も来るかもしれませんね。えぴたふ。

 古木優

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

にじゅうしこう【二十四孝】落語演目 

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

【どんな?】

『の・ようなもの』で。
志ん魚が下町女子高生のお宅でこの噺を。
ウケず。残念。

あらすじ】  

長屋の乱暴者の職人、三日にあけずにけんか騒ぎをやらかすので、差配さはい(=大家)も頭が痛い。

今日もはでな夫婦げんかを演じたので、呼びつけて問いただすと、朝、一杯やっていると折よく魚屋が来てあじを置いていったので、それを肴にしようと思ったら、隣の猫が全部くわえていったのが始まり。

「てめえんとこじゃ、オカズは猫が稼いでくるんだろッ、泥棒めッ」
とどなると、女房が
「たかが猫のしたことじゃないか」
と、いやに猫の肩を持つので、
「さてはてめえ、隣の猫とあやしいなッ」
と、ポカポカポカポカ。

見かねた母親が止めに入ると
「今度はばばあ、うぬの番だ」
と、げんこつを振り上げたが、はたと考え、改めて蹴とばした、という騒ぎ。

大家はあきれて、
「てめえみたいな親不孝者は長屋に置けないから店を空けろ」
と怒る。

嫌だと言えば、「これでも若いころには自身番に勤めて、柔の一手も習ったから」
と脅すと、さすがの乱暴者も降参。

「ぜんてえ、てめえは、親父が食う道は教えても人間の道を教えねえから、こんなベラボウができあがっちまったんだ。『孝行のしたい時には親はなし』ぐらいのことは知ってそうなもんだ。昔は青緡五貫文あおざしごかんもんといって、親孝行すると、ごほうびがいただけたもんだ」「へえ、なにかくれるんなら、あっしもその親孝行をやっつけようかな。どんなことをすりゃいいんです」

そこで大家、
「昔、唐国に二十四孝というものがあって……」
と、故事を引いて講釈を始める。

例えば、秦の王祥おうしょうは、義理の母親が寒中に鯉が食べたいと言ったが、貧乏暮らしで買う金がない。そこで氷の張った裏の沼に出かけ、着物を脱いで氷の上に突っ伏したところ、体の温かみで溶け、穴があいて鯉が二、三匹跳ね出した。

「まぬけじゃねえか。氷が融けたら、そいつの方が沼に落っこちて往生(=王祥)だ」
「てめえのような親不孝ものなら命を落としたろうが、王祥は親孝行。その威徳を天が感じて落っこちない」

もう一つ。

孟宗もうそうという方も親孝行で、寒中におっかさんがたけのこを食べたいとおっしゃる。

「唐国のばばあってものは食い意地が張ってるね。めんどう見きれねえから踏み殺せ」
「なにを言ってるんだ」

孟宗、くわを担いで裏山へ。冬でも雪が積もっていて、筍などない。一人の親へ孝行ができないと泣いていると、足元の雪が盛り上がり、地面からぬっと筍が二本。

呉孟ごもうという人は、母親が蚊に食われないように、自分の体に酒を塗って蚊を引きつけようとしたが、その孝心にまた天が感じ、まったく蚊が寄りつかなかった、などなど。

感心した親不孝男、さっそくまねしようと家に帰ったが、母親は鯉は嫌いだし、筍は歯がなくてかめないというので、それなら一つ蚊でやっつけようと、酒を買う。

ところが、
「体に塗るのはもったいねえ」
とグビリグビリやってしまい、とうとう白河夜船しらかわよふね

朝起きると蚊の食った跡がないので、喜んで
「ばあさん見ねえ。天が感ずった」
「当たり前さ。あたしが夜っぴて(一晩中)あおいでいたんだ」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

しりたい】  

二十四孝な人たち  【RIZAP COOK】

『二十四孝』は中国の書。後世の模範となり得る、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた事跡をまとめています。元代の郭居敬が編集。

日本へは室町時代に伝わり、和訳の御伽草子で広まり、その影響は大きいものでした。江戸時代に入るとさらに大きく、四字熟語、関連物品の名称として一般化したもの、仏閣の建築物、人物図などが描かれたりしました。御伽草子や寺子屋の教材にも採られていました。

幕末には草双紙の『絵本二十四孝』も出ました。これは江戸時代を通してのベストセラーとなったほど。江戸時代には、二十四孝を知らない人はいなかったといえるでしょう。

ただ、この24人の事績はどこか逸脱しており、江戸人の茶化しのタネにはおあつらえ向きとなりました。落語で笑う題材にはなるべくしてなったといえるでしょう。

マクラなどで随時採り上げられる、その他の感心な方々に、王褒おうほう郭巨かっきょ黄山谷こうざんこくなどがいます。

「王褒と雷」は、雷嫌いの母親が死んで、王褒がその墓を雷から守るという、忠犬ハチ公か忠犬ボビーのようなお話。

「郭巨の釜掘り」では、母親に嫁の乳をのませるため、子供を犠牲にして生き埋めにしようとすると、金塊を掘り当てるという猟奇的な話。

黄山谷は、父親の下の世話をするというもので、現代の介護問題の先取りのような話。名前からしてクサイものに縁がありそうな男ですが。

このうち郭巨の逸話は、戦前の日本ではかなりポピュラーで、明治の「珍芸四天王」の一人、四代目立川談志(中森定吉、生年不明-1889)がパントマイムのネタにし、「この子があっては孝行ができない、テケレッツノパ、天から金釜郭巨にあたえるテケレッツノパ」とやって大当たりしたことで有名です。人気があったことからこの人を初代談志とする向きもあります。

孟宗の筍掘りは、歌舞伎時代狂言『本朝二十四孝』の重要なプロットになっているほか、かつて、三木のり平が声の出演をしていた「桃屋」のテレビCMでも、パロディー化して使われました。魯迅ろじん(周樹人、1881-1936)はこのばかばかしさを批判的に描いてはいますが。

差配  【RIZAP COOK】

明治以後、大家が町役でなく、単なる「管理人」となってから、この名で呼ばれるようになりました。「差配する」とは、文字通り、土地や建物を管理する意です。

オチの工夫  【RIZAP COOK】

古い速記は、明治24年(1891)7月の三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)、ついで同27年(1894)7月、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)のものが残っています。

現在でも、多くの落語家が手掛けていますが、「道灌」と同様、前座噺の扱いで、どこでも切れるため演者によってオチが異なります。

たとえば、呉孟をまねるくだりでも「オレなら、二階の壁に酒を吹っかけて、蚊が集まったところで梯子をはずす」というもの、母親が「甘酒がのみたい」と言うのを「二十四孝に酒はねえ」とオチるものなど、さまざまです。

孟宗のくだりで切って、母親が筍のおかわりを求めるので、「もう、そうはねえ」と地口で落とす場合もあります。

現行は、今回あらすじに記載した形が、もっとも一般的です。

八代目林家正蔵(=彦六、岡本義、1895-1982)は、大家が「孟宗の親孝行を」と言いかけたのを「おっと、天が感じたね」と先取りしてオチにし、時代を明治初期としていました。

中国の説話から構成  【RIZAP COOK】

原話は、安永9年(1780)刊の笑話本『初登はつのぼり』中の「親不孝」。これは、先述の通り、中国・元代(1271-1368)にまとめられた儒教臭ぷんぷんの教訓的説話をもとにしたものです。王祥や孟宗の逸話を採ったものを主にして、それらに呉孟のくだりなどいくつかの話を付け加えて、新たにつくられました。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

つぼさん【壷算】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

【どんな?】

この奇妙な計算!
頭がこんがらかってしまいます。
有名な上方噺です。

別題:壷算用(上方)

【あらすじ】

少し抜けた男、かみさんから、二荷入りの大きさの水がめを買ってこいと、命じられる。

一人では持てないし、おまえさんは人間が甘くて買い物が下手だから、兄貴分の源さんに一緒に行ってもらえと、これもかみさんのご指名なので、交渉役に頼んで、二人で出かけていく。

源さんはなかなかシタタカ。

足元を見られないことが買い物のコツというわけで、さっそく、おやじと戦闘開始。

なぜか、一荷入りの小さい方はいくらだと聞くと、勉強して二円五十銭。

じゃ勉強しないと……やっぱり二円五十銭。

同じじゃねえかと、一つ食らわして、今日はこの男に頼まれて来たんだから、言い値で買ったのでは申し訳が立たない、商人は損して得取れで、これから先、友達が瀬戸物を買う時にはきっとここへ連れてきて埋め合わせをするから、今日は二円に負けときねえ、負けてくれるな、ウン、と念押しまで一方的にしたから、おやじ、相手のペースにはまって、お買い物がお上手ですなあ、ようがす、となる。

「決まったよ。おい、金出しな」
「だって兄貴、一荷入りじゃ」
「いいから出しとけ。おい二円、ここに置くぜ」

さらには
「黙って担いでいな、そうすりゃ、この一荷入りが二荷入りに化けるから」
となにか企みがあるようで、左に曲がって左に曲がると、何のことはなく元の瀬戸物屋へ。

「おや、お忘れ物で」
「いやね、この野郎が間抜けだから、本当は二荷入りが欲しいんだとさ」

そこで再交渉。

二荷入りは倍値だから、本来五円だが、さっき一荷入りを二円に値切ったので、その倍の四円とさせた上で、狭い台所で二つあってもじゃまだから小さい方を元値で取ってくれと源さん、おやじが承知すると
「さっき、二円渡したな。で、この一荷入りの水がめを二円で取ってもらう。てえと、二円と二円で四円。それでもの二荷入り水がめ、もらってくぜ」

おやじ、なんだか変だと思ったが計算は合っているようなので、
「へい」
と答えてしまったが、どう考えてもおかしい。

「おいしっかりしなよ。算盤を持て。いいか、持ったらオレが渡した金二円、入れてみな。……取ってもらった一荷入りの水がめ、二円入れてみたら四円になるだろ」

当たり前で、いくらやっても四円。

客を閉め出し、腰を据えて何度計算しても四円。

しまいにおやじ、ベソをかいて、
「すいません、親方、前にお持ちになった一荷入りの水がめ、持って帰って下さいな」
「一荷入りはいらねえんだよ」
「その代わり、いただいたこの二円もお返ししますから」

底本:六代目三枡家小勝ほか

【しりたい】

タネ本は世界中に

清代の笑話集『笑林広記』古艶部の中の「取金」が役人と薬屋の話として、そっくり同じパターンで、これが一応、直接の原典とみられます。

寛延4年(1751)に京都で出版された、中国小ばなしを翻案した漢文体の笑話集「準訳開口新語」中にこの話がコピーされていますが、実はその四年前、延享4年(1747)刊の「軽口瓢金苗・上」中の「算用合ふて銭足らず」では、だます男が一人というだけであとは現行の噺とまったく同じ筋です。

中国のみならず、この手のサギばなしは、トルコの笑話「ナスレディン・ホジャ物語」を始め、世界中に流布しているようで、吉四六(きっちょむ)が登場する日本の頓智昔話「壺を買う」も同工異曲です。

何やらゴチャゴチャするようですが、要するに、古今東西民族を問わず、人間は繰り返し同じ悪事をたくらんでいるということですね。

本家は上方の噺

本来の題は「壺算用」で、ナニワの爆笑王・初代桂春団治のレコードも残されています。

壺算用は坪算用ともいい、大工が坪数を見積り損なうところから大阪で勘違いの意味。それが「壺」に誤用されたようです。

三代目三遊亭円馬によって東京に移植されたのは、明治末か大正初期で、そう遠い昔ではありません。

オチはオリジナルでは、「これは、どういう勘定だんね?」「これがほんまの壺算用や」というもので、東京でも古くはこれがそのまま踏襲されましたが、「壺算用」の意味が通じにくいので、六代目三升家小勝が現行のように改めました。

なお、大阪では、マクラ程度に短くやるときは詐欺男を一人にし、一席噺でコンビを出す場合は前半に、アホが瀬戸物屋で伏せてある壺を見て、口がないとひっくり返し、今度は「底が抜けた」と大騒ぎするドタバタを付けます。

憎めぬ「知能犯」

錯覚を利用して代金をごまかすパターンは「時そば」も同じですが、いずれも、ますます巧妙、あくらつと化した現代の「振り込め詐欺」などと比べると、本当に他愛なく、かわいいものです。

悪事には違いありませんが、貧しかった時代、こうしたシタタカさも、庶民のせいいっぱいの「生活防衛」の知恵だったのかもしれません。

とにかく、いくら昔でも、こすからい商人をだますわけですから、しゃべりをテンポよく、とんとんと運ばなければ話になりません。その意味で、けっこう腕がいる、難しい噺でしょう。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

ここんていしんきょう【古今亭志ん橋】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1969年1月、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に
【前座】1972年10月、志ん太
【二ツ目】1975年5月
【真打ち】1982年12月、六代目古今亭志ん橋
【出囃子】大拍子
【定紋】鬼蔦
【本名】小椋おぐら幸彦ゆきひこ
【生年月日】1944年8月17日-2023年10月8日午前5時43分(大腸がんで、79歳)
【出身地】東京都墨田区江東橋
【学歴】東京都立第四商業高校→ガソリンスタンド
【血液型】A型
【ネタ】藪入り 無精床 鰻の幇間 柳田格之進 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は三道楽、ゴルフ、スキー、観劇、新内。特技は獅子舞。1979年、国立劇場新人演芸会銀賞。1985年、浅草芸能大賞新人賞。1986年、文化庁芸術祭優秀賞(「若手花形落語会」)。映画『の・ようなもの のようなもの』(杉下泰一監督、2015年)に日暮雄一役で出演。2023年1月5日、浅草演芸ホールでの高座が最後の寄席出演に。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

しんしょうのひとこと010【志ん生のひとこと010】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

あいつァ、線が太いからネ。

昭和36年(1961)11月14日(火)、早朝。

「あいつァ」とは来年には真打ち昇進予定の次男強次(→三代目古今亭志ん朝、1938.3.10-2001.10.1)のこと。仕事先の長崎から帰宅した。

茶の間でいっしょにラジオを聴いた。

朝太が司会する文化放送「民謡ジョッキー」を、である。

「シャレがいい」と、おやじはご満悦。

おやじはずっとニッポン放送専属だが、別に義理立てして勘当などはしない。当たりまえだ。

「線が太いというのはいいからネ」とは、おやじならではの炯眼。

次男の、いずれの出世を夢見る。

自分とは違うタイプの、文楽、円生のような正統派の噺家になろうことを。

志ん生は、目を細くして「ヘッヘッヘと笑いながら」思い浮かべていた。

志ん生が倒れる31日前の、美濃部家のちょっとした風景である。

高田裕史

参考資料:「週刊読売」(1961年12月4日発売)



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

しんしょうのひとこと009【志ん生のひとこと009】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

「落語ってえもなァ、クサヤの干物みてえなもんなんでネ」

「週刊読売」(1961年12月4日発売)誌上に、志ん生一家の一週間にわたる日常生活のルポが載った。冒頭に掲げられたのが志ん生流「落語道の極意」。

1961年、つまり昭和36年12月とはオドロキ。

その年の12月15日に、志ん生は倒れるのだから。直前である。

15日は、高輪プリンスホテルで、読売巨人軍優勝祝賀会があった。

余興で落語を、の求めにこたえようと、よせばいいのに、のこのこ出かけた。

志ん生に、ではなく、優勝に喜ぶ野球一徹を相手に、落語を聴かせるには、志ん生の芸風はちょいと難があったろう。

パーティーは立食形式だった。巨人命どころか、落語ファンだって、名人のハナシに耳を貸せるわけがない。がやがやざわざわ。落語を聴かせる環境ではなかったのだ。

俺のハナシを聴け! 

志ん生は焦った。息張った。ひっくり返った。脳出血だった。

ホテル裏の、道路を挟んだ東京船員保険病院(東京せんぽ病院→東京高輪病院)に運ばれたのが幸いして死の淵で踏ん張った、というわけ。ここはまともな病院である。

九死に一生を得たからよかったものの、上記のひとことが娑婆との別れ、志ん生の「遺言」となっていたかもしれないのだ。
  
志ん生ファンは読売新聞や読売巨人軍を大いに怨むべきだろう。

だが、東京でそんな恨み節を聴いたことはめったにない(まれにはあるが)。

その理由は、「週刊読売」が倒れる直前に志ん生の特集を組んでいたから。

これで、「読売」は免罪符を得ていたのだ。

取材日は、11月13日(月)から19日(日)まで行われた。

日を追って克明に名人の日々を日記風に記録した、貴重な記録である。

せりふの続きは、以下の通り。

「……クサヤの干物てえのは、オメエ、好きな人は、大好きだがだれでも食えるってもんじゃねえ。それでいてわりと高いん……だから、ハナシカてえもなア、大通りを行こうと思っちゃ大マチゲエだ。裏通りを行くものなんで……」

わかったようなわからないような。これが志ん生流。コアなファンは、妙に納得させられてしまう。

論理など飛び超えた、摩訶不思議な言い回しである。

高田裕史

参考資料:「週刊読売」(1961年12月4日発売)



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

じぐちあわせ【地口合わせ】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

【どんな?】

「おやじくすぐり」かあ。
うーん。地口が泣きますね。

別題:ぢぐち

【あらすじ】

隠居が俳諧に凝っているという。

遊びに行った八五郎が、ぜひあなたの同類にしておくんなさいと頼み、珍妙な句会が始まった。

隠居が雪の題で
「初雪や せめて雀の 三里まで」
という通句があると言うと、八五郎が
「雀が三里 灸をすえたんで?」

隠「初雪や 二の字二の字の 下駄の跡」
八「初雪や 一の字一の字 一本歯の下駄の跡」
隠「初雪や 狭き庭にも 風情ある」
八「初雪や 他人の庭では つまらない」

さらに八五郎が
「初雪や 鉄道馬車の馬の足跡 お椀八つかな」
「初雪や 大坊主小坊主 おぶさって一緒に 転んで頭の足跡 お供えかな」
と迷句を連発。

隠居が
「おまえはおしゃべりだから、俳句より地口(語呂合わせ)の方が向いている」
と言うと、八は
「これは得意だからまかしておくんなさい」
と、これまた自信作を次から次へ。

「侍がフンドシを締めて片手に大小、片手に団扇で飛び上がっていると、下に据え風呂桶があって、その中から煙が出ている」
という長ったらしい前置きで
「飛んで湯に入る夏の武士(飛んで火にいる夏の虫)」

爺さんが集会をしているところに雨が降って
「雨降ってジジかたまる」
とまあ、やりたい放題。

「今度は狂歌七度返しはどうだ」
と隠居が言う。

「りんりんりんと咲いたる桃さくら嵐につられ花はちり(散り)りん」
「りんりんりんと振ったるなぎなたを一振り振れば首はちりりん」
「りんりんりんとりんごや桃を売っているさも欲しそうに立ってキョロリン」
「山王の桜に去るが三下がり合の手と手と手手と手と手と」
「トテテトテトテトテテテ」
「ラッパだね。手と手と手手と手と手と」

「トテトテテテトテト」
とやっていると、表から人が
「箔屋さんはこちらですか?」

底本:二代目禽語楼小さん

★auひかり★

【うんちく】

名人の「遺言」

明治31年(1898)8月の『文藝倶楽部』に、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が載っています。

「禽語楼」は柳家小さんの隠居名。

ここでは「ぢぐち」と題して速記を載っています。

ところが、当人はその一月前の同年7月3日、満49歳で没しているため、これは事実上の置き土産、遺言とでもいえるものとなってしまいました。

実際、小さんが病床で、速記者を呼んで口述筆記させたものと速記の断り書きにあります。

まあ、遺言がダジャレの羅列というのも、いかにも噺家らしいといえるでしょう。

改変自在の地口噺

原話は不明で、地口(ダジャレ)を並べ立てただけのものに、オチの部分は「雑俳」の「りん廻し」の部分を付けています。

地口そのものがわかりにくくなったため、現在ではこの題で口演されることはほとんどありません。

後半部分は「雑俳」の一部となっています。

地口の部分は演者によって大幅に変わります。

例えば、こわい大家を壷で焼いて「差配(さはい=さざえ)の壷焼き」、樽の中に子供が遊んでいて「樽餓鬼(=柿)」など。

今、シャアシャアとやれば、トマトをぶつけられるような古めかしい噺ですが、そこが「古きよき時代」だったのでしょう。

箔屋

はくや。箔屋は、金、銀、銅、真鍮などをたたいて、薄く平たく延ばす商売。

オチは、「トテトテトテ」というのを、箔屋の槌の音と間違えたというだけ。

これをラッパに直し、「雑俳」のマクラに使うこともあります。

【語の読みと注】
真鍮 しんちゅう



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

しんしょうのひとこと008【志ん生のひとこと008】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

これは、六代目古今亭志ん馬(稲田真佐文、1935-94)の証言です。

「腹が減ったときに飯を食う奴の了見が知れねえ」

志ん馬が、テレビ番組「人に歴史あり」の志ん生特集で、うちの師匠がよく言うせりふです、として言っていました。

東京12チャンネル(→テレビ東京)は昭和43年(1968)5月15日から、「スタジオドキュメンタリー番組」と銘打った「人に歴史あり」の放送を開始しました。毎週水曜日午後9時-9時30分の時間帯で。

その後、曜日や時間帯が変わりながら、昭和56年(1981)9月23日まで続きました。この年の10月1日からテレビ東京に社名変更するにあたっての、番組改編のあおりでした。

この番組は、内外を問わず第一線で活躍中野各界の著名人をゲストに呼び、ご対面形式で、その人の歩んできた人生を浮き彫りにしようというもの。司会は八木治郎(1925-83)。NHKから移籍したムード派のアナウンサーです。

第1回のメインゲストは池島信平(1909-73)。この人は編集者。当時、文藝春秋の三代目社長でした。この番組は文藝春秋の協力で成り立っていたのです。肝煎りです。

池島の取り巻きゲストには、永井竜男、中山義秀、松本清張、村上元三、開高健、五味康祐、安岡章太郎、由起しげ子、吉行淳之介、生島治郎、五木寛之、今東光、城山三郎、杉森久英、寺内大吉、戸川幸夫、南条範男、三好徹など。

毎回50人ほどの取り巻きが登場するという、30分番組にしては濃密です。

第2回以降のメインゲストは、東山千栄子、石坂洋次郎、川端康成、川口松太郎、水谷八重子、芹沢光治良、尾上梅幸、山岡荘八、徳川夢声、榎本健一、藤原義江、水上勉、中村汀女、松下幸之助、近衛秀麿、松本清張、林武、湯川秀樹、古今亭志ん生など。

文藝春秋が協力しているだけあって、錚々たる文化人の勢ぞろいでした。文化人に偏しているきらいもありましたが、そこが魅力です。この中に志ん生が入っていたわけですから、世間での評価のすごみを感じさせます。

志ん生の回の放送は、昭和43年(1968)7月3日でした。取り巻きゲストは、馬生、志ん朝、文楽、金語楼、志ん馬、円菊、朝馬など。

この番組、構成力がいまいちでした。草創の東京12チャンネルだからでしょうか。志ん生をよく知る人たちが入れ代わり立ち代わり登場するのですが、スタジオで椅子に座ったままの志ん生(ひとことも発しない)をお飾りにして、八木治郎とぺらぺらしゃべるだけのもの。今では信じられないほど、工夫なしの陳腐ぶり。志ん馬の証言だけがいきいきと際立っていました。

それでも、文楽や金語楼などが出てくるのは、いまとなっては貴重な映像ですね。

この年の10月9日の精選落語会で「二階ぞめき」が「王子の狐」に化けてしまいました。それが最後の高座になりました。

そのちょっと前の頃の話です。

人に歴史あり

高田裕史

※参考資料:読売新聞



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

しんしょうのひとこと007【志ん生のひとこと007】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

これは、初代古今亭志ん五(篠崎進、1949-2010)の証言。

「ウンコがこわくて、いい百姓になれるか」

べつに、志ん生と百姓は無関係でしょうが。でも、なんだか、おかしい。

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

しんしょうのひとこと006【志ん生のひとこと006】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

(谷中銀座通りの骨董あさりから帰って)
(志ん生)「おい、トカゲ買うよ」
(りん)「父ちゃん、トカゲなんか買ってどうすんのよ」
(志ん生)「うまいもんをドンドン食わせてな、デカクなったらこいつをやっつけて、ハンドバッグを作って、俺はベルトだ」

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

しんしょうのひとこと005【志ん生のひとこと005】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

海上自衛隊出身、古今亭志ん駒(徳永一夫、1937-2018)の証言です。

(銭湯で溺れかかって)
「泳ぎの練習をしてたんだ」

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

しんしょうのひとこと004【志ん生のひとこと004】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

志ん生の弟子に自衛隊の衛生兵(?)出身の古今亭志ん駒(徳永一夫、1937-2018)がいました。この人の証言はけっこう残っています。

志ん駒の話を再現してみましょう。

それから師匠はよく西部劇の歌を唄っていましたよ。スティーブ・マックイーンの「拳銃無宿」。(中略)「あれ? 師匠、何を唄ってるんですか?」

「腰のぉ~拳銃ぅ~だてには撃たず~、なっ」

す、すごい! 志ん生が西部劇を見てたなんて。

でも、この証言は「ララミー牧場」の誤りかと思います。「腰の拳銃は、だてじゃない」という、アレでしょうから。ただし、おそらく、当人には区別が付いていないでしょう。そこがおもしろいわけでして。

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

さけちゃづけ【酒茶漬け】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

山田風太郎(山田誠也、1922-2011)の『神曲崩壊』にはこんな話も載っている。

せがれの志ん朝が生前、高級ふりかけ「錦松梅」のCMに出ていた。おやじの方は、そういうものは飯にはかけない。志ん生が茶漬けにしたのは、もちろん酒。鮭茶漬け? いや、酒茶漬け。

もっとも、若き日は焼酎茶漬け、だったようだ。酒のうちでももっとも安い「鬼ころし」さえ買えなかったらしい。

高田裕史


  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しんきょくほうかい【神曲崩壊】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

山田風太郎(山田誠也、1922-2001、小説家)の地獄めぐりの奇書「神曲崩壊」に顔を出す志ん生。ちょっと覗いてみよう。

アル中どもの堕ちる酩酊地獄の外れが、今の住処。

酒の大河に舟を浮かべ、そこで船頭になっている。

もっとも、とっくに櫓などは放り出し、ねじり鉢巻フンドシ一本。片手に茶碗、片手に釣り竿。

傍らの手桶で、のべつ酒の河から並々と汲んでは、茶碗に注いでグビリグビリ。
地獄どころか、太平天国。

「ありったけ平らげるったって、河ぜんぶが酒じゃあ、いくらあたしだって
どうしようもないやね。ウイウイ、ウイ、ウーイ」

で、時たま左手の釣り竿を持ち上げては、

「これでうめえサカナでも釣れりゃあもっとありがてえんだが。ウーイ

何しろ酒の河だけに、ウワバミなんかが釣れても困る」

あまり出来のよくないサゲが付いたところで、おあとよろしく。

天からは、沛然と永遠に降り注ぐアルコールのくっさい雨。

遠くに霞むは、針の山ならぬ酒樽山。

「おっとっと、なんかひっかかりやがったぜ」

何が釣れたかは、小説本文続きをご参照のほど。

                                                                                                                                     高田裕史



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

じんごろうのころ【甚語楼の頃】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

以下は、昭和4年(1929)11月7日付の読売新聞に掲載された「講談落語 一百人」第49回「柳家甚語楼」の記事です。

甚語楼というのは柳家金語楼のとりなしで柳家三語楼門に移ってからの志ん生。読みやすく直してあります。

ちょいちょい芸名を変えるのはあまり策の得たものではなく、この男などもそのために存在を知られていない上、こんにちは甚だ不遇の位置に甘んじて金語楼派の雑兵になって兵隊劇や寸劇だのヂャズなどへ使われているが、一時は真打ちで看板をあげたこともあり、しん馬を前名としていた過去を持っている。したがって本当にやらせれば随分大物もかつぎ出してどうにかこうにか消化してのけるところ時勢がよければ相当の位置にも昇るところはモヅモヅして引き立たないのは名人肌というわけで甚五郎と洒落たのかもしらねど妙に円右を張ったりする癖を除け自分を出して精進すれば独特の味もあるのだから大成もしよう。とにかくこのまま埋もれ木にしたくない良材なことは保証する。

なんと、この筆者は、その後の大成ぶりを予告していました。大切なところをしっかり見ていたようです。

古木優



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

おおつえ【大津絵】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

志ん生ファンは数多くいますが、出久根達郎氏はとりわけ「大津絵 冬の夜」が好きだとはばかりません。こういう人、たまにいます。わたしもそんな一人です。

これは落語ではありません。俗曲です。一般には「大津絵」と呼んでいます。「大津絵」といえば、東海道の近江は髭茶屋追分宿でお土産に売られた戯画です。戯画の大津絵から派生して、さまざまな芸能が生まれました。ここがややこしい。戯画も大津絵、唄も大津絵、踊りも大津絵。志ん生の「大津絵」は大津絵節、ということになります。

髭茶屋追分は、東海道と伏見街道の交差する、まさに追分でしたので、大津絵はお土産に、願掛け魔除けに売られて、全国的な知名度をもったようです。画題が十種あって、そのバリエーションを忠実に守っていることが、大津絵の大津絵たらしめるゆえんなのだそうです。

大津絵節は明治の前半頃に大流行したそうです。うたいやすくて、素人でも誰でも詞をつくって曲をもつくれるのだそうで、花柳界ではどれもこれも大津絵節のお座敷だったとか。

         大津絵節の解説  大津絵踊り  幕末・明治期における民謡・大津絵節の歴史的研究                              

志ん生のうたう「大津絵 冬の夜」はCDに収録されています。これがおもしろく、志ん生にもう一人の志ん生がインタビューしているのです。

大津絵には滑稽味が漂うものなのですが、志ん生がうたう「大津絵 冬の夜」には滑稽味が皆無です。あの志ん生がどうして、といぶかる向きもありますが、これも志ん生なのです。市井に生きる人の切なる思いが胸を突きます。歌言の魂が聴く者に心に宿るような、しみじみとした太い力を感じさせます。    

五代目古今亭志ん生

ここで志ん生は、初代立花家橘之助(石田美代、1866-1935、音曲師)の弟子の「こみよ」さんという人に教わった、と言っています。

志ん生の「大津絵 冬の夜」にからんだ話には、いくつか有名なものがあります。

そのひとつ。

慶應の小泉信三(1888-1966、経済学)は毎年、志ん生を自宅に呼んで「大津絵 冬の夜」を聴きました。その折、小泉は、いつものくだりにくると必ず号泣するのだそうです。息子(小泉信吉)を戦争で亡くしたこと、多くの教え子を戦死させてしまったことなどがオーバーラップするのでしょうか。泣きたくて志ん生を呼んでいたようです。

私の大津絵(節)考

さらに。

山口瞳(1926-95、作家)の逸話もこれまた有名です。こちらは、明神下の神田川(うなぎ)において、志ん生を招いて聴いたという話。その額が10万円。昭和42年(1967)頃のこと。経済学的な換算ですと、消費者物価指数からはじき出せば4.3倍となり、それだと43万円となります。これなら、直木賞受賞の売れっ子作家ならどうということもありますまい。私の来し方の生活感覚からはじきだせば、現在の300万円ほどかと思われます。唄一曲聴くのにこの額は、そうとうなものです。竹内勉(1937-2015、民謡研究家)はこの当時、売れっ子噺家は5万円、円生が7万円で最高額だったようなことを言っています。押して知るべしです。

まずは、「大津絵 冬の夜」の歌詞をどうぞ。

冬の夜に風が吹く
知らせの半鐘がジャンと鳴りゃ
これさ女房わらじ出せ
刺し子襦袢に火事頭巾
四十八組おいおいと
お掛かり衆の下知を受け
出て行きゃ女房はそのあとで
うがい手水にその身を清め
こよいうちの人になァ
けがのないように
南無妙法蓮華経
清正公菩薩
ありゃりゃんりゅうの掛け声で
勇みゆく
ほんにおまえはままならぬ
もしも生まれたこの子が男の子なら
おまえの商売させやせぬぞえ
罪じゃもの

山口瞳は神田川での一席を、一人5,000円の会費で募りましたら、またたく20人が集結。10万円は充填されました。それでも、神田川での食事代があります。付き添いのお弟子二人、三味線の平川てるさんなどへの払いは10万円の中にあったのでしょうが、気付けも(忘れてしまったそうですが)。なんだかだ10万円では足りなかったようです。まあ、それはともかく。「大津絵 冬の夜」を聴いた余韻にひたり鰻重に舌鼓打ちつつ酒席に変じた頃合い。はずした隣席の志ん生が、マネジャーの長女美濃部美津子(1926-2023)を通じて、山口を呼びました。「おとうちゃんが呼んでる」と。山口が行ってみると、志ん生はさっきの大津絵は満足しないのでもう一回聴いてくれ、と。その場で、山口は、志ん生のうなりをもう一回聴くことになりました。

 これを一言で言うならば、はなはだ月並みに言うならば、芸人の執念である。あるいは恨みである。あるいは怒りである。もどかしさである。あるいは魂である。あるいは律義である。そうして、自分の体と自分の芸との戦いだった。その場に立ちあってくれと言っているのである。大変に辛いことを書くが、そのときの志ん生さんは、もう、声が出なくなっていた。冬の夜に風が吹く、までは出る。あとは何が何やらわからない。私は、志ん生さんのまえに頭を垂れているばかりである。

志ん生の意気地を強く感じます。そのあと、山口はこうも記しています。

 志ん生さんが亡くなってから、彼の人柄がチャランポランであり、その芸は天衣無縫だと言われた。私は断じてそうは思わない。志ん生さんは律儀な人であり、その芸は計算された芸である。まっとうな修練を経た芸である。

私はここを引用したくて、ながながとつづったのかもしれません。「大津絵 冬の夜」には、もうひとつの「志ん生」がひそんでいます。

必聴です⇒大津絵 冬の夜

                               古木優

※参考文献:山口瞳『隠居志願』(新潮社、1974年)、矢野誠一『志ん生のいる風景』(青蛙房、1983年)、矢野誠一『文人たちの寄席』(白水社、1997年)


成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

めにかりができた【眼に借りができた】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

宇野信夫(1904-91、劇作家)が書き残しています。

宇野が白鬚橋の手前に住んでいた頃、柳家甚語楼(志ん生)がよく遊びにきたそうです。

志ん生が業平のなめくじ長屋に住んでいた当時。貧苦の底をさまよっていた頃のことでしょう。業平から40分近くかけて歩いてきていたそうです。意外に距離があるんですね。

ある寒い日、宇野はあんかに入っていました。訪ねた志ん生もあんかに入り、二人は世間話に。

話しているうちに、志ん生はコクリコクリといねむりを始めました。

そのようすを見て、宇野は「この人はこれでおしまいかもしれない」と思ったそうです。よほど底辺徘徊、疲労困憊の様相だったのでしょう。

ところが、志ん生は目を覚ますや、「じゃり(子供)が朝早くから目をさまして、胸の上をあるきゃァがるから、どうも眼に借りができちゃって」とポロリ。

なかなかにしぶとい。いねむりのわけは貧苦よりもじゃりによるものだ、と。

「眼に借りができる」なんて、生活臭と酔狂感がないまぜの語感ではないですか。

志ん生っていう人は、ときどき使ってみたくなるような言い回しを発するものです。

宇野は記していませんが、志ん生はこれで終わりということはなく、いやいやどうして、なかなかに踏ん張っているもんだな、というかんじが行間からにじみ出ていました。

宇野と志ん生の年の差は十四歳。若い宇野には、奈落の淵にあってもしぶとくそこらへんをうろついている風情を漂わす志ん生の境地は、じゅうぶんに理解できなかったのかもしれません。

「眼に借りができる」とはその状況を集約しています。

志ん生は、土壇場でうっちゃれる噺家だったのですね、きっと。

※宇野信夫『今はむかしの噺家のはなし』(河出文庫、1986年)

古木優



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

しんしょうのでしは?【志ん生の弟子は?】志ん生雑感 志ん生!

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

NHK「いだてん」では、志ん生の弟子は今松と五りんしか出てきません。

今松はのちの古今亭円菊、五りんは架空の人。これはもう、既知のことかと踏んで、お次に進みます。

しかしまあ。

ここまで単純化すると、ストーリーをしっかり追っかけられてわかりやすい、ということなのかもしれません。でも、現実はそんな単純なもんじゃない。

落語ファン、志ん生ファンにはどうにも消化不良でした。だって、昭和30年当時、飛ぶ鳥落とす勢いの志ん生は、弟子たったの二人、なんていうことがあるわけがないのです。

あれは、NHKの策略で、「全国の落語嫌い」または「落語なんてどうーでもよいスポーツばか」のために、極端に矮小化したまでのことです。

ならば、実際には、どれほどの弟子がいたのか。

このサイトをご覧になってるのは、こよなく「落語」を、あるいは「志ん生」を愛する方々でしょうから、しっかりお伝えすることにいたしやしょう。

以下の通りです。ここから先は高田くんの登場です。(以上、古木)

はい、高田です。では、私が、志ん生と弟子について、少々しっかりとお伝えしましょう。

志ん生は『びんぼう自慢』末尾で「弟子もみんなよくなりましてな」と嬉しそうに語り、その後二人の息子(十代目馬生と三代目志ん朝)を除く、直弟子六人、内輪二人(古今亭甚五楼と古今亭志ん好)の名前を挙げています。

その六人とは以下の通りです。

馬の助(初代)
志ん馬(八代目)
円菊(二代目)
朝馬(三代目)
志ん駒(二代目)
高助(のち初代志ん五)

このうち、最後の高助は、正確には志ん朝の弟子ですが、志ん生生前には内「孫」弟子で住み込み、事実上門下扱いでした。

その他、早世した志ん治(鶯春亭梅橋)。

さらには、廃業した四人も。

志ん一(二代目志ん朝)
もう一人の、志ん一
銀助
古今亭馬子(紅一点)

馬子については、おそらく落語界初めての女流落語家でしたが、残念ながら入門時期や経歴は不明。

長女の美濃部美津子さんによれば、「結構頑張ってましたよ。父もかわいがってたんですけど、しばらくして好きな人ができて」、その結果、結婚・廃業したようです。

そんなわけで、直弟子は、惣領弟子で長男の馬生以下、志ん朝を加えて13人。

このうち、廃業して現在消息が知れない面々を除けば、平成29年(2018)1月18日に亡くなった志ん駒を最後に、ついにすべて、志ん生が待つ極楽亭に行ってしまいました。

83歳3か月で大往生した師匠の没年を超えたのは、円菊(2012年10月13日没、84歳6か月)だけで、ほんのわずか足りなかった志ん駒(81歳16日)を除けば、後は順に以下の通り。

梅橋(1955年、享年29、肺結核)
馬の助(1976年、享年47、癌)
朝馬(1978年、享年47、膵臓癌)
馬生(1982年、享年54、食道癌)
志ん馬(1994年、59歳、肝臓癌)
志ん朝(2001年、享年63、肝臓癌)
志ん五(2010年、61歳、上行結腸癌)

ここまで、師匠より先立った志ん治の梅橋を除き、すべて働き盛りでみんな癌。浴びるほど大酒を食らっても胃癌にも肝臓癌にもなるでなし、最後は眠っているうちに楽々と昇天した師匠に比べ、時代とはいえ、不公平なことかぎりなく、まるで志ん生にことごとく、生気を吸い取られたかのようです。

この弟子連、生前はそれぞれ、折に触れて師匠の思い出、逸話を語り残しています。

それを集大成したのが、『志ん生、語る。』(岡本和明編、アスペクト、2007年)。

家族、弟子、同僚や後輩の噺家たちが、知られざる志ん生の思い出を寄せた、貴重な一冊です。弟子では二人の子息初め、志ん馬、志ん駒、志ん五の証言。

それぞれに興味深いですが、志ん馬は、師匠は若い者に稽古をつけるのが好きで、よその弟子でも、来れば細部までていねいに教えていたこと、「落語ってのは、大筋を覚えてればいいんだ。後は自分の創意工夫だ」と。

倒れてから「どうしてみんな稽古に来ないんだろう」と寂しそうに言ったそうです。

総じて、志ん生は弟子にやさしかったようです。飲み屋の払いも、わざと円菊にさせ、まるでせがれに親孝行でおごらせるように、ニコニコと嬉しそうにしていたとか。

ところで、円菊といえば、二つ目のむかし家今松当時、志ん生が病後のもっとも大変な時期に、内弟子でいつも影のように寄り添い、寄席に復帰してからも毎日師匠をおぶって楽屋入りするので、落語は下手だが、稀に見る師匠孝行というので真打ちにしてもらったという噂で「おぶい真打ち」というあだ名まで奉られた人。

その円菊も、『志ん生! 落語ワンダーランド』(読売新聞社編、1993年)中のロングインタビューで、こんなことを述べていました。

稽古については志ん馬同様、あまり細かいことはうるさくなかったと回想しているのです。

おもしろいのは、師匠が前で噺をしゃべってくれても、あまりにおかしくてろくに覚えられず、吹き出してしまうと「木戸銭取るぞ」と怒られたとか。

ここに、ちょっと興味深い音源があります。

題して「古今亭志ん生 表と裏」。

出自はまったく不明ですが、おそらく当時、志ん生が専属だったニッポン放送のラジオドキュメンタリーかと思われます。

志ん生がトリで寄席がハネた後の楽屋風景から、朝の志ん生家の生録音へと移る貴重な記録。時期は推定で、倒れる直前の昭和36年(1961)ごろ。

りん夫人ほか一家総出演で、途中で別棟の馬生が孫の志津子(のち女優の池波志乃、当時6歳)を連れてやってくる場面があって、なかなか愛らしいのですが、その後、当時今松の円菊が「三人旅」を志ん生に稽古してもらうくだりがあります。

「…あのね、旅してありいてんだからね、え、少しからだをね、こウ、いごかしてほしいんだな。(自ら出発風景を演じて見せて)旅というものをしている心持ちじゃなけりゃいけない。(山や海を見ている心で)客を引っ張り込まなきゃいけない」

「紋付きを着て出てえる人間(噺家)が、紋付きがなくなっちゃって、半纏着ている人間がしゃべっているようでなきゃ。…ただ噺をすればいいってもんじゃない。噺を活躍させなきゃいけない」

いかにも実際的で、志ん生が生涯目指していたという正統派の志向が、よくうかがわれます。

ふだんはぶっきらぼうで、弟子がやって見せても真剣そのものの表情で、クスリとも笑ってくれなかった志ん生でも、これほどすべての弟子に愛され、慕われた師匠は、またとなかったでしょうね。

高田裕史



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

とよたけや【豊竹屋】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生  千字寄席

【どんな?】

義太夫大好き男とでたらめ口三味線野郎。
二人の極め付き、夢の競演。
上方噺の音曲噺。
豊竹豆仮名太夫だった六代目円生のお得意。

あらすじ

下手の横好きで、義太夫に凝っている豊竹屋節右衛門という男。

なんでも見聞きしたものをすぐ節をつけて、でたらめの義太夫にしてしまうので、かみさんはいつも迷惑している。

あくびにまで節をつける始末。

朝起こされると
「おとといからの寝続けに、まだ目がさめぬゥ、ハァ(と欠伸して)、あくびィ、かかるところに春藤玄蕃、くび見る役はァ、まつおうまるゥ」
と、さっそく「寺子屋」をひとうなり。

あちこち飛んで、
「その間遅しとォ、駆けいるお染、逢いたかったァ……」
と野崎村に変わったと思うと
「武田方の回し者、憎い女と引き抜いてェ」
と「十種香」になり、いつの間にか
「母の皐月がァ、七転八倒ォ、やややややァッ」
と「太功記」十段目・尼崎の場。

「ちちちちちっつん、つんつん、巡礼姿の八右衛門、後に続いて八幡太郎、かっぽれかっぽれ甘茶でかっぽれェ」
と、しまいにはなんだかわからない。

朝飯になると、碗の蓋を取るなり
「ちちん、お碗の蓋ァ、開くゥればァッ、味噌汁八杯豆腐、煮干の頭の浮いたるはァ、あやしかりけるゥ、ぶるるるッ」
と、興奮して蛮声を張り上げ、お膳を引っくり返す騒ぎ。

そこへ訪ねてきた男、これまた
「てん、ちょっとお尋ね申します、豊竹屋節右衛門さんンンは、こちらかええッ」
と、妙な節回し。

同類が現れたと、かみさんは頭を抱える。

この男、浅草三筋町三味線堀に住む花林胴八といって、でたらめの口三味線を弾くのが好きという、負けず劣らずの義太夫狂。

節右衛門の噂を聞いて、手合わせしたいと訪ねてきたもの。

三味線とはちょうどいいと、かみさんの渋い顔もどこ吹く風、節右衛門は大喜び。

さっそく二人の「競演」が始まった。

隣のお婆さんが洗濯する音が聞こえると
「ばあさァんせんだあくゥ、ううゥゥゥ」
「は、じゃっじゃっじゃっじゃじゃ。しゃぽォん」
「にじゅうごにちのォ、ごォえェんにィち」
「はっ、てんじんさん」
「ちんをふったわァ、ごォみィやァ、かァえ」
「ハッ、ちりちりん、ちんりんちんりん、ちりつんでゆくゥ」
「うまいッ。きょねんのくれのォ、おォおみォそおか、米屋と酒屋に責められェ、てェ」
「てんてこまい、てんてこまい」

いよいよ乗ってきて、
「子供の着物を親が着てェ」
「ハッ、つんつるてん」
「そばに似れどもそばでなくゥ、うどォんに似れども、うどんでなく、酢をかけ蜜かけたべェるのは」
「とォころてん、かァんてん」
「おなかこォわァしてェ、かよォうのォはッ」
「せっちんせっちん」
と、やっていると、棚から鼠が三匹。

「あれあれ、むこうの棚に、ねずみが三ついでてむつまじィく、ひとつのそなえをォ、引いてゆゥく」
と、節付けすると、鼠まで節をつけて
「チュウチュウチュウチュウ」

「いやあ、節右衛門さんとこのねずみだけあって、よく弾き(=引き)ますな」
「いやあ、ちょっとかじるだけで」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

貴重な音曲噺

原話は不詳ですが、貞享4年(1687)刊の笑話本『はなし大全』中巻ノ二の「口三味線」がそれらしき原型のようです。大坂で、天保年間(1830-44)から口演されてきた、今に残る貴重な音曲噺です。いつ、だれが東京に移植したかは、不明です。演題は、浄瑠璃の一派で、豊竹越前少掾(1681-1764)が享保16(1731)年に創始した豊竹派をもじったものです。

円生の十八番

義太夫の素養がなくてはできないため、戦後、音曲噺がすたれてからは、幼時「豊竹豆仮名太夫」を名乗って義太夫語りだった、六代目三遊亭円生の独壇場でした。

円生は最晩年、まるで後継者を捜し求めるように頻繁にこの噺を高座に掛け、国立劇場のTBS落語研究会(1978年12月26日)を始め、残された音源は11種、CDは6種という、ちょっとした記録です。入船亭扇橋、林家正雀、古今亭志ん輔など、手掛ける人が出ました。

円生の工夫

円生の芸談によると、昔は現行の話の前に、節右衛門が湯屋で義太夫をうなりすぎてふらふらになる場面がつくこともあったといいます。東京でも、柳派はこのやり方でした。円生は、口三味線で胴八が洒落る場面で「隣のじいさん抱き火鉢」「たどん」とやっていたのを婆さんの洗濯に変えています。

通じないオチ

「ちょっとかじるだけ」というオチは、人形浄瑠璃の符丁で三味線を弾くことを「かじる」と呼んだことから。もう現在では、よほどの文楽マニアでないと通じないでしょう。

義太夫四題 

噺の中で披露される演目は、いずれも今日、文楽、歌舞伎のレパートリーとして著名なものですが、複数の浄瑠璃の登場人物が、入り乱れてごたまぜで現れるのが落語の落語たるところで、こういう滑稽は「五目講釈」にも登場します。

「寺子屋」は『菅原伝授手習鑑』の四段目の切です。松王丸は、大宰府に流罪となった旧主・菅丞相(菅原道真)の一子・菅秀才の命を救うため、わが子を身代わりに立てる悲劇の人物。春藤玄蕃は、菅秀才の首実験のため派遣される役人で敵役。おやじが流罪なのに縁座の子供が打ち首という摩訶不思議な芝居。

「野崎村」は、世話浄瑠璃『新版歌祭文』全二段の上の切。

「十種香」は、『本朝二十四孝』四段目の中で、長尾謙信の息女八重垣姫が、恋する武田勝頼の回向に香を焚く場。

八右衛門は『恋飛脚大和往来』(近松門左衛門)の新口村の段の登場人物。八幡太郎義家は『奥州安達原』(近松半二)の登場人物。町人と武将がごちゃまぜに出る混乱ぶりです。

三味線堀

台東区小島一丁目にあった堀。形が三味線に似ていたことからこう呼ばれました。寛永7年(1630)、鳥越川の掘削によってできたもので、閑静な景勝地でした。戦後、川も堀も無残に埋め立てられ、今は跡形もありません。

フィクションでは、昭和37年(1962)の東映映画『怪談三味線堀』の舞台となったほか、『その男』(池波正太郎)の主人公、剣客の杉虎之助が生まれ育った地でした。

花林胴八

カリン(マルメロ)の木で三味線の胴を作ることから、それをもじった名です。

【語の読みと注】
新口村 にのくちむら
花林胴八 かりんどうはち



  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

きんのだいこく【黄金の大黒】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

長屋の喧騒な雰囲気がよく出ていますね。 

【あらすじ】

長屋の一同に大家から呼び出しがかかった。

日ごろ、店賃なんぞは爺さんの代に払ったきりだとか、店賃? まだもらってねえ、などどいう輩ばかりだから、てっきり滞納で店立ての通告か、と戦々恐々。

ところが、聞いてみるとさにあらず、子供たちが普請場で砂遊びをしていた時、大家のせがれが黄金の大黒さまを掘り出したという。

めでたいことなので、長屋中祝ってお迎えしなければならないから、みんな一張羅を着てきてくれと大家の伝言。

ごちそうになるのはいいが、一同、羽織なぞ持っていない。

中には、羽織の存在さえ知らなかった奴もいて、一騒動。

やっと一人が持っていたはいいが、裏に新聞紙、右袖は古着屋、左袖は火事場からかっぱらってきたという大変な代物だ。

それでも、ないよりはましと、かわるがわる着て、トンチンカンな祝いの口上を言いに行く。

いよいよ待ちに待ったごちそう。

鯛焼きでなく本物の鯛が出て寿司が出て、みんな普段からそんなものは目にしたこともない連中だから、さもしい根性そのままに、ごちそうのせり売りを始める奴がいると思えば、寿司をわざと落として、「落ちたのはきたねえからあっしが」と六回もそれをやっているのもいる始末。

そのうち、お陽気にカッポレを踊るなど、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

ところが、床の間の大黒さまが、俵を担いだままこっそり表に出ようとするので、見つけた大家が、
「もし、大黒さま、あんまり騒々しいから、あなたどっかへ逃げだすんですか」
「なに、あんまり楽しいから、仲間を呼んでくるんだ」

【しりたい】

金語楼が東京に紹介 

明治末から昭和初期にかけて、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の十八番だった上方噺を、初代柳家金語楼(1901-72、山下敬太郎)が東京に持ってきて、脚色しました。

金語楼は、戦前には「兵隊」ほか新作落語で売れに売れ、戦後はコメディアンとして舞台、映画、テレビと大活躍した人、三大喜劇人(エノケン、ロッパ、キンゴロー)の一人に数えられる人です。

現在も、けっこう演じられるポピュラーな噺ですが、なぜか音源は少なく、現在CDで聴けるのは立川談志(松岡克由、1935-2011)と大阪の三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)のものだけです。

初代春団治、金語楼とも、残念ながらレコードは残されていません。

オチはいろいろ

東京では、上のあらすじで紹介した「仲間を呼んでくる」がスタンダードです。

大阪のオチは、長屋の一同が「豊年じゃ、百(文)で米が三升」と騒ぐと大黒が、「安うならんうちに、わしの二俵を売りに行く」と、いかにも上方らしい世知辛いものです。

そのほか、「わしも仲間に入りたいから、割り前を払うため米を売りに行く」というのもありますが、ちょっと冗長でくどいようです。

大黒さまは軍神 

大黒天は、もとはインドの戦いの神で、頭が三つあり、怒りの表情をして、剣先に獲物を刺し通している、恐ろしい姿で描かれていました。

ところが、軍神として仏法を守護するところから、五穀豊穣をつかさどるとされ、のちには台所の守護神に転進。

えらい変わりようであります。

日本に渡来してから、イナバのシロウサギ伝説で知られるとおり、大国主信仰と結びつき、「大黒さま」として七福神の一柱にされました。

血なまぐさいいくさ神から福の神に。これほどエエカゲンな神サマは、世界中見渡してもいないように見えますが、これは現代人の狭い見方でしかありません。

戦争はたしかに破壊の象徴のように見えます。

でも、その後に復興して富をもたらすことはこれまた人類の変わらないいとなみ。

冬のあとに春が来るという、あれです。

怖い形相は魔を退けるおしるしです。

不思議なことではないのです。

これこそが、古代人のとらえ方の特徴なのです。

七福神の一員としてのスタイルはおなじみで、狩衣に頭巾をかぶり、左肩に袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持って、米俵を踏まえています。

福の神として広く民間に信仰され、この噺でも、当然、袋をかついで登場します。

江戸の風物詩、大黒舞い 

江戸時代には、大黒舞いといい、正月に大黒天の姿をまねて、打ち出の小槌の代わりに三味線を手に持ち、門口に立って歌、舞いから物まね、道化芝居まで演じる芸人がありました。

吉原では、正月二日から二月の初午はつうまにかけて、大黒舞いの姿が見られたといいます。

「黄金の大黒」のくすぐりから 

大家が自分のせがれのことを、
「わが子だと思って遠慮なくしかっておくれ」
と言うと、一人が、この間、大家の子が小便で七輪の火を消してしまったので、
「軽くガンガンと……」
「げんこつかい?」
「金づちで」
「そりゃあ乱暴な」
「へえ、お礼にはおよびません」

左甚五郎 

江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人です。講談、浪曲、落語、芝居などで有名で、「左甚五郎作」と伝えられる作品も各地にあります。

「甚五郎作」といわれる彫り物は全国各地にゆうに100か所近くあるそうです。

その製作年間は安土桃山期、江戸後期まで300年にもわたり、出身地もさまざまのため、左甚五郎とは伝説上の人物と考えるのが妥当だろう、というのが現在の定説です。

各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたと考えてもよいでしょう。

江戸中期になると、寺社建築に彫り物を多用することになりますが、その頃に名工を称賛する風潮が醸成されていったようです。

ポイントは「江戸初期」。

破壊と略奪の戦国時代が終わって、復興と繁栄が始まる息吹の時代です。

江戸幕府は、応仁の乱以来焼亡した寺社の再建に積極的に乗り出しました。

多くの腕自慢の職人が活躍した時期が「江戸初期」だったのです。

甚五郎が登場する落語や講談の作品は、以下のとおりです。

「三井の大黒」
「竹の水仙」
「鼠」
「甚五郎作(四ツ目屋)」
「掛川の宿」
「木彫りの鯉」
「陽明門の間違い」
「水呑みの龍」
「天王寺の眠り猫」
「千人坊主」
「猫餅の由来」
「あやめ人形」
「知恩院の再建」
「叩き蟹」

ついでに、左甚五郎の伝承を持つ主な作品を掲げておきます。時期も場所も多岐にわたっています。

眠り猫(日光東照宮)
閼伽井屋の龍(園城寺)
鯉山の鯉(京都の祇園祭)
日光東照宮(栃木県日光市)眠り猫
妻沼聖天山 歓喜院(埼玉県熊谷市)本殿「鷲と猿」
秩父神社(埼玉県秩父市)子宝・子育ての虎、つなぎの龍
泉福寺(埼玉県桶川市)正門の竜
安楽寺(埼玉県比企郡吉見町)野あらしの虎
慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町)夜荒らしの名馬
国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大崎)
上野東照宮(東京都台東区)唐門「昇り龍」「降り龍」
上行寺(神奈川県鎌倉市)山門の竜
淨照寺(山梨県大月市)本堂欄間
長国寺(長野県長野市)霊屋 破風の鶴
静岡浅間神社(静岡県静岡市)神馬
龍潭寺(静岡県浜松市)龍の彫刻 鶯張りの廊下
定光寺(愛知県瀬戸市)徳川義直候廟所 獅子門
誠照寺(福井県鯖江市)山門 駆け出しの竜、蛙股の唐獅子
園城寺(滋賀県大津市)閼伽井屋の龍
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市)
養源院(京都府京都市東山区)鶯張りの廊下
知恩院(京都府京都市東山区)御影堂天井「忘れ傘」、鶯張りの長廊下
祇園祭 (京都府)鯉山の鯉
稲爪神社(兵庫県明石市)
圓教寺(兵庫県姫路市)力士像
加太春日神社(和歌山県和歌山市加田)
出雲大社(島根県出雲市)八足門 蛙股の瑞獣、流水紋
西光寺(奈良県香芝市)鳳凰の欄間
飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市) 稲喰神馬(黒駒)

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

ふだんのはかま【ふだんの袴】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

「おうむ」という形式の噺。
付け焼き刃が次第にばれちゃって。
噺家の技の見せどころです。

【あらすじ】

上野広小路の、御成街道に面した小さな骨董屋。

ある日、主人が店で探し物をしていると、顔見知りの身分の高そうな侍がぶらりと尋ねてきた。

この侍、年は五十がらみ、黒羽二重に仙台平の袴、雪駄履きに細身の大小を差し、なかなかの貫禄。

谷中へ墓参の帰りだという。

出された煙草盆でまずは悠然と一服するが、煙草入れは銀革、煙管も延打で銀無垢という、たいそうりっぱなもの。

そのうち、ふと店先の掛け軸に目を止めた。

「そこに掛けてある鶴は、見事なものだのう」
「相変わらずお目が高くていらっしゃいます。あたくしの考えでは文晁と心得ますが」
「なるほどのう、さすが名人じゃ」

惚れ惚れと見入っているうち、思わず煙管に息が入り、掃除が行き届いているから、火玉がすっと抜けて、広げた袴の上に落っこちた。

「殿さま、火玉が」
と骨董屋が慌てるのを、少しも騒がず払い落とし
「うん、身供の粗相か。許せよ」
「どういたしまして。お召物にきずは?」
「いや、案じるな。これは、いささかふだんの袴だ」

これを聞いていたのが、頭のおめでたい長屋の八五郎。

侍の悠然としたセリフにすっかり感心し、自分もそっくりやってみたくなったが、職人のことで袴がない。

そこで大家に談判、ようやくすり切れたのを一丁借りだし、上は印半纏、下は袴という珍妙ななりで骨董屋へとやってくる。

さっそく得意気に一服やりだしたはいいが、煙管は安物のナタマメ煙管、煙草は粉になっている。

それでもどうにか火をつけて
「あの隅にぶる下がってる鶴ァいい鶴だなあ」
「これはどうも、お見それしました。文晁と心得ますが」
「冗談言うねえ。文鳥ってなあ、もうちっと小さい鳥だろ。鶴じゃねえか」

これで完全に正体を見破られる。

本人、お里が知れたのを気づかずに、さかんに、いい鶴だいい鶴だとうなりながら煙草をふかすが、煙管の掃除をしていないから火玉が飛び出さない。

悔しがってぷっと吹いた拍子に、火玉が舞い上がって、袴に落ちないで頭のてっぺんへ。

「親方、頭ィ火玉が」
「なあに心配すんねえ。こいつはふだんの頭だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

発掘は彦六   【RIZAP COOK】

原話は不詳で、古い速記はありません。

八代目林家正蔵(彦六)が、二つ目時代に二代目蜃気楼龍玉(1867-1945)門下の龍志から教わり、その型が五代目柳家小さんに継承されました。

八代目春風亭柳枝も持ちネタにし、柳枝の最後の弟子だった、三遊亭円窓が復活して手掛けています。

御成街道  【RIZAP COOK】

おなりかいどう。神田の筋違御門(万世橋)から上野広小路にかけての道筋で、現在の中央通りです。

将軍家が上野寛永寺に参詣するルートにあたり、この名が付きました。

上野広小路寄りの沿道には、刀剣や鎧兜などを扱う武具商が軒を並べていました。

仙台平  【RIZAP COOK】

せんだいひら。主に袴地に使われます。

仙台平の袴は武家の正装用で絹地の最高級品。

「平」とは、たていと(経)とよこいと(緯)を交互に織り込む手法で「平織り」を略した言い方です。

武家以外にも、富裕層の町人も使いました。

一般には、5月5日(端午)から8月末日まで一重袴として使いました。

9月1日から5月4日までは裏地付きの袷袴でした。

五つのひだの筋が崩れずに美しさを保ち、派手でもないので、気品と落ち着きが漂う装いです。

八五郎が借りたのは、小倉木綿です。

結城木綿とともに実用使いでした。

剣術の稽古袴での小倉木綿は「駄小倉」と呼ばれていました。

「三軒長屋」の楠運平が履くのが駄小倉です。

江戸詰め藩士などは、社交上、装飾を施した細身の刀を身につけました。

延打  【RIZAP COOK】

のべ。雁首と吸口が同じ材料でできた煙管です。

落語や歌舞伎では、演じる人物の階級で煙管の持ち方が異なります。

殿さまは中ほどを握って水平に構え、武士や町人はやや雁首近くを握って下向き。

百姓は雁首そのものをつかむ、など。

文晁  【RIZAP COOK】

ぶんちょう。江戸後期の文人画家、谷文晁(1763-1840)のこと。

洋画の技法を取り入れた独自の画風で知られ、渡辺崋山の師匠でもありました。

三遊亭円朝の後期の作に「谷文晁の伝」があります。

五代目小さんのくすぐりより  【RIZAP COOK】

大家が、店賃を持ってきたかと勘違いすると八「そこが欲の間違えだ」

大家が、一昨年貸した鳴海絞りの浴衣をまだ返さないといやみを言うと、八「留んとこで子供が生まれたんで、『こんなボロでよけりゃ』ってやっちゃった。あの子が大きくなりゃあ、オシメはいらなくなるから、そんとき返しに…」

八五郎が骨董屋で、「今日は墓参りで、供の者にはぐれて…」とやりはじめると、親父が「この方がお供みてえだ」

【語の読みと注】
御成街道 おなりかいどう
仙台平 せんだいひら
袷袴 あわせばかま
煙草入れ たばこいれ
煙管 きせる
延打 のべ
文晁 ぶんちょう
筋違御門 すじかいごもん



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

しじみうり【蜆売り】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

白浪物(盗賊の物語)。
鼠小僧がふとしたことでの一件。
かつての因果がわかった。
その侠気から自首する噺。

【あらすじ】

ご存じ、義賊ぎぞく鼠小僧次郎吉ねずみこぞうじろきち

表向きの顔は、茅場町かやばちょうの和泉屋次郎吉という魚屋。

ある年の暮れ、芝白金の大名屋敷の中間部屋ちゅうげんべやで三日間博奕三昧ばくちざんまいの末、スッテンテンにむしられて、外に出ると大雪。

藍微塵あいみじん結城ゆうきあわせの下に、弁慶縞べんけいじま浴衣ゆかたを重ね、古渡こわたりの半纏はんてんをひっかけ、素足に銀杏歯いちょうば下駄げた、尻をはしょって、濃い浅黄あさぎ手拭たぬぐいでほおっかぶりし、番傘ばんがさをさして新橋の汐留しおどめまでやってきた。

なじみの伊豆屋という船宿で、一杯やって冷えた体を温めていると、船頭の竹蔵がやはり博奕で負けてくさっているというので、なけなしの一両をくれてやるなどしているうち、雪の中を、年のころはやっと十ばかりの男の子が、汚い手拭いの頬かぶり、ボロボロの印半纏しるしばんてん、素足に草鞋わらじばきで、赤ぎれで真っ赤になった小さな手にざるを持ち、「しじみィー、えー、しじみよォー」

渡る世間は雪よりも冷たく、誰も買ってやらず、あちこちでじゃまにされているので、次郎吉が全部買ってやり、しじみを川に放してやれと言う。

喜んで戻ってきた子供にそれとなく身の上を聞くと、名は与吉といい、おっかァと二十三になる姉さんが両方患っていて、自分が稼がなければならないと言う。

その姉さんというのが新橋は金春の板新道じんみちで全盛を誇った、紀伊国屋の小春という芸者だった。

三田の松本屋という質屋の若だんなといい仲になったが、おかげで若だんなは勘当。

二人して江戸を去る。

姉さんは旅芸者に、若だんなの庄之助は碁が強かったから、碁打ちになって、箱根の湯治場とうじばまではるばると流れてきた。

亀屋という家で若だんなが悪質なイカサマ碁に引っ掛かり、借金の形にあわや姉さんが自由にされかかるところを、年のころは二十五、六、苦み走った男前のだんながぽんと百両出して助けてくれた上、あべこべにチョボイチで一味の金をすっかり巻き上げて追っ払い、その上、五十両恵んでくれて、この金で伊勢詣りでもして江戸へ帰り、両親に詫びをするよう言い聞かせて、そのまま消えてしまったのだという。

ところが、この金が刻印を打った不浄金(盗まれた金)であったことで、若だんなは入牢、姉さんは江戸に帰されて家主預けとなったが、若だんなを心配するあまり、気の病になったとのこと。

話を聞いて、次郎吉は愕然がくぜんとなる。

たしかに覚えがあるのも当然、その金を恵んだ男は自分で、幼い子供が雪の中、しじみを売って歩かなければならないのも、もとはといえばすべて自分のせい。

親切心が仇となり、人を不幸に陥れたと聞いては、うっちゃってはおかれねえと、それからすぐに、兇状持きょうじょうもちの素走すばしりの熊を身代わりに、おおそれながらと名乗って出て、若だんなを自由の身にしたという、鼠小僧侠気きょうきの一席。

【しりたい】

白浪講談を脚色

幕末から明治にかけての世話講談の名手で、盗賊ものが得意なところから、異名を泥棒伯円といった二代目松林伯円しょうりんはくえん(手島達弥→若林義行→若林駒次郎、1834-1905、新聞伯円、泥棒伯円)が、鼠小僧次郎吉の伝説をもとに創作した長編白浪(=盗賊)講談の一部を落語化したものです。

戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が得意にしました。

ほかに上方演出で、大阪から東京に移住した二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が音曲入りで演じました。

大阪のオチは、

「親のシジメ(しじみ=死に目)に会いたい」

と地口(=ダジャレ)で落とします。また、二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)は主人公を鼠小僧でなく、市村三五郎という大坂の侠客で演じていました。

実録・鼠小僧次郎吉

天保3年(1832)旧暦5月8日、浜町の松平宮内少輔まつだいらくないしょうゆうさま(松平忠恵ただしげ)の上野小幡藩こうずけおばた藩中屋敷で「仕事」中、持病の喘息ぜんそくの発作が起きてついに悪運尽き、北町奉行・榊原主計頭さかきばらかずえのかみさま(榊原忠之)のお手下に御用となりました。

その生涯の記録は、出撃回数122回うち、大名屋敷95か所、奪った金額3,085両3分(判明分のみ)、という不滅の金字塔です。おそらく、被害総額は実際には4,000両近くにのぼるでしょう。

お上のお取り調べでは、そのうち3,121両2分をきれいに使い果たし、窮民になどに一文も施していません。

鼠小僧次郎吉の最期

お縄(逮捕)になったときは、深川富岡門前山本町ふかがわとみおかもんぜんやまもとちょう(江東区門前仲町、俗称で表櫓おもてやぐら裏櫓うらやぐら裾継すそつぎに区分け)の水茶屋主人、半次郎方に居候いそうろうしていました。

同年天保3年旧暦8月7日、市中引き回しの上、鈴が森で磔刑たっけい(はりつけ)。享年35、離婚暦3回でした。墓は本所回向院えこういんにあります。

歌舞伎の鼠小僧

黙阿弥が、ほぼ講談の筋通りに脚色、安政4年(1857)正月の市村座に「鼠小紋春君新形ねずみこもんはるのしんかた」として書き下ろし、上演しました。

芝居では、お上をはばかり、鼠小僧は稲葉幸蔵。

四代目市川小団次(栄太また栄次郎、1812-1866、高島屋)が扮しました。末の世話狂言の名人です。

蜆売りの少年は芝居では三吉。演じたのは五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903、音羽屋)で、当時満12歳。のちの明治の名優です。

後見人の中村鴻蔵と浅草蛤河岸まで出かけ、実際の蜆売りの少年をスカウトして、家に呼んで実演してもらったという逸話があります。

その子の六代目尾上菊五郎(寺島幸三、1885-1949、音羽屋)も、やはり子役の三吉役のとき、雪の冷たさを思い知らせるため、父親に裸足で雪の庭に突き落とされてしごかれたそうです。今なら完全にドメスティックバイオレンスですが。

ちなみに、本所回向院の鼠小僧の墓はむろん本物ではなく、供養墓です。

明治9年(1876)6月、市川団升なる小芝居の役者が、鼠小僧の狂言が当った御礼に、永代供養料十円を添え、「次郎太夫墳墓」の碑銘で建立したものです。

磔の重罪人は屍骸取り捨てが当たり前で、まともな墓など建てられなかったのです。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

しんしょうがなりすまし【志ん生がなりすまし】志ん生雑感 志ん生!

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

志ん生がらみのことで、麻生芳伸さん(1938-2005)からしか聞いたことのない話があります。

志ん生が柳家甚語楼だったころのことでしょうか。

人気絶頂の初代柳家金語楼(山下敬太郎、1901-72)と同宿していたんだそうです。

金語楼は連日、寄席に引っ張りだこ。甚語楼はお声がかからず、部屋でくすぶる。金語楼の下流に甘んじる甚語楼。

そんな構図だったようです。でも、二人は仲良かったんだとか。

ある日。

金語楼がいつものように寄席に行く支度をしていたら、甚語楼が金語楼を縄でぐるぐるに縛ってしまいました。

甚語楼は金語楼の着物を着て、「柳家金語楼」になりすまして高座に出たんだそうです。

テレビもなかった時代。甚語楼が金語楼を騙って高座に出ても、客は「いつもとちょっと違うなあ」くらいで通っちゃったのですかね。

こんな仕儀がまかり通ったとは。のんきなもんです。昭和4年(1929)ごろのお話でした。

古木優



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

とろろん【とろろん】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

にぎやかで陽気。
東海道の丸子宿(鞠子宿)が舞台の一席。
上方噺の音曲噺です。

あらすじ

無尽に当たって懐が温かい、神田堅大工町の八五郎。

ひとつ伊勢参りでもして散財しようという気を起こし、弟分の熊と文次を誘って、東海道を西へ。

途中、馬子とばかを言いながら毬子(=丸子)宿までやって来る。

今夜の泊まりは一力屋という旅籠だが、あいにく下で寄合があるので、しばらく二階座敷でご同座を願いたいと頼まれる。

同宿は三人で、大坂者が一人に、上州から出てきたという婆さん、それに梅ヶ谷の弟子で梅干という相撲取り。

あいさつが済んだところへ女中が
「あんたがたハァ、毬子の名物をあがりますかな」
と聞きにくる。

「なんだ」
と聞くと
「トルルルー」
とか。

「ばか野郎、毬子名物ならとろろ汁じゃねえか」
と少しはもののわかった八五郎が教えたが、また
「マンマがバクハンでもようごぜえますか?」
と聞くので、そそっかしい文次が
「バッカラカン」
と聞き間違え
「格好の悪い丼じゃねえか」
と思い込んで、ひと騒ぎ。

麦飯のお櫃は来たが、いくら待ってもとろろが来ない。

二人が
「バッカラカンてやがって、人をばかにしてやがるから、下にケンツクを食わせよう」
と怒るのを、八五郎が
「寄合で忙しくて手がまわらないんだろう」
となだめ、
「下で思い出すように、なんでもトロトロとつく唄をうたって催促しようぜ」と提案する。

八五郎が甚句で
「トントンチリチリツンテントン、泊まり合わせしこの家の二階、麦の馳走はよけれども、なにもなくては食べられぬ、なんで食べよぞこの麦を、押してけ持ってけ三段目」
とやると
「押してけ持ってけ」
が悪く、せっかく来かかったのが戻されてしまう。

「それでは」
と婆さんが、昔取った杵柄、巫女の口寄せを。

「慈悲じゃ情けじゃお願いじゃ、どうぞ宿屋の女子衆よ、とろろを手向けてくださりませ」
「縁起でもねえ。手向けられてたまるか」

今度は大坂者に
「なにかやってくれ」
と頼むと、これは浄瑠璃で
「デンデンデンチトンチン、チントンシャン、シャンシャンジャジャジャ」
と雌馬の小便のよう。

真っ赤にうなって
「麦の馳走はよけれども、おかずのうては食べられぬ。オオオオ」

とうとう泣きだす。

相撲取りが一人ゲラゲラ笑っているので
「おめえもやらねえか」
と催促すると
「最前からおもしろうございました。実はわしは相撲じゃありません」
「なんだ」
「祭文語りで」
「どうりで小せえ相撲取りだと思った」

ほら貝と錫杖を前の宿屋に忘れたというので、口だけで
「なにでべよぞンガエこのン麦をエー、おかずがのうては、ンガエ、食べンエンらンれンぬ、お察しあれや宿屋のご主人、なにで食べよングエこのン麦をングエ」
とやると、主人がすり鉢を持って
「とろろんとろろん」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 

しりたい

東西で異なるオチ

原話は不詳。上方の古い音曲噺「出られん」を東京に移植したものです。

移植者や年代はわかりませんが、大正3年(1914)6月、『文藝倶楽部』に掲載された三代目古今亭今輔(1869-1924)の速記が残ります。

上方のオチは、題名通り主人が下から「出られん」と言うもので、浪花節の古型である「デロレン祭文」と掛けた地口。一方、あらすじでご紹介したように東京では、「デロレン」を「トロロン」と呼んだので地口も丸子名物のとろろとしゃれたわけです。

小南の復活と工夫

東京では長く途絶えていましたが、先の大戦後、二代目桂小南(1996年没)が大阪風の演出で復活、十八番にしました。

小南では、隣の大尽風を吹かせる男に当てこするためなぞ掛けで嫌がらせした後、祭太鼓の合いの手でとろろを催促。隣をのぞくと、お大尽が「テントロロン」と、頬かぶりでひょっとこ踊りを踊っていた、という地(説明)のオチを工夫しました。

小南没後は、再び後継者がいなくなっています。

祭文語り

さいもんがたり。祭文は浪花節の原型または古型で、上方では別名「デロレン左衛門(祭文)」と呼ばれました。

もともと、祭のときに、独特の節回しで神仏に報告する役割を担いましたが、山伏姿の門づけ芸人がほら貝と銀杖を伴奏に、街頭でデロレンデロレンとうたい歩き、全国に普及したものです。

のちに芸能化して歌祭文になり、幕末に浪花節(浪曲)へと進化をとげました。

口寄せ

霊媒のこと。

「そもそも、つつしみ敬って申したてまつるは、上に梵天、帝釈、四大天王……」と、さまざまな神仏の名を唱えたのち、死者を呼び出すのが普通の段取りでした。

婆さんの「とろろを手向けてくださりませ」は、憑依した亡者のことばのもじりです。

甚句

おもに相撲甚句のことで、「錦の袈裟」にも登場しました。

都々逸と同じく、七七七五のリズムを持ちます。

丸子のとろろ汁

丸子(毬子)は東海道二十一番目の宿場で、今の静岡市の内。

名物のとろろ汁は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や芭蕉の句でも。

梅若菜 毬子の宿の とろろ汁

さまざまな道中名所記でおなじみです。

自然薯のとろろを味噌汁で溶くのが特徴で、それを麦飯にかけて饗する質朴な味わいです。

【語の読みと注】
無尽 むじん
旅籠 はたご
寄合 よりあい
手向け たむけ
霊媒 れいばい
自然薯 じねんじょ



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

つきやむげん【搗屋無間】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

搗き米屋の男が花魁にぞっこん。
通い倒したその果ては。
褒められない廓噺。
「無間」とは無間地獄の略。
「無間」は「たえまない」「終わりなし」の意。

別題:無間の臼

あらすじ

信濃者の徳兵衛。

江戸は日本橋の搗き米屋・越前屋は十三年も奉公しているが、まじめで堅い一方で、休みでも遊びひとつしたことがない。

その堅物が、ある日、絵草紙屋でたまたま目に映った、

今、吉原で全盛を誇る松葉楼の花魁、宵山の絵姿にぞっこん。

たちまち、まだ見ぬ宵山に恋煩い。

心配しただんなが、気晴らしに一日好きなことをしてこいと送り出したが、どこをどう歩いているかわからない。

さまよっているうち、出会ったのが知り合いの幇間・寿楽。

事情を聞くとおもしろがって、なんとか花魁に会わせてやろう、と請け合う。

大見世にあがるのに、
「米搗き男ではまずいから、徳兵衛を木更津のお大尽という触れ込みにし、指にタコができているのを見破られるとまずいから、聞かれたら鼓に凝っていると言え」
など、細々と注意。

「あたしの言うとおりにしていればいい」
と太鼓判を押すが、先立つものは金。

十三年間の給金二十五両を、そっくりだんなに預けてあるが、まさか女郎買いに行くから出してくれとも言えないので、店の金を十五両ほど隙を見て持ち出し、バレたら、預けてある二十五両と相殺してくれと頼めばいいと知恵をつける。

さて当日。

徳兵衛はビクビクもので、吉原の大門でさえくぐったことがないから、廓の常夜灯を見て腰を抜かしたり、見世にあがる時、ふだんの癖で雪駄を懐に入れてしまったりと、あやうく出自が割れそうになるので、介添えの寿楽の方がハラハラ。

なんとかかんとか花魁の興味をひき、めでたくお床入り。

翌朝。

徳兵衛はいつまた宵山に会えるか知れないと思うと、ボロボロ泣き出し、挙げ句に、正直に自分の身分をしゃべってしまった。

宵山、怒ると思いのほか、
「この偽りの世の中に、あなたほど実のある人はいない」
と、逆に徳兵衛に岡惚れ。

瓢箪から独楽。

それから二年半というもの、費用は全部宵山の持ち出しで、二人は逢瀬を続けたが、いかにせん宵山ももう資金が尽き、思うように会えなくなった。

そうなると、いよいよ情がつのった徳兵衛。

ある夜、思い詰めて月を眺めながら、昔梅ケ枝という女郎は、無間の鐘をついて三百両の金を得たと浄瑠璃で聞いたことがあるが、たとえ地獄に堕ちても金が欲しいと、庭にあった大道臼を杵でぶっぱたく。

その一心が通じたか、バラバラと天から金が降ってきて、数えてみると二百七十両。

「三百両には三十両不足。ああ、一割の搗き減りがした」

しりたい

わかりにくいオチ  【RIZAP COOK】

「無間」とは無間地獄の略。「無間」そのものは「たえまない」「終わりなし」の意味です。

明治25年(1892)7月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

ただ、小さんのやり方では、金がどこから降ったかはっきりしないので、戦後、この噺を得意にした八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)は、だんなが隠しておいた金とし、金額も現実的な三十両としました。

八代目柳枝は、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022、春風亭枝女吉→三遊亭吉生)や三遊亭圓彌(林光男、1936-2006、春風亭枝吉→舌生)の最初の師匠です。

「搗き減り」の割合は、現行では二割とするのが普通になっています。

「搗き減り」というのは、江戸時代の搗き米屋が、代金のうち、玄米を搗いて目減りした二割分を、損料としてそのまま頂戴したことによります。

実際は普通に精米した場合、一割程度が米の損耗になりますが、それではもうけがないため、二割と言い立てたわけです。

オチは、したがって普通なら利益のはずの「搗き減り」が、文字通りの損の意味に転化する皮肉ですが、これが現代ではまったく通じません。

そこで、「仕込み」と呼ぶあらかじめの説明が必要になり、現在ではあまり演じられません。

三遊亭円窓が春風亭柳枝のやり方を継承しました。

原話は親孝行、落語はバチあたり  【RIZAP COOK】

原話は、現在知られているものに三種類あります。

まず、安永5年(1776)刊『立春噺大集』中の「台からうす」、ついで、『春笑一刻』中の無題の小咄。『春笑一刻』は、狂歌で名高い大田蜀山人(南畝、1749-1823)がものした笑話本です。安永7年(1778)刊。

現行により近いのが、天保15(1844)年刊『往古噺の魁』中の「搗屋むけん」です。

前二者は、貧乏のどん底の搗き米屋が、破れかぶれで商売道具の臼を無間の鐘に見立て、きねでつくと奇跡が起こって小判が三両。

大喜びで何度もつくと、そのたびに出てくる小判が減り、しまいには一分金だけ。「はあ、つき減りがした」というもの。

天保の小咄になると、金が欲しい動機が、女郎じょうろ買いの資金調達ではなく、年貢の滞りで三十両の金を無心してきている父親への孝心という、まじめなものである以外は、ほぼ現行通りです。

この動機が女郎買いに変わったのは、前記の俗曲「梅ヶ枝の…」が流行した明治前期からといわれます。

搗屋  【RIZAP COOK】

つきや。搗き米屋のことです。普通にいう米屋で、足踏み式の米つき臼で精米してから量り売りしました。

それとは別に、出職(得意先回り)専門の搗屋があり、杵と臼を持ち運んで、呼び込まれた先で精米しました。

「小言幸兵衛」のオリジナルの形は、搗き米屋が店を借りにきて一騒動持ち上がるので、別題を「搗屋幸兵衛」といいます。

無間の鐘  【RIZAP COOK】

むげんのかね。東海道は日坂宿に近い、文字さやの中山峠の無間山観音寺にあったという、伝説の鐘です。撞けば現世で大金を得られるものの、来世では無間地獄に堕ちると言い伝えられていました。

この伝説を基にして、浄瑠璃・歌舞伎の『ひらかな盛衰記』四段目「無間の鐘」の場が作られました。

主人である源氏方の武将・梶原源太と駆け落ちした腰元・千鳥が、身を売って遊女・梅ケ枝となりますが、源太のためになんとか出陣の資金・三百両を調達したいと願い、手水鉢を無間の鐘に見立ててたたきます。するとアーラ不思議、天から小判の雨あられ。

これは実は、源太の母・延寿が情けで楼上からまいたもの、というオチです。明治期にはやった、「梅ヶ枝の 手水鉢 たたいてお金が出るならば……」という俗曲は、この場面を当て込んだものです。

絵草紙屋  【RIZAP COOK】

えぞうしや。江戸のブティックといったところです。

権助魚」参照。絵草紙屋の店番には、たいてい看板娘や美人の女房がいたので、女性や子供の行く店にもかかわらず、なぜか日参する、鼻の下の長い連中が多かったとか。

そのせいか、風紀紊乱のかどで文化元年(1804)、お上から絵草紙屋の取り締まり令が出されています。

なかには、枕絵など、いかがわしいものを売る店も当然あったのでしょう。

大道臼  【RIZAP COOK】

おおどううす。搗き米屋が店の前に転がしておく、米搗き用の大臼です。

からだの大きな者、特に相撲取りをあざけり、罵って言う場合もあります。

「ハンショウドロボー」「ウドノタイボク」をもっと強めたニュアンスでしょう。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言『め組の喧嘩』では、頭の辰五郎以下、とびの面々が、相撲取りとの出入りで、この言葉を連発します。

信濃者は大食い  【RIZAP COOK】

しなのもの。信州人、信濃人、信州者とも。

信濃=信州は長野県のことですが、あそこの人々はいまだに長野県といわずに旧国名の「信州」と言ったりしています。

旅行者も「信州に行ってきました」などと言うことがあります。奇妙です。

旧国名から命名した国立大学は、ここにしかありません。信州大学。不思議です。

福島県西部、会津地方の人も自分の出身地を「福島県です」といわずに「会津です」というのは、これまた不思議です。

こちらにも会津大学とかいうのがありますね。

「会津です」をくさす作品に、『けんかえれじい』があります。

鈴木隆(1919-98)が昭和41年(1966)に発表した小説(理論社→TBS出版会→角川文庫→岩波現代文庫)です。

この作品は、鈴木清順(1923-2017)の監督、高橋英樹の主演で映画(日活配給、1966年)にもなりました。

鈴木は童話作家ですが、旧制岡山中学(岡山県立岡山朝日高校)から旧制喜多方中学(福島県立喜多方高校)に転校した自らの体験をもとに、自伝的長編小説として『けんかえれじい』を発表しました。小説も映画も痛快です。

それはともかく。

俗説では、信濃者は大食いなんだそうです。落語や川柳でのお約束です。この、「お約束」をあらかじめ知っておくことが、大切なんですね。

喰ふが大きいと信濃を百ねぎり   十六02

大食いだから給金を値切った、というわけ。

小所で信濃を置いて喰ぬかれ   七09

「小所」は小規模の店。

冬の間中、力仕事用に信濃から来た男を安い給金で雇ったのに大食いのため、結局高くついてしまった、というわけ。

冬の内月三斗づつくいこまれ   二十19

こちらも冬の間中、大食いの信濃者に食い込まれてしまった、という句。ずいぶんな言われようです。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

おなおし【お直し】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

吉原育ちで外知らずの男女。
切羽詰まって後ろめたい商売を。
辛くて悲しいのになぜか大笑い。

あらすじ

盛りを過ぎた花魁と客引きの若い衆が、いつしか深い仲に。

廓では「同業者」同志の色恋はきついご法度。

そこで隠れて忍び逢っていたが、いつまでも隠し通せない。

主人に呼ばれ、
「困るじゃないか。おまえたちだって廓の仁義を知らないわけじゃなし。ええ、どうするんだい」

結局、主人の情けで、女は女郎を引退、取り持ち役の「やり手」になり、晴れて夫婦となって仲良く稼ぐことになった。

そのうち、小さな家も借り、夫婦通いで、食事は見世の方でさせてもらうから、金はたまる一方。

ところが、好事魔多し。

亭主が岡場所通いを始めて仕事を休みがちになり、さらに博打に手を染め、とうとう一文なしになってしまった。

女房も、主人の手前、見世に顔を出しづらい。

「ええ、どうするつもりだい、いったい」
「どうするって……しようがねえや」

亭主は、友達から「蹴転けころ」をやるように勧められていて、もうそれしか手がない、と言う。

吉原の外れ、羅生門河岸で強引に誰彼なく客を引っ張り込む、最下級の女郎の異称。

女が二畳一間で「営業」中、ころ合いを見て、客引きが「お直し」と叫ぶと、その度に二百が四百、六百と花代がはねあがる。

捕まえたら死んでも離さない。

で、
「蹴転はおまえ、客引きがオレ」

女房も、今はしかたがないと覚悟するが、
「おまえさん、焼き餠を焼かずに辛抱できるのかい」
「できなくてどうするもんか」

亭主はさすがに気がとがめ
「おまえはあんなとこに出れば、ハキダメに鶴だ」
などとおだてを言うが、女房の方が割り切りが早い。

早速、一日目に酔っぱらいの左官を捕まえ、腕によりをかけてたらし込む。

亭主、タンカを切ったのはいいが、やはり客と女房の会話を聞くと、たまらなくなってきた。

「夫婦になってくれるかい?」
「お直し」
「おまえさんのためには、命はいらないよ」
「お直し」
「いくら借金がある? 三十両? オレが払ってやるよ」
「直してもらいな」

客が帰ると、亭主は我慢しきれず、
「てめえ、本当にあの野郎に気があるんだろ。えい、やめたやめた、こんな商売」
「そう、あたしもいやだよ。……人に辛い思いばかりさせて。……なんだい、こん畜生」
「怒っちゃいけねえやな。何もおまえと嫌いで一緒になったんじゃねえ。おらァ生涯、おめえと離れねえ」
「そうかい、うれしいよ」
とまあ、仲直り。

むつまじくやっていると、さっきの酔っぱらいがのぞき込んで、
「おい、直してもらいねえ」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい】

蹴転  【RIZAP COOK】

けころ。吉原に限らず、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称です。

「蹴転ばし」の略。「蹴倒し」ともいいました。すぐに寝る意味で、そういう意がこめられたうえでの最下級なのですね。

泊まりはなくて百文一切り、所要時間は今の時計で10分程度だったといいます。

10分では短すぎるので、たいていの客は改めて延長を希望します。これが「お直し」です。

裏路地の棟割り長屋のような粗末な木造の、4尺5間の間口、2尺の戸、2尺5寸の羽目板、3尺の土間、これら全部含めても2畳ほどの狭い部屋で商売をするのです。

「切り見世」「局見世」と呼ばれていました。

吉原にかぎらず、岡場所にはあったものですが、吉原で蹴転は、お歯黒どぶ(囲いの下水)の岸にあったので、「河岸見世」と呼ばれていました。

吉原の蹴転は寛政年間(1789-1801)にはもう絶えたようです。寛政改革では吉原が大打撃をこうむっていますから、そのさなかにつぶされていったのですね。

切り見世は突き放すようにいとまごい

お直しを食らい素百のさて困り

銭がなけよしなと路地へ突き出され

羅生門河岸  【RIZAP COOK】

つまり吉原の京町二丁目南側、「お歯黒どぶ」といわれた真っ黒な溝に沿った一角を本拠にしていました。

「羅生門」とは、蹴転が客の腕を強引に捕まえ、放さなかったことから、源頼光四天王の一人、渡辺綱が鬼女の隻腕を斬り落とした伝説の地名になぞらえてつけられた名称とか。

「一度つかんだら放さない」というニュアンスが込められているのがミソです。

こわごわとしたかんじがしますね。

表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、それで納まるはずはありません。

この噺のように、「お直し、お直しお直しィッ」と、立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、客をすってんてんにひんむいてしまうという、ライトな魔窟だったわけです。

志ん生のおはこ  【RIZAP COOK】

この噺は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)が復活させ、昭和31年度(1956)の芸術選奨を受賞しました。

志ん生亡き後は、次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)がさらに磨きのかかった噺にこさえました。

【語の読みと注】
蹴転 けころ:最下級の商売女性
一切り ひときり:一段落
切り見世 きりみせ:蹴転がいる場所
局見世 つぼねみせ:蹴転がいる場所
河岸見世 かしみせ:吉原の蹴転がいる場所
素百 すびゃく:百文ぽっきり



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席