【なめる】なめる 落語演目 あらすじ
【どんな?】
ちょっと色っぽくて。
けど、怪談めいてて。
奇妙なおもむきの噺です。
別題:菊重ね 重ね菊
【あらすじ】
猿若町の芝居が評判なので、久しぶりに見物しようとやって来た、ある男。
三座とも大入りで、どこも入れない。
ようやく立見で入れてもらい
「音羽屋、音羽屋ッ」
とやっていると、前の升席に十八、九のきれいなお嬢さんが、二十五、六の年増女を連れて見物している。
年増女が男に
「あなたは音羽屋びいきのようですが、うちのお嬢さまもそうなので、よかったら自分たちの升で音羽屋をほめてやってほしい」
と声をかけた。
願ってもないことと、ずうずうしく入り込み、弁当やお茶までごちそうになって喜んでいると、年増女が
「あなた、おいくつ」
と聞く。
「二十二」
と答えると、
「ちょうど良い年回りだ」
と思わせぶり。
聞けば、お嬢さんは体の具合が悪く、目と鼻の先の先の業平の寮で養生中だという。
そこで自然に
「お送りいたしましょう」
「そう願えれば」
と話がまとまり、芝居がハネた後、期待に胸をふくらませてついていくと、大店の娘らしく、大きな別宅だが、女中が五人しか付いていないとのことで、ガランと静か。
お嬢さんと差し向かいで、酒になる。
改めて見ると、その病み疲れた細面は青白く透き通り、ぞっとするような美しさ。
そのうちお嬢さんがもじもじしながら、
「お願いがあるのですが」
と言う。
「ここだ」と思って、お嬢さんのためなら命はいらないと力むと、
「恥ずかしながら、私のお乳の下にあるおできをなめてほしい。かなえてくだされば苦楽をともにいたします」
という、妙な望み。
「苦楽ってえと夫婦に。よろしい。いくつでもなめます。お出しなさい」
お嬢さんの着物の前をはだけると、紫色に腫れ上がり、膿が出てそれはものすごいものがひとつ。
「これはおできじゃなくて大できだ」
とためらったが、お嬢さんが無理に押しつけたから、否応なくもろになめてしまった。
「その見返りに」
と迫ったとたん、表でドンドンと戸をたたく音。
聞くと、
「本所表町の酒乱の伯父さんで、すぐ刃物を振り回して暴れるから、急いでお帰りになった方がよろしい」
と言うので、しかたなく、その夜は引き上げる。
翌朝。
友達を連れて、うきうきして寮へ行ってみると、ぴったり閉まって人の気もない。
隣の煙草屋の親父に尋ねると、笑いながら
「あのお嬢さんのおできが治らないので易者に聞くと、二十二の男になめさせれば治るとのこと。そこで探していたが、昨日芝居小屋でばか野郎を生け捕り、色仕掛けでだましてなめさせた。そいつが調子に乗って泊まっていく、と言うので、女中があたしのところに飛んできたから、酒乱の伯父さんのふりをして追い出した。今ごろ店では全快祝いだろうが、あのおできの毒をなめたら七日はもたねえてえ話だ」
と言ったから、あわれ、男はウーンと気絶した。
「おい、大丈夫か。ほら気付け薬の宝丹だ。なめろ」
「うへへ、なめるのはもうこりごりだ」
底本:六代目三遊亭円生
【しりたい】
宝丹
上野の守田治兵衛商店で、今も販売する胃腸薬です。
寮
別荘、下屋敷、隠居所、遊女の療養所などの総称でした。
落語では、たいてい大店のお嬢さんが恋わずらいのブラブラ病で、向島の寮に隔離されます。
猿若町
猿若町は台東区花川戸の北側。
いわゆる江戸三座の中村座、市村座、守田座があったことで知られます。江戸三座については、「淀五郎」をお読みください。
業平
墨田区吾妻橋三丁目の内。
昔も今も低湿地帯で、五代目古今亭志ん生ゆかりの「なめくじ長屋」で、落語マニアにはおなじみです。
類話「狸娘」
前半が似た噺に「狸娘」があります。
男二人が、芝居で娘と女中に声をかけられるくだりまでは同じです。
後半は、浅草・花屋敷の常磐屋という料亭で飲み食いした後、女中が「先に帰りますが、今度は、両国亀沢町の自分の実家にお嬢さんをお泊めするから、ぜひ後から来てほしい」と言うので、二人は据え膳だと大喜び。
約束の印にと懐中時計(いかにも明治!)を持っていかれ、後で見ると紙入れもないので、かたりだと気付いたときにはもう手遅れ。
しばらくして女が警察に挙げられ、「あれは狸穴(まみあな、港区麻布)の狸娘のおきんという評判のワル」と聞かされて、「道理で尻尾を出した」と、オチるものです。
エロ場面はなく、官憲をはばかった「なめる」の改作と思われますが、はっきりしません。
こちらは明治中期に、初代三遊亭円左が演じましたが、その後はすたれました。
バレ噺としての演出も
演じようによっては、完全なバレ(ポルノ)になってしまう、キケンな噺です。
げんに、明治期には、乳房ではなく女陰をなめるやり方もあったそうですから。
別題に「重ね菊」「菊重ね」があります。
これは、音羽屋(尾上菊五郎)の紋の一つで、同時にソノ方の意味も掛けているとか。
円生十八番
原話は古く、元禄4年(1691)刊の初代露の五郎兵衛著『露がはなし』中の「疱瘡の養生」です。
明治の四代目三遊亭円生から、四代目橘家円蔵を経て戦後は六代目円生が得意としました。
現在でも、円生一門によって継承されています。