かいくさ【蚊いくさ】落語演目

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【どんな?】

家を城と見立てて蚊と一合戦を講じる噺。
黄表紙ばりのばかばかしさが真骨頂です。

別題:蚊のいくさ

【あらすじ】

町内の八百屋の久六。

このところ剣術に凝り、腕はからっきしナマクラのくせに剣客気取り。

横町の道場に通い詰めで商売を怠けっぱなしなので、がまんならなくなったのが女房。

亭主の剣術狂いのため家は左前で、去年の暮れに蚊帳を曲げて(質入れ)しまったため、この夏は親子で蚊に食われ通し。

ほとほと愛想が尽きたから、別れて子供をつれて家を出ると脅かされ、久さん、しかたなく先生の所にお断りに行く。

事情を聞いた先生、
「それなら今日から大名になったつもりで、蚊と一合戦してみろ」
とそそのかす。

家は城、かみさんは北の方、子供は若君。

家の表が大手、裏口が搦手、引き窓が櫓、どぶ板が二重橋。

「はあ、大変なことになりましたね」
「蚊といくさをするのだから、暮れ方になると幕下の大名の陣から、ノロシが上がるな」
「なんです、それは」

つまり、長屋中一斉に蚊燻しの煙が上がる。

そこで軍略で、久さんの「城」にだけノロシを上げない。

敵は空き城だと油断して一斉に攻めてくる。

そこを十分に引きつけて、大手搦手櫓を閉め、そこでノロシ(蚊燻し)を上げて、敵が右往左往するところで四方を明け放てば、敵軍は雪崩を打って退却する。

あとをしっかり閉めて
「けむくとも 末は寝やすき 蚊遣りかな」
で、ぐっすり安眠というわけ。

怪しげな戦法だが、久さん、すっかり感心して、家に帰るとすぐ籠城準備に取りかかった。

女房に紙屑駕籠を持ってこさせて兜。

手に埃たたきで刀。

気が違ったんじゃないのかいと言われても、何のその。

「やあやあ敵の奴ばら、当城にては今宵は蚊帳は吊らんぞや……それ、敵が攻めてきた。北の方、ノロシの支度を」
「なんだい、ノロシってのは」
「蚊燻しを焚けってんだ」

ゴホンゴホンとむせながら、それでもようやく敵を退散させて勝ちいくさ。

しかし、先生に、
「落武者が殿さまを暗殺しに来るかもしれないので、その時は一騎打ちをしなければならないから、寝てはいけない」
と言われてきた久さん、目をむいて待ち構えていると、やっぱり
「ブーン」
ときた。

ポンとつぶして、
「大将の寝首をかこうとは、敵ながらあっぱれ、死骸をそっちへ」
「ブーン」
「今度は縞の股引きをはいているから、雑兵だな。旗持ちの分際で大将に歯向かうとは……ポン」
「ブーン」
「ポン」
「ブーン」
「ポン」
「これ北の方、城を明け渡してよかろう」

底本:四代目柳亭左楽

【しりたい】

町人めらもヤットウ、ヤットウ

同じく町人が生兵法で失敗する「館林」同様、物騒な世情の中、百姓町人が自衛のため、武道を習うことが流行した幕末の作といわれます。

剣術は、町人の間では、気合声(ヤッ、トー)を模して「ヤットウ」と呼ばれました。

すでにサムライの権威は地にち、治安も乱れるばかりで、刀もまともに扱えない腰抜け武士が増えていました。

町人が武士を見限って自衛に走った時点で、封建的身分制度はくずれ、幕府の命運も尽きていたといえます。たわいない蚊退治の笑い話の裏にも、時代の流れは見えていました。

後半の久さんの蚊への名乗り上げは、明らかに軍記物の講釈(講談)を踏まえています。

蚊いぶし

蚊遣かやりのことで、原料はダジャレではありませんが、かやの木の鉋屑かんなくずです。

下町の低湿地帯の裏長屋に住む人々にとって、蚊とのバトルはまさに食うか食われるか、命がけでした。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の自伝『なめくじ艦隊 志ん生半生記』(朋文社、1956年→ちくま文庫、1991年)に、長屋で蚊の「大軍」に襲われ、息を吸うと口の中まで黒い雲の塊が攻め寄せてきたことが語られています。

昭和初期の本所あたりでのことです。

ついでに、ジョチュウギクを用いた渦巻き型の蚊取り線香は、次第に姿を消しつつありますが、大正中期に製品化された、画期的な商品でした。

落語の珍・防「蚊」対策

二階の窓に焼酎を吹きかけ、蚊が二階に集まったらはしごを外すという、マクラ小ばなしがあります。

これなぞは、頭の血を残らず蚊に吸い取られたとしか思えませんが、まあ、二階建ての長屋に住めるくらいだから富裕で栄養たっぷりなのでしょうから、蚊の餌食になるのも当然でしょう。

そのほか、「二十四孝」では、親不孝の熊五郎に大家が、呉猛という男が母親が蚊に食われないよう、自分の体に酒を塗り、裸になって寝たという教訓話をします。

バクチをすると蚊に食われないという俗信も、昔はあったといいます。

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