【相撲の蚊帳】すもうのかや 落語演目 あらすじ
【どんな?】
これまた、くだらないといえば実にくだらないネタですね。
別題:蚊帳相撲 こり相撲 妾の相撲 賽投げ
【あらすじ】
横町の米屋のだんな。
大の相撲好きで、町で会っても「関取」と呼ばないと、返事をしない。商売のことも、商談で出かけることを興行と呼ぶくらい。
十日の相撲なら、小屋を建てるところから壊すところまで、十二日間見ないと気が済まないほど。
今日も、贔屓の相撲が負けたのでご機嫌斜めで妾宅に帰ってくる。
あまりぐちるので、お妾さんがなんとか慰めようと、私と相撲を取って負かせば敵討ちをしたつもりになって気分が晴れるでしょうと、提案する。
それもいいだろうと、帯を締め込みに、蚊帳を四本柱に見立て、布団を土俵にハッケヨイ。
お妾さんは、裸にだんなのフンドシ一丁だけを腰に巻かれるというあられもない姿にされたが、恥ずかしがっても、自分が言いだしたことだからしかたがない。
だんなが立ち上がると、お妾さんは捕まれば投げられるから、蚊帳の中をぐるぐる逃げ回る。
それをだんなが追いかけて、まるで鬼ごっこ。
とうとう、だんなの上手がマワシに掛かり、エイとばかりに豪快な上手投げ。
弾みは怖いもので、ほうり投げられたお妾さんが、蚊帳にくるまったまま台所へ転がった。
だんな、仁王立ちになって土俵をにらみつけると、蚊帳がなくなったので、蚊の大群がここぞとばかり攻め寄せる。
「ブーン」
「ははあ、勝ったから、数万の蚊がうなってくれた」
底本:三代目柳家小さん
【うんちく】
三語楼が改作 【RIZAP COOK】
原話は文政7年(1824)刊『噺土産』中の「夫婦」。
明治29年(1896)11月、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記が残り、このオリジナル版は「こり相撲」「妾の相撲」「蚊帳相撲」など、いろいろな別題があります。
大正末に、初代柳家三語楼(山口慶三、1875-1938)が「賽(妻)投げ」として改作しました。
三語楼は、異色のナンセンス落語で売り出した、英語のできる落語家。
三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)の本名「強次」の名付け親でもありました。当時、志ん生が三語楼の弟子だったからなのですが、三語楼は「強次」を置き土産にして逝ってしまいました。
三語楼版では、投げるのをお妾さんでなく本妻とし、夫婦げんかで奥方が外へ放り出されると、巡査が通りかかって家に同道。だんなに賭博容疑で署まで来てもらうと言います。
なぜだと聞くと、「今、サイ(賽=妻)を投げたではないか」というダジャレオチ。
まあ、ここまではぎりぎりで普通のお色気噺、寄席で演じられるギリギリの限界は保っていたのですが、後がもういけません……。
弟子の改作 【RIZAP COOK】
三語楼門下で語ん平と言っていた二代目古今亭甚語楼(1903-71)が、戦後、師匠の「妻投げ」をまた改作。さらにきわどくし、お座敷などで演じました。
筋は変わらないものの、たとえば、だんなが細君をフンドシ一丁にする場面で「帯がアソコに食い込んでいるじゃないか」と言ったり、「わき毛が濃いねえ」などとからかった後、取り組んで「ここでおまえの前袋を取る」「私、殿方のように前に袋はございませんから、私がつかみましょう」。「これはいかん、いつもの気分になってきた」「まわし、じゃまですわね。はずしましょうか……」。
ところが、まだこれでは終わりません。改作三度目、とうとうポルノに。作者、演者は不明。
ある男、毎夜毎夜、細君を喜ばそうと苦心中。折も折、悪友から、女の門口を大金玉でピタンピタンたたくと喜ぶと聞き、さっそく夏みかんの特大を買い込む。これが大当たりで、かみさんは連日連夜「死ぬ、死ぬ」と大狂乱。真夜中なので、巡邏中のおまわりがこれを聞きつけ、戸を蹴破って踏み込んでくる。すったもんだでようやく事情をのみこんだおまわり、「あー、以後再びにせ金を使うこと、まかりならん」。
四度目は……、もうありません。
超特急、大相撲史 【RIZAP COOK】
宝暦から明和年間(1751-72)には、相撲の中心は上方から江戸に移り、初めて江戸独自の一枚刷り番付が発行されたのは宝暦7年(1757)でした。
相撲場は、蔵前八幡境内から深川八幡、芝神明社、神田明神、市ヶ谷八幡、芝西久保八幡などを転々とし、天保4年(1833)に本所回向院境内が常打ち場に。
以来、両国国技館開館の明治42年(1909)まで72年間、「回向院の相撲」が江戸の風物詩として定着。
当初は小屋がけで晴天八日間興行だったのが、安永7年(1778)からは十日間になりました。
天明から寛政年間(1789-1801)に入ると東西の大関に谷風、小野川が並立。
雷電為右衛門の出現もあって、史上空前の寛政相撲黄金時代が到来します。
時代が下って、この速記の明治29年(1906)ごろは、明治中期の梅(梅ヶ谷)常陸(常陸山)時代の直前。
当時、初代高砂浦五郎(1838-1900)の相撲組織改革により、明治22年(1889)1月、江戸以来の相撲会所が廃止され、大日本相撲協会(実際は東京のみ)が発足しました。
翌年2月、初めて番付に横綱(初代西ノ海嘉治郎)が表記されるなど、幕末以来、一時すたれていた相撲人気が再び盛り返してきていました。
四本柱が廃止されたのは、はるかのちの先の大戦後、昭和27年(1952)秋場所からです。
【語の読みと注】
贔屓 ひいき
妾宅 しょうたく:愛人の家