かまどろ【釜泥】落語演目

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【どんな?】

泥棒の噺。なんだかのんきでほのぼのしてますねえ。

別題:釜盗人(上方)

あらすじ

大泥棒、石川五右衛門の手下で、六出無四郎と腹野九郎平という二人組。

親分が釜ゆでになったというので、放っておけば今に捕まって、こちとらも天ぷらにされてしまう、と心配になった。

そこで、親分の追善と将来の予防を兼ね、世の中にある釜という釜を全部盗み出し、片っ端からぶちこわしちまおうと妙な計画を立てた。

さしあたり、大釜を使っているのは豆腐屋だから、そこからとりかかろうと相談がまとまる。

間もなく、豆腐屋ばかりに押し入り、金も取らずに大釜だけを盗んでいく盗賊が世間の評判になる。

なにしろ新しい釜を仕入れても、そのそばからかっさらわれるのだから、業界は大騒ぎ。

ある小さな豆腐屋。

じいさんとばあさんの二人きりで、ごく慎ましく商売をしている。

この店でも、のべつ釜を盗まれるので、じいさんは頭を悩ませている。

なにか盗難防止のいい工夫はないかと相談した結果、じいさんが釜の中に入り、酒を飲みながら寝ずの晩をすることになった。

ところが、いい心持ちになり過ぎて、すぐに釜の中で高いびき。

ばあさんもとっくに船をこいでいる。

と、そこに現れたのが、例の二人組。

この家では先だっても仕事をしたが、またいい釜が入ったというので、喜んでたちまち戸をひっぱずし、釜を縄で縛って、棒を通してエッコラサ。

「ばかに重いな」
「きっと豆がいっぺえへえってるんだ」

せっせと担ぎ出すと、釜の中の爺さんが目を覚まして
「ばあさん、寝ちゃあいけないよ」

泥棒二人が変に思っていると、また釜の中から
「ほい、泥棒、入っちゃいけねえ」

さすがに気味悪くなって、早く帰ろうと急ぎ足になる。

釜が大揺れになって、じいさんはびっくりして
「婆さん、地震か」

その声に二人はがまんしきれず、そっと下ろして蓋を開けると、人がヌッと顔を出したからたまらない。

「ウワァー」
と叫ぶと、なにもかもおっぽり出して、泥棒は一目散。

一方、じいさん。

まだ本当には目が覚めず、相変わらず
「婆さん、オイ、地震だ」

そのうちに釜の中に冷たい風がスーッ。

やっと目を開けて上を向くと、空はすっかり晴れて満点の星。

「ほい、しまった。今夜は家を盗まれた」

底本:六代目朝寝坊むらく

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しりたい

諺を地でいった噺

古くから、油断して失敗する意味で「月夜に釜を抜かれる」という諺があります。

大元をたどれば、この噺は、この諺を前提に作られたと思われます。

寛延4年(1751)刊『開口新語かいこうしんご』中の漢文体の笑話が原型ですが、直接の原話は安永2年(1773)刊の笑話本『近目貫きんめぬき』中の「大釜」です。

原話では、入られるのは味噌屋で、最初に強盗一人が押し入り、家財はおろか夜具まで一切合財とっていかれて、おやじがしかたなく、大豆を煮る大釜の中で寝ていると、味をしめた盗人がずうずうしくも翌晩、また入ってきて……ということになります。オチは現行と同じです。

上方落語では「釜盗人」と題しますが、東京のものと、大筋で変わりはありません。

明治にできた噺

もともと、小咄やマクラ程度に軽く演じられていたものが、明治後期から一席噺となったものです。

明治34年(1901)8月、「文藝倶楽部」所載の六代目朝寝坊むらく(永瀬徳久、1859-1907)の速記がもっとも古く、現行のやり方は、オチも含めてほとんど、むらくの通りです。

同時代の大物では、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の速記もあります。

先の大戦後は、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)などが演じ、特に小円朝が得意にしていました。

小円朝は、釜ごと盗まれたじいさんが「おい、ばあさん」と夢うつつで呼ぶ声を、次第に大きくすることを工夫した、という芸談を残しています。

その後は、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)がよく手掛けていました。

戦時中は禁演もどき

野村無名庵(野村元雄、1888-1945、落語評論家)の『落語通談』によれば、戦時中、時局に合わない禁演落語を定めた時、自粛検討会議の席で、泥棒噺にランクが付けられました。

甲乙丙に分け、甲はまあお目こぼし、丙は最悪で無条件禁止、ということに。

その結果、甲には「釜泥」「眼鏡屋」「穴泥」碁泥」「だくだく」「絵草紙屋」「探偵うどん」「熊坂」が。

不道徳な部分を抹消すれば、という条件付きの乙には「出来心」「しめ込み」「夏泥」「芋俵」「つづら泥」「にかわ泥」「やかん泥」「もぐら泥」「崇禅寺馬場」が。

丙には「転宅」、と決まったとか。

泥棒に不道徳もヘチマもないでしょうが。

ところが、実際に設定された結果、「噺塚」に葬られた五十三種には、なんと泥棒噺は一つも入っていません。

この五十三種は、大半がエロ噺か不倫噺でした。

「釜泥」など泥棒噺はエロ噺や不倫噺の次のランクで、事実上「自粛」させられたことは間違いないでしょう。

エロよりドロはまあいいか、てなもんで。

禁演落語なんぞといっても、しょせんはこんな程度のものです。思想や宗教の弾圧などと比べれば、かわいいもんです。

戦時下ではあっても、落語の心映えがまだ許される、のどかな時代だったのかもしれません。

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らくごのえんもくはいくつあるのか【落語の演目はいくつあるのか】知っておきたい

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落語の演目数はいくつあるのか。

二千。

難しいですね。

東大落語会の『増補 落語事典』(青蛙房、1969年)には八百超席でしたかね。

一般には五百ほどある、といわれていますが、誰も正確な数字を出せません。

千字寄席は五百余席。これだけ。

志ん生の音源は百二十五ほどありましたかね。意外に多いんです。

でも、ホントにすごいのは二十ほどでしょう。

その二十の中に入るかどうかは知りませんが、「後生鰻」なんか最高ですね。

あとは、なんだかよくわかりません。でも、それはそれでおもしろかったりして。

文楽が六十八でしたっけ。

高名になってからは三十席を死守してました。少ない。

でも、どれもいつでもうならせられる珠玉の演目。これはこれですごい。

磨き上げた芸です。とびきりおいしい中華料理店(たとえば六本木の中国飯店)はメニューの数がそんなにありません。

でも、その中のどれを頼んでもおいしい。文楽の芸はそんなかんじです。

志ん生と文楽ではスタンスが、まったく違ってました。

円生は三百席。どうでもよいですか。

スタジオ録音は資料にはなりこそすれ、あれは聴いててあんまりおもしろくありません。

お客を前にして作った料理と試食の違い、みたいなもんでしょうかね。

落語はライブ感がどうしても必須です。芸能なんですね。客が必要なんです。

円朝は四十二席こさえてます。

これは長講も入れての数です。しかも、やってるばかりか、つくってるわけです、この人の場合は。驚きます。

晩年は、支離滅裂なのもあるし、はりまぜみたいなのもあるし。

円朝作の名で世に出ていながら、そのじつ、条野採菊がつくったものだったり、河竹黙阿弥からもらったものだったりで。

「心中時雨傘」はあやしい、なんていわれてますね。

これはもう、近代における作り手と個人のありようと関係してきますね。ややこしいから、ここではやめときます。

まあ、落語は六十も知ってたら、周りは仰天。マニアの域です。

カクテルも六十くらい知ってれば、通なんだそうです。

あれは毎晩、世界のどこかで生まれてるんですが、生き残れるものはほんの一握り。

まあ、落語は、みなさん、そんなに知らない。せいぜい十二くらいでしょうか。

そんなら、千字寄席を読み込んでいただければ、落語通になれます。そうとうな。

そこらへんの落語評論家があずかり知らないことも記してたりしてますしね。

ほかでは語られてない説も、たまには記してあります。

こんなところがけっこうおもしろい。

どうぞ、ご贔屓に。

古木優

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絶品です。

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転宅、残念

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柳家小三治師匠がお亡くなりになりました。10月7日。寂しいもんです。BS-TBSでは、落語研究会でかつて小三治師匠があげた「転宅」を放送するというのを知って録画しました。なんせ深夜の放送でしたから、翌日見たところ、なんと柳家花緑師匠が出ていました。まずい顔だなあ、という苦い印象だけでしたが、あれはいったいなんだったのでしょうか。こんな局面(放送局と掛けている)で羊頭狗肉をひっさげてもしょうがないとは思うのですが。残念です。

柳家小三治のプロフィル
1939年12月17日~2021年10月7日
東京都新宿区出身。出囃子は「二上がりかっこ」。定紋は「変わり羽団扇」。本名は郡山剛藏こおりやまたけぞう。1958年、都立青山高校卒業。同学年に女優の若林映子わかばやしあきこ、一学年下には仲本工事と橋爪功。ラジオ東京(現TBS)「しろうと寄席」で15週勝ち抜いて注目されました。59年3月、五代目柳家小さんに入門。みんなが納得したそうです。前座名は小たけ。63年4月、二ツ目昇進し、さん治に。69年9月、17人抜きの抜擢で真打、十代目柳家小三治を襲名。76年、放送演芸大賞受賞。79年から落語協会理事に。81年、芸術選奨げいじゅつせんしょう文部大臣新人賞受賞。2004年に芸術選奨文部科学大臣賞を、05年4月、紫綬褒章しじゅほうしょう受章。10年6月、落語協会会長に。14年5月に旭日小綬章きょくじつしょうじゅしょう受章。6月、落語協会会長を勇退し、顧問就任。10月、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。21年10月2日、府中の森芸術劇場での落語会で「猫の皿」を演じました。これが最後の高座に。10月7日、心不全のため都内の自宅で死去。81歳。戒名は昇道院釋剛優しょうどういんしゃくごうゆう。浄土真宗ですね。69年に結成された東京やなぎ句会の創設同人の一。俳号は土茶。

小三治師匠が得意とした主な演目(順不同)

花見の仇討ち」「もう半分」「宿屋の富」「大山詣り」「三年目」「堪忍袋」「船徳」「不動坊火焔」「睨み返し」「長者番付」「粗忽の釘」「子別れ」「お化け長屋」「藪入り」「鹿政談」「芝浜」「三軒長屋」「蛙茶番」「死神」「お神酒徳利」「厩火事」「千両みかん」「小言幸兵衛」「あくび指南」「うどん屋」「癇癪」「看板のピン」「金明竹」「小言念仏」「大工調べ」「千早ふる」「茶の湯」「出来心」「転宅」「道灌」「時そば」「鼠穴」「初天神」「富士詣り」「百川」「薬缶なめ」「蝦蟇の油」「一眼国」「二人旅」「お直し」「湯屋番」「明烏」「たちきり」「五人廻し」「山崎屋」「禁酒番屋」「品川心中」「鰻の幇間」「青菜」「野ざらし」「二番煎じ」「粗忽長屋」「猫の皿」「厩火事」など。柳家なのか三遊亭なのか、演目だけでは判断つきません。晩年は滑稽噺ばっかりでした。 まくらが異様に発達進化したのは、柳家の芸風に由来するのではないでしょうか。「小言念仏」(マクラが魅力) 「千早ふる」 (細部まで小さん流) 「転宅」、また聴きたいです。

(古木優)

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柳家小三治、逝く 

青山高校の12月生まれ同士



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柳家小三治師匠が亡くなりました。残念です。9月25日、テレ東系「新美の巨人たち」で新宿末広亭が特集された折、ちょっとだけですが、登場していて、この演芸場のの空間を気持ちのいいほどほめちぎっていました。お声がちょっとヘンだなあ、なんて思いましたが、あれが見納めでした。寂しいもんです。

高田馬場のあたりをうろうろしていた頃、手塚治虫、楳図かずお、天本英世なんかをよく見かけました。小三治師匠も。ムトウとかで。1980年前後の話です。

永六輔が仕切るNHKのテレビ番組にも出ていました。物故の名人上手のものまねなんかやって客を笑わせ、「こんなことやってるから、あたしゃ、出世が遅れたんですな」なんて、ひとりごちていました。小ゑんにいじめられてたんでしょうかね。

83年頃、土曜日の午後、FM北海道の師匠のオーディオ番組をよく聴きました。師匠は相当な音マニアで、ジャズを中心に、たまにはクラシックやボサノバも。私的には、藤岡琢也をもしのぐものすごさでした。

89年春、ある人の病気見舞いで聖路加国際病院に赴いた朝。道端にでっかいバイクを横付けして、病院に入るところをお見掛けしました。あれは、私のようにどなたかのお見舞いのためだったのか、あるいはご自身の定期診察ででもあったのか。細身に黒ずくめのそのスタイルは永六輔にも似て、どこか洗練されていて素っ気なくて、あこがれを抱く光景でした。六代目林家正蔵のスタイルをまねていたのを、後日知ったときにはホント、びっくりしました。

どこまでも、すっとぼけた、ものまねにたけた、さりげなさを最良とする噺家さんだったのですね。

以前、雲助師匠だけが迫っているもんだと思い込んでいました。その視点は間違いではないと思うのですが、両者の差異は大人と子供くらいあったように感じます。「しろうと寄席」で15週勝ち抜いた果てに、「大学に進まず落語家に入門する」という爆弾発言で、番組ファンは「誰に入門するのか」注目していたそうです。

1959年のことですから、文楽、志ん生、三木助、円生、正蔵などなど、あまたの名人上手がわんさか。わんさかの中から小さんを選んだのは慧眼だったのかもしれません。兄弟子に小ゑんがいたことが少なから不幸だったのでしょうけど。それでも天才の器がまったく違っていました。小ゑんは天災でしたか。

若林映子あきこさんとは同じクラスだったのかどうか、いまだわかりませんが、同窓だったことはたしかです。ウッディ・アレンの監督第一作は若林映子さん主演のものでした。ビックリです。むちゃくちゃな映画でしたが、アレンはアジアン・ビューティーが大好きなんですね。彼女は12月14日、師匠は12月17日。お二人とも近いお生まれです。最後に。これほど余韻を帯びた噺家、もういません。志ん朝が逝ってちょうど20年。ともに贅言せずとも客を笑わせる噺家でした。小ゑんとは根底が違っていたようです。

柳家小三治のプロフィル
1939年12月17日~2021年10月7日
東京都新宿区出身。出囃子は「二上がりかっこ」。定紋は「変わり羽団扇」。本名は郡山剛藏こおりやまたけぞう。1958年、都立青山高校卒業。同学年に女優の若林映子わかばやしあきこ、一学年下には仲本工事と橋爪功。ラジオ東京「しろうと寄席」で15週勝ち抜いて全国的に注目されました。59年3月、五代目柳家小さんに入門。前座名は小たけ。63年4月、二ツ目昇進し、さん治に。69年9月、17人抜きの抜擢で真打、十代目柳家小三治を襲名。76年、放送演芸大賞受賞。79年から落語協会理事に。81年、芸術選奨げいじゅつせんしょう文部大臣新人賞受賞。2004年に芸術選奨文部科学大臣賞を、05年4月、紫綬褒章しじゅほうしょう受章。10年6月、落語協会会長に。14年5月に旭日小綬章きょくじつしょうじゅしょう受章。6月、落語協会会長を勇退し、顧問就任。10月、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。21年10月2日、府中の森芸術劇場での落語会で「猫の皿」を演じました。これが最後の高座に。10月7日、心不全のため東京都内の自宅で死去。81歳。戒名は昇道院釋剛優しょうどういんしゃくごうゆう。浄土真宗ですね。69年に結成された東京やなぎ句会の創設同人の一。俳号は土茶どさ

郡山剛蔵くんを大きく舵切りさせた「しろうと寄席」は、聴取者が参加するラジオ公開放送演芸番組です。一般の聴取者が得意の芸を披露して、プロの審査員に評定され、番組が進行します。ラジオ東京(JOKR、現TBSラジオ)で昭和30年代前半に放送されました。ちなみに、一般人が放送に参加できるようになったのはNHK「素人のど自慢」が初めて。戦前ではあり得ないことでしたから、民主日本の画期でした。「しろうと寄席」もこれに倣ったのですね。放送期間は1955年3月9日~62年10月29日。番組開始時では大正製薬の単独提供だったのが、終了時には日電広告に。開始時では毎週水曜21時30分~22時。終了時では毎週月曜14時10分~15時に。司会は牧野周一(声帯模写)。審査員は、桂文楽(落語)、神田松鯉しょうり(講談)、コロムビアトップ・ライト(漫才)。主な出身者には、牧伸二(ウクレレ漫談)、柳家小三治、入船亭扇橋(落語、俳号光石)、片岡鶴八(声帯模写、片岡鶴太郎の師匠)など。フジテレビで昭和40年代前半に放送されたテレビ番組もありますが、これは別番組です。

小三治師匠が得意とした主な演目(順不同)

花見の仇討ち」「もう半分」「宿屋の富」「大山詣り」「三年目」「堪忍袋」「船徳」「不動坊火焔」「睨み返し」「長者番付」「粗忽の釘」「子別れ」「お化け長屋」「藪入り」「鹿政談」「芝浜」「三軒長屋」「蛙茶番」「死神」「お神酒徳利」「厩火事」「千両みかん」「小言幸兵衛」「あくび指南」「うどん屋」「癇癪」「看板のピン」「金明竹」「小言念仏」「大工調べ」「千早ふる」「茶の湯」「出来心」「転宅」「道灌」「時そば」「鼠穴」「初天神」「富士詣り」「百川」「薬缶なめ」「蝦蟇の油」「一眼国」「二人旅」「お直し」「湯屋番」「明烏」「たちきり」「五人廻し」「山崎屋」「禁酒番屋」「品川心中」「鰻の幇間」「青菜」「野ざらし」「二番煎じ」「粗忽長屋」「猫の皿」「厩火事」など。柳家なのか三遊亭なのか、演目だけでは判断つきません。晩年は滑稽噺ばっかりでした。 まくらが異様に発達進化したのは、その柳家の芸風ゆえんだったのではないでしょうか。「小言念仏」(マクラが魅力) 「千早ふる」 (細部まで小さん流) 「転宅」 はまた聴きたいです。

(2021年10月7日 古木優)

【柳家小三治 人形町末広の思い出】

2002年7月14日 第27回朝日名人会 有楽町朝日ホール

人形町末広は、慶応3年(1867)に創業して、昭和45年(1970)1月に閉場しました。現在は読売新聞社の子会社が建っています。お隣に「うぶけや」。看板は4人の、当時最高峰の書家が1字ずつ揮毫したそうです。爪切り、しびれます。

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